8.31.2013

表現することなんて

はい、ひさしぶりです。

僕は飲み会の暴飲暴食を経て、ここにいる。机上の電灯と、一点のスポットライトだけの薄暗い部屋。机の上には、ノートパソコンと、巨大なサブディスプレイ。そこで文字を打ち込んでいる。

僕は猛烈に、何かを批判したくてたまらない。僕は、怒っているのだと思う。自分の内なる感情に、素直になれない。それは僕だけではない。だから、僕の心の奥底では、他人に対してまでも、余分な怒りを抱えている。

飲み会。一体そこで、どれだけの複雑な感情を抱えるだろうか。これは僕だけなのだろうか。おべんちゃらを立てることはたやすい。単純でまっすぐな追随を示す。それだけで大抵のひとは、喜んでくれる。

でも、僕はひとに好かれることを辞めたのだ。NOとはっきり言うこと。

しかし、人間にとってもっとも重要なことは、対面での対人関係だ。今、目の前の人に対して、どうアプローチするか。他人にどう自分を認めてもらうか。キングスレイ・ウォードの言う、目の前にいる人に、全力を費やすということ。これが僕にはできない。所詮僕は、サルトルの言う、孤独のアマチュアなのだろう。自分にとって今後も関係を及ぼすだろう人には、YESマンにしかなれない。

ああ、絵画、音楽。その表現にどれほど憧れるか。絵画、その二次元の表現の前で、ひとは僕の考えを読み取ってくれる。音楽、そのハーモニーとリズムによって、人は僕の頭を読み抜く。その世界。

結局、僕は制限された世界でしか生きられない。目の前の人間にとっては、耐えず不快感を撒き散らす人間でしかないのだろう。事実、僕の眼前に表れる人間は、大抵不快な人物でしかないのだけれど。

人嫌い。だれかが言ったように、他人とは地獄であるのなら、人嫌いにとって人生とはどうなるか。ドフトエフスキーの言ったように、まともな人は常に奴隷でなければならないのだろうか。

まあ、僕のような人間は異常者なのだろう。まともというよりも、ちょっとネジの外れた、異端者。だから僕はつねに、びくびくおどおどと生きねばならない。それは段ボールに覆われた箱男のように、あるいは秘境の砂の穴に住む男のように。

・・・今日は、コンビニで見かけた女の子をナンパして帰ろうと思ったのだけどね。どうしてもその勇気がでなかった。もちろん僕はナンパなんてしたことがない。しかし、これができれば失敗しても成功しても、いずれにせよ友達とのネタにでもなって、人生経験に有益であることはわかってた。でも、その女性が歩道のあまりに車道の逆側を歩いていたので、諦めた。

ナンパしていれば、こんな文章もかかなかっただろう。

25。

とは僕の年齢だが、この年齢は難しい。今では、これくらいにならないと人は大人にならないからだ。まだ青春の激しく暗い渦中の中なのだ。

しかし、そろそろけじめをつけられる年齢でもある。けじめとは、どう生きるか。どう死ぬか。そのふたつだ。しかし、最近学んだことでは、青春とは暗いものでなければならないということだ。

悩める青年よ。あなたのあまりに重い負担のなかに、青春の浪費という、全人的な重荷を背負うな。青春は、暗いものだ。暗いから良いのだ。そして、暗くなければ青春でない。

暗さの中にこそ光るものがある。僕は四半世紀生きて、ようやくそのことに気がついた。

そしてやっと、ブログを更新する気になったのである。しめしめ。