11.30.2013

愚か者はつねに、自分をより高く買う人間を探し続ける

ポール・オースターの「幽霊たち」を読む。

私立探偵のブルーは「ある人物を監視し続けてほしい」という不思議な依頼を受ける。変装した依頼人、監視していても何も目立った行動をしないブラック。ブルーはさまざまな憶測をする。やがて、ブルーはブラックに接触を試みる・・・。


おもしろかったが、よくわからなかった。・・・この感じはたしかにカフカの短編に似ている。

オースター作品の根底にはつねに孤独がつきまとう。孤独。死の仮象であり、生の源泉でもある。とくに書くことの孤独はたびたび記述されている。まあ、、、考察はもう一回読んだら書いてみよう。

それよりも作中で何度かあげられていたソローの「森の生活」。文明を離れ孤独に森で生活を送ったソローの自叙伝である。これはおもしろそうなのでアマゾンでぽちった。

孤独――僕の美しい友人――はさまざまな智慧を与えてくれる。孤独は僕の最大の武器でもある。周囲も本格的に就活のモードに入ってきた。しかしソローの言葉が胸を打つ。

「愚か者はつねに、自分をより高く買う人間を探し続ける」

俺を採らない企業に興味はない。欲しいなら雇え・・・という気持ちでいこう。

11.29.2013

あらたなまくあけ

こんばんは。また思いつくままに書く。

僕はいつだってひとと同じにはなりたくなかったはずである。それがいつの間にか、安逸の世界に逃れようとしていた。

一日12時間の研究と、睡眠、それだけの生活をしばらく送っていた。それだけ"余地のない"生活を送っていると、世界がずいぶん限局されることに気付く。

しかし、視野を狭めることの快さ!世界に過去もなく、未来もない。ただ、今に没入する。世界との一体感。無垢で、清潔で、可能性に満ちた赤子の状態。

それでも、僕は内面世界へのあこがれを捨てなかった。久しぶりに日記に手をつけたとき、僕はこう書いた。「書く、ということ。そのすばらしさ!それ自体創造性に富む」。そのときの僕の気持ちはこうだ。今のようにキーボードを打つのではなく、(それは数バイトのコードを打ち込むことだ)文字を、インクで書くと言うこと。書いた・文字は文字だけにとどまらない。自由に伸びた線や折れ曲がった角度は、そのときの心を表す。そうして魔力を持つ。だから、文字を書くという行為は無限である。(無限、とは創造性である。)

科学の世界に身を浸らせると、あまりに味気ない世界ではないかと思う。すべてが数値で表される。わかりやすい記号に還元される。僕は前から何度も実感させられていたのだが、科学とは世界を見るひとつの手法であって、それ以外ではない。テレビなんかを見ていると、「専門家のなんとかなんとか教授」が崇められているが、彼だって科学の目でしか世界を見られないのだ。科学はそこまですごいもんじゃない。人間に都合のよい、人間に向いた、ものの見方でしかない。

やはり、哲学、そこに答えがあるんじゃないかと思う。


そんなことはどうでもいい。本を読むこと、文章を書くこと。このふたつは人間の根本である。

あたまが悪くてもいい。視野が狭くてもいい。友達がいなくてもいいんだ。本を読んでください。文を書いてください。きっとあなたを豊かにするから。

まてまて。豊かになったところで何があるというのだ?結局人間は死にゆく生き物なのに・・・。


ああ、死よ!死は何もかも台無しにする!

まあ、そんなことはどうでもいい。どうでもいいのだ。うつろいゆくもの。諸行無常。


私は新しく、なる!世を牽引する!不器用な人間は、常に二つの選択を迫られる。自分を殺すか、世界を殺すか!

まことに、世界と自分とは二者択一である。そのくらい、自己は肥大化させねばならない。

ああああああ、こういうとすごく卑賤な感じになる。自己を肥大化、させねば、ならない。ああ、ひどくげせんだ。言葉にすると、すべてが台無しになる。

アメリカで流行っている言葉。「くりえいてぃびてぃ」これも、至って陳腐だ。僕は、大嫌いだ。Creativity、それ自体が大事なことは百も承知だ。しかし、「みなさんCreativityを大事にしましょう」と言うこと、この陳腐さ!醜さ!そのこと自体創造性に欠け、そして創造性を殺す!

内的矛盾。

まあ、どうでもいいのだ。世の中が開けるか、僕が開くか、そのどちらかはわからないが。僕は開く気はあまりないのだから、世の中次第だ。

僕の人生は、そうなっている。

11.23.2013

静かなリーダー、芸術について

今日訴えたいことはふたつ。
"静かなリーダー"が世界を変える。
芸術の目的。

前者。

静かなリーダー。つまり内向的で孤独になりがちな人間が、今まではないがしろにされすぎていた。無用に孤独を恐れ、あるいは”同調的抑圧”に精神を病む人間が多かった。寡黙に物事をこなす人間よりも、上司や部下に取り入る人間の方が重宝された。

しかし、これからは違うだろう。内向的人間の価値が見なおされるだろう。内向的人間は無理に外向的人間を模倣することを辞めて、真の尊厳と自由を得るだろう。

僕自身、孤独に突き進み内向的生活を送ってきたが、この生活は評価されるべきものだと自信を持っていえる。群生をあえて退け、その分自由に生きた。

孤独の重要性は諸富祥彦・明治大学文学部教授も説いている。
「1人の時間を過ごせる力」、言い換えれば「孤独力」は、現代をタフに、しなやかに、クリエイティブに生きるための必須能力で、今からの時代、ますます大切になっていきます。その意味では、ビジネスパーソンに限らず、孤独を愛する人は、人生を充実させるうえで強烈なアドバンテージを持っていると言っていい。
(しかし大学教授と一般的社会人では孤独の効果は大きく変わってくると思う。大学教授ほど孤独が許される職業もない・・・。)

また内向的人間は尊厳を取り戻すべき、とスーザンケインが力のこもったスピーチを行っている

あるいはラ・ブリュイエールが「われわれの悩みはすべて、一人でいられないことからもたされる。」と言ったように、隠者のような生活は意外と快適なものである。

後者。

芸術にはふたつの要素があると僕は思う。一つはパトス、もう一つはテクニックだ。

この二つのバランスが重要である。パトスだけあっても、人にはなかなか伝わらない。駄作扱いされるのがオチだ(よほど目の良い人には、価値がわかるだろうが)。しかしテクニックだけあってもパトスがなければただの技術屋だ。何も通らない高速道路のようなものである。

僕の敬愛する岡本太郎ちゃんはこういった。「うまくあってはならない。美しくあってはならない。」太郎ちゃんはパトスを大事にせよと言っているのだ。テクニックに拘泥して、けっきょくパトスをダメにしてしまうくらいなら、最初からへたくそな絵を描けということだ。

(ある意味で、制限の制定である――とか言うと太郎先生に怒られそうであるが――芸術は何からも自由であると思われがちだが、現代芸術家のフィル・ハンセンはこう言っている。「創造性をとりもどすためには枠から出るのではなく、枠を取り戻さねば」「究極の制約だと思っていたものは究極の自由だった」「限界を創造性の源とする」下手に描け、と言われたとき人はその創造力を無限に広げることができるのではないか。「上手く描け」という言葉のつまらなさよ!

孤独な芸術家と聞いて真っ先に浮かぶのはゴッホである。彼にしても「最近の画家は形式ばかりにとらわれていかん。」というようなことをベルナールに洩らしていた。

以上ふたつでした。

このふたつ、なんだか繋がるような気もする。つまり外向的人間、内向的人間と、パトスとテクニック。他者に属するか、自己
に属するか・・・。

まあいいや寝よう。

11.21.2013

人は夜適応する

僕は以前、ポールオースター「孤独の発明」からこの文章を引用した。

”生涯に渡って、父はどこか別のところにいた。こことそこのあいだのどこかに。ここにいることはけっしてなかった。そこにいることもけっしてなかった。”

ここにいず、そこにいなかったとはどういうことか?"ここ"に息子はいる。父が"そこ"にいるとき、息子もいる。それでは息子がいないとき、父親は存在したのだ。孤独の中でこそ、父親は生きていたのだ。

そんな父親はどんな末路を?息子にも妻にも、心を通わさず、自己の中で全てが完結していた父親。彼は妻と離婚し、15年間1人で過ごした。

その孤独はどんな色を持っていただろうか?

話は大きく飛ぶ。僕の大学の就活セミナーの講師はこう言っていた。「私は友達を何百人と作るのが夢です。」と。よろしい。

そんな生き方を夢見る人にとっては、”父”の生き方はまったく理解できないものだろう。

しかし”父”は生きていたのだ!その15年間、最大限に。僕は唐突にこう思う。人間とはなんだろうか?

私には、セミナーの講師も悲しい。あまりに浅いから。しかしやはり、父の方が悲しいのだ。それはあまりに深いからだろう。





本当の自己を書の中に見つけたとき、人はむせび泣くしかない。それが孤独の作用である。


そして人は夜適応する。寝る。

11.18.2013

「孤独の発明」について

孤独の発明、という本が薦められていたので読んだ。

主人公が父の死の知らせを受ける。父の遺品を整理していくうちに、父という人間、そして生と死を理解していく・・・。

そんな話だ。主人公にとって、父親は理解しがたいものだった。「自分の中で完結」しており、「世界の与えてくれるものに、見向きもしなかった」父。

僕はこの本を読んで、「俺が書かれているぞ!」と呻いてしまった。孤独で変人、世界に心を閉ざした父親。息子や妻にも他人行儀だった父親と、自分が重なってしかたなかった。
生涯に渡って、父はどこか別のところにいた。こことそこのあいだのどこかに。ここにいることはけっしてなかった。そこにいることもけっしてなかった。
とくにこのくだりを読んで、ひどく共感してしまった。僕だ。自分という人間をじっくり観察され、メスのような鋭さで描かれているようだった。

 まだ読み切ってないのでこれくらいにしよう。




最近は一日8~12時間くらい寝ている。このくらい寝た方が調子がよい。TEDで神経科学者のラッセル・フォスターが言っていたのだが、目覚ましで起きるのはよろしくないらしい。自然に起きたときが適当な睡眠時間のようだ。それを実践している。
「良い眠りは集中力決断力創造性社会性健康を高める」のであって、「睡眠障害は精神障害の前兆である」のだから、よく「寝て」、そしてよく「起きる」ことほど現代で重要なことはないだろう。
ラッセルの話の中で、興味深かったのは、睡眠不足の場合、ひとはカフェインをとる。夜になると眠れないので酒を飲む。神経がいらだつのでタバコを吸う。そして余計に眠れなくなる。負のサイクルだ。

僕はさっき言ったように、「起きている」ことも重要だと思う。
ニーチェの言ったように、「われわれの課題は目覚めていることに他ならない。」のだ。十分に目覚めていないのだから、眠りも浅くなる。

世の大半の人は、寝ているときに起きていて、起きているときに寝ているようだ。眠りと覚醒の追求。


おやすみなさい。

11.15.2013

学徒兵の死とは

だれかが「玉砕は愚行だった」と言った。しかし僕はそうは思わない。玉砕を命令した方は愚かかもしれないが、玉砕された方は高潔な魂を保っていた――


僕は研究の合間に「わだつみの声」を読む。戦死した若者(ほぼ学徒兵)の遺書をまとめた書である。
例えば試薬が十分に溶解しないとき、試薬が常温に戻るのを待つとき、エバポレーターを回しているとき・・・。わだつみの声は概ね2~5ページ程度のものが多いから、さくっと読むには十分だ。

それでいて、その数ページにひとひとり分の死と生が、魂が宿っているというのだから・・・。おもしろくないわけがない。

おもしろい、と評価するのが不適切だろうか。本書は「戦争は嫌なものだった」とため息をつくための書だろうか。本来の目的はそうかもしれない。しかし僕はこう思いながら読みたい。「彼らは”生きて”いた!」「すばらしい人間だった!」と。

彼らについて言えるのは、どこまでも高潔な人間ということである。あれだけ徹底した集団主義で、汚いものを押しつけられる状況、その状況においてさえ、いやその状況だからこそ、彼らは高潔を貫いた。死を前にしての透明。純潔。

彼らは死というものに本気で立ち向かった。その結果、彼らは死を超越した。死を超越するということは、どういうことだろうか?それは「いつ/どこで/どんな理由で/どのように・死んでもいい」と思うことである。死を避けることでもなく、死に向かうことでもない。ただ生の中に死を包括すること、そのことで彼らは死を超越した。死というどうしよもなくまとわりつく恐怖を、彼らは超越した。

だから、彼らは瞬間に輝いていたのである。歴史に対して垂直に立つ・・・。

だれかがこんなことを言った。「戦争とは甘美なものである。だから人間は何千年も戦争しているのだ」。僕は何も言うまい。

僕は戦争は嫌いだ。自由や平等も奪われる状況なんてまっぴらごめんである。しかしドラッグのような魅力(それが破滅に導くとわかっていながら、抗えないほどの魅力)は戦争から感じる。

そうでもしないと――生きてる実感を味わうのは難しいからだ。






そうじゃないか!?なんで生きてる!?
金、幸せのため?僕らは、絶対に答えることができない!そこに、絶対的な怒りがある!

だから、僕らは怒れる動物なのだ。
死を認識していながら、死ぬしかない生き物!
無数の平行した悲劇の連続!




と、取り乱した・・・。

心理テストを受けているとこんな質問があった。
死ぬならどう死ぬのが良い?
・家族に見守られながら大往生
・病院で病死
・事故死

最後にあったのは、「自殺」。僕は断然自殺であった。これはけっこう別れるらしい。諸君はどうだろうか?

11.14.2013

IQ126

IQが126だった。

なんとはなしに試験を受けてみた結果である。”IQtest”でぐぐっていちばん上に出る試験。たまたまかもしれないが、意外と良い結果だったのでいちにち有頂天であった。

このIQ126は、被験者全体の、上位0.4%ということになる。1000人いたら、トップ4人に僕がいるわけだ。えっへん。

ちなみにこの数字はサンプラザ中野と同値であり、ファンキーな物理天才・ファインマンより上であり、そして中田英寿に少し劣るくらいの位置づけである。(ファインマンなぜ低いのか?適当に試験うけただろ!)

このIQという数字は、収入やなんかと相関するらしい。僕の当面の目標は「年収2000万円」であり、2000万円貰っているのは人口の0.6%ということを考えると、このIQテストの結果は好ましい未来を示している。

IQが20違うと話が噛み合わないというスレが2chで人気だったようだが、それが本当であれば僕は普通の人と仲良くなれないことになる。確かに僕は、研究室の連中がぞろぞろと飯を食いに行く中、ひとりおにぎりを囓りながら、放送大学を聞いていた。たぶんただのコミュ障だと思われていて、だれも僕が賢いと思ったことはないだろうが。

いろいろ調べてみて、筒井御大の偉大さにびびる。彼のIQは170を軽く越えていたとか。しかし、彼の小説にそこまで知性というものは感じなかった(もちろん大天才と比較してである)。それよりもどこか間の抜けた暖かさがある・・・。(広告業で大衆受けの技能を身につけたのかもしれないが)

IQと文豪・・・と聞いて思い出すのは中島らもである。灘中に上から8番の成績で入学した彼だが、アルコールにひたりにひたっていた中年時代には、IQ80以下まで落ちていたという。

筒井御大も酒飲みであるから、アルコールで脳みそが縮んだのかもしれない。一日ワイン二杯で脳みそは萎縮するとタイムズが言っていた。しかしそれでいいのかもしれない。丸くなった天才はある意味最強ではないか。みな幸せな人生を歩んでいる気がする。

まあ、僕も天才だったということさな!絲山秋子は「天才宣言」を出したけど、僕にそんなものは必要ない。頭脳が僕が天才であることを証明してくれたようだ。わはは。

11.13.2013

日々の感動の充足

今日はGD演習二回目であった。

一度目と大して変わらなかった。やはり人前で話すことは苦手である。非常に優秀そうな少年がおりリーダーシップを盛んに発揮していた。ああいう人間が大企業へ行くのかと思う。反面「ケッ優等生が」とも思う。ゲスである。

就活というのは僕にとって戦いである。僕は反社会的人間である。社会に認められる、必要とされる人間になろうというのではない。社会に俺をドンと認めさせるのだ。



人間がやる気を出すことは簡単である。「人間の本性の最深の核心は、人格の最深の層は、人間の動物的本性の基礎は、もともと積極的なものである。」とカール・ロジャースが言っていた。抑圧や恐怖をちょっとなくせば、自然とやる気で溢れてくるものなのだ。

僕は就活なんてする気がなかった。しかし一端就活しようと思ったら、どんどんエネルギーが沸いてくる。簡単な軌道修正にのみ理性が必要であり、あとは本能の赴くままである。これが人間の正しい姿だ。

回転するコマは自立する。良き人間は常に透明である。汚れなき精神。

私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ。異邦人より




11.12.2013

本棚を見ればその人がわかる

自己分析()の一環として僕に影響を与えた人物のことを書く。

僕の父親は過剰なまでの放任主義者であり、しかも出張しまくりだったので模倣すべき社会的モデルはすべて本から得ていた。とは言っても今思い返すと大した本は読んでなかった。


小学生のときは星新一と手塚治虫にはまっていた。なぜ少年漫画ではなく手塚なのか?あのときから俺は権威主義だったのかもしれない。それにしても、何もわからないのにカフカの変身を読んでいた嫌なガキだった。

中学生のときは筒井康隆にはまっていた。

高校生のときは筒井康隆にはまっていた。

浪人時代、webでiwatamという賢人に出会う。多大な影響を受ける。強いて書籍をあげるなら「議論のしかた」か。

大学1年、何も読まず。不毛の年だった。イアンマキューアンを買うが結局読まず本棚の埃よ。

大学2年にて、キングスレイ・ウォード「ビジネスマンの父より息子への30通の手紙」をという本を熱心に読む。すばらしい本でどこへ行くにも持ち歩いたのでボロっちくなる。3冊買った。
同書で紹介されたV・E・フランクルという心理学者に興味を持つ。
しかし近所では売ってなく同じ二次大戦世代のユダ公エーリッヒ・フロムを読む。感銘を受ける。(あと図書館で偶然出会ったJBハリスの「僕は日本兵だった」が最高に良かった。)
西洋哲学に興味を持ち、ニーチェ・カントの類を読むが挫折。
ショーペンハウエルは読みやすいと言われ「読書について」と「自殺について」を読む。なかなか良かったがもうちょっとエネルギッシュなものが読みたくなりニーチェの「善悪の彼岸」を読む。非常に!熱心に読んだ。「ツァラトゥストラ」も買う。読み進めるのがもったいない・・・と僕の日記に書いてある。ニーチェほど高揚感を出すのがうまい作家はいないわ。
サルトルを漫然と読んでいたらなにやらネットで評判だったミランクンデラに嵌まる。が、正直チャールズブコウスキーの方が好きだった。ちなみにサルトルの弟分的な扱いを受けるカミュも読んだがサルトルの何倍か小説がうまかった。すごく好き。
ツイッターの名言botでびびっとくるものがあった岡本太郎であった。書籍を買う僕、美術館へいく僕。どっぷり岡本太郎にはまっていくのだった。

日本の作家では漱石太宰三島安部安吾あたりか。太宰などは何度も読み返して素人以下の分析をしてみたりした。三島はホモなので深入りしたくなかったが蠱惑的な魅力はあった。漱石含めてこいつらの本は今にも消え入りそうなファンタジーっぽさがあるが、反対に安部と安吾は実体を伴った質量のある作品を生み出してくれるのでありがたかった。
あと新渡戸稲造の武士道も好きだった新渡戸よりもその母親の「日本はおろか世界に名を上候様と楽しみ居候」の発言が最高にCOOL。

まあそんな感じ。読まれることはないだろうし、読み返すことはないだろう。ベーコンの言ったように、「書くことは人を確かにする」のだから、書くことに意義がある、というような。

死すべき事物に変えて不滅の誉れを。

ある業界の闇を描いた本を読んでいると、ハッとする部分があった。

「レーガン政権以前は、巨大な富といえばどこかしらいかがわしいものだと受け止められていた。富を選ぶか、名誉を選ぶか、そのどちらかだった。
(中略)
それがレーガン政権時代から1990年代にかけて、様子が変わってきたのだった。富めることは正しいことであるだけでなく、何か名誉なことだといった調子になってきた。」

金を持つことが正しいわけではない。そんな当たり前の価値観を、いつのまにやらなくしかけていたようだ。

確かに本田宗一郎や鈴木修はかっこいい。ジョブズの哲学はちょっと憧れる。でも東電の社長なんかを見ていると、いわゆる「勝ち組」でもどうしようもない人間はたくさんいるのだと気付く。

最近「プア充」という言葉が流行りかけている。貧乏でも生活を充実させエンジョイする人種である。僕はこの言葉は流行ると思う。身の回りで「金はいらないから、自由と時間が欲しい」という人が増えてきているからだ。

こうした人種のあらわれた背景に、やはり3.11があるのだと思う。どうひっくり返ったって、金のために国民を放射能で汚染する必要などなかったはずだ。3.11で何が変わっただろうか?政治も東電も変わらなかった。ただ汚染された土地と人間が残っただけだ。「うち、もう子ども産めん体やし」と絶望的な笑みを浮かべたのは福島の女子高生である。このうんざりする状況に、若い人間から転換していっているのだと思う。金より大事にすべき何かがあるはずだ。
ヘラクレイトスの言ったように、最も優れた人々は、あらゆるものを犠牲にしても、たった1つのものを選ぶ。死すべき事物に変えて不滅の誉れを。


盲目的に金を追求する時代でもなくなった。そういった人間の方が、社会にとって好ましいのだが。しかし、社会の要求する収まりの良い原子のような人間は、今後も減り続けるだろう。

最近の若者は出世欲がない、とよく言われる。しかしだれもかれもが出世を目指す時代の方が異常じゃないか。下っ端でのんびりする方が向いてる人もいる。

まあ、僕はきっと将来金持ちにはなるだろう。しかし、清潔だけは守りたい。「清潔は、貧乏人に許された唯一の贅沢である」と言う。僕の部屋はともかく、生活自体は非常に清潔である。少なくとも鈴木大拙の言ったような「無知と官能の泥のなかにうごめく生ける屍」ではない。

金持ちになっても、この清潔さを維持する。これが僕の目標であり、金というものを超越するためのひとつの手段である。

11.10.2013

境界を越えろ!初ナンパ

初ナンパに行ってきました。

就活においてもっとも重要なことは?
自分を売り出すことであります。
そうして、そのスキルがもっとも直接的に影響する場は?ナンパなんですねー。

ナンパ。とは、身近で遠い出来事であります。
街で見かけたかわいい女の子。趣味のあいそうな女の子。こちらをちらっと見て、気のありげな表情をする女の子。

普通、僕らはこれらを抑圧し、見過ごしてしまうんです。少しの好奇心もありながら、声をかけたら変に思われる。周囲の目もある。先に急がなきゃ、と。きっとそれで逃した異性は星の数ほどでしょう!興味を持った人に声をかけるか、かけないかだけの話なのです。問題はそれだけ。だから、近くて遠い出来事なのです。

「ナンパ」なんて、ちゃらい人間のやることだ、自分はそんなことしたくない・・・という人もいるかもしれない。しかし、日本人というのは本当に奥手というか、人生を楽しむ術を知らないなと思うのです。

日本以外の国では、郵便局で列が並んだら世間話をします。「今日は暑いですね」だのなんだの。海外では普通のことなのです。例えば僕が行ったインドでは、電車で相席した他人とトランプ遊びを始めたりします(僕まで混じるはめに)!岡本太郎は、フランス留学中では、カフェでふと目が合った、そんな女とじっと見つめ合い、そのまま恋に落ちたエピソードを話してます。

偶然的な恋はすばらしいものです。サルトルも言ったように、恋には必然的なものと偶然的なものがあるんです。なにも必然的名恋に固執する必要はない。偶然的恋を得ることで、恋は二倍に楽しくなります。

ナンパとは、単に一歩踏み越えることなんです。でも、ナンパして嫌われたら・・・なんて考える必要はありません。インド哲学の書バガヴァッド・ギーターでもこう書かれています。「成功と不成功を同じものとして行動せよ」。失敗には成功と同じか、それ以上の恵みがあります。岡本太郎も「人間は、失敗しなくてはいけない」と言っています。そして、ただひとつの悪は、何もしないことなのです。



前ふりが非常に長くなった!今日は僕は実際にナンパしてみたのである。いざ女性を前にすると、非常に難しいものであることがわかる・・・!僕も3時間ほどは、うろうろしているだけだった。しかしなんとか声をかけることができた。

一人目。だるそうな少女。ナンパされすぎなのか?めんどくさそーにラインのIDを教えてくれた。

二人目。アクティブなオタク系少女。ラインに加えてメルアドまで教えてくれた。とても気が合った。最後は手を振って別れた。

三人目。サブカル系少女。ラインのIDを聞こうとしたが、ちょっと怯えさせてしまった。いちばん本命だったが失敗した。

とりあえずアドレスを聞く段階では、66.7%の成功率だった!まあまあじゃないか。しかし、これからどうしようという思いもある。声をかけやすかっただけで、そこまで好きというわけではないからだ・・・。(最悪な男だろうか?)

ひとまず連絡をしてみて、様子を見ようか。

口づけの後の無言のひと時の中で二つの魂が一つになるのを体験したことのない者はいないと思う。この束の間の時を絶えず求めなければならない。愛の沈黙だけが人間の力の及ぶただ一つの沈黙であり、それだけが人間の側の沈黙なのだから。
カーライル。

11.09.2013

世に虐げられる内向的人間どもよ

僕は内向的な性格である。集団は苦手だし、ひとりの時間をとても大事に(cherish)する。

一般に内向的であることはマイナスにとらわれがちのようだ。例えば何かの事件の容疑者で、「陽気で友達の多い人物」「暗くて何を考えているのかわからない人物」の二人だったら圧倒的に後者が疑われると思う。
(これはある意味事実だと思う。内向的人間の方が法を逸脱する傾向が強い。善悪の問題ではない)

また、僕がちょうど就活中だから書くが、どうも大企業に入る人間も外向性というのは重要になるようである(一般的に。研究職はどうなんだろう?)。採用選考の過程でグループディスカッションというものがあるのが、その例だろう。

ついでに言えばモテるのも外向的人間である。悔しいが黙々と本を読む人間よりは「うぇーい!」とバカ話をするアホ(いまさら言うまでもないがリア充は外向的である)の方が圧・倒・的に!モテる。

社会的に見て、外向的人間は良いモデルとして扱われることが多い。素直で、裏表がなく、調和的である。リーダーシップとおべんちゃらに長け、組織の中で上手く立ち回る。

内向的人間はどうか?自分のことしか考えず、飲み会にも来ない、コミュ障、会話ができない、”変”な奴・・・。



しかああああああし!

内向的人間も、外向的人間も等しく社会を構成する人間である。どうも最近の流れとして、内向的人間があまりに軽視されているようだ!!

内向的人間は飲み会は嫌いだ。騒ぐことは嫌いだ。派手なスポーツは嫌いだ。しかし、静かに本を読んだり、ジッと瞑想などしてると、それだけで野球の9回裏逆転ホームラン級のクライマックスを感じるものだ。そういう人間なのである。

それは外向的人間には理解しがたいことかもしれない。しかし社交好きで消費好きな人間こそ内向的人間には理解できないのだからおあいこだ。

ではなぜ外向的人間ばかり受け入れられ、内向的人間は「非社会的だ」と蔑視されるのか?

僕はこれは「管理しやすいから」だと考える。外向的人間は人の機微や表情を読み取ることに非常に長けているが、反面一歩引いて物事の根底を流れる真実にきづかないことが多いのだ。

内向的人間は常に集団から離れ、物事を分析している。こういう人間は、為政者、あるいは管理徹底と合理化の進んだ社会にとっては驚異となりかねない(陰謀論ではない。マルクーゼの精緻な考察からの発想である)。

そもそも内向的人間が精神病や犯罪に陥りやすいのは、”協調的であれ”と常に圧力をかけられているからではないか。

少し前、学生の「便所飯」という言葉が流行した。「ひとりでご飯を食べるのが恥ずかしいから、トイレの大便器に座って弁当を食べる」というのである!僕はこれは全くの狂気だと思う!

そういった学生を指して自意識過剰だ、という意見もあったが、それは物事の本質を指していない。ひとりで飯を食うことが恥ずかしいと思うことに問題がある。

たしかに、である。確かに大学の交友関係というのは良いものだ。親元を離れた人間が多く、学生グループは家族的に群生す
る。そのつながりは強固であり、甘美なものであると思う。ぼっち飯が「家族のいない孤児」「かわいそうな子」的な扱いを受けるのも納得できる。

しかしそういった仮想家族を必要としない学生もいるにはいるのだ。家族的なるものの絶対的な肯定!自立と自主性の否定!内向的人間は、その圧力に恐怖する。そして外向的人間を目指し、「脱オタ」だの「リア充化」だの、くだらないことに終始する。結果、便所で飯を食べたり、精神病を引き起こすのだ。引きこもりだの鬱病が内向的人間に非常に多いのもこれによる。

(ところで、「リア充」という言葉が流行ったのは外向的人間にとって手厳しいカウンターではなかったか。最初は外向的人間を指す言葉だったが、「リアルが充実」の意味は、懸命にスケジュール帳の予定を埋めることではなくなっていった。徐々に「真に人間的に優れた人」を意味するようになったのだ)

話を戻す。「便所飯」のような事実が示すことは、内向的人間が阻害され、社会からの抑圧を常に感じているということだ。これらはまったく不当なものである。内向的人間は孤独を好み(注意すべきは、決して恐怖から孤独に逃れているわけではない)、孤独から独創的なアイディアを得る。彼らを無理に引っぱりだす必要はない。そして、外向的人間と内向的人間をフェアに扱って欲しいのだ。彼らにはそれぞれ長所があって、短所がある。内向的人間を、無理に外向的人間に矯正しようとするな。左利きを右利きに矯正するようなもので、あとでこっぴどい結果になる!

そして内向的人間よ、誇りを持て。
モーゼ、イエス、仏陀、ムハンマド。これ全て内向的な人間である。孤独に浸り、内面世界からアイデアを汲みとろう。

  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
           O 。
                 , ─ヽ
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|__|__|__|_   __((´∀`\ )< というお話だったのサ
|_|__|__|__ /ノへゝ/'''  )ヽ  \_________
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|_|_| 从.从从  | \__ ̄ ̄⊂|丿/
|__|| 从人人从. | /\__/::::::|||
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────────(~~ヽ::::::::::::|/        = 完 =

11.08.2013

カキ食うトゥナイト

昨日GDの演習だった。

みんなちゃんとやってて偉いなーと思った。「その発言はどーなの」とか「その段取りはいけないなー」とかぼんやりケチつけながら取り組みました。

いざ自分の発言となるとなかなかうまくいかないんだけどな!(僕は人前での発表が極端に苦手である。入念に準備してやっとまともにできる)

しかしGDだったら、基本姿勢は傍観者で良いのだとも思う。協調性、笑顔、まったりな感じで。さくっと鋭い意見言って貢献できりゃいいのだろう。

演習でも熱心に司会をやりたがる人がいて、かなりテキパキとこなしていたのだけど、どうしてもアラも目立ってしまっている。まあ評価者がどう評価するかはわからないが、「足きり」としてのGDであれば、減点方式だろう。目立たない方が得策だ。

とりあえず来週も受けることにして、GDはいいかなと思う。慣れの問題だ。


今日は久しぶりに「チーズはどこへ消えた」を読んだ。長ったらしい話が続くが要は変化を怖がるなってことだ。

あとナポレオンヒルの「巨富を築く13の条件」をぱらぱら読み返してたら「98%の人間が明確な目標を持たないがために失敗している」とか書いてあった。つまり明確な目標を持った時点で50人に1人の逸材となれるわけだ。

僕は以前年収2000万円を目標にすると言ったが、そんなことでもいいのだと思う。

ゆっくり本を読む時間が欲しい。
あとメルロポンティとマルクーゼを読みたいのだけど!適当に時間見つけていけば一ヶ月で読めるかなー。

11.06.2013

岡本太郎美術館へいっとりました

川崎にある岡本太郎美術館へ行ってきた。

行って良かった。インスピレーションが高まります。絵画というのはその主張、その生き様がもっとも直截に伝わってくるのでよい。

初めて同美術館へ行ったときは、最初の絵画を見て大泣きしてしまった(クリマ、という原色を大胆に使った抽象画だった)。しかし確か6度目になる今回は、ふーんという感じで、でもやっぱり最後帰るときに、ほろっときた。彼の人間愛ってのはとても強烈であり、それでいて繊細なのである。

岡本太郎は何度もこう言っている、人間は怒らねばならない・・・。

「芸術は爆発だ!」と彼は言った。人は敗けたり理不尽な扱いを受けると怒る。この怒りのエネルギーは、透明な爆発となって宇宙全体に広がる・・・。そこにこそ芸術性があるのであり、生肯定の源泉なのだとそんなことを言っていた。

ここからは僕の解釈なのだが・・・。そもそも、人生とは理不尽なものなんである。人間というのは生まれたときから敗北している。死を運命づけられているからだ。決して越えられない壁。

人間にできることと言えば、喜ぶことでも、悲しむことでもない。喜びがあるところに、死からの逃避があるし、悲しむことには死への屈服がある。

死と向き合い、全人的に死と真っ向から対決する。そこにものすごい爆発が生まれるのではないか、と僕はそう思う。死と対峙したとき、人間の感情は、怒りで塗りたくられる。その純度の高さ。美しさ。
おれ
もう先生きらいじゃ
おれ
きょう 目だまとびでるぐらい
はらがたったぞ
おれ
となりの子に
しんせつにおしえてやっていたんやぞ
おれ
よそみなんかしていなかったぞ
先生でも手ついてあやまれ
「しんじちゃん かんにんしてください」
といってあやまれ
小学二年生の児童の「先生」という詩である。「この子どもの怒りを、美しさとしてとらえることができる人がいますか?」と彼は言った(太郎ちゃんファンである僕はもうそのまっすぐで透明な美しさにくらくらしてしまったのだけれど)。

怒りとは人間のもっとも根源的な感情だ。死から逃れることができず、そしてそれを認識しているという悲劇が全人間のおかれた状況なのである。人間は、死を認識したときから怒れる存在なのだ。

ホイジンガは人間を「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」と定義したが、正確には「怒れる人」である。怒りの感情は全てを包括するのであって、怒りの性質のない遊びもまた空虚なものなのである。

まあ!そんなことは良い。話すと止まらない。明日は初のグルディスである。それでは。

11.05.2013

自由ということ

僕は何度も説いている。自由になるために就活をがんばるのだと。

今日なんとはなしにH・マルクーゼを読んでいたら、こんな言葉があった。

「経済的自由は、経済からのーー経済的な諸力と諸関係によって統制されている状態からのーー自由、すなわち日々の生存競争からの自由、生活費を稼がなければいけない状態からの自由を指すことになるだろう。」

経済的自由という言葉は、経済で統制されている世界への参入のあり方を意味するものではなくなった。経済「から」の自由を得てこそ、人は初めて「経済的自由」を得ることができる。
これは僕が以前言ったとおりである。守銭奴も、貧乏人も等しく不自由なのだと・・・。

(社会不適合気味な)僕があえて社会に参画し、金を稼ごうという第一のモチベーションはこれである。

間違いなく、僕らは金を得るために社会に飛び出す。明日食うパンを得る金と、パンを食う金を得たという事実が必要なのだ。それは主体的行動というよりは、餓えと外聞という社会的抑圧が原因に近い(そういえばシモーヌヴェーユまだ読んでないや)。マルクスは労働は喜びだと言ったが、これは強迫的労働には当てはまらない。

マルクーゼはまたこうも言っている。

「もし個人が、市場において、もはや自由な経済主体としての実を示すように強制されないことになるなら、その種の自由の消失は、文明の最大の成果のひとつになるだろう」
人が経済から自由になるとき、まったく新しい進歩的な価値観が生まれる。・・・すでにそういった流れはあると思う。出世欲にかられない若者。高級車もマイホームもいらない、と宣言する友人たちを見ると経済的自由への潜在的な傾向はあるのかなと思う。




金、金、金。まったく小汚い踊り子よ。うらぶれた道化よ。
お前があるために、人は生命をすり減らす。
ならば私は、こう言おう。その足取りが見えぬ高みへとゆこう!



というわけで僕は大企業を志望するわけである。経済からの脱出を目的として経済へ飛び込むのだ。

僕は何度言っただろう?軽蔑するものは、乗り越えなければならない!そしてそれに付け加える。それが自由というものだから。

「迷いと疑惑は行動によってのみ晴れる。」

無理そうだけど決して無理ではないラインを目標に

最近酒に飲まれまくって申し訳ない。変なことばっかり書いている。

しかしこういう感情の爆発をぶちまけたようなことを書いていると、自分の性格が出るものだと思う。不器用でクソマジメすぎる。嫌なこと言われりゃ、「あいつムカツク」で済ませればいいものを。

ところでこの三連休をいかに過ごしたかと言えば、バイクでうろちょろし、読書し、ネットし、という程度である。就職に関する活動は、OBの講演を聴いた程度である。まあそんなもんでもいいのかもしれない。

僕の周りを見ていると、就活に本腰を入れる人ってあまりいない。僕だけが空回りしてるような雰囲気である。これがちょっと疑問。

僕の大学はそれなりの有名校であり、がんばれば超一流企業も狙えなくはないラインにある。なら故郷に錦を飾るというわけではないにせよ、ちょっとやる気を出してみようとはならんのかね。
どっかの誰かが言ったように、「もっと大きくなれるのに、なんと小さなポテトであることよ!」と叫びたい気持ちだ。

大体、何にでも本気で取り組まなきゃいけない。「なるようになる」じゃダメなんだよ。たくさん失敗して、本気で悔しがって、成功しなきゃ。なんでそういう「無理そうだけど絶対無理というわけではない」高い目標設定ができないかなー。漫然と生きてもつまらないだろう。

フロムが言ったように、「自分が人間であること、希望もあれば失望もあり、悲しみや恐れ、愛への憧れや、無と孤立の恐怖もあること、を忘れずに」いなければならないし、目覚めていなければ「いかに多くの人間が『蹶起した』ときにもうその四肢が麻痺し、その精神がすでに鈍重になりすぎているのを見いだして愕然とすることか!」とニーチェが言ったように、恐ろしい絶望に直面しなければならなくなる。

本気で生に直面して、自分の歴史を直視して生きていかなきゃね。うさん臭いこと言って今日はおしまい。



11.03.2013

勝者への道は、孤独への道だと君が言うのなら

勝者への道は、孤独への道だと君が言うのなら。僕は恐れずその道を進もう。僕はもとより孤独だから。

勝利への道は、愚者の道だと君が言うのなら。僕は迷わずその道を進もう。きっとそれは愚者にしか進めぬ道だから。

ありきたりの嘲笑には飽き飽きしている。
それにしても、君のような聡明なひとからそんな言葉をいただくとは。

しかし、僕はひとつ気付いたことがある。僕には僕の芯があって、それに合わない人もいるということ。
おおよそ、世界を見ようという人・・・。僕と芯を同じくする人は、過去に一度しか見たことがない。

もがいて、こじあけて、強引に進む人。その彼も、いかに残酷であったことか!そうして、きちがいじみていたことか。

僕も、今しばらくは利己的でいて良いと感じる。僕は僕の可能性を信じるしかないのだと思う。成功者は、ともすれば笑われがちだ。しかし、信じる者以外に、誰が為しえよう!

僕は、旧来の友人に否定されても、前へ進み続ける。迷うことなく。その決心の透明さだけは疑うな!

僕の足跡は、その土中の生態系を壊すかもしれない。しかし、嘆くな、虫けらどもよ!そこには目の霞むような目標があるのだから!




信頼する友を、乗り越えてこそ、男。

大学の嫌な奴は、社会に出たら必ず再び会う。

人生の朝に目覚めるとは、この生が闘いであると知ることである。

強迫的行動は全て下賤である。全て、恐怖が見えなくする。

真理は常に少数派にある。

11.02.2013

ブログというかevernote的使い方になってもうしわけない。


この楽しい時間も全ては過去になるのだ。

どんな楽しい時間であっても、そう思う気持ちが心の奥そこで渦巻く。
姓名判断で有名な祖母を持つと言った彼女はなんと言ったか。

賢いので金は貯まる。感情はおさえるが、中で激しい波が渦巻く。