8.30.2014

死と堡塁

はあ、ぼくは何もできない愚鈍なバカなのだろうか。何もできない馬鹿だから、自分に何とか価値を見つけようとして、文学だの、絵画だの、海外旅行だのに憧憬を持つのだろうか。自分に価値をつけるための、虚飾としての夢目標。「何者でもない」自分を怖れて、自分にしかできないことを求めて、普通の仕事を軽蔑して、毎日がんばって生活しているひとたちをバカにして、自分だけは違うぞ、と思いたいだけなのだろうか。

ぼくは割と最近に、一般的な幸せを捨てることを決意した。どうやら幸せというものは、迷妄や麻痺や陶酔、あるいは錯誤に近いものであることを知った。だからぼくは生まれ落ちた痛みを、生身で受けとめたいのである。集団社会だとか、法律だとか、保険のようなバッファーはいらないのだ。ただ大地の上で駄々踏んで、純粋な痛みを味わいたいのだ。純粋な幸福は存在しないが、純粋な不幸なら存在する。

真理に到達したいのなら、幸福よりも不幸を追求せよ。

だが、毎日マジメにガンバッテイル人びと、これをどうして軽蔑しなければならないのか。毎日ガンバッテイル社会的に成熟した大人たちを、どうして「目の開ききっていない子どものようだ」と言うことができるだろう?パリっとしたスーツを着て、年に1000万円を稼いで、温かい幸福を築き、都内にマンションをもっている、非の打ちどころのない成功者たちを、どうしてぼくは「錯誤」だと言えるのだろう?

ぼくはたぶん……。そうした生活とは無縁だろう、もちろんぼくはそうした生活に憧れた時期があった、将来はエリートサラリーマンになるのだと漠然と思っていた。それが、気づいたらもう少しでニートというところだ。まだ取り返しはつく。しかし……。

ぼくはぼくの望むことをさせてあげたいと思う、ぼくだけがぼくの理解者であり、ぼくを自由にさせられるとすれば、それはただぼく一人にできることなのである。社会だとか、環境がぼくに自由を与えられるのではない。自由とは、より内在するものであると思う。

ぼくはまだ大学生である。何を考えても自由だ。しかし来年から大学を追いやられて、そのときにどんな感情を持つかがわからない。きっと、肌寒いものだろうと思う。全てを後悔するかもしれない。

しかし……、こうするしかない。「こうでなければならない」という感情が、ぼくを支配している。

こんなことがあるだろうか?マジメに働く……。親や教師の言いつけを守る……。人びとのために貢献する……。義務を遂行する……。そうした、”正しい”方向を志向すること、そのために多くの人びとが時間を費やしている。しかし、ぼくのしていることはどうだろうか?集団を離れ……義務を放棄し……ひたすらエゴの言いなりになっている。ぼくはどうしてしまったのか。壊れているのかもしれない。狂っているのかもしれない。

ともあれ……時間は有限である。ぼくは生まれた、そして死ぬ。残された生を全うしなければならない。死が訪れるのは20年後かもしれないし、明日かもしれない。それが少しの救いである。エリートサラリーマンも死に、ぼくも死に、今の社会に生きているすべての人びとは、100年後には死んでいる。この狂気じみた未来図は、峻厳な事実であるが、同時に不思議な温かさを持っている。

「そうでなければならない」のだ。だれもが死ななくてはならない。死を前にすれば、ひとは必ずこう問うだろう。「そうでなければならないのか?」

「そうでなければならない」のだ。

一週間後に死ぬとなっても、ぼくは、普通の人が感じるよりも動揺しないだろう。遺すべきこともとくにない。やり残したことも特にない。生に対する執着は、あまりない。とは言っても、腹が減ればご飯を食べるし、指を切れば止血する。しかし、ぼくは運命に対し手放しで過ごしたい。

土砂崩れで広島で何十人かが亡くなったという。ぼくらは「怖いねえ」と身震いする。しかしどうだ。ぼくらは死なないわけじゃない。車に牽かれるか、病死するかは知らないが、結局ぼくらの前途に確実にあるものは死しかない。早いか、遅いかである。

そう、それを考えると。ぼくはささやかな堡塁を築く気にはなれないのである。

8.29.2014

物憂い

朝から3000字くらい書いて、消した。

何かしら書きたいことはあるのだ。しかし、最近は孤独に沈湎する時間がなくて……。どうもダメだ。何を書いても、自分が正しいという確証が生まれない。

しかし自分は常に正しいのだ。主体である以上、ぼくが会社員でも学生でもなく、ただ「ぼく」である以上、正しい。例え殺人を犯しても、母に対する愛情が欠如していても正しいのである。
私はかつて正しかったし、今もなお正しい、私はいつも正しいのだ。(「異邦人」/カミュ)
ぼくはある組織のなかで今働いている。そのせいだろう。

意識的個性の消滅、無意識的個性の有声、暗示と感染とによる感情や観念の同一方向への転換、暗示された観念をただちに行為に移そうとする傾向、これらが、群衆中の個人の主要な特性である。(「群集心理」/ギュスタヴ・ル・ボン)
ユングよりちょっと前の心理学者なのであれだな……。

今日は風邪気味だし、天気が悪い。夏が終わり、少し憂鬱である。明日になれば少し暇ができる。今日は不本意だが、このあたりで。

8.28.2014

「質量」を持った作品

「書くことは人を確かにする」という言葉があるが、ただ書くことを志向しているブログであるこの場で、ぼくは自分という人間の"体系"を作ろうとしている。

このブログの記事ひとつひとつが、自分という人間の要素である。その散りどもをうずたかく積み上げたなら、その全体が表すのはぼくという人間の精神である。だから、ぼくはすべてを本心から書こうと試みている。本心で書いたものは全て筋が通っている。だから、体系はより情報量を増していくとともに、まとまりを強めていく。その先になにがあるのかわからないが、プラトン的なイデアが見えてくるのではないか。つまり、精神のイデア。くだらない人間の精神にもきっとイデアはあるのだ。

表現とはそういうものではないか。自分のもっとも根本とする主義主張をぶつけるという行為ではないか。そこに少しでも錯誤だとか、不純な気持ちがあったなら、作品を全てスポイルしてしまう。混じりっけなしの感情しか質量を持たないだろう。ぼくはこういう人間で、だからこういう作品を作った。ぼくはアウシュビッツに収容されていた経験があるから、これを作った。ぼくはヴラマンクの絵に脳天を揺さぶられたから、これを作った。ぼくは両足が不自由だから、これを作った……。

作品にはすべて動機がなくてはならない、エロスだとか、生活(金銭)のために作られた作品がどうしても上滑りで薄っぺらいのは、そうした欲求が低次だからである。人間にとってエロスは一要素であり、生活もまたそうだ。ぼくらが望むものは、そういうものを包括した精神の全体である。そうは思わないか?ある兵隊が登場する映画を見るとして、その兵隊が、「早く帰郷して女房をファックしたいぜ」なんて話に終始してたらつまらないだろう。もっと根本的な事象を知りたいと望むだろう。「死にたくない」と泣きわめく新兵だとか、敵陣に果敢に攻め込む兵士がそれである。

だから、ぼくはつねづね「質量」を持った作品を創ろうと思っている。この質量とは、ぼくという精神の全体である。全力を注ぐ、というのともまた違うと思う。そこに力みがあってはならない。ただぼくの精神の核を、心臓を、委譲するということ。これはミームの概念に近いかもしれない?

ぼくは孤独に慣れきったあまり、「正しいコミュニケーションの方法」を忘れてしまった。願うのは、精神の核でもって、他の精神の核を、揺さぶることである。


意味不明な供述をしており

アートとテクネ

昨日は少し気が滅入っていたが、今日は調子がいい。

過重な労働の持つしびれのような作用が、ぼくに暖かな多幸感を与えてくれた。マルクスの言ったように、労働は何も悪いことばかりではない。

コリン・ウィルソンは次のようなことを言った。「アウトサイダー」は最初、「私には孤独が必要だ」と言うが、次には新しい経験が必要だと知るに至り、新しい世界に飛びこんで行く……というような。ぼくもあらゆる抑圧から解放されて「自由になりたい」と思うときがあるが、そのような自由は絵空事だろう。ぼくの前にはやるべき仕事があるし、組織があるし、生活がある。それから逃れることはできない。

今日も仕事をがんばっていると、後輩の女が肩を揉んでくれた。ありがたい。彼女は聡明で、賢い女である。物怖じせずにしゃべり、如才なく、相手に取り入るのが上手い女性である。そしてスタイルはよく、美人でありながら、恐ろしく個性的な格好である。……ぼくはこのような女性に弱い。

肩を揉まれながら思ったのは、彼女とのこの良好で幸福な関係を続けるにはどうすればよいかということである。彼女が労りの心を持ってぼくの凝った肩をほぐし、単純にぼくは感謝するという関係。結局ぼくは、自分を隠すことにした。彼女への自発的な好意を示さない。そして彼女がぼくにくれる好意に対しては、きっちりその分だけお返しするのだ。

彼女にとってぼくは偶像でなくてはならない。クールで、優しくて、知性的……。ぼくが内面の激情をぶちまけて、彼女に求愛したり、嫉妬したとすれば、たちまち彼女は僕の元を離れるだろう。

変だろうか?良いところ、悪いところを含めて、本心を何もかもさらけだすのが信頼関係だ……と思われるかもしれない。しかし、偶像を作り上げるような恋愛こそぼくは本物だと思う。だれだって、好きな人の理想像でありたいと願うものだ。父親は子どもにとってヒーローでありたいし、母親は聖母でありたいと願う。そのような感情を、欺瞞だとか虚偽だとか言う気は起きない。

彼女も、控えめに接するぼくの態度にある程度の共感を持っているような気がする。そう、それだけの思慮を彼女は持っている。彼女は神秘的な能力をもった巫女的な女だ。彼女と同じ空間にいると、ただ精神の内奥で通じ合っているという気がする。まあ、全部ぼくの勘違いかもしれないが……。

……

Art、という言葉はギリシャ語のテクネ"techne"の翻訳なのだそうだ(technique : テクニックの語源でもある)。そしてテクネとは、「内在する原理を正しく理解した上で何かをする」という意味なのだとか。ぼくはこの言葉にたいそう惹かれる。「内在する原理を正しく理解した上で何かをする」……。

ぼくは音楽において、若輩ながらすでにこの領域に達していると感じる。楽器の持つ構造、原理を理解し、どこをどうすればどのような音が鳴るかを理解している(つもりだ)。ひとつの理想の”音”を持っているし、それに合わせるためにどうすればよいかを知っている。だから、中途半端な気持ちで楽器に触れる奴が大嫌いなのである。楽器に歌わせるのではなく、単なる痙攣やかっこつけで鳴らす奴が。楽器に触れていながら、楽器を阻害する奴が。

ぼくは文筆家になりたいと願う。そこでもtechneは必要だろう。文筆の原理は言葉だ。言葉の意味を理解し、言葉の持つ力を理解し、その上で「何かを」したいと思っている。

ちなみに今書いているこのどうしようもないブログも、ぼくの鍛錬のひとつである。え、こんな駄文が?と君は思うかもしれない。しかし、ぼくは思うのだが、ある楽器に習熟しようという場合、コードやスケールの練習をするよりも、その楽器と一週間、肌身離さずに生活した方がよほど楽器ひいては音楽の理解になると思う。

ぼくはぼくで、言葉を転ばして遊ぼうというわけだ。言葉をつかんで、ひっぱって、ときに愛でて、ときに壊して……全身で、言葉を享楽するということ。それがまず一歩だと思う。

言語というものは、人間にとってあまりに重大なものである。とあるベストセラー書には、「始めに言葉があった」と書いてある。たぶん真理探究が好きな人間にとっては言葉というものは最終的に行き着くものではないかな。

楽器や文筆だけでなく……女性においても! techneをしたいと思うのだけどね。つまり、女心を理解し、女の心を釘付けにするような……。ただ、女性という楽器を鳴らしたいだけなのだ。女性の根本を理解したいだけなのだ。気持ち悪いって?けっこう。

いよいよ、忙しくなってきた。以前のようにまとまりを持った文章を書くことは難しいだろう。今後このブログには、こうした理解不能な文章が続々書かれていくと思う。

8.27.2014

777629-93

ぼくはとうに知っている……。この世は苦痛に満ちていること。そして、本当に怖れなくてはいけないのは、意志の過剰よりも、意志しないことであること。

ぼくがしていることが、ここに生き恥を晒すことであってもそれは構わないことだ。ぼくは朝、カフェインとともにここに書き、夜、アルコールとともにここに書く、もはや書くということは、食事や排泄と変わらない習慣になった。ぼくは書く。

「描くという行為にはなにかあるにちがいないぞ、だってたいていの狂人はなにもいわれなくても描きはじめるんだから。」とポルケは言ったが。ぼくは狂人と言われても文句は言えないだろう。とりあえず、精神疾患は持っているし、社会不適合者だ。

今日、ぼくは特に肉欲に悩まされていた。夏の女子大生の服装は危険だ。扇情的すぎる。ぼくはいちいち釘付けになってしまう自分が嫌で、性を超越したい一心で、目の前にいる女性の身体を視界から消す努力をした。それは目を逸らすという一般的な行為ではなくて、視界の対象が女性であるという認識を辞める努力だった。つまり、ぼくが白い壁を眺めて何も感情を起こさないように、女性を背景と一致させる努力……。まあ、なんのこっちゃわからんと思ってもらえれば結構だ。ようはぼくが異常なことに努力し疲弊しているということである。

今日は特に、精神的危機の一日だった……。ぼくの周りに味方はなく、幸福な敵だらけであるという印象……。ぼくひとりが不幸で、他はみんなうまくやっている……。ぼくの教授はこう言った、「就職決まったの?」。ぼくはちょっと焦りながら言った……。「決まってないです」。そうしたら、教授は爽やかな声で、こういうのだ。「おめでとう!」

おめでとう、ね。まあいいけどさ……。

世の中に絶対的に相容れない人間は存在する、もはや違う生き物のような人物。教授は自己愛型の人間であって、環境に適応する能力に優れ、且つ環境や集団をコントロールする力にも優れている。権力欲旺盛で、権威主義的、神経質な顔立ちながら話好きで、頭の回転は速く、独善的。

そして、ぼくを目の敵のようにしている。ぼくは元々人に好かれる方ではないし、愛想も礼儀もなっていない。いや、上っ面だけの礼儀や愛想はあるのだが、本心から相手を尊敬することがどうしてもできないので、いつか忘れてしまうのだ。おかげでどこに行っても浮いた存在だった。だから教授のような人は慣れっこである。ぼくはどこにも所属できず、どこにも定住できず、流浪する、そういう確信は昔からあった。

はっきりとわかったのは高校時代にやっていたコンビニバイトで、そこでぼくは究極的に浮いた。アルバイトという職業は究極的に実際的な仕事で……。ぼくは仕事の意義を時給800円にしか見つけられず……。仕事のやりがいだとか、バイト仲間との信頼関係だとか
、そういうものは無縁だった。仕事に没頭できず、ぼくは使えない人間だった。以降、いろいろなバイトは経験したが、常にぼくは「使えない奴」扱いだった。ぼくにとっても、「職場」という環境はどうもしっくりこないものだった。

ぼくは自分が愚鈍なのではないかと疑った。しかし勉強はそれなりにできた。たぶん「まじめ系クズ」という表現が近いのではないかと思う。

まあ、哀しみだとか、憎しみ、怒りといった感情は本来人間に存在しないものだ……とラーマクリシュナか誰かが言っていた。ぼくもその通りだと思う。別に、ぼくは教授に嫌われているからといって思うことはない。今までも彼のような人には嫌われ続けてきたし、これからも嫌われるだろう。

そもそも、ぼくはそのような孤独、孤立、迫害、苦痛、心労といったものは、甘んじて受けなければいけないと思っている。それがぼくのような人間の使命である。ぼくはそれに異を唱えてはならず、十字架は、十字架のまま背負わなくてはならないのだろう。

何を言っているのか自分でもよくわからない。ぼくは今、多忙を極めているのだ。もう寝る。

8.26.2014

モラトリアム人間(笑)の嘆き

白々しい。

ぼくの行く道はもう決まっているのだと思う。ぼくは自由を求めたい。すでに、ぼくは自分が自由でないということを知った。しかし、それと同じようにこの世界で生きている人のほとんどが不自由であることを知った。

ぼくはできるだけ自由に生きたいと願う。少しでも自由が欲しい。不自由な人間は崇高な使命ではなく、明日のパンしか見ることができない。定住よりは流浪……富裕よりは貧乏……快楽よりは苦痛……。

貯金もなく、頼れる人もいない。偶然にたいして手放しになって、身に降り注ぐ雨風を全身で受けとめるのだ。

で、昨日はそんな自分に対してカッカとなった。なんだお前は。自己満足のポエマーが。技術もなにもない。大学では音楽遊びをしていただけ……。頼れる友達の一人も作らず……冷笑的で教授に嫌われて……。まともに就職もしないというのだから!お前はどれだけ人生を舐めているのかわかっているのか?と、ぼくは自分に対して怒った。

ひとはだれしも心のなかに「子どもの自己」「親から受け継いだ自己」「統合された自己」の三つが存在する、と古い心理学書に書いてあった。親が死んでも涙を流さないだろうぼくであっても、親的な自己は存在する。親的な自己はまじめに就職して、結婚することを望んでいる。頼むからそうしてくれ……と。

どうかな。ぼくがまじめな親になったとして、自分の息子が「俺は旅人になるんだ!」とか言い始めたら……。それも25歳になってだよ。ぼくは怒るというよりも、少し、ほっこりするかもしれない。「血は争えないなあ」「お前も大人になったんだなあ」と思うだろう。そして、「母さん、今日は赤飯だ!」となるかもしれない。(?)

「父さん、ぼくやりたいことも特にないしニートになるよ!」なんて言ったら手が腫れ上がるまで殴るだろう。しかし、世間的にはどちらも同じように考えられている。引きこもりもフリーターも同じ社会のヒエラルキーの底辺として扱われている。芸術家志望、作家志望、フリーランス志望などはモラトリアムの一言で片付けられる。大企業で島耕作のようにバリバリ仕事をすることがエリートのロールモデルだ。ぼくのようなふわふわした人間は

「お前もそろそろ地に足つけろよ」

なんて、言われるわけだ。

親や、友達や、社会が言っていることがすべて間違っていて、ただ少数の賢者(あるいは狂人)たち、ニーチェ、バルデュス、カミュやヘッセの言うことが正しいということがあり得るのだろうか?一体、そんなことが?この世の大部分の人間が間違った人生を送っていて、ただ少数の人間が正しい人生を送れるということがあり得るのだろうか。

「万人のうちで、英知に専念する者のみが暇のある人であり、このような者のみが生きているというべきである」 とセネカは言ったが、それなら大企業勤めでスケジュール帳を真っ黒に埋めている人は、死んでいるのか?ブラック企業で喘いでいる薄給労働者やアルバイターも死んでいるのか。

そして、ぼくは、「生きる」ために財産も、名誉も、友情も投げ捨てなければいけないのだろうか。なぜそうなのか?そうでなければならないのか?(Muss es sein?)

答えはたぶん決まっているのだ。

プロット★メモ
ある作家志望のプロットを見ていたら、ひとつの確信にいたった。いちばん最初に浮かんだものがいちばん良いという確信。プロットをいくつか考えたとき、最初のプロットは「無」から生まれている。それに対し、以降のプロットは必ず前のプロットの影響を受けていて、「有」から「有」への変化でしかない。

ぼくは「無」から生まれたものがいちばん自然で、美しい作品になると思う。しかし、現実としてはそんな作品では世に認められないことがあるわけで、ある程度手を加える「技術」が必要になる。おそらくプロフェッショナルな作家さんは、そういう技術に熟達しているものと思われる。
そしてその技術は女性的なものであって、化粧とか装飾だとかあるいは生け花のような技術が必要なのだ。

8.25.2014

ある嘆き

土日も忙しいし、十分に眠れないし、月曜は、雨……。将来の見通しはたっておらず……。金もない。


一体、一体?一体!

ぼくはどこへ進もうとしているのだ。ぼくは、自分のことを考えると恐ろしくなる。今はまだ学生だからいい。学生だからバカみたいなことを言っても許される。
「将来は起業家になるぜ!」だの、「冒険家になる!」「じゃあ私は小説家!」「ぼくは漫画家!」なんでもござれだ。しかし、いくら学生が無軌道と言っても、そんなことが許されるのは就活前くらいだぜ?そんな子どもじみた夢を胸に抱いていた奴らだって、大企業に内定をもらえば東大に受かったみたいに喜んでいるんだ。そしてみんな黒髪に戻してスーツを着て、立派な社会人になるんだ。

お前は……。お前はどうなんだ。大企業の面接をどうしたよ?せっかく履歴書も書いて、速達で送ったのに……「天気がいいから面接ぶちってバイク乗って山に行った」とか、友達に言ってたよな。まあ、それはその通りだった。しかしそれは逃げじゃないのか?本当はただ、大人になるのが怖いんじゃないのか?まじめで誠実な、だれに会わせても恥ずかしくない、一人前の「大人」になるのが。

お前は今日、コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」を読んだ。そして、ゴッホに、ニーチェに、ヘッセに、カミュに、自分を重ねて喜んだ。お前は喜色満面で言う。「ここにぼくの姿が、ぼくの人生がある!」

そう、そんなお前の姿を、たぶんだれも知らないが、お前の姿を見た人間は言うだろう。「なんて愚かなんだ」と。お前が「芸術に人生を捧げたい」と打ち明けた女は、お前の愚かさに言葉を失い、お前を一瞬で捨てた。そういうものだ。

お前はただ、自分が交換可能な歯車であると信じたくないだけなのだ。自分は特別な人間で、神に選ばれた人間だと思いたいだけなのだ。だれもが人生の退屈を受け入れて生きているのに、ただお前だけが不平を言っている。忍耐が足りない。教育が足りない。運命を受け入れる覚悟が足りない。臆病なのだ。お前は勇敢なのではなく、ただ恐怖に怯えているのだ。

幸いなことなのか、不幸なことなのか知らないが、お前は好き勝手に生きることが許されている。親はあくまで放任主義だ。たぶん金銭的にも、それほど不自由はない。お前は人生を失敗したとしても許されるだろう。しかしお前自身はどうだ?失敗する人生は辛くないのか?お前は、失敗者だ。たぶん永遠にスターバックスには入れない。マックのコーヒーを生涯飲み続けるだろう。……お前の親も言っていただろう。「俺は教育に失敗した」とね。

確かにお前は病人だ。たぶんだれもが、お前の精神的な病状を知っていながら口に出していない。お前も病識はある。少し図書館に籠もって調べることもした。しかし、病人であることと天才であることは違う。病人は病人で、天才は天才だ。

お前は、目を覚ませ。目を覚ませ。おい、いいか。元に戻るなら今のうちだぞ。頼むから、まともな幸福を掴んでくれ。幸福の道を。いいか、正しい、暖かい、幸福を。冷たく、死の匂いのするような道はやめてくれ。

8.24.2014

二流大の男

とくに書くこともないが、書いていく。

もはや普通に生きていくことを諦めるということ。一般的な幸福を諦めるということ。世俗的な幸福……。金や友情や権力、地位の世界。その世界と自分たちの世界に線を引いて、孤独に生きていくということ。

部屋のなかでひとり本を読んでいると……静かな調和に満たされるときがある。あるいは、オルガスムスのような興奮を得ることもある。たぶん、妻と子どもが戯れているのを見ているときに父親が感じる調和と、セックスのときに感じるような痙攣を、ぼくは本を読んで味わっている。

そう、これがぼくの幸福の形なのだ。

だから……道を歩いているときにすれ違う大学生カップルとか……見るからに仕事のできそうなサラリーマンとか……あるいは、超高級車に乗った若者とか……そういった「幸福な人びと」を見て、誘惑されることをやめにしよう。ぼくらの前途は、たぶん遠く先にあるのだ。

人間の特徴は……遠く未来まで予測ができるということだろう。これは他のどんな動物にも不可能で……だから、人間はこの能力を最大限発揮しなければならない。そうすれば、目先の金銭だとか、欲情に身を任せることはなくなるはずだ。

まあ、どうでもいい……。

ぼくは虚空に向かって語り続けているのだろうか?ぼくは孤独にブログを書き続けている。ぼくは自分が正しいと思ったことだけを書いている。このブログ、たいしてアクセスもない。たぶん、その辺のブログよりはおもしろいという確信があるが、だれも足を止めないところを見ると、そういうものなのだろう。

まあいい、無価値であっても。ぼくの文章が精彩を欠くとしても、それは仕方のないことだ。おそらく東大だとか、そういうところを出た天才の書く文章こそ求められるものだろう。例えばぼくが今夢中になって読んでいるコリン・ウィルソンの「アウトサイダー」だが……。高校生のときに愛読していたなんていう天才がいるのだから、困る。

ぼくは二流大の、しかも文学部ですらない。坂口安吾は東洋大の卒だからぼくは少し安心するのだけど、最近は安吾も時代に持ち上げられただけの二流作家のような気がしてきている。

しかし、ニーチェのいうように「あまりにも遅すぎた!」と言う気はない。あるいはテグジュペリのいうような「乾いた粘土」だと自分のことを思う気はない。たぶん、ぎりぎりセーフだろう。
自発的活動的な人間、すなわち芸術家の地位は傷つきやすいものである。というのは、その個性や自発性が尊敬されるのは、実際に成功した芸術家だけであるから。もし作品が売れなければ、彼は隣人から奇人か神経症患者と見られる。(「自由からの逃走」 / E・フロム)
まあぼくは、二流でしかないだろう。パッとしない人生を歩むだろう。それでもいい。一日一日を悔いのないように、ね。

転落

ぼくは自由であるべく生まれついてしまったのかもしれない。

例えば、ぼくの星座は「射手座」である……。sorede, ぼくの「動物占い」は「狼」である。そんで、ぼくの体躯は、「精悍型」である。MBTIテストは、INTj型である……。(いずれも自由を求める人物の象徴)

しかし不幸なことはこの不自由な国……おそらく世界でも類を見ない集団同調生活の中に生まれ落ちてしまったことであって。そのため、ぼくは自由を渇望しながら、それが叶えられないために、神経を患った。(思えば、ぼくの神経が異常を来したことと、日本教育の集団生活とは無関係ではあるまい)

と、考えることができる。

しかしぼくは最近になって自由のしっぽをつかんだような気がするのだ。それは結局、自分自身に隷属するということだ。会社でも、親でも、恋人でもなく、自分自身が自分自身の奴隷であるということ。これはなかなかできることではない。たぶん人間の九割は「だれかのため」・「なにかのため」に人生を空費している。
最も孤独なもの、最も隠れた者、最も脱俗的な者、善悪の彼岸にあって自分の徳の主人であり、ありあまる意志を持つものこそ、最も偉大なものであるべきである。(ニーチェ)
ぼくの人生は傍目から見れば破滅である。そこそこの知能、そこそこの幸運に恵まれながら、すべてを捨て去って……。ぼくはたぶん険しい道を行くだろう。たとえば、就職なんてしないで海外に財産も持たずに出てしまうかもしれない?野宿を繰り返して、ホームレスの仲間入りをするかもしれない?

ともかく、普通の道……暖かい、色とりどりで、それだけに欺瞞に満ちた世界はぼくの肌に合わない。

ぼくはたぶん、海外に行くことになるだろう。これは意志や願望というよりは、予感なのだけど……。(しかし「確実にくる未来」は必ず、予感という形で現れる)ニューヨーク?パリ?あるいは、ニューデリーでもいいのだが……。日本はちょっと……でも最終的には、日本に戻ってくるだろう。どうしたって、四半世紀過ごした国だ。

海外に行くのは、1年後か10年後かわからない。期間も数ヶ月か、10年かわからないが……。



ところで、ぼくの文章を書くスタイルは日によってまちまちなのだが、もはや、「これを訴えたい」とか「上手く書こう」という意志すらなくなってしまった。まあ、これも自由に書くということなのだろう。

例えばちまたでは、「女に好かれるための25の方法」だとか、「海外旅行で気をつけたい10のこと」みたいなタイトルが主流である。これはわかりやすくて、実に良い。コーラの缶には「Cola」と書いてあって欲しいと思う。栄養ドリンクの栄養素を知りたいと思う。だから、好ましい書き方なのだが、しかしぼくの書きたいものとはまったく正反対だろうな、と思う。

ぼくが書きたいものは商品ではなくて、ひとつの芸術なのだ。

しかし、芸術とはね?笑わせるよ。技巧も経験もないくせに。

とにかく、ぼくはこのブログを続けたいと思う。いまは書くことと読むこと、これに人生を費やしたい。

女がすべて離れていってしまった。

気づけば女というものと無縁な生活を送っている。

二人の肉体関係のあった女とは、「いつか飲もう」と言った切り終わった。たぶんその「いつか」は永遠にこないだろう。

ぼくを求めてきた女が一人いたが、二週間連絡を無視していたら、返事がこなくなった。

逆にぼくが関心があった女のひとりは、明らかにぼくから身を引こうとしている。もうひとりは、多少ぼくのことを好いているみたいだが……。けっこう、彼氏への愛情がしっかりしている女なのでデートすら無理だろう。

というわけで、セックスもなく、デートもなく……。孤独の道を歩んでいる。

恋愛経験はさほど豊富ではないがいくつか学んだことはある。女は常にドラマのなかにいたがるということ。女は一度幻滅した男には二度と振り返らないということ。

女のドラマ性について。これは女にモテる最重要要素である。
ソープオペラなんて言葉もあるが、女はドラマが大好きな生き物である。彼女たちが求めているのは、人間ではない。自分に愛情を注ぐ「登場人物」あるいは「舞台装置」である。ぼくたち男性がモテようと思うのなら、決して自己の内面を露呈してはならない。登場人物になりきることである。
恥ずかしいので詳細は書かないが「理想的草食系男子」になりきることによってぼくは成果を上げている。少しだけ。

生身の人間である以上演じきることは不可能であり、そのためぼくの恋愛のスパンは非常に短い。しかし、そうでなければこんな神経症の人間を愛する人はいないだろう。「本心を好いてくれる人間なんているわけがない」。そういうものだ。親でさえ、ぼくの本心を理解することは無理だろう。みな、美しいペルソナを愛し、そこに人間を認めたがらない。現代社会はそういったものだ。

女の幻滅について。男はすべて「引き際」を見極める能力に欠いている……。
女が連絡をよこさなくなったり、距離を置こうという態度が見えたら、もうその女のことは諦めるべきだ。文豪はよく「恋愛は短い痙攣だ」と言うが、そう、恋愛は短いものだ。一度幻滅させてしまったら大人しく身を引こう。もう全ては終わったことなのだ。

以上自戒を含めた恋愛論。いくら女にモテる方法を書いても彼女ひとりもいないぼくが何を言えよう。マレーシアに行ったときに現地で会った日本人に「女難の相があるね」と言われたのが引っかかっている。

すごく気持ち悪いことを言おう。ぼくはできる限り、セックスしたいと思う。もう少しやんわり言えば、放蕩したいと思う。
放蕩者の生活が聖者の生活へのいちばん近い道のひとつでありうる。(「知と愛」 / ヘッセ)
とね。肉体的欲求は正直、あまりない。ただ純粋なセックスを求めたいと思う。所有欲だとか、支配欲の絡んだセックスは最悪の類のものである。生の冒涜だ。全てから解放されたセックスをしたい。性欲のためだけの性交。食欲のためだけの食事と同様の、純粋な行為をぼくは求める。

ぼくは十分年を食った。年の功というか、二十歳の頃と違うことは、もはや集団や社会というものを振り返らなくなったということだ(だから上記のようなアホなこともマジメな顔で言える)。つまり自己がどんどんと膨張してきて、社会は片隅に追いやられている。この状態が実存だとか自己実現といったものだろうとぼくは思っている。

からあげベント

今日は一日イライラしていた。どうも精神があるべきところに収まっていない感覚。この分裂した気分はぼくにとって珍しいことじゃない。ひと月が三十日だとしたらたぶん十日くらいはこんなもんである。

この感覚を子細に解説するとすれば……。ぼくがトイレに行くにしても、飯を食うにしても、ドフトエフスキーを読むにしても、絶えず「え、ほんとに?ほんとにそれをするの?」と聞く子どもがいるような感覚である。

ぼくがからあげ弁当を頼もうとすれば……「ほんとにからあげ弁当でいいの?カップラーメンの方が安上がりだし……そもそも、食べる必要はあるの?ほんとにお腹、空いているの?」と聞いてくる……。

こうした幼児的、懐疑的、停滞的自己の存在はぼくの生活を阻害する。彼の言うことを逐一聞くとしたら? 一歩も進めずに、マロニエの根がマロニエの根以上の存在に見える(存在が存在をやめてしまう)ということになりかねない……。だからぼくは彼が見えない振りをする。

ああ、いいんだよ!俺はからあげ弁当を食べるんだよ!十三時になったらな!いつもそうしてきたし、からあげは好きなんだよ!黙ってろ、クソガキ!

しかし、無視ばかりもしていられない。こうした子どもが出てくるということは、何かが間違っているのだ。ぼくは精神の警告を無視し続けるわけにはいかない。

なにしろ、そのときからあげ弁当を選択したことが本当に正しいかはわからない。ただ習慣がぼくを正当化せしめている。からあげ弁当、500円……。値札と、色とりどりの安心できる食材たちが「私は正しい選択肢だ」と主張している……。なぜ、安心できる?たぶん全国にこのからあげ弁当はあるし、ぼくと同じように十三時にからあげ弁当を食べるひとは何千人かいるという事実。

ぼくはからあげ弁当を選択したんだろうか。からあげ弁当に食べさせられているのではないか?あるいは、だれかに/なにかにからあげ弁当を食べさせられているのではないか。
狂気じみているが、ありえないことではない。ひとつの命題が浮かびあがってくる。「ぼくは本当に自由なのか?」

この社会は完全ではない。たぶん数千年後の人間からしてみれば、「彼らはなんて不幸なんだ。何もかも間違いの生活を送っている。」ということになるだろう。ぼくらは西暦1000年頃の人びとの生活を見ることができるとしたら、腹を抱えて笑うだろう。車もない、医療もない、文化も原始的で、迷信がはびこっている……。しかしぼくらは千年後の未来人に笑われるし、彼らも二千年後の未来人の失笑を買うのだ。

社会が、集団があるところに誤謬がある。
これまで群衆が、真実を渇望したことはなかった。群衆は、自分らの気に入らぬ明白な事実の前では、身をかわして、むしろ誤謬でも魅力があるならば、それを神のように崇めようとする。(「群衆真理」/ ギュスタフ・ル・ボン)

今日は疲れているので、さっさとまとめてしまいたい。
この妖怪を消す方法はいくらか存在する。ひとつは大自然の中に身を埋めること……。たとえば深い山中にテントを張って一晩過ごすと、いつの間にか消えている。自然には選択なんてない。すべてが自明で、あるべきところに「収まっている」のが自然だ。人工的にゆがめられた公園であっても、樹木や昆虫は全く何も疑わずにすべてが正しい形で機能している。ただ人間だけが間違っている。「選択」や「自由」なんて下賤で不確かなものはない。

森や川など大自然の自明性のなかに沈湎することが治療法の一つだ。つまり自由なんてないという結論。

もうひとつは、ひたすら音楽の基礎練習を反復することだ……。しかし、これは音楽でなくてもいい。これは、さまざまな宗教の詠唱と似た意味を持つ。

ちょっと酔いが回ってきたので寝る。てんでだめな文章だ。少し眠らなくては。

8.22.2014

Aが学校に来ない

数日前からある知人(Aとしよう)が大学から消えた。無断欠席である。みんなAの不在を不審がっていた。が、「平常運転だろ」と揶揄する声も聞こえた。

彼は有名進学校の出身で医師一家の天才でありながら石のように寡黙で神経質な学生である。成績は悪いが非常に頭が切れる人間でぼくも一目置いていた。彼は授業態度がすこぶる悪く数日消えるくらいはよくあることだった。「進学できるのが奇跡」とも言われていた。

ある女がぼくの手を引っ張って言う、「相談したいことがある」と。彼女はAの元カノだった。彼女の話を聞いてみると、彼が学校から消える直前に連絡をとっていたという。一年近く連絡を全く交わさなかった彼らだが、唐突に彼から「一緒に帰らないか?」というメッセージがきたという。そして、彼女は用事があったので断った。それから彼はまったく学校に来なくなった……というわけだ。

「あたしすっごく罪悪感感じちゃって。私のせいなのかなあ」

まあ、女というものは常に架空の舞台を作りたがるものだ!女にはわからないかもしれない、男の気持ちというものは。ぼくはといえば石のようにだんまりを決めたAの、予想外の人間らしさに共感して思わず笑ってしまった。

「憂鬱にかられて、元カノに連絡する」とは、惨めな男のすることである。しかし、藁にもすがりたくなる、その気持ちはわかる。ましてやAのような、真の天才肌の人間にとって憂鬱はつきものであって、その憂鬱の深さも底知れない。なぜかはわからないが、医師や芸術家の家系というのはそういう憂鬱の発作を受け継いでいるものである。鉄面皮のAを女にすがらせるような憂鬱の深遠が彼に存在したこと、これがぼくには少し嬉しかった。
(彼はこれまでまったくそういう素振りを見せなかった!ただの「怠け者」で通していた。これは貴族的な態度だと思う)

さて、彼は今、絶望の海でもがき苦しんでいるわけだ。ぼくは平静としている。ぼくにだって、そういう憂鬱の波はあるのだが、少なくとも今は大丈夫だ。ぼくがいつか味わったのと似たような苦しみを彼も味わっている。極めて個人的な、憂鬱の発作を彼も耐えている、と思うこと。これがぼくには、少し愉快で、暖かい気持ちになる。

これは不思議なことだ。性欲などまるでないような聖人的人物が、歓楽街の風俗店に消えていくのを見たときのような妙な高揚がある。けっきょく、そういう風に生まれついているのだろう、天才というものは。いくら隠してもほころびが見えるものだ。人生に苦しみ、憂鬱に反吐を吐きながら、生きていくようにできている。

鋭敏な神経

それで?

昨日ぼくはひとつの結論を見つけた。結局のところ……苦痛の閾の問題なのだ。神経症者は小さな苦痛、刺激、不幸に敏感であるということ。小さな物音でも眠れないということ。そしてその鋭敏な神経こそが、哲学者を形作り、芸術家の作品を生みだしているということ。部屋中に牛乳瓶をしきつめて騒音と光を閉ざしていた作家はだれだっけ……。
まあそんなものだろう。絵画の細かい文脈やニュアンスをつかめない人は、どうしたってボールを追いかけている方が楽しいものだ。

ソレデ。

神経過敏の人間はどう生きるべきか。

ぼくらは圧倒的に苦痛だらけの人生に直面している。普通の人が笑って生きている快適で平和な世の中にあって、ぼくらは眉をしかめ、吐き気と戦って生きている。孤独だ。だから何かに救いを求めて生きてきたわけだ。
どうやらぼくらは狂気とすれすれのところを生きねばならないらしい。ニジンスキーもゴッホもニーチェも発狂したわけで……。ともすれば踏みはずして狂気の闇に転落しかねない。精神は天動説だ。集団社会から離れた人間に待っているのは未知の世界と奈落の崖。

ゴッホもニジンスキーも知らなかったことだが……。こうした性質は治しようがないということ、そしてこの鋭敏な神経が創作の源泉になるということ。これは知っていて損はないだろう。さすがに哲学の天才ニーチェはこのことを知っていた。
この苦痛は……われわれ哲学者を駆り立てて、自己の最深部まで下降させ、同時に、今までわれわれが自分の人間性を据える土台としてきたすべての信頼と善良さをみずから剥奪させる。このような苦痛が果たして人間を改善するかは知らぬ。が、それが人間を深化させることは確かだ(「悦ばしき知識」)
で、もうこうした敏感な神経は治しようがないです。脳みそを入れ替えない限りは。何しろこの「苦痛の閾」は生後すぐにわかることなんでして。病院の新生児室でも、泣きじゃくる赤ん坊とすやすや眠っている赤ん坊がいる。そして三つ子の魂百までよりもっとひどくて、生まれたときからこの「閾」は変わらないことがたぶん明らかになっている。もしかしたら、精子や卵子の段階で決定しているのかもしれない。もうこれは運命だと受け入れるべきなんですね。

ぼくらのこの脳みそは病的なのか、欠陥なのかはわからない。しかし言えることは、古来から多くの人間がこの神経をもって生まれてきていたということ……。大げさに言えば、仏陀やキリストやムハンマドはこっち側の人間だ。じゃ、彼らは欠陥者なのか?神の失敗作なのか?……なんて言ったら殺されるだろう。

どんな社会にあっても人口比1%の人間は統合失調症を発症するが、古来では統合失調症患者はシャーマン的な扱いを受けていた。霊の世界と人間の世界の媒介者として必要とされていたわけだ。今では治療すべき「病人」であり、薬物治療の対象だが……。まあ、精神異常は必ずしもマイナスにはたらくわけではないのだ。とらえ方次第では「gifted」と言えなくもない。

ぼくらは、だれを目標に生きれば良いのか。おそらく、それは父母ではないだろう。友人でもないだろう。会社社長とか、金持ち、政治家のような社会的成功者ではないだろう。ぼくらが目指すべきは、たぶん作家、芸術家、宗教家。

うーん、例えばヘッセとか?ガンジーとか?あの辺りの、成功している人間……。偉大な業績をもたらしながら、狂気に終わらなかった人間を目指すべきだと思う。「俺はゴッホになる」と言う人がいればそれはそれでいいと思うが。
われわれはゴッホもロレンスもともに失敗したことを知っており、この失敗の理由のひとつは……つまり、劣等意識とも言うべきものを生むあの無自覚がそれである。(「アウトサイダー」コリン・ウィルソン)
自信をもって生きればたぶん成功するだろう。とは言っても、アルジュナ曰く、「成功と失敗は平等」だから……。「成功した途端にダメになる」芸術家なんていくらでもいる。

ゴッホやニジンスキーのように、地獄の業火に焼かれるような生き方もぼくはありだと思う。自分がなりたいかといえば難しいが。

8.21.2014

コリン・ウィルソン「アウトサイダー」

コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」を読んでいる。まだ中途だが、こいつはバツグンの一冊だ。

ゴッホやヘッセ、カミュやサルトル、ドフトエフスキーやニーチェに至るまで近代思想史を彩る天才たちを「アウトサイダー」とし、彼らの生態を明らかにするちょっとした体系的病跡学とも言える書。
ちなみにぼくは上記偉人たちはみんな大好きだ。並ならぬシンパシーを感じる。

コリン・ウィルソンがこれを書いたのは驚くべきことに24歳のとき。ぼくより年下だ。彼は16歳のときから図書館に籠もりきりだったと言う。そして、夜は野宿、昼は大英博物館で独学・執筆活動をしていたという。(けっこう良い生活だ)

なかでも感心した内容は、コリンがアメリカ心理学の祖父ウィリアム・ジェイムズを引用した部分である。
最近の心理学では……人間の意識一般について閾ということが言われているが、これは、人間の注意を喚起するに必要な、騒音や圧力などの刺激の量を表している。高い閾をもった人は、低い閾をもった人が即座に目覚めてしまうほどの騒音のなかでも目覚め続ける……
……苦痛の閾の一方の側に平素住んでいるものは、他の側に平素住んでいるものとは異なった種類の宗教を必要とする、というふうに思われないだろうか?
こう引用したコリンは続けて
これこそ、われわれの「アウトサイダー」研究が知らず知らずのうちに近づきつつあった問題なのである。「アウトサイダー」を探求すればするほど、彼は変わり種ではなく、「楽観的で健康な精神の持ち主」よりもただ敏感であるにすぎぬという結論がはっきりしてくる。 
ここはまったくぼくも同意なのである。つまり芸術や哲学に魅入られる人間「アウトサイダー」は、普通思われているように高尚な精神をもっているからではなく、ただ鋭敏な神経をもっているだけなのである。ぼくは四月にこう書いた
スーザンケインという人が著書「内向型人間の時代」のなかで、このように書いていた。「ひとは内向性、外向性で区別することができるが、その性質は乳児から決まっている。ある刺激に対し、無反応だった乳児は外向的に育ち、反応を示した乳児は成長後も内向的である。」われわれには個々人にVolumeのつまみがあり、それは先天的なもので、ハンダで固定されてしまっているのだ。
これとまったく同じ。神経が敏感か、そうでないか、そのつまみ次第で我々の人格果ては人生、運命まで変わってしまう。ユングの言った内向型、外向型もこうした神経の感受性の違いに依るものだろう(もちろんアウトサイダーは内向型)。

抑鬱は友達ィ!

おはようございます。

ぼくは大体、六時にアラームをかけて七時からこうして何かを書く。そして八時に学校へ行き、そこから始業までは読書の時間。


昨日はさんざん失恋の痛みを味わっておきながら、夜ばっちりとその子の夢を見たらどうでもよくなった(一緒にマレーシアをデートしていた)。夢に見るということは、気持ちの整理がついたということだろう。


幸福を求めるところに不幸がある。不幸は真で、幸福は偽である。不自由が真で、自由は偽である。ぼくがここ数年で学んだことと言えばこれくらい。人間の本質は不幸である。生まれたくて生まれたわけではないし、死にたくて死ぬわけではない。でも、みんな生まれてしまったし、そして死ぬ。


同じように「ぼくら現代人は、自由です!」なんて言ってる奴はお花畑だろう。いや、職業選択や宗教選択など、与えられた自由で満足しているならそれでもいいが……。ぼくが単なる「鉄」という人間であってチンギス・ハンでも織田信長でもダルビッシュ有でも15歳の敏感な少女でもないという意味での不自由。自分が自分として生きなければならないという不自由、これを考えると人間というのは押し並べて不自由なのだと思う。


ぼくだって、自分が望んで自分であるわけではない。こんな神経症で覇気のない根気のない人間は、はずれくじを引いたと言うこともできよう。そんなことはない……未来の自分の可能性はいくらでも変えられる!とビジネス書みたいな暑苦しく息巻く奴もいるだろうが、ぼくはそんなことはなくて、そんなことはむしろ遠回りで、ぼくの内奥の精神が「それはイヤ」と言えば「はいそうですか」と投げだして、「それスキ」と言えば全力でゲットするような、ぼくの理性はそんな自己の恭順な奴隷である。


人間がもともと不幸で不自由であると知っていれば、世の中を生きることはグッと楽になる。「人生かくなるもの」と認識していれば絶望する必要はない。

昨日は、「人生ってこんなに辛いものなんだ!」と今更ながら感じた。ひさしぶりの鬱の波だった。しかしその波も、一日過ぎれば通りすぎた。たぶん今後なんどもこういうことはあるだろう。

人生は苦しむことによって豊かになると思っている。ぼくは抑鬱状態になってそれに酩酊しても、「自殺しよう」と思わない。なぜかはわからない。小学生頃から情緒不安定で、精神の危機を何度も迎えたが、ぼくは何かしらにしがみついてあくまで生きることを望んだ。友人たちは、手首にカッターナイフを当てたり(手首どころか全身に、という奴もいた)、タナトスに魅入られたようなポエムを書いていたが、ぼくはただ泣いて、泣き疲れたら寝て、そしてまた起きた。


まあ意外と図太いところがあるのかもしれない。神経症である人間は、躁鬱病の気質とは別だと思っている。神経症的な人間は、感情を平板化する術に長けているとぼくは思っている。(躁鬱病は逆だ。感情がどんどん膨れあがって、人格を支配してしまう)


だから今日も、淡々と読書をしに学校へ行くし、教授に愛想を振りまくし、にこにこと仕事をする。

8.20.2014

freaks

とりとめもなく、書く。もはや書くこと以外欲することはない。何かを表現したいわけでもない、ただ書きたいから書いている。まあ、日記だしね。

今日は一日憂鬱だった。昔好きだった女を久しぶりに見かけたからだ。……ああ、こう書くと一気にくだらなくなった。しかし当人からしてみれば、失恋の痛手は大きい。なんてことのない女であることは重々承知している。ぼくの悩みが陳腐であることも知っている。しかし、恋愛とは常に病気であるので、その苦しみは当人でしかわからない。

それで一日憂鬱だった、友人たちに冗談を振りまいて、大きな声で笑いながらも……それは寂しいからだ。寂しいから笑っているのだ。ぼくは俗世を軽蔑していながら、そのときだけは俗世の持っている温かみにすがる。

じわじわ、じわじわと、鬱の圧力が加わってきて、脳みそを麻痺させてくる。で、ついには完全な「鬱モード」に移行する。この抑鬱の見事なグラデーションは、むしろ人間の防衛機制ではないのかとすら思う。妙にあたたかく心地よいのだ。

この感覚は過去に何回も味わったから、懐かしさすら感じる。15歳頃は週に五日は来ていたし、最近では月に二、三度というところだが、この鬱が到来する毎に人生にピリオドが打たれたような気分で気持ちいい。人生にリズムの彩りが加わるのだ。

そして、その抑鬱の海に身を沈めること、これもまた気持ちよい。苦痛に悶え苦しむ自分の湧きで、ああ、人生の味ってこうだったよな……と。こうだった、こうだった!これが人生だ!とね。帰ってきたぞ、俺は、生きている、ちゃんとした世界に帰ってきたのだ……と暢気に喜ぶ自分もいるのだ。

結局のところ、ぼくは女なんて手に入れられないのだろう。結婚も無理、だろう。少なくとも「幸福な」結婚は。それは確定事項であって変えられない。なぜならたぶん、愛することができないから。まあ、「そういうものだ」と思ってしまえば、人間なんでも乗り切っていける。

Aimee Mannの"Save Me"のフレーズを引用する。

Come on and save me...
If you could save me,
From the ranks of the freaks,
Who suspect they could never love anyone.
ねえ 私を救って / 自分は誰も愛することができないのかも知れないと疑っている / 奇妙な変人たちの隊列から / 私を救えるのなら・・・

エイミーも入っているし(あの神経質そうな顔立ち!)、ぼくも入っているこの隊列。たぶん安吾や太宰も入っているだろう。太宰が女と入水自殺したとき、安吾は言った。「元々、本当に女に惚れるなどゝいうことは、芸道の人には、できないものである。芸道とは、そういう鬼だけの棲むところだ。」(しかし入水自殺とはロマンティックで、太宰らしい)
そして当然、「ムルソー」や「ロカンタン」もそうだろう。

「地獄とは何を言うのだろうか?わたしの意見では、それは愛することのできぬ苦しみにほかならず、この地獄には永遠の時間も要らない。一日、いや一瞬間ですら十分なのだ」(カラマーゾフの兄弟)

芸術の慰みとは、教養の慰みとは、そういうものだ。私と似たような"freaks"がいたのだ。そしてその"鬼"は、無軌道に生きているように見えて、実はきちんと役割を持っていた。そして凡庸な幸福者には達成できぬ偉業をなしえたのだ。……こう思うこと、これが最大の慰みになる。

なぜって、ぼくら「不器用な人間」「逸脱した人間」の味わう人生の痛みが、もはや何の意味も持っていないとしたら?

ぼくらの苦しみは単なる「錯誤」であり、「欠陥」に因るものであり、苦しんだらそれだけで終わるものだとしたら?

きっと人生に悲観して、太宰のように美しくもなく、ただ単に命を絶つだろう。それは絶命のための絶命。ある部屋から別の部屋に移動するような、単純な意味での絶命。

そうして命を絶つ人は現代日本にいくらでもいる。これは悲しいことだ。ぼくにできることと言えば……そういう錯誤から一人でも救うことだと、僭越ながら思っている。一筋の光を照らしてあげること……。

まあ、ぼくはただのつまらない人間だ。ただアルコールとカフェインとニコチンと神経症と過去のトラウマがぼくに筆を握らせる。ほんと、ぼくはくだらない人間です。でも、書きたい。

タナトフォビック・デイ

俺は朝からリンゴを食べ過ぎたように嬉しい」という戦没学生の言葉が耳に貼り付いてる。



ぼくは一歩ずつ進んでいるのかあるいは退歩しているのか。いずれにせよ年齢だけがぼくと確実に連れ添ってくれるものである。加齢とともに「死に近づいている」という実感は昔は恐怖だったが、今では少しありがたいものでさえあると思う。

人間、まず第一にしなければいけないことは自分の死を見つめることだ。今際の際になって「こんなはずじゃなかった」「死ぬなんて聞いてないよ」なんて思わないように……。

ぼくたちは必ず死ぬ、それは半世紀後かもしれないし、今日かもしれない。そしてだれもぼくらと一緒に死んではくれない。生まれたときと同じように、死ぬときは独りだ。「君の代わりに死ぬよ」なんていうコルベ神父のような人は普通いない。そして、ひとは必ず死ぬ。必定だ。この世に絶対があるとすれば、ぼくらは近い将来「死ぬ」ということである。

なるほどこの生は死ぬための準備と言ってもいいかもしれない。

死を見つめることは辛く苦しいことだ、どうしてこの肉体が果て無に帰さなければならないのか。あんまりじゃないか。勝手にぽんと産まれだされて、目を開いてみれば死の十字架を背負っている。

だから現代には死から目を逸らすようなものがたくさんある。会社、社交、政治、新聞、テレビ、漫画、性風俗、などなど。でも、いざ死ぬとなったらすべて他愛のないものだろう。

「あれをしておけばよかった、これもしておけばよかった」

と死ぬのだけは勘弁だ。

われわれは幸福になりたいと願う。だからだれしも幸福を求めて奔走する。ただ、幸福の形はまったくひとそれぞれ違う。これほど認識が個々人でずれている概念も珍しい。

ある人は安定した仕事、ある人は刺激的な仕事に没頭することに幸福を見出す。ある人は権力を追求することに幸福を感じ、ある人は全てを知ることを求め、ある人はたくさんの友人や暖かい家族に幸福を見出す。

どれが正しいとはぼくには言えないが……。ロールモデル的な幸福ばかりでないことは知っておきたいものだ。保険のテレビCMでやるような円満な熟年夫婦……だけが幸福ではないということだ。

死の優れた点……。われわれは死を前にして平等である。だれもが死ぬ。総理大臣も掃除夫も、平等に死ぬ。世の中にこれほど平等なことはないかもしれない。だから創造の源泉が死にあるとすれば、その創作は万人の心を打ち振るわせることができるとぼくは秘かに思っている。

8.19.2014

「ミスティック・リバー」を解釈する

ちょっとした機会があり、映画「ミスティック・リバー」を見た。優れた作品だと感じる。(細かいところは端折るので、以下は観た人向けです。)

ところで、あの中のデイブはまさにぼくである。生きるのに不器用で、社会の下層にあり、根暗、陰湿な男。まったく共感してしまったよ……。

少年期にトラウマを抱えていて、そしてギャングの友人ジミーに殺人の嫌疑をかけられるも、「死にたくなければ認めろ」と言われ、信念を貫けず屈服する(そして射殺される)。徹底的な弱者、デイブ。(あそこまで徹底した弱者の描写をされると「身も蓋もないなあ」という気がするが)

最初、あの映画では三つの世界に別れていると思っていた。ジミー(元犯罪社会の人間)に象徴される「力」の世界。ショーン(刑事)に象徴される「秩序」の世界。そして「アウトサイダー」のデイブ。

しかしデイブを「弱者」の象徴とする考え方があって、そちらの方が正しいと感じた。なにも、デイブが変態をひとり殺したからといって、(あるいはブレンダンの父親が強盗を働いたとして)彼らが弱者であることに変わりはない。弱者=アウトサイダーなのだ。

こうなると、世界は三つの世界から一元的になる。強者ジミーと弱者デイブの構築する「力」の世界と、それから距離をおき傍観するショーンの世界。「この映画は政治をモチーフにしている」という論評を見て、この確信を強めた。政治では力が全てだから。

結局デイブを殺したジミーはお咎めなしである。刑事であるショーンが全てを知っているのにも関わらずだ。弱者がひとり消えた、それが何だっていうんだ?という投げやりな提議とも解釈できる。

ラストシーンでは、ショーンが指鉄砲を作り、ジミーを殺すジェスチャーをする。これは二通りに解釈できる。ひとつはショーンがいつかジミーを逮捕するという象徴、もうひとつは拳銃ではなく指鉄砲しかショーンに向けられないという傍観者の無力さ……。(言うまでもなくここで傍観者とはぼくたち大多数の視聴者を指している)

まあ、ジミーがすでにブレンダンの父親を「ミスティック・リバー」に沈めたことをショーンは知っていたのであり、それに対し追求もせず平然としているところを見ると、後者の方が正しそうである。傍観者は常に「弱者を助けなければ、なんとかせねば」とうろちょろ動き回るが、結局強者に相対すると何もできないのだ。

あるいは、上のふたつの解釈はどちらも正しい両義的な象徴という解釈もできる。今は強者に何もできないが、いつかしっぺ返しを食うぞ、と。

因果応報――つまりカルマが、この映画のテーマのひとつであることは容易にわかると思う。「ミスティック・リバー(神秘の川)」という言葉を聞いてまず浮かぶのはガンジス川だ。このミスティック・リバーにジミーもブレンダンの父親も沈められた。ガンジス川はカルマを浄化する。であるから、犯罪を繰り返してきたブレンダンの父親も、変質者を殴り殺したジミーも、その罪はミスティックリバーによって浄化されたと考えることができる。

そして「強者故に」罪が浄化されないジミーは、因果応報の宿命を受ける。映画中では、カルマによって娘を殺された(ブレンダンの父親を殺したら、ブレンダンの子どもに娘を殺された)。そしてデイブを殺した次にはたぶん嫁が殺されるんではないかと思う。それはたぶん、ジミーの息子によって……?ここまで行くと深読みだが。しかしやけに仲の良いジミー親子の描写や母親の今後の苦労を暗示するような描写からするとたぶんそういう筋だろう。

ともあれ、あの映画、一度見ただけでは掴み切れないものがある。それだけ示唆に富んだ映画である。エンターテイメントとして見ると二流だが、あとあと反芻するとそこから得るものがすごく多い。よくできた映画だ。

8.18.2014

25歳から音楽を志した知人

ダリよりもゴッホが好きである。



25歳から音楽を志した知人は25歳までSEとして働いていたのだが「昔から音楽好きだったやん俺」ってことで音楽家に転向したらしい。すばらしいことだし、ぼくと似ている。現在彼は27歳。

でも彼は「自分の中の眠れる音楽家を取り戻したのだ!」とか「俺は自分が大好きだ。自分のしたいことをしているから」って息巻いている。自分のことを「私の愛しいホームパイ」だの何だの呼称していて、大変自己愛が強いらしい。

これが何か気持ち悪いっていうか。いや、ぼくも自己愛は相当強い方だし、自分は天才だと思ってるし、自分は大成すると思っているが、ちょっと彼は違うなと思う。彼を見ているともう一つの迷妄に陥っているとしか思えない。

というのもぼくは芸術家の正しい姿勢は苦しむことだと思っているので、彼のように、「ああ、音楽家になったぼくはすばらしいなあ」「会社辞めて自分の好きなように生きて良かったなあ」と思っている人間は、決して芸術家向きではないと思うのだ。

彼はどうも自由には見えない、というのが本音である。彼は会社に入っていたときの自分は、「本当に自分のしたいことを押し隠してきて生きてきた」って言うけれども、今度は彼は「本当にしたいことをしている自分」という新しい足かせを手に入れただけのようにしか見えない。結局、それは不自由の沼である。

その証拠に今ではほとんど音楽活動をしておらず、夢を叶える事業的なことをやっているらしい(よくわからないが講演などしているらしい)。彼は作曲しているようだしその曲も自由に聴くことができるがその音楽の価値はぼくにはわからない。しかし確かに彼のブログを見ていると芸術家よりも起業家が向いていると思う。なんか頭の中がビジネス書的なので……。

彼は実際に個人事業者として、現段階は成功しているし、ぼくのようなちっぽけな虫けらが何を言おうと「ひがみだろ」と言われそうだが、ぼくの言っていることは正しいと思う。何か知性に欠けるのだ。ぼくは芸術は知性の営みでなければいけないと思っている。だから誤謬、錯誤、怠惰のある芸術家は大嫌いだ。

彼の根本的な誤りは……会社を辞めて音楽家になったことが決して幸福の道ではない、ということである。だから彼の「ぼくは幸福だ」という感情が嘘くさいのだ。「なんで俺は会社辞めちまったんだ……ぐぬぬ。家賃払えない」とむせび泣いた方が本当だと思う。


ところで1986年生まれに何かと縁が多い。楽しそうなブログを見つけると大抵1986年生まれだ。インドで暮らしている人とか、詩人になった人、NPOで活動している人、いろいろいるけど、みんなそれぞれちゃんと自分の人生歩んでいるんだなと思う。もうそういう年なのか……。

8.17.2014

自由偏執狂党戯れ言演説

ナースが聞いた「死ぬ前に語られる後悔」トップ5 
1. 「自分自身に忠実に生きれば良かった」
2. 「あんなに一生懸命働かなくても良かった」
3. 「もっと自分の気持ちを表す勇気を持てば良かった」
4. 「友人関係を続けていれば良かった」
5. 「自分をもっと幸せにしてあげればよかった」 
自由に生きよう。

自分自身というものは、どうやら思った以上に傲慢であって、自分本来の欲求にそぐわない方向に理性が進もうとすると、強引に軌道修正する。帰ってこい。お前の道はそちらではない……、と。この力はあまりに強大で(というより恐ろしいほど持続的で)、だからこの自分自身の欲求を退けることはたぶん無益であり、貴重な人生の時間をロスする結果となる。

だからぼくらにできる最短の道は、自分自身に自由にさせてあげることである。自分自身の欲求に忠実であることである。君本来の自己が、砂場遊びが好きだったら存分にさせてあげることだ。庭に砂を撒いても、深夜の公園でもいい。気の済むまで砂遊びをさせてあげる。君の本心が、レンガや岩を欲しがったら、与えてやる……。君はバカげている、と思うかもしれないが、いつの間にか君はSEではなく建築家になっているかもしれない。そして、SEよりも建築家の方が幸福で実り多い人生を送れるかもしれないのだ。

いろいろな人間が自分の職業だとか、結婚のような人生の決断事を「なんとなく」決めてしまっていることにぼくは驚く。君のその選択は人生を縛ることになるのかもしれないぞ。今、まったく違う方向に進まなければ次第に君の心は渇いてしまって、取り返しのつかないことになる……。

とは思っても、高校選択や大学選択の延長上に職業の選択をしている彼らとは、根本的に意思疎通も不可能なのではないかと思うこともある。君の周りにはもっといろいろある……。芸術家、音楽家、あるいは旅人、詩人。すばらしい職業がきっと……。決して口には出さないが、言えばこう言われるだろう。「現実を見ろよ」

現実?見ているさ。

ぼくのかつて愛したある女の子は、物心ついたときから楽器を触っていた。そして二十数年音楽を練習し続け、左利きであり、彼女と同じクラシック音楽を演奏する友人曰く、彼女は「天才」であった。そんな彼女は学業においても逸出していて、とある一流メーカーに内定を貰ったという。彼女はそこで働くのだとか。

「何年か働いたら、防音室付きの一軒家を買うの」。彼女はそれが夢だと言うが……。

まあ、そんなものかもしれない!人生なんてね。ベートーヴェンみたいな人生よりかは、日の当たる部屋で子どもたちに音楽を教えてた方が幸福じゃないか。そう、そんなものでいいのだ……。

結局、どのように生きても悔いの残るように人生はできているのだろう。自分に忠実に生きることは必ずしも幸福の道ではない。それどころか、普通は茨の道である。しかし真実の道ではあると思う。なぜなら幸福の道は既成品……。ロールモデルである。ぼくの知人は、「友達百人に見守られながら死にたい」と言っていた。ぼくは、正直、失笑してしまった。もうその知人とは一言も交わしたくなかった。

ぼくは死ぬとき後悔するだろうか?
自由に生きられなかった、と内心の魂が叫ぶような人生だけは送りたくないものだ。それだけを規範として人生を歩んでいきたいとすら思う。

野宿・アンド・セックス

野宿してきた。二回目。前回は八月八日に野宿を敢行している

バイクで林道をかけ昇り、その先にある渓流のそばにテントを張る。そして一晩過ごす。それだけのものだが、十分楽しい。
昼は明るく空気は澄んで、夜は暗く恐ろしい。大げさに言ってしまえば人間の原点に立ち返ることができるというか……。

草間彌生の自伝を読んだあとだったので、いろいろ考えることが多かった。キャンプで気ままに流浪の旅というのはヒッピー的である。ヒッピーとはなぜアメリカで増殖したのか。あの「サウスパーク」でこき下ろされている人種は何を考えているのだろうか。ここに女の子を連れてくればヒッピーごっこができそうだと思った。人気が一切ないから、別に全裸になっても構いはしない。

でもキャンプで女の子連れてくるのはしんどいだろうな。バイクの後ろに乗せれば狭いし、荷物は増える、加速は鈍る。リアタイヤが減る。

だいたい女とはキャンプに一切の興味がない生き物だとぼくは思っている。彼女たちが求めるのはシャンパン、給仕、高級フレンチ、ホテルのスイートルーム、百万ドルの夜景であって、渓流のせせらぎや漆黒の闇や自給自足ではない。焚き火で暖めた鯖の缶詰なんて与えた日には「帰りたい」とだだをこねるに違いない。「山ガール」のブームがあるって?それは装飾だ、新しいファッションでしかない、女はいつも装飾する生き物だから。

でも野外セックスなんて気持ちいいだろうなあと思う。暗い寝室で秘めやかにセックスなんてちょっと食傷気味だ。明るい日差しの元で、風と葉擦れと川のせせらぎを聞きながら、草地や岩の上でというのも悪くない……と、悶々とテントの中で過ごしたのだが。

草間彌生はセックスがコンプレックスだった。だから男根を象徴したオブジェを作りに作った。セックスとは、ぼくらの生活を顕在・潜在いずれにしても縛りつけている大きな衝動である。だから、セックスに恐怖を感じることは途方もない葛藤であり、生の否定である。そして病的である。ということはつまり、創造の源泉でもあると思う。草間彌生が勝手気ままにフリーセックスを楽しんでいたらたぶん世界的に有名な画家にはならなかっただろう。

ぼくは男だからあらゆる男と同じようにセックスが好きだが、セックスを怖れる気持ちもある。そもそも、女という生き物が少し怖い。怖くない振りをしているが怖い。根本的にわかり合えないものだという気がする。ぼくの母は離婚後、父とは違う男と再婚しているが、それが原因かもしれない。

女の絵姿ばかりを描く画家というのは女を怖れているのだと思う。彼らの行為は子どもが昆虫を解体するときと似ている。彼らはメスやピンセットの代わりに絵筆でもって女を解剖する。その全てを知りたいが故に、だ。

愚鈍に、なにも考えなければ女とうまくやっていくこともできるだろう。ただ神経質になってしまうとドツボに嵌まる気がする。これまで稚拙な恋愛を繰り返してきたからよくわかる。女を知ろうとすればするほど、女を傷つけてしまうし、遠ざけてしまうのだ。

……野宿の話からセックスに飛んでしまった。まあいくらセックスがタブーでも沈黙する必要はない。何事も考えることは悪くない。

ぼくは食事に秩序を求めるし、バイクにも拘りがある。もちろん偶然の出会いやハプニングも好きだが、女やセックスにも同じように秩序を求めるのである。フリーセックスとはただセックスすればいいというものではないし、女との経験人数が多ければ偉いという消費社会的な風潮もぼくは疑問だ。そのセックスは100円マックと変わらない。セックスにもクオリティを求めよ、ということである。

それにしても日焼け跡が痛い。

8.16.2014

草間彌生「無限の網」を読む

ああ、草間っちすごい。

最近は現代芸術関係の本をよく読んでいる。
現代的に優れたものを作ろうと思ったらまずアートを知ることだと思うからだ。文学より音楽より、まずアート。アートは直情に「現代的」あるいは「進歩的」たらんと意志しているものだから、現代アートを見ればこの後の世の中がわかる。

ウォール街の証券マンは水玉模様で抹殺だ
裸のウォール街証券マンは水玉模様で抹殺だ

草間彌生の自伝である「無限の網」を読む。

ぼくは草間彌生のことをぜんぜん知らなかった。 最初にテレビ見たときは「Oh, 樹木希林すごい髪の色にしたな」くらいに思っていたのである。芸術家であることを知っても、村上隆と同じように、「水玉の人」くらいの認識だった。

ところが自伝を読んでみると本当にすごい人である。その人生も、考え方も、尋常ではない。

芸術家の生涯は美しいと思う。ぼくはいろいろな偉人の生涯を知るのが好きで調べた時期があった。それは病跡学的な興味からだった。彼女の生涯を見てみると、一級の天才のそれである。裕福な生まれ、精神障害、才能ある天才との交流など。

日本から出たいと思い続けていて、フランス大統領に手紙を送ったら返事が来たり、アメリカの著名な女流画家に手紙を送ったら返事が来たりと、すごい少女時代を送っている。そして戦前に渡米し、そこで成功する。

もちろんただで成功したのではない。彼女は無名であり、貧乏な下積み時代があった。魚の頭をゴミ箱から拾ってきてスープにして食べたときもあった。直近に村上隆の本を読んだのでどうしても比較してしまうのだが、彼もコンビニの廃棄弁当を食べていた。
しかし二人とも、アメリカで成功している。「日本の異端は欧米の評価を受ける。日本の本道は欧米の評価を受けない。現代に通じるこの流れを日本人は意識すべきです」と村上は書いていた。

アートだけではない。彼女の生き生きとした文章にびっくりする。表現は力強く、美しく、豊かである。詩も的確な語彙を選んでいてすばらしい。どうしてこんな文章が上手いんだ。あなたは画家でしょ……と訝りながら読み進めると「画家か小説家か迷った」と書いてあって溜飲が下がった。昔から書いていたのだ。「絵ばかり描いてきたけど、ちょっと書いたらいいものできた」という感じだったら、ぼくはその才能にジェラシーを感じていたと思う。
(ちなみに画家は必ずしも文章が上手ではないことは村上隆が教えてくれた……)
(日本は)美術界を牛耳っている体制が前近代的すぎて、頭の古い人が、心を開放するような若い人のユニークな発想を駄目にしてしまっている。世界の先進国の中で、日本は文学と現代芸術が一番遅れている。
現代芸術は心が開かれないと発展してゆかない。だから、日本という国は現代芸術が育ちにくい土壌で、美術はいまだに外国の植民地状態である。
日本は文学と現代芸術が一番遅れている……。確かにそうかもしれない?最近世界で通用するような作家って、村上春樹くらいしかいないような。

最後に草間はこう書いている。
人生は真実素晴らしいとつくづく思い、身体が震えるほど、芸術の世界は尽きることなく興味があり、私にはこの世界しか希望のわく、生きがいのある場所は他にないのだ。そして、そのためにはいかなる苦労をしても悔いはない。私はそのようにこれまで生きてき、これからもそう生きていく。

ところで草間彌生が売れる前の記述は興味深い。その独創性の原点が伺える。
当時はアクション・ペインティングの洪水で、猫も杓子もそれ行けと、このスタイルに飛びつき、またすごい高値で飛ぶように売れていた。しかし私は、自分自身のみの内側から出た独創的な芸術を創作することが、自分の一生を作家として築いていく上で一番大切なことであると考えてきていたので、彼らとは正反対を志向する絵を発表した。 
フランス画家「ヤヨイ、外を見ろ。ベートーヴェンやモーツァルトの音楽を聴きたくはないか。カントやヘーゲルを読め。偉大な者がいっぱいある。こんな無意味なことを、朝晩、数年もやっているなんて!時間の浪費だ」
しかし、水玉の網の呪縛は私を虜にしてしまったのだ。ピカソでもマチスでも何でもこい。私はこの水玉一つで立ち向かってやる。そう考えていたので、聴く耳を持たなかった。
そう、もはやカントもベートーヴェンもマチスもなかった。彼女にあったのは、「水玉」だけ。この記述に、ぼくは打ち震えた!そりゃ成功するわけだ。何しろ、彼女には、水玉しか、なかった。




ヘッセのこの記述を思い出す。

「進んで十字架にかけられた殉教者は、何人もいたさ。しかしその人たちだって、英雄じゃなかった。解放されてはいなかった。やっぱり、何か自分たちにとってなつかしい、なじみのふかいものを、望んだ。手本をもっていた。理想をもっていたのだ。もう運命だけしか望まない人は、手本も理想ももたない。なにひとつしたしいものも、なぐさめになるようなものも、もってはいないのだよ。そうしてほんとうを言えば、人はこの道を行かなければならないわけさ。」(「デミアン」/ヘッセ)

8.15.2014

なぜ、そんな険しい道を行く?

今日は神経症がしんどい一日だった。ひさしぶりに外に出るとこれだ。

今草間彌生の自伝を読んでいるが彼女は完全に統合失調症である。調べたら医者の診断も統合失調症となっている。

ぼくは訳あって統合失調症患者のひどい陽性症状のときを見たことがあるけど、あれはすごいよ、ほんと。「私はこの世界の神だ!」的な突拍子もないことを延々叫び続ける。ヴォキャブラリーのタガが外れていて、「言葉のサラダ」という表現がぴったりだ。

狂気と天才は紙一重……という言葉はアリストテレスの時代から言われているが、ぼくの好きな作家や芸術家も、神経症であるか、躁鬱病か、統合失調症であるかてんかんの患いがある。というか大体の天才はこのいずれかだ。

不思議なことだと思う。なぜ幸福な芸術家は存在しないのだろう。結局のところ、芸術家というのは激しい怒りに燃えている人種なのだとぼくは思っている。怒りこそ芸術のドライビング・フォースである。これは村上隆も言っていたからそういうことなのだろう。

怒り、とは別に特定の人物だとか政治に向けるものではない。そうではなくて、ただ生まれ落ちてきたことの怒り。ドス黒い慟哭である。

そこに人間の真価があると言ってもいいかもしれない。獅子が駆けるとき、鳥が飛ぶときに美しく見えるように、人間は自分の生を怒り、呪うときにいちばん美しい……と、ぼくは思う。

ショーペンハウエルの言ったように「怒りを欠くものは知性を欠く。知性は必ずある種の『鋭さ』を生む」。これは感覚的にもわかりやすいことだ。「俺は生きていて幸せだ」なんて人がいるとすれば、それは「平和ボケ」である。

眼を開いているかぎり、平和に円満ににっこりなんていうわけにはいかない。ユートピアは虚構だからである。知性的であることと幸福であることは違う。違うどころかまったく逆の方向だ。

それにしたって、ぼくらは知性や芸術なんて投げ捨てて平和に生きても良いのではないか。少なくとも、この飽食の時代にあって食いっぱぐれはしない。ぼくらには「健康で文化的な最低限度の生活」が保証されている。大多数の人間と同じように、マイホームで暖かい飯を食べられればそれでいい。ささやかな堡塁を築いて、円満に、穏やかに暮らせばよいのではないか……。

なぜ、そんな険しい道を行く?

なぜ、行かなければならないのだろう。ぼくらは飯を食って子どもを産んでお終いというわけにはいかない。悲しいことに生きるということはそうではないようだ。

ぼくはある日文筆家になることを決意して、その後十日程度なぜ書くのかを深く掘り下げた。その結果わかったことは、自分にしかわからないことがあって、それを世界に公示したいという欲求があることだった。これはなかなかいい線いっている。

芸術家は特別にでかい十字架を背負って生まれてきた。そして特性の責具で毎日苦しんでいる。辛く苦しい生活が何を生むかといえば怒りだ。彼らは怒りに突き動かされている。パッション、エンスージアズムなんてもんの原型はたぶん怒りだろう。

ぼくらは苦しまなければならない。
なぜそうなのか?そうでなくてはならないのか?

「そうでなくてはならないのか? 」"Muss es sein?"
「そうでなくてはならない!」"Es muss sein!"

とまたベートーヴェンのあれ(opus 135 IV)を引用するが。ぼくは本当にこのフレーズが好きだ。ぼくらの苦しみはただの苦しみに終わらない。運命が然りの慰みを与えるのだ。

村上隆の弟子はロリコンだが、それを武器にニューヨークで戦っていて、今では作品がウン百万円で売れることもあるのだとか。
彼は自身の少女愛を恥じ、嫌悪し、秘匿してきたらしい。村上がその性癖をぶちまけた絵を見て、「これはいける」と確信したらしい。たぶん今は彼も自分の性癖に対して「そうでなくてはならない!」と思っているだろう……とぼくは想像する。

「探求を始めるまえ、山は山であり、河は河である。 探求を始めると、山は山でなくなり、河は河でなくなる。 探求が終わると、ふたたび山は山であり、河は河である」 ラーマクリシュナ

8.14.2014

村上隆「芸術起業論」

「芸術起業論」とかいう本を読んだ。表紙が不気味である。髪の毛の一本一本が鮮明でこのときばかりは日本の印刷技術を呪わざるを得ない。

芸術起業論
装丁が不気味である。
これは現代芸術家の村上隆が書いた本。
ぼくは彼の作品をほとんど知らない。唯一知っているとすればあのスーパーサイヤ人風の金髪少年が意気揚々と射精しているような作品くらいだ。あれが何千万円で売れて、ネット界隈が「金持ちの脱税目的だ」と騒いでいたのを覚えている。

なぜ「あんなもの」が数千万円で売れたのか?たまたま馬鹿な金持ちに眼をつけられたのか?そんなことはない。村上流の情熱と戦略があったのである。

彼を見てると芸術家ってリアリストなんだなあと思う。金にここまでづけづけと言及した芸術家はあまりいないだろう。ひたすら金欠に喘いでいる姿しか浮かばない。事実村上も35歳までコンビニの廃棄弁当を漁っていたそうだ。
芸術は「強烈な独創」が基準点で、前人未踏の新しさを世界に提案できるかどうかの勝負だから「唯一の自分」の発見は欠かせません。
心の状況を整備し、心の本音を探索し、心の扉を開け放つ……。そういうリスクの高い行為をしているのが芸術家です。 
というところは共感できるし、励みになる。結局自分をどこまで掘り下げられるかだ。ぼくは別に絵を描こうというわけではないが、芸術という舞台で戦っていこうというのだから、この本は大変勉強になった。

そう、戦っていくのである。芸術作品を創って、わあ楽しいというわけにはいかない。こうなると、形振り構っていられない、とぼくは思うのである。
表現の世界では、みんなが、実現不可能なことに夢をはせては挑戦を続けています。(中略)ぎりぎりまでやらないと、ものが見えてこない世界。集中力と体力がきれたら、すぐに死ぬしかない世界。でも、この世界に入った以上、みんなが望んでいるものはその「実現不可能なもの」なのだから、なんでそこに突っ込んでいかないんだよと思うのです。
ちなみに彼の絵画作品を見ると、やっぱり一流だと思った。射精する少年のフィギュアはしっくりこない。西洋的なセンスで見ればありなのか?

おにゃのこについて。

今日のことを書こう。本当は数人で飲み会をやることになっていたのだがうち二人が都合悪く中止になった。無為な一日である。ぼくはそのツテで女の子を紹介してもらい、現代芸術の企画展に行く予定を立てていたのだが、延期になった。

こうなったらあの女を誘うか?それとも新宿のあの女か。いずれにせよ、ぼくは「現代」に疎いので、現代的である女を引き連れてガイドしてもらいたいのだ。

最近のぼくの心は平明というか、安定化してしまって困っている。もっとぐらついてスリリングな創造力を発揮してもらいたいものだ。やはり外圧や抑圧、あるいは実存の危機!青春のヒビ割れた鏡!みたいな状態にならないと何かを創り出そうという気にならない。今のぼくは、煙草とコーヒーを飲みながらネット麻雀や将棋に明け暮れている。頽廃的だ。

わけても恋愛というのははっきりと実存の危機であるから、ぼくは何とか絶望を味わおうと女に近づき近づきしているのだ。女という生き物は興味深い。ぼくは永遠に結婚できないのではないかと思っている。女との関係が少しでも歪だと、ぼくはそれを壊してしまいたい欲求にかられる。完璧主義者なのだ。女からの愛情に少しでも不信を感じると、ぼくは暴れ出す(DVはしたことはない)。まあ、精神的に子どもなんだろう。未成熟な恋愛しかできない。

ぼくが好む女は、精神に子どもを残しているような奴だ。

そういえば昨日ラインの連絡を放置していた女の子から連絡がきた。何事もなかったかのように、「元気?」ときたもんだ。ぼくは彼女が不憫でならない。一説にはぼくの愛情はあまりに平等すぎるのだという。だから女が、勘違いしてしまうのだとか。ぼくのような人間がいちばん残酷な男なのだろう。ぼくは自分から好いた女以外の女を受け入れたことはない。

昔もこんな風に放置したことがある。彼女は銀行で働く女だった。彼女はぼくを好いていたことが明らかだ、しかし悪いことにぼくも曖昧な返事ばかりしてしまっていた。
ぼくはその子に千円借りていた。放置して数年間この千円を返せ返せと連絡を受けた。たしかに借りた金を返すことは当然である。しかしぼくは学生であり、彼女は社会人である。千円くらい、どうってことないはずだ。ぼくが逆の関係でも千円の貸しなんて忘れるはずだ。
ぼくは彼女が「金」という信用取引に乗じてぼくの注意を惹こうとする態度が透けて見えて、それがすごくむかついたので無視した。本当は千円返しても良かったが、正直、めんどくさかった。あるいは神経質な職業病で千円の損失が耐えられないのかもしれないが、そんな滑稽なことってあるか?

愛情を感じない女の愛情表現はうっとうしいことこの上ない。でも、そんな愛情表現がときに救いになることもある。暗い孤独の中でそうした連絡はぼくの心を照らしてくれる。だからぼくは、「Yes」とも「No」とも言わず、承認欲求をしぼりとってやるのだ。ぼくにとっては希望だが、彼女たちにとっては絶望だ。ぼくは本当に悪い男だと思う。女の敵だ。

……

ポール・オースターの「偶然の音楽」を読んだ。

オースター作品は「孤独の発明」が好きで何度も読んだ。これは小説というより自伝的書である。
この中のオースターの父親、感情を捨て去ったような人物と自分をダブらせていた。
父はけっして自分自身を語らなかった。語るべきことがありうるなんて、考えたこともないように見えた。あたかも父の内面生活が、父自身にさえ捉えられないものであるかのように。
会話をしていても「いつもそこにいない」父親の内部に到達できなかったことは彼を息子として苦悶させそして深く傷つけた。自らを語らないことの罪。自己を提示しないことは他人を締め出すことに等しい。
こんな父親に自分を重ねていたのである。

オースターの作品はブックオフなどで非常に手に入れやすい半面、ぼくは小説に強い魅力を感じないので読まず終いだった。昨夜、暑苦しくて眠れないなかでベッド脇に置いてあった「偶然の音楽」を読んだらおもしろくて一気に引き込まれた。

別に高尚でもないし、良いフレーズがあるわけでもないが、ああ、小説のおもしろさってこうだよな、と思った。映画的な展開のスムーズさ。陳腐な表現だが、次には主人公達がどうなるのか?気になってどんどんページが進む。

しかし個人的には「孤独の発明」の方がずっと好きである。処女作だけあってものすごく癖が強い。まあなんでも処女作ってのはいいものだ。

Smells Like Teen Spirit

よい仕事をしようという、それだけだ。ぼくは本能で良い作品を生みだしてゆく。この感覚は、腐った卵を嗅ぎ分ける動物的な嗅覚に近い。

しかし今や高度に発展した文明社会ではそれだけではダメなようだ。プロデューシングだのプレゼンテーションだのコミュニケーションが要るのだ。

ぼくは音楽を続けているが、プロに師事したり、プロとして活動するために売り込みをしたりと、そういう経験がない。全部独学だ(教本は買う)。それに、ライブで演奏することなんて滅多にない。ひたすら孤独に楽器と向かっている。

ちょっと狂気じみてるし、全部間違っているんじゃないかと思うこともある。楽器とは本来他人に聞かせるものだ。自分ひとりで楽しむものではない。そして、上手くなるための基本は教わることだろう。

ぼくは自分への批判を怖れているのではないかと思う。心がかき乱されることが怖いのだ。毎日繰り返し、基礎練習はしているが……。基礎練習をしていれば、まず間違った練習ではないことは確かである。しかし、プロの演奏は基礎練習を聞かせるものではない。基礎練習を全て音楽に昇華させなければ価値はない。

果敢に音楽界に挑戦していった先輩や後輩は、セミプロとして活動していることもある。彼らは音楽界に認められたのだ。演奏によって報酬を得ている。ぼくはといえば、せいぜいたまのライブで褒められるくらい。そして、恥ずかしいのでそそくさと帰る。お耳汚ししました……と。

そこで自分を売り込むことなど考えられない。第一、人前でやった演奏はとんでもない失敗だらけなのである。ぼくはプレゼンのときなど、声が震えてしまうし、それを隠そうとしてひどい傲慢なしゃべり方をしたりする。
技巧的に未熟なのではない(と思う)。人前で何かをすることが絶望的に苦手なのだ。十年ほどこの臆病を克服しようと思ったが、無理だった。敵意をもった人がいるわけではないし、何も悪いことはしていないのだが……。視線や他者からの注意が怖いのかもしれない。しんと静まりかえってぼくに注意を向けている状態というのは、集団によるぼくへの暴力を連想させるのかもしれない。

毎日の反復、ぼくの精神はそれをひどく好む。一時期は毎朝六時に起きての読書を習慣としていた。また昼からの仮眠をだれに非難されようと強行した。「だって、ぼくには必要だから……」というわけだ。習慣への意志がぼくの行為を創り出している。

打ち滅ぼさねばならないものは、まさしく反復行為である。知性のみがそれに成功する。そして、批判精神。それ以外のものは奴隷状態をもたらす。(「文学の思い上がり」/ロジェ・カイヨワ)

まあカントが毎日同じ時刻に散歩したのと同じだ、と言うと耳障りはいいが……。

ぼくの行為は痙攣と変わらないのだろうか。勇猛果敢な意志を持って、カイヨワの言う「アゴン(競争)」の世界に飛びこんで切磋琢磨すること、これが必要なんだろうか。極個人的に味わう陶酔は悪なのだろうか……とときに悩む。

しかし、人と同じ性向だとか、「しなければならない」という強制や同調のささやきには乗らないことにしている。ぼくはぼくにできることをするだけだ。一見怠惰に見えても、遠回りしているように見えても、道は一本である。もがこう、進もうとする限りはぼくは正しいのだ。必要なことは、良い作品を嗅ぎ分けるのと同じ嗅覚で自分の道を探ることである。

8.13.2014

お仕事の話

無為な日常を送っている。とりたてて甲斐のない日々である。快も不快もない。退屈な満足がぼくを麻痺させる。

これが夏休みというものの実際である……。

しかしこういう夏休みも今年が最後と思うと物悲しい気持ちに襲われる。来年には労働の日々が待っている。おそらくぼくの夏休みは一変するだろう。このように無為な生活で塗りつぶすことはないだろう。「何かをしなければ」という強迫観念によって慌ただしく日々を過ごすのだと思う。もはや立ち止まって振り返ることも、潤沢な時間を使って退屈の味に飽き飽きすることもなくなる。

ぼくは労働を怖れている……。そう言われてみるとそうである。しかし人は「働きアリ」ではない。労働だけでは満足していけない生き物だ。働きアリに成りきれたら、人は幸せであると思う。

今日は楽器を練習しに部室へ行くと、嫌いな後輩がいた。なのでちょっと話をしただけで出て行った。嫌いな後輩というか、基本的に後輩は嫌いである。ぼくはエゴイストであるので……つまり自分の考えがいちばん正しいと思っている人間なので、楽器や音楽に対する姿勢に怠惰とか舐めた態度を見つけるとすぐに見放してしまう。

楽器にどっぷり浸かったぼく好みの後輩もいるけど、そういう奴は大学を中退して家業の傍ら音楽を続けたり、音大に再入学したりとぼくの元を離れていくことが多い。それはそれでいいのだが、音楽にさしたる興味も情熱もなし、時間つぶしと親睦を深めるお茶会程度にしか音楽の価値を認めていない奴らが大半である。しかしこれもいい。社会の縮図だ。もともと、音楽なんてそんなもんだ。電車の中の数十分、退屈をしのげればいい。

じゃあムーサに人生を捧げるような人びととそういうお茶会的人びとは何が違うのだろうか。美しいものにどうしても魅了されてしまう人びとは強いのか弱いのか。当然、弱いのだろう。そして弱い人間は圧倒的に男性に多いから、おそらく女性の方がしゃんとして強いのだろうと思う。

「禅とオートバイ修理技術」にあったように、芸術とは高いクオリティを求め尽くすことである……のならば、ぼくらは絶対にAKB48の曲なんかよりも、バッハやコルトレーンやピンク・フロイドを求めるはずである。……はずである。美にとらわれた人間はAKBなんて聞かない。

音楽にしても、絵画にしても、ぼくは「人それぞれ好みがある」という言葉を好まない。この民主主義的な考え方はぼくの感覚にそぐわない。良いものは良い、悪いものは悪いのだ。絶対的基準がある。ぼくの書いた林檎とセザンヌの林檎とを比べて、「でも実際、君の林檎の方が良いかもしれないよ。単純だけど、力強い赤だし」と言うひとがいればぼくはちょっと説教したくなる。

人間なによりも大事にすべきなのは嗅覚だ。このもっとも原初的な感覚で立つと、あらゆる芸術作品は平等な価値を持つ。それが紀元前のものだろうと今年作られたものでも同じである。ぼくの中で村上隆はセザンヌとヴラマンクにぼこぼこにされるし、ミケランジェロと草間彌生が大体同着くらいにある。

芸術のすばらしい点はここにあり、永続的に価値を示すということにある。その永遠性がぼくは好きだ。愛しい。しかし、それは厳しい世界でもある。芸術の舞台に立つ以上、ぼくはドフトエフスキーやゲーテの存在を無視することはできない。彼らに打ち勝とうと少なくとも努力はしないといけない。それは苦しいことだ、恐ろしいことだ。できれば投げだしたい。しかし人間にとって本当の仕事とはこういうものだとぼくは思う。
大胆さ、挑発、手法上の離れ業、そういうものこそ、まさしく小説の最も追い越されやすい部分、すなわち、本質的に追い越されることを必要としている部分を、構成しているのである。余計なものを捨て去った作品はもう一つの競争に立ち向かう。それは確かにさらに一層恐ろしいもの、すなわち完全を目的とする作品どうしの競争である。私にとっては、このことこそ作品の貴族の称号を確立するものなのである。(文学の思い上がり / ロジェ・カイヨワ)

雑記

昨日は久しぶりに日記を休んだ。というのも実家に帰っていたため。

帰省はとてもリフレッシュになった。満足な食事と自由な時間、おいしい空気と適度な健康。何かこうわだかまった感情が整理されたような感覚。

休みの日に読んだ本は「禅とオートバイ修理技術」の下巻とカイヨワの「遊びと人間」、サリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」。

禅とオートバイ修理技術はすごい本だと思った。なんといっても、筆者は本気で打倒アリストテレスを試みてるのである。まるでドン・キホーテじゃないかね。ぼくたちはギリシャ哲学と、それに由来する西洋哲学を無条件に受け入れているけども、それらが本当に正しいのかは今一度考えてみる必要がある……と思わせられる。ラストの展開はどうなのかなって感じだけど。

サリンジャーの短編集は非常に会話が上手で参考になる。「ライ麦畑」で有名なサリンジャーだがあの本は中学生のとき読んであまりおもしろくなかったので今更読む気が起きない。しかし子どもだとか女性の表現が尋常でなくうまい作家であると思う。決してすごいストーリーやドタバタがあるわけでもないけど、しっかりと読み応えがあっておもしろい。ぼくの好きな「質量を持った作品」である。

サリンジャーを読んだあとに日本の小説家の短編集を少し読んだけどヘタクソすぎて読めたものではなかった。なんか説明がくどい気がする。情が入り過ぎている気がする。それはまあ日本人らしい「親切さ」なんだろうけど。何かこう突きはなしたところがないと、小説というものはダメになる気がする。大御所の中島らもや筒井康隆は安定しておもしろい。特にらもの文体は好きだ。

カイヨワの「遊びと人間」は遊びをマジメに探求したホイジンガ以来の著作だが、正直あまりおもしろくなかった。これは「禅と~」を読んだあとだからだろう。カイヨワは現代社会をアゴン(競争)とアレア(偶然)の勝利した段階だとしている。つまりミミクリ(模倣)やイリンクス(めまい)は追放されたのだと。たしかにぼくらの社会は競争と偶然に支配されているように思えるがしかしミミクリやイリンクスの軽視される社会はどうも味気ない。とくにぼくはイリンクスが好きだ。だから酒もバイクも好きなのだと思う。
とくに小説家にとってはミミクリとイリンクスの要素は欠かせないと思うがどうか。小説家は登場人物を演じなければならないし、ある程度自分の作品に陶酔し没我しなければならない。もちろん野心的なアゴンの性質も持つべきだと思うが(アレアとは遠くあるべきだ!)

まあ書評はこれくらいにして、ぼくの凝り固まった頭は田舎の自然な環境の中でしゃんとまともになった気がします。地に足がつくというかね。

8.11.2014

『クオリティ』について

「禅とオートバイ修理技術」を読んでいる。

主人公の男は、かつて飛び級をかさね十五歳で大学入学するような天才だった。そこで化学を専攻していたが、科学全体に不信を重ね大学を放校する。数年山ごもりをしたあと、インドの大学(バラナシ・ヒンドゥー大)で哲学を学ぶ。そしてアメリカに戻り、大学の講師をしていた。

彼は修辞学という、文章表現の講師をするのだが、そのなかで「クオリティ」という概念に気づき、それに没頭する。結局、彼は「精神異常」の人間という判決を受け、当時は一般的に行われた「ECT療法」により記憶を失う。

彼はECT療法前の自己をギリシャの知者「パイドロス」と呼び、息子とのバイクの旅を通じて失われた記憶を探る……。

というのがストーリー。言っておくがノンフィクションである。


思想の核である「クオリティ」とは何なのだろうか。例えば我々は優れた芸術作品とダメな作品があることを知っている。ぼくが書いた文章よりも三島由紀夫の文章の方が美しいことを知っている。なぜなのか?ある車のデザインは「クオリティが良く」、他の車のデザインは「クオリティが悪い」とされる。なぜなのか。

その感覚は理論で定量的に表すことはできない。つまり客観的に表現できるものではない。しかし、完全に主観的ではない。主観的であれば、クオリティは我々の精神にしか存在しないことになる。しかし、クオリティは確かにあるのだ。定義不可能であるが、確かにある。ぼくの散文が三島由紀夫の文章を超越することがないように。

でまあ、パイドロスはこのジレンマに悩んだ。クオリティは主観に属するのか?客観に属するのか?精神か物質か……。で、パイドロスは閃いたわけだ。「三位一体だ!」

つまり主観と客観と、クオリティの三つの要素があるのだ。精神と物質の二元論ではない。ヘーゲルのような一元論とも違う。ギリシャ時代にあったような「多元論」でもない。――三元論。この美しい答え。



この図は小説中から引っ張ってきたものだが、精神・物質とクオリティの三者の関係を示している。まず、原初にクオリティがある。そしてクオリティは「ロマン的クオリティ」と呼ばれる前知性的実在と、「古典的クオリティ」と呼ばれる知性的実在に分けられる。われわれが普通「世界」だと感じている精神や物質は、知性的実在に含まれる。

ではこの全ての大本であるクオリティとはなんなのか。パイドロスは大学の同僚にこう答えている。
≪クオリティ≫に関する説明は、それがいかなるものであっても、虚偽、あるいは真実のいずれにもなる。単なる哲学的説明にすぎないからだ。哲学的説明のプロセスは、分析的であって、いわゆる主語、述語といったように分解することである。私がクオリティという言葉によって意味する物は、決して分解することはできない。それは≪クオリティ≫が神秘的すぎるからではない。あまりにも単純で、思考を越えた直覚的なものだからである。」
≪クオリティ≫とは、一個の有機体が示すその環境への反応である、と言えば、一般の人びとにもきわめて理解しやすいだろう。
人間は、複雑に入り組んだ現代の社会構造のなかで、実に多くの類似物を創り出すことによって、この環境に反応するさまざまな有機的組織体の進歩を促してきた。陸地、天空、樹木、岩石、海洋、神々、音楽、美術、言語、哲学、工学、文明、科学、私たちはこうした類似物を生みだしては、これらを実在と呼ぶ。確かにこれらは実在する。だが事実は、こうした類似物を生みださせる物が≪クオリティ≫なのだ。クオリティとは、私たちが生きる世界を創造するために環境が与える連続的刺激なのだ。そのすべてが≪クオリティ≫だ。何から何までそのすべてが≪クオリティ≫なのだ。(早川書房p94)

こうした感覚は理解できるものである。われわれはプラトンが言ったように壁に映った影しか見ることができない。知覚の働きを用いる以上はそうである。そしてそれがわれわれの世界の全てだ、と思っている。

しかし、西田哲学のように「主客未分」、つまり知性的実在と前知性的実在を分かつ前の状態=クオリティは確かに存在するのである。それはあまり良い表現ではないが、「環境が与える刺激」である。この大本を、感じ取らなければならない。また、その存在を無視してはならないのだとぼくは思う。とくに芸術作品に触れ、美の感覚を得ようというのなら……。

この思想が主人公が息子と登山して、山頂につくクライマックスシーンと一緒に講義されるので、かなり興奮する。

この本はまだ全てを読んでいないが、パイドロスが老子の道を読んだときに「俺の考え、老子と全部一緒やん!」というところで止まっている。なんじゃそりゃという感じだが、それでもかなりおもしろい哲学が展開されていることは間違いない。

このクオリティ論は面白いのでしばらく掘り下げたい。それにしても「禅とバイク修理技術」ってタイトルがおかしいよ。早くバイクで走り出してくれ。

8.10.2014

etude

「あ、やっときた。混んでるな今日も」

「先輩、五杯目ですよ。しつこいくらいビールですね」

「うん。ビール大好き」

「で、何の話でしたっけ」

「そうそう、苦手なんだよな、あれ、会話という奴が」

「あ、それだ。マアわかりますよその気持ち」

「口べたなんだよ、俺は」

「ひとりで部屋で籠もってればそうなりますね」

「表情筋なんて衰えてしまってね……笑うと、ほら」

「あはは、陰気な笑顔ですね」

「まあな……。」

「あれ、ちょっと凹んでますね。落語でも聞くといいって聞きますよ」

「落語かあ。芸人っていう人種嫌いなんだよね。ひな壇芸人とかさ、知性がないじゃん」

「四の五の言ってられないすよ。おしゃべり自体が嫌いってんじゃあなあ」

「会話が苦手だから文章書いてるんだよ」

「まあ、こうやって何かしら話してれば要領掴めるんじゃないですか」

「そうだといいんだが……」

「……」

「……」

「いきなり黙らないでくださいよ」

「ごめん何話していいかわからない」

「思春期の少女ですか」

「それにしても、会話って音楽だよな」

「突然ですね」

「音楽なんだよ。つまり時間芸術」

「ははあ。まあ文学自体時間芸術ですけどね」

「よりきびしく時間芸術なの。だって、俺がちょっと黙ったら『……』が出てくるだろ」

「そうすね」

「お前の『そうすね』だって文学的価値はないし削りたいところだ。でも必要なんだ。なぜなら時間芸術だから」

「よくわかんないす。先輩こっちの世界に戻ってきてください」

「いいか、会話のコツっていうのはリズムなんだよ」

「リズム」

「そう。音楽の三大要素はなんだ」

「リズム・ハーモニー・メロディですね」

「会話はハーモニーだ。そしてメロディーでもある。さらにリズムだ」

「ふーん。なんだかこじつけみたいですけど」

「メロディは単語の選択、ひとつの直線的な流れだ」

「まあわかります」

「ハーモニーはお前の言葉と俺の言葉の共鳴だ」

「気持ち悪いですね」

「そして、リズム!ウンタンウンンタン!」

「先輩」

「リズムは無限のサイクルだ。そしてもっとも最初の音楽だ」

「アフリカの部族的な感じ」

「そう。結局いい会話ってのはリズム的に優れてるんだよ」

「強引にまとめましたね」

「俺ひとりが延々語ってもいいんだよ。でも会話文っていうのはひとつのカタルシスだ。長ったらしい叙情的な文章はだれだって読みたくない。次のページを開いてみて、改行もなしに文字列の塊がどどんとあったら嫌だろ。哲学書じゃないんだからさ……。会話文の多いページってのはほっとするものさ。トントンと読めて、しかも会話文は難しい言葉は出てこない。ほとんどの小説が会話文と地の文から成る。会話文を制すものは小説を制すと言っても過言ではない。なにしろより直接的に響いてくるのはリズム的要素の強い会話文なんだからな」

「うわあ、眠たくなる」

「これはリズム的に言えば十六分音符の滅多打ちみたいなもんだ」

「でも、会話文が多いページがほっとするのはわかりますよ」

「そ。読者がついてこれるように始めは会話文が多い方がいいかもしれない」

「先輩、読者のことなんて考えてたんですね」

「まあ最近はね……」

「あ、リズムってどういうリズムがいいんですかね」

「普通は四分音符くらいがいいだろう。」

「つまり?」

「シンプルイズベストだ。変則的なリズムは普通好まれないもんだ」

「へえ。まあなんでもそうですよね」

「そう、基本的なこと、シンプルなことがいちばん大事なんだよね、結局」

「うん。……うまくまとまったし、そろそろ帰りましょう」

「ちょっと待てよ」

「予定があるんですよ」

「どうせ毎日会ってるだろうが」

「そうですけど、浮気だと誤解されちゃいますよ」

「まあ座れって。ここで終わったら俺の会話下手が直らないままだ」

「どうでもいいじゃないですか」

「座れ。座ってちょうだい」

「わかりましたよ。少しだけですよ」

「よし」

「まったく……」

「今のはちょっといい会話だった。なぜかわかるか」

「ちょっとした押し問答があっただけじゃないですか。」

「『ちょっと待てよ』『予定があって』『毎日会ってるだろ』『浮気と誤解される』の流れは、けっこういいぞ」

「まあテンポはいいですね」

「それだけじゃない。これだけでお前がちょっとしたプレイボーイということがわかる。そして『彼女』という単語すらでてないのに、うざったい女の姿が浮かび上がってくる」

「人の彼女を貶さないでくださいよ……」

「会話とは、高度な情報処理だ。自然な会話とは最低限の会話だ」

「……」

「俺たちは日常のなかでそういった会話を無意識的にこなしている。」

「……」

「この領域を目指せばいいだけなんだ。それがいい会話なんだよな」

「……あ、終電!それじゃ失礼します!」

「あ、おい待て!」

「……」

「……ちっ」

「……」

「……すいません、ビールおかわり」

「……」

「……」

「」

8.09.2014

ものを書く書く

今日はスティーブン・キングの「書くことについて」を読んでいた。300ページ超を一日で読んだことはたぶん過去あまりないが、特別な理由があったわけではない。ただ単に時間があったことと、平明で読みやすい文章だったから。絶賛するような本でもないと感じたが、悪くない本である。

悪くない本である――といってみたものの、読後の気分は「次に書く作品は直木賞くらいはとれるだろう」という気分にさせられるのだから、やはり良い本なのだろう。

小説自体は書いている。今朝3000字くらい新しい作品を書いてみて、けっこう気に入ったので何日かかけて書いてみようと思う。

短編はこれまでいくつか書いていたが、どれも発作的・衝動的に書いているばかりで、出来が悪い。これじゃあ時間つぶしの麻雀と大して変わらず、知的な営みとは言えない。「習作」といえば格好はつくが、ちっとはまじめに書いてみなきゃいかんな、と思うのである。
ものを書くときの動機は人さまざまで、それは焦燥でも良いし、興奮でも希望でもいい。あるいは、心のうちにあるもののすべてを表白することはできないという絶望的な思いであってもいい(中略)動機は問わない。だが、いい加減な気持ちで書くことだけは許されない。繰り返す。いい加減な気持ちで原稿用紙に向かってはならない。
「いい加減な気持ちで書くことだけは許されない」ここは同感できる。
ぼくはこのブログは結構、心を込めて書いているつもりである。とはつまり、ごまかしや偽りの感情を注意深く避けて書くようにしている。だから一見稚拙で、恥ずかしい文章でもちゃんと載せているのだ……。しかし小説の方はけっこういい加減に書いてしまっていたと思う。反省したい。

ブログと小説はだいぶ話が違う。二時間ばかりで一気に書き上げてしまう作品は楽しいのだが、何万字かにして何日もコツコツと書き上げていく作業はけっこう根気のいるものである。

ウィジャ・ボード=コックリさん?
「創作活動はウイジャ・ボードの占いでもないし、霊媒の口寄せでもない。配管工事や長距離トラックの運転と同じ肉体労働だ。(同書)」

ところで、ぼくの最近の生活は書くことと読むことに大部分が使われている。先日のように野宿してほとんど本を読まなかった、という日はあるにせよ……。毎日本を読むこと、書くことに費やしていいのだろうか?こうした日々が間違いではないこともキングは教えてくれる。
作家になりたいのなら、絶対にしなければならないことがふたつある。たくさん読み、たくさん書くことだ。私の知る限り、そのかわりになるものはないし、近道もない。
逆に、どんぴしゃの道だったのだ。まあ文筆家を目指そうという人は大抵読書と執筆に並々ならぬ時間をかけることだと思うが。

根拠のない自信

ぼくはけっこう優れた作品が書けるという気がする。数年後か数十年後か知らないが、いずれにせよすばらしい物が書けるという自信がある。この感覚は自分でもよくわからない。根拠のない自信がどこからか湧きでてくる。ぼくは人より優れた語彙を持っているわけでも、知能的に見ても「天才」というレベルではない。芸術家の家系ではないし、親戚も家族も普通の人揃いである。

ところが、なぜか書けるという自信がある。そう思いたいだけなのだろうか。数十年後の未来のぼくは今日のこの日記を読んで、悲しくため息をつくのかもしれない。しかし、なんだろう。この「なる」という自信や確信は、まったくニュートラルな感情である。

「お前には無理だ」「センスがない」「若気の至りが許される年ではない」といくら言われてもぼくは動じないだろう。未来のぼくが「頼むからまともに働いてくれ」と肩を叩いてきたら、少しは考えるが……。

マニキールの言ったように「神経症患者は、患者の現実知覚がゆがめられてるから、相対的にだけでなく絶対的に無能のものとして考えるのが一番よい」のだろうか。


まあどうでもよい。最近はこのブログが何か冗長な気がするので、すぱっと書いてすぱっと締めくくるようにしたい。だらだら書いても見苦しいだけである。

いろいろな人のブログを読んでいるが、最近のお気に入りは「流山子雑録」という日記である。筆者は昭和16年生まれというのだから驚かされる。

例えば「日本表現派ー東京ー2014展。」という記事の最後から引用する。
小保方晴子も四方八方、全方位から銃撃を受けている。笹井芳樹の後を追う、なんてことはしないでもらいたい。
恩師であるハーバードのバカンティ教授は、小保方にボストンへ戻ってこい、と言っている。
小保方、日本などとは離れ、ボストンへ行け。 
「ボストンへ行け。」でこの日の記事は締めくくられている。何の担保も迷いもない、なんというスカッとした記事だろう!ウェブ日記はかくあるべし、とぼくは甚く感動したのである。

8.08.2014

アンテルペラシオンに餞別を

あらゆる制約から離れてひとり沈思黙考したいと思うこともある。それは傲慢であるというよりは真摯な目的でだ。

ぼくは少しばかり陶酔を感じる。自分は正しいのだというあの感覚がぼくを支えてくれるのだ。他者の否定や無視が、ぼくをより深い狂気に駆り立てる。そう、だれも肯定しなくても、ぼくがぼくに然りを与えるのである。仲間はない。ぼくだけが、ぼくの支えとなる。ぼくは自己をして自己を豊穣せしめんとする。

ぼくという土壌はエコでクリーンなエンヴァイロメントです。
ただ必要なのは、読書による智慧という光だけ。
光以外は何も入ってこない「閉じた系」でも、ぼくの草木は生い茂り、
自分の死骸や糞尿を肥料にして、ぐんぐん育つのである。
今はまだみすぼらしい花しかありません。
これはアマゾンの熱帯雨林のような激しい生命の海になるか、
高嶺な岩山にぽつぽつ咲く白い花々になるかもしれませんぜ。

マア、気がついたら全部枯れているかもしれませんなあ……!


ぼくは危険な道を進んでいるのかもしれないが、危険ということは別に誤りではない。まあ、間違った方向でも、壁にぶつかったら方向を変えなければならない。それだけの理性は残っているだろう。今は自分の中の子どもを遊ばせてあげたい。

現代芸術に関する本を読んでいたら、「前衛が再生していくためには、『快楽』を怖れてはいけない。」と書いてあった。

本当だろうか?美術というのは苦しいものではないのか……。いろいろな疑念がよぎる。

来場者にタイ焼きそばを振る舞うことが芸術なのか。一見彫刻に見える作品が実は何百枚かの紙でできていて、来場者に一枚一枚それを土産に持ち帰らせることが芸術なのか。十数人が乗れる自転車を作って、来場者に乗らせ、ばたばたと転びながらも少しずつ前進させることが芸術なのだろうか。

みんなにこやかにハッピー、楽しんでいただけましたか、何か感じていただけましたか、どうです、芸術はすばらしいものでしょう……。これが芸術なのだろうか?来場者もいつか死ぬ。病気で死ぬ、車に牽かれて死ぬ、自殺で死ぬ。芸術にはどこか一抹の悲しさや怒りがなければ本当ではないとぼくは感じる。

とまあこのような精神状態が「快楽」を怖れるということなのだろう。快楽は何か退廃や精神の亡失に繋がるのではないかという懸念にぼくはとらわれる。芸術家はふつう、快楽を抜け出した人間だと思う。苦痛と美がセットなのが普通だ。それなのに、ふたたび快楽の領域に足を踏み入れなくてはならない。だからこそ芸術は辛いものなのだろう。


たぶん間違っていることを書いているのだろうから、もう辞める。

ぼくは自分で納得できる作品を創れたらそれでいい、と思っている。ぼくは自分にだけは正直でありたいと思っている。そのせいで、社会的生命が脅かされようとそれは仕方のないことだと思う。ぼくはさんざん自分をないがしろにしてきたから、せめてこれからは自分の本心に素直になりたいと思う、それだけだ。

野宿のおもいで

なんとなく"気分"にかられて、バイクで野宿をしてきた。林道の開けたところにテントを設営して、一晩をたったひとりで過ごすというもの。前回はオートキャンプ場にテントを設営したのだけど、家族連れがいて騒々しいのが嫌だった。

「野宿」と言うと驚かれることが多い。「危なくないの」「怖くないの」「ホテル行け」と。でも、かつてどれほど多くの人間がこうして野営してきただろうと思うと、むしろ人間として自然な行為をしている気持ちになってくる。

実際、テントを設営してその中で伸びをしたとき……川の水で頭髪をわしゃわしゃと洗うとき……焚き火の前でぼんやり火を見つめているとき……。こうした瞬間の中では先祖返りしたような気持ちになる。

……しかし、楽しいことばかりではない。野宿ってめちゃくちゃ怖いのだ。なにしろ携帯も圏外だし、民家までは険しい道のりが数キロメートルある。当然真っ暗で、一歩間違えれば崖下に落ちる。叫び声は深い森の木々に吸いこまれてどこにも響かないだろう。熊でも現れたら、映画のようにチェーンソーを持った狂人が現れたらなすすべがない。警察も他人も自分を守ってくれない。そう思うと自然と気が引き締まる。自分の身は自分で守るしかないのだ。

こうした孤独、絶対の孤独を先人達は耐え抜いてきたのだろう。不安と戦い、恐怖と戦ってきたのだと思うと感慨深い。

不思議な感覚である。神経が鋭敏になって、川のせせらぎや、葉擦れの音が普段と違ったニュアンスを持つ。それに、たぶん町中で見れば気持ち悪いだろう虫たちにも妙な愛着が沸いてきて、慰められる。

こういう気分は海外旅行に行ったときのそれに似ている。ただ自分ひとりを恃むような環境である。同じ気分を味わいたいのなら、野営という形の方がずっと経済的でお手頃だと感じた。まあ、それでも「数日間が数ヶ月にも感じる」ような濃密な体験をするにはやはり海外がいいと思うけど。
自分探しのために旅に出るのは、旅先に何かがあるからじゃない。むしろ、旅先に何もないからだ。日常の楽しみや誘惑を断ち切って、一人でゆっくり考える時間を作るために、あえて何もない所へ行く。それが旅なんだ。(iwatam氏のツイート)
iwatamさんの言うことはいつでも正しいのだ。


もともと静かな環境で読書をするための野営だったが、あまり頁は進まなかった。ソローの「森の生活」というお決まりの本を持ってきたのだが。あと、まったく逆方向の反自然主義の本「さかしま」も持ってきていた。こちらは開くことすらなかった。

それよりも、火を見ながら、あるいはテントの中寝袋にくるまって、じっと物事を考えていた。少し酒に酔った頭で、ぐるぐるといろいろな事柄を逡巡しながら、時間だけはたっぷりあったから、ひたすら考えた。考えて、眠って、また思考の海に沈んだ。

将来のこととか、過去あったことや、自分のこと、女の子のこと、音楽のこと、文筆のこと……。山中。夜の闇は何の制約も持っていないように思える。だから、ぼくの思考もまったく制約なくいろいろなところを飛び回った。

朝起きてみて、あれだけ考えたのに、何ひとつ答えが出ていないことに気づく。しかし妙に気持ちの整理がついたというか、いろんな方向を向いた悩み事が統合されて、シンプルな思考になったような気がする。

野宿、いいなあ……と、バイクでばたばたと山道を駆け下りながら思いました。

8.07.2014

夢と自己肯定と創作

世界と自分が相対するような感覚――この感覚がたまに失われそうになるので、何とか維持しなければならないなあと焦っている。

最近は、悲しいことに、内面世界に飛びこもうとしても居心地のよいスペースがないことがあって、現実世界に取り残され呆然とする日がいくらかある。ひとりで空想に浸ったり、現実を否定するということは、一般的には、惨めで恥ずかしく、危険な考え方である。だから、年を取って常識が身につくほどこうした没我的な行為は難しくなる。

世界を軽視するということ、この世の生活、他人、社会、自分の肉体が何でもない迷妄だと思うこと。この感覚は、決して中二病的な社会否定ではない。反発的・逃避的なニュアンスとはまったく逆だからだ。

自己の絶対的肯定、自分が何をやっても正しいのだという感覚を人は掴まなければならないのだ。内面世界は常に自己肯定の世界である。

 「私はかつて正しかったし、今もなお正しい、私はいつも正しいのだ」(「異邦人」/カミュ)

またこいつはバカみたいなことを言っているという人もいるだろうが、そういうひとであっても一日数時間ばかり、この絶対的肯定の海に浸る。それは夢を見ているときだ。

夢を見ているときは自分の肉体も、他者の存在もない。時間や空間すらない。全ては自分が一から創り出す。夢の中で人は世界を再構築しているのだ。世界の再構築とはつまり、創造である。
私たちの思考と感情は、眠っているときに最高の主観性を獲得するのである。(「人生と愛」 / エーリッヒ・フロム)
芸術は「夢」を見ているような作品が多いが、それは彼がイマジネーションを自由に発露させたからだ。深い自己に対する確信と肯定をもった作品は、いくばくか夢に似る。そして夢という言葉が目標や願望を示すように、ある種の理想的な姿とも言える。理想的であるとは、一切の否定の要素を持たない絶対の肯定である。それで、「理想」とはプラトンの「イデア」の訳語であるから、大げさに言ってしまえばぼくはイデアの世界に辿りつくために、上の内面世界への没我を達成しなければならないのだ。

自分という存在が現実世界から離脱して、深い内面の世界に飛びこんでいかなければ何かしらの創造はできない。世界を対象化する。あるいは、世界をもはや振り返りもしない、世界と無縁の存在になるということ。

大体、世の中の常識や何かにとらわれて創造というものができるだろうか。「ああしなければならない」「あれはやってもダメだ」なんて制約に縛られた滑稽な芸術作品がこの世にあるか(いっぱいあるけど)。

われわれの欲求だとか願望は巧みに市場管理されているので、借りものの欲求や願望で満足してしまう人は少なくない。今は反感や怒りでさえ容易に既成品を手に入れることができる。例えば政策の批判だとか、中韓などの隣国に対する怒りがそれだ。

そういった無知蒙昧から離脱するためには、現実世界から離れ、絶対の孤独に浸り、イデアの世界を追い求めるしかない。そう、孤独の要素が必要である。孤独にこそ全ての智慧がある!とニーチェさんが言ったようになあ……。

ああ、暑い。

8.06.2014

アヌス、他。

また日記的な何か

財布が見つかる。

財布をなくした。一昨日から夏期休暇が始まったのだが、それと同時に財布がなくなり、身動きがとれなかった。昨日から探しているがどこにもない。

記憶を辿ってみると、最後に財布を使ったのは部室に行く前コンビニでパンを買ったときである。そして帰りにガソリンスタンドで財布がないことに気がついたから、学校にあることは確かだ。

まさかと思い、部室のゴミ箱を漁る。そうしたら、コンビニのレジ袋の中から財布が出てきた。ぼくは自分のアホさにあきれかえった。レジ袋をゴミと一緒に捨てたのだが、その中に財布が入ったままだったのだ。

このパターンが非常に多い!ゴミ箱から財布を救出、燃えるゴミの袋から救出、ということが度々あるのである。

しかし、見つかったときの歓びが全てを許してしまうので、ぼくは反省できない……。一円も得していないのに、この「ほくほく感」は妙なものである。

幼児の原初的な遊びに、遠くにおもちゃを投げて、再び手に取るというものがある。幼児はこれによって母親と離れなければならないときのような「喪失体験」を再現しているのだという。同時に、母親は必ず戻ってくるという信頼と幸福。

財布をなくして、そして見つかったときの歓びはこれに似た感じがある。本当になくしてしまったことも多々あるが……。


二十五歳から音楽始めてミュージシャンになれますか?

という質問をネットで見た。予想通り、「ここで聞いてる時点で無理」という回答が多い。

質問者は大学を二留している。そして就職活動をしておらず、大学を卒業したら数年間音楽家になるべく特訓をしたいのだという。

ぼくは一応、楽器を何年かやっているからわかるが……。別に大丈夫じゃないの?と思う。まだ二十五歳なら感性が乾いてしまう前だろう。ただ十代や二十代前半のプロ志望と比べて圧倒的不利である。そのことを自覚して、死にもの狂いで練習すれば、「プロ」にはなれる。

「二十五歳からプロのサッカー選手になろうというのと同じだ」という回答もあるが、これはとんちんかんだ。楽器はフィジカルでやるものではなし。基本的には技術と精神の世界である。それに、プロサッカー選手のようにパイが限られているわけではない。どちらかと言えば、伝統工芸の職人になれますかというのに近い。

そりゃ世界的なミュージシャンになることはまず望めない。だけど、その辺の音楽教室の講師になるくらいは可能だろう。案外、音楽家というのもいい加減なもんで、「プロミュージシャン」と言うと人は大げさに驚くが、大した技術も哲学も持っていない人なんていくらでもいる。でも初学者(音楽が趣味の人の90%)にとっては雲の上の存在だからボロはでない。

彼らは音楽教室と場末のライブハウスで小銭を稼いで、信じられないほどぎりぎりの生活レベルで暮らしている。四十歳にもなって風呂のないアパート暮らしなんていうステキな生活だ。

幸福になろうというのなら、プロ音楽家にはならないことだ。しかし幸福になることを捨てて、ただ芸術の道を歩みたいというのならだれにも引き留めることはできないだろう。

結局、質問者は「定職に就いてその傍らで音楽活動をしていきたい」というところに行き着くのだけど……。まあ、普通そういうところに落ち着くんだろうな。
しかし彼はプロにはなれないだろうという気がする。ただでさえスタートで出遅れている。それに加えて、会社勤めの妙な満足が彼をだめにする。「俺の人生、そんな悪くないやん?」と思い始めたらそこで音楽家の才能は死んでしまうのではないか。ニーチェの言ったように、「無事安泰は終末である」。

ところでぼくが友人から譲り受けたベースは、左利き用のベースだったことが判明。そりゃあ弾きにくいわけだな……。

「禅とオートバイ修理技術」上巻を読む。

禅とオートバイ修理技術の上巻を読んだ。寝て起きて読んだら300頁過ぎていた。これは非常によさそうな本なので下巻を注文した。上巻で終わってしまっている本はたくさんある。「存在と時間」や「赤と黒」がそうだ。だから長い本は根気が続かないのだが、これはところどころバイク・ツーリングの描写があり飽きさせない。

以下書き抜き。この三倍くらい書き抜いたが、下巻を読んだときのためにとっておく。

真理がやってきて扉を叩くと、「あっちへ行け、私は真理を求めているのだ」と人は言う。だから真理は立ち去ってしまう。不思議なことだ。
もし人間の知識のすべてが巨大なヒエラルキーを構成しているとすれば、精神の高地は、最も一般的かつ抽象的な考察において、その最上部に位置している。
しかしここに足を踏み入れる人はほとんどいない。そうしたところで何の実益もえられないからである。だがここには、この物質世界同様、それ特有の厳粛な美がある。ここを旅する人にとってその辛苦が報われるのは、この美あればこそなのだ。
芸術と工芸とを分離するのはまったく不自然なことだ。(中略)遠い昔のことだが、回転肉焼き器の組み立て方だって、実際は彫刻の一部分だったのさ。

なかでも一番好きなフレーズはこれだ。
現代の理性は、地球が平らだと考えていた中世期の理性と大して変わりがない、と私は思っている。理性を超越してしまうと、向こうの世界、つまり狂気の世界に落ち込んでしまうと思っている。そしてだれもがそれを非常に怖れている。この狂気に対する恐怖は、かつて人びとが抱いた地球の端から落ちてしまうという恐怖に勝るとも劣らない。

もう、完全にバイク小説ではないね。


楽器練習の帰り、ブックオフでプラトンの「パイドロス」(310円)とプルーストの処女作「楽しみと日々」(108円)を買う。安い。読書とはなんて経済的な趣味だろう。

ぼくは文字が読めればどれだけ汚くても構わない(ただし線引きだけは別)。だから基本的にいちばん安いもの買っていく。新潮の「ランボー詩集」はあまりに汚いので鍋敷きに使っている。たまに開くと料理の待ち時間にちょうどいい。本を冒涜するな!と言われそうだが、これが正しい本との付き合い方という気もしなくもない。本なんて所詮媒体だ。大事なのはその情報であり、精神だ……。

家に帰るとスティーブン・キングの「書くことについて」という本が届いていた。しかしあまり読む気が起きない。アメリカ文学は不思議と食指が沸かない。じゃあ買うなというところだが、手元に置いておきたい本である。

風呂でパイドロスを読んでいると、さっそく少年愛がしれっと出てくるので苦笑する。藤本ひとみの「侯爵サド」のなかに肛門姦に関する発言があったのを何となく思い出す。
「尻でやるというのが自然の意志でなければ、尻の穴が、男の一物にあれほどぴったりにできているはずはない。どう頭をひねってみても、丸い一物のために、膣という楕円形の受け口が用意されるなどと言うことは、考えにくい物だ。」
同時に「自由からの逃走」を書いたエーリッヒ・フロムは「同性愛は病的である。尻の穴はどう見ても排出するための器官である」と息巻いていたことも思い出す。ユダヤ人に対する虐殺はなくなったが、同性愛は認められつつある社会を彼はどう思うだろう。

(最近のマイノリティーの傲慢さはちょっと嫌である。日本でもアニメオタクやロリコンが声高に権利を主張しているようなところがある。多様性は単に許容すれば良いというわけではない。ぼくは人を病的な領域に安住させるような「許容」は悪だと考える)


最近はあまり本を読んでいない。楽器が楽しくてしかたない。楽器か、書くか、読書で一日を埋めているのだから、もっと読書に時間を割けそうなものである。夏期休暇中なので、がっつり重たい本を読みたいという気もする。

しかし生活の喧噪の中で、じっと本を読むということ、これは意外と難しいものだ。ぼくだって、当時二十五歳の彼のように全てをうっちゃって読書に費やしたいと思うときもある。しかし、これは非現実的なのだろう。人には生活が必要だ。生活からは逃れられない。そして、生活は必ずしも無価値なものではないと最近は思う。

だから生活の中でなんとかやりくりして本を読むしかないだろう。一日数十頁でも、とにかく読むことだろう。

Run Boy Run

ぼくが文筆家になることを告白したのは二人。

ぼくは精神的な引きこもり、あるいは精神的な不具の人間であるので、何かしらの感情を吐きだすことを強く自制してきた。何か惹かれているものがあるとする。それに強く惹かれているほど、ぼくは公言することを控えた。例えば最近は「書く」ことがぼくの生活を占領しているなんて、だれにも言ってはいない。というか、普通なかなか言えないだろう。

「最近好きな音楽は?」と問われて、もっとも好きなアーティストではなく、三番目くらいのアーティストを紹介するのと似た気分である。

その感情が否定されるのが怖いのだろう、とまず考えることができる。数多くの音楽が現存する中で、たったひとつのアーティストを選ぶとしたら、そこには深い精神の動きが読み取れる。

例えばある女の子に惚れこんだとする。その惚れ込みが強ければ強いほど……周りの人間は、君の精神を如実に掴むことができるだろう。君という人間の個性・精神・思考・趣味を手に取るように理解することができる。音楽も同じだ。いちばん好きな音楽を表明して、それがバカにされたりすると、自分が否定されたような気分になる……。

ぼくは他者に理解されることを怖れているのだろう。なぜかはわからない。本当の意味で理解されることはないだろうという諦めからかもしれない。結局、いつもある類型に落とし込まれるのだ。モラトリアム青年、サブカル系、中二病……自分の心情を打ち明けると決まって誤解される。「変わった人間」に対する恐怖感や不安をまぎらわす、便利な言葉はいくらでもあるのだ。それなら他人に恃む方がバカだ。

……以上全部どうでもいい。

「ぼくは文筆家になりたいと思うよ」と言ったある二十歳の少女には、こう言われた。
「三十歳までは自由にやっていいんじゃない。それならまだ取り返しがつくし」

なんだか年下なのに、現実的なことを言われた。達観したおばさんみたいだ。彼女の周囲には夢追い人が多いのだろう。話を聞く限りはそんな風に推察することができる。それに、彼女自身も夢追い人で、はたらきながら専門学校に通っている。
夢を追って、無慙に敗北した人たち……。圧倒的多数の人間は、これまで嘲ってきた社会や社会人に「ごめんなさい」をして、「これまでの自分は間違っていた。どうか働かせてください」と反省しなければならない。これがこの社会の掟だ。アリとキリギリスの寓話に似ている。自然なことだ。

今のところ、ぼくは生活を犠牲にはしていない。あっさりしたものである。おそらくぼくは、平均的社会人よりは豊かな生活を送ることができるだろう。文筆がなくても、である。しかしそんな生に何の意味があるだろうという気もするのだ。

夢を捨てるのはいい。somebodyになろうとして頓挫するのは仕方がない。音楽にしても、文筆にしても厳しい生存競争の世界だから。しかし、「ごめんなさい」をした彼らは二十年後もギターを握るだろうか。物を書くだろうか。彼らは本当に芸術が好きだっただろうか?野心や功名心の発作にかられて痙攣していただけだったのではないのか。……ぼくも同類だと言う指摘もあるだろうが。


もうひとり。
酒に酔って、ついポロっと「ぼくは芸術をあきらめられない」と言ったとき、二十四歳の女には、こう言われた。

「かっこいい!」

こう返してくれるのが、正解である。ありがたいことだ。女とはかくあるべし!


岡本敏子の言葉


8.05.2014

最低限意味のわかることを書きましょうという

一体ぼくは何を書いているのだろうか。全部粗末だ。お粗末様だ。何も意味がないし、ひとりよがりだ。これじゃあ中二病だ、思想こじらせた人だよ。


ぼくは本気で何かを書こうとした一年生の初学者であるから、いろいろ逸脱はあることだと思う。ぼくは紙とペンを与えられた子どもである。書くことは定まっていないし、その技法もめちゃくちゃだ。まったく読めたものではない。

しかし、悲しいかな「これでいい」という気もしてくるのである。これは諦めに似た感情だ。

ぼくはもはや四捨五入すれば三十歳のオジサンである。レイモン・ラディゲがジャン・コクトーに賛嘆された年齢から十年も経っている。こうした家庭を持ってもおかしくない年齢になると思うことは、自分の心の中に子どもを持っても、不思議な寛容さを持って迎え入れられるということである。

これはぼくの生まれ育った家庭環境のせいなのかもしれない。ぼくを溺愛する母に比べて、父は全国を飛び回る仕事でなかなか構ってくれなかった。おまけに彼は父親としては無能な人間であったので……(愛情はあったのだと思うが、稚拙で臆病だった)。ぼくはかえって肥大した父性を持ってしまったのかもしれない。……あるいは母性を? いずれにせよ、親ばか的な要素をもってして自分のなかの子どもの逸脱を容認しているのだ。


話は全然変わるが、オリンピックの開会式の演奏もつとめたパーカッショニストのエヴァリン・グレニーがTEDで講演していた。興味深いのは彼女が初めてドラムを習ったときの指導方法である。

スティックの正しい握り方とか、スネア・ドラムの叩き方……というような、一般の音楽教室で習うようなこととはほど遠い。彼女はスティックを握らされることもなかったのだ。

スネア・ドラムを持ち帰って、一週間それと一緒に生活することを彼女は命じられたのである。

彼女はスネアドラムと格闘した。手で叩いてみる。表面をなでてみる。裏側を叩いてみる。皮ではなく筒の部分を叩いてみる。指の腹、拳、肘、あるいはその辺に落ちている小枝で叩いてみたりもしたかもしれない。

こうした教育!これはすばらしいものだと思う。音楽とは芸術である。芸術とは自由である。というか、自由であることを課せられている。その自由を学ぶとともに……

楽器の持つ特性、その機能、意匠といったものをあらゆる角度から味合わせること。これは非常に優れた教育である。

ぼくのしていることも、これと変わらない。結局書くことと言えばぼくの心のことであるから……。ぼくはぼくの子どもに、ぼくの心を自由に触らせてあげる。その表面をなでたり、棒きれで叩いたり、ときに蹴飛ばすことを容認する。

ぼくはぼくの子どもに、ぼくの心を打ち鳴らして欲しいのかもしれない。楽器が歌うために作られているように、ぼくの心も表現を待ち望んでいるのかもしれない。

……まただ。また観念的でわけのわからないことを書いてしまう。

ぼくはベースを習って数日目である。ドレミファソラシドを弾けるようになったのが一昨日。今は12小節のFブルースのウォーキングをヘタクソだが弾けるようになった。

ぼくは正しい努力の方法を楽器との付き合いから教わっている。芸術に対する姿勢はもはや作られてしまっている。ぼくはぼくの正しいと思うことをするしかないのだ。



ところで「禅とオートバイ修理技術」という本を読んでいる。
自閉症の息子と大陸横断のオートバイ旅行をする中で、旅やバイクの整備を通じてギリシャ哲学、禅の教えなどの思想体系に挑戦するという本。

単なるバイク旅行をしました、という話ではない。そういう本はいくらでもあるが、なぜかバイクの旅・メンテナンスから哲学へ通じていくのが本書の特色である。たぶん半分以上は思索的な「哲学講義」がなされており、その色濃い思想に圧倒される。

今はまだ全然読み進めていないが、バイクと哲学に興味のあるぼくには非常に良い本だ。
異常な行動は他人の心に疎外感を抱かせるものだが、その疎外感は、ややもすると異常な行動をさらに助長することになる。こうして駆り立てられた疎外感は、内部循環を繰り返し、ついにある種のクライマックスに達する。パイドロスの場合は、裁判所命令によって逮捕され、社会から永久に排除された。
ハイドロスとは古代ギリシャの知者ではなく、筆者の過去の人格である。筆者は狂人扱いされ、電気ショック療法を施され人格を失った。その過去の人格をパイドロスに見立てているのである。

これらの内容についてはまだ完読してないので控えるが……。この引用した部分の表現が妙に気になる。ぼくを突き動かす衝動のひとつは疎外感からくるものでもあるので。

It's been so long

ぼくの書いている内容が次第に観念的に落ち込んで行くのを見るのはおもしろいことだ。

ぼくはすでに何かを意志して書くのではない。もはや書こうという意志すらない。食事を摂るように、排泄するように物を書いている。

これだけ書いていると、何か日常的な出来事を書くことがつまらなくなってくる。今日は楽器がここまで上達しました……。論文が行き詰まってます……。女の子とうまくいかない……。といったこと全て、表象的なことに感じる。

世の中にはひとつの基準しかない。上か下か、である。ぼくはその間を揺れ動く。基本的にぼくの日々は、上に昇る方法の模索と実践に費やされているが、それすら意志の仕事ではない。かえって意志のしがらみから離れようというところにある。

意志とは何か?ぼくは脳による味気ない作用だと思っている。肺が、腸が純然たる「生きるための器官」であるように、脳もまた「生きるための器官」に他ならない。「脳とは情報削減装置である」とある生物学者が言っていたがそのとおりで、生きていくのに必要なように、「理性的に」「功利的に」精神を導くものが脳であると考える。その作用が「意志」である。

西田哲学的に言えば脳による削減を受ける前の、「主客未分」の「純粋経験」を追い求めなければならないということだ(西田哲学はぜんぜん理解できてないので間違ってたらゴメンナサイ)。

人間には本来、高みに昇ろうという意志がある。これこそが精神の世界のはたらきである。

といって、「意識高い系」のことを指しているのではない。彼らはろくでもない連中だ。
(安い居酒屋に行ったとき、横に意識高い系の学生連中(H大学の文系らしい)がいたことがある。本当に耐えられなかった……!海外旅行だの……起業だの……大声で喚きちらすが夢物語だ!悲しい夢物語だ!なぜ彼らは主人然とした顔で笑うのに奴隷的に見えるのだろう。)


……そうではなくて、人には本来的に生を全うしたいという意志がある。そうした意志は「商品」過剰の現代では見えにくくなっている。現代社会においてひとは普通、商品にかきたてられた欲望を商品の消費で補う。だから日常的な人間の生活はこうした意志とほど遠い。

こうした「よく生きる」意志というべき感情は、商品や消費の力の及ばない不遇な環境の中によく見られる。

例えばガン宣告を受けた男性の中に、聴覚障害者の中に、腰の曲がったおばあさんの中に、中東の傭兵の中に、ブラック企業の社員の中に、交通事故加害者の中に、あるいは精神病者、音楽家や詩人の中に見られる。

(ガン宣告を受けた男性、聴覚障害者、腰の曲がったおばあさん、中東の傭兵、ブラック企業の社員、交通事故加害者、精神病者、音楽家、詩人……。ぜんぶぼくにとっては美しい人たちだ。ぼくはこういう美しい人たちに囲まれたいと思う)

ぼくの日々は上下に揺れ動く。一日で昇れる量は少ない。高みの先になにがあるかはわからない。あるいは何もないのだろう。しかし、何もないこともまた素敵なことだと思う。

高みに昇ろうとしたって……志半ばで死ぬこともあるだろう。それでもぼくは自分の運命を呪うことはないだろう。高みに昇るとは、そういった慰めを持つ行為である。高みに至ることに価値があるわけではない。むしろ到達することは本当に可能なのだろうか?という気がしなくもない。

ああ、それにしても日々の積み重ね、自己との対話!
もはやここにあるのは自分と言語の二つだけだ。ぼくはこうした新しい慰みを得たことを嬉しく思う。孤独の世界が持つ豊穣さのなんと美しいことか。




まあそんなことを考えて、
いるの、
でした。

今日も楽器を練習しよう。

8.04.2014

脱力について

結局、息巻いたところで何にもなるものではない。
とにかく、ぼくは常に自由であろうと試みるのである。それは綱渡りにも似た微妙な感覚が要求される。

綱渡り……そう、バランスこそ何事の修養にも必要であると考える。ぼくらが何をしようにも、バランスは重要である。楽器をやるとき、バイクに乗るとき、ただ歩くにもバランスは重要だ。

ところが、ぼくが見る限り、バランスを崩して転んでしまったまま歩み続けるひとを見ることが少なくない。懸命に足を動かしたところで、悲しく自転するだけである、それも当然だ、目は硬く閉ざされているのだから。必要なのは足を動かすことではない。前に進むことなのだ。這いつくばってでも。そう、始めはだれでも四つ足から始めるのだ。そこから……。とにかく、前に進む。

ところで、バランスとは何だろうか。これを定義してみると、ヘーゲルの言ったような「肉体の流動化」に繋がると考える。例えば、熟練した職人がもはや、手指のようにハンマーを扱うところにバランスはあると思う。

何かを行為するとはどういうことだろう?
ハンマーを打ち下ろすのであれば、まずハンマーで釘を打とうと意志することから始める。そして体幹を捻る。上肢を上げる。打ち下ろす。指を握る。
しかし、職人は指を固く握って、その打撃のインパクトを台無しにしてしまう者が素人であることを知っている。そして、腕をどうあげようか悩む者が優秀な職工でないことも。

次第次第に脱力は最奥を志向する。手指から腕へ、腕から肩へ、肩から体幹へ、体幹から脳へ、脳から意志へ、意志から先は?

優秀な職工はもはや意志すらしない。彼は金や義務のためにハンマーを振り下ろすのではない。彼が生きることと、ハンマーを打ち付けることは同義なのだ。


荘子の達生編に、こんな訓話がある。

 梓人(しじん・木工師)の慶(けい)が木の細工をして楽器をつるす木組みの架け桁を作った。人々は余りに立派な出栄えに鬼神が作ったようだと驚いた。魯の殿様はそれを見ると慶に向ってたずねた「そなた、どんな技術でこんなすばらしい物が作れたのだ」。 
 慶は答えて言う「私がしがない細工師です。格別な技術などどうしてありましょう。けれどもこんな事はあります。私が架け桁を作ろうとするときは、いつでも内なる精気を決して損なう事のないようにしています。必ず精進潔斎して心を落ち着けるのです。
 三日も潔斎すると立派なものを作って褒美を貰おうとか官爵や利禄を得ようなど思わなくなり、五日の間潔斎すると、世間の評判や出来の善し悪しも気にかからなくなり、七日の間潔斎すると、どっしり落ち着いて自分の手足や肉体の事を忘れてしまうのです。こうなると心にはお上の存在も無くなり、その技巧が集中されて外から心を乱すものは消え去るのです。そこで初めて山林に入り、自然本来のありのままの形で架け桁を作るのにぴったりな材木を探し、完成された架け桁を心に思い描いて、それから初めて手を下すのです。そうでなければ手を下しません。つまり心の自然なありようで、材木の自然なありように合わせるのでして、私の細工ものが神業にもまぎらわしいとされる理由は、そのためでありましょう」。(引用元

この領域を目指さなくてはならない。

さっき「脱力」と言ったが、これこそ知性の証である。あらゆる知性は脱力に通じるとある心理学者が言っていた。確かに、仙人は完全に脱力しているようなイメージがある。空手の達人が瓦を割るときも、合気道の達人が返し技を取るときも、額に血管を浮き上がらせて力んでいたのでは興ざめである。


物を書くにしても、知性的でありたいものだ。優れた文学は常に微妙なバランスを神がかりな精巧さで実現している。音楽でもそうだ。

未熟な作品はすべてバランスが崩れている。「世間の評判」を気にするようであったり、あるいは風変わりな技巧によって。ぼくの作ったものもそうなのであって、早くこの領域を抜け出したいと思う。精神の最奥に到達したいと思うのだ。

寝る。

ぼくが芸術を支配する。

何を甘えきっているのか……。

――

ぼくが肉体を定義する。ぼくが肉体を支配する。ぼくの精神は肉体の所有物でない。

ぼくが芸術を定義する。ぼくが芸術を支配する。君たちでもなく、また芸術自身でもない。
ぼくは芸術を創りあげるが、それは芸術のためではない。また、君たちのためでもない。

芸術はぼくに奉仕する。芸術は永遠に奴隷であって、主人ではない。
ぼくの精神が芸術を創ることを意志する。高みに昇った精神は、ただ光を発することを望む。
光は遠く裾野を照らすかもしれないが、それはぼくの知ったことではない。

芸術はぼくのおもちゃであり、所有物である。ぼくが楽しむためのものである。
芸術に対する恩、そんなものは持ちあわせていない。
君たちにしても同様だ。遊ぶか、壊すか、そのどちらかである。

8.03.2014

ベース記念日

朝九時起床。珍しく遅くに起きた。この頃は毎朝六時に起きているのである。昨日の深酒にやられたのだろうか。最近はいくら飲んでもちっとも酔わないと思っていたのだが、睡眠時間が伸びているのであればきっと身体に負担となっているに違いない。

今日は日曜日で時間があるからと、モニターに向かって何か小説を書こうと思ったが、断念した。

いちおう内容を書いておこう。それは夏休み中の小学生の少年が主人公の話だ。
かいつまんで言えば、少年が中年男性(中身はぼくのようなへんてこな人物)と出会って、一緒に遊んだり話をする。少年はその男と遊ぶことに夢中になるけども、ある日を境にぱったりと現れなくなる。ここでちょっと男の自殺を匂わせる。そして少年の夏休みも終わり、日常に戻り、いつしか男のことを忘れていく……という流れ。最後は男の死亡記事で締めくくる(安部公房っぽい)。

が、あまりに書く気が起きないので諦めた。どう書いてもつまらなく見える。書き出しが凡庸なのだ(あらすじも凡庸だが)。書き出しが凡庸な名作はいくらでもあるが、名作だから許されるのである。この序盤ではだれも読んでくれないだろうな、と思うと続きを書く気がおきなくなる。書き出しが凡庸なのは、結局あまり書きたい熱意がないからだろう。別に書きたくなければ書く必要はない。どうせダメな作品になるのだ。

ぼくは大体evernoteにプロットを書く。そこには
少年
おっさん

おっさん自殺する
とだけ書いてあった。さすがに適当すぎるな。

 ――

消化不良で何だかもやもやする気分なので、部室に行って楽器を練習することにした。単調な基礎練習である。楽器をストイックに練習すると精神が癒やされる。しかしひたすら厳格に練習する自分が、それに耐えうる自分が、最近は少し悲しく感じることもある。ぼくは「舞踏」や「飛翔」といった言葉からはほど遠い類の人間である。天才型ではないだろう。

ぼくがときどきここに書く「七年続けている楽器」とは何の楽器なのか?気になる方もいるだろうが、これは言わないことにする。しかし、今日から新しく始めた楽器は「ベース」である。周囲にベースが欲しい、としつこいくらい公言していたら、ひとりエレキベースをくれるという後輩が現れた。それを今日譲り受けたのだ。

欲しいものは周りに表明しておくに限る。これは原付でもそうだし、女でもそうだ。原付は捨て値でくれる奴がいるかもしれないし、女は黙って狙っていると他の奴に取られる。

というわけで、楽器をひた練習してそれに疲れたらベースを弾くという美しいサイクルが生まれた。

ベースは非常に楽しい。グルーヴを作っているという感覚がある。ベースは地味だし、悲しいことにベースソロは不人気なようだが、演奏する側にとってはこんなに楽しい楽器もないだろうとぼくは思う。あの低音には魂と空間を変容させるような魔力がある。

朝から六時間ほど演奏して、さすがに腹が減ったのでカップラーメン用の水をトイレに補給しにいった。
遠くトランペットの音色が聞こえた。あいつに違いないと思ったらやはり友人の女だった。朝からずっとトランペットの練習をしていたらしい。子どものときから吹いているだけあってさすがに音がきれいだ。彼女の本職はヴァイオリンだが、何をやっても彼女の楽器は「鳴る」というより歌っているように聞こえる。

彼女にドラムを仕込んで、8ビートを叩かせた。当然へたくそなのだが、ぼくはそれに乗っかった。
ベース、めちゃくちゃ楽しい。そして気持ちがいい。コードや理論はさておいて、適当に弦を抑え、リズムとアクセントだけを意識して演奏した。それだけで昇天しそうな気持ちになる。
まったくなんていう世界だろう、音楽の世界は!ぼくはこちらの住民となって、粗雑な現実世界から消え失せたい気持ちになる。

彼女はクラシックあがりで、ぼくの知らない音楽をたくさん知っている。最近のお気に入りを聞いておいた。ドボルザークの第八番、サンサーンスの「死の舞踏」が良いとか。

今聴いているが、彼女は相変わらずワルツが好きなようだ。ワルツ、三拍子――とはもっとも原初的なリズムと聞いたことがある。今は四拍子が一般的だが……。三拍子の持つ舞踏的で、驚きに満ちたリズムはぼくも好きである。現代はピラミッドよりも高層ビルの時代なのだし、きっと四拍子が現代的なのだろう。
(調べると、農耕民族は四拍子を好み、狩猟民族は三拍子を好むようだ。日本人は完全に四拍子が身についているようで、例えば五七五は四拍子リズムである。)

音楽が好きな女、しかも独りで何時間も練習できる女は非常に魅力的だが、恋人にするにはトゲが多すぎる。そんなことを思いながら、酒を飲みつつ、これを書いている。今日は日記的に書いてみた。これはこれで楽しいです。

夢追いびと

昨日は大学の友人たちと酒を飲んできた。

就職している奴もいれば、夢を追う奴もいて、ぼくのように大学に残っているのもいた。
就職した友人達は立派に見える。彼こそ希望と夢をもっているように思える。東芝だの、NTTだの、株、車、恋愛……。ぼくにはよくわからない世界だ。

ひとり脚本家志望の子がいて、今そういった養成所に通っているらしい。すばらしいことだと思う。彼はだれにでも礼儀正しく、如才なく世の中を渡っていける人なのでそういった道が向いているだろう。

ぼくが何か文筆で飯を食おうと企んでいることは話さなかった。しかし、彼らとぼくとではあまりに前途が違いすぎるので目眩がしそうだった。これはまじめに就職した友人との差だけではない。脚本家志望だってヤクザな商売だが、ぼくと歩む道ははっきりと違う。

彼は現実に立ち向かって、仲間を作って、その中でお互い刺激しあいながら成長している。彼はもういくらかテレビ局に脚本やアイデアを採用されることもあるという。売れないグラビアアイドル、お笑い芸人……そういった人びとと協力して作品を生みだそうとしているらしい。

もはや成果を出しているのだ。着実に山を登っているのだ。同じ夢を持つ人びとと、信頼と友情を持って……。



翻って、ぼくは何をしただろうか。「何かをした」と言えるだろうか。ぼくはただ痙攣しているだけの夢見がちな小動物ではないのか。賞にも出さず、ろくすっぽ書かず。

ひとつ、救いの道がある。
それは音楽という芸術である。そこにおいては、ぼくは自分のことを正しかったと言える。ぼくは教本もろくに読まず、ライブにも出ず、プロにも習わず、ただ楽器と長い間語らった。そのお陰である技能が身についた。それは「聴く」という能力である。

昨日、飲み会の前のあるライブを見に行った。そのライブでは、プロのくせにぼくよりヘタクソな「パフォーマー」を見た。楽器が歌うよりは悲鳴をあげているようでぼくは聴くに堪えなかった。そしてそういう人間に限って、拍手喝采を浴びるのだから!ぼくはそのような音と無縁でありたいと思う。

静かな孤独の中で「聴く」ことの能力を養ったように、ただ独り、自己を豊穣させながら良い作品を書きたいと思う。楽器はぼくに音楽の道を示してくれたが……。文筆においては、ただ自己ひとつしかない。

しかし、優れた耳を持つこと!良い作品を書くこと。このことに意味があるのだろうか。世間が求めているのは喜劇役者であり、テクニシャン:技術屋なのである。「まじめな芸術家」に今価値はあるのだろうか、という気がしなくもない。

8.02.2014

精神得ました(報告)

ぼくはまったく自分が異常な人間であると考えている。自分の異常性に嫌気がさす。だから、ぼくの青春の大部分はこの病気を治すことに費やされた。実に十年近く、生活の中心に精神の病質があった。病苦とそれに対する悲哀に人生が塗りつぶされていた。

最近になって、やっと自分のことを認めることができるようになってきた。それは数多くの心理学や、文学、社会学の本のおかげだった。ぼくはぼくのような人間がいかに生きてきたかを知ったし、ぼくのような人間が決して「出来損ない」などではなく、正しい道を与えられさえすれば何らかの偉業をなしうることを知った。

やっと人生があるべきところに落ち着いたような気もするし、かえって、ひとつの峻厳な運命を目の当たりにして困惑しているようなところもある。

ところで、ぼくの過去の十年は無駄だったのだろうか。あの迷妄に満ちた陰惨な時代は何かの意味をなしているのだろうか。それはわからない。とにかくぼくは、世間の目や常識から自分を切り離すことを知った。ひとから忠告をもらうよりも、自分自身の主人となり、奴隷となることを知った。だからぼくは自分の半生を自分の目で見なくてはならない。

過去辿ってきた道は、今この文章を生みだしている。そしてこれからの文章も生みだすだろう。ぼくは過去を愛することもできないし、嫌悪することもできない。過去とはそういう対象になるものではない。ただ「在る」のであって、そこに色や匂いは見つからない。

ぼくの過去がただ「在る」のであれば、未来もただ「在る」のだろう。ぼくは肉を食う、タバコを吸う、女を抱く、物を書く。だが、それが何になるだろう。ただぼくは生きているのだ。生かされているのでもなく、眠っているのでもない。

ぼくはぼくの精神を得た。ぼくの精神はもはや意志や欲求に翻弄されることはない。人間に課せられたいかなる拘束具もぼくの精神を縛ることはできない。肉や煙草、女はぼくの精神の表象をただいたずらに波打つだけで、その奥底の静かな光を失わせることはできない。

神経症者の恋愛は地獄なのか

前にぼくは、作家を神経症タイプ(神経質型)と躁鬱病タイプ(循環型)に分けた。
そして、前者は恋愛に縁遠く孤独死するようなタイプ、後者は早婚することが多く、愛多き人生を歩む、というようなことを書いた。

これはけっこうあたるのだと思う。神経症型のぼくからすればあまり認めたくない事実だが、神経質な人間の恋愛はどこか異常性を孕んでいるのだ。

例えば、神経症であるぼくを見てみよう。ちょうど、過去の恋愛に神経症の典型的エピソードと思えることがあった。
ある子と付き合って一ヶ月くらいの頃。買い物にいく途中で、道ばたで彼女に似た女の子を見つけた。その少女は男と仲良く歩いていた。実際には別人だろうし、彼女はそのときバイト中のはずで、どう考えてもそんなところを歩いているはずはないのだが……。

「絶対に浮気している」という固定観念にとらわれて、ぼくはバイト終わりの彼女にすぐ会うことを要求した。そして、状況から彼女ではなかったと知りホッとした。(まあそんなことが度々あったので別れたが)

自分でもおかしなことであるとわかっているのに辞められない。これは神経症の典型的な症例である。例えば、もはや衛生上意味がないとわかっているのに手を洗わずにいられない。鍵が閉まっていることを何度も確認したのに、勤務を放棄してまで確認する。

マルセル・プルーストは喘息持ちだったと言われるが、彼の場合は神経型の喘息だったと言われる。つまり彼は実際には喘息ではなかったのだが、「喘息である」という固定観念から、まるで本当の喘息患者のようなアレルギー様の発作を起こしていた。
彼自身なんども医師から忠告されているし、神経性の発作であることを知っていながら、発作は起きてしまう。まったく倒錯している……。

統合失調症や鬱病などの他の精神病と比べて、神経症の病理は未知の部分が多い。脳の器質的問題だとか、神経伝達物質の過剰過小とか、幼年期の親の愛情の欠如などと言われるがはっきりとはしていない。治療法もせいぜい森田療法が多少有効であるとされているくらいか。
大部分のひとは思春期あるいは青年期を過ぎると症状がやわらぐというが、完治することはあまりなく、多かれ少なかれ病気と付き合っていかなければならないようだ。

神経症者の恋愛は病的である。病的に相手に執着してしまう。

だから、神経症が好む恋愛は「高嶺の花の女性に花束を捧げる」ようなことではない。一目惚れするような美人に対し神経症はすなおな気持ちを吐くことはない。こうした危険な冒険は彼にはできない。
交際女性に逃げられてしまうかもしれない……。その疑念が少しでもあるだけで、次第にそれは育ち、やがて彼は疑念に飲み込まれる。
自分では理不尽であると理解していながら引きずり込まれる恋愛、疑心暗鬼にさいなまれながら深みに落ちていく恋愛、それはほとんど神経症的な恋愛と呼べる。(「神経症者のいる文学」)
神経症が求める女性は「自分に全てを捧げるような女性」である。つまり、不貞などもっての他。生活の全てを自己に献上し、自己の支配下におけるような女性。人間としての意志など持たない精神的不具……。

しかし神経症者は恋愛において弱い立場にある。こうした支配欲求は、傷つけられることを極度に怖れていることに他ならない。だから、女性は機敏にそういう弱さを嗅ぎつけ、神経症者に失望し離れようとするか、あるいは優位に立とうとする。

愛する者は愛される者よりも社会的にはるかに上層に位置しながら、したたかな相手に翻弄され、嫉妬と疑心暗鬼の地獄にさいなまれ、破局を迎えるのである。(同書)


……

そう!
神経症者の恋愛とは地獄に他ならない。

しかし、地獄でない恋愛などあるだろうか?あたたかい恋愛があるとすれば、そこには妥協とあきらめがあるのではないだろうか。「正常な恋愛」、そんなものあるだろうか。恋愛は常に病気ではないか。

互いに高め合うような夫婦関係。気心の知れた「ともだち夫婦」。互いに相手を尊敬し、尊重する夫婦……。そんなものが何になるだろうか?また、そんなもの本当にあるのだろうか?

世の中には目を逸らすべきことが多い。そして、恋愛においてはそれらがもっとも凝集されている。

……

考えたのは、神経症者は恋愛において完璧主義的、理想主義的なのではないかな。ある作品に対して仮借なく取りくむのと同様に、恋愛においても少しのほころびも許さない。上のぼくの発言を見てみても明らかだ。だから、神経症者にとっては恋愛は地獄なのだ。完璧な恋愛などないのだから。

神経症者は、おそらく愛情の概念を理解していない。愛情を知る契機がなかったのかもしれない。
多少の過ちを認め、相手に干渉を許し、いびつな形ながらも関係を維持していくこと、こういった「成熟した」愛情の形を神経症者は認められないのだ。だから相手を支配したり、恋愛を怖れたりするのだろう。

もっとも、神経症であっても立派に家庭をもっている人はいるだろう。その人の努力をぼくは尊敬する。

8.01.2014

何もかも間違っていたのだ。

何かを超越しなければという感情と、この緩慢な日常に満足している自分の不潔さが戦っているような気分。ただぼくのしたいことと言えば、誠実に生きたいだけなのだ。死んだときに、「彼は生きていた」と言われることをまず望む。

ぼくと同じようなことを考えている人間が百人いるとすればぼくはそれらを全て薙ぎ払わなければならない。確かな才能と、確固たる意志をもった人びとを殺さなくてはならない。その優れた個性のひとつひとつを手にとってはつぶし、手にとってはつぶしてやる。甲斐のないことである。
仲良く楽しく生きるということが可能であれば、それでよかった。でも生きるということはどうやらそういうことではない。

どうせぼくの生も、意味はない。この生に執着することは意味がない。そうであれば、他者の生にももはや価値はない。必要であれば自分以外の全てを殺してみせるという逸脱、狂気じみた性向がどうやら創作の精神であるらしい。

ぼくは圧倒的な孤独の海にひたって、振り返らない。賽は投げられたのだ。ぼくの精神が血を求めている。ぼくの精神が暗闇を求めている。ぼくの精神は、乾くことを怖れているのだ。

ああ、楽器のように毎日練習すれば文章も上手くなるなんて!うまくなったからどうなると言うのだ。ぼくの文章は質量を持っているだろうか?ぼくは無軌道に文章を吐き出すが、その言葉が一体なんの意味を持っていたか。
ただいたずらに書かれた文章はありどころがわからず、とまどっている。そうして振り返って、こちらを見ている。ぼくはイライラして、体当たりを喰らわせてやりたくなる!

何もかも間違っていたのだ。全てが失敗だったのだ。何度この臨終の前の気分を味わえばいいのだろう。ぼくは何度死の苦しみを味わえばよいのか。