8.15.2017

しばらくお休みします。


本を執筆します。

おっさんお仕事タイムのため……


しばらくお休みします。

11月までブログ禁です。

がんばります。

8.14.2017

西洋人もくだらない人ばかり

図書館へ毎日通っているおっさんだけど、そんなに大仰な本は読んでいない。

西原理恵子の漫画やエッセイを一気に八冊借りて読んだり、パオロ・マッツァリーノの本を六冊借りて読んだり、そういうことをしている。このふたりは安定しておもしろい。


久しぶりにフロイトでも読むか~と思ったり、いい加減「純粋理性批判」読むか~とか考えて手にとってみるのだが、ダメだ。気持ちがドライブされない(図書館で検索したら「純粋理性批判殺人事件」なんてタイトルがあって笑った)。

古代ギリシャとか、近代ヨーロッパの哲学が食傷気味。「なんで私は日本のこともろくに知らずに、ヨーロッパのことを知ろうとしているのだろう」という疑念がわいてきて離れない。いつの間にか西洋思想やキリスト教のことの方が詳しい東洋人になってしまった。

それでも……フーコーとニーチェは別格におもしろいから不思議だ。あとルソーも好きだ。つまらないのはカントやヘーゲル、ハイデガー、あとデリダとか、あとヒュームやブーバーもつまらん。スピノザもつまらん。1ページ読んだら眠くなるよ。

「日本人はなぜ集団主義なのか」ということが問われているし、おっさんも調べてみたけど、結局その問いというのは、「日本人はなぜ西洋人になれないのか」という問いと同義であることに気がついた。その答えは、当然こうである。「日本人は西洋人ではないから」。

もう西洋コンプレックスにはうんざりだ。私は村上春樹を読んだことがないけど、村上春樹のもとの仕事は翻訳業。内田樹も翻訳の仕事をやっていた。そういう人間ばかり人気がある。翻訳調=価値があるという感覚。舶来品をありがたがるのと変わらない。
なんにも知らずに知った顔 むやみに西洋鼻にかけ 日本酒なんぞは飲まれない ビールにブランディ、ベルモット はらにも馴れない洋食を やたらに食うのも負けおしみ ないしょでこうか(後架)でへど吐いて まじめな顔してコーヒ飲む おかしいね、エラペケペッポ、ペッポーポー (石井研堂著『明治事物起原』大正十五年、より) 
やっぱり、遠いよ。ヨーロッパは。日本人とは違う。

日本もだいぶ欧米化が進んでいる。ガンジーの本を読んでいたら、「日本はイギリスに商業的に取り込まれた」というようなことが書かれていて、ああ外から見ると明治維新ってそうなんだな~と納得する(「インドは独立後その道をとらない」、と続く)。日本の労働者は、ものすごく優れた商品だ。それが間接的に労働力という形でイギリス(アメリカ)に売られている。

私はバリ旅行でさまざまな外国人と出会ったけれど、総括して言えば……ドイツ人はほんとうに良い人が多い。フランス人は鼻につく。プライドが高い。アメリカ人はナショナリストのバカばかり。まあステロタイプに聞こえるかもしれないが、これが率直な感想だ。とくにアメリカ人のヒッピーみたいな奴とかハーレーに乗ってそうな小汚いおっさんとか脳裏にwhite trashという言葉が頭に浮かんだぜ!

まあ白人と言っても、大したことのない連中ばかりだ、ということがバリで得られた事実だった(ほんとバリは白人だらけだった)。私も多くの日本人と同じように白人を崇拝するようなところがあったが、幻想は消えた。ろくでもない連中ばかりだ(日本人と同じで)。ちなみに統計によれば、アメリカ人は自分たちのことを「知的」だと思っているらしい。悪い冗談だ。

マア……またしばらく読書をしよう。日本思想が知りたいと思ったおっさんは、とりあえず吉本隆明の「共同幻想論」を借りてみた。私が大好きな山本哲士がなにかと吉本を褒め称えているからである。



今日もプールへ行ったのだが、生まれて初めてバタフライをやってみた。いやあ、難しいね^^;これってめちゃくちゃ疲れる泳ぎ方じゃないだろうか?

新しいことを初めてみることは良いことな~と実感。脳みそが刺激される。

そろそろバイクも買わなくてはいけないな。

私もそんな生活がしたい (ノ^o^)ノ'''∞

8.13.2017

日本人は個人主義なのか……

「日本人は集団主義ではないよ」説の山岸俊男の著書、「心でっかちな日本人」を読んでみた。

そこに書かれていることは、そこまで日本人が「個人主義的だ」ということを示唆するものではなかった。

アメリカ人は日本人よりも集団主義的であるが、これは「匿名の他者」に対して日本人よりも協調的ということを意味していた。この匿名の他者とは、行動心理学の実験でよくあるような、ランダムに集められた初対面の相手、実験による制限された情報伝達以外は名前も顔も知らないような相手のことである。アメリカ人はそういう相手に対して同調的、協力的な態度をとる。

この「匿名の他者」に対して、日本人はというとずっと個人主義的な反応を見せる。言うなれば冷たい、信用しない反応を見せる。一匹狼的にふるまう。

それでは日本人は個人主義的なのかというとそうでもなくて、ある非匿名的な集団内においては集団主義的な傾向を見せる。たとえばサークルや職場のような「狭い」集団内においては相互依存的な反応を見せる。

山岸の本を読んでがっかりしたのは、結局巷間で言われてる日本人像・アメリカ人像と変わらないことだ。「アメリカ人は集団主義的である」と言うとき、そこにはpublicに対して親和的であることがわかる。「日本人が集団主義的である」ときは、いわゆる狭い「ムラ」に対してそうだということがわかる。このようなことは、だれでもわかっていることではないか。

例えば私たちは、電車の中では死ぬほど無愛想でムカつくサラリーマンが、自分の会社のオフィスではいつもニコニコ、気さくなおっさんとして通っていることを知っている。このように日本人がウチとソトを切り分けているなんてことは、もう何十年も前から指摘されていることだ。

本書で興味深かったことは、私たちは既成の文化に対して従順になることを強いられていることだ。たとえば会社の「社風」というものがあれば、私たちはそれに従わなければならない。それが自分の利益/不利益となるからである。

ある教室でいじめがあったとして、クラス全員がいじめに容認であるなかで、ひとりいじめに反対することは自分が危険に晒されることになる。反対にクラスの半分程度がいじめに対して反対を表明していれば、自分もいじめに反対することができる。このように集団のなかの個人には、利益/不利益を計算し立ち回るという性質がある。

だからサービス残業が蔓延している日本だが、ほとんどの人間は好き好んで「サービス残業したい」と思っているわけではない。少数の人間が「サービス残業をせよ」というムードを醸成し、あとの人間は利益/不利益を計算して、功利的な判断をしているに過ぎない。同じ状況はPTAや町内会にも当てはまる。ほとんどの人間にとって不利益な組織に、ほとんどの人間が従う、という状況が起きる。

このような状況を外国人が見るとすれば、「日本人は集団主義的だ」「自分よりも他者を優先している」と判断するのだろうが、制度化された集団主義が既存している場では、「それに従わなければ自分の立場が危うくなる」という状態なわけで、各々の個人が特別に他者を尊重しているわけではない。

そのように考えてみると、アメリカ人が個人主義的なふるまいをするのは、それがpublic内で有益であるからであり、仮に日本のオフィスへ異動になったとすれば、集団主義的な行動をするのではないか(無論嫌々ながら)。「ぼくは個人主義だ!」とか言ってる奴がWorkaholicなeconomic animalになるというわけだ。

日本は立法国家ではなく、明文化されない法が支配しているのであり(山本七平の言うような「空気」)、それに従って(外から見ると奇妙な、呪術的な)ふるまいをしている日本人は、別にそうしたいからしているわけではない。ねずみが電気刺激から逃げるとしてもねずみが走り回るのが好きなのではない。現にアメリカ人にとってpublic的な(日本人にとってソトの)相手に対しては、冷たい反応を見せる。

まあ、そういう当たり前のことが繰り返されているだけだった。



じゃあ日本人は個人主義的ではないのか……?ということが問題となる。

ここ1,2週間、日本人は個人主義なのかということで頭を悩ませているのだが、常に思うことは「個人主義ってどういうことだよ!」ということである。ある集団がより「個人主義的」であるとはどういうことを示すのか。

全体主義に対する個人主義……たとえばナチスや大戦中の日本のようなファシズム状態を「全体主義」としており、その反対が個人主義となる。ある個人が何を発言しても良いし、それは尊重されるという態度のことだ。ヴォルテールの「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」みたいな。

功利主義に近い個人主義……ホリエモンのように個人の利益ばかり追求し、publicやムラの利益や倫理を無視するような態度を示すことになる。これは「利己主義」と近い。個人の利益を優先するか、集団の利益を優先するかということである。

行動学的な個人主義また行動学的な分野では、「他者に同調的であること」「自分の態度を他者に合わせること」が集団主義的であるとされ、個人主義はその反対ということになる。

山岸の本の場合の「個人主義」はどうも二番目の利益追求的な個人主義を指しているようである。で、東大のナントカせんせーの発表では最後の行動学的な個人主義を指して「日本人は個人主義的だ」ということを示しているらしい(よくわからないが)。

このように「個人主義」という定義が曖昧模糊で、おっさんはこの辺を追求することに飽きてきた。

というか、「日本人は集団主義だ」という主張が内外でたくさんあって、だからこそ「個人主義だよ」と指摘することが重要なのだろうが、そもそも最初の日本人集団主義説が、おバカな勉強不足の西洋人から輸入されたもので、西洋人のものならなんでもありがたがる日本の学者が祀り上げた、という印象が強く、そのような議論は「初めから不毛」で、あまり意義がない、という気がしてくる。

ただ、だいたいわかったことは「抑圧的な社会では、個人の性質にかかわらず集団主義的な傾向が強くなる」ということで、結局各々の個人は規制化・制度化された場においては無力な分子に過ぎない、ということである。いじめが支配する教室ではいじめ反対なんて叫べないのである。そういえばアメリカでもいじめは多いと最近明らかになったね。