7.31.2014

独白を超越したいなと。

言葉を紡ぐ。

ぼくはひたすら独白という形でこうして書いているが何かを生みだしてもいいのかもしれない。ちょっと孤独に倦んできたところだ。鳴らない携帯、返事のないLINE――クソッ!
そんなぼくにとって、この種の逸脱は不思議でわくわくすることだ。

例えば、六歳の少年を生みだしてみようか。彼をオートバイの後ろに乗っけて、いまから夜の旅に出てもいいかもしれない。ぼくは人生の味と、風になることを彼に教えてやるのだ。ぼくは彼のヒーローになる……。
あるいは二十歳の少女と遊んでもよい。ボブカットにちょっとした斜視がミステリアスでかわいい彼女と、近所のうまいスープカレー屋で腹ごしらえした後、静かなバーで語らう。
暗がりの中さりげなく手に触れる。もちろんその後何をしようと、ぼくの自由である。ぼくが彼女を誘惑しても、彼女がぼくを誘惑しても良い。いずれにせよ結果は同じことだ。スープカレーはバカみたいに高いし、バーの酒も法外な値段がするが、それは表現という舞台の上だからぼくの財布は傷まない!すばらしいことだ。
ところで今こうしているぼくの後ろに、三人の死神を生みだしても、自由というわけだ。あるいは君の後ろにでも、それは構わないのだよ……。

夢のような広がり、無限の逸脱だ。作家にしかもちえない感覚だ。ぼくらは綱渡り師を見ても、「彼のどこがすごいのか?」わからない。見ている側にはすべてが自明だ。そう、バランスを取っている、途中危うげに見せるが、最後には渡り切る、自明だ。
ただ同じ綱渡り師のみが、彼の偉大さと胸中の葛藤を知る。あるいは未熟さと怠惰も。
小説も同じであると思う、映画通が映画を見るときと同じようにそれは監督との対話に繋がる。対話でなければ、監督の独演である。

それにしても、小説でキャラクターを登場させようというとき……。それは人間を産みだそうというホムンクルス的な涜聖を感じる。小説ではキャラクターを生み出す。当たり前のことだ。しかし、何か人間のしていい領域を一線越えているようにも思う。
例えば「アトム」はぼくらのだれもが知っている。なかには友達のように感じている人もいるだろう。しかし、実際にはあんなロボットは存在しない。それなら「アトム」は存在しないのだろうか?あるいはファウストは?ラスコーリニコフは?……仏陀は、キリストは……

神も仏もいない!と主張することは正しいと思うが、神や仏はだれもが存在を認める以上、やっぱり存在するのだと思う。だって、「あなたは存在しないのだ」と言われて納得できるか。神は概念である、と言ってみたところで、君自身が概念であることは否定できない。
人は人間を生むこともできるし、かつては神を生んだ人間もいた。創造とはまず第一に冒涜の性格をおびている。

おっと、だれか客人がきたようだ。アマゾンの商品が届いたかな……。

「おっすー。近くまで来たから寄ってみたよ。相変わらず汚い部屋だね。燃えるゴミはすぐに出さないとゴキブリ沸くよ。はい、ビール二缶ね。あがるよ。文句ないよね。やだ、足の裏がべとべとする!ちゃんと濡れ布巾で拭きなよ、もう……」

と後輩なのにため口の生意気な女の子(そして溢れる生活力と清掃力、ついでにくどいくらい艶々した黒髪を兼ね備えた)が来てくれたら!孤独にこれを書いているぼくは、迷惑そうな顔をしながらも、彼女のために客椅子の埃を払ってやるだろう……と思ったりする。


思ったり、する……。「思ったり、する!」この控えめな表現がぼくの羞恥と頬の赤みを表している。

独白とは、簡単なものだと思う。これを読んでいる君に向かって、ただぼくは身振り手振り、何かを伝えればよい。ところが、何かキャラクターを生み出すとなるとそうはいかない……。ぼくは虚空に向かって、何者かをつくろうとこねくりまわしている。君はその努力をしぶしぶ認めながらも、その稚拙さ故に、一生懸命なにかを描こうとしているぼくの存在が気になってしかたがないだろう。

始めは、そんなものだ。しかしぼくは誰かが見ている中、「パフォーマンス」をするような度胸はない。ぼくは誰かの目を意識すると途端に身体が麻痺するタイプの人間である。
私が見知らぬ場所で、何人かの見知らぬ人、あるいは私がそう思う人と一緒にいるとき、部屋全体が胸を圧迫して、私は動くことでさえできなくなる。そして、私の人格そのものが彼らをいらいらさせているように思われて、全てが絶望的になる――カフカ

ぼくが最上の創作ができるとしたら、ただ自分の存在を無に帰すことができたときだろう。そして、キャラクターは自然と踊り出す!すでにひとつの生命を宿されているのだ。これはぼくが創作の極意を得たからではない。ただぼくが、その極度の照れ症だから、隠れようとした結果である。



まあ何でもいい。こう毎日書いていると、何かこう孤独に倦むのだ。慰みに会話の相手も欲しいものだよ。しかしぼくの性格上、生身の人間は受け付けない。不潔だ。ぼくの理想とする善人、悪人たちに囲まれたいと思う……。それだけの技能はまだないのだけど。

まずは飲み込め

夜一時頃、まどろみの中でなにやら書きたいという気持ちで煩悶する。「明日は大事な用事があるのだから、寝なければ」と自分を制する。ぼくはキチガイか。

忙しい日常のために創作の時間がなくなっているという気もするし、生活のお陰で創作のパトスが生まれているとも思う。

いずれにせよぼくらは有機体である身体から逃れられない。猥雑で下賤な日常からも逃れられない。聖者的な生活は欺瞞である。

しかし、生活をすら創作に捧げてみたいなと思う。
根っから教師である者は、すべての事柄を、――自分自身をすらも、自分の生徒との関係においてのみ真面目に考える(「善悪の彼岸」 / ニーチェ)
自分自身をすら供物にするということ。 根っから芸術家である者は、自分の作品との関係にすべてを捧げるものだ。
それはかえって生活を破壊することにあるのではなくて(まあそれでもいいだろうが)、生活に対するアティチュードを変えることである。そしてそれこそが本質的な破壊の性格を持つということ。



何かを創るときは、ひとりでに作品ができあがっていくような感覚がある。この作品は確かにぼくの意志によって作られて、ぼくがエネルギーを注いだから幾ばくかの情報量をもって存在している。ところが、終わってから振り返るとこの作品は自分の意志で生まれたのではないか……ぼくは創ったのではなく創らされたのではないか……と思うときがある。少し不気味だ。

子どもができたとき、「天からの授かり物だ!」という風に思ったりする。でも、恋して、愛の行為して、たまたま受精して、細胞分裂して、できあがったのが胎児だよ。(野暮なことを言うが)
しかし恋も創作も同じじゃないかな。とはつまり、どこか病的で超越的である。
魔術師。この言葉はものごとを容易にする。作品を検討するなど無益。すべては、まったくひとりでに作りあげられるのだから。(ジャン・コクトー)

朝はいちばん書きやすい。しがらみがなくて身動きの取りやすい時間だと思う。ぼくは静かに書いている時間をいちばん好む。好きな音楽を聴いて、タバコとコーヒー、適度な室温、時間的余裕の中で、キーボードに打ちこんで行く。


ところでぼくの知人に根っからの芸術家肌の人間(つまり強烈な個性を持っていて、芸術家の血筋で、もちろん芸術が好きで、そして実際生活にはまったく無能な、「アッシャー家」の主人みたいな人)がいる。
大学一年である彼は「アルコールの類は一切飲まない」らしい。そして「エロ動画も見ない」のだという。「なぜか?」とぼくは問うた。すると、「まだ十九歳なので」とのことだった。

ぼくは最高にロックな奴だな!と思った。こういう人が天才なのだろう。
ぼくらが何か世界を知ろうとして盛んに酒に溺れたり、放蕩を志向するのに、元から「何かが見えている」人間はかえって視野を閉ざそうとするものだろうか。

彼は非常に興味深い人種なので、これからも付きまとってやりたいと思う。



こうして物を書き続けるということは、単純に楽しいことだ。しかし、いつかはぼくも大人にならなくてはならない。職業的物書きにならねばならない。これは恐ろしいことだ。

誰だってカラオケで歌うことはできる。だから幼子のだれもが歌い手になれると信じている。だれだって物を書くことはできる。だから幼子のだれもが作家に……。
ぼくは夢を見ているのかもしれない。ぼくの人生は何もかも間違いで、ひとつの失敗例なのかもしれない。

いずれにせよ成功も失敗も同じものだ、ただ行為に埋没しなければならない。確かにぼくは書いているとき、ある恐怖を感じる。享楽的に書いているけど、その中にちくりと痛みがある。書かれたものが正しいのか……書くことが正しいのか、という自問はなかなか離れない。


過去のブログの記事はいろいろなテーマを扱っていたけど、今となっては自分の心理状態しか書いていないのはどういうことだろうか。たくさん書くにつれてどんどん抽象的に、非論理的になっていく。

横で書いている人のブログを見ているが、「今日はバスケしてきました」なんてただそれだけ書いてあるのですがすがしさを感じる。このブログは蛇足ばかり書いているようにも思う。

しかし、内面世界の吐露こそすべての外的な報告の要素を含んでいると思う。

結局いろいろな実生活の抑圧とか、面倒な仕事とかは、自分の心の中に反動的に存在するのである。それは電子と陽子の関係に似ている(たぶん)。

「上司に怒られた」「女に振られた」「小説を酷評された」という出来事があるとする。それらの出来事は全て内面世界に反映されているのであって、いずれにしても一つの同種の感情に集約される。
それはぼくであれば「生きることは辛いことだ」、「人生とはやるせないものだ」、といったひとつの諦観。いちいち「女に振られました」と言う必要もないのではないか。


そう、このプロセスはけっこう大事なものだと思う。いちど内面世界に全てをたたき込んで、そこから別の形で吐き出すのだ。この屈辱や嫌悪で満ちた世界を飲み込んで、そして何か美しいものを吐き出す。

「バスケしてきました」なんて何も飲み込んじゃいないのである。ぼくはやっと飲み込むことを覚えた。痛苦や不幸をありのままの形で心に入れることのできる大きな器を作ることができた。
次には美しく吐き出すことを覚えなければならない……のだろう。キットね。

7.30.2014

雑 ZCKCCY 記

何もかも身にならないという気もするし、ひとつの道を辿っているという感覚もある。この暗闇の中で歩いている、一歩60cmでも前に進んでいる感じること、この感覚だけを頼りに歩むしかない。注意深く目を凝らすけど、今のところ光は見えていない……。


何もかも間違っていた!と思い目覚める朝もあるもので、しかしぼくはショーペンハウエルの言ったように「朝は人生のエキス」であるということを信じるのだから、信じるがゆえに、朝の自分にひたすら物を書き続けることを強要する。ぼくの中にはガミガミうるさい教育ママが存在する、自分のなかに親だとか指導者を詰め込むのだから、これはもう完成した大人である。自力で回転する歯車。

ぼくは稚拙でもいいから浅薄なものを書きたくないと思う、でも浅薄なものを書こうという意志も重要なものだ。宮沢賢治や夏目漱石はなぜ教職を愛したか。
「こんな物の道理のわからないガキどもを相手してられるか。俺にはもっと崇高な使命があるのだ」
と教鞭を投げださなかったか。まあ最終的には辞めてるけど……それはより偉大な教師にならんとするためではなかったか。
確かに彼らは崇高で神聖な精神を持っていたが、これを大衆に落とし込むということ……広く社会一般に影響を与えること……ここに多くの「凡庸な天才」が辿りつけない最後の道のりがあるのだ。嫌でもしなくてはならない仕事だ。

崇高な使命を一身に受けて、だれも理解できない境地に辿りつくのもよい。そしてそれは天才の望むユートピアだが、結局天才という生き物も飯を食うしケツのでかい女には欲情を感じるし郵便配達さんには爽やかな挨拶がしたい。「ひとりで生きている人はいない」。
大衆への無関心や嫌悪感を、大衆への愛情へ変えて奉仕しなくてはならない。この凡俗への志向を持たなくてはならない。矛盾する双方向性を持たねばならない。天才とはまことに苦しい生き物だ。

そのことを知っていてさえ、ぼくには奉仕する方法も知らぬというのは残念なことだ。このブログに独り言のように書き連ねて、何になるというのだろう。
もっと広くひとびとに、ぼくの書いたものを読んでもらいたい。ぼくの書いたものによって救われる人があれば……何か暗い人生の中に光を持ってもらえれば……と気持ちの悪いことを思うのである。しかし本心である。
実際には、こうした何か献身的な態度をもったあっぱらぱーな平和ぼけ人間よりも、「芥川賞、とる!」とハチマキ巻いた眼光鋭い青年の方が成功することをぼくは知っている。誠実さはしばしば人を不器用にするし、いびつな劣情の方が強烈に人を動かす。

それに、本心からそんな「ボランティア精神」を持っているわけではないのだ。
ぼくは芥川賞作家がマスコミに持ち上げられて有名人になったり、急に異性にモテるようになったり、「年収500万円の作家でしたが今年の年収は5000万円になりました!」という成功譚にひかれはしない。ここはぼくの強みであり弱みでもあるのだが……。

金や成功への執着よりももっと強いエゴ。だれも見ないところで自己を豊穣させたい、自分という枠組みの中で完成した世界を作りたいという強烈なエゴがある。これは神経質な人間に生まれたぼくのサガであると思う。

まあ、どうでもいい。全部どうでもいいことだ。ぼくは書く。書くことの意味や結果は考えないことだ、まずは書くということ。暗中の一歩を踏みしめることだ。

7.29.2014

Incurably Optimistic

こうしてぼくが家に帰ると同時にものを書くのは不思議なことだ。

晩飯にするのでもなく、ネットのサウスパークの動画を観るのでなし、文字を書くことをぼくは志向する。日常の義務から解放されて、まずしていることといえばこれだ。

ぼくがキーボードに手指を置くとき、ぼくの存在は消失する。すごいもの、おもしろいものを書いてやろうという気は起きないし、そもそもの話、何かを書こうという意志すら沸いてこない。今書いているものはすでに用意された台本に沿っているようにも思える。ぼくは思考しない。書かれたものはどこかよそよそしい。今、この現在に書いている文章は、はたして自分の意志で書いたものなのだろうか……。

すべてが必然で、あるべきところに落ち着いている。この調和は、生活の世界では決してありえない……。何かしらの、創造という領域でしか。

「芸術とは知的な営みだ」という奴がいるがぼくはまるで反対だと思う。芸術とは思考の反対側にあるものである。まあ有り体に言えば無意識の領域だ。こういうと、無思考にでたらめに書くことが果たしてよいのか、と言う奴がいるが、そうではない。でたらめに生きている奴は書くこともでたらめだし、誠実に生きている人間は、無意識な行為の結果もまた誠実である。

だいたい、ぼくらの日常がまずがんじがらめなのである。まったく身動きのとれない抑圧のなかで、それこそ「知的な営み」を駆使してなんとかかいくぐっているのだ。これはどうしようもない事実であって、「俺は自由に生きている」なんていう奴がいたら、足枷にも気づかないただの愚鈍なのである。

文字を書くという行為には確実に、自己の解放という要素がある。知性が押し込んでいた自己を解放すること、そこに芸術の価値がある。日常が下劣だからこそ、下劣であればあるほど、人は美を追求するものなのだ。

芸術と日常は切り離せない。カイヨワ曰く、「まず市民でない芸術家などいない」。

君は真っ白なキャンパスに相対するとき、上気してこう叫ぶ。「さあ、これから何を描こうと自由だぞ」。そうして創造の野心に胸を躍らせる……。
しかし、おあいにく様。もはや描かれるものは決まっているのだ。君が筆をとる前から。君の素質と、これまでの人生の選択とが……もはや絶対に覆せない、過去たちが……君の描くものをすでに決定している。君は自由ではないのだ。

キェルケゴールは絶望を自己の喪失であるとした。自分が自分であることを呪うことでひとは絶望するのである。イケメンを見ると死にたくなったり、才能ある人間を羨む、金持ちの子息を羨む……といったことはただ自分のブサイクさ、凡庸さ、生まれの悪さを否定していることに他ならない。
あるいはもう少し同情をひくような例を出そう。生まれつき足の悪い少年が、なぜみんなと同じようにサッカーができないのだろう……と思い悩むこと、これも同等であって、つまりは自己否定である。

しかし、過去は変えようがないのだ。君は他者になれない。君は君であることを逃れられない。だから君のその生を、ただ生きなくてはならない。
きみはきみの人生の天象図からは逃れられないのだ。それはたとえば、あなたの人生の半ばにおいてそれまでの人生と関係なく、よく言われるように、ゼロから再出発して、「新しい人生」を確立しようと望んだりするのは幻想的である。あなたの人生は、いつも同じ資材、同じ煉瓦、同じ問題で建造されつづけるだろうし、あなたが最初のうち「新しい人生」だと思うかもしれないものも、まもなく既存の体験の単なる変奏と見えるようになるだろう。(「不滅」 / ミラン・クンデラ)

ところで、ぼくの鋭敏な神経がこう告げている……。もはや哲学も、宗教も、文学も……学ぶ価値はないのではないのか?ぼくの統合された知性は、十分に大きく育った。そこに疑いの雲はない。かつては栄養だった、「人生の重大事」を必要としない。

今はもうあらゆる文学、哲学、宗教はすべて同じことを言っているように感じる。確かにすばらしい味はするのだが、新鮮さや意外さに欠ける。ニーチェ、ハイデガー、プラトンも、スタンダールもヘッセも漱石も、仏陀やキリスト、クリシュナも、大同小異という感がぬぐえない。
彼らの偉大な業績はすべて、ぼくのような人間が高みへと昇ることを助けてくれた。しかし、これからは自分の足で歩かなければならないということだろう。

この全く新しい地平!この上にぼくは立って、何をしようというのだろうか。荷を背負う駱駝の時代は終わった。この次は、すべてを破壊する獅子の時代だろうか?

……寝ます。

孤独な十八歳の記憶

ぼくが孤独に行為することを望むのは不思議なことだと思う。

完全な孤独のなかにあってはぼくは発狂して耳を切り落とすかもしれないが、「アクセス数」という安定剤が尖った神経を適度にマイルドにしてくれるのはありがたいことである。

昔はインターネットのコミュニティが大好きでそこで仲間を作っていた。2chの某スレッド、いわゆる「雑談系」スレッドで今日は何食べただのあいつがムカツクだの話をして楽しんでいた。お陰で中学から高校の青春時代は暗い。暗いが、ネットのお陰で妙な広がりと狂気じみた明るさを持っていたと思う。

雑談スレでぼくが中学生だというとみんな驚いていた記憶がある。ネオ麦茶による「バスジャック」以降だったからたぶん狂人だと思っていたんじゃないか。

それからぼくは大学浪人を一年した。これは「早く働いて欲しい」という親を説得する目的で「予備校や通信教育も何もいらないから一年だけ自由な時間をくれ」というものだった。
いわゆる「宅浪(=自宅浪人)」である。幸いバイトで貯めた金もあったので親を患わすこともなかった。……この一年はユートピアだったと思う。

煩わしい人間関係はない。やりたくないのにやらなければいけない雑務も課題もない。ただ、義務といえば目の前の参考書と対峙すれば良いという美しい生活だった。
寂しいという気持ちはなかったな。むしろ予備校の模試を受けるために現役生の中にぽつんと入ったりして、そういうときは疎外感に苛まれて発狂寸前だった。
受験本番でも、ぼくは環境になれなくてしくじったのだが……。

あの頃は完全な孤独に沈んでいたのではなかった。ネットでコミュニティを作ったのもあるし、中学以来の友人と遊んだり、彼女でもない女の子がなぜか毎週遊びにきてくれたりした(こう書くと何かのアニメみたいだ)。

あの一年はすばらしい一年だった。ぼくの性格を形作った十八歳のころ……。大学の生活はあまり肌に合わないし、高校時代なんて最高に嫌いだった。ぼくの中で唯一尊厳があった日!それはあの孤独な宅浪時代なのだ。

ああ、あのコオロギのなく頃……。400ccのコーヒー……。自転車……。ぎゅうぎゅう詰めなイガグリ頭の灰皿……。廊下に立ち並ぶ酒の空き缶……。カビと埃、クモの巣!
一人で懐古して申し訳ない。ぼくが懐古できるのはあの一年くらいなのだ。

あの一年は決して何にも参与しない空白の一年だったのではない、今ではあの一年がぼくの今の人格や目標を創り出しているという気がする。ぼくが一人で楽器を黙々と練習して周囲を振り返らないのも、一人で書いて迷わないのも、一人で黙って研究活動をすることを厭わないのもそれだ。

結局書くということはどこまでも孤独な行為である。だから文筆業を志そうという場合、孤独といかに付き合うのかが重要になる。ぼくは十八歳のあの日孤独との付き合い方を学んだのだ。書物と、適度な「ネット」。

孤独を知る人間は深みを持っていると思う。浅い人間はつねに孤独を怖れる。そして群れて、習慣に埋没し、既成品で周りを囲い、自分を失っていく。――われわれは孤独にならなければならないし、目が覚めた人は常に孤独を求めるものだと思う。

十八歳にして、ぼくは孤独の味を知った。自由の味だ!だからぼくは、まったく文筆業に向いた人間ということである。

優れた内向性の作家は、自己参照によって、つまり他人よりもむしろ自分の過去の作品と相互に影響しあうことによって、アイデンティティを明確にし、自己実現を達成することができる。(「孤独」 / アンソニー・ストー)

7.28.2014

マンドラゴラは断末魔を迷わない

文体というスタイルが決まっていくことが嫌だ。ぼくは片隅にとどまりたくないのだ。しかし年齢的な壁もあるものだね。ぼくは安逸を望もうとしている。そうして、何もかも遅すぎた――!という感じがしないでもない。

ぼくは悔いのないように生きたいと思うが、それは不可能だろう。二十五歳の今現在、ぼくの生涯はまずいことばかり起きていて、迷妄に満ちた半生を送ってきたという様にしか思えない。
だが、この世に後悔を持たずに生きている人はいるだろうか?どう生きたって後悔だらけなのだ。聖人の如く、禁欲的にただ敬虔な宗教家として生きたとしても最期にはきっとこうなるのが目に見えているではないか。

「俺はなんて馬鹿げた人生を送ってきたのだ!もっとおまNこしておくのだった」

ぼくがゲーテ級の大文豪になったとしよう。そして華やかな社交界でだれもが羨む人生を送り、あげくの果てに堀北真希似の二十歳の女の子を嫁にするとしよう……。さて、半世紀後、死の床に伏して思うことは何だろうか?
「何ひとつ良い作品を書けなかった」し、「何ひとつ自分のものにはならなかった」ということだろう。この時代に生まれたことを呪い、俺の気持ちを一分もわからない読者どもを恨みつつ死んでいくのだ。

もちろん無名の「ワナビー」として死んでいけば、マンドラゴラの如く耳をつんざく断末魔をあげて死ぬだろうが……。結局世の中はそういう風にできているのだ。ギーターにあるように、「成功と不成功を平等のものと見よ」。ポジティブ・シンキングではないぞ。成功も不成功も行き着く先は同じ不幸と絶望なのである。

良い画像を見つけたので、載せておこう……。
Naples DioscuridesのΜΑΝΔΡΑΓΡΑ(マンドラゴラ)。
七世紀初頭に書かれたギリシャの薬物学書より。
「人間は奇怪なマンドラゴラの形で地上に生まれ、
根源的なものにより生命を受けた」と
十九世紀フランスの薔薇十字団指導者が書いている
ぼくらにできる最高の次元のことというのは、過去を振り返らず、未来を信じず、今を生きることだ。少なくともぼくらに何かできるとしたら「今」、なのである。明日死ぬとも知れぬ我が身である。

行為の中に沈身しよう。行為が自己や世界を包むままにしよう。
ぼくらができることと言えば、ただ現実を認識して、没我して取り組むことだけなのである。これが終わったらあれしようというのではなく……。嫌だなあと思いつつも……ただ目の前の事態に対して理性的に、積極的に取り組むことなのだ。

君が例え胃に穴があくほど辛い営業マンになったとしても、発狂しそうに単調な工場勤務だとしても、目指す目標はそこであって、ただ運命を受け入れて没我する以外にはない。

運命はただ受け入れなければならない……。ということはつまり、今起きている事柄、目の前の現状をありのままに認識することである。かといって、これは「屈服」を意味するのではない。行為の中に沈身するとは、外的な義務を全うすることともまた違う。それはあくまで主体的に行動することである。というか、主体的行為の究極と言ってもいい。

例えば君は、営業先のむかつくおっさんのハゲ頭に唾を吐いてもいいし、チャップリンの真似をして工場のラインを乱してもいい。ただそれが行為への没我の結果なら、許されるし、正しいのだ。なぜって君は「今」に生きる以上、根源的に自由な存在だから。

没我とは誤謬で膠着した世界を無限に自由な広がりを持つ世界に変えることである。没我した人間はあらゆる先入観や義務を離れたところにある。なぜならそれらの価値観は過去や未来に属するものだからだ。
「今」に生きている人間に善も悪もない。「今」に生きている人間はあらゆる理由も結果も持たないからだ。だからその行為は真実性を孕んでいる。

我々に必要なことは、すべてを必然として受け入れることだ。なぜなら「今」そのものは正しい目で見るとわかるように、すべてが必然だからだ。「今」は必然である。「今」は生である。なぜなら過去は死んでいるし、未来はまだ生まれていない。過去の過ちを悔い未来に期待をかけるからこそ、「今」が阻害される。「今」が汚されて、見えなくなる。そうであってはならない。過去や未来は誤謬に満ちているが、「今」だけは純然たる必然である。
だから、その「今」に沈み、同化しようという君もまた必然の存在でなくてはならない!





……と思いました。観念的でわけがわからないが。

こういったことは楽器を演奏しているときに特に思うのであって、それは楽器を演奏するということはまず今に沈身することが要求されるからだ。あそこはああすればよかったな(過去)……次は難所だぞ(未来)……これらの「今」を汚す思考群は全て未熟に由来し、芸術の瓦解を結果する。

これは音楽の性格、時間芸術としての性格からくるものだろうが、絵画や文学でも変わらないとぼくは思っている。
とにかくぼくが言いたいのは、過去に対する憎悪や羞恥、未来の賞賛や報酬に対する期待、いずれにせよ今以外のあらゆる関心と偏りが見えるような作品には、吐き気!がね、するのだよ。

(今思ったのだけど、思考とは全て過去や未来を志向するものではないか……。没我とは無思惟の状態である。限りなく「今」に生きている動物たちは思惟を持たず、従って未来や過去はないのである……。ニーチェの言う「赤子」の段階との関連も気になる。まあまた今度考えてみよう)

作家と放蕩について

結局まじめに書いていった人間が正しいし、最後には報われるという気がする。まじめに書く人間はまじめに生きているのだ。

まじめさとは何か?

不真面目な東大卒エリートよりはきちんと働く掃除夫の方がすがすがしいのは当然として、何となく大企業勤めをしている凡夫よりは、「まじめに」堕落している人間の方が生をまっとうしている。

この辺のことはヘルマン・ヘッセの長編小説「知と愛」で詳しく語られている。あえて太宰や「堕落論」は持ち出さないが……。例えば、
放蕩者の生活が聖者の生活へのいちばん近い道のひとつでありうる。
バタイユの「好色漢の恥ずべき情念と聖女自身の情念は同一である」も有名だ。彼の過激な作品を読んでいると、「ほんとかなあ」という気もしてくるが……。

あと「わだつみのこえ」の第二編を読んでいるとこういう言葉があった。
生命をこめて怠けているものは生命なしに勉強しているものより偉大な仕事をしているのだ。詩人や芸術家には前者が多く学者や俗人には後者が多い。(松永茂雄 強調原文)
これにぼくはひどく共鳴した。怠けたいわけではないぞ……。
(それにしても、「わだつみのこえ」を読んでいて思うのはもったいない!ということである。あれだけ優れた精神の持ち主たちが、一個の軍人として生命を散らしてしまったことはどれだけの文化的損失だろうか。まあ軍部も四の五の言ってられなかったのかもしれないが……)

まじめであるとは愚直なのではなく、かえって知性的なふるまいのことである。
例えばぼくのように「毎日書く」ことを目標としてブログを書き続けるのは視野狭窄の愚直な行為とも言えるが、その連続した行為の中にあってぼくは常に思考をやめていない。本当にこれが正しいのか、この行為の結果が何を生むのか、この行為によってどこへ進むのか……。だから熟慮の結果、愚行に行き着くということもありうるのだ。

同様に、作家さんとはどうも放蕩をする人が多いのだけど、それは世の中のことを知りたいという一心なのである。真理探究なのだ。先輩文豪の嫁さん奪ったり、麻薬吸ってジャンキーになったり、何かこう奇行愚行が目立つのは「世の中とは、生きるとはどういうことなのか」という哲学的な好奇心にかられての孤独な研究活動なのだ。

だから世の人間が、ノリぴーのシャブ漬けには嫌悪感しか浮かばないのに対し、「中島らもはラリパッパだからな」と言って作家の逸脱を何となく許容するのはそういうことなのである。
彼らは既定された人生に満足できない人であり、真理探究の徒であり、その放蕩と冒険は自己満足に終わる類のものではなく、実際生活に生きている人にもきっと還元される種類のものなのだ。

まじめであることはすばらしいことだと思う。そこには妥協がないからだ。そして勇敢に目を開くことでもある。大多数の人間は、幸福のぬるまゆが心地よく、そこから抜けだそうとは思わない……。なかなかできることではない。まじめであるとは、集団の温もりから離れ、同調圧力や支配的で画一的な価値観に抵抗を試みる行為とも言えるだろう。


ところでぼくの夢について突然語らせてもらう。
ぼくの目標は、卒業後はたらいて数年金を貯めたら退職して世界を放浪するというものである。今どき旅行記は流行らないと思うが、その経験を文筆に活かしたいと思うのだ。(たぶんペソアにバカにされると思うが……)。なにかこう、このまま硬直した思考に陥るのが嫌だ。循環する日常の中で、生活と習慣に考え方が麻痺してしまうのが怖い。脳みそが柔らかいうちにガツンと衝撃を与えてやりたいと思うのだ。

まあ最近は思っている以上に世界は狭いし、どこへ行っても同じ倦怠と怠惰を目にするのだと思うし、部屋で静かに本を読んでいる方が深い精神に対峙できる、という気も漠然としているのだが……。始める前からニヒリズム状態では困る。とりあえず金は貯めようと思う。

いずれにしても、高い定めをもって生まれた人間は生活の血の気の多い陶酔的な混乱の中に深く浸り、ちりや血にまみれることはあっても、卑小になることはなく、自分の中の神々しいものを殺すことはなく、深い暗がりに迷うことはあっても、彼の魂の神聖な奥で神々しい光と創造力とが消えることはない (知と愛 / ヘッセ) 

7.27.2014

大衆と認識者について

人生とは辛く苦しいものである。この真理に到達したときひとは物を書き始めるのではないか。世の中には確かに、こういう本で溢れかえっている。

「この世はハッピーです。幸福になれない人は『習慣が』『教えが』『条件が』『考え方が』足りないのです。目を覚ましましょう、目を覚ましましょう」

しかしこれらの賑やかに飛び跳ねる軽薄な本が何かの意味を持つとは思えない。これを読む人間も、少なくともその時点では意味を持っていない。

クリーンで文明化された現代社会では、幸福であることは健全であり、不幸であることが病的と見なされる。まあこれだけ物が溢れて娯楽も増えたのだから精神安定させることが容易な社会ではある。そんな社会のなかでもハクスレー「すばらしい新世界」のようにすべてを断って隠遁し、自己に笞打つ変わり者もいるのだ。

ぼくが望む世界は「私は地獄を見ている」と絶望にかられて言ったときに、「私もだ」と言ってくれるような世界。「キチガイ」「病院に行け」「楽になれる薬があるぜ」ではなく……。「私もだ」。本当の共感に満ちた優しい世界だと思う。

じゃあ孤独、無慙、悲哀、不幸といったものが人生の本質だったとして、それを芸術的に表現すればいいのか?確かに、これらが結局のところ真実であり、また美の本質であることをぼくは否定できない。芸術とはひとつの不幸の結晶だと思う。金や友人に恵まれたゴッホはたぶん凡庸な美術家に終わっただろう。創造とは産みの苦しみが伴うものだ。

ところが人間とはつねに揺れ動くものだから、「本当は幸福な人生はありうるのではないか」と思ってしまう。これは何回もこっぴどく失恋していながらまた次の恋人を求めることに似ている(ぼくのことだ)。あるいはそうせざるを、得ない。この世に生きる価値などないと知ってしまったら、残りの人生はどうやって生きれば良いのか。「何か良いことがあるかもしれない」という一厘の可能性にかけなければやるせなくなる。

だからそれを文学にすることも良いと思う。人間に対する新しい形での信頼というと、まずサン=テグジュペリが浮かぶ。あれ、それ以外はあまりないな……。作家はニヒリストが多いのか、ぼくが読まないのか。でも、「人間は本当にダメな生き物だけどやっぱり俺は人間を信じているよ」という展開はアニメや漫画で典型的である。

文学というものが少し秘教めいていて、大衆本と反対に幸福よりも不幸を説くということは不思議なことだ。ところが本とはそもそも選民的、貴族的な性格を持っているのではないか。これまでの数千年は文字を読み書きできる人はわずかだったのだし、ぼくのような凡夫がニーチェやマルクーゼを読むことができる現代は普通のことではないのかもしれない。

聖書についで世界二位のトップセラーであるインド教典「バガヴァッド・ギーター」もかつては口伝による秘教だったという。たしかにあれはよくわからん。
ニーチェの「ツァラトゥストラ」は二次大戦当時のナチス高官に愛読されたというが、さすがニーチェさんだけあって「だれにも読めるが、だれにも読めない書」というすばらしいエピグラフで始まっている。

ニーチェ風にいう少数の「認識者」たちは常に不幸ということだろうか。まあそれも然りかもしれない。ピラミッドの天辺に行くほど孤独で肌寒いものだ。では認識者たちはどういった芸術を作ればよいのか。それは同じ認識者に向けたものと、大衆へ向けたもの、ふたつあるだろう。

「精神現象学」とか「純粋理性批判」は確かにすばらしいけど、夏目漱石や太宰治のような大衆作家がそれに劣っているように思えない。

いや、カントやヘーゲルだって大衆向けではないか。難解だけど、だれにでも理解できる余地はあるのだし……。両者とも哲学という難しい学問にあって可能な限り平易に書いているような印象はある。それに、かえって夏目漱石の方が深遠な真実を包有していると言えなくもないのだ。

カントやヘーゲルは難解だが、だからといって大衆に閉ざされているのではない。事実、現在ではだれでもがカントを読むことができるしその思想に接触することができるからだ。

偉大な人間はすべて大衆に開かれてる、と言うことができるかもしれない。そして偉大な業績とは、大衆を認識者に引き上げるようなものだとぼくは思う。

いちばんダメなのは、誰にも読まれない書を書くこと……。ひとりよがりの文章を書くこと。ヘーゲルの哲学の完成形は書物の中ではなく彼の頭の中にあったのである。それを彼は書物という形で大衆に与えてくれた。ヘーゲルはアホな読者が読まないようにわざと序章を難解にしているようだが……。それにしても、ヘーゲルがただの偏屈な学者ではなく偉大な哲学者と評価されているのは、ひとえに書くという行為があったからである。大衆に向けて思想を開いたからである。

われわれは偏屈な神経症者に終わってはならない……。広く人類全般の前進に与すること……。われわれが鋭敏に不幸を感じとり、肌寒い中で暮らしていることは無意味なのではない、その目的のためなのだ……。

ある対話

書くということがぼくの心を掘り起こした。ぼくはもう安寧な読書の中に埋没することはできない。書くことは夢の中を進むような気分だ。現実のようにうまく足が進まないし、あちこちへ展開して脈絡がない。しかしそれらはそれぞれ意味をもっていて、必然である。それは内発的必然である。すべてを疑わず、然りと認めること。夢の中はファンタジーのようなもうひとつの世界なのではない。むしろこちらの方こそ本当の世界なのではないかな。「人は夢の中で最高の主体性を獲得する」と言ったのはどの心理学者だったか。夢の持つ色彩に比べれば、視覚の持つ色彩のなんて貧しいことだろう。ぼくは書くことを志向するが、その理由はなんだっただろう。これは何度でも執拗に考えたい。まず第一に、ぼくは社会でうまくやっていけないということ……。これは精神的不具とか無能ということも言えるだろうが、生まれついての指導者的人間だったとも言える……。指導者的人間。思索家はふつう、実際的な生活においては無能である。祖母が言うにはぼくの先祖は五百年来そういった種類の人間だったらしい。父親はというと、決してそのような指導者的立場にない。完全な個人で仕事をする特殊な職業だったが……。まあ彼もぼくと似たような気質がある。社交の場において不器用な人間。それにしても自分で自分のことを指導者的だというのは滑稽なことだ。ニーチェのあの章題「なぜ私はかくも怜悧なのか」に似た滑稽さ。でもニーチェは結局ナポレオンよりも広く人類の指導者となったのではないか。ペンは剣より強しというが文筆家の使命は思った以上に大きい。ところでぼくは「書くことを志向するか」をなぜ書いたのだろう。なぜ書くことに理由がいるのか。それは書くことが労作だからではない。書くことを職業にしようと意志する場合、そこに意味がなければならない。ボランティア精神……。サッカー場のゴミ拾い、アフリカに学校を建てること、献血……。これらは直接的な意味をもっていてわかりやすい。しかし表象的すぎる。われわれ人間にはもっと深遠な使命があるのではないか。ペンは生活を破壊する。ぼくは生活と文筆のどちらかを選ばなければならない。生活を文筆に捧げる覚悟がなくてはならない。といって金の話ではない。それは遠くに旅に出ることに似ている。故郷だとか、安定した生活、友人家族恋人所有物、それらをかなぐり捨てて、ただ自己と自分の言語だけの世界に沈身する。芸術とは峻厳なものである。たしかにドビュッシーのCDは100円ショップで買えるし、ゴッホの「ひまわり」だってその気になればだれでも飾れる。しかし大衆は高尚になっただろうか。商業主義が大衆を向上させただろうか。大衆は痛みを怖れる。痛みを怖れるが故に美を知らない。商業主義が芸術を選択可能な消費物に貶めた。とまあ、文筆家はたいてい商業主義を批判するのに、その本が商業主義的な過程を経て発行されるのは不思議なことだと思う。製紙工場とインク工場と印刷工場……。広告会社、出版社、マスコミ。まあこれはよい。ぼくはペンで食おうとしている。言語に対し忠実でありたいと思うひとりの人間である。しかしぼくの半生を振り返ってみるにそのような動機を持つ明確なきっかけはあまりなかったように思う。作文は苦手だったし、新聞部に入っていたわけではない。言葉の持つ世界から離れていた。だから、自分が今なぜ文筆家を志すのかわからないでいる。ぼくが欲しいのは、世の中の怠惰な小説家志望と自分が違うという確証である。自分が自分でありたくない、凡庸な一市民に終わりたくないという醜い喘ぎで小説家を志す俗人たちと自分はどこが違うのか。ただ言葉はだれでも操れるから、何かしら最後の望みをかけて文筆を志すひとが多いものである。ぼくはひとの何倍かの期間就職活動している(!)がそれは貴重な経験だったと思う。自己PR等の作成を通じて短い半生ながら自分が生まれてからの歴史を知ることができた。で、例えばぼくが研究職を志望するにしても開発職を志望するにしてもそこには何らかの動機があるのである。これが深くないと企業は採ってくれないので否が応でも考えるのだ。ルーツはどこにあるだろうか。例えば昔、実験キットを使って遊んだ記憶……。学会発表で賞をとったこと……。そういったものが、文筆を志すぼくにあるのかという疑問。たしかに、ぼくはひとと違うある性向を持っていると思う。それは病的な精神と、孤独癖である。ようはメンヘラということなのだが。しかし精神病に陥ったことはがんのように「たまたま運が悪かった」ということに還元できないと思う。がんのように確率的要素があるのではなく、精神病とはすべて必然である。ナイフで切らなければ外傷はできない。あらゆる精神病患者は親に何かしらの問題をかかえる……。つまり環境的素因がある。これはフロイトの熱心な研究によって明らかになったことだ。さらにこれは科学的に実証されたわけではないが、sensitiveな人間とそうでない人間は先天的に決まっているのだという。赤ん坊に同じ刺激を与えても、片方は平気で片方はむずがるということがあるのだ。だからわれわれは、まっさらな白紙として生まれてくるのではない。何らかの宿命を背負って生きるのだ。有り体に言ってしまえば遺伝的素因ということなのだが。社会の構成員として、大多数として幸福に生きる宿命もあれば、そういった安逸から離れ、冷たく暗い人生を生きる宿命もあるということだ。メンヘラは大体後者である。芸術家や宗教家も後者である。考えてみれば当然で、些細な人間関係に極端に落ち込むことと、些細なことに神秘と芸術性を感じることとは同じはたらきだ。で、当然ぼくはsensitiveなタイプである。こうした人間は普通内向的でありグループワークよりもひとりでできる仕事をしたがるものなのだという。そう、ぼくはsensitiveであり、だから文筆家になります……。しかしこれも弱い。ただ鋭敏な神経を持ってさえいればだれでも文筆家になれるのだろうか?そうではなくて、「昔から書くことが好きで好きで、中高時代は本の虫でした。大学も文学部で、文芸サークルに入って……」というような人こそ文筆家になる資格があるのではないか。いや、確かに文筆家になると決意することは勇気のいることである。だから志すことができるという時点で、それはある種の才能の為せる業だと思うし、成功への一歩なのである。恥ずかしくもそう思う。いろんなブログを見ていると、ぼくの何倍も読書している人がいる。ぼくの何倍も文章がうまくておまけに高学歴だ。彼のような才能に富んだ人がなぜ文筆家を志さないのかがわからない。望めばきっと手が届くだろう……。しかし彼にも生活がある。明るい未来がある。だからそれを手放す勇気がないのかもしれない。不満足なソクラテスより満足な豚、とまでは言わないが……。あるいはぼくの性質、無軌道に自分を投げだすような性質が文筆家という危険な道を歩むことを許していると言えるだろうか。たとえば五歳のときぼくはキャンプ場につくなり家族の前から消失した。十歳のときスキー場で三十度の傾斜を滑走した。十五歳のある日唐突に自転車で隣県まで出かけた。二十歳のとき単身東南アジアに潜入した。そして二十五歳のときに文筆家を志したのである。これらの勇気がぼくに夢を追わせているのだろうか。しかしこれらも凡庸な出来事だ、東南アジアに一人旅なんて珍しくもないありきたりな大学生である。全部が既成品の寄せ集め……。ぼくは特別な人間ではないのではないか。精彩に欠けた凡人。ルーツ、必然、運命といったもの。自分の過去を辿れば正しい道も自ずと見えてくるはずなのである。この根っこがなければ何をしても軽薄である。ぼくはただ、貧しい精神である自分を認めたくないだけなのかもしれない。自分が凡庸なひとつの精神であることに耐えられないのかもしれない。何者かでありたいという渇望が幼稚な万能感を生みだしているのかもしれない。とにかく、ぼくは退屈と余剰から芸術を志向しようというのではない。ひとつの使命を持っていると感じている。それはぼくにしかできない何かがあるということである。きっとあるのだ。生きるということはひとつの役割を持つということだ。ぼくにとって、ある会社員に終わることは魅力的ではない。そうしたひとつの片隅で人生が終わることは耐えられないし、またそうあるべきではないと感じる。そう感じる理由は、幼稚な万能感に還元してもよいかもしれないがもっと宿命的なものを感じるのだ。選ばれたことの恍惚と不安ふたつ我にあり、と。……ひた書いた。書いたけど、何も書いていないような気もする。だが、ぼくは一歩一歩進まなければならない。

日本を取りまく閉塞感について

ぼくらの時代を取り巻く閉塞感はどこからくるのか?

ということを考えてみると、それは歴史からの阻害であることがわかってくる。つまり、次の世代は俺たちが作るんだ……。という意識の欠如。

これからの社会を担うのは君たちです......?

ある会社の説明会に行って、「これからの社会を担うのは君たちです」と言われた。これは普通に考えればそのとおりだ。今覇権を握っているひとびとはみな寿命で死ぬ。そしてぼくらの世代が台頭する。

しかしあのとき、二十一歳とか二十三歳の集団が、本当に「自分たちが社会を担うんだ」という当事者性を持てただろうか?いや、持てないのである。なぜなら実際に社会を担えるのは気が遠くなるほど先のことだからだ。そして、そのときでさえ本当に社会を担う存在になれるのかは不確かだからだ。

その発言をした人事の人は三十五歳くらいだったけども、向こう十年は今の有力者たちが社会を担い、向こう二十年はあなた方が担うのだ……。という意識があった。
ぼくらに順番が巡ってくるまでには、二十年程度の(若者には)想像のできない年月が必要なのではないか。そしてその二十年間を「間違えず」に生きていかなければいけない。受験をかいくぐり、就活を勝ち抜いたような慎重さと抜け目のなさで生きていくことが必要となる。

高齢化、空かないポスト、権力を手放さない老人。あるいは大企業の肥大化、老齢化、富の一極化……。社会は膠着してしまったようにも見える。社会は変わりようがないし、変えようがないようがないのだろうか。若者は社会参画からつまはじきにされて、究極的な個人主義、病的な個人主義に陥っているように思える(ぼくのことだ)。

日本を取り巻く閉塞感は尋常ではなくて、海外旅行に行った人ならだれでもわかるように、日本の若者には元気がない。青春を謳歌していない。びくびくして、おびえた奴隷のようにも感じるのだ。まじめで実直なのはいいけれど、若さの無軌道な逸脱といったものがない。




この閉塞はどこからくるのだろう?これは単純に世代間格差だとかで片付けていいものなのだろうか。金の問題なのか? 金というのは便利な指標だがいろいろと見えなくするものだ。

日本社会は一般的に逸脱を許さない傾向にある。端的にあらわれているのは新卒一括採用というシステムだ。それに就活のあの喪服のようなダークスーツ集団は、正直空恐ろしい。まあTPOを考えたらそうなるんだろうが……。学生に完全なTPOを求めるのも変な話で、それこそTPOに適っていない。

また、労働時間が長すぎるのも問題だ。日本人はアメリカ人や韓国人より働いていないという統計もあるが、日本の固有文化である「サービス残業」を考えてみると決してそうは言い切れなくなる。

長すぎる労働時間は視野狭窄をもたらす。文化的時間の欠如と疲労による日常の膠着化により、彼の関心は労働と消費だけとなる。さらに低すぎる賃金は彼に無力感をもたらす。こうして一個の奴隷的人間ができあがる。

まあ堅苦しいことはどうでもいい。日本の若者は単純に、かわいそうだと思う。社会の要請によって自由を奪われているのだから。

「しかし、いつの時代だって矛盾はあったし抑圧はあった。今が特別苦しいわけではない。だからゆとり世代はダメなんだ。社会のせいばかりにして、自分からアクションを起こそうとしない。甘えてるんだよ。」

その通りかもしれない。社会のあるところに抑圧はある。そして抑圧のない社会なんてない。一般的に幸福とされるバブル世代はその狂宴のなかで「踊らされていた」だけなのかもしれない。幸福とは、知らないことだ。

最近われわれが如実に閉塞感に悩まされるのは、社会の幻想がほころびて、その実態を示しているだけではないのか。あるいは、社会はその媚態を見せつけているのかもしれない。「そろそろ、私は疲れた。どうか壊してください」と、いった、感じで。
労働者たちはパンよりも詩を必要としている。彼らの人生が詩であって欲しいとのぞんでいる。永遠から対してくる一筋の光を必要としている。(シモーヌ・ヴェイユ)

なんか薄っぺらい社会論だな……。

7.26.2014

キャラクター創生

書くけれども……。ぼくは結局、かまってほしさに駄々をこねる子どもではないのか。何もかも中途半端に手をつけ、勤労の義務から逃げだし、最期には何もなせずに終わる。

小動物の死骸と同じに、その死に、生にさしたる意味を持たなかった……というような人生を怖れて逃げだしたいだけなのではないか。泡みたいに湧きでて、ぱちんと弾けて終わる人間に終わるのをただ「いやいや」しているだけではないのか。


渋谷に跋扈する文化人気取り。いわゆるサブカル系。自分だけは真の個性を持っていると自信満々の顔で、既成の服、既成の文化、既成の感情と既成の欲求……。

しかしぼくに何か変わることがあるだろうか。


文章を書くということはだれにでもできる。しかしぼくはひとつの境界線にすがっている。日常的な文章と、芸術的な言語をわかつ境界線。お前たちには書けないものがあるのだ。ぼくにしか書けないものがあるのだ……。なぜならぼくにしか見えないものがあって、ぼくにしか知らないことがあって、芸術的な才能があるのだ……。

「でも、どうやって示すの?」
と声が問う。
「あらゆる人間が固有の人格を持っていることは認めるよ。でも、あなたという人間を前面に打ち出したところで、何か意味があるの?君は社会に出たことがないからわからないかもしれないけど、ひとは赤の他人の告白に耳を傾ける余裕なんてないんだよ。将来のためにまじめにせっせと働いているからね。何も成果をあげていないただの群衆のひとりが暇をもてあましたからといって文章を書いたところで何の価値もない!ない!」

そう、ぼくという人間は人前にさらすべきものではないのかもしれない……。人前に晒したところで、「だから何?」と言われるような、ありきたりでつまらない精神の持ち主。ひとまずこの可能性は認めてもよい。

ところで、友人達に自分を晒すことと、それよりもはるかに大きな枠である「大衆」に自分を晒すこと、これははっきりと意味が違う。

文筆家はだれしもひとつの使命、あるいは、代償を持っているのではないか。大衆にはたらきかけなければならないということ。文筆家はただ「おもしろい作品」を創ればよいのではない。読者、広い意味での大衆に何かを提示しなければならない。

そりゃ、自動車メーカーや造船会社ではたらくあなただって、自分の仕事が最終的に大衆に行き着くことは知っているだろう。だからやりがいもあるってもんだ。しかし、それはトヨタが、三菱重工が大衆に影響を及ぼしているのだ。ところが、個人が大衆にはたらきかけるということ!このぞっとする恐怖……あるいは陶酔。

「現代にそんな優れた作品なんてないよ。村上春樹が世の中にどんな影響を与えただろう? ちょっとしたファンを楽しませただけだ。もう遅い、文芸は死んだんだ。たったひとりで何かを為すこと――これはもう時代遅れだ。」

確かに……。文学はもうその役目を終えたのだろうか?現代文学が歴史に、文化に何かの参与をしただろうか。あるいはしているのかもしれない。それは非常に静かに、内密に行われるものなのかもしれない。だから何十年経って、後生のひとびとが振り返って、はじめて整然とわかるものなのかもしれないが……。少なくとも、ぼくのように平凡で勘の鈍い人間にはわからないことなのだろう。


「気になっていたんだけど、今書いてるこれは『ゲイジュツテキ』な文章なの?ツイッターの『ハンバーグランチなう』と何が違うの?だれも気にかけない、だれにも影響を与えない、ただ存在するだけの文章が、『ゲイジュツテキ』なの?」

さあ、わからないよ。

でも、俺はお前という人格が生まれたことを喜ばしく思っているよ。絲山秋子が、小説家を書くことは孤独ではないか?と問われて「文章を書くことは、登場人物と話すことなので決して孤独ではないですよ。」と言った。孤独に書いていると、自然と人格を作り上げるものだ。自閉症の子どもが見えない友達を作り上げるように……。「孤独の発明」?

僕の心から初めてキャラクターが飛び出てきた。おもしろいことだ。傍目からみれば狂っているように見えるかもしれないが。

音楽と文学について

私は書く。毎日こうして書くということが果たして正しいのかわからない。習慣?惰性?……あ、いつも書き出しだな。才がない。

というのもぼくは楽器の練習をするときは、まず最初に必ず初心者でもできるような必ず基礎的な反復をするのである。このブログでいえば、まず言葉を打ち出すこと……。腕と精神を書くことになじませるプロセスが必要なのだと思う。だから、本来であればこの上の「書く」宣言は不要で、書いたとしても消すのが正しいと思うが、たかがブログだ。消す必要もないと思い残している。(アマチュアは書き足し、プロは削るものだ)



楽器と文筆

ぼくは楽器の演奏を続けていて、今ではそこそこうまく楽器を扱うことができるようになったので、これと同様の道を文筆においても歩みたいと思っている。バカだなあ、楽器と作文は違うのだぞと思うかもしれないが、ぼくは同じ芸術である以上この単調な練習の習慣が必要だと思っている。

そう、単調な訓練なのである。今はただ書くことを目標に、文字を綴っているが……。これは基礎的な練習だ。内面の心情をただ文字に打ち出すということ。これは管楽器におけるロングトーンに似ているものだと思う。

  • だれにでもできるが、プロと初心者の差は歴然である。
  • 毎日やることで上達し、毎日必ずしなければ下手になる。

本来であればある技術的なテーマを定めて、そうした「お題」にそって書くことが効果的なのだろうが……。それはひとつの高次な訓練であるとし、今はただ基礎的な訓練に終始する。何事も基礎が重要だ。基礎がなければ何事も成らぬ。

ところでプロの演奏家が唯一「練習しなくても良い」日というのがあって、それはコンサートなどの本番前の数日間だ。この間は音楽から完全に離れる。すると本番は自分でも意外なほど良い演奏ができるのだという。

これは、受験のときと似ているね。ある程度習熟すると、技能の不足より疲労の方が悪影響を及ぼす。……ぼくはセンター試験の前日も間に合わなかったので勉強していたが。

ともかくぼくはこのねちっこいまでの愚鈍さによって一歩一歩進みたいと思うのである。たぶんどこかには辿り着くから。


読むこと

しかし書くことにとらわれて、読むことを疎かにしているのではないか?と思われるかもしれない……。今朝そう思ってばっと起きた。(最近は「なにもかも間違っていた!」と思いながら目覚める。病気か?)

たしかに熱心な読書家が初めて書いた作品はすばらしい。それでなくても、特別に書く訓練をなくして良作を書く人はいるのだ。これが文学の特異なところだと思う。ふつう絵画にしても音楽にしても、プロになるためには血の滲むような特訓が必要になるが、文学はサラリーマン勤務の傍ら「書いてみた」人がさらっと賞を取ったりする。

しかしぼくはそういう人が訓練をしなかったとは思わない。日常のどこかしらで「書く」努力はしているはずだ。あるいは、完全な放蕩生活をしていたとしても……ダビンチの言ったように、「偉大な才能は何もしていないときに最も仕事をしている」

仮に本当になんとなく書いた作品だとしても、それは文学の自由さの恩恵を受けていると考える。つまり「書くことに習熟しなかった」からこその芸術的価値が認められたのだ。そうであれば、例え受賞して持てはやされたとしても二作目、三作目と続かず泡沫的に消えていく、ということになるのではないか。


踊ること

ぼくは無軌道で危うい作品はあまり書きたくないと思う。ヘッセのような確かな知性と温かみをもった作品を創りたい……と、今は思っている。(たぶん今日日流行らないだろうなぁ)

ところでぼくが音楽において目標としていることは「踊る」ことである。というか、ぼくはあらゆる芸術の根幹は踊ることにあると思っている。
つまり自由で、解放されていて、脱力していて、鋭敏で、動きとストーリーがあり、本能的で、即興的で、象徴的であり、技術的であり、情熱的である。

踊るということはペンも絵筆も楽器も必要としない。ただ身体ひとつあれば良い。声帯という限局がない点で、歌よりも高度に根源的原初的な芸術だと思う。

だからぼくは楽器においても手指を踊らせようと努力する。いったいプロの演奏家の動きはなめらかで美しい。たとえ無音であってもそれは相変わらず音楽だと思う。

ぼくは文筆においても踊りたいと思うのだ。「知性とは脱力である」となんかの生物学者が言っていたが、ぎこちない、マズイ動きの踊りは本当にわれわれを興ざめさせる。そうではなくて、楽しそうに、なめらかに、知性的な動きを紙面の上で演じたいと思う。



ネタ

ところで、毎日書いているとネタが尽きるのではないか?とときに怖れる。しかしネタがある人間なんてあまりいないものだ。
毎日、生物図鑑のように「プログラミングコード」とか「ビジネスの真髄」のようなことを書いている人の努力はすばらしいものだと思う。一日ひとつでも何かしらのアイデアを見つけてくるああいう人びとは多大な努力を払っているのだろう。

ぼくは平凡な日常を送る平凡な人間なのだが、不思議と書くことには尽きない。人間生きていれば少しは心の葛藤や浮き沈みがあるものだ。それを書けばよい。それに書いたあとはすっきりするけど、しばらくすると「書きたい」という熱情が沸いてくる。これは太宰のいう「あのあんま」にも似ている。

自然に、心のままに書くという今の訓練は必ず将来の文筆業に役立つ気がする。ひとまず、心から書いたものは(良かれ悪しかれ)人を惹きつけるものだと思う。少なくとも無理矢理生みだしたようなぎこちない日記だとか、ただ表面的な日常を報告しただけのブログよりは価値があるのではないかな。「最近長いだけでつまらなくなったなこのクソブログ」という人がいるかもしれないがご勘弁願いたい。

私は次のことに、あらゆる芸術の本質的な守則のひとつがある、と信じている。すなわち、平凡なものから模倣できないものを引き出すということ。しかもこれ以上にむずかしい務めはない。(「文学の思い上がり」 / ロジェ・カイヨワ)

7.25.2014

Sunboon THE ★ 散文

ただ、書く……。書く。

別にうまく書く必要もないのである。何も咎めるものはなく、ただ白紙に文字を打ち付けていく。それ自体は自然だし、文字を書くということは実に人間的な行為だから、書かない理由もないのである。

それにしても、あらゆる制約を抜きにして書いたものが果たして良い作品なのだろうか?もっと、目的的な作品は駄作なのか?
そうではないと思う。芥川賞を狙って書きましたという作品、だれかのために書いた作品、社会を告発する目的で書いた作品、いずれも良い作品になる余地はあるだろう。

手塚治虫は仕事に忙殺されて精神が参り、編集者たちに向かって「良い作品が描けない!君たちのせいだ!」と訴えたそうだ。しかし本当に彼は溜まった仕事のせいで良い作品が描けなかったのか?逆ではないのか。彼は不自由だったけど、不自由だったからこそ現代でも評価される良い作品が描けたのではないか。

手塚が突然「精神と時の間」に連れ去られて、「さあ、自由におかきなさい」と紙とペンを渡されたとしても……。決してそれは名作にはならなかったと思うのだ。

さて、ぼくは思う。はたして今書いているような、心情をそのまま吐き出したような言葉の羅列が良いのだろうか。ぼくの書きたいものはそれなのだろうか……という念慮。



ともかく、キーボードに手を置けば何らかの言葉は紡げる。それが良いか悪いかは別である。ぼくは無意識的に、心の中の静波を敏感に感じるセンサーになり、キーボードの上に言葉を打ちこむひとつの道具になる。

この無私感は単純に気持ちがいい。普段、生活のためにぼくを支配している「意志」が消え去り、世界がただ「精神の最奥」と「書かれた物」だけであるかのような感覚になる。これは完全な世界……ユートピアだ。「書かれた物」はたいした物ではなくても、ただ書いてる瞬間、これはいろいろな具象や世界を超脱している。


しかし残念なことに、こういった恍惚状態になれる日も限られている。精神は循環するものであり、浮き沈みが生まれるものだ。

ぼくの場合、いろんなことがうまくいって、心配事もなく気分が優れているときは書く気が起きない(今がそうだ)。逆に論文を書かなきゃいけない、寝る時間が四時間しかない、人間関係も最悪に悪くなっている……というときの方がものすごい書くエネルギーが生まれる。何かこうググッと圧力をかけられたときの方が、「何くそ」と馬鹿力が沸いてくるものなのである。

ニーチェはこうしたぼくの精神をルサンチマン的だと嗤うだろうけども、しかし人間というのは本来反動的生き物ではないのか。かくいうニーチェさんだって、ルサンチマンの溢れる現実社会をルサンチマン的に捉えたではないか。そうして創り出したのが「超人」ではないのか……。

シモーヌ・ヴェイユはこう言った。「抑圧的な組織ほど人間をおのれの限界を越えて疾駆させるのに適したものはない。あるものは野心の笞にあおられて、あるものはホメロスの言によれば『むごい必然に圧し潰されて』」
これは現代的に解釈すると、ブラック企業批判かしらん?と感じるかもしれない。しかしそうではなくて、圧力の大きい社会においてほど革新的な偉業を果たす人間が多く生まれるのだということだろう。

偉業というのは社会から切り離すことができないものだ。天動説が頑迷に生きていた時代だったからコペルニクスの偉業が輝くのである。われわれの活動におけるドライビング・フォースは、まず現状の否定であると思う。「批判からは何も生まれない」とはきれいごとであって実際にはその逆である。

生きている人間は、なにがあろうとも、頑として揺るがぬ必然に四方から圧迫されつづける。

とヴェイユは言った。われわれは社会の圧力から自由になることはできない。手塚治虫が求めたような自由は幻想である。しかしだからといって人間は完全に不自由なのではない。
とはいえ、人間は思考する。
ゆえに、必然が押しつけてくる外的刺激に手もなく屈するか、みずから練りあげた必然の内的表象に自身を適合させるか、というふたつの選択肢を有する。ここにこそ隷従と自由の対立がある。(「自由と社会的抑圧」より)
難しい表現だ。ぼくにうまく表現できる自信がない。

しかしたとえばぼくは、二次大戦中、ヒロポンに溺れたり、「死にたくない」と逃げまわった人間は隷属的だと思うし、一方でこう言った学徒兵は自由だったと思うのである。
「何ものに向かっても何ものに対してもいついかなるときでもにっこりと微笑む人間にならねばならない。童話の中の天使のような子供らのように、にっこりと笑ってひとつの物語の幕を閉じたい。」

普通の考え方であれば、徴兵を逃げおおせた奴が自由であり、運命を受け入れた後者の方が隷従的だと思われるだろうけども、ぼくは逆だと思うのだ。



で、こんなことを書いてぼくはどうすればいいのさ……。

ぼくはあらゆる制約を離れて何かを書こうとしている。自由に書きたいと思っているし、自由に書いていると思っている。これは甘えだろうか。危険な耽溺だろうか。真の創造とは、「敵と戦うように芸術的な形式の秘密を相手にかしゃくなくはっきりと取り組むことと」ではないのか。

ともあれ、書き始めてまだ間もない。ぼくに必要なことは、ただ「書くことから逃げないこと」であって、その書き方は今は問わないことにしよう。

暑い。寝る。

詩の神秘性について

しかしこうして毎日書き綴っているとひとつの変遷が見えてくる。

今までは内面的なことを吐き出す変な記事が多かった。それは言語的な逸脱がとても多く見られて、例えば単語のチョイスや文法の間違いで溢れている。つまり変に詩的で読みづらく、あまり人に見せられるような内容ではないと今では思う。

ところが最近は流暢に、技巧的にうまくなったなあと感じる。
量を書くことには次第に慣れた。2000字程度であれば気づいたら書いてるし、長く書こうと思うと4000字程度は書ける。大体平均して一日で5000字程度書いていると思う。本を書こうというならもっと書かなければいけない……とは思うが、ブログの記事としてならば2000字程度がちょうど良いのだと思う。大体五分で読めるし。冗長になってだれも読まないのであれば悲しい。
(ある文筆家は一日20000字書くとか!どんな生活だ)

最近はアクセス数もなぜか増えてきた。嬉しいやら悲しいやら。
たとえ数が増えようと読者との距離は遠く置きたい。ぼくはやはり、「だれかが見ている中で書く」ことが最高にダメな人間である。親や教師の顔色をうかがって育った半生のせいかもしれないが、「うまく書こう」「良いものを書こう」と思うと途端に頓挫してしまう。

ぼくは書きたいから書く、書くから書くのである。だれかに読まれるために書くことは不純な行為だと思う。なので、これからも独りよがりの文章をひたすら量産したいと思う。
このブログではぼくは独裁者なのだ。かわいそうな読者たち。ぼくだけが自由に書く歓びを享受し、君たちはできあがってしまった冷めたものを読まされる不自由な奴隷なのだ!


世にはびこる自称詩人について

本当に本を書きたいという気になったので、同じ志の人を探した。例えばクランチ・マガジンであったり、「小説家になろう」だったり、連載小説を書いているブログ。

でも大体が精彩を欠いた人たちばかりであった。とても小説家になれそうにない。なろうともしていない。とは言っても、彼らが絶対になれないと言うのではない。ぼくはプロの小説家のブログを観察していたが「これが本当に文筆を職業にした人の文章だろうか」と疑問が沸くような人がいる。ああいうプロも存在しているのだから、きっとだれでも小説家にはなれるのだろう。

こういう「同人サイト」あるいは「作品投稿サイト」で思うのは、ポエムを書いている人がとても多いことである。ツイッターでも自称ポエマーという詩人が多くいる。人目をはばからず言えば、ぼくは彼らの滑稽さに笑いを禁じえない。


詩ほど作者の誠実さが求められる作品はないし、才能を露呈するものはないと思う。詩は小説以上に自由だが、それだけに峻厳な世界である。生半可な気持ちで手を出すものではないとぼくは思っている(子どもが書いた戯れの詩はぼくは否定しない。自称詩人の作品だけだ)。

詩は自由である。だから文章で表現できない感覚だけを詩で表現すべきだと思う。渋谷を歩いていて憂鬱にかられたのであれば、「今日は都会を散歩してちょっと寂しくなったよ」と言えばいいのだ。変な表現を持ち出す必要はない。

長年詩を書いているひとでもその詩にぼくが価値を認められないのは、底の浅さを感じるからだ。うわっつらだけの表現方法や技巧にとらわれて、つまらない凡庸な感覚を飾り立てている。

そうではなくて、表しがたい独特な体験、神秘的霊感的な体験を、どう表現しようかと考えあぐねた先に詩という手段があるべきだと思う。そこに詩である必然性、日常的な表現である文章を超越する意味があると考える。

だから、詩とはまず神秘的でなければならないと思う。

神秘的とはつまり、mysterious――「通常の論理や認識を超脱している世界の実相」を表していなければならない。



センス de ポエム 詩歌を体験

ところで、「自分に詩は無理だな」と思った契機がある。それは「センス de ポエム 詩歌を体験」という本を読んだときのこと。この本は、詩歌の一部を空白にして、どんな言葉を穴埋するのが最適なのか考えるような構成になっている。

例えば

A.ほのあかる林の奥のかの( )とも思いみつめて深草をゆく
B.冬の水( )枝の影も欺かず
C.思ひ出は唐突に来てかたはらに( )品のごとき哀しみをおく 

この空白にどんな言葉を入れるのがベストなのか?ぜひみなさんも考えてもらいたい。



……



答えは


A. ほのあかる林の奥のかのとも思いみつめて深草をゆく 加藤克己
B. 冬の水枝の影も欺かず 中村草田男
C. 思ひ出は唐突に来てかたはらに品のごとき哀しみをおく 石久保 豊

となる。

この語がなぜ最適なのかは、本に解説がある。「湖の本 113」とあるので、詳しい解説が読みたい方は買っていただきたい。売っているのか知らないが……。

さて、Aの他の語はなぜダメなのか。簡単に写してゆく。

……人間存在の暮らしを前提としていて、「かの」という限局と対応しがたい。
……迫りすぎている。かえってそれてゆく。
家、人……情感に触れてくるが、字余りが首の美しさを損なう。

Bの句は易しかったと思うが、美しい句である。冬の静けさ厳しさを如実に伝える、まさにドンピシャに嵌まる言葉だ。Cははっとするおもしろさがあるので載せた。

こういった問題を解いていったのだが、本物の詩人という人びとが、普段どれほどの思慮を込めて一語を選択していくかの過程が見えてくる。そして、ああぼくのように辛抱のできない人間には絶対に無理だ、と思ったのである。


詩は難しい。だけど、その難しさを認識して誠実に作品に真心を込めた作品をぼくは愛してやまない。結局、昨日書いたようにどれだけの「凄み」を持っているかなのだと思う。世に溢れる自称ポエマーの作品は今のところ何も響いてこないと言っておこう。

7.24.2014

「凄み」とは何か?小説、バイクデザイン……。

筒井康隆の例の「創作本」を読んでいる。

まだ読んでいる途中なので詳細には語らないが、読み進めるとだんだん「俺にも良い作品が書けそうだぞ」と思えてくる。良い指南書である。

いろいろぼくは本を読んでいるけれども、「この本が人生を変えるだろう」という決定的な読書をするときは、びりびりと神経が痺れるような感覚がするのである。没我し、没入し、本の持つ精神と和合するような神秘的な体験をするのだ。

このような読書体験は通常二十冊に一冊程度で、フランク・ゴーブルの「マズローの心理学」がたしか最初だった。次にニーチェの「善悪の彼岸」、岡本太郎の「美の呪力」、スーザンケインの「内向型人間の時代」、E・クレッチマーの「天才の心理学」、ヘッセの「デミアン」……と続いていった。
これらの本は、すべてが良書というわけではないがぼくの精神に多大な影響を与えた愛すべき書籍群である。

で、そうした感覚を筒井のこの本から得ることができた。きっと読み終わる頃には「一皮剥けて」いることだと思う。

さて、彼のインタビュー動画を見ていると「大事なことから順に書いていった」とある。では最初に書かれている、小説を書くのにもっとも大事なこととはなにか?




それは「凄み」である。

小説の書き方の本で、いきなり「凄み」を持てというのだから筒井のこの本にかける想いを感じる。普通だったら、ストーリーだとか、文体だとか、テーマ……通り一遍の内容が浮かんでくる。ところが、この本の場合「凄み」なのだから! 彼は本当にこの本を遺書にしてしまうのではないか?

今手元に書籍がないので、(雨で濡らすのが嫌で学校に置いてきた)思うまま凄みというものを考えてみようと思う。


凄みとはなにか

凄みとは何だろうか?結論を先に出す。ぼくが考えるに、それは創作に対する峻厳さである。そして創作に「まじめ」であることは、何よりも自己を表すことを意味する。

小説の価値というのは筆者の精神を如実に表すこと以外にない。自分の精神をあらわすことなしに小手先のテクニックだとか、技巧的な新しさを弄すること、既存の定型に貶めることは愚劣な行為であるとぼくは思う。

西田哲学風に言えば「自己の深さは世界の深さ」なのであり、自分のことを深く知らない人間の創作はすべて浅薄である。そして自己を知っていながら妙な羞恥を出したり、倹約の精神を出して自己をだし惜しみする作品も深さに欠ける。

一体だれが夏目漱石の精神と彼の作品「こころ」を切り離すだろう?一体だれがゴッホの「ひまわり」と、ゴッホ自身の叫びを切り離すだろう?

……私小説を書けというのではない。ハードボイルドでもSFでも、一個人の精神が見えてこない作品は「凄み」に欠ける。結局、小説を書くという行為はどこまでも孤独な行為である。漫画家であればアシスタントがあるだろう。音楽家であれば別の楽器担当がいる。

しかし物を書くということは……どこまでも個人の、孤独人の仕事である。暗い部屋の中でひとりペンを握って、書くことと言えば自己の精神しかないではないか。救いを求める目で周りを見渡してもだれもいないのだ。

だから、借りものの精神で物を書く人すべてをぼくは嫌う。太宰治のまがいもの、ドフトエフスキーのまがいもの……。あるいはピンチョンの偽物でも何でもいい。その腐臭にぼくの鼻は耐えられない!

例えば音楽においてぼくが凄みを感じるのは、完全に自己をどこかへ置いてきてしまった人である。自己を置いてきてしまったのなら、精神はどこへ行ったのだ、と君は思うかもしれないが……。生活の自己、つまり意志する自己であったり思考する自己、それらあらゆる自己をかなぐり捨てて最後に残るもの。そこにこそ本物の精神があるのであり、ぼくは音楽を通じてこの「凄み」を享楽する。これがすばらしい作品の前提である。

抽象的で独りよがりになってきた。わかりやすい例をあげようと思う。


バイクデザインの「凄み」

ところで"sugomi"で画像検索すると真っ先に出てくるのは、とあるバイクの画像である。(最近のカワサキのデザインは本当いいよね)

Z1000というバイクがある。Z1000のジャンルは「ストリートファイター」。スーパースポーツバイクの最上級のエンジンを使って、サーキットではなく都市部の街乗り用に改造したバイクである。欧州あたりで流行し、攻撃的で奇抜なデザイン、無駄を省いたカスタムが独特の風格を与えている。

そのストリートファイターの流行に感化されて、各社いろいろなバイクを出している。TriumphのStreet Tripleは鉄板だが、DucatiのStreet fighter、KTMのDUKEシリーズ、スズキのB-king(あるいはGSR 750)、ヤマハのMT-09……。

いろいろあるが、その中でも2014年式のZ1000はかなりすごいものだと思う。Z1000は2014年にフルモデルチェンジしたのだが、そのデザイン・コンセプトは「凄み」。
ひとまず、2013年の旧モデルを見ていただきたい。

かっこいいし魅力的なのだが、確かに「凄み」に欠ける。町中を走っていても、ああ、Z1000だなという印象である。

これが今年になってこうなった。



So much "Sugomi"...



と外人に驚嘆されているデザインである。よくカワサキはこんなものを市販しようと思ったな、とぼくは思うのだが……。

バイク本来のデザインを甚だしく逸脱している有機的なフォルム。もはや視認用というよりは”猛獣の目つき”と言った方がいいライトの形状。あらゆる過剰さと過小さを追求したデザイン。それでいて全体としては一種の美しさを感じるのだからすばらしい。

まあつべこべ言わなくても画像を見比べてもらえればわかることだ。
バイク乗りの趣味は本当に一般人とかけ離れているものだけど、この「凄み」が少しでもわかってもらえればぼくは満足である。

凄みとは結局なんなのさ

バイクにしても小説にしても変わらない。創作にかける誠実さを感じるとぼくは「凄み」を感じる。誠実さと言ってもいいし、真摯さ、素朴さ、純粋、正直さと言ってもいいかもしれない。

何かを創るとき人は単純に、嬉しい。ただ粘土をこねている少年はすばらしく楽しいと感じるし、その作品も精神が籠もっている。それこそピカソが晩年目指した精神でもある。

しかし、ここで無神経な大人がこう言ったらどうなるだろう。「君の作ったものは独創的だけど、とてもコンクールには向かないね。いいかい、人の形はこういったものなんだ。腕が二本あって、脚も二本だ、わかるね……」ぼくはもう彼の作品を見向きもしないだろう。

ぼくは凄みのある作品を打ち出したいと思う。しかし、あるいはこのブログも少しは「凄み」があるのではないかな? そうであったら嬉しく思う。ぼくは、ただ書くことに忠実でありたいと思っているひとりの小さな人間だから。

「ワナビー」と「夢を叶える人」の違い

夢が夢で終わるような人が大多数だろう。

プロ・ミュージシャンになりたい、漫画家になりたい、お笑い芸人になりたい。あるいはぼくのように小説家になりたいでもいいけれども、こういった華のある職業、あるいは「水商売」的な職業というのは、憧れることは簡単だが実際になることは非常に難しい。

難しいとは言っても、確実にそれで食べていける人がいるし、現在活躍しているプロにとってはそれほど困難な道のりではなかっただろう。ようは適性のある人間が少ないのであって、「自分には才能があるのだ」と勘違いしてしまう人が非常に多いだけの話なのである。

なぜありもしない才能を信じてしまうのか。そうした悲劇が絶えないのか。

それはひとつの現実の否定として憧れる人が多いからだ。例えば貧乏人が一枚の宝くじに夢を仮託するように……。平凡で退屈な日常を送るなかで次第に白馬に乗った王子様に憧れるように……。彼らは本心から夢を追っているのではない。ただ自分の状況に嫌気がさして、何かを変えたいだけなのだ。

彼らは音楽を聴く。漫画を読む。テレビを見る……小説を読む……。彼らはコンビニで商品を取るように、手近な夢をつかむ。なんだ、楽しそうにやってるじゃん。俺も遊んで稼ぎたいな。俺には才能もあるだろうし、きっとできるだろう。

……という事実誤認!


ワナビー (wannabe) は、何かに憧れ、それになりたがっている者のこと。しばしば嘲笑的あるいは侮蔑的なニュアンスで使われる。(wikipedia)
一般に「ワナビー」と呼ばれる人種が馬鹿にされたり嫌われるのは、単に存在が錯誤であるからに他ならない。


「ワナビー」と「夢を叶える人」は何が違うのか

「ワナビー」と「夢を叶える人」を確かめるリトマス紙は、「お前には無理だ」「夢を追うことなんてやめてまじめに働け」ときつく言ってみることである。

「ワナビー」は弱い犬のように饒舌に吠えるだろう。

「何かを目指さなきゃ夢は追えないよ。それに、夢を持つことは良いことだし、ぼくの自由であり、権利だ。君はぼくが芸人になれないと思っているけど、ぼくと同じような職業・年齢からデビューした人だっているんだぜ。例えば○○がそうだ。君は何も知らないのに批判しているんだよ。もしかしたら君は僕に嫉妬しているんじゃないかな?」

彼の言うことは明晰で、正論である。なぜなら上辺だけの正論しか彼を守るものはないからだ。

しかし夢を叶えることのできる人は、しばらく逡巡したあと、どもりながらもこう言うだろう(あるいは君のもとを静かに去るかもしれないが)。

「君の言うことは確かだし、正しいと思う。だがぼくにはひとつの予感めいたものがある。自分が『なりたい』と思う以上に、『ならなくてはならない』という義務感……。『なるだろう』という予感以上に、『なってしまうだろう』という運命感……。いわば平凡な人生を送ることの方が不自然で、プロになる方が自然というか……。意志や欲求ではなく、そういう自分しか考えられないのだ。夢と呼ぶにはあまりに生々しい」

夢を叶える人には必ず、「なんとなく自分はなるだろう」という漠とした確信があるものである。これは決して反動的なものではなく、内発的なものである。

ワナビーの「絶対に俺はプロになるんだ!」という明朗な意志とは毛色が違う。もはや「プロになることが確定している」ような感覚。滑稽にも、才能を持ち成功する運命にある人はかえって「なんで俺なんかが?」と思っているものである。

それはワナビーにとってあまりに遠くにある「夢の職業」は、「夢を叶える人」にとってはすでに手に取れる位置にあるからだ。かれはその形を確かめたり、匂いを嗅いでみることもできる。そして膨大な量のワナビーたちが憧れていながら決して近付けないにも関わらず、今その「夢の職業」が自分の直近にあることが、彼にとっては「不安」だったり「疑問」なのである。



アニメや漫画によくあるような「俺はミュージシャンになるぞ!」と息巻く少年たち。典型的に努力し、華やかに飛び跳ねる人びとはなぜ現実では夢を叶えられないのだろう?

そうではなくて、地味で単調な練習や作業に身をうずめ、暗く湿気のある部屋に引きこもって、そうしなければならない自分の運命をときに呪うような人びとが夢を叶えるのはなぜなのだろう。


その答えは、ワナビーは夢を見ることに満足しているからだ。核心的な事柄に近づこうとせず、つねに衛星軌道する。ワナビーはワナビー同士で結託する。漫画専門学校、同人クラブ。そうして大衆だとか、本当の才能あるプロを軽蔑する。
プロのしている面倒で、死ぬほど骨の折れる単調な作業や訓練をワナビーはしない。なぜなら彼らには「才能」があるから……。そんなことをしなくても、仲間には評価してもらえるから……。

ぼくはワナビーの目を覚ましたいと思うのではない。ワナビーは滑稽だが、ある意味では幸福と言えるだろう。そして錯誤、錯誤、錯誤の人生があってもいいとは思う。

ただワナビーがもし本当に夢を叶えたいのであれば、必要なことは専門学校に行くことでも何か賞に応募することでもなくて、立ち止まって自分の手を見つめてみることである。……と考える。

7.23.2014

神経症者は愛情を必要としない

書く。一日数千字をひたすら書き続けるこのブログに何の価値があるのかわからないが、ぼくは誠実に、無目的的に仮借なく書くことによって記述されたひとつの精神を作ろうとしている。いわばぼくの魂の生き写しを作ろうというわけだ。

ぼくはすべての人間の精神に価値があると思っている。それはしかし自覚的な精神であるほど崇高だと思う。精神の深みは平等だが、問題はその渓谷の闇に対しどれだけ光を当てられるかなのだ。ぼくにとってその光を照らす方法とは書くことと読むことのふたつである。だから、書かれたものについてはわからないが、この書くという行為に意味はあるとぼくは思っている。

……

ところで、ぼくは今日一日憂鬱だった。ぼくは一生だれも愛せないまま終わるのではないか、と言う危惧があった。思えばだれかを心から愛したことはない。いや、「愛せた」ことがない。恋のようなものをした経験もある……。が、ただぼくのしていたことと言えばだれかを愛することではなくて、離別の苦しみを怖れていただけなのではないか。


以前記事に書いた(小説家の二つの類型「循環質」と「神経質」)ように、循環気質の小説家は早婚で夫婦仲の良いことが多い一方で、神経質の小説家は孤独死の傾向がある。ぼくは神経質の人間である。神経質どころか、病的に神経質という点で神経症である。

このブログを見ればわかるだろう。どうもかわいげのない、他人を突き放したような、独善的な、完ぺき主義的な、あきれるくらい高慢なブログ。こんな人間が幸福な家庭を築けるだろうか……。決してそうは思われないだろう。

精神的不具、かたわ、障害者、キチガイ。欠如、欠陥、無能。病質、偏執狂、異常発達。高慢、驕り、錯誤。まあなんとでも言えるだろう。

神経症者は愛を必要としない


検索で引っかかったサイトがあってたまたま読んだのだが、実に怜悧で的確な分析だと思う。精神科医かカウンセラーか知らないがかなり勉強された方の文だと思う。
神経症的男性が恋人に求めているのは、母親が子供をあやすように自分をあつかってくれることである。彼らは自分の依存性を満足させたいのである。
これなんてそのとおりであって、ぼくの恋はかなり幼児的である。相手に依存してしまうのだ。そして依存してしまう自分が恐ろしく(なにしろ依存の先には絶望しか待っていないのだから)、同時に自己嫌悪してたまらないので相手を突きはなしてしまう。

だから、ぼくの恋愛は長続きしない。

ところで、興味深かったのは以下の発言である。
神経症的な人は相手を信じられない。それは相手の好意とか恋とかいうものを
感じられないからである。感じられないということはそれを必要としていない
ということなのである。
あるいはそれ以上に必要としているものがあるということであろう。(強調引用者)
そう、ぼくらは愛情を必要としていないのかもしれない。*

神経質の人間はおおむね潔癖である(ぼくの部屋はすごく汚いのだが)。潔癖であるということは、不純なものを受け付けたくないということである。そうしてあらゆる人間の精神は不純であって、そのことはいくら純真無垢な処女であっても変わりない。

神経質な人間が他者の精神を受け入れられず、自分の世界に引きこもってしまうことはこうした不純を受け入れられないのではないか。

それは埃のついたパンを神経症者が餓死寸前であっても絶対に口にしようとしないことに似ている。神経症者がその潔癖から、嫁に対しても決して「帽子」なしでは性交できないことと似ている。

しかし欲求は依然あるのだ。孤独なゴッホが手紙で書いたように、
ほかのみんなと同じように、僕もまた、家族や友情、愛情や親交の必要を感じている。僕とて消火栓や街灯のように、石や鉄でできているわけではないのだ。
……必要ではあるのだろう。欲求はたしかにある。しかし、それを受け入れるくらいなら自己の潔癖を守りたいという精神があるのではないか。ゴッホは愛情を欲した。けれども決して家族の愛情にひたることはなかった。結局のところ、彼の本心は必要としていなかったのだ。彼は孤独を守ったし、だからすばらしい作品が描けたとも言える。

なぜゴッホは愛情に満足してしまうことなく、すばらしい作品を描けたのか?運命のいたずらか?それともある「意志」なのか。意志であるとしたら、それは必ずしもゴッホ自身の意志とは言えないだろう。

神経質であることの残酷な使命。哀れで、滑稽に思われようが、その一線を越えてしまったら自我が崩壊するような恐怖……。ぼくらは愛情に浸りたいと思う。甘い愛の世界に耽溺したいと思う。しかしその本能が、無意識が、ぼくらを愛情から突きはなすのである。

それを病的と言ってもいいし、高潔と評価してもいいだろう。しかし神経症者はこのために孤独に陥るのである。そうして孤独の先から得るものは、ひどい苦痛の海と、その上に浮かぶ少しばかりの美だけなのである。


ところが……。

残念なことにぼくはモテる。顔がいいし、均整がとれた身体をしているのだ。以前、大学の同期に「俺がお前の顔だったら毎晩女遊びしている」と言われたことがある。ぼくの精神をして、このマスクがあること!なんという皮肉だろう。

しかしぼくは今日の憂鬱にとらわれていたので、あらゆる異性から離れようとして、女性にはなるべく無関心に接した。そしたら、ある女友達に

「最近冷たくない?私何か悪いことしたかな?」

と言われる始末である。

こんな陳腐なセリフ、漫画くらいのものだと思っていた。結局彼女には「かっこいい」だの「モテそう」だの言うので、ぼくはこいつを彼女にしてもいいかなあ……という気になってくるのである。

ぼくは優しい絶望の海に浸ることも許されない。決して安逸は許されない……。寝ようと決意した瞬間に、お節介な老婆がやってきてぼくを叩き起こすのだ。

カルヴィニズムではないが、あらかじめ用意された一本の道を辿っているように思えてくる。


*文脈的には、「成熟した健全な愛情を」求めていないと取るのが正しいと思う。しかし神経症者が愛情全般を必要としていないという可能性も真実めいているので、そのまま書き進めた。

虚構から共感の世界へ

ル・クレジオの「物質的恍惚」を読んでいるが、これはひどいブログだなと思った。ペソアの「不穏の書」もそうだけど、思弁的に思ったこと感じたことを直截に書くのが流行ってるのかな? これは小説じゃなくてエッセイだから、新しい形のエッセイとも言えるのだろうけど。……読みづらいよ。


われわれは物を書くけれども、物を書くという行為それ自体がひとつの創造的な波及を持つ。「われわれは」と書いてみる。その時点で、次の言葉が無意識的に用意されていく。書くという行為は意識的な行いではなく、はるかに無意識的、直感的な行為だと思う。

例えばあるプロットに従って厳密に書かれた小説の方がまずくって、気づいたら逸脱してしまいまったく違うストーリー展開した、という小説の方がおもしろいということはあるのである。音楽もそうで、熟練するに従って本人の意志はかえって拘束具でしかなく、無意識的に演奏したときにもっとも秀でた演奏になる。

優れたジャズ・ミュージシャンは楽器をただ吹いているのではない。「トランペット」という楽器があの破裂音を奏でるためだけに存在しているように、ジャズミュージシャンはその瞬間、トランペットを吹くためだけに存在しているのである。つまり彼はその瞬間、「吹かれるための楽器」と「吹くための人間」になる。人格がひとつの目的に支配される。楽器の存在に相補的に同化する。彼はその瞬間、完全になるのである。

苦痛や雑念に汚れたこの重苦しい人生の中で、唯一雷鳴の明るい輝きがあるとすれば、この瞬間だと思う。われわれはたえずこのときを求めなければならない……。ぼくが書くことを熟練しようというのもこの理由である。


ところでiwatam先生が久しぶりにコラムを書いていてぼくは嬉しくなった。彼によれば、現代を支配する力は「共感」であり、現代の考え方は「直感」的なのだという。

まずiwatam氏は現近代の価値観の変遷を大きく四つに区分した。国家のために尽くすことを命題とする「戦中派」、良い仕事をすること「全共闘世代」、賢い消費をすること「バブル世代」人とつながりを持つこと「ネット世代」であり、現代の世代はネット世代である。

それぞれの力と思考の変遷は以下のようになる。

力の変遷:「精神力」⇒「知識」⇒「虚構」⇒「共感」

思考の変遷:「演繹」⇒「分類」⇒「構造」⇒「直観」

例えば現在はツイッターのようなSNSが跋扈している、みんなが「共感」を求める時代である。「共感」こそ社会を動かす至上原理となる。孤独者の繰り出す難解な思弁よりも、ニュースを見てちょっとした正論をつぶやく方がはるかに多くの共感が得られる。

そして直観とは、「自分がどう思ったかがすべてだという考え方」であり、「すべてのことが含まれるが、それ故それ自体は何の意味も持たない考え方」であるという。

現代にあってペソアやル・クレジオのような感覚的な散文が好まれるということはひとつの象徴だと感じる。

なるほど文学史と照らし合わせてもiwatam氏は見事なところをついているのではないかな? まあぼくは寡聞なので詳しくは書けないが……。少し前まで虚構が流行っていたことはわかる。SF作家が大人気だったし、筒井康隆はまさに「虚構」の虜であって、たとえば「文学部唯野教授」の最大の感心がその「虚構」だった。……そういえばアングラ的だった2chが、単なるコミュニティサイトに変貌を遂げたのも興味深い。かつてはあのサイト、ひとつの「リアル」の否定、虚構だったのである。

ところが現代はすでに直観の世界である。
こうした現代においてマッチするものは何だろう、と思う。必要とされるもの、「アタる」もの。それはペソアが「完璧に文明化した社会には、散文以外の芸術はないのではなかろうか」と言ったように、ただ感覚的に書き綴る散文なのかもしれないな。
まあ、どうでもいいや。「アタる」作品を書こうなんて退屈な考え方だ。



ともかくわれわれの生きる現代社会というのは刹那的なもので、偏りを持っているという事実が重要なのだ。われわれが当然のように享受している「現代的なるもの」は決して固定化されたものでなく、はるかに流動的であって、一切がとどまるものではない。それは外的・内的環境に晒されながら細胞おのおのが自分の役割を最大限に演じ、全体としては統一を守っている人体のようである。

現代は切り離された「今」なのではない。一時期の学生がマルクス思想に陶酔したように、ドイツの中産階級がヒトラーに陶酔したように、われわれは常に時代性に支配される生き物である。「現代」は、はるかに大きな歴史の波間にあるということ……。目のくらむほど遠大な過去と、未来の間でゆれる一つの数珠であるということを認識しなければならない。

ネットが趣味の細分化を可能にした?現代人は社会や歴史を越えて完全に自由な個人となった?そんなことはない。われわれは社会の統制を免れることはできない。なぜみなパズドラをやるのか……なぜみなiPhoneを持つのか……なぜみながツイッターで呟くのか……。これらもひとつの片隅であって牢獄なのではないか。


とにかく暑い。そろそろ学校に行かねば。

7.22.2014

小説と年齢について――二十五歳の壁

「あまりにも遅すぎた!」という永遠の嘆き。――すべての出来上がった者の憂鬱だ!(「善悪の彼岸」 / ニーチェ)

基本的に何歳になっても小説は書けると思うし、「何かを始めるのに遅すぎるということはない」と思うのだが、例えばゲーテやドフトエフスキー……とまではいかないまでも、「文学史に名を残すくらいの大作家になりたい」と思うのであれば、年齢という壁がひとつの重要な要素になる。

ある学生の論文なのだが、昭和の一時代を築いた作家たちが小説を書こうと志したのは平均して二十歳前後という調査結果がある。この時点でぼくは落第なのだが。

でもって、心理学者のクレッチマーの言うように、学生時代を過ぎ去ると、単調な労働生活に陥ると没個性的な生活のなかで否応なく個性が失われていく。
われわれはまた学生の歌集から、ときおり重要な生物学的な知見を引き出すことができる。学生歌によれば人生はわずか四年の学生生活に限られており、その他の人生、すなわち実社会の生活は、まるで無価値な付随物、無用の長者であるかのように見える。人はしばしばこのことを詮議立てるが、しかしこの学生歌にも一面の真理はふくまれているのである。事実、どんな人でも、その若き日には、全体的な精神的態度において、新鮮さと興奮性とを多く保っており――二十五歳頃から、徐々に、あるいは急激に消え去ってしまう。その後にくるものは、機械的な職務の処理と、睡眠と、食事とであって、個性と呼ぶべきものはほんのわずかしか残らない。(「天才の心理学」 / E. クレッチマー *太字引用者)

日常の生活がわれわれの個性と才能を奪っていく。 これは宮沢賢治も「告別」において同じことを言っておる。
泰西著名の楽人たちが
幼齢 弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがように
おまえはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管とをとった
それらのどの人もまたどの人も
五年のあいだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ

 そうして、テグジュペリ先生もこう言うのだ。
何ものも、きみの肩を鷲摑みにしてくれるものはなかったのだ、手遅れとなる以前に、いまでは、きみが作られている粘土はかわいて、固くなってしまっていて、今後、何ものも、最初きみのうちに宿っていたかもしれない、眠れる音楽家を、詩人を、あるいはまた天文学者を、目ざめさせることは、はや絶対にできなくなってしまった。(「人間の土地」 / サン=テグジュペリ)

われわれは、労働の循環する単調な生活に飲み込まれてはならない。手遅れになる前に抵抗しなければならない。夏目漱石先生の言うように。
本来人間が命がけでするべきなのは、自分本位の「道楽」なのであって、「仕事」はしょせん、お客様のご要望にお応えする他人本位の奉仕に過ぎない。

だから、われわれはゲーテの言うように青春を、若き時代の新鮮さと興奮に満ちた青春を取り戻そうではないか。
天才は一般の人々がただ一度しか持たぬ青春を幾たびも繰り返して経験する
そして、近代批評の父であるサント・ブーヴの言った以下のようなことを警戒しよう。
齢不惑を越えた高名な多くの人々の間に、失敗や脱線や狂気のさたや卑劣な行為を見るにつけ、ぼくは思う。向うみずや気の早さはあるが、青春というものはやはりまじめな聡明なものだ。方向を失って軽薄なものになってしまうのは、かえって人生の後半においてだ。
坂口安吾の夏川に語らせたことも、ひとつの真理である。夏川という登場人物は四十を過ぎたおっさんだが、十八歳の小娘を前にして悟るものがあったらしい。
夏川は今もなお自ら淪落の沼底に沈湎するが故に自らのいる場所を青春と信じていた。青春とは遊ぶことだと思っていたのだ。否、否、否。青春とは、かかるくぎりもないだだら遊びと本質的に忌みが違う。樹々の花咲く季節の如く、年齢の時期であり、安易なる理性の外に、冷厳な自然の意志があることを悟らざるを得なかった。(「母の上京」より)

しかし、年齢という数字では「遅すぎた」ぼくにとって救いになるのは、やっぱり哲学者ニーチェの以下の言葉である。
若干の者は、青春のはじめから老人だ。しかし、かれらが遅くなってから青春をつかめば、その青春は長持ちする。(「ツァラトゥストラはかく語りき」より)




……引用ばかりになった。これでは「読書をする暇つぶし屋」だ。訴えたいことはだれかが先に書いているものである。あるいはぼくの精神を形成しているのは読書経験が多いから、しょうがない。それにしても読書とは本当に実り多いことだ。ロシアのノーベル文学賞作家ブロツキィの言ったこともわかるよ。
もっとも重い犯罪は、本を軽視すること、本を読まないことです。この犯罪を人間は、自分の一生によって償うことになります。(「私人」より。ちょっと改竄)
(以上、著者を太字にしたのはとくに意味はない。戯れです。)



そろそろ自分の言葉で書こう。

ぼくの青春時代を振り返ってみると、 それは暗澹たるものだった。漫画家になるんだ――と言ってずーっと漫画を書いていた小学時代はともかく、しだいに学校社会に溶け込めず、周囲とうまくやれない自分に葛藤と無力感が深まるばかりだった。
軽い虐めにもあったことがあるし、恋愛の失敗も経験した。家庭は崩壊する上、精神はずっと病んでいて、布団を噛んで泣くような日が多かった。

ろくでもない高校で「このままではダメになる」と思い賢明に勉強して、大学という楽園にようやく辿り着いたかと思えば、その実情はそれまでの陰惨な生活の精華とも言えるものだった。

ただぼくの絶望に疲れた生活を、唯一明るく照らし、あたため慰めてくれたものといえば書物だけだった(あと音楽もね)。絶対的な孤独のなかの、唯一の友人。ぼくの生命は芸術によって蘇ったのだ。

ぼくの今は芸術に生かされて、静かに燃えている。それまでの十年は墨で塗りつぶされている。ぼくの青春は今になって輝いているのである。これは「遅くなってつかんだ青春」である。だからきっと長持ちするだろう……。

ぼくは恩知らずではないので、その豊穣な恵みを与えてくれた芸術に対し恩返しをしたいと思う。芸術の分け与えてくれた灯りは今、だれかを暖め、光を与えることを欲している。ぼくがありきたりな義務だとか、親の指図や友人のまねごとをなげうって、ただ芸術に奉仕したいと思うのはこのような経緯があるからなのである。

だから、二十五歳?それが何だと言うのだろう! ぼくは有名になることを望まない。偉大な作家になることも望まない。ただ、頂いたものを静かに返す試みをしたいだけなのである。だから、奢らず迷わず目を開いて、峻厳に、静かに歩みを進めようと思う。

静かに行く者は健やかに行く。健やかに行く者は遠くまで行く("Chi va piano, va sano e va lontano." イタリアの諺。)



小説家の二つの類型「循環質」と「神経質」

小説家を二つに分けてみたい。

循環質
不快と悔恨と自責と哀愁とが
今、うっとうしい大気の中にたれこめる
                   ゲーテ
いわゆる躁鬱気質のことである。

例えば中島らもは躁鬱病と診断されている。さっき紹介した絲山秋子も鬱病で入院していた。筒井康隆もエッセイにて、「躁のときは悲しい作品も楽しい作品も書けるが、鬱のときはどちらも書けない」とこぼしていたから、彼も起伏が激しいのだろう。海外作家の代表はゲーテ、画家であればピカソ。

循環質の作家は明快でエンターテイメント性の高い作品や、多くの登場人物を動員する優れた脚本を作ることが多い。筒井の言うように、ぽんぽんと良作を生み出す時期とまったくダメなスランプの時期があり、周期的である。
躁病の症状の中に見られるあふれるばかりの生の歓喜、思想の充満、勤労の愉悦などは、ある種の芸術家や学者の天才的創造期とふかく相通ずるところがあり、それと反対にこの病気の抑鬱期は、多くの天才の活動期の中間に介在する精神的空虚、無能、絶望感、疑惑間などに非常に似通っているのである。(「天才の心理学」 / E・クレッチマー)
このタイプは感情の起伏が激しい。太ったりやせたり体重の変動が大きく、連日ほとんど眠らず精力的に活動するかと思えば、急にふさぎ込んで寝込んだりする。希死念慮が見られることもある。
ちなみに異性にかなりモテるため早婚であることが多く、交友関係も広い。

神経質

私が見知らぬ場所で、何人かの見知らぬ人、あるいは私がそう思う人と一緒にいるとき、部屋全体が胸を圧迫して、私は動くことでさえできなくなる。そして、私の人格そのものが彼らをいらいらさせているように思われて、全てが絶望的になる――カフカ
小説家には比較的に少ないタイプだが、例えばカフカは自分が病気ではないか過度に心配する心気症だったと言われる。その心気症に加え、毎日決まった時間に散歩しなければ気が済まなかったカントもこのグループだろう。神経質なタイプは哲学者に多くて、例えばヴィトゲンシュタインの「自分が他人の影響を受けるのを許さなかったことをよしとする」というセリフはまさに神経症的である。他、エミール・ゾラやユイスマンス、リルケも神経症の傾向が作品から伺える。画家であれば、ゴッホ。

夏目漱石、宮沢賢治、三島由紀夫、川端康成などの大作家が神経症と言われることがあるが、これらは大鬱病との区別が明確ではないので断定はできない。

ちなみに上のカフカの引用は、同様のことをペソアが「不穏の書」で書いているので、(少なくともペソアの人格のひとつ「ベルナルド・ソアレス」は)神経質であると思う。

他人に厳しく、反発が起きやすい。人見知りをして、積極的に人と関わろうとしない。基本的に健康に気を遣い、痩せているタイプが多い。寝る時間や食事の時間は一定で、習慣を邪魔されることをとくに嫌う。日光や騒音など、ささいな刺激に敏感(……ぜんぶぼくのことだ)。

このタイプは淡々と美や真実を追求するような完璧主義的、理想主義的作品を生み出す傾向がある。頑固な修道僧的。おおむね晩婚で、孤独死する確率が高い。
強迫神経症者の活動性の根源は、ときに軽躁病者に見られる月るを知らぬあふれ出る力と創造の喜びではなくて、実はもっとも抽象的な理想主義、カントのアプリオリな義務の原理である。(「天才の心理学」 / E・クレッチマー)
ちなみに↑のクレッチマーという心理学者は、軽度の神経症だということである……。

 まとめ

小説家の作品の傾向や人格から、代表的な二種類の類型について書いてみた。

精神病を大きくわけると、他に統合失調症的(分裂質)な作家や、ドフトエフスキーに代表されるてんかん質の作家もあげられるだろう。しかしこのふたつは身近ではないし、個人的にもよくわからない領域なので省いた。

作家はみんな病気なのだろうか?ある意味ではそうだ。強烈な個性とはそもそも病的なものだからだ。

小説家志望の小さな人間たち

昨日、というか今朝ぼくはナポレオン・ヒルの「富を手に入れるための六箇条」を用いて作家になる宣言をしてしまった。もともと数年前から本を書きたかったのだから、この内容は特段おかしいものではないが……。

書いたあとにいろいろ考えてみると、何というか、恥ずかしいというか、未熟だという気分になってくる。下手なラブレターを書いたあとの気分だ。

そもそも、物を書こうという人間が他人のフォーマットを下敷きにしようというのがおかしい。その時点ですでに間違いだし、「小説家になる」と宣言すること自体が、小説家としてどうなのかという気がする。ネットで「小説家になりたいです」と宣言すること、これはどうも陳腐でありきたりだ。マズイのだ。

この二点。宣言して、「一歩踏み出してわかったこと」があるとすれば、この二点である。

絲山秋子「天才宣言」

ところで、ぼくの知るかぎり「小説家になるぞ」とネットに宣言して成功した人間はひとりしかいない(ラノベは除く)。絲山秋子という女流作家がその人で、彼女は無名時代ホームページの「天才宣言」で文学を志すことを宣言した。

 正直いって彼女の作品は好きではないが、この宣言からは高潔で美しい精神を感じる。彼女はこれを書いた二年後に小説家デビューし、その次の年に川端康成文学賞を受賞した。さもありなんといったところだ。

その一方で、「小説家志望」と検索すると山ほどブログが出てくる。その臭気のすさまじいことと言ったら……。

「小説家志望」のブログのはずなのに、今月の収支はどうだ、今日は何買いましたとか、なんだからしくない。まあ作品は別で書いてるのかもしれないが。志望する段階で満足しているんじゃないのか。何がなんでもペンで食うのだ、という意気込みが見えてこない。

小説家とは間違いなく職業なのであって、ただ小説を書く人ではない。八百円の本には、最低限八百円分の価値、おもしろさや美しさがあることを保証できるひとがプロであるとぼくは考える(現実にはプロであっても難しいだろうが)。

同じように「小説家になりたい人を指導します」なんていうサイトもたびたび出てくる。それがまた、しょうもない作品の三流作家なのだから泣けてくる。いや、ぼくは彼がぼくのような「ワナビー」より断然偉いことを知っている。ペンで食べていけることはすばらしいことだと思う。しかし、悲しい。

ぼくは音楽を七年続けているから、ぼくよりも明らかに下手なプロ演奏家を何回か見たことがある。彼は間違いなくそれで食べているのだが、彼を支持するのは「良い演奏」も「マズイ演奏」もよくわからない人間であり、彼もそういう人間を相手して満足している。その循環はやはり腐臭がするし決して陥ってはならない道だと思う。

ぼくがただ自分の鋭敏な神経に感謝するとすれば、そういった堕落と退廃への腐臭に我慢のならない鼻を持っていることだ。

かといって、技巧的に優れた創作のエリート集団が必ずしも良い作品を書くかといえばそうではない。まあこれは二流か一流かという話であって、ぼくにとってはいずれも雲の上のことなのだが……。
例えばアメリカで言うと、大学の創作文芸科を拠り所にしている小説家はその時点でダメだと思う。もともとアメリカ文学の場合、ポウにせよメルヴィルにせよ、文化的な環境が壊滅的なド田舎で書くことを強いられたからこそ、文学の自明性が存在しないところから書き始めなければならなかった。だからこそ、彼らの小説は、近代小説の規範から逸脱した異様な形式を持つことになったわけだ。……しかし、創作文芸科というシステムは、文学が文学として成立していることを共通認識とする共同体を作り、メンバーを囲い込むことで、囲い込まれたものたちに安心感を与えてしまう。創作文芸科出身の小説家は本の売り上げで食えなくとも創作文芸科の教師として就職すればよく、その教え子の中から同類の小説家が現れる。かくして、自給自足の閉じたサークルが完結する。(ジャンクとしての情報――トマス・ピンチョン『重力の虹』 / The Red Diptych

ともかく、ぼくに今必要なこととは、外部の喧噪から離れ、共同体の安逸からも離れ、ただ瞑想的に自己を豊穣させるということにあるのだと思う。

相変わらずぼくは去年九月のこの発言が好きだ。
僕はひたすらに沈黙を守りたい。パラフィルムで密封されたフラスコのように、自己の中で、自己を保全し、そうして自己を破壊しながら生きていきたい。自分の原子をぶつけあい、化学反応を起こしたい。
パラフィルムとはなんぞや?という人は、きっと文系の方だろう。まあサランラップと考えてもらえばよい。

最後に、絲山秋子の「天才宣言」を書いておく。

 文学というものが現代どういう状況におかれているかは大体把握しているつもりです。どんな本が売れているかもおよそ判ります。
 なぜ私が文学を志すのか、答えはとても簡単です。
 まず仕事に対する考えとして、人がやっていないことで私がやるべきことがある。
 文学に対する考えとしては、自分が読みたい作品がないから書きたい。
 その2点です。
 結果がどうであれ自分には才能があると信じます。
 生活との両立は難しい。一生貧乏だな、きっと。
 そういえば私の病気も生活を脅かすアイテムの一つではあります。
 これは文学や芸術だけの問題ではない、例えば政治家と作家は、日本の現状では「エゴ」という点で見て対極にあると思いますが、プロセスはよく似ています。
 私が小説を通してしたいことは、特定の行動を促すことではありませんが、読者の顕在・潜在意識に働き掛けることだと思っています。読者それぞれが持っている「何か」を改めて「伝える」のが仕事です。
 一方で経済について言えば、「お金」という「言語」を通して物事を翻訳する仕組みという面があります。
 だから芸術に限らず、同じような、人から見たら勝算のたたない闘いを自分の天職としてしている人は世の中に、或いは歴史的にいくらでもいます。無名のまま終わっていってもそれは仕方がない。相手のせいではない。時代のせいにしても仕方がない。ただ、そういう人々に私は共感するし、私自身も評価に媚びずに生きていきたいと思います。(絲山秋子の天才宣言(2001.7)) 旧ホームページのキャッシュ 現在

作家になる宣言

世の中にはくだらないビジネス書で溢れている。ビジネス書というものは見識を広げるためというよりはむしろ狭めるためのもので、本棚にあればその人間の品格を貶めるものだと思う。「嫌われる勇気」?クソ喰らえ。アドラーの教え?ふざけるな。 どうせ都合良く解釈したあの「超誤訳ニーチェ」だっけか、あれみたいなものだろうが……。

取り乱した。

そんなぼくであってもかつてはビジネス書に傾倒した時期があって、その恩恵にあずかったこともある。例えばナポレオン・ヒルの「巨富を築く13の条件」という有名な本がある。約百年前に出版された古典である。

世の中の経済的成功者を取材し、成功するためには何をすればよいか、という「成功哲学」を確立している。古典だけあって良い本である。ぼくはこの本の影響でTOEICで良い点が取れたり、試験で良い成績をおさめることができた。さすが。

先ほど「ビジネス書というものは見識を広げるためというよりはむしろ狭める」と書いたが、その理由は成功とはなにか?を考えることを一切しないからである。これは本著でも例外ではない。

結局ビジネス書というもののはたらきは、読者の雑念や迷いを振り払ってリソースのすべてを富に志向させることにあるのであって、そりゃ読者を成功に持って行くことにも可能だろうと思う。その先のこと、その成功の先に何があるかはわからない。幸福が待っていればいいけどね。



さて、ぼくもひとかどの人間になろうと思い本書を取り出してきた。さんざんビジネス書をバカにしたし、はっきり言ってビジネス書に傾倒する奴は青臭いと思うけれども、何かを成し遂げようというときはある種の愚直さが必要なものだと思う。だからぼくは鼻をつまんで、思い切って没落してみようと思う。

本書の始めに「富を手に入れるための六箇条」とある。けっこうこれが馬鹿にできない代物で、さっき書いたようにぼくは以下の六箇条でいろんなことを成功させている。

富を手に入れるための六箇条

  1. あなたが達成したいと思う願望をはっきりさせること。単にお金がたくさん欲しいなどというような漠然とした願望設定は、まったく無意味なことである。
  2. 達成したいと望むものを得るために、あなたはその代わりに何を”差し出す”のかを決めること。この世界には、代償を必要としない報酬は発生しない。
  3. あなたが達成したいと思っている願望を取得する「最終期限」を決めること。
  4. 願望実現のための詳細な計画をたてること。そしてまだその準備ができていなくても、迷わずにすぐに行動に移ること。
  5. 達成したい具体的願望、そのための代償、最終期限、そして詳細な計画、以上の4点を紙に詳しく書くこと。
  6. 紙に書いたこの宣言を、一日に二回、起床直後と就寝直前に、なるべく大きな声で読むこと。このとき、あなたはすでにその願望を実現したものと考え、そう自分に信じ込ませることが大切である。

今回の目標は「作家さんになりたーい」というものなので(恥ずかしいので少しおちゃらけた)、それぞれの項目に当てはめてゆきたい。

達成したい具体的願望

文筆家になる。

作家として、言葉ひとつで食べて行きたい。書くことだけにこの生活を捧げたい。

富は別にいらないので、仕事を通じて優れた感受性の持ち主や真に共感できるひとたちと知り合いたいと思う。ようはstimulatingな人生が送りたいのだ。
書くことを通じて社会に貢献したいとも考える。
世の中は変わらなければならないし、変えなければならない。その全般的進歩のなかの一翼を担いたい。また、自分と同じように孤独に苦しみ、生に苦しむ人に一筋の光を与えたい。

そのための代償

幸福。

普通の幸福を捨てます。社交の歓びだとか、安定した生活、普通の楽しみを捨てる。
あらゆる既存の道から逸脱して、そこで知り得たものを持ち帰ることがぼくの使命だと考える。なので肉体的にも精神的にも危険な方向にすすんで飛び込んで行きたいと思う。

最終期限

三十歳まで。

何事もなすためには時間が必要だということを理解しているが、若い感受性を維持できる年齢のうちに大成したいと思う。ひとつの区切りとして、三十路まで。

詳細な計画

  1. 毎日何かしらを書く。
  2. 作品を作り上げる。
  3. 各種文学賞に応募。

まともに作品も創っていないのに作家?という感じだが、まずは書くことを修養したいと思う。ブログを読み返すと短期間で文章力が上達している。読書を通じて考え方の深みも増している……はず。このペースで数年素質を養い、そこから一気に執筆活動を行いたいと思う。

エミール・ゾラのように「一行も書かぬ日はなし」を座右銘としたい。もっとも数ヶ月前にはじめて短編を書いたようなぺーぺーが、数年で作家になろうというのはドン・キホーテ的な無謀とも言える。おまけに年も食っている。がむしゃらに書きまくるしかないだろう。

ぼくには詩人的な才能があると(おこがましいが)感じるし、あとは執拗な努力と時代に対する感受性をミックスすれば絶対に良い作品が書けると信じている。



二十五歳にもなって作家になると公言することは気恥ずかしいし、少し抵抗がある。ぼくなんかより数倍良い文章を書く無名の人をたくさん知っている。だけれども、何事も一歩踏み出さなければいけないものだし、踏み出してわかることもあるだろう。

さて、上の四つを寝る前と起きた後に大声で朗読すれば、潜在意識様のはたらきで作家になれるはずだ。きっと。


#作家なります、と書いてみて突然、このままじゃヤバイぞと思い始めた。妙な焦燥感に襲われる。いきなり現実を認識したか。

ツイッターの承認欲求に嘔吐する

ひさしぶりにツイッターを始めたのだけど、ツイッターを見ていて思うのは、どうも健全でないということだ。こう思われたいだとか、こういうキャラ付けをされたいという承認欲求が渦巻いている。

「私は才能ある詩人だと思われたい」
「痛快な社会風刺の言うことのできる切れ者でありたい」
「おもしろい人だと思われたい」
「お気に入りが欲しい、リツイートが欲しい」

それも結構だと思うが、ありのままの自己でなく、ひとつの類型に落とし込んでいることはきっと不幸だろう。不自然で、自己疎外的であって、いわゆるSNS疲れというのはそこに由来しているのではないかな。

それにしても、ネット上に詩人という人種があまりに多いことに驚く(詩人志望ではない)。だれでも名乗れるのか。ぼくも詩人鉄になってやろうかな。


このブログの存在価値について

このブログに何らかの存在価値があるとすればそれはひたすら自己目的的であって、他者の目を意識するようなことはほとんどないということだ。ぼくはこう思われたいということはない。醜い過去もさらけだすし、手の内に何もない(つまり才能がない)ことも晒す。ただ一本、自分という筋はできるかぎり誠実に貫きたいと思っているし、それだけがぼくという個人ができることだと思っている。というか、あらゆる個人ができる最大のことはこれしかないのではないか……。

多少は大衆に目を向けることもある。例えば最近の「音に敏感な人は~」という記事は、人に読まれることを前提としている。それなりのアクセスも見込んでいる。

公開する以上は誰かに読まれることを前提としているが、そうでない場合もある。ただキーボードとモニターのテキストボックスに向かって書きたいと思ったことを書いている。

ぼくはブログとは別に数年来肉筆で日記を書いているけども、これのおかげで自己目的的なブログが書けるのだと思う。たぶんレポートだの提出書類だけでは書けなかった。

最近のテーマはただひたすらにぼくがなぜ書くのか、書かねばならないのかということを探求しているが、答えじみたものも生まれてきた。それはようは「自己探求」なのだなと。

自己探求なら公開する必要はあるのか?と言われるかもしれない。これは前書いたように「書かれたものはそれ自体が読まれることを欲する」というわけわからん理論によって、ぼくは言語にしぶしぶ公開を迫られてるのだから晒す。

もうひとつの理由は、自分だけがわかるようにEvernoteに落とし込むこともあるのだが、これは支離滅裂な内容になりやすい。例えばぼくは日々思ったことを書くノートを作ったのだが読みにくい上に読む気が起きないし、あまりに抽象的だったり内面的すぎて、結局自分でもわけがわからない(気づいたら長編小説一冊分に膨れあがっていた)。

こうしてひとつの記事にまとめ上げること、多少は読まれることの緊張感をもって整合のとれた文章にまとめること、これによってぼくの目的を満たす良いものが書けていると思う。


芸術の価値について

ぼくは自己を探求したいと思うと同時に、自分という存在を「書かれた存在」にしたいのかもしれない。ひとりの人間を、ひとりの人間の精神をWEBのスペースにコピーする作業。これは死すべき人間であることからの逃走である。もう少しかっこよく言えば、永遠性への希求。

「よく脳みそをデータ化して永遠の生命を」なんてSFがあるけど、そんな必要はないだろう。結局ひとりの人間の人格や精神というものはその書かれた作品から伺い知れるものなのだ。ぼくがプラトンを読むときには二千年前もの精神が目の前に現れる。そうして、彼はぼくの中で確かに存在している。セザンヌの絵はセザンヌの人格を表すし、太宰治の作品は太宰治を表す。

われわれは芸術作品に触れるとき、創造者の人格や精神といったものを何よりも身近に感じるものだ。そこに芸術の価値がある。芸術に近づく価値と、芸術を生み出す価値があるのではないかな。

芸術の価値が創造者の精神に近づくこと、再現すること、受け入れることにあるとすれば、創造者が優れた精神を持たなければその一切はゴミクズでしかない。

最初言ったことにつなげるが、だから承認欲求が丸出しのツイートは醜悪だし、大衆に媚びたような作品は腐臭がする。それは書くことを冒涜するものだと思う。
小説や詩は独り言ではなく、作者と読者の会話であり、それは――繰り返しますが――他のすべての人たちを締め出す極めて私的な会話、言うなれば「相互厭人的」な会話なのです。(「私人 / ブロツキイ」) 


……最後に、ツイートをいくつも繋げてひとつの長文にしている人はブログにでも書いてURLを貼るか、別のSNSでやれと言いたい。

7.21.2014

なぜぼくが書くのかを何度でも考える

書く。書くけれど、なぜぼくは書くのだろう。


食に関する潔癖

今日はスーパーに行ってきて、煮物と野菜と、麦芽を買ってきた。ぼくの食生活はけっこうシンプルである。……というか、不要なものを買わない。

一度断食したことがあって、そのときの衝撃以来、スーパーの商品を見る目が厳しくなった。
一日断食したことがあった。ただの思いつきである。それで、空腹のままスーパーに足を運んで、軽くショックを覚えたことがある。色とりどりの商品はただの袋に入ったがらくたにしか見えなかったのだ。ぼくらに必要な商品がいかに少ないことか!
ポテトチップス、チョコレート、ジュース、ソーセージ、ワイン。あらゆる客が、あらゆる不要なものをカゴに詰め込んでゆく。ぼくは狂気を覚えた。あのときの感覚では、必要なものは野菜、肉、魚、米、パン、卵・・・あとはせいぜい塩くらいだった。それ意外はいらない。(2014-01-19

生活習慣病(lifestyle related diseaseの訳語)という言葉があるが、これは「生活の習慣が悪くなった」のではなく、「生活が習慣に支配された」ときにおこる病気だとぼくは認識している。

つまり「お腹が空いたから食べる」「お腹が満たされたから食べない」という自然な欲求を無視し、「お昼だから食べる」という時間的習慣や、「出されたから食べる」「みんなが食べているから食べる」という社会的慣習に支配されてしまうとき、人体が対応しきれず病気が起こる。

生活習慣病とは基本的に食べ過ぎの病気である。塩分を取りすぎれば高血圧に、糖分の過剰で糖尿病に、脂の取りすぎで脂質異常症になる(もっとも、そう単純でないことも多々あるが)。

普段の生活のなかで、自然の欲求に従っていれば問題ないのだ。

ところで、ぼくは愛煙家だし、酒もほとんど毎日飲むので肺や肝臓を痛めている……。偉そうに言えない立場です。



仕事に関する潔癖

さて、なんでこんな健康番組みたいなことを書いたかというとぼくがただ「書く」ことに、同様の理由があるのではないかと考えたからだ。

ぼくはなぜ書くことを志向するのか。毎日毎日、だれも見ないような文章を書き続けるのか。それはもっとも、「書く」という行為が純粋で自然なように思えるからだ。


ひとはなぜはたらくか

ひとが何かを仕事するときにさまざまな理由付けが必要なものだと思う。


「あなたは、何のために働いているか」を質問。その結果、大多数の人が「生活のため」(89.6%)、「お金を稼ぐため」(72.0%)と答え、以下、「自分を成長させるため」(31.4%)、「プライベートを充実させるため」(28.5%)、「自己実現のため」(18.6%)、「人とコミュニケーションをとるため」(16.1%)、「人の役に立つため」(15.3%)、「社会貢献のため」(13.0%)と続いた。(関東地区在住の20~59歳のビジネスパーソン男女800人を対象 元記事

自己成長、自己実現、社会貢献といったすばらしい動機もあるにせよ、大部分のひとが生活やお金のために労働に時間と労力を捧げていることがわかる。

ぼくはそのような生活はどうも受け付けない。つまり生活が生活のために消費されるという矛盾、生活を築こうとするのに、生活を失うという矛盾。多くの人が金銭の欲望あるいは生活の必要のために多くの時間を捧げていることに疑問を感じる。一度しかない生、それで良いのか、という気がする。

もちろんそうした人が大部分でないと、社会が崩壊することをぼくは知っている。安価な商品やサービスによる贅沢な生活はなくなるだろう。
そして実際問題、理想を追求できる人間の方が恵まれていて例外であり、そうでないひとの方が大部分であることを知っている。何はともあれ飯を食わねば生きていけないのだ。

ぼくは甘っちょろい学生であって、生活のために働いたことはない。だから身の程知らずのことを書いたかもしれない……。

しかし行為の潔癖がぼくに書くことを志向させる。日常的な雑務、煩わしい生活のための業務から一刻も早く抜け出して、ただ書くということに専念したいと思う。これは良い悪いではなくて、ただ、そうなのだ。この渇望はきっと、生活のための労働を始めたときには一層強くなるものだと思う。

結局何が言いたいのか

ここでようやくつなげる。ぼくにとって純粋に書くことは肉であり、卵であり、野菜であり、塩なのだ。そうして高度に分業化された生活のための労働はポテトチップス、チョコレート、ジュースなのだ。労働は一見おいしそうだし、必要なことに思えるが、決してそうではない。断食して本能の嗅覚を高めると見えてくるものがある。

ぼくはゲームをしないし、動画を見たりもせず、社交の楽しみもわずかだ。本を読み、書くことに専心している。これは本能の要求に従っているに過ぎない。「腹が減ったから飯を食う」ように、本能が要求するから「モノを書く」のである。そしてぼくとしても、慣習だとか有り体な社会的要求に惑わされることなくまず第一に自己の本能に忠実でありたいと思う。

なんてことはない、文章を書くとは高度に理性的行動であるとされるが、理性的行動とは迷妄で、本能の一部分でしかない。

ぼくは潔癖であること、質素であることを志向する。これは最近流行の断捨離だとかシンプルライフに近い。すべての先入観やフィルタリングを取り払って人間本来の生活に立ち返らなければ、人間本来の仕事はできないと考える。


ぼくがこの鋭敏な神経を生まれ持った理由、運命だとか使命はただそういったところにあるのだと考える。神経質に選り好み、はっきりと否をつきつけること。人間本来の仕事をし、人間に貢献すること。

人間本来の仕事、原初的で根源的な仕事は「書くこと」なのである。これがぼくが物を書くひとつの理由である。

自己が自己のうちに無限に自己を志向する、自己の深さは内が外なるが故である。自己の深さは世界の深さである。(西田幾多郎)

思いあがらない文学屋さん

ロジェ・カイヨワ「文学の思い上がり」を読む。


芸術は自由だ、だから何をやってもいい――と思いがちだがそれは卑しい人間の思い上がりである。本著は「人間の共同社会からの脱走者としての文学のための文学ならびに政治に屈従する文学を弾劾したものである。」

人類の全般的進歩に自己を捧げる義務、そこにこそ芸術の価値があるとするのが本著。文章を書こうというのなら一度は読んで損はない内容だと思う。ぼくはふむふむと感心することが多かった。

普通の人間がその義務と循環の生活を越えて、芸術家になろう、と思ったとき、その道の道標のなさに愕然とする。どの道を進めばよいのか……あの道は私を誘惑するが、罠ではないのか……どういった心がけで進めばよいのか……。

そういった不安を本著が解消してくれるだろう。




以下書き抜き。面倒なのでページ数は書かないが、ならびは大体昇順である。
人間の深さを全く地下のものだと考えるのは、何という誤解だろう。それは上下の二方向にすすみ、頂上と深淵を引きはなしつつ同時に結合するものなのである。
人間とはしょせん醜い、本能的動物なのだ――という文学作品に対して。

執拗な、まじめな努力こそ、人間のこの上ない偉大さを示すものである。この努力によって人間は人間となるのである。
ぼくが本著でいちばん気に入ったフレーズ。

芸術家や作家は、美の追究ほど美しく、犠牲を払うに値するものは何もないと考えた。この確信は彼らに、文学と芸術にすべてを犠牲にするように忠告した。彼らはまず自分たちの人間としての義務を安売りすることから始め、こうして作家、あるいは芸術家としての特別の義務に、いっそう完全に身をささげることを願って、自分たちの運命を一般の運命から切り離した。彼らは単独行動を取ろうと考えた。彼らは、自分たちはかかる崇高な使命を帯びているのだから、世俗の秩序には従う必要がないと信じていた。
しかし、それにもかかわらず、彼らは依然として人間であった。すなわち呼吸し、疲労を感じ、欲望を持ち、悩み苦しみ、数々の不幸に踏みにじられ、数々の必要のままに動かされている動物であった。その上、ある一つの歴史をうけつぎ、ある一つの共同体の構成員であり、その言語と、軍隊と、法律の恩恵をうけているものであった彼らが抗議しようとしまいと、この二重の条件が、彼らの作家あるいは芸術家としての身分の中にまでつきまとう。彼らは否応なしにこれに答え、それから利益を得ている。実のところ、彼らはそれによって生きている。
この辺りは、ぼくも思い当たる節がある。昨年「どうあがいても人間」というよくわからない散文を書いたが、同様の心理だと思う。

大胆さ、挑発、手法上の離れ業、そういうものこそ、まさしく小説の最も追い越されやすい部分、すなわち、本質的に追い越されることを必要としている部分を、構成しているのである。余計なものを捨て去った作品はもう一つの競争に立ち向かう。それは確かにさらに一層恐ろしいもの、すなわち完全を目的とする作品どうしの競争である。私にとっては、このことこそ作品の貴族の称号を確立するものなのである。
例えば、実験的小説。エログロを追求した作品。挑発的な(何とか学会を批判したり)という作品を追求することも良いだろう(これ全部、筒井康隆がやってるな……)。
しかしそれらはいずれ追い越されてしまう。それとは別に、完全を目的とする作品同士の競争の舞台がある。ここでぼくらはゲーテやシルレルと、夏目や太宰と戦わなければならないのだ。

重要なもので平凡でないものは何もない。
私は次のことに、あらゆる芸術の本質的な守則のひとつがある、と信じている。すなわち、平凡なものから模倣できないものを引き出すということ。しかもこれ以上にむずかしい務めはない。 
われわれは重要なものを探そうと辺境に旅立ったりするのだけれども、結局重要なことというのはいつも平凡なところにあるものなのである。

人間の偉大さは、その卑劣さより広大であり、完全である。
人間なめるなよ、と。

言語は平凡な任務を履行しており、非常に精妙な義務を果たす前に、まずきわめて凡俗な義務の方を満たさなくてはならない
凡俗。これはクレッチマーが言ったようなことと似ている。即ち「天才に見られる凡俗的方面こそ、天才の作品に、その勤勉と、忍耐と、なごやかな緊張と、新鮮な迫真性などとあいまって、類天才人らの騒々しくもはかない駄作をはるかに超越する作品価値を与えたものである。」

倫理も、理性も、美学も、ここでは同一の要求を持っている、というのが事実である。実際、ある人間の好み、正しい行為をしようという心遣いは、必然的に彼の考え方と、書き方の中に現れる。それゆえに、文体の持つ長所は枚挙し尽くされないであろう。人間の徳がそれなのである。すなわち、優雅、飾り気のないこと、正確、明晰、単純、堅固、偉大、等々。欠陥についても同様である。すなわち、誇張、混乱、なおざり。性格を傷つける欠点は、すべて表現をも傷つける。私は人がこのことに驚くのを意外に思う。良く書くということは修練なのであり、良い文体は模範である。良い文体は悪い文体よりも一層倫理的なものである。
「性格を傷つける欠点は、すべて表現をも傷つける。」 徳のない、不真面目な人間が良い作品など創れるわけがないのだ。

倫理は、世界において流通する信頼の総量を増加させることに、より性格にいえば、人間が合理的にお互いに許し合える信用を増すことに、役立つのだと言うことである。このような任務は、見かけほどには、つつましやかなものではない。この効力こそ、人間どうしの交流を可能にするものだ、とさえ私は信じている。それゆえに、私は、作家の職業的な労働についての配慮を、その根本的な義務である、と見なすのである。
けっこう思い切った表現だと思う。

私は作家はもっと高い企図を持っていると考えていた。彼が見物人を単なる芸当で驚かして満足する、と私は思いもしなかった。私は、彼が人間に、その弱さ、その喜び、その希望、その不幸、その義務、要するに、言語が正しく使われたとき、人間に教え、あるいは思い出させる、すべてのことについて語るために、言語を使おうとしているのだ、と考えていた。私は、彼がいくつもの異様な、あるいは巧妙な手品によって、読者の注意をあの無限の話の道具そのものに固定させることに安んじるであろう、とは予見しなかった。
目新しいだけで空虚な作品を作る輩にはこれを聞かせてあげたい。

ただ文学は、自ら文明の全般的な努力の中に参加し、それと一致するに応じてのみ、偉大さに到達する。
われわれの仕事とは、人類の歩みを一歩進めることである。これはぼくの哲学と一致する。

二つの労苦が同一の遠い目的のために協力している。もし芸術家の意志が共通の意志と合致するならば、それは芸術にとって偉大な機会である。最高のスタイルが生まれ、個々の作品は、そこにおのおの自分の位置を見出す。しかし、支離滅裂で、無秩序な時代には、芸術はさらに一層支離滅裂で、反逆的になろうとし、不合理と横柄の頂上に向かって突進する。
芸術家のふたつの方向性。残念な作品とは無秩序な時代にあって権威主義的であり、正しい時代にあって子どもじみた不合理と横柄に陥ることだと思う。

人間にとって、実り豊かな反抗はただ一つしかない。人間に味方することだ。
人間に対する情熱と誠実さが、なんだかすごくテグジュペリっぽい。




ところでテグジュペリに対してカイヨワはこう評価している。
サン=テグジュペリは自分自身の生きた体験が保障を与えること、多大な犠牲を自ら払って確かめる機会を得たこと、そうしたこと以外は何ひとつ書こうとしないのだ。その意味で、読者をだまして、安直でまことしやかな世界に読者をつれていくものである限りは、いわゆる文学世界は彼には信用の置けないものに思われるのである。

7.20.2014

音に敏感な人は騒音をいかに対策すべきか

 神経質な人間にとって、この日本の特に都会で暮らすということは非常にストレスフルである。

 日本人は細かいことに気がつくと評判だが、騒音に限ってはそうではない。電車の中のアナウンスは「忘れ物のないように気をつけてください」「ドア付近に立たないでください」などバカにしたご忠言を大音量で流す。
 店舗の呼び込みが際限なく道を雑音で汚すし、職場ではなぜかおしゃべりに寛容で、「静かにしてもらえませんか」というと狂人みたいに思われる。うさぎ小屋のようなアパートは壁が薄く、近所トラブルのもとである。

 かつてピアノ騒音殺人事件なんてものがあった。団地で子どもにピアノを弾かせる家族を、神経質な男が一家惨殺したという凄惨な事件である。

 殺人犯に共感する必要はないが、ぼくら神経質な人間は「音の暴力」に耐えず晒されているのが現状である。音に鈍感なひとの方が多数なのでぼくらは常に無理解に悩まされる。しかし 「音に悩む自分はおかしいのではないか」と悩む必要はない。音に敏感なのはあなたの生まれ持った性質であって、良い、悪いではない。


 ぼくのアパート付近は住宅街であり、日夜いろんな騒音が起きている。これまで騒音対策に関しては徹底的に研究した。一家惨殺する前に、スマートに騒音対策をしよう。……というのがこの記事である。

case 1: 隣家のDIYの音がうるさい

 ぼくのアパートの東の家は隠居老人の一軒家だが、かれは元大工の棟梁である。そのせいか何かを作らずにはいられないようで、しかも老人のことだから毎朝早く、トカトントンとトンカチを打ちならす。あるいは何かをガシャンと投げつける音。ひどいときはグラインダーのギュイイイイという大音量がする。
 八時ぐらいであればああ今日もお陰で早起きできました、となるのだが何日も朝五時に叩き起こされたときはその非常識さに憤慨した。まあ憤慨すると言っても一一〇番通報する程度なのだが。彼の言い分では「多少迷惑がかかってもお互い様」なのだという。朝五時に住宅街のど真ん中でグラインダーを打ち鳴らしてもお互い様か、とバカげた気持ちになる。

 ちなみに市役所にも連絡したが意味がなかった。民事なので弁護士に相談してくださいと。しょうがないので警察に連絡した。人間の騒音に関してはこれが限界のようだ。

 警察は一一〇番通報すれば事件に対し必ず対応しなければならないので(記録書を作らなければならない)、何かしらの対応をしてくれるだろう。「そんなことで一一〇番なんて」と思うかもしれないが、ぼくの場合はけっこう親身に対応してくれた。

 「隣家が何か大工仕事をしているようでうるさくて眠れない」と訴え、「おじいさんの生きがいだろうし、別に大工仕事をするなというわけではないが、常識的な時間にしてもらうよう注意してもらえますか」と付け加えた。ちなみに緊急性がなく即時に対応してもらわなくてもよいときは、#9110をコールすると警察と相談できる。

 一度警察を呼ぶだけでは騒音は収まらなかったが、何度か通報すると老人も大人しくなったので、いちおうの解決である。警察のひとにはしょうもない仕事を作って申し訳ない。ありがたいことです。

case 2: 隣家の犬がうるさい

 アパートの向かいの一軒家には中年夫婦が住んでいるのだが、そこでは犬を飼っている。白黒ぶちの中型犬である。しかしこの中型犬、住宅街のど真ん中の狭いところに押し込まれているものだから、ストレスに病んで一日中吠えていた。
 しかもこの犬はぼくの家の窓から数メートルのところに位置しており、野太い声を直近に聞かせてくれるのだから参る。夏場でもほとんど窓は開けられなかった。

 犬の吠える発作が始まると、ときどき飼い主も叱るようだ。
 「ルンちゃん静かにしなきゃダメよー」
 と窓越しに言っているのが聞こえてくる。そんなことで収まると思っているのだから、すばらしい飼い主である。これは夢の中でのことだが、ぼくはタマネギをその家の庭に放り込んで死んでくれることを願った。

 夜十一時まで吠え続ける時期があったので、我慢の限界だとおもい保健所に連絡した。隣の家の犬が一日中吠えていてうるさい、眠れなくて迷惑していると言った。「ぼくも犬を飼ったことがあるのでわかるが明らかにしつけがなってない。それを改善してほしいのと、犬の位置をアパートから遠ざけて欲しい。ぼくの部屋から5メートルも離れていない」といった。

 怨恨が怖いので匿名でと保健所にお願いしたのだが詫び状が届いた。「うちの犬が迷惑をかけてすみません。謝罪したいのでおこしいただけますか」というものだった。なんだか行ってしまうと「お互い様」ということで片付けられそうなので行くことはなかった。

 今でもときどき吠えるが、犬の位置が離れたお陰かそれほどひどくない。夢でタマネギを投げるぼくもぼくだが、こんな住宅街の中で犬を飼おうというのはそれもひとつの狂気だと思う。

case 3: アパートの上階がうるさい

 アパートの上階がうるさいときは、こちらもノイズ(後述)を鳴らすことで対応している。いろんなことでうるさいけれども、大体掃除の音だったりテレビの音だったりする。相手がうるさければ、こちらもうるさくする権利がある。それこそ「お互い様」である。

 ちなみに騒音がとくにひどい場合は大家あるいは不動産屋に連絡しよう。おおむね二十二時以降から朝八時までの騒音については善処してくれる。不動産屋が無理解であれば、仕方がないので警察にということになる。

 いくら恨みが募っても直接の話し合いに持ち込んではいけない。だいたい騒音というものは、出している側に悪意や自覚がないことが多い。感情的になってトラブルになることは必定である。冷静な第三者を媒介させることが重要である。


case 4: 職場の人間がうるさい

 職場のおしゃべり人間がうるさくて生産性を下げられるというもの。神経質な人間にとっては仕事に没頭できる環境は限局されていて、「にぎやかで和気あいあいな職場」なんて総毛立つものであると思う。

 こうした場合は、うるさい人を正そうとすることは非常に難しいものである。いくら婉曲に「うるさいので静かにしてもらえますか」と言ったところでムッとされてしまうだろう。神経質なひとが音に敏感であることを直せないように、彼らもおしゃべり癖を直すことができないのだ。この場合、やはり自衛に頼るしかない(権謀術数に長けるひとであればうまく黙らせることもできるだろうが……)。

 うるさい人もずっとうるさいわけではなくて、ときどき発作的におしゃべりに興じることが多いというのがぼくの経験則である。だからこの特にうるさいときに限って、イヤホンでノイズを流すのが良い。上司に文句を言われたら、「集中できないので」と素直に言えばよい――とぼくは思っている。ぼくの場合、事実上黙認されているのだが。

 職場は仕事をするところであって、おしゃべりをするところではない。学校であれば厳粛に注意されるのに職場となると許容される雰囲気があるのは不思議なことである。

 イヤホンをつけることが可能な職場であれば良いのだが、電話対応などがあると難しいかもしれない。あるサイトで髪で隠して耳栓をしているという人があって関心した。女性であればそれが最適解だと思う。 


耳栓を考える

 
 


 サイレンシアに代表されるスポンジ型の耳栓(図左)は詰めるのが手間取る割にすぐ取れてしまう上、あまり防音性がないのでおすすめできない。耳には優しいと思うが。

 襞の何層かになっているシリコン性のもの(図右)は防音性にもっとも優れるが、洗浄しにくく不衛生だし、耳の奥深くまでいって粘膜を痛めやすい。しかしひどい騒音に対する最終兵器としてはいいかもしれない。水をつけて押し込むと格段に遮音性があがる。菌が繁殖するので頻繁にエタノールなどで消毒し、しっかりと風乾させること。

 寝るときにつけると柄の部分が当たって痛いのでこれを根元からハサミで切り取ると利便性があがる。ぼくはインド旅行をこれで乗り切った。

 今のところ攻守?のバランスが取れているのはカナル型イヤホンを耳栓代わりにつけるというものである。普通イヤホンには何種類かのイヤーパッドがついているので自分の耳にフィットしたものを選ぶことができる。
 コードが邪魔になるが、これは便利にもなる。例えば寝ているときにつけるのであればいざ騒音が来たときにコードを辿れば、「耳栓はどこへ行った」となることがない。

 ちなみに耳栓は粘膜に異物を詰め込むものなので炎症しやすいので注意した方がいい。夏休みなどは耳栓を二十四時間つけていて、外耳を化膿させたことがある。黄色い臭い膿が毎日とれた。病院へ行くと、ステロイドを処方された。治るにはけっこう時間がかかるし、耳は繊細な感覚器官だから耳栓のしすぎには注意した方がいい。

騒音キラー「ホワイトノイズ」

 騒音を平板化させるには「ホワイトノイズ(Simply Noise)」が便利である。これはテレビの砂嵐や、滝の落水するのと似た「ザー」というノイズである。スピーカーで鳴らせばノイズのイライラする音を相殺してくれる。一定の音量なので音楽を鳴らすのに比べて断然周囲の迷惑にはならない。

 ノイズ緩和だけではなくて不眠解消やストレス解消の癒やし効果があると言われている。試験の成績があがるという報告もある(これは眉唾)。
 壁伝いの騒音はだいたい低音なので、そのサイトの茶色のボタン(より低音領域をカバーする)を押すと良いだろう。

 ホワイトノイズに加えて耳栓をすればほとんどの騒音は気にならなくなるはずだ。ちなみにSimply Noiseは有料だがiPhoneのアプリもある。
 これに気づいたときぼくは自分で画期的な発明だと思った。耳栓だけでは、実はほとんどの音は響いてくるのである。

やってはいけないこと

  • 隣室の騒音に対し壁を殴ること ⇒穴が空いて惨めな気持ちになります。
  • ノイズではなく音楽を鳴らすこと ⇒迷惑です。
  • 騒音元に直接被害を訴えること ⇒話が平行線で埒があきません。
  • 気の持ちようだから、気にしないよう努めること ⇒無理です。ちゃんと対策しましょう




似たような記事を書いた⇒ 日本の騒音は世界一ひどい

スミノフと「あけみ」

「久しぶり。ねえ、今日部屋掃除してたらね、これが見つかったの。ずっと探してたの。」
彼女は右手首のブレスレットを指さした(彼女は左利きである)。

「良かったな」

とだけぼくは言って、ビニール袋に入ったスミノフを渡した。グレープ味のスミノフ。

「え、こんなのもらってもいいの?」

「手間賃。」

「これ、この前飲んだなあ。……鉄の服の色と一緒だね」なんで陽気なのだろう。まったくわからない。「これ、資料ね。残りが学校にあるから、月曜日……じゃなくて火曜日に渡すね」

「明日は休みだっけ」

「そうだよ。久しぶりの二連休だよー」
彼女の研究室は土曜日も活動を行う。

「そっか、明日は休みか。全然気づかなかった」

ぼくは彼女から研究上必要な資料を受け取ると、雨もぽつぽつ降ってきたのでバイクに跨がった。
「ありがとう」とだけ言うとぼくは彼女のマンションを後にした。

女はよくわからない生き物だ。セックスをして喧嘩をして、離れたけれども、久しぶりに会うと何事もなかったように話をして、愛想良くして、にこやかだ。

女の軽さ。

われわれは重苦しいから、女という生き物と付き合うことで心を軽くしたいのである。
女たちの手、まなざし、優しい愚かしさに接するとき、われわれの真剣さ、われわれの重苦しさや深刻さがほとんど馬鹿馬鹿しいものに見えてくるのだ。(「善悪の彼岸」 / ニーチェ)

ミルク - Insomnia - 山

頭が痛いけどただ書くのであります。黙々と。



日々の生活の積み重ねのなかで、少しずつ一歩一歩前進していかなければ、何をも為せないものだということをぼくは知っている。それは何をするにしてもそうで、始めから完璧な作品を創ろうなどと思うことは無理なのだ。執拗な、まじめな努力が大事である。

この数日間は、起きている間には何かを書いて、空いている時間に本を読むという生活なのだけども、たった数日でもこうした生活を送っていくと作家の生活がどんなものか掴めてくる。

思ったよりも自由じゃないし、慢性的に寝不足で頭痛がする生活だということかわかる。
寝不足の方がたくさん夢を見れるし、そして夢を見ることがアイデアの根源だから、疲労のとれるノンレム睡眠よりもレム睡眠をとることを脳が志向する。

寝ている間にもあたまは回転しつづけているので、まどろみかけたときに変なアイデアがぽんぽん浮かんできて、ゆっくり寝ていられない。夢日記を書くと死ぬというが、それは脳にかなり負担がかかるからだ。同じように、作家生活というものは生命を磨りへらすものだと思う。

現実感覚が希薄になってきて、常に夢を見ているような感じであって、いろいろ信じられないことが多くなる。地面に足をつけてしっかりと生活している人びとの会話もすんなり受け入れられない。生活の習慣が遠くに行く。飯を食うことも、どこかへ遊びに行くことも、どうも遠くの出来事のように感じる。

神秘主義というわけじゃないけども、実際の生活とは別の何かが見えてくる。自分が空気になったような気がして、生活よりも別の何かの領域が広まっていく。それは怖いことではないが、いろいろ心労に耐えないことだ。

ツァラトゥストラの言うことに従えば、創造するには自力で回転しなければならないそうだ。確かに回転しているような感覚はある。頭のなかでジャイロが回っているようで、その運動と熱を感じる。それ以外の手足はかえって弛緩している。だからボウフラのようにぼくはふらふら漂うしかない。

今朝早くに書かれたぼくのEvernoteにはこんなことが書かれている。

小説家の短命さ 不眠
豊穣な山がミルクを分泌

そう、ぼくにとってアイデアは乳白色をした巨大な山から得られるもので、その山は皮膚のように無数の分泌孔を持っている。その穴から輝くミルクのかたまりがときどき吹きだすので、ぼくは山によじ登って、それを取る。つやつやして、やわらかくて甘ったるいミルク。

そんな感じに似ている。よくわからないけどグロテスクだ。


きっと作家になったらなったで、後悔するだろうと思う。当たり前だ。どんな職業でも、いいことばかりではない。生きるということは辛いものだ。どんな道に行っても後悔と痛苦が待っているのだろう。


あなたはひとつの新しい力であり、ひとつの新しい権利であるだろうか?第一運動であるだろうか?自力で回転する車輪であるだろうか?あなたは星々を強いて、あなたの周りに回転させることができるだろうか。(創造者の道)

ところで……
(この2014年にもなって、詩を書こうという奴がいるとすればそれはとんでもない思い上がり、事実誤認であると思う。あるいはぼくは思い上がった勘違いさんの書く詩しか読んでいないのかもしれないが。あの無駄な改行とスペースは趣味が悪い。 )

7.19.2014

混沌から構造へ

書いてみよう。書かねば。



ぼくが不味いものを書いていることをぼくはわかっている。自覚的に駄作を生みだしている。ぼくの文体はよいものではない。読みやすくないし決して流暢とは言えない。技巧的な美しさに欠けて知性にも欠ける。表現の幅は狭いし、かと思えば行きすぎた逸脱をしたりする。才能のかけらも見えない。だからといって努力して文学を学んでいないこともわかるだろう。

しかしこれでいいのだ、と思う。万人に批判されようが、これでいいのだ。無軌道な、無数の試みと失敗の先にしか成功はありえない。初めて自転車を乗るときはどうだったか、自動車を運転するときはどうだったか。何度転げたか。何度エンストしたことだろう。でも、今ではだれもが真っ当に運転できる。その辺のおばちゃんでも、七十近くのおじいちゃんでも、自転車や自動車は運転できる。

ある程度まではだれでも行ける。問題はその先であって、競輪選手になりたいだとか、F1レーサーになりたいとか思うのであれば話は別だ。生まれ持った才能や性質、仮借ない勝負の世界が待っているが――まあ、その先のことはそのとき考えればよい。

われわれはあらゆる試みをバカにしてはいけない。いや、間違えた。ぼくらは試みに対するあらゆる批判を無視しなければならない。というと高慢さを助長するようだが、そうではない。自転車を倒すことは悔しいことである、何とかしてうまく運転したいと思うものだ。失敗が自覚できるうちは批判を聞くなということだ。その批判はあなたの技能を上げるためというより、試み自体を中絶させようとするものだからだ。

問題は変な癖が出てきたり、変な慢心が出てきたときである。まあこれも、そのとき考えればよい。

ぼくは実にダメな素人であることを自覚している。大体、何かを為すためには長い年月が必要なものだと思う。たまにすばらしい天才が何となく書いた処女作が直木賞――なんてことはあるかもしれないが、それはそれなりの土壌があったのだと思う。だから地味な、目立たない、退屈な努力を怠ってはいけない。

ただ書くということ。

どんな偉人であっても、この世の神様みたいな人にあっても、個人の、個人の領域を侵させてはならない……。




昔の日記を読んでいるとおもしろいものがある。

書くことに疲れたな。しかしなにも考えないことが書く上で必要なのだ。
疲れるということは脳みそを使っているからであり、手の疲れはしかたないにせよ、これは好ましいことではない。
書くことをやめるときは、書くべきことがなくなったときであるべきだ。
アウトプットとインプットのバランス?馬鹿馬鹿しい。
書くから書くのであって、書かないから書かないのだ。
いったい人間とは、どこまで自分をおとしめるのだ。
どこまで自分で自分に柵を作り、縛り付け、目に、耳に、燃える鉄を流し込むのか。
自由。それはすなわち、透明であることだ。この一点に、人間の本質が現れている。
この言葉の意味が、お前にわかるか?俺は今、わかっている。

これを書いたのは去年の2月9日、とある。

おもしろいなあ、俺さん。人間の本質を教えて欲しいよ。

ぼくが文章を書く理由再考。

書く。頭が痛い。書く。



前にも書いたが、ぼくが文章を書き始めたのは直近に死を感じたからである。
ぼくを突き動かしたのは記憶に新しい東日本大震災だった。

地震、津波による十数万人の死、これもとてつもない衝撃的だった。しかし放射性物質の飛散がぼくを変えた。2011年のあの時期は、本当にSFだったと思う。これほど大量の被爆者を生みだし、土壌を海を汚染してこの国はどうなるだろうと思った。日本中が大混乱していた。

個人的にも、まだ若いぼくの細胞たちが傷つけられ、遺伝子異常を起こして異常増殖した場合、どんな影響が出るかを考えることは苦痛だった。そして電車の中で女子高校生が「私はもう子ども産めない体だから」と言っていたときは、本気でやりきれない気持ちになった。

あの陰惨な時代からたった数年にして今何事もなく社会が動いていることはひとつの奇跡でもあるし、たくさんの人の尽力があってのことだと思う。一方で、結局のところ人びとは平穏な生活を志向するし、それは今も昔も変わらず多くのことに目を瞑って成り立つものであるという諦めに似た気持ちもある。

ぼくらはいつも通りの生活を取り戻したが、さんざんの警告にも関わらず安全対策を怠った原発事故の責任者たちも、生活を取り戻している。ぼくは彼らの無責任を怒っているのではない。大衆の無関心にやりきれない思いがするのだ。結局のところ、被爆し健康を傷つけられた大衆も、原発の責任者たちも表裏一体で、根底は同じ「無関心」が事故を生んだのだという気になってくる。

ともあれ今後放射能の影響がどう出るかはわからない。各国の医学研究者も注意深く日本を見つめているのが現状である。



あの恐慌のなかでぼくが感じたことはぼくも周りのすべての人間と同じく「死すべき存在」であるということである。

震災前はまるでユートピアの中に生きていたように思う。つまり今後数十年の人生を着々と積み上げていく感覚。日本はずっと平和であり、交通事故や殺人はたびたび起こるけどもそれは例外であって、社会がぼくらを守ってくれるし、病気で死ぬまでは平穏無事に生きていくことができるというまあ平和ぼけにも似た感覚があった。

ところが突き上げるような大地震がぼくの甘っちょろい考えをぶち壊した。石原慎太郎が震災直後に「天罰だ」と言って大バッシングを受けたが、ぼくは彼の言いたいことがわかる。どうにもならぬ運命を前にして神意を感じることは至って自然なことだ(口に出していいかは別)。思い上がり、だらけきった人びとに神や自然が峻厳な罰を与えるということ。

結局のところ、ぼくは死ぬべき存在であること。ハイデガー、あの愛すべきハンマーおじさんが言ったようにぼくらはいつ死ぬかを知ることはできないしそうして死ぬときは絶対に独りなのである。

この認識をぼくは忘れていた。
子どもの頃の方が遙かに純粋に死を考えていたと思う。ひとが自分の死を認識する、つまり「自分が死すべき存在であることを悟る」のは大体小学校三年くらいなのだという。ぼくもたぶんに漏れず、小学校三年のときに自分の死を考え思い悩んだ。自分は死んだらどこへ行くのか?天国?嘘くさいな。輪廻転生?どんな理屈だ。無?無とは何か。何もなく、何も感じないとはどういうことか……。
考えて、わからなくて、結局いつもの「無関心」に誘われて棚に上げた。

しかし忘却とは人間の優れた能力だと思う。我々の最大の恐怖とは死だが、しかし耐えず死の恐怖に晒されていてはかえって死に近づくことになる。「タナトフォビア(死恐怖症)が死を怖れるあまり自殺する」なんてひとつの喜劇だ。

われわれは死から離れなければ生活を送ることができない。しかし死から離れすぎると生活自体を見失う。郵便配達員が明日死ぬと知って、今日の郵便を続けるだろうか? あるいは、するかもしれないが……。

明日死ぬとなれば、何かを遺したいと思うのではないか。金があれば、学校に寄付する。息子達に長々と手紙を書く。この世に恨みがあれば、大量殺人を起こす……。なんでもいいが、そこには必ず日常を逸脱したアクションがある。

何しろ死ぬとなれば独りなのである。そうして他者はのうのうと生きていくのである。「ああ、お前は死ぬんだね。運が悪かったね」という無関心に対して、何か得たいの知れない悲鳴をあげたいという思いが生じる。無論、静かに死んでいく人もたくさんいる。長く生きたひとはとくにそうだ。「私はもう十分生きた。死ぬことは怖くない」と死を受け入れられる人はいる。しかし、若いひとでそんなことをいう人があれば、人は彼を自殺願望者だと思うだろう。

ぼくらが求めるものは生きた証であって、だからこそ創造が人生の最大の慰みとなるのである。この世に生きた証を立てること。ヘラクレイトスの言ったように「死すべき事物に変えて不滅の誉れを。」

ぼくが死を見つめて捨てたものは多い。大衆、快楽、常識、定着、所有。ただ純然と「書く人」になりたいと思うのがぼくの願いである。それは死に抗うというよりも、死すべき運命を愛することである。

とまあよくわからないことを書いた。

言語という土台の上での舞踏

ある実験的創作。

ただ、書くということ。書くがために書くということ。

ぼくらは普通だれかの対象に向けて文章を書く。例えば恋文を書くとする。その対象ははっきりと「愛する彼女のため」である。文学賞に応募するのであれば審査員に受けるように書く。不特定な大衆が見る広告にしても、それは「中高年サラリーマン」向けだったり「暇と金をもてあました専業主婦」向けのような仮想的なモデルが存在している。

そうではなく、自己が自己のために何かを書いてみようというのが今回の試みである。いわば自己という迷路を辿るために書くのであり、自己という土壌を掘り進めるために言語という道具を用いるのである。

その行く先に何が見えてくるかはわからない。まったく何も想定していないし、設計図もコンパスももたずに無軌道に進んでみようと思う。このことが何の意味を持つかもわからない。おそらく文章を書くことに興味がある人なら一度くらいはしたことがある試みだと思うし、過去何万回も繰り返された試みであると思う。しかしぼくにとってこの試みは初めてであるから、そこに何かしらの意義はあるのだ。

ただ自己に対して書かれたことであるから、これを読んでいるあなたには何の意味もないだろう。おっと、二人称が出てしまった。これからは「対象的」なものは意識的に排除していきたい。

今これをメモ帳で書いているのだが、悲しいことにパソコンの電源が落ちて数千字が消えてしまった。だからこれは一からの書き直しということになるのだが、この二度も同じことを書くことははっきりと苦痛である。つまらないし、不純である。非処女を抱く気分に似ている。

なので、早速以下に実験的に書き進めていきたい。

さて、白紙の上に落ち着いてぼくは何かを書こうという気になっている。なにもない白紙をただ字で埋めていくのだが、それは気持ちのいいことだ。だれも対象とせず、何からも自由に書くということは草原で口笛を吹くことに似ている。書かれた文章がうまかろうとまずかろうと関係ない。ぼくはただ書くために書いているのである。もっと言えば、書くから書くのである。これから書く文章は書かれたから書かれたのである。これらの文章は存在するがために存在しているのである。

書くという行為、それ自体は読まれることを望むから書くのだというがそれは間違っているとぼくは思う。日記はどうだ。日記を書いてる人間は、なによりも注意深く他人の目から日記を切り離そうとする。ぼく自身が数年来、毎日日記を書いているからわかる(ブログではなく個人的な日記である)。しかし、たしかにぼくは日記を読まれることをちんぽを見られるより厭うけども、自己の本当の理解者がいたらそれを差し出したくなるような相反する気持ちもあるのである(ちんぽではなく日記を)。

かつてぼくは自分を理解してくれる女に会った。彼女になら自己をさらけだしても良いという気持ちになった。そのとき沸いた感情は、ぼくの日記を、その日々の積み重ねを、生きた証を読んで欲しいというものだった。

結局のところ、彼女はいまぼくから離れてしまったし、その「理解者」という幻想も崩れた。日記は結果的に読まれることはなかった。しかし日記もいつかは読まれることを欲しているのだろうか。誓って言うが、ぼくは読まれるために日記を書いたのではない。だからぼくは読んで欲しいとは思っていない。しかし書かれたもの、それ自体が読まれることを欲しているのだ。ぼくは変なことを言っているだろうか。書かれたものそれ自体が、意志を持ち、だれかに読まれることを欲するということ。つまりぼくは自分の欲求から彼女に日記を読ませようと思ったのではない。日記の意志に従っているのである。

これが言語の魔力だと思う。宮沢賢治の原稿が、カフカの原稿が、ペソアの原稿が切れ切れになりながらも今に遺されていること、これを偶然と見ることも可能だけれども、そこには言語の意志を見て取ることもできるだろう。あるいは書かれたものの持つ意志と運命を感じることができる。

ぼくらは生まれ、成長し、そして衰退して死ぬけれども、言語は言語自体が悠久と成長を望むのだ。ぼくらに言語が属しているのではない。言語はあくまで借りものである。なぜって、ぼくが言葉を発明したわけじゃないでしょ。ぼくは今れっきとした日本語で書いているけれども、これはかつてあったものを拝借して、言語という世界に参与していることになる。

じゃあこのぼくの中の言語はいつから生まれたかということになる。それは赤ちゃんの頃に違いないが、ぼくが「言語を使いたいバブー」と言って「よっしゃ日本語使うか」となったのだろうか。ぼくらが赤ちゃんの頃には、間違いなく意志はある。なぜならおっぱいが欲しいと思うし、うんちをしたいと思う。これは人体の発する自然な要求である。ぼくらはおっぱいを要求すると同じように、言語を要求するのか。

しかしこれははっきりと違う。まず原初に言葉があるのである。ぼくらはそれぞれ「意識」を持っている。それは複雑な思考を可能にしている。Aランチにしようか、Bランチにしようかという判断ひとつにしても、現代コンピューターの到底及ばないはるかに高度な思考が展開されているのだ。

この意識はどこから来たか?結論から言ってしまえば、意識は「言語」という土壌に芽生えているのだ。これは発生学的にはっきりとしていることだ。「まんまー」と発語し始めた頃は、赤ん坊に意識がないことが明らかになっている。

ところが、いくつかの単語を覚えて概念を組み合わせる、そこに意識が生まれるのだ。「まんまー おっぱい」「ぱっぱー だっこ」となったところに初めて複雑な意識の発生が見られる。なぜなら「ぱっぱー」は「まんまー」ではないし、「まんまー」は「おっぱい」を持つ何者かであって「ぱっぱー」ではない。「おっぱい」と「だっこ」はどちらも快いが、どうやら違うもののようだ……こうした原初的な概念の組み替えが、指数関数的に発達したところ、そこにぼくらの意識が生まれるのだ。このことは受精卵が細胞分裂を繰り返し60兆個の細胞=胎児となることに似ている。
(堅苦しく表現すれば意識とは概念の相関の飽和した状態と言えるかもしれない。思考とはその飽和した水の中からいくらかの分子を持ち出し、その分子の組成、あるいは分子間の相互作用を組み替え、また飽和水に投入する試みである。そして意志とは飽和した水の持つ、全体の性質と言える……のかもしれない)

であるから、平常なにげなくぼくらが考えているこの意識は言語という土台の上に成り立っていることになる。決して意識が言語を操っているのではない。ぼくらが人間的であること、理性を持っていること、何かを考えること、これらはすべて言語という土台の上での舞踏なのだ。だから聖書の言う「初めに言葉ありき」という言葉は、すっごく深い真理を示していると感じる。「物心がつく」前にはもう言語があるのだから。さすがに2000年以上のベストセラーは違うね。

でもって、言語というのはふつう親や環境に与えられるものである。母親は積極的に赤ちゃんに話しかけるものだ。一見自然に見えるこの振る舞いは、実はどんな国や民族においても見られる行為である。つまり赤子を危機から守ろうとするのと同じくらい本能的な行為である。フリードリヒ二世の実験は眉唾だが。

言語は両親あるいは環境から継承されるものだが、それでは両親はどこから言語を得ているかいうことになる。それは社会からである。両親は社会の中の一員だし、両親自体がひとつの社会と言うこともできる。それでは社会はどこから言語を得ているかといえば、歴史から言語を得ているのである。言語はそれ自体が人間の歴史である。これがどうやら真実であると思う。だから我々は言語から決して離れることはできないし、ときに言語に夢中になるのだ。

ぼくはただ書くことを志向する。そのことの背景にはこれだけの雄大な事実がある。ぼくがここにただ書くということには、想像もつかない壮大な言語の営みの中の、小さな一歩なのである。ブロツキイが「我々が言語を使うのではない。言語が我々を使うのだ」と言ったが、そのことの事実はつまりこういうことなのだと思う。

ただ書こうという実験的試みの先から、よくわからない言語論に行き着いたことは不思議なことである。別に「今コーヒー飲んでるけどまろやかで甘くてうまい、ぼくはコーヒーが大好きだ、たっぷりミルクと砂糖を入れて毎日飲んでるよやめられないよ、カフェイン中毒だね。そもそもコーヒーと人類の歴史は……」とだらだら書きつらねるだけでも良かったのである。

ぼくは「書くから書くのである。これから書く文章は書かれたから書かれたのである。これらの文章は存在するがために存在しているのである。」と書いたが、これは成功しなかったのではないか。実験という積極的な性格自体が文章にある道を示したこともひとつの失敗だが、もっと根本的な問題は、言葉を用いるということ、それ自体が歴史の一端であり借りものであるということが、勝手きままに文章を書くことを許さなかったのだ。

「草原で口笛を吹くように自由に」文章を書くこと、それは不可能なことなのではないか。

そもそも草原で口笛を吹くことは本当に自由なのか。ぼくらは口笛で何を吹くのか。どこかの民謡でも、流行曲でもよいがそれはひとつの曲であって、どこかで聞いたものである。例え単音を吹きならすだけで「これは曲ではない」と言い張ったところで、それは既存の楽曲を否定しようとするひとつの試みに他ならない。ぼくらが何か音楽を奏でようという意志、試みは既存の音楽なしには考えられない。これは言語と同じだ。音楽にしても借りものなのである。ぼくらがいくら「個人的な」「独創的な」音楽を産みだそうとしたところで、それは雄大な歴史の中からそれを拝借し、さらなる進展をさせようとする歴史の意志を免れるものではない。

結局のところぼくらは歴史の僕(しもべ)である。

と、いうことをこの実験で学んだ。

気がする。



4000字、二時間。もう少し労力をかけたものをやってみたいけど、またの機会にしたい。というか、こういうひたすら書き連ねることっていつもやってることと変わらないような……。

そもそも誰かに向けて何かを書くことの方が経験が少ない気がする。そりゃ論文やレポートは書くけれども、恋文や広告なんて書いたことがない。もっといろいろやらなければ。

芸術家の方と話してきた。

昨夜はある若い芸術家の方とお話してきた。

ぼくのような凡庸な大学生がなぜ芸術家と知り合えたかと言えば、何を隠そうこのブログを通じてである。


芸術の世界は呵責ない世界である。自分のすべてをぶちまけて、さらけだして、あとはそれが評価・批評されるのを待つ。作品ができあがった以上、批評家達に対して筆者は言い訳できない。筆者はただ作品を通して批評家に訴えなければならない。

想像を絶する峻厳な世界である。それはぼくのような人間が例えばある文学賞を目指して、落選したとしてもわけが違う。ぼくはまだぼんやりと「次を目指せばいいや」となる。なぜなら生活は別のところにあるからだ。ぼくが文章を書くとき、それは退屈な生活から離れたいからであり、循環する日常を逸脱する一本の垂直な線を残したいと思うからだ。しかしまた、生活の慰みが創造の失敗を緩和してくれるのである。

しかし生活そのものを芸術に捧げたひとびとはどうだろう?純然な自己を投影した作品が批評されるということ。これは人格否定に近い。侮辱、暴言、傷害だ。PTSDになってもおかしくない。しかしすべて芸術家はこれを乗りこえるのだと思う。それを乗りこえる強さ、頑なさにある種の職業的崇高さを感じる。

職業。堡塁を築き守りに入るわれわれにとって「普通」な世界が、ひとつの片隅であること。
「良い作品を創るためなら命を賭してもよい」と言う人間のいることにぼくは驚いた。それもひどく自然に言ってのけるのだ。どうやら芸術家という人びとは集まるとすぐ芸術論を戦わせるようだが、それはぼくの知らない世界だった。例えばぼくはひとに「音楽はこうなんだ、こうでなければならない」と言ったことはほとんどない。あったとしても酒に酔ったときくらい。芸術家は逆にずっと芸術論をぶつけ合い、酒が深まるとやっと下卑た話題が出てくるという――。

作品を生み出すことが日常である人間、それに使命を感じる人間、それを職業とする人間。このような人間が例外ではなく通例である集団があるとすれば、そこに爆発的なエネルギーを感じる。

他にも彼との話で学んだことは山ほどあるが、このあたりでやめておく。すべてが色彩を持ってぼくの心に息づいていることは事実である。有り体に言ってしまえば、「刺激的」で「おもしろい」体験だった。


このブログは決して有名ではないし読者も少ない。この出会いはいろいろな偶然があってのことだと思う。

こうした偶然や巡り合わせといったものにぼくは驚きを覚える。なんだか「書くこと」それ自体がぼくを導いている気がする。ただ書くこと、書き続けることだけを決意したぼくに対し、なんと豊穣な恵みのあることだろう。

人間は言語を用いるのでなく、言語が人間を用いるということ。可憐であることが花の使命であるように、駆けることが獅子の使命であるように、人間の本性とは言語であること。そんなことを考えた。

7.18.2014

無軌道な努力の行く末が破滅であろうとも

ぼくが小学校のとき野球をやっていたのだけどもそれはそれは下手な選手だった。

といって練習をサボっていたわけではない。むしろ猛烈に練習していた。家の庭で素振りを毎日何百回か特訓した。指にマメができて、それが潰れてもテーピングをして振った。でも、下手だった。ボールが変なところへ飛んだりひどく空振りをしたりした。

投げることも同様にヘタクソで、距離は伸びない、球速は悪い、ときにあらぬ方向へ飛んでゆく。ゆいいつ得意なことと言えば、走ることだった。足だけは抜群に速かった。よく「センスがない」と兄に言われたものだった。

今思えば力が入りすぎていたのだと思う。自然な投げ方ができなかったのは、遠くに投げるためにはより大きな力を入れる必要があると考えていたためだ。頑なな努力がかえってフォームをめちゃくちゃにしていた。

努力すれば報われる……と盲目的に信じていたぼくはたいして成果をあげないままグラブとバッドを捨てた。なんか脳筋タイプだな。

今でも「キャッチボールをしよう」と言われると複雑な気持ちになる。まずい投球フォームを晒したくないと思うし、コントロールは悪い。

しかし昔から今でもボールとグラブは好きだったのである。


ぼくはけっこう粘着質なタイプで、物事をこつこつと紡ぐところがある。だからカイヨワの「まじめな、執拗な努力」というフレーズがお気に入りでもある。まあ、毎日ルーチンをこなしたいと思うある種神経質な性質だと思う。

しかし努力したから報われるだろうと容易に考えている点は小学生のときから変わらない。実際にはまずい方向へ落ちているにもかかわらず、頑なに下手なことを続けているのではないかという疑問がある。

昔から「何かを教わる」ことが下手だったのだと思う。当時の野球コーチに何度「力を抜け」と言われたかわからない。が、ぼくは自分の直感を頑なに信じるというか、ぼくとバットの間に他人が入ることがどうも不純な気がして受け付けなかった。

ぼくは一年浪人したのだけれども、その一年もだれにも教わることなく独学であった。予備校へ通わず家で参考書と格闘していた。今考えると無軌道で恐ろしい一年であった。

今現在もこの性質は変わらない。ぼくは音楽をやっている。いつかはプロに習わなければと思っているにも関わらず独学を続けている。これも「楽器と自己の間に他者の介入することが許せない」というニューロティックな神経が云々。

よく「○○先生に師事してプロになりました」なんていう人がいるけど、なるほどプロになるなら確実で手っ取り早い道だと思う。しかし何か不純な気がする。いや、嘘だ。たぶんこれは嫉妬だ。まともなひとびとへの。たぶん多くのひとと関わって、いろいろな人の意見を聞いて切磋琢磨することが芸術的なセンスにしても急速に発展させるものだろう。

ぼくのようにコツコツ、事物と付き合うことが何を生むのだろう?とときに考える。ぼくは努力をしているが、その努力はさっき言ったようにただのルーチン、惰性であってそこに目標も発展もないのではないかと思う。

いや違うのだ、毎日の素振りは確かにクソなフォームを生んだ。しかしそれはバッティングの目標が球を当てて適所あるいは遠くに飛ばすことが目標だからだ。芸術では……。芸術は、目的的なものではない。存在するために存在するのだ。ひとり自己と対話して、自己を超越し、自己の深みの先に孤独に冒険すること、それが必要なんではないか……。


ああ、芯がないから言うべきことも少ない。

とにかく、だ。ぼくはこうするしかないのだ。ひとりで変な方向に突き進むことしか。それが破滅への道でも、頑なに進むしかない。

7.17.2014

糞便と書き殴り

書く書く。ひたすら書くのだ。



ぼくは別に物書きには熱心ではなかった。昔から文章を書くことが好きだったわけではない。むしろある種の抵抗感があった。みんなと同じように「読みやすい文章」や「わかりやすい文章」が書けないのだ。どこに読点を落とすべきか、一文が長すぎていないかがわからない。その文体の妙なことと、不得手なところは今このブログでも引き継がれていると思う。そもそも会話自体が大の苦手だから、ぼくの文章はスムーズにはたらかないのだと思う。

ところが最近は書くことにどっぷり嵌まってしまった。なぜかはわからない。このブログも三年目(正確には二年か)になるがこれほど書きたいと思ったことはない。

ここでキチガイ染みたことばかり書いているが、ぼくは普通の大学生である。普通の大学生活を送っている。友達と酒を飲んだり女の子と遊ぶこともある。で、家に帰るとまずPCの電源をつける。そして音楽をかけて風呂に入る。風呂で小説を読む。平均三〇分くらい風呂には入る。そして風呂上がりにチューハイを飲みながら、PCに向かう。そこからブログの記事を書いている。

ひとつの惰性というか、おもしろいことを書こうという気もなくて、それでもその日一日生きていれば何かしらの変化や引っかかりがあるのでそれを元に書いている。おもしろいことを書こうと思って書いた記事はけっこう当たっている。「世界一「歩き方」の汚い日本人へ」はその代表例だ。女性週刊誌的なノリで書いたら、「スキゾイド的恋愛」と並んでこのブログのアクセス数を稼ぐ双璧になっている。何にせよ人が来てくれるのはありがたいものである。

それにしてもアクセス数のランキングに入る記事はどれもしょうもないものばかりで悲しくなる。「スキゾイド的恋愛」は個人的に気に入っているからたくさんの人が読んでくれるのはありがたいのだけど、他は駄目なものばかりだ。

ぼくはこのブログをただ書いているけれども、別にだれのために書いているわけでもない。人気が欲しいとかアクセスが欲しいとかは思わない。書く以上は多くの人に読んで欲しいけど、それが目的ではない。もともとこのブログを作ったのは、文章力の向上のためだった。

2012年12月10日の記事から引っ張ってきてやった。
今回の記事は「未経験」という前提があるので、まずは文章能力を高めることから始めるのをおすすめします。文章力を鍛える方法は、とにかく書く!書く!書く!ことです。文章は楽器と同じで、書けば書くだけ確実に上達します。少なくとも書きまくることで、生産スピードは上がり、独自のスタイルも見つかってきます。
これを読んでブログを始めようと思ったのだ。

「しかしこう毎日だらだらと書き続けていると、糞便の習慣にも似てくるね。文章を書くとはもっと高尚なものだと思うけど。」

ごもっともです。


脱線した。

ぼくが最近ものを書きたいという衝動に駆られているということ。大学にいる間から家に帰って文字を打ちこみたい、あの孤独にして妙に神秘的な作業をしたいという思いに襲われるのである。で、家に帰ってみるととくに書くべき事もなくて愕然とする。今日の記事もどうってことのない内容だ。

うまく書けたという実感もないが、妙なカタルシスはある。これは楽器の練習をしたときと似ているな。

書かれたと同時に記事はよそよそしく他人になるものだ。



最近のぼくの不安感。


  1. ぼくは取るに足らない人間であり、才能に欠け、意志も欠如した慢心した一個の醜悪な精神病者ではないかという恐怖。
  2. つまりぼくは何をも為すことのできない欠陥した人間であり、そのため芸術という唯一の逃げ先に奔走しているのではないかという恐怖。
  3. だれにも認められずぼくはこの世の苦しみだけを受けて、それは精算されることなく死という無にあわせて飲み込まれるのではないかという恐怖。
  4. ぼくの書くことはだれにも受け入れられず、いちばん悪いことには、ぼくがそれを読み手の責任にして狂気と孤独に満足するのではないかという恐怖。


まあいろいろある。

芸術を始めようと本気で思い立ったときに、何もすがれる物がないことにひとは愕然とする。指標も何もない獣道だ。ぼくは最近知ったのだが、指標があるところはかえって間違いだらけなのだ。恐ろしい世界である。

われわれは遠い異国の芸術家に思いを馳せる。漠然と彼らの作品から道を知る。おそるおそる歩みを進める。昔のゲームでよく透明な床を歩いて宝箱に辿りつくというものがあったけども、あれに似ている。

一歩間違えればまっさかさま。

ある散文―ウン・ポコ・アジタート

書くのだ。

書かねばならない。


ぼくの生が何を意味するかは分からない。

ぼくの生はひとつの失敗例だったのかもしれない。あるいは意味すらない、戯れなひとつの泡沫だったのかもしれない。

しかし失敗でない人生などあるだろうか?

やがて老齢と経験とが、
手をたずさえて、
彼を死へと導いてゆく。
そのとき彼は覚らされるのだ、
あのように長い
あのように苦しかった精神であったのに、
自分の生涯は
みんな間違っていたのだ、と。
ゲーテ

あのように長いあのように苦しかった精神であったのに、自分の生涯はみんな間違っていたのだ、と。この言葉は数年前の二、三ヶ月ぼくを苦しめた。


幸福はいつも表象でしかないということ。「ああ、俺は幸せだなあ」と言う奴があればぼくはひっぱたいて目を覚まさせてやりたくなる。

そんならぼくらは何のために生まれたのだ、と言いたくなるだろう。「幸福になるために生まれたんだ」と言う奴がいるとすれば、ぼくは心の中で跳び蹴りする。

しかしこうした絶望の中にあって、希望の芽はあるのである。「幸福な人生など存在しない。人間の到達しうる最高の人生は、英雄的人生である。」とショーペンハウエルの言った通りに。

社会において何かを成すためにぼくらは生まれた、と言うことは間違っていないだろう。ぼくらは人類という船の漕ぎ手であり、そうしてオールを漕ぐということは苦しく投げだしたいことなのである。
このことは生物学的にも倫理学的にも社会学的にも哲学的にも、正しい。

幸福は人生において虚妄である。

しかし、それを知っていてさえぼくらは幸福に対する憧れを捨てることはできない。常にその重力に誘われているのであり、ふとした拍子に幸福の幻影にたちまち足をとられてしまう。ぼくらは不幸を注意深く避けるけど、幸福には諸手をあげて喜ぶ。幸福こそ不幸の裏の顔だと言うのに!


ぼくは孤独を求めなければならない。ぼくは人といることに我慢がならないのだ。ぼくの神経が貪欲に孤独を要求するということ。孤独は撤退であると同時に栄養である。

耳も聞こえない、目も見えない障害者。彼はこの世に生を授かったときから沈黙を守っている。あるきっかけから彼が点字と筆記を覚えたとき――彼の生まれて初めての表現に、ぼくはたぶん凡百の芸術家を圧倒する魅力を感じることだろう。


ぼくはどんどん悪い人間になっている気がする。何も掴むことができないからただ落ちるばかりで、しだいに落ちることにも慣れて、今では「俺は自分の意志で落ちているのだ」と思っている阿呆なのかもしれない。

一般大衆さんたちは遙かな高みにいるように見えることもあるし、ときには地上にへばりつくあわれな群像にも見える。いずれにせよ遠く離れているのだ。

自分が正しいという確信がない。ぼくが信頼できる人間はただ一人、つまり自分一人しかいないのでぼくはあらゆることに確証が持てないでいる。

生まれてからしばらくは、ぼくのゆく道を規定したのは父と母であった。
次に同級生たちであった。
最後に女子たちであった。

今は何もかも超越してしまった。そして凍えるような山の上でひとり、自分との会話を楽しんでいる。ああこれは逃避だろうか。狂気だろうか。ぼくはあなたに問いたい。ねえ、どう思うよ鉄さん。

「神経症者のいる文学」を読む。

「神経症者のいる文学」という本を買った。この本は3600円とかなり高い。貧乏学生のぼくには少なからぬ痛みが伴う値段である。しかし、買った。ぼくは神経症だし、文学が好きなので買った。
ぼくが買わなければだれが買うのだ。


 

本著で書かれている神経症者は作家がバルザック/フローベール/エミール・ゾラ/ユイスマンス/モーパッサン/プルースト、画家がジェリコー/ムンク/シャルコーである。

まだ半分程度しか読んでいないので詳細は書けないけどもかなり良い本だと思う。3600円に見合う価値はあるなと。フランス文学に限定しているのが残念だけど、神経症について理解を深めるのに役立った。
神経症であることは、趣味と感受性が人よりも研ぎすまされていることである。少なくともユスマンスにとっての神経症の積極的な価値はそこにあった。 
「真に芸術的なある人間の感覚的資質と、その眼が独特かつ鋭敏に見る色彩のあいだにはある調和が存在する」と考えたデ・ゼッサントの理論に従えば、一般大衆やブルジョワは色彩音痴であり、ごくわずかの選良、文学芸術の訓練を受けた洗練された人びとだけが、色彩の微妙なニュアンスを識別する能力をもつのである。
こういった神経症者に対する賞賛、神経症であることが悪いことばかりでなく、ある種の才能の裏返しなのである――という慰めは、とくに今現在生に倦んでいるぼくには大きな希望となった。ありがとうユスマンス。


本著にあらわれる神経症の作家、神経症の登場人物にぼくは共感を覚えて仕方がない。

例えば
「ぼくは熊のように一人きりで暮らしている。[……]ぼくの病気の利点というのは、ぼくが自分のいいように自分のことをできるということだ。[……]よく暖めた部屋、好きな書物と好きなだけの暇、これほどぼくにとって望ましいものは世界に何もない。健康に関して言えば、よくなっているけれども、この忌まわしい神経病というやつは、実に治りが遅いから、回復がほとんど感じ取れないほどだ。」
というフローベールの手紙は自分が書いたようにしか思えない。違うところと言えばぼくはこの神経症が一生治らないと思っていることくらいだろうか。

これ以外にもこの書籍内に登場する「逸脱者」あるいはもう少し酷薄に言うところの「狂人たち
」にぼくは大変に共感を覚える。

「私たちは特別な苦痛と歓びの資質に恵まれた数少ない人びとに属していませんか。その鋭敏な性質はいっせいに内面の大きな反響音を響かせ、その神経質は物の原理とつねに調和しているのです。(「谷間のゆり」/バルザック)」
苦痛と歓びは確かに人より多い、と感じる。鋭敏な神経の作り出す世界のコントラストは強烈である。


ぼくの神経症の話

中学時代から発症している。今でも悩まされ続けている。神経症は青年期に多いらしいので、あるいは壮年期に治る見込みがないとも言えないが、一生苦労するだろうことがわかっている。

治る見込みもないのでそれに沿って人生設計や職業選択を強いられている。

ぼくは幾度これに悩み枕を濡らしたかはわからない……!
しかし、希死念慮だけはなかった。苦痛は大きかったと思うが、死に対する憧れは持たなかった。かえってぼくより幸福そうな人がリスカやODをしていたものだ。理由はよくわからない。

ぼくの神経症は典型的な神経症ではなく、まれな疾患、あるいは近年増加している疾患である。

ネットの時代になって同じ症例のひとがあることを知った。オフ会に行ったこともある。みな人生を狂わされている。話してみると普通である。統合失調症じゃないの?という方も混じっていたが……。



ニューロティックであることがぼくの人生の舵を取っている。

しかしそんなもんだろう。おしゃべりな人間がいるとする。彼の饒舌は、彼が求めるものではない、とぼくは感じている。彼だって神経に支配されているのだ。

神経症に悩むときはベートーヴェンの弦楽四重奏曲第16番を聞く。クラシックはよく知らないが、ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」でたぶん有名になった奴。

“Muss es sein?” “Es muss sein!” (「そうでなければならないのか?」「そうでなければならない!」)



運命に翻弄される、小さな傷ついた人間は何万回も問うのだ。

「そうでなければならないのか?」

その答えはいつも決まっているのに。

「そうでなければならない!」

なんという峻厳で、そして優しさを持った言葉だろうか!
ぼくはこの言葉で慰められるのだ。