2.27.2014

”原父的”な若者とその他大勢の年長者

すべてのひとはふたつに分けられる。すなわち戦士と詩人とに。


というようなことをギリシャ時代のだれかが言っていた。これは非常に的確な表現であって、二千年のあとにユングが「内向型」「外向型」の言葉を用いて内容を固めた。もちろん戦士が外向的、詩人は内向的である。この双極についてはゲーテも言及している。君は外に真理を求めるが、僕は中に真理を求めるというような。

しかしぼくが考えるに、詩人は戦士的であり、戦士は詩人的である。そうであるなら、詩人=戦士に対し、「なにでもない」おしまいの人間たちがいるのではないのか。つまり目盛りを左右においたのが先に述べた分類であり、上下にわけたのがニーチェなのである。ニーチェはキリスト教を批判したが、確かにキリスト教の"隣人愛"は上下区分とは相容れない。

こと人間の観察というものはおもしろい。多様性こそ人間の本質であるというような気もするし、宗教家のように内なる自己を追求することが正しい人間と考えることもできる。

さて、最近なんとはなしに精神医学についての本を読んだのだけど、興味深い話があったので紹介したい。

人は本来集団的な生き物である
集団の心理とは最古の人間心理である、われわれはそう結論づけねばならない。集団の残渣をすべて軽視し、その上で個人心理としてわれわれが孤立させたものとは、もともとの集団心理から、後になってようやく徐々に、いわば依然として一部だけその輪郭を浮かび上がらせたものなのだ。(フロイト)
精神医学では、個々人の精神を追求していたが、われわれは本来集団的な生き物なんである。われわれにまずあったのは、集団としての心理であり、個人の心理ではない。自分の考えは自分に固有のものと考えるわれわれにとって、いささかショッキングな内容である。そうであるなら、会社や家族に自己を埋没する人間たちはある種、健全ともいえるし、退行的とも言えるだろう。

ところでニーチェは「自己の主人たれ」と言ったし、ギーターにも同様の文章がある。自己の主人となるべくして生まれた人間とはどのようなものだろうか。それも同書に書いてあったので紹介する。

エスに含まれる自我は首領の自我とその他大勢の自我に分けられる。豊かな資質をもった個人が、女性たちからの特別な愛情と庇護のもとで育てられると、ナルシス的な首領としての自我をもった個人が誕生する。このような首領は、孤高にしてナルシス的な自我を持つ個人であり、フロイトはニーチェの超人になぞらえた。
原父の殺害以降、首領の自我を体現するものはいなくなった。エスの中にある首領の自我のための雛形は、大部分無意識のままにとどまり、超自我として個人の自我をそれぞれに支配するようになったのである。
このようにして誕生した「独立した個人」とは、いわば一人だけで成り立つ集団であるといっていいだろう。
原父の殺害について解説しておこう。
原父とは人間の先祖で見られる霊長類の一族(原始群族)のリーダーである。原父はすべてのメスを自分のものとし、これを守らないオスを殺すか、従わせた。リーダーには、もっとも闘争に強いオスが選ばれる。だから下っ端のオスたちはリーダーに決闘を申し込み、首領交代をもくろんだ。しかし弱いオスたちはこのルールを破り、結託してリーダーを殺してしまった。

これが現在の原父なき時代を生んだ。だから、われわれの遺伝子には何万年も綿々と受け継がれた原父的な性質が残っていてもおかしくないのである。たとえわれわれの血に弱小の猿の血が混じっているとしてもだ。

それではこの遺伝子は発現することはないのか、というのが引用した内容である。ぼくらにも”首領としての自我”と”その他大勢の自我”があるのである。しかし首領的な人間≒超人であっても現実には、他者を殺してすべての女たちを囲うわけにはいかない(少なくとも日本では)。であるから、われわれは自己を自己の主人たらしめなければならない。

首領的な人間はニーチェの理想像をみるとわかりやすい。
「これは私の気に入っている。これを私は自分の物とし、それを守護し、そしてだれに対しても防護する」という男、ひとつの事柄を為し、ひとつの決心を遂行し、ひとつの思想を忠実に保持し、ひとりの女を守り、厚顔な者を罰し倒すことのできる人、自分の怒りと自分の剣を持ち、弱者も、苦悩者も、脅迫者も、禽獣さえも喜んで帰服し、おのずから帰従するような男、要するに、生まれつき主人であるような男」(善悪の彼岸より)
このような”生まれつき主人である男”は原父的と言えるだろう。

それにしても、”豊かな資質をもった個人が、女性たちからの特別な愛情と庇護のもとで育てられると、ナルシス的な首領としての自我をもった個人が誕生する。”とはどういうことだろうか。少子化の進む中で、子どもはますます大事に育てられている。母親は子どもをよりいっそう大事に育てるだろう。そうであるならば、主人的な人間は増えて行く一方ではないか。

最近の若者は反社会的というよりも非社会的だといわれることがある。つまり簡単に仕事を辞めてしまうし、気の向くままバイト先で遊んでツイッターでさらされるという具合である。これらの行動はいままでみられた理不尽な社会に対する反抗と言うよりは、集団や社会の一員という自覚に欠ける行動である。ゆとり世代がどうのと言われるが、いろいろな原因は「社会への帰属意識のなさ」に還元できるというのが最近のぼくの考えである。

そして彼らの帰属意識のなさは、無意識的なレベルでの、「従う者」ではなく「従わせる者」という本能から生まれるのではないか。日本人の意識は転換期にきているとも感じる。年長者がゆとり世代に感じる根源的な恐怖や反発は原初的な「その他大勢」の潜在意識からきているのではないか。これからますます原父は増えるだろう。おそらく過去にない勢いで。その後の日本社会がどうなるかは、わからない。


この先はマズローや禅を持ちだそうと思ったのだけど、長くなったので一旦筆を置きたい。参考にした書は「集団の精神病理」柏瀬 宏隆である。アマゾンでも売っている。


ちなみにぼくは母親から特別な愛情を受けた人間だという自負がある。そして確かに、女性たちからの愛情も受けてきた。過去の人生を振り返ると、女性の顔が色とりどり浮かぶのである。ぼくも原父的な人間ではないのか。とはつまりナルシス的人間であり、嫌な奴なのだけれども・・・。

2.26.2014

新宿のキチガイおっさんと喧嘩した話

新宿のキチガイおっさんと闘った話。

朝の新宿駅。
構内のコンビニで煙草を買って出ようとすると、おっさんが後ろからこづいてきた。
スーツ姿の少し禿げた四十歳ほどのおっさんは、俺の目を見て、ドスの聞いた小声でこう言うのである。
「邪魔だ」


ぼくは少し混乱した。なんだこの馬鹿は。ぼくは歩いていただけだ。
「歩いていただけだろう。何が問題なんだ」
おっさんは反駁する。
「ドアの近くでうろちょろされたら邪魔なんだよ馬鹿野郎」
ぼくもすかさず言い返す。
「どこを歩こうが勝手だろう!」

平静として、迫力のある声で言ってやった。
それが効いたのか、おっさんは
「なんだと?ふざけんなよこの野郎」
と言いながら去ろうとしていた。ぼくもこのまま帰すのは癪なので、
「頭おかしいんじゃないのか?お前。頭おかしいだろ!」と最後っ屁をかましてやった。おっさんはこちらを苦々しい顔でにらんでどこかへ消えた。警備員がやってきたのでぼくも去った(実際はもう少し言い争いがあった)。


この顛末は、ぼくにとって意外なエピソードだった。ぼくはまるきし温厚すなわち臆病な人間である。喧嘩となれば、恐怖のあまりがくがく震えてしまうだろうし、口べたなので口論となれば顔を赤らめてうつむける。

そんなぼくが、自分に危害を与えるかもしれない人間の目を見つめ、平然と相手を罵る言葉を発し、まったく自然に否をつきつけたのである。僕自身意外なできごとに直後、トイレの鏡でまじまじと自分を見つめてしまったくらいだ。

今までのぼくであれば、絶対にこう言っていた。「すいませんでした。許してください」。というか、ほとんどの日本人がこう言うはずだ。恐怖云々の前に、相手にしてもめんどくさい。

しかしぼくは自然に喧嘩を買った。これはどういうことか。

ぼくは一日このことを考えていた。この一連の行為は、まったく自然である。つまり単純な作用-反作用だった。相手の憎悪に対し、それをそのまま相手に返す。そしてぼくはなにも傷つかないでいた。弾性、やわらかさ。

その日、新宿へ行くまでの電車の中でメモにとった言葉がある。「究極の質量を持ちながら、柔和な人間」ニーチェを読みながら勝手に考えた人間の理想像、あるいは人間を超越した怪物の姿である。
ぼくはこれの実践を無意識に行っていたのではないか?あるいはギーターの影響もあるかもしれない。「成功と不成功を、勝利と敗北を同一のものとしてもろもろの行為をせよ」少なくとも、ぼくは一介のキリスト教者ではなかったということだ。左の頬は差し出さなかった。アンチキリスト。デュオニソス。

あのおっさんも適当な若者にいちゃもんをつけることはないだろう。彼は敗北したのだ。ぼくは確かに、舐められやすい格好をしていた。大学生まるだしの安っぽいコートきてたし。こういう格好の奴は、客観的に見てもわかることだが、喧嘩を売ってもまず言い返してこない。

しかしぼくのような人間もあるものだ!

その朝は血圧が上がって嫌な気分だったが、終わってみればまったくすがすがしい。喧嘩を買う、買わないは重要ではない。つねに自然体であり、ひとつの弾性であること。それが人生を遊ぶということであり、気高いということなのである。

2.25.2014

世界一「歩き方」の汚い日本人へ

健全な歩き方をしよう。

日本人はときに「世界でいちばん汚い歩き方をする」といわれることがある。ぼくは朝の新宿の往来を注意深く見ているが、たしかに日本人の歩き方は、どうもみみっちい。

腰を動かず、ひざを折って歩くのが日本流である。ぼくはなんでも欧米流にしろと言いたいわけではない。日本流の歩き方も、長距離歩行には疲れにくいメリットがある。しかし、どう見たって、欧米流の方がすらっとして格好いい。健全な精神は健全な肉体に宿るというが、そうであるなら窮屈な歩き方をする人にどうして自由な人生が歩めようか、という話である。

そんなわけでいろいろなサイトを眺めて調べた。そして実践している昨今であるが、なるほど欧米流の歩き方は気持ちいい。地面を踏みしめて、全身をきっちり使っていて自由である。日本式の歩き方は袴の文化から生まれたものであるから、本来的にはこちらが正しい歩き方ではないのかとすら思う。

それではどう歩けばよいのか?をみなさんに伝授したい。そういう趣旨のブログではなかったと思うのだが、それはこの際どうでもよい。

後ろ足で歩け
日本人の歩き方はどうも足を前に出してそれに後ろ足が追随する形をとっているようだ。そうではなく、後ろ足できちんと体を蹴りだして、全身を前に送るようにする。この歩き方をすると、つま先のはたらきが重要になってくる。足先で地面を蹴り上げるのが欧米流である。

ふだんひざを曲げて歩いているひとは、これを意識すると筋が伸びる感覚があると思う。つま先を使うと、ふくらはぎがはたらくことになる。そう感じをつかめば成功である。


足を伸ばせ
日本人はどうも”O脚”が多くてみっともない。ぼくもすごいO脚なのだが、細いズボンなど履くとかっこわるい。足はまっすぐであるべきだ、と思うがどうか。

日本人の歩き方では、ひざを伸ばさないため太ももの外側の筋肉しか使わない。しかし蹴りだすときと着地するとき、足を完全に伸ばすよう意識すると、あきらかに内ももの筋肉を使っている疲労感がある。こうすれば自然とO脚は改善するだろう。

胸から下は足である
日本人の歩き方は脚しか使わない。これをして長距離歩行や頭が上下に動かない歩行が可能なのだが、しかし腰を使うとより生き生きと歩けるようになる。

感覚としては、胸から下は長ーい脚なのだとイメージすることである。自然、歩幅は大きくなり腰を大きく動かして歩行できるようになる。これはきっと内臓にもよい刺激を与え、排便を促進するだろうし、皮下脂肪の燃焼にも貢献するだろう。体がやわらかくなり、腰が鍛えられあらゆるスポーツに貢献するものと思う。


まとめ
以上三点を守って歩行するべし。ビルの窓の反射など見ると、自分の歩き方の美しさにほれぼれすることだろう。

いったい「歩く」という行動はまったく人間的なものである。言語と同じくらい、人間が人間たるために重要な要素であると思う。美しく歩くこと、これが良い人間であることにどれだけ貢献するかわからない。

日本人は長らく自殺大国であるが、のびのび歩くことを覚えれば、きっと精神の健康も増進するのではないかと思う。

2.23.2014

幸福への信望を捨てる

オルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」を読んだ。非常におもしろい文学だった。

これは新旧のふたつの価値観、すなわち旧来的な真理、自由を追求する主義と現代的な幸福、公共を追求する価値観の対決である。
そして同時に、孤独な探求者と大衆との対決でもある。

最終的に孤独な真理の探究者たるサヴェッジ(ジョン)は自殺してしまう。その顛末はまったく悲劇的である。世に翻弄され、崇高な精神は大衆にもてあそばれ、台無しにされてしまう。

では真理や自由は敗北したのか、というとそうではない。ジョンはヘルムホルツやバーナードの目を覚ますことに成功した。そして世界の統治者であるムスタファの精神に影響を与えた。死してなお精神は生き続けるのだ。それが真理を追究するということであり、人間が不滅に、大げさに言えば神になることでもある。

没個性化した双生児たち、つまり「幸福で勤勉な、物資を消費する市民」たちがなにをしようと、永遠性はない。

さて、真理や自由を探求する精神はどこから生まれるのか。おそらくそれは孤独と死と芸術から生まれる。バーナードは身体的欠陥から孤独に陥り、真理に目覚めた。ヘルムホルツはジョンの発した詩により真理に目覚めた。ジョンはおそらく、部族の血なまぐさい風習や、母親の情夫への殺害企図をとおして直面した死によって目覚めた。

しかし「幸福な社会」においては孤独や死を認識する道がかたく閉ざされている。

「いいかい、孤独がいけないという警告は少なくとも二十五万回はきかされてきたんだからね」
「われわれは人びとが孤独を憎悪するように仕向ける。そして、孤独を経験したりすることがほとんど不可能なように人びとの生活を設計してある。」
「死に対する条件反射訓練は生後十八ヶ月で開始されるのです、――子供たちは死を当然の出来事と考えるようになります。」 
そして芸術は「古いもの」として抹消される。

このような世界はまったく幸福である。そこに違和感を覚える人間は、社会から遠く離れるか、ジョンのように無邪気な幸福人に撲殺されるしかないのだ。

「だから、どうかアイスランド(行き)なんてやめてください。閣下、おねがいですからどうか・・・・」
「まるで咽喉でも切られようとしているかのように見えるね」 「ところが、あの男に少しでもモノがわかるのだったら、彼の罰はじつは褒美だって事がわかるはずなんだが。――この世でももっとも興味ある男女の群れに出会えるということなんだ。何かしらの理由で共同体生活に適合するにはあまりに自意識的な個人主義に陥ってしまった人間ばかりなのだ。公認の思想に飽き足りず、自分独自の独立的な思想を持つようになったすべての人間だ。一言にして言えば、いやしくも人間らしい人間はすべてということだ。」

 ・・・

この本を読んで感じたこと。それは用意された幸福には価値はないということだ。たくさんの友達、裕福な生活、美しい恋人、買い物、生命保険、笑顔、埋まったスケジュール帳、贅沢なランチ、高級車、すべての消費物。われわれの生活は「既製品」である幸福にあふれている。

しかしそんな人生に果たして意味はあるのだろうか?われわれの生活はあまりに死から遠い。さらには孤独や芸術からも遠い。われわれはそれらのものに直面して初めて、間違いに気づくことができるだろう。

真の自由な人間はつねに孤独であり、不適合者である。そして自由な人間は、死を恐れ、美を愛する。自由な人間は永遠性を育む。ぼくはヘラクレイトスの言葉を何回引用しただろうか。「死すべき事物よりも不滅の誉れを」。

いっぽう、幸福であり不自由な人間たちは、組織の歯車となるしかないのだ。ひとつの細胞の構成員として、ホメオスタシスのために犠牲となる。ニーチェの言う、「おしまいの人間たち」。その生に、死にさしたる意味をもたない人びと・・・。

社会はその維持の目的から、ひとびとを孤独や美から離そうとする。それはとくに、日本においては顕著だ。狭いクラスにすし詰めにされ、共同体の生活を強いられる。そして働きづめの社会人(いったい日に十二時間はたらく人間に文化的生活は可能か!?)。

われわれはこれらのものに抵抗しなければならない。ただし幸福からは一生離れることになるが・・・。

「最適な人口は、氷山になぞらえて構成される――つまり、九分の八が水面下、九分の一が水面上というわけだ」
「それで水面下の連中は幸福なんですか」
「水面上の連中より幸福だよ。」

2.22.2014

日本人はなぜ冷たく、日本はなぜ良くならないのか

先日ぼくは、神であってもぼくの内面世界をゆるがせないだろうということを言った。しかしギーター的に言えば梵我一如であり、内面世界の中枢は結局神なんだろう。それはキリスト教的な考え方においても。

こういった一神教的考えの薄い日本では、とかく目先の利益につきうごかされがちで、内面世界の深い探求といったことはなされないのではないかと思う。


日本人とはつくづく興味深い生き物だ。倒錯を倒錯のまま抱え込んでいるひとびと。めくらめっぽう「絆」という言葉を掲げておきながら、ときにまったく冷酷な人種になる。
たとえば、「自力で生きていけない人たちを国や政府は助けるべきだとは思わない人」の割合はダントツで世界で一位である。

日本:38%
アメリカ:28%
イギリス:8%
フランス:8%
ドイツ:7%
中国:9%
インド:8% 

 これはおもしろい結果だと思う。絆とはどこへ行ったのか・・・。この結果から感じるに、日本人はたぐいまれなる個人主義者ではないか。

ぼくは海外旅行の経験は少ない方だが、やはり相互扶助の概念は日本ではない、というか失われていると思う。たとえば道で転んだ人がいるとする。海外では、知らない人であっても「you OK?」の一声くらいかける。少なくとも、着目してことの顛末を見守る。が、日本では大勢のひとが無視をする。

この前こんなことがあった。混雑した朝の電車の中、貧血で倒れた少女がいる。しかし介助するひとは中年女性ただひとり、ということがあった。他の人びとは窓の外をぼんやり見つめるだけなのである。ぼくはこれはおかしい!と思った。

みなめんどうごとは嫌なのである。個人主義というか、家族、会社が世界のすべてであると言うべきだろうか。それ以外のことは、どーでもいい。外の世界はどうでもいい。それが日本人なのである。

たとえばぼくは友人に海外旅行を勧めることがある。「すごく見識が深まるよ」「いって後悔することは絶対にないよ」。しかし友人らはこういう。「日本がいちばんいい」「わざわざ危険な海外に行く意味がわからない」。
こういう人が多いので、ぼくはしまいに勧めることをやめてしまった。狭い世界にとどまることは、なんて貧しいことなのだろう。小中高大学企業、そのなかにすっぽり収まって疑問を持たないひとびとは悲しい。根本的な意味で生きる目的を喪失しているのではないかと思う・・・。

話を戻そう。日本人の考え方のなかには、「自分さえよければ、周りの人間がどうなってもいい」という思想がある。これは、非常に強力にすり込まれていると感じる。

たとえばぼくはこういう。「原付の30km/h制限は危険で不当だから緩和すべきだ」。これはほとんどだれしも認める改正案だと思う・・・。が、ひとびとはこう言うのだ。「上位免許を取れば30km/h制限なんてなくなる」「原付なんて乗らなければいいではないか。論者は貧民なのか。」

言っておくが、ぼくは原付には乗らない。過去にピザのバイトで乗っていたことはあったが、そのときの強い疑問と不快感からこうしたことを言うのである。
そして原付に乗らない今であっても、経済的理由や仕事で原付に乗らざるを得ない人びとを見て、まったき正義感からこうしたことを論議したいと思うのだ。

しかし彼らにはこうした人間がいることが根本的に理解できない。「原付に乗らない人が原付に関わる不正をただそうとすること」すなわち「直接被害を被らない人が、その被害を訴える」ことが理解できない。

百の杭が整列していて、ひとつの杭がでたらめに打たれていたら、それをただしたくなるものである。しかし彼らはこう言う。「なぜ杭をただすのか?持ち主でもあるまいに」「かれは杭を正すが、それは利益を目的としているに違いない」

まったくこういう人が多いので困ってしまう。自分さえよければそれでいい、その考えだから日本はいっこうに良くならない。お上もコントロールしやすいだろうと思う。

原発事故以来の情報操作はまったくすばらしいものがあった。国、電力会社、メディアに対し過去数十年なかった不満が蓄積したが、それは国民同士の論争という形で収束してしまった。

「デモをする奴を見ろ。馬鹿ばかりではないか」「なんだと。原発に賛成する奴こそ、現実を見ていない馬鹿ばかりだ」

そして何も変わることなく、だれが責任を取るわけでもなく事は収まった。なにも解決していないのに、国民は不思議と納得した・・・。メディアと国が結託していることは明らかであるのに、そこへ批判が集中することはなかった。
世界各国の報道の自由度を順位付けした報告書で日本は昨年の五十三位から五十九位に後退した。東京電力福島第一原発事故の影響を取材しようとするとさまざまな圧力を受けるとされたほか、特定秘密保護法の成立が響いた。
 日本は、各国を五段階に分けた分類で上から二番目の「満足できる状況」から、主要先進国で唯一、三番目の「顕著な問題」のある国に転落。東アジアでは台湾や韓国を下回る自由度とされた。

しかし今後も何も変わることはないだろう。日本人が、自分の狭い世界で満足する限り。自分さえよければよいと、他者をいたわる気持ちをもたない限り、日本は根本的不自由の泥から抜けだすことはできないと感じる。

日本は類まれなる経済大国であると同時に自殺大国である。このふたつの理由は以上述べたことから簡単に導けることである。資本主義の理想形とは国民がみな各々富を追求することであるから。助け合いの精神なく、冷たい人々の中で心はすさび死にいたるから(まったく冷淡な人間ほど冷たいものはこの世にない)。


ぼくはこうした日本に対してどうアプローチすればよいのか。それはいつもぼくが言っていることに尽きる。「世界を殺すか、自己を殺すか」。とまあそんな所感である。

2.20.2014

オルダス・ハクスリー・デー / 死についての意識の変遷

行き帰りの電車でハクスリーの「知覚の扉」を読み、TEDを見ているとハクスリーが画面に登場し(プライバシーはなぜ重要か、という関係ない演題でだ!)、注文していた「すばらしい世界」が届く。ハクスリー一色の一日だった。だからぼくにとって二月十九日は、ハクスリー記念日である。

どうも人生には不可解な偶然が起こるものだ。ときに恣意性を感じることもある。たとえば、ある会社の説明会で大雪が降り、その予約をキャンセルし別の日にする。そこでも大雪が降り、結局選考に進めない・・・というようなね。

いわば運命、縁、神のいたずらとかいうものがあるんだろう。ぼくはそういうことに抗う気はない。なに、人生に何がおこっても、それはどうでもいいことだ。たとえ神であっても、ぼくの精神性までは犯せはしないのだから――。



最近は人の死に触れることが多いのだけど、何か大きなことを悟った気がする。よく生きるとは、死を厭わないことだ。必要であり適切なときに死ぬことだ。ショーペンハウエルが言ったように、適切なときに死ぬこと、それが人間の根源的な権利であると。

以前のぼくは死を恐れていた。恐れることで生の活力を得ていた。死ねばなにもかも無になる――それは脳神経学的に考えれば妥当な推論だと思う。
しかしどうも肉体的な何か意外に、残るものがあるなと。二元論を主張したいわけではないが・・・。
たぶんギーターの影響もあるんだろう。アルジュナ曰く、「成功と不成功を平等のものとしてみよ」つまり動機こそ重要だと。

不成功の最たるものは死かもしれない。たとえばホームに転落した老人を助けようという場合。(ここでぼくのような人間は、動かねばならない)。それは純然たる感情に突き動かされて。その結果、両者とも死亡するとする。それは不成功だ。

しかし正しい不成功である。

諸々の行為の、成果や結果を気にすることなく、まったくの自由の中に自分を解き放ち、好き勝手に行動させる。困っている人がいたら助ける。汚れたつまらない連中からは離れる。奔放に遊ぶ。つまり岡本太郎の言ったように、「自分というおもちゃでくるくると遊ぶ」。遊ぶ人間は、いつだって正しい。ホイジンガの言ったように、遊びとは優雅であり高貴である。

それがギーターの言うところに通底すると思う。

死ぬことは重要ではない。死はあくまであらゆる行為の結果である(自殺をするにしても、だ!)。だから、ギーターの教えによれば死を厭わず行動すること、これが重要であると。死をあくまで中立的な要素として見る。もろもろの行為の判断材料とする。死を軽視したり、過大に恐れることなく、ありのままを見る。これが悟りの境地である――とまあこんなことを感じる昨今である。



2.17.2014

新心理学区分:精悍型として生きる

昨日書いた記事が思い切りよく書けているので今朝楽しく読んだ。

ぼくの性格は、つくづく精悍型であると感じる。この精悍型というのは、クレッチマーの体型分類のような体型により区分した、ある心理学の独学者が提示した新分類である。日本人の体型をモデルにしているので非常にマッチする。(http://www.geocities.jp/new_psych/index2.htm)
さてこの精悍型がいかに僕に整合するかを確認してみよう。
(引用元:http://www.geocities.jp/new_psych/11.htm)


引き締まった筋肉のスマートで精悍な体付き
この通りである。肉体に関しては非常に均整がとれている。手が細く長くきれいと言われること多し。また、特に運動していなくてもスタイルはよい。

整った濃い顔の造りをしている
ぼくの顔は自慢じゃないが濃い。とても濃い。顔貌も普通よりは上(希望的観測)。

 束縛を嫌い、自由を求めるマイペースな性格。
自由は大好きである。「僕は何度言っただろう?軽蔑するものは、乗り越えなければならない!そしてそれに付け加える。それが自由というものだから。

 精神性を追求する感性があり、人の心や状況を冷静に分析する。

他人のこころはどうでもいいが、必要とあらば分析することもあるだろう。

 自分の能力や精神を啓発することに関心がある。
さて、ここはどうだろう。退廃的な趣味は持たないが・・・。「苦手な教科を克服することは昔から好きだった。真摯に取り組めば他の教科より目に見えて成長するからである。」こういう熱を持つことはあるものの、簡単に冷めもする。

 理論的で哲学的な考え方をする、本質を見極める目を持っている。
理論的かはわからないが哲学は好きである。岩波文庫の赤帯だらけだ。

 批判的で、人や組織や社会を酷評する。
間違いない。社会とは人間の生、つまり圧倒的正しさの前にはちっぽけなもんである。自分の生を社会に呑まれるままにしている人は、生きることなく死んでしまうだろう。

 反骨精神があり、高圧的な人や、不条理な体質の組織に対して反発する。
ごもっとも。ぼくは偉そうな人間が大嫌いである。ある意味破壊的ともいえるほどの平等主義者だ。

 立場の弱い人に対しては、その人の助けになりたいと思う。
同じ理由による。

 強い忍耐力があり、過酷な環境や状況にも耐えられる精神力がある。
というか、もちまえのマイペースな性格と他者への軽蔑と無関心から、気づけば取り返しのつかない過酷な状況になっており、耐えるしかないということになる。結果的に忍耐力はつく。

 孤独を愛し、一人でいるのも好きだが、割と社交的なところもある

これはその通り。ぼくにはいつも他人と一緒にいる輩が理解できない孤独主義者でる。その反面、周囲とうまくやっていけなくて悩んでいる輩も理解できない。必要とあればそれなりの社交は対応できるからだ(大人になった)。

ゴッホの次の台詞を思い出す。「ほかのみんなと同じように、僕もまた、家族や友情、愛情や親交の必要を感じている。僕とて消火栓や街灯のように、石や鉄でできているわけではないのだ。

 筋の通っていないことが許せない正義感と頑固さがある。
だから衝突が耐えない。周囲からは「疲れない?」と言われる。つかれるに決まってる。しかしこうでなくてはならないのだ。ベートーヴェン"Es muss sein"

精神性気質の人は、束縛を嫌い、自由を求めるマイペースな性格です。団体で行動するのが苦手で、自分が組織的な構造に組み込まれる状況に抵抗を感じます。他人に関わりたがらなかったり、自分もあまり干渉されたくないというような、まるで一匹狼のように一人で行動するタイプの人もいます。孤独を愛し、一人でいるのも好きですが、根本的には博愛精神があるので、割と社交的なところもあります。

これなどぼくの日常を描いているようでぞっとした。こんな人間がぼくの他にいるのだろうか?どこへ行くにも一人だし、それを好むようなキチガイが?ぼくのような人間がぞろぞろといる。それはおそらくはた迷惑だし、気持ちの悪いことだ。

精悍型の人の外観は、まるで陰のある色気を放っているような、異性を惹きつける魅力がある雰囲気の人が多い。

・・・最近はモテる。理由はわからない。 それがジョークがうまいとか、有能だとかではないのは確か。



まとめると

ぼくはこの「精悍型」の人間の典型であることがわかった。いままでぼくのような人間は、日本に数人しかいないと思っていたが、世界は広いもんである。このような人は何をして生きているのだろう?何を幸せに感じているのだろう?

きっと、生きづらいに違いない。そしてその生きづらさに誇りを持っているに違いない。

哲学に、自由に生きようぼくの仲間たちよ。ぼくらはきっと、分散しあうだろう。往来ででくわしても、むしろ嫌悪の感情で目をそらすだろう。ぼくらはそういう風にできている。しかし心の奥底では果てしれない共感を感じるのである。だから、仲間だ。ともにがんばろう。もちろん距離を守って。そして孤独の中に智慧を見出そう。

純潔という最高の本能は、これに取りつかれた者を一個の聖者として、もっとも奇異な、かつ最も危険な孤独化のうちに置くのである――ニーチェ

ごめんなさい、ぼくは就活を舐めてました。

懺悔の日々である。

土日を丸々つぶして説明会などにくりだしていた。

一社目は雪で電車が遅延したため受けられなかった。クリーニングに出して最高のコンディションのスーツを雪と泥で汚しながら、滑って転び、ぴかぴかのビジネスバッグを台無しにしながら向かった。会場は電車で一時間の位置にあるのだが、雪の影響で三時間かかった。それなら受けられないのは当然だ・・・が、採用官に連絡したところ、「遅刻する方が悪い」という認識だった。

その説明会を受けなければ選考は受けられない。まあ、そういうことだろう。

二社目は無事受けることができた。が、非常に退屈した。優秀な社員がカリスマのように扱われていた・・・のだが、結局はサラリーマンである。コマ、歯車、原子である。味気ない。我が社の素敵な社畜ライフのような動画も見させられた。人事の方々は満足げな顔だが、安物のドラマを見させられても就活生は当惑するばかりだ。

三社目も四社目も同じ具合。説明会を受けたものの、あまりのつまらなさに反吐が出そうで、結局ESを出そうと決意したのは一社だった。


ごめんなさい、ぼくは就活を舐めてました。・・・めちゃくちゃつまらないですこれ。



説明会の最中、ぼくは絵を描いたり、海の見えるすばらしい田舎町に一軒家を建てる妄想をしていた。長い拘束もやがて解かれる。家に帰って、しきりに考えた。ぼくはどうすればいいのか。心の奥底から、声がなりひびいてやまないのだ。

「お前がしたいことは、そうじゃないだろう」。

わかっていた。ぼくはわかっていて、あえて挑戦したのだった。軽蔑するのであれば、乗り越えなければならないと・・・。就活を、企業を、社会を乗り越えるのだと・・・。

しかし、つらい。あまりにつらい。笑いを堪えることに耐えられないのだ。会社という組織の中で、何か勘違いしてしまったひとびと。所詮は使いぱしりなのに、不当な抑圧なのに、なにか意義を感じてしまったひとびと。権力を追求する愚者。思考することを忘れた愚者。

いやみなさん、本当に優秀な社員の方々だ。すばらしい。しかし彼らは、優秀な人間となるには、もう遅いのだ!あまりに、遅すぎた。やわらかい粘土は乾燥しきっている。彼らはまぎれもない完成品だ。

ぼくは何事も全人的にぶちあたりたいと思っていた。難しい課題に挑戦したい、と。勝利を味わいたいと。何かを軽蔑するのであれば、それを超越しなければならないと。すべてを飲み込み、平気でいる大海でなければならない、と思っていた。

しかし、どうだろう!就活を前にして、ぼくはとまどいを隠せない。それはあまりに巨大だ。そしてすべてがくだらない茶番なのだ。どう考えればよいのだろう。多くの人が好んで原子になるかたまりが、茶番のよせあつめだなんて!






ひとつ考えた。ぼくは、卒業したら海外に行こう。きままに旅しよう。のたれ死んでも楽しいし、どこかで生きながらえても楽しい。こんな社会に生かされるよりは、よっぽど!

2.15.2014

点と全体

最近学んだこと。

ぼくらの意識は、完全に言葉的なものである。言葉がまずあって、つぎに思惟が生まれた。これはある民俗学者が明らかにしていたことである。

タオ自然学という本にはこうある。「言葉は考えを伝える道具だ。考えを理解したら言葉は忘れられる。」言葉は我々を真理に近づけるが、また遠ざけもする。現にギーターにも「思惟機能よりも高いものを知り、自らアートマンを確固たるものにして、勇士よ、欲望という難敵を殺せ。」とある。

ある一定のレベルまで到達した数学者は宗教に傾倒することが多いという。これは言葉の世界である数学(数学は抽象化=言語化の極限である)と、言葉ならざるものの世界である宗教というのが両極端であるからである。そして両極端の二物は、ひとつの真理を示す。

ではその真理とは何なのか。秘密教義で示される宗教的真理とはなにか。分厚い聖典を読みとき得られるものはなにか。その真理は当然言葉にあらわすことはできないが、概念として点であり全体である。
聖書やバガヴァッドギーターなどの宗教書が示すものはこのひとつの点であり全体である。
真理は言葉の外にあり、真理とは点であり全体である。とまあこのようなことを学んだ。


そんでもって、最近は本を読むことすらも、智慧の道から外れるものなのではないかと感じている。もちろん数々の賢人の英知を学ぶことはすばらしいことだけども、自己の内面世界から汲みとれるもの、こちらもなかなかすばらしいものであると。

エーリッヒ・フロムはこう言った。「いちばん良いのは、(略)自己分析を毎朝実行することである。その要締は、(略)内面において能動的になるために、自分を空虚にすること、である。」。読書の過程とは完全な能動ではないだろう。真の能動性とは智慧を取り込むことよりも、自己を空にすることにあるのである。

「あなたの知性が迷妄の汚れを離れるとき、あなたは、聞くであろうことと聞いたこととを嫌うだろう。」ギーターより。

ところでギーターのサットヴァ、ラジャス、タマスの三つのグナと、ニーチェの駱駝、獅子、赤子の三段階は、それぞれ対応しているのではないかと思う。こうした点から見ても、真理というのは究極的にはひとつの点=全体であると感じる。




そうであってもやはり読書は楽しいもので、そして外面世界=現実の義務もいろいろとこなさなければいけない。最近はサン=テグジュペリが楽しい。宮崎駿が表紙絵を描いている「人間の土地」。

ぼくはまた、彼らが小声に語りあう、打明け話を小耳にはさんだ。それは病気のことや、お金のことや、所帯の苦労のことだった。それは、この人々が、自らをしめこんだ生気のない牢獄の壁を示していた。すると、不意に、運命の姿が、ぼくの前に現れるのであった。
 老サラリーマンよ、現在のぼくの僚友よ、ついに何ものもきみを解放してはくれなかったが、それはきみの罪ではなかったのだ、きみは、かの白蟻たちがするように光明へのあらゆる出口をセメントでむやみにふさぐことによって、きみの平和を建設してきた。きみは、自分のブルジョア流の安全感のうちに、自分の習慣のうちに、自分の田舎暮しの息づまりそうな儀礼のうちに、体を小さくまるめてもぐりこんでしまったのだ、きみは、風に対して、潮に対して、星に対して、このつつましやかな堡塁を築いてしまったのだ。きみは人世の大問題などに関心をもとうとはしない、きみは、人間としての煩悩を忘れるだけにさえ、大難儀をしてきたのだ。きみは漂流する遊星の住民などではありはしない。きみは答えのないような疑問を自分に向けたりはけっしてしない。要するにきみは、ツールーズの小市民なのだ。何ものも、きみの肩を鷲摑みにしてくれるものはなかったのだ、手遅れとなる以前に、いまでも、きみが作られている粘土はかわいて、固くなってしまっていて、今後、何ものも、最初きみのうちに宿っていたかもしれない、眠れる音楽家を、詩人を、あるいはまた天文学者を、目ざめさせることは、はや絶対にできなくなってしまった。

職業の強制する必要が、世界を改変し、世界を豊富にする。
あるひとつの職業の偉大さは、もしかすると、まず第一に、それが人と人を親和させる点にあるかもしれない。真の贅沢というものは、ただ一つしかない、それは人間関係の贅沢だ。

ぼくらは働かなくてはいけないし、しかし芸術的なものの見方も失いたくないものだ。そしてはたらくことの意義は金銭にあるのではなく、人とひととの親和にある。就活の渦中にあるぼくであるからいっそう、これらの言葉が身にしみいるのである。











2.11.2014

夢の中で青臭いことを叫ぶくらいしかできない

夢の中ですごーく叫んでいた。

「完璧な人間なんてこの世にいない。良いところがあれば悪いところもあるんだ。それをよいところしか見せようとしないから世の中がおかしくなるんだ。5つよいことを示したなら、1つの欠点をさらすべきだ。」

夢の中ではすごく良いこといった!俺すごい!と思って夢Evernoteに書き留めるレベル(現実ではしていない)だったのだけど、今考えるとすごく陳腐だ。

しかし夢診断的に考えると僕の心理状態をよくあらわしているなと。

ぼくは今就活に追われている。就活という場は「私は非の打ち所のない完璧な人間です」と言う場である。コミュニケーション能力に優れ、リーダーシップを発揮しつつ協調性があり、バイトやサークルに打ち込みながら語学堪能、忍耐力があり、成果を出してきた人間・・・。それが企業が求める人材である。

企業側も得てして勝手なこと言ってばかりである。弊社は若手起用・・・将来性・・・右肩あがり・・・バラ色の会社生活・・・。しかし入ったら激務で毎年10%は退職するなんてざらである。

虚構、虚構。虚構に塗り固められた世界。型にはまった完璧超人たろうとする若者。いったい就活とはなんぞや?リクナビ、マイナビは派手に盛り立てているけど。なぜこんなクソみたいなことに貴重な大学期間を費やさねばならぬのか(学費安くないぞ!)。

ぼくは怠け者である。たまにとんでもないミスをやらかす。しかも反省しない。英語なんてスコアがいいだけでまったく話せない。孤独主義でひとといるとストレスが溜まる。嫌われても意に介さない。おおよそ社会人としては落第なぼくが就活と闘っているのだから、変な夢も見るということだろう。

ぼくは勘違いしていたよ。大人になるって、疑わないことなんだな。大学で身につけた批判精神では食っていけない。むしろかなぐり捨てなければならないんだ。

冷たい世の中だ。本音を言ったらつぶされる。ぼくはダメな人間です、世の中は苦しいところです。それが真理だ。ぼくは本当は日本人は冷たい人たちだと思っている。たしかに礼儀正しい国民だけど、礼儀とは臆病さから生まれたものだ。本当に助けが必要なときに、かれらは動かない。

「だって自己責任だから」

世の中は苦しい、生きていけない、つらい。

――「それは自己責任だ」

そんなひとびとだ。

ぼくはダメな人間です。とても社会ではやっていけない。世界はまっくらで、重くて、苦しいです。その悲痛な嘆きに、「私もだ」とただ一言言ってくれる、そんな世の中になったらいいなと思う。きっと自殺は激減するだろうな。

2.08.2014

ルドルフシュタイナー「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」

ルドルフ・シュタイナーの「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」を読んでいる。

こいつはすごい本だ。内向的なひとは、内面世界を進む。それは深く進んで感覚外の世界、真理を得るためである。こうした探求の道は禅のように一見風変わりな、難解な教え方が多かった。それを直截に理論的にまとめてしまったのが本著である。

つまり本著は内面世界の進み方、指南書である。本来、内面世界をいかにわたっていくかという部分に関してはおのおののセンスによるところがあった。しかしそれでは誤った道や非効率になりかねない。明確な示唆を与えたという点で本著はすぐれて革新的であると思う。

ぼく自身かってきままに内面世界を遊泳していたのであり、その孤独と智慧をそれなりに楽しんでいたので、こうした指南書の存在自体が新鮮なおどろきであった。

本著の規定を受け入れることにかんしては、アイデンティティの喪失のような漠然とした抵抗も感じる。しかしそれはどんなことに関してもそうだ。技術、学問にしても自己流ではいずれ限界がくる。優れた他者の意見を受け入れること、尊敬し模範とすることは従属ではない――と本著には書かれている。

しかし序盤は理解できた内容もしだいに読み進めるとわけがわからなくなってくる。

以下覚え書き。

どんな人間の中にも、感覚的世界を超えて、より高次の諸世界にまで認識を拡げることのできる能力が微睡んでいる。
冒頭の一文である。ひとはだれでも超感覚的世界の認識を得ることができるとシュタイナーは説く。たしかに一部の人間しか今まで超感覚の世界に足を踏みいれることはできなかったが、必要な修行をこなせばだれにでも可能なのだ。

正しい知識は、それを敬うことを学んだときにのみ、自分のものとすることができる。
他者を尊敬することで人は知識を得ることができる。そしてそれは決して隷属や従属ではないという。


常に豊かな内面生活が、外から印象を受けとる際に、主導権を持ち続けるべきである。
シュタイナーは内面世界を重視しながら、外からの情報を遮断してはならないとしている。 ただ不動の内面世界を得ることが重要なのだ。

自分の魂の中の神性を見出すには、神秘学者はひっそりと孤独に自己沈潜する時間を生活の中に確保する必要がある。

あなたの求めるどんな認識内容も、あなたの知的財宝を蓄積するためのものなら、それはあなたを進むべき道からそらせる。しかしあなたの求める認識内容が人格を高貴にし世界を進化させるためのものであるならば、それは成熟への途上であなたを一歩前進させる。
いかなる理念も理想たりえぬ限りは魂の力を殺す。しかしいかなる理念も理想たりうる限りはすべてあなたの中に生命力を生み出す。

 これはぼくにとって非常に重要な一言となった。ぼくの知的財宝は他者のために活かす必要があるのだ。社会から離れ隠遁生活を送るのが理想であるところのぼくにとって非常に耳が痛い訓戒であった。

2.06.2014

J.S.ミルの自由論について

J.S.ミルの自由論を読む。

J.S.ミルというと功利主義者のイメージがあり、功利主義とは社会のありかたを示すものだから、ぼくはあまり興味がなかった。哲学者はすべて個人を対象とすべきだと思うのだ。しかし個人と社会は切り離せないものであるし、最近ぼくの生活においてあまりに自由がないことから、自由とはなにかあらためて確認する意味で本著を手にとった。


本著の最大の主張はひらたくいえば「他人の迷惑にならなければなにやってもいいよ」ということである。それはうらがえせば「他人の迷惑にならない限り自由にさせなければいけないよ」という主張でもある。
自由の名に値する唯一の自由は、われわれが他人の幸福を奪いとろうとせず、また幸福を得ようとする他者の努力を阻害しようとしない限り、われわれは自分自身の幸福を自分自身の方法において追求する自由である。 
「なにを当たり前のことを」と思われるかもしれない。「迷惑にならなきゃ何をやってもいいんだ」という主張は今では当たり前のことだ。これが意味するところは、ミルの考えが大衆に拡大したのか、それともそれとは別種のものなのか。それは後に書きたい。

ただしミルの主張する義務教育の概念は厳密に拡大しているといえる。ミルは子どもをつくりながら十分な教育を与えようとしない親を断罪している。強制労働させその収入を子どもの教育にあててもいいと主張する。それは現代日本の義務教育の概念と変わるところはない(義務教育は親が教育を受けさせる義務である――中学生諸君へ)。

しかしミルはその教育は画一的であってはならないとし、自由な教育こそ目指すべきものとする。それは多様性の許容が前提である。
自由のない教養は、闊達で寛容な精神を生み出すことはないが、ある主義のための怜悧な訴訟弁護士を作ることはできる。
その意味では日本の教育体制が果たして進歩的かどうかは疑問が残る。むしろ自由の阻害に貢献しているのではないか・・・。
ミルはわれわれは意識的無意識的に他者の自由を侵害しているとする。
一般の考え方によると、個人の自発性が固有の価値をもち、あるいはそれ自体のゆえに何らかの尊敬に値するものであるとはほとんど認められていない。
そのことが結果的に社会全体の不利益を与えている、と。なぜなら社会に対し真理を還元するのはつねに孤独者であり個人であったからだ。
賢明な、または高貴な一切の事物の創始は、個人から出てくるものであり、また個人から出てこざるをえないものである。
だからわれわれは個人者に最大限の自由を与するべきであり、個人者との議論を活発にすべきである。個人者はつねに迫害されている。それは法律や圧制ではなくより社会的抑圧によってである。われわれが豊かな社会にするためにはこうした個人者に自由を与え多様性を許容し認め合い真理を追究して生きていくことである。

天才は、自由の雰囲気の中においてのみ、自由に呼吸することができる。天才はあるひとびとは、天才であるがゆえに(ex vi termini )、他のいかなる人々よりもさらに個性的である。




さて、ぼくが最大の疑問を持った点について付す。ミルの「他人に迷惑をかけなければなにをやってもいいよ」という主張は日本でも一般的である。そうであるならなぜ日本はここまで不自由で息苦しいのか。一就活生として疑問におもったところなので考えたい。

「迷惑」とはどういうことか。日本型の「迷惑」とは静謐の保持である。波風を立てないことがよしとされる。極端に言えば、何も言わず何も考えず、命令されたことを淡々とこなすことが最善である。それを保持する限り、豚肉を食っても女を買っても自由である。

これに対し、ミルは自由とは表現の自由と切り離せないものとする。つまりミルの言う自由とは疑問や真理を社会に叩きつけることであって、怠惰はむしろ罪とされる。

これが意味するところは、まずもって自由の相違である。日本型自由とミルの自由はまるで違う。日本人が表現の自由を捨て見せかけの自由を得たのに対し、ミルはそれを取り戻そうと考える。

日本の社会の体制はあまりに強固である。しかし、社会がいくら強固で巨大だからといって、その体制の中で野心を抱くものも、圧力に屈服することに適応してしまった人間も等しく下賤であるとミルは言う。
シナの官人が専制政治の道具であり単なる被造物であることは、もっとも下賤な農民がそうであるのと少しも異なることはない。


終わりに。

ミルのこの本は自由とは何かということを考える上で重要である。とくに感じたことはやはりアメリカは自由の国であり、その点で強大な経済力や超大国としての強さを維持している。何でもアメリカに追従するわけにはいかないが、こと自由という点に関してはアメリカを全面的に見習うべきだ。

本著は訳の関係上、第一章が難解である(ヘーゲル著作に見られる愚者のふるいおとしが目的ではない)。しかし二章以降だけ読むのでも問題ないので、つらくなったらそうするといい。

2.03.2014

本当に「社会に出たら理不尽なことも耐えねばならない」のか

ぼくは説教されることが非常に多いのである。およそめんどうな部下、学生だろうなあと申し訳なく思うのだが、基本的に説教は馬耳東風である。怒られる内容でいちばん多いのが、

「そんなことでは社会に出たら通用しない」「社会は理不尽も耐えねばならないところだ」

ということである。

ぼくが怒られることが多いのは、基本的に「正しい」と思ったことをしたときであり、結果イレギュラーな事態をひきおこす。大多数のひとは「正しいと思われていること」をしているから、摩擦なくなじめる。しかしぼくにこれはできない。できないというか、もう本能レベルで忌避していると言ってもいい。

自分が正しいという確信があるため上司も怒りにくい。ぼくは説教を甘んじて受けるが、お前は間違っている、と言えばぼくは自分の正当性を主張するだろう。説教する相手に非がないのに怒るのでは上司も立場がない。しかしイレギュラーな行為を辞めさせるには説教しかない。そこで持ち出すのが社会という概念である。

ぼくは社会が理不尽であることを否定するつもりはない。社会とはそういうものだ。J.S.ミルが「自由論」で語ったところのものをここに記す。

(社会は)法律上の刑罰以外の方法によって、自己の思想と慣習とを、それらに反対する市民に対しても、行為の準拠として強制しようとし、また、自己の慣行と調和しないあらゆる個性の発展を妨害し、できうればこのような個性の形成そのものを阻止し、あらゆる人びとの性格が社会の性格を範として形成せらるべきことを強制しようとする。
ミルは「こうした社会的な暴虐は、政治的な圧制よりも恐ろしい」とし、この暴虐に対し防御することが人間の良い状態に不可欠だとした。

ミルの語ったとおり、社会は慣行を強制する同調圧力がある。ぼくの上司は、自分が理不尽な思いを受けたから理不尽な思いをさせることを厭わないし、自分が社会に対して従順だったからこそ、それを強制することを疑問に思わないのだ(わかりやすい例で言えば、サービス残業)。

しかしぼくは社会に縛られる人が哀れに見えてしまう。社会とは人間の生、つまり圧倒的正しさの前にはちっぽけなもんである。自分の生を社会に呑まれるままにしている人は、生きることなく死んでしまうだろう。

社会は理不尽なものである。しかし社会との接点はおのおのが決めるべきことだろう。社会に没我して生きていくことも、ある意味正しい。それは幸福な人生だろう。とくに日本では、波風立てず普通に生きるロールモデルができあがっている(アメリカであれば起業してエキセントリックに成功するモデルがあるんだろうか?それはそれで大変そうだ)。一方で社会から離れて生きていくこともできる。これは幸福な人生かはわからない。およそ世間的な幸福とは無縁であることは事実だ。しかし――

人間には社会から離れる権利がある。慣行や思想の同調圧力から防御し、逃れることもできる。そのことを忘れずに生きたいものだ。人間そのことを忘れては、奴隷根性が染みついてしまう。だからぼくはこう言おう。社会に出たら理不尽なことに耐えねばならないのか?違う。社会に入ったら理不尽に耐えねばならない。社会はちっぽけで、間違っていることもあるおかしなものだ。




おそらくこれを読んだ人はこう思うだろう。「筆者は愚かである。ひとは相互扶助の概念なくして生きてはいけない。生きるには信念よりも器用さが必要だ。筆者はだれからも嫌われてのたれ死ぬのがお似合いだ。」

しかしおよそ煙たがられたり、嫌われることには慣れてしまった。こうまで吹っ切れると、人間は強い。「求めぬ人間は求まられる」という言葉があるが、筋のとおった生き方をしていると凡庸な敵を多数生む一方で、強烈な共感者をえるものである。

ぼくは自分の人生に疑問なく生きたいだけなのだ。そのために短命であったり不幸であってもかまわない。


#ぼくは最近アマゾンレビューを書くのが好きなのだけど、辛口のレビューをするのは楽しい。ぼくは「人それぞれ」という言葉を嫌う。つまらない本ははっきりつまらないと書く。それが本当のレビューじゃないだろうか。