3.30.2014

晴耕雨読――天才はなぜ自然を求めるか?

晴耕雨読、という言葉をはじめて知った。
晴れた日には畑を耕し、雨の降る日は本を読む、のんびりした農園的生活。ただしこれが実は最も健康的で知的な生活である。劉備と出会う前の諸葛孔明の生活が、こうであったらしい。
まことにぼくはこの言葉に共鳴するばかりである。
ぼくの昨今の日記からかいつまんでみよう。

三月二十九日「ぼくは人に倦んだ、そして社会にも倦んだ。ぼくの救いと癒しは自然と書物にしかない。」
三月二十一日「ぼくは自然と思考を愛するのであって、決して権威や富ではないのだ。」


このような思考様式の昨今であるので、諸葛孔明のライフスタイルが心境に合致することはいわずもがな。まことに目の覚めたる人間には生きづらい世の中である。こういうと、何を知者ぶるか、と言われるだろうが、ぼくは天才である。目の覚めたる人間である。この際だから断言しちゃおう。

それは、望んでではなかった。ぼくは他の人と同じように、笑って、楽しんで、幸福に暮らしたかった。目の前の小さなことに喜んで、それと同じように小さなことに悲しみたかった。しかし天性の孤独への希求、あるいは呪われた運命か――まあ端的に言ってしまえばコミュ障と人格障害の結果、孤独に沈湎せざるをえなかった。

孤独の大海にとびこんだぼくは、その深さと味を知った。そしてさらに知ったことには、小さな喜びは蒙昧であり、小さな悲しみこそ真実味を帯びていて、もっと大きな真実とは、この世は巨大な絶望につつまれているということだ。

    ぼくの始まりは人格障害だったが、行き着く先はますます深い孤独だったのだ。
    もがけばもがくほど沈む泥沼。

生そのものが絶望であること。これに気づいた人間は、金や権威などがなんたるかを悟ってしまう。幸福の正体がなんであるかを知ってしまう。であるから、書物自然、それだけを希求するのだ。それはなぜか。自分の共感者は、大衆にはないから。自分の共感者は、書物のなかの天才だけなのである。

書物の天才、哲学者や文豪は、なぜぼくの共感を呼ぶのか。それは著者の特質というよりは、書物というものの持つ特性によるというのが昨今の考えである。書くという行為、これは孤独の行為である。書くという行為におぼれた人間、書物の中で踊る人間にぼくは共感していると言っていい・・・。これは本義から外れるので、深く掘り下げない。

大衆の趣味、つまりテレビ、ゲーム、漫画、飽食、SNS・・・大衆向けの趣味は、つねにこうアピールする。これこそは幸せだ、このために生きるのだと。しかし認識者は知っている。この世に生きるためにすがるものなど何もないのだと。

孤独者が自然を好むのは消極的な理由だろうか。ひとと接することが蒙昧を生むのだから、孤独者はひとから離れたところ、すなわち自然を求めるのか。言いかえれば、人いるところに非自然があり、人がないところに自然があるという双極があるから、自然を求めるのか。言葉あそびになるが、人あるところが不自然であり、不自然ということは一種の蒙昧、過誤、抑圧を含むから避けるのか(ある時代の西洋哲学では不自然=理性的だったが)。
この答えはぼくにも少しわからない。しかし消極的理由があることはたしかだが、深層心理が自然を求めている感覚はある。

自然を求めない人があるだろうか?自然よりも人びとのぬくもりを求めることが「自然」なのだろうか。ここは難しい。フロイト曰く、「集団心理は個人の心理に先立つ」のであり、その意味では孤独を求める人間はニュートラルな意味での進化と言ってもいいだろう。ニュートラルと言った理由は、科学的には孤独への待避は病理ともとれるからだ。

ひとは集団=社会の力で自然を征服した。しかし自然を支配した次には、人に支配されたという顛末がシモーヌ・ヴェイユの語ったところである。ところで、ヴェイユは単純な肉体労働こそ幸福な労働だとしており、この点タイトルの晴耕雨読に適う。さて現代社会では、個人は支配者を選ぶことができる。人からの支配と自然からの支配だ。ここで自然からの支配を望むのが、認識者ということになる。

そこにはアニミズム的な自然への盲目的な信頼や、エディプスコンプレックス的な大地崇拝があるのかもしれない。しかし人からの支配に人生を費やしたくないというのが大多数の望みじゃないだろうか。大地に忠実であれ、とはニーチェも語るところである。

ここまで、ぼくが晴耕雨読にひどく共鳴した経緯を語った。

ぼくは天才と宣言したが、二流大に在学する凡人である。ぼくより賢いひとびとが続々と一流企業で活躍――一流企業で活躍!なんて浮ついた言葉だろう――しているのだから、ぼくが間違っている可能性は多分にある。人生をどう生きるべきか。あるいは、どう死ぬべきかというのは人間の不変のテーマであり、明確な答えはないだろう。何か意見があったらぜひコメントにください。

3.29.2014

TEDがどうしようもない映像群に見えたので

TEDという動画サイトをぼくはこのまえ手放しで賞賛したが、あれを取り下げたい。昨日ひさしぶりにTEDを観たところ、どうしようもない愚物、とりとめもない映像群に見えた。

それはなぜか一晩考えて、答えがでた。プレゼンというものに限界があるのである。そのプレゼンの中でも、大衆に訴えかけるプレゼン、これは必然的に愚物にならざるをえない。

なぜなら大衆が求めるものは「真実」よりも「よくできた嘘」なのである。だから受けるプレゼンは嘘だらけだ。ぼくはTEDを嘘つき大会と言いたいのではない。たしかに彼らのデータはエビデンスがあるし、「事実」と言っていいレベルにはあると思う。
たとえば人気あるプレゼンはこういうタイトルだ。「こうすれば幸福になる」「効率的な仕事術」ぼくがこれらを欺瞞に感じるのは、ひとはそもそも幸福になれるのか、金を稼いでその先になにがあるのか、という視点を欠いているからである。
たしかに多くの人にとって「金を稼ぐ」「幸福を追求する」ことは重要な課題である。「人は幸福を追い求めるために生きているのよ」なんて(いかれた)米国ババアが言いそうではある。しかしその追求が間違っているとしたら?この世に幸福なんてないとしたら?効率的な仕事の先には、奈落しかないとしたら?

真理は常に少数派にある、とだれかが言った。大衆向けの書物はつねに腐臭がする、とだれかが言った。そのとおりである。万人向けのプレゼンは常に腐臭がする・・・。

情報というものをひとつ考えてみたい。これほど情報があふれる社会であるが、本当に必要な情報というのは限られている。今日の株価はどうだ、事故で何人死んだ、という事柄はぼくらの関心を引きはするが、それは重要ではない。バガヴァッド・ギーターのような宗教書、世界で二番目に読まれている本であって、それが秘密文書だったと知る人は少ない。ニーチェの本に、「だれにでも読めるが、だれにも読めない本」と序文が書かれている本があった。そのとおりで、ギーターを読んで真理に到達できる人もいれば、土人の空想話と片付ける手合いもいる。その意味ではギーターは現代でも秘密文書である。

もう少し身近(でもないが)ヘーゲルの書物は、数ページ読むと眠くなるようにできている。眠くなるあなたは正しいのであって、あれはヘーゲルの意図したことなのである!それを乗りこえて真理を得ようという人間だけに、あとの文章を読む資格があるというわけだ(賢い人間は二章から読むが)。

もっともっと身近な例は、医療者向けの情報サイトである。あなたは医者ですか?と聞かれる。そうだ、と答えると統計データや詳細な副作用データを得ることができる。患者です、と答えるとそれらを得ることはできず、枝葉を切り落とした「平易な」文章しか得られない。患者に詳細なデータを与えると混乱するのである。医療者に見当違いの質問をぶつけたり、治療を拒否したりする。

大衆は高度の情報を扱えない。だから、TEDはその腐敗をまぬがれることができないのだ。たしかに、その価値はある。その道のプロによる練りに練ったプレゼンだから、おもしろくないわけがないのだ。しかし、真理とはおもしろいものではないし、だれにでもわかるものではない。

ぼくが昨日TEDに「醒めた」のはそれに気づいたからである。それまではぼくも、TEDの講演をほとんどすべてすばらしいものと誤認していた。TEDを観ることで賢い有意義な人間になれると思っていた。しかしそれが間違いだと気づいた。

やはり情報媒体は本に限る、と思う昨今である。

3.28.2014

なんとなく書いてみたよ!

朝。

日はまだのぼりきっておらず、いちだんと冬の厳しさに晒される。二度しか吸えなかったタバコをもみ消してアパートから飛びだしたぼくは、見知ったサラリーマンたちと一緒に、えさに群がる蟻のように、駅へ急ぐ。
「蟻・・・。たしかに蟻のようだな」
とひとり自嘲的に笑って、白い息がもれた。黒いコートに黒い鞄。油をぬった髪と靴は鈍い光沢を放ち、それは甲殻のようである。硬い外骨格に、柔らかい内面をつつみこむ。守るべき内面。
改札は毎朝の挨拶がわりにぼくの定期を飲みこみ、道をあける。
「二番線、電車が参ります」
ゴウゴウと音を立てて列車が止まる。都心から遠くはなれたこの駅では、まだ空いた席がある。ぼくは黒い列の間に空白を認めると、自分の体をパズルのピースのようにすっとはめ込んだ。両隣のサラリーマンはこの若者に対して肘を寄せてくれる。調和的で常識的なマナーのよさだ。満足しながら、ぼくは鞄から流行の小説を取りだした。
通勤ラッシュよりまだ早いこの時間に電車に乗るのは当然、座席に座るためである。席に座るのと立って過ごすのとでは格段の差が生まれる。片道半時間の毎日の通勤を、自分の好きなように過ごすか、他者に押しつぶされながら過ごすのとでは疲れが違う。もちろん大多数の通勤者は立って過ごすのだが・・・。ぼくは彼らをまったく尊敬してしまう。
「駆け込み乗車はおやめください。駆け込み乗車はおやめください。」
停車、なだれ込む人びと、発進。停車、なだれ込む人びと、発進。頭の後ろの窓の外では、日に照らされた住居とビルが走っている。ぼくは小説の表面をなでるように流し読む。どうせ頭には入らないのだ。すぐに視界のすみからまどろんでいき、何色とも言えない眠りの世界に落ちていく。世界は実態を失い、ピントのぼけたでたらめな絵に変わる。ぼくはゆりかごの中の裸の少年・・・。ぼくはゆりかごの中の裸の少年・・・。

「大変混み合っております。次の電車をお待ちください。次の電車をお待ちください」
「車両の中程にお詰めください。車両の中程にお詰めください」

張った糸が切れるように、眠りが途切れる。不快な目覚め。何度聞いてもなれないアナウンスの音量のおおきさには辟易とする。不快な音は携帯のホワイトノイズのアプリでかき消すことにしている。ラジオの周波数が合わないときの砂嵐音、といえばホワイトノイズのことがわかるだろうか。あのザーザー音である。雑音は嫌な音を平板化することに役立つ。ノイズはぼくを静寂な海の底にいざなう。ぼくは座っているが、目をつむれば、周りは海の中だ。
「ご乗車ありがとうございました。終点、新宿――」
ばたばたと降りる人びとの慌ただしさに目が覚める。今度は実に行儀のよい目覚めだ。習慣こそ眠りを制御せしめるのだ。
車両は一挙にしてからっぽになり、あとには妙な湿気と臭気、靴底の汚れだけが残った。ぼくは広々とした空間のなか伸びをして、階段を上がる。ひと、ひと、ひと。流れるひとびとの洪水にもまれながら歩く。しかしそれもしばらくのこと。砂場にバケツの水をぶちまけても、末端のちょろちょろとした水の流れはどこかで停滞する。改札を出たら、あとは自分の意志で歩かねばならない。



地上は変わらず寒い。会社に行くにはまだ時間がある。コンビニでタバコを買う。高い。410円のタバコを握りしめ、自動ドアを出ようとした。
そこで、後ろからこづかれた。
「邪魔だ」
とっさに後ろを振り返る。小柄な中年男性――僕と同じように黒いコートと黒い鞄の男が、ぼくをにらんでいる。過剰な整髪料のオールバックの下の三白眼は、肝臓が悪いのだろう、やや黄色にくすんでいる。えぐれたようなほほが男の神経質な顔立ちをつくっていた。
ぼくは唐突なできごとに、言葉を失った。ただ歩いていただけだ。いたって標準的な速度で・・・。しかし、男はかまわず僕に悪態をつく。
「邪魔だと言ってるだろう」
ここですぐに謝ればよかった――ぼくは沈黙を続けてしまった。というのも、何が起こっているのかつかめなかったから。多少なりとも機転のきく者であれば、即座に謝って男から離れただろう。それが常識的で、調和的な態度だ。
「謝れよこら」
それにしたって、これは不条理だ。ぼくはただ歩いていただけだ。これは事実だ。しかしここで言ってはいけない。ところが、思ったことが口を出てしまう。
「ぼくはただ歩いてただけだろう」
男の黄ばんだ三白眼が突き出る。男にしても、信じられないという顔だった。
「なんだ貴様は」
ぼくの胸ぐらをつかむ。見栄で買った、偽物ののアルマーニのネクタイがひしゃげる。今まで経験したことのない恐怖と焦燥で汗がにじみでる。ぼくはたじろいだ。しかし、ぼくは眠かった。心の外骨格を準備し忘れた。本当のぼくは面倒ごとが嫌いだったはずじゃないか。それでも言葉が口を出る。
「なんだお前は、頭がおかしいんじゃないか」
男はいよいよ激高し、ぷるぷるとふるえ始めた。胸ぐらをつかむ手を左手に持ちかえ、ぎゅっと体をひねった。
殴られる!ぼくは身を固くした――

そしてやっぱり、殴られたのである。左頬が痛い。殴られることの痛みは、皮膚の腫れではない。当座の痛みは、骨にひびく瞬間的な圧力にある。殴るということは、実際は骨と骨のぶつかり合いなのだ。
ぼくはよろめいた。そしてコンビニのポストを支えにして、相手をにらんだ。三白眼の男は勝ち誇ったようにほほえんだ。黒くて赤い怒りがぼくの心を煮えたぎらせた。なんでこんな目に――気づいたら、男に襲いかかっていた。むちゃくちゃに殴り込んでいった。一度目の右ストレートは耳をかすめたが、つぎの左はもろにあごに当たった。男はぼくを押し返そうとするばかりで、顔は無防備だったのだ。瞬間、男は意識を失ったのだろう、頭からコンクリートの歩道に倒れた。油に光った革靴を視点にして、振り子のように。ぼくは白い息をはずませながら、それでも幾ばくか冷静だった。

男の頭からは黒い血が広がっていた。
黒い甲殻に、コンクリートが穴を穿ったのだ。

ぼくはコンビニに戻り、トイレの鏡を見た。顔を左に向けても、右に向けても、ぼくはぼくだった。色とりどりの商品が、日常であることを教えてくれた。コンビニを出ると、相変わらず寒かった。強烈な朝日がぼくの目を焼いた。下を見る。男の頭からの血だまりは大きくなっていた。ぼくは座り込んでそれを眺めた。歩道の柵に座っている若者ふたりが、僕と倒れた男を交互に見ている。

遠くから太った警察官が走ってくる。滑稽だ。何もかも滑稽だ。

相変わらず、寒い。冬の厳しい寒さは嫌になる。通勤電車も、嫌だった。賢く切り抜けていたつもりでも、嫌だった。

全部、嫌だった。

ぼくが文学で学んだこと

文学というものを読み始めて、そろそろ三年だろうか。三年前では、本なんて読む気はおきなかった。読むにしても、今は軽蔑して止まないビジネス書や自己啓発書を読んでおり、その中でもカーネギーやナポレオン・ヒルなどは読まず、本当に軽薄な本をつまむ程度だった。

それが、自分が変わったのはやはり震災の影響だった。震災のゆらぎは、僕の蒙昧に穴を開けた。ぼくは無知の知を知った。廣田ゆいという現代芸術家が、震災を風刺して、魚と脳みその絵を描いていたが、そのように震災をきっかけに自我というものに芽生えたひとは多いと思う。

で、本を読み始めて三年経つ。毎日2~4時間は読書を続けたかな。ものごとを始めて三年程度というのは、経験上、何も知らないくせに何かを語りたがる時期である。おおよそ物事をなしとげるには、十年程度の継続が必要だろう。ぼくは文学っ子としてぺーぺーである。

そうであるにせよ、この三年間を振り返り、自分にどんな意味があったかを知ることは重要であると考える。昨今思春期的な悩みから、ぼくの立ち方、存在意義というものに疑問を感じるので、本という基盤のひとつから自己を探索する目的もある。

ぼくがこれまで文学で学んだことを挙げていきたい。

幸福とは愛と創造である

これはマズロー、フロムなど比較的最近の心理学分野から学んだことである。幸福とはなんぞや、という部分に哲学的な考察はいらないだろう。一般的な意味での幸福である。他者を慈しみ、愛を育み、創造的仕事に励むことが幸福への近道であるということだ。

金を得たり権力を得ることで幸福を得られるというわけではない。近しい例では、わたみの社長なんかは完全なサイコパスである。彼は多分な社会的成功を修めているが、彼が幸福かどうかは実際あやしいということである。

他者を慈しむ、愛を育むということ。相手を尊敬し、自分のものを与えるということ。そこに幸福がある。それでは創造とはなにか?創造とは主体的活動から生まれる。他者から強要されるような単調な仕事は創造性とかけ離れている。であるから主体的活動は「自由」から生まれる。つまりひとは自由であるべく自身の環境を整備し、能動性を発揮するべく努力することで幸福となれる。

創造的な仕事とは芸術分野にとどまらない。コンビニバイトであろうと、コンビニという一つの店舗の創造を担っている。元気な声で挨拶し、明るいPOPで飾り立てれば、「明るいコンビニ」を創造することができるだろう。われわれはそのような態度で仕事に臨むべきである。

孤独という知の源泉
孤独について。

ぼくは孤独というものについて偏執的な興味がある。だから孤独について一家言持つことができる。孤独とは世界に相対することである。われわれは他者といる以上、世界というものに直面することはない。他者とのつながりが一つの仮想的な世界となるからだ。しかし他者から離れ、大地を見つめるとき、そこに世界との闘いが始まる。われわれは人知の及ばぬ課題をつきつけられた挑戦者となる。

有史以来多くの哲学者が直面してきたこの世界との闘いは、実に孤独の闘いであったと言わざるを得ない。もし仮にニーチェにできの良い妹がいて、ソクラテスにできの良い奥さんがいたとしたら・・・きっと世紀の天才とはならなかっただろう。われわれは孤独になったとき真に世界と向き合えるのである。

さて、孤独とは独立である。独立とは自由である。これはさきほどの創造的な仕事にもつながるだろう。創造的な仕事は孤独から生まれる。なにかを生み出すということは、本質的に孤独なものである。たとえば創造的な仕事の例として、出産があげられる(冗談ではないぞ)。出産それ自体は助産婦や医師がいて成り立つものであるが、しかし出産するものはただひとりであり、本質的に孤独である。それは夫が手を握っていようと関係ない。創造的仕事は常に孤独なのである。


僕は愛を育む、他者を尊敬することが幸福であるとさきほど書いた。そうであれば孤独と幸福は相容れないのではないか?そのとおりである。孤独は不幸であることはだれの目にも明らかであるし、事実そのとおりなのだ。孤独者は高慢であり他者を尊敬することを知らない。したとしてもきわめて少数である。

上記二項の矛盾は容易に説明がつく。前者は心理学的なアプローチであり、後者は哲学的アプローチであるから。心理学の目標は基本、最大多数の最大幸福である。哲学の目標は真理の探究である。だから、幸福と真理の探究が合わさらないということなのである。

知は不幸である。これもまた文学から得た知見のひとつだ。

とまあ今日はここまで。続きはいつか書く。

3.27.2014

思考の循環

思考の循環。

今読んでいる本。「死に至る病」。

死に至る病とは、絶望である。絶望とは、自己をして自己であろうとしないことである。ぼくはキリスト教というものにさした魅力を感じないアジアンであるから、とくに熱中して読むことはなかった。しかしキリスト教とはまず群集から個人をわけるものであるということ、神との関係において人間を個体たらしめること、というのは興味深かった。

というのも、個人と群集というキーワードは昨今ぼくの重要なテーマであるので。孤独と社会、そのふたつの対極は、どちらもというわけにはいかない。「嘔吐」ではないが、孤独のアマチュアはいずれ孤独の引力に負けるし、社会的人間にしても同じだろう。

ぼくは孤独の道を辿りつつある。ひとは生きていく中で、自分の道を探すものだ。自分にぴったりの道。そこに至ったときひとはじたばたすることをやめて、深さを求めるようになる。孤独の深さ。ぼくはぼくをして誰からも自由にし、何物からも自由にするのだ。自由にして、そうして自己に自己で満足させる。これはキェルケゴールの言い分にもつながる。

確かに、社会の求める姿、あり方というものはある。ここでいう社会とは、他者、自分以外すべての人間のことである。すなわち友人、兄弟、親でもよいのだが。彼らはぼくにある姿を提示し、こうあって欲しいと願う。つまり、良い企業に就職し、良いお嫁さんを見つけ、良い子を育てる・・・。ぼくはそのとおりに自己の役割を演じるとしよう。この段階では、まことに幸福なものである。社会は共同体の一員であるぼくを受け入れ、ぼくは社会という母体を受け入れる。絶対的に「楽」「快適」、すなわち「幸福」な環境である。

ただ、一点のくもりさえなければ!すべての人間に突きつけられた紛れもない赤と黒の染みさえなければ!

それはつまり「死」という一極点である。死に相対したとき、ひとは紛れもない純質の孤独に
襲われることになる。われわれは死に対して孤独である。共同体の中、みなと調和の中に暮らしていても、死だけは他者に任せるわけにはいかない。人間はあらゆる作業を社会の力、集団の力で解決してきた。今でもよく言うではないか。「ひとは一人では何もできない」のだから、チームワークを大事にしようなどと・・・。

快適な集団人だった人間にとって、死はあまりに重過ぎる。しかし、死は必ず訪れる。そしてその死はいつ訪れるかわからない。死は誰にも代わることはできない。死は他者と共有できない。まことにわれわれは死という十字架を背負った或るものである。その十字架と全人的に相対するか、あるいは蒙昧でうすめあとにまわすか。以上が孤独の生と社会的生の違いである。

ぼくは死というものを見つめてしまった。のだから、必然的に孤独の道を進むことになる。

孤独の道、とはつまりいつ死んでも良いということである。いつ死んでも良い人間は常に今に生きているものである。そして楽しむにも、苦しむにも真剣である人間である。なぜなら他者と薄めることがないから。自己と対象の関係で完結させるから。

そのような人間であるということを認めた昨今である。おしまい。

3.25.2014

ぼくはぼくという存在をもてあましている

近頃のぼくはまことにペシミスティックになっている。自覚はある。

人間という存在は何ものか。そして私という存在は何ものなのか。

およそ「時代」というものがあるのはわかる。すなわちわれわれは微生物に始まり、類人猿に至り、人類に進化した。石器時代だのを越え、今から2000年前にはキリストとかいう人が生まれたわけだ。

でもって、今。今の僕。今の僕は、田舎の地主という中流階級に生まれ、親父の職業は特殊だが、母親は専業主婦で過干渉的にぼくを育てた。頑固な祖父と、献身的な祖母。昔は仲良く遊んだが、今はあまり口をきかない兄。

そんな具合だ。

いったいぼくというものは、歴史という大海の中の一本の線に過ぎないのだろうか?人類、という大きな年表があるとする。僕という人間の項目は、第3003232329番目の、1988年から、20XX年に至る、左右数cmの、線。それだけに過ぎないのだろうか。

つまるところ、ぼくの生と死、それに意味はあるのか。

ぼくが苦しんで、悩んで、ときには喜ぶことの意味、とは。

――意味?意味、とはなんだろうか。ぼくの悲しみは悲しみで終わるのだ。それに納得がいかない。何かを含意しているに違いない。この悲しみも、甘い蜜を隠しているに違いない。だからぼくは憤り、意味をほしがる。

多くの人は、これを他者に話すことで解消していく。悲しみを他者と分かち合うことで、それに「意味」を持たせる。宗教家にしても同じだ。

それなら、孤独の人は?孤独の人は、「悲しみ」をどう処理するのだろう。孤独の人には、他者と自己を同じにしない。自己と他者の区別をつけた人こそ、孤独に沈湎する者である。だから、他者には話せない。孤独の人は・・・。誰にも打ち明けない。打ち明けないことこそ、誇りである。そして、胃の中に、くすぶるままにしておく。

ああ、思い返せば、そうして生まれたのがぼくという人間だった。孤独の危険性を知らなかった。孤独との戯れを、楽しい遊戯とみていた。それが、なんということだ。ぼくは孤独から逃れられなくなってしまった。つまり、自己と自己の無限の葛藤。鏡を見よ、自己の最大の友と敵は自己である・・・と。

金を稼げばよい、女を抱けばよい、そんな単純な価値観が、真なるものであれば、ぼくの人生はどれだけ楽しく、幸福なものだったろう!実際のところ、悲しいものだ、金はいつかなくなり、女も離れるものであるから・・・。しかし、それでも飽くなき希求というものが存在するのである。

いったいぼくという存在はどうすればいいのか?ぼくはぼくという存在をもてあましている!!!

僕は神経症である。僕は考えるに、少し認識が深すぎた。神経症とはそういうところから生まれるものである。だから、あらゆる異常者に賛美を送りたい。おおよそ正しい人間は異常者である。


ま、どうでもいい。今日も酒にいらだち書いた逆文。

3.23.2014

自己が死にゆく存在であることを認識している或るもの

おはようございます。非常に気分が良い。というのも、十分な睡眠がとれていて、十分な余暇を満喫できているから。

まことに、人は自由でなければならない。自由であって初めて、無知蒙昧の霧が晴れるものだと思う。つまり自己の本来の立ち位置に気づけるということだ。そしてそれは一種の絶望を孕んでいるに違いないが・・・。

人間は基本的に、外圧を受けている。常にストレスに晒されて生きているのが人間の定義と言ってよい(あるいは動物の定義?)。であるから、完全な自由はありえない。完全な自由に到達したと同時に、抑圧に飛び込むのが人間の性だからだ。人間には完全な自由は耐えられない。この不可能性こそ、人間の限界である。そして人間と神との境とも言えよう。

たとえば僕は今自由であると言った。これはなぜか。一日十三時間の外出を強いられるある業務から解放されたからか。たしかにそうだ。僕は束縛から解放された。しかし次の日にはどうか。ぼくは余暇を利用して書物を読む。そこで直面するのは、より強固な絶望だった。つまりは、自分が必ず死にゆく存在であることの絶望である。

「死」とはまことに不思議なものである。人間を別の面から定義づけよう。「自己が死にゆく存在であることを認識している或るもの」。これが人間である。なぜなら人間以外にはこうした動物はいないのだから(宇宙人を除けば)。こういうと、手話を話せるあのゴリラはどうなんだ、と言われることがある。これははっきり否定しておこう。

手話で「ゴリラはいつ死ぬのか?」と問われると「年をとり 病気で」と回答し、「その時何を感じるのか?」という質問には「眠る」とだけ答えた(wikipedia)

手話で一千語が話せるゴリラ、「ココちゃん」はこう語ったという。確かに意義深い研究だとは思うが、残念ながらゴリラが死を認識していることにはならない。少なくとも、自分が死にゆく存在だとは認識できていない。これは非常に高次の頭脳が必要なのである。

まず前提として、ココちゃんの知能テストを行ったところ二歳児レベルの頭脳であることがわかった。
精神医学的に、死の認識が人間のどの年齢で起こるかの研究報告がなされている。それによると、一般的には九歳児になって初めて、自分が死ぬことを認識するようである。二歳児では確かに死というものを識別できる。しかしこれはココちゃんの語ったように、眠りに近いものとして認識されるのだ。この段階では死というものへの誤認(眠りと死は違う)、自分に必ず起きるものという認識の欠如がある。であるから、ココちゃんは死を認識していないということになる。

話を戻そう。人間とは死を認識したものであるということ。これは知恵の実を食べて楽園から追放され、大地で暮らさざるを得なくなったキリスト教的人間のモデルにも合致する(ような気がする)。

ひとはいろいろなことで悩む。離別、病気、金銭、嫉妬。これらの苦しみの原因は、結局のところ「死の認識」に還元できるのではないか。(では先に述べた小学校三年以下の年齢、自分が必死の存在であることを知らないものに苦しみはないかというと別になるが・・・。ここはどう考えればよいか。難しいのでここでは一端、子どもを自我のないオートメーションとして考えよう)

死について悩むことができるということはまことに人間らしいことで、多くのフィクションで死が題材となることも納得できる。嫉妬や恋愛に悩むひとは低次の悩みと言い切ってしまうこともできるだろう。

人は外圧からは逃れられない。そうであるなら、より純度の高い(それだけ苦痛は大きいにせよ)悩みにぶつかるべきである。その苦痛はあなたの目を啓くだろう。それがあなたの生を濃密にするだろう。
われわれの課題は目覚めていることに他ならない。(善悪の彼岸)
目が覚めていることは、苦痛に他ならない。だから、認識とは幸福にはつながらない。我々は知れば知るほど悲しむだろう。なぜなら自分が死すべき存在であることを、さらに如実に知ることになるから。

しかし、こうした外圧があって、人は初めて「生きる」ことができるのである。すべて人間の偉業は苦痛から生まれたものであった。「幸福な人間」は何も生み出さない。創造の苦しみは産みの苦しみであるから。

結局のところ、目覚めた者、あるいは目覚めてしまった者は「創造」をよりどころにするしかないのだろう。一本の杖にすがるように。

今日は、人間の定義について書いた。最後に、ちょろっとだけそうした人間がどう生きるべきかを書いた。創造とは何なのかについては、またあとに詳細に書きたい。

3.21.2014

黄色い壁に囲まれたひとびとに僕は永遠に共感できないだろうという実感。

隔絶。孤独。まことに僕は他者と相容れない存在だなと思う。

それは今日も飲み会に行ってきたからに他ならないのだが――親密な沈黙のある間柄でなければ、飲み会はつまらない。そうして沈黙のあたたかさは、ふたりのときでなきゃあならない。

みんなでぎゃーぎゃー騒ぐ飲み会はやはりダメだ、そぐわない。



いったいみんな全部が間違っていて、自分だけが正しいということがあるのだろうか。これはあるのである。ひとはみな、正しいと思われていることを正しいと思う傾向がある。

100人の村があるとする。ある意見Aに対し、60人は賛成、40人は反対だとする。すると、40人の反対者のうち、過半数の意見に流されやすい人が10人いるとする。すると次に調査したときには70対30となる。この30人のうち10人が、7割が過半数であれば、そちらが正しいのだろうと意見をくつがえす人がいる。こうして80対20となる。以下同様に繰り返せば、100人が全員賛成する意見ができあがる。

ぼくが何を言いたいかというと・・・。世の中には自分が何をしたいかに気づかない、絶望のひとびとがあまりに多いということである。

ああ、かくも多くの人びとがすべての思想のうちでもっとも祝福されているこの思想に目を蔽われてかくもむなしく日々を過ごしつつあるというこの悲惨、人間は特に大衆はほかのあらゆる事柄に携わらせられて人生の芝居のために機械のように自分の力を消耗させられながらただこの祝福のことだけは決して思い起こさせられないというこの悲惨、おのおのの個体が最高のもの唯一のもの――人生はこのために生きがいがあるのであり、このなかで生きるのは永遠も長すぎはしないのである――を獲得しえんがために個体として独存せしめられることの代わりに、逆に群衆の堆積と化せしめられているというこの悲劇、――こういう悲劇が現存するという事実のためには私は永遠に泣いても泣ききれない思いがするのである!(死に至る病/キェルケゴール)
長い文面・・・。あるいはこれでもいい。
黄色い壁やひとびとを信頼の念を持って眺め、世の中はいまあるがままの姿であると思うのである。もはやいっさいの意味を持たぬ緩慢で微温的な生活であるが、彼らはそのことに気がつかないだろう。(嘔吐/サルトル)
黄色い壁。これもでもいいか。「幸福は人間の一大迷妄である(ショーペンハウエル)」というわけで、微温的ひとびととは肌が合わないと思う昨今である。


人間にうんざりしたら、われわれはどこへいけばいいのだろうか?
人生に背を向けた多くのものは、実は賎民に背を向けたのであった。(善悪の彼岸/ニーチェ)
人生に背を向ける・・・。


人は人からは逃れられない。逃れるのであれば、人生から離れなければならない、ということか。

3.14.2014

労働は民衆のアヘンである。

マルクスをもじって・・・。

この一週間は、本当に自我の入る隙のない日々であった。早朝家を出、夜に帰宅し、寝るの繰り返し。あまりにしんどいので、3日風呂に入っていない。一分でも多く寝ていたいのだから・・・。今日も風呂に入らず、酒を飲んで寝入ってしまうだろう。

時間がない、ということ。それはある意味で快いものである。workaholic、という言葉があるが。まことに過労は酩酊に似た状態を生みだす。

このサイトか、個人的な日記か記憶は曖昧だが、「俺はアルコールで現実を見、カフェインで妄想を見ていたのか?」と言ったことがある。酒を飲むと気が大きくなる、というのは嘘だ。自分が矮小で、みすぼらしく思える。それではカフェインでは?自分が大きくなる。自己の内面世界が、防御壁をつくってくれるのだ。本当に、カフェインの陶酔作用はこころよい。それが一時的であることを除けば・・・。

とにかく、ぼくは酒を飲むと惨めな気分になるし、コーヒーを飲むと自分が無敵になったような気分になったものである。と、そんなことを話しているのではない。

聞くところによれば、日本人は平均して20時に帰宅しているという。20時!ぼくにとっては、寝入ろうという時間なのだが・・・。

まあいい、今日はハイボールを飲んでいる。こむつかしい統計だとか、そういうのを持ち出すのをやめよう。もう数字とか、そういうものはどうでもいいじゃないか。酔っ払いの戯れ言に耳を貸そう。

オッホン。とにかく、日本人ははたらきすぎである。はたらきすぎは何を生むか。それは無思考である。まことにわれわれは思考しないことを強いられている抑圧された人間である。私は思う、はたらきすぎの身だから思う。これはアヘンだ・・・。

なぜなら、本当はなにをしたいか、ということを忘れてしまうからだ。まことに、透明でまっすぐな人間でなければこの疑問が第一とはならない。この世界で、生まれ、死んでいくということ、この根源的疑問を克服せるために動く人間はまことに少数である。千円損するよりも、千円の得を、こう考える人はいても、私たちは何のために生まれたのか?この疑問を持続させるひとはほとんど皆無である。

哲学、と言ってしまっては、大衆を突きはなしたニュアンスがあるが。われわれの本源的な課題はそれでしかない。なにしろ、死を認識できる動物は人間だけなのだから・・・。

ああ、さすがに疲れた。死んだように眠るよ。明日の俺もがんばってくれ・・・。

3.12.2014

将来的計画について。

将来の計画について。

人間の精神の芯ができあがってくると、もはや肩書きとか年収とか、そういった表層的なものごとに執着しなくなってしまうものである。すなわち、そのような「成立者」はどのような環境においても自己の特質を保持し、内面世界を維持することが可能になるのである。例え官僚になっても清掃業のバイトになっても変わらない内面。

まことに人間の芯とは善良なものである。善良な精神こそ強さと永さをもつ。およそ死後まで不変ではないかと思うくらい。

結局のところ、ぼくの人生の目標というものはこの内面世界をゆたかにしていくことに他ならない。外面的なものごと、金や名誉などは、ある程度あればよい。それは内面世界のいとなみを脅かすことのないレベルでだ。ほどほどの社会的地位、食うに困らぬ収入があればよろしい。

一時期ぼくは年収二千万円を目標にかかげた。この動機も、金を求めるというよりは金から離れるためだった。早期に引退し、自由な環境を楽しむという・・・。しかし、思うのだが感性のにぶった40代、50代でいまさらなにを楽しめようというのだ。人生は一度きりである。ましてやニーチェの言うように無限に同じ人生をくりかえすというのなら、つまらぬ労働に身をやつす気にはならないだろう。

しかし、日常的な労働もひとには必要であると考える。ひとはあまりに弱い。ルーチンな労働は、社会との適度なつながりや生活の確立の意味で、不本意ながら必要と認めざるをえない。外的強制と数万年闘ってきた人間にとって――あまりに自由な環境は、内面世界を毒することもあるということだ。

そうであるから、必要なものは適度な労働である。しかし日本ではこの適度な労働は非常に難しい。労働環境は世界最悪レベルである。現在の大学生のぼくの生活にあって、自由な時間というものはほとんどない。趣味や読書を楽しもうと思うと、睡眠時間を削るしかないが、削った分の睡眠時間はツケみたいなものでどこかでとりかえさなければならない。それは一端では休日の過睡眠という形で、一端では精神崩壊という形で――。

であるから、適切な労働時間(週四十時間もかなり多いが、妥協しよう)が望める就職先をえらぶ必要がある。

現在その目標は達成できそうにある。これは特殊なルートだと思うが・・・、とにかく「それなりの収入」「転職の自由」「少ない労働時間」を達成できそうではあるので、その道を進もうと考える次第である。

まことに自由というものは扱いが難しい。自由からの逃亡、自由という刑・・・。前も述べたように、人間は人間である以上、本質的な自由には決して到達できないものだ。ぼくの前途はまるで自由なようだが――たぶん恐ろしく限局されていることだろう。
ただし内面世界のなかでは、ひとの精神はこの上なく自由である。もっとも、ひとである以上ひとの真理にしか近づけはしないだろうが。

しかしこの精神の自由の海で泳ぐこと、海の底や山頂で見つけた宝物をときたま絵や音楽、文章で表現することが楽しいので、この繰り返しで残りの生を消耗できたらとぼくは純粋に望むのだ。

3.09.2014

人間は自由に到達できるか

とくに書きたいこともないのだが。ひさしぶりの休日にもてあましてしまうので、思いつくままに書いてみようと思う。

シモーヌ・ヴェイユやオルダスハクスレーが言ったように、人間はあまりに弱いのであって、十分な余暇を与えるとむしろ困惑してしまうのだ。

「技術的には、下層階級の労働時間を一日三、四時間にすることはしごく簡単なことだろう。しかし、それで彼らがちょっとでも幸福になれるだろうか。いや、そんなことにはならないよ。――三時間半の余分な暇が幸福の源泉になるどことか、みんなはその暇から何とかして逃れようとせずにはいられない気持ちになったものだよ。(ハクスレー「すばらしい新世界」より)」

人間が人間である所以とは、自由にあるのではない。むしろ人間は不自由であるから人間なのである。
人は自然をその意志で克服した。しかし今度は人間に支配された。ぼくは日本という国を良い意味でも悪い意味でももっとも先進した国だと考えているが、その結果として精神を病むひとは増加しているし、自殺者数は交通事故より多いのだ。これは高度の文明社会ではしかたのないことだと考える。
とくに観察するに、他者の存在こそが隷従をもたらす唯一の本質的な因子である。人間のみが人間をよく隷従せしめる。(ヴェイユ「自由と社会的抑圧」)
昔の人は自然界の予測できないこと、人間の意志ではどうにもならないことに不安を抱いたが、現代のような豊かな社会では、人間関係に心を占領されて不安になっている。(エルネスト・ゲルナー)
人間におびやかされるか、自然に迫害されるのとどちらが良いかはわからない。いや、この際どちらでもいいだろう。重要なことはひとは根源的に不自由であり、不自由であるから人間ということだ。
そうであるなら、われわれは自由をもてあます存在ということだろう。どうせだからE・フロムから引用しておく。
我々は古いあからさまな形の、権威から自分を解放したので、新しい権威の餌食となっていることに気づかない(「自由からの逃亡」より)。
「自由からの逃亡」とはなにも、ナチス政権下の中産階級を批判しただけにとどまらない。現代的な無思考の傾向、つまり集団というものに迎合しがちな性質をも同等のものとして見ている。

しかし、真に自由であるとはどういうことだろう?

僕は今日一日を、自由に過ごすつもりである。正午に美術館へ行き、つぎに講演に行き、そしてイベントに行く予定なのである。まったく自由ではないか・・・。
しかし、一見自由に見えても僕は「ご飯を食べない」「排尿をしない」という選択はできない(肉体的不自由)し、うれしさのあまり美術館の絵をびりびり破いたり、公演中踊りだすことはできない(社会的不自由)。

何ものからも解放されることは人間には不可能なのだ。それではわれわれは人間の定義をこう言い換えることができよう。「人間とは自由を求める者である」。鞭うたれ重労働にあさから晩まで働かされる奴隷は徐々に自由への意志を失う。もはやかれは人間ではなく、一個の動物、機械になりはてる。見かけ上個人の自由が尊重された社会であっても、ひとは進んで支配し、隷従しようとする。それは資本主義社会で顕著だが、これはなにも資本主義のシステムが悪いのではない。人間の本性がそういうものだから、それが資本主義というシステムを害しているのだ。

人間は自由になったと思う瞬間、不自由におちいる。しかし人間は自由を求めずにはいられない。その希求にこそ、人間の人間性、美しさがある。
人間は到達を好むくせに、完全に行き着いてしまうのは苦手なのだ。(ドストエフスキー「地下牢の手記」より)
われわれは結果ではなく、過程の存在であるということだ。


以上、とりとめのない雑記になった。

3.08.2014

恋愛契約論が肌に合わない話

所感。最近はプライベートも賑やかなものである。

今日美術館へ行ってきた。彼女、というわけではないが女性を連れていった。ぼくはそれなりにモテるようだ。「ようだ」というといけすかないので、「モテる」と断言しておこう。
初めて美術館へ他人といったが、これは楽しさもあるが、煩わしいものだ。なにしろ芸術をどんな風に見るかわからない。どんな姿勢で、どんな深さをもって鑑賞するのかわからないから、終始気をつかってしまう。まあ、各々勝手に見ればそれがいちばんよいのだが、それでも絵と自分の関係の他に、見知った他者がいることは若干きまずい。

さて、ぼくは来るもの拒まずである(そして去る者は追う!)。しかし彼女はながらくできていない。ぼくにとって、彼女というものはわからないのだ。いつになったら彼女に”なる”のだろうか。セックスをしたときだろうか。たしかにセックスは男女の重要な関係を示す。これは因習的にもそうだし、法律的にもそうだ。しかし、セックスは必ずしも心で交わすものではない・・・。

それよりも重要なこと。「彼氏彼女の関係」とはつまり契約関係である。「つきあってください」「よろしくお願いします」の契約関係である。この時点で、浮気や放置は契約不履行となる(そして契約は社会の基盤である)。

しかし「ぼくはあなたが好きです。だからつきあってください」。この言葉があまりに難しい。まず、「好き」とはなにか。ぼくはあなたと一緒にいて楽しい。だから「好き」なのか。いいや違う。それならその辺の同級生と話すのと変わらない。
ぼくはあなたといると世界が溶け落ちそうに熱くなる、だから「好き」なのだ。・・・こう言えたらすばらしいのだけど、あいにくそのような女性に出会ったことはない。

結局のところ、「あなたと一緒にいると、将来の安定が保てる気がする。なぜならあなたは常識があり、家柄も良く、将来の収入も約束されているから。それに加えて、承認欲求やひとりぼっちの寂しさ、自己不全感を充足できるし(おまけに性欲の適正な解消もできる!)。だから好き」。
ぼくにとってほとんどの異性(つまり将来熱情をぶつけるだろう女性を除けば)このような女性しかいない。

そして、つきあうとはなんだろうか。ぼくは不自由なことがまっぴらごめんである。「つきあった」ことで、ぼくが少しでも「人間」から「彼氏」へと変遷しなければならないとしたら・・・それならぼくは孤独を選ぶだろう(いかんいかん、昨日シモーヌヴェイユを読んで学んだことを忘れていた。ひとは外圧からは自由になれず、すすんで外圧に抵抗するところに自由があるのだから――まあいい)

この「つきあってください」が容易に言えないがために、彼女ができないのである。世の人間たちが、容易に彼氏彼女の契約を交わしていると思うとぼくは正直動揺してしまう。そこに理解と覚悟はあるのだろうか。そして、ぼくのような人間はどう生きればよいのか。多数の女性と関係をもつドンファン的生活を送るのか。まあ、それでもよいかなと思う。結果はともあれ、動機は純然なものだから。



美術館は、というと・・・。モネとセザンヌを同時に展示するのはいかがかとおもう。ぼくはセザンヌを見つけると毎回吹きだしてしまうか、にやにや笑いだしてしまう。セザンヌの絵というのは、あまりに場違いなのだ。居場所などない絵が、なんとか自分の居場所を探してちぢこまって座っている、その滑稽さがおもしろおかしい。
だから他人から見れば気持ち悪いことこのうえないだろうが、笑いだしてしまうのである。

3.07.2014

シモーヌ・ヴェイユが僕の幻想を打ち砕いてくれたわけで

シモーヌ・ヴェイユ「自由と社会的抑圧」を読む。構成としては、第一章でマルクス批判をし、第二章でなぜ抑圧が生じるか、人は抑圧からは決して逃れられないとし、第三章はそれでも人は自由となりうることを説く。

本書では緻密で透徹した社会分析がされており、それでも人間の自由という希望をすてない点で、表紙の解説にあるように「誠実で真摯な考察」がされているとかんじる。

それにしても、ひとはその社会から逃れられないという事実をあらためて突きつけられて、ぼくは動揺を隠せない。世捨て人として完全な自由をまんきつしようという僕の試みは結局「逃避」つまり無謀な計画だったのだ。ひとは自由を求め社会から離れる、その行為自体が社会へ引きもどす作用を生むのだ。ばねじかけのように。



ヴェイユによる抑圧の分析について論じたい。おおまかに言ってしまえば人間はつねに自然の奴隷であったのであり、自然を克服した次にはひとに支配されたのである。そして主人も奴隷も一様に社会的抑圧の犠牲者であり、だれしもこれから逃れることはできない。
自然の呵責をまぬかれる代償として、同胞である人間にさいなまれる。 
社会というものは、それが存続するかぎり個人の生活をかなり窮屈な限定の内部に封じこめ、社会自身の規律を個人にも課するだろう。
マルクスが言ったような、「社会の生産性はどんどんあがるのだから、人はついには労働から解放されるだろう」という夢物語は夢物語に終わるのであって、ヴェイユはこれに「生産性はあがるよりむしろ下がり、人は労働から解放されることはないし、結局ますますがんじがらめだ」ということをのべているのである。


ひとは社会から逃れることはできずに、ということは抑圧からも逃れられないという冷たい分析の内容を聞いた。それではいったい人間の自由はいかにして存在しうるか?ヴェイユはそれでも
しかしながら、自分は自由たるべく生をうけたと人間が感じることを、世界のなにものも妨げることはできない
と希望をもたせてくれる。
それでは自由とは何か?
真の自由を規定するのは、願望と充足の関係ではなく、思考と行為の関係である。
願望と充足というのは、たとえばポカリが飲みたいときにポカリが得られる「自由」である。こうした自由の他にも思考と行為の関係がある。これは目的をもってある行為をなすときに、自分の中に自分の生む必然をもち行為をなすということ。ここに自由があるのである。

人間は人間である以上、不自由である。四方は壁であると考えてよい。その壁を少しでも押し広げる努力、あるいはその壁の中で何かを成そうとする努力、そこに一分の自由があるのである。
必然が押しつけてくる外的刺激に手もなく屈するか、みずから練りあげた必然の内的表象に自身を適合させるか、というふたつの選択肢を有する。ここにこそ隷従と自由の対立がある。
この抑圧的社会において、外的必然に対し内的必然を生みだし、それを守りとおす心が肝要なのである。


本書でもっとも影響をうけた知見

ところで、ぼくは将来クリエイターになりたいと思っている。本職になれれば本望だけど、副業として楽しむのでよい。もっと言えば、趣味としてでもよい。具体的にいえば、本の出版か音楽、あるいは絵画ということになる。

ぼくはこういうクリエイティブなことに関しては、センスやメッセージ性こそ重要と感じていた。つまり何物からも自由となり、人間という生物の芯の部分をさらけだすこと、内面世界の奥底からひきあげてきた宝物をつきつけることこそ芸術だと思っていたのである。

しかしヴェイユははっきりこう言い切ってしまうのだな。

自己にうちかつ機会を与えてくれるのは、ぶつかって乗りこえねばならぬ障碍である。学問や芸術やスポーツのようにこのうえなく自由とみえる活動でさえ、労働に固有の精確さ、厳密さ、細心さを模倣し、ときには凌駕しさえするのでなければ、なんの価値もない。
たとえ趣味で芸術をやるにしても、そこに精確さや厳密さなどの職業的な要素がない限り、価値はないのだ。たしかにゴッホやピカソ、あらゆる高名な画家は画家として生計を立ててきた人物である。絵に生き、絵に葛藤し、絵から逃げなかった(逃げられなかった)ひとびとである。大作はこうした人物からしか生まれない。

この点をぼくは勘違いしていた。まったく恥ずかしい。ぼくは以前こう書いたことがある。
僕はひたすらに沈黙を守りたい。パラフィルムで密封されたフラスコのように、自己の中で、自己を保全し、そうして自己を破壊しながら生きていきたい。自分の原子をぶつけあい、化学反応を起こしたい。これは傲慢だろうか?
傲慢だった、のである。これは逃避であり、自己満足だ。人は社会から逃れられないのであるから、この世にパラフィルムなんてないのだ。
人間はまことに打ち勝たなければならない。自己という存在を必然=抑圧に対しぶつけ、そして乗り越えなければならないのだ。そこに真のすばらしい作品がある。なぜならすべての人は抑圧から逃れられないのであり、それが純然な真理であるからだ。



この「自由と社会的抑圧」の内容は、まことに「バガヴァッド・ギーター」に類似していると感じる。ギーターは多くの宗教書と違い世捨て人となることを勧めず、ひとはそれぞれの社会的役割を演じながら真理に到達できるとした。これと同様に本書では社会的役割を演じながら自由に到達できるとしている。
ひとは人間である以上、諸々の行為をせずにはいられない。その動機、意志にこそ価値があることを両書では示している。

自由とは真理へ至る道である。ひとは自由を求めなければならない。と当たり前のことをのべて、今日はこれまで。寒い。

3.03.2014

黒沢明「生きる」は名作だろうか?いや

映画はあまり見る趣味ではないのだが、偶然から観ることとした。
ぼくは映画文法がどうのこうのはわからない。しかし古典作品であるだけに、素人目にも技巧が伝わりやすい作品であった。映画としてのできは、今回あえて語らない。ひとつの純質の、作品全体から発するメッセージにたいして記事を書こう。



「生きる」。こんな作品が名作扱いされるなんて、まったく悲しいことだ!


なぜなら、初歩の初歩。人間の正しいあり方を描いた、教科書レベルの内容なのである。こんなことに気づけない人間ばかりであることに、こんな当たり前の作品に感動してしまう人ばかりであることに、僕は強い悲しみを抱く。

僕はこんなこと、きっちり理解していた。このブログから自己参照してみようか。

「生涯をかけて学ぶべきことは死ぬことである。」 
人間、死を意識してはじめて生きることができるのではないか。
自分のために生きられない人は不幸である。死ぬときになってあなたは思うだろう。初めの20年は、親のために生きた。残りの40年は、会社のために生きた。わたしはついに自分自身のために生きることはなかった!と。 
自分のために生きよ!つまらない労働とちんけな報酬で飼い慣らされるな!安逸を嫌え!苦しみの中に美を見よ!他者の軽蔑の中に真理を見よ!今に生きよ!それが生きるということだ! 
愚鈍で怠惰な生に生きるくらいなら、6時間でも浄化された生を味わった方が良いのではなかったか? 
世の中、自分の頭でものを考えることができず、しようともしない、無思考で、怠惰で、どうしようもない受動的人間であふれかえっている。彼らは何も成し遂げることができないのに、自分を騙すことにかけては一流で、自分は良い人間で、自分は良い人生をあゆんでいると、つゆほども疑わず生きることはできる。かれらのような「生きる屍」は圧倒的多数派である。彼らは半動物であり、家畜である。 
だから、子どものように、好き勝手生きるのがいちばんいいんだ。 
金、安定、それらになんの価値があるだろう。しかしそれでもかれらは幸せである、なにしろ彼らは生きる前に殺されている――目覚める前にまぶたを縫われたのだ。過剰適応。主体の喪失。奴隷の鎖自慢。
このようなことをぼくは日々書き連ねてきたのである。ぼくはすでに、「生きる」を観て感動できる立場ではなかった。残念だ!残念だ!ぼくは鼻くそほじりながら「生きる」を観ていた。はるかな高みから、山頂から、「然り」を発した。なぜならぼくは生きているからである。

然り――僕の中でこの映画のテーマは弦楽四重奏曲第16番である。すなわち、Es Muss Sein! そうでなければならない!この厳格の中の厳格な言葉に対し、なんて軽やかで滑稽な曲だろうか。



ぼくの言うべき感想は、すでにツァラトゥストラが百年前に語ってくれた。
人生を愛しているこのわたしの見るところでは、やはり蝶やシャボン玉、ないしはこれに似た人間たちこそ、幸福をもっともよく知るもののようだ。これらの軽やかな、愚かしい、小さく可愛らしい、うごきやすいものたちがひらひらと飛ぶのを見ると、 ――ツァラトゥストラは心誘われ、涙をもよおし、歌をくちずさむ。