12.30.2013

サン=テグジュペリ「夜間飛行」

限りないロマンと生と死、そして野望。

男がどう生きるべきかという点を考えさせられる。

パイロットや飛行の情景も印象に残るが、とくにリヴィエールの生き様がかっこいい。
彼は確かに優秀な管理者である。理想に恋焦がれながら、それでもしっかり現実を見ている。なかなかできるものではない。

しかし同時に孤独で人生の価値に疑問を抱いているようなところがある。現実に上司になったらすごく嫌だが、同時に惹かれると思う。意志の貫徹する男の透明な美しさがある。

豊かだが孤独だった男、といえば映画「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の主人公を思い出す。僕の中でリヴィエールはこんな顔。

そしてBGMでは常に「ミスター・ロンリー」が流れていた。ラジオ番組「ジェット・ストリーム」のあれである。

本の表紙絵、これもいいデザインだと思ってたら宮崎駿が書いてたらしい。しかし、「紅の豚」とはまたぜんぜん雰囲気が違うと思う。あれは突き抜けた明るさがあって、「夜間飛行」にあるような男の野望だとか、生の葛藤、飛ぶことの恐怖などがない。

駿が「紅の豚」をあまり好んでないのはこの点にあるのかな。

それにしてもテグジュペリって覚えにくい名前だなあ。

12.29.2013

アンソニー・ストー「孤独」 まとめ

アンソニー・ストー「孤独」を読み、傍線を引いた部分をピックアップ。久しぶりにおもしろい読書体験だった(訳が下手、というか直訳的で非常に読みづらかったが)。

それにしても、キーボードを叩きすぎて腱鞘炎になりそう。いい加減キーボードというシステムなくならないかね・・・。



昔の人は自然界の予測できないこと、人間の意志ではどうにもならないことに不安を抱いたが、現代のような豊かな社会では、人間関係に心を占領されて不安になっている。 エルネスト・ゲルナー


心理的な健康は愛する能力と働く能力からなる フロイト
ほとんどの勤め人の場合は、誰ともお互いに関わり合うことなく独りで過ごす時間は、比較的短い。おおかたの人にとては、このような仕事の形態こそ職場生活の魅力となっているようである。

独りでいられる能力は、このようにして、自己発見と自己実現に結びついていき、自分のもっとも深いところにある要求や感情、衝動の自覚へと結びついてゆく。

精神病の前駆症状として不眠がある→睡眠と孤独の関係

独りでいられる能力の発達は、脳がその最良の状態で機能するためにも、個人が最高の可能性を実現するためにも必要である。人間は容易に自分自身の最深部にある要求や感情から遊離してしまう。
学習、思考、革新、そして自分の内的世界への接触を維持すること、これらはすべて孤独によって促進されるのである。

人びとや出来事の喧噪のなかにあって、孤独は私の欲求であった。今やそれは私の友である。人が「歴史」に出会ったとき、ほかのどんな友が心を満たしてくれるのだろうか。シャルル・ド・ゴール

心の恍惚状態と死の連想は理解できる。このまれな瞬間は、それがあまりに完全であるために、再び日常的なことに戻るのがきわめてむずかしいほどのものであり、緊張、不安、悲しみ、そしていらだちが再び押し入ってこないうちに人生を終わるように人を誘うものである。

「それは内なる自由の感覚、独りになって、銀行からの報告書でなくて、極限の諸現実と直面しているという感覚である。銀行の報告書や他のささいなことは、これまた一種の監禁である。もっとも、これは物理的な空間ではなくて、精神的な空間での監禁だが。(中略)こうしてあなたは存在と対話をする。生との対話、死との対話を。」ケストラー

想像力は、すべての動物の中で人間においてもっとも発達していると言っても差し支えない。

内的な空想の世界は人間の生物的な能力の一部分であり、内的世界と外的世界との避けがたい不一致こそが、否応なく、人間を創作力と想像力をもつ存在にしているのである。
個人が人生を生きる価値のあるものと感じるのは、何よりも創造的統覚のなせる業である。

名前をつけることが第一番目の創造的な行為なら、絵をかくことは第二番目の創造的行為だろう。

キブツの中で育ったイスラエルの青年達を研究した結果、集団意識の共有についての高い評価が、創造性にとっては不利に働いていることを発見した。ブルーノ・ベッテルハイム

理想的な人間関係などありえない。人は「ふさわしい」相手を見つけて、理想的な関係を結ぶことが出来ると信じ込むよう仕向けられてきた。

ある程度自分の本性を否定したり抑圧してまで従順にならなければいけないと感じている子どもは、自尊心を維持するために、必ず外的なものをよりどころにし続ける。→成功、好人物、ほめられることなど

母子関係においては、「回避」が「従順」以上に深刻である。

私が見知らぬ場所で、何人かの見知らぬ人、あるいは私がそう思う人と一緒にいるとき、部屋全体が胸を圧迫して、私は動くことでさえできなくなる。そして、私の人格そのものが彼らをいらいらさせているように思われて、全てが絶望的になる――カフカ

もちろん、(カフカのそれは)狂気に近い精神状態である。書斎机、解体する危険をはらむ精神をひとまとめにして維持することができる想像力、完全無欠の知性、この三つがかろうじて彼を狂気から引き離す。
エーリッヒ・ヘラー

想像する能力は、なんらかの理由でかなり孤独な子ども時代を送った天賦の才のある個人において、特に発達する傾向がある。 
創造的な芸術家は、本質的に報いのある関係よりも、自分の仕事を促進してくれる人間関係の方を選ぶ傾向がかなり強い。

ものを書くことは治療法の一形態である。書いたり作曲したり描いたりしない人はみんな、いったいどうやって狂気や欝、人間の境遇にはつきものの追い詰められるような恐怖から逃げおおせるのかと、私はときどき不思議に思う――グレアム・グリーン(イギリスの小説家

死によって親を失った女性は抑鬱的は鬱病と診断され、分離による喪失を経験した女性を苦しめるような抑鬱は神経症と診断される。
自分が他人の影響を受けるのを許さなかったことをよしとする。――ヴィトゲンシュタイン

優れた内向性の作家は、自己参照によって、つまり他人よりもむしろ自分の過去の作品と相互に影響しあうことによって、アイデンティティを明確にし、自己実現を達成することができる。

「私たちはお互いに愛し合うか、さもなくば死ぬか、このどちらかを選ばなければならない」オーデン

芸術家は、そうでない私たちと同様、自分の内部で争うさまざまな欲望に引き裂かれている。しかし、私たちと違って、芸術家はこれらの欲望をそれぞれ自分の芸術に役立つ要素に変えてしまう。それから芸術家は、その要素をすべて統合してひとつの表現様式をつくりあげようと努める。その統合が成功したことを示すものは、誰もが認知することができるほど平明で、独自性と統一性を備えた表現様式である。――ジェロルド・ノースロップ・ムア
芸術家や哲学者は、本来自分独りで成熟することができる。その人生の進行過程は、他人との関係によってではなく、その作品の変化していく性質や向上する成熟度によって区分されるのである。

対人関係を最大の関心事としない人生に意味と秩序を発見したいという要求に特別に心を奪われている人達がいる。

ひとりの人間の行動が他者の医師に左右されること以上に恐ろしいことはない。――バートランド・ラッセル

人は、ある意味では自分自身に対して不誠実であり、創造主が人間にたどらせようと意図した道からあまりに遠くさまよってきたため、人生半ばになって神経症にかかる。
人間の心の構造は、外界の秩序や統一の発見または認識が、あたかもそれが内なる精神の世界の、新しい秩序と均衡の発見であるかのように映し出され、転移され、そして経験として蓄積されるようにできている。

創造的な人間は、創造的熱狂を伴って霊感がひらめく段階においては、過去と未来を失い、今の瞬間だけを生きている。彼は現在に、目下の状況に、今この場にあるものに、現時点の課題に、完全に没頭し、魅了され、熱中している。「現在に没頭」する能力は、いかなる種別の創造にとっても必要条件であるらしい。――マズロー

もっとも幸福な人生とは、たぶん、対人関係と非人間的なものへの興味のうち、どちらも救済への唯一の道として理想化されていない人生であろう。完全性願望とその追求は、人間の本性が備えているこの両面を含むものでなければならない。

Round Midnight

長期休みに入ったので不摂生な生活をしていた。このところ朝方に寝て夕方に起きていた。直すべく昼まで起きていることにした。

夜八時の寒空の中、コンビニで菓子を買って部室へ行った。アパートではパソコンがある。パソコンがあるとゲームをしてしまう。それでは人生の浪費だ。

部室にはピアノがある。ドラムがある。そして、家から持ってきた本がある。時間を潰すのにまったく事欠かない環境である。本を黙々と読みすすめる。やがて飽きて文章が頭に入らなくなる。ドラムで四肢の体操をして、疲れたらピアノでコードの勉強などをする。

ドラムは原始的なエネルギーを秘めている。何しろ人類史上もっとも古い楽器だ。ピアノは楽器として完成されている。メロディ、リズム、ハーモニー、全てを一手に担う(正確には二手)のだから楽しくないわけがない。


本のタイトルは「孤独」。孤独を求める人間は、抑鬱型と神経症型に分けられる・・・。僕は後者だ。ただし同種の人間であるカント、ヴィトゲンシュタインの哲学はまったくわからないが。小説家というよりは、哲学者に向いているようだ。ただカフカも神経症型の人間なようだ。

カフカの作品を見て思うのは、その普遍性である。21世紀の今でも色あせることがない、というか、カフカはそういう風に意図しているのだと思う。その普遍性はどちらかと言えば文学よりも科学的性質を持っている。その執着は僕もまったく共感できるところである。

世が明けてくる。外に出て寒空を味わう。田舎の大学のよいところは、その環境の静謐さ、自然の美しさである。

帰りがけ、山田うどんに寄る。たまごかけご飯、漬け物、あったかいうどんの定食を食べる。どの味もやわらかくて、夜明けの飯には最高である。

アパートに帰り、ビールのプルタブを引く。液体にのどを通らせて、またもこう思うのである。

この生活は完成されている・・・。

12.27.2013

掃除ができない人へアドバイス

どうしても掃除ができないという人がいる。部屋は埃やモノだらけで、生活の質はあまりに低下しているにも関わらず、行動に移せない。そういう人は、掃除をするにしてもやっつけ仕事で、すぐに埃まみれになる。

まあ僕のことなのだが。こういう人にはさまざまな心理的原因があるだろうが、ひとつに”掃除をしてもすぐ汚くなる”という諦めみたいなものがあると思う。

しかしこうした諦念を抱くのは理由がある。部屋掃除が間違っているのだ。部屋掃除とは何をすることか?まずコンセプトを切り替える必要がある。

多くの部屋掃除ができない人の掃除は、二次元的である。これはどういうことか。掃除というとモノを片付けて埃を取り除くことだと思っている。これは甘い。部屋全体をなでつけるような掃除では、埃や汚れはなくならない。

こうした人は、発想を三次元的にシフトすべきである。まず、部屋を構成するすべてのものをフリーな状態にする。ベッドは壁につかないようにし、本棚は本を降ろす。テーブルは物を降ろす。そうして、ひとつひとつの対象に対し、裏も表も、横も縦も全てクリーンにする。そうした過程を経て、真の部屋掃除が完成する。

こうした行為の利点は、モノの配置の再構築が可能なことだ。つまりひとつひとつのモノを部屋という世界から切り離して、必要かどうか吟味ができる。部屋を構成しているものが部屋にとってどのような意味があるのかを再認識できる。

この過程を通じて、部屋は必要のないものしかなくなり、すっきりとまとまる。本やモノの配置が整理され、散らかることがなくなる。

これはある意味、バイクや車のメンテナンスに近い。不動車の表面を綺麗にしてもエンジンはかからない。分解して、ゴミは捨て、ダメなものは新品に取り替え、全て綺麗にすることが重要なのだ。

概念的には部屋を「掃除」するのではなく「メンテナンス」すると考えるとよい。そうしたことで「生活の故障」が未然に防げるのだ。

本当の掃除をすれば、部屋の清潔さはしばらく保てる。少なくとも、表面をなでつける掃除とは比べものにならない。こうした”報酬”を経験すると、ずぼらな人でも掃除に対して意欲的になるのである。

12.25.2013

WEBテスト所感。

いやー今日は大変だった。

企業のWEBテスト締め切りが今日までだったのに気付いてあわてて対策した。タイプは玉手箱形式。

逆算がぜんぜん解けずに時間内に半分も解けずに終わってしかもポロポロミスっているという惨状だった。

しかし反復に反復を重ねなんとかモノにできた。慣れない計算をしまくってたので頭がすごく痛い。

実際に受けて見たところ
算数9割
国語7割
英語6割ってところだった。

これで通るんだろうか?無理かな。外資なのに英語できないってどうなんだろう。TOEICの点数はいいんだが何しろ勉強したのが2年前のことなのでブランクがありすぎた。時間がまったく足りない。

なにごとも早めの対策が肝心だということだろう。SPI模試で無駄に良い点とったのが仇になったかな。

ちなみに適性診断とかいう性格テストがあったがこれは外向的で創造性のないニーチェ的に言えば「おしまいの人間」あるいは「蛆虫」のペルソナをつけて受けた完璧。倫理的呵責はあるが我々内向的人間は社会に「潜りこまなければ」ならない存在である。不寛容で硬直した社会に問題があるのだからしかたない。

アンソニー・ストーの孤独について

#アンソニー・ストーで検索すると、恐れ多いことに、このページが上位にくる。今読むとどうしようもないクソ記事なので、引用をまとめた他の記事を読んだ方が有益だと思う。くわばら、くわばら。14/11/6


アンソニー・ストーの「孤独」がおもしろい。


最近、とくに孤独についての本を読みあさっている。それで思うのだけど、孤独な人間の創造性というのを過大評価しちゃいないか。そして社交的な、いささか浅薄な人間を軽視しているのではないか。そりゃ、ニーチェやショーペンハウエルのような孤独に沈湎した哲学者にとって、外向型の人間は「うごめく蛆虫」であり、唾棄すべきだったかもしれないが・・・。

孤独を愛する人間が「才能に恵まれ」ていて、社交的な人間が凡俗という見方はあまり好ましくない。僕としては、社交的な人間、孤独な人間が手を取り合うような社会が好ましいと思うのだが。例えばユダヤ教のように。

「モーセは口べたであったという。それに対して兄アロンは雄弁であったらしい。しかしアロンは神の言葉を聞く耳を持っていなかった。」



それにしても、確かに天才と呼ばれる人間は孤独を好むようだ。しかし、これは捉え方の違いだと思う。社交的な人間にも天才は多い。

確かにニーチェやショーペンハウエル、キェルケゴールなんかは天才だけども、ナポレオンや織田信長だって天才だったろう。要はその天才性が哲学に発揮されているか、個人の記録として残りやすい文学として発揮されているかによって、後世の評価が大きく違っているのではないか。

例えば信長のような人間であれば、優れた決断や天才性を発揮したとしても、部下や機運によって紛れてしまう。また本人達が直接モノを書くことがなければ、伝聞ということになり、それだけ真意が薄まる。それがニーチェの本となれば、現代でも本人が当時書いた言葉が、直截に語られてくる。
哲学者が天才と見なされることは、「文章」の力が大きいのではないか。そのエネルギーの永続性。プラトンにせよ孔子にせよ、「国家」や「論語」がなければ天才たり得なかっただろう。



ところで、僕は内向的人間だから、ひとと一緒にいることは好まないし、孤独のもたらす創造性の恩恵は計り知れないものだと知っている。正直、僕の人生はその創造性だけあれば十分幸せだと思っている。

最近は僕のような内向的人間が見なおされている。そういう機運はあると思う。(考えてみれば、いまが異常に外向性志向なのである。「内向的人間は採らない」という企業が多すぎる!!)一方、外向的人間が長く哲学者によって否定されてきた背景も見つめ直さなければならない。

さて、内向的人間、外向的人間、どちらも幸福になれると僕は思う。ところがもっとも不幸な人間は、内向的なのに外向的な振りをする人である(まあ昔の僕だったのだけど)。

こんなことは、人が他者を尊重していれば起こらなかったはずだ。

ケビン・ブリールという、うつ病を患うコメディアンがこんなことを言っていた。

「19年の人生で何よりもつらいこの苦しみは
新しい見方をもたらしてくれました
そして 心の痛みは希望を持つことを教えてくれた 
希望と信頼自らを信頼すること 
他者を信頼することこの状況を変えて 
良くなるという信念を声に出すこと 
声に出して無知と戦うこと 
不寛容と戦うこと 
そして何より 自分たちを愛することを学ぶこと 
本当の自分を受け入れること 
周りの人が期待する姿ではなくありのままの自分でいることです」


不寛容と戦うということ。自分を信頼するということ。これが正義であり、目覚めているということであり、善く生きるということなのである。



12.23.2013

放射脳の思い出

僕は以前、ゼミの発表で福島原発について語ったことがある。

主旨は、チェルノブイリ原発事故の統計的事実から、大規模な放射能汚染を受けた地域の人びとはどのような経過を辿るかまとめたもの。

もちろんデータに曖昧さがあることを前提して、それでも多少の影響は出るであろうこと。たとえば小児の甲状腺癌が増える。がんが増えるだろう。だから可能な限り配慮して、放射能を避けた生活を送ろう、というようなことを言った。


・・・


発表が終わって生徒たちの顔を見ると、「こいつ何を言ってるんだ?」
質疑応答の時間、それはもう虐められたものだ。僕は泣きそうだった。
専門家である教授に「こういうお馬鹿さんがいますが現実はこうですからね~」と今まで言ったことを全否定するようなまとめをされて、僕は負け犬のようにしょんぼりして発表を終えた。


確かにそのときは放射能の存在は「不都合な真実」だった(アルゴアは嫌いである)。震災に屈せずがんばる人びと、それを支える善意の人びと。人びとの絆。その絵図に、放射能はどんなに消しても消えないシミのようなものだった。つまり、みんな見ない振りをしていたし、その時点ではたいした影響もなく、次第に慣れていった頃だった。

しかし、健康というもっとも尊重すべきものが私企業の怠慢によって脅威にさらされているのだから、これは言語道断である。福島の女子高生がこんなことを言ったようだ。「うち、もう子ども産めん体やし!」ただただ悲しい。

それに、放射能とは目に見えず、臭わず、触ることのできないある意味で最悪の毒物だ。だから、啓蒙が必要だった。できる限り放射能を取り込まないよう、個人個人が気をつけなければならなかった。

それが、今ではいろんなことが曖昧になってきた。今では放射能なんてないかのようだ。放射能は平気で海や大気に垂れ流されている。病院のCTスキャンも大学の実験室のハザードマークも大した危険に見えなくなってくる。



しかし現実にはどうなっているだろうか?福島の子どもたちの甲状腺癌は確実に増えている。他県の7倍だというではないか。専門家曰く、2015年に放射能と健康被害の関連が認められ、訴訟ラッシュが起こる「2015年問題」が起こるとかいうことだ。

なぜこの専門家たちはこれまで声高に叫ばなかったのだろうか?


彼らも口をつぐまざるを得ない状況にあったということだろうか。






僕もさんざん放射脳だの臆病者だと罵られて、それでも自分の考えを疑ったことはなかった。本を読んで、海外論文も調べ倒した。僕以上に調べた人間は希だった。だから、ひとりでもがんばった。学生たちも、教授も、マスコミも政府は違うことを言っている。それでも僕が正しい。そんな状況があった。

あのときはほんと意識高い系学生だった。世の中がアホばかりということに気付いて、俺がそんな世の中変えてやると思って朝から晩まで勉強した。懐かしい。

今になって思うのは、世の中ぜんぶが無知蒙昧の霧の中に包まれている中、ひとり目覚めているということ。これは非常に猛烈なモチベーションになるということだ。

これは僕のルーツとなるストーリーのひとつである。今でも思い出すと身が引き締まる。

12.21.2013

SPI模試の結果。

SPI模試の結果は、大学内で二位だった。全国では35/43000。


1000人にひとりかあ、と思うと感慨深い。
僕はあくまで優秀な人間なようである。喫緊の問題として、WEBテストの締め切りが近く、そしてその問題はひとりで解くものではないということである・・・。結局は集団の中の歯車となることが就職なので、他者とチームプレイをして、チームとして成績を出すことが必須となる。

ちなみにWEBテストを友人と解いたことをツイートして問題になった就活生がいた。僕は彼女を擁護したい。これは大学1年の飲酒や原付の30km/h制限違反を叩くことと同じくらいバカらしいことで、「やってはいけないことになってる」ものの現実では容認されていることだ。

そして、だからこそ困っている僕がいる。なにしろ人を頼ることが苦手な僕だ(無頼漢と言えばかっこいいが単に人嫌いなだけ)。WEBテストごときで人生を左右されるのはごめんだ。


しかし、それでいいのかもしれないと思うこともある。WEBテストをチームで解くこともひとつの能力だし、それで判断するというのは、僕のような優秀な人間を落とすということだ。そんな会社こっちから願い下げだ、と言いたい。

最近思うのは、大企業であっても経営方針を誤っている会社が少なくない。学生ごときもごまかせないのだから事は深刻である。「マズローの心理学」にこんな言葉が書いてあった。「国民の99%は、悪い経営方針をとっている大企業に職を得ようとして、自分達の人生の何年かを費やしている。」

こんな文言を就活前に書いてどうなるかはわからない。しかし、就活を僕は超越したいのだ。就活に没入しながら、それを俯瞰したいのだ。

就活とは、企業に内定をもらう過程ではない。企業という巨大な組織と、個人としての自分の闘いである。全人的にぶつかりながら、同時にそれを醒めた目で見る自分がいなければならない。そうして、就活を排泄して水に流してようやく、超越したと言えるのだ。

うーん自分でもよくわかんね。ちなみにエントリーシートはABCDEの5段階評価中Bでした。


text

WEB上と書籍、テキストの所在はどちらに多いかわからない。それだけWEB上にテキストは氾濫しているのだけど、僕個人的には本の方が好きだ。

なにしろ本は出版という多大で煩雑なコストを介すわけで、その時点でろくでもない本はフィルタリングできるわけだ。さらにより煩雑な翻訳という過程を経た本はすばらしい。こうして"思想の上澄み”ができあがる。

僕にとってのおもしろい本というのは、"より真剣に生きた人の本"である。真剣に生きている人は人生や世界、もっと小さいものでいえば社会や共同体との軋轢が激しく、火花散らしながら生きている人びとである。そうした熱、光線、音、衝撃を本に載せてもらえると、僕の魂は舌鼓打って喜ぶ。

別に高尚である必要はない。神経症的で緻密な考察が書かれても良いが、シンプルに、直截なメッセージが描かれてるものでもよい。例えば岡本太郎の本なんかは、まったく稚拙で、文法的にあやしいところもあるし、同じような形容詞を多用したりしているが、それだけに熱いパトスを感じるのだ。


話を戻そう。それでも僕は現代っ子である以上、ウェブの文章も読んでいる。大した文章は読まない。僕は気に入った文章があるとEvernoteにコピペするのだが、そうした文章があることは本と比較して1%程度である。しかし、中にはすばらしい文章があることもある。

そうしたブログをここに貼ろうと思った(それがこの日記の動機だった)のだけど、深く読んでいくうちにわけがわからなくなったので辞める。


それにしても、こういう散文、文字通り書き散らした文章をここに書いていくことに意味があるのかと最近考える。

僕は毎日をここに記すことによって、足跡を残したいのかもしれない。足跡。大地への愛着。

まあ他人にとって意味がなくても、僕にとって必要ならそれでいいのかもしれない。自己の精神状態を赤裸々に記すこと。自己と世界との一致。

このブログ、ほとんど訪問者がいないのだけど、非常にやりやすくて良い。他者が見ているか見ていないかわからない――そうしたポジションが、僕にとって非常に居心地いいのだ。だから、家の机に籠もるよりも、空いた自習室、図書館、喫茶店で読書するのが好きなのだ。サルトル的に言えば、孤独のアマチュアなのだろうが・・・。

12.20.2013

自己と世界が調和するところに幸せがある

「世界と私」との調和に幸せがあると感じた。

世界のあるべきところに私という存在がぴったり嵌まるような感覚。

よりわかりやすく言えば、それは内面世界と外の世界とのバランスが保たれているような状態のことだ。

もっと日常的に言えば、他人と話しているときと、自分と話している時間のバランスである。

世界を選ぶか、自己を選ぶか、という言葉を、僕が好んで使うけども、自己と世界がうまく調和すれば、選択する必要はないのだ。自己が世界を認め、世界が自己を認める。そこに生まれる幸福・・・。

それでは、不幸とは世界と自己の不調和にあると言えよう。
しかし、本質的には世界とあらゆる内面世界は調和しているのだと思う。不調和が生じるのは、そこに無知や無思考があるとき、あるいは目くらましやなんかがあるときだろう。しょせん、人間は世界に内包される生き物である。内面世界もその一部分なのだ。


12.19.2013

内向型人間の価値について

時代によって内向型性格と外向型性格の人間の価値というのは変わってくるのだと思う。

今は外向型重視の時代である。なにしろ、就活しているとわかるのだが、内向的であることは悪であると断罪されている。適性検査で受かるためには外向的であることが重要な要素になる。

当たり前のことだが、内向型も外向型もそれぞれ長所短所がある。では内向型の優れた長所、独創性や熟考は現代では求められていないのだろうか?

思うに、社会が安定するほど外向型のニーズが高くなる。というのも、歴史の長い企業や社会的価値観によって、土壌やレールはしっかりと築き上げられているので、それに疑いなく調和する人間がどうしても優位になるのだ。

一方で、既存の価値観に疑問を持ち、革新的なアイデアを好む人間は、大企業にとって好ましい存在ではない。社風に染まりそうにないし、大きく成長する必要のない大企業は、革新的なアイデアを採用するリスクは犯さない。

それでは内向型が活躍した時代はあるのか。それは例えば戦後にあった。

戦後、バイクメーカーは驚くほどの数があった。実に数千もの企業がせめぎ合っていた。そうした「小さな共同体」しかない時代では、内向型の苦手とする複雑なチームワークは必要ないし、過度の競争に晒された企業は強力な新商品で勝負に出る必要がある。そのような場ではアイデアの生み出しやすい内向型は好まれたのではないか。

今ではバイクメーカーもたったの4社である。同じように、どんな業界でも競争に打ち勝ち企業は肥大化している。このような企業に対しては、内向的人間は自分をごまかし「潜りこむ」しかないだろう。

成熟した社会、既存の強固な価値観が形成された社会、集団的同調的抑圧がより巧妙に強力になった社会では、内向型はますますつまはじきになっていく。

しかし、そうした世の中を転覆させ、歴史の表舞台に立つトリックスターもまた内向型なのである。

だから、内向型はくじけず、自分に誇りをもつべきなのである。


#思えば、家父長制というのが生きていた時代も内向的人間の時代だったのではないか。ああいう常に不機嫌そうな、ムスっとした人というのはまさしく内向型である。今であればコミュ障あるいは精神未熟者扱いだろう。当時では、外向型がわざとしかめ面して、内向型の真似をしていたのだろうか。そう思うと少し可笑しい。

#4/11 内向的人間の価値再考。口べたと饒舌、どちらが優れた恋文を書くか?

12.18.2013

人間であるということ

型にはまった活動の網に捕らわれた人間が、自分が人間であること、希望もあれば失望もあり、悲しみや恐れ、愛への憧れや、無と孤立の恐怖もあること、を忘れずにいられるだろうか。
エーリッヒ・フロム


就活に関連して、仕事に何を求めるかというのが最近のテーマである。安定、収入、地位、いろいろあるだろう。

しかし僕はやはり「創造」というものを求めたい。創造は自由という土壌からしか生まれない。自由とはつまり個人主義である。個人が個人として認められるような会社で働きたいと思う。



金なんてない方がすっきりして動きやすい。この世に生まれてきたからには、生を噛みしめて生きたいのだ。僕にとって、金は金を超越するため以外には価値がない。軽蔑するものであれば乗り越えねばならぬ。

「みんな金が欲しいのだ。そうして金より外には何にも欲しくないのだ」
夏目漱石「道草」

就活雑感。

僕の周りの人たちがインターンの内定をとっていて驚いた、というお話。

どうも、企業というのは「価値のあるものを見出す人間」よりも「価値のないものをあるように見せる人間」を好むようだ。だいいち、面接にしても好まれるのは「大学時代遊び呆けてたけど、それを自分なりにアピールのできる人」である。決して、「勉強を一生懸命して、禁欲的に生活してきた人」ではないのである。

僕はアホではないのだから、大学で遊ぶことを批判しているのではない。もちろん大学は遊ぶところであってもいいし、そこで人脈なりコミュ力などを身につけることは悪いことではないと思う。それでも、大学でまじめにがんばってきた人が報われないというのは少しおかしいと思う。あるいは部活でがんばってきたのでもいいが――部活でも、チームを牽引したことが重要になるのである。決して、柔道なり軽音楽なりを精一杯がんばっただけではダメなのである・・・。

つまり企業が好む人間は、仕事を好む人間ではなく仕事に携わるチームを好む人間である。


この錯誤は、資本主義の基盤の脆弱性に由来する。そもそも、だいぶぶんの企業が売る必要のないものを売っているのだ。マスコミのテレビ番組にしても、インスタントラーメンにしても、本来人間にとって「必要」ではない。ただ「あれば便利」というくらいのものである。それでは番組制作陣、日清の研究開発陣のモチベーションはどこにあるか。「いらないものを売る」モチベーションはどこから生じるか。
それは「チーム」からである。どうも集団というものは、深くものを考えさせない作用があるようである。その結果、いらないもので街が溢れ、「これは必要だ」といういらない装飾でどこも彩られている。

本質的に売らなくていいものを売らねばならないというのが資本主義の宿命である。そこには無思考を是とする前提がある。企業側の選考基準も、どうやら無知蒙昧の塊だったようだ。




さて、そんなことを考える就活生の心持ちやいかなるものか。僕はいたってはればれした気分である。なにしろ、僕がもし就活で成功したとすれば。それはくだらない企業という存在を欺き超越したということになるし――よしんば失敗したとしても、僕は俗世間というものから離れ、創造的生き方をするか、あるいは(これは一般的就活生には当てはまらないだろうが)中流の生き方も保証されているわけである。

僕は就活にたいし、強いアドバンテージを持っていると思う。なにしろ、失敗してもそれは喜ばしいのだ。もちろん成功すれば嬉しいが――「企業に求められない人材」という自分に、僕は疑いのない自信を抱くこともできるからだ。

12.16.2013

コミュ障よ、誇りもて

ドクターペッパーがうまい。


コミュニケーション障害者、いわゆるコミュ障が増えていることについて。

結論から言うと、コミュ障が増えていることは良いことだ。僕はどんどんコミュ障が増えて欲しいし、コミュ障の価値を高めていければと思う。

だいたい、コミュニケーション能力とかいうものが盛んに叫ばれてきたのが数年前で、それ以来「普通の人ならコミュニケ―ションができる」ことから、その能力を持たない人を障害者扱いし始めた。

その前に流行った「リア充」という言葉を考えてみると、これも「普通の人なら彼女のひとりくらいいる」という考えから、非リアが排斥されてきた背景がある。

つまり”普通”であることが絶対的優位であり、それ以外の生き方は病的だ、認めんという思考プロセスが国民全体に蔓延しているのだ。

これはおかしな話である。東大生は少数派だが頭脳的には優れているし、優れた結果を出すスポーツ選手が不具なわけがない。

だいいち、優れた人というのは常に少数なのである。紀元前からずっとそうである。武士は少数、貴族は少数、バラモンも少数である。今だって、社長の数が平社員より多いなんてことはない。

会社の話で言えば、今はおかしなことになっている。平社員は勤勉でえらく、社長はぐうたらしているということになっている。逆だ。大抵、社長は偉いのだ。こんな当たり前のことが、多数派至上主義の社会では歪められている。

まず、少数派=劣っている、という考えはやめること。公平な目でコミュ障を扱うべきだ。



でもって、コミュ障であることは忌むべきことなのか。そんなことはない、と言いたい。

どうも我々が目指す人物像というのはおかしくないか。元気ではきはきしゃべり、周りと摩擦のない人間。10秒見たら理解できて、10秒目を閉じたら忘れてしまうような人間。概してコミュ強者というのは印象に残らない・・・。

いわば社会の中でうまくやっていける人間である。われわれのほとんどが、こういった人格を目指している。しかし、まて。われわれは社会の中で適応するために生まれてきたわけではないだろう。社会という垣根を越えて、世界を見るために生まれてきたのでは?

観念的になってきた。社会とはしょせん人間の集まりである。そうした社会から離れて、人類に輝かしい成果をもたらした賢人はいくらでもいる。いわば社会に埋没しない、客体化して見るような人種も必要だということだ。そして、そこにこそコミュ障の強みがある。

ちょっと突拍子もないことを言う。コミュ障がなぜコミュ障なのか考えてみるに、彼にとって社会が理解できず、遠いものだからなのではないかと思う。コミュニケ―ション強者がその社会の中で埋没し、世界と社会を一体化して見る一方で、コミュ障は社会をあくまで世界の一部として認識する。彼はその手の中に社会を弄んだり、蹴飛ばしたり愛でることはできるが、社会はあくまで世界の一部である。世界が見えなくなるまで社会をふくらますことはできない。

だから社会から何か要求がきたり、メッセージが来ても、すぐに彼は応答できない。社会が世界に内包される以上、情報は彼にとっての世界を通過しなければならない。そこにずれや遅延が生じるのだ。

コミュ障は確かに社会性に欠けるが、それもそのはずであって、社会へ注視する比重が小さいのである。彼にとって重要なのは内面世界や思惟、抽象の世界であって、社会がああしろ、こうしろという要求は時にノイズにしかならない。

政治学と哲学はもっとも遠いなんて言った人がいるが、そのとおりである。哲学はコミュ障のものであり、政治学はコミュニケ―ション強者のものだ(おそらく)。

だからコミュ障は悪いことではない。社会の中でうまくやっていけない彼らをバカにしてはいけない。それならば、社会の中で"しか"生きていけない人びとを、コミュ障はこう非難することになる。「俗物」「軽薄」「畜群」と。あるいは、サルトルの言葉を借りよう。
黄色い壁やひとびとを信頼の念を持って眺め、世の中はいまあるがままの姿であると思うのである。もはやいっさいの意味を持たぬ緩慢で微温的な生活であるが、彼らはそのことに気がつかないだろう。
しかし悲しいかな、多くのコミュ障は自分の才能に気付いていないのだ。世を変える大きな思想を残すかも知れないのに、彼女ができないだの、上司に嫌われるだの、つまらないことにくよくよ悩んで、果てには自殺までしてしまう。あるいは、コミュニケ―ション強者に不必要な憧れを抱き、近づこうと努力して決して達成されない、不毛な人生を歩んだりする。

コミュニケ―ション優位者による少数派へのイジメはまったく暴力的である。コミュニケーションは上手でも、相手を敬い尊厳することをしらない連中はクズである。


まとめよう。
コミュ障はコミュニケーションに劣っていても、多方面で優れた業績を残す可能性がある。しかしコミュニケーション強者が”矯正”しようとすることによって、コミュ障の能力が奪われたり、精神病理の芽を植え付けたりする。
国民全体、コミュ障の生き方に多少の敬意を払うべきであり、そうしてコミュ障自身ももっと誇りを持つべきだ。

社会はきっとあなたの力を必要としている!!!

のだから。

12.15.2013

孤独について

人は孤独である。生まれてから死ぬまでが孤独である。たとえ恋人ができても、家族がいても孤独であることに違いない。

それならどうして、孤独に沈湎しないのだろう?それが誠実に生きるということじゃないか。

孤独ということ。
ショーペンハウエルの説によれば、詩人と、哲学者と、天才とは、孤独であるように、宿命づけられて居るのであって、且つそれ故にこそ、彼等が人間中での貴族であり、最高の種類に属するのだそうである。
萩原翔太郎はこう書きながら、 
つまりよく考えて見れば、僕も決して交際嫌いというわけではない。ただ多くの一般の人々は、僕の変人である性格を理解してくれないので、こちらで自分を仮装したり、警戒したり、絶えず神経を使ったりして、社交そのものが煩わしく、窮屈に感じられるからである。僕は好んで洞窟に棲んでるのではない。むしろ孤独を強いられて居るのである
としている。確かに、僕も交際嫌いとは言えないかもしれない。しかしニーチェやショーペンハウエルが社交的だったら天才と呼ばれることはなかっただろう。孤独者は”天才”か”人間未満”か?というのが最近のテーマ。

そんなわけで「孤独」に関する書籍を買いあさった。
  • 中国文学における孤独感 (岩波文庫)/斯波六郎
  • 孤独―新訳/アンソニー・ストー
  • 孤独な散歩者の夢想 (岩波文庫)/ルソー
  • 孤独と人生 (白水uブックス)/ショーペンハウアー,アルトゥール
  • 「人間嫌い」の言い分 (光文社新書)/長山靖生

最近は本が大好きすぎて困る。就活に関する本も買っているにせよ、Amazonだけで月2万以上買っているのはたまらない。

12.14.2013

インターンの選考会行ってきた。

インターンの選考会へ行ってきた。

いろいろ試験を受けたが、正直言って成績は悪かった。
だいぶぶんはグループワーク。僕のグループは、あまりこういうのに慣れてない印象の人が集まった。ので、やはり良い結果はでなかった。個人で行う課題に対しては、それなりと言ったところ。

大学で長く個人主義的生活をしてきたため、どうもチームで何かを行うとか、他者と競うとか、部屋に押し込めて順番着けられるような感覚に慣れない。他の人は当たり前のようにこなしているのだけど、僕は気持ち悪くてしかたなかった。社風が合わなかったということもあるだろうが・・・。

まあこれが社会に飛び込むってことなのかな。就活が終わる頃には僕もつるつるした原子のような人間になってるのだろうか。

帰りのウォールデンがすごく身にしみた。ひとまず、僕は就活を乗り越えるだろう。しかし、その先を考えると、大きく方向転換した方が良い気もしてくる。

12.13.2013

悪魔は徒党を組むが、神と太陽は常に独りである。

明日はインターンの選考会のようなものを受けに行く。企業から評価される初めての機会だ。正直、少し緊張する。しかし今までの日記を振り返ってみると、自信が沸いてくる。

その自信の源泉は、僕が百人に一人の天才であること。(これはIQ126という結果を得たことによる。1000人に1人か、となるとちょっと怪しい)

僕が百人に2,3人の奇人であること。(ユングの分析を基にしたMBTIという心理テストで、INTJと言われるもっとも珍しい性格という結果が出た。INTJは「完璧主義のアイデアマン」タイプ)奇人であることは必ずしも名誉ではないが、どこかで読んだように「人と違うことは成功の必要条件である」のであれば、少なくとも有利である。

もうひとつ。誕生日花占いでこう言われたこと。「好ききらいがはっきりしているので、なかなか心を開かないほうです。でも、わかってくれる人は必ずいるもの。確実に成功できる人です。」うーん、まさにぼくである。


まあ僕が成功者になることは間違いないが、いつも言っているように、僕は不器用である。自分を殺すか、世界を殺すか、どちらかしかない。そしてまっとうな人間であれば、迷わず世界を殺すだろう。それにしても、孤独という最良の友を持っていること、あるいは道があることーーこれが僕の強みである。


ところで、僕は営業職も受けようと思っている。が、僕は根っからの孤独を愛する人間である。まあ、人間嫌いと言ってもいいが、それだと企業自体に適性がないことになるので、孤独を愛する人間ということにしておく。

(・・・ところで、企業体とは特殊なものであることを認知しておかなければならない。就活とはあくまで企業という巨大な物体が個人を飲み込む過程である。就活に失敗したところで、大した問題ではないということだ。あなたは漫画家にもなれるし、職人にもなれる。冒険家や個人投資家になってもおもしろい。とにかく「組織の歯車となる」ことだけが道とは思わないことである。僕はむしろそうした道を軽蔑している。だからあえて就活に挑戦している。これが僕の根本的な動機である。本当は、ソローのように森の中で独り暮らしたいのだが・・・)

さて、そんな孤独を愛する性格の僕は、果たして営業に向いているのだろうか。と思ったらやはり向いているようだ。以下引用。

売れている人(向いている人)・組織的な行動が嫌いな人=個人的主張が強い人=孤独が好き。
でもズーと一人じゃ寂しい
・会議が嫌いな人=「何をどうしようか」と皆で話し合うより自分で動いて結果を求める。
・じっとしていられない人=フラフラ動き回ることでパワーが出る
・時間に拘束されるのが嫌いな人=自由を求める
・決まりきった仕事をすることが苦痛になる人
・相手の話をじっくりと聞いた後、自分の主張も伝えることが出来る人

僕が営業を受けたい理由は、それがもっとも個人主義的な仕事の場だと感じたからだ。あと移動中本を読めること、と給料。つねに僕は自由でありたいのだ。それで金も貰えるんだからいいよね、とまあそういうことだ。

12.12.2013

40年もひとつの企業に?信じられない!

就活に思い悩む日々である。

昨日某企業の就活応援セミナーを聞いてきたのだが、「40年はたらく会社ですからよく考えるように」と何度か繰り返していた。これを聞くともやもやした。

よく考えてはいけない、と言ってるわけじゃない。一社に40年もいる、ということが信じられない。人の一生を70年としよう。40年といえば人の一生の半分より長いのだ。仮にAさんがダイソーに就職するとして、40年勤めた・・・。その人が死ぬとき、その人は”A”なのか?”ダイソー社員”なのか?

この問題は幼稚だが根深い。昔であれば、商人は商人であり、農民は農民で、刀鍛冶はそれだった。だから商人が死んだ、でもいいのである。しかしダイソー社員はどうだろう。商人とも違う。彼が営業だとして、”営業マン”として死ねるだろうか。いや、”ダイソーの一員”である要素の方が大きいだろう。わかりやすく言えば、彼は"ヤクルトの営業マン"であって、"営業マン"ではないということである。

40年、一企業に勤めるということは、恐ろしいことだと思う。少なくとも僕には耐えられない。マルクスを持ち出すまでもなく、仕事とは本来創造的で楽しいものだ。しかし個人が、組織に飲み込まれるということ!動物以下の事物になりさがることで、人間は奴隷化される。

就活をしていて思うのは、目覚めている人間は採用されないということだ。少なくとも、取れる内定は少ない。しかし、それでいいのだと僕は思う。僕は正しく、僕を採らない企業も正しく、win-winの関係なのだから。

12.10.2013

早起きの神性

早起き世界を制す。

僕はかねてから早起きだった。確か一年間くらい、朝6~7時に起きる生活をしていたと思う。そしてガランとした講義室で、コーヒーとともに絵を描いたり本を読んだりきままにすごしていたのである。

ただ最近は研究が夜まで長引くことも原因なのだが、どうにもサボりがちであって、そんな状態を改善したいと思う。

ソローを読んでみると、こう書いてある。

記憶すべきあらゆる出来事は、朝の時間、朝の大気のなかで生起すると言ってよい。『ヴェーダ』にも、「すべての叡智は朝とともに目覚める」とある。詩や芸術、もっとも美しく記念すべき人間の行動は、この時間にはじまる。
僕も同感である。ショーペンハウエルもこういった。「朝は人生のエキスである」

ついでに僕の書き抜き帳にもこうある。「朝は無意識に近付きもっとも主体的に考えられる」まあショーペンハウエルは書き抜き帳は作るなって言ってたんだけど・・・。

ショーペンハウエルとソローは似てるところがある。厭世的というか、神経質というか。それはつまり潔癖ということか。


 ともかく、朝は重要なものである。明日は早く起きよう。そのためには今日早く寝ることだ。

12.09.2013

就職について考える

就職について考える。

いざ働くとなると労働とはなんぞや?というcrucialな問題にぶちあたる。

考えてみれば、この世には不要な職業が多すぎるのではないか。人間はもっと自分のことは自分ですべきだ。刺身の上にたんぽぽを乗せる、その作業を8時間こなすことで衣食住をまかなう・・・。これはひどく非人間的だ。

自分で家を建て、自分の食料を育て、衣類は自分で直す。そういうシンプルな生き方に憧れる。

僕は金が欲しい。金が欲しいが、同時に若いうちは好き勝手やりたい、とも思う。もっと好き放題本を読んで、いろんなことを経験したいのだ――そしてそれは、金が貯まった後では遅すぎる。

ある医師が語ったこと。私は大学受験に備え、国家試験に備え、結婚に備え、子育てに備え、開業に備えた。私の人生は常に準備していた。

僕も同様だ。


もっと、人間や社会という規範から抜け出して、自由でありたいと思う。僕は僕の脳みその中で生きているのであって、僕が他人に望むことは、放っておいてくれ、これだけだ。

12.06.2013

二重性

姉妹ブログを作ることにした。

この前影像エキシビションの講演で、重要なテーマであった「二重性」をまた考えている。

人間を定義すれば、それは二重性と言ってもいいのかもしれない。
人がAからBに行くことを意志し、実際に到達する。その行為にはそれを達成した喜びとともに、Bへ行ったことの後悔とAへ戻りたい欲望が隠されている。

なぜなら、その分岐点に戻り、「Aにとどまる」という選択肢を選ぶことは永久に不可能だからだ。人間という生き物の一方向性。
そこに人間のもの悲しさがある。主体性というものを持ってしまったがために、全ての決断に一抹の後悔を残さなければならない。いわば人生を「ああすればよかった」で飾ることのみが人間の営みなのである。分岐点で残した後悔は蓄積しやがて架空の自分を作り上げる。人は架空の自分を見まいとする。しかし見まいとすること自体、架空の存在の実在性を深めている。だから、人間は二重性の生き物なのである。

高みに登るほど底辺が恋しくなる。智慧を身につけるほど狂気を望む。ドストエフスキーの「地下牢の手記」。


生きるということは、なんてストレスフルなんだろう!きりすときょうが、ぜんじんるいに「げんざい」をかしたいみがわかる。

そんなわけで、僕はもうひとつのブログを立ち上げるのだ。だいいち、このブログもそろそろ一周年だ。正直、一年もブログを続けたことは僕にとって奇跡だ。

そろそろ、「新しいモノ」が必要な時期だ。新しいものは、全て快い。それにしても、一年の集積!僕は素直に自分を褒めたいと思う。

・・・最近の流れに沿って、就活に関する所感。僕はどこでもやっていける。現世へ降りるのは、たまのことだから。

12.02.2013

SPI模試・エントリーシート模試を受けた話

言語:42/50
非言語:46/50

Tot:88/100

くぁー!9割いかなかったわー!くぁー!
(意外と良い点だったので嬉しい)

このSPIとかいう試験は、「読書好きの理系」が最強であると感じる。あんま勉強してないぞ俺。

言語では単純に知らないことわざなどでミスった。非言語ではケアレスミスが1問、時間のなさに焦ってろくに検討しなかったのが1問だった。まあ平均がどれくらいかはわからないが・・・。


SPIだけでなくESの試験もあった。内容は書かないが以下のようなタイトルにした。
学生時代にがんばったことは?という問には部活動の経験を語った。”静かなリーダーシップを発揮し、組織・人を動かした”

もうひとつ、あなたの強みとそれをどう活かすか?という問い。
"内向性を武器に変えて"

是非はともかく、面接官の目を引くようなタイトルにした。読書経験を活かし、少なくとも下手な自己啓発書よりは上等な文章を書いたつもり。これは採点を待たねば結果はわからない。

しかし初めてまともにESというものを書いたが、時間に押されると意外と書けるものである。あとは面接をきっちりやればどこでも受かるだろう。

12.01.2013

合同説明会に向かっているはずが世田谷美術館にいた

合同説明会に行く予定だったが気分が乗らずやめた。俺の周りの連中が全員行くと言っていたからだ。そんな説明会に行く必要があるだろうか?

・・・いや、あるんだろうけどさ。

そんなわけで空いた時間を利用して世田谷美術館で”影像エキシビション”という企画展を見に行った。写真の作品が主でちょっとわからなかったがしかし胸にぐっとくるものはあった。

着いてすぐに「講演が始まりますー」ということなので聞きに行った。プロジェクトのリーダーである大辻清司さんと、美大教授の方の講演。なかなかおもしろかった。
シュルレアリスムの話、作品を貫く”二重性”の概念、写真はあくまで表象だが、しかしその先がある・・・。その二重性は広告写真でも美術作品と同じように持ち、意識的に用いられるが、それでは広告写真と美術作品の二重性はそれぞれどう異なるのか・・・?

とくに講演中のロートレアモンの言葉が印象に残った。シュルレアリスム作品を見てレアモンはこういった。「手術台の上のこうもり傘とミシンの出会いのように美しい」。

また震災をテーマにした作品について、美大教授の方が「助けたい、近付きたい気持ちはあるが、どうすることもできないような隔絶感、距離感」と表現していたのにひどく共感できた。

美術というものは学術的に、理詰めに語ってもおもしろいものだ、と感じた。難解な言葉がやつぎばやに出てくるので、岡本太郎ちゃんのシンプルな講演に慣れてた僕はちょっと戸惑った。

また講演の観客を見てみると、いかにもーなサブカルな若者たちが多かった。僕の学校では奇抜な連中がいないので、うらやましく思う。



まあそんな感じでした。
ESの下書きを作って、添削してもらわねばならない。
学生時代がんばったこと→部活動でリーダーシップを発揮したこと
どのように会社に貢献するか→高い自主性と継続性をアピール

こんな感じに行こうと思う。無難だな。まあ一癖噛ませるくらいのことはやるつもりだ。



就職に関連して、リクルートスーツを購入した。購入にあたって絶対条件は黒で柄なしであること。安ければ1万円から新品が買えるようだが、なんか気にくわない。激安サイトにありがちなケバケバしい広告が気にくわない。

ヤフオクを見てると、定価20万円程度の中古デザイナースーツが1万5000円で売られていた。なんとなく落札。うーん、届くまでが怖い。

11.30.2013

愚か者はつねに、自分をより高く買う人間を探し続ける

ポール・オースターの「幽霊たち」を読む。

私立探偵のブルーは「ある人物を監視し続けてほしい」という不思議な依頼を受ける。変装した依頼人、監視していても何も目立った行動をしないブラック。ブルーはさまざまな憶測をする。やがて、ブルーはブラックに接触を試みる・・・。


おもしろかったが、よくわからなかった。・・・この感じはたしかにカフカの短編に似ている。

オースター作品の根底にはつねに孤独がつきまとう。孤独。死の仮象であり、生の源泉でもある。とくに書くことの孤独はたびたび記述されている。まあ、、、考察はもう一回読んだら書いてみよう。

それよりも作中で何度かあげられていたソローの「森の生活」。文明を離れ孤独に森で生活を送ったソローの自叙伝である。これはおもしろそうなのでアマゾンでぽちった。

孤独――僕の美しい友人――はさまざまな智慧を与えてくれる。孤独は僕の最大の武器でもある。周囲も本格的に就活のモードに入ってきた。しかしソローの言葉が胸を打つ。

「愚か者はつねに、自分をより高く買う人間を探し続ける」

俺を採らない企業に興味はない。欲しいなら雇え・・・という気持ちでいこう。

11.29.2013

あらたなまくあけ

こんばんは。また思いつくままに書く。

僕はいつだってひとと同じにはなりたくなかったはずである。それがいつの間にか、安逸の世界に逃れようとしていた。

一日12時間の研究と、睡眠、それだけの生活をしばらく送っていた。それだけ"余地のない"生活を送っていると、世界がずいぶん限局されることに気付く。

しかし、視野を狭めることの快さ!世界に過去もなく、未来もない。ただ、今に没入する。世界との一体感。無垢で、清潔で、可能性に満ちた赤子の状態。

それでも、僕は内面世界へのあこがれを捨てなかった。久しぶりに日記に手をつけたとき、僕はこう書いた。「書く、ということ。そのすばらしさ!それ自体創造性に富む」。そのときの僕の気持ちはこうだ。今のようにキーボードを打つのではなく、(それは数バイトのコードを打ち込むことだ)文字を、インクで書くと言うこと。書いた・文字は文字だけにとどまらない。自由に伸びた線や折れ曲がった角度は、そのときの心を表す。そうして魔力を持つ。だから、文字を書くという行為は無限である。(無限、とは創造性である。)

科学の世界に身を浸らせると、あまりに味気ない世界ではないかと思う。すべてが数値で表される。わかりやすい記号に還元される。僕は前から何度も実感させられていたのだが、科学とは世界を見るひとつの手法であって、それ以外ではない。テレビなんかを見ていると、「専門家のなんとかなんとか教授」が崇められているが、彼だって科学の目でしか世界を見られないのだ。科学はそこまですごいもんじゃない。人間に都合のよい、人間に向いた、ものの見方でしかない。

やはり、哲学、そこに答えがあるんじゃないかと思う。


そんなことはどうでもいい。本を読むこと、文章を書くこと。このふたつは人間の根本である。

あたまが悪くてもいい。視野が狭くてもいい。友達がいなくてもいいんだ。本を読んでください。文を書いてください。きっとあなたを豊かにするから。

まてまて。豊かになったところで何があるというのだ?結局人間は死にゆく生き物なのに・・・。


ああ、死よ!死は何もかも台無しにする!

まあ、そんなことはどうでもいい。どうでもいいのだ。うつろいゆくもの。諸行無常。


私は新しく、なる!世を牽引する!不器用な人間は、常に二つの選択を迫られる。自分を殺すか、世界を殺すか!

まことに、世界と自分とは二者択一である。そのくらい、自己は肥大化させねばならない。

ああああああ、こういうとすごく卑賤な感じになる。自己を肥大化、させねば、ならない。ああ、ひどくげせんだ。言葉にすると、すべてが台無しになる。

アメリカで流行っている言葉。「くりえいてぃびてぃ」これも、至って陳腐だ。僕は、大嫌いだ。Creativity、それ自体が大事なことは百も承知だ。しかし、「みなさんCreativityを大事にしましょう」と言うこと、この陳腐さ!醜さ!そのこと自体創造性に欠け、そして創造性を殺す!

内的矛盾。

まあ、どうでもいいのだ。世の中が開けるか、僕が開くか、そのどちらかはわからないが。僕は開く気はあまりないのだから、世の中次第だ。

僕の人生は、そうなっている。

11.23.2013

静かなリーダー、芸術について

今日訴えたいことはふたつ。
"静かなリーダー"が世界を変える。
芸術の目的。

前者。

静かなリーダー。つまり内向的で孤独になりがちな人間が、今まではないがしろにされすぎていた。無用に孤独を恐れ、あるいは”同調的抑圧”に精神を病む人間が多かった。寡黙に物事をこなす人間よりも、上司や部下に取り入る人間の方が重宝された。

しかし、これからは違うだろう。内向的人間の価値が見なおされるだろう。内向的人間は無理に外向的人間を模倣することを辞めて、真の尊厳と自由を得るだろう。

僕自身、孤独に突き進み内向的生活を送ってきたが、この生活は評価されるべきものだと自信を持っていえる。群生をあえて退け、その分自由に生きた。

孤独の重要性は諸富祥彦・明治大学文学部教授も説いている。
「1人の時間を過ごせる力」、言い換えれば「孤独力」は、現代をタフに、しなやかに、クリエイティブに生きるための必須能力で、今からの時代、ますます大切になっていきます。その意味では、ビジネスパーソンに限らず、孤独を愛する人は、人生を充実させるうえで強烈なアドバンテージを持っていると言っていい。
(しかし大学教授と一般的社会人では孤独の効果は大きく変わってくると思う。大学教授ほど孤独が許される職業もない・・・。)

また内向的人間は尊厳を取り戻すべき、とスーザンケインが力のこもったスピーチを行っている

あるいはラ・ブリュイエールが「われわれの悩みはすべて、一人でいられないことからもたされる。」と言ったように、隠者のような生活は意外と快適なものである。

後者。

芸術にはふたつの要素があると僕は思う。一つはパトス、もう一つはテクニックだ。

この二つのバランスが重要である。パトスだけあっても、人にはなかなか伝わらない。駄作扱いされるのがオチだ(よほど目の良い人には、価値がわかるだろうが)。しかしテクニックだけあってもパトスがなければただの技術屋だ。何も通らない高速道路のようなものである。

僕の敬愛する岡本太郎ちゃんはこういった。「うまくあってはならない。美しくあってはならない。」太郎ちゃんはパトスを大事にせよと言っているのだ。テクニックに拘泥して、けっきょくパトスをダメにしてしまうくらいなら、最初からへたくそな絵を描けということだ。

(ある意味で、制限の制定である――とか言うと太郎先生に怒られそうであるが――芸術は何からも自由であると思われがちだが、現代芸術家のフィル・ハンセンはこう言っている。「創造性をとりもどすためには枠から出るのではなく、枠を取り戻さねば」「究極の制約だと思っていたものは究極の自由だった」「限界を創造性の源とする」下手に描け、と言われたとき人はその創造力を無限に広げることができるのではないか。「上手く描け」という言葉のつまらなさよ!

孤独な芸術家と聞いて真っ先に浮かぶのはゴッホである。彼にしても「最近の画家は形式ばかりにとらわれていかん。」というようなことをベルナールに洩らしていた。

以上ふたつでした。

このふたつ、なんだか繋がるような気もする。つまり外向的人間、内向的人間と、パトスとテクニック。他者に属するか、自己
に属するか・・・。

まあいいや寝よう。

11.21.2013

人は夜適応する

僕は以前、ポールオースター「孤独の発明」からこの文章を引用した。

”生涯に渡って、父はどこか別のところにいた。こことそこのあいだのどこかに。ここにいることはけっしてなかった。そこにいることもけっしてなかった。”

ここにいず、そこにいなかったとはどういうことか?"ここ"に息子はいる。父が"そこ"にいるとき、息子もいる。それでは息子がいないとき、父親は存在したのだ。孤独の中でこそ、父親は生きていたのだ。

そんな父親はどんな末路を?息子にも妻にも、心を通わさず、自己の中で全てが完結していた父親。彼は妻と離婚し、15年間1人で過ごした。

その孤独はどんな色を持っていただろうか?

話は大きく飛ぶ。僕の大学の就活セミナーの講師はこう言っていた。「私は友達を何百人と作るのが夢です。」と。よろしい。

そんな生き方を夢見る人にとっては、”父”の生き方はまったく理解できないものだろう。

しかし”父”は生きていたのだ!その15年間、最大限に。僕は唐突にこう思う。人間とはなんだろうか?

私には、セミナーの講師も悲しい。あまりに浅いから。しかしやはり、父の方が悲しいのだ。それはあまりに深いからだろう。





本当の自己を書の中に見つけたとき、人はむせび泣くしかない。それが孤独の作用である。


そして人は夜適応する。寝る。

11.18.2013

「孤独の発明」について

孤独の発明、という本が薦められていたので読んだ。

主人公が父の死の知らせを受ける。父の遺品を整理していくうちに、父という人間、そして生と死を理解していく・・・。

そんな話だ。主人公にとって、父親は理解しがたいものだった。「自分の中で完結」しており、「世界の与えてくれるものに、見向きもしなかった」父。

僕はこの本を読んで、「俺が書かれているぞ!」と呻いてしまった。孤独で変人、世界に心を閉ざした父親。息子や妻にも他人行儀だった父親と、自分が重なってしかたなかった。
生涯に渡って、父はどこか別のところにいた。こことそこのあいだのどこかに。ここにいることはけっしてなかった。そこにいることもけっしてなかった。
とくにこのくだりを読んで、ひどく共感してしまった。僕だ。自分という人間をじっくり観察され、メスのような鋭さで描かれているようだった。

 まだ読み切ってないのでこれくらいにしよう。




最近は一日8~12時間くらい寝ている。このくらい寝た方が調子がよい。TEDで神経科学者のラッセル・フォスターが言っていたのだが、目覚ましで起きるのはよろしくないらしい。自然に起きたときが適当な睡眠時間のようだ。それを実践している。
「良い眠りは集中力決断力創造性社会性健康を高める」のであって、「睡眠障害は精神障害の前兆である」のだから、よく「寝て」、そしてよく「起きる」ことほど現代で重要なことはないだろう。
ラッセルの話の中で、興味深かったのは、睡眠不足の場合、ひとはカフェインをとる。夜になると眠れないので酒を飲む。神経がいらだつのでタバコを吸う。そして余計に眠れなくなる。負のサイクルだ。

僕はさっき言ったように、「起きている」ことも重要だと思う。
ニーチェの言ったように、「われわれの課題は目覚めていることに他ならない。」のだ。十分に目覚めていないのだから、眠りも浅くなる。

世の大半の人は、寝ているときに起きていて、起きているときに寝ているようだ。眠りと覚醒の追求。


おやすみなさい。

11.15.2013

学徒兵の死とは

だれかが「玉砕は愚行だった」と言った。しかし僕はそうは思わない。玉砕を命令した方は愚かかもしれないが、玉砕された方は高潔な魂を保っていた――


僕は研究の合間に「わだつみの声」を読む。戦死した若者(ほぼ学徒兵)の遺書をまとめた書である。
例えば試薬が十分に溶解しないとき、試薬が常温に戻るのを待つとき、エバポレーターを回しているとき・・・。わだつみの声は概ね2~5ページ程度のものが多いから、さくっと読むには十分だ。

それでいて、その数ページにひとひとり分の死と生が、魂が宿っているというのだから・・・。おもしろくないわけがない。

おもしろい、と評価するのが不適切だろうか。本書は「戦争は嫌なものだった」とため息をつくための書だろうか。本来の目的はそうかもしれない。しかし僕はこう思いながら読みたい。「彼らは”生きて”いた!」「すばらしい人間だった!」と。

彼らについて言えるのは、どこまでも高潔な人間ということである。あれだけ徹底した集団主義で、汚いものを押しつけられる状況、その状況においてさえ、いやその状況だからこそ、彼らは高潔を貫いた。死を前にしての透明。純潔。

彼らは死というものに本気で立ち向かった。その結果、彼らは死を超越した。死を超越するということは、どういうことだろうか?それは「いつ/どこで/どんな理由で/どのように・死んでもいい」と思うことである。死を避けることでもなく、死に向かうことでもない。ただ生の中に死を包括すること、そのことで彼らは死を超越した。死というどうしよもなくまとわりつく恐怖を、彼らは超越した。

だから、彼らは瞬間に輝いていたのである。歴史に対して垂直に立つ・・・。

だれかがこんなことを言った。「戦争とは甘美なものである。だから人間は何千年も戦争しているのだ」。僕は何も言うまい。

僕は戦争は嫌いだ。自由や平等も奪われる状況なんてまっぴらごめんである。しかしドラッグのような魅力(それが破滅に導くとわかっていながら、抗えないほどの魅力)は戦争から感じる。

そうでもしないと――生きてる実感を味わうのは難しいからだ。






そうじゃないか!?なんで生きてる!?
金、幸せのため?僕らは、絶対に答えることができない!そこに、絶対的な怒りがある!

だから、僕らは怒れる動物なのだ。
死を認識していながら、死ぬしかない生き物!
無数の平行した悲劇の連続!




と、取り乱した・・・。

心理テストを受けているとこんな質問があった。
死ぬならどう死ぬのが良い?
・家族に見守られながら大往生
・病院で病死
・事故死

最後にあったのは、「自殺」。僕は断然自殺であった。これはけっこう別れるらしい。諸君はどうだろうか?

11.14.2013

IQ126

IQが126だった。

なんとはなしに試験を受けてみた結果である。”IQtest”でぐぐっていちばん上に出る試験。たまたまかもしれないが、意外と良い結果だったのでいちにち有頂天であった。

このIQ126は、被験者全体の、上位0.4%ということになる。1000人いたら、トップ4人に僕がいるわけだ。えっへん。

ちなみにこの数字はサンプラザ中野と同値であり、ファンキーな物理天才・ファインマンより上であり、そして中田英寿に少し劣るくらいの位置づけである。(ファインマンなぜ低いのか?適当に試験うけただろ!)

このIQという数字は、収入やなんかと相関するらしい。僕の当面の目標は「年収2000万円」であり、2000万円貰っているのは人口の0.6%ということを考えると、このIQテストの結果は好ましい未来を示している。

IQが20違うと話が噛み合わないというスレが2chで人気だったようだが、それが本当であれば僕は普通の人と仲良くなれないことになる。確かに僕は、研究室の連中がぞろぞろと飯を食いに行く中、ひとりおにぎりを囓りながら、放送大学を聞いていた。たぶんただのコミュ障だと思われていて、だれも僕が賢いと思ったことはないだろうが。

いろいろ調べてみて、筒井御大の偉大さにびびる。彼のIQは170を軽く越えていたとか。しかし、彼の小説にそこまで知性というものは感じなかった(もちろん大天才と比較してである)。それよりもどこか間の抜けた暖かさがある・・・。(広告業で大衆受けの技能を身につけたのかもしれないが)

IQと文豪・・・と聞いて思い出すのは中島らもである。灘中に上から8番の成績で入学した彼だが、アルコールにひたりにひたっていた中年時代には、IQ80以下まで落ちていたという。

筒井御大も酒飲みであるから、アルコールで脳みそが縮んだのかもしれない。一日ワイン二杯で脳みそは萎縮するとタイムズが言っていた。しかしそれでいいのかもしれない。丸くなった天才はある意味最強ではないか。みな幸せな人生を歩んでいる気がする。

まあ、僕も天才だったということさな!絲山秋子は「天才宣言」を出したけど、僕にそんなものは必要ない。頭脳が僕が天才であることを証明してくれたようだ。わはは。

11.13.2013

日々の感動の充足

今日はGD演習二回目であった。

一度目と大して変わらなかった。やはり人前で話すことは苦手である。非常に優秀そうな少年がおりリーダーシップを盛んに発揮していた。ああいう人間が大企業へ行くのかと思う。反面「ケッ優等生が」とも思う。ゲスである。

就活というのは僕にとって戦いである。僕は反社会的人間である。社会に認められる、必要とされる人間になろうというのではない。社会に俺をドンと認めさせるのだ。



人間がやる気を出すことは簡単である。「人間の本性の最深の核心は、人格の最深の層は、人間の動物的本性の基礎は、もともと積極的なものである。」とカール・ロジャースが言っていた。抑圧や恐怖をちょっとなくせば、自然とやる気で溢れてくるものなのだ。

僕は就活なんてする気がなかった。しかし一端就活しようと思ったら、どんどんエネルギーが沸いてくる。簡単な軌道修正にのみ理性が必要であり、あとは本能の赴くままである。これが人間の正しい姿だ。

回転するコマは自立する。良き人間は常に透明である。汚れなき精神。

私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ。異邦人より




11.12.2013

本棚を見ればその人がわかる

自己分析()の一環として僕に影響を与えた人物のことを書く。

僕の父親は過剰なまでの放任主義者であり、しかも出張しまくりだったので模倣すべき社会的モデルはすべて本から得ていた。とは言っても今思い返すと大した本は読んでなかった。


小学生のときは星新一と手塚治虫にはまっていた。なぜ少年漫画ではなく手塚なのか?あのときから俺は権威主義だったのかもしれない。それにしても、何もわからないのにカフカの変身を読んでいた嫌なガキだった。

中学生のときは筒井康隆にはまっていた。

高校生のときは筒井康隆にはまっていた。

浪人時代、webでiwatamという賢人に出会う。多大な影響を受ける。強いて書籍をあげるなら「議論のしかた」か。

大学1年、何も読まず。不毛の年だった。イアンマキューアンを買うが結局読まず本棚の埃よ。

大学2年にて、キングスレイ・ウォード「ビジネスマンの父より息子への30通の手紙」をという本を熱心に読む。すばらしい本でどこへ行くにも持ち歩いたのでボロっちくなる。3冊買った。
同書で紹介されたV・E・フランクルという心理学者に興味を持つ。
しかし近所では売ってなく同じ二次大戦世代のユダ公エーリッヒ・フロムを読む。感銘を受ける。(あと図書館で偶然出会ったJBハリスの「僕は日本兵だった」が最高に良かった。)
西洋哲学に興味を持ち、ニーチェ・カントの類を読むが挫折。
ショーペンハウエルは読みやすいと言われ「読書について」と「自殺について」を読む。なかなか良かったがもうちょっとエネルギッシュなものが読みたくなりニーチェの「善悪の彼岸」を読む。非常に!熱心に読んだ。「ツァラトゥストラ」も買う。読み進めるのがもったいない・・・と僕の日記に書いてある。ニーチェほど高揚感を出すのがうまい作家はいないわ。
サルトルを漫然と読んでいたらなにやらネットで評判だったミランクンデラに嵌まる。が、正直チャールズブコウスキーの方が好きだった。ちなみにサルトルの弟分的な扱いを受けるカミュも読んだがサルトルの何倍か小説がうまかった。すごく好き。
ツイッターの名言botでびびっとくるものがあった岡本太郎であった。書籍を買う僕、美術館へいく僕。どっぷり岡本太郎にはまっていくのだった。

日本の作家では漱石太宰三島安部安吾あたりか。太宰などは何度も読み返して素人以下の分析をしてみたりした。三島はホモなので深入りしたくなかったが蠱惑的な魅力はあった。漱石含めてこいつらの本は今にも消え入りそうなファンタジーっぽさがあるが、反対に安部と安吾は実体を伴った質量のある作品を生み出してくれるのでありがたかった。
あと新渡戸稲造の武士道も好きだった新渡戸よりもその母親の「日本はおろか世界に名を上候様と楽しみ居候」の発言が最高にCOOL。

まあそんな感じ。読まれることはないだろうし、読み返すことはないだろう。ベーコンの言ったように、「書くことは人を確かにする」のだから、書くことに意義がある、というような。

死すべき事物に変えて不滅の誉れを。

ある業界の闇を描いた本を読んでいると、ハッとする部分があった。

「レーガン政権以前は、巨大な富といえばどこかしらいかがわしいものだと受け止められていた。富を選ぶか、名誉を選ぶか、そのどちらかだった。
(中略)
それがレーガン政権時代から1990年代にかけて、様子が変わってきたのだった。富めることは正しいことであるだけでなく、何か名誉なことだといった調子になってきた。」

金を持つことが正しいわけではない。そんな当たり前の価値観を、いつのまにやらなくしかけていたようだ。

確かに本田宗一郎や鈴木修はかっこいい。ジョブズの哲学はちょっと憧れる。でも東電の社長なんかを見ていると、いわゆる「勝ち組」でもどうしようもない人間はたくさんいるのだと気付く。

最近「プア充」という言葉が流行りかけている。貧乏でも生活を充実させエンジョイする人種である。僕はこの言葉は流行ると思う。身の回りで「金はいらないから、自由と時間が欲しい」という人が増えてきているからだ。

こうした人種のあらわれた背景に、やはり3.11があるのだと思う。どうひっくり返ったって、金のために国民を放射能で汚染する必要などなかったはずだ。3.11で何が変わっただろうか?政治も東電も変わらなかった。ただ汚染された土地と人間が残っただけだ。「うち、もう子ども産めん体やし」と絶望的な笑みを浮かべたのは福島の女子高生である。このうんざりする状況に、若い人間から転換していっているのだと思う。金より大事にすべき何かがあるはずだ。
ヘラクレイトスの言ったように、最も優れた人々は、あらゆるものを犠牲にしても、たった1つのものを選ぶ。死すべき事物に変えて不滅の誉れを。


盲目的に金を追求する時代でもなくなった。そういった人間の方が、社会にとって好ましいのだが。しかし、社会の要求する収まりの良い原子のような人間は、今後も減り続けるだろう。

最近の若者は出世欲がない、とよく言われる。しかしだれもかれもが出世を目指す時代の方が異常じゃないか。下っ端でのんびりする方が向いてる人もいる。

まあ、僕はきっと将来金持ちにはなるだろう。しかし、清潔だけは守りたい。「清潔は、貧乏人に許された唯一の贅沢である」と言う。僕の部屋はともかく、生活自体は非常に清潔である。少なくとも鈴木大拙の言ったような「無知と官能の泥のなかにうごめく生ける屍」ではない。

金持ちになっても、この清潔さを維持する。これが僕の目標であり、金というものを超越するためのひとつの手段である。

11.10.2013

境界を越えろ!初ナンパ

初ナンパに行ってきました。

就活においてもっとも重要なことは?
自分を売り出すことであります。
そうして、そのスキルがもっとも直接的に影響する場は?ナンパなんですねー。

ナンパ。とは、身近で遠い出来事であります。
街で見かけたかわいい女の子。趣味のあいそうな女の子。こちらをちらっと見て、気のありげな表情をする女の子。

普通、僕らはこれらを抑圧し、見過ごしてしまうんです。少しの好奇心もありながら、声をかけたら変に思われる。周囲の目もある。先に急がなきゃ、と。きっとそれで逃した異性は星の数ほどでしょう!興味を持った人に声をかけるか、かけないかだけの話なのです。問題はそれだけ。だから、近くて遠い出来事なのです。

「ナンパ」なんて、ちゃらい人間のやることだ、自分はそんなことしたくない・・・という人もいるかもしれない。しかし、日本人というのは本当に奥手というか、人生を楽しむ術を知らないなと思うのです。

日本以外の国では、郵便局で列が並んだら世間話をします。「今日は暑いですね」だのなんだの。海外では普通のことなのです。例えば僕が行ったインドでは、電車で相席した他人とトランプ遊びを始めたりします(僕まで混じるはめに)!岡本太郎は、フランス留学中では、カフェでふと目が合った、そんな女とじっと見つめ合い、そのまま恋に落ちたエピソードを話してます。

偶然的な恋はすばらしいものです。サルトルも言ったように、恋には必然的なものと偶然的なものがあるんです。なにも必然的名恋に固執する必要はない。偶然的恋を得ることで、恋は二倍に楽しくなります。

ナンパとは、単に一歩踏み越えることなんです。でも、ナンパして嫌われたら・・・なんて考える必要はありません。インド哲学の書バガヴァッド・ギーターでもこう書かれています。「成功と不成功を同じものとして行動せよ」。失敗には成功と同じか、それ以上の恵みがあります。岡本太郎も「人間は、失敗しなくてはいけない」と言っています。そして、ただひとつの悪は、何もしないことなのです。



前ふりが非常に長くなった!今日は僕は実際にナンパしてみたのである。いざ女性を前にすると、非常に難しいものであることがわかる・・・!僕も3時間ほどは、うろうろしているだけだった。しかしなんとか声をかけることができた。

一人目。だるそうな少女。ナンパされすぎなのか?めんどくさそーにラインのIDを教えてくれた。

二人目。アクティブなオタク系少女。ラインに加えてメルアドまで教えてくれた。とても気が合った。最後は手を振って別れた。

三人目。サブカル系少女。ラインのIDを聞こうとしたが、ちょっと怯えさせてしまった。いちばん本命だったが失敗した。

とりあえずアドレスを聞く段階では、66.7%の成功率だった!まあまあじゃないか。しかし、これからどうしようという思いもある。声をかけやすかっただけで、そこまで好きというわけではないからだ・・・。(最悪な男だろうか?)

ひとまず連絡をしてみて、様子を見ようか。

口づけの後の無言のひと時の中で二つの魂が一つになるのを体験したことのない者はいないと思う。この束の間の時を絶えず求めなければならない。愛の沈黙だけが人間の力の及ぶただ一つの沈黙であり、それだけが人間の側の沈黙なのだから。
カーライル。

11.09.2013

世に虐げられる内向的人間どもよ

僕は内向的な性格である。集団は苦手だし、ひとりの時間をとても大事に(cherish)する。

一般に内向的であることはマイナスにとらわれがちのようだ。例えば何かの事件の容疑者で、「陽気で友達の多い人物」「暗くて何を考えているのかわからない人物」の二人だったら圧倒的に後者が疑われると思う。
(これはある意味事実だと思う。内向的人間の方が法を逸脱する傾向が強い。善悪の問題ではない)

また、僕がちょうど就活中だから書くが、どうも大企業に入る人間も外向性というのは重要になるようである(一般的に。研究職はどうなんだろう?)。採用選考の過程でグループディスカッションというものがあるのが、その例だろう。

ついでに言えばモテるのも外向的人間である。悔しいが黙々と本を読む人間よりは「うぇーい!」とバカ話をするアホ(いまさら言うまでもないがリア充は外向的である)の方が圧・倒・的に!モテる。

社会的に見て、外向的人間は良いモデルとして扱われることが多い。素直で、裏表がなく、調和的である。リーダーシップとおべんちゃらに長け、組織の中で上手く立ち回る。

内向的人間はどうか?自分のことしか考えず、飲み会にも来ない、コミュ障、会話ができない、”変”な奴・・・。



しかああああああし!

内向的人間も、外向的人間も等しく社会を構成する人間である。どうも最近の流れとして、内向的人間があまりに軽視されているようだ!!

内向的人間は飲み会は嫌いだ。騒ぐことは嫌いだ。派手なスポーツは嫌いだ。しかし、静かに本を読んだり、ジッと瞑想などしてると、それだけで野球の9回裏逆転ホームラン級のクライマックスを感じるものだ。そういう人間なのである。

それは外向的人間には理解しがたいことかもしれない。しかし社交好きで消費好きな人間こそ内向的人間には理解できないのだからおあいこだ。

ではなぜ外向的人間ばかり受け入れられ、内向的人間は「非社会的だ」と蔑視されるのか?

僕はこれは「管理しやすいから」だと考える。外向的人間は人の機微や表情を読み取ることに非常に長けているが、反面一歩引いて物事の根底を流れる真実にきづかないことが多いのだ。

内向的人間は常に集団から離れ、物事を分析している。こういう人間は、為政者、あるいは管理徹底と合理化の進んだ社会にとっては驚異となりかねない(陰謀論ではない。マルクーゼの精緻な考察からの発想である)。

そもそも内向的人間が精神病や犯罪に陥りやすいのは、”協調的であれ”と常に圧力をかけられているからではないか。

少し前、学生の「便所飯」という言葉が流行した。「ひとりでご飯を食べるのが恥ずかしいから、トイレの大便器に座って弁当を食べる」というのである!僕はこれは全くの狂気だと思う!

そういった学生を指して自意識過剰だ、という意見もあったが、それは物事の本質を指していない。ひとりで飯を食うことが恥ずかしいと思うことに問題がある。

たしかに、である。確かに大学の交友関係というのは良いものだ。親元を離れた人間が多く、学生グループは家族的に群生す
る。そのつながりは強固であり、甘美なものであると思う。ぼっち飯が「家族のいない孤児」「かわいそうな子」的な扱いを受けるのも納得できる。

しかしそういった仮想家族を必要としない学生もいるにはいるのだ。家族的なるものの絶対的な肯定!自立と自主性の否定!内向的人間は、その圧力に恐怖する。そして外向的人間を目指し、「脱オタ」だの「リア充化」だの、くだらないことに終始する。結果、便所で飯を食べたり、精神病を引き起こすのだ。引きこもりだの鬱病が内向的人間に非常に多いのもこれによる。

(ところで、「リア充」という言葉が流行ったのは外向的人間にとって手厳しいカウンターではなかったか。最初は外向的人間を指す言葉だったが、「リアルが充実」の意味は、懸命にスケジュール帳の予定を埋めることではなくなっていった。徐々に「真に人間的に優れた人」を意味するようになったのだ)

話を戻す。「便所飯」のような事実が示すことは、内向的人間が阻害され、社会からの抑圧を常に感じているということだ。これらはまったく不当なものである。内向的人間は孤独を好み(注意すべきは、決して恐怖から孤独に逃れているわけではない)、孤独から独創的なアイディアを得る。彼らを無理に引っぱりだす必要はない。そして、外向的人間と内向的人間をフェアに扱って欲しいのだ。彼らにはそれぞれ長所があって、短所がある。内向的人間を、無理に外向的人間に矯正しようとするな。左利きを右利きに矯正するようなもので、あとでこっぴどい結果になる!

そして内向的人間よ、誇りを持て。
モーゼ、イエス、仏陀、ムハンマド。これ全て内向的な人間である。孤独に浸り、内面世界からアイデアを汲みとろう。

  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
           O 。
                 , ─ヽ
________    /,/\ヾ\   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|__|__|__|_   __((´∀`\ )< というお話だったのサ
|_|__|__|__ /ノへゝ/'''  )ヽ  \_________
||__|        | | \´-`) / 丿/
|_|_| 从.从从  | \__ ̄ ̄⊂|丿/
|__|| 从人人从. | /\__/::::::|||
|_|_|///ヽヾ\  /   ::::::::::::ゝ/||
────────(~~ヽ::::::::::::|/        = 完 =

11.08.2013

カキ食うトゥナイト

昨日GDの演習だった。

みんなちゃんとやってて偉いなーと思った。「その発言はどーなの」とか「その段取りはいけないなー」とかぼんやりケチつけながら取り組みました。

いざ自分の発言となるとなかなかうまくいかないんだけどな!(僕は人前での発表が極端に苦手である。入念に準備してやっとまともにできる)

しかしGDだったら、基本姿勢は傍観者で良いのだとも思う。協調性、笑顔、まったりな感じで。さくっと鋭い意見言って貢献できりゃいいのだろう。

演習でも熱心に司会をやりたがる人がいて、かなりテキパキとこなしていたのだけど、どうしてもアラも目立ってしまっている。まあ評価者がどう評価するかはわからないが、「足きり」としてのGDであれば、減点方式だろう。目立たない方が得策だ。

とりあえず来週も受けることにして、GDはいいかなと思う。慣れの問題だ。


今日は久しぶりに「チーズはどこへ消えた」を読んだ。長ったらしい話が続くが要は変化を怖がるなってことだ。

あとナポレオンヒルの「巨富を築く13の条件」をぱらぱら読み返してたら「98%の人間が明確な目標を持たないがために失敗している」とか書いてあった。つまり明確な目標を持った時点で50人に1人の逸材となれるわけだ。

僕は以前年収2000万円を目標にすると言ったが、そんなことでもいいのだと思う。

ゆっくり本を読む時間が欲しい。
あとメルロポンティとマルクーゼを読みたいのだけど!適当に時間見つけていけば一ヶ月で読めるかなー。

11.06.2013

岡本太郎美術館へいっとりました

川崎にある岡本太郎美術館へ行ってきた。

行って良かった。インスピレーションが高まります。絵画というのはその主張、その生き様がもっとも直截に伝わってくるのでよい。

初めて同美術館へ行ったときは、最初の絵画を見て大泣きしてしまった(クリマ、という原色を大胆に使った抽象画だった)。しかし確か6度目になる今回は、ふーんという感じで、でもやっぱり最後帰るときに、ほろっときた。彼の人間愛ってのはとても強烈であり、それでいて繊細なのである。

岡本太郎は何度もこう言っている、人間は怒らねばならない・・・。

「芸術は爆発だ!」と彼は言った。人は敗けたり理不尽な扱いを受けると怒る。この怒りのエネルギーは、透明な爆発となって宇宙全体に広がる・・・。そこにこそ芸術性があるのであり、生肯定の源泉なのだとそんなことを言っていた。

ここからは僕の解釈なのだが・・・。そもそも、人生とは理不尽なものなんである。人間というのは生まれたときから敗北している。死を運命づけられているからだ。決して越えられない壁。

人間にできることと言えば、喜ぶことでも、悲しむことでもない。喜びがあるところに、死からの逃避があるし、悲しむことには死への屈服がある。

死と向き合い、全人的に死と真っ向から対決する。そこにものすごい爆発が生まれるのではないか、と僕はそう思う。死と対峙したとき、人間の感情は、怒りで塗りたくられる。その純度の高さ。美しさ。
おれ
もう先生きらいじゃ
おれ
きょう 目だまとびでるぐらい
はらがたったぞ
おれ
となりの子に
しんせつにおしえてやっていたんやぞ
おれ
よそみなんかしていなかったぞ
先生でも手ついてあやまれ
「しんじちゃん かんにんしてください」
といってあやまれ
小学二年生の児童の「先生」という詩である。「この子どもの怒りを、美しさとしてとらえることができる人がいますか?」と彼は言った(太郎ちゃんファンである僕はもうそのまっすぐで透明な美しさにくらくらしてしまったのだけれど)。

怒りとは人間のもっとも根源的な感情だ。死から逃れることができず、そしてそれを認識しているという悲劇が全人間のおかれた状況なのである。人間は、死を認識したときから怒れる存在なのだ。

ホイジンガは人間を「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」と定義したが、正確には「怒れる人」である。怒りの感情は全てを包括するのであって、怒りの性質のない遊びもまた空虚なものなのである。

まあ!そんなことは良い。話すと止まらない。明日は初のグルディスである。それでは。

11.05.2013

自由ということ

僕は何度も説いている。自由になるために就活をがんばるのだと。

今日なんとはなしにH・マルクーゼを読んでいたら、こんな言葉があった。

「経済的自由は、経済からのーー経済的な諸力と諸関係によって統制されている状態からのーー自由、すなわち日々の生存競争からの自由、生活費を稼がなければいけない状態からの自由を指すことになるだろう。」

経済的自由という言葉は、経済で統制されている世界への参入のあり方を意味するものではなくなった。経済「から」の自由を得てこそ、人は初めて「経済的自由」を得ることができる。
これは僕が以前言ったとおりである。守銭奴も、貧乏人も等しく不自由なのだと・・・。

(社会不適合気味な)僕があえて社会に参画し、金を稼ごうという第一のモチベーションはこれである。

間違いなく、僕らは金を得るために社会に飛び出す。明日食うパンを得る金と、パンを食う金を得たという事実が必要なのだ。それは主体的行動というよりは、餓えと外聞という社会的抑圧が原因に近い(そういえばシモーヌヴェーユまだ読んでないや)。マルクスは労働は喜びだと言ったが、これは強迫的労働には当てはまらない。

マルクーゼはまたこうも言っている。

「もし個人が、市場において、もはや自由な経済主体としての実を示すように強制されないことになるなら、その種の自由の消失は、文明の最大の成果のひとつになるだろう」
人が経済から自由になるとき、まったく新しい進歩的な価値観が生まれる。・・・すでにそういった流れはあると思う。出世欲にかられない若者。高級車もマイホームもいらない、と宣言する友人たちを見ると経済的自由への潜在的な傾向はあるのかなと思う。




金、金、金。まったく小汚い踊り子よ。うらぶれた道化よ。
お前があるために、人は生命をすり減らす。
ならば私は、こう言おう。その足取りが見えぬ高みへとゆこう!



というわけで僕は大企業を志望するわけである。経済からの脱出を目的として経済へ飛び込むのだ。

僕は何度言っただろう?軽蔑するものは、乗り越えなければならない!そしてそれに付け加える。それが自由というものだから。

「迷いと疑惑は行動によってのみ晴れる。」

無理そうだけど決して無理ではないラインを目標に

最近酒に飲まれまくって申し訳ない。変なことばっかり書いている。

しかしこういう感情の爆発をぶちまけたようなことを書いていると、自分の性格が出るものだと思う。不器用でクソマジメすぎる。嫌なこと言われりゃ、「あいつムカツク」で済ませればいいものを。

ところでこの三連休をいかに過ごしたかと言えば、バイクでうろちょろし、読書し、ネットし、という程度である。就職に関する活動は、OBの講演を聴いた程度である。まあそんなもんでもいいのかもしれない。

僕の周りを見ていると、就活に本腰を入れる人ってあまりいない。僕だけが空回りしてるような雰囲気である。これがちょっと疑問。

僕の大学はそれなりの有名校であり、がんばれば超一流企業も狙えなくはないラインにある。なら故郷に錦を飾るというわけではないにせよ、ちょっとやる気を出してみようとはならんのかね。
どっかの誰かが言ったように、「もっと大きくなれるのに、なんと小さなポテトであることよ!」と叫びたい気持ちだ。

大体、何にでも本気で取り組まなきゃいけない。「なるようになる」じゃダメなんだよ。たくさん失敗して、本気で悔しがって、成功しなきゃ。なんでそういう「無理そうだけど絶対無理というわけではない」高い目標設定ができないかなー。漫然と生きてもつまらないだろう。

フロムが言ったように、「自分が人間であること、希望もあれば失望もあり、悲しみや恐れ、愛への憧れや、無と孤立の恐怖もあること、を忘れずに」いなければならないし、目覚めていなければ「いかに多くの人間が『蹶起した』ときにもうその四肢が麻痺し、その精神がすでに鈍重になりすぎているのを見いだして愕然とすることか!」とニーチェが言ったように、恐ろしい絶望に直面しなければならなくなる。

本気で生に直面して、自分の歴史を直視して生きていかなきゃね。うさん臭いこと言って今日はおしまい。



11.03.2013

勝者への道は、孤独への道だと君が言うのなら

勝者への道は、孤独への道だと君が言うのなら。僕は恐れずその道を進もう。僕はもとより孤独だから。

勝利への道は、愚者の道だと君が言うのなら。僕は迷わずその道を進もう。きっとそれは愚者にしか進めぬ道だから。

ありきたりの嘲笑には飽き飽きしている。
それにしても、君のような聡明なひとからそんな言葉をいただくとは。

しかし、僕はひとつ気付いたことがある。僕には僕の芯があって、それに合わない人もいるということ。
おおよそ、世界を見ようという人・・・。僕と芯を同じくする人は、過去に一度しか見たことがない。

もがいて、こじあけて、強引に進む人。その彼も、いかに残酷であったことか!そうして、きちがいじみていたことか。

僕も、今しばらくは利己的でいて良いと感じる。僕は僕の可能性を信じるしかないのだと思う。成功者は、ともすれば笑われがちだ。しかし、信じる者以外に、誰が為しえよう!

僕は、旧来の友人に否定されても、前へ進み続ける。迷うことなく。その決心の透明さだけは疑うな!

僕の足跡は、その土中の生態系を壊すかもしれない。しかし、嘆くな、虫けらどもよ!そこには目の霞むような目標があるのだから!




信頼する友を、乗り越えてこそ、男。

大学の嫌な奴は、社会に出たら必ず再び会う。

人生の朝に目覚めるとは、この生が闘いであると知ることである。

強迫的行動は全て下賤である。全て、恐怖が見えなくする。

真理は常に少数派にある。

11.02.2013

ブログというかevernote的使い方になってもうしわけない。


この楽しい時間も全ては過去になるのだ。

どんな楽しい時間であっても、そう思う気持ちが心の奥そこで渦巻く。
姓名判断で有名な祖母を持つと言った彼女はなんと言ったか。

賢いので金は貯まる。感情はおさえるが、中で激しい波が渦巻く。

10.31.2013

ロジカルプレゼンテーション

ロジカルプレゼンテーションという本を読んだ。

面接とはプレゼンである。だから、プレゼン力は就活する上でどうしても必要になる。

なんとはなしに買ってみた本だけど、なかなかスマートな本で感心。

以下、メモったこと書く。


  • うまく紙に落とせるまで、考えに考え抜くことによって、自らの頭は鍛えられる。
  • 「うまく話せない」のは、「そもそも何を話すべきかがわかっていない」から
  • シンプルな提案を作ることが大切
  • MECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)=「相互に排他的な項目」による「完全な全体集合」)
  • 縦の理論と横の理論
  • 話になっとくしない場合の人の反応は二つに限られる。「本当にそうなの?」「それだけなの?」
  • 「六次元で発想する」。時の流れで一次元、情報・電気・取引など目に見えないものの流れで一次元、人間の気持ちや習慣で一次元。
  • 論理思考力はビジネス界でプロフェッショナルな存在となるための最重要スキルである
  • コミュニケーションの目的を理解するには「話題の内容」よりも「議論のスタンスのとり方」、「相手の要望の理解」が必要
  • 議論のスタンスとは、「何か意志判断をしてもらいたい」「単に聞いてもらいたいだけ」のどちらかである。
  • 自分の提案に不安がある場合は、本筋とはあまり関係ない情報を詰め込んでしまう
  • 「相手が立ち止まって、疑いの念を持って中身を検査しないような資料作りを」
  • メッセージは「合目的性」「斬新性」「明確性」「方向性」の四つの要素を念頭に書く
  • 明確性の欠如は「自信のなさ」、言い換えれば「検討不足」からくる
  • チャートにはイラスト、グラフ、テキストの3つしかない。



以上、ブログを読んでる人をあまり考慮せずに書いた。それでもきっとタメになる部分はあると思う。

プレゼン力とはただ良いプレゼンをするためだけにあるのでなく、相手に提案するためにある。その点でこの本は、就活においても大いに役に立つことと思う。

ビジネスマン向けの本だが、就活生向けとしては、より具体的・実践的な表現方法が提示されている点で有効だ。訴えるべきことは決まっていて、それをどう表現すればよいか悩んでいるならちょうどよい。


この本はいい本だ。その辺のクソビジネス本に比べると圧倒的な情報量で楽しめる(実はこの他にも一冊買ったのだが、くだらなかったので読んでない)。世の中には賢い人がいるものだなー。




ところで。

ついでに買ってみた「カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生」という漫画。
この漫画もちょーおもしろい。というのも、出世欲にかられて小便まで飲んだ女が僕が昔セクロスした女にそっくり。あと唐突な宮沢賢治が非常に良い。

10.30.2013

体を構成するものにも配慮しましょうという話

私が一線を踏み越えたと感じたとき――私は自分の手の平を見つめて確かめる。こんな偉大なことを成し遂げた人間が、同じ私であることを。

こんばんは。

今日は漫然と過ごしておりました。なんか、昨日ほとんど寝れなかった。上の階のドカン!という騒音で何度も目が覚めたり。おかげで今日一日無駄にしました。


だもんで、特に書くことはないのですが。普段気をつけていることでも書こうかなと。

就活にあたって栄養学的な面でアプローチしようと考えております。まずイチョウのサプリメントを買ってみた。これは記憶力と注意機能の改善が期待できる。ついでDHAのサプリ。これも学習能力・記憶力の向上が報告されとります。

そんでもって、滋養強壮にハチミツをとっております。食事は野菜やくだものを中心にバランス良く食っております。(研究の都合上どうしてもカップ麺を食べることもあるんだけど。)肉を食べ過ぎないのが肝要であり、食べ過ぎると精力がついてオナ禁がつらくなるのであります。タンパク源は卵を食べればよろしい。
間食は適度に。高級輸入チョコでも買っておくと良い。もったいなくて食べ過ぎることがない。ポテチは消化器への負担がでかいので辞める。
酒は適度に、煙草は吸わない。酒は生活リズムが崩れる原因になるので僕は控えてます。煙草は禁煙して一週間ですがとくに感じることもなし。吸いたい気分はありますがあんな高いもん買う気がおきない。
水分を多めに補給すると意識が冴えて良い感じです。運動はきっちりしましょう。特に腕立てで胸と肩の筋肉をつけましょう。正面の相手に対して見栄えがよくなります。

ささいなことだらけですが積み重ねが大きな違いを生みます。とくに疲れやすい・睡眠時間が長い・ストレスに弱いなど感じる方は栄養面を見なおすと効果があると思います。おしまい。

10.29.2013

人間の性格なんて16種類に分けられるわけで

就活では自己分析が大事というが、自分についてよくわかっていない人は多い。僕もそのひとりであり、自分をどのようにアピールすべきか、思いあぐねていた。

しかし、世の中便利なツールもあるものである。「性格診断」を行えば良いのだ。といっても心理テストのようなお遊びではなく、あの名高い精神学者ユングによって原型が作られたMBTIと呼ばれるガチな性格分析であり、世界でいちばん行われているものでもある。
MBTI(Myers-Briggs Type Indicator)は、ユングの心理学的類型論(Psychological Types)をもとに、1962年に米国のブリックス(Briggs,K)とマイヤーズ(Myers,I)によって研究開発された、人と人との違いを知ってお互いに尊重しあえることを目的に作られた、類型論に基づいた、自己理解メソッドである。

主要な分類は以下の通りである。

How they focus their attention or get their energy (extraversion or introversion)
How they perceive or take in information (sensing or intuition)
How they prefer to make decisions (thinking or feeling)
How they orient themselves to the external world (judgment or perception)


つまりは外向的か内向的か、感覚的か直感的か、思考型か感情型か、判断型か知覚型か、の四項によって、16分類するものである。

簡易的なテストであれば、5分も経たずに自分がどの性格かわかる。しかもそれなりに当たっているのだから恐ろしい。



僕の性格はというと、プロフィールにあるとおり「科学者タイプ」のINTj型である。INTjとは内向的・直感的・思考型・判断型の人間という意味だ。

この人格を簡単に説明すれば、「改善の余地を見逃さないアイデアマン」であり、16種の中でも最も自立しているタイプ。生活の半分は思考の中で暮らしている・・・とかそんな感じ。自分はこういう人間だという自負があったわけじゃないが、かなり的確で正直おどろいた。

まあそんなことはどうでもいい。面接の話だ。自己アピールで長所と短所は必ず聞かれるだろうから、長所とは"INTJ"でググった通りの
Independent and decisive.
Hard-working and determined.
Imaginative and strategic.
であり、短所とは
Perfectionists.
Likely to over-analyze everything.
ですと答えれば良い。(さすがに世界でもっとも使われている性格診断だけあり、情報がやたらとある。ただし日本ではなぜか流行っていないので注意)

ようは「長所は自主的に行動でき、決断力があります。目的のためなら全力で打ち込みますし、一度決めたことは簡単に曲げません。想像力があるので戦略的に物事に取り組むことが出来ます」
「短所は完璧主義的な部分があることです。また、物事を深く考えすぎてしまうことがあります。」

なんかそれっぽい答えではないか。こんなもんコピペで良いのだ。ちょろいもんだ。

ちなみに僕とまったく反対の性格であるESFPタイプであれば、
「長所は何事にも挑戦する積極性と、人の中で一歩抜きんでる独創性です。また優れた対人スキルを持っていて、どんな相手でもくつろいだ気分にさせることができます。」
「短所は平和主義的であることです。他者を思いやるあまり、自分を抑えてしまうことがあります。また、楽しいことがたくさんあると目移りしてしまいがちです。」

両者はまったく違った回答だが、それでも一貫性があり好感が持てる。

長所短所の説明でもっともいけないのは、長所と短所が矛盾していることである。「長所は動揺しないこと、短所は心配性なことです」「長所は計画的なことで、短所は感情的なことです」などの例はよろしくない。面接官を混乱させるだけだ。その点この性格診断を行えば、矛盾なく完結にイメージを伝えることができる。

前に言ったように、面接官はあなたが何者なのか知りたいだけなのだ。わかりやすく伝えることもマナーであり技術である。その礼節を欠けば、あなたがどんな人間かなんてまるで興味を持たれない。また、おかしなことを言えば自己分析のできない無能か短所をごまかす信用できない人間と思われること必至である。

物事はシンプルでいい。余計なことを考えるからややこしくなる。

ちなみに、「こういう性格なら受かりやすいのではないか」と心配する必要はない。自分の性格をごまかせば大抵バレるし、騙し通せたとしても入社後に苦労するのは自分である。ユング先生がお前はこういう人間だとし、採用のプロである人事がそういう人間は要らないと判断したのであれば、大抵それはwin-winの関係である。面接官は適性のない人間を落とし、君は適性のない職場から免れたのだ。

たしかに、営業職であれば明るい社交的なタイプ、事務であれば規律を守り黙々と物事に打ち込むタイプ、研究職なら独創的なアイデアが出せるタイプ・・・と適性があることは間違いない。しかし16種類ある性格はどれも必要なものである。それぞれ個性があって助け合って成り立っている。どんな性格にもある程度のニーズがあり、あとは誠実さや熱意で決まることを忘れてはならない・・・。


それにしても、バックグラウンドにユング大先生が付いているというのはかなり安心感がある。自信を持って「自分はこういう人間です」と言うことができる。自己分析は友達や家族に聞け!とよく言うが、ユング先生の答えの方がはるかに頼もしい。





話は変わる。


なんか最近、就活のネタばかりになってしまっている。これはこれでタイトルの「本の執筆」へ一歩近づくことにはなるのだろうけど(今日のネタだけで、就活本の数ページが書ける!)、本来の自分の心を赤裸々に語るような、いつもの日記が書けなくなってきている。
僕は自己の内面世界を恥ずかしげもなく語ることが好きなのである。

僕は就活という異物を飲み込み何になるのだろうか。――僕は非常に楽観的である。飲み込まれるのではなく、飲み込む自信がある。自分が並の人間より有能であることは当にわかっているからだ。

さながら絲山秋子の「天才宣言」である。絲山秋子はデビュー一年で川端康成賞をとった事実上の天才である。「天才宣言」は彼女の文学世界への志望動機でもあるので、就活に関係がないわけではない。ここに参考に書いておこう。
文学というものが現代どういう状況におかれているかは大体把握しているつもりです。
どんな本が売れているかもおよそ判ります。
なぜ私が文学を志すのか、答えはとても簡単です。
まず仕事に対する考えとして、人がやっていないことで私がやるべきことがある。
文学に対する考えとしては、自分が読みたい作品がないから書きたい。
その2点です。結果がどうであれ自分には才能があると信じます。
生活との両立は難しい。一生貧乏だな、きっと。
そういえば私の病気も生活を脅かすアイテムの一つではあります。
これは文学や芸術だけの問題ではない、例えば政治家と作家は、
日本の現状では「エゴ」という点で
見て対極にあると思いますが、プロセスはよく似ています。
私が小説を通してしたいことは、特定の行動を促すことではありませんが、
読者の顕在・潜在意識に働き掛けることだと思っています。
読者それぞれが持っている「何か」を改めて「伝える」のが仕事です。
一方で経済について言えば、「お金」という「言語」を通して
物事を翻訳する仕組みという面があります。
だから芸術に限らず、同じような、人から見たら勝算のたたない闘いを
自分の天職としてしている人は世の中に、或いは歴史的にいくらでもいます。
無名のまま終わっていってもそれは仕方がない。相手のせいではない。
時代のせいにしても仕方がない。 ただ、そういう人々に私は共感するし、
私自身も評価に媚びずに生きていきたいと思います。
なんだか科学者のような真摯な分析と、胸の空くような透明な意志が感じられてお気に入りの一文だ。

自分を天才と言うなんて傲慢ではないか、と言う人もいるかもしれない。しかし世の成功者の中で、自分を天才だと思っていない人はまれである。

謙虚さとは、溢れんばかりの自信からしか生まれない。自信のない人間が卑下したところで、それは事実のままである。自己の思想、能力、過去や未来に確信があるのに、へりくだるところに美学がある。(そして謙虚な人間が自分の天才性を表明したとき――そこには真の爆発がある!!)

実業家のロバートホプキンスはこういった。「平均的な人間は成功者ではない」。こう言っても良い。「平均的な人間は負け犬である」。天才宣言とは、いわば世界を見る覚悟を決めることでもある。奴隷より貴族の方が楽な時代はなかった。

・・・

最近は、生きている、と感じられる日々である。いつか僕は生きてる実感がない!と嘆いたが、目標ができると違うものだな。前へ前へ生きていくのが人間の正しい姿であるらしい。

しかしあの停滞感と重苦しさもたまに懐かしくなる。今はあまりに軽く生きているのではないか、と疑問に思うことも。

「存在の耐えられない軽さ」が好きで何度も読んだ。結局ギリシャの哲学者は、軽さを善としたのだっけ。

まあどうでもいい。寝る。眠くなったから眠る、それだけのことよ!

10.28.2013

就活本を読んでみた

こんばんは。今日は気分が良いです。実に円満な気分。

岡本太郎は、「幸せなら手を叩こう、と歌いながら手を叩く若者を見ると、蹴飛ばしてやりたくなる」というようなことを言っていたが、全く同意である。僕の円満な気分というものも、ほのぼのとした幸福感とは別物で、どちらかというとトゲトゲしく殺気だったものだ。円満とは「円を満たす」のだから、ややもすれば閉鎖的なイメージがある。しかし僕の場合は逆だ。自分を中心にして、サイの角が四方八方へ向かっていくような――

いやそんなことはどうでもいい。
今日も就活のことについて書く。

昨日「就活に関する本は買いたくない、それならブッコフで105円の岩波文庫でも買うわ」と言った僕だが、その言葉に偽りはない。買う代わりに大学の図書館で適当な本を3冊借りてきた。んで全部読んだ。

僕は就職界の完全なるにわか・アマチュアであるので、どのような本が良いのかわからない。だからタイトル借りである。読む間メモを取ったので書く。

やさしいグループディスカッション 2009年度版

グループディスカッションの演習を控えていたので借りた。
  • GDは落とすためにある。顔合わせ程度の意味しかない就職の初期関門である
  • 他の志望者の話を聞いて、あいづちを打ち過ぎない
  • 就活の「疲れ」を見せない
参考になったのはこれくらいか。CGが変に気持ち悪いのと、何となくそれっぽい本を書いてみた、くらいのあまりやる気が感じられない内容だった。

あと、感覚が古い。中でもえっと思ったのは、
「仮に当社が不合格だったら?」という質問に対し、「来年も受けます」と答えよという内容である。いや、ギャグなんだろうけどね・・・。今時この感覚はどうなんだろう。僕が人事なら真っ先に切る。

これから就活を始める君たちへ

これから就活を始める僕なので借りた。実はこの本2年前くらいに読んでいた。読んでいる途中でそのことに気付いたが、当時なぜこの本を読んだかはよくわからない。

就活予備校の講師と生徒の話。なんだけど、あまりに生徒がダメ人間すぎて、就活以前に人生が始まってないのではないかと思うことも多々。

それなりに泣ける話はあるし、おもしろいエピソードもあるので読み応えはあるが、普通の就活生には大して意味はないだろう。あと熱血教師のような妙なうさん臭さが鼻についた。斜め読みするくらいがちょうどいい。

気になったのは、コミュニケーション能力向上のためにナンパをしまくった学生の話である。なんか、彼女欲しいしコミュ力あげたい僕にもぴったりの方法だと感じた。

(話が脱線するのだが、100人ナンパというエピソードは就活に役立つかもしれない。やることはただ休日、友人と連れだって100人ナンパするだけである。これだけなら単に行動力を示すだけだが、そこで僕はこういう。「僕は女性を口説いただけではありません。友人を一から説得し、100人もの女性をナンパさせたのです」。リーダーシップ、他人を動かす力のアピールである。面接官はぐっとくるはずだ。多分)

だから内定をのがす! もったいないカン違い45
4000人以上の面接をこなした人事の方の本である。就活における陥りやすい勘違いをずばっと指摘する。さすがに内容が具体的で、漫画のセンスもいい。

・面接は自分の性質を伝える場
・面接はコミュニケーションの場なのだから「私はコミュ力がある」はおかしい
・GDでは名前をメモする
・明るく、元気よく、学生らしく、さわやかな人を無理して演じる必要はない

・・・特に最後。今日無駄に3冊も本を読んでよかったと思える一文だった。僕は僕のままでいいのかー。

全体として、就活生に合格させてあげたい、という気持ちの伝わる良い本だった。

総評
今回なんとなく手にとった3冊だが、それぞれ筆者が「記者」「就職サポーター」「面接官」と違っており、その特色がよくわかる結果となった。

記者が書いているものはあてにならない。就職サポーターは熱が入りすぎてよくわからないことになる。面接官はさすがに的確である・・・。というわけだ。今後は面接官の書いた本を読もう。
(もっと欲を言えば、経営者の書いた本だとより良いのではないかと思う。)


世の中には、やっぱり悪書が多いと感じた。いい加減な本は読んでいてイライラする。ニーチェはこういった。「血をもって書け。」僕も全く同意だ!

10.27.2013

若者よ、学生らしく

就活するにあたり何をアピールすれば良いかを考える。

企業が欲しがる学生は一に熱意、二に協調性だと思う・・・。ところが、僕はまるで逆の人間である。熱意はあるのだが、表に出さないタイプであるし、協調性は全く欠けている。人と話していても不和になるだけなので、最近は「沈黙は金なり」の金言を言い訳にして、会話自体から遠ざかっている。

それなりに勤勉だし、アタマはよくはたらく方だと思うのだが、それだけではきっと合格は厳しいだろう。


よく、「まじめに勉強してきた奴よりも、バイトや遊びばかりしてた不良学生の方が大企業へ行く」との恨み節が聞かれるが、それもしかたないことだと思う。

バイトで良い経験をしていれば、企業のコミュニティでもうまく渡れる素養が出来ているし、営業職なんかでは女のひとりも口説けない人間は不要だろう。

そもそも「めいっぱい遊ぶ」ということは実はけっこう難しいことなんである。適性や努力、意志がないとできない。それでも「大学時代の思い出」というのは一生の財産である。一生のうち遊べる時間は限られている。大学生のうちに遊び尽くすことも決して悪い過ごし方ではないと思う。

それを無碍に勉学で塗りつぶすことは、決して賢いことではない――と遊び呆けてきた人事部の方々は思っているのかもしれない。

ニーチェがツァラトゥストラに語らせたように、
真の男はふたつのものを求める。危険と遊戯である。
のであって、
男の成熟、それは子供のころに遊戯の際に示したあの真剣さを再び見出だしたことを言う。
のである。成熟さを備えた真の男は、遊戯を愛するのだ。となれば、ガリ勉くんはある種の未熟な男なのかもしれない(だから一般的に面接官のウケが悪いのか)

ともあれ企業は学生が欲しいのであり、学生らしい学生というのは好意的に見られるようだ。

「ガルシアへの書簡」という有名な話がある。どんな人間が社会に求められているか、端的に描かれているので就活生は一度読まなければならない。例えば、こんなフレーズがある。

若者に必要なのは、机上の学問でもあれこれの指示でもなく、背筋をまっすぐにのばしてやることである。そうすれば信頼に応え、迅速に行動し、精神を集中して、任務を遂行するだろう。
背筋をのばして義務を遂行する人間が必要ということだ。常識的なことだが、ここで重要なのは「机上の学問でも~なく」の部分に二重線を引くことだ。(特に僕のような人間にとって)熱意のつもりが、みすみす相手方の信頼を失っていることが少なくない。

他にも優れた言葉がたくさんあるので記す。
私が心惹かれるのは、どんなときにも自分の務めを忘れず、その実現に向かって努力を続ける人である。 自分の困難よりも、計画の遂行を優先させる人である。
そういう人は、決して一時解雇を受けないし、賃金のアップを求めてストをする必要もない。逆にどこからも乞われる立場となるだろう。
文明とはそのような人を捜し求める長い過程でもあるのだ。
そのような人はどこの都市でも、町でも、必要とされるに違いない。 どこのオフィスでも、店でも、工場でも。
世界中がそのような人を呼び求めている。

富を得ること、職を得ること、他者から必要とされることは決して難しいことではないと思う。誠意ある姿勢で、不断の実行力を持つこと・・・。

何度でも言っておきたいことだが、僕は「社会に求められる人材」なんて言葉は大嫌いである。人を歯車みたいに扱うなと言いたくなる。それに、求められる人材いうと残りは「社会に求められない人材」とされそうだが、実際には「社会を求めていない人間」もいるのである。こういうところに社会の無自覚な傲慢さを感じるのであって、それが嫌いだ。

根本的にそういった社会のあり方を否定しているのだが、もう毎日言ってるように、「軽蔑するのであれば、乗り越えなければならない」のである。乗り越えて乗り越えて、その先に何があるのかはわからないが、一歩一歩あるくことしか人間にはできない。のだから。

眠いのでむちゃくちゃです。


カーネギー話し方教室

10日後にグループディスカッションをすることになった。

まるで就活に対して準備していない僕がGDに飛び込んだところで、失態が目に見えている。飲み会でさえ話すタイミングがわからない僕である。少しでも勉強してから望んだ方がいいと思い、いろいろ考えた。

就職に関する本はあまたある。わかりやすい成功した不安ビジネスだと思う。しかし、譲れない主義として、僕はそういった本は読みたくないのである。

世の中には紙の無駄としか思えない本が多すぎる。ブックオフに行けば一生モノの本が105円で買えるのに対し、中身の薄いごちゃごちゃした本を1500円で買うのは許せない。せめて時の流れか言葉の壁の淘汰を受けた、つまり海外の書籍か古典を読みたいと思う。

本棚を見ていると「カーネギー話し方教室」とかいう本があった(当然背表紙には\105とある)。自己啓発本にはまってた数年前の名残だ。外に出るのもめんどくさいのでこれを読んでみることにする。

ちなみにこの本の作者はデール・カーネギーであって大富豪者であるアンドリュー・カーネギーとは多分関係ない。読んでる途中にそのことに気がついて投げ出しそうになった・・・が我慢して読んだ。

以下、かいつまんでみる。
活力、生気、熱意――これこそ話し手の必須条件である
やはり熱意が必要なようだ。キャリアセンターのおっさんの言うとおりだ。たしかに話す、ということは外部への情報伝達なのだから、そこにある程度の積極性、エネルギーを内包しないものは、聞き手にとって偽物でしかないのかもしれない。そういう話は聞き手を困惑させたり、げんなりさせたりする。熱も冷たさも伝播するのである。空虚さ、冷たさを見せたら面接ではアウト。
犬と言わずにブルドッグと言う
これはかなり汎用性の高い方法論だと思う。話に具体性を持たせることによって聞き手への印象を強める。単純だが効果は高そうだ。

最善をつくして、自分の頭と心のなかを他人にのぞかせる能力を養うこと。自分の思想や考えを、個人対個人の関係によって、また集団や公衆のなかで、他人にはっきりとわからせることを学べ。そうする能力が向上するにしたがい、自分――真の自我――が、それまでかつて与えたことのない印象と衝撃を、人びとに与えていることに気付くだろう。
この言葉は僕にとって非常に意味があるものだ。僕の人格は内向の極みであって、他者をヒステリックに寄せ付けない傾向がある。他者に僕が理解されないのは当たり前で、しかたないと思っていた。だから他人に自分の心を覗かせるなんて、考えたこともなかったのである。

しかしそれはある意味で僕の弱点であった。友達は少ないし、彼女はできないし、社会性に欠けていると思われる。僕自身、人間嫌いなので友達が少ないのはかまわない(彼女がいないのは、少し辛い)。それにしても、この高度文明化された日本で、社会性の欠如がどれほど生活を困難にするか!

カーネギーの言うとおり、真の自我なんてものが与えられるのであれば、僕の人生にとってある意味革命が起こるだろう。


10.24.2013

死を前にした人間の文章は透明で美しい

「きけわだつみのこえ」が良い。

内容は学徒出陣に至った若者の遺書や手紙である。だから、そこには若き魂の青春の透明な叫びがある。当時の大学生とは正真正銘のエリートだから、美しい凋落もある。第二次世界大戦という、史上もっとも巨大な歴史に立ち向かった血の臭う生傷がある。

それが、何百人もの若き死と叫びが、ぽんと文庫本に収まる。こんなおもしろい本が他にあるだろうか?

昔の人はかわいそうだったのねと嘆いてはいけない。彼らの生き様を尊敬しまた羨むのだ。私も死を前にして雄々しくありたいと。

ガロアのように数学社会の反逆児になるのでもなく、ガウスのように数学社会の処世家になるのでもなく、ある数そのものの中に跪いたアーベル、アーベルを俺は限りなく愛する。
この軍隊生活の中から俺の心は逃げている。いいか!
偽ることなく現実を直視せよ! 
何ものに向かっても何ものに対してもいついかなるときでもにっこりと微笑む人間にならねばならない。童話(メルヒェン)の中の天使のような子供らのように、にっこりと笑ってひとつの物語の幕を閉じたい。 
”我執を捨てよ”という。しかしそんなに簡単に棄てられる我執だったら、軍隊生活半ヶ年、もうとうの昔に始末しているはずだ。棄てても棄て切れない自分。自分で最も良いものと信じている自分の姿、それは最後まで大事に立派に育て上げるのだ。
その自我が、いかにして軍隊生活の中に生き抜いてゆくか、――単なる妥協ではなく、ごまかしでなく、誠実の籠った意味で――それが自分にとっていちばん大きな問題だ。他人はこれに対して何者も加えることはできない。また、これに関して他人に救いを求めることもできない。自分ひとりで、誠実に、賢明に処理してゆくことだ。
明日死ぬかもしれない自分である。
大衆の中に没するということは永久に大衆の中に自己を滅し去ることではないはずだ。大衆の愚劣と平凡と息切れのする臭気の波の中から、喘ぎ喘ぎ浮かびあがってきた、いまだ滅しきれない自己の姿――それはすべてを洗い落としてすべての戦いを戦い抜いて、最後に残された自己だ――に今こそ、手をさしのべて、救い上げてやる時ではないか。 
私は戦をぬきにして戦に征く。その言葉を解してくれるものはないかも知れぬ。ただ私は人の生命を奪おうとする猛獣的な闘争心は今持たぬのである。そうしてこの憐れな、まるで渦中にすいこまれるような思いで、私は戦に征くのである。

以上が僕の好きなフレーズだ。彼らの言葉がどれほど美しいかわかるだろう。




僕はタバコを辞めたが、その二日目にして欲望を隠し切れない。しかしそれでいいのだと思う。ニコチン中毒の肉体的消失点は二週間であると言われてるのだから、無理してごまかす必要はない。それに、喫煙の欲望はより巨大な欲望である食欲や飲酒欲に飲み込まれる。

しょせん欲望とはひとつ人間の抱える一極点に集約されるのであって、それが万人に共通という点でキリスト教の原罪と分類される類いのものである。人間の欲望は絶えることはないが、欲望の軌道修正をして、色を変えることはできる。マズローが言ったように、「自己実現する人間の欲望は判断に同意する」。そこが人間と動物の決定的違いだ。カフカの「断食芸人」は目的と結果の逆転である。

下世話な話だが、オナ禁と同じである。げせん(なぜか変換できない)な欲望を安易に発散させてはならない。溜めて溜めて、一身の全体に、溶鉱炉のように煮え立たせる。そこに初めて爆発が起こる。「芸術は爆発だ!」と某太郎氏は叫んだが、太郎先生はオナ禁をしていたに違いない。その爆発とは、欲望を超越した何かである。

まあこう言っている以上当然なのだが、僕はオナ禁もしている。しかし身体上の不都合は一切なく、言うとすれば元気が良すぎることくらいか(性的な意味ではない)。

医学的に「中高生にオナニーは推奨すべし」という流れがあるが、あれは思春期の繊細な精神に障害を与えないための方便である。禁欲した方がより良い効果があることは周知(宗教や文化、生理学的に)の事実だ。


10.23.2013

年収2000万

年収2000万を稼ごうと思う。
そのために僕は勤勉と謙虚さを約束する。期限は35才まで。一流企業に就職し、社会のいろはを学び、その後自分の会社を立ち上げようと思う。

2000万、という数字に大した意味はない。ただ金銭的な苦労でわずらわしい思いをしたくないだけだ。

僕は人生において金銭的・時間的余裕を持ちたいと思っている。そのためにはまず金だ。お金は汚い。金なんて不要だ。だからこそ、金を超越したいのである。

ところで、今日タバコをやめた。僕にとって喫煙はひとつの主義だった。今世の中に蔓延している健康至上主義への反発である。しかし、タバコは体力と財布の小銭を奪っていくことに変わりなく(最近は小銭どころではなくなったが)、泣く泣く辞めることにしたのだ。

ひとつ言っておけば、タバコの是非をあれこれ語ることができるのは、禁煙者のみである(ただし完全にタバコの執着から脱した者)。
タバコやその中毒がどんなものか知らない者も、タバコの虜となっている喫煙者も、タバコに対する眼鏡に色がついていることに違いない。だから、タバコの是非うんぬんは禁煙者が決めるべきである。僕は3年タバコを辞めた期間があったが、そのときほどニュートラルにタバコを考えられたことはなかった。健康や金を奪うが、たしかに、かっこいいし、悪くない趣味なのである。

さて、このタバコを金というものに変えてみたらどうか。
金やそれを追求することがどんなものか知らないものも、金の虜になっているものも、金の是非を語ることはできない。金の執着から脱して初めて、金の本質を知ることができる。

悲しいことに、タバコは単なる嗜好品だが、金は少なくとも生きていく上で必ず必要なものである。だから、貧乏人はもちろん、守銭奴も金から自由になることは非常に難しい。

自由である、ということ。僕はニートになりたいわけではない。シモーヌヴェイユが言ったように、「未完成の仕事の光景は、笞が奴隷を追いやるのと同じ強烈さで、自由な人間を引き寄せる。」のである。自由になって初めて、自分の本当の仕事が見つかるのだ。そのためである。


面接とはなにか

昨夜、「極限の緊張と混乱の中でも極小の自由を胸に抱」くために就活への決意を固めた僕である。

さて、就職とはなんだろうか。教授から勧めてもらった「面接の達人」とかいううさん臭い本を読んでみた。わかったこと書く。

まずもって、、、

企業とは利益を追求する組織である。

大前提として、会社に利益をもたらす人間が求められていることは疑いようのないジジツである。

当たり前のことだが、意外と忘れがちであるらしい。面接の際に面接官を笑わせることに終始したり、どうでもいい事柄を羅列したり、泣きついたり甘えたりだの。そりゃ面接官もできれば採用したいだろうが、面接官だって趣味じゃなく仕事でやってるんである。会社にプラスにならなきゃばっさり切り捨てるのは目に見えている。

さて、就職では面接がもっとも重要である。テストの結果だとか、字のきれいさはあまり重要ではない。面接では何を見るだろうか?それは、この就活生は何物であり、なぜこの会社に応募したのか、ということである。というかこれだけである。「面達」にも書いてある。「面接は自己紹介と志望動機だけを見る」と。

考えてみれば当然だ。面接官には会社のことはよくわかっている。どこにトイレがあってどこの部署の女の子がかわいいかも知っている。しかし目の前の就活生はまったく未知の生き物である。眼前に不可解な異物が居座っているのである。だから、面接官は決して応募者を落とそうとか、イジメようと考えているわけではない。「お前は何物だ、何しにきた」と当たり前のことを問うているだけである。だから応募者は、「俺はこういうもので、こうするためにきたのだ」と堂々と答えるだけで良い。それが正しければ採用される。

その他のことはまったく答える必要はない。KISSプリンシプルというものをご存じだろうか。「Keep it short and simple」という主義である。もともとプレゼンなんかに用いられる言葉だが、面接もプレゼンみたいなもんだから、有効に活用するといい。

さて、これで就活の大部分は理解できた。会社は利益をもたらす人間を求めている。そして面接とは、応募者がどんな人間であり、会社にどんな効果をもたらすかを知る機会だ。

もうこれだけで就活の根本原理は理解できる。あとは常識的に考えれば自然と採用通知のラッシュがくるはずだが、常識とはともすればぽっかり抜けてしまうものでもあるし、もともと抜け落ちていることもままあるので、ある程度気付いたことを書いておきたい。

面接で採用されやすい人間だが、重要な要素は多くない。

  • 意志が強いか
  • 行動力はあるか
  • 問題を分析する頭脳はあるか
  • 失敗や成功から学習できるか
  • それらから発展させることができるか

の5つだ。まあ嫌な言葉だが人間力である。
面倒だが書く。企業は三ヶ月で辞めるような無気力人間は欲しくないし、命令しないと動けない人間もめんどくさい。壁にぶち当たっても進み続けるアホはいらないし、成功に慢心したり同じ失敗を繰り返す低脳もいらん。育たない人材もいらん。ということである。常識だ。

だから、面接官から何か聞かれたら、これらのうち数点を抑えて回答すればよい。基本はこれである。

で、小手先のテクニックを書いていく。

企業が求めがちなのはAttackerではなくSupporterである。(これは「面達」には書いてないことだし、勝手な思いつきなので真に受けないでほしい)Attackerは攻撃的な人間であり、支援型の人間であるSupporterの支援を受けながら問題に直面して実地に行動する人間である。

もちろんAttackerも会社に必要な人間だが、少なくとも新入社員というものは最初の何年かは上司や同僚のサポートするだけが仕事である。そうして「君もそろそろひとりでやってみるか」と晴れてAttackerの仲間入りとなるのだ。

まずSupporterとして適性がなければ最初の数年でやめてしまうだろうし、何年も先のことを考えることが普通困難であるのは面接官も同じだ。さらに人事は採用して数年で問題が起きれば処分されるが、それ以降は会社あるいは本人の問題となる(多分)。だから、面接官はSupporterを欲しがる(多分)。

そしてSupporterが望まれるもうひとつの理由に、協調性というものがある。

言うまでもなく企業というのは組織だ。そして法人だ。法人とはなにか。組織をひとりの人間と見なすことだ。企業は法的にはひとりの人間なのだ。心臓がやる気を出して全力で鼓動し始めたり、脳みそがアドレナリンを出しまくってもおかしくなる。適切なときに必要な量の酸素を運んできて、にこにこしながらがんばってくださいと励ますような赤血球くんが採用されるのだ。
だからグループ面接で陥りがちな罠として、他人を蹴落とし俺さえ受かれば、という人間は邪魔でしかない。

いろいろ書いたが、重要なことは「やる気」と「常識」であると思う。カナダの有名な実業家が強調するように、「常識が実業界の戦いに携えていく最良の武器」なのである(まあ実業界でやっていける人間はたぶん就職界でも大丈夫だろう)。「単に常識的な人間なだけじゃ受からないだろう」と言うかもしれないが、常識を備えた人はこの世の中でもまれである(君の周りを見ればわかることだ。)だからそれだけで武器になる。そして常識に付随して、「礼儀正しさに勝る攻撃はない」ことも忘れなきよう。

以上は就職活動を一切経験しておらず、キャリアセンターにも足を運んだことのないへたれの文章である。ただ、渦中では全体像がわからないということもある。だからいちおう残しておく。
就活というのは、日本の不合理で理不尽な社会の縮図だと思っていた。しかし今回、まったくシンプルなのだと気付いた。資本主義はシンプルだから良い。シンプルなものは好きである。すばらしい。

さて、明日は実地の行動に移ろうか。遅すぎる行動は必ず失敗を招く。

10.21.2013

背筋をぴんと伸ばし、まっすぐ前を見据えた人間を人は負け犬だと思うだろうか?

最低限、人間としての誇りを保たねばならない、と考える。

だらだら寝ない。
背筋を伸ばす。
沈黙を守り、はっきりしゃべる。
毎日何かしら書く。
立ち止まって考える。

背筋を伸ばし、沈思黙考すれば、それは立派な人間である。くだらないおしゃべりに興じ、惰眠をむさぼる。漠然と生きているならそれは人間未満だ。ニーチェが言ったように、この世は金毛獣と蛆虫に分けられる。

いや、人間ひとしく価値があると僕だって信じたいが、どうも大衆とエリートという区別があってこそ、誇りが生まれる気がする。自己が平均点を超えていれば満足するのは民主主義的だが、それじゃ高みは望めない。

ある意味、異邦人とも言えるかもしれない。大衆から理解されない人間。常識にとらわれない人間。

最近はカミュの「異邦人」が大のお気に入りである。牧歌的な風景と、自然に生きる主人公が良い。僕だって、親が死んだところで涙ひとつ流さないだろう。もちろん、親の死に伏して涙を流すことは美しいことである。しかしまがい物の涙も多いものだ。こういう場面では泣く、と義務的にあるいは強迫観念にとらわれて泣いてるケースも多いんではないか?(逆に、虐待されてきた子どもが、ついに親が死んだ折、嬉こばなければ、と思いつつ涙が止まらないなんて話もよくある。この辺りドラマチックである。お父さんを喜ばせなさい!と泣き叫んだバキママのようである。だいいち、ふいに出た「お父さん」というセリフ自体悲劇的である。脱線した)

異邦人でお気に入りのセリフは、主人公が死刑判決を受けたあとでさえ、「僕はいつだって正しかったし、今だって正しい。」と言い切るところである。いったい国家から断罪されて、「それでも俺は正しいんだ」と言い切れる人間は殊勝なもんだ。のらくら生きて、それなりに主義主張をもってる僕でさえ、俺は正しい、なんて胸を張って言えることは少ない。
(昔は大の自信家だった時期があったが、今ではその時期は見たくないものに蓋をし、近寄らず、母胎の中でぬくぬく過ごしていたのだということにしている)

ともかく、常識というのは人間に甚大な影響を与えておきながら、うつろいやすいものである。しかし、だからといって常識を軽蔑しようというのであれば、常識を乗り越えなければならない。人間の文明の発生は農耕から始まると言われる。母なる大自然をその手によって「利用」するのである。人間の歴史とは、人間の進歩とは、恐れていたものを自分の手中に収めることの連続だったのだ。だから、常識を利用しなければならない。

それはもちろん常識的な人間を装うことで社会的に優位に立つことでも良いが、常識はずれなふるまいで注目を浴びたり、常識をこねくり回して自分にとって都合のよいものに変えてしまうことでもいい。こうした過程を経て人は初めて常識を軽蔑できるのである。中二病がバカにされるのは、社会を否定しながら、社会に対し何も影響力をもつことができないからだ。

常識とはいわば、歴史の現瞬間である。メルロポンティの言ったように、人は歴史に対峙して初めて自由になれるのであれば、常識と全人的に闘うことは自由への一歩となる。

軽蔑するのであれば、乗り越えなければならない――とさっき言った。

私情に戻るが、僕も就活を控えている。正直就活なんてバカらしいし、パリッと慣れないリクルートスーツの就活生も上から目線の面接官も嫌いで、学生の手柄を誇る教授たちも嫌いである。就活だ、就活だ、なんて大騒ぎするけど、いい大人なんだから、受験生みたいに流れに飲まれて画一的な道を進むことなく、自分の道を選べよ、と思う。


だ・か・ら・こ・そ俺は就活をがんばろうと決意したのである。僕はそれまで適当な中小の末端として生きていこうと漠然と考えていたのだが、先のメルロポンティの言葉と、「わだつみのこえ」をはじめとする特攻隊員の遺書を読んで意識をまるっと変えた。歴史と対峙するのだ俺は。就活の恐怖も戦争の恐怖も同じである。特攻隊員はいやいや言いながら散ったか。違う。最後には運命を受け入れたのだ。歴史を受容し、そして彼らは自由のまま散っていった。極限の緊張と混乱の中でも極小の自由を胸に抱いていたのである。俺もその強さが欲しい。

歴史から逃げるのではなく、あえて歴史に立ち向かう。くそったれな世の中だから、俺はそれを哄笑してやるのだ。

好機!

好機だ!こんな時代でよかった!と言える人間がどれだけいるか。その強さを持った人間が今どれくらいいるか。たいてい、ああすれば、こうなっていれば、なんてうじうじ言って、ありもしない空想で慰めるのだ。これが、歴史から逃げることなのだ。情けない。

背筋をのばせ!前を見よ!そうして、おがくずの山頂で、高らかな哄笑をあげるのだ。ツァラトゥストラのように!

さあて就活がんばるよん俺は。

自由と歴史

人は歴史からは自由になれない。
なぜなら自由は歴史の一部である。だから歴史と対峙して初めて自由になれる。

名前を捨てようと思った時期があった。いまいましくまとわりついてくる過去が嫌いだったからだ。過去もなにもかも捨てて、素の人間に。名前のない人間に。

岡本太郎が、司会者に紹介をされて、「名前?そんなもの、いやしいものだ」と言い切った。大抵、この人は言い切るので好きだ。言い切るか、忘れている。たまに間違っているのだが、筋が通っている。矛盾を飲み込む強さがある。

その岡本太郎も、時代からは自由になれなかった。彼も徴兵されたのだ。あの変人が出征にどんな意味をもったかはわからないが・・・。

戦争は歴史の極点だ。特に第二次大戦は、すさまじく人間の深層心理に影響をあたえたと思う。特攻隊員の遺書など読んでいくと、胸がすく思いがする。戦争が起こってもすぐ死ぬものではない。まずは一人前の兵士になるため徹底的にしごかれる。

彼らも若者だ。理想と信念を持っている。それらは集団生活と規律で暴力的に排除されていく。軍隊生活の中で彼らがもっとも思い悩んだことは、理性と知恵への愛情を忘れないことだった。そうして彼らは時代を恨んで死んでいっただろうか。いや、最後には歴史と向き合い、勇ましく死んでいる。美しい。彼らこそヒーローだと思う。

人は歴史からは自由になれない。歴史の中で自由になれるのだ。歴史と対峙すること。ぶつかっていくこと。エンスージアズムは時代からしか生まれない。

名前を捨てること。過去を捨てること。過去はどこまでも追ってくる。過去から逃げられた人間はいない。時の流れは一次元なのだ。

だから、今向かっていくしかない。未来を見るしかない。純粋に未来に向かっていく。特攻隊員のように。まっすぐ闘う。ドンキホーテは幸せだ。

どうか二度と、自分を自由だと勘違いした「お終いの人間」には戻りませんように。

10.13.2013

バイク乗りのステレオタイプについて

ハーレーライダーはフルフェイスヘルメットを着用しない。BMWのライダーはフルフェイスが好き

これは本当。91%のBMWライダーがフルフェイスヘルメットを被っている(長袖長ズボンは82%)。フルフェイスを被るハーレー乗りは、なんと14%しかいない!残りの大部分は公園で三輪車で遊ぶ子どもの頭も守れないような半帽ヘルメットである。長ズボンは95%のハーレー乗りが履いているが、手首までの長袖は29%しかいなかった。

http://www.allaboutbikes.com/feature-articles/motorcycle-stories/5221-biker-stereotypes-are-true-harley-riders-hate-full-faced-helmets-sportbike-riders-hate-pants

@アメリカ

10.05.2013

心の王者

愛するには、まだ遠い



講義室からもれる管楽器
気ままに研究する学生
この朝の土曜が永遠であればよいのに



朝と本と音楽があれば無限



土曜の朝は山田うどんと決めている



これはぜんぶ
ニカの夢

流刑地にて/カフカ

カフカの短編集を読んでいる。どれも深く考えさせられるすばらしい作品ばかりだ。

中でも「流刑地にて」はなかなかぐっとくる。

「24時間かけて罪状を体に刻み込む」という狂気じみた処刑マシン。それに耽溺し神格化する将校。上官に居眠りを咎められ、「噛みつくぞ」と反撃し死刑判決を受けたアホ丸出しの受刑者。共感するに十分な賢明で誠実な旅人。

僕はあらすじを話すのは好きではないので結論から言う。これは濃縮された生と怠惰な生の対照だ。そして古代から引き継がれてきたものと現代的なものとの対置である。

処刑マシンは将校の言うとおり、すごいマシンなのである。まるっきりアホ同然に描かれた受刑者、あれほどまでに控えめでだんまりを決め込んだ旅人に「家に帰れよ!」と声を荒げさせた愚鈍の極みの受刑者ですら、処刑を受ければ最後の6時間は精神の「浄化」を受けるのである。

この受刑者の6時間こそが将校のもっとも興味をそそる対象だった。そうして前司令官が子どもに見せたがるものだった。人間の極限的な変容。罪の浄化。キリスト教的価値観ではわかりづらいだろうが、ある種人間から神への変化と言ってもいい。

僕はここに死を前に濃縮された生と、処刑によってしかなされない救済を見る。

生き延びた受刑者は果たして幸福だったろうか?幼稚な復讐心にかられ、旅人にも見捨てられる。愚鈍で怠惰な生に生きるくらいなら、6時間でも浄化された生を味わった方が良いのではなかったか?

前司令官が生きていた時代、処刑の見物が大盛況であり、子どもにも処刑を見せていた時代にはこの受刑者のようなアホはいなかったと思うのだ。残酷な処刑を見せるのは、晒し首のように風紀を正すためではない。そこに血にまみれた死と生を生々しく示すためだったと僕は考える。

現司令官はこのような処刑は残虐だとして廃止を検討している。旅人の感じる通り、極めて常識的な考え方だ。この現司令官は、現代的な価値観の象徴である。民主主義的であり、合理的である。将校によれば、この司令官は若干女に弱いようだが―それにしても、そこまで酷く書かれているわけではない。

ところで、僕はこの作品を読んで古代アステカの人身御供を思い出した。こちらも心臓を生きたままえぐり取り、神にささげるという残虐な儀式だ。儀式の直前には、生け贄は神と同様の扱いを受ける。やはりここにも死を前にした濃密な生がある。そして心臓をえぐりとる司祭は、決して無感情ではない。生け贄を愛するあまり涙を流す。この司祭と、「流刑地にて」の将校は重なる気がしてならない。処刑マシンの設計図を異常に大事にする様子も、神聖な儀式の道具のようである。司令官の女癖を非難する様子も、世界の多くの儀式で(日本でも)女人禁制だったことの象徴のようにも思える。

こうした風習は現代では廃れきっている。それは新しい価値観を持った支配者によって、あるいは旅人のような違った文化の価値観によって。古い価値観はまるっきり淘汰されてしまう。カフェのテーブルの下に(!)たてられた前司令官の墓が示すとおり、過去はないがしろにされているのである・・・。

まとめよう。人間は死を前にして初めて生を享受できる。怠惰な生を長く生きるか、一瞬でも濃密な生を生きるか、どちらがよいかは微妙である。しかし現実問題として、後者は淘汰されねばならなかった。そのような社会でわれわれはどう生きるべきか。この短編は現代人の陥りやすい怠惰な生への警笛である、と僕は考える。




あー久しぶりにまともなことを書いたぜい。

9.15.2013

どうあがいても、人間

少し前の僕は、高い志を持って生きていた。

惰眠をむさぼることはなく、つまらない交遊に時間を費やさない。食べるものにも気を遣い、無駄な金を使わない。

そう、僕は精神の潔癖を保っていた。

しかし今は違う。なんというか、諦めムードだ。志がぽっきり折れてしまったのだろうか。僕は、ただまっすぐに生きようとしていた。額から、すっと伸びた、長い角をつくり。サイの角のように、独り突き進もうと思っていた。

しかし、あまりに大きな壁もあるものだ!

それは、人間という種の壁。運命の壁。しょせん人間は、人間であるということ――どんなことをしようと、何をしでかそうと――人間は人間でしかない。

この意味がわかるだろうか。僕はニーチェを読みふけったけど、「人間的な、あまりに人間的な」という有名なフレーズの意味を知らない。超人を説いたニーチェだから、否定的な意味だろう。いずれにせよこのフレーズは気に入っている。人間は、あまりに人間的にならざるを得ない・・・。

僕は人間ならざるものになりたいのである。それは生物的なものから神的なものへの昇華の願望かもしれない。あるいは死の恐怖を超越したいのかもしれない。人間の感覚を通して見える世界以外のものに憧れているのかもしれない。それとも、単に人間嫌い。

ともかく、人間の宿命。それは限局されているということだ。人は人である以上、人の目の中を生きなければならない。社会性への軽蔑。その水たまりの中に沈むことへの嫌悪。僕は世界を見たいのだ!

僕はひねくれているだろうか?20半ばにして中二病かと笑うかもしれない。しかし僕は何かを否定しないと、エネルギーが沸き立たない。だれかが言ったように、全ての創造は否定から始まる!のだから。

9.09.2013

戦時中と現代の若者

「きけわだつみのこえ」がおもしろい。

戦時中の若者の手紙や遺書を綴ったものだが、単なる反戦ものとしてではなく、当時の若者の考え方や、戦争に対する考え方を知る上でとても役に立つ。(僕は戦争に対してはニュートラルな立場である)

とくに、朝チャイムで起き、意地悪な先輩にどやされながら働きづめ、夜チャイムで寝るという厳格に管理された集団生活の中で、自己の思想を薄めまいとする若者たちの努力が、妙に共感できる。これは本来的な意味での読み方と違うと思うが・・・

というのも、その思想や自由を喪失する危機感が、就職前の若者と似てるような気がするからだ。就職すれば、朝から晩まではたらかなければならない。頭の悪い上司に同調しなければならない。高尚な思想や若くたぎるような熱意も、会社の利益にならなければ心の奥底に隠さなければならない。なんだ現代も、戦時中と大して変わらないではないか。死の恐怖はないにせよ。
(戦時下の英霊と、現代のゆとりを同じにするなと言うなかれ。あなたも知るとおり、青春の悩みは無限に深刻である)

日本人ほどはたらくことを嫌う国はないという統計を見たことがある。はたらかなくていいなら、ぐーたらしていたいというのが日本人なのである。これは日本人が怠け者という意味ではないことは明らかだ(日本人ならだれでもわかるとおり)。労働が、あまりにしんどいのである。

他方、マルクスの言葉を借りるまでもなく、労働には肯定的な面もある。やりがいや居場所を作ってくれるのだ。退職した男性がやりがいを失って、精神を病むという話はよく聞くが・・・。ともあれ僕ら学生の間では、「就職したくない」が合い言葉である。「主夫になる」とは流行の冗談である。労働に意欲を見せる学生は、その高給が目当てだ。なぜ、労働は苦痛になってしまったのだろう。その答えが本著にあるんではないか。

自分をねじ曲げなければならない。したくもない仕事をしなければならない。単調で、だれでもできる仕事。成果がよく見えない仕事。ひたすら拘束される仕事。そんなものが増えてしまった。

日本は敗戦後、怒濤の勢いで高度経済成長をなしとげ、世界一に躍り出た。これも、戦時中の延長だから起こったことなのだと思う。大日本帝国軍は尋常ではない強さを見せたが、その背景には全体主義がひそんでいる。敗戦後も同じである。

そうして、そんな社会だから日本は自殺者が絶えない。豊かでありながら、不幸な国。一学生として、本著にささやかな共感をこめ、ひそかに自分を慰めるしか僕にはできないが。もう少し、生きやすい国にならないか、日本、と思う。


アルコールの効用

物を書くには酒に酔っているのがいちばんよい。

アルコールの酔いは「かくあるべき」からの脱却だからだ。カフェインの酔いとはまた違う。カフェインを摂取すると、人は厳格になる。「かくあるべき」と、まがいものを投げつけてしまう。

言葉とは物事を制限することだ。頭の中には抽象的で、多様な、何色ともつかない思惟が渦をまいているのに、そこから吐き出される言葉は数キロバイトの文字列でしかない。カフェインに興奮した神経は、これを許せない。

ものを書くとき、人は書くと同時に書かれているのである。人がものを書けば、読まれなければならない―備忘録だろうと便所の落書きだろうと。たちの悪いことに、文章は人物のもうひとつの顔なのである。たかが数キロバイトの文字列が・・・。人を表す・・・。(だから僕は、手書きの日記を好む。手書きの日記は情報量に富み、再現不可能だからだ。ただ、さすがに量が書けないのでブログも使う)

誇り高き(そして薫り高き)カフェイン浸りの脳は、これを唾棄する。唾棄して、躍り上がり、わけのわからない言葉を叫ぶ。そうしてカフェインはこうしなければならない、の壁に圧迫されて、身動きがとれなくなる。何もできなくなる・・・。

ああ、アルコールの怠惰と、平和よ。怠惰とは平和である。何からも許されているという感覚。

・・・それでは勤勉は戦争なのだろうか?そうかもしれない。戦争とは生の凝縮だからだ。間近に控えた死ほど、生を濃密にするものはない。ソクラテス風に言えば、善く生きる、ということ。それは戦争なんだろう。論争を好んだソクラテスだから。

今日はブックオフで本を買ってきた。トルストイ。「聞けわだつみの声」。「自閉症だった私へ」。「恐るべき子どもたち」。あと一冊なんだっけ。忘れた。

最近は、生の実感がない!「希望は、戦争」まあそれでもよいのではないか。さっさと死ぬのもいい。しかし、悲しいことは、死んでも何も変わらないということじゃないか?死さえも救いにならないとすれば、人間の生とは、底なしに恐ろしいものじゃないか?

ああ、どうでもいいことを書いた。明日からまた月曜だ。そして月曜日にこの日記を読んで、明日もにやにや薄ら笑いを浮かべる僕。おやすみ。

9.08.2013

ツイッター問題に思う

時事ネタ。

ツイッターでアホなことをして総たたきに合う例がある。僕はこの問題を見て、違和感があった。周りの大人は何をしているのだろう・・・?

結論から言えばこれはアホなガキに非があるのではなく、社会の問題だ。

まず第一に、ガキがバカなことをするのは当たり前である。ガキとは社会人二年目くらいまでだ。だいたい24才くらいか。社会が平和になり、平均寿命が伸びたのだから、成人が20才というのも時代にそぐわなくなっている。22才がバカなことをしても、大した問題ではない。むしろ、バカなことをして正常なのだ。14才の思春期ボーイが反抗的なのが心理的発達に必要なように。冷蔵庫に入る、アイスボックスに入る、いいじゃないか。俺だって山盛りのパンズの上に寝転びたいと思う。

んで、いちばん悪いのは身近な大人だよ。大人がガキになめられてる。僕はいろんなバイトをした経験があるけど、正社員って、有能なバイトにとことん弱い。そういうバイトは飲み込みも早く、仕事もできる。マックだとかすきやのチェーン店の仕事って、だれでもできることでしょ。だから正社員より優秀なバイトなんて珍しくない。結果、監督すべき正社員が、バイトに振り回されることになる。

だから、バイトはやりたい放題。冷蔵庫に入って遊んでいるバイトを正社員が見とがめたところで、「ふざけるな!」と怒鳴ることはしないだろう。「それはダメだと思うよー」と情けなく薄ら笑いをする程度だろう。今後の関係もある。ガキがのさばるのも、当然なのだ。

こうした人間関係のゆがみは社会の構造に問題がある。誰でもできる仕事の増加。いくらでも代替可能な歯車。チェーン店の末端に身を沈める大人と、夢や希望もある若者。

ともかく、こういった画像をツイッターにあげることには問題があるだろう。炎上して数万人の目に届けば、必ず是としない連中が牙をむく。僕ははっきり言って、死ぬほどどうでもいいと思っていた。顔を真っ赤にして怒っている人は、歯車的な人間なのかもしれないな。

大人、がんばろう。ガキに負けないように。調子に乗ったガキは、ポカッと殴ろう。長く生きてるあなたが偉いのだ。という日記でした。

9.06.2013

表現

表現しか道はない、と感じる。

どこまでも浅薄な世界。その一点に、垂直にそそり立つものを残したい。僕が生きた証。


それはある意味で諦めだ。人間には表現が限界という冷たく、そして滑稽な壁。
偉大な哲学者でも、文学者でも、音楽家でも。表現という舞台でしか、勝負できない。

しかし、表現者のみが認められるのだ。認められ、享楽を味わうのだ。
孤独のうちに死んでいったものが、本物だろうか。
本物であることは善いことだろうか。善い生き方だろうか。

僕はひたすらに沈黙を守りたい。パラフィルムで密封されたフラスコのように、自己の中で、自己を保全し、そうして自己を破壊しながら生きていきたい。自分の原子をぶつけあい、化学反応を起こしたい。これは傲慢だろうか?

自己に会いたい。のなら、酒かコーヒーだろうな。酒は冷たい現実を、コーヒーは激しい陶酔を見せる。

酩酊。

一度だけ味わったマリファナは、表面的なものでしかなかった。カフェインの作用には及ばない。


ああ、いずれにせよ胃の奥にずいとのしかかる重圧には変わらない。人間という機能形態の貧しさよ。

人間は、どこまでいっても人間なのだ。
人間。どこへ行こうとも、人間なのだ。
人間。なにをしようとも。

人間という壁。箱。

何を読んでも、何を学んでも所詮は人間。

諦めであり、救いである。

光であり、壁である。

人間に、人間は辞められないのだ。その重圧。

話を戻そう。僕は表現の世界に生きたい、と言った。これは嘘だ。このページの最初の方は、もっともひどい酩酊の中で書いた文章だ。だから僕の本音がわかる。僕は、表現なんて嫌いなんだ。僕は自分の中で、自分の庇護の中で、自分という暖かみの中で、自分という母胎の中で、ぬくぬくと、生きたいんだろう。

僕はまだ生まれてもいないのだろうか?

トンネル。穴蔵。押し入れの安心感。今いるここ以上に、すばらしい場所があるという確信。世界は別にあるという安心。僕は、僕は、僕は。

疲れた。おやすみ。

9.02.2013

まっすぐで透明な人間になりたい

まっすぐで透明な人間になりたいなあ、と思う。

過去も未来もなく、今に生きる人間。他者も打算もなく、本能に従う人間。前にまっすぐに進む人間。

前へ。今。

僕は自分の精神障害だとか、よじれまがった人格を治そうと努力している。そのために、荒療治に出たことがあった。普段記憶の底に埋もれた、というかこびりついて忘れられたような過去のトラウマをほじくりかえそうと試みるのだ。

そうして、それをリストアップして、毎日見る。過去のトラウマと向き合うことで、潜在的な影響力を奪おうとした。

精神分析では、過去のトラウマを催眠術かなんかで思い出させる療法がよくある。これの応用というわけだ。

ただ、最近は思うんである。過去と向き合うよりも、今何をするかの方が重要なんじゃないかって。

どうも、僕はあまりにマジメに考えすぎてしまうきらいがある。

こういう人間って、ダメなんだよ。どうしても楽に生きられない。楽に生きることがいちがいにいいとは言えないけど、どうでもいいことにとらわれて人生を浪費して、気がついたら死を前にするってのは味気ない。

それに、このトラウマ解消療法はけっこうハートの強さが必要なんである。効果があったのかどうかはわからないけど、すごく自信を失ってしまった。自分はダメな人間だ、世の中に必要な人間なんじゃないかって。

こりゃーやべえなって思った。自信を失っては失敗し、また自信を失う負のスパイラルに陥りそうだった。まあ、僕は根拠のない自信に満たされていたから、多少の刺激にはなったかもしれない。本当に、羊水の中でぬくぬく過ごす赤ん坊のように自信家だったからね。教養かぶれというか。

はあ、まっすぐに生きたいなあ。

僕の最近のマイブームキーワード。「男はかっこいいと思うことだけをやればいい」
これは自信を持っておすすめできる。

かっこいいと思うことをしていれば、必ずその分野で成長できるし、そこで挫折もできるだろう。そしてその挫折の中にこそ、爆発のような感動があるんである。
あと、本当に自分が思うかっこいいことをしていれば、必ず共感してくれる人があらわれる。共感者は協力者になって、そうして協力者は成功のもっとも重要な必要条件でもある。協力者とは恋人や友人でもあるので、豊かな人生にも恵まれるだろう。

だから、子どものように、好き勝手生きるのがいちばんいいんだ。

問題は、何をすればいいかだ。自分がほんとうにしたいことを知っている人ってすごく少ないんじゃないかな。才能だとか、年齢だとか、時間的余裕とか、そういうことを気にして。自分のしたいことを知っている、本当の人間だけが、真の成功をおさめることができる。

ああー、頭ではわかっちゃいるんだけどね。俺はどうしてもダメだ。だって人嫌いだし、ひねくれものだから。本当に、何をするにしても、人嫌いは損である。

もうひとつ、「人間死ぬのが当たり前」ってことだ。死を恐れすぎるのも、ダメなんだ。

これについてはまたいつか語ろうと思う。

こんな文章でも、だれかの役に立つことはあるんだろうか?
俺はこのブログに書いたことを翌朝読んで、にやにやしてるんだけども。

8.31.2013

表現することなんて

はい、ひさしぶりです。

僕は飲み会の暴飲暴食を経て、ここにいる。机上の電灯と、一点のスポットライトだけの薄暗い部屋。机の上には、ノートパソコンと、巨大なサブディスプレイ。そこで文字を打ち込んでいる。

僕は猛烈に、何かを批判したくてたまらない。僕は、怒っているのだと思う。自分の内なる感情に、素直になれない。それは僕だけではない。だから、僕の心の奥底では、他人に対してまでも、余分な怒りを抱えている。

飲み会。一体そこで、どれだけの複雑な感情を抱えるだろうか。これは僕だけなのだろうか。おべんちゃらを立てることはたやすい。単純でまっすぐな追随を示す。それだけで大抵のひとは、喜んでくれる。

でも、僕はひとに好かれることを辞めたのだ。NOとはっきり言うこと。

しかし、人間にとってもっとも重要なことは、対面での対人関係だ。今、目の前の人に対して、どうアプローチするか。他人にどう自分を認めてもらうか。キングスレイ・ウォードの言う、目の前にいる人に、全力を費やすということ。これが僕にはできない。所詮僕は、サルトルの言う、孤独のアマチュアなのだろう。自分にとって今後も関係を及ぼすだろう人には、YESマンにしかなれない。

ああ、絵画、音楽。その表現にどれほど憧れるか。絵画、その二次元の表現の前で、ひとは僕の考えを読み取ってくれる。音楽、そのハーモニーとリズムによって、人は僕の頭を読み抜く。その世界。

結局、僕は制限された世界でしか生きられない。目の前の人間にとっては、耐えず不快感を撒き散らす人間でしかないのだろう。事実、僕の眼前に表れる人間は、大抵不快な人物でしかないのだけれど。

人嫌い。だれかが言ったように、他人とは地獄であるのなら、人嫌いにとって人生とはどうなるか。ドフトエフスキーの言ったように、まともな人は常に奴隷でなければならないのだろうか。

まあ、僕のような人間は異常者なのだろう。まともというよりも、ちょっとネジの外れた、異端者。だから僕はつねに、びくびくおどおどと生きねばならない。それは段ボールに覆われた箱男のように、あるいは秘境の砂の穴に住む男のように。

・・・今日は、コンビニで見かけた女の子をナンパして帰ろうと思ったのだけどね。どうしてもその勇気がでなかった。もちろん僕はナンパなんてしたことがない。しかし、これができれば失敗しても成功しても、いずれにせよ友達とのネタにでもなって、人生経験に有益であることはわかってた。でも、その女性が歩道のあまりに車道の逆側を歩いていたので、諦めた。

ナンパしていれば、こんな文章もかかなかっただろう。

25。

とは僕の年齢だが、この年齢は難しい。今では、これくらいにならないと人は大人にならないからだ。まだ青春の激しく暗い渦中の中なのだ。

しかし、そろそろけじめをつけられる年齢でもある。けじめとは、どう生きるか。どう死ぬか。そのふたつだ。しかし、最近学んだことでは、青春とは暗いものでなければならないということだ。

悩める青年よ。あなたのあまりに重い負担のなかに、青春の浪費という、全人的な重荷を背負うな。青春は、暗いものだ。暗いから良いのだ。そして、暗くなければ青春でない。

暗さの中にこそ光るものがある。僕は四半世紀生きて、ようやくそのことに気がついた。

そしてやっと、ブログを更新する気になったのである。しめしめ。

7.29.2013

慢性的な灰色の雑感

こんばんは。

久しぶりにこのブログに投稿するが書くことに関心がなくなったわけではない。僕のいる学部では実習というものがあり、それが多忙だった。毎朝5時に起き、夜8時に帰る生活。バイトもしていたので、帰るのが夜中の3時になることも。さすがに疲れてブログを書く気力がなかった。

しかし、そんな生活も終わって今は夏休み。ようやく腰を落ち着けて物を書くことができる。

さて、何を書こうか。久しぶりに書く気になると、頭の中にもやが浮かんでくるが、いざ掴んでみると実体がない。だから漠然としたまま物を書いてみよう。

最近の生活の中では、何かを創造しなければいけないという強迫的な欲求にとらわれている。これは数日前まで実習生としての生活を送ってきたことと無関係ではあるまい。というのも、実習生活があまりに単調であり、そこには変化とか創造と言ったものが皆無で、完全に円を描いたものだったからだ。

かつて人気ブロガーだった(今も?)T-hushは人間を二種類に分けた。それは円を描く人間、直線を描く人間だ。前者はわかりやすく例えれば農夫であり、後者はジョブズを思い浮かべればいい(なんかジョブズって言うと恥ずかしい時代になったなぁ)。

実習生活は確実に円的な生活であって、僕はそのよどんだ、あるいは硬質な生活に嫌気がさしてきた。将来、ああいう生活はしたくない、というのが本音である。

それに加えて、年齢的な問題もあるだろう。僕も四捨五入すれば三十路という年齢だ。女性で言えば子どもが何人かいてもおかしくない。この年齢で男に何が起こるかというと、何かを生み出したいという感情である。女性が子どもを産むように、だ。これは生理的現象である。

ショーペンハウエルは「創造は男性にとって女性の子宮の代替物である」というようなことを言った。その通りである。

唐突になるが、僕は真のフェミニストである。人間の本質というのは男も女も変わらない。ただ表象の性別によって人格が変わる。ジェンダーという言葉があるが、社会的役割によって性的な特徴が育てられるわけではない。だいいち、ホルモンや身体的構造がまるで違うのだから、その前に生理的な段階で勝手に男女は違ってくるのだ。

しかしその根底の部分、意識に対して無意識の部分では男女に変わりはない。ユングが言ったように、無意識は万人に共通であり、共有されたものである。この考え方がニュートラルであって男女同権にとってもっともふさわしいと思うがどうか。

人間には創造性が必要であるというのが昨今の心理学者の多くが指摘するところである。この創造が女性にとっては出産になる。「女は何もかも謎だだが女の一切の謎を解く答えはただ一つであるそれはすなわち妊娠である。 」と言ったニーチェは正しい。女はすべてこの妊娠というものに向かって直線的に生きる。では妊娠ができない男は何に向かうか。普通、仕事に生きるのではないか。消防士でも教師でもヤクザでも、男は仕事に生きるものだ。

精神を病んだ人間を見てみよう。彼らの多くは、仕事をしていないか、あるいは単調な仕事に嫌気がさしている。病んでいるから仕事をしていないのではなく、適切な仕事がないから病んでいるのだ。精神病にもっとも治療的なのは、創造的仕事である。これも多くの心理学者が指摘することだ。だからニーチェもこう言った。「まことに、ひとが心底から愛するのは、ただ自分の子どもと、仕事だけだからだ。そして自分への大いなる愛があるとすれば、それは子どもを懐妊している徴候にほかならない。 」

話が相変わらず漫然となるなあ。とにかく僕は創造的な仕事がしたい、ということだ。そして仕事とは人間、とくに男性には必要なものである。何かを生み出すこと。それは人間の根源的欲求であり、本能である。ひとはただ食って寝てりゃいいってもんじゃないんだ。
ドフトエフスキーは言った。「人間のしてきたことと言えば、ただひとつ、人間がたえず自分にむかって、自分は人間であって、たんなるピンではないぞ、と証明しつづけてきたことに尽きる。」これが創造の精神だ。悲しくも、無謀な挑戦。

人間、正直に生きなければならぬ。正直に生きるとは、自分の本能に従うことだ。そうして本能は創造を望んでいる。人間がもっとも嫌悪するものは、偽物の創造である。うそと欺瞞に満ちた創造だ。金のため、見栄のための創造物ほど吐き気を催すものはない。つまりはニーチェのいう「おしまいの人間」による創造だ。

正直に生きるということ。正直に生きる人間は自分を愛している。真に創造的に生きるためには、自己愛は欠かせない。自己愛のない、こわばった人間には決して創造的仕事はできない。

いくつかのキーワードをまとめてみる。

僕は自分を愛せているだろうか?学歴だの、能力、生い立ち、所有物、すべての要素を取っ払って、自分を無条件に愛せるだろうか。そうして、もし愛せていないのであれば、身体的成熟の終わった段階で自己愛を育むことは可能なのか。

僕の焦燥感の根源はここにあるだろう。自分も「おしまいの人間」の側なのではないかという不信である。何かを生み出さなければいけない。何かを・・・。でも、何を?

今日のブログを通して何か絵を描きたかったので描いた。
暇なので書いてみただけで大した意味はない図


1.19.2013

読書の冬。

このブログを放置気味だが書くべきことがなくなったわけではない。ただ最近の関心事が、あまりに抽象的な問題というか、こころの奥深くの問題であることがおおく、あえて文字に起こすというのも億劫なのである。

最近就活のセミナーがあったのだが、あまりに軽薄で辟易とした。「尊敬できる先輩に話を聞こう」とか言われて、なんだかなあと失望を感じた。
確かにリアルな会話や付き合いの中で得られることはとても多いだろうが、しかし「身近な人間」の中に尊敬すべき人ってのはあまりいないものだ。

それなら本でも読んで、100年に一度の天才の思考に触れた方がいいのではないか、と思わずにいられない。そのセミナーでは、人生の幅を広げるために、いろいろな人の話を聞こうということだった。なるほど就活というのは軽薄であり、浅薄であり、ちっぽけな生涯を満足させるための、俗物的な儀式なのだと、あらためて感じる次第である。

さてまた雑多な日記になってしまった。そんなこんなで最近は非常によく読書をしている。いよいよ学校も始まり、自由な時間がなくなってきたのだが、毎朝8時には学校に行き、21時まで残って読書することで、静かで有意義な時間を確保している。

読む本は大体がドイツの思想である。ニーチェ、ショーペンハウエル、エーリッヒフロムがメイン。ゲーテなんかも読もうと思っている。あとはサルトルがお気に入り。日本の本は、岡本太郎の本を好んで読む。

しかし、フロムを読んでいるときは生を肯定的に捉えて、さて他人を愛するぞ、尊敬するぞ、人生を豊かにするぞと意気込んでいたのが、ショーペンハウエルの厭世的思想にどん底にたたき落とされるような気持ちになる。しかもショーペンハウエルの方が真理に近そうなのでたちが悪い。

過去の天才・賢人の数は限られるが、それでも答えはひとつではない。僕らのような凡人は彼らのどれを信じたらいいのだろうか。悩ましい問題である。