10.31.2013

ロジカルプレゼンテーション

ロジカルプレゼンテーションという本を読んだ。

面接とはプレゼンである。だから、プレゼン力は就活する上でどうしても必要になる。

なんとはなしに買ってみた本だけど、なかなかスマートな本で感心。

以下、メモったこと書く。


  • うまく紙に落とせるまで、考えに考え抜くことによって、自らの頭は鍛えられる。
  • 「うまく話せない」のは、「そもそも何を話すべきかがわかっていない」から
  • シンプルな提案を作ることが大切
  • MECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)=「相互に排他的な項目」による「完全な全体集合」)
  • 縦の理論と横の理論
  • 話になっとくしない場合の人の反応は二つに限られる。「本当にそうなの?」「それだけなの?」
  • 「六次元で発想する」。時の流れで一次元、情報・電気・取引など目に見えないものの流れで一次元、人間の気持ちや習慣で一次元。
  • 論理思考力はビジネス界でプロフェッショナルな存在となるための最重要スキルである
  • コミュニケーションの目的を理解するには「話題の内容」よりも「議論のスタンスのとり方」、「相手の要望の理解」が必要
  • 議論のスタンスとは、「何か意志判断をしてもらいたい」「単に聞いてもらいたいだけ」のどちらかである。
  • 自分の提案に不安がある場合は、本筋とはあまり関係ない情報を詰め込んでしまう
  • 「相手が立ち止まって、疑いの念を持って中身を検査しないような資料作りを」
  • メッセージは「合目的性」「斬新性」「明確性」「方向性」の四つの要素を念頭に書く
  • 明確性の欠如は「自信のなさ」、言い換えれば「検討不足」からくる
  • チャートにはイラスト、グラフ、テキストの3つしかない。



以上、ブログを読んでる人をあまり考慮せずに書いた。それでもきっとタメになる部分はあると思う。

プレゼン力とはただ良いプレゼンをするためだけにあるのでなく、相手に提案するためにある。その点でこの本は、就活においても大いに役に立つことと思う。

ビジネスマン向けの本だが、就活生向けとしては、より具体的・実践的な表現方法が提示されている点で有効だ。訴えるべきことは決まっていて、それをどう表現すればよいか悩んでいるならちょうどよい。


この本はいい本だ。その辺のクソビジネス本に比べると圧倒的な情報量で楽しめる(実はこの他にも一冊買ったのだが、くだらなかったので読んでない)。世の中には賢い人がいるものだなー。




ところで。

ついでに買ってみた「カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生」という漫画。
この漫画もちょーおもしろい。というのも、出世欲にかられて小便まで飲んだ女が僕が昔セクロスした女にそっくり。あと唐突な宮沢賢治が非常に良い。

10.30.2013

体を構成するものにも配慮しましょうという話

私が一線を踏み越えたと感じたとき――私は自分の手の平を見つめて確かめる。こんな偉大なことを成し遂げた人間が、同じ私であることを。

こんばんは。

今日は漫然と過ごしておりました。なんか、昨日ほとんど寝れなかった。上の階のドカン!という騒音で何度も目が覚めたり。おかげで今日一日無駄にしました。


だもんで、特に書くことはないのですが。普段気をつけていることでも書こうかなと。

就活にあたって栄養学的な面でアプローチしようと考えております。まずイチョウのサプリメントを買ってみた。これは記憶力と注意機能の改善が期待できる。ついでDHAのサプリ。これも学習能力・記憶力の向上が報告されとります。

そんでもって、滋養強壮にハチミツをとっております。食事は野菜やくだものを中心にバランス良く食っております。(研究の都合上どうしてもカップ麺を食べることもあるんだけど。)肉を食べ過ぎないのが肝要であり、食べ過ぎると精力がついてオナ禁がつらくなるのであります。タンパク源は卵を食べればよろしい。
間食は適度に。高級輸入チョコでも買っておくと良い。もったいなくて食べ過ぎることがない。ポテチは消化器への負担がでかいので辞める。
酒は適度に、煙草は吸わない。酒は生活リズムが崩れる原因になるので僕は控えてます。煙草は禁煙して一週間ですがとくに感じることもなし。吸いたい気分はありますがあんな高いもん買う気がおきない。
水分を多めに補給すると意識が冴えて良い感じです。運動はきっちりしましょう。特に腕立てで胸と肩の筋肉をつけましょう。正面の相手に対して見栄えがよくなります。

ささいなことだらけですが積み重ねが大きな違いを生みます。とくに疲れやすい・睡眠時間が長い・ストレスに弱いなど感じる方は栄養面を見なおすと効果があると思います。おしまい。

10.29.2013

人間の性格なんて16種類に分けられるわけで

就活では自己分析が大事というが、自分についてよくわかっていない人は多い。僕もそのひとりであり、自分をどのようにアピールすべきか、思いあぐねていた。

しかし、世の中便利なツールもあるものである。「性格診断」を行えば良いのだ。といっても心理テストのようなお遊びではなく、あの名高い精神学者ユングによって原型が作られたMBTIと呼ばれるガチな性格分析であり、世界でいちばん行われているものでもある。
MBTI(Myers-Briggs Type Indicator)は、ユングの心理学的類型論(Psychological Types)をもとに、1962年に米国のブリックス(Briggs,K)とマイヤーズ(Myers,I)によって研究開発された、人と人との違いを知ってお互いに尊重しあえることを目的に作られた、類型論に基づいた、自己理解メソッドである。

主要な分類は以下の通りである。

How they focus their attention or get their energy (extraversion or introversion)
How they perceive or take in information (sensing or intuition)
How they prefer to make decisions (thinking or feeling)
How they orient themselves to the external world (judgment or perception)


つまりは外向的か内向的か、感覚的か直感的か、思考型か感情型か、判断型か知覚型か、の四項によって、16分類するものである。

簡易的なテストであれば、5分も経たずに自分がどの性格かわかる。しかもそれなりに当たっているのだから恐ろしい。



僕の性格はというと、プロフィールにあるとおり「科学者タイプ」のINTj型である。INTjとは内向的・直感的・思考型・判断型の人間という意味だ。

この人格を簡単に説明すれば、「改善の余地を見逃さないアイデアマン」であり、16種の中でも最も自立しているタイプ。生活の半分は思考の中で暮らしている・・・とかそんな感じ。自分はこういう人間だという自負があったわけじゃないが、かなり的確で正直おどろいた。

まあそんなことはどうでもいい。面接の話だ。自己アピールで長所と短所は必ず聞かれるだろうから、長所とは"INTJ"でググった通りの
Independent and decisive.
Hard-working and determined.
Imaginative and strategic.
であり、短所とは
Perfectionists.
Likely to over-analyze everything.
ですと答えれば良い。(さすがに世界でもっとも使われている性格診断だけあり、情報がやたらとある。ただし日本ではなぜか流行っていないので注意)

ようは「長所は自主的に行動でき、決断力があります。目的のためなら全力で打ち込みますし、一度決めたことは簡単に曲げません。想像力があるので戦略的に物事に取り組むことが出来ます」
「短所は完璧主義的な部分があることです。また、物事を深く考えすぎてしまうことがあります。」

なんかそれっぽい答えではないか。こんなもんコピペで良いのだ。ちょろいもんだ。

ちなみに僕とまったく反対の性格であるESFPタイプであれば、
「長所は何事にも挑戦する積極性と、人の中で一歩抜きんでる独創性です。また優れた対人スキルを持っていて、どんな相手でもくつろいだ気分にさせることができます。」
「短所は平和主義的であることです。他者を思いやるあまり、自分を抑えてしまうことがあります。また、楽しいことがたくさんあると目移りしてしまいがちです。」

両者はまったく違った回答だが、それでも一貫性があり好感が持てる。

長所短所の説明でもっともいけないのは、長所と短所が矛盾していることである。「長所は動揺しないこと、短所は心配性なことです」「長所は計画的なことで、短所は感情的なことです」などの例はよろしくない。面接官を混乱させるだけだ。その点この性格診断を行えば、矛盾なく完結にイメージを伝えることができる。

前に言ったように、面接官はあなたが何者なのか知りたいだけなのだ。わかりやすく伝えることもマナーであり技術である。その礼節を欠けば、あなたがどんな人間かなんてまるで興味を持たれない。また、おかしなことを言えば自己分析のできない無能か短所をごまかす信用できない人間と思われること必至である。

物事はシンプルでいい。余計なことを考えるからややこしくなる。

ちなみに、「こういう性格なら受かりやすいのではないか」と心配する必要はない。自分の性格をごまかせば大抵バレるし、騙し通せたとしても入社後に苦労するのは自分である。ユング先生がお前はこういう人間だとし、採用のプロである人事がそういう人間は要らないと判断したのであれば、大抵それはwin-winの関係である。面接官は適性のない人間を落とし、君は適性のない職場から免れたのだ。

たしかに、営業職であれば明るい社交的なタイプ、事務であれば規律を守り黙々と物事に打ち込むタイプ、研究職なら独創的なアイデアが出せるタイプ・・・と適性があることは間違いない。しかし16種類ある性格はどれも必要なものである。それぞれ個性があって助け合って成り立っている。どんな性格にもある程度のニーズがあり、あとは誠実さや熱意で決まることを忘れてはならない・・・。


それにしても、バックグラウンドにユング大先生が付いているというのはかなり安心感がある。自信を持って「自分はこういう人間です」と言うことができる。自己分析は友達や家族に聞け!とよく言うが、ユング先生の答えの方がはるかに頼もしい。





話は変わる。


なんか最近、就活のネタばかりになってしまっている。これはこれでタイトルの「本の執筆」へ一歩近づくことにはなるのだろうけど(今日のネタだけで、就活本の数ページが書ける!)、本来の自分の心を赤裸々に語るような、いつもの日記が書けなくなってきている。
僕は自己の内面世界を恥ずかしげもなく語ることが好きなのである。

僕は就活という異物を飲み込み何になるのだろうか。――僕は非常に楽観的である。飲み込まれるのではなく、飲み込む自信がある。自分が並の人間より有能であることは当にわかっているからだ。

さながら絲山秋子の「天才宣言」である。絲山秋子はデビュー一年で川端康成賞をとった事実上の天才である。「天才宣言」は彼女の文学世界への志望動機でもあるので、就活に関係がないわけではない。ここに参考に書いておこう。
文学というものが現代どういう状況におかれているかは大体把握しているつもりです。
どんな本が売れているかもおよそ判ります。
なぜ私が文学を志すのか、答えはとても簡単です。
まず仕事に対する考えとして、人がやっていないことで私がやるべきことがある。
文学に対する考えとしては、自分が読みたい作品がないから書きたい。
その2点です。結果がどうであれ自分には才能があると信じます。
生活との両立は難しい。一生貧乏だな、きっと。
そういえば私の病気も生活を脅かすアイテムの一つではあります。
これは文学や芸術だけの問題ではない、例えば政治家と作家は、
日本の現状では「エゴ」という点で
見て対極にあると思いますが、プロセスはよく似ています。
私が小説を通してしたいことは、特定の行動を促すことではありませんが、
読者の顕在・潜在意識に働き掛けることだと思っています。
読者それぞれが持っている「何か」を改めて「伝える」のが仕事です。
一方で経済について言えば、「お金」という「言語」を通して
物事を翻訳する仕組みという面があります。
だから芸術に限らず、同じような、人から見たら勝算のたたない闘いを
自分の天職としてしている人は世の中に、或いは歴史的にいくらでもいます。
無名のまま終わっていってもそれは仕方がない。相手のせいではない。
時代のせいにしても仕方がない。 ただ、そういう人々に私は共感するし、
私自身も評価に媚びずに生きていきたいと思います。
なんだか科学者のような真摯な分析と、胸の空くような透明な意志が感じられてお気に入りの一文だ。

自分を天才と言うなんて傲慢ではないか、と言う人もいるかもしれない。しかし世の成功者の中で、自分を天才だと思っていない人はまれである。

謙虚さとは、溢れんばかりの自信からしか生まれない。自信のない人間が卑下したところで、それは事実のままである。自己の思想、能力、過去や未来に確信があるのに、へりくだるところに美学がある。(そして謙虚な人間が自分の天才性を表明したとき――そこには真の爆発がある!!)

実業家のロバートホプキンスはこういった。「平均的な人間は成功者ではない」。こう言っても良い。「平均的な人間は負け犬である」。天才宣言とは、いわば世界を見る覚悟を決めることでもある。奴隷より貴族の方が楽な時代はなかった。

・・・

最近は、生きている、と感じられる日々である。いつか僕は生きてる実感がない!と嘆いたが、目標ができると違うものだな。前へ前へ生きていくのが人間の正しい姿であるらしい。

しかしあの停滞感と重苦しさもたまに懐かしくなる。今はあまりに軽く生きているのではないか、と疑問に思うことも。

「存在の耐えられない軽さ」が好きで何度も読んだ。結局ギリシャの哲学者は、軽さを善としたのだっけ。

まあどうでもいい。寝る。眠くなったから眠る、それだけのことよ!

10.28.2013

就活本を読んでみた

こんばんは。今日は気分が良いです。実に円満な気分。

岡本太郎は、「幸せなら手を叩こう、と歌いながら手を叩く若者を見ると、蹴飛ばしてやりたくなる」というようなことを言っていたが、全く同意である。僕の円満な気分というものも、ほのぼのとした幸福感とは別物で、どちらかというとトゲトゲしく殺気だったものだ。円満とは「円を満たす」のだから、ややもすれば閉鎖的なイメージがある。しかし僕の場合は逆だ。自分を中心にして、サイの角が四方八方へ向かっていくような――

いやそんなことはどうでもいい。
今日も就活のことについて書く。

昨日「就活に関する本は買いたくない、それならブッコフで105円の岩波文庫でも買うわ」と言った僕だが、その言葉に偽りはない。買う代わりに大学の図書館で適当な本を3冊借りてきた。んで全部読んだ。

僕は就職界の完全なるにわか・アマチュアであるので、どのような本が良いのかわからない。だからタイトル借りである。読む間メモを取ったので書く。

やさしいグループディスカッション 2009年度版

グループディスカッションの演習を控えていたので借りた。
  • GDは落とすためにある。顔合わせ程度の意味しかない就職の初期関門である
  • 他の志望者の話を聞いて、あいづちを打ち過ぎない
  • 就活の「疲れ」を見せない
参考になったのはこれくらいか。CGが変に気持ち悪いのと、何となくそれっぽい本を書いてみた、くらいのあまりやる気が感じられない内容だった。

あと、感覚が古い。中でもえっと思ったのは、
「仮に当社が不合格だったら?」という質問に対し、「来年も受けます」と答えよという内容である。いや、ギャグなんだろうけどね・・・。今時この感覚はどうなんだろう。僕が人事なら真っ先に切る。

これから就活を始める君たちへ

これから就活を始める僕なので借りた。実はこの本2年前くらいに読んでいた。読んでいる途中でそのことに気付いたが、当時なぜこの本を読んだかはよくわからない。

就活予備校の講師と生徒の話。なんだけど、あまりに生徒がダメ人間すぎて、就活以前に人生が始まってないのではないかと思うことも多々。

それなりに泣ける話はあるし、おもしろいエピソードもあるので読み応えはあるが、普通の就活生には大して意味はないだろう。あと熱血教師のような妙なうさん臭さが鼻についた。斜め読みするくらいがちょうどいい。

気になったのは、コミュニケーション能力向上のためにナンパをしまくった学生の話である。なんか、彼女欲しいしコミュ力あげたい僕にもぴったりの方法だと感じた。

(話が脱線するのだが、100人ナンパというエピソードは就活に役立つかもしれない。やることはただ休日、友人と連れだって100人ナンパするだけである。これだけなら単に行動力を示すだけだが、そこで僕はこういう。「僕は女性を口説いただけではありません。友人を一から説得し、100人もの女性をナンパさせたのです」。リーダーシップ、他人を動かす力のアピールである。面接官はぐっとくるはずだ。多分)

だから内定をのがす! もったいないカン違い45
4000人以上の面接をこなした人事の方の本である。就活における陥りやすい勘違いをずばっと指摘する。さすがに内容が具体的で、漫画のセンスもいい。

・面接は自分の性質を伝える場
・面接はコミュニケーションの場なのだから「私はコミュ力がある」はおかしい
・GDでは名前をメモする
・明るく、元気よく、学生らしく、さわやかな人を無理して演じる必要はない

・・・特に最後。今日無駄に3冊も本を読んでよかったと思える一文だった。僕は僕のままでいいのかー。

全体として、就活生に合格させてあげたい、という気持ちの伝わる良い本だった。

総評
今回なんとなく手にとった3冊だが、それぞれ筆者が「記者」「就職サポーター」「面接官」と違っており、その特色がよくわかる結果となった。

記者が書いているものはあてにならない。就職サポーターは熱が入りすぎてよくわからないことになる。面接官はさすがに的確である・・・。というわけだ。今後は面接官の書いた本を読もう。
(もっと欲を言えば、経営者の書いた本だとより良いのではないかと思う。)


世の中には、やっぱり悪書が多いと感じた。いい加減な本は読んでいてイライラする。ニーチェはこういった。「血をもって書け。」僕も全く同意だ!

10.27.2013

若者よ、学生らしく

就活するにあたり何をアピールすれば良いかを考える。

企業が欲しがる学生は一に熱意、二に協調性だと思う・・・。ところが、僕はまるで逆の人間である。熱意はあるのだが、表に出さないタイプであるし、協調性は全く欠けている。人と話していても不和になるだけなので、最近は「沈黙は金なり」の金言を言い訳にして、会話自体から遠ざかっている。

それなりに勤勉だし、アタマはよくはたらく方だと思うのだが、それだけではきっと合格は厳しいだろう。


よく、「まじめに勉強してきた奴よりも、バイトや遊びばかりしてた不良学生の方が大企業へ行く」との恨み節が聞かれるが、それもしかたないことだと思う。

バイトで良い経験をしていれば、企業のコミュニティでもうまく渡れる素養が出来ているし、営業職なんかでは女のひとりも口説けない人間は不要だろう。

そもそも「めいっぱい遊ぶ」ということは実はけっこう難しいことなんである。適性や努力、意志がないとできない。それでも「大学時代の思い出」というのは一生の財産である。一生のうち遊べる時間は限られている。大学生のうちに遊び尽くすことも決して悪い過ごし方ではないと思う。

それを無碍に勉学で塗りつぶすことは、決して賢いことではない――と遊び呆けてきた人事部の方々は思っているのかもしれない。

ニーチェがツァラトゥストラに語らせたように、
真の男はふたつのものを求める。危険と遊戯である。
のであって、
男の成熟、それは子供のころに遊戯の際に示したあの真剣さを再び見出だしたことを言う。
のである。成熟さを備えた真の男は、遊戯を愛するのだ。となれば、ガリ勉くんはある種の未熟な男なのかもしれない(だから一般的に面接官のウケが悪いのか)

ともあれ企業は学生が欲しいのであり、学生らしい学生というのは好意的に見られるようだ。

「ガルシアへの書簡」という有名な話がある。どんな人間が社会に求められているか、端的に描かれているので就活生は一度読まなければならない。例えば、こんなフレーズがある。

若者に必要なのは、机上の学問でもあれこれの指示でもなく、背筋をまっすぐにのばしてやることである。そうすれば信頼に応え、迅速に行動し、精神を集中して、任務を遂行するだろう。
背筋をのばして義務を遂行する人間が必要ということだ。常識的なことだが、ここで重要なのは「机上の学問でも~なく」の部分に二重線を引くことだ。(特に僕のような人間にとって)熱意のつもりが、みすみす相手方の信頼を失っていることが少なくない。

他にも優れた言葉がたくさんあるので記す。
私が心惹かれるのは、どんなときにも自分の務めを忘れず、その実現に向かって努力を続ける人である。 自分の困難よりも、計画の遂行を優先させる人である。
そういう人は、決して一時解雇を受けないし、賃金のアップを求めてストをする必要もない。逆にどこからも乞われる立場となるだろう。
文明とはそのような人を捜し求める長い過程でもあるのだ。
そのような人はどこの都市でも、町でも、必要とされるに違いない。 どこのオフィスでも、店でも、工場でも。
世界中がそのような人を呼び求めている。

富を得ること、職を得ること、他者から必要とされることは決して難しいことではないと思う。誠意ある姿勢で、不断の実行力を持つこと・・・。

何度でも言っておきたいことだが、僕は「社会に求められる人材」なんて言葉は大嫌いである。人を歯車みたいに扱うなと言いたくなる。それに、求められる人材いうと残りは「社会に求められない人材」とされそうだが、実際には「社会を求めていない人間」もいるのである。こういうところに社会の無自覚な傲慢さを感じるのであって、それが嫌いだ。

根本的にそういった社会のあり方を否定しているのだが、もう毎日言ってるように、「軽蔑するのであれば、乗り越えなければならない」のである。乗り越えて乗り越えて、その先に何があるのかはわからないが、一歩一歩あるくことしか人間にはできない。のだから。

眠いのでむちゃくちゃです。


カーネギー話し方教室

10日後にグループディスカッションをすることになった。

まるで就活に対して準備していない僕がGDに飛び込んだところで、失態が目に見えている。飲み会でさえ話すタイミングがわからない僕である。少しでも勉強してから望んだ方がいいと思い、いろいろ考えた。

就職に関する本はあまたある。わかりやすい成功した不安ビジネスだと思う。しかし、譲れない主義として、僕はそういった本は読みたくないのである。

世の中には紙の無駄としか思えない本が多すぎる。ブックオフに行けば一生モノの本が105円で買えるのに対し、中身の薄いごちゃごちゃした本を1500円で買うのは許せない。せめて時の流れか言葉の壁の淘汰を受けた、つまり海外の書籍か古典を読みたいと思う。

本棚を見ていると「カーネギー話し方教室」とかいう本があった(当然背表紙には\105とある)。自己啓発本にはまってた数年前の名残だ。外に出るのもめんどくさいのでこれを読んでみることにする。

ちなみにこの本の作者はデール・カーネギーであって大富豪者であるアンドリュー・カーネギーとは多分関係ない。読んでる途中にそのことに気がついて投げ出しそうになった・・・が我慢して読んだ。

以下、かいつまんでみる。
活力、生気、熱意――これこそ話し手の必須条件である
やはり熱意が必要なようだ。キャリアセンターのおっさんの言うとおりだ。たしかに話す、ということは外部への情報伝達なのだから、そこにある程度の積極性、エネルギーを内包しないものは、聞き手にとって偽物でしかないのかもしれない。そういう話は聞き手を困惑させたり、げんなりさせたりする。熱も冷たさも伝播するのである。空虚さ、冷たさを見せたら面接ではアウト。
犬と言わずにブルドッグと言う
これはかなり汎用性の高い方法論だと思う。話に具体性を持たせることによって聞き手への印象を強める。単純だが効果は高そうだ。

最善をつくして、自分の頭と心のなかを他人にのぞかせる能力を養うこと。自分の思想や考えを、個人対個人の関係によって、また集団や公衆のなかで、他人にはっきりとわからせることを学べ。そうする能力が向上するにしたがい、自分――真の自我――が、それまでかつて与えたことのない印象と衝撃を、人びとに与えていることに気付くだろう。
この言葉は僕にとって非常に意味があるものだ。僕の人格は内向の極みであって、他者をヒステリックに寄せ付けない傾向がある。他者に僕が理解されないのは当たり前で、しかたないと思っていた。だから他人に自分の心を覗かせるなんて、考えたこともなかったのである。

しかしそれはある意味で僕の弱点であった。友達は少ないし、彼女はできないし、社会性に欠けていると思われる。僕自身、人間嫌いなので友達が少ないのはかまわない(彼女がいないのは、少し辛い)。それにしても、この高度文明化された日本で、社会性の欠如がどれほど生活を困難にするか!

カーネギーの言うとおり、真の自我なんてものが与えられるのであれば、僕の人生にとってある意味革命が起こるだろう。


10.24.2013

死を前にした人間の文章は透明で美しい

「きけわだつみのこえ」が良い。

内容は学徒出陣に至った若者の遺書や手紙である。だから、そこには若き魂の青春の透明な叫びがある。当時の大学生とは正真正銘のエリートだから、美しい凋落もある。第二次世界大戦という、史上もっとも巨大な歴史に立ち向かった血の臭う生傷がある。

それが、何百人もの若き死と叫びが、ぽんと文庫本に収まる。こんなおもしろい本が他にあるだろうか?

昔の人はかわいそうだったのねと嘆いてはいけない。彼らの生き様を尊敬しまた羨むのだ。私も死を前にして雄々しくありたいと。

ガロアのように数学社会の反逆児になるのでもなく、ガウスのように数学社会の処世家になるのでもなく、ある数そのものの中に跪いたアーベル、アーベルを俺は限りなく愛する。
この軍隊生活の中から俺の心は逃げている。いいか!
偽ることなく現実を直視せよ! 
何ものに向かっても何ものに対してもいついかなるときでもにっこりと微笑む人間にならねばならない。童話(メルヒェン)の中の天使のような子供らのように、にっこりと笑ってひとつの物語の幕を閉じたい。 
”我執を捨てよ”という。しかしそんなに簡単に棄てられる我執だったら、軍隊生活半ヶ年、もうとうの昔に始末しているはずだ。棄てても棄て切れない自分。自分で最も良いものと信じている自分の姿、それは最後まで大事に立派に育て上げるのだ。
その自我が、いかにして軍隊生活の中に生き抜いてゆくか、――単なる妥協ではなく、ごまかしでなく、誠実の籠った意味で――それが自分にとっていちばん大きな問題だ。他人はこれに対して何者も加えることはできない。また、これに関して他人に救いを求めることもできない。自分ひとりで、誠実に、賢明に処理してゆくことだ。
明日死ぬかもしれない自分である。
大衆の中に没するということは永久に大衆の中に自己を滅し去ることではないはずだ。大衆の愚劣と平凡と息切れのする臭気の波の中から、喘ぎ喘ぎ浮かびあがってきた、いまだ滅しきれない自己の姿――それはすべてを洗い落としてすべての戦いを戦い抜いて、最後に残された自己だ――に今こそ、手をさしのべて、救い上げてやる時ではないか。 
私は戦をぬきにして戦に征く。その言葉を解してくれるものはないかも知れぬ。ただ私は人の生命を奪おうとする猛獣的な闘争心は今持たぬのである。そうしてこの憐れな、まるで渦中にすいこまれるような思いで、私は戦に征くのである。

以上が僕の好きなフレーズだ。彼らの言葉がどれほど美しいかわかるだろう。




僕はタバコを辞めたが、その二日目にして欲望を隠し切れない。しかしそれでいいのだと思う。ニコチン中毒の肉体的消失点は二週間であると言われてるのだから、無理してごまかす必要はない。それに、喫煙の欲望はより巨大な欲望である食欲や飲酒欲に飲み込まれる。

しょせん欲望とはひとつ人間の抱える一極点に集約されるのであって、それが万人に共通という点でキリスト教の原罪と分類される類いのものである。人間の欲望は絶えることはないが、欲望の軌道修正をして、色を変えることはできる。マズローが言ったように、「自己実現する人間の欲望は判断に同意する」。そこが人間と動物の決定的違いだ。カフカの「断食芸人」は目的と結果の逆転である。

下世話な話だが、オナ禁と同じである。げせん(なぜか変換できない)な欲望を安易に発散させてはならない。溜めて溜めて、一身の全体に、溶鉱炉のように煮え立たせる。そこに初めて爆発が起こる。「芸術は爆発だ!」と某太郎氏は叫んだが、太郎先生はオナ禁をしていたに違いない。その爆発とは、欲望を超越した何かである。

まあこう言っている以上当然なのだが、僕はオナ禁もしている。しかし身体上の不都合は一切なく、言うとすれば元気が良すぎることくらいか(性的な意味ではない)。

医学的に「中高生にオナニーは推奨すべし」という流れがあるが、あれは思春期の繊細な精神に障害を与えないための方便である。禁欲した方がより良い効果があることは周知(宗教や文化、生理学的に)の事実だ。


10.23.2013

年収2000万

年収2000万を稼ごうと思う。
そのために僕は勤勉と謙虚さを約束する。期限は35才まで。一流企業に就職し、社会のいろはを学び、その後自分の会社を立ち上げようと思う。

2000万、という数字に大した意味はない。ただ金銭的な苦労でわずらわしい思いをしたくないだけだ。

僕は人生において金銭的・時間的余裕を持ちたいと思っている。そのためにはまず金だ。お金は汚い。金なんて不要だ。だからこそ、金を超越したいのである。

ところで、今日タバコをやめた。僕にとって喫煙はひとつの主義だった。今世の中に蔓延している健康至上主義への反発である。しかし、タバコは体力と財布の小銭を奪っていくことに変わりなく(最近は小銭どころではなくなったが)、泣く泣く辞めることにしたのだ。

ひとつ言っておけば、タバコの是非をあれこれ語ることができるのは、禁煙者のみである(ただし完全にタバコの執着から脱した者)。
タバコやその中毒がどんなものか知らない者も、タバコの虜となっている喫煙者も、タバコに対する眼鏡に色がついていることに違いない。だから、タバコの是非うんぬんは禁煙者が決めるべきである。僕は3年タバコを辞めた期間があったが、そのときほどニュートラルにタバコを考えられたことはなかった。健康や金を奪うが、たしかに、かっこいいし、悪くない趣味なのである。

さて、このタバコを金というものに変えてみたらどうか。
金やそれを追求することがどんなものか知らないものも、金の虜になっているものも、金の是非を語ることはできない。金の執着から脱して初めて、金の本質を知ることができる。

悲しいことに、タバコは単なる嗜好品だが、金は少なくとも生きていく上で必ず必要なものである。だから、貧乏人はもちろん、守銭奴も金から自由になることは非常に難しい。

自由である、ということ。僕はニートになりたいわけではない。シモーヌヴェイユが言ったように、「未完成の仕事の光景は、笞が奴隷を追いやるのと同じ強烈さで、自由な人間を引き寄せる。」のである。自由になって初めて、自分の本当の仕事が見つかるのだ。そのためである。


面接とはなにか

昨夜、「極限の緊張と混乱の中でも極小の自由を胸に抱」くために就活への決意を固めた僕である。

さて、就職とはなんだろうか。教授から勧めてもらった「面接の達人」とかいううさん臭い本を読んでみた。わかったこと書く。

まずもって、、、

企業とは利益を追求する組織である。

大前提として、会社に利益をもたらす人間が求められていることは疑いようのないジジツである。

当たり前のことだが、意外と忘れがちであるらしい。面接の際に面接官を笑わせることに終始したり、どうでもいい事柄を羅列したり、泣きついたり甘えたりだの。そりゃ面接官もできれば採用したいだろうが、面接官だって趣味じゃなく仕事でやってるんである。会社にプラスにならなきゃばっさり切り捨てるのは目に見えている。

さて、就職では面接がもっとも重要である。テストの結果だとか、字のきれいさはあまり重要ではない。面接では何を見るだろうか?それは、この就活生は何物であり、なぜこの会社に応募したのか、ということである。というかこれだけである。「面達」にも書いてある。「面接は自己紹介と志望動機だけを見る」と。

考えてみれば当然だ。面接官には会社のことはよくわかっている。どこにトイレがあってどこの部署の女の子がかわいいかも知っている。しかし目の前の就活生はまったく未知の生き物である。眼前に不可解な異物が居座っているのである。だから、面接官は決して応募者を落とそうとか、イジメようと考えているわけではない。「お前は何物だ、何しにきた」と当たり前のことを問うているだけである。だから応募者は、「俺はこういうもので、こうするためにきたのだ」と堂々と答えるだけで良い。それが正しければ採用される。

その他のことはまったく答える必要はない。KISSプリンシプルというものをご存じだろうか。「Keep it short and simple」という主義である。もともとプレゼンなんかに用いられる言葉だが、面接もプレゼンみたいなもんだから、有効に活用するといい。

さて、これで就活の大部分は理解できた。会社は利益をもたらす人間を求めている。そして面接とは、応募者がどんな人間であり、会社にどんな効果をもたらすかを知る機会だ。

もうこれだけで就活の根本原理は理解できる。あとは常識的に考えれば自然と採用通知のラッシュがくるはずだが、常識とはともすればぽっかり抜けてしまうものでもあるし、もともと抜け落ちていることもままあるので、ある程度気付いたことを書いておきたい。

面接で採用されやすい人間だが、重要な要素は多くない。

  • 意志が強いか
  • 行動力はあるか
  • 問題を分析する頭脳はあるか
  • 失敗や成功から学習できるか
  • それらから発展させることができるか

の5つだ。まあ嫌な言葉だが人間力である。
面倒だが書く。企業は三ヶ月で辞めるような無気力人間は欲しくないし、命令しないと動けない人間もめんどくさい。壁にぶち当たっても進み続けるアホはいらないし、成功に慢心したり同じ失敗を繰り返す低脳もいらん。育たない人材もいらん。ということである。常識だ。

だから、面接官から何か聞かれたら、これらのうち数点を抑えて回答すればよい。基本はこれである。

で、小手先のテクニックを書いていく。

企業が求めがちなのはAttackerではなくSupporterである。(これは「面達」には書いてないことだし、勝手な思いつきなので真に受けないでほしい)Attackerは攻撃的な人間であり、支援型の人間であるSupporterの支援を受けながら問題に直面して実地に行動する人間である。

もちろんAttackerも会社に必要な人間だが、少なくとも新入社員というものは最初の何年かは上司や同僚のサポートするだけが仕事である。そうして「君もそろそろひとりでやってみるか」と晴れてAttackerの仲間入りとなるのだ。

まずSupporterとして適性がなければ最初の数年でやめてしまうだろうし、何年も先のことを考えることが普通困難であるのは面接官も同じだ。さらに人事は採用して数年で問題が起きれば処分されるが、それ以降は会社あるいは本人の問題となる(多分)。だから、面接官はSupporterを欲しがる(多分)。

そしてSupporterが望まれるもうひとつの理由に、協調性というものがある。

言うまでもなく企業というのは組織だ。そして法人だ。法人とはなにか。組織をひとりの人間と見なすことだ。企業は法的にはひとりの人間なのだ。心臓がやる気を出して全力で鼓動し始めたり、脳みそがアドレナリンを出しまくってもおかしくなる。適切なときに必要な量の酸素を運んできて、にこにこしながらがんばってくださいと励ますような赤血球くんが採用されるのだ。
だからグループ面接で陥りがちな罠として、他人を蹴落とし俺さえ受かれば、という人間は邪魔でしかない。

いろいろ書いたが、重要なことは「やる気」と「常識」であると思う。カナダの有名な実業家が強調するように、「常識が実業界の戦いに携えていく最良の武器」なのである(まあ実業界でやっていける人間はたぶん就職界でも大丈夫だろう)。「単に常識的な人間なだけじゃ受からないだろう」と言うかもしれないが、常識を備えた人はこの世の中でもまれである(君の周りを見ればわかることだ。)だからそれだけで武器になる。そして常識に付随して、「礼儀正しさに勝る攻撃はない」ことも忘れなきよう。

以上は就職活動を一切経験しておらず、キャリアセンターにも足を運んだことのないへたれの文章である。ただ、渦中では全体像がわからないということもある。だからいちおう残しておく。
就活というのは、日本の不合理で理不尽な社会の縮図だと思っていた。しかし今回、まったくシンプルなのだと気付いた。資本主義はシンプルだから良い。シンプルなものは好きである。すばらしい。

さて、明日は実地の行動に移ろうか。遅すぎる行動は必ず失敗を招く。

10.21.2013

背筋をぴんと伸ばし、まっすぐ前を見据えた人間を人は負け犬だと思うだろうか?

最低限、人間としての誇りを保たねばならない、と考える。

だらだら寝ない。
背筋を伸ばす。
沈黙を守り、はっきりしゃべる。
毎日何かしら書く。
立ち止まって考える。

背筋を伸ばし、沈思黙考すれば、それは立派な人間である。くだらないおしゃべりに興じ、惰眠をむさぼる。漠然と生きているならそれは人間未満だ。ニーチェが言ったように、この世は金毛獣と蛆虫に分けられる。

いや、人間ひとしく価値があると僕だって信じたいが、どうも大衆とエリートという区別があってこそ、誇りが生まれる気がする。自己が平均点を超えていれば満足するのは民主主義的だが、それじゃ高みは望めない。

ある意味、異邦人とも言えるかもしれない。大衆から理解されない人間。常識にとらわれない人間。

最近はカミュの「異邦人」が大のお気に入りである。牧歌的な風景と、自然に生きる主人公が良い。僕だって、親が死んだところで涙ひとつ流さないだろう。もちろん、親の死に伏して涙を流すことは美しいことである。しかしまがい物の涙も多いものだ。こういう場面では泣く、と義務的にあるいは強迫観念にとらわれて泣いてるケースも多いんではないか?(逆に、虐待されてきた子どもが、ついに親が死んだ折、嬉こばなければ、と思いつつ涙が止まらないなんて話もよくある。この辺りドラマチックである。お父さんを喜ばせなさい!と泣き叫んだバキママのようである。だいいち、ふいに出た「お父さん」というセリフ自体悲劇的である。脱線した)

異邦人でお気に入りのセリフは、主人公が死刑判決を受けたあとでさえ、「僕はいつだって正しかったし、今だって正しい。」と言い切るところである。いったい国家から断罪されて、「それでも俺は正しいんだ」と言い切れる人間は殊勝なもんだ。のらくら生きて、それなりに主義主張をもってる僕でさえ、俺は正しい、なんて胸を張って言えることは少ない。
(昔は大の自信家だった時期があったが、今ではその時期は見たくないものに蓋をし、近寄らず、母胎の中でぬくぬく過ごしていたのだということにしている)

ともかく、常識というのは人間に甚大な影響を与えておきながら、うつろいやすいものである。しかし、だからといって常識を軽蔑しようというのであれば、常識を乗り越えなければならない。人間の文明の発生は農耕から始まると言われる。母なる大自然をその手によって「利用」するのである。人間の歴史とは、人間の進歩とは、恐れていたものを自分の手中に収めることの連続だったのだ。だから、常識を利用しなければならない。

それはもちろん常識的な人間を装うことで社会的に優位に立つことでも良いが、常識はずれなふるまいで注目を浴びたり、常識をこねくり回して自分にとって都合のよいものに変えてしまうことでもいい。こうした過程を経て人は初めて常識を軽蔑できるのである。中二病がバカにされるのは、社会を否定しながら、社会に対し何も影響力をもつことができないからだ。

常識とはいわば、歴史の現瞬間である。メルロポンティの言ったように、人は歴史に対峙して初めて自由になれるのであれば、常識と全人的に闘うことは自由への一歩となる。

軽蔑するのであれば、乗り越えなければならない――とさっき言った。

私情に戻るが、僕も就活を控えている。正直就活なんてバカらしいし、パリッと慣れないリクルートスーツの就活生も上から目線の面接官も嫌いで、学生の手柄を誇る教授たちも嫌いである。就活だ、就活だ、なんて大騒ぎするけど、いい大人なんだから、受験生みたいに流れに飲まれて画一的な道を進むことなく、自分の道を選べよ、と思う。


だ・か・ら・こ・そ俺は就活をがんばろうと決意したのである。僕はそれまで適当な中小の末端として生きていこうと漠然と考えていたのだが、先のメルロポンティの言葉と、「わだつみのこえ」をはじめとする特攻隊員の遺書を読んで意識をまるっと変えた。歴史と対峙するのだ俺は。就活の恐怖も戦争の恐怖も同じである。特攻隊員はいやいや言いながら散ったか。違う。最後には運命を受け入れたのだ。歴史を受容し、そして彼らは自由のまま散っていった。極限の緊張と混乱の中でも極小の自由を胸に抱いていたのである。俺もその強さが欲しい。

歴史から逃げるのではなく、あえて歴史に立ち向かう。くそったれな世の中だから、俺はそれを哄笑してやるのだ。

好機!

好機だ!こんな時代でよかった!と言える人間がどれだけいるか。その強さを持った人間が今どれくらいいるか。たいてい、ああすれば、こうなっていれば、なんてうじうじ言って、ありもしない空想で慰めるのだ。これが、歴史から逃げることなのだ。情けない。

背筋をのばせ!前を見よ!そうして、おがくずの山頂で、高らかな哄笑をあげるのだ。ツァラトゥストラのように!

さあて就活がんばるよん俺は。

自由と歴史

人は歴史からは自由になれない。
なぜなら自由は歴史の一部である。だから歴史と対峙して初めて自由になれる。

名前を捨てようと思った時期があった。いまいましくまとわりついてくる過去が嫌いだったからだ。過去もなにもかも捨てて、素の人間に。名前のない人間に。

岡本太郎が、司会者に紹介をされて、「名前?そんなもの、いやしいものだ」と言い切った。大抵、この人は言い切るので好きだ。言い切るか、忘れている。たまに間違っているのだが、筋が通っている。矛盾を飲み込む強さがある。

その岡本太郎も、時代からは自由になれなかった。彼も徴兵されたのだ。あの変人が出征にどんな意味をもったかはわからないが・・・。

戦争は歴史の極点だ。特に第二次大戦は、すさまじく人間の深層心理に影響をあたえたと思う。特攻隊員の遺書など読んでいくと、胸がすく思いがする。戦争が起こってもすぐ死ぬものではない。まずは一人前の兵士になるため徹底的にしごかれる。

彼らも若者だ。理想と信念を持っている。それらは集団生活と規律で暴力的に排除されていく。軍隊生活の中で彼らがもっとも思い悩んだことは、理性と知恵への愛情を忘れないことだった。そうして彼らは時代を恨んで死んでいっただろうか。いや、最後には歴史と向き合い、勇ましく死んでいる。美しい。彼らこそヒーローだと思う。

人は歴史からは自由になれない。歴史の中で自由になれるのだ。歴史と対峙すること。ぶつかっていくこと。エンスージアズムは時代からしか生まれない。

名前を捨てること。過去を捨てること。過去はどこまでも追ってくる。過去から逃げられた人間はいない。時の流れは一次元なのだ。

だから、今向かっていくしかない。未来を見るしかない。純粋に未来に向かっていく。特攻隊員のように。まっすぐ闘う。ドンキホーテは幸せだ。

どうか二度と、自分を自由だと勘違いした「お終いの人間」には戻りませんように。

10.13.2013

バイク乗りのステレオタイプについて

ハーレーライダーはフルフェイスヘルメットを着用しない。BMWのライダーはフルフェイスが好き

これは本当。91%のBMWライダーがフルフェイスヘルメットを被っている(長袖長ズボンは82%)。フルフェイスを被るハーレー乗りは、なんと14%しかいない!残りの大部分は公園で三輪車で遊ぶ子どもの頭も守れないような半帽ヘルメットである。長ズボンは95%のハーレー乗りが履いているが、手首までの長袖は29%しかいなかった。

http://www.allaboutbikes.com/feature-articles/motorcycle-stories/5221-biker-stereotypes-are-true-harley-riders-hate-full-faced-helmets-sportbike-riders-hate-pants

@アメリカ

10.05.2013

心の王者

愛するには、まだ遠い



講義室からもれる管楽器
気ままに研究する学生
この朝の土曜が永遠であればよいのに



朝と本と音楽があれば無限



土曜の朝は山田うどんと決めている



これはぜんぶ
ニカの夢

流刑地にて/カフカ

カフカの短編集を読んでいる。どれも深く考えさせられるすばらしい作品ばかりだ。

中でも「流刑地にて」はなかなかぐっとくる。

「24時間かけて罪状を体に刻み込む」という狂気じみた処刑マシン。それに耽溺し神格化する将校。上官に居眠りを咎められ、「噛みつくぞ」と反撃し死刑判決を受けたアホ丸出しの受刑者。共感するに十分な賢明で誠実な旅人。

僕はあらすじを話すのは好きではないので結論から言う。これは濃縮された生と怠惰な生の対照だ。そして古代から引き継がれてきたものと現代的なものとの対置である。

処刑マシンは将校の言うとおり、すごいマシンなのである。まるっきりアホ同然に描かれた受刑者、あれほどまでに控えめでだんまりを決め込んだ旅人に「家に帰れよ!」と声を荒げさせた愚鈍の極みの受刑者ですら、処刑を受ければ最後の6時間は精神の「浄化」を受けるのである。

この受刑者の6時間こそが将校のもっとも興味をそそる対象だった。そうして前司令官が子どもに見せたがるものだった。人間の極限的な変容。罪の浄化。キリスト教的価値観ではわかりづらいだろうが、ある種人間から神への変化と言ってもいい。

僕はここに死を前に濃縮された生と、処刑によってしかなされない救済を見る。

生き延びた受刑者は果たして幸福だったろうか?幼稚な復讐心にかられ、旅人にも見捨てられる。愚鈍で怠惰な生に生きるくらいなら、6時間でも浄化された生を味わった方が良いのではなかったか?

前司令官が生きていた時代、処刑の見物が大盛況であり、子どもにも処刑を見せていた時代にはこの受刑者のようなアホはいなかったと思うのだ。残酷な処刑を見せるのは、晒し首のように風紀を正すためではない。そこに血にまみれた死と生を生々しく示すためだったと僕は考える。

現司令官はこのような処刑は残虐だとして廃止を検討している。旅人の感じる通り、極めて常識的な考え方だ。この現司令官は、現代的な価値観の象徴である。民主主義的であり、合理的である。将校によれば、この司令官は若干女に弱いようだが―それにしても、そこまで酷く書かれているわけではない。

ところで、僕はこの作品を読んで古代アステカの人身御供を思い出した。こちらも心臓を生きたままえぐり取り、神にささげるという残虐な儀式だ。儀式の直前には、生け贄は神と同様の扱いを受ける。やはりここにも死を前にした濃密な生がある。そして心臓をえぐりとる司祭は、決して無感情ではない。生け贄を愛するあまり涙を流す。この司祭と、「流刑地にて」の将校は重なる気がしてならない。処刑マシンの設計図を異常に大事にする様子も、神聖な儀式の道具のようである。司令官の女癖を非難する様子も、世界の多くの儀式で(日本でも)女人禁制だったことの象徴のようにも思える。

こうした風習は現代では廃れきっている。それは新しい価値観を持った支配者によって、あるいは旅人のような違った文化の価値観によって。古い価値観はまるっきり淘汰されてしまう。カフェのテーブルの下に(!)たてられた前司令官の墓が示すとおり、過去はないがしろにされているのである・・・。

まとめよう。人間は死を前にして初めて生を享受できる。怠惰な生を長く生きるか、一瞬でも濃密な生を生きるか、どちらがよいかは微妙である。しかし現実問題として、後者は淘汰されねばならなかった。そのような社会でわれわれはどう生きるべきか。この短編は現代人の陥りやすい怠惰な生への警笛である、と僕は考える。




あー久しぶりにまともなことを書いたぜい。