12.28.2012

脳みそは情報を制限するためにある。

われわれのこころは脳みそにある、と一般に考えられている。この文章を読んでいるあなたもきっと次のようなプロセスを踏んでいる。モニターの字面を眼球によって捉え、その情報が脳へと渡り、脳が情報を処理し、文章として理解する。たしかにこれは現在の脳科学の一般的な認識だ。だから、脳が情報を制限していると聞くと、あなたはきっととまどうに違いない。

脳が情報を制限している

ケンブリッジ大学の哲学者、ベルクソンはこういった。「人間はどの瞬間においても自分の身に生じたことをすべて記憶することができるし、宇宙のすべてのところで生じることすべてを知覚することができる。
脳および神経の機能は、ほとんどが無益で無関係なこの巨大な量の知識のためにわれわれが圧し潰され混乱を生まないように守ることであり、・・・わずかな量の、日常的に有効そうなものだけを特別に選び取って残しておくのである」
どうだろうか。まったくばかげた、常識外れな考えに思える。
しかしオルダス・ハクスリーの「知覚の扉」で引用されたこの文章は、少なくともぼくの頭をくらくらっとさせた。この考えは、たしかに人間の真理を突いているように感じたからだ。

簡単な例をあげれば、試験中に問題をながめて、ふと、答えがAという選択肢なんじゃないかと思う。これはいわゆる直感だ。そのあとよく「考えて」、やはりBじゃないか-なぜなら記憶の隅に、○○というキーワードがあるから・・・。こういった場合、往々にしてAがあたっている。試験では直感を信じるべきだ、というのが僕のながーい学生生活の経験則である。

この経験を深く掘り下げてみる。問題を見た瞬間、脳は一瞬で答えを理解した。このとき脳は、そのとき得られるすべての情報を選別することなく受け入れているといえる。ベルクソンの言葉を借りるなら、「宇宙のすべてのところで生じることすべてを知覚することができ」ている状態だ。

しかし、そこに脳の情報処理が入る。直感による情報のほとんどすべてが忘却によって消え去る。そして「日常的に有用そうな、」過去に記憶しておいた情報を引っ張り出してくる。

理性が直感を阻害する

ぼくらは毎日何万回と同じようなプロセスを繰り返しているに違いない。だから理性が本当の現実の目くらましをしてしまうことは多々あるんだろう。それは脳が正常に機能している証拠でもあるのだが・・・。

直感が理性を上回ることは試験中に限らない。芸術作品を鑑賞していてもそうだし、スポーツでも無心にならなければならない。囲碁なんて直感の遊戯だし、恋愛で相手のことをかんがえるときも理性なんて邪魔なだけだ。

ぼくらは脳のはたらきを抑えなければいけないのではないか?

しばしばぼくらの直感は思考を越える。西田幾多郎いわく、「純粋体験」がぼくらが求めるべきものだという。この純粋体験は、きっと全てを知り、宇宙と一体化する状態のことに違いない。

エリクソンの言葉で、なんだか無性にわくわくした一日だった。

12.26.2012

どうしようもない受身人間から離れよう。

この世に生を受けてから、死に没するまでに何人の仲間が必要だろうか?いちど考えてみるべきだ。

世の中、自分の頭でものを考えることができず、しようともしない、無思考で、怠惰で、どうしようもない受動的人間であふれかえっている。彼らは何も成し遂げることができないのに、自分を騙すことにかけては一流で、自分は良い人間で、自分は良い人生をあゆんでいると、つゆほども疑わず生きることはできる。かれらのような「生きる屍」は圧倒的多数派である。彼らは半動物であり、家畜である。

「禅」の作者鈴木大拙はこう嘆いた、「無知と官能の泥のなかにうごめく生ける屍の何と多いことか」。そう、無知なのである。無知こそがこの世でゆいいつの罪であり、この世のあらゆる苦しみの根源なのだ。無知と言っても、知識が足りないことを言うのではない、そうではなく智慧を付けなくてはいけないのだ。智慧とは外部にあるものではない、自分のこころを無条件に無批判に受け入れることで知りうるものなのだ。いや、知るというと誤謬がある、体感するものと言った方が良いだろうか。

いったん知の重要性に気づいたあなたには周りの人間がまったく奇怪に見えるはずだ。このまったく無邪気な人びとは、短い人生
をこうまで無駄に過ごして何も思わないのだろうか?もっと有意義に、生産的な活動に身を捧げようという意志はないのだろうか?と。

かれらのすることと言ったら、まったくばかげている!かれらは軽薄さを互いにぬりたくるかのようにしゃべりまくり、時間と思考を殺すためにテレビを眺め続け、まるっきりアホらしい装飾品を買うために数時間を費やし、したくもない労働に無理矢理価値を見出している。うごめく蛆虫!

僕はこの一年で、精神的向上だとか、能動性だとか、自由や創造の概念を身につけた。それで、さいきんようやく気がついたことがある。僕はあまりに寛容すぎた。この世の無知に、無知なる蛆虫に寛容すぎたのだ。僕は蛆虫を相手にすることを厭わなかったし、それどころか僕は自分がうじ虫でないことを恥じたりした。そんな必要はない・・・。この世はうじ虫と人間がいるのだ、こういうと何をばかげた、選民思想かと思われるかもしれないが、事実、人類は数千年もの間階級社会を維持してきたのだ。すべての人びとが一緒くたに、おしなべて同じ権利を与えられ、まったく摩擦なき原子のように、あるいはよく潤滑する歯車のように教育製造されたのはごく最近の百年程度にすぎない。

僕らが実際的に、よりよく生きるために、残念ながら蛆虫というものを認めなければならない。僕らは蛆虫を払い落とすべきである。彼らに構ってはいけない、それは時間の無駄なのだから。他者の人生で、自分の人生を浪費しない、こんな当たり前のことが、蛆虫にとっては傲慢に見えるらしいが、気にしてはいけない。自分の道を歩もう。自分の正しいと思うことに専念しよう。

話が長くなったのでここら辺で切り上げよう。今日は思いつくままに書いてみた。やたら攻撃的で、ともすれば醜悪に見えかねない記事を書いたのは、最近ニーチェを読みふけっているから・・・。

12.23.2012

自分のアタマでかんがえるということ。

自分のアタマで考える。とはつまり、自分の心のなかにこたえを見つけることであります。

答えは全てこころのなかに

いささか宗教的な内容になってしまって恐縮なのですが、しかしふだんの生活においてもきっと役に立つ内容なので書いておきます。
あなたは日常のなかでの疑問をどのように解決してるでしょうか?
たとえばバイトの面接になにを着ていけばいいか、という疑問があるとします。これは実は微妙な問題だったりします。礼服は大げさすぎる場合もあるからです。ネットで検索しても、微妙な解答しか得られないでしょう。

しかし、ここで自分のアタマで考えてみる。自分がバイト先の店長だったとして、面接でどんな志望者を採用したいか。スーツなのか?整った普段着なのか?こういう風に考えれば、おのずとこたえは見えてくるはずです。

いわば常識を使うわけですが、この常識といういたってシンプルかつ便利なものを活用するには、「周囲の人間が、自分と同じ思考をする」という前提がなければいけません。

「常識と率直なふるまいほど人を驚かせるものはない」とエマーソンは書きました。常識的な態度は、自分にあるこころが、他人にもあるという当たり前の感覚があってはじめて成り立つのです。キリスト教の黄金律「他人にしてもらいたいと思うような行為をせよ」でも、根っこは同じことです。この人間の基本的にして重要な倫理感覚をわすれてはいけません。

倫理感覚を日常生活に応用する

倫理的な教訓というとおおげさかもしれませんが、この感覚は日常のどんなことでも役立ちます。
就活の面接ではどう答えればよいのか?彼女にはどんなプレゼントをあげればよいのか?などなど・・・。

ここで重要なのは能動的に考える姿勢です。自分のアタマで考える、とは能動的に考えることです。ネットで考えた答えを適用するのは、死んだ考えと言ってもいいかもしれません。その答えにはあなたの生命は宿らないのですから。

散漫に書いちゃいましたが、これだけ情報があふれた世界で、「あなただけの答え」はかすれて消えかけてるかもしれません。しかしあえて自分のこころで考えることで、その答えはあなただけの特別なものになるのだと思います。

本当は、思考方法じゃなくて僕が思考した結果を書きたかったのですが、ずれちゃいました。

12.17.2012

ブログの書き方をかんがえる。

さんざんふたりで飲み歩いた女友達が彼氏もちだった!なんなんだよ!ふたりでウェディングドレス眺めて笑いあったあの幸せな時間はなんだったんだよ!・・・

読まれるブログを書く

僕は書を書くためにブログを書いている。ブログを書くためには知識を提供しなければいけない。そして、その知識は血肉となったものでなければ、軽薄で読めたものではない。

もちろんごくプライベートな、日記のようなブログも山のようにある。しかしああいった日記は、だれに読まれるものでもない。だれにも見向きされないために、ついにブログは放棄される。かくして、日記ブログはインターネット空間でゴミのようにただようばかりである。

僕はアクセス数ひとけたのブログから、一日数万人が訪れるようなブログまでつくったことがあるから、経験上わかる。(今現在このブログは前者だが)

ブログは何かを提供しなければならない。つまり生産的でなければならないし、他者にひびくものがなければならない。

アウトプットとインプット

四六時中おしゃべりしている人間が聞く耳をもたれないことをあなたは知っていると思う。しかし、次の例を考えてみよう。生まれてから言葉を発することをゆるされず、ひたすら書物を読まされた少年。かれが初めて言葉を発するとき、その言葉は世界中のひとびとが注意してやまないものにならないだろうか。

アウトプットとインプットのバランスは重要である。どれだけ知識をつけ、どれだけ表現するか。しかしさきほどの例でもわかるとおり、インプットが多くて悪いことはないように思う。

文章力をつけるためには書きまくるのがいい、とこのブログの最初に書いたが、毎日のべつまくなしに書き続ける必要があるのだろうか。たしかに書く技術、文章力は向上するだろう。しかしそれはうすめられたスープでしかないのではないか、というのが実感としてある。

そもそもあの記事はネタがなくても書かなくてはならないフリーライター向けの記事であって、作家だとか思想家ではまたちがってくるだろう。作家ならともかく、思想家では文章力なんてつけたところで軽薄になるだけだ。

キングスレイ・ウォードはこう言った。「1セント話したら、1ドル聞く」。僕はそれに付け加えたい。「1セント書いたら、100ドル読む」。

12.13.2012

哲学の読み方~西田哲学と格闘中。

はじめて本格的な哲学書を読む。

西田幾多郎「善の研究」

さいきん本格的に哲学を学んでみようとおもい、ニーチェやハイデガーなどに手をつけるも、まったく難解な内容で手をつけられない。というよりも、悔しまぎれではないが、読みにくい。

同じ日本人ならなんとかなるだろうと、西田幾多郎の「善の研究」を読むことにした。西田幾多郎は日本近代における最初の哲学者であり、京都学派の祖である(京都学派とはなんなのかはわからない)。

しかしページをひらいて数分で、あまりの難解さに挫折しそうになった。それでもじっと我慢して、ようやく1/4くらいすすめただろうか。二日間まるまるつぶしてこれである。

しかし哲学書の読み方というのはなんとなくわかってきた。大事なことは、多角的にとらえることである。

ノートを使う

まずノートを使う。ただ重要な言葉を引用するだけではなく、キーワードの論理的相関関係を図式的にまとめる。哲学というのは、かたちこそ書籍として読みすすめるが、本来黒板などに図案化して伝えるものだとおもわれる。

頭を使う

もうひとつ。頭を使う。・・・とはつまり、自分のこころと対峙することだ。
エーリッヒ・フロムは「昔の人間が哲学とか倫理とか言ってたものは、全部心理学だったんだよ」とあやうげな発言をしていた。たしかに哲学はこころを学問として追求してるのであって、そのこころはあなたの胸のうちにひとつある。これを利用しない手はない。
思想とはこうだ、意志とはこうだ、という内容になったら、自分の思想、意志を参照してみる。単純だが、漫然と読んでいるとよくこれをしわすれて混乱する。いったん自分のこころに立ちかえり、無意識の声に耳をかたむけるのがよい。

没入し、俯瞰する

哲学書との距離のとりかたは重要である。書の世界に没入することで得られる体験と、距離をおき俯瞰することで得られる知見があり、そしてそれらは同一ではないからだ。

まとめ

ただ読みすすめるだけではなかなか理解できないものだ(というか、善の研究をすらすら読めたらまちがいなく天才だと思う)。
概念は他面的なものであるから、書をつうじて体得しようとする際にも、それは他面的な読み方をした方が好都合である。

急がばまわれと言うが、じっくり読みすすめることが肝要だ。さまざまな角度から、何回もくりかえして読もう。

とこれだけ偉そうに書いたけど、僕は哲学書をまだ1/4しか読めていないのである笑

12.12.2012

教育のほんとうの価値を毒舌をまじえて考える。

こんな勉強して何になるの?

小学生あたりの子どものキラーフレーズである。有史以来この言葉に頭をなやませた親は星の数ほどいるという。

昔は生意気なガキにしたたかなボディーブローを打ち込むのも有効な手段だったが、現代に生きるわれわれはもう少し賢明である。今日は教育とはなんのためにあるかを考えたい。目的によって最適な解はことなるが、よりよく教育したいのであれば、答えはかぎられてくる。

「忍耐力を養うため」

あなたの息子を従順な奴隷、意志なきロボット、社会の歯車にしたいならこの答えがよい。
社会に生きていればしたくないことを強制されることはある。しかし、しなくていいことを強制されるいわれはない。したがって、教育がなんの目的であるか説明できなければ、それはしなくていいことであり、息子を不当に縛り付けているにすぎない。
あなたの息子は人生を膨大な「しなくていいこと」に費やすことを学び、死の間際にはきっと自分の人生のむなしさを嘆くだろう。


「よい大学に入り、よい会社に入るため」

この答えにはあなたの醜悪なコンプレックスがあらわれている。ひとつに、あなたは高学歴ではない。もうひとつは、あなたは金持ちではない。高学歴で高年収であるほど、それ自体が幸せにたいして貢献しないことを知っているからだ。

こどもを産んだとたん、守りに入ってしまう大人をあなたはよく知っていると思う。これは成長欲求をこどもに仮託してしまうことに原因がある。
人は「成長したい」「何かを実現したい」という根源的欲求をもっている。しかし年齢を重ねると自分が成長することはむずかしくなる。だから、おどろくべき速度で成長するこどもに投影するのだ。これ自体はだれしもあることで、悪いことではないが、こどもにはこどもの人生があることを覚えておかなければならない。

「社会で生きていくためのスキルを身につけるため」


このこたえを選んだあなたは実に平均的だ。多くの親はきっと同じように子どもに答えているだろう。

ではこの答えが最適解か。教育は「技術屋」をつくるためのものだろうか。きっともう少しよい答えがあるはずだ。

僕が敬愛してやまないコラムニストのiwatam氏はこういった。「何かに役立つ知識というのは、そのためにしか役立たない。本当の知識は、全てに役立つものだ。(うろ覚え)」


「科学的な態度を身につけるため」

ぼくだったらこう答える。
科学的な態度とはなんだろうか?心理学者エーリッヒ・フロムいわく、

  1. 批判精神
  2. 客観性
  3. 現実への直視
  4. いかなる集団にも妥当性をもつ真なる概念を発達させる

このような態度である。これらの性質は技術的教育ではみにつかないものだ。ものごとを批判的にとらえ、客観的に見ることができ、現実をありのままに見ることができる。まさに生きる力に富んだ人間である。
これらこそ、「全てに役立つ」知識と言えないだろうか。

・・・

というようなことをこどもに伝えるのはたいへんむずかしいと思う。やはりボディーブローの方が良いだろうか。

12.11.2012

キングスレイウォードに学ぶ"読ませる"文章。

んがおおお。怪獣だぞう。怪獣だぞう。

書籍の研究をしてみる

さて、今日は文章能力を向上するために研究したので、その成果を発表したいとおもう。

参考にした書籍はこちら。






タイトルこそ味気ないが、たくさんのひとに読み継がれる名著である。この小さな文庫本に、企業家である父親が息子へあてた、生きるためのノウハウがつまっている。きっとだれが読んでも含蓄にとんだ内容に感服すると思うが、今回はその文章力を参考にしたい。

ぼくは本著を何度も読んでいる。しかし何度読んでもその文章力の高さにはおそれいる。飽きることがないのである。おもしろくて頁をついついすすめてしまう。風呂で読んで、電車で読んでをくりかえしていたら、とうとうボロボロになってしまった。

文章の魅力をひきたてるユーモアと引用

本書のおおきな特徴は、そのユーモア名言の引用にあると思う。本書は父親からのてがみであるから、内容的には説教じみたものがおおい。だから堅苦しい内容になろうと思いきや、豊富なユーモアで読者をうんざりさせない。

もうひとつ、過去の偉人の引用が非常に多い。この要素が本書の内容をさらに奥深くしていると思う。

というわけで、1つのセンテンスに「引用」と「ユーモア」がどれくらい含まれるかを調べてみた。
これによって知りたいのは、引用とユーモアは、一章にどれくらい含むべきかということである。いくらおもしろいユーモアでも、連続すれば飽きてしまうからだ。
引用の基準はわかりやすいのだが、ユーモアかどうかの判断はかんぜんに独断である。つまり僕がクスリとくればユーモアである。

調査は第一章(第一通)から第十章まで。息子が大学生から入社するまでの内容である。

結果

  • ユーモア:1.4回/章
  • 引用:1.7回/章
なお、

  • 一章の平均センテンス:14.4

であった。

調べてみると意外にも引用、ユーモアは少ないことにきづく。一章のセンテンスは14.4なので、10センテンスに1回ユーモアがある程度である。なんだ、このくらいでいいのか。

他に気付いたこと。

  • 章をユーモアでしめくくる確率が60%もあった。
  • 名言はあるセンテンスの次に、名言があることはない
  • よろこばしい内容の章は、ユーモアが増える。逆に批判的な章の場合はユーモアがへる。

ふむ、章の最後にユーモアをもってくるとよいのだな。

さいごに

父親が息子にあてる手紙というのは、著者が何万人の読者を対象としたときよりも、造形が深いものではないか。
とくに一回分の手紙は文庫本にして6ページほど。ざっと計算して3000文字程度のみじかい文章なので、著者の緻密な努力が凝縮されている。思春期の若者に、じっと教え伝えるような「読ませる文章」である。簡単な調査だったがおおくを学べた。とても有意義な調査であった。

なんか気付いたらレポート形式になった。

おまけ:調査中の風景。
ひまだねえ笑

世界を変えようと思ってから最初の一日が終わる。

僕によって世界が変わる。

そう思いブログを立ち上げた今日が終わろうとしている。

世界が変わる。

気が狂ってるだろうか?誇大妄想だろうか?人は僕をいぶかしげに見るかもしれない。危険な思想だと思うかも知れない。
僕がなぜ世界を変えたいと思ったかはいずれ書くとして、今日は僕自身の行動、思想を説明したい。

願うことが第一歩

どんなに高価なものでも、ばかげた目標でも、まず欲しい、達成したいと思わなければ手に入ることはない。あたりまえの話だ。
きみがこたつの上のみかんが欲しいときに、りんごが食べたいと思って手を伸ばすわけではない。
きみは少しみかんが遠くにあるからといって、食べなくていいやとか、明日でいいやとか、手元にあるバナナでいいやとか、思うかも知れない。それではみかんは手に入らない。そう思っているうちに、みかんは腐ってしまう。

そして、人間に不可能なことはないと思っている。これは集団的な意味の人間ではなく、個人の可能性である。つまり、僕にも、きみにも、不可能はないということだ。
どんな人にも素質はある。四肢のないまま生まれた乙武さんを見るといい。かれは本を出版し、始球式でボールまで投げた。だれがかれにそんなことができると思っただろう。ただひとり、かれ自身を除いては。

不可能はないほどポテンシャルに満ちているのに、あきらめることもまた得意であるのが人間だ。そして僕はあきらめたくない。

願うことは精神の健康によい

何かを求め、願うことが悪だと思っているひとは多い。確かに、「あの車が欲しい」「あの服がなければ嫌だ」といった例は、好ましくない事例だ。往々にして、これらの欲求はこころからの欲求と言いがたい。
そうではなくて、「優れた人間になりたい」「善行をしたい」「人の役にたちたい」といった目標はぜひ持つべきものだ。

だいいち、犯罪者の願望はつねに陳腐なものである。「モテなかったから」「遊ぶ金欲しさで」・・・。
これらは欲望と言った方がいいかもしれない。願望は本来、精神に優れた作用をおよぼすのである。

現状を維持することに安住してしまうと、結局不幸になる。ひとは成長に喜びを見出すからだ。何も行動せず、したがって何のリスクもない人生。そんなものはかりそめの幸せだ。人気ブロガーのちきりんいわく、「リスクをとらないことが最大のリスク」である。

世界を変える

健康によい、とか何かしょぼくなってしまった。とにかく

ぼくは必ず世界を変える人間になる。そのために行動し、そのために生きる。ぼくはぼくの足で立ち、ぼく自身で行動する。ぼくはぼくの願望を見誤らず、そしてあきらめない。

いじょっ

12.10.2012

金なんてただの紙切れだ。

金なんてただの紙切れだ。バイトの帰り、本気でそう思ってしまった。

ビジネスマンと聞くと、金を稼ぐために一生を費やすのかとぞっとする
エーリッヒ・フロムの祖父はユダヤ教の律法学者で、小さな店を開いていた。収入は微々たるものだが、彼はそれで構わなかった。神学の研究に忙しかったからだ。

たまに客がきようものなら、「まったく、他に行く店はないのかね」と悪態をついたそうだ。

そんな祖父にささやかな憧憬を抱いていたフロムは、「僕の父はビジネスマンだ」という友人たちの言葉を怪訝に思ったという。「一生を金を稼ぐために費やさなければならないなんて、大変なんだな」と。

じっさいにフロムは富豪の家に生まれたようだが、しかし幼少のフロムの純粋な疑問は、僕たちのこころに大きな穴を穿つようだ。

コスパを追い求めることは正しいのか
フロムの資本主義への批判は痛烈だ。
「現代人は商品化し、自分の生命力をまるで投資のように感じている。投資である以上、現在の市場条件のもとで得られる最大限の利益をもたらさなければならないということになる」

ぼくたちはコスパという言葉を好む。費用対効果という意味で、お買い得なモノを買うときによく使われる。しかし、最近はさまざまなことに拡大されていることがおおいと思う。

このバイトは時給が良いから、
あの企業は社会保障がよいから、
あの子は美人で気立てがよいから、

コスパが良い。

僕たちはなぜこのような軽薄で表層的な思想におちいってしまうのか。自分の生命力を売るようなまねをしてしまうのか。時間というものに真摯になれないのだろう。

フロムは孤独を直視させないような社会に原因があるとする。

「現代文明は、人びとがそうした孤独に気付かないように、さまざまな鎮痛剤を提供している」
「これがあるために、人びとは、自分のもっとも根本的な人間的欲求、すなわち超越と合一への憧れに気付かない。」

じぶんの中にある、根本的な欲求にきづかないから、コスパという外的な基準にゆだねてしまうのである。

自分自身に敏感に
あなたはなにを求めているのか?社会が、あるいはあなた自身が、それをおおい隠してしまう。本当のこころの声に気づかなくてはならない。
フロムは、ひとは自分自身に対して敏感になれると語った。

ほんとうの自分のこころの声に、耳を傾けてみませんか?

うん、うまくまとまった笑

なぜあなたには恋人ができないのか-あなたは人間を愛していますか?

あなたは愛されたいですか?愛したいですか?

現代ほど愛が渇望される時代はありません。クリスマスソングとイルミネーションに発狂しそうな諸君。なぜ自分に彼女ができないか考えたことはありますか?(自戒含む)

・・・


エーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読みました。フロムは20世紀を代表する心理学者。けっこう古い本ですが、現代にもつうじる知恵がつまっています。

内容をかんたんに要約してみました。
  • 世の人間は愛されることばかり求めていて、愛そうとしない。愛は何よりも与えることであり、もらうことではない。
  • 愛とは能動的なものである。「恋に落ちる」というように受動的・偶発的に起きるものではない。
  • ひとりの女性を愛するには、全人類を愛さなければならない。そうでなければその愛は矛盾である。
  • 愛するには技術が必要である。
  • 技術の習得には関心と、練習と、勇気が必要である。
ぐさぐさっときませんか。20世紀の英知はいわゆる「努力厨」に軍配をあげているようですね。

私がいちばん気にいったフレーズは、孫引きですがマイスター・エックハルトの言葉です。
「自分を含め、あらゆる人をひとしく愛するならば、彼らを一人の人として愛しているのであり、その人は神であると同時に人間である。

 したがって、自分を愛し、同時に他のすべての人を等しく愛する人は、偉大で、正しい」

愛することを知らないあなたへ送る一冊



難解な本だと敬遠していませんか?びっくりするほどやさしい本ですよ。すらすら読めて、それでいて奥深い。読んだあとはきっと、愛するということがどういったことなのかわかるはずです。

みなさん、死んでますか。


いきなりこんな説教臭い内容でいいんだろうか。


朝毎に懈怠なく死しておくべし。

これはかの有名な山本常朝の「葉隠」から引用したものである。
現代風にいえば「毎朝怠けることなく死んでおけよ」ということである。

朝起きたら地震で死ぬことを考えよ。
交差点で車にひかれるところを想像せよ。
電車がきたところでホームにつきおとされる自分を想像せよ。

グロテスクだろうか?
いや、ふしぎと胸のつかえがすーっと取れるのである。人間、死を意識してはじめて生きることができるのではないか。


おいおい今は太平の世の中だぜ、そんな考え通じるかよと思うかもしれない。しかし、そうではない。「葉隠」が書かれた時代はいまと同じくらい平和な世の中である。武士がカタナを抜くことなんてほとんどなかったという。
生の実感がうすれてしまったときこそ、雑多な日常に埋もれた死を見出すべきなのである。


これは近ごろ大人気のスティーブ・ジョブズも似たようなことをいっている。
「今日一日を人生最後の日であるかのように生きていれば、いつか必ずひとかどの人物になれる。」



 昔の日本人の死に対する考えは、とても素直でよい。三島由紀夫は「葉隠入門」にて、「日本人の死の観念は、明るく直線的である」と述べた。まったく同感である。


ん、この記事おもしろいか・・・?練習だからな。最初は・・・

世界を変える必要があると思った。

世界を変える必要があると思った。

どうすれば世界が変えられるか考えたが、いちばん簡単なのは本を書くことだ、という結論にいたった。

しかし僕は文章力に欠ける。どうすれば文章力が付くだろうか?Blogosを見ていると、フリーライターになるには、書きまくるだけで良いと書いてあった。

今回の記事は「未経験」という前提があるので、まずは文章能力を高めることから始めるのをおすすめします。文章力を鍛える方法は、とにかく書く!書く!書く!ことです。文章は楽器と同じで、書けば書くだけ確実に上達します。少なくとも書きまくることで、生産スピードは上がり、独自のスタイルも見つかってきます。
なんだ、簡単なことじゃないか。
僕のこの先のプランは、

  1. ブログを書く
  2. 本を執筆する
  3. 世界を変える

おおざっぱに言えばこういうことになる。簡単で良い。みなさん応援してくださいね。


ついでに言うと、テレビにも出たい。