7.29.2013

慢性的な灰色の雑感

こんばんは。

久しぶりにこのブログに投稿するが書くことに関心がなくなったわけではない。僕のいる学部では実習というものがあり、それが多忙だった。毎朝5時に起き、夜8時に帰る生活。バイトもしていたので、帰るのが夜中の3時になることも。さすがに疲れてブログを書く気力がなかった。

しかし、そんな生活も終わって今は夏休み。ようやく腰を落ち着けて物を書くことができる。

さて、何を書こうか。久しぶりに書く気になると、頭の中にもやが浮かんでくるが、いざ掴んでみると実体がない。だから漠然としたまま物を書いてみよう。

最近の生活の中では、何かを創造しなければいけないという強迫的な欲求にとらわれている。これは数日前まで実習生としての生活を送ってきたことと無関係ではあるまい。というのも、実習生活があまりに単調であり、そこには変化とか創造と言ったものが皆無で、完全に円を描いたものだったからだ。

かつて人気ブロガーだった(今も?)T-hushは人間を二種類に分けた。それは円を描く人間、直線を描く人間だ。前者はわかりやすく例えれば農夫であり、後者はジョブズを思い浮かべればいい(なんかジョブズって言うと恥ずかしい時代になったなぁ)。

実習生活は確実に円的な生活であって、僕はそのよどんだ、あるいは硬質な生活に嫌気がさしてきた。将来、ああいう生活はしたくない、というのが本音である。

それに加えて、年齢的な問題もあるだろう。僕も四捨五入すれば三十路という年齢だ。女性で言えば子どもが何人かいてもおかしくない。この年齢で男に何が起こるかというと、何かを生み出したいという感情である。女性が子どもを産むように、だ。これは生理的現象である。

ショーペンハウエルは「創造は男性にとって女性の子宮の代替物である」というようなことを言った。その通りである。

唐突になるが、僕は真のフェミニストである。人間の本質というのは男も女も変わらない。ただ表象の性別によって人格が変わる。ジェンダーという言葉があるが、社会的役割によって性的な特徴が育てられるわけではない。だいいち、ホルモンや身体的構造がまるで違うのだから、その前に生理的な段階で勝手に男女は違ってくるのだ。

しかしその根底の部分、意識に対して無意識の部分では男女に変わりはない。ユングが言ったように、無意識は万人に共通であり、共有されたものである。この考え方がニュートラルであって男女同権にとってもっともふさわしいと思うがどうか。

人間には創造性が必要であるというのが昨今の心理学者の多くが指摘するところである。この創造が女性にとっては出産になる。「女は何もかも謎だだが女の一切の謎を解く答えはただ一つであるそれはすなわち妊娠である。 」と言ったニーチェは正しい。女はすべてこの妊娠というものに向かって直線的に生きる。では妊娠ができない男は何に向かうか。普通、仕事に生きるのではないか。消防士でも教師でもヤクザでも、男は仕事に生きるものだ。

精神を病んだ人間を見てみよう。彼らの多くは、仕事をしていないか、あるいは単調な仕事に嫌気がさしている。病んでいるから仕事をしていないのではなく、適切な仕事がないから病んでいるのだ。精神病にもっとも治療的なのは、創造的仕事である。これも多くの心理学者が指摘することだ。だからニーチェもこう言った。「まことに、ひとが心底から愛するのは、ただ自分の子どもと、仕事だけだからだ。そして自分への大いなる愛があるとすれば、それは子どもを懐妊している徴候にほかならない。 」

話が相変わらず漫然となるなあ。とにかく僕は創造的な仕事がしたい、ということだ。そして仕事とは人間、とくに男性には必要なものである。何かを生み出すこと。それは人間の根源的欲求であり、本能である。ひとはただ食って寝てりゃいいってもんじゃないんだ。
ドフトエフスキーは言った。「人間のしてきたことと言えば、ただひとつ、人間がたえず自分にむかって、自分は人間であって、たんなるピンではないぞ、と証明しつづけてきたことに尽きる。」これが創造の精神だ。悲しくも、無謀な挑戦。

人間、正直に生きなければならぬ。正直に生きるとは、自分の本能に従うことだ。そうして本能は創造を望んでいる。人間がもっとも嫌悪するものは、偽物の創造である。うそと欺瞞に満ちた創造だ。金のため、見栄のための創造物ほど吐き気を催すものはない。つまりはニーチェのいう「おしまいの人間」による創造だ。

正直に生きるということ。正直に生きる人間は自分を愛している。真に創造的に生きるためには、自己愛は欠かせない。自己愛のない、こわばった人間には決して創造的仕事はできない。

いくつかのキーワードをまとめてみる。

僕は自分を愛せているだろうか?学歴だの、能力、生い立ち、所有物、すべての要素を取っ払って、自分を無条件に愛せるだろうか。そうして、もし愛せていないのであれば、身体的成熟の終わった段階で自己愛を育むことは可能なのか。

僕の焦燥感の根源はここにあるだろう。自分も「おしまいの人間」の側なのではないかという不信である。何かを生み出さなければいけない。何かを・・・。でも、何を?

今日のブログを通して何か絵を描きたかったので描いた。
暇なので書いてみただけで大した意味はない図