1.31.2014

近ごろの読書報告

最近読んでる本について。

自由の哲学 / ルドルフシュタイナー
久しぶりに読む本格的な哲学書。ルドルフシュタイナーは20世紀のゲーテ研究者、哲学者である。人間は自由か否か、いかにして自由を得るかというお話。まじめな哲学書だけあってぼーっと読むと主旨が掴めなくなる。

バガヴァッド・ギーター
インド古典。聖書の次に読まれている本といわれる。聖書は読んだことないが、それよりは選民的、攻撃的な書ではないかと思う。短いし、前知識なしでも楽しめます。インド哲学特有の何でもありの世界観に引き込まれる。

ツァラトゥストラはかく語りき / ニーチェ
ツァラトゥストラは火をあがめるゾロアスター教の予言者。読むのは3度目。これをバガヴァッドと読み比べると通底するものがありおもしろい。どちらも「だれにでも読め、だれにでも読めない書」である。

人間の条件 / ハンナアレント
わかりやすくそして難解。電車で軽い気持ちで読むにはつらく頓挫している。一日たっぷり時間がある日にでも精読に取り組みたい。




amazonの注文履歴見ても買ったまま読んでない本ばかりで悲しい。本当に時間が足りない・・・。一年くらい読書のために引きこもってもいいと思う昨今。

「反省できない人」は正しい

「反省しない人は人格破綻者」「反省をしない人は成長しない」――本当だろうか?

反省とはなんだろうか。「自分がしてきた行動や発言に関して振り返り、それについて何らかの評価を下すこと、あるいは自分の行動や言動の良くなかった点を意識しそれを改めようと心がけること。(wikipedia)」とある。

ここからわかることは、反省は自己対自己の関係で終わるということだ。現在の自己が過去の自己に対して不備を認め、未来の自己のために活かす。これが反省の本義だ。

しかしながら、日本型の「反省」はこうではない。日本型反省は他者の存在があって初めて成立する。

「周りに迷惑をかけたと気付く」ことが反省のきっかけとなる。「私は間違った判断をした」と理性的になることは少ない。だいたいの反省文の締めくくりは「ご迷惑をおかけし、まことに申し訳ございませんでした。」である。テレビでは瑣末なミスをした連中が「お騒がせして申し訳ありませんでした」と謝罪する。日本では他者に迷惑をかけること(迷惑でなくても、静謐を乱すこと)=悪事なのである。これは欧米型の考え方とは逆行する。

日本型の反省は結果中心であり欧米型の反省は目的に対して反省するともいえるだろう。日本の神様は理不尽である。信仰心からおそなえものをしても、それがその神様の意にそぐわなければときに天罰を食らう。
一方欧米の神は普遍的真理をもっている。神の目は行為者の真意を見抜く。だから、結果的に大惨事を引きおこしたとしても「私は正しかった(神の名にかけて)」と主張することができる。単に外在する神と内在する神の違いと言ってもいいかもしれない。

日本型の反省は「しおらしくなること」である。個人は集団を凌駕することがないと学ぶ過程であり、周囲に助けられて自分は生きていると実感することである。だから本来的な反省とは意味がずれる。他者中心的な反省である。
例えばAという場所ではC行為をすると反省させられるが、BではC行為が褒めたたえられるということが往々にしてある。

この日本型反省は全体主義だと言ってかまわないだろう。個を潰し同調させる圧力である。個性をつぶし摩擦なく生きるためのスキルと言ってもいい。
冒頭に示したように一般に「反省する人は成長する」など反省を美徳とする考え方は主流だが、これは自己対自己の反省を示して初めて可能だと考える。

反省は自己の誤りを精査に分析する作業であり、けっして「しおらしく」することではない。だから反省の色を見せる必要はない。土下座する部下を見て「反省しているな」と溜飲を下げることは単なるサディズム的満足である。

「自信がある人は反省しない」という研究結果がある(ディーポーラら 2002)。これは当たり前の話である。つねに真摯に生き、自己に忠実に生きている人は反省する必要はない。

逆説的に考えれば反省する人は自分が正しいことをしているのか曖昧と言える。これは評価基準が外部にある日本ではしかたのないことだ。どこの企業でも「報告・連絡・相談」が重要となるのは、組織の倫理と個人の倫理が乖離しないようするためである。しかし、自分の正しさに確信を持てない人間が多数の社会とは、異常というか、不思議な国としか思えない。

まとめよう。本義的な反省とは内から湧きでるものであり、外部から与えられるものではない。自己中心的な反省は成長をうながすが、他者中心的な反省は集団への埋没を意味することもある。あなたがまっとうに生きていれば、真に反省しなければならない機会は少ない。だから「反省が人を成長させる」ことも事実だが、「反省することで誤った道へ行く」ことも恐れなければならない。


おわりに。ぼくは欧米型の反省をするので、常に「反省の色が見えない」と言われ肩身の狭い思いをする。しかし社会で円滑に生きることも重要なことだ。以上で示したとおり、欧米型の反省の方が真理志向的であり、「正しい」のは欧米型反省である。だからといって叱られているときに憮然超然としていては衝突が起こる。
不本意ながら、ときに自分を裏切ることも大事なのだ。それが日本で生きるために必須のスキルだ。

1.27.2014

ラ・ベート・フィロゾフ

ブログのデザインを改造した。好きな画像をぺたぺた貼って、落ち着いた色調にして、読みやすさを追求、アクセントは赤に・・・。部屋の模様替えのようで非常に楽しい。

ぼくはもともとウェブデザインが大好きで、中学時代から没頭していた。昔はブログなんてものはなく、すべて手書きのHTMLだった(ホームページビルダーなんていう恐ろしいものもあったが)。HTMLなんていうたぶんだれでも書ける代物で、飯が食える、どころか一山稼げる時代があったのだ。

今のようにテンプレート・デザインはなく、一から構築するのがそれはそれは楽しかった。サイトのデザインや内容を評価するサイトがあって、そこかしこに登録した。「ソースが汚いけど、なかなかいいデザインだね」なんて言われたときは有頂天だった。

将来はウェブデザイナーになるんだと息巻いていたけど、いつのまにか諦めてしまった。それはCGIやPHPなどより高度な言語がわからなかったこともある。金を稼ぐためにはまず大学だ、とませた考えが支配したことも原因にある。

しかし今日ブログデザインでまったり楽しんでみると、これはすばらしいものだと感じた。作業は地味だが、仕事が労作に感じない。没頭し、没我し、すべてが調和した雰囲気に満たされた。

これは創造の喜びだ。

こういう仕事で金がもらえたらなあと思う。今どきHTMLやCSS程度で食えるわけがないが。しかし、ジョブズがフォントデザインを学んだことがMACで活かせたように、何らかの形で活かせればよいと思う。
せめて創造の喜びだけでも忘れないようにしたいね。

本当に創造的な人間というのは、気違いじみた思考のできる人間である――(マズローの心理学/ Frank G. Gobleより)

追伸。ぼくはしばらく沈黙する。いままでアウトプットが過ぎた。 ふたたび、パラフィルムで密閉したフラスコに戻る。

1.26.2014

生きるスピードについて

生きるスピードについて。

生きるスピードとは「成果」という目標点に達するまでのスピードである。たとえば手塚治虫は仕事の鬼で三日徹夜はざら、常に書き続けていた。だから漫画の神様と言われるほどの成果が出せた。

ひとは必ず死ぬ。しかし夢の仕事を達成できるひとはわずかだ。その違いはどこにあるのだろう?ひとの脈拍はだいたい同じで、心臓の寿命はだいたい同じなのだから、きっとひとは同じ時期に死ぬ(健康であれば、ね。そう、心臓が止まることも健康なのだ)。問題はその密度ということか?

最近ぼくは出遅れているのではないか?と思う。ぼくの年齢にもなると、1000万円プレイヤーというのが稀にいるし、すでに投資で生涯年収を稼いだひともいる。芸術で食い始めたひともいれば、大学の助手になったひともいる。そういえば、ニーチェは二十代前半で大学教授か。

TEDで「三十代と二十代は違う」という講演があったが、事実われわれの能力というのは三十代では下り坂だ。学習能力が落ちるのに加え、考え方も保守的になる。

そうであれば、二十代という期間をより一層きちょうに過ごすべきだろう。しかし、である。ぼくは本を読むときは、非常にゆっくり読みたいのだ。どういうことかわからなければ最初に立ち返り、読み終わって良い作品だと思えばまた読み返すのである。だからイケダハヤトなんていう俗物が「一日一冊本読む」と言っているのが信じられない(だいたい彼が読んでいるのは事物の表面を軽くなでたようなくだらない本ばかりだ)。

ぼくはぼくのペースを保つべきだろうか。この世には読むべき本が山ほどあって、そのためには人生が短すぎる。最近多忙なのでとくにそう感じる。

反面、三年寝太郎のお話もある。村に災禍が起こることを予見した寝太郎は、ひたすら床に伏せ、対策を考え続けた。村のひとは寝太郎を無能だとバカにしたが、あるとき寝太郎は突如起き上がり、村の災禍を防いだ、というお話。


大業はいかにしてなるか。最近は悩みまくりである。しかし苦しみ悩むことができることも、ひとつの才能である。

さいきん自分の発言に勇気づけられることが多い(気持ち悪いか?)。例えば以下のような。

好機だ!こんな時代でよかった!と言える人間がどれだけいるか。その強さを持った人間が今どれくらいいるか。たいてい、ああすれば、こうなっていれば、なんてうじうじ言って、ありもしない空想で慰めるのだ。これが、歴史から逃げることなのだ。情けない。

1.25.2014

起業という道について。

朝の新宿の大通りを歩く。黒いコートに身を包むビジネスマンや、ヒールの音をひびかせるOLの波にもまれる。高層ビル、タクシー、喧噪。

そうした中で、自分が起業家だったらどうだろう、と考えた。それは啓示的な瞬間だった!自分がまったく自由で、充実し、すべてが万全であるような感覚に身が包まれたと思うと、感覚は総身にすっと染みこんでいくのだった。

マズローの言う超体験だろう。起業家としてのぼくが生まれた瞬間である。一月二十四日。


起業という道。自分の事業を自分の手で行うこと。与えられた仕事ではなく、自分で仕事を創り出すこと。会社という、ひとつの作品を作り上げるということ。自分の腹から生み出し、育てるということ。

ニーチェはこういった。
まことに、ひとが心底から愛するのは、ただ自分の子どもと、仕事だけだからだ。そして自分への大いなる愛があるとすれば、それは子どもを懐妊している徴候にほかならない。

企業とは、ひとと違う道を歩むことである。
チームワークの先を行く。
コミュニケーション能力の先を行く。
グローバリズムの先を行く。
少子高齢化の先を行く。
民主主義の先を行く。
ベンチャーの先を行く。

およそ流行や大衆というものに逆行しなければいけない。そうであれば、僕こそ企業に向いているのではないか。創造性。孤独の智慧。それは起業において初めて社会に役立つのではないか。

なにしろ、カントも言ったように人は完全に孤独になることはできないのだから、社会を倦みつつも社会から逃れられないのだから、その接点こそ私が活かせるのではないか。

1.24.2014

なぜみんなこぞってパシリになろうとするんだろう

今日はふたりのおっさん社会人を捕まえてはたらくとは何か?を学んだ。

やはりそれなりの企業愛というものがあれば楽しいのだそうだ。企業愛があり、人間関係が良好であれば仕事がきつくてもやっていける、と。

おっさん社会人を見て思うのは、ある程度達観したようなところがあるということだ。説明会などでは入社数年のバリバリ働いてる奴が多くて、なんか近視眼的で、高圧的で、嫌なものから目を逸らしているような印象を受ける(それが若さか)。しかし勤続十数年ともなると嫌な物事もひっくるめて、俯瞰的に中立的に物事を見られるのだと感じる。

そういう姿勢が好感もてた。普段あれだけ社畜を毛嫌いしていたぼくだが、社会人も悪くないなと思ってしまった。まあ大企業の厳しい業界で生き残ったエリートだからかもしれんが・・・。自身の心境の変化に驚く。正直サラリーマンとかは見下していたのだけど、最近疲れているのか周囲のおっさん連中が偉く見えてしまう。
(疲れている、と言えば疲れてるのだろう。睡眠時間が三時間程度の日が続く。疲労の泥と抑圧のもとではひとは奴隷的にならざるをえない?)

こんなんでいいのか。この心変わりは世間的には間違いなく「更正した」ことになるだろう。「三厨もやっと社会のことがわかってきたんだね」と。しかし今までの自分を裏切ることになる。自分を殺すか、世界を殺すか。墓石。墓に書かれている。「彼は○○社の社員として、その天寿を全うす」これでいいのか。どれだけがんばっても、会社の株を持ち上げるだけの人生・・・。

雇われるとは、安逸への道ではないのか?一人で生きていけない凡人。なぜみんなこぞってパシリになろうとするんだろう。セネカの言ったとおり、「人は金には神経質だが、自分の生活となると喜んで貸し出すものである」。

ああ、人生についての悩みは尽きないね。

1.23.2014

遅刻のすすめ

今日思い切り寝坊した。普段闇の中でもそもそと起きるのだが、今日に限っては起きたらあっぱれ大快晴であった。呆然とアラーム機能を見ると、きちんと鳴っていた。つまり完全にスルーしていたのだ。

現場ではぼくがいないことで大騒動になっていたようだ。ついには死亡説までながれてたとか。

多分酒、短眠、デート、断食などさまざまな条件が重なった。たしかにぼくが悪いのだが、ぼくくらい「利己的」な人間になると、遅刻したくらいで悪びれることはない。

だいいち、起きようと努力はしたのだ。これ以上何をする必要があったろう・・・。

寝坊は心の不調のサイン
なぜ寝坊してしまうのか。それは怠慢や体調のせいもあるだろうが、肉体=深層心理が本能的に起きることを拒否している可能性が高い。それは日中行っている生活そのものを拒否しているのである。

あなたがしていることは本能的にしたくないことなのではないか?したくもないことを、「私が望んだことだ」と刷り込んでいるのではないか。一度立ち止まって考えるべきである。

また、「あらゆる精神疾患は睡眠障害から始まる」と言われるように、寝坊は心の悲鳴であることも多い。無理な生活を送っていないか。心に負担のあることをどう受け入れるか。寝坊したことは、それらのことについて深く考えるチャンスである。

心の問題を解消すれば寝坊は再発しない。本当に遅刻をなくしたいのなら、生活と心のケアをすることが最重要である。

遅刻を許さない文化、許す人びと
日本は世界でいちばん遅刻に厳しい国と言われる。それが顕著にあらわれたのが電車である。一分でも送れると「遅刻」扱いになる日本の電車は外国から驚嘆とともに奇異の目で見られる。

しかしわれわれ日本人は人間であってロボットではない。必ずミスをする。電車だってうんこ洩らした人が出れば遅れる。しかしそれはどうでもいいことだ。

だいいち、人命に関わる医療者でもない限り、ほとんどの仕事は単に金を得るためのものだ。それだけのことに人間の生活が圧迫される由縁はない。

しかしぼくらはミスを極端に恐れている。人間であるがゆえにしかたないミスであっても、それは「あってはならないこと」と刷り込まれている。「社会に出たら言い訳は許されない」と日本的社会人の神話を信じている。

そういう文化的背景にあるから、実は大きなミスをすると案外許容してもらえるものである。

ぼくは確かに上司的ポジションの方に怒られたが、当初の想定よりもずっとやわらかな叱責だった。「若いから遊んじゃったのかな。やってしまったことはしかたないね」と。
ぼくは言い訳をせず、黙ってうなずくことに終始した。うまい言い訳を考えていたが口にはしなかった。今まで書いたように、「寝坊はあってはならないことだ」とは考えていなかったからだ。最後は二人とも笑顔で、妙に打ち解けた雰囲気で終わった。それはいささか共犯者的な親しさだった。彼は非常に良くできた人だとぼくは感じた。職業的ロボットであるまえに、ぼくが一人の人間であることを認めてくれているのである。

仲間にも迷惑をかけたが、遅刻した旨と理由は楽しい会話になる。かれらもまた遅刻を非常に恐れているので、この上ない「すべらない話」になる。自分が失敗した話ほど他者を喜ばせるものはない。ポカをする同僚をひとは憎めない。卑屈になって自分を責めるようでは笑いごとにすらならないので気をつけよう。

寝坊は生活を逆転させるひとつの契機である

やましい気持ちがなく、真摯に生活を送っているのであれば、遅刻したことを悪く思う必要はない。ぼくのケースでは、まったく寝坊するとは思ってなかったので、最初から最後まで納得のいかない顔をしていた。いわば「偶然の被害者」のような。

「後悔の念」や「もうしわけない気持ち」を見つけると、上司は君を叱責するだろう。それが必要だからだ。しかし、「ぼくこそ被害者なのだ」という意識を持つこと。そしてミスをなくすためにどうすればいいのか、ともに解決策を考えること。それができればあなたは怒られることはない。

本当に、表面的にではなく寝坊をなくしたいのであれば生活のケア、心のケアをすること。生活が不要なもの(商品、人間関係、行動)に侵襲されていないか考え、本当に自分がしたいことからかけ離れていないか考える。

あなたが真剣に生きているのであれば、寝坊は生活を逆転させるひとつの契機である。だから、遅刻した自分を無理に責めないで欲しいと願う。寝坊が心の病の前兆であれば、とくに致命的だから。

1.22.2014

State of Mind

断食・飲酒ののちの散文風日記に留まる。そういえばオバマが酒は大麻より害がないと言って(日本では)大騒ぎになっていたが、医学的には常識というか、当たり前の話である。

酒がなぜ許されているかは製造が簡単(糖を発酵させるだけ!)で文化的に歴史が長いだけに過ぎない。実はタバコについで国民を殺しまくってる暗躍するシリアルキラーである。
ただし、ぼくはインドで大麻遊びをした(店で普通に売っていた)とき、オーバードーズして猛烈に気分が悪くなったので勘弁である。まあ酒でもなんでも過量摂取はいけない。痛み止めだって飲み過ぎれば胃に穴があく。
大麻はドラッグの入り口になるから、というゲートウェイ理論というものがにわかに信じられているが、それなら酒はゲートウェイにならないのか?ぼくの知る限り、ドラッグ遊びをする不届き者で酒を飲まない奴はいない。
大麻は安全で、それでいて精神的負担が軽くなる。精神的抑圧で毎年三万人も殺している(その数でも最小限と言うじゃないか)日本という国は、さっさと大麻を解禁して命を救うべきである。
思うのだが、製薬企業が大麻解禁を阻止してるんではないか?鬱病は向精神薬の巨大なマーケットである。しかも経済が傾くほど儲けが増える魔法の商品なのである・・・。

――

今日の出来事。女の子とデートした。ぼくは女子どもがなぜぼくを好むのかわからない。育ちもよく「まとも」そうな女子がなぜぼくのようなキチガイに惚れこむのか?いちおうぼくはオシャレして、髪も整えていくけど、たいしておもしろい話をするわけではない。ただむっつり飯を食ったり音楽に耳を傾けるのである。女の子も気まずそうにもじもじしたり、話題をがんばって提供する。デートが終わるといつも申し訳なくて、ぼくはコミュ障だから、ごめんなさい、と謝る。それでいて、ますます相手はぼくが好きになるようだ。

ツァラトゥストラが言ったことは正しい。「女は何もかもなぞだ」。

それでいて、ぼくがアタックする女性はみなぼくの手指をすり抜けるのだが!!!!!!!

――

帰り道。電車で読むサイトは「読むTED」がちょうどいい印象を受けた。

ラリー・スミス!愛すべき経済学者よ。愛すべき憎まれ者よ。彼は言う。

「肝心なのはここです 選択肢はいくらでもある その中から 運命を探し出すこと 『運命』という言葉は嫌ですか? 『運命』と聞くと怖くなりますか? いま我々が問題にしているのはそれなんですよ あなたが持てる才能を 最高のかたちで表現できなければ 『興味』とかいうものに甘んじてしまえば 長い人生に幕が下りるとき 何が起きるでしょう

お友達や家族が墓地に集まったとき あなたの墓碑に 刻まれているだろう言葉は 「マジックテープを開発した優れたエンジニア ここに眠る」 しかし 別の人生であなたが その才能を 最高のかたちで発揮していたとしたら そこには こんな風に刻まれていたはずです 「大統一理論を確立し ワープ航法の実用性を立証した 最後のノーベル物理学賞受賞者ここに眠る」

(笑) マジックテープねえ」
ラリー・スミス 「あなたに夢の仕事ができない理由」

ぼくはまったく同感である。ぼくはまったく同じ事を思っていた。子どもの頃こう思った。「消防士はたしかにかっこいいけど、毎日消防士として過ごすのは退屈ではないのか?」今でもこう思う。「きみはそんなくだらない仕事の面接を受けようとしているけど、死ぬときになって人生に満足できるのか?」と。

しかしそれを言うつもりはなかった!だれにとっても耳に痛いことだし、それで態度を変える人間など99人に対し1人である。だからぼくは黙ってひとり道を進んだ。ほかにもぼくのように、サイの角のような道を進む者がいるだろう。しかしぼくらはつるまない。「普通の人」よりも距離を置く。強者は必然的に分散しようとする!からだ。

しかし彼、醜悪にして美しいラリー・スミスは批判した。およそ人好きのしないしかめつら、醜い体躯を引きつれて。ぼくは彼を尊敬する!彼のようになりたい、と心から思う!「目覚めて」いながら「普通のひと」への信頼を失わないことほど、難しいことはないからだ。

墓。永続性。死すべき事物よりも不滅の誉れを――。

就活
いよいよ就活が本格化してきたが、こうも思うのである。「だれかに雇ってもらおうなんて、甘えではないか?」ひとりで生きていけない人間の悲劇。

コミュ力?くだらない!君らには、「コミュニケーションしない能力」はないのか?だれとでも仲良くなる物。均質化される平均的愚物。

ぼくは大して喋らない。それをコミュ障というなら構わない。ならなぜぼくはコミュ障なのか?君らは希に「こんなこと人に言うことじゃないんだけど」と心の奥底を打ち明けることがあるだろう。しかしぼくは「ひとに言うべきではないこと」を考えることに時間を費やしている。それは死すべき事物に対してのテオリアである。

コミュニケーション能力とはなんだろう。それは能力なのか。些末な事物に対しては距離を置く。そして、些末な人間に対しては距離を置く――。それが生きていく上で本当にわれわれに必要なことである。しかし企業にとってそれでは都合が悪い!面倒事を文句なく片付ける奴隷がほしいのだ!

たしかに、「ガルシアの書簡」は魅力的である。しかしその任命が便所掃除だったらどうだろう。この国は草履を暖めた秀吉の話が美談として扱われる・・・。

おわりに
いよいよ書きたいことを書き尽くした。こういうめちゃくちゃに書き綴る日記は楽しい。翌朝見返すのが、また楽しいのだが。

1.20.2014

ぼくが伝えたいことはだいたいカントが言ってくれた

今朝電車のなかで、ひょんなことからこの文章を見てぼくは心打ち震えるのを感じた。ぼくがなぜ協調性を嫌うか。安逸を逃れるか。普通ではない道を進むのか。それをカントが代弁してくれたのだ。

◇非社交的な社交性
  自然が人間のすべての素質を完全に発達させるために利用した手段は、社会においてこれらの素質をたがいに対立させることだった。やがてこの対立関係こそが、最終的には法則に適った秩序を作りだす原因となるのである。対立関係(アンタゴニスム)という言葉はここでは人間の非社交的な社交性という意味で理解していただきたい。これは、人間が一方では社会を構築しようとする傾向をもつが、他方では絶えず社会を分裂させようと、一貫して抵抗を示すということである。この素質が人間の性質に内在しているのは明らかである。人間には、集まって社会を形成しようとする傾向がそなわっている。それは社会を形成してこそ、自分が人間であることを、そして自然の素質が発展していくことを感じるからである。
  ところが人間には反対に、一人になろうとする傾向が、孤立しようとする傾向がある。人間には孤立して、すべてを自分の意のままに処分しようとする非社交的な傾向もあるのであり、そのためにいたるところで他者の抵抗に直面することを予期するようになる。自分のうちにも、他者に抵抗しようとする傾向があることを熟知しているからである。この抵抗こそが、人間にそなわるすべての力を覚醒させ、怠惰に陥ろうとする傾向を克服させ、名誉欲や支配欲や所有欲などにかられて、仲間のうちでひとかどの地位を獲得するようにさせるのである。人間は仲間にはがまんできないと感じながらも、一方でこの仲間から離れることもできないのである。
  人間が粗野な状態から文化へと進むための真の一歩が、ここに始まる。文化とはそもそも人間の社会的な価値を本質とするものだからだ。こうしてあらゆる才能が次第に伸ばされ、趣味が豊かになり、啓蒙がつづけられることによって、ある種の思考が鍛えられるようになる。この思考によって、当初はまだ自然の粗野な資質によって善悪の倫理的な判断をしていた人々が、時とともに明確な実践的[道徳的]な原則に基づいて判断するようになる。そして当初は情念に基づいた強制のもとで社会を形成していたとしても、やがては道徳に基づいた全体的な社会を構築するようになるのである。
  こうした非社交的な特質はたしかにあまり好ましいものではないし、利己心にかられて思い上がったふるまいをする人は、こうした特性のために抵抗に直面せざるをえないものである。しかしこうした非社交的な特性がなければ、人々はいつまでも牧歌的な牧羊生活をすごしていたことだろう。その仲間のうちで完全な協調と満足を相互の愛のうちに暮すことはできても、すべての才能はその萌芽のままに永遠に埋没してしまっただろう。人間は自分たちが飼う羊のように善良であるだろうが、自分たちには飼っている羊たちと同じくらいの価値しかないと考えるようになっただろう。そして創造という営みが、人間のために理性を行使する大きな空白部分を残しておいてくれたというのに、理性的な本性をもつ人間が、その満たすべき目的を実現することはなかっただろう。


◇悪の起源
  だから人間は自分に協調性が欠けていること、互いに妬み、争いを求める嫉妬心をそなえていること、決して満たされることのない所有欲に、ときには支配欲にかられていることを、自然に感謝すべきなのである。こうしたものがなければ、人間のうちに秘められたすべての傑出した自然の素質は、永遠に目覚めることなく、眠りつづけただろう。人間は協調を欲する。しかし人類に何が必要であるかをよく知っている自然は、人間に不和を与えることを選んだのである。人間はくつろいで楽しく暮らすことを欲している。しかし自然が人間に望んでいるのは、怠惰で、無為なままに満足して暮らす生活から抜け出して、労働と労苦の生活のうちに身を投じることであり、智恵を働かせて、この労働と労苦の生活から抜け出すための手段を見つけることである。そのために用意された自然の原動力は、非社交性と、いたるところでみられる抵抗の源泉である。ここから多くの悪が生まれる一方で、これがさまざまな力をあらたに刺激して、自然の素質がますます発展するようにしているのである。賢き創造主はこのように手配してくれたのであり、悪霊のようなものがいて、創造主のすばらしい配置をこっそりといじったわけでも、嫉妬のあまり破壊したわけでもないのである。 

人間の本性。大地に生きるということ・・・。

哲学好きを気取っていながらカントは難解で読む気がしなかったのだが、この考えはすばらしいと感じた。ショーペンハウエルはこう言った。「詩人と、哲学者と、天才とは、孤独であるように、宿命づけられて居る」ニーチェは言った。「孤独にこそ全ての智慧がある。」またこうも。「大地は今もなお、大いなる魂たちのためにひらかれている。孤独なるひとりぽっちの者、ふたりぽっちの者のために、いまもなお静かな海の香りが吹き巡る多くの座がある。」ヘッセは言った。「孤独になること、自分自身になること、両親からはなれること、これらが子供から大人になるための一歩なのである。」

岡本太郎はいみじくもこう言った。「孤独であって、充実している。 そういうのが人間だ。」

これ以上ぼくがなにを言えよう。

断食芸人

断食二日目。

断食とは言っても、高カロリーの豆乳を飲んでいるのでプチ断食ではある。

断食一日目は豆乳と野菜ジュースを、二日目の現在はサラダ、豆乳を飲んでいる。というのも、最低限胃にものをいれないと胃が荒れるからである。突然食べ物の摂取をやめたところで胃液の分泌は習慣化されているのだ。こればかりはしかたないので胃粘膜保護の目的で豆乳を投入した()。

効果を端的に言えば、生存本能に目覚める。少なくとも怠惰ではなくなるし、つまらないことに気がとらわれなくなる。睡眠時間はより短くなり、一日を有効に使えるようになる。血圧と血糖値が下がる。胃腸障害が改善し、それは生活全般のクオリティを向上する。自然クマがとれ凛とした顔つきになる。疲れにくくなる。自分が特別だという感覚を得られる。食べることについて考えられる。「われわれは生きることについては考えるのに、食べることについては無頓着に過ぎるのではないか」とすら思う。当たり前だが、食費は安くなる。その分、上質な食事を摂ろうと思う。100円マックなどに食指が向かなくなる。

以上メリットは多方面にわたる。そもそもが過食をすすめた宗教はなく、悟りや神の啓示は空腹のうちにあらわれる。われわれは動物であって食べ物を摂取しなければ死ぬ。かといって毎日だらしなく食べていれば精神的にも死ぬのだと思う。

現代病の多くは過食からなる。糖尿病を取ってみよう。血糖値を下げるインスリンのはたらきが弱くなる病気だが、実は血糖値をあげる物質はグルカゴン、アドレナリン、コルチゾール、成長ホルモンと多数存在するのに対し、血糖値を下げる物質はインスリンしかない。
いかにわれわれの体は過剰なエネルギーに弱いかがわかるだろう。



どこまで断食を続けるかはわからない。少なくとも今もあまり食欲はないので、明日も続けようと思う。

ちなみに断食をするときは低血糖に注意。無理すると簡単になります。手の痺れ、ふらつきを感じたら低血糖です。ブドウ糖や糖分の入ったジュースを携帯しましょう。

ラノベと純文学の優劣性

ラノベ派と純文学派がネットのいたるところで闘っているのでぼくもこの件に言及したい。

まず前提としてタイトルに反するようだがそれぞれに明確な優劣はないと思っている。それは黒人が水泳が苦手だから白人に劣ることを意味するものではないのと同じで、それぞれ適所というものがあり、わざわざ同じ土俵で戦わせる必要はないということだ。

それではそれぞれの立ち位置はどこにあるのか。端的に言うとラノベは娯楽であり純文学は芸術である。純文学はラノベの娯楽性には圧倒的に勝てないしラノベは芸術性で勝てない。当たり前だがそれを見失っているひとが多い。

なお「ラノベだろうが純文学だろうが楽しければそれでいい」という考えもあるがそれは思考停止であって、その楽しさの源泉は娯楽から来るものか芸術から来るものかで異なる。現に純文学しか楽しめない者ラノベしか楽しめない者も一定数存在するのであり、楽しければいいというのは物事の表面をなでるような考えで結果的に他方を否定する偏見につながりかねない。

また「ラノベでも純文学に匹敵するものがある」「純文学もラノベだ」というような意見もあるがこれは不適だ。たしかに一部そういう作品もあるが、一部の例外で議論をまぎらわしてはならない。全体に通底するものとものごとの本質を理解して双方の違いを議論するこころがけが重要である。

芸術と娯楽の違い

では話の核心となる芸術と娯楽の明確な違いはなにか。それは自己目的であるか他者目的であるかの違いであると思う。いわずもがな芸術は自己目的的である。芸術の極致は自己の内面世界を探り出すことにある。多くの純文学は自伝的である。太宰の人間失格の書き出しは「恥の多い生涯を送って来ました。」である。

他方、他者目的的である娯楽は他者にどう作用するかを重視する。ラノベの究極目標とは売り上げや話題性にあるとぼくは感じる。「より多くの人に楽しんでもらう」という教条が根底にある。これはいささか商業主義的であり事実ラノベを好む人は売り上げを重視する傾向が強い。

これらの違いはいわば作品の内向性か外向性かの違いであって、二極が顕著であるためラノベと純文学の抗争が起きているのだとぼくは考える。

ぼくはジャズが好きなのでこういう例えを用いるがルパン三世などの有名曲を演奏して人気を博すジャズ・ミュージシャンがいれば、日の目を浴びず細々とストイックに自己の可能性を探究するひともいる。事実ぼくは完全に後者の類いだったのだがジブリやディズニーの曲を演奏するかしないかで大げんかしたことがある・・・。

なぜ嫌悪しあうのか

さて純文学派がラノベを嫌悪する理由はぼくには十分わかる。それは商業主義への嫌悪だ。ぼくらの生活はあれを買えこれを買えという扇動の波の中にある。それが良いことか悪いことかは別にして、純文学派の人間はそうした波にのって商品を楽しむことができない人間である。そしてひとにとって自分にとって真に重要なものはなにかと考えてしまう。無思考に楽しんでる奴を見ると肩を叩いて「それでいいのか?」と言わずにはいられない。

ある意味ルサンチマンとも言えるだろう。純文学派はラノベのブームの波にじっと耐えるしかないがそれに乗ってサーフィンを楽しめる者もいる。ラノベ派は精神的に強く、純文学派は神経症的であると言えるかもしれない。あるいはラノベ派は愚鈍であり純文学派は知的と言えるかもしれない。どちらでも良いのだがとにかく優劣はなく双方は違うということだ。

ラノベ派が純文学派を嫌うのはその閉鎖的なところだろう。芸術的な作品は商品的価値が薄く読んでいても必ずしも楽しめるものではない。ラノベ派にとってはそれを楽しむ人は「かっこつけ」のように感じるだろう。



まとめ

まとめよう。どちらも性質は異なり違ったベクトルに向いている。同じ文章という土台でも目指すものは違うということだ。それであれば、双方いがみ合う必要はない。ただ他方を認めて、興味があればついばんでみるのがちょうどよい。

こうした争いを見ていて思うのは「ひとそれぞれ」であり「争いは醜い」という傍観者的な立場からものを言う人が非常に多いことである。かれらこそぼくは危険な立ち位置にあると思う。熟慮の末の発言ならいいけど、物事を深く考えず離れてしまうことはもったいない。

思い切り他者を批判する方が未だよいのかもしれない。少なくとも他者を気にかけているのだから。無視もひとつの軽蔑である。

「友らよ、君たちは言うのだな、趣味と味覚は論争の外にあると。しかし生の一切は、趣味と味覚をめぐる争いなのだ。」

ツァラトゥストラはかく語りき。

1.19.2014

所得が低いことは悪いことじゃない

「所得の低そうな人ほど、牛丼チェーン店で”ごちそうさま”と言う」→炎上

端的に感想を言えば、なぜ炎上したのかわからない。どうも所得がないことが悪いことのように扱われているように感じた。

たしかに世の中所得が低い高いはあるだろう。格差社会なんて言われる。しかし低所得者がチェーン店での食事にも感謝を伝えられるというのなら、それは低所得者を貶しているというよりは褒めているのではないか。

所得が少ないことは悪いことじゃない。確かに同じ仕事して給料が高いならそちらの方がいいけど、好きな仕事をしているなら安月給でも構わないだろう。ぼくは一般的な大学生の半分くらいの生活費で過ごしているが、満足している。電気を止められることもちょくちょくだけど、金はなくても人生気持ちよく過ごせることを知った。

胸を張って、あるいはにっこり笑って「俺は貧乏だ」と言える人が少なくなったのだと思う。無尽蔵に金使って借金生活のこち亀の両さんのような。なにか貧乏であることが恥ずかしいこと、後ろめたいことのように思う風潮があるのではないか。

ぼくはこれは危険な兆候だと思う。労働者が資本家や金持ちに引け目を感じるということ。金がないというだけで、人生を台無しにしてしまうと恐れている人。金がないからと言って有意義な人生を送れないということは決してない。しかしそう”思い込む”ことで、それが実現してしまう危険がある。

たしかに資本主義社会の日本であればいささかしかたないという面もある。国としての"主義"なのだから文化や生き方にも影響をあたえるだろう。かつて「満足な豚より痩せたソクラテスであれ」と言われた東大生も没個性的なリクルートスーツを着て歯車になる。

貧乏人が主体性を喪失しないで、自信をもって生きていける国、それが真にゆたかな国だと思う。金がないことは不幸ではない。金がないからゆたかになれることもある。ぼくはそのことを声高に主張したい。


#なんか事件の経緯を読み返すと発言者があえて炎上を盛り上げてるように感じた。ぼくが嫌いなイケダハヤトが炎上ビジネスを云々いっていたから感化されたのかな。

土曜日の朝七時に起きられない者は奴隷である

さて、金曜日のあなたである。夜の七時頃、仕事を終えて会社を出たところ。月曜からの疲れでぜいぜいいっている。しかし気分はよい。なぜなら明日は休み。趣味に費やすも、寝転んで過ごすもよし。電車に乗る。家に着くのは八時頃。すぐ寝るのももったいないので、金曜日の夜を満喫する。ネットの動画に、テレビ番組。眠りにつくのは一時頃・・・。

目覚めると、昼過ぎ。のびをしたあなたは快いまどろみを味わうとともに空虚な気分になる。何かをするには遅すぎる時間。高く昇った日もあとはくだるだけ・・・。

そんな経験は多いだろう。せっかくの土曜日を、寝て過ごす。そして貴重な休日を台無しにしてしまう。

われわれは毎週同じような間違いをして改善しない。なぜ土曜日は早く起きてすがすがしい空気を味わい、自分のために時間を費やせないのだろう?

ぼくは言いたい。土曜日に早起きできない人間は奴隷である。奴隷であるとは、主人ではないということだ。何の主人か?自分自身の主人である。

なぜなら、あなたは土曜日に仕事があれば何だろうと起きるからだ。あなたは自分の命令よりも、会社の命令により従う。だからあなた自身は企業のものであって、あなたのものではないのだ。

自分のために生きられない人は不幸である。死ぬときになってあなたは思うだろう。初めの20年は、親のために生きた。残りの40年は、会社のために生きた。わたしはついに自分自身のために生きることはなかった!と。

あなたはこう言うかもしれない。私が土曜日に寝坊したところで、私は私一人の楽しみの時間を失うだけだが、仕事の遅刻はみなが迷惑を被るのだ、と。
あなたはこう言うかもしれない。私は自分のために生きなくてもよい。他人のために生きること、それが私の喜びだ、と。

しかしぼくはこういう。自己があっての人間関係だ。主体なき共存、それはただの群れだ。堕落だ、と。

自分のために生きよ!つまらない労働とちんけな報酬で飼い慣らされるな!安逸を嫌え!苦しみの中に美を見よ!他者の軽蔑の中に真理を見よ!今に生きよ!それが生きるということだ!

「自分が自分に与えることのできる善以上に大きな善を知らず、真の快楽とは快楽を軽蔑することと考えよ」

セネカは二千年前にそう言った。

なお、あなたはまたこうも言うかもしれない。私は仕事以上に意義のあることを見つけられない。だから土曜日は寝ることで時間をつぶしたいのだ、と。

このような人には、ぼくは沈黙するしかない。




土曜日を寝て過ごすぼくへのいましめ。

TEDに思うネットビジネスモデル

TEDがすばらしいなあ、すばらしいなあと思う昨今である。

あれだけの名演はどのように行われているのだろうか。あのクオリティ、撮影環境はどのように維持されるのか。

何かすばらしいことをしたくても、金がなければどうにもならない。TEDを見ていても、OPにロゴが出る点と、最後にCMが流れる点を除けば広告はない。これでは小遣い程度の金しか入らないだろう。

元来、WEBの収入と言えば広告が主流だった。しかしそれは汚い広告のロゴ、見るものの目をそらすものになりかねない。
Wikipediaによれば、
TEDの運営に必要な資金は、会員の会費、そして講演会の出席費、そしてスポンサー企業からのサポートによって支えられている。
とある。
会員の年会費は7,500ドル!!75万円である。しかしそれだけの金を払っても生の講演を見たいという人が絶えないのだ。

・・・

人は本当にすばらしいものにはいくらでも金を払うということだ。iPhoneが売れた理由は、アップルが売ったのがひとつのマインドだったからだ。それはシンプルで統一され、完成されたもの。

ビジネスに際して、われわれは虚像を売ってはならない、と思う。エロ動画も、酒も、カップラーメンもいらない。本当に必要なものは何だろうと考える必要がある。

一日断食したことがあった。ただの思いつきである。それで、空腹のままスーパーに足を運んで、軽くショックを覚えたことがある。色とりどりの商品はただの袋に入ったがらくたにしか見えなかったのだ。ぼくらに必要な商品がいかに少ないことか!

ポテトチップス、チョコレート、ジュース、ソーセージ、ワイン。あらゆる客が、あらゆる不要なものをカゴに詰め込んでゆく。ぼくは狂気を覚えた。あのときの感覚では、必要なものは野菜、肉、魚、米、パン、卵・・・あとはせいぜい塩くらいだった。それ意外はいらない。

第一、ぼくらは余計なものを食べ過ぎている。5大慢性疾患である高血圧症・糖尿病・慢性腎不全・肝硬変・慢性膵炎、全て食べすぎ飲みすぎの病気である。豊かになったぼくらは富める病人である。

人間に本当に必要なものは限られている。しかしそれでも不必要なものを買わせるにはぼくらの感覚を鈍らせなければいけない。あるいは恐怖を根付かせなければならない。酒は楽しくさわやかなものですよ、保険に入らないと大変ですよ。Fランク大学に漫画専門学校。

僕は断言したい。この類のビジネスは崩壊すべきだ。消費者に不幸しかもたらさないからだ。しかし、不思議なことに消費者は満足げではある・・・。空虚な金の取引に生まれる共犯関係。


話がそれてしまった。すばらしいものを作ろう。すばらしいものを考えだそう。そうすれば必ず金が入る。我々に必要なものは金よりもアイデアである。あるいは、金さえいらないのかもしれないが・・・。アイデアを得るためには、目覚めていなければならない。ぼくらはつまらない仕事とちっぽけな報酬で飼い慣らされてはならないのだ。目覚めているということは爽やかだが、敵は多くなる。苦しみよりも美しさが多いにせよ。

満足した豚よりも、痩せたソクラテス。知の誇り。

1.16.2014

コミュ力偏重主義に思う

大衆向けの書物はすべて汚臭がする――ニーチェ

最近モノを書きたい気持ちはあるのだが多忙すぎていけない。人間には自由な時間がもっとも必要だと思う。

さてコミュニケーション能力というものが相変わらず重視されている日本社会。これはぼくには気にくわない。

これはある意味「わかりやすさ主義」である。誰にでもわかる平易な文章、言葉がありがたられる。これらは民主主義の弊害なのである。

民主主義はわかりやすさへの志向であり、平等とはひとびとの均質化を強いるひとつの強制である。民主化運動は常にわかりやすかった。Goverment for the people...の言葉も、大衆受けがした。マルコムXのスピーチも非常に平易な文章であった。で、それを利用したのが小泉一郎だった。

結果として難解なものの権威は崩壊した。哲学は中二病に、純文学は言葉あそびに、現代アートはガラクタに、科学者はただの専門オタクとかした。
楽しい・わかりやすい講義をする教授は学生に媚びてるとバカにされたが、今では違うだろう。より尊敬されるだろう。

今はジャックランシエールがいったように、「医師と患者が対等になる」ような歪んだ社会である(ぼくは断言するが、よい治療を受けたければ医師を尊敬し尊重すべきだ)。平易な表現は人間を平易にする。ひとびとは交換可能な歯車となった。

だれにでもわかる文章に価値はない。そんなつまらないものに意味はない。だからセネカは大衆を避けよと言ったのだ。僕たちは均質化の波に打ち勝たなければならない、と覚悟を新たにした。

1.14.2014

「人間嫌いの言い分」を読む

長山 靖生作、人間嫌いの言い分を読む。

彼もまた、ユングと同じく「外向型」「内向型」に分類している。文中では「つるみ系」「人間嫌い系」となっているが、大体変わりはない。

長山は日本ではあまりに「つるみ系」が多いとし、また真の幸福は人間嫌いにあるとする。いささか「つるみ系」への悪態がひどい気もするが、たしかに人間嫌いであることは悪であるような扱いを受けてきたので、こうした「言い分」があることもしかたない。

彼もまた「無理して外向型になろうとするなよ」と指摘してる点ではスーザン・ケインの「内向型人間の時代」と同じだと思う。ただアンソニー・ストーの「孤独」のように文豪の例えが多い。本を書くことがそもそも反社会的であるとあったがそのとおりだと感じる。

本著では心理学や精神分析学からのアプローチはないがやはり「人間嫌い」であることはある種の異常、障害ではあると思う。幼少期のトラウマや発育過程の異常などに神経症や対人恐怖を還元できることは多い。しかし「完全」な家庭などないように人は多かれ少なかれ人間嫌いであり、そもそもの話、人間は本質的に孤独と社交の間を行き来する生き物だと思う。

であるから、人は孤独と社交のバランスをいかに取るべきかということになる。孤独に徹すれば精神を病み、反社会的行動を犯しやすくなる(社会を軽視するので当たり前)。しかし社交に徹すれば空虚な人生になる。現代社会の風潮では、「孤独」とは忌み嫌うべきものということになる。

本書でいう「つるみ系」はとにかく管理しやすいものである。空気を読むことができ、大それたことをしない。教室では人気者で、会社では従順な労働者になる。当然管理者からの評価は高い。つるみ系が社会的に是とされることにはこうした背景もある。

一方、孤独というとどうも辛気くさい。離別の苦しみ、社会からの疎外、自己不全の疑念。だから孤独の穴を埋めようとみんな必死だ。テレビにかじりつき、ラインで他者とつながりあう。しかし、孤独が嫌われるのはほんとうの自己の欲求を恐れているからかもしれない。

それは集団の中に埋没しない人生もあったのではないかということ。他者との関係のなかで自分の尊厳を失わせてきたのではないかということ。われわれが美徳としてきたものは実は奴隷の鎖だったのではないか、ということ。

我々にとくに求められるのは、自己の内なる欲求に従うことである。これは宗教的な意味ではないが、重要なことなのでだいたいの宗教のテーマでもある。だから「孤独」を安易に恐れることなく(反対に孤独者は社交を恐れず)、それぞれに向いた良き生を送ることが重要なのだと思う。ほんとうに人間のこころというのは、自己をあざむきがちだから!

1.13.2014

TED

 私が信じる世界とは誰かの目を見て「地獄を体験している」と話したら、見つめ返して「私もだ」と言ってくれる世界。 これで良いんです。
ケビン・ブリール(鬱病をわずらうコメディアン) 

僕たち(いじめに苦しむ若者)の人生はずっと― ずっと続く綱渡りだ 苦しみは少なく 美しさが多い 綱渡り ( シェーン・コイザン )

TEDが最高におもしろい。

思うのは、いままでマジョリティに抑圧されてきたマイノリティの叫び声がスピーチという形になって噴出されてるものが多いな、と感じる。上記の二者はいじめられっ子、鬱病患者というまさにマイノリティ。マルコムXしかり、社会の不等と闘うっていうのは信じられないエネルギーを生む。(鬱病患者が差別されてるという実感がない人もいるだろうけど、岡村隆史が精神わずらったときたいていの人はおもしろおかしく笑ったものだ。)上にあげた二者ももはや芸術と言ってもよいスピーチを成し遂げ、総スタンディングオベーションであった。

学術的な報告も多いTEDだけど、やっぱりスピーチというのは自分という人間をぶつけることに意味があるんじゃないかと思う。訴えることに少しでも自信がないとそれが透けて見えてしまう。反対に、それさえなければ絶対にうまく行く。小手先のテクニックは自信のないときにだけ有効、のような。理想論だろうか。

ともあれ、こんなすばらしいスピーチがいつでも見られるなんて至高の喜びである。訳されているものだけでも全て観ればどんなアホでもきっと人間が変わるはずだ。

1.12.2014

人生の短さについて To Eu Zen

セネカの「人生の短さについて」を読む。セネカは前4年生まれのギリシャのストア派哲学者。

自分の銭をわけてやりたがる者は見当たらないが、生活となるとだれもかれもが、なんと多くの人びとに分け与えていることか。
生涯をかけて学ぶべきことは死ぬことである。
多くの大偉人は一切の邪魔者を退け、財産や公職も快楽も捨てたうえ、ただ、いかに生きるかを知ろうとする、このことのみを人生の最後まで唯一の目標とし続けた。
どんな時間でも自分自身の必要のためにだけ用いる人、毎日毎日を最後の一日と決める人、このような人は明日を望むこともないし恐れることもない。
彼らは良い生活ができるようにと、多忙を極めている。生活を築こうとするのに、生活を失っているのだ。
過去のときは、諸君が命じさえすれば、そのことごとくが現れる。心配事のない平穏な精神は、その生涯のあらゆる部分を走り回ることができる。しかるに多忙な人の心は、まるでくびきにでもかけられているように、首を曲げることも後ろを見ることもできない。
君は自分を衆人から切り離すが良い。
とはいえ私は君を怠惰な、あるいは退屈な平穏に招くのではない、君は今まで熱心にしてきたすべての仕事よりも、もっと大きな仕事を見つけるであろう。君は退いて心静かにそれを実行するがよい。
君が若年の頃から、学問研究のあらゆる修行で勉強してきたことは、巨大な量の穀物が君の良好な管理に委ねられるためではなかったのだ。
だれかれを問わず、およそ多忙の人の状態は惨めであるが、なかんずく最も惨めな者といえば、自分自身の用事でもないことに苦労したり、他人の眠りにあわせて眠ったり、他人の歩調にあわせて歩き回ったり、
何よりもいちばん自由であるべき愛と憎をとを命令されて行う者立ちである。



僕はいよいよ、人生の1/3を過ごしてしまった。このうち、ほとんどを眠ったまま過ごしてしまったのかもしれない。ろくに本も読まず、うちなる声を無視し続けてきた。しかし今はこうして目覚めているのだから、それは今への布石だったと言えるかもしれない。

今までの人生を、二度繰り返せば死が訪れるというのはひとつの感動である。しかもそれは順当に死の危険を逃れればの話であって、交通事故や病気でぽんと死んでしまうかもしれない。

死を前にすると、すべてのことが些末に思えるものだ。僕は今就職をしようとしている。40年の勤労人生、それがなんだろう?僕らはなんのためにはたらくのか?

ひとつにもっともらしいものとして、子どもがあるだろう。おおよそ十分な教育というものに金がかからなければ、ぼくははたらきたくはない。これは日本という国に生きていく以上、しかたのないことだ。子どもができたとして、そのときにこの子はじゅうぶんな教育が受けられず不幸な思いをするだろう、と考えることは避けたい。

しかしそれ以外であれば、ぼくは自分の人生を優先させたい。ぼくにとってもっとも貴重なものは、金やモノではない。たしかにぼくはバイクが好きだが、ボロの安物を買ってきてこつこつ仕上げるのが好きだ。タイヤがふたつにエンジンがあればよいであって、ハイテクな機構や厳密に計算されたサスペンションなどにはあまり興味がない(もちろんたまに熱情を持ってYZF-R1のようなモンスターマシンに興味を引かれることがある!!のだけど)。

ぼくにとって必要なもの、それは時間を豊かにするものである。たとえば海外旅行なんていうものは、その一日一日に日常生活の何ヶ月分かの価値がある。また静かで清涼な環境というものは、読書の楽しみを倍加してくれるものだ。また優れた音楽は本にはない啓示を与えてくれる。絵画に関しても、その鑑賞にあてる時間はまったく豊かなものだ。

反対に、金も時間を浪費させるものがある。それはまずどうしようもない連中との飲み会があげられるだろう。他に、Fランク大で過ごすことや、アニメ専門学校などについても言える。あるいは高級バイクを買って、ごてごてカスタムするのに、傷や盗難を恐れてろくに乗らないことなど無駄の極みであると思う。

たしかに高年収をのぞむこともあるが、それは金によって何かをしたいからではなく、金から離れるためである。

ぼくのまえまえからの願いとして、お手伝いさんを雇いたいというものがあった。ぼくは時間を使って金を得たいのではない。金を払って時間を得たいのである。

週4日はたらいてあとは教養的余暇に費やす。あるいは年に半分はたらいて残りは世界を知るために使う。こうした充実した人生を送りたいと思う。

そのためには、良妻が必要だとぼくは思っている。つまりぼくが人生を自由きままに楽しむことを、自分の楽しみとできるひとである。これ、なんかすごくショッキングなことに聞こえるなあ。

「男性は闘いのために教育されなけらばならない。そして女性は戦士の休養のために教育されなければならない。それ以外の一切は、愚劣である。」

ツァラトゥストラはかく語りき。

 男の闘いとは労働だろうか?ぼくはそうは思わない。労働は安逸なものだ。会社というのは組織であり、組織は構成員をほんとうの問題から目をそらす作用がある。労働とは上層部の手となり足となることであり、自分のほんとうにしたいことと向き合うことではない。自分と向き合うこと、それが闘うということだ。

ではそんな夢想家を愛せる女というと多くはないだろう。自分は働いているのに、なんでこの人は稼いでこないのだろう――不要な男女平等論の弊害!

ぼくははっきりと言いたい。女の喜びとは、男の喜びである。Es muss sein! そうでなければならない。男の喜びは独りにあり、そして女は単独では幸せになれない。

だからぼくの感情というか本質というか、労働や贅沢を忌み嫌う性格を理解してもらえる女性がほしい。これは贅沢だろうか?なんか社会通念的に見ると、すごく滑稽であることは自負している。

話が飛躍した。

いちおうブログの記事として書評の体をとっているのに、自分の思ったことをつらつら書きつらねるってどうなのかなと思う。しかし西田幾多郎の哲学のように、自分の本流・芯に対しその反発こそ事象であることであれば、おおよそどんな本か理解できるというものではないか。書評を書こうというとき、書評ではなくなる皮肉。すべての書評はぼくを見習えい。

1.10.2014

タバコの全面禁煙は自由からの逃走である

最近のタバコの全面禁煙すべきではないかという意見について。

これは誤りだ。われわれには自分の健康を害する権利がある。ぼくはなんども言っている。われわれは自分の生と死を自分の手中に収める権利がある。これこそが人間の自然権として敬うべきものである。人間の宿命とそれに対立するもっとも巨大な壁、生と死を、全人的に味わう権利がある・・・。

飛躍した。

つまりだ。人には自分の健康を害する権利もあるということだ。安逸の中に生きることだけが人生ではない。われわれには「自分の健康を害してタバコを吸う」権利くらいある。タバコは他人にも迷惑をかけているぞ、と言うかもしれないが、今の社会は十分副流煙の被害が避けられるよう考慮されている。それに、少しの副流煙ではたいした害はない(ガポガポ副流煙を吸ってた世代が世界でいちばん長生きしている)。

最近の健康史上主義にはうんざりする。70年よりも80年、80年よりも90年生きることが理想とされる。それはただただ、病気が「厄介」であり、「面倒毎」だからに過ぎない。病気によって妨げられる使命などないし、本当の幸福などない。かといって、彼らは死と闘っているのではない。「死を厭う価値観」と闘っているのである。かれらは世間一般の価値観によって、不健康は悪、と決めつけているのである・・・。

たしかに若年で命を失う人は哀れだと思う。「聞けわだつみのこえ」などの学徒兵の手記を見ていると、彼らが生きていれば日本がどれだけ変わっていただろうかと思わざるを得ない。しかしほとんどの人間には60年も生きる価値はない。だいたいにして、健康に気をつかう人間ほど生きている価値がない。


失礼、酔っ払っていた。個人的な都合により死に近い老人を見る機会が多いのだが、生きることの意味を考えずにはいられない。われわれは腕も足も細り、つねにもうろうとして、多量の薬剤と点滴のチューブにつながれながらも、生きることを望むだろうか。

社会に生きるか創造に生きるか

成長できるから御社に入社したい!」という人は多い。

しかし、人をもっとも成長させるのは孤独の源泉からである。他者に揺りうごかされなければ目覚めぬひとを僕は哀れに思う。そんなニヒリスティックな考えであるから、きっと社会は僕を見捨てるだろう。僕の前途は暗いのかもしれない。

しかし、考えてみてほしい。人間はなぜ生きるのかということ。金をつくるためでも、子孫をつくるためでもない。「生きているから」生きねばならないのであり、生そのものが金や欲情に犯されてはならない。この絶望的で神経質な考えがぼくを支配している。

大企業に入社し、40年の勤務。子どもは大きくなり、妻と不自由ない生活を歩む。痛みも悲しみもない生活。すべては快い日光に照らされている。40年前の鬱屈したブログはwebという大海に忘却されている。やがて病魔がぼくを襲う。ふたたび認識する死、そして生。そのときぼくはこう思うだろう。「なにもかもまちがっていた」。

第一、どんな「大企業のお偉いさん」であっても、たいていは100年もすれば忘れ去られる。その功績も思想もなかったものと同じになる。ぼくが本と孤独と内面世界にのめり込む一方で、人を尊敬すること、社交のよろこびを忘れてしまったのはそういうところに理由がある。

ひとはけっして安逸など求めるものではない。今日の若者の「大企業志向」「安定志向」は非常に残念な傾向だとぼくはかんがえる。21才そこらにして、かれらは死ぬことを決意しているのだ。

金、安定、それらになんの価値があるだろう。しかしそれでもかれらは幸せである、なにしろ彼らは生きる前に殺されている――目覚める前にまぶたを縫われたのだ。過剰適応。主体の喪失。奴隷の鎖自慢。

ひとはもっと、なりふりかまわず、直截に、本能的に生きねばならない。自由の高貴さを忘れてはならない。生と死のみに生きねばならない。ニーチェ風に言えば、大地に生きるということだろうか。蛆虫に、余計な人間、おしまいの人間に、死の説教者に、なってはならない・・・。

最近また「ツァラトゥストラ」にはまっている。いったいこの本は、哲学書というにはあまりに聖書じみていると思う。こうした書がナチスの将校たちに人気だったというが、なんだか似合わない。ドイツ哲学というよりはインドの聖典バガヴァッド・ギーターを読んでいる気分になる。凝集された知。読むほどに大きい感動。

善人も悪人も、すべての者が毒を飲むところ、それを私は国家と呼ぶ。善人も悪人も、すべてがおのれ自身を失うところ、それが国家である。すべての人間の緩慢なる自殺、それが「生きがい」と呼ばれるところ、それが国家である。
 
この余計な人間たちを見るがいい! 
 かれらは創意ある人達の所産や賢者たちの数々の宝を盗み出し、この窃盗を教養と呼んでいる。しかもこうした一切がかれらの病気となり、災いとなっている!
 
この余計な人間たちを見るがいい!
 かれらは常に病気である。かれらは胆汁を吐き、それを新聞と呼ぶ。かれらは、お互いを貪り食い、しかも消化することもできない。
 
この余計な人間たちを見るがいい!
 かれらは富を手に入れ、それによってますます貧しくなる。かれらは権力を欲する。そこでまず権力をつくりだす鉄梃である、おびただしい金銭を求める、この無力なものどもは!
 
かれらがよじ登って行くさまを見るがいい。この敏捷な猿どもが!
 かれらはおたがいの頭を踏み越えてよじ登りつつ、お互いを泥沼に引きずり落とそうとする。
 誰もかれもが王座につこうとする。これがかれらの狂気だ、まるで幸福が王座にあるかのように!だが王座にあるのはしばしば泥にすぎない。また王座がしばしば泥の上に乗っていることもある。

社会にとびこもうという大学生であるから――そもそもぼくは大学生は社会人だとおもっているが――こうした文章には敏感にならざるをえない。

かといって、気持ちいい距離感というものもある。けっきょく、ぼくは社会からまったく隔絶された環境にいれば気が狂ってしまうだろう。この神経質な人間であって、社会から逃れることはできないのだ。いまだって、学生というある程度大義名分のある身だから好き勝手言えるが、これが無職でぽつねんと生活していたら、同じことが言えるかわからない。ほとんど病的な熱情でもって社会との接触を求めるだろう。

きもちの悪い、しかし直截な感情を吐露すればぼくは不特定多数の視線にさらされながら読書するとき、もっとも集中できる。スターバックスのような環境で仕事をするとはかどるのと似た感覚である。
ああいった喫茶店は、社会の縮図であると思うのだ。おのおのが自分のしたいことをしている。社交、仕事、勉強。しかしそこにはつねに大衆としての他者の視線がある。主体的なあるがままの自分と、他者の目からの自分を同時にみつめている。あるいは自分の行動を他者の目の中に見つけるとき、人はもっとも充実した生を受けられるのかもしれない。
となると今まで考えた孤独論や、非社会的生の肯定と矛盾するようだ・・・。しかし森で隠遁生活をおくったソローですら、ある程度の社交はあったのだから。サルトルの「嘔吐」の主人公は、実に喫茶店好きであった。
いわば、自分という人間の社会における居場所を再確認する過程だろうか。

ぼくは非常に内向的な人間であって、スピーチは大の苦手である。しかし以下の文には妙に共感を覚えるのだ。「自分はスピーチを終えたとき、自分が完全に適応しており、まったく非の打ちどころのない成熟した人間だと感じるのだ」――たしかこれはカーネギーの「話し方教室」にあった文だと思うが。


社会との付き合い方は難しい。許されるなら気の向くまま離れていたいのだけど、それはなかなかに許されるものではない。昭和初期の高等遊民の身分が、非常にうらやましい・・・。

1.09.2014

美にして崇高なるもの

美にして崇高なるもの――

ドフトエフスキーを40年間しばり付けた言葉。


美とはなんだろうか。
なぜ人は美を求めるのか。
それはプラトンの言ったように、正確無比な幾何学、ものごとの本質だろうか。

ものごとの本質とはなんだろう?

われわれが生きていること、われわれが必ず死ぬことだろうか。


坂口安吾を読んでいると、こんな話があった。宮本武蔵が仕えていた殿様が、武蔵に「お前の尊敬する者はあるのか」と言った。武蔵は「ひとりあります」と言い、みすぼらしい下級武士を連れてきた。その下級武士は剣術においてまるで才能がないことで有名だった。武士は言う。「私は自分に剣の才がないことはわかっている。だからせめて死の恐怖に打ち勝とうと鍛錬している。寝るときは額の上に白刃を吊す。今では死ぬことは怖くないし、いつ死んでもよいと思っている。」

あの武蔵であっても、死の恐怖には打ち勝てなかった。
死を超越するものは、なにものをも超越するのではないか?人間は生まれたものであり、死にゆくものである。それ以上でも以下でもない。

フロイトはエロスとタナトスをあげたが、やはり人間をより強く束縛するのはタナトスだろう。
エロスとは、この世に生きた証を残したいというあがきではないか。人体においても、細胞は無数に死にゆくが、その全体としては生き続ける。赤子。創造物。社会的遺産。

岡本太郎はフランスのインタビュワーに子どもはつくらないのかと問われ、こう返した。「芸術とはそういった簡単な創造を捨てることだ。」

子どもを産むこと、育てること。これは普通一大事業であり、おおよそほとんどのひとにとって人生でもっとも強烈な体験ではないだろうか。
それを太郎は、創造の一過程とした。岡本太郎は本物の怪物である。芸術に、美に生命をささげた敬虔な人間。

それはさておき、創造的生活に生きていれば子どもなんて作る必要はないのかもしれない。創造の苦しみは産みの苦しみだ、とショーペンハウエルだかが言っていた。近年の少子化の原因は知らないが、これはある意味人類の総合的な"心変わり"なのかもしれない。

創造は死の恐怖から生じるのであり、美とは強烈な生の発散である。ハイデガーを持ち出すまでもなく、人は死を見つめて初めて生きることができる。目覚めていることとは死をも包括した視野をもつことである。「人間が初めて抽象的な思考法を獲得したのは「死」という極めて現実的かつ抽象的な,解り難い内的事実を目の前にした時だといわれている(引用元)」

死、終着点。活動の停止。闇。肉体と精神の分離。

葉隠にこんな一文があった。「朝毎に懈怠なく死しておくべし」人は一日のうちに生と死を繰り返す、というが。一日一日が人生の繰り返しであるかもしれない・・・これは陳腐な文だな。
葉隠に関連して、三島由紀夫の美しい一文を紹介したい。「獅子が疾走しているときに、獅子の足下に荒野はたちまち過ぎ去って、獅子はあるいは追っていた獲物をも通り過ぎて、荒野のかなたへ走り出してしまうかもしれない。なぜなら、彼が獅子だからだ。」

獅子は死を認識しない。しかし人間は死すべき存在であることを自覚している。これこそがキリスト教の言う原罪である。知恵の実を食べた人類の罰。であれば、死を認識していることが人を美に惹きつけるのだろう。獅子は芸術を理解しない。しかしわれわれは獅子に美を見出すのである。

神、イデア、不死なるものへの憧憬。ヘラクレイトス曰く、「死すべき事物よりも不滅の誉れを」。


死の時期を自分で選ぶということ。それは死を超越することである。私は死ぬとなれば自殺したいと思う。




1.08.2014

そんな「逆立ちした世界」なんて消え失せてしまえ!

集団に疑問をもつということ。周囲と同調しないということ。

内面世界と向き合う時間を、社交の時間より優先させること。

内面世界はたまにあなたに表現を要求するが、それが制限されたり、ゆがめられたりしてはならない。その障壁をできるだけ除去すること。そのためには、社会と距離をたもたねばならない。あなたの人生にとってもっとも貴重な瞬間は、孤独でなければならない。

人は平等ではない。大多数は目覚めてすらいない。これは選民思想ととられても構わないが、事実として真理はつねに少数派にある。社会がゆたかになり、生きていく上で大きなリスクもなくなった。するとひとびとは目覚めていることも忘れてしまった。あいまいな微温の中で生きてはならない。目覚めたときには遅すぎた・・・、ということもある。

ニーチェはこういった。
「人生に背を向けた多くのものは、実は賎民に背を向けたのであった。」「高貴な者は万人にとって邪魔者である。」

憎悪は善である。憎悪は創造を産む。現実に満足するものは理想をもたない。理想あっての現実主義である。理想なき現実主義はただ目を閉じているにすぎない。

内面の衝動を、繊細な衝動を見逃さないこと。そのためには、静かであること。それでいて、多くを経験すること。頭をフルに働かせ、十分に休ませること。

精神は金以上に貴重な財産である。豊かに育てた精神の見返りは計り知れない。一方で、簡単に堕落してしまうのも精神である。それは人間の適応本能の結果であり、それを避けるために孤独に沈湎し、内なる声に耳を傾けなければならない。

悔恨のひとこと。「いつか与えられるーこれもまた忍従の教えである。しかし安逸な人びとよ、わたしはあなたがたに言う。奪われるのだ、あなたがたは、ますます奪われるだろう!

1.04.2014

Let's be a Mensan

http://www.iq-test.com/free-iq-test/

お前のIQは133~149だろう、と言われた。
別の試験では151だと。

IQ Test
IQ Test


しかしいろんなサイトのIQ問題を解いているので慣れの要素が強い。(別のサイトでは126とかだったので)

メンサという組織がある。IQ130以上の者が集まる会で、なんかフリーメイソンと似たような「怪しい組織」臭がする。しかし実際には簡易なIQテストでだれでも入れるオープンで公正な組織であり、頭の回転が速い人同士の社交場というニュアンスが近いようだ。活動も定期的な飲み会や、海外のメンサとの交流などで世界を裏から動かすようなことは話し合わない。

IQが20違うと話が通じなくなる、とは言われるが、もしそうであればIQが高ければ高いほど孤独になる。IQが150あれば、少なくとも受け手のIQが130はないと会話に障害が生じる。だから、そうした孤独を埋め合わせる会と言っていいかもしれない。いわば自助会みたいな。

ちなみにIQ130というのは特に珍しい数字ではなく、100人いたら2人は入れる数字らしい。僕自身、IQ130あるかはわからないけど、受けてみたいなと思う。

メンサ会員になれば、いろいろと楽しめると思うのだ。とかくわれわれは知性の権威に弱い。テレビでは専門家のいうことは絶対だし、早稲田大生は東大生を見て小便をもらす。だから、メンサの会員カードをちらつかせるだけで人生が有利にはこぶ機会もすくなくないはずだ。

たとえばぼくが会社をたちあげるとして、社員や株主に「ぼくはMensan(メンサ会員)なんですよ」といったらどうなるか。社員は得体のしれないダークフォースをぼくに感じるかもしれないし、株主はこいつならできると思うかもしれない。

僕自身、IQというものは知能との相関性はうすいと思っている。しかし社会的にIQへの関心は高いので(入社試験などはIQのテストが多い)、これを利用した方がいいと思うのだ。

僕はIQをバカにしている。なにがIQだ、そんなもの不要だ。しかしバカにするからこそ、乗り越えなければいけない。乗り越えるとは、利用することだ。IQが低い、俺はバカだと思ってるひとは、IQに利用されているのである。

僕は金も利用するし、大企業も利用してやろうと思っている。そのついでである。

1.02.2014

陰謀論者のすすめ

最近陰謀論が楽しくてしかたない。

陰謀論のたちの悪いところは、けっして否定できないということである。たとえばAくんが自室からB地点に向かうとして、その理由はAくんがBのマックで食事をとりたいからかもしれないが、Aくんの部屋に不快電波が流されていたかもしれない。あるいはAくんの部屋のなかに、「Bへいけ」と洗脳できるメッセージがしこまれていたのかもしれない。

しかし普通に考えればAくんはBに行きたいから、つまり"主体的な意志"をもってして移動するのである。だから陰謀論者はそもそも、Aくんを主体的意志をもたない「奴隷的人間」だと思っているか、あるいは意志のつよいひとでも容易にねじふせる、強力なマインドコントロールが実行されていると思っている。

陰謀論者が一般的にきらわれてしまうのは、前者の考え方をする人が多いからだ。ようは自分以外はバカばかりで、自分だけは真実を知っている、というような発想である。こうした人はつねに周囲を見下しているので、「ユダヤ人が世界を牛耳っている」などの「少数の人間が多数の人間をコントロールする」という話にめっぽう弱い。

ところで、陰謀論が大好きな僕はどちらに属するかというと、とうぜん前者である。マキャベリとか、ニーチェとか、その辺を読んでいるのだから(察し)である。というか、たいていの賢人は人間のおろかさを嘆いているのであり、(僕がおろかである可能性はけっして否定できないにせよ)人間にはあるていどの差があると考えた方がいい。だから僕はシオン議定書など読むと、おびえるよりも少し興奮した。

そんな僕であるので、陰謀論は大好物であって、いまでは「世界を牛耳る悪の組織」なんて話をさがしまわっている。しかし陰謀論といっても、それをあたまから信じるようではいけない。たしかに、3.11も9.11もうさん臭いところはある。しかし自然発生説、テロリスト説をまず念頭に置いて、それと比較検討するのが正しい。

いっぽうで陰謀論と聞くとすぐに耳をふさいでしまう人がいるけど、こういう思考はまったく危険であると思う。実際に陰謀が行われていれば、単に都合のよい人びとである。また陰謀の発生しやすい土壌をつくることにもなる。

われわれはたくさんの可能性を考えることになれていないのだと思う。さまざまな仮説が流れている中で、「これが事実だ!」とバーンと示されると、つい信じてしまう弱さがある。

必要なことは、全ての可能性についてニュートラルな目で判断することである。残念ながら、少しでも陰謀論の可能性をほのめかすと「陰謀論だ」として叩かれてしまうので、こうした中立的な立場は陰謀論者となってしまう。だから、われわれは陰謀論者にならなければならないのだ。そのなかでも、賢い陰謀論者に。それが目覚めているということなのである。

1.01.2014

明けましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。

今年は2014年。2013というなんとも切りの悪い数字(せめて素数なら良かった!)からようやく落ち着ける数字になりそうです。(2014,2015,2016はどれも良い数字だからしばらくは安泰だ)

当ブログは開設から一年経ち、記事数は77となっている。まあこつこつ書きためてきたけど、いまだコメントはなし、日本より海外からの来訪者が多いブログである(つまりほとんど読まれてない)。

しかしこんな孤独は澄んだ空気のようであって、実に心地よく文章が書ける。

僕は毎年、年越しは実家で過ごすのだけど、0時近くになると人とは違う儀式をしている。テレビもない、電球ひとつの薄明かりの下、正座して大鏡に映った自己と体面するのである。そして過ぎた一年とこれからの一年を想う。なんともキザっぽいけど、友達とわーわー騒ぎながらとか、テレビ番組を見ながら過ごすよりもぴしっと心が引き締まる気がするのだ。

2013/1/1/0:00に書かれた日記にはIn your own sweet wayとあり、その通りに生きられればと思う。