4.27.2014

普通の人間は天才にはなれないということ

最近連日酒を飲み、遊び回るという日々なので、内面世界と無縁の生活をしている。内面世界と戯れるのに必要なことは、ある程度の禁欲、孤独になることと、読書などですぐれた作品に触れる。あるいは大自然の中に身を置いたり、音楽など創造的活動をしてもよいだろう。

この時間がない。
すべてこういう連中は自分達の意見をのべ、自分達が同じ意見であるのを幸せにも認めることにときを過ごす。みんなが同じことを、みんな一緒に考えていることを、ああ、いかに彼らが重要視していることか。それは彼らの間を、目の据わった、自分の内面を見つめていることがあきらかな、そして彼らとはもうまったく意見が一致することのないひとりの男が通って行くときに彼らがどんな顔をするかをみれば、充分わかることだ。 (サルトル「嘔吐」)

世の中における異端者。人間の遺伝子が一定の確率で異常を起こすように、自然のなかの必然として生まれたところの精神病者。精神病因持ちとして生まれた人間はどのように生きればよいのか。それは「同じ意見」であることを幸福にしない人間。世の仕組みを受け入れるには、あまりに敏感な人間。人を忌み嫌いながら、それでも強烈に愛さざるをえない人間。

黄色い壁やひとびとを信頼の念を持って眺め、世の中はいまあるがままの姿であると思うのである。もはやいっさいの意味を持たぬ緩慢で微温的な生活であるが、彼らはそのことに気がつかないだろう。(同)

自身も神経質な人間であったクレッチマーは、「天才の心理学」で天才がいかに精神病的気質であるかを解明した。つまり、人類の歩みは躁鬱病、神経症、統合失調症者によって進められたという事実。「天才とキチガイは紙一重」であることを突き詰めて証明した書。知能と精神的葛藤の比例。
天才が神の賜物だとすれば狂気はそれに添えられた神の嫉妬である。(キェルケゴール「死に至る病」)


ラリースミスは「あなたに夢の仕事ができない理由」という講演で、歴史のなかに埋没してしまう平凡な人間の蒙を啓こうと、こんなことを言ってけしかける。
こんな言い訳もあるでしょう 「やるよ やるともでも・・・でも・・・ 結局のところ 俺は変人じゃない 情熱を追い求めるやつらは どこかオタクっぽい ちょっと変わってる そうだろう? 狂気と天才は紙一重って言うだろう 俺はヘンじゃないスティーブ・ジョブズの伝記を読んだが とんでもない やつとは違う俺はいい人間だ 俺は普通だ普通のいい人間だ 普通のいい人間には 情熱なんてないんだ でも立派なキャリアはほしい 情熱を追い求める用意ができてないんだ だからこうしようこれで解決するから 方法はあるんだ パパとママに教わったもの パパとママが言ってたよ必死で働けば そこそこのキャリアが築けるつまり必死で働けば 手に入るのは そこそこのキャリア 本当に本当に必死で働けば 立派なキャリアが手に入るこれって? 数学的にも正しいだろう?」 お生憎様 でも自分を納得させることはできるでしょうね
愛すべき偏屈な学者、ラリースミスの誤算。天才はどこまでも「生まれつき」の存在である。

乳児にある刺激を与える。その刺激に対し、すぐに順応する乳児群をAとする。つぎに刺激に対して弱く、過敏な反応をする乳児群をBとする。Aの乳児は成人しても、刺激に対して強い。つまり社交が上手で、リーダーシップを持ち、スポーツやセックスなどの激質的な趣味を好む。Bの乳児はどうなるか。これが成人すると、精神過敏の人間となる。人と離れて生き、読書や音楽など内面的で、おだやかな趣味を好む。Bの乳児がリーダーとなるときは、独創的な優れた偉業を成しとげることが多い。ジョブズもこのタイプだと思われる。
「三つ子の魂百まで」とは言うが、生まれつきの体や顔の特徴が一生変わらないように、まさしく人の気質は生来のものであり変えられない。

だからラリースミスは間違えている。普通の人間は天才にはなれない
天才は自ら闘いとるものだといういう天才についての格言ほど誤ったものはない。(クレッチマー「天才の心理学」)
しかしそれを悲しむことはない。凡人であるということは幸福なのだから。さきほど精神的葛藤と知能は比例すると書いたが、そのとおりで何かを知るということは絶望の連続なのである。ショーペンハウエルが「人生とは一種のデセンガニョ、即ち幻想の滅却である」といったように、仏教で「一切皆苦」が説かれているように。



天才の素因を持って生まれた人間は、幸福を追求してはならない。真理を求めなければならない。

ぼくがクレッチマーを読んで危惧したことは、自己肯定の感情が生まれたことである。なぜ自己肯定の感情が生まれたか。彼の説く天才の特性がぼくにも備わっていることがその内容から明らかだったからだ。

ぼくは神経症的な人間である。何かを創造するにも、躁鬱的創造家のように「創造の喜び」から作ることはない。歪みを正すような緻密な作業を得意とする。プラトンのイデアを追求してしまう人。詩人であるよりは哲学者。
強迫神経症者の活動性の根源は、ときに軽躁病者に見られる月るを知らぬあふれ出る力と創造の喜びではなくて、実はもっとも抽象的な理想主義、カントのアプリオリな義務の原理である。(クレッチマー「天才の心理学」)
このことを知って、ぼくはぼくであることの一種の満足と喜びを覚えてしまった。これはいままでにない経験だった。ぼくは異常者で、不適合者で、sensitiveな自分の神経に常に悩まされてきた。この「欠落」を直そうと、十数年努力してきた。しかし、もとより治療は必要なかった。ぼくは生まれながらの天才だったのである(滑稽なほど高慢な書き方だが)。自分に対して「然り」の感情が芽生えてしまった。

この感情にぼくは馴れない。自分が嫌いだったから。「自己に対して然りを言うこと、これは成熟した果実である」。ぼくは成熟はしたくないし、ぼやけた肯定の世界よりも、清明な生の苦しみの中で生きたいのだ。

――しかし、それこそが微温的な生活だとしたら?自分のneuroticな人格に悩むことは、なるほど世界と対峙する必要から目を逸らすことにある。自己に然りを言えるようになったら、今度は世界に然りと言えるよう、世を正す必要があるのではないか。そこに本当の「清明な生の苦しみ」があるんじゃないか。

とまあ、ぼくの悩みは尽きないわけだ。
「最適な人口は、氷山になぞらえて構成される――つまり、九分の八が水面下、九分の一が水面上というわけだ」
「それで水面下の連中は幸福なんですか」
「水面上の連中より幸福だよ。」

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