12.30.2013

サン=テグジュペリ「夜間飛行」

限りないロマンと生と死、そして野望。

男がどう生きるべきかという点を考えさせられる。

パイロットや飛行の情景も印象に残るが、とくにリヴィエールの生き様がかっこいい。
彼は確かに優秀な管理者である。理想に恋焦がれながら、それでもしっかり現実を見ている。なかなかできるものではない。

しかし同時に孤独で人生の価値に疑問を抱いているようなところがある。現実に上司になったらすごく嫌だが、同時に惹かれると思う。意志の貫徹する男の透明な美しさがある。

豊かだが孤独だった男、といえば映画「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の主人公を思い出す。僕の中でリヴィエールはこんな顔。

そしてBGMでは常に「ミスター・ロンリー」が流れていた。ラジオ番組「ジェット・ストリーム」のあれである。

本の表紙絵、これもいいデザインだと思ってたら宮崎駿が書いてたらしい。しかし、「紅の豚」とはまたぜんぜん雰囲気が違うと思う。あれは突き抜けた明るさがあって、「夜間飛行」にあるような男の野望だとか、生の葛藤、飛ぶことの恐怖などがない。

駿が「紅の豚」をあまり好んでないのはこの点にあるのかな。

それにしてもテグジュペリって覚えにくい名前だなあ。

12.29.2013

アンソニー・ストー「孤独」 まとめ

アンソニー・ストー「孤独」を読み、傍線を引いた部分をピックアップ。久しぶりにおもしろい読書体験だった(訳が下手、というか直訳的で非常に読みづらかったが)。

それにしても、キーボードを叩きすぎて腱鞘炎になりそう。いい加減キーボードというシステムなくならないかね・・・。



昔の人は自然界の予測できないこと、人間の意志ではどうにもならないことに不安を抱いたが、現代のような豊かな社会では、人間関係に心を占領されて不安になっている。 エルネスト・ゲルナー


心理的な健康は愛する能力と働く能力からなる フロイト
ほとんどの勤め人の場合は、誰ともお互いに関わり合うことなく独りで過ごす時間は、比較的短い。おおかたの人にとては、このような仕事の形態こそ職場生活の魅力となっているようである。

独りでいられる能力は、このようにして、自己発見と自己実現に結びついていき、自分のもっとも深いところにある要求や感情、衝動の自覚へと結びついてゆく。

精神病の前駆症状として不眠がある→睡眠と孤独の関係

独りでいられる能力の発達は、脳がその最良の状態で機能するためにも、個人が最高の可能性を実現するためにも必要である。人間は容易に自分自身の最深部にある要求や感情から遊離してしまう。
学習、思考、革新、そして自分の内的世界への接触を維持すること、これらはすべて孤独によって促進されるのである。

人びとや出来事の喧噪のなかにあって、孤独は私の欲求であった。今やそれは私の友である。人が「歴史」に出会ったとき、ほかのどんな友が心を満たしてくれるのだろうか。シャルル・ド・ゴール

心の恍惚状態と死の連想は理解できる。このまれな瞬間は、それがあまりに完全であるために、再び日常的なことに戻るのがきわめてむずかしいほどのものであり、緊張、不安、悲しみ、そしていらだちが再び押し入ってこないうちに人生を終わるように人を誘うものである。

「それは内なる自由の感覚、独りになって、銀行からの報告書でなくて、極限の諸現実と直面しているという感覚である。銀行の報告書や他のささいなことは、これまた一種の監禁である。もっとも、これは物理的な空間ではなくて、精神的な空間での監禁だが。(中略)こうしてあなたは存在と対話をする。生との対話、死との対話を。」ケストラー

想像力は、すべての動物の中で人間においてもっとも発達していると言っても差し支えない。

内的な空想の世界は人間の生物的な能力の一部分であり、内的世界と外的世界との避けがたい不一致こそが、否応なく、人間を創作力と想像力をもつ存在にしているのである。
個人が人生を生きる価値のあるものと感じるのは、何よりも創造的統覚のなせる業である。

名前をつけることが第一番目の創造的な行為なら、絵をかくことは第二番目の創造的行為だろう。

キブツの中で育ったイスラエルの青年達を研究した結果、集団意識の共有についての高い評価が、創造性にとっては不利に働いていることを発見した。ブルーノ・ベッテルハイム

理想的な人間関係などありえない。人は「ふさわしい」相手を見つけて、理想的な関係を結ぶことが出来ると信じ込むよう仕向けられてきた。

ある程度自分の本性を否定したり抑圧してまで従順にならなければいけないと感じている子どもは、自尊心を維持するために、必ず外的なものをよりどころにし続ける。→成功、好人物、ほめられることなど

母子関係においては、「回避」が「従順」以上に深刻である。

私が見知らぬ場所で、何人かの見知らぬ人、あるいは私がそう思う人と一緒にいるとき、部屋全体が胸を圧迫して、私は動くことでさえできなくなる。そして、私の人格そのものが彼らをいらいらさせているように思われて、全てが絶望的になる――カフカ

もちろん、(カフカのそれは)狂気に近い精神状態である。書斎机、解体する危険をはらむ精神をひとまとめにして維持することができる想像力、完全無欠の知性、この三つがかろうじて彼を狂気から引き離す。
エーリッヒ・ヘラー

想像する能力は、なんらかの理由でかなり孤独な子ども時代を送った天賦の才のある個人において、特に発達する傾向がある。 
創造的な芸術家は、本質的に報いのある関係よりも、自分の仕事を促進してくれる人間関係の方を選ぶ傾向がかなり強い。

ものを書くことは治療法の一形態である。書いたり作曲したり描いたりしない人はみんな、いったいどうやって狂気や欝、人間の境遇にはつきものの追い詰められるような恐怖から逃げおおせるのかと、私はときどき不思議に思う――グレアム・グリーン(イギリスの小説家

死によって親を失った女性は抑鬱的は鬱病と診断され、分離による喪失を経験した女性を苦しめるような抑鬱は神経症と診断される。
自分が他人の影響を受けるのを許さなかったことをよしとする。――ヴィトゲンシュタイン

優れた内向性の作家は、自己参照によって、つまり他人よりもむしろ自分の過去の作品と相互に影響しあうことによって、アイデンティティを明確にし、自己実現を達成することができる。

「私たちはお互いに愛し合うか、さもなくば死ぬか、このどちらかを選ばなければならない」オーデン

芸術家は、そうでない私たちと同様、自分の内部で争うさまざまな欲望に引き裂かれている。しかし、私たちと違って、芸術家はこれらの欲望をそれぞれ自分の芸術に役立つ要素に変えてしまう。それから芸術家は、その要素をすべて統合してひとつの表現様式をつくりあげようと努める。その統合が成功したことを示すものは、誰もが認知することができるほど平明で、独自性と統一性を備えた表現様式である。――ジェロルド・ノースロップ・ムア
芸術家や哲学者は、本来自分独りで成熟することができる。その人生の進行過程は、他人との関係によってではなく、その作品の変化していく性質や向上する成熟度によって区分されるのである。

対人関係を最大の関心事としない人生に意味と秩序を発見したいという要求に特別に心を奪われている人達がいる。

ひとりの人間の行動が他者の医師に左右されること以上に恐ろしいことはない。――バートランド・ラッセル

人は、ある意味では自分自身に対して不誠実であり、創造主が人間にたどらせようと意図した道からあまりに遠くさまよってきたため、人生半ばになって神経症にかかる。
人間の心の構造は、外界の秩序や統一の発見または認識が、あたかもそれが内なる精神の世界の、新しい秩序と均衡の発見であるかのように映し出され、転移され、そして経験として蓄積されるようにできている。

創造的な人間は、創造的熱狂を伴って霊感がひらめく段階においては、過去と未来を失い、今の瞬間だけを生きている。彼は現在に、目下の状況に、今この場にあるものに、現時点の課題に、完全に没頭し、魅了され、熱中している。「現在に没頭」する能力は、いかなる種別の創造にとっても必要条件であるらしい。――マズロー

もっとも幸福な人生とは、たぶん、対人関係と非人間的なものへの興味のうち、どちらも救済への唯一の道として理想化されていない人生であろう。完全性願望とその追求は、人間の本性が備えているこの両面を含むものでなければならない。

Round Midnight

長期休みに入ったので不摂生な生活をしていた。このところ朝方に寝て夕方に起きていた。直すべく昼まで起きていることにした。

夜八時の寒空の中、コンビニで菓子を買って部室へ行った。アパートではパソコンがある。パソコンがあるとゲームをしてしまう。それでは人生の浪費だ。

部室にはピアノがある。ドラムがある。そして、家から持ってきた本がある。時間を潰すのにまったく事欠かない環境である。本を黙々と読みすすめる。やがて飽きて文章が頭に入らなくなる。ドラムで四肢の体操をして、疲れたらピアノでコードの勉強などをする。

ドラムは原始的なエネルギーを秘めている。何しろ人類史上もっとも古い楽器だ。ピアノは楽器として完成されている。メロディ、リズム、ハーモニー、全てを一手に担う(正確には二手)のだから楽しくないわけがない。


本のタイトルは「孤独」。孤独を求める人間は、抑鬱型と神経症型に分けられる・・・。僕は後者だ。ただし同種の人間であるカント、ヴィトゲンシュタインの哲学はまったくわからないが。小説家というよりは、哲学者に向いているようだ。ただカフカも神経症型の人間なようだ。

カフカの作品を見て思うのは、その普遍性である。21世紀の今でも色あせることがない、というか、カフカはそういう風に意図しているのだと思う。その普遍性はどちらかと言えば文学よりも科学的性質を持っている。その執着は僕もまったく共感できるところである。

世が明けてくる。外に出て寒空を味わう。田舎の大学のよいところは、その環境の静謐さ、自然の美しさである。

帰りがけ、山田うどんに寄る。たまごかけご飯、漬け物、あったかいうどんの定食を食べる。どの味もやわらかくて、夜明けの飯には最高である。

アパートに帰り、ビールのプルタブを引く。液体にのどを通らせて、またもこう思うのである。

この生活は完成されている・・・。

12.27.2013

掃除ができない人へアドバイス

どうしても掃除ができないという人がいる。部屋は埃やモノだらけで、生活の質はあまりに低下しているにも関わらず、行動に移せない。そういう人は、掃除をするにしてもやっつけ仕事で、すぐに埃まみれになる。

まあ僕のことなのだが。こういう人にはさまざまな心理的原因があるだろうが、ひとつに”掃除をしてもすぐ汚くなる”という諦めみたいなものがあると思う。

しかしこうした諦念を抱くのは理由がある。部屋掃除が間違っているのだ。部屋掃除とは何をすることか?まずコンセプトを切り替える必要がある。

多くの部屋掃除ができない人の掃除は、二次元的である。これはどういうことか。掃除というとモノを片付けて埃を取り除くことだと思っている。これは甘い。部屋全体をなでつけるような掃除では、埃や汚れはなくならない。

こうした人は、発想を三次元的にシフトすべきである。まず、部屋を構成するすべてのものをフリーな状態にする。ベッドは壁につかないようにし、本棚は本を降ろす。テーブルは物を降ろす。そうして、ひとつひとつの対象に対し、裏も表も、横も縦も全てクリーンにする。そうした過程を経て、真の部屋掃除が完成する。

こうした行為の利点は、モノの配置の再構築が可能なことだ。つまりひとつひとつのモノを部屋という世界から切り離して、必要かどうか吟味ができる。部屋を構成しているものが部屋にとってどのような意味があるのかを再認識できる。

この過程を通じて、部屋は必要のないものしかなくなり、すっきりとまとまる。本やモノの配置が整理され、散らかることがなくなる。

これはある意味、バイクや車のメンテナンスに近い。不動車の表面を綺麗にしてもエンジンはかからない。分解して、ゴミは捨て、ダメなものは新品に取り替え、全て綺麗にすることが重要なのだ。

概念的には部屋を「掃除」するのではなく「メンテナンス」すると考えるとよい。そうしたことで「生活の故障」が未然に防げるのだ。

本当の掃除をすれば、部屋の清潔さはしばらく保てる。少なくとも、表面をなでつける掃除とは比べものにならない。こうした”報酬”を経験すると、ずぼらな人でも掃除に対して意欲的になるのである。

12.25.2013

WEBテスト所感。

いやー今日は大変だった。

企業のWEBテスト締め切りが今日までだったのに気付いてあわてて対策した。タイプは玉手箱形式。

逆算がぜんぜん解けずに時間内に半分も解けずに終わってしかもポロポロミスっているという惨状だった。

しかし反復に反復を重ねなんとかモノにできた。慣れない計算をしまくってたので頭がすごく痛い。

実際に受けて見たところ
算数9割
国語7割
英語6割ってところだった。

これで通るんだろうか?無理かな。外資なのに英語できないってどうなんだろう。TOEICの点数はいいんだが何しろ勉強したのが2年前のことなのでブランクがありすぎた。時間がまったく足りない。

なにごとも早めの対策が肝心だということだろう。SPI模試で無駄に良い点とったのが仇になったかな。

ちなみに適性診断とかいう性格テストがあったがこれは外向的で創造性のないニーチェ的に言えば「おしまいの人間」あるいは「蛆虫」のペルソナをつけて受けた完璧。倫理的呵責はあるが我々内向的人間は社会に「潜りこまなければ」ならない存在である。不寛容で硬直した社会に問題があるのだからしかたない。

アンソニー・ストーの孤独について

#アンソニー・ストーで検索すると、恐れ多いことに、このページが上位にくる。今読むとどうしようもないクソ記事なので、引用をまとめた他の記事を読んだ方が有益だと思う。くわばら、くわばら。14/11/6


アンソニー・ストーの「孤独」がおもしろい。


最近、とくに孤独についての本を読みあさっている。それで思うのだけど、孤独な人間の創造性というのを過大評価しちゃいないか。そして社交的な、いささか浅薄な人間を軽視しているのではないか。そりゃ、ニーチェやショーペンハウエルのような孤独に沈湎した哲学者にとって、外向型の人間は「うごめく蛆虫」であり、唾棄すべきだったかもしれないが・・・。

孤独を愛する人間が「才能に恵まれ」ていて、社交的な人間が凡俗という見方はあまり好ましくない。僕としては、社交的な人間、孤独な人間が手を取り合うような社会が好ましいと思うのだが。例えばユダヤ教のように。

「モーセは口べたであったという。それに対して兄アロンは雄弁であったらしい。しかしアロンは神の言葉を聞く耳を持っていなかった。」



それにしても、確かに天才と呼ばれる人間は孤独を好むようだ。しかし、これは捉え方の違いだと思う。社交的な人間にも天才は多い。

確かにニーチェやショーペンハウエル、キェルケゴールなんかは天才だけども、ナポレオンや織田信長だって天才だったろう。要はその天才性が哲学に発揮されているか、個人の記録として残りやすい文学として発揮されているかによって、後世の評価が大きく違っているのではないか。

例えば信長のような人間であれば、優れた決断や天才性を発揮したとしても、部下や機運によって紛れてしまう。また本人達が直接モノを書くことがなければ、伝聞ということになり、それだけ真意が薄まる。それがニーチェの本となれば、現代でも本人が当時書いた言葉が、直截に語られてくる。
哲学者が天才と見なされることは、「文章」の力が大きいのではないか。そのエネルギーの永続性。プラトンにせよ孔子にせよ、「国家」や「論語」がなければ天才たり得なかっただろう。



ところで、僕は内向的人間だから、ひとと一緒にいることは好まないし、孤独のもたらす創造性の恩恵は計り知れないものだと知っている。正直、僕の人生はその創造性だけあれば十分幸せだと思っている。

最近は僕のような内向的人間が見なおされている。そういう機運はあると思う。(考えてみれば、いまが異常に外向性志向なのである。「内向的人間は採らない」という企業が多すぎる!!)一方、外向的人間が長く哲学者によって否定されてきた背景も見つめ直さなければならない。

さて、内向的人間、外向的人間、どちらも幸福になれると僕は思う。ところがもっとも不幸な人間は、内向的なのに外向的な振りをする人である(まあ昔の僕だったのだけど)。

こんなことは、人が他者を尊重していれば起こらなかったはずだ。

ケビン・ブリールという、うつ病を患うコメディアンがこんなことを言っていた。

「19年の人生で何よりもつらいこの苦しみは
新しい見方をもたらしてくれました
そして 心の痛みは希望を持つことを教えてくれた 
希望と信頼自らを信頼すること 
他者を信頼することこの状況を変えて 
良くなるという信念を声に出すこと 
声に出して無知と戦うこと 
不寛容と戦うこと 
そして何より 自分たちを愛することを学ぶこと 
本当の自分を受け入れること 
周りの人が期待する姿ではなくありのままの自分でいることです」


不寛容と戦うということ。自分を信頼するということ。これが正義であり、目覚めているということであり、善く生きるということなのである。



12.23.2013

放射脳の思い出

僕は以前、ゼミの発表で福島原発について語ったことがある。

主旨は、チェルノブイリ原発事故の統計的事実から、大規模な放射能汚染を受けた地域の人びとはどのような経過を辿るかまとめたもの。

もちろんデータに曖昧さがあることを前提して、それでも多少の影響は出るであろうこと。たとえば小児の甲状腺癌が増える。がんが増えるだろう。だから可能な限り配慮して、放射能を避けた生活を送ろう、というようなことを言った。


・・・


発表が終わって生徒たちの顔を見ると、「こいつ何を言ってるんだ?」
質疑応答の時間、それはもう虐められたものだ。僕は泣きそうだった。
専門家である教授に「こういうお馬鹿さんがいますが現実はこうですからね~」と今まで言ったことを全否定するようなまとめをされて、僕は負け犬のようにしょんぼりして発表を終えた。


確かにそのときは放射能の存在は「不都合な真実」だった(アルゴアは嫌いである)。震災に屈せずがんばる人びと、それを支える善意の人びと。人びとの絆。その絵図に、放射能はどんなに消しても消えないシミのようなものだった。つまり、みんな見ない振りをしていたし、その時点ではたいした影響もなく、次第に慣れていった頃だった。

しかし、健康というもっとも尊重すべきものが私企業の怠慢によって脅威にさらされているのだから、これは言語道断である。福島の女子高生がこんなことを言ったようだ。「うち、もう子ども産めん体やし!」ただただ悲しい。

それに、放射能とは目に見えず、臭わず、触ることのできないある意味で最悪の毒物だ。だから、啓蒙が必要だった。できる限り放射能を取り込まないよう、個人個人が気をつけなければならなかった。

それが、今ではいろんなことが曖昧になってきた。今では放射能なんてないかのようだ。放射能は平気で海や大気に垂れ流されている。病院のCTスキャンも大学の実験室のハザードマークも大した危険に見えなくなってくる。



しかし現実にはどうなっているだろうか?福島の子どもたちの甲状腺癌は確実に増えている。他県の7倍だというではないか。専門家曰く、2015年に放射能と健康被害の関連が認められ、訴訟ラッシュが起こる「2015年問題」が起こるとかいうことだ。

なぜこの専門家たちはこれまで声高に叫ばなかったのだろうか?


彼らも口をつぐまざるを得ない状況にあったということだろうか。






僕もさんざん放射脳だの臆病者だと罵られて、それでも自分の考えを疑ったことはなかった。本を読んで、海外論文も調べ倒した。僕以上に調べた人間は希だった。だから、ひとりでもがんばった。学生たちも、教授も、マスコミも政府は違うことを言っている。それでも僕が正しい。そんな状況があった。

あのときはほんと意識高い系学生だった。世の中がアホばかりということに気付いて、俺がそんな世の中変えてやると思って朝から晩まで勉強した。懐かしい。

今になって思うのは、世の中ぜんぶが無知蒙昧の霧の中に包まれている中、ひとり目覚めているということ。これは非常に猛烈なモチベーションになるということだ。

これは僕のルーツとなるストーリーのひとつである。今でも思い出すと身が引き締まる。

12.21.2013

SPI模試の結果。

SPI模試の結果は、大学内で二位だった。全国では35/43000。


1000人にひとりかあ、と思うと感慨深い。
僕はあくまで優秀な人間なようである。喫緊の問題として、WEBテストの締め切りが近く、そしてその問題はひとりで解くものではないということである・・・。結局は集団の中の歯車となることが就職なので、他者とチームプレイをして、チームとして成績を出すことが必須となる。

ちなみにWEBテストを友人と解いたことをツイートして問題になった就活生がいた。僕は彼女を擁護したい。これは大学1年の飲酒や原付の30km/h制限違反を叩くことと同じくらいバカらしいことで、「やってはいけないことになってる」ものの現実では容認されていることだ。

そして、だからこそ困っている僕がいる。なにしろ人を頼ることが苦手な僕だ(無頼漢と言えばかっこいいが単に人嫌いなだけ)。WEBテストごときで人生を左右されるのはごめんだ。


しかし、それでいいのかもしれないと思うこともある。WEBテストをチームで解くこともひとつの能力だし、それで判断するというのは、僕のような優秀な人間を落とすということだ。そんな会社こっちから願い下げだ、と言いたい。

最近思うのは、大企業であっても経営方針を誤っている会社が少なくない。学生ごときもごまかせないのだから事は深刻である。「マズローの心理学」にこんな言葉が書いてあった。「国民の99%は、悪い経営方針をとっている大企業に職を得ようとして、自分達の人生の何年かを費やしている。」

こんな文言を就活前に書いてどうなるかはわからない。しかし、就活を僕は超越したいのだ。就活に没入しながら、それを俯瞰したいのだ。

就活とは、企業に内定をもらう過程ではない。企業という巨大な組織と、個人としての自分の闘いである。全人的にぶつかりながら、同時にそれを醒めた目で見る自分がいなければならない。そうして、就活を排泄して水に流してようやく、超越したと言えるのだ。

うーん自分でもよくわかんね。ちなみにエントリーシートはABCDEの5段階評価中Bでした。


text

WEB上と書籍、テキストの所在はどちらに多いかわからない。それだけWEB上にテキストは氾濫しているのだけど、僕個人的には本の方が好きだ。

なにしろ本は出版という多大で煩雑なコストを介すわけで、その時点でろくでもない本はフィルタリングできるわけだ。さらにより煩雑な翻訳という過程を経た本はすばらしい。こうして"思想の上澄み”ができあがる。

僕にとってのおもしろい本というのは、"より真剣に生きた人の本"である。真剣に生きている人は人生や世界、もっと小さいものでいえば社会や共同体との軋轢が激しく、火花散らしながら生きている人びとである。そうした熱、光線、音、衝撃を本に載せてもらえると、僕の魂は舌鼓打って喜ぶ。

別に高尚である必要はない。神経症的で緻密な考察が書かれても良いが、シンプルに、直截なメッセージが描かれてるものでもよい。例えば岡本太郎の本なんかは、まったく稚拙で、文法的にあやしいところもあるし、同じような形容詞を多用したりしているが、それだけに熱いパトスを感じるのだ。


話を戻そう。それでも僕は現代っ子である以上、ウェブの文章も読んでいる。大した文章は読まない。僕は気に入った文章があるとEvernoteにコピペするのだが、そうした文章があることは本と比較して1%程度である。しかし、中にはすばらしい文章があることもある。

そうしたブログをここに貼ろうと思った(それがこの日記の動機だった)のだけど、深く読んでいくうちにわけがわからなくなったので辞める。


それにしても、こういう散文、文字通り書き散らした文章をここに書いていくことに意味があるのかと最近考える。

僕は毎日をここに記すことによって、足跡を残したいのかもしれない。足跡。大地への愛着。

まあ他人にとって意味がなくても、僕にとって必要ならそれでいいのかもしれない。自己の精神状態を赤裸々に記すこと。自己と世界との一致。

このブログ、ほとんど訪問者がいないのだけど、非常にやりやすくて良い。他者が見ているか見ていないかわからない――そうしたポジションが、僕にとって非常に居心地いいのだ。だから、家の机に籠もるよりも、空いた自習室、図書館、喫茶店で読書するのが好きなのだ。サルトル的に言えば、孤独のアマチュアなのだろうが・・・。

12.20.2013

自己と世界が調和するところに幸せがある

「世界と私」との調和に幸せがあると感じた。

世界のあるべきところに私という存在がぴったり嵌まるような感覚。

よりわかりやすく言えば、それは内面世界と外の世界とのバランスが保たれているような状態のことだ。

もっと日常的に言えば、他人と話しているときと、自分と話している時間のバランスである。

世界を選ぶか、自己を選ぶか、という言葉を、僕が好んで使うけども、自己と世界がうまく調和すれば、選択する必要はないのだ。自己が世界を認め、世界が自己を認める。そこに生まれる幸福・・・。

それでは、不幸とは世界と自己の不調和にあると言えよう。
しかし、本質的には世界とあらゆる内面世界は調和しているのだと思う。不調和が生じるのは、そこに無知や無思考があるとき、あるいは目くらましやなんかがあるときだろう。しょせん、人間は世界に内包される生き物である。内面世界もその一部分なのだ。


12.19.2013

内向型人間の価値について

時代によって内向型性格と外向型性格の人間の価値というのは変わってくるのだと思う。

今は外向型重視の時代である。なにしろ、就活しているとわかるのだが、内向的であることは悪であると断罪されている。適性検査で受かるためには外向的であることが重要な要素になる。

当たり前のことだが、内向型も外向型もそれぞれ長所短所がある。では内向型の優れた長所、独創性や熟考は現代では求められていないのだろうか?

思うに、社会が安定するほど外向型のニーズが高くなる。というのも、歴史の長い企業や社会的価値観によって、土壌やレールはしっかりと築き上げられているので、それに疑いなく調和する人間がどうしても優位になるのだ。

一方で、既存の価値観に疑問を持ち、革新的なアイデアを好む人間は、大企業にとって好ましい存在ではない。社風に染まりそうにないし、大きく成長する必要のない大企業は、革新的なアイデアを採用するリスクは犯さない。

それでは内向型が活躍した時代はあるのか。それは例えば戦後にあった。

戦後、バイクメーカーは驚くほどの数があった。実に数千もの企業がせめぎ合っていた。そうした「小さな共同体」しかない時代では、内向型の苦手とする複雑なチームワークは必要ないし、過度の競争に晒された企業は強力な新商品で勝負に出る必要がある。そのような場ではアイデアの生み出しやすい内向型は好まれたのではないか。

今ではバイクメーカーもたったの4社である。同じように、どんな業界でも競争に打ち勝ち企業は肥大化している。このような企業に対しては、内向的人間は自分をごまかし「潜りこむ」しかないだろう。

成熟した社会、既存の強固な価値観が形成された社会、集団的同調的抑圧がより巧妙に強力になった社会では、内向型はますますつまはじきになっていく。

しかし、そうした世の中を転覆させ、歴史の表舞台に立つトリックスターもまた内向型なのである。

だから、内向型はくじけず、自分に誇りをもつべきなのである。


#思えば、家父長制というのが生きていた時代も内向的人間の時代だったのではないか。ああいう常に不機嫌そうな、ムスっとした人というのはまさしく内向型である。今であればコミュ障あるいは精神未熟者扱いだろう。当時では、外向型がわざとしかめ面して、内向型の真似をしていたのだろうか。そう思うと少し可笑しい。

#4/11 内向的人間の価値再考。口べたと饒舌、どちらが優れた恋文を書くか?

12.18.2013

人間であるということ

型にはまった活動の網に捕らわれた人間が、自分が人間であること、希望もあれば失望もあり、悲しみや恐れ、愛への憧れや、無と孤立の恐怖もあること、を忘れずにいられるだろうか。
エーリッヒ・フロム


就活に関連して、仕事に何を求めるかというのが最近のテーマである。安定、収入、地位、いろいろあるだろう。

しかし僕はやはり「創造」というものを求めたい。創造は自由という土壌からしか生まれない。自由とはつまり個人主義である。個人が個人として認められるような会社で働きたいと思う。



金なんてない方がすっきりして動きやすい。この世に生まれてきたからには、生を噛みしめて生きたいのだ。僕にとって、金は金を超越するため以外には価値がない。軽蔑するものであれば乗り越えねばならぬ。

「みんな金が欲しいのだ。そうして金より外には何にも欲しくないのだ」
夏目漱石「道草」

就活雑感。

僕の周りの人たちがインターンの内定をとっていて驚いた、というお話。

どうも、企業というのは「価値のあるものを見出す人間」よりも「価値のないものをあるように見せる人間」を好むようだ。だいいち、面接にしても好まれるのは「大学時代遊び呆けてたけど、それを自分なりにアピールのできる人」である。決して、「勉強を一生懸命して、禁欲的に生活してきた人」ではないのである。

僕はアホではないのだから、大学で遊ぶことを批判しているのではない。もちろん大学は遊ぶところであってもいいし、そこで人脈なりコミュ力などを身につけることは悪いことではないと思う。それでも、大学でまじめにがんばってきた人が報われないというのは少しおかしいと思う。あるいは部活でがんばってきたのでもいいが――部活でも、チームを牽引したことが重要になるのである。決して、柔道なり軽音楽なりを精一杯がんばっただけではダメなのである・・・。

つまり企業が好む人間は、仕事を好む人間ではなく仕事に携わるチームを好む人間である。


この錯誤は、資本主義の基盤の脆弱性に由来する。そもそも、だいぶぶんの企業が売る必要のないものを売っているのだ。マスコミのテレビ番組にしても、インスタントラーメンにしても、本来人間にとって「必要」ではない。ただ「あれば便利」というくらいのものである。それでは番組制作陣、日清の研究開発陣のモチベーションはどこにあるか。「いらないものを売る」モチベーションはどこから生じるか。
それは「チーム」からである。どうも集団というものは、深くものを考えさせない作用があるようである。その結果、いらないもので街が溢れ、「これは必要だ」といういらない装飾でどこも彩られている。

本質的に売らなくていいものを売らねばならないというのが資本主義の宿命である。そこには無思考を是とする前提がある。企業側の選考基準も、どうやら無知蒙昧の塊だったようだ。




さて、そんなことを考える就活生の心持ちやいかなるものか。僕はいたってはればれした気分である。なにしろ、僕がもし就活で成功したとすれば。それはくだらない企業という存在を欺き超越したということになるし――よしんば失敗したとしても、僕は俗世間というものから離れ、創造的生き方をするか、あるいは(これは一般的就活生には当てはまらないだろうが)中流の生き方も保証されているわけである。

僕は就活にたいし、強いアドバンテージを持っていると思う。なにしろ、失敗してもそれは喜ばしいのだ。もちろん成功すれば嬉しいが――「企業に求められない人材」という自分に、僕は疑いのない自信を抱くこともできるからだ。

12.16.2013

コミュ障よ、誇りもて

ドクターペッパーがうまい。


コミュニケーション障害者、いわゆるコミュ障が増えていることについて。

結論から言うと、コミュ障が増えていることは良いことだ。僕はどんどんコミュ障が増えて欲しいし、コミュ障の価値を高めていければと思う。

だいたい、コミュニケーション能力とかいうものが盛んに叫ばれてきたのが数年前で、それ以来「普通の人ならコミュニケ―ションができる」ことから、その能力を持たない人を障害者扱いし始めた。

その前に流行った「リア充」という言葉を考えてみると、これも「普通の人なら彼女のひとりくらいいる」という考えから、非リアが排斥されてきた背景がある。

つまり”普通”であることが絶対的優位であり、それ以外の生き方は病的だ、認めんという思考プロセスが国民全体に蔓延しているのだ。

これはおかしな話である。東大生は少数派だが頭脳的には優れているし、優れた結果を出すスポーツ選手が不具なわけがない。

だいいち、優れた人というのは常に少数なのである。紀元前からずっとそうである。武士は少数、貴族は少数、バラモンも少数である。今だって、社長の数が平社員より多いなんてことはない。

会社の話で言えば、今はおかしなことになっている。平社員は勤勉でえらく、社長はぐうたらしているということになっている。逆だ。大抵、社長は偉いのだ。こんな当たり前のことが、多数派至上主義の社会では歪められている。

まず、少数派=劣っている、という考えはやめること。公平な目でコミュ障を扱うべきだ。



でもって、コミュ障であることは忌むべきことなのか。そんなことはない、と言いたい。

どうも我々が目指す人物像というのはおかしくないか。元気ではきはきしゃべり、周りと摩擦のない人間。10秒見たら理解できて、10秒目を閉じたら忘れてしまうような人間。概してコミュ強者というのは印象に残らない・・・。

いわば社会の中でうまくやっていける人間である。われわれのほとんどが、こういった人格を目指している。しかし、まて。われわれは社会の中で適応するために生まれてきたわけではないだろう。社会という垣根を越えて、世界を見るために生まれてきたのでは?

観念的になってきた。社会とはしょせん人間の集まりである。そうした社会から離れて、人類に輝かしい成果をもたらした賢人はいくらでもいる。いわば社会に埋没しない、客体化して見るような人種も必要だということだ。そして、そこにこそコミュ障の強みがある。

ちょっと突拍子もないことを言う。コミュ障がなぜコミュ障なのか考えてみるに、彼にとって社会が理解できず、遠いものだからなのではないかと思う。コミュニケ―ション強者がその社会の中で埋没し、世界と社会を一体化して見る一方で、コミュ障は社会をあくまで世界の一部として認識する。彼はその手の中に社会を弄んだり、蹴飛ばしたり愛でることはできるが、社会はあくまで世界の一部である。世界が見えなくなるまで社会をふくらますことはできない。

だから社会から何か要求がきたり、メッセージが来ても、すぐに彼は応答できない。社会が世界に内包される以上、情報は彼にとっての世界を通過しなければならない。そこにずれや遅延が生じるのだ。

コミュ障は確かに社会性に欠けるが、それもそのはずであって、社会へ注視する比重が小さいのである。彼にとって重要なのは内面世界や思惟、抽象の世界であって、社会がああしろ、こうしろという要求は時にノイズにしかならない。

政治学と哲学はもっとも遠いなんて言った人がいるが、そのとおりである。哲学はコミュ障のものであり、政治学はコミュニケ―ション強者のものだ(おそらく)。

だからコミュ障は悪いことではない。社会の中でうまくやっていけない彼らをバカにしてはいけない。それならば、社会の中で"しか"生きていけない人びとを、コミュ障はこう非難することになる。「俗物」「軽薄」「畜群」と。あるいは、サルトルの言葉を借りよう。
黄色い壁やひとびとを信頼の念を持って眺め、世の中はいまあるがままの姿であると思うのである。もはやいっさいの意味を持たぬ緩慢で微温的な生活であるが、彼らはそのことに気がつかないだろう。
しかし悲しいかな、多くのコミュ障は自分の才能に気付いていないのだ。世を変える大きな思想を残すかも知れないのに、彼女ができないだの、上司に嫌われるだの、つまらないことにくよくよ悩んで、果てには自殺までしてしまう。あるいは、コミュニケ―ション強者に不必要な憧れを抱き、近づこうと努力して決して達成されない、不毛な人生を歩んだりする。

コミュニケ―ション優位者による少数派へのイジメはまったく暴力的である。コミュニケーションは上手でも、相手を敬い尊厳することをしらない連中はクズである。


まとめよう。
コミュ障はコミュニケーションに劣っていても、多方面で優れた業績を残す可能性がある。しかしコミュニケーション強者が”矯正”しようとすることによって、コミュ障の能力が奪われたり、精神病理の芽を植え付けたりする。
国民全体、コミュ障の生き方に多少の敬意を払うべきであり、そうしてコミュ障自身ももっと誇りを持つべきだ。

社会はきっとあなたの力を必要としている!!!

のだから。

12.15.2013

孤独について

人は孤独である。生まれてから死ぬまでが孤独である。たとえ恋人ができても、家族がいても孤独であることに違いない。

それならどうして、孤独に沈湎しないのだろう?それが誠実に生きるということじゃないか。

孤独ということ。
ショーペンハウエルの説によれば、詩人と、哲学者と、天才とは、孤独であるように、宿命づけられて居るのであって、且つそれ故にこそ、彼等が人間中での貴族であり、最高の種類に属するのだそうである。
萩原翔太郎はこう書きながら、 
つまりよく考えて見れば、僕も決して交際嫌いというわけではない。ただ多くの一般の人々は、僕の変人である性格を理解してくれないので、こちらで自分を仮装したり、警戒したり、絶えず神経を使ったりして、社交そのものが煩わしく、窮屈に感じられるからである。僕は好んで洞窟に棲んでるのではない。むしろ孤独を強いられて居るのである
としている。確かに、僕も交際嫌いとは言えないかもしれない。しかしニーチェやショーペンハウエルが社交的だったら天才と呼ばれることはなかっただろう。孤独者は”天才”か”人間未満”か?というのが最近のテーマ。

そんなわけで「孤独」に関する書籍を買いあさった。
  • 中国文学における孤独感 (岩波文庫)/斯波六郎
  • 孤独―新訳/アンソニー・ストー
  • 孤独な散歩者の夢想 (岩波文庫)/ルソー
  • 孤独と人生 (白水uブックス)/ショーペンハウアー,アルトゥール
  • 「人間嫌い」の言い分 (光文社新書)/長山靖生

最近は本が大好きすぎて困る。就活に関する本も買っているにせよ、Amazonだけで月2万以上買っているのはたまらない。

12.14.2013

インターンの選考会行ってきた。

インターンの選考会へ行ってきた。

いろいろ試験を受けたが、正直言って成績は悪かった。
だいぶぶんはグループワーク。僕のグループは、あまりこういうのに慣れてない印象の人が集まった。ので、やはり良い結果はでなかった。個人で行う課題に対しては、それなりと言ったところ。

大学で長く個人主義的生活をしてきたため、どうもチームで何かを行うとか、他者と競うとか、部屋に押し込めて順番着けられるような感覚に慣れない。他の人は当たり前のようにこなしているのだけど、僕は気持ち悪くてしかたなかった。社風が合わなかったということもあるだろうが・・・。

まあこれが社会に飛び込むってことなのかな。就活が終わる頃には僕もつるつるした原子のような人間になってるのだろうか。

帰りのウォールデンがすごく身にしみた。ひとまず、僕は就活を乗り越えるだろう。しかし、その先を考えると、大きく方向転換した方が良い気もしてくる。

12.13.2013

悪魔は徒党を組むが、神と太陽は常に独りである。

明日はインターンの選考会のようなものを受けに行く。企業から評価される初めての機会だ。正直、少し緊張する。しかし今までの日記を振り返ってみると、自信が沸いてくる。

その自信の源泉は、僕が百人に一人の天才であること。(これはIQ126という結果を得たことによる。1000人に1人か、となるとちょっと怪しい)

僕が百人に2,3人の奇人であること。(ユングの分析を基にしたMBTIという心理テストで、INTJと言われるもっとも珍しい性格という結果が出た。INTJは「完璧主義のアイデアマン」タイプ)奇人であることは必ずしも名誉ではないが、どこかで読んだように「人と違うことは成功の必要条件である」のであれば、少なくとも有利である。

もうひとつ。誕生日花占いでこう言われたこと。「好ききらいがはっきりしているので、なかなか心を開かないほうです。でも、わかってくれる人は必ずいるもの。確実に成功できる人です。」うーん、まさにぼくである。


まあ僕が成功者になることは間違いないが、いつも言っているように、僕は不器用である。自分を殺すか、世界を殺すか、どちらかしかない。そしてまっとうな人間であれば、迷わず世界を殺すだろう。それにしても、孤独という最良の友を持っていること、あるいは道があることーーこれが僕の強みである。


ところで、僕は営業職も受けようと思っている。が、僕は根っからの孤独を愛する人間である。まあ、人間嫌いと言ってもいいが、それだと企業自体に適性がないことになるので、孤独を愛する人間ということにしておく。

(・・・ところで、企業体とは特殊なものであることを認知しておかなければならない。就活とはあくまで企業という巨大な物体が個人を飲み込む過程である。就活に失敗したところで、大した問題ではないということだ。あなたは漫画家にもなれるし、職人にもなれる。冒険家や個人投資家になってもおもしろい。とにかく「組織の歯車となる」ことだけが道とは思わないことである。僕はむしろそうした道を軽蔑している。だからあえて就活に挑戦している。これが僕の根本的な動機である。本当は、ソローのように森の中で独り暮らしたいのだが・・・)

さて、そんな孤独を愛する性格の僕は、果たして営業に向いているのだろうか。と思ったらやはり向いているようだ。以下引用。

売れている人(向いている人)・組織的な行動が嫌いな人=個人的主張が強い人=孤独が好き。
でもズーと一人じゃ寂しい
・会議が嫌いな人=「何をどうしようか」と皆で話し合うより自分で動いて結果を求める。
・じっとしていられない人=フラフラ動き回ることでパワーが出る
・時間に拘束されるのが嫌いな人=自由を求める
・決まりきった仕事をすることが苦痛になる人
・相手の話をじっくりと聞いた後、自分の主張も伝えることが出来る人

僕が営業を受けたい理由は、それがもっとも個人主義的な仕事の場だと感じたからだ。あと移動中本を読めること、と給料。つねに僕は自由でありたいのだ。それで金も貰えるんだからいいよね、とまあそういうことだ。

12.12.2013

40年もひとつの企業に?信じられない!

就活に思い悩む日々である。

昨日某企業の就活応援セミナーを聞いてきたのだが、「40年はたらく会社ですからよく考えるように」と何度か繰り返していた。これを聞くともやもやした。

よく考えてはいけない、と言ってるわけじゃない。一社に40年もいる、ということが信じられない。人の一生を70年としよう。40年といえば人の一生の半分より長いのだ。仮にAさんがダイソーに就職するとして、40年勤めた・・・。その人が死ぬとき、その人は”A”なのか?”ダイソー社員”なのか?

この問題は幼稚だが根深い。昔であれば、商人は商人であり、農民は農民で、刀鍛冶はそれだった。だから商人が死んだ、でもいいのである。しかしダイソー社員はどうだろう。商人とも違う。彼が営業だとして、”営業マン”として死ねるだろうか。いや、”ダイソーの一員”である要素の方が大きいだろう。わかりやすく言えば、彼は"ヤクルトの営業マン"であって、"営業マン"ではないということである。

40年、一企業に勤めるということは、恐ろしいことだと思う。少なくとも僕には耐えられない。マルクスを持ち出すまでもなく、仕事とは本来創造的で楽しいものだ。しかし個人が、組織に飲み込まれるということ!動物以下の事物になりさがることで、人間は奴隷化される。

就活をしていて思うのは、目覚めている人間は採用されないということだ。少なくとも、取れる内定は少ない。しかし、それでいいのだと僕は思う。僕は正しく、僕を採らない企業も正しく、win-winの関係なのだから。

12.10.2013

早起きの神性

早起き世界を制す。

僕はかねてから早起きだった。確か一年間くらい、朝6~7時に起きる生活をしていたと思う。そしてガランとした講義室で、コーヒーとともに絵を描いたり本を読んだりきままにすごしていたのである。

ただ最近は研究が夜まで長引くことも原因なのだが、どうにもサボりがちであって、そんな状態を改善したいと思う。

ソローを読んでみると、こう書いてある。

記憶すべきあらゆる出来事は、朝の時間、朝の大気のなかで生起すると言ってよい。『ヴェーダ』にも、「すべての叡智は朝とともに目覚める」とある。詩や芸術、もっとも美しく記念すべき人間の行動は、この時間にはじまる。
僕も同感である。ショーペンハウエルもこういった。「朝は人生のエキスである」

ついでに僕の書き抜き帳にもこうある。「朝は無意識に近付きもっとも主体的に考えられる」まあショーペンハウエルは書き抜き帳は作るなって言ってたんだけど・・・。

ショーペンハウエルとソローは似てるところがある。厭世的というか、神経質というか。それはつまり潔癖ということか。


 ともかく、朝は重要なものである。明日は早く起きよう。そのためには今日早く寝ることだ。

12.09.2013

就職について考える

就職について考える。

いざ働くとなると労働とはなんぞや?というcrucialな問題にぶちあたる。

考えてみれば、この世には不要な職業が多すぎるのではないか。人間はもっと自分のことは自分ですべきだ。刺身の上にたんぽぽを乗せる、その作業を8時間こなすことで衣食住をまかなう・・・。これはひどく非人間的だ。

自分で家を建て、自分の食料を育て、衣類は自分で直す。そういうシンプルな生き方に憧れる。

僕は金が欲しい。金が欲しいが、同時に若いうちは好き勝手やりたい、とも思う。もっと好き放題本を読んで、いろんなことを経験したいのだ――そしてそれは、金が貯まった後では遅すぎる。

ある医師が語ったこと。私は大学受験に備え、国家試験に備え、結婚に備え、子育てに備え、開業に備えた。私の人生は常に準備していた。

僕も同様だ。


もっと、人間や社会という規範から抜け出して、自由でありたいと思う。僕は僕の脳みその中で生きているのであって、僕が他人に望むことは、放っておいてくれ、これだけだ。

12.06.2013

二重性

姉妹ブログを作ることにした。

この前影像エキシビションの講演で、重要なテーマであった「二重性」をまた考えている。

人間を定義すれば、それは二重性と言ってもいいのかもしれない。
人がAからBに行くことを意志し、実際に到達する。その行為にはそれを達成した喜びとともに、Bへ行ったことの後悔とAへ戻りたい欲望が隠されている。

なぜなら、その分岐点に戻り、「Aにとどまる」という選択肢を選ぶことは永久に不可能だからだ。人間という生き物の一方向性。
そこに人間のもの悲しさがある。主体性というものを持ってしまったがために、全ての決断に一抹の後悔を残さなければならない。いわば人生を「ああすればよかった」で飾ることのみが人間の営みなのである。分岐点で残した後悔は蓄積しやがて架空の自分を作り上げる。人は架空の自分を見まいとする。しかし見まいとすること自体、架空の存在の実在性を深めている。だから、人間は二重性の生き物なのである。

高みに登るほど底辺が恋しくなる。智慧を身につけるほど狂気を望む。ドストエフスキーの「地下牢の手記」。


生きるということは、なんてストレスフルなんだろう!きりすときょうが、ぜんじんるいに「げんざい」をかしたいみがわかる。

そんなわけで、僕はもうひとつのブログを立ち上げるのだ。だいいち、このブログもそろそろ一周年だ。正直、一年もブログを続けたことは僕にとって奇跡だ。

そろそろ、「新しいモノ」が必要な時期だ。新しいものは、全て快い。それにしても、一年の集積!僕は素直に自分を褒めたいと思う。

・・・最近の流れに沿って、就活に関する所感。僕はどこでもやっていける。現世へ降りるのは、たまのことだから。

12.02.2013

SPI模試・エントリーシート模試を受けた話

言語:42/50
非言語:46/50

Tot:88/100

くぁー!9割いかなかったわー!くぁー!
(意外と良い点だったので嬉しい)

このSPIとかいう試験は、「読書好きの理系」が最強であると感じる。あんま勉強してないぞ俺。

言語では単純に知らないことわざなどでミスった。非言語ではケアレスミスが1問、時間のなさに焦ってろくに検討しなかったのが1問だった。まあ平均がどれくらいかはわからないが・・・。


SPIだけでなくESの試験もあった。内容は書かないが以下のようなタイトルにした。
学生時代にがんばったことは?という問には部活動の経験を語った。”静かなリーダーシップを発揮し、組織・人を動かした”

もうひとつ、あなたの強みとそれをどう活かすか?という問い。
"内向性を武器に変えて"

是非はともかく、面接官の目を引くようなタイトルにした。読書経験を活かし、少なくとも下手な自己啓発書よりは上等な文章を書いたつもり。これは採点を待たねば結果はわからない。

しかし初めてまともにESというものを書いたが、時間に押されると意外と書けるものである。あとは面接をきっちりやればどこでも受かるだろう。

12.01.2013

合同説明会に向かっているはずが世田谷美術館にいた

合同説明会に行く予定だったが気分が乗らずやめた。俺の周りの連中が全員行くと言っていたからだ。そんな説明会に行く必要があるだろうか?

・・・いや、あるんだろうけどさ。

そんなわけで空いた時間を利用して世田谷美術館で”影像エキシビション”という企画展を見に行った。写真の作品が主でちょっとわからなかったがしかし胸にぐっとくるものはあった。

着いてすぐに「講演が始まりますー」ということなので聞きに行った。プロジェクトのリーダーである大辻清司さんと、美大教授の方の講演。なかなかおもしろかった。
シュルレアリスムの話、作品を貫く”二重性”の概念、写真はあくまで表象だが、しかしその先がある・・・。その二重性は広告写真でも美術作品と同じように持ち、意識的に用いられるが、それでは広告写真と美術作品の二重性はそれぞれどう異なるのか・・・?

とくに講演中のロートレアモンの言葉が印象に残った。シュルレアリスム作品を見てレアモンはこういった。「手術台の上のこうもり傘とミシンの出会いのように美しい」。

また震災をテーマにした作品について、美大教授の方が「助けたい、近付きたい気持ちはあるが、どうすることもできないような隔絶感、距離感」と表現していたのにひどく共感できた。

美術というものは学術的に、理詰めに語ってもおもしろいものだ、と感じた。難解な言葉がやつぎばやに出てくるので、岡本太郎ちゃんのシンプルな講演に慣れてた僕はちょっと戸惑った。

また講演の観客を見てみると、いかにもーなサブカルな若者たちが多かった。僕の学校では奇抜な連中がいないので、うらやましく思う。



まあそんな感じでした。
ESの下書きを作って、添削してもらわねばならない。
学生時代がんばったこと→部活動でリーダーシップを発揮したこと
どのように会社に貢献するか→高い自主性と継続性をアピール

こんな感じに行こうと思う。無難だな。まあ一癖噛ませるくらいのことはやるつもりだ。



就職に関連して、リクルートスーツを購入した。購入にあたって絶対条件は黒で柄なしであること。安ければ1万円から新品が買えるようだが、なんか気にくわない。激安サイトにありがちなケバケバしい広告が気にくわない。

ヤフオクを見てると、定価20万円程度の中古デザイナースーツが1万5000円で売られていた。なんとなく落札。うーん、届くまでが怖い。