12.31.2014

節目

人間とは何かしら節目を作りたい生き物なのだと思います。2014年から2015年になったところで、何が変わるわけでもない。時の流れは変わらないわけです。

死というのもひとつの節目なのかなあと思います。川の流れは止まりませんね。ひとつの木が枯れたところで、森は死にません。ぼくという生命がなくなったところで、結局、たいしたことではないのかなあと思います。輪廻転生か、天国へ行くか、まあ無になるとしても、ぼくの生きた痕跡は、ほんと小さな変化ですが、社会に与えているわけです。つまりここに生きている。

選挙の一票では何も変わりませんが、人類の進歩というダイナミズムのなかで、わずかに軌道修正をすることができれば、それは生きた意味があるんじゃないかなあと思います。

たとえ万人に忘れ去られても、無意識のなかで、共有されているわけです。そう考えると死というものも、人生という流れの終着点というよりは、わざわざ作った節目なのかなあと思います。みんな、だれも死というのを体験したことはないから、正確なことなんていえるわけないですね。

たぶん、木が頑固に生きつづけたら森は死ぬでしょうね。水が蒸発を拒んでも、川は枯れるでしょう。人間のからだでも、細胞がアポトーシス(自死)しなくなったら、人間の方が死んでしまう。

死も生命総体に必要な過程なのかなあと思います。ぼくらは葬式において、大規模な儀式をして、大いに泣きます。それはもちろん悲しさもあるのですが、死というものに対する畏敬があるのかな、と思います。つらい悲しいという感情の前の、ひとつの偉大な行為が成し遂げられたことへの感動がある気がします。



今年は、いろいろあった年でした。まあなんだかんだ言って、楽しかったです。いろんな出会いがあったし、気づけることも多かったように思います。

文章力はあがったと思います。上半期の記事とか読んでると、笑えるくらいヘタクソですね。まあ、毎朝の習慣(投稿)の賜物ですね。読書もそれなりにしました。

でも、良い文章って難しいですね。文は人なり、ですから、奥手な性格がマイナスに出てますね。けっきょく、芸術とは、自分をいかに引き出すかだと思います。自分以上のものはできないんですね。よく言われることですけど。

どうでもいいことばかり、書きました。今日は珍しく敬語で書いてます。気持ち悪いし、なんかダメなお坊さんの説法みたいですね。今日は胃腸が悪くて、気弱なんだと思います。明日(来年)からは戻します。

12.30.2014

甲状腺がんが増えている

福島で甲状腺ガンの小児が急増しているという。

甲状腺がんの子103人〜福島で10万人に30人

なんていうか、予想通りだ。

大気中にばらまかれた放射性ヨウ素は、食品や生活用水に濃縮される。チェルノブイリの場合では、牧草を経由し牛乳に蓄積された。作物などを介して体内にはいった放射性ヨウ素は、甲状腺にさらに蓄積される。甲状腺とは、代謝調節機能を担うのど元の小さな器官である。

蓄積されたヨウ素によって、内部からDNA合成を障害され、やがて異常増殖細胞であるがん細胞ができあがる。このがん細胞は、成長するまで時間がかかる。1cm大になるのに10年だったかな。だから、三年後の今になって甲状腺ガンが増えることになる。

甲状腺ガンは比較的正確なヨウ素131の内部被爆マーカーである。というのも、甲状腺ガンというガンはなかなかレアだからである。実際に、被爆で肺がんや白血病も増大するだろうが、こういうのは母数が大きいのでなんとも言えないだろう。甲状腺ガンは違う。増えたらはっきりと放射能のせいだな、とわかる。

被爆したらガンが増える。当たり前のことだ。これは砂糖をとりすぎたら糖尿病になるのと同じくらい当たり前だ。当前のことが当前に起きているので、別に驚くことはない。驚くことはないが、国民はいつ気づくのだろう。まだ対岸の火事かな。「東京で甲状腺ガンが急増」ってなったら、一転して大騒ぎになりそうだな。まあ報道しないんだろうけど。

ぼくの大学の東大出の教授は、2011年当時、こんなことを言っていた。「福島の子どもたちは、チェルノブイリのときと違って牛乳を飲んでいない。だから甲状腺ガンが増えるか、まだわからない」東大卒なんてこんなものである。こういうおバカが「食べて応援」なんて言わせているのだ。

言ってしまえば、「食べて応援」とはさとうきび農家を守るためにマグカップ一杯の砂糖を飲み込むようなものである。こんな歪な応援が当たり前になっている。



なんでこんなことを書くかというと、魚介類の産地偽装を最近知ったからである。つまり、三陸沖でとれた魚を、三重県や千葉県までわざわざ持って行って水揚げし、さも三重県や千葉県でとれたかのように売っているのである。

ぼくはこの三年間、いちいち原発付近の魚をはじいていた。スーパーで、うまそうなカツオだな……半額になってるし……今日の晩飯は豪勢だなあ、と思って手に取ると、産地が三陸沖になっているので泣く泣く諦める、ということがよくあったのである。

それで、千葉県ならちょっとヤバいけどグレーくらいだよな、と思ってサバとか買っていたわけだ。はい。まんまと騙されました。国民に被爆を避ける権利なんてなかったんですね。

ぼくのこういう選別を「身勝手」「神経質」「風評被害」「キモイ」と言うひとがいるかもしれないけど、たぶんグローバルスタンダードな価値観でいくと、当然というか、もう東京にもうんざりして逃げ出すのが普通だと思います。今では「汚染水が海水に漏れ出ましたー」ってニュースでやっても「ふーん」でしょ。その感覚の方が、異常なんですよ。

こういうことを言うとなぜか叩かれるので、普段は言わないようにしてるんだけど。本当に危ないんですよ。放射能が危ないってのは、当たり前ですよ。で、原発事故の責任は東電や政治家にあるんで、国民のぼくらがわざわざ負担する必要はないんですよ。

本当に、若い女性とか、お子さんには安全な食品を食べさせてあげてください。七十歳くらいのおじいちゃんなら、細胞分裂が盛んではなく、ほとんど被害はないので、そういう方に食べさせた方がまだ危険は少ないです。

福島の子どもたちの健康をお祈りします。どうかみんな、安全に楽しく過ごせますように。そして、日本が国民の健康を守る正しい国になりますように。

12.29.2014

未来と狂気について

現代の理性は、地球が平らだと考えていた中世期の理性と大して変わりがない、と私は思っている。理性を超越してしまうと、向こうの世界、つまり狂気の世界に落ち込んでしまうと思っている。そしてだれもがそれを非常に怖れている。この狂気に対する恐怖は、かつて人びとが抱いた地球の端から落ちてしまうという恐怖に勝るとも劣らない。(「禅とオートバイ修理技術」ロバート・パーシグ)

もう今年も終わりか。2014年、世の中はたいして変わらなかった。ぼく個人は、だいぶ変わった。

興味の関心が、ずいぶん広くなった。これまでは、有名作家とか、著名な哲学者のものを読むことが多かったが、案外、身の回りに優れたものがあることを知った。まあ主にブログだ。

人間は知ろうとしているものしか知ろうとしないものだよなあ。ほんと。今まで歴史とか、宗教とか、自分には無関係としか思っていなかったものが、自分の思想にcrucialに響いてくるわけで、そう考えると好奇心というものを絶やしてはいけないのだと思う。

あとは一種の霊感というか、「これ好き」と思ったらその感覚を逃さないことだと思う。
この機微はすぐ紛れて消えてしまう恐れがあるんですな。

ニーチェは「善悪」の奴隷道徳に対し、「良悪」の君主道徳を対置したけれども、ぼくとしてはそのさらに上に「好悪」を置きたい。善悪は理性が司る、良悪は本能が、好悪は存在そのもののもつ作用-反作用である。

いまはなんでも専門化であり、知の分断が図られている。高校二年の段階で、理系と文系が断絶されているからね。こうした専門化の過程は、科学の性格もあるけど、結局、総合知を得た人間があまりにも強力だから、為政者が封印しているってわけだよね。だって、国民がバカな方がコントローラブルでしょう。知識人や啓蒙者なんて危険でしかない。専門バカを量産した方が、いい駒になる。

ぼくもバリバリの理系人間だから、文系科目なんて虚学だ、曖昧mocoだ、なんて思ってたけども、心理学とか哲学勉強したら目から鱗だよ。これだよぼくが求めていたのは……!という気分だった。

学術は、深く突きつめることも大事だし、それが生活のためには必要だったりするんだけど、専門分野はそれぞれ確実にリンクしている。いろんな分野に手を出すことで、複雑な知識体系がつくられる。それこそ本当の活きた知識なんだよね。

だからぼくはどうも、大学教授というものが尊敬できなかった。当然、ものすごく勉強されている方々なのだけども、ほとんどの科学者は恐ろしく狭い分野の微少な前進に情熱を傾けているわけで、頭のいい人の持つ一種のパラノイア的な性格が、逆にうまいこと利用されちゃってるなあという風に思った。

もっともぼくが何でも知っているかというとそんなことはなく、今年もあまり本を読まなかったし、日常的にひとより勉強しているとはいえ、ほとんど生活のための勉強なのだけど。でもまあ、以下を読むと社会人よりマシなのかもしれない。

世の中で生きている人の多くは、どうやら人間として生きているということに対して要求する水準が極めて、極めて低い。それが若いころはまだ目立たない、学生であるということで擬似的に真理の探究に参画しているから。ところが、社会人になり、学ぶことから遠ざかると、人は人でいられなくなる。恐ろしいが、直視しなければならない。人と呼べる存在なんてほとんどいない、10人に一人もいないか、いつも特殊な環境で生活しているからか、そのことに気づかなかった。(「他者ということ」とある文学部生の日常



なんか汚くなった。縦軸は「開拓度」とでもしておくか。

よくわからない画像をつくってみたよ。これはぼくのような人間がどういう仕事をすれば良いかを書いている。

ほとんどの人が2015年地点のように、目の前の成果に向かって歩みを勧める。

ほとんどの企業は、50年後の自分の企業のことなんて考えない。そんなことしてたら株主に逃げられるから。だから、長くても5年とか、目標をたてて目の前の壁を掘り進める。いわゆる俗な人たちの仕事だ。政治もそう。

だけれども、ぼくは目の前の事象を軽く超越して、遠く未来の目標に向かってあらかじめ掘り進んでいかなければならない。

ただ、当然そんな試みはだれの目にもキチガイ沙汰に写るだろうし、評価されないだろう。でも、人類の前進にとってはきっと良いことなのだ。

それがぼくの役割というか、そういうものだと思っている。眼前に仕事はあるのであって、別にそれが苦痛だからどうとか、楽しいからどう、というものではない。

なんか気持ち悪いかもしれないけど、変な使命感が沸いちゃって、使命感というか、義務感というべきか、ひとつの仕事を実感しつつある。ぼくはおかしくなってしまったのかもしれないが、結局、意味のない狂気なんてないわけで、そういう狂気を認めさせることもぼくの仕事のひとつなわけだ。
未完成の仕事の光景は、笞が奴隷を追いやるのと同じ強烈さで、自由な人間を引き寄せる。(ヴェイユ)
これこれ。

たしかに上のマリオがいる位置の仕事は必要なんだよ。多くの先人たちがこなしてきた仕事でしょ。偉人の仕事はいつも早すぎる。だけれども、仕事しないで引きこもっている人間が、「ぼくは人類の全般的進歩のために仕事をしているんだ」と言ってもただの社会不適合者だよね。

そういう社会不適合者はフーコーが指摘したように近世以降、駆逐される傾向もあるけど、それが社会の恐ろしい停滞感を生んでると気づかないかなあ。狂気に不寛容な社会は、未来に不寛容な社会だよ。

柳田国男もこういっている。
昔の精神錯乱と今日の発狂との著しい相異は、実は本人に対する周囲の者の態度にある。我々の先祖たちは、むしろ怜悧にして且つ空想の豊かなる児童がときどき変になって、凡人の知らぬ世界を見てきてくれることを望んだのである。『山の人生』柳田国男
そう。狂気楽しいじゃん。現代芸術なんてまさに精神疾患アートだよ。草間彌生も、純然たるメンヘラだし。

ってなわけで、ぼくは未来のことを知らなければいけないわけ。そのためには、一種の霊感みたいなものに頼らざるを得ない。スピリチュアルとか、予言とか、守護霊とか、笑っちゃうようなタームがある、ぼくも非常に懐疑的ではあるのだけど、言ってしまえばこれこそ狂気の領域なんだよな。案外そういうところに答えがあるのかもしれない。

だらだら書いた。今日は大掃除をしなければいけない日なのだ。

12.28.2014

GOGH vs JOMON

ぼくらはゴッホの絵を見たときに感動する。ゴッホの手紙を読んでも感動する。なぜだろう。それはゴッホがびっくりするぐらい純朴だからだ。ちょっと女の子にやさしくされたらぞっこん惚れこんで、就職したら上司にたてついて無職になって、まったくダメな奴だ。

彼はぼちぼちな作品を描いたが、それは画壇に受けいれられなかった。そうして、また描いた。今度はもっと大胆に。もっと素直に。それでも、人びとの心を動かすことはできなかった。彼は孤独のなかでどんどん深みに嵌まっていった。結局、彼の作品は死ぬまで評価されなかった。

彼の死の間際の作品は、おそろしく感情豊かな、もっと言えば恨み節で描かれている。

「カラスのいる麦畑」 1890年
これらは不穏な空の下の果てしない麦畑の広がりで、僕は気兼ねせず、極度の悲しみと孤独とを表現しようと努めた。
これは近いうちに君たちも見られると思う。僕はこれらを出来るだけ早く、パリの君たちのところへ持っていこうと思っているからだ。
それと言うのも、これらの絵は僕が言葉で語ることが出来ないもの、僕が田舎で目にする健康によいもの、活力を与えてくれるもの、そうしたものを君たちに語ってくれるだろう、ほぼそんな気がするからだ。
(「ファン・ゴッホの手紙」みすず書房)

なんかクソみたいなダメ本に、こういうことが書かれていた。ゴッホはセルフプロモーションに失敗した。一方でダリは、セルフプロモーションに成功した。みなさん、セルフプロモーションは大事ですよ、ダリを目指しましょう、と。

アホか!

ぼくは思うのだが、ゴッホは変人でも狂人でもなく、もともとはただの純粋なヒトである。しかし、この世の中で、純粋な人間なんてそうはいないのだ。だから少数の例外を除けば、だれも彼に共感できず、評価もできなかった。

彼は貧乏な画家が集まって楽しく絵を描いて過ごせる牧歌的なコミュニティーを作ろうと画策した。が、あっさりと失敗する。それほど純朴でぶきっちょな人だ。

彼を狂わせたのは、彼の責任ではない。彼を狂死させたのは、彼を受けいれなかった社会である。純粋なひとは、病んだ社会においては、その毒素を蓄積し、変貌する。そしてこの世を呪い、狂い、自死するのだ。

まとめ。ゴッホみたいな純粋なひとが、にこにこ笑って絵を描いて暮らせるような社会がぼくは理想的だと思います。(小学生か)



岡本太郎はゴッホに並々ならぬ影響を受けているのだけど、岡本太郎はその他、縄文土器の芸術性を発掘したひとでもある。

ぼくはゴッホと縄文土器はその純粋さで共通していると思う。

ただ、ゴッホの時代との違いは、彼の芸術がアカデミズムや社会通念からこてんぱんにやっつけられたのに対し、縄文土器は、たぶん当時たいへん好ましく受けいれられていたということだ。


「火焔土器」
なにかの反動ではなく、純粋な喜びで作られている芸術だと感じる。言いすぎかな。

この複雑怪奇な土器は、いろんなところから多数発見されている。縄文人はすっごくこの土器が好きだったんだろうと思うし、また、すっごく暇だったんだろうなとも思う。

縄文人は一日三時間しか働かなかったという。残りの時間、彼らは、食う寝るセックスか、祭事や芸術しかやることなかったんだろう。この時代、まだ政治はないし、戦争もない。経済もないし、農作もないのだが。なんていうか、良い時代だ。

ゴッホは縄文時代の日本に生まれるべきだったのだ。

とよくわからないことを書いて、今日も学校へ……。


以下雑記。

どうも何も書く気が起きない。自分のしてきたこと、これからしようということに確信がもてない。ぼくは人生をだれかのために生きていない。だから、ぼくがこれからどうすればよいのかということは、自分に尋ねる以外はない。だけれども、鏡のなかの自分にかじりついたところで、返事があるわけでもなし。

ぼくはこれからどう生きればよいのですか。

生き方に悩んで悩んで、あやふやに生命が消費されていっているのだ。いあまあ学業はそれなりにがんばってますよ。でも、学業なんてほんとうの生き方じゃないからね。社会に対する義務みたいなもので、生きていくための必要だから、情熱をそそぐところじゃない。

社交とか、家庭もそうでね。よくマックで、頭の悪そうなひとが、友達と盛り上がってぎゃぷぎゃぷ笑っている、興奮しすぎて手もばちばちと叩く、そういうひとがいるけども、彼らにとってはそれが最上の使命であり、最上の楽しみなのだろう。

ぼくらはこういうつまらない社会のために生きてるんじゃないんですよ。ぼくは自然だ。ぼくの肉体は自然である。もちろん他者も自然ですよ。でも、社会ってのは自然じゃない。本当じゃない。ぼくとある人がぶつかりあうとき、つまり、自然と自然がぶつかりあうときに緩衝してくれるものが社会。

でも、そんなことにマジになっちゃってどうするのさ。「どちらかといえばあった方がいいかもしれない」けど、「なければないで問題ない」ものに本気になってどうするのさ。それどころか「害悪そのもの」なときもあるけどね。

社会的なこと、これはもう、時代が強制するのだから、半分眠りながらこなしていくしかない。そうして、ひとり自分の部屋に帰ってきたら、そこから大いに自然に戻ろう。自由を謳歌しよう。楽しもう。

そう、人生の本質は、楽しむことにあるのだ。


昔の記事を読んでいたらこんな文言にあたった。

好機だ!こんな時代でよかった!と言える人間がどれだけいるか。その強さを持った人間が今どれくらいいるか。たいてい、ああすれば、こうなっていれば、なんてうじうじ言って、ありもしない空想で慰めるのだ。これが、歴史から逃げることなのだ。情けない。

なかなか、鋭いねえ。俺。

12.27.2014

ゆわゆわ

この世の常識とか、公理だとか、そういったものを離れてみると、やはりずいぶん寂しく、孤独なのである。

ぼくの周りにそういう人はいない。いたとしても、他者の前では愚鈍な振りをするものだろう。強者はつねに離れることを望む、と。

ネットにはいる。書物にはいる。社会から遠く離れいったひと。ネットのある人物は、その辺の書物よりも革新的な仕事を成し遂げている。たぶんのちのちに名前が残るんじゃないかな。

そういう業績っていうのはだれかが吸い上げてしまうものかもしれない。彼は確かにすごいことをしているのだが、その作品は歪なのだ。完成されていない。ひとびとに広く知られるためには、洗練される工程が必要だ。そして、洗練した人が、もっとも評価されるのだろう。

まあ世の中ってのはそういうものなわけでね。まとめブログとか、NAVERまとめとか……ああいうのが時代の象徴。

手元にある石ころを組み合わせて遊ぶことしかしない貧困。

ひとは何の影響も受けずにはいられない。自分本来のルーツが何を叫んでいるか聞こうともしないものだ。

ぼくらはすべてを知覚している。地球の裏側でなにが起きているか、銀河の外側で隕石が衝突したとか、知ることができる。ところが、知ろうとしないのが大部分のひとだ。実際のところ、どうでもいい。テレビでも見ている方がましだ……。それはごもっともだ。


知識は外から与えられるものだという誤った認識もある。

実際のところ、外から与えられた知識はだれかに返さなくてはならない。日本史とか国語を教えるのは善意ではない。社会のためにきちっと働くために教えるもの。

だから、ぼくらは労働を美徳と感じている。それは借りた物を返す過程だからだ。しかし、一方的に押しつけられた負債なのだけど。

そういえば、ドイツの教育では、小、中、高校生は授業がすべて午前中で終わると聞いて、羨ましくなった。学校+塾で二十二時帰宅の日本とは大違いだなあ……。

心の最奥は、もっと優れたものを与えてくれる。当然、借用書なんてない。というか、この世に約束事なんてないのだ、ということを教えることも心の最奥さんである。

実は約束事こそ、この世の悪の根源だと……。人間を縛りつけ、離れられなくする、権力の構成元素だと……いうお話がある。

誠実さ、とはまず他者に対しての、自己に対しての誠実さである、借用書や法律のような、呪縛に対して誠実であることではないのである。

だから、安全が確認できたら、赤信号を進みましょう。時間の無駄。だいたい不要なところに信号が多すぎるのだから。(というと、盛んに非難してくる奴がいて、バカかこいつは、と思ってしまう)

人間と人間を介在するいろんなものは、邪魔な物でしかない。金もそのひとつだ。


話が飛ぶけど、安部ちゃんの言う「トリクルダウン」ってクソだなあと思う。トリクルダウンってのは、経済の上層部が豊かになれば、勝手に庶民層も豊かになるって考え。

実際に起こること

日本のように、上層と下層が断絶している社会では上層の富は降りてこないよ。経営者が肥えるだけだよ。まともに雇用が流動していて、市場が自由で、労働法が守られている国なら、トリクルダウンもありうるだろうけど。

まあ、そんなことはだれでもわかる。安部ちゃんもわかるさ。結局、総理大臣は官僚の言いなりっていうことは明白なのだから、よしよし聞いてあげるよートリクルダウン?すごいねーって言うしかないんだろうけど。

だから、官僚の言うとおりになる振りをして、裏の裏をかくっていう戦術が、総理大臣に必要なんだろう。そうなると、国民の目からすると、何やってんのこいつ?となるのは明白で、だから支持率がどんどん下がっていくと。


ゆたかな国ってのを考えてみると、小学生みたいな意見だけど、みんながニコニコ笑っている国ってのがゆたかな国なんだと思う。まあ朝の中央線乗ってみればわかるけど、ニコニコしている人なんて皆無だ。ニコニコしているのは小学生くらいで、そういう子どもも数十年すれば、人生に恨みしかないようなサラリーマンになってしまう。

海外旅行行くとわかるけど、みんな笑顔がステキだ。身なりは粗末で、こいつら金もってないんだろうなーとは思うけど、電車が「八時間」遅れても別に文句言わないし、市役所が勝手に閉まってても大丈夫。モーマンタイ、マイペンライ。

にこにこだらだら過ごしてる。電車の席の連中で、トランプ始めたりする。ああ、こういう生き方もあるんだなあと思う。

なにが言いたいのかよくわからんなあ。今日は風邪であたまがゆわゆわするので、そんな調子で書いた。

12.26.2014

純質であるところの存在

存在は善悪の彼岸にある。

「善い人」でも驚くほど心に響かないひとがいるし、「悪い奴」とされているひとでも、不思議なほど魅力に溢れていることがある。

大企業の面接のときに感じたことは……。社長や幹部の人びとは、たしかにすごいのだけど、別に人間として優れているという感情は一切抱かなかった。「ああ、このひとたちはすごい俗物なんだな」と思った。俗物とはハリボテである。

たしかに年収1500万円とか、2000万円はもらっているだろう、社長ならその二、三倍は稼いでいる。だけど彼らは存在自体が強くはない。きっと死んでしまえば、すぐ忘れ去られてしまうだろう。彼らの遺族にしたって、彼の死を悼むよりは、そうそうに遺産相続の問題に移るに違いない。

金銭や地位をもとめる感情は、「自分がそれ自身では許されていない」と考えていることに由来する。ただ存在する、それだけでよいのに、彼らは存在のよりどころを善悪とか社会的地位に求めてしまう。これが現代社会の信仰であり、毒素である。

「俺は金持ちだ。だから存在していい」
「俺は善人だ。だから存在していい」

こういうひとは、かつてこう思っていた。

「俺はブサイクだ。だから存在してはいけない」
「俺は勉強ができない。だから存在してはいけない」
「俺は母に愛されていない。だから存在してはいけない」

退職した途端に鬱病にかかってしまう人がいる。彼は会社に魂を売った。会社もそれを喜んだ。そのあとは、何を支えに生きていけばよいのか。老年の彼に、いまさら考えを変えることはむずかしい。実存の危機が六十五歳にやってくる。

俗物的でないぼくの友人は、ある大手企業に内定を貰っていて、「入社したら社長を目指す」と息巻いている。しかし彼自身、社長になりたいなんてそこまで思ってなさそうだ。でも、就職したら上を目指さなければ先が見えない。一生平社員は、嫌だろう。でも、昇進を目指すことも、昇進したあとも、たぶんすごくめんどくさいだろう。でも、辞めてしまうのは、もったいないだろう。彼の生きた目は、空虚な目標はもうたくさんだ、と語っている。

もっとも、そう思っているのも学生のうちだけで、彼も会社に帰属意識を持ってしまうのかもしれない?背筋をぴんと伸ばした彼が、出世競争の怒濤の流れに飲み込まれ、潜在的な権力の監視におびえ、洗脳され、しだいに考えることを忘れ、あの俗物社長にぽーんと置換されるのかなあ、と思う。怖いなあ。

貧しさとは、智慧のないことを言う。

ブランド物の服ばかり着て、ユニクロが着れないことは貧しい。時価の鮨屋ばかりいって、回転寿司を楽しめないのは貧しい。だって、寿司が回ってるんだぜ!(ぼくはいつも回転寿司屋に行くと笑ってしまう。寿司が回っている!なんて光景だ!と)

差異を買う必要はないのだ。軽自動車の代わりにベンツ。原付の代わりに大型バイク。何が違うのか。鉄フレームの代わりにアルミフレームだろうと……樹脂の代わりにカーボンだろうと……それをもっている君に箔がつくわけではない。

たしかに、ベンツの似合うひとはいる。彼はぼくが原付を運転するように、ベンツを乗り回す。自然で、ほれぼれとしてしまう。ただ、似合わないひとの方が圧倒的に多い。こういうひとは、貧しい。ベンツの存在感に負けているのに、気づいていない。あるいは気づいていても、ロレックスや億ションを買うことで解決しようとする。これもまた貧しい。

善悪だとか、地位の前に、存在の強弱がある。それはスカラーのようなものだ。存在を磨こう。存在を磨けば、ベンツも、銀座の寿司も、勝手についてくる。なぜならベンツや銀座の寿司たちは、そういう人間を待ち望んでいるからだ。

気高く生きるということだ。今日も学校へ行く。

12.25.2014

話のつまらない

世の中にはいろんなひとがいる。いろんなひとがいるのだが、興味をそそる人となるとわずかにしかいない。退屈な人びとの何が悪いかと考えてみると、「常識」のような権威に弱いことがあげられる。

会話をしていておもしろい奴らはみな常識を破ってる。彼らは軽々とタブーを乗りこえる。あけっぴろげな性の話、宗教の話、勝手に始まる星座の歴史とか、素粒子のロマンに興奮しだす奴とか、最高におもしろい。赤信号をつっぱしり青信号で止まるような素敵な奴らだ。

常識はぼくらの会話をせばめる。あたりさわりのない日常会話ほど退屈なものはない。昨日みたテレビの話とか……ショッピングの話……仕事の話……もういいよ、だまってくれ!君の話はもう何万回も聞いたから……。

となる。

ところでぼくが「仕事とか超めんどくせえ。もっと楽しいことで食いたい」「田舎で釣りしながら猫と暮らすのだ」というようなことを言うと、「まじめなひとたち」にぼくはさんざん嘲笑され、いじめられる。お前はバカだな、キャリアを汚す気か、お前は夢を見ているんだ、というようなことを言われる。

アホか。

実際のところ、夢を見ているのは君たちである。きみたちは、敷かれたレールの上を歩むことが、正解だと思っている。ところがそれは間違いだ。ざんねん、気づいたときにはもう遅い、君は老い、君の人生はだれかのために費やされてしまっている。

ぼくは理想主義者だと言われる。夢想家だと笑われる。ぼくは笑ってうけながす。本当の理想主義者は、きみたちなのだから。いじわるな顔をした彼らの首には、ぼんやりと枷が見えている。ぼくがこの一年の間にとっぱらってしまった枷が。

きみたちは夢を見ながら一生を終える。それもありなのかもしれない。

結局、だれもかれも不幸だ。権力者は不幸だ。奴隷たちも不幸だ。それを離れて見ている、一見自由な立場にあるぼくも、不幸なのである。なぜって、こんな社会が憎くてしかたないからだ。ぼくとは、ぼくと環境のことだ。不幸なひとを前にして幸福でいることはできない。

ほんとうは、みんな自由に生きていけるのだ。それなのに、だれもかれも、首に枷をつけている。外そうよ……。気づけば、外せられるよ。いま外さないと、もう難しくなるよ。ぼくは消え入りそうな声でそうつぶやくしかないのだ。

12.24.2014

世の中の仕組みがわかってきた。

世間ではいつもどうでもいいことが一番問題にされる、いったいどうでもいいことに無限の価値を付与するのが世間というものなのである。(「死に至る病」キェルケゴール)

今年になって、世の中の仕組みがわかってきた。というわけなので、ぼくにとって人生がだいぶ変わった年になった。

以前のぼくは、自分という存在が許せず、自分をさまざまな方向に向けて走らせたが、そんなことは必要なかった。自分という存在はここに完成しており、問題はつねに外部から与えられていた。だから他者や社会から与えられる抑圧を、あるいはかつて与えられた害悪を除いていくことがこれからの試みとなる。

こうした目覚めは、容易なものではなかった。長い時間が必要だったし、苦痛を伴った。自分に対する深い確信がなければ成せるものではない。だって、「自分以外のすべてが間違ってる」なんて普通思えないよ。正しい人間は全てアウトサイダーだったなんて。

心の底がなぜ芸術を渇望しているか不思議だったが、この理由もわかった。この世で芸術だけがスポーツではないからである。スポーツでは、鉄球を投げなければならなかったり、ボールを手で持ってはいけなかったり、不可解な制約がある。また明確な点数が存在し、順位付けがされる。オリンピックの表彰台は三角形で、現代社会の縮図である。

そのような不要なシステムがことごとく存在しないのが芸術という分野である。まあなかにはいくらで売れただの、賞をとったことを誇る芸術家もいるが。金と名誉に溺れたら芸術家は死ぬのだ。

おそらく、古来にはスポーツなんてものは存在しなかっただろう。芸術はあったに違いない。古代の人びとは、ヤリを遠くまで投げられたとして、「それが何の役に立つの?」と訝しがるに違いない。「獲物に当てなければ意味ないよ」

ヤリ投げ選手の弁明。「俺は偉いんだ」「だって金メダリストだぞ。世界一なんだ」

古代人は彼を理解できない。

これが現代に蔓延している神話であり、毒素である。

クリスマスが何だってんだ

キリスト教は害悪なのではないかと考えて、やっぱりこりゃあ害悪だなあ、という結論に至った。多くのひとが讃えるものに価値はないからである。本当に良いものは広まらない。だれか心ないひとが独占してしまう。証明終わり。以下補論。

キリストよりましなことを言ってみよう。「右の頬を打たれたら、反撃せよ。あるいは彼から離れよ」。左の頬を差し出すなんて、バカげているよ。常識的に考えて……。そんなことをする動物はいない。飼い主に隷従した犬くらいのものだ。キリスト教は奴隷的なロボットを作りだすものである。

仏教も国家神道もアウト!

信仰心は、たしかに芽生える。そこに存在する。

ぼくらは美しい女性を見たとき、大木や海を見たとき、他愛なくときめく。この純朴な感情のゆれ動きこそ信仰心である。天にまします神様や、神社に祀られている神様ではない。こころの奥底にきらめく不思議に当たったときに、信仰心は芽生える。

だからぼくが思うに、ただ自己にだけ向かわせるのでない宗教は、邪教である。孤独を許さない宗教は邪教である。孤独とは自己沈潜を許すものであり、その先には自由があるからだ。自由を許さない宗教があまりにも多すぎる。隣人愛とか日曜礼拝とかね。

ウパニシャッドは読むべきだろう。秘奥義であるところのインド哲学を読むべし。また神社ではなく、その脇の大木に耳を傾けよ。真理はそこにあるのだ。

12.23.2014

あらゆる価値の転倒

万人が讃えるものに価値はない。

AKB、ジャニーズ、神社、町内会、大企業、学校教育、宗教、東京も、資本主義も、価値がない。すべて大衆の群がるところに価値はない。こうしたことに気づく人間が、ぼくの周りでは多い。

あらゆる価値の転倒が起きようとしている。

311の地震の揺りうごかしが効いているのだと思う。日本人は、たしかに地震のことを忘れつつある。というか、忘れてしまうように日本の権力者層が全力を尽くした。マスコミの押しつけた「絆」も有効なカンフル剤だった。おかげで、日本人は放射能の健康被害を受けたことさえも忘れたようだ。

しかし、日本人の潜在意識にははっきりと傷が残っている。地震に揺りうごかされたすべての国民の潜在意識に共通する傷。支配者に裏切られたひとびとの傷。大きい傷も小さな傷もあるが、あわせれば、あまりにも巨大な傷だ。この傷は、表面をなでつけただけで治るものではない。たしかに、三年間は無事に乗りこえたようだ。しかしこれからは、どうなるだろう。

潜在意識の傷は人間の行動を微妙にかえてゆく。今まで当たり前のように過ごしてきた日常のなかで、「I would prefer not to:これはあまりしたくない」という感情が芽生える。いままで価値があるとしてきたものに、疑問をもちはじめる。日常を遠巻きに観察しはじめる。

大衆が智慧をもちはじめている。権力者がもっとも畏れることが起きている。「絆:きずな」という言葉によって、ひとびとは「傷はない」と思うようになった。そして「気づくな」という権力者たちの命令に、暗黙のうちに従わされた。

気づく。多くの日本人がこれから気づき始めるだろう。小さな気づき、大きな気づきがあるだろう。それらが日本人の心を呪縛から解き放つだろう。そうして、価値の転倒はやがて巨大な流れになる。

そのときに、日本人は本当の幸福と自由を、得ることができるとぼくは信じる。

ところで、絆の語源を調べるとこのように書いてあった。

「家畜が逃げないように繋ぎとめておく綱」



ぼくの目標は、当初から変わらず、世界を変えることである。しかし、ぼくなんかが微力な力で貢献しなくとも、日本人は変わりつつある。遅いか早いかの違いだけだろう。

社会は変わらなければならない。また、変わることを望んでいる。

各々の小さな「気づき」の変化が、巨大な力になる。このダイナミズムの前では、政治は力を持たず、警察権力も無力だ。これこそ真の民主主義だろう。真の統治だろう。

民衆レベルで価値の転倒が起きる。ニーチェも予想ができなかったことが起きようとしている。だれも地震には勝てない。



Evening in the Studio 1993 Lucien Freud

大衆は肥やされ 惰眠をむさぼる

権力者は やせっぽちの犬

知識人は 無関心

12.22.2014

起業草案

会社を立ち上げる夢想をしていた。



  • 広い平屋のオフィス
  • 窓の外は海が見える(日没はほんときれい)
  • 田舎で静か
  • 波音が聞こえる
  • 社員の机は横2mくらいある
  • デスクチェアはアーロンチェア!
  • 社員四人くらい
  • バイトの子二人くらい(時給800円:薄給なのでほとんど雑誌を読んで過ごしてもらう)
  • 休憩時間自由
  • 時間にルーズ
  • スーツ着用不要
  • 社員旅行、飲み会なし
  • 夏休み一ヶ月
  • 冬休み二週間
  • GWはずらす
  • コーヒー飲み放題
  • 落ち着いたジャズやクラシックがかかってる
  • イヤホンで音楽聴くのは自由
  • ただし薄給


社員それぞれが資産を持っており、薄給でもお金に困ることがない。

社員それぞれが教養をもっているため、子どもたちには自分で物事を教えることができる。数学が苦手なら、別の社員が教えてあげる。

社員それぞれが自分の畑をもっているため、食うに困ることがない。たまに社員が昼休みに魚を釣り上げてくる。

仕事内容はネットを使ったなにか笑
まあこんな牧歌的な会社を考えているわけだけども、すぐに潰れることだろう。

なんで潰れるんだろう?いい会社なのに。

それは、競合する会社があるからであり、顧客がそちらの方へ流れてしまうからだ。競合他社は、この会社の二倍はたらくことだろう。

社員を馬車馬のごとく働かせなければ、会社の存続が危うくなる。

労働者が搾取される理由は何か。ヴェイユによれば、マルクスはこう論証したという。
享受と消費に向かう資本家の欲望ではなく、競合する他企業をしのぐべく、可及的すみやかに自企業を拡大せねばならぬ必然性にある(「自由と社会的抑圧」)
会社として存在する以上、既存の企業群の構造の中へ組みこまれる。資本家はまず「見えざる手」によってつきうごかされる。

過労死しても、それはしかたないさ。資本家だって、私腹をこやしたかったわけではない。選択の余地がなかったのだから。

この構造を改善するには司法の介入が必要になる。サービス残業によって過労死させた経営者には厳罰を。奴隷労働禁止。洗脳禁止。

しかし国はこれをしない。厚労省はだんまりで、法の逸脱に寛容である。なぜか。国の経済力が落ちるからだ。

つまり「享受と消費に向かう政治家の欲望ではなく、競合する他国をしのぐべく、可及的すみやかに自国を拡大せねばならぬ必然性にある。」と。

これは帝国主義に向かった日本と同じだ。

日本が必死に領土拡大を目指したのは、別に私欲にかられてではない。イギリスやフランスのような国がまず帝国主義であった。植民地を大量に抱えていた。

「お前植民地も持ってないの?だせー」

というわけだ。

日本株式会社もまた構造の中にある。国力が削がれると倒産やM&Aが待っている。だから必死に国民をはたらかせる。

でも、結果的には労働の質が落ち、日本のGDPは下がる一方だ。

ついでに国民を愚民化させる効果も狙ってるんではないかと思う。

金と自由がなければ、ひとは政治など関心をもたない。「庶民は生かさず殺さず」。まとめサイトとアニメだけが楽しみの悲しいサラリーマンが増えている。

資本主義が全部悪いのだな。搾取と階級社会は資本主義のせいだ。

でも、みんな=全世界が一斉に資本主義をやめなければ意味がない。いつ辞めるのだろうか。ぼくが生きてる間に変わるだろうか。核戦争でも起きない限りは辞めそうにないな。

12.21.2014

日本はなぜ○○禁止の看板が多いか

日本の警告看板や禁止立札はゴミより目障りだ ホルガー ・H・ハウプト

ぼくらが一歩外にでれば立て札や看板にでくわす。山ほどの看板だ。曰く、「○○禁止」「○○禁止」「○○禁止」。

ところでこれらの看板は「だれに見られること」を想定しているだろうか?このことを知っている人が少ないので書いておきたい。

少数の違反者に向けて書くのであれば、彼だけにわかるよう小さく警告すればよい。それなのにデカデカと看板を書くのは理由がある。違反者ではなく、犯罪を犯さない市民に見せるためなのである。あの看板は、ぼくら犯罪を犯さない市民の方を向いている。これを知っている人は少ない。

ある小学校。「廊下を走るな」という張り紙がある。Aくんはそれでも廊下を走った。楽しいから。それで、女生徒Bさんが言う。「走っちゃダメだよ。ここに書いてあるでしょ」と張り紙を指さす。これが権力の委譲。人間の使役。

その証拠に、Aくんがそれでも走り続けたらどうなるだろう?先生の注意は、もはや必要ないのだ。Aくんは迷惑者として弾劾され、村八分にされる。帰りの会でつるし上げられる。Aくんは、先生の注意が怖いのではない。周りに受けいれられなくなることが怖いのだ。

もちろん廊下を走ることは好ましくない。問題は、生徒が生徒を罰していること。つまり張り紙が間違っていても裁かれる恐れがあり、またその量刑が適切でない場合が多々。すなわち、生徒の力によって、生徒の私刑が行われる。

なぜこんなことが可能か?○○禁止は、異端者の行動をしばるためにあるというよりはむしろ、下々の民に権力を与えるためのシステムだからだ。市民的なるひとびとを警察の犬や首切り処刑人にする。市民のパワーバランスを不平等にして、秩序的(=抑圧的)な社会を作り上げる。

これは町内会と一緒。パワハラと一緒。



世の中はうまくいっていない。機能不全だ。

こんな社会おかしいよーって言うと中二病扱いされる。君は未成熟だ。幼稚だ。早く大人になりなさい、と。

システムの中に取り込まれることが大人になるということだ。システムの矛盾は、矛盾のまま受けいれる。でも、その矛盾はどこにいくのだろうか。ある種の虐待とか、ハラスメント、パチンコのようなものへいくのかな。

虐待されているから、虐待がしたくなる。暴力的なシステムのなかにあるから、暴力を振るいたくなる。この世が生まれや運で決まってしまっているから、パチンコがやりたくなる。

若者は老人に虐められているから、ロリコンが増える。

表と裏ってわけだ。人間の行動なんて、わかりやすい。とくにシステムのなかに組みこまれてしまったつるつる原子くんは、典型的な行動しかしない。作用反作用のゆらぎに組みこまれていて、犯罪ですら没個性的だ。だから、犯罪を見ると世相がわかる。

日本の犯罪は少ない。治安は良い、と言われている。でもその考えでは、北朝鮮も治安はいい。



Anyway今日は学校へ行く。もっと自由に文章が書きたいと思う。

読みやすい文章を書くことは、直截的に感情が乗る。だから読みやすい文章を書くときには、在る部分を秘匿して、包み隠さねばならない。人間は全裸でスクランブル交差点に立つことに耐えられない。

ひとは読みにくい文章を書くことで、かえって何でも打ちあけることができる。わかる人間にだけわかればよいという条件が、思考の鎖を外させる。難解な哲学はたぶん相当シャイな人間によって作られたのではないかな。ヘーゲルは一級の恥ずかしがり屋だ。

かつて、多くの智慧は秘伝だった。師は弟子が十分成長したときに、奥義を伝えた。バガヴァッド・ギーターなんて本当は、すべて口伝だったのだという。

このように、本当の智慧というものはこの世を這いつくばって探さなきゃわからないもんなのである。当然、教科書や大衆小説にあるわけではない。

道筋はできている。教科書にある人名が異常な熱をもっていると感じるときがある。恋愛にも似た感情。その人の本を借りる。興奮をもって読み進める。ところで、その中の一語が気になる。調べると、また次の人……。

本はネットワークしている。だから、感性で本を読むことが大切だ。本当の智慧はその先にある。

ぼくもまだ途上である。智慧はすばらしい。ぼくは智慧だけを愛する。

12.20.2014

信仰について

世界は光明と平和の領域なのに、人びとがそれを撹乱している。(トマス・トラハーン)

キリスト教も神道も、お上の都合の良いように改竄されるもののようだ。なにも某学会や某科学だけではない。

明治政府が国策として押しつけようとした神道は平田学派の神道で、自然宗教とは言えません。これを国家神道と呼びます。
日本の庶民の自然な宗教感情は自然への崇敬、アニミズムです。これをもう少し整理すれば、例への恐れと恵みへの感謝です。
霊には地霊と祖霊があり、祟る力をもつために祀って鎮め、味方になってもらおうという思いが、祠を建て、お札を貼るといった宗教儀礼になっているのです。
一方、恵みの神は太陽(御天道さん)や性(道祖さま)、出産(産土さま)や五穀の実りで、踊るとか祭るとか、より直接的な方法で感謝の気持ちを表します。このほか、厄払いの民間儀礼など含めれば、日本の庶民の自然な宗教感情は網羅できます。それ以外の巨大な装置は、どれもみな庶民の素朴な宗教感情を宗教的、政治的な意図から組織したもの。自然な慣習、習俗とはいえません。
たとえば「村の鎮守の神様の、きょうはめでたい村祭り」と歌われた鎮守さま、あれはいったい何でしょうか。鎮守とは中央権力が兵を送り、地方を治める機関のこと。鎮守府とも呼ばれる出張所のことです。村が平定され、鎮守されているときは、ここが年貢を徴収し、村が反乱を起こせばたちまち、権力の前線基地となる。これが鎮守社であり、鎮守の森なのです。だからそこが、村を見下ろす軍事的な要衝に位置しているのは当然です。
村祭りもおそらく、年貢徴収の儀式でしょう。この国の人びとは、不祝儀をも祝儀に換えて、苦しみを忘れようとする性向を持っています。支配者も、その性向を利用しました。
明治政府はこの鎮守を村の氏神とし、その住民を氏子とする支配制度を樹立しようとしました。これが氏子制度です。「お七夜」に「お宮参り」をし、子どもの名前を登録して御幣をもらう。このやり方は戸籍制度の一種で「氏子改」といいます。政府が強制したもので、民間の習俗でも伝統でもないのです。
鎮守のない村では、稲荷社を村ごとに合祀して、氏神としました。人びとの家の祖先霊を村の氏神と結びつけ、村の氏神を全国に配置した官幣大社に結びつけ、これを天皇家の氏神である伊勢神宮と結びました。こうして、天皇の祖先神である「天照皇大神」が庶民の祖先神の頂点に立ち、神々の神棚に「天照皇大神」が祀られることになるのです。
しかし、おいなりさんは祖先霊を祀る神様ではありません。たまたま一族が先祖代々祀ってきた神さまで、本来は地霊の力によって五穀豊穣を祈る、素朴な民間信仰でした。(「町内会総点検」佐藤文明) 

長くなった。ようは人びとの信仰心は幕府や天皇のような権力者のためにゆがめられてきたってこと。

ああ、愚かしい。ぼくは自分を恥ずかしく思う。どうしてぼくは信仰が正しいものだと思い続けてきたのだろう。宗教が善意と真理への希求から成りたっていると、子どもじみた希望を持っていたのか。

「権力者、為政者は本当のことを言わない」ということを原発事故で気づいたはずなのに。最近の増税で「庶民は生かさず殺さず」であることに気づいたはずなのに。

神社に拝むことは自然なことではない。たしかにぼくも神社に拝むときは、「I would prefer not to(そうしない方が好ましいのですが)」という気がしていた。

それよりも、森の中にたたずむ巨石や、大木に拝んだ方が正しいだろう。ぼくらはすべて、自然の恵みによって生きている。植物や動物たちの栄養によって、太陽の、海の、大地の恵みによって。だから、自然に感謝するのは極めて普通の感情だ。

十二天神社の神木

経験者の言葉を聴きたまえ。本よりも森から多くのことが学べるのだ。樹々や石から教えられることの方が、大博士の口から聞き知ることのできる知識よりも多い(ベルナール)

文化史的に多神教から一神教に進化したから、一神教の方が先進的で優れている、という傲慢な見方もあるが、これはダーウィニズムの乱用だ。結局、これも都合のよいスティグマでしかない。

仏教……。仏教の戒名もごめんこうむりたい。「そうしない方が」どころではない。暴利だ。坊主は本当にお金持ちだ。ベンツにロレックス。

キリスト教はよく知らないが、パスカルが「人間は怠惰の本性を持っている」と言っていて、ぼくの信仰とは相容れないものだと感じた。だいたい、万能の神さまがなぜ人間を不完全に造るのだろう?それにキリスト教は人を殺しすぎだ。信仰心を利用して殺人鬼をつくりだすような宗教は邪教である。

完全な確信を持っていることに身を捧げる人は決していない。明日もきっと太陽が昇ると熱狂的に騒ぎ立てる人はいないはずである。……政治的あるいは宗教的心情に、そしてまたそのほかの教義や目的に熱狂的に身を捧げるのは、耐えずそれらに疑問を抱いているからなのである。(ロバート M. パーシグ) 

信仰心とは、自然に湧きあがる感情である。聖書や仏典を読んで信仰心が芽生えたように感じることもあるが、実際はもとからあった漠然とした信仰心が、一点に凝集することによって自覚するのである。

信仰心とは、この世にあることの不思議である。脈打つ心臓をもっていることの不思議である。他者に愛を感じることの不思議である。言葉と言葉の間にある何ものかの不思議である。「不思議に対する憧れ、畏れ」、これが信仰心である。自己に対する抑圧、規制、不信、嫌悪は宗教的感情とはほど遠いと思う。

ぼくが死んだら、海に沈めてほしい。ぼくは海が好きだし、海を見ると血がたぎることを経験してきた。海を眺めて不快になったことはない。畏れと憧れの対象が海であった。

大地に触れると、大地の子は常に生気が甦える――超物質的な「知」を求めているときでさえも。 シュリー・オーロビンド

(最近の記事は引用とパクり画像ばかりだなあ……)



ザ・アニミズム・ミュージック。そういえば最近ベーシストの後輩が雅楽に嵌まっているそうだ。神道のブームが来ているのかな?
"A sacred terror in the noonday sun." - Stravinsky
真昼の太陽の神聖な恐怖……

太陽神!

ケツァルコアトル、ラー、スーリヤ、アポローン、そしてアマテラスオオミカミ。

12.19.2014

自分、すごい

完璧であるためには存在するだけでいい(「不穏の書、断章 」フェルナンド・ペソア)

自分というものを深く掘り下げていくと、自分というものはとうに完成されていて、知識や能力なんてつける必要はないものということが徐々にわかってくる。ある程度智慧や経験のある人ならわかるだろう。自分、すごい。重要な知識はつねに内側からやってくる。外から与えられることはない。

ぼくは自由に楽器を弾くことができ、こうして言葉を書き込むこともできる。友人たちと気軽に話すこともできる。何の不満も不足なし。

服を脱いで鏡を見てみたまえ。君はいっちょまえの人間だ。すべてが充溢して、滞りなく機能している完成体だ。君に一体何が不足しているのだろう?君はなぜ自分を完成させようと奔走するのだろう?君はなぜ余計なもので飾り立てるのだ?

君は人間として成熟した。完成した。美しい肉体と精神をもった一個の人間である。

あらゆる商品が、あなたを欠陥者だと思わせている。洋服がそう。車がそう。英会話教室、マッサージ機、宝石、サプリメントもそうだ。あらゆる人間が、あなたを服従させようとする。上司がそう。同僚がそう。妻や恋人、おともだち、警察、役人、宗教、人ごみ。

そんなものは必要ない、あなたに必要なことは……すべてを引っぺがすこと。すべてをなげうつこと。やんわりと強く、ノンと言い切ること。

完成されたあなたに、不足なものはない。あなたは間違ったことをしない。なぜならあなたは完全だから。


"Multiple Personalities" - Paulo Zerbato/2012


君は死人のような生き方をしているから、自分が生きていることにさえ、自信がない。私はと言えば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、また、来るべきあの死について。そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捕まえていると同じだけ、私はこの真理をしっかり捕まえている。私はかつて正しかったし、今もなお正しい、私はいつも正しいのだ(「異邦人」カミュ)

私はかつて正しかったし、今もなお正しい、私はいつも正しいのだ」。

まあ異邦人ムルソーは死刑判決を受けるわけだけど。自己に到達することは秩序を乱すことなのだ。カミュはすげえなあ。すごい作家だよ、ほんと。


勉強とは外部からきたものを受けいれて、外部のために奉仕するためのものだ。読書は違う。良い読書はつねに、自分自身と向き合わさせる。作者が考えや心情を吐き出しているだけの作品もある。しかし、ぼくらはそこに自分自身を見つける。そうでなければひとりよがりの駄作だ。

というわけで、ぼくらの精神はどこかで通じ合っているということになる。あなたはぼくで、ぼくはあなただ。そうでなければ、二千年前のギリシャ人の著作を現代のぼくたちは理解できないはずだ。

ところで、集合的無意識はときを超越するだろうか?過去のひとをぼくらは知ることができる。もっとも、文献だけではない。遺跡や石碑、古墳、古道などから。それでは未来は?二宮尊徳は言った。「誠実な人間は未来のことを知ることができる」と。

インド哲学の究極の奥義は「梵我一如」である。梵とは世界、我とは自分のこと。世界と自己はひとつである。世界とは、どこまでを考えればよいのか。今この瞬間の世界か。インド哲学は、そんなやわなもんじゃないだろう。ぼくら人間は未来も、過去も、当然、銀河の外も、知ることができる。

ぼくとあなたの関係くらい、なんだというのか!通じ合えないわけがないのさー。

とポエマーもどきになって今日は学校へ行く。変な宗教にはまって頭がおかしくなった訳ではないので安心してください。

12.18.2014

陽あたり、日月神示他

4DK駐車場付きリフォーム済み家賃60000円という異常に安い物件があったのだが案の定事故物件だった。

「実はお伝えしなければいけないことがあるんです」
「なんですか?」
「八~九年前に不審死がありまして……」
「不審死w 自殺ですかね」
「ええ、あの、まあ……」

事故物件でも別にいい、とそのときは思っていた。ぼくは幽霊を信じない。理系人間、学究の徒である。しかし、こうも考える。自殺は偶然に起きない。何かの理由があるはずだ。それを解明することも科学ではないか。

というわけで物件を詳細に調べてみると、玄関は南側を向いているのだが、リビングなどほとんどの部屋の窓が北東を向いていることに気づいた。陽当たりが最悪なのである……!

個人的に、陽当たりは最高に大事である。ヨーロッパ人たちは日本人が陽当たりに拘るのが不思議らしい。日本では、南向きの家は北向きの家よりも何百万円も高い。反対に西欧では、「家具が日焼けするだろ」と北向きを好む傾向もあるのだという。

しかし、ヨーロッパ人は日本のことをまるで知らない。日本は湿気地獄なのである。陽があたらないと、どうも気分が陰気になる。部屋がじめじめ暗くなる。カビだらけ。寒い。解放感がなく、牢獄にいるようだ。そんな家に住んでいたら、自死の感情を抱くこともあるだろう。

すいませんが、やっぱり事故物件ということなんで……と断った。不動産屋も、ああそう、気にしないでね、といった具合だ。もう何度も断られているようだ。

ちなみにぼくのボロアパートはほとんど陽があたらない。実家にいるときあてがわれた自室も、陽があたらない(おかげでぼくのような負人間が育ったわけだ)。今度こそ陽にあたりたい!ひとの精神はぽかぽかと陽にあたる部屋で寝そべるだけで、回復するものだ。

ぼくは食堂などの席取りでたいへんまぶしい席に座るようにしている。同伴する友人などは辟易としている。しかし太陽にきらきら輝く料理こそ大変に美しく、食欲をそそるとぼくは感じる。蛍光灯の無機質な光にあてられた食品は死んだようである。

また、ぼくはブラインドを閉めない。陽にあたりながら勉強するのが好きだ。身体が日光を求めているのだと思う。



ぼくは幽霊を見たことがない。しかし、幽霊くらいあってもいいかもなあという気がしている。

フロイトの弟子である心理学者ユングは集合的無意識の存在を指摘した。そしてこうも言った。「無意識はその存在を知られたがっている」。

そこに死者の感情が含まれるか知らないが、怨恨のような強い感情はいったん集合的無意識に蓄積され、そこから他者に顕現する、ということもありうるかもしれない。

もっとも、ユングの「集合的無意識」は多くの精神医学者、心理学者が否定している。「あいつは夢想家だ」と思われているようである。しかし、ラディカルな発言というのは何百年もたって見直されるものである。

最近オカルト系がマイブームである。といっても、江原某とか細木某のようなつまらないショーマン(≠シャーマン)とか、血液型占いのようなものではない。そういうものは、学問に対する遊び、精神医学に対する享楽的な心理テストのようなものだと思っている。

んで勉強しているのは日月神示という預言、神託。戦前、「国常立尊(スサノオ)」というえらーい神様が岡本天明という画家に天下り、数々の預言を残した話。スサノオはアマテラスの弟。イザナキ、イザナミの息子。

「日月神示」上つ巻第一帖の原文写真。暗号めいている。

これ、めちゃくちゃおもしろい。ほんとおもしろい。けっこう直感的にそうだよな、となる預言も多し。

「皆何も天国に行くようになっているではないか。この世でも天国、あの世でも天国、なぜ、喜び受けぬのぢゃ」
「真の信仰に入ると宗教に囚われなくなるぞ。真の信仰に入らねば、真の善も、真の信も、真の悪も、真の偽りも判らんのぢゃ。今に岩戸ひらいてあきらかになったら、宗教いらんぞ、政治いらんぞ」
「他の神を拝してはならんという、そなたの信仰はそれだけのもの、早う卒業結構」
「何処の教会も元はよいのであるが、取次役員がワヤにしているのぞ。今の様は何事ぞ」(「日月神示 完全ガイド&ナビゲーション」より)
宗教に関する事柄は納得いく。ぼくは無宗教だが、ある種の信仰心はもっている。「宗教のいらない時代がくる」というのは個人的にありがたいことである。

「清くて富むのはまことぢゃ。地も富まねばならんのぢゃと申してあろうが。これから先は、金儲けばかりもできん。今までのような、神信心ばかりもできん。神の道を進むものは、嫌でも金がたまるのぢゃ。金がたまらねば深く省みよ。道に外れて御座るぞ。人は罪の子でない、喜びの子ぞ」(同)
なんとなくこれは感じていた。結局、正しいことをしている人間に対してはだれもが放っておかないし、金の余剰があれば、彼に分け与えるだろう。なぜなら彼は正しく金を使うからだ。

「一(はじめ)の火 消へてゐるでないか、まだ判らんか、都会へ都会へと人間の作った火に集まる蛾の様な心では今度の御用出来はせんぞ」 
田舎に行く自分にとっては、そうだよな、と納得。何のための御用出来かは後述。

「神にまかせきると申しても、それは自分で最善をつくして後のことぢゃ。努力なしにまかせるのは悪まかせぢゃ。悪おまかせ多いのう」(同)
けっこうくすり笑ってしまうお説教のようなものもある。

で、そろそろ悪神とスサノオの決戦が始まるようだ。

スサノオは日本古来の神によって封じられたが、その神々は外国の悪霊にそそのかされたようである。その悪霊はロシアに生まれた。八頭八尾の大蛇、すなわちヤマタノオロチである。でもって、これが悪さをしてまた悪霊をつくった。すなわちインドとユダヤの地(イスラエル?)の悪霊である。インドの悪霊は、金毛九尾白面の悪狐(「うしおととら」を思い出すなあ)であり、イスラエルにおいては邪気が凝り固まって鬼の姿となり、邪鬼を生みだした。

この悪霊の三つどもえの働きによって、諸国の国魂の神の統制力はなくなり、地上の世界は憤怒と憎悪と、嫉妬と、羨望と闘争などの諸罪悪にみちみちて、ついに収拾すべからざる三界の紛乱状態をかもしたのである(「霊界物語」出口王仁三郎)

と。言わんとしていることは何となくわかる気がする。世界はユダヤ人が牛耳っているのだ、というと陰謀論めいているが、あれだけ財をなしていて権力を持っていないわけがない。権力は金持ちを放っておかないものだ。インド人やロシア人はどうかわからないが、インド人は非常に頭脳明晰である。また、旅行したときの印象では、非常に狡猾である(たくましいとも言える)。もちろん驚くほど優しく純粋なひともいたが、狡猾な奴は、ほんとうにすごく狡猾。陰謀をはたらいていても不思議ではないよ。

ともかくこうした悪霊たちを近々スサノオが成敗するらしい。おかげで日本人もほとんど死に絶えるとか。しかし日本は復活し、西洋が失墜し、今度は日本が世界一の国になるのだという。なぜなら日本こそがすべてのはじまり、神の国だからである(ほんとか?)。

「悪神よ、日本の国をここまでよくも穢したな。これで不足はあるまいから、いよいよこの方の仕組み通りの、とどめにかかるから、精一杯の御力でかかりて御座れ。学問と神力の、とどめの戦ぞ」

わーいスサノオさまかっこいい。神道ばんざい。日本は神の国だー。






以下どうでもいいこと。

直感的にいって、ぼくは金持ちになる自信がある。なぜかはわからない。ぼくは大して金を望んでいない。望んでいないから入るのかもしれない。

また、直感的に言って、ぼくは優れた才能をもっていると感じる。才能とは何か、ということを考えると、余計なものをつぎつぎ捨てていく能力である。たとえば楽器を演奏
するときに邪念がまじると、楽器や音楽そのものに対する没頭沈潜ができなくなる。だから、何かを得るということは同時に何かを失うことである。何かを失うということは、何かを得ることである。

これまで「幸福や自由、愛情は存在しない」ということを書いてきたが、撤回したい。どうもぼくは純粋な幸福や自由を見たことがないために、これらの存在を否定したらしい。幸福や自由といったものは純白の絵の具のようである。つまり、何かの色に染まりやすいのだ。愛情は少しのコンタミ(汚染)で、何にでも変化する。折檻や詰め込み教育でさえも「子どものため」という愛情の顔をする。世の中はそんな類の自由、幸福、愛情で溢れかえっている。だからぼくは世の中を見回して絶望し、存在を否定したのだ。しかし、純粋な幸福、自由、愛情はどこかに存在するだろう。ぼくの中にあるかは知らない。ただこれから得られるだろうことは直感している。

我々の生きるのは生によってなのであって、機械や理想によってではない。そして生とは我々衷心のレアリティである生きた自発的の魂にほかならぬのだ。自発的な、生きた、個体の魂、これこそ生の鍵なのであり、これ以外にかぎはないのだ。自余はすべて派生的なものである。(『無意識の幻想』ロレンス)

そんなわけで楽観的に生きていきたいと思う。

12.17.2014

権力の正体

あらゆる抑圧的な社会は権力というこの宗教で強化されている。(「自由と社会的抑圧」シモーヌ・ヴェイユ)

最近権力構造というものをスープでも煮込むようにじっくりことこと考えていた。なぜならばぼくにとって権力は嫌いなものだからである。権力に人格をおかされ、また権力によって支配されているひとをたくさん見たからである。

でまあ最近、権力の仕組みが少しわかった。これから言うことは、個人的に重要なことである。あなたにとって重要かは知らない。

権力とは、「離れられない」ことに由来する。

「離れられない」ということ。これが権力の正体だ。

離れられなくするには、縄や鎖で縛りつけるのが手っ取り早い。奴隷はつねに、首に枷をつけられているものだ。現代では鎖をつけられることはない。首枷は表面上取りはらわれたかのように思われる。しかし、その本質的な機能はいまでも残っている。



現代では少し巧妙になった。ほとんどの奴隷は、自分を奴隷だと思わなくなった。首かせは慎重に、周到に取りつけられた。法律によって。会社によって。教育によって。婚姻によって。そして、家庭によって。

奴隷たちは自分を不自由だとも思わなくなった。事態はますます悪化した。「私は自由だ!」という奴隷たちの悲しい賛歌が鳴りひびくのが現代である。


ふつうの人間たちは、「人と一緒にいられない」ことに哀しみを見いだしている。孤独は悪いことだ、という教え、これもまた権力によるものである。メディアで、教育で、会社で、そのように洗脳される。だから、「人と一緒にいられるよう」「他者に愛されるよう」自分の能力を高めようとする。コミュニケーション能力、礼節、金銭、美貌、清潔さ、性格改善、こびへつらい……。徒労である!

声を大にして言いたい。ひとは、素のままで、生まれたままで、愛されるようにできている。

そのことを忘れさせるのが権力のはたらきだ。


ふつうの人間たちは、「離れること」を怖れている。離れた先には、凍えるような寒さと絶望しかないと考えている。組織から離れれば、生活の破綻がまっていると考えている。実際は、日本のように温暖な食料あまりの国で、生活が破綻するなんてありえないのだが。

この恐怖もまた、権力のはたらきである。だれもが組織にすがろうとする。奴隷のようにはたらかせる組織に、迎合する。彼は「献身」する。寝食をおしんではたらき、嘘のような薄給でも文句を言わない。生活の崩壊の恐怖、これが彼を縛りつける。権力の首枷は恐怖によって構成されている。


ふつうの人間たちは、権力の上位にのし上がることが、自由を得ることだと思っている。平社員よりも社長の方が自由のように見えるものだ。しかし悲しいかな、ほんとうの自由は、そこにはない。

努力すれば自由になれるという考えが、彼を狂走させる。昇進への努力と、競争の摩擦が、ますます権力を強大にする。実際のところ、自由とは権力から離れなければ存在しないのだが!
誰もかれもが王座につこうとする。これがかれらの狂気だ、まるで幸福が王座にあるかのように!だが王座にあるのはしばしば泥にすぎない。また王座がしばしば泥の上に乗っていることもある。(ツァラトゥストラ「新しい偶像」) 

以上、権力の様相をざっくりと描写してみた。

だいいちに、権力の根本は「離れられなくする」ことにある。それは、見えない首枷をつけることである。

その枷は何で造られるか。「孤独を恐ろしいことだ」「組織は生活に必要だ」「自由は王座にある」と思わせることによってできている。(他にもあるだろう)

以上は企業と労働者という関係に焦点をあてたが、カップル・夫婦のDVや、日本の歪んだ教育、資本主義、さまざまな分野の問題を説明することであると思う。

組織-人間の関係はともかく、人間-人間の間に権力が行使されることは本当に悲しいことだとぼくは考える。

ちょっと稚拙な論考というか、時間がないので一気に書いてしまったけども、ぼくにとってこの考えはひとつの武器になるものだと思うのであります。ああああ、学校いかなきゃ。めんどくせえ。


Turner "Slave Ship"

12.16.2014

「幻の桜」、宗教、天皇

すごいサイトを見つけてしまったかもしれない。

幻の桜ファンはまぼさく、と略すこともある。

言ってしまえばこれは「巫女」のサイトだ。筆者は三十代の女性、元モデル、たくさんの猫を飼いながら生活しているひとで、猫と世相を語り合ったり、石や木と、霊魂と語らうのが主な内容である。そう、このひとは自然と語り合い、そのメッセージを受信することができる。できるのだ。なぜならば彼女は巫女だから……。

例えばマザーテレサは権威主義的で聖人とはほど遠い(マザーテレサの洗脳法)……政府は市民を政治的に無力化しているとか(選挙にいかないキャンペーン)……かなり的を射た正論を書いているように見える。(マザーテレサがカトリック教会や独裁者とずぶずぶだったのは最近明らかにされている)

フィクション、釣り、カルト宗教、統合失調症、ちょっと痛いオカルト女性、彼女を説明する言葉はいくらでもある。というか、「まともな」精神科医であれば百発百中で統合失調症と診断するだろう。適切な薬物治療によって、「まともな」社会生活に復帰させるだろう。

しかし、ここまでずばずばと常識や世相を切れるひとは、ぼくの知る限りほとんどいない。文章はぼくらを惹きつけてやまないものがある。

彼女のブログが他のオカルトサイトと違うのは、自己を神格化しない姿勢である。高級グルメを食べたり、金儲けが大好きだったりといったこともさらけだす。自分を権威化しない。そこが逆に彼女への信頼を生む。

読んでみて、判断して頂きたい。とにかく不思議だ。不思議だが、うなづかなければならない文章が多い。正直、ちょっと価値観が変わった。ちなみに更新停止直近のエントリーはあまりおすすめしない。過去の方が内容はいい。

彼女のブログについてはまた読み込んでから考察したい。著作権フリーなのでぼくが出版してしまおうか?という気もしている。でもぼくはキリスト教と仏教をちょっとかじっただけの人間だ。実家は神道ということになっているのに、まったくの手つかずだった(その割にはお坊さんを見ることが多かったが)。しばらく神道の本を読んで研究したいと思う。


人々が狂人と呼ぶ不幸なものよ、はたして、この一般に欠陥とみなされているものが、いっそう強力な感受性、いっそう完全な頭脳の兆候でないとだれが言えよう。自然は、きみの能力を高揚させたあげくに、未知なるものを見抜く能力を与えてくれたのではないだろうか。(「夜の一時の幻」シャルル・ノディエ)


無宗教

日本は世界にもまれな無宗教国である。なぜなのだろうか。多くの外国人が、このことに疑問を持つらしい。宗教なしで生きていけるひとはそうあるものではない(まあチョムスキーやドーキンス、サルトルといった例はある)。海外旅行にいくと、「日本人は何を信奉しているの?」と言われて、ちょっと狼狽したおぼえがある。

オウム真理教のような、アホみたいなカルト宗教にはまってしまう人がいる。しかも、意外と高学歴で優秀なひとが多い。かれらが特別アホなのだとは思わない。もともと無宗教者ばかりなことが異常なのだ。かつて、彼らにとって偏差値が信奉の対象だった。高い偏差値をとり、良い学校へ行く。それが彼らの教条であった。

しかし東大へ入学して家庭や予備校から解放されると、おそろしい空虚感に襲われる。彼にはすがるべき偏差値はなくなってしまった。かつてのように、勉強ができるからといって尊敬してくれる友人もいない。だってみんな偏差値高いから。そんな彼が、新興宗教の「大きな物語」に飲み込まれてしまうことは想像に難くない。

(というか、高学歴ほどこの傾向が強い。一定のレベルの受験生が集まるふつうの大学と違って、東大や京大は天井知らずなのだ。誇張ではなく、ろくに勉強もせずに「近かったから」「それしか知らなかったから」東大に入るような人もいる。「努力して」入った人間は、必然、知性的に敗北し、学内の下層におかれる)

日本人は世界中すべてのひとと同じように、宗教的な支えを求めている。そして、そうした欲求があれば、それを満たしてくれるビジネスがあるということなのだろう。そこに洗脳が加わるとカルトになるが。

ちなみに「俺は宗教なんて嵌まることはない」と思っているひとほど、いったん宗教組織に取り込まれてしまうと狂信者になりがちである。彼は0か1の思考の傾向がある。0の思考ができるということは、1の思考もできる。だから、カルト的な思考を「そういうこともあるかもしれないなあ」程度に考えているひとの方がじつは宗教から抜け出すことも容易なのだ。


天皇はなにものか

天皇家というものがある。あれがなぜ存在するかというと、法律的な意味でいう「シンボリックな日本人」なんていうもんじゃない。また日本をかつて支配した王族という見方もあるが、不十分だ。

あれは実際のところ、宗教的行事を担う最高神官である。法律でも本音と建て前があるのが日本。

天皇のお仕事は以下のとおり。
  • 国会の指名に基づく内閣総理大臣の任命。
  • 内閣の指名に基づく最高裁判所長官の任命。
  • 憲法改正、法律、政令及び条約の公布。
  • 国会の召集。
  • 衆議院の解散。
  • 国会議員の総選挙の施行の公示。
  • 国務大臣や、その他の官吏の任免の認証。
  • 外国への全権委任状、派遣する特命全権大使・特命全権公使の信任状の認証。
  • 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権の認証。
  • 栄典の授与。
  • 批准書、条約など外交文書の認証。
  • 外国の大使、公使の接受。
  • 儀式を行うこと。
これ、おもしろい。最後にしれっと「儀式を行うこと」とある。およそ他の公務員的なお仕事とは異色なものだ。しかし、おまけのように見えるこれこそが天皇のお仕事なのであり、「まつりごと」なのである。(もっとも、政治的活動も重要である。皇室外交は、外交官千人分の威力があるという)

たとえば大嘗祭という儀式がある。これは新天皇が天照大神と一夜寝食を共にすることによって神格を得る儀式だ。新嘗祭は毎年11月に、天皇が行う収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す祭儀である。いまもやってますよ、当然。公費で。なぜこんなことをするのか。別に神道の普及のためではない。日本のためである。たぶん。

政界と神道は、かなり密接につながっているようである。たとえばぼくの友人はある地方の神社の神主の息子なのだが、その神主は政治家と仲がよく、とくに麻○太郎と懇意なのだとか。 また宮内庁との繋がりも深いらしい。まあ大企業役員でも政界とつながりはあるものだし、だから何だと言われそうだが。

また山手線がなぜ円状につながったかというとあれは風水的な結界をつくるためというまことしやかな噂が語られている。結界、とは人民やとくに天皇家を守るためのものである。何からか、というと一般的には「マサ○ド公」の怨念らしい(恐れ多いので伏せた)

霊山である高尾山(多分富士山も含むだろう)から
エネルギーを中央線によって皇居まで運ぶ。皇居は陽の陰にあたる。

まあこれは公的に認められた事実ではないし、風水と神道はまた別ものだが。皇居が最高の龍穴(パワースポット)であることは、たぶん否定する風水師はいないだろう。

ところで、霊山である富士山は非常に自殺が多い。中央線も同様である。なぜなのだろうか?
重いうつ病の友人が話していたのですが、中央線のオレンジがかった赤は引き込まれるような気がしてとても恐いと言っていました。赤い電車が近づいてくるのを見ると発作的に体が引き込まれてしまうそうです。実際、何回かホームから飛び込みそうになり、周りの人に押さえられ命を救ってもらったことがあるそうです。引き込まれている時は自分ではどうしようもなく、押さえ込まれてやっと正気に戻り、後で死なずによかったと思うそうです。(教えて、goo!
気の流れに吸いこまれたのかな? ああ、たまらない。オカルトっておもしろい。



実は日本は宗教的なものと切っては切り離せない関係にあるのでは、とぼくは思う。日本人はほんとうに無宗教国家となったが、これがどういう意図によるものなのかはわからない。が、何らかの理由を求めることができるだろう。歴史に偶然はない。

勉強は大切だ。西洋伝来の学問だけでは不十分だ。オカルト、神秘主義と見なされることの多くに真実があるのではないか。わけへだてなく学んでいきたい。

12.14.2014

三年目の雑記

気づいたら、このブログもはじめて三年経つのか。

三歳になった。

ずいぶん長いこと書いたものだと思う。もっとも、最初の一年はほとんど書いてないのだけど。今年は現時点で326件の記事を書いたことになる。異常だ。自分でも怖い。一種のチックに似たものではないかと思う。

このブログはほとんど人に読まれることを想定していない。想定していないが、公開している以上はアクセス数が気になるのでチェックしている。

ほんと、だれも来ていない。



毎日更新するブログにしては、びっくりするほどひとが来ていないのだが、なかには継続的に読んでくださる方もいるようで、なんて辛抱強いんだろうと感服する。

ぼくは衆人の目に慣れていない。だれかの視線を感じただけでまともな仕事ができなくなる。ましてやプレゼンの発表など、パニック発作が起きかねないくらい嫌いだ。だから、人がこないことも良い方で作用している。これくらいがちょうどいい。


ところで、書き続けることによって、一年前とはだいぶ態度が変わったと思う。

一年前の十二月十四日、ぼくは何を考えていたのだろうか?

就活の時期か。

大学で長く個人主義的生活をしてきたため、どうもチームで何かを行うとか、他者と競うとか、部屋に押し込めて順番着けられるような感覚に慣れない。他の人は当たり前のようにこなしているのだけど、僕は気持ち悪くてしかたなかった。社風が合わなかったということもあるだろうが・・・。
まあこれが社会に飛び込むってことなのかな。就活が終わる頃には僕もつるつるした原子のような人間になってるのだろうか。
帰りのウォールデンがすごく身にしみた。ひとまず、僕は就活を乗り越えるだろう。しかし、その先を考えると、大きく方向転換した方が良い気もしてくる。
ああ、意外と変わらないな。

お前は就活に失敗するのだぞ。残念ながら期待するようなつるつる原子さんにはなれていない。まあ大企業なんて向いていないことは明らかだから、正解なのだが。

一月くらいになると、生活の過剰なストレスに襲われて病んでくる。あのときは最悪だった。

その前の年は何を書いていたのだったか。げっ。読む価値もないようなクソ記事だな。(哲学の読み方~西田哲学と格闘中。)唾を吐きたくなるぜ。この記事は、百人超が読んだようである。ひとりひとりに謝罪したい気分だ。

過去の浮ついたゴミのようなクソ記事たちをどうしようかと考えているのだが、暫定的に残す方向で考えている。クソみたいだった過去の自分のような人間が共感するかもしれないからだ。

が、就職したらそれを機に非公開とするかもしれない。あまり質のいい情報ではない。子どもの落書きは消さなくてはならない。個人的には、愛情をもっている記事もあるのだけど、それはナルシズムだから、ひとりで楽しめばよいことだ。

今年九月あたりに、ぼくは文筆家になろうという決心をした。というか、九月は再決心というかたちで、実際のところ三年前には本を出すことを願っていた。このブログのタイトルは、もともと「本を執筆することになったので」というタイトルだった。あのときは本なんて簡単に書けると思ったが、一冊の本を書くとは、なかなか大変である。

だてに三年続けたわけではない。書くことは好きだ。また、読むことも同じくらい好きだ。それは知的な営みだからだ。独立した人間にしかできない行為だからだ。

「いいか――この世で最も強い人間とは、ただ独りで立つ者である」(「民衆の敵」イプセン)

というわけで今後も書き続けていこうと思う。


日本の政治について

人民は腐敗させられることは決してないが、しばしば欺かれるのである(ルソー)

今日は一八時までうだうだしていた。

コンビニに行った帰りに郵便受けを見るとアマゾンで注文した古本が届いていた。「いまだ人間を幸福にしない日本というシステム」という本。ヴァン・ウォルフレンというアムステルダム大の教授の本である。

カレル・ヴァン・ウォルフレン(Karel van Wolferen、1941年4月 - )は、
オランダ・ロッテルダム出身のジャーナリスト、政治学者。
現在はアムステルダム大学比較政治・比較経済担当教授

レビューが良いので買ったが、正直期待してなかった。だって、タイトルが三流の自己啓発書か、意識高い系クソブログの記事タイトルみたいだったから。だいたい、外国の偉い教授の書いた本だって地雷は多いのだ。

そんなわけでぱらぱら読んで、じゃがいもを炒めながら読んで、風呂に入りながら読んで、読んで、としていたら六時間で300pを読んでしまった。ものすごく本がふやけた。

要約は苦手だけど挑戦してみる。

この本は、日本の政治構造が、どのようになっているかを説明するものである。

日本の政治の特徴は政治家ではなく、官僚が絶大な影響力を持っているということである。そのため、政治家は基本的に官僚の言いなりになる。

官僚に都合が悪い場合、政治家は圧力をかけられる。例をあげると、小沢一郎は「政治家らしい政治家」だったために検察に検挙された。反対に官僚の言いなりだったのが野田であった。彼は最悪のタイミングで消費税増税を決定した。

官僚は経済を支配し、政治家を支配し、司法を支配し、報道を支配する(例えば、政治家が批判されることはあっても官僚が批判されることはない)。

このように官僚は日本の政治に絶大な力を持っている。ところで、官僚個人個人を見てみると、善良であり、優秀である。彼らは自分の省庁の権力を高めるように働くが、それが国益に繋がると彼らは考えている。そして官僚を統括するような組織はないし、ましてや個人などない。

実際的には官僚がこの国を支配しているが、組織的に共通した意志はない。このように、日本は特定の組織や個人によって先導されることのほとんどない国だった。日本の政治はヒトラーのようなファシストでもなく、陰謀によって動いているのではない。日本の政治は場の空気が支配している。パイロットはいないのである。

日本という国の政治は、「自動運転」によって動いている。政治的主体は存在しておらず、そのため政治的結果の責任を負うものはいない。他国では厳しく追及される説明責任accountabilityが日本ではほとんど存在しないこともこれに由来する。よって、この国がどこへ進もうとしているのかだれも答えてくれない。答えられない。

日本の政治構造は、このように空洞なのである。



……というのが本書の大まかな流れ。ほか、なぜバブル経済に陥ったか、なぜぼくらが不幸なのか、なぜぼくらは政治に無関心なのかもきちんと説明してくれている。詳しくは本書で。

ところで興味深いことに、この本が書かれたのは二十年前なのだが、文庫版(2012年版)では大幅に加筆されている。そのなかに、以下の文章があった。

いま我々は非常に重大な議論に入ろうとしている。本書のオリジナル版を執筆していた当時の私は、アメリカと日本の関係が奇妙だと感じていた。これが異常だと思ったのだ。だがその後の二十年でこの考えは劇的に強まった。
本書で繰り返し説いたように、真の意味での政治的な中枢が日本に欠如している状態が、日本が異常なまでにアメリカに依存するというこの両国関係にきわめて大きな影響をおよぼしていることが、私にも次第にわかってきたのだ。つまり政治の中枢が欠如しているから、日本はアメリカに依存し続けている、ということなのだ。(p272)

お気づきになられましたか……という気分だ。

この本、どうも日本とアメリカの関係を軽視しすぎではないかと思っていた。これではまったく日本が主体的に戦後を歩んできたかのようである。アメリカは日本に民主主義と経済の扱い方を教えた国、程度の関係くらいにしか考えられていなかった。ウォルフレンは日本とアメリカの関係を、EUとドイツくらいの関係だと思っていたのだろう。

たしかに日本は中枢の存在しない組織である。だれもかれも場の「空気」によって動き、そしてその空気の是非は問わない。ところがそうした前頭葉なき社会は、どうして生まれたのか。結局、そこにはおきまりの黒幕であるところのアメリカさんがいるのである。

もっとも、そこにはウォルフレンの指摘するように徳川幕府や明治政府の影響もあるだろうけども、それが直接の原因として求めるのは間違いだと感じる。アメリカ人はそのような性質を恣意的に利用して、かつての徳川幕府の位置にすぽんと収まった。とこのようにぼくは考えている。

こうした日本の現実は、チョムスキーの動画に表れているなあと以前ぼくは感じた(原子力村は日本人の村である)。インタビュワーが「日本の原発事故はなぜ起きたのか」「これから日本はどうなるのか」と問うのに対し、チョムスキーは「我々を振り返らねばならない」としか返さない。ここで我々とはアメリカ人である。つまりチョムスキーは日本が頭脳なき国であり、日本の不幸の責任の所在はアメリカにあることを見抜いていたのだ。



香港の学生デモから日本へのメッセージ――


この動画を観て、感動したという人がたくさんいる。

が、ぼくは心動かされず。香港の民主運動はすばらしいことだが、彼らは日本が民主主義国家であると考えている部分で誤っている。

個人的には、一票によって何も変わらないと思っている。だって、まともに議論するような土壌が国民にできあがっていないのだから、投票なんて意味はないよ。

投票ってのは個人がやっても意味ない。市民各々が権利意識をもって、活発な議論があって、じゃああいつはダメだな、あいつがいいな、という揺りうごかしと合意がないと意味ない。ここでいう合意は、宗教団体の、特定企業の、町内会の持つ抑圧による組織票ではない。市民が団結しないと国は覆らない。分断された個人の一票じゃ国は動かしようがない。

テレビで毎日「政治家の腐敗」なんて報道観て、騒音まきちらす選挙カーを見て、さあ選挙だから投票しましょうなんて言われる。「あなたの一票が~」とわめきちらす。空虚だ。

そりゃ、調べれば候補者や政党の情報がある。でも、市民は労働漬けで時間がないし、それに政治のことを考えることは名誉でないとされている。政治のことは考えないでまじめに働いてね、という空気感がある。

しかし選挙はいってね、というこの矛盾。


まあとにかく

明日は選挙だ。






12.13.2014

権力について

昨日は一日権力について考えていた。

実学的な学校の講義がまったく頭に入らなかった。一日、権力はどこからやってくるのか、考えていた。

ここ数日町内会のことばかり書いていた。町内会がファシズム的であることがわかった。それは直感的にも歴史的にも信頼に足ることである。しかし、この町内会においてはたらいている力は何ものだろうか?

そこをどんどん辿っていくと、日本人という国民性にぶちあたる。日本人の国民性、それは「自主的にサービス残業をする」国民性、「自主的に列に並びたがる」国民性、などである。日本には外国に見られない特異的な現象が数多くある。なにかそれを説明する共通する普遍的な背景があるのではないかと思った。

しかしこれは国民性という単純な言葉では片付けられないとぼくは考える。ぼくらは実際のところ、サービス残業なんてしたくないからだ。しかし実際には圧力によってあたかも自主的かのようにさせられている。そこではたらいているのは何かというと、紛れもなく、「権力」である。

日本人のすみずみに浸透した権力、ぼくとモノ、ぼくと行為、ぼくとあなたの間に存在する権力。見えないようでいて、ぼくらの周りを取りまいているエーテルのような権力、これが何ものかをぼくはつぶさに考えてみたいと思ったのだ。それは非常に重要なことなのである。なぜなら権力は可能な限りぼくらを支配しようとし、集団に埋没させようとし、それによって個人主義と民主主義を破壊する力を持っているからである。

ぼくとしては、すでに権力を説明するひとつのイデア的な解答ができてしまっている。
つまり、権力の源泉は「集団=組織の持つホメオスタシス(恒常性維持機構)」である。(ホメオスタシスとは何ですか⇒google it.

もっともこんな生半可な思いつきは今後勉強していくうちに否定されていくだろう。ただ、あるひとつの立脚点をもって読書をすると楽しいものである。

この権力=ホメオスタシス論はフーコーの影響が強い。
「権力の関係は、意図的であると同時に、非ー主観的である」「隅から隅まで計算に貫かれている」が、「権力が個人である主体=主観の選択あるいは決定に由来することを意味しない」「権力の合理性とは」「戦術の合理性であり」「最終的には全体的装置を描き出すところのものだ」「しかしそれにもかかわらず、それを構想した人物はいず、それを言葉に表した者もほとんどいない」(性の歴史 知への意志) 
そう、この「全体的装置」をホメオスタシスとしてぼくは捉えている。

それにしても、この権力の定義はすごい。ずいぶん革新的な発想である。
ヴェーバーは権力をこう定義した。

権力(Macht)とは、ある社会的関係の内部で抵抗を排してまで自己の意志を貫徹するすべての可能性を意味し、この可能性が何に基づくかは問うところではない(社会学の根本概念)

フーコー的な権力論とはずいぶん毛色が違うことがわかるだろう。

権力!これをしばらく研究したいと思う。社会学以外にも、心理学、民俗学的なアプローチも必要だと思う。

これまでに、どんな重要なことも、どんな現実も見られ、知られ、言われたことがなかった――そんなことがありえようか?人類は何十万年ものあいだ観察し、考察し記録する時間があったにもかかわらず、生徒が林檎とサンドウィッチを食べる学校の昼休みのように、この長年月を空費してきたなどということがありえようか?
然り、ありうるのだ。「マルテの手記」リルケ

12.12.2014

選挙について

叫び声があがるところに良き認識はない
Dove si grida non e vera scienza (ダヴィンチ)

ぼくは政治を知らない。

このように断言できてしまうことも、日本特有だと思う。ひとは国政なんて知らずとも生きていける。

ひとは昨日見たテレビのことを話すことを許されても、政局のことを話すわけにはいかない。政局の話と野球の話は、かつては対立を生むから良くないとされていた。それはたとえば共産党支持者と公明党支持者ではまっこうからぶつかってしまうからだ。巨人ファンと阪神ファンみたいなもので。

ところが、今は少し意味合いが違うように思う。政治について話すことが一種のタブーになっている。性の話のように、みな、ひそひそと政治について話さなければならない。大声で政治的主張をあげる人は「わけあって」そんなことをしているのだ、と思われる。エロいことばっかり考えている人間がろくでもないように、政治なんて考えていない人間の方がまともなのだ、と考えられている。

ぼくは現在理系の大学に通っているのだが、選挙の話など一切ない。まるでだれも有権者ではないかのようだ。もっとも、各々個人的に考えてはいるのかもしれない。だいたい、政局に極めて重要なポジションに公明党というトピック的な爆弾があるのも理由である。バックに集団監視と言論封殺のおそろしい団体がいるのだから、口に出すのがはばかられる。

某学会さんがタブーというのは悲しいことである。マスコミにはがんばってもらいたい。サウス・パークやシンプソンズのような風刺アニメなら真っ先にとりあげることだろう。(皇室はネタにされている:シンプソンズ「Thirty Minutes Over Tokyo」、サウスパーク「Chinpokomon」)



ところで、偏向報道とは日本にしかなく、ゆえにマスコミが批判される社会も日本だけなのだという。欧米では、報道で批判されるとすれば放送会社ではなく情報発信者個人であるとか。情報発信者の情報が恣意的に編集(改竄)されることがない国ではそうなのだろう。

マスコミの異常な行動、改竄の数々は、列挙してもよいが、血圧があがりそうなので辞めておく。

記者クラブという小学生でも「それはあかんやろ」とわかる談合システムも日本だけらしい。もちろんあらゆる国から批判されている。

本当に、マスコミはガンだ。しかし、ぼくはマスコミが諸悪の根源ではないと思っている。結局、マスコミは有機体の分子のひとつであり……。マスコミがフリーメイソンに操られている、と言うつもりはないが、構造的に統制されていることはたしかだろう。そしてその構造に必須な要素として、「不平を言わない愚民」であるぼくらも組みこまれているのである。



SASPLという学生団体が話題になっている。SASPLとは「特定秘密保護法に反対する学生有志」の略だそうだ。スタイリッシュな動画やデモ行進で打倒安部を呼びかけている。




デモの動画も見たが、たしかにかっこいい。

ぼくの実家はたいした娯楽もないド田舎なのだが、遠くから花火やお囃子の音が聞こえてくると、うずうずとした「たまらない」気持ちになったものだ。同様の「参加したい」衝動をこのデモに感じる。

でも、自制しなければならない。

そもそも、ぼくは特定秘密保護法というものを知らない。とくにそれに反対する必要も感じない。安部はファシストだ、という意見が主流になっているらしい。ぼくは町内会がファシズムだと思うが、安部は別にファシストだとは思わない。

この前も、ネット上で児童ポルノ法案に反対する一大キャンペーンが行われていた。ぼくはこの法案に賛成なので、なぜみな反対するのかわからなかった。反対理由に「表現の自由が侵害される」とあってちょっとぼくは怪訝に思った。

たしかに国民には表現の自由が憲法で保障されている。しかしそのあとには「又、国民は、これ(この憲法が国民に保障する自由及び権利)を濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とある。好き勝手表現していいとは書いていない。児童ポルノは明らかに公共の福祉を害するだろう。

また基準が曖昧だという意見もあるが、基準を厳格にしてしまえば必ず抜け道ができてしまうのであって、だから曖昧にするというのは当然である。その都度裁判で、有罪か無罪かを決めていくものだ。

たしかに、無罪でも逮捕はされるだろう。しかし逮捕とは犯罪者だけに行うものではない。「有罪と疑わしいひと」になされるものである。だから逮捕された瞬間に社会的生命が地に落ちたり、職を失い、嫁に離婚宣言されるとすれば、それはその社会の方がおかしいのである。だいたい、逮捕されても半分は不起訴だ。

だから児童ポルノ法案には反対すべきではない。問題は、逮捕されただけで断罪する社会であり、無罪になった容疑者を救済する制度を作るべきだと思う。

ともかく、児童ポルノ法案のあの一大キャンペーンは、ヒステリックな痙攣に近いものとぼくは感じた。だから、今回の秘密保護法についても、ぼくは冷静にあろうと思うのである。

安部ちゃんは森義朗派のひとりであるらしい。代表的な森派は小泉純一郎、福田康夫とある。森はマスコミに潰されたかわいそうな人であり、小泉は天才的政治手腕でアメリカに国を売った人であり、福田はまあ少し有能という印象だ。安部ちゃんもその流れを汲む一森派であり、いままでと大して変わらんなあというのがイメージである。

個人的に、安部なんて否定するくらいなら、町内会を廃止せよと迫るべきだし、記者クラブを廃止せよ、と声をあげるべきだし、選挙カーのキャンペーンはうるさいから辞めろ、とデモするべきだと思う。

やっぱり、かっこわるいのだ。安部ちゃんは日本のトップということになっている。日本のトップが悪人だったら、それは紛れもなく巨悪である。巨悪であるなら、それに立ち向かう市民は絶対的善であり、ドラクエの勇者のようにかっこいい。

ところが、町内会はどうだ。町のみんなが善意で行っている集団である。だれも権力も悪意もない集団である。ところが、本当の巨悪とは、こういうところにあるのだ。

上意下達的な「わかりやすい」権力構造モデルは、フーコーによってすでに喝破されている。フーコーは「権力は人と人との間で働く『力』である」とした。

新しい権力構造は
・上から押さえつける権力ではなく、むしろ横や下からひそかに働くような見えない力
・毎日の生活の中で、「自由」におこなっている行為を律している力。
・禁止する権力ではなく、むしろたえまない「訓練」を要求する力。(フーコーの権力論
上記のようなものだとされる。改善すべき権力構造は、われわれの人と人との間にある。虚像のなかにあるのではない。



だらだら書いてしまった。昨日町内会を発端として日本社会をいろいろ調べていた。政治、意外とおもしろいぞ。とくに白川司郎という人物が気に入った。日本でもこうして政治的に暗躍するひとがいるんだなあ。また、麻生太郎の盟友・中川昭一がポロニウムによって殺されたという噂も、おもしろい。

しかし、政治の話というのはどうも雑多である。どのようにでも解釈できるものであるらしい。安部がファシストだ、と言われればそんな気がするし、安部は日本の救世主だ、と言われればそうかなあと思う。このような話題を扱うには、高度なリテラシーが要求される。リテラシーとは批判精神である。情報取捨だけでなく、倫理学や哲学などを修養した人間的基盤が必要となる。政治は、興味深い。だてに古代ギリシャからひとが没頭していたものではないようだ。しかしこのような実学についても、ニーチェやフーコーが役立つというのは、ほんと学問様々だと思う。

*特定秘密保護法、十二月十日の〇時に施行されていたらしい。ほんと疎いなあ。

12.11.2014

町内会は地域を分断する

先日町内会の実態について調べ、自分なりの結論も出た(町内会ファシズム)。町内会はファシズムであるというちょっぴりラディカルな意見である。

もともと町内会なんていうものを調べ始めたきっかけは、「借家に住みたいけど、町内会嫌だなあ」という嫌悪感だった。メルヴィル風に言えば、「I would prefer not to」。ぼくにとって町内会活動とは何かしっくりこないことだった。

嫌悪感というより、直感的な違和感と言った方がいいかもしれない。多くのひとが、「それくらいなら」と無意識的に行っていることに、意外と大きな誤りが潜んでいることがある。違和感を軽視してはならない。辿っていくと、日本社会のいびつな構造が見えてくる。

この際だから本音を言ってみたいのだが、休日に近所の方々とドブさらいや老人と運動会をするのは、まっぴらごめんである。嫌である。したくない。別に老人の方々が嫌いというわけではない。運動会をする必然性がまったく見受けられない。

もっとも、家の前の落ち葉を掃いたりくらいはするかもしれない。気が向いたら。でも、ドブさらいは絶対にごめんである。ほとんどの場合ドブ=側溝は公道である。それならば市町村の管理である。

なにが悲しくて汗をかきヘドロまみれで市の持ち物をきれいにしなければならないのか。「管理がなってないぞ」と市町村に一喝すれば、業者を寄こすだろう。それで解決する。

餅は餅屋?高圧洗浄車(右)なら数分・数人で終わりそうである。


もしかしたら、自主的にその作業を代行する風変わりな任意団体があるかもしれない。それは結構なことだが、自主的な活動なのだから、それに参加しないひとをとやかく言うことはお門違いだ。



自治会という集団は、大変悲しい集団である。だれもが不幸になるシステムである。

参加している人のほとんどは辞めたがっている。参加しない人は、非国民のような扱いを受ける。子どもが虐められるので、嫌でも入らなければならないという家庭もある。なんという暴力的なシステムだ。

自治会に入らないとどういうデメリットがあるというのか。「ゴミ捨て場を使わせないよ」という殺し文句がある。多くの人がこの脅迫に騙され、屈してしまうのだが、これがまったくの誤りであることは先日書いた。ゴミの処分は行政の義務である。たかが任意団体にそんな権利はない。

それ以外にも、「自治会に入らない家は消防団が初期消火しないよ」と脅すことがある。「自治会に入らないと、災害時に非常食を与えられないよ」と脅すこともあるとか。これらは、本当に大の大人の発言なのか、と心から痛ましい気持ちになる。

つまり、自治会に入っていない家で火事が起きた場合、消防団は一切動かないというわけだ。「火事が起きた?よしきた、もっと燃えろ」と願うわけである。そんな人間ってあるだろうか?

実際に、ある震災が起きたときに、自治会は非常食を備蓄していたため食料が豊富にあった。そこに空腹の非会員が訪れた。自治会は食料を分け与え、非会員は飢えをしのいだ。ここまではいい。自治会はそのときに、「金を払わせた」というのである。

確かに理性的には納得できる。自治会が金を払って買った非常食だから、金を払わずに食べることは理に適っていない。しかし、そこで金を払わせるか?金銭のやりとりをするだろうか?非常時とは、助け合いが必要な場ではないか?

ぼくが命からがら避難所に辿り着いて、空腹で倒れそうなときに「飯はやるから金を払え」と言われたら、ぎょっとする。たぶん人間不信になる。

こうしたこと以外にも、大雪が降った日に、町内会で除雪車をレンタルしきれいに会員の家の周りだけ除雪した、ということがあったらしい。当然非会員からクレームがきたが、「町内会でレンタルしているから」とのこと。たしかに、これも理屈としては理解できる。しかし何かがおかしい。何かが損なわれている気がする。なぜこのようなことが起きるのだろうか?

もっとも、よほど山奥の村でないと消防団とは普通消防署の足手まといだし、よほどの大災害でない限り飢えることはないだろう。(東日本大震災でも調べた範囲で餓死者の報告はない)

ここでは、皮肉なことに自治会が助け合いを阻害している。ふつう自治会とは地域の団結を強めると言われているが、実際には逆の現象が起きている。実は、自治会は会員と非会員で住民を分断させているのだ。自治会は不当な扱いを受ける「仲間はずれ」を生むものである。自治会が「なければ」、災害時にはだれもが平等であり、助け合うことができるだろう。

人間とはもともと助け合うことのできる生きものである。どうやら現代ではこの視点が抜けているらしい。だれだって、傷つき倒れそうな人がいたら介助するだろう。飢えた人があって、手元にパンがあればそれを分け与える。人間とはそのようにできている。助け合いとは多く本能に由来する。ヒューマニズムは尽きることのない泉である。もしそれが途絶えることがあれば、だれかがせき止めているのだ。

だから、自治会なんてなくても被災したひとびとは助け合うことができるだろう。これはいくら賭けてやってもいい。反対に、自治会があるおかげで死ぬ人があるかもしれない。ひとが助け合う心を忘れたときには、何らかの圧力がかかっている。その圧力が自治会である。自治会なんてない方がよほどいい。なくて困るのはだれか。

  • 低賃金ではたらく人足のいなくなる行政
  • 自治会票(特定候補者への応援活動強制、投票圧力)のなくなる政治家
  • 市民の相互監視による統制のなくなる国家

である。これはおそらく真実だろう。自治会の活動に喜びを見出してはならない。自治会は市民を奴隷化する。公正な選挙による民主主義を破壊する。地域を分裂させ、相互にいがみ合うシステムを作り上げる。

とここまで書いたのだが、だれもこうした疑問を呈さないというのは不思議なことである。もしかしたらみな「わかっているけど黙っている」のだろうか。町内会の闇は某学会クラスのタブーなんだろうか?そうだとしたらちょっと怖い。消すかも。

12.09.2014

町内会ファシズム

田舎に引っ越すことが決まっているので、どうせだから借家を借りようと思っている。そこで懸念すべきなのが、自治会や町内会というシステムである。マンションやアパートなら公益費でゴミ出しや敷地内清掃、自治会とのやりとりなど勝手にやってくれるのだが、一軒家であると自分で行わなければならない。
大都市であれば制度自体が形骸化しているらしいのだが、田舎であればどこでも自治会への入会を迫られるようである。

自治会の活動は主に、運動会や飲食会、祭り、町内の清掃活動などである。こうした活動は主に土日に行われる。祭りと清掃がそれぞれ年に一度というところもあれば、年に六十回行事があるというところもある。実に週に一度は行事があるのである。


町内会運動会のムカデ競争
こうした行事が最大の楽しみという人(主に高齢者)もいるだろうが、「休日は寝ていたい」「ゲートボールなんてしたくない」という人も当然いる。またこうした活動の資金については会費という形で徴収される。年に数千円というところもあれば、数十万円とるというところもあるので、負担は小さくないことがある。



本来、自治会というものは任意で参加すべきものであるとされている。任意であるということは、自分が主体的に参加したいと思ったときに参加する団体という意味である。だから地域住民とソフトボール大会やお花見を楽しみたい方はご自由に、ということになる。ところが、移住者は半ば強制的に自治会への参加を迫られているのが実態である。

「参加するというまで毎日くるよ」と連日会員の訪問を受けたり、「ゴミステーションを使わせないぞ」と脅すこともある。

ゴミ問題について

自治会の重要な活動のひとつにゴミステーションの管理業務があるらしい。これは自治会員が輪番で行うものであり、その日の担当者がゴミをカラスから守ったり、ゴミステーションの清掃を行うというものだ。分別が不十分で収集車が回収しなかったゴミ袋を持ち主に突きかえしたり、持ち主がわからなければ自分の家に持ち帰り、一時的に預かるという仕事である(!)

自治会不参加者はこうした義務を免れているため、ゴミステーションに「ただ乗り」していると見なされる。だから、自治会は「使わせない」と息巻くのである。ある意味、理に適っている。が、どうもしっくりこない。

ゴミをゴミステーションに出せないとなればそのゴミはどうすればよいのか。これは、市町村の焼却場に持って行くというのが一般的である。各自が自転車や車でゴミを運んで、申請書を書いて燃やしてもらう。ぼくの引っ越し先の市を調べてみると、持ち込みの場合の受付は平日の九時から十六時までとなっている。これでは独身者や共働きの夫婦は無理だろう。また、自動車の運転できない高齢者も実質不可能ということになる。よって、「ゴミ捨て場を使わせないよ」という言葉は強制力を持っているように思える。実際に自治会の班長の大半はこうした脅し文句で参加を迫る。

任意(にんい、arbitrariness)とは、思うままに任せること、という意味で、当人の自由意思に任せる、ということである。(wikipedia

ところで、市町村にはゴミを回収し公衆衛生を守るという義務がある。実際にゴミ捨て場を設置するのは市町村であり(自治会に委託する場合もあるが、補助金が出る)、ゴミ回収を行うのは市町村に委託された業者である。

だから、自治会が「ゴミを出させない」権限など持っているはずもなく、自治会未加入者のゴミステーション利用は法的には問題がない。実際にそういう判決もでている。

「ゴミステーションを利用するなら清掃もしろ」という意見は一見もっともであるが、そもそもなぜ市町村のような自治体が責任をもってゴミ捨て場の清掃をしないのか、腑に落ちない。

アメリカではゴミ捨て場の管理は行政が依頼し、民間業者が行っているようである。当然清掃も業者が同時に行う。清掃を怠れば、業者にクレームがいく(ゴミコンテナに電話番号が書いてある)。

日本でも市町村の委託で民間業者がゴミ回収を行っている。ところが、彼らはゴミを回収するだけで清掃をしない。いくらゴミ捨て場ひどいことになっていても、見て見ぬ振りだ。これはまったく不思議なことである。



なので日本では、ゴミ捨て場の清掃が自助的な任意団体に任せられている。もしもこうした任意団体がなければどうなるだろうか。ゴミ捨て場は悪臭を放ち、景観を損ね、感染症の温床ともなる。美観を損ね、市民の健康を害する状態となっても市町村が改善しないというのであれば、それは市町村の怠慢によって国民の権利を侵害していると考えるのが自然である。

町内の清掃活動についても同様で、もし市民の私的で任意の活動がなければあちこち汚れて住めたものではないとすれば、その原因は市町村の怠慢にある。

実は、ゴミ捨て場をきれいにしているのは我々の自由意志なのである。われわれは市町村の仕事を好んで肩代わりしていることになる(実際補助金も出ている)。しかし、地方に住むほとんどのひとびとが自由意志で行政の仕事をしているというのは、まったく不自然な構図である。


市町村「ゴミ捨て場をキレイにするよ!」
自治会「いえいえ、大変でしょう。私たちがやりますよ」
市町村「ほんとに?ありがとう、少しだけど補助金も出すね(ラッキー」
自治会「というわけなんで新参者さんも清掃しますよね?」
新参者「嫌です。なんで行政の仕事を私たちがするんですか?」
自治会「ふざけるな!お前みたいな奴のせいでゴミ捨て場が汚くなるんだ!」
新参者「」

ファッショ

自治会についてネットで調べているとわかるのだが、ネットのような自由な発言ができる場では実に賛否両論であることがわかる。「自治会がめんどくさい」「参加したくないが、しないと嫌がらせを受ける」といった意見がある。反対に、「住民の義務だから文句言うな」「助け合いだ」「自治会に賛同できないならよそ者は出ていけば良い」と過激な意見も目立つ。

これらの意見を見て思うのは、自治会の現実は自由意志による任意団体からはほど遠いということである。多くの人が「やりたくもない仕事を仕方なくしている」という事が透けて見える。そうでなければ、自治会の不参加者を執拗に攻撃するような発言はないはずだ。好きでしているのだから。


このような作業は、普通だれもがしたいものではない。


なぜ自治会は任意団体でありながら、強制性を持っているのか。そして自治会を抜けた人はなぜ執拗な攻撃を受けるのか。任意団体に参加しないというだけで村八分を受けるのはなぜか。

これらの謎は、「自治会はファシズムなのだ」と考えることによって氷解する。自治会や町内会の歴史を見ると、それが明らかにファッショの目的で制定されたことがわかるのだ。
元々は1937年の日中戦争の頃から日本各地で組織され始め、太平洋戦争の戦時下に大政翼賛会の最末端組織として1940年に市には「町内会」、町村には「部落会」が国によって整備されたのが起源であるとされる。戦時下には内部に「隣組」があった。戦前においては、戦争遂行に大きな役割を果たした。(wikipedia
1935年ころから内務省の指導下に全国的に普及し,40年に整備をみた市街地住民の自治組織であるが,内務省の地方行政機構の下部に位置づけられることによって,日本ファシズムの末端組織として機能した。(世界大百科事典 第2版「町内会」)

戦時中、もし反戦を唱えることなどあれば「非国民」であるとされた。それは憲兵だけでなく、市民からの密告も多かったことだろう。このように、日本はかつて市民が市民を監視するような全体主義国家だった。そしてその機能として町内会が寄与していたことは想像に難くない。(そのため、戦後はGHQによって町内会は解体された)

ひとは役人に命令されるとムッとするが、同胞である市民に命令されると従わざるを得ない。社会的に孤立することに耐えられる人はわずかだからだ。ファシズムは市民と市民の間に浸透していく。このようにして日本は全体主義を達成した。

全体主義は今でも残っている。その証拠に、「自治会を辞めたい」というとまさしく「非国民」的な扱いを受ける。ただ任意団体を辞めたにすぎないのにだ。戦争の後遺症がまだ地方に残っているということだろう。

ともかく、重要なことは町内会の起源は戦争利用のためだったということであり、全体主義的な性格を帯びており、市民が国にいいように使われるための道具であったことが、明白なのである。だから、市町村は「たまたま存在する任意団体」を手足のように使うことができるのである。
とりわけ第二次大戦期における全国民の「強制的画一化」(雨宮昭一『総力戦体制と地域自治』青木書店、一九九九年)の推進という歴史的経過をたどることで、現代の町内会の形ができてきたのである。(中田実『地域分権時代の町内会・自治会』自治体研究社、p.36)(孫引き元
なお、武蔵野市は町内会を廃止している。その武蔵野市は、財政上非常に優れた成績をあげているのだから皮肉な話である。
先進欧米諸国には、町内会・自治会のような組織や制度は存在せず、一方、国内では東京近郊の武蔵野市や小平市には町内会・自治会なる組織そのものがない。武蔵野市が1,000自治体中、財政状態の優れた自治体のベスト5(H17年度)にランクされているということは、横浜市の町内会・自治会が如何に巨額の税金を食い潰しているかを証明している。(「町内会・自治会は、本当に役立つことがあるか。」岸根正次)

ちなみに、岸根氏の指摘するとおりそもそも海外では自治会なんて存在しない。存在しないということは、特になくてもやっていけるということだ。「大多数の市民が迷惑するが、だれかの都合のいいため」に日本だけで続けられている。こうした事例は本当に多い。しかも、こうした圧力は官の方からではなく民からくる。あいつだけが得している、損を免れている、許せない!という考えの持ち主がもっとも全体主義的であり社会害悪であり、成功した上意下達の例である。

「俺だって嫌なんだからお前も会員になれ」という人がいるならば、こんな不思議で非効率的な風習は日本だけで行われており、市民が行政の仕事を肩代わりする必要は一切ないのであり、町内会の起源は牧歌的な村の助け合いなどではなく戦時中の市民利用にあったのであり、結果的に戦後の今でもあなた方は行政に利用されているのだが、自治会とは任意団体であり、嫌になったら解散しても何の問題はない、嫌になったら辞めればよい、みんなで辞めよう、俺は入らん、あなたも辞めよう。とでも言い返せばよいのではないかと思う。

終わりに

長くなったのでここらで終わりにしたい。

自治会のしている仕事は、市町村が本来行うべき業務である。自治会は任意団体であるにも関わらず、ほとんどの住民が参加しており、また参加しない住民は共同体からの過剰な排斥を受ける。その理由は、自治会の起源を辿ると明白である。自治会の起源は戦時中の市民統制のためにあった。自治会とは全体主義社会のなごりであり、そのため個は排斥され、自由は奪われる。

ぼくらに必要なことは、自治会の参加が嫌であれば参加を拒否することである。NOと言うことである。なんと言われようと、ぼくらは自由が認められた日本国民である以上、嫌なことは嫌だと言わねばならない。これは投票に行くのと同じくらい民主主義社会で大切なことである。半ば市民の義務と言ってもいい。

全体主義にNO、自治会にNO。これで強引にまとめる。間違っていることをたくさん書いていると思うのでご指導願います。

続き(町内会は地域を分断する)

消費について

最近考えていることはつまらないことばかりで、引っ越したならばルンバを買おうかとか、洗濯機はドラム式だ、などといった次元のことばかり考えている。

これでは消費する豚にかわりないなあ、と自分でも思う。

ぼくはたぶんそこそこ稼ぐことになると思う。金を持つと今度は、消費欲が高まる。三万円のマットレスで快眠だった人が、二十万円のマットレスを買うようになる。そうして、もう安いマットレスには戻れなくなる。ところで、数十年前であれば、日本人は畳でせんべい布団だったわけである。

そして、せんべい布団には味がある。たぶん、リッターバイクよりも200ccバイクの方が味があるように。ただ、そういった点を見えなくするのが消費社会である。新しいものはよりよく、人類は進歩している、ずいぶん生活も楽になったものだ、便利な機能、なんでも自分の身の回りのことはやってくれる……。
もっと使わせろ
捨てさせろ
無駄使いさせろ
季節を忘れさせろ
贈り物をさせろ
組み合わせで買わせろ
きっかけを投じろ
流行遅れにさせろ
気安く買わせろ
混乱をつくり出せ (電通の戦略十訓より) 

現在ぼくは貯金数万円の貧民なのだが、これから金を持つ、というだけで、多大な引力を感じる。考えてみれば当然で、日本だけで数千万人の人が金を持っている人をターゲットにしている、消費させようと努力している、それを生業としている。高級車、時計、グルメ、マイホーム、保険、有機野菜、性産業、金さえ払えば女の子に耳かきさえしてもらえる……。まあなんでもいいのだが、金を持った途端にそれらが怒濤のように押し寄せてくる。これはほんとうにそうだ。

不思議なことに、ぼくらは金のないときにこれらを見えないようにしている。そこにはないものと認識している。二百万円の時計は存在しない。ところが、たとえば一千万円をぽんと渡されるとこうしたフィルタリングは瓦解する。あれも手に入るのだ、これも手に入るのだ……。この世は魅力的な商品だらけになる。

金をもった人がいくら努力しても、そうした引力にだれしもが勝てるわけではない。金を持つことは、堕落に繋がる。ぼくは今の生活に満足している。アマゾンで300円程度の古本を買い、服は二月に一着程度しか買わず、食器は実家から持ってきたもの、食事はほぼ自炊という生活でも満足しているのだ。それが、金を持つことになった途端、堕落してしまう。

部屋掃除はめんどうだ、ルンバに任せよう、洗濯物を干すのは大変だ、ドラム式の乾燥洗濯機にしよう、雨の日の通勤はたいへんだ、自動車を買おう、座り心地のいいアーロンチェアを買おう、ということになる。

  • 箒とちりとり(210円)⇒ルンバ(7万円)
  • 縦型洗濯機(3万円)⇒ドラム式洗濯機(15万円)
  • バイク(7万円)⇒自動車:はいぶりっどがいい(300万円)
  • パソコン(1万円)⇒ハイスペックPC(10万円)
  • ジェネリック・シェルチェア(1万円)⇒アーロンチェア(17万円)

金を持つということは恐ろしいことである。清貧はどこへ行ってしまったのか。本と音楽さえあれば良いのではなかったか。ぼくは本当の豊かさが見えなくなってしまいそうで、それが怖い。

そういえば、この前美容院に行ったのだが、会話の中で、ぼくはけっこう稼げそうだ、というと、美容師の方は嫌そうな顔をしていた。さすがに表面に出さないが、不機嫌になったのがわかった。しまった、と思った、美容師というのは、ふつう薄給である。

ぼくには悪意があるわけではなかった。金というものが、どれだけタブーになっているのかつかめなかったからだ。これまで金を持ったことはなかったから、性のタブーを知らない子どものように、あけすけに喋ってしまった。

だれしもが、自分の得る金が、自分を価値づけるものだと思っているが、これは異常なことだと感じる。年収二千万円のひとは、年収二百万のひとより偉いとされている。金によってひとの階級が決まるとされている。この思想は、めちゃくちゃだ。誤謬だ。

階級が悪いというのではない。ほんとうは、金以外の栄誉だとか、能力によって階級が決まるべきである、そして金はそういった階級にしたがって分配されれば良い。ところが今では何もかも逆転してしまって、金を持っている人が偉い、優れた能力を持っていても、人徳のある人でも、金がなければ人間的価値を否定される。なんという世の中か。

だれしも、フェラーリを見るとこう思ってしまう。俺にもあんな車を持つ金があればいいのに……。これが消費社会の実態だ。君だって、軽自動車を持っているじゃないか。エンジンが付いていて、タイヤが四個あるのだ。何が違うというのだろう。実際のところ、フェラーリと軽自動車の持つ差はわずかな差でしかない。人間の”空気感”がそれを大きくさせてしまっている。

フェラーリに変身03
フェラーリに抱く感情は、仮面を被ったひとに持つ感情と似ている。


世の中の空虚な価値観に振り回されていては、人生はあっという間に終わってしまう。自分だけの価値観を大切にしなくてはならない。自分だけの価値観とは、独善的なものではない。それはあらゆる人に本来通底するものである。真理への希求、愛とか善といったもの、これに目覚めねばならない。金に振り回されるのは、凡俗な人間だ。

金を稼ぎ、消費するという繰り返しは、輪廻のようである。永劫に彼はぐるぐる回るのだろう、本当の価値に気づくまでは。
大いなる魂たちのために、いまもなお自由な生活がひらかれている。まことに物を持つことの少ないものは、それだけ心を奪われることも少ない。ささやかな貧しさは讃えられるべきかな!(新しい偶像)

それにしてもルンバは欲しいものだ……。


12.08.2014

詩人は二十五歳で死ぬ

パスカルが人は大衆を離れ、離れたあと大衆に戻ると書いてあってなるほどそうだなあという気がしている。

つまり最初ひとは知識を得たときに、大衆を軽蔑し孤独に徹し傲慢な知識人になるけども、最後には大衆と同じ行動を取る、たとえば世人と同じようにAKBを追いかけ、酒を飲み幸福なマイホームを建てる。けれどもその行為の意味は世人とは違う。彼は知識人よりも知識が深い。そして大衆よりもずっと高次にある。

詩人は二十五歳で死ぬのだという。

T. S. エリオット曰く、
伝統はまず第一に、二十五歳をすぎても詩人たることをつづけたい人なら誰にでもまあ欠くべからざるものといってよい歴史的意識を含んでいる。(文芸批評論) 
伝統云々も非常に重要なことを書いているのだけど、ここでは年齢に着目する。 二十五歳という年である。クレッチマーの本にもこう書いてある。
どんな人でも、その若き日には、全体的な精神的態度において、新鮮さと興奮性とを多く保っており――二十五歳頃から、徐々に、あるいは急激に消え去ってしまう。その後にくるものは、機械的な職務の処理と、睡眠と、食事とであって、個性と呼ぶべきものはほんのわずかしか残らない。(天才の心理学/E. クレッチマー)
ひとは二十五歳までだれしも、知的興奮と新鮮さを保っており、二十五歳を過ぎて詩を書こうという人はわずかになる、言ってしまえば適応してしまうのだ。社会に。

実際的に詩人の寿命は短い。詩聖とうたわれるランボーでさえ、二十歳前に辞めてしまう。

考えてみると、学生運動していた人間が、しれっと公務員や大企業に就職している現象も納得がいく。彼は適応したのだ。この社会に。

適応することの喜びと悲しみとがある。(選ばれたことの恍惚と不安とがある一方で)

ひとは幸福を追求する生きものである、世間的にそういったことが言われている。だから、さっさとこの社会に適合してしまい……疑問を抱かず、目に覆いをして、摩擦なく生きていくことが幸福の近道であるという気がする。しかし、それだけが本当の幸福の道なのだろうか……。

起床、電車、会社や工場での四時間、食事、電車、四時間の仕事、食事、睡眠、同じリズムで流れてゆく月、火、水、木、金、土……。ところがある日、《なぜ》という問いが頭をもたげる。すると、驚きの色に染められたこの倦怠のなかですべてが始まる。《はじまる》これが重大なのだ。(シーシュポスの神話/カミュ)

苦痛と絶望と煩悶の中に、一筋の雷鳴のような至福があれば、そのひとはもう幸福ではないかと思う。そうでなければ、だれも座禅を組んだりはしない、滝に打たれまい、また、金にならない絵を描いたり、作曲をするのは、実際恐ろしいことである。

だからパスカルの言っていることもわかる、知者は、世間と同じように暮らしながら、何かを狙っているだろう。人生の本質をつかみうるような何かを。生半可な知識人が大声で宣伝する以上の大物を、たぶん狙っているだろう。本当の行為のひとは、静かに行くものだ。イタリアの諺にあるように、静かにいくひとは健やかにいく、健やかにいく人は遠くまでいく、ものだ。



最近どんな本を読んでいても、「ああそうだよね」となることが多い。これまでは「そうだったのか!」とか「ほんとにそうなの?」と、驚き信じられないことがあった。が、いまではフーコーを読んでも、シャンカラを読んでいても、「うんうんそれはそうだ」となる。つまり本を読んでもあたらしい事実を得ることは少なく、事実の確認にとどまっている。

ぼくは知識や教養といったものは、広範で多様なものを得ることだと思っていた。ところが、すべての知識は、突きつめるとひとつの球状になるようだ。だから物理学と哲学が親和性をもっているのだし、有機化学も、医学も、法学も、文学も、近しいものがある。ぼくのなかで、総合知というものが芽生えてきたのかもしれない。

考えてみると、学問とは人間から切り離せるものではない。学問というものは人間が造ったものである、だから人間を十分に知ることができれば、自ずと学問の理解も深まるのだ。人間を知らない人は、専門知識があっても「使えない」。

かつて、大学教育で教養課程をなくして専門知識だけつけさせたということがあった。これはすぐに辞めてしまった。こうして得られた狭く深い学識は社会に転用できず、いわゆる「専門バカ」を大量生産してしまったのだという。

あらゆる学問の根底にあることは、人間とはなんぞやというテーマである。おそらくこのテーマが、学問の駆動力になっている気がする。「うちはそんな高尚なことしていない」という研究室は多いし、たしかに縁遠い学問はあるのだが。たとえば青色LEDがどう人間学につながるのか、と言われると苦しい。

ともかく、ひとはだれしも自分のことを知らない。自分はたしかに存在しているのだが、その事実を解明できた人はだれひとりとしていない。これは峻厳な事実である。だからまあ、パスカル流に云えば、人間は考える葦である、ということでまとめて、今日は学校にいく。

12.07.2014

田舎はひとり暮らしの4LDKを可能にする

昨日の実存の危機みたいな日記は何なのだろうか。このブログもなんとかせにゃならんなあ……。


今日は勤務先(田舎)の近くの賃貸物件を探していた。

前まで狙っていた一戸建てはだれかにとられてしまったようだ。木造平屋の2LDK、こじゃれた洋風の建物で庭付きで、海までバイクで5分、周りは田んぼだらけという好条件だったのだが。家賃は65000円。

今狙っているのは鉄筋三階建ての4LDKである。ぱっと見は中流家庭のマイホーム、駅まで徒歩五分(田舎では電車はほとんど機能しないが)、最大の魅力は電動シャッター付きの車庫(自動車二台)があることである。家賃は82000円。けっこう高いが、住宅手当がつくので、今住んでいる三万円の六畳アパートよりも安くなる。難点は、周りが住宅街であり、近所づきあいがめんどうそうな点と、部屋が多すぎて使い道がわからないこと。ひとつは楽器の部屋にしたい。ひとつは書斎にしたい。こう考えても、余ってしまう。

それにしてもちょっと考えられないな、東京の感覚では。夢の一戸建てがあまりにも近すぎる。



他人と異なることは、成功の必要条件のひとつだが、あえてそれを試みる人は非常に少ない。(キングスレイ・ウォード)

ひとと違う道をゆくということは、確かに成功の近道だという気がする。だれもかれも東京に行きたがるが、その結果人口過剰となり、せせこましいうさぎ小屋に住まなくてはならない。東京のうさぎさんたちは、「給料の1/3を家賃の目安にする」らしいが、一日九時間とみて、そのうちの三時間を家のためにはたらくというのはずいぶん実りがない。もっとも、労働とは本来そういった類のものなのだろうが。

ぼくは本と音楽があればどこへでも生きていけるという気がしている。そんな夢物語が可能になったのも二十一世紀のインターネット文明と日本郵便および佐川急便のおかげである。昔であれば、本好きは神保町近くに住まなければならなかっただろう。しかし今では古い岩波文庫でも、マイナーなCDでも、検索してワンクリックで届く。

東京はたしかに好きだ。いろんな人がいるし、いろんな人がいることが許されている空気がある。ただぼくは人混みが大嫌いであって、街をぷらぷらうろつくという、都会人特有の享楽を味わうことができなかった。田舎育ちのぼくにはそういう才能、一種の嗅覚がなかったのかもしれない。が、まあ、こうした理由でぼくが住むのは田舎でいいのである。

十年ほど前には、インターネットによって東京の一極集中はなくなるだろうと考えられていた。なにもバカみたいに高い賃料を払ってオフィスを東京にかまえる必要性はなくなったからである。しかし、企業も、個人も、東京の一極集中は変わらない。その理由は合理的なものではない。ほとんどが、ただの慣習である。

慣習とは恐ろしいものであって、多くのひとがそれにコントロールされている。東京にいけば何とかなるだろう、一流大学に行けば何とかなるだろう、大企業に入社すれば何とかなるだろう。「何とかなる」。なぜならだれしもそれを目指すからだ。だれしも望むということは価値があるに違いない。そうして空虚な価値が膨れあがる。これはバブルと同じ構造である。ということは、資本主義的な精神と言ってもいい。

つまり、「人がモノを欲しがる原動力は、そのモノを、自分だけではなく、他者も欲望しているということの発見から生まれる」というわけだ。
 資本主義経済というものは、人間がモノを欲しがるという衝動がないと、ドライブしていかない。他人のモノを奪っても、自分が手に入れたいと念じるほどの強い衝動がないと、資本主義は大きく成長していかない。(恋愛は罪悪である ― 漱石『こころ』100年/町田の独り言

ぼくがいま思いついた許せないことが三つあって、ひとつは道義的に何も悪いことをしていないのに「お騒がせして申し訳ありませんでした」と謝罪する著名人である。もうひとつは履歴書をいまだに直筆で書かせるアホ企業である。最後は原付の二段階右折と時速30キロ制限という法律である。こうした不可解な行為や制度はまさしく慣習以外に説明できないものであり、日本精神の病理を映し出しているといえるだろう。

まあ、どうでもいいことを書いた。最近どうでもいいことしか書いていない。勉強が忙しくまともに読書できていないせいもあるだろう。今読んでいるのはインド哲学の本である。ほんとうに、インド哲学は良い。最近、自分の思想が神秘主義の方向に傾きつつある。年齢のせいか、日常がずいぶんつまらないものになった、一年前のぼくは、大変不幸な存在だったが、それだけに尖っていた部分があると思う。幸福になることで失うものは多い。簡単にいえばバカになる、バカになったから幸福なのかもしれないが。結局、何もかも等価なのだ。金持ちも貧民も変わらず、健康者も病人も変わらない。一国の王だろうと暇がないことを悩むものである。だれもかれもが不幸という点では平等である。幸福な人間は目が見えていないのであり、不幸な人間はぼくらの同類である。そう考えると、もうだれかを羨むということがなくなるものだ。成功に溺れることも、不幸を悲しむということもなくなる。そうした人間が、賢者というべき人物なのだろう。

12.05.2014

alcholic dilettante

自分というものを見ることは楽しいことだ。ぼくにとってぼくは唯一の存在者である。ぼくにとってぼくは唯一無二であり、全てである。同じように、すべての人にとって、自己という存在はひとつであり全てであると思う。

結局世の中の偉人とか、天才というものは自分をどこまで見つめ語り合ってきたかに過ぎないという気がしている。筋骨隆々とした人は、スポーツ選手になるなり、肉体労働をすればよろしい。ひょろひょろで内気な人は、学者なり、オタクになればよろしい。キェルケゴールがレスリングをしても最弱だろうし(ぼくでも倒せるだろう)、かといって吉田沙保里が哲学したところでねえ。オタクはリア充にはなれない。ならなくていいし、なろうとするから不幸になるのだ。

ぼくはキーボードを叩いているイマココで存在している。生きている。実存しているか、は知らない。ぼくは最近生きているという気がしない。まったく、何もかも失敗しているという気がする。

ぼくらはただ生きているだけでも、いろいろなイベント事がある。大学を卒業しなければならないということも、ひとつのイベントだ。けっこう大きなことだから、ぼくの同級生は、来年には卒業なんだということを意識している。それによってイマが彩られている。友達は大事にしよう、残された時間を大事にしよう、なんて色づいてはしゃいでいる。しかし、大学を卒業することがなんだというのか。根本は何も変わってはいない。ぼくはどこまでもぼくである。彼もどこまでも彼である。

やはり、人間の内側には大海がなければならないと感じる、山よりも深いトラフを持っていなければならない、と思う。外界のどうでもいいこと、人生の波乱に惑わされない自己を養成しなければならない。「人生の及ばない自己」。こんなことは可能だろうか?ぼくらは人生がすべてだと思っている。人生の中に世界があると信じている。ところが、人生とは別個のところに、自己があると考えることもできる。精神と肉体の及ばない自己。

ぼくの今使っている「日本語」の言葉は借りものである。ぼくの理性は言葉でできている。ゆえに、理性は借りものである。借りものである、ゆえに本質ではない。これで神秘主義以外の西洋哲学の半分を論破できるぞ。アリストテレスは西洋史最大の罠であった。人間には、言語を疑ってかかるということは決してできないものだ。疑うという行為も、言語的であるから。

まあいいや。今日はもらい物のワインを消費しなければならない。女にワインをあげたら、お返しにワインを返された。そのワインだ。明日から酒を飲むわけにはいかないし、捨てるわけにもいかないので、今日のうちに飲み干しておかねばならない。

酔ったので、何でも書けるという気がする。まあだれも読まないのだが。ぼくは恋愛において無様であることがわかったので、もう恋愛はしないことにしている。ぼくは恋愛をするようには、できていない。だから、もはやカップルを見ても何も感ずることはない。しかしニーチェもカントもショーペンハウエルも惨めな恋愛をした、このことを考えると悲しいことである、恋せざるを得ない人間存在の哀れさを感じる。

現実主義の人間は幸福であり、理想主義の人間は不幸だということができるだろう。実際には現実主義の人間は近い理想を見ているのであり、理想主義は遠くの理想を見ているだけの違いにすぎないのだが。理想主義の人間は、恋愛でこっぴどい目にあう。そしてすべての哲学者は理想主義者である(プラグマティズムもひとつの理想である気がしている)。

まあどうでもいいや。書くということは不思議なことである、ぼくはつぎつぎに書くことをしているのだが、書くことが連続していると、それはより緻密さを増すようである。たとえばAについて書いたとすると、もうAのことは興味がなくなる。そしてBについて書く。こんどは、AとBを組み合わせて書きたくなる。そうして、どんどん緻密に、敷衍してゆく。これは不思議であるし、楽しい行為である。

しかし、問題点もある、書いているだけではダメだろう、ぼくのしていることは正しいのか、いよいよ考えねばならなくなってきた、ぼくのしてきたことは正しくないという気がしているし、何かを変えねばならない、という気がしている。ぼくは大学を卒業してからしばらく、しばらくとは数年間だが、読書によって自分の精神を高めようとしている、ぼくは孤独を厭わない、社交はかえって自分を貶めるものだと思っている、だからひたすらに読書をしようというのだ、社会学、心理学、哲学、文学、それと格闘してやろうというのだ、しかしその結果何が生まれるだろう?偏屈で、何の価値もない、ディレッタントのおっさんではないか。物知り顔の、ひとりよがりの、さもしい偏屈じじいである。

ぼくは確かに書いている、毎日こうして、千字以上は書いているけども、それが何かを生むということはない、やはり半年くらい前に書いたように、糞便の堆積でしかない。

ぼくという人間は、たしかに、悪くない人間だと実感している、ということはつまり、自分が無能であり、無知であると知っている人間は、まずまず悪くないのである。だからぼくは自分で自分を褒めてやりたいと思うこともあるのだ。それは無知の知と言うべくか、ともかく無知であることを知っている。

ぼくは普通の人生を望むのではない、しかし、何も達成できそうにない。悲しい人間だ、と鏡を見て思う。

12.04.2014

幸福が苦手

ぼくという人間はどのように生きていくのがよいか、と考える。最近はずいぶん幸福になってしまった。ぼくは狂気と正気の間にいる人間ではなくなった。笑顔が増えた。冗談が言えるようになった。いままでは、「おはようございます」と挨拶するときに、口角をあげることなんて絶対にできなかった。それが、今ではにっこりと笑うことができる。嬉しくなくとも、嫌なヤツでも、ぼくは笑うことができる。ぼくの病気も、快癒に向かっているのかもしれない。

ぼくがかつて思い描いていたような、「文筆家になる」という目標も……健康で幸福な立場から見ると、なんだかバカげている。なに、そんなに肩肘張るなよ。お前はそれなりに金も稼ぐし、満足いく生活ができるだろうさ。毎日釣りをして、バイクで遊んで、きままに暮らすんだ。悪くない暮らしだろう?死ぬことや死んだあとのことなんてどうでもいいじゃないか……。大事なのは今、だろう?稼いで、消費して、家庭を持って、当たり前の幸福を維持するんだよ。そんなことができる人間も、今ではだいぶ少ないんだ。くだらない洋書を読まずに、村上春樹を読め。かっこつけた音楽を聴かずに、J-POPを聴け。そして、笑って、何も考えずに生きていくんだ。みんなそうしているんだし、お前もそうするんだ。大部分の人間が、死を受けいれていく。人生にそれなりに満足して死んでいくんだ。お前だけが逃れるわけにはいかない。お前だけが逃れられるわけはない。

という風に自分に対して思うけれども、やはり、ぼくは生きる意味というものを考えると、くだらないルーチンな労働や金稼ぎ、グルメやツアー旅行などのくだらない浪費、あるいは功名心にかられた愚劣な行為などとは距離を置きたくなる。なにもぼくは世間の人よりも高潔というわけではない。ただ無駄なことはしたくないのだ。

ぼくは授業にほとんど出席しないので学生間で有名らしい。また、出席をとるとすぐ抜け出すので、お利口さんグループは眉をひそめているらしい(ケッ、おぼっちゃま共が)。授業を抜け出してすることといえば、楽器をやるか、本を読むか、寝るかだが……ぼくは結果的に、「優」を取る。しかしそれでいいのだ。ぼくが教授であれば、授業にすべて出て「不可」を取るバカは大嫌いだと思う。逆に、授業に出ないで「優」をとる奴がいれば感心するだろう。結局、ぼくはこの学生生活の間、ほとんど授業に出なかった。出ても寝ていた。一年目はそれで失敗したが、あとの六年間は無事過ごした。このように、無駄なく効率的に生きることが大切だ。でなければ、人生はあっというまに過ぎ去ってしまう。

話を戻そう。ぼくという人間に何ができるのだろうか?と考えるし、そもそも何かするということに意味はあるのか?という風にも考える。

ぼくは別に文筆家にならなくてもいい、と考えている。前にも書いたと思うが、ぼくが目指しているのは「人間になる」ということであって、それ以外ではないのだ。鳥が空飛ぶように、獅子が駆けるように、人間が人間であるときに人間は、もっとも美しく、もっとも力強く、もっとも善い存在になりうるのだ。こう考える。至ってシンプルで、良い目標じゃないだろうか。

岡本太郎の言葉を思い出す、インタビュワーが「あなたは絵を描く一方で、彫刻するし、本も書く。一体あなたの職業はなんですか」と問うと、彼は「私は人間だ。」と答えた、という話。岡本太郎という人物にぼくはだいぶ影響を受けたが、あの人はずいぶん孤独で寂しい人だったと思う、しかし優れた芸術家というものは常に笑うときに泣き、泣いているときに笑っているものだ。

「人間になる」だと?お前はロボットになりたくないという。奴隷になりたくないという。そんなことが許されると思っているのだろうか?人間に自由は不可能だ。……

人間の自由の不可能性、これも人間らしいものだとぼくは考える。人間はやはり、時代性から解放されるというわけにはいかない。いくらがんばっても、当世流の社会の流れ、歴史性から免れ得るものではない。だから、人間は自由というわけにはいかない。完全な幸福がありえないように、完全な自由もありえない。自由とは誤謬である。何からも解放されて、内なる自己に沈潜するのも結構だが、そこに帰着することはできない。だから、そこから何かを持ち帰らねばならない。

最近ぼくの精神はどこまでもぼくのものではないという気がする。ぼくの肉体は移ろいやすいものだ。結局は借りものだ。両親の肉体からの借りもの。ぼくは卵子が受精し、細胞分裂した結果である。両親もその受精卵の結果である。祖父母もそう、辿り辿っていくと、ぼくの肉体は借りものだ。じゃあ精神はどうなのかというと、これも自由ではない。ちょっとロボトミーで前頭葉をかきとってみれば、人格というのは変わってしまう。肉体も精神も借りものである、しかしぼくという存在は、肉体の朽ちたあとにも残るという気がする。その残ったものが、現世に残るのか、別の次元へ飛ぶのかはわからないが……。こうまで行くと、宗教的な話になってくる。ともかく、こうした考えから、ぼくは自分の肉体に固執せず、精神にこだわるということをしないだろう。

ぼくは肉体的快楽から離れ、精神の呪縛からも離れ、ただ人間存在にとって有益なもの、善や真や美といったものを追求するだろう。


と夢想めいたことを書いてみた。ぼくは最近幸福である、しかし幸福というものが本当に苦手である、幸福の中にありながら怠惰と無明のなかに落ち込まなかった人はいないだろう。恋愛は一時的に楽しくとも、あとでこっぴどい目に会う。いつかぼくは大変落胆するだろう。始めからそのことを知っておいた方がいい、とこう思う。

12.03.2014

家族について

今日は実家から戻ってきた。実家へは、バイクで三時間で帰れる。

父親に遠方の田舎へ就職することを報告すると、残念がっていた。とくに祖母は深く落胆していた。ぼくの実家には父親と、祖父母が住んでいる。祖父は年で介助が必要な状態だし、祖母はずいぶん腰が曲がってしまった。実家はちょっとした屋敷だが、かなりガタがきている。「今からでもいいから実家に住んでほしい」というのが家族の総意のようだ。

ぼくは実家の住環境が嫌いではないし、実家から通える仕事の口はあるのだが、薄給だし、だいぶ忙しいようだ。やはりある程度金を作ってから帰りたい。ふすま一枚ではプライバシーもなにもない。実家の土地に、離れを作ってそこで過ごしたい。

祖父母が今後どうなるのか、わからない。この家はどうなるのだろう。兄が帰ってきてくれればよいのだが。兄は一昨年結婚して、妻とともにどこかへ引っ越した。たぶん近くではたらいているはずだ。そろそろ第一子が産まれるのだと祖母が嬉しそうに語っていた。祖母もひいおばあちゃんということか。腰は曲がっても、祖父の世話に、農作、家事、ずいぶん元気だ。気候と食べ物がいいのかもしれないし、あるいは、はたらいていた方が健康によいのかもしれない。

祖父が亡くなったら、祖母はどうなるのだろう。一気に老け込んでしまいそうだ、ということを考える。ぼくはまだ身内の死というものに遭遇していない。だれもかれも健康だ。もっとも、庭の木の剪定中にハシゴから落ちたり、がんの手術をしたりとそれなりのクライシスはあるのだが、総じてみんな元気である。いちばん最後に参加した葬式は……隣の男の子が、高校生にして病気でなくなったときだ。普段は明るい男の子の母親がボロボロと泣いていたのが記憶に残っている。ぼくが中学生の頃だったと思う。それ以来葬式には参加していない。

祖父母がぱったりと亡くなっても、それは自然なことだ。年齢が年齢なのだから。しかし
、ぼくはそのときどのように感じるだろうか。ぼくの死と、他者の死は違うものだ。しかし、肉親の死とはどういうものだろうか。ぼくは祖父が亡くなっても、動揺はしないだろう。それはやはり自然なものだからだ。しかし、残された家族の反応を見ると、ぼくは感動してしまうだろう。考えると嫌なものだ。しかし、いつか必ずくることなのだ。

  ……

洗面所に行くと、四、五個のパチンコ玉が置かれていて驚いた。父が始めたのだろう。父は退職してから暇を持て余しているようだ。国産のスポーツカーを買って、峠でぶつけて廃車にしている。それから大人しくしていたようだが、次に始めた趣味がパチンコとは、我が父ながら悲しくなる。仕事一筋というわけではないが、がんこで、融通の利かない人間だったはずだ。当たって喜んでいる絵面も、外して怒っている絵面も気持ちが悪い。


この家庭は恐ろしく暗い。ぼくのような根暗な人間が育っただけはあるだろう。両親が離婚して数年後、母親のところへいくと、神妙な顔でこう言われた。「あんたの父さん自殺したって聞いたけどほんと?」と。そんなことはない、普通に生きていると言うと、「友達にそう聞いたから」と。田舎だから、変な噂でも立っているのだろう。父は木訥な人間であり、深く物事を考えない。自殺なんてしないだろう。もっとも、人間なんてわからないものだが……。親子であっても、気持ちなんてわかるものではない。



家族というものを、ここ数年間、ぼくは無視していた。ぼくは家族に対し、極めて冷淡だったと思う。まあ、これからも冷淡であるだろう。ぼくは家族というものになじめないようにできている、と感じる。どうしてそうなったかはわからない。ぼくはあらゆる組織になじめないのだ。家族にも、学校にも、研究室にも、部活にも。これは生まれつきそうなってしまったので、今更変えられないという気がしている。

12.02.2014

自由意志について

ぼくという存在も、ヒト科のオスという運命を免れ得ない。ぼくはイルカではないし、カモメではない。ぼくはどこまで自分が自由なのかということを考える。自分のしている行動は、ほんとうに自分がしたいことなのだろうか。

行動心理学の最盛期(1980年くらい?)には、こうしたことがさかんに宣伝された。「人間には自由意志などない」と。つまりあらゆる人間の行動は、統計的にまとめうるものである。ある店に入った人物が、どこの席に着くか……これは彼の意志というよりは、彼の性質と、その店の環境によって決定されるのである。

「人間の空間」という本を読んでいると、ある行動科学の研究が紹介されていた。バーにひとりでいる人物が、他の客と会話し、うちとけるまでどれくらい時間がかかるのか観察する、というものである。大抵の人間は、バーに寂しさを紛らわせるために来ている。だから、バーの客たちは時間がかかるにせよ、互いに打ち解けていく。しかし、ごく少数に、まったく他者との交流を絶ち、たった独りで酒を飲んでいる人物がある。こうした人物は、他者が話しかけるのに、冷たく突きかえす。おもしろいことに、論文の中では、こういう孤独者への説明をあきらめている。彼は「バーで独りで酒を飲む理由がよくわからない」とされ、行動科学的な注釈をはねつけたということである。

共感してもらえると思うが、たいていの映画では、バーの中で騒いでる連中や、だれかと話しているひとびとはMOB(脇役)扱いである。そうではなくて、ひとりで酒を飲んでいる怪しげな人物こそが重要人物であることが多いものだ。

この孤独な男性、これこそ自由なひとではないのか。つまり行動科学が存在を否定する「自由意志」をもった人物なのではないか、だから行動科学的な説明が不可能なのではないか、とぼくは考える。

行動科学では、統計的なイレギュラーとして弾かれる「非常識なひと」がいる。例えば、がらがらの図書館で、ひとりの学生が座っているとする。普通の人間であれば、そうした学生からかなり離れた席に座る。その学生のテリトリーを侵犯せず、自分のテリトリーも最大限得られるような席をとるのだ。しかしイレギュラーな人物の場合、驚くべきことにその学生の「真横」に座ることがある。

しかし、そんな人間は千人に一人くらいのものであり、彼は「イレギュラー」として黙殺される。まあ、真横に座る彼がそうであるかは別にして、こうした行動科学的に「ないもの」と見なされる人びとこそ自由意志を持っているのではないか、とぼくは考える。

つまり、行動科学とは自由意志をもたないひとびと(≒大衆)の研究であって、自由意志は人間に存在しないのではない。自由意志とは、極少数のイレギュラーな人間に存在するのである。イレギュラーというとかっこいい響きだが、実際の社会においては「変人」「危険人物」「困った子」的な扱いを受けることの方が多いだろう。もっといえば「精神異常者」、「犯罪者」ということになる。

「消えろ、イレギュラー!」でおなじみのゲームから。
イレギュラーが既存の社会に勝利し、社会が変革される、
というのが多くのゲームや映画のストーリーである。

行動科学では外部の環境と本人の性質でその行動が科学的に決定されるとした。つまり外部の環境と内的な素因によって、行動が決定されるのであって、環境と素因のあいだに「ある」とこれまで考えられていた「意志」というものが否定された。しかし、これでは人間は動物と変わらないことになる。

たしかに、大部分の人間は動物的なのかもしれない。鈴木大拙のいったように、「無知と官能の泥のなかにうごめく生ける屍の何と多いことか」ということが言えるだろう。というのも、自由意志を持つということは、おそらくバーでみんなと楽しく飲むことを不可能にすることだからだ。それはきっと寂しいことだろう。しかし、ぼくらは屍でも動物でもないはずだ。自由意志を持たねばならない。大衆からはなれた山頂と谷底は孤独で肌寒いが、それに耐えなければいけないということだろう。



生きている人間は、なにがあろうとも、頑として揺るがぬ必然に四方から圧迫されつづける。とはいえ、人間は思考する。
ゆえに、必然が押しつけてくる外的刺激に手もなく屈するか、みずから練りあげた必然の内的表象に自身を適合させるか、というふたつの選択肢を有する。ここにこそ隷従と自由の対立がある。(「自由と社会的抑圧」シモーヌ・ヴェイユ)

12.01.2014

雑記 - ロビイスト

今日はやっと暇を得ることができた。

ここ最近ほんとうに忙しかった。単なる試験勉強なのだけど、勉強量が尋常ではなかった。それが終わったので、今は大変解放された気分である。とはいっても、飲みに誘う友人もいないので、試験が終わるとうどん屋にひとりで入り、野菜入りほうとうを食べた。たった五百円だが、ぼくにとってはかなりの贅沢である。ほうとうは大変おいしかった。かぼちゃの風味がいい。最近は、ラーメンよりもうどんが好きになった。年をとったということだろう。

食べ終わると酒を買って帰った。この前「断酒している」と書いたのだが、生活習慣改善という目標は副次的であり、本来は試験勉強のためである。だから試験の終わった今日は飲むのだ。いまはベルギーのホワイトベルグという安い発泡酒?を飲んでいる。これは日本の発泡酒より安い。ベルギーのビールは薄味で、麦芽が少ないので日本では発泡酒ということになる。

日本の税制はやはりおかしい。ビールは何種類にもわけて課税するのに、消費税では、ベンツのSクラスもパンも同率なのである。これはどう考えても、金持ちに都合のいい税制だ。ベンツのSクラスなんて、税率100%でよろしい。金持ちは気にせず買うだろう。今日だって、ぼくはほうとうを会計するときに五百「四十円」を請求されて、げんなりとした。そりゃ消費も冷え込むはずである。

そういえば、この前日本の酒造会社はロビー活動をしているからテレビCMを打ち出せるのだ、というようなことを書いたけど、調べたらほんとうにロビー活動をしていた。

現役ロビイストに学ぶ!これからのロビー活動

このタイトルで笑ってしまった。ロビイストというとどことなく、「後ろめたいこと、悪いことをしている」というイメージがあるはずだ。それがずいぶんとオープンなこと。

上のサイトのなかで、さまざまなロビイストが講演しているが、ビール酒造組合審議役のひとの内容を要約すると、「WHOは世界的にたばこを撲滅することに成功した。WHOは今度は酒をなくそうとしている。厚労省にもその動きがある。その規制をなくすためにもがんばっていきたい」と。

まあ、酒造会社も営利事業である以上、自社の権利を主張するのは当然だと思うが……。酒は家庭を壊すことがある。身体を壊すことも多々ある。自分の供給している商品で中毒者や依存症を出し、たくさんの人が苦しんでいるという現実をどう思ってるのかね?「それは自己責任です」「法律に則っています」と言うのはけっこうだが……。

ぼくらは大人になるためには目をつぶらなければいけない、ということだろう。ロビイストは堂々と講演するようになった。大企業の依頼を受け、政府と交渉するビジネスマン。けっこう絵になるじゃないか。その陰では、ロビイストの彼のはたらきによって苦しみ、死ぬかもしれないひとが五万といるのだが……。

資本主義とはずいぶん悲しいものである。制度自体というよりは、それに適応してしまう人間存在が、悲しい。



今日はずいぶんだらだら書いてしまった。やっぱり、酔っ払っているからだろう。ようやく暇ができたので、がっつりと本を読みたい。今読まねばならぬのは、チョムスキーと、フーコーと、アレントにもそろそろケリをつけなくては。

明日からまたまともな日記を書こう。しかしこういう他愛のない日記の方が、まともだと普通のひとは考えるだろう。とにかく今日は寝る。昨日は二時間くらいしか寝ていないのだ。

11.29.2014

断酒について

酒神ほど強力なものがあろうか。これほど美しく、空想的で、熱情的で、陽気で、憂鬱なものがあろうか。酒神は英雄で魔術師だ。誘惑者で、愛の神の兄弟だ。彼には不可能なことができる。貧しい人間の心を、美しい不思議な詞をもって満たす。彼は、私という孤独な百姓を王さまに、詩人に、賢者にした。からっぽになった生命の小舟に、新しい運命を積み、難破したものを大きな生命の奔流の中へ押し戻してくれる。(「郷愁」ヘッセ)

酒を一週間ほど辞めているのだが、非常に体調がいい。どうも肉体の健康というよりも、精神的な健康の方が改善されたようだ。妙に多幸感がある。ぼくは幸福というものを信用していないので、これは少し気持ち悪い。

これまでは一日ビール一リットルくらいは飲んでいた。さすがに金がかかって仕方ないし、寝起きの気分が悪く、記憶力や判断力など全般的な思考の障害が気になるし、酔った状態ではバイクでコンビニへ行くこともできないのでよろしくない。

あるクリニックのサイトを見ていると、こんな文言があった。
「私達は、診察の際に病歴をとる際に、結婚当時の飲酒癖を奥さんから聴取しますが、アルコール依存症になる人は、25歳~27歳で晩酌のくせがあった人が圧倒的に多いのです。」(アルコール依存症の回復のために
これはまさにぼくであって、このままでは依存症になってしまう。

それで酒を一旦辞めてみた。

考えてみれば、二十歳(いやそれ以前)から飲まない週というものはなかった。本当になかった。センター試験の前日も飲んでいた記憶がある。だからこれは個人的に革新的なことなのである。


なぜ酒を辞められないのか

酒という奴は厄介な存在だと思っている。

だいいち、ぼくらの身体には酒を欲するようにできている。

酒と人間の関係は古い。あまりにも古い。糖分さえあれば酒は勝手にできるのだから考えてみると当然だが、紀元前3000年頃のメソポタミア文明にはすでにワインがあったとされる。だから、合法ハーブがどうのと騒いでいるが、酒の害についてはまるで取りざたされないのは歴史的背景もあるのである。

また、ロビー活動の賜物か知らないが、アルコール類のテレビCMをばんばん打ち出している。健康そうな男女が、うまそうな料理でごくごくと酒を飲んでいる情景がテレビで流れている。酒はおいしい!酒は楽しい!酒はかっこいい!ぼくらは子どものうちからこんな風にすりこまれるのだ。外国からしてみれば犯罪的な広告に見えるらしい。確かにこんなものを許容していれば、アル中は増える一方である。

さらに、アル中は遺伝する。ぼくの両親はひどい酒飲みだった。だから当然、ぼくも渇酒の人生が運命づけられているというわけだ。

ヘミングウェイやフィッツジェラルドが酒を飲んだのは、想像力に富んでいたからでもなければ、阻害されていたからでも、精神的に弱かったからでもない。アル中というのは、飲むようにできているのである。(「書くことについて」スティーブン・キング)

最近は減っているようだが、「飲み会」というのもアル中製造の機会だ。日本人は何かあるたびに酒を飲んで騒がなければ気が済まないらしい。しかも痛飲する。意識を失うまで飲み続ける。これも外国人から見れば奇異らしい。「無礼講」としてらんちき騒ぎをするのは、それだけ日本人が普段抑圧されているということの裏返しだろう。

こうした風習が何を生みだすかと言えば、晩酌の習慣である。例えば試験が終わったから飲む、仕事で一段落したから飲む、という風に、プライベートな生活空間に酒が浸潤してくるのだ。しまいにはどういうことになるか?ぼくらにははっきりわかっているはずである。つまり何かと理由をつけて、毎晩飲むようになってしまう。

「今日は嫌なことがあったから飲もう」これはまだ、いい。しかし、「今日は嬉しいことがあったから飲もう」となると、危ない。さらに重度になると、「今日は何もなくてつまらなかったから飲もう」となる。結果として、毎晩飲む依存症のできあがりである。

どうやって酒をやめるか

酒を辞めるにはテクニックがあるようだ。個人的には、

  • 代替のノンアルコールビール、あるいは炭酸飲料を飲むこと
  • 浮いた酒代で豪華なものを食べること
  • 夜はさっさと寝てしまうこと

という方法があると思う。

酒代が浮いたので、ぼくの晩飯は二倍くらい豪華になった。例えばいままでは白菜と豆腐の水炊きだったのだが、そこに鶏肉が入るようになった。ほんとうにありがたいことであり、酒をやめてよかったと思うことができる。

夜はどうしても気が緩む。ひとり暮らしでは寂しい時間であり、酒を飲みたくなってしまう。だからさっさと寝てしまう。アルコール中毒では、夜眠れないからという理由で飲んでしまう人が多い。しかし酒は一時的に入眠作用があるとしても、そのあとの睡眠は浅くなり、質の悪い睡眠となってしまう。だから酒を飲むのは逆効果だ。

かといって、寝付けないということもあるだろう。あまり勧められたものではないが、そういう人は入眠障害と診断することもできるので、心療内科にいって睡眠薬を貰うといいとぼくは思う。

ある中年男性がハルシオンを毎晩服用している。彼はかつてアル中だったのだが、彼曰く、「酒よりも身体にいいし、安いし、こっちの方が絶対いいよ。」とのこと。ただ睡眠薬も副作用がある。中枢神経に効く薬なので、長期服用は並の医薬品より怖いイメージがある。まあ生活のリズムをつくるためには効果的だと思う。

ところで、アルコールを常飲している人は酒の代謝産物である酢酸を、脳が栄養源として取り込んでいる場合があり、そのため酒を辞めた途端、脳がエネルギー不足状態となり軽度の脳萎縮が起こる可能性があるという(あまりエビデンスレベルは高くないようだが)。

酒を絶つときは、予防的に酢を飲むと痴呆を防げるかもしれない。 酢は料理でもいいし、リンゴ酢などから摂ってもいいと思う。

 大学時代に酒豪のクラスメートがいたが、彼はよく酢を飲んでいた。彼の机には酢の瓶がいつも置いてあり、コップについではガブガブと飲んでいた。彼が言うには、酢がすごくうまいのだという。しかも酢を飲むと集中力が高まり勉強がはかどるのだという(そんなことあるかいな)。

 しかし、この謎が30年以上も経ってようやく解けたのであった。アルコールを飲み続けると、脳の神経細胞はアルコールの代謝産物である酢酸ばかりをエネルギー源として利用するように変化してしまうという論文が出たのである。彼は、ブトウ糖よりも酢酸を好んで消費するようになった脳の命令に従って、昼間から脳のエネルギー源として酢を好んで飲んでいたのだ。今、ようやくクラスメートの謎が解けたのであった。(場末P科病院の精神科医のblog

というわけで、今のところ断酒は成功している。

こうして記事を書いてみたものの、たぶんまた酒を飲んでしまうだろう。酒神からは逃れられない、という気がしている。

11.28.2014

原子力村は日本人の村である

昨日、福島原発についての動画を観ていた。あのノーム・チョムスキーに、「子どもたちを放射能から守る世界ネットワーク」が福島原発事故の問題についてインタビューしたのだ。


興味深いのは、「フクシマ」が主題であるはずなのに、チョムスキーの話が一貫して「自分たち(アメリカ人)を振り返ることが大切だ」と説いていることだ。インタビュワーがさんざん話の焦点を「日本の失策」「マスコミの情報統制」「福島の子ども」にシフトさせようとするのだが、チョムスキーの語ることはほとんど全てアメリカの政策、アメリカの歴史、アメリカの陰謀なのである。

このことは、チョムスキーがちょっと疲れているのだとか(そのように見えるが)、日本のことに関心がなく、自国民のことしか考えていない、ということとは違う。彼は逆に、日本のことを非常によく理解しているのだ。日本のなにを理解しているのか。それは、日本という国が独立して主体的に動きうる国ではなく、アメリカの属国であるということだ。

だから、日本で子どもたちが放射能で健康被害を受けていると言っても、その原因は日本の国家だとか、東電、マスコミのようないわゆる「原子力村」に悪の根源があるわけではない。日本という国は、悪者には決してなれないのだ。脅迫され、意のままに動かされる人間に罪はない。子どもが失敗したら、親の、つまりアメリカの責任だというわけだ。このことをチョムスキーは理解しているのだな、とぼくは理解した。だから彼は、日本のマスコミのことも国のことも、あまり批判しようとはしない。彼は本当の原因がどこにあるかを知っており、そうした批判は皮相的にすぎないことを知っているのだ。



けっきょく、日本は敗戦国であるし、その相手は史上最大の超大国アメリカである。日本はいまだ主権なき国家というのが悲しい現実である。

原子力産業のひとびとや、東電や、首相やその周辺の政治家を当時見ていて思ったのは、彼らも極めて日本人的だ、ということである。彼らは「悪の枢軸」のように扱われることが多い(特にネットで)。しかし彼らが巧みに陰謀や権謀術数を駆使し、国民をコントロールして利潤を得ていたようにはどうしても思えなかった。そのように考えてしまえば楽だし、実際そう考えている人は多い。

でも、清水社長や管首相の姿は、哀れで頼りない、大震災に狼狽している情けない日本人だった。それはぼくらと同じ、日本人らしい日本人であるということだ。確かに彼らは数え切れない失敗を晒したが、決して悪質なものではなく、むしろ子どもじみた失敗が多かった。そこにあるのは巨悪ではなく、単に「慌てふためいている日本人」の姿だった。だから、当時の政策や悪人とされる人びとを、ぼくは無碍に批判することはできない。彼らの姿はぼくらの姿でもある。チョムスキーの言葉を借りれば、「自らを振り返らなければならない」。

アメリカの属国となってから半世紀以上たつうちに、ぼくらは次第に頭脳を失っていったのではないか。つまり、思考し、判断し、決定するという前頭葉のはたらきを失ったのではないか。

だから、アメリカの言いなりとなって地震大国の日本の沿岸に原発を建てた。少数の科学者の警告など無視し、原発の津波対策をろくすっぽしなかった(科学者の声を無視したのは、ぼくら市民も含まれる)。そしていざ事故が起こったあとは、バカな政策によって子どもたちや妊婦を無用に被爆させた。マスコミは談合し、情報公開を極めて制限した(彼らは「国民が混乱するから」と善意で情報を制限していたらしい。ほんとバカにしてるけど、結果的には正しかったとすら思えてくる)。

諸外国から見れば、日本の対応は極めて異様に見えるはずだ。なぜだれもかれもがあり得ない失敗をし、間違った方向へ進んだのか?そして市民たちはすべてが明るみになった今でもそのことを批判せず、変えようとしないのだろうか……?と。

結局のところ、何が悪かったのだろうか。アメリカが悪いといっても始まらないだろう。それに、戦争に負けたことをいまさら反省してもしかたない。ぼくらは確かに奴隷である。国家が隷属しているならば、ぼくら国民も奴隷と言うほかない。しかし、奴隷であっても精神のなかで人は自由になれるのである。何もかも譲り渡してはいけない。奴隷には奴隷なりの狡知があるはずだ。ともかく、原発関連の一連の「大失敗」は、「責任を持ち、自分で考える」ということがことごとく抜け落ちていたが原因だったように思う。その意味では、日本人は大いに反省すべきだろう。だれが悪いというわけではない。日本人の連帯責任である。だれか悪者を探すということこそが、思考停止の始まりなのである。

ちょっと今日はめちゃくちゃなことを書いたかもしれない。まあいつもか。






普通の日記

ぼくは田舎に就職を決めているのだが、そのことを友人に話すと大いに受ける。とくに、ぼくが庭付きの一軒家に住むというと、笑われる(実際は田舎なので、月六万円くらいでしゃれた一軒家が借りられる)。コンビニまで「自動車で」二十分かかるというと、大爆笑である。

海が近いので、仕事が終わったら釣りをして(今時めずらしい定時上がりの会社である)、その成果を晩飯にする、サーフィンやヨット遊びをしてもいい、などというと感心されたり、就活を控えた後輩に妙に食いつかれたりする。とくに教授くらいの年齢の方には、とてもうらやましがられる。

お前はその年で隠居するつもりなのか、といわれると、ぼくは「そうです」と答える。若いときの苦労はなんとやらというが、ぼくは苦労するにしても、自分のために苦労したいと考える。会社や社会のために貢献するだけでは、自分が置いてきぼりになってしまう。もちろん、会社とプライベートを両立させることのできる器用な人はいるが……。

ぼくは、到底社会に向いていない人間である。とくにこの競争社会、消費社会というものが肌に合わない。一日十時間も働かされるのでは、家に帰るたびに、ぜいぜい喘いでしまう。だから、金と時間を選んだ。どう考えても、若いときに暇があった方がいい。セネカも言ったが、身体がどうにもならなくなってから暇と金を得てもしょうがないのだ。