4.30.2014

このスキゾイド的なぼくにあって恋人ができたということ

恋人ができた。


当惑する、ぼくは。このことをうまく処理できない。

リルケの言う愛。「愛するとは、一人だということだ」、「自分の心は他人の心に触れてはならない」。こちらの方がしっくりくる人間にとって、恋愛はどんな響きを持つだろう。

微温的生活を嫌い、幸福の幻想に目が覚めたるところのぼくが、「もったいぶったこの世界のあらゆる詐欺の精華」である恋愛にうつつを抜かす?神経症的で他者と相容れないところの一個人が、他者と魂と肉体のを融合を果たす?孤独を愛する、ただ孤独の智慧のみに生きると誓った人間が、ある人間に愛を注ぐ?

欺瞞だ!

欺瞞だろう。

欺瞞である。



私を動かしたものはなにか?私という人間をして、恋に至らせたものはなにか?それは愛ではなかった!愛ではなかった。ただの遊戯だった。スキゾイドに、愛はない。スキゾイドはおそらく愛することができない。われわれには愛のまねごとしかできない。愛のささやき、いたわりの言葉、情欲の行為、すべてが借り物である。その場にふさわしい言葉を理性的に吐くこと、この世の舞台で摩擦なく演じるということ。Pオースター「孤独の発明」の父親。
神経症患者は、患者の現実知覚がゆがめられてるから、相対的にだけでなく絶対的に無能のものとして考えるのが一番よい(マニキール)


下卑た聴衆の声。
「相手はどんな人間だ」と!ぼくはこう答える。「ぼくは知る、他者を理解することなど不可能なのだと・・・。なるほどneuroticな人間は絶対的無能だと言えよう!他者の性質は、文法もなにもかも違う異国の言葉のようなのだ。他者と絶対的に相容れない。つまり、相手の性格についてはわからない。ぼくは彼女との会話において、次にどんな言葉が出るかまったく予想がつかない・・・。ぼくは女を理解することができない。」

顔?顔は美人だ。そして、蠱惑的な顔つきをしている。足はすらっとして健康的だ。肌は若さの暴力的な弾性力を持つ。ただし、彼女の精神といったら、どこまでも俗人なのだが(これは99.9%の人間につけるぼくの評価だ)、笑顔はすばらしい。


ぼくは当惑する。襲いかかる幸福の展望?自我の根幹のゆらぎ?「当事者」でありたくない意識?

ぼくは見たくない。幸福に顔を弛緩するぼくを。
そうであるなら、生の葛藤に彼女をも巻き込むのか?ぼくの醜悪な露悪癖に。


どこまでも。どこまでもぼくは遠いところにいる。彼女をして孤独に責め苛むほどに。幸福とは、自分ひとりの苦しみを、自分ひとりで抱え込むことにある。不幸とは、他者に痛苦をまき散らすことだ。


ひとつの贖罪としての恋愛。

「あれほど長く苦しい精神だったのに、何もかも間違っていたのだ。(ゲーテ)」

4.29.2014

散文(酔い)

ただ、書く。

書くという行為はそれ自体孤独なものである。あらゆる行為のなかで多分に純粋であるところの「書く」行為、その中にあっても、嘔吐はたぶんにある。そしておおげさではあるが、「霊感」の尽きるとき、というときもある。



道すがらのひとびとはもはやぼくにとってはモザイクでしかない。彼らは敵になることはあれど、味方になることはないだろう。往来のひとびとがすべて、ぼくの敵となる――これが真の孤独である。

サルトルの短編「部屋」を思い出す。狂人と化しつつある病人を、特別な感情で看護する恋人。それを説得し引き離そうとする恋人の父親。父親は恋人を説得しそこねた帰りすがら、街の中のひとびとに平穏を見出す。恋人は父親の出たあと、こう思う。「死ねばいいのに」。

ぼくはこの場合の父親の逆である。つまり、道行くひとびとの中で感じることは平穏どころか怒りと絶望である。ぼくとひととは永遠にわかりあえないという前提。異端者に往来はつらい。しかし、歩かねばならない。ますます異端者は隔絶されていく・・・。



蠱惑的孤独。
ぼくはまた孤独というものに惹かれている。道行くひとびとよりも、本の中の天才の言葉に耳を傾けることが不自然だろうか。もちろん、社会的マナーであるから、他者の注意に好意的に反応する振りはする。しかしそれはあくまで振りであるから、相手があまりにしつこいときには、露骨に軽蔑を表明する。



恋愛。
恋愛とはどこまでも余剰の産物である。E・フロムの言ったとおり、愛するということは何かを与えるということである。そこには何かしらの余剰がなければならない。
愛とはその手段においては戦いであり、その根底においては両性間の命がけの憎悪である。(ニーチェ「このひとを見よ」)
そういえば、戦争というのも余剰の産物だったか。

4.27.2014

普通の人間は天才にはなれないということ

最近連日酒を飲み、遊び回るという日々なので、内面世界と無縁の生活をしている。内面世界と戯れるのに必要なことは、ある程度の禁欲、孤独になることと、読書などですぐれた作品に触れる。あるいは大自然の中に身を置いたり、音楽など創造的活動をしてもよいだろう。

この時間がない。
すべてこういう連中は自分達の意見をのべ、自分達が同じ意見であるのを幸せにも認めることにときを過ごす。みんなが同じことを、みんな一緒に考えていることを、ああ、いかに彼らが重要視していることか。それは彼らの間を、目の据わった、自分の内面を見つめていることがあきらかな、そして彼らとはもうまったく意見が一致することのないひとりの男が通って行くときに彼らがどんな顔をするかをみれば、充分わかることだ。 (サルトル「嘔吐」)

世の中における異端者。人間の遺伝子が一定の確率で異常を起こすように、自然のなかの必然として生まれたところの精神病者。精神病因持ちとして生まれた人間はどのように生きればよいのか。それは「同じ意見」であることを幸福にしない人間。世の仕組みを受け入れるには、あまりに敏感な人間。人を忌み嫌いながら、それでも強烈に愛さざるをえない人間。

黄色い壁やひとびとを信頼の念を持って眺め、世の中はいまあるがままの姿であると思うのである。もはやいっさいの意味を持たぬ緩慢で微温的な生活であるが、彼らはそのことに気がつかないだろう。(同)

自身も神経質な人間であったクレッチマーは、「天才の心理学」で天才がいかに精神病的気質であるかを解明した。つまり、人類の歩みは躁鬱病、神経症、統合失調症者によって進められたという事実。「天才とキチガイは紙一重」であることを突き詰めて証明した書。知能と精神的葛藤の比例。
天才が神の賜物だとすれば狂気はそれに添えられた神の嫉妬である。(キェルケゴール「死に至る病」)


ラリースミスは「あなたに夢の仕事ができない理由」という講演で、歴史のなかに埋没してしまう平凡な人間の蒙を啓こうと、こんなことを言ってけしかける。
こんな言い訳もあるでしょう 「やるよ やるともでも・・・でも・・・ 結局のところ 俺は変人じゃない 情熱を追い求めるやつらは どこかオタクっぽい ちょっと変わってる そうだろう? 狂気と天才は紙一重って言うだろう 俺はヘンじゃないスティーブ・ジョブズの伝記を読んだが とんでもない やつとは違う俺はいい人間だ 俺は普通だ普通のいい人間だ 普通のいい人間には 情熱なんてないんだ でも立派なキャリアはほしい 情熱を追い求める用意ができてないんだ だからこうしようこれで解決するから 方法はあるんだ パパとママに教わったもの パパとママが言ってたよ必死で働けば そこそこのキャリアが築けるつまり必死で働けば 手に入るのは そこそこのキャリア 本当に本当に必死で働けば 立派なキャリアが手に入るこれって? 数学的にも正しいだろう?」 お生憎様 でも自分を納得させることはできるでしょうね
愛すべき偏屈な学者、ラリースミスの誤算。天才はどこまでも「生まれつき」の存在である。

乳児にある刺激を与える。その刺激に対し、すぐに順応する乳児群をAとする。つぎに刺激に対して弱く、過敏な反応をする乳児群をBとする。Aの乳児は成人しても、刺激に対して強い。つまり社交が上手で、リーダーシップを持ち、スポーツやセックスなどの激質的な趣味を好む。Bの乳児はどうなるか。これが成人すると、精神過敏の人間となる。人と離れて生き、読書や音楽など内面的で、おだやかな趣味を好む。Bの乳児がリーダーとなるときは、独創的な優れた偉業を成しとげることが多い。ジョブズもこのタイプだと思われる。
「三つ子の魂百まで」とは言うが、生まれつきの体や顔の特徴が一生変わらないように、まさしく人の気質は生来のものであり変えられない。

だからラリースミスは間違えている。普通の人間は天才にはなれない
天才は自ら闘いとるものだといういう天才についての格言ほど誤ったものはない。(クレッチマー「天才の心理学」)
しかしそれを悲しむことはない。凡人であるということは幸福なのだから。さきほど精神的葛藤と知能は比例すると書いたが、そのとおりで何かを知るということは絶望の連続なのである。ショーペンハウエルが「人生とは一種のデセンガニョ、即ち幻想の滅却である」といったように、仏教で「一切皆苦」が説かれているように。



天才の素因を持って生まれた人間は、幸福を追求してはならない。真理を求めなければならない。

ぼくがクレッチマーを読んで危惧したことは、自己肯定の感情が生まれたことである。なぜ自己肯定の感情が生まれたか。彼の説く天才の特性がぼくにも備わっていることがその内容から明らかだったからだ。

ぼくは神経症的な人間である。何かを創造するにも、躁鬱的創造家のように「創造の喜び」から作ることはない。歪みを正すような緻密な作業を得意とする。プラトンのイデアを追求してしまう人。詩人であるよりは哲学者。
強迫神経症者の活動性の根源は、ときに軽躁病者に見られる月るを知らぬあふれ出る力と創造の喜びではなくて、実はもっとも抽象的な理想主義、カントのアプリオリな義務の原理である。(クレッチマー「天才の心理学」)
このことを知って、ぼくはぼくであることの一種の満足と喜びを覚えてしまった。これはいままでにない経験だった。ぼくは異常者で、不適合者で、sensitiveな自分の神経に常に悩まされてきた。この「欠落」を直そうと、十数年努力してきた。しかし、もとより治療は必要なかった。ぼくは生まれながらの天才だったのである(滑稽なほど高慢な書き方だが)。自分に対して「然り」の感情が芽生えてしまった。

この感情にぼくは馴れない。自分が嫌いだったから。「自己に対して然りを言うこと、これは成熟した果実である」。ぼくは成熟はしたくないし、ぼやけた肯定の世界よりも、清明な生の苦しみの中で生きたいのだ。

――しかし、それこそが微温的な生活だとしたら?自分のneuroticな人格に悩むことは、なるほど世界と対峙する必要から目を逸らすことにある。自己に然りを言えるようになったら、今度は世界に然りと言えるよう、世を正す必要があるのではないか。そこに本当の「清明な生の苦しみ」があるんじゃないか。

とまあ、ぼくの悩みは尽きないわけだ。
「最適な人口は、氷山になぞらえて構成される――つまり、九分の八が水面下、九分の一が水面上というわけだ」
「それで水面下の連中は幸福なんですか」
「水面上の連中より幸福だよ。」

4.25.2014

酔いどれ諸君(ぼく)の泡沫――キチガイ文章

gimme that

慢性的な灰色の質感――すなわち青く深い。


酩酊の底にこそ真理がある。

全人的な不幸の享受。あるいは、受難と君はいうか。青いね。




見えぬ。
ぼくの世界。



神経症的な人間は、酩酊の底に真理を得る?

・・・然り。

あらゆる大脳皮質のはたらきを制御して、抑制せしめて、ようやくたどり着く真理。
知覚の呪縛?知の構築とその呪縛?知覚の扉?今回はその最後から。

ぼくらの頭のなかに内包する大脳は単なる制御器官であるという仮説。すなわち、あらゆる外界の情報をShut downして、「よい人間」たるべく視野を狭く、その趣一定たらんとするための器官、それが大脳であると。

であるならその大脳を封じてしまえば?アルコール、カンナビノイド、LSD・・・。この世の真理が見える、この世の真理が見える――。

統合失調症。ひとつの真理の到達点。

ぼくはこの孤独をどう扱えばよい?天才の行き着く先がすべて、精神の崩壊だったとは・・・。いや、名詞の固定化にだまされるな。精神の崩壊、これは遺伝子の意志であり、その先に天才が生まれる。この天才、凡俗で幸福な人間に属さない、桜のようにはかない人間たち・・・。



Relax。Alcoholの持つ文法。

ゆらゆら嘆きつつ打つよ。大海の中に溺れることはやさしさに包まれることだ。酸欠状態に陥って知る人間の答え。


人間の答え?そう、ぼくらは人間、あくまで人間、答えを知らされぬところの人間。ミカエリスメンテン式だの、ヘンダーソンハッセルバルヒの式がなんだというのだ?それがわれわれをどう変えた?

瑣末だ!

安部公房はPink Floydを好んだのだ。Echoes。確かに良い曲だね。



愛。私をして私たらしめないもの。

愛。ぼくの異常を受けとめてくれるもの。

愛。見えない。でも、僕は――



ひたすらゆらゆらゆれよう!ぼくは、道化人形だ。嗤い玉へ。ぼくは狂人になりたい、狂人の方が正しいから、でもこの情感も、ついぞ消えてしまう、そのことを知っている、青春の死、人間の死。キンチョーの夏、日本の夏。


アルコールは、あまりにつらい現実をつきつける!あまりに細く弱い僕と、世界とを対決させる!あわれぼくはジャブでノックダウンだ。それを笑うがいい。聴衆どもよ。

4.24.2014

気持ちのよいセックスには女の羞恥心が必須だという話。

バタイユはわれわれのやわらかい情欲の根っこをバターナイフでもって精密にえぐってくれるのである。

狂躁(オルギア)においては、融合、および融合の荒れ狂いが羞恥心を無化していた。羞恥心は結婚が成し遂げられるときに再び見出されたが、しかし結婚生活の習慣のなかでまた消えていってしまった。聖なる売春においては、羞恥心は儀式的になり、侵犯を示唆するようになっていたらしい。通常、男は、掟が自分の身において侵犯されるという意識を持つことができない。それだから男は、例え演じられた者であっても、女の狼狽を期待している。女の狼狽がなければ、男は侵犯の意識が持てないのだ。演じられていようとなかろうと、羞恥心によって、女は禁止と合体する。その音あの内部で人間性を築いている禁止と合体するのである。たしかに現代は、こうしたことを無視する時代になってきている。だが銘記しておくべきなのは、羞恥心のおかげでこそ禁止は忘れられないでいるのであり、羞恥心があるからこそ禁止の乗りこえ画、禁止への意識のなかで生起しているのである。羞恥心が完全に消えているのは、唯一、低俗な売春においてだけなのだ。 (バタイユ「エロティシズム」) 
上記の引用は、男が絶望的に侵犯を求める中で、女の羞恥、すなわち「禁止」を文字通り「犯す」ことにより、その欲望を達成することが書かれている。

さすがにフリーセックスという言葉は死語になりつつあるが、ビッチの氾濫すなわち性の乱れが指摘される昨今、ロリコンが顕著に増加しているのも自然といえる。ロリコンが少女を求めるのは、「生物学的に男は若い女を求めるから」ではない。あくまで情欲は精神の賜物である、ロリコンの求めているのは恥じらいなのである。

チェコの大作家ミラン・クンデラはいみじくもこういう。
私はあえて断言するが、両義的な曖昧さの技術なくして真正のエロティスムはない。曖昧さが強力になればなるほど、興奮は活発になる。(不滅)

あいまいさとは何か。対象が単なる肉体、性欲を処理するための肉体であればそれはあいまいではない。売春婦とは明確な存在である。ところが、これが中学生の少女だったらどうか。敬虔なシスターだったらどうか。――あるいは肉親であったら?聖女であると同時に性の場においては暴力的に乱れるという両義性、この両義性にわれわれは惹かれるのである。上記引用は、小説のなかで、あたかも親子のように支え合い生きていく男女が、一線を踏みこえ性に溺れたシーンからの引用である。

だから、妹モノや女子高生モノが増えるのも男子の性質上どうしようもないものなのだ。この論によればAVの演技というのは「あんあん、もっと」ではなく、「やめて、ダメ」の方が効果的であることがわかる。

とよくわからない記事を書いてしまったなあ。寝るか。

恥じらいは男たちの蜃気楼にすぎない。男たちのエロティックな夢。(不滅)

4.22.2014

凡俗と真理への志向、その他

考えてみると教師あるいは教師だった偉人は多いのである。あるいは大学教授でもよいのだが。
ニーチェや夏目やなんとやら。

大学教授にとって授業は気晴らしに近いものなのだという。科学的な冷徹な事実に立ち向かうなかの人間味を感じる救いというか。

どんなに神経質で孤高の人物であろうとも他者に教えることが教授や教師の使命というか職業上の義務である以上じっくり丁寧に教えなければならない。学生のなかにもバカはいる、というか大多数がバカに見えるのがおおかたの大学教授の本音である。学生群は教授にとってひとつの世界である。ボウフラのようにふらふらと目的もなくただよう彼らの整列は教授から見ればまさに”浮き世”なのだ。
彼らに物事を教えなければならない。バカにわかるような言葉で、それは媚びたり、楽しませたりするような形で半ば自分を軽蔑しながら教えるのである。つまり凡俗な言葉で・・・。
次第にかれは馴れていく、凡俗に俗人に教えることの技術と、喜びを知る。

・・・こうして世を揺るがす天才が誕生する。つまり生来の知性と、凡俗への志向が両立して初めて、偉大な人物となれるのだ。まったく逆に、凡俗な人間が職業上の必要から知性的な仕事をしても、天才とはなるまい(おそらく偉人にはなれるだろう、エジソンのような凡庸な偉人)。知性は生来のものである(クレッチマーの指摘したとおり、異常なほどの知性を持った人間は精神病質を持っている可能性が高い。)。

知者すなわち異常者は社会を倦み、ともすれば孤独に隠遁しがちだが、これは知者を貶める罠である。ここでいったん食いしばり、凡庸なひとびとのために仕事をしなければならない。生きるための糧である仕事から、天才は凡庸のひとびとに智慧をわけ与える術を見つけるのだ。
職業の強制する必要が、世界を改変し、世界を豊富にする。(「人間の土地」テグジュペリ)


かつて生き方についてぼくが悩んだことを書いた。そこで記したのは、セネカ的人生と、テグジュペリ的人生だった。「セネカかテグジュペリか。真理の探究に生きるか、すばらしい仕事に生きるか。ふたつがぼくを悩ませる。」とぼくは書いている。(このネーミング、適当につけたのでどーかと思うが)

前項の記載をふりかえれば、天才は真理の探究と、凡俗なひとに向けた仕事(決して凡俗な仕事でない)を両立して初めて生じる。おそらくこの二つが絡み合う必要がある。であるから、ぼくはセネカとテグジュペリ、どちらかというように生きてはいけない。ぼくが目指すべきは二つの極地である。




二兎を追うものは?



もうひとつ。

最近の哲学的所感。われわれのもっとも幸福な生き方とは、死を身近に感じながら生きることである。われわれの根源的使命は「生きる」ことと「子孫を残す」ことである。後者はともかく、この前者が、あまりに容易になってしまったのが現在。行き場を失った生存欲求は次第に腐りはじめ、病原巣となる。これは寝たきりになった老人が急激に衰弱することに似ている。であるから、死の片鱗に触れることでなまってしまった生存欲求を磨かなければならない。

「葉隠」にはこんな言葉がある。「朝毎に懈怠なく死しておくべし」。そのイメージと異なり意外にも明るく凡庸な武士の処世術を描いた葉隠であるから、このショッキングな言葉はむしろ「毎日を幸福に生きるための術」というほほえましい生活術ととらえられる。

安逸な生き方の中にこそ病がある。

ギーター。すべてを生成するギーターのクリシュナとは何なのか。これをぼくは種の総意とみる。これは詳しく書かない。また、暗黒質、激質、純質という種別がある。これをぼくは、「眠りし者」「目覚めようと意志する者」「目覚めし者」と見る。ニーチェの駱駝、獅子、赤子もニュアンスは異なるだろうが、同様のものと見る。


まあ、雑多なことはどうでもいい。


少し前のぼくの手書きの日記より。「哲学という学問は異常者による糞便と体液の巨大な堆積というのが実際だ」。うーん、いいえてみょー。

私の一生について。

ぼくの一生について考える。

明らかにひとと違う神経をもち、ひとと違う人生を送ってきたのはなぜか。最近はそのことをようやく直視することができるようになり、ひいては答えらしいものも見つかるようになった。

それまでは自分がひとと違うことを恐れていたし、孤独はきっとひどい味のするものだと考えていた。だからぼくは小学生の頃下校の間に、「ぼくの人付き合いをよくしてください」と神に祈ったのだし、おもしろい奴と思われたくて友人に媚びを売ったり、プライドを捨てたりした。

絶望的に他者と交わろうと試みながら、何度も挫折と孤独を味わったところのぼく。挫折と孤独の結果にぼくの神経があるのではなく、ひとと違うが故に独立せざるを得なかった。

いずれにせよ、ぼくは神経症を発症するのだが、そこからの地獄の期間も長かった。もっとも刺激に弱い時期にあって、もっとも孤独に悩んでいた。押し入れの布団に噛みつき、大泣きしたこともあった。なぜ自分はひととは違うのか?なぜ自分はひととは違うのか。


孤独は忌むべきもの。多数者の論理。いわば神をも屈せる大衆倫理であり、ぼくはこれに常に苦しめられていた。

多数者の価値観から脱することができたのはまことに最近のことである。思えばニーチェにひどく共鳴しぼんやりとした明かりのようなものを見つけ、それをたぐっていくと次第に確固とした地盤へと変わっていった。ようやくぼくは宙ぶらりんの状態から、母親のようにあたたかい大地を見つけることができたのだ。重力のありがたさ。

近頃の哲学。ハイデガーなど「死の哲学」に通じながら、「われわれは遺伝子の乗り物である」と結論したある医師の意見は正しいと思う。ぼくが異常者であることは神のきまぐれなんかではなく、遺伝子の生存本能による画策だった。このことは、ぼくを「公認」することであった。孤独と否認の海にもがき苦しんできたぼくにとってこの「公認」は、初めて手にした名前のようでもあった。実存とは「遺伝子」の課した役割、本来の役割を認識し、実践していくところにあるのではないか。

こうしてぼくは満足を得る。自分の人生に初めて然りと言えたのは、孤独のなかであった。

自己に対して然りを言うこと、これは成熟した果実である。(「道徳の系譜」)

しかしこうした地母神的微温は、ぼくを真の死に導くのであるが。なぜか?ぼくはそのように運命づけられてはいない。永遠に満足せず、およそすべての物事に否をつきつけるのがぼくの役割であるから。

ある美術館へ行ったときのメモ書き。「まことに飛びはなつ『然り』たちである。その然りはあまりに広大であって、『否』をも内包するというのだから。」真の然りは否をも含む。父親と母親があって初めて子が完成するように(片親の子はどうするんだとかつまらないことは言うな)、否と然りがあって初めて真の然りも完成する。

ちょっと飛躍する。であるなら、哲学者は母性的であるのか。たぶん事実だろう。彼らは男性と呼ぶにはあまりに中性的なのだ。多くの哲学者が男性機能に劣るというのは本当である。彼らはよき夫でありよき父親であることはない。これも遺伝子の優れた案か。男は子を産む代わりに創造すると言ったのはショーペンハウエルであり、産みの苦しみを説いたのはニーチェである。ぼくらは子を残すことは望まれていない。



「神の死んだ世界で生きていくのは、人間を乗り越えた超人です。 この超人は、意志、自由、創造力、孤独、自分自身への愛といった特質を備えた人間です。 同情されなくても、他人に思いやられなくても、生きていける存在。 」

であるなら、スキゾイドは?スキゾイドは超人だったのだ、と言えたらおもしろい。命名の危険性。変遷するものを限局し固定化する力。

最近は自分がスキゾイドであるのかわからなくなった。およそ対人関係からの撤退という部分ではスキゾイド的なのだが。今日書いたように、もともとは人間に激しく恋し、求めていたのだ。ぼくは人間に振られたから人間を嫌っているのか。あるいは人間に対する恋自体が歪みだったのか。

ああ俺の胸には二つの魂が住んでいる
その二つが折り合うことなく、互いに空いてから離れようとしている
一方の魂は荒々しい情念の支配に身を任せて
現世にしがみついて離れない
もう一つの魂は、無理にも埃っぽい下界から飛び立って
至高の先人達の住む精神の世界へ昇っていこうとする
『ファウスト』第一部

4.20.2014

本のおとな買い

暇なので本を買ってきた。







  • 銀河鉄道の夜 /宮沢賢治
  • 地獄の季節 /ランボオ
  • ロリータ /ナポコフ
  • きけわだつみのこえ 第二編
  • 黒猫・黄金虫 /ポー
  • 構成への最大遺物 /内村鑑三
  • にんじん /ルナール
  • 舞姫 /森鴎外
  • 狭き門 /ジッド
  • 雁 /森鴎外
  • 貧乏物語 /河上肇
  • 天才の心理学 /クレッチマー
  • 知覚の呪縛 /渡辺哲夫
  • 歯車 /芥川竜之介
  • 河童 /芥川竜之介
  • 門 /夏目漱石

  • 以上十五冊。ブックオフで2000円以内。

    これだけ買ったのは久しぶりだなあ。岩波文庫が多い。あとはちくま学芸、新潮。岩波文庫ってスノッブな連中にバカにされてるらしいけどどうなんだろう?ぼくは理系学生なのであずかり知らず。

    ジャンルとしては文学作品が多めである。これはぼくの傾向というよりはブックオフの在庫による。
    本当はぼくは文学は好きではない。想像力の貧困かもわからないが、いまいちつかめないのだ。それでもある限定された一群の作家は好きである。芥川、宮沢、夏目ときたらおわかりだろうか。こいつらみんな精神障害持ちである。ケケケ。であるから、スキゾイド兼神経症であるぼくは仲間の文学に共感を持って取り組めるわけ(もちろん同様の理由で太宰治・坂口安吾も好物)。

    あとはクレッチマーや渡辺哲夫のような心理学・精神医学的本、内村鑑三のような宗教家の本、番外として戦死者の遺稿を綴った「わだつみのこえ」の続編がある。


    天才の心理学 /クレッチマー
    で、今読んでいるのはクレッチマー「天才の心理学」。
    今言ったように夏目や芥川のような日本を代表する天才であって精神を患うケースが非常に多い。

    天才的素質は一種の精神病だという説は、すでにしばしば(いくらか逆説ずきの人たちによって)主張されてきたが、天才は人類の最大のほまれであるから、われわれは人類の名誉のためにも、この説を承認するわけにはいかないだろう。しかし、この素質がその持ち主に及ぼす影響のなかに、時には病的傾向のものがふくまれていることは確かである。天才的人間が自己の上に支配者を認めず、どんな義務にも縛られない絶対的権利を主張するやいなや、その病的傾向はさらに悪化しがちである。こういう場合は、すでに狂気に近く、また実際、狂気に陥った例も少なくない。神の命令に対する全く意識的な反抗や、あるいは挑戦的無神論は、つねに精神的不健康の始まりと見るべきである。実際、そう考えても決して誤りではないであろう。カーライルの伝記に、のちの皇帝ナポレオン三世が彼を狂気だと思ったという話がしるされている。カーライルがへいぜい抱いていたあの強い神の観念がなかったならば、疑いもなく、彼は気が狂っていたにちがいない。しかし、彼が単にあのような抽象的な理想主義者でなくて、現実的なキリスト者であったならば、彼の生涯は、彼自身にとっても、彼の家族にとっても、また彼の国民にとっても、どんなにかよい働きをしたであろう。
    眠られぬ夜のために〈第1部〉 ヒルティ
    その「人類の名誉のためにも承認するわけにはいけなかった」説をいじきたなく何でも解体してしまう学者らしい傲慢さで分析したのがクレッチマーの本。アリストテレスの言ったように「狂気の要素のない偉大な天才はいまだかつて存在したことがなかった」のであって、クレッチマーもこれははっきりと、

    天才、少なくとも特定の型の天才の間には、普通人の間におけるよりも、精神病名かんずく精神病質的中間状態の者が圧倒的に多く見られる。
    と断定してしまうんだね。で、これは何でかっていう話になる。病的素因をもった人間がなぜ生まれるのか?病気か?自然か?これは何かに特化した人間がいないと、例えば災害時などの異常環境下にさらされた場合人間という種が全滅してしまうからなのだ。種の存続という大目的のためのシステムなんだね。
    精神病質者はつねに存在する。しかし平時はわれわれが彼らを鑑定し、一旦緩急あるときには彼らがわれわれを支配する。
    これをクレッチマーは多数のよく適応した中位の個体と、少数の極端に偏異した個体にわけて考えた。

    例えば夏目自身はまぎれもない偉人なのだけど、神経症であり現世であまり良いことはなかったかもしれない。でも彼の著作は何十年も、ものすごい数のひとに感動を与えている。こう考えると、大多数の適応者だけでは人間たいした進歩がないことになる。

    さてクレッチマーの言及の中で気になったもの。
    天才に見られる凡俗的方面こそ、天才の作品に、その勤勉と、忍耐と、なごやかな緊張と、新鮮な迫真性などとあいまって、類天才人らの騒々しくもはかない駄作をはるかに超越する作品高価を与えたものである。
    クレッチマーは天才と一般人の他に、類天才人という項目を作った。彼らは精神病的素因がある。だから天才に近しい存在なのだけど、「凡俗性」に欠けるがために、天才のように全人類に貢献する仕事をしない奴らのことだ。類天才人は学生や三文作家あるいは詐欺師であり、例えば夏目の「猫である」を凡俗だ、とバカにしたりする。

    で、なぜこれが気になったかというとぼくもこの類天才人の一人なんじゃないかと思ったわけ。前の記事でこんなことを書いた。このブログを「自己目的的なブログ、あるいはぼくと同様孤独主義的、スキゾイド的な特定の人間に向ける秘密教義的なブログ」と方向付けてしまった。およそ凡俗とは言いがたい傾向だよね。ぼくの脳みそを緻密に開示しながら、なおかつ「だれにでも楽しんで貰えるよう」地道な努力をすること、その性向がなければぼくは三文作家に終わるだろう、なんて思うんだ。

    4.19.2014

    散文

    「何故にわれは汝を赦すことがあろうか――汝のごとき悪辣で臆病な動物を。汝は首を差し出すことを知らないだけそれだけ深く傷つけられ、突き刺されるであろう。しかし、汝が首を引くこともなく両手で防ぐこともなく、敢然として剣を迎え入れるならば、汝はいっそう長く生きるとともに、一層楽に死ぬこともできる。」

    セネカ「人生の短さについて」中の運命の女神(?)より。
    自己に刻み込んでいいくらい含蓄に富んだ言葉である。自己の生を投げだすこと。





    今読んでいる書籍群。

    左から。
    ギーターは良い。とくに鎧氏の訳は詩的である。ギーターの神聖な力強さは異次元的だとだれかが言っていたがそのとおりだ。

    バタイユは良い。考えてみれば、セックスとはわけのわからないものだ。なぜわれわれは異性を求め、あの恥ずかしいパコパコを経験するのだろうか?なぜあんな清楚な子が、男と性交するときはあけっぴろげなエロスに沈身するのか?

    ――バタイユはエロティシズムというタブーを死との類似性、侵犯への目的性から説いている。知らずうちに内面から湧きでて、自己を形成していると言ってもよいエロティシズム。これを立ち返って詳細に分析することはたぶん価値があるだろう。

    ジャック・デリダ。デリダはダリダ。難解でよくわからないので流し読みをこころみる。まったくわからないが、なかなか楽しい。

    高橋源一郎「ジェイムズ・ジョイスを読んだ猫」
    ・・・エッセイ集だったがこれはこれでありだ。この本を読んで良かったことは、英語の勉強をしようと思ったこと。一時期英語学習にはまっていたが、あれは暇つぶしと海外旅行の準備のためだった。今度は洋書を読めるレベルまで上達したいと思う。
    それに語学の学習は確実に思惟を鍛えられる。



    今日のこと。

    今日はバイクを乗り回し、適当に過ごす予定が、友人の誘いにより酒宴に。

    思うに、社交においても、他者を突き放すことは有効である。
    「あいつは大嫌いだ/キチガイだ/バカだ/死んだらいい」
    こう僕がいうと、場は多いに盛り上がるものだ。結局のところ、みな人に倦んでいるのだ。「コミュニケーション能力」とかいうものが跋扈する時代であるから。

    それにしても、ぼくはこういうことを言う人間ではなかった。
    曖昧な笑みをたたえて傍観する立場にあったはずである(スキゾイド的!)。それが、他者を辛辣に攻撃している。なぜこのようなことが可能になったか。他者の陰口を言うところの対象、その対象すらぼくにとってはどうでもいい人間になったのだ。

    真の孤独人としての道。独立人。まあ結局、スキゾイドだろう。



    最近は毎日酔っ払っている、私の頭に強烈によぎるものは、「然り」である。私は私でよい。傲慢であろうと、ぼくはぼくでよいのだ。

    ニューロティックな人間は自分に自分でよいと言えない人間である。そこからの解放は酒やコーヒーでしかない。一年前か?このブログでも書いたが、今でも覚えている言葉。「ぼくは酒で現実を見、コーヒーで幻想を見ていたのか?」

    ぼくは慢性的な抑鬱状態にあると思う、それだからカフェインで幻想を見ることができる、せわしなく動く人間、一方で酒に酔うと本当の自分に立ち返る、じっとりとした目つきで現実を見る哀れな人間。

    私は私であるところの支え、永遠的な支えがほしい、サルトルでさえボーヴォワールがいたのだから「私の居場所はどこにもない」などと言うべきではないのだ。

    ニューロティックな人間、自己に然りと言えない人間、自己肯定感の希薄な人間は絶対的に不幸である――が真実に近い。もがけばもがくほど泳ぎはうまくなるものだ。

    まあ、狂気と言えたらいいのだけど。ただのアルコールだからね。

    4.18.2014

    ブログタイトルの変更について

    ブログのタイトルを変更した。

    旧タイトル「本を執筆することになったので」
    新タイトル「Nosce Te Ipsum」

    旧タイトルを決定した理由はまさしく本を書きたかったからである。別に出版社から書いてくれ、と言われたことはないし、出版社に原稿を送ったこともない。ただこういうタイトルにすれば夢に一歩近づけると考えていた(当時はナポレオンヒルの自己啓発書にはまっていた。)。

    旧タイトルを制定したのは2012年12月。
    最初のブログ記事にはこうある。
    世界を変える必要があると思った。
    どうすれば世界が変えられるか考えたが、いちばん簡単なのは本を書くことだ、という結論にいたった。

    あのときのぼくの目標は「世界を変えること」であった。個人として世界を変えるもっとも有効な手段は書籍である。だから、「本を執筆」することが世界に変化をもたらす最高効率の手段だった。

    3年前のぼくに文句はないが、いささか子供じみている。「世界を変えるなんてばかげている」。そのとおり。世界は変わらない。今のぼくならもうひとつ言える。「世界を変えることに価値なんてない」。

    これは別にニヒリズムだのなんだのを持ち出す必要はない。この場合、世界=社会である。当時のぼくは日本社会の小さなひずみにニューロティックに反応していた。このニューロティックな面は今も変わらない。ただ、ベクトルが変わった。今までのぼくは社会に積極的に参与し、じょじょに変遷をもたらすことを目的としていた。いまのぼくは、正反対に社会から離れ、隠遁生活を送ることにした。

    ブログ開設からの3年の経緯をたどる。ぼくはちっぽけな学生だった。小市民的で臆病で人恋しい俗人だった。だからこそ、仲間たちのために世界を変えようという気持ちになったのである。それが3年の間、ぼくは真理と孤独の味を知った。同時に、いかに周囲の人間たちがつまらぬ俗人であるかも知った。

    高慢だろうか?それでもいい。おおよそぼくはぼくの軽蔑していた政治家たちと同じ道をたどっている。つまり最初は市民のために立ち上がる。そして立ち上がった高みから見下ろすと、市民たちのおぞましい醜悪さに目がくらむのである。かれらがなぜ国民の利益に反する決定をするのか?はこうしたところにある。つまり「救いようがない」。

    話を戻そう。

    新タイトルは「Nosce Te Ipsum」すなわち汝みずからを知れ。このブログの主な目的は、ぼくの文章力を育むためだったが、次第に哲学的興味に転向し、主な主題はぼく自身のことになった。まあ大抵のブログなんて自分のことしか書くことはないわけだ。

    であるから、自己目的的なブログ、あるいはぼくと同様孤独主義的、スキゾイド的な特定の人間に向ける秘密教義的なブログとして、英語でもなく日本語でもなく、およそ理解しづらいだろうラテン語のタイトルとする。

    私は人間仲間から隔てられ、孤独者であり、人間社会からの追放者である。(P・オースター「孤独の発明」)

    4.16.2014

    「安逸」という呪縛

    道はひとつのみ「是か非か」
     心は常に鋼鉄
    貧困は偉人をつくり
     功業は難中に生まれる
    雪をへて梅は白く
    霜をへて椿は紅い
    もし天意を知るならば
    だれが安逸を望もうか(西郷隆盛) 
    いつか与えられる――これもまた忍従の教えである。しかし安逸な人びとよ、わたしはあなたがたに言う。奪われるのだ、あなたがたは、ますます奪われるだろう!(ツァラトゥストラはかく語りき/ニーチェ)
    怠惰や、放任安逸な心の態度から拾い集めた満足は、もっとも嫌悪すべきものである。――戦いは、はげしく雄々しく戦わなければならない。(禅/鈴木大拙)
    人は誰しも
    いったん
    安定した世界に
    身を置くと
    精神も
    それにならって
    俗化し
    理想を忘れて
    だんだん
    怠惰になって
    いくようだ
    青春時代に描いた
    夢や理想とは
    かけはなれた
    生活をしながらも
    自分を
    磨こうという
    気持ちすら忘れ
    そのぬるま湯の
    心地よさに
    いつしか慣れて
    満足に本も読まず
    堕落した生活を
    送るようになって
    いくのである
    (新渡戸稲造)


    安逸を嫌うということ。雄々しく生きるということ。

    ぼくが本を書くにあたって心に決めたことはなんだったか。「だれかに何かを伝えようというのなら、人の二倍苦しまなければならない。大衆に何か伝えようというのなら、人の百倍苦しめ。」
    ぼくは今のところ苦しみから逃げ惑うところのあるものでしかない。

    ひとは苦悩を逃れ快楽を求めるために生きているのではないか?

    「否、否、三度(みたび)否。(ニーチェ)」

    人間の生が快にも苦にも変転しうるならそれも正しい。しかしあらゆる哲学者の指摘するように、生の本質は苦である。そうだから、快楽の追求は迷妄でしかない。

    人生は全面的な苦である。それを受け止めた上での幸福の追求、人生の苦を包括したかたちでの幸福の追求。ここにこそ能動的ニヒリズムがある。

    生の苦しみから目を逸らさないということ。苦が人生の本質であるならば、全人的に苦しんでやればいい。苦しんだ先にしか、真の幸福はありえない。

    「自分というコマでくるくると遊ぶ(岡本太郎)」






    わかっちゃあ、いるのだけどね!こうも毎日カツカレーだの、からあげだのを食べていては、真の不幸にうちひしがれようという気はなくなるものなのだよ。

    生き方に悩む二十五歳の春

    考える。

    これからの人生を考える。



    少なくとも、それは金を稼ぐためではない。たしかに、明日のパンがなければ生きられないことは事実だ。しかし、今後1000年分のパンを買う金が得られたところで何にもならない。さらには、より素材の良い、凝った味付けのパン、これもいらないだろう。

    つまるところこれらはどうでもいいこと、中庸で済ますべきことである。食に限らず、衣類にしても、車、住居でもそれが支障となるほど廉価ではいけないし、それが目的となるほど高くなってはならない。

    ではより高次の問題とはなんだろうか。



    多くの大偉人は一切の邪魔者を退け、財産や公職も快楽も捨てたうえ、ただ、いかに生きるかを知ろうとする、このことのみを人生の最後まで唯一の目標とし続けた。
    万人のうちで、英知に専念する者のみが暇のある人であり、このような者のみが生きているというべきである。
    どんな時間でも自分自身の必要のためにだけ用いる人、毎日毎日を最後の一日と決める人、このような人は明日を望むこともないし恐れることもない。(人生の短さについて/セネカ)

    セネカ的人生。つまり隠遁者的生活。都市の喧騒と誘惑から離れ、自然と対話し大地の真理を探求するソローのような人生。
    古代から近代まで、このような生き方は哲学者の典型であり、理想だった。真理を考えること、その至高の目的のために「人間としての義務を易々と捨てる(カイヨワ)」人生。
    とはいえ私は君を怠惰な、あるいは退屈な平穏に招くのではない、君は今まで熱心にしてきたすべての仕事よりも、もっと大きな仕事を見つけるであろう。君は退いて心静かにそれを実行するがよい。
    職業の強制する必要が、世界を改変し、世界を豊富にする。
    あるひとつの職業の偉大さは、もしかすると、まず第一に、それが人と人を親和させる点にあるかもしれない。真の贅沢というものは、ただ一つしかない、それは人間関係の贅沢だ。(人間の土地/サン・テグジュペリ)
    テグジュペリ的人生。職業中心的に、職業の強制に身を翻弄されながら、その抑圧と解放から智慧を得るような生き方。自己対世界よりも、もうひとつの宇宙、他者との関係において真理を見出す生き方。人間愛への回帰。

    彼らはいわば人生の遊戯に一緒に加わっているにすぎないので、ひとつのものに一切を賭するような神経勝負を経験したことがない、したがってまた彼らは自己自身のうちなる無限の一貫性の観念に到達することも決してないのである。(死に至る病/キェルケゴール)
    選択肢はいくらでもある その中から 運命を探し出すこと
    『運命』という言葉は嫌ですか? 『運命』と聞くと怖くなりますか?
    いま我々が問題にしているのはそれなんですよ
    あなたが持てる才能を 最高のかたちで表現できなければ
    『興味』とかいうものに甘んじてしまえば 長い人生に幕が下りるとき
    何が起きるでしょう お友達や家族が墓地に集まったとき あなたの墓碑に 刻まれているだろう言葉は 「マジックテープを開発した優れたエンジニア ここに眠る」
    しかし 別の人生であなたが その才能を 最高のかたちで発揮していたとしたら そこには こんな風に刻まれていたはずです 「大統一理論を確立し ワープ航法の実用性を立証した 最後のノーベル物理学賞受賞者ここに眠る」
    (笑) マジックテープねえ(TEDの講演/ラリー・スミス)
    いささか激質型の生き方か?


    セネカかテグジュペリか。真理の探究に生きるか、すばらしい仕事に生きるか。ふたつがぼくを悩ませる。およそセネカに傾きつつあったのだが、たしかになにかになりふり構わず打ち込むということ、それは主に仕事に対してになるだろうが、そのような生き方も確かに悪くないのである。

    ぼくは読書に嵌まる前は英語の勉強に凝っていた。毎日一時間は勉強していた(少ないだろうか?しかし本当に「毎日」勉強を続けられるひとは少数である)。あの充実した疲労感!まさに人生の時間を賭してもよいと思える快楽だった。

    しかし英語を勉強したところで何になる?という考えが頭をもたげ、読書へ傾倒することとなった。
    もし社会の善良にして幸福な一員であろうとするならば、全般的理解はできるだけ最小限に止めておくことだ。それは、だれしも知っているように、専門的知識は徳と幸福を増進するが、全般的知識は知的見地からいって必要悪なのだから。(すばらしい新世界/オルダス・ハクスレー)
    この引用はもちろんハクスレー流の皮肉である。

    ぼくにはすでに偉業を打ち出したいという欲求すらなくなってしまった。精神の若さを失っているのだろう。少し前までは、金と、名声が欲しかった。しかし結局のところ、ぼくらは死ぬのであり、贅沢な生活と周囲の賞賛が何をもたらすかを考えたとき、それは無に帰した。

    ぼくに必要なもの。孤独と隠遁。中庸な衣食住。自由と時間。これらは絶対に必要である。この条件を考えてみても、起業という道が選べるならば、仕事に生きることも適う。ぼくの生き方にマッチするのは、ひとつは「完全な隠遁生活」。最低限度の仕事に真理探究の「暇」に不足のない生活。もうひとつは自分のしたい「仕事」に専念する生活。それは起業し自分のしたいことをすること。自由な時間は仕事に費やされるだろうが、それは強制ではないのだから楽しんで行うことができるだろう。ソローが畑仕事に喜びを見出したように。

    考えはやまない。ますます読書と勉強の時間を増やして、よく生きるための道を探ろう。

    4.13.2014

    スキゾイド的恋愛


    リルケの理想は孤独で所有のない愛である。「愛するとは、一人だということだ。」、「自分の心は他人の心に触れてはならない。」
    ぼくにとって恋愛はよくわからないものである。

    多くのひとが恋愛にかなりの期待をかけており、そしてやすやすと男女の仲になれること、これが理解できない。気づけば、大学に入学して恋愛関係となったのはひとりもいない。


    今日は女の子と買い物と食事に行ってきた。ようするにデート。相変わらず、なにもせず普通に別れて帰ってきた。

    この子との関係は自分でもよくわからない。飯に行く、美術館に行く、ライブに行く。そして女の子の家にあがることもあるが、だべったり酒を飲むだけで、肉体関係はない。

    ぼくは彼女をどうしても手籠めにしたいわけではない。彼女に彼氏がいてもさほどショックではないだろう。ぼくだって彼女のすらっとのびたかっこうのよい太ももや愛嬌ある唇、うるんだ瞳を見ると何も感じないわけではない。しかし性交に対する失望?関係の深化による自己喪失の恐怖?からか、セックスあるいは交際には至らない。

    彼女はどう思っているのか?これはわからない。都合のいい遊び相手だと思ってるかもしれないし、ぼくを兄貴分みたいに慕っているのかもしれない。が、たぶんよくわからない動物、つまり危害のない動物として扱ってるのだろう。何かの小説で「手にとって弄んでいた動物が毒をもっていると知ったとき」みたいな表現があるが、逆である。つまり微温的な関係、両者が虚空を見つめ合うような関係。



    大学生活のなかで、肉体関係はそれなりにあった。ぼくは恋愛感情を持つことは少ないが、肉欲はあるのだ。というか、スキゾイドと呼ばれる人種――この人種にぼくは含まれると一時期うたぐっていたのだが――この人種には性欲はないのだろうか。一般に異性への関心は薄いと言われる((3)他人と性体験を持つことに対する興味が、もしあったとしても、少ししかない。 DSM-Ⅳ)。
    恋愛経験ないけど、自分に恋ができないとは思わない。
    性欲は普通にある。 
    2chのスキゾイドスレより。
    そりゃそうだろう。性器があり性ホルモンがある以上、性欲は消えない。食欲と違い、性欲は他のものに転嫁できるのであって、例えば創作に、仕事に、スポーツに、あるいは殺人で欲求を満たす、紛らわすことができる。しかし性欲のエネルギーは甚大で激質的変化となり、スキゾイドのように「静かに読書」ができるわけがない。

    つまりスキゾイドというのは個々人がオナニーマスターなのである。

    かれにとっては欲情という生理作用すら外部の出来事であり、わずらわしい要請なのである。孤独の聖者ぶっているがお前は人間なのだ、血で満たされた風船、動物なのだ、という肉体の執拗な忠告を、スキゾイドはしぶしぶオナニーという形で解消する。



    ぼくに恋愛感情というものがないこと。

    あるいは激しい恋愛感情をぶつけるべき相手がいるのではないが、無意識で避けているのかもしれない。そう考えられるような女性は過去出会った中でいなくもない。

    スキゾイドはひたすら心の静謐を求める。他者に介入することも、他者に介入されることも嫌う。ぼくは子どものころ、自分の部屋を与えられた。その部屋にだれかが入ることをひどく嫌がった。ぼくはぼくの部屋への進入路にガムテープや段ボールでバリケードを張ったりした。思春期ならだれにでもあることだろうか?

    ひとつの仮説。スキゾイドは「感じやすいsensitive」生き物である。

    スーザンケインという人が著書「内向型人間の時代」のなかで、このように書いていた。「ひとは内向性、外向性で区別することができるが、その性質は乳児から決まっている。ある刺激に対し、無反応だった乳児は外向的に育ち、反応を示した乳児は成長後も内向的である。」われわれには個々人にVolumeのつまみがあり、それは先天的なもので、ハンダで固定されてしまっているのだ。

    スキゾイドの人間関係の潔癖、社会からの離反は感じやすさからきているのではないか。というか、この原理で言ってしまうとあらゆる神経症はこのつまみ説で説明できてしまうのだが。ちなみにスーザンケインはただの弁護士で、あるい精神医学者の取材を通じてこの説を知ったようだ。




    恋愛・・・。よくわからない。ぼくはそのまねごとはできるけど、恐ろしいくらい稚拙だ。ぼくは人並みの感情を持たぬ自分を恥ずかしく思う。そして同時に、ほっとするのだ。今日も感情をかき乱されることがなかったと。

    性欲というものは、特にそれがある特定の婦人に定着して恋愛となって集中化される場合には、もったいぶったこの世界のあらゆる詐欺の精華になる。ショーペンハウエル

    あわせて読みたい⇒ スキゾイド的恋愛の結末

    死にいたる

    キェルケゴール「死に至る病」からの引用。

    人びとは自分が精神であると言うことをはっきりと意識するに至ることなしに日々を過ごしているというのが実に一般の状態である。それで人びとは自分では非常に安全なつもりでおり、人生に非常に満足していたりする、――これこそ絶望にほかならないのである。
    ああ、かくも多くの人びとがすべての思想のうちでもっとも祝福されているこの思想に目を蔽われてかくもむなしく日々を過ごしつつあるというこの悲惨、人間は特に大衆はほかのあらゆる事柄に携わらせられて人生の芝居のために機械のように自分の力を消耗させられながらただこの祝福のことだけは決して思い起こさせられないというこの悲惨、おのおのの個体が最高のもの唯一のもの――人生はこのために生きがいがあるのであり、このなかで生きるのは永遠も長すぎはしないのである――を獲得しえんがために個体として独存せしめられることの代わりに、逆に群衆の堆積と化せしめられているというこの悲劇、――こういう悲劇が現存するという事実のためには私は永遠に泣いても泣ききれない思いがするのである!
    世間ではいつもどうでもいいことが一番問題にされる、いったいどうでもいいことに無限の価値を付与するのが世間というものなのである。
    人間は人間を恐れるのあまり自己自身であることを全く放棄するようなことがあってはならない。いわんや他人に対する恐怖だけのために、自己がその本質的な偶然性[これこそ磨り減らされてならぬものだえる]のままに自己自身であることをあえてする勇気を放棄するようなことがあってはならない、――人間はかかる本質的な偶然性のなかでこそ自己自身に対してまさに自己自身なのである。
    世間の目か見ると冒険は危険である。なぜであるか?冒険には失敗の可能性がつきまとうから。冒険しないこと、それが賢明である!しかも我々は冒険さえすれば容易に失うことのないものをかえって冒険をしないために恐ろしいほどやすやすと失うことがありうるのである――すなわち自己自身を。
    実際我々の時代には精神を所有することが犯罪であるということは確かに真実である、してみれば孤独の愛好者が犯罪者と同じ階級に入れられるのもまったく当然と言わねばならない。
    天才が神の賜物だとすれば狂気はそれに添えられた神の嫉妬である。 

    以下は斎藤信治の解説。

    例外者的存在の立場からの普遍的人間性の場面への郷愁は切実ならざるをえないであろうが、しかし与えられた普遍的人間性の場面のうちに自分の究極的な拠り所と統一とを乱しうるためには例外者的存在の内面的な分裂はすでにあまりにも深刻すぎるのである。
    例外者の立場は、与えられた有的普遍のあらゆる形態の外に投げだされているところの、ないしはそれを突き抜けて出るところのいわば支えどころのない虚無的実存の立場である。そこでは与えられた有的統一のことごとくが破れ果てて、その統一を構成していた弁証法的な諸契機が相反する両極へと分裂し、虚無的実存の主体はこれら相反する両極の間をあたかもレトーのように一曲から他曲へと果てしなく流転せしめられるのである。これがヘーゲルのいう「不幸なる意識」の立場である。
    「狂気の要素のない偉大な天才はいまだかつて存在したことがなかった。」アリストテレス

    ――この凡庸な引用群!ぼくがいかに本を読んでおらず、表面をなでているだけということかわかるだろう。

    ぼくはキリスト者ではないので内容にたいした興味はない。サルトルが好きだから多少実存主義からの興味はあるが。しかし孤独者キェルケゴールの、大衆への諦めとそれでも尽きない愛情は感じとることができた。
    キェルケゴールは生まれるのが早すぎた実存主義者という感じがする。時代を切り開く人間、つまり天才は常に強烈な孤独の十字架を背負うものである。
    一般にいつの時代にも、ちゃんとした人間は臆病者で奴隷だったのだ。(ドストエフスキー「地下室の手記」より)
    キェルケゴールは比較的裕福な、躁うつ病の家系に生まれたせむしである。兄弟は7人だったがそのうちの5人はすぐに死んだ。裕福な家庭、身体的欠陥、身内の不幸(あるいは身内による不幸)。これは正真正銘、哲学者の素因となる。ヘーゲルのいう「例外者」。

    哲学とは精神的かたわによるバベルの塔ではないか。

    ぼくは大学で体系的科学を学んだ身としてこう言おう。例外者は病的である。現代の精神医学評価ガイドラインによれば、哲学者というのはおよそ何かしらの精神障害者である。
    そしてそれに吸い寄せられるぼくも、絶対的にかたわなのである。かたわがかたわに吸い寄せられてこねあげたところのひとつの山、それが哲学なのではないか。


    ああ、どうでもいいことを書いた。今日も酒が入っているのだ。寝よう。

    4.12.2014

    文学用語集(文学部唯野教授サブテキストより)

    文学用語をまとめてみる。これらの言葉を会話の節々におりまぜれば、きみも立派な文学気取り。

    各々のリンクからはウィキペディアに飛べる。

    エクリチュール【écriture】
     書くこと。広義では,線・文字・図を書くこと,狭義では書かれたもの(特に文字言語)をさす。フランスの哲学者デリダにより,西欧の音声(ロゴス)中心主義を批判するのに用いられた語。(大辞林 第三版)


    西洋における哲学・美学上の概念。〈模倣〉と訳される。この概念は,自然界の個物はイデアの模像mimēma,mimēseisであるとするプラトン哲学の考え(《ティマイオス》)に由来するが,さらにさかのぼれば,数と個物の関係についてのピタゴラス学派の思想にその原型がある。アリストテレスはプラトンからこの概念をひきついだが,芸術は模倣の模倣であり現実世界よりもさらに真理から遠ざかるものであるとするプラトンの考えをしりぞけて,模倣こそ人間の本然の性情から生じるものであり,諸芸術は模倣の様式であるとした(《詩学》)。(世界大百科事典 第2版)

    英語ではdiscourse。フランス語の原義は〈談話〉〈話〉といった意味であるが,特に現代思想の術語として〈言述〉〈言説〉と訳される。(百科事典マイペディア)


    [名]10世紀末から12世紀にかけて西欧に広まったキリスト教美術様式。古代ローマ・ゲルマン民族などの様式に東方の影響も加わったもので、ゴシックに先立つ。特に重厚な教会堂建築に代表され、石造穹窿(きゅうりゅう)をはじめ、半円形アーチの多用が特色。ロマネスク式。
    [形動](romanesque)小説のように、数奇であったり情熱的であったりするさま。「―な半生」
    (デジタル大辞泉)


    対象の特徴を鮮明に示すために誇張・省略された形,あるいは本来の意味から逸脱して利用された形をもつ絵画(まれに彫刻)。戯画,漫画,場合によっては風刺画と呼ばれる。諧謔(かいぎやく)や風刺を目的とする点で,表現主義芸術や図式化・単純化された形,あるいは信仰や神話に関連する人獣合体した異様な姿などとは区別される。しかし,この区別は絶対的なものではない。また風刺自体は広義の社会性をもつものが多く,滑稽もまた慣習,風俗によって大いに異なる。(世界大百科事典 第2版)


    ソシュール言語学のキーワード。シニフィアンは1つの言葉のもつ「音」の側面を、シニフィエはその「意味」の側面を指す。例えば、犬という語には、[イヌ]という音の側面(シニフィアン)と[4本の足で歩き、ワンワンと吠える等]のイメージや意味の側面(シニフィエ)がある。この2つはその言葉を使う者には一体化しているが、同じ犬の意味を担う音でも、日本語では[イヌ]、英語では[ドッグ]となる。シニフィアンとシニフィエには絶対的なつながりはないのだ。また、犬-野犬-山犬-狼といった語同士のつながりを考えてみると、例えば、[ヤマイヌ]という音が廃れてなくなれば、野犬や狼の意味が広がって山犬の意味をカバーする。つまり、犬-野犬-山犬-狼という分節はなんら絶対的なものではなく、犬-野犬-狼という分節に変化しうるようなものなのである。このように考えると、世界や事物の秩序とは、客観的なものではなく、むしろ、言語による分節がつくる一定の見方にすぎないことがわかってくる。客観それ自体の秩序を言葉が写し取っているという考えを否定するこの主張は、20世紀の思想に大きな影響を与えた。
    ( 石川伸晃 京都精華大学講師 )

    プロアイレティスム
    バルトがバルザックの作品『サラジーヌ』のテクスト分析に際して提起した5つのコード、解釈学的コード、意味素、象徴的場、行動、文化のうちの行動のこと。だと思う(俺)





    サブテキストからの引用
    成績が何番かということじゃなくて、仕事をしている人間のそばにいて、それを見ていて影響をうけるということが重大なんですね。(鶴見俊輔)

    (ガダマーを受けて)芸術にいちばん必要なのは、つくるほうでも鑑賞する方でもそうでしょうけれども、教養だと。
    (中略)
    では教養というのは何かというと、共通感覚だと言うんです。大江健三郎さんに聞いたら、それは要するにアリストテレスの言うコモン・センスのことだろうとおっしゃってましたけれども、ぼくもそうだろうと思います。(筒井)

    「文学などなんの訳にもたたん」というオトーサンに一言。
    そういう人がいないと困っちゃうんだよね。俺の父親もそうだったの。だからこそ文学の快楽的後ろ暗さや甘美な罪悪感が理解できたわけでさ。世の中の役に立つ、明るい文学なんて、ほんと、困るんだよね。でも、最近そういう人がふえてきたから、むしろそっちの方が問題だろうね。(唯野教授)



    4.11.2014

    あんちだーうぃにずむ

    ぼくらは単なる有機体にすぎない。それがどうやら真実のようである。

    ぼくがあらゆる人間に吐き気をもよおし、恐怖におびえ、距離を置こうとするのはなぜなのか。宇宙船地球号の牧歌的平和的人鎖から離脱するのはなぜなのか。先は肌寒いのに。

    あらゆる人間関係に超越した立場にある人格障害者はズキゾイドと呼ばれる。かれはひとを欲しない。血を分けた親であっても一般者にとっての他人にひとしい。親の死に目もくれないとは、最高の独立性である。しかしペットにはモテる。ぼくも飼い犬にモテる。しかし、犬との関係もわずらわしい。あの媚びといったら、いやらしい!ぼくは犬の素性を知る。だから犬に厳しくあたる、すると犬は余計にぼくになつくのである。

    スキゾイドは読書を好む。文章上のヒトは、ヒトたる不純さを超越しているから。
    「群衆は、いわば、智慧ではなく凡庸さを積み重ねるのだ。」

    吐くように文字を書く・・・・・・。


    生とは苦悩と知る。大学の講師がこういっていた。私も死にあたって、哲学や宗教を学んだ。しかし私の精神にもっとも合致したのはダーウィンであった。すなわち進化論。われわれの生とは遺伝子の永続を目的としているに過ぎない。

    であるなら、性交こそ人間の目的?あながち間違いない。これはフロイトにも褒められるべきことだ。

    私はこう思う、ひとのすばらしいところ、最高の能力は抽象化にあるのだと。ぼくは以前、ひとをひとたらしめるのは、自己の死を認知する点であるとした。それは知能の高低というよりは、抽象化という人間の特異的能力によるものだと考えたい。死とは最高の抽象である。何しろ生の中に死は存在しない(自己の死と他者の死の区別に留意したい)し、死とはわれわれの認知を超越しているのだから。われわれは死という抽象を生み出した(それは我々の能力にあっては自然なことだ!)。そうして、今度は作りだした死に思い悩んだ。死への無理解さが、神を生んだ。哲学を生んだ。

    抽象化とは何か。端的に言えば言葉のことだ。死は言葉のなかにしか存在しない。われわれが意識の前に言葉をもって生まれたということを納得できるひとは少ない。しかしたしか、あの千数百ページにおよぶ民俗学の本、ぼくが大学の図書館でもっとも分厚い本を読もうとして手にとったあの本には、そういう研究結果が出ていた。

    と同時に、抽象化はあるベクトルを別の方向のベクトルにねじ曲げるところの所作と言ってもいいかもしれない。我々の生の欲求をねじまげたところに死がある。そして多くの詩人にとって生殖が最高目標でないが、根本には男根があるように、生殖をねじ曲げたところにすべての成果があるのである。

    しかし考えてみるに、大学講師の述べたダーウィニズム、われわれが後生に残すべきものが遺伝子という人間にとって解析可能なすなわち750MBの情報量という点、ここは私には容認できない。われわれの精神すなわち全人的な活動すべてがこの750MBを残すためというのなら記憶媒体と遺伝子技術と体外受精があれば何とかなるじゃないか。

    われわれは衣食住の問題をある程度解決した。つぎは性の問題をも科学の力で解決してしまおうというのである。その先に何があるか?ますます人間らしい人間は人間らしくなるだろう。そしておしまいの人間たちは増加していくだろう!

    であるからぼくはとりあえず、ひとの本能と精神を切り離したところの二元論に逃げ込むわけだ。これは精神が心理学や精神医学からも逃れたところの宗教の領域。



    ああ、それにしてもおまんこしたいなあ。二十歳の後輩の女の子のやらかいところをぺろぺろしたいよねえ。とこういう性欲旺盛なところが、ぼくを単なるスキゾイドたらしめない部分であるのだが。

    憧れの眼をもってぼくを見る少女たち。太宰治の文学的天才性はともかくとして、あのニートを女たらしたらしめる(日本語がおかしい)魅力はどこにあるのか。そんなものはない、とぼくはいいたい、かれはひたすらダメ人間なのである。太宰が非現実的なのではない。女たちがわれわれの思考を超越しているのだ。C・ブコウスキー「なんたるごちそう!」

    凡庸なひとたちよ、少女を手込めにしたくばダメ人間になるか、優れた人間になるか選びたまえ。


    あ、ぼくは自分を社会的にダメな人間だと認めているぞ。さて自己弁護だ。底知れぬ劣悪人は、底知れぬ優秀人に通底する。それをつなぐ言葉は孤独だ。正規分布(中心極限定理=この世のあらゆる法則を体現する、一つの教示である)のグラフを見たまえ。線対称、鏡面異性体、ラセミ体じゃないか。


    ああ、つかれた。今日は酔っ払った上に、卑猥な言葉も吐いた。こういう文章は、後日読み返すときのぼくがもっとも楽しめる。いちばんつまらないのは読者のみなさん。ざんねんでしたー。おやすみ!

    4.09.2014

    思い上がった文学屋さん

    芸術家や作家は、美の追究ほど美しく、犠牲を払うに値するものは何もないと考えた。この確信は彼らに、文学と芸術にすべてを犠牲にするように忠告した。彼らはまず自分たちの人間としての義務を安売りすることから始め、こうして作家、あるいは芸術家としての特別の義務に、いっそう完全に身をささげることを願って、自分たちの運命を一般の運命から切り離した。彼らは単独行動を取ろうと考えた。彼らは、自分たちはかかる崇高な使命を帯びているのだから、世俗の秩序には従う必要がないと信じていた。
    しかし、それにもかかわらず、彼らは依然として人間であった。すなわち呼吸し、披露を感じ、欲望を持ち、悩み苦しみ、数々の不幸に踏みにじられ、数々の必要のままに動かされている動物であった。その上、ある一つの歴史をうけつぎ、ある一つの共同体の構成員であり、その言語と、軍隊と、法律の恩恵をうけているものであった彼らが抗議しようとしまいと、この二重の条件が、彼らの作家あるいは芸術家としての身分の中にまでつきまとう。彼らは否応なしにこれに答え、それから利益を得ている。実のところ、彼らはそれによって生きている。
    文学の思い上がり / ロジェ・カイヨワ
    芸術家が社会から離脱し、あらゆる制約から逃れようとする傾向を批判したのがロジェ・カイヨワ。確かにその傾向はあるのである。芸術家が社会から逃れつづけた結果、たどり着くのは自分の弱さであり、芸術家のその宿命としてその弱さの表明に終始してしまう。結果、そのような芸術作品の堆積が生まれた。たとえば「恥の多い人生を送ってきました」。

    ぼくもたぶんに漏れずこの傾向はある。つまり世俗を離れあらゆる制約を厳しく批判し完全な自由を求めるニューロティックな反応。昨日の日記では都市部を離れ田舎で暮らすことを書いたがそれもこの一端と言える。

    カイヨワの言ったとおり社会的制約のなかでも芸術は可能である。中世の絵画は宗教画しか認められていなかったがそれでも現代でその芸術性は永遠を帯びている。それにサン・テグジュペリのような過酷な労働環境の中ですばらしい芸術作品を書いた人もいる。

    ぼくはカイヨワの言ったとおりの思い上がった芸術家である。高慢なぼくであっても露悪癖はひと一倍つよい。このブログは書きたいまま書くことを信条としているが、だからこそ芸術家として間違った方向性が色濃く出ているだろう。そもそも書きたいまま書くこと、これが厳格な自由の追求であり、わかりやすい例である。

    まだこの本は半分しか読んでいないが、そういう芸術家に対しカイヨワの示す正しい道とは何かが非常に気になる。明日にでも読んでしまいたい。

    大企業病、大手病について思うこと

    大企業病。

    就職活動に追われる中で、大企業に入ることが目的となり煩う病気である。一流大学在籍の学生ほど多い。就活に失敗した彼らは中小企業に入ることになった自分を恥じ運命を呪う。

    ぼくはこの病気にかかったことはないが、ネットを見ていると罹患者はかなりいるようだ。大企業に入社することで良いことはいくつかある。ひとつにネームバリューが良いので建前がよい。合コンに行けばモテるし、ローンが通りやすいという。同窓会などでもちやほやされる。次に仕事の質がいい。雑務は派遣社員がやってくれるので、まったり仕事ができると言われる。ただし大企業でもサービス残業が横行する企業は多々あるようだ。そして給与がよく福利厚生がよい。勤務年数が増えるにつれて差が開き、最終的には中小企業の2~3倍の給与となるようだ。

    中小企業の悪いところはその逆だ。ネームバリューがない。見下される。仕事の質が悪い。どうでもいい仕事をやらされる。大企業の比じゃないくらい労働環境が悪いことが多い。ただ、これもいろんな業務を任せられるのでスキルがつくという人もいる。給料は低い。とくに結婚などの際にはこの点が深刻となる。


    さてぼくは実際に田舎の中小企業へ就職しようとしているわけだが、この点をどう思うか。

    まずもって前提を言っておこう。
    ぼくの実家は山ありの海ありの自然豊かな環境。
    コンビニ、スーパーまでは原付で五分。
    庭付きガレージ付き、田畑付き。
    趣味は読書、バイク、楽器

    職場。
    個人的にやりがいのある業務。
    年収は大企業の初任給より高い。(伸びは悪い)
    残業はほぼなし。
    通勤自動車10分。

    とまあかなり職場に関しては恵まれているが・・・。

    最近かんがえることはワークライフバランスという言葉である。これは「国民一人ひとりがやりがいや充実感を持ちながら働き、仕事上の責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、子育て期、中高年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方が選択・実現できる」のこと。
    ようはワーカホリックにより家庭および人生を崩壊させてしまうことを予防する目的でつくられた造語である。

    ぼくはネームバリューだとか給与だとかくだらないものは打ち捨てて、このワークライフバランスを追求しようと考えている。そのため重要なものを以下のように考えた。

    ・やりがいのある仕事
    ・趣味に打ち込める環境
    ・睡眠時間、余暇時間の十分な確保(残業なし、通勤時間少)
    ・清涼で静かな環境

    この基準で考えると、大企業でも残業が多いところはだめだし、ぼくは音に神経質なので安いアパートもNG。バイクの乗り回せない都市部や、楽器の弾くと苦情が来るところもNG。ラッシュ時の電車通勤などもってのほか。何のためにこんな仕事をするのか?と思う日はどんな仕事でもくるだろうが、その頻度が多いだろう仕事もできない。

    というわがままなぼくであるので、田舎の企業の生活は今のところ不満のない選択ということになる。

    ネームバリューはいらないのか?合コンでモテないぞ、というひとがいるかもしれない。ぼくは生理的に決して性欲は弱いほうではないのだが、セックスに対してはそれほど魅力を感じない。一時の快楽にはひかれるが、事後に後悔することがおおいのだ。心理学的には性交は相手を得ると同時に自己を相手に与えることだが、ぼくは神経症的に潔癖であり、こうした行為を好まない(精神的童貞か?)。

    同窓会などは、どうでもいい。もう、ざっくばらんに言ってしまおう。ぼくは基本的に他者はどうでもいいという人間なのだ。こういう人間だから、他者との距離の遠い田舎に戻り、周りに同調して大企業志向にならないともいえるが、そのせいで苦労することも多々ある。ひととどう付き合っていいかわからないのだ。そして非常識な人格障害者の烙印を押される。付き合う必要を感じないものに社会通念に背中を押されてコミュニケーションをとるところに人格障害的対人関係が発生する。だからぼくは社会を倦み人を倦みこのありさま。結婚できんのかなあ俺。

    つぎに金。ぼくは大金を手にしたところで、それを喜んで使う自分が見当たらない。なにしろ「安いもので間に合わせる」ことの楽しみを知ったし、「高いものを長く使う」ことの喜びを知った。およそ浪費というものに無縁な人間である。それに実家暮らしだから金は貯まる一方だろう。
    将来的なことを考えると、金が必要だと感じるのは子どもの教育費か、あるいはより大きな金をつくるためだと考える。

    プライド、金が否定された。肯定したるは余暇とやりがい。このようにしてぼくは中小企業に行くことを決めた。大企業、くそくらえ。

    4.07.2014

    筒井康隆の「文学部唯野教授」

    筒井康隆の「文学部唯野教授」を読む。

    なるほど筒井は天才だなあと思う。教養が半端ない。天性の才能のもちぬしであると同時に、努力をやまない読書家だったことがうかがえる。筒井の作品はいろいろ読んだけど、文学についてごりごり語った作品はあまりなくて、エッセイだとかSF作品ではうかがえない知識の深さが垣間見えた。
    (ただ、かれの作品は美人女子大生とSEX!な描写が多いのが嫌になるね。筆者がブサイクならまだしもイケメンなのだから嫉妬してしまう。)

    で、ぼくも少しは勉強せねばなと思うわけだ。ぼくも将来的に本を書こうということを目標としているのだから、文学について学ばねばと。哲学はある程度読んだ、それでも必読とされているカントやヘーゲルはまだだけど・・・。

    ぼくの読書量は全然足りないな。一日二時間程度は読むようにしてるのだけど、ちょっと意識を変えなければ。昨日の夜、床につきながら考えたのだけど、何かのプロになるには一万時間必要って話がある。それならぼくの読書は一日二時間で、一年で700時間。そしたら14年もかかるわけだよね。まだ三年程度しか読書してないから、あと11年。そしたら三十五歳か。遅咲きだなあ。それでもなれるのはプロの「読書家」であって「作家」ではないのだけど。

    岡本太郎が「あなたは絵も描くけど、本を書いたりマスコミにも出てる。職業はなんですか?」と問われたときに、「人間です」なんて答えた逸話がある。なるほど人間ならぼくも25年やってきたわけだしその道の「プロ」じゃないか。でも、考えてみたらぼくが人間だったと思える時期はこの数年だけだ。それまでは「子ども」であったり、「息子」「生徒」「学生」「若者」だったわけで、真に「人間」だったかはあやしいところ。最近になってようやく、肩書きだとか、権威だとか、金だとか、くだらないものに思えてきた。他人の目を通して物を見ることを辞めた。他人の鏡を通して自分を見ることを辞めた。そして初めて「人間」となったわけだ。

    これはまことに幸運なことだと思う。とくに震災の影響が大きかったな。震災で、ひとはいつでも死にうることを学んだ。明日死ぬかもしれないのに数十年後の幸運を考えるのは馬鹿げてる。だから自分の人生を自分のものと考えて、自分の生と死は他人とわかつことができないと考えて生きることにした。ぼくが孤独を好むのもそこにある。

    幸運と言ったのは、目覚めてない人が圧倒的に多いから。30-40歳の会社員の書斎とか見ると、くだらないビジネス書とかおいてあって悲しいような情けないような気持ちになる。超訳ニーチェとか。彼もまだ一年生なのだな!と。人間一年生(留年続き)。ほとんどの友人はすでに社会人だから、彼らの社宅など見るとこれも悲しくなる。うさぎ小屋みたいなアパートに、一時間の通勤時間。何か変えたくて買ったのであろう自己啓発書。まあ彼は俺より金持ちになって、でかい家に住むだろうがね。でも五十歳ででかい家に住んで何になるだろう?小汚い都市のせせこましい一軒屋。

    ぼくが実家の近辺ではたらきたいのはその理由による。実家はでかい。ちっぽけでみすぼらしい部屋ではないし、隣近所の犬が吠えたり、日曜大工の音に悩まされたり、階上の奴の足音に気をわずらうことはない。おまけに自然豊かで空気がきれいだ。都市部に比べて、収入は落ちるだろうけど、彼らの生活を考えるとどちらが得策だろうか?人間として自然な生活をしたいものだ。都市部の生活は、少し狂気が混じっている。サービス残業なんてありえないよ、ほんと。

    とは言っても、世間的にはぼくが狂気の権化なのだろう。それはよくわかっている。だって、同年代の奴らが一生懸命就職活動してるのを冷笑的に見てしまうからね。「御社ではたらきたいです!」まじかよこいつ、と。企業と学生は対等であるべきとの信条のもと、ぼくの就活は実はかなり失敗している。しかしそれで良いのではないか。信条。それを持っている人はどれくらいいるだろうか。ただ何となく生きて、何となく死んでいく人が大多数なのではないか。ぼくもそのような人間であることは否定しない。だって、本気で本を書こうと思ったら一日八時間でも本を読むし、怠惰な生活を送ろうと考えないわけだ。

    おりよく話が戻った。そうぼくは一日八時間でも本を読もうと思う。最近怠けすぎた。時間的余裕がないときはいくらでも本を読みたくなるのに、いざ暇な時間ができると凡庸なことに時間を過ごしてしまう。本はやはり良い、頭を回転させるエネルギーになる。

    読書のペースをあげよう。そうでないと、本を読むだけで一生が終わる!



    というわけで、早速本をいくつか購入した。


    • ジェイムス・ジョイスを読んだ猫 (講談社文庫) 源一郎, 高橋
    • 死を与える (ちくま学芸文庫) J・デリダ
    • 競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫) トマス・ピンチョン
    • 代表的日本人 (岩波文庫) 鑑三, 内村
    • バガヴァッド・ギーター (講談社学術文庫 1864) 鎧 淳
    • 夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録 V.E.フランクル

    「文学部唯野教授」に影響受けた本は前の三冊。後半は前々から読みたかった本を注文した。夜と霧は一年くらい買おう買おうと思っていたが、当時は1000円でさえ貴重なほど財政難だったので断念していたもの。代表的日本人はぼくの先祖に関係する。ギーターはすでに岩波のものがあるが、セットで読むとよいらしいので購入。

    ギーターといえばルドルフ・シュタイナー読んでないや。積んでる本がたくさんあるんだよな。特に哲学関係。存在と時間とか、意志と表象としての世界とか。まあがんばって読むか。

    今日の文体はくだけた小説を読んだあとなのでやわらかいものとなっています。久しぶりに筒井読んだなあ・・・。ついでに『文学部唯野教授のサブ・テキスト 』も購入。

    4.06.2014

    ひとは欲望せる何ものかであるということ


    ぼくらは人間であって、それ以上ではない。つまり動物であるところのぼくらである。ぼくらの思考、これらは欲望のためのものである。欲望があるところに思考がある。腹が減ったら飯のことを考える。むらむらしたらどうそれを解消するかを考える。

    ひとは欲望せる何ものかである。

    ひとは生きている以上つねに欲望に突き動かされて生きなければならない。食欲、性欲、睡眠欲、あるいはマズローの言うとおりにすれば承認欲、自己実現欲求というような。ぼくらは腹が減ったら飯を食う。あたりまえのことだが、この世でもっとも理性的な生物であるはずのぼくらが飯を食わずにいられないというところに、悲しい限界を覚える。

    いったんこれらが満足されたらどうか。食欲を満たし、性欲を満たした。その先は?マズローのように一段階あがる、と考えてもいいだろう。しかし、最後の欲望である自己実現欲求を満たした先は・・・?

    いや、永遠に満たすことはないのだ。自己実現欲求とはつまり、自分に対して然りと言うことである。しかしぼくらは自分に対して然りと言うことはできない。まともな理性のある人間ならば、自分がどうしようもない人間であることを知っている。ぼくらがなりたいと思うような人間は、プラトンの言うイデアのような完成された人間である。しかし永遠にこのような人間になることはできない。今からなれたとしても、過去は汚辱にまみれている。映画「マグノリア」のセリフだが、「過去は逃げても追ってくる」のだ。過去を忘れた愚昧だけが、自分に然りということができる。

    ぼくらは食べ物がなくて不幸だと思う。セックスができなくて不幸だと思う。社会的地位が低くて不幸だと思う。たとえそれらが満たされたとしても、自己が自己であることを不幸だと思う。まことにぼくらは不幸な存在である。

    原始、ぼくらは両性具有の人間だったという神話?がある。手は4本、足は4本、首は2つ、体は球体に近く、走るときはころころ回るという・・・。その人間はまことに強力な存在であり、神に謀反を起こしたため、怒った神が体をふたつに裂き、男と女という二種類の人間となった。

    このお話はなぜ男女が求め合うのか?という問いの答えとされることが多いが、ぼくは人間が欲望的存在であることを説明していると思う。ぼくらは生まれたときからかたわなのである。絶望的に欠けた存在であるということだ。そしてぼくらはボール人間になって力をつけ、神と闘いたいと思っている存在なのだ。なぜならぼくらは理不尽に絶望的な運命に服従をしいられている奴隷あるいは囚人なのだから。

    ぼくらの思考は欲望により生まれる。思考=欲望である。


    そして欲望は満たされることはない。だから、われわれはデカルトの言うような「考える葦」なのである。さて、そうであるならどう生きるのが正しいか?ぼくらはより良く、より多く思考をするべきなのである。


    あらゆる宗教で禁欲的生活が求められているのは、欲望=思考を増大させるためである。これによって思考の量が増大する。そしてまさしく防衛機制の「昇華」によって、低次の欲望を高次の欲望、すなわち宗教的課題、真実の探求に置き換えることができる。思考の質の改善だ。優れた宗教家が断食をしたり、自分で自分を笞打つのはこういう理由による。

    だからこの点で、ぼくはマズローの段階説は眉唾だと思う。われわれは性欲、食欲、承認欲求など低次の欲求を満たしてはならない。すべての欲求を昇華することによって初めて自己実現に近づくことが可能なのだと考える。


    まあ今回の記事で何が言いたかったかというと、知性的な人間でありたければ欲望を簡単に満たしてはいけないという、当たり前といえば当たり前のことであります。

    ひとは飢えたる何者か/半隠遁生活

    しばらく物を書く気が起きなかった。それはなぜか。本を読もうとしなかったからだ。ぼくは何かをインプットしないと物を書けない。なぜ本を読まなかったか。それは幸福だったからだ。知への渇望がなかった。

    ぼくの体重は去年より3kg増えていた。といっても適性体重よりかなり下なのだが・・・。あばらが浮きでていた洗濯板から、ギリシャの石像のような肉付きになった。この脂肪が、まことにぼくに幸福を与えてくれるようである。

    というのも、この脂肪が、ぼくを良く世の中に適応させてくれるからだ。何か守られている感じがして、他人と話すとびくびくしてしまうぼくだったが、堂々と振る舞うことができ、しゃれた冗談のひとつでもぶつけてみようという余裕も生まれた。よく酒を飲むし、よく物を買うし、よくひとと遊ぶようになった。カツカレーみたいな豪奢で油っこいものも食べるようになった。そして将来に明るいみとおしをつけ、まるきり幸福だったのだ。

    つまりは馬鹿だった、ということだ。うん。

    まことにひとは飢えたる何ものかである。マズローの欲求段階説は眉唾だが。なぜわれわれが社会的欲求だとか、食欲や性欲のくだらないものを満たさなければならないのかがわからない。われわれは突然この世におぎゃーと生まれて、欲求を満たすべく働かされて、永遠に満足することなく最後にはこの世から消滅するのだ。この不条理。

    そう、われわれは永遠に満足することはない。だからわれわれは幸福にはなれない。

    「幸福な人生など存在しない。人間の到達しうる最高の人生は、英雄的人生である。」などと語ったショーペンハウエルを持ちだすまでもなく、およそ哲学というのは「幸福からの目覚め」であると感じる。それは「死」というメガトンハンマーで「幸福」という蒙昧を打ち砕くことによって。哲学者であっても幸福に言及することがあることをぼくは否定しない。しかし実際のところ、それらは「より正しい不幸」なのではないか。まことに真理と幸福は仲が悪い。

    「最適な人口は、氷山になぞらえて構成される――つまり、九分の八が水面下、九分の一が水面上というわけだ」
    「それで水面下の連中は幸福なんですか」
    「水面上の連中より幸福だよ。」(オルダス・ハクスリー「すばらしい新世界」)


    さて、今日はひさしぶりに本を読んだ。このタイトルからぼくがいかに影響を受けやすいかがわかるだろう。中島義道「不幸論」である。ぼくにとって中島氏はかなり嫌いな部類に入るが、むかし読んでいたのでたまに引っぱりだして読むことも可能なのである。文章は平易であり風呂で読むにはちょうど良いのだ。

    その哲学的内容についてはさておこう。かれはどうやら隠遁生活をしているらしい。社会から離れて、つまり幸福の蒙昧と離れ、全人的に生すなわち不幸を享受しようという生活だ。

    じつはぼくもこのような生活に憧れているのである。ぼくもいよいよ来年は社会人であるので、就職先をいかにしようかと考えている。ひとつに、大企業でバリバリ働くというものがあった。大企業でがっぽり稼いで、早くに引退し投資や固定資産で食っていくというもの。もうひとつは、実家近くの残業のほとんどない小企業で働く道である。これは通勤時間や家事に追われる時間を削減し、余暇の時間を最大限使うというものである。いずれにしても、「社会からいかに離れるか」に焦点を当てていることがわかるだろう。

    最近では、後者の生活をしようと考えている。これによるメリットはやはり余暇にあてる時間が多いこと、趣味のバイクや楽器を存分に楽しめること、豊かな自然の中で快適に過ごせること、その気になれば農業を手伝えることである。また、人生というものを考えたときに、やはり若いときにこそしたいことはすべきだと考えるからだ。不労所得で食べられるまでに最低でも十年は必要だろう。そのとき僕は35歳である。そこから自由になってもしかたがないと感じる。

    ぼくの将来的なビジョンとはなにか?それは知の追求である。そして人間らしく生きるということである。だから、晴耕雨読の生活に憧れる。他者の踏みいる余地のない生活。そこに憧れる。

    ところが大企業就職も魅力ではある。というのも、この社会から決別すべき理由をどんどん提供してくれそうだからだ。ぼくは何度もこういった。「軽蔑するのであれば乗りこえなければならない」。軽蔑するものを避けてはならないということだ。軽蔑すべきものに飛びこんだとき、その抑圧は強烈なエネルギーを生むのではないか。マルコムXが刑務所のなかで宗教に目覚めたように。そのとき人は何でも背負ってしまうラクダから、他者を凌駕する獅子になれるのではないか。

    自然は豊かな真理を与えてくれるし、社会が与えてくれるものもまた強烈な真理ということだ。この両者、ぼくにとって対等に近い。ぼくはかつてこういった。「ひとはけっして安逸など求めるものではない。」田舎暮らしは安逸への逃避だろうか?難しいところだ。人は孤独になって初めて生の苦しみに直面することができるから、単純に田舎暮らしが安逸とはいえないだろう。

    ともあれ、将来的にぼくは人里はなれた生活を送ることには変わりない。就職活動中の現在であるが、読んでいるのはソローの「森の生活」である。こんな学生は、ぼくだったら絶対採らないだろう。






    4.02.2014

    実家暮らしとアパート暮らしの生活費モデルの検討

    目下就活中のぼくであるが、実家近辺(都心まで高速2時間)の就職先、都心の就職先を検討しているので、この二者を比較したい。ネットでよく言われるとおり実家暮らしとは最強なのか?

    さっそくだがグラフを添付する。


    実家暮らしの場合は手取り25万円のモデルを、都心の場合は30万円を想定した。

    出費の項目について

    実家納入金: 都心モデルとの大きな違いがこの実家納入金というシステムである。これは通信費、光熱費、家賃、食費を一律五万円の支払いで済ませるというものである。

    酒: 酒はつまみと合わせ一日400円を月15日消費した場合を、四捨五入し一万円としている。
    服: 衣類については、海外通販でたまに買う程度である。セール商品を、さらにクーポンの20%オフなどで買うので安く済ませることができる。ぼくが大学へ行くときは、トータル一万円しない。都心勤務の場合、おしゃれをしたいので服飾代が高くなりそうだが、割愛した。
    本: 基本的に古本の購入なので、一冊300円~1000円程度を10冊程度かかる。
    バイク: ガソリン代や保険代など考えると詳細な費用を算段するのは難しいが、おおむね三万円とした。基本的にヤフオクでボロを買ってきて、部品も中古を調達するのであまり金はかからない。
    交遊:都心であれば知り合いも多く、店も豊富なので三万円とした。田舎であれば、おそらく月に一度あれば良い方だろう。都心に集まりがあった場合、宿泊費など込みでこの値段とした。
    雑費:厚労省によると、独身男性の雑費はこの程度。
    家賃:都心モデルのみ存在する。家賃十万円のアパート、住居手当90%とした。


    実家暮らし、都心暮らしの比較
    都心暮らしの特徴は給与が高いことであり、住居手当など福利厚生が手厚く思ったより生活費はかからない。問題は交遊費などの”ストレス解消費用”がかさむことであり、衣類の購入、交際費の上昇などに影響を与えそうである。都心での生活とハードな仕事のため、QOLを考えると高い給与と釣り合うは微妙である。

    田舎暮らしのメリットは食事や風呂、洗濯などの家事などの労苦から解放されることである。基本的に空気もよくのどかな場所なので、ストレスフリーの生活が楽しめそうだ。給与は田舎で暮らすには十分だろう。