6.28.2017

目で鼻で耳で舌で皮で肉で骨で

"whatever does not spring from a man's free choice, or is only the result of instruction and guidance, does not enter into his very nature; he does not perform it with truly human energies, but merely with mechanical exactness" and so when the labourer works under external control, "we may admire what he does, but we despise what he is."
そうそう。プロテスタンティズムは実行の倫理。人間を原子のひとつにしてしまって、肉体や精神の個別性を無視する。大切なのは「何をしたか」。原子には属性が付与される。東大を出たとか嫁が若いとか貧乏人だとか。そういう属性が付与されるのであって、彼の「人格」はそういった属性の集まりだと判断される。もはや面接官や判事は彼の肉や骨、目や指を見ない。そこにあるのは装飾された原子なのである。そして個性というものの正体はこの装飾に過ぎない。

それは私たちが労働者を見ないのと同じである。工場の労働者は原子となる。彼はただ何の部品の担当か、何の工程の担当かということで区別される。労働者は白い作業着によって視覚的にも原子化される。彼は単なる機械とみなされるため、特別の故障や問題なく作業することができれば機械と一体化する。彼は道具であるが、それだけでは無価値である。ハンマーが無人島に置かれたところで価値がないように、使われなければならない。しかし使い手は機械であるので、彼の肉がどのようについているか、いかり肩かなで肩かなどは問われない。他の機械との一体化こそ、彼の存在を許すゆいいつの道なのである。そこで評価されるのは「何をしたか」であって彼自身ではない。



私たちは強迫的に行為を求めている。何かをしなければならないと思っている。仕事をしなければならない子どもの世話をしなければならないとか大学に通わなければならないと思っている。そうでないと価値がないとされるからである。行為を放棄し属性を身に着けない存在は赤んぼうと同じで無価値である。中卒のニートのひきこもり。無価値どころかそういった「大人子供」は、何か嫌悪感を抱かせるものらしく迫害の対象になる。それは軽蔑の形をとるけれど本当のところ恐怖である。ひとは軽蔑する対象は迫害しない。ひとは恐れによって行動する。明治政府は高等遊民をとにかく排除したかった。貴族的精神に知性と時間が合わさるとろくなことがないのである。

ただ在るということを自分に許すことが難しくなっている。SNSでたくさんコメントをもらったりブログの読者が増えたりカントを読んだりゲーテを諳んじてみたり年収2000万円を目指してみたりうまいものを食ったり高級車を買ってみたり、ということで自己肯定する。自分はまともな存在なのだと考えるようになる。

何をするかが思考の限界領域になっておりもはや「自分が何者か」は問われなくなった。自分が何者かは考えられないし考えたくもないということで、自分が何をしたかが自分が何者かであるかを規定するようになった。これは自分を客観的に見つめるということである。自分は何者か、と考えるときに履歴書一枚で済むような人がいる。

現実には学歴なんて意味がないのである。もちろん親の財力や社会階層を知る上では役に立つかもしれない。だがそれよりも私が見たいのは肉であり骨である。骨と骨は共鳴する。皮膚よりも肉が深く、肉よりも骨が深い。皮膚感覚で相性がよくても長続きはせず、離別してずっと経ってから思い出すのは骨の相性のよかった人間である。

私たちのコミュニケーションは目を介すだの言語を介すだの言われているが脳みその機能が私たちには未知であるようにコミュニケーションの実体も解体され得ない。私はひととひととの間は共鳴だと考えている。だから人間を原子として見、属性化するような社会制度はアホらしいものである。それは人間を見るためのものではなく道具を評価するための基準である。が、これは広く一般化され私たちも属性によってひとを評価するように教育されている。だからツイッターやフェイスブックなどが大衆ウケするのである。あれは原子たちの饗宴なのである。

人間はそのような属性から見えてこない。私はそんなものより骨と肉をずっと見ていたい。骨と肉の密な暗い領域に憧れる。目で鼻で耳で舌で皮で肉で骨で、肉と骨を感じたい。



6.27.2017

労働はイカれている

ニートになって一ヶ月になる。オメデトウ。

これまで私は自分のことをマージナル・マン=境界人だと思っていた。それはコップのフチ子さん的な絶妙な均衡だったのだが、転落!転落である。今は完全に異界の人となってしまった。ときどき、世間のひとびととの価値観の乖離に驚くことがある。少し沖に出過ぎたのかもしれない。でも、もう遅いのだ。

私は働くことが嫌いなのではないよ。むしろ好きだと思う。ただ誰かのパシリになるのが嫌なだけで。つまり精神的には高貴なおじさんなのだと思う。つまりは、潔癖。
主人の言説の時代には、能力のあるものは、他者の欲望に奉仕することを恥じた(例外はある。だが神経症者は一般的に大他者の道具となることに堪えられない。彼は他者に食い物にされていると感じる)。(何処かのブログより)
今日は「風来のシレン」というゲームを6時間ばかり。専門用語になって申し訳ないのだが、「掛け軸裏」をクリアし、今は「食神」を攻略しているところだ。まったく楽しい。

楽しいが……これではご飯が食べていけないというのも峻厳な事実である。




かつて労働と遊びは区別されていなかった。人はわざわざ遊ぶ必要はなかった。日々の労働が遊びのようなものだったからである。狩猟をし、釣りをし、山菜を摘み、栽培し、焼き物を造り、編み物をする。ときに政治があり、呪術と祈祷があり、ときに戦争があった。それもお祭りのようなものだったろう。

私たちは今日、こういった営みを剥奪されている。そういったことは「趣味」とされ、「暇な時間にやれ」と言われる。(暇な時間など、ほとんどないのだが)

私たちの手からは石斧も竹竿も剥奪され、代わりにモニターとキーボードが与えられている。現代では生活の営みは破壊され、その欠片の中から労働と遊びが区別された。

遊びが許されるのは人間性の回復のためであり、発狂を免れるためだが、それが許される理由というのも労働効率をあげるためである。どんなバカな経営者でも労働者を24時間も働かせないが、それが労働者への「慈悲」ではないのと同じである。

私たちは労働によって生活の営みから解放されたが、同時に奇妙な分裂を生みだすことになった。労働の時間においては我々は自己をどこかへ追放し、遊びの時間には自己を呼び戻すようになった。つまり私たちは労働の時間において、自らを他者に貸し出す必要が生じたのである。

この分裂が営みの開裂をますます加速化させた。つまり労働はますます退屈にやるせないものになり、遊びはずっと刺激的で快適になったのである(偽物の釣り、偽物の戦争、偽物のセックス)。まるで芸術アートと技術テクネーが近縁だったにもかかわらずいまではよそよそしいように、遊びと労働も我々にはまったく無関係な存在に感じられるのである。

営みが解体され、遊びと労働が誕生した。そのときおそらく苦しみや懐疑といったものが生まれ、果ては現代まで続く「理性」が誕生したのだろう。私はそのように考えている。歴史を学ぶほど、私は古代へのあこがれを強くする。



労働と遊びがひとつだったとき、人間は満ち足りていたのである。彼ら古代人は私たちが考えているよりずっと精神的に落ちついており、大人びていた。彼らは現代人がどれだけ哲学を学んでも到達できないくらい、生と死について達観しており、高次の認識を持っていた。彼らには理性というものが乏しかったが、それだけに自然と自己とが未分化であり、したがって自然の叡智をほとんどすべて身につけていたのである。

6.26.2017

zacky-ojisan

ニートのくせに何もしないのはアレなので、日記を書いておこう。

今日はお腹が痛かった。昨日祖母の料理を食べたからだと思う。私の家の冷蔵庫を開けて、食材を手にとってみてほしい(床が傷んでいるから気をつけ給え)。賞味期限が2013年とか、2015年とか、年代物ばかりだ。そういったものが捨てられずに冷蔵庫に詰めこまれている。

「一回冷蔵庫の中身全部捨ててしまいたい」と思うのだが、無駄なのだろう。これは習性なのだ。もはや彼らは、自分のしていることに自覚がない。認知機能の低下は一種の不可逆的狂気である。

東京や大阪は違うのだろうが、私の住んでいる地元はとても高齢化が進んでいる。これはタイと日本の大きな違いである。まあ、タイも若干高齢化が進んでいて、40代がピークとなっているらしい(マッサージ屋もおばちゃん化が進んでいた)。

とはいっても、日本のように60代が突出して多いということはなく、街なかを歩いていれば20代のかわいい女の子が歩いている(というかタイ人は基本的に歩かずにバイクに乗っている)。

日本はこれがない。これがないからつまらない。日本の田舎町にいるのは若作りしたおばちゃんか女子中高生くらいで、まあ女子中高生でもいいのだが、20代前半くらいの女性がいないというのは、まことにつまらない。私はこんな国は嫌だと思う。何かが間違っている。グロテスクな国家構造だ。奇形の国だと思う。いくら日本がいい国だとしても、こんな歪な国は御免だ。

ともあれ今日はお腹がぐるぐるとして痛かったのだが、陰鬱な実家にいる気もしないので図書館へ行った。地元の図書館は建物や設備は古いものの、蔵書はセンスがよい。そして自習室は一人二人しかいない。いつも思うのだが、ネット関係の仕事で東京や大阪のレンタルオフィスなど借りるくらいなら、田舎のこういうところでやればいいと思う。無料だし、wifiがあるところもある。

それで読書をした。フロイト関連の書籍と、日本の民俗学的な本を読んだ。私は稲作以外の日本人像を掴みたいと思っている。

日本人が稲作農民だった――というイメージは、明治政府のおしつけた歴史観に過ぎないようである。
とくに、いわゆる明治維新以後、近代国民国家が成立し、単一の国民文化の形成がはかられると、それに伴い日本文化を単一・同室の稲作文化だとする考え方が普及しました。その過程で稲を祖先伝来の聖なる作物とする稲作農民の思想と、天皇の先祖が天上でつくった聖なる稲をたずさえて地上に天降ったという神話が結びつき、我が国を天皇が統治する豊かな稲作国家だとする瑞穂国史観が形成されたという反省すべき思想史の流れも認められます。(「日本文化の多様性」佐々木高明)
弥生時代、朝鮮半島から天皇家の先祖(天照大神)がやってきて米を伝えた……というふうにすれば統治上は非常に都合がよろしい。なぜって米は日本人のソウルフード、「食わせてくれた人」には決して逆らわないのが人間の習性である。(私の実家でも米を作ってるけど、思想的には天皇べったり)

ただ原田信男の「歴史の中の米と肉」によれば、以下の通りらしい。
近世の初期、十七世紀頃を中心にして大規模な新田開発がすすめられ、それによって水田の面積が日本全体で急激に増加した。また秀吉の全国統一を契機に、兵農分離を伴う形で太閤検地が実施され、それによって中央政権が全国の耕地面積を精確に把握するようになった。その結果、都市に集住する武士が村落の農民から米を御許する年貢を収奪するという中央集権的な国家体制、いわゆる幕藩体制が作りだされた。そうした状況を背景にして、全国のすべての生産力を米を基準とした石高で表示するようになり、米が政治・経済の基礎となる、いわゆる「石高制=米社会」が確立したというのです。(同著)
米がいわば「標準化」されたのは近世以降。とにかく明治政府(~現政権までの系譜)ってのは日本史をねじまげるね。



私の興味を引くのはサンカという存在で、山ぐらしをしていた人々。こういう人々は、竹細工の農具などを売りながら村々を転々と歩いた。

意外なことにサンカは穢多非人よりも差別されていたらしい。戸籍も家も持たないからだそうだ。私は差別といえば「穢多非人」という言葉が頭に浮かぶが、現実にはそれよりずっと差別されていた存在があったのである。

穢多非人はかえって特権的な職権を与えられており、穢多の食肉加工や革製品の製造の他にも、非人の警察の末端機構として働くこともあったとか(つまり非人が農民を取り締まる)。明治政府に穢多非人を「平民化」したら、かえって窮したという話もおもしろい。

被差別者が生き残るのは、ほんとうには差別されていないからなのだろう。ほんとうに憎まれ疎まれていたのであれば、消されている。ナチスがユダヤ人を抹殺しようとしたように、明治政府はサンカを殺した?(ついでにアイヌ人もほとんど抹殺させている……ちなみにアイヌ人が縄文人の末裔ということは遺伝的に否定されているらしい)

私はなんとなく、明治以降の日本政府はサンカを恐れているのではないか、という気がしている。

で、話がすっ飛ぶようだが、日本の異常とも言える杉植林への執着(いまや森林の半分以上は杉植林済み)は農水省(林野庁)の利権や官僚特有の暴走などではなく、サンカ撲滅の一環なのではないか……と考えてみたり。おそらく杉林にはサンカは住めないだろう。木の実も野生の動物にも乏しいからである。

杉林

ブナ林
ちょっと恣意的な画像かも^^;

なぜ政府はサンカを怖れるのか。それは単純に明治以降の国体思想に反するからでもあるだろうし、戸籍を持たない存在をどうにかしたい行政の都合でもあるのだろう(犯罪など起きたらどうしようもない)。あるいは歴史的な確執があるのかもしれない(私は日本史に詳しくない)。

加えてオカルト的には、たぶん天皇家や支配者層と呪術的な対立があるのではないかと私は妄想している。サンカは山の神と扱われることもある。山姥だの天狗の正体はサンカという説もある。どこかこう、霊的呪術的に「強い」というイメージがある。平野の中心にある天皇と、山の神を信奉するサンカ。

まあ、所詮妄想である。

いずれにせよ、杉植林は森を殺し山を殺す(地すべりなど土砂災害の原因は杉植林?:参考 私が目にした地すべりはほとんどすべて植林地)。加えて花粉症などという嫌らしいアレルギー疾患もあるのだから、国は杉植林からさっさと手を引いて欲しいものである。

プールおじさん

それで読書は数時間で終えて家に帰った。が、陰鬱で臭い実家に居る気はおきず、また外出した。プールへ行ったのである。

近所にある大型の市民プールで、はじめて行ったのだがなかなか快適なところだった。仕事で行っていた田舎のジムのプールは800円くらいしたと思うのだが、こちらは500円。二時間ばかり泳いだ。

驚いたことに、平泳ぎの感覚が突然つかめていた。私はそれまで、クロールしか泳げないと思っていた。平泳ぎではぜんぜん前に進まない……と思っていたのである。それが、試しに平泳ぎで泳いだら……泳げた!

平泳ぎのコツとは、とにかくキックで進むということである。で、キックしたらケノビのように身体をまっすぐにする。ここで距離を稼ぐ。手カキは、小さなアクションでいいらしい。キック→スイーっと進む→手カキ(息継ぎ)こういう手順だったんだな~。そんなわけで平泳ぎって楽に進むなあ!と感心したのである。

クロールは相変わらず楽しい^^ クロールも全身で泳ぐということが大切だと思う。手でかくだけではない。体幹が抵抗にならないよう、しっかりと水に浮かせなければならない。手先は指が開かないように意識する程度、体幹の筋肉をうまく使いたい。

あとはドルフィンキックもうまくなった気がする。これもオーバーなアクションはかえって抵抗になり、少しの動きの方がスムーズに進めることを学んだ。

水泳は長く続けているけど、いい運動になる。身体が水冷式に冷やされるし^^ 間接を痛めることもない。私はスポーツ全般が嫌いだし、軽蔑さえしてるけど、水泳は良いものである。

といっても私の水泳は完全に自己流である。スポーツ選手じゃあるまいし、コーチングはいらないと思っている。結局、水泳は水との対話だ。どう泳ぐかは水に聞けばよろしい。そんなわけで私はまあまあうまく泳げている。

ヘタクソな人を見ていると、「手をかく」、「バタ足をする」、と頭で考えてしまうから泳げないのではないかと思っている。大事なことは「前に進みたい」という意志である。プールを見ていると、「いちおうクロールの形になっているけど、果たして前に進む気があるのか?」と疑うような人が多い。前に進みたい、と思わなければ前に進まないのである。

まあ私もヘタクソなので、戯言である。プールでスカッとしたので今日は酒飲んで寝よう。