9.15.2013

どうあがいても、人間

少し前の僕は、高い志を持って生きていた。

惰眠をむさぼることはなく、つまらない交遊に時間を費やさない。食べるものにも気を遣い、無駄な金を使わない。

そう、僕は精神の潔癖を保っていた。

しかし今は違う。なんというか、諦めムードだ。志がぽっきり折れてしまったのだろうか。僕は、ただまっすぐに生きようとしていた。額から、すっと伸びた、長い角をつくり。サイの角のように、独り突き進もうと思っていた。

しかし、あまりに大きな壁もあるものだ!

それは、人間という種の壁。運命の壁。しょせん人間は、人間であるということ――どんなことをしようと、何をしでかそうと――人間は人間でしかない。

この意味がわかるだろうか。僕はニーチェを読みふけったけど、「人間的な、あまりに人間的な」という有名なフレーズの意味を知らない。超人を説いたニーチェだから、否定的な意味だろう。いずれにせよこのフレーズは気に入っている。人間は、あまりに人間的にならざるを得ない・・・。

僕は人間ならざるものになりたいのである。それは生物的なものから神的なものへの昇華の願望かもしれない。あるいは死の恐怖を超越したいのかもしれない。人間の感覚を通して見える世界以外のものに憧れているのかもしれない。それとも、単に人間嫌い。

ともかく、人間の宿命。それは限局されているということだ。人は人である以上、人の目の中を生きなければならない。社会性への軽蔑。その水たまりの中に沈むことへの嫌悪。僕は世界を見たいのだ!

僕はひねくれているだろうか?20半ばにして中二病かと笑うかもしれない。しかし僕は何かを否定しないと、エネルギーが沸き立たない。だれかが言ったように、全ての創造は否定から始まる!のだから。

9.09.2013

戦時中と現代の若者

「きけわだつみのこえ」がおもしろい。

戦時中の若者の手紙や遺書を綴ったものだが、単なる反戦ものとしてではなく、当時の若者の考え方や、戦争に対する考え方を知る上でとても役に立つ。(僕は戦争に対してはニュートラルな立場である)

とくに、朝チャイムで起き、意地悪な先輩にどやされながら働きづめ、夜チャイムで寝るという厳格に管理された集団生活の中で、自己の思想を薄めまいとする若者たちの努力が、妙に共感できる。これは本来的な意味での読み方と違うと思うが・・・

というのも、その思想や自由を喪失する危機感が、就職前の若者と似てるような気がするからだ。就職すれば、朝から晩まではたらかなければならない。頭の悪い上司に同調しなければならない。高尚な思想や若くたぎるような熱意も、会社の利益にならなければ心の奥底に隠さなければならない。なんだ現代も、戦時中と大して変わらないではないか。死の恐怖はないにせよ。
(戦時下の英霊と、現代のゆとりを同じにするなと言うなかれ。あなたも知るとおり、青春の悩みは無限に深刻である)

日本人ほどはたらくことを嫌う国はないという統計を見たことがある。はたらかなくていいなら、ぐーたらしていたいというのが日本人なのである。これは日本人が怠け者という意味ではないことは明らかだ(日本人ならだれでもわかるとおり)。労働が、あまりにしんどいのである。

他方、マルクスの言葉を借りるまでもなく、労働には肯定的な面もある。やりがいや居場所を作ってくれるのだ。退職した男性がやりがいを失って、精神を病むという話はよく聞くが・・・。ともあれ僕ら学生の間では、「就職したくない」が合い言葉である。「主夫になる」とは流行の冗談である。労働に意欲を見せる学生は、その高給が目当てだ。なぜ、労働は苦痛になってしまったのだろう。その答えが本著にあるんではないか。

自分をねじ曲げなければならない。したくもない仕事をしなければならない。単調で、だれでもできる仕事。成果がよく見えない仕事。ひたすら拘束される仕事。そんなものが増えてしまった。

日本は敗戦後、怒濤の勢いで高度経済成長をなしとげ、世界一に躍り出た。これも、戦時中の延長だから起こったことなのだと思う。大日本帝国軍は尋常ではない強さを見せたが、その背景には全体主義がひそんでいる。敗戦後も同じである。

そうして、そんな社会だから日本は自殺者が絶えない。豊かでありながら、不幸な国。一学生として、本著にささやかな共感をこめ、ひそかに自分を慰めるしか僕にはできないが。もう少し、生きやすい国にならないか、日本、と思う。


アルコールの効用

物を書くには酒に酔っているのがいちばんよい。

アルコールの酔いは「かくあるべき」からの脱却だからだ。カフェインの酔いとはまた違う。カフェインを摂取すると、人は厳格になる。「かくあるべき」と、まがいものを投げつけてしまう。

言葉とは物事を制限することだ。頭の中には抽象的で、多様な、何色ともつかない思惟が渦をまいているのに、そこから吐き出される言葉は数キロバイトの文字列でしかない。カフェインに興奮した神経は、これを許せない。

ものを書くとき、人は書くと同時に書かれているのである。人がものを書けば、読まれなければならない―備忘録だろうと便所の落書きだろうと。たちの悪いことに、文章は人物のもうひとつの顔なのである。たかが数キロバイトの文字列が・・・。人を表す・・・。(だから僕は、手書きの日記を好む。手書きの日記は情報量に富み、再現不可能だからだ。ただ、さすがに量が書けないのでブログも使う)

誇り高き(そして薫り高き)カフェイン浸りの脳は、これを唾棄する。唾棄して、躍り上がり、わけのわからない言葉を叫ぶ。そうしてカフェインはこうしなければならない、の壁に圧迫されて、身動きがとれなくなる。何もできなくなる・・・。

ああ、アルコールの怠惰と、平和よ。怠惰とは平和である。何からも許されているという感覚。

・・・それでは勤勉は戦争なのだろうか?そうかもしれない。戦争とは生の凝縮だからだ。間近に控えた死ほど、生を濃密にするものはない。ソクラテス風に言えば、善く生きる、ということ。それは戦争なんだろう。論争を好んだソクラテスだから。

今日はブックオフで本を買ってきた。トルストイ。「聞けわだつみの声」。「自閉症だった私へ」。「恐るべき子どもたち」。あと一冊なんだっけ。忘れた。

最近は、生の実感がない!「希望は、戦争」まあそれでもよいのではないか。さっさと死ぬのもいい。しかし、悲しいことは、死んでも何も変わらないということじゃないか?死さえも救いにならないとすれば、人間の生とは、底なしに恐ろしいものじゃないか?

ああ、どうでもいいことを書いた。明日からまた月曜だ。そして月曜日にこの日記を読んで、明日もにやにや薄ら笑いを浮かべる僕。おやすみ。

9.08.2013

ツイッター問題に思う

時事ネタ。

ツイッターでアホなことをして総たたきに合う例がある。僕はこの問題を見て、違和感があった。周りの大人は何をしているのだろう・・・?

結論から言えばこれはアホなガキに非があるのではなく、社会の問題だ。

まず第一に、ガキがバカなことをするのは当たり前である。ガキとは社会人二年目くらいまでだ。だいたい24才くらいか。社会が平和になり、平均寿命が伸びたのだから、成人が20才というのも時代にそぐわなくなっている。22才がバカなことをしても、大した問題ではない。むしろ、バカなことをして正常なのだ。14才の思春期ボーイが反抗的なのが心理的発達に必要なように。冷蔵庫に入る、アイスボックスに入る、いいじゃないか。俺だって山盛りのパンズの上に寝転びたいと思う。

んで、いちばん悪いのは身近な大人だよ。大人がガキになめられてる。僕はいろんなバイトをした経験があるけど、正社員って、有能なバイトにとことん弱い。そういうバイトは飲み込みも早く、仕事もできる。マックだとかすきやのチェーン店の仕事って、だれでもできることでしょ。だから正社員より優秀なバイトなんて珍しくない。結果、監督すべき正社員が、バイトに振り回されることになる。

だから、バイトはやりたい放題。冷蔵庫に入って遊んでいるバイトを正社員が見とがめたところで、「ふざけるな!」と怒鳴ることはしないだろう。「それはダメだと思うよー」と情けなく薄ら笑いをする程度だろう。今後の関係もある。ガキがのさばるのも、当然なのだ。

こうした人間関係のゆがみは社会の構造に問題がある。誰でもできる仕事の増加。いくらでも代替可能な歯車。チェーン店の末端に身を沈める大人と、夢や希望もある若者。

ともかく、こういった画像をツイッターにあげることには問題があるだろう。炎上して数万人の目に届けば、必ず是としない連中が牙をむく。僕ははっきり言って、死ぬほどどうでもいいと思っていた。顔を真っ赤にして怒っている人は、歯車的な人間なのかもしれないな。

大人、がんばろう。ガキに負けないように。調子に乗ったガキは、ポカッと殴ろう。長く生きてるあなたが偉いのだ。という日記でした。

9.06.2013

表現

表現しか道はない、と感じる。

どこまでも浅薄な世界。その一点に、垂直にそそり立つものを残したい。僕が生きた証。


それはある意味で諦めだ。人間には表現が限界という冷たく、そして滑稽な壁。
偉大な哲学者でも、文学者でも、音楽家でも。表現という舞台でしか、勝負できない。

しかし、表現者のみが認められるのだ。認められ、享楽を味わうのだ。
孤独のうちに死んでいったものが、本物だろうか。
本物であることは善いことだろうか。善い生き方だろうか。

僕はひたすらに沈黙を守りたい。パラフィルムで密封されたフラスコのように、自己の中で、自己を保全し、そうして自己を破壊しながら生きていきたい。自分の原子をぶつけあい、化学反応を起こしたい。これは傲慢だろうか?

自己に会いたい。のなら、酒かコーヒーだろうな。酒は冷たい現実を、コーヒーは激しい陶酔を見せる。

酩酊。

一度だけ味わったマリファナは、表面的なものでしかなかった。カフェインの作用には及ばない。


ああ、いずれにせよ胃の奥にずいとのしかかる重圧には変わらない。人間という機能形態の貧しさよ。

人間は、どこまでいっても人間なのだ。
人間。どこへ行こうとも、人間なのだ。
人間。なにをしようとも。

人間という壁。箱。

何を読んでも、何を学んでも所詮は人間。

諦めであり、救いである。

光であり、壁である。

人間に、人間は辞められないのだ。その重圧。

話を戻そう。僕は表現の世界に生きたい、と言った。これは嘘だ。このページの最初の方は、もっともひどい酩酊の中で書いた文章だ。だから僕の本音がわかる。僕は、表現なんて嫌いなんだ。僕は自分の中で、自分の庇護の中で、自分という暖かみの中で、自分という母胎の中で、ぬくぬくと、生きたいんだろう。

僕はまだ生まれてもいないのだろうか?

トンネル。穴蔵。押し入れの安心感。今いるここ以上に、すばらしい場所があるという確信。世界は別にあるという安心。僕は、僕は、僕は。

疲れた。おやすみ。

9.02.2013

まっすぐで透明な人間になりたい

まっすぐで透明な人間になりたいなあ、と思う。

過去も未来もなく、今に生きる人間。他者も打算もなく、本能に従う人間。前にまっすぐに進む人間。

前へ。今。

僕は自分の精神障害だとか、よじれまがった人格を治そうと努力している。そのために、荒療治に出たことがあった。普段記憶の底に埋もれた、というかこびりついて忘れられたような過去のトラウマをほじくりかえそうと試みるのだ。

そうして、それをリストアップして、毎日見る。過去のトラウマと向き合うことで、潜在的な影響力を奪おうとした。

精神分析では、過去のトラウマを催眠術かなんかで思い出させる療法がよくある。これの応用というわけだ。

ただ、最近は思うんである。過去と向き合うよりも、今何をするかの方が重要なんじゃないかって。

どうも、僕はあまりにマジメに考えすぎてしまうきらいがある。

こういう人間って、ダメなんだよ。どうしても楽に生きられない。楽に生きることがいちがいにいいとは言えないけど、どうでもいいことにとらわれて人生を浪費して、気がついたら死を前にするってのは味気ない。

それに、このトラウマ解消療法はけっこうハートの強さが必要なんである。効果があったのかどうかはわからないけど、すごく自信を失ってしまった。自分はダメな人間だ、世の中に必要な人間なんじゃないかって。

こりゃーやべえなって思った。自信を失っては失敗し、また自信を失う負のスパイラルに陥りそうだった。まあ、僕は根拠のない自信に満たされていたから、多少の刺激にはなったかもしれない。本当に、羊水の中でぬくぬく過ごす赤ん坊のように自信家だったからね。教養かぶれというか。

はあ、まっすぐに生きたいなあ。

僕の最近のマイブームキーワード。「男はかっこいいと思うことだけをやればいい」
これは自信を持っておすすめできる。

かっこいいと思うことをしていれば、必ずその分野で成長できるし、そこで挫折もできるだろう。そしてその挫折の中にこそ、爆発のような感動があるんである。
あと、本当に自分が思うかっこいいことをしていれば、必ず共感してくれる人があらわれる。共感者は協力者になって、そうして協力者は成功のもっとも重要な必要条件でもある。協力者とは恋人や友人でもあるので、豊かな人生にも恵まれるだろう。

だから、子どものように、好き勝手生きるのがいちばんいいんだ。

問題は、何をすればいいかだ。自分がほんとうにしたいことを知っている人ってすごく少ないんじゃないかな。才能だとか、年齢だとか、時間的余裕とか、そういうことを気にして。自分のしたいことを知っている、本当の人間だけが、真の成功をおさめることができる。

ああー、頭ではわかっちゃいるんだけどね。俺はどうしてもダメだ。だって人嫌いだし、ひねくれものだから。本当に、何をするにしても、人嫌いは損である。

もうひとつ、「人間死ぬのが当たり前」ってことだ。死を恐れすぎるのも、ダメなんだ。

これについてはまたいつか語ろうと思う。

こんな文章でも、だれかの役に立つことはあるんだろうか?
俺はこのブログに書いたことを翌朝読んで、にやにやしてるんだけども。