9.30.2014

なぜぼくは断食をしたのか

クレッチマーの体型分類というものがある。端的に言えば、デブは明るく社交的で、ガリは神経質で内向的という体型と性格の関係である。

この体型分類はやはり当たっているのではないかと思う。デブは当然たくさん食べ、ガリはあまり食べないのだが、おそらく食べるという行為と、人との交流の仕方には密接な関連があるだろう。

人の本性が出るときは、どんなときだろうか。それは強いストレスに晒されたときだ。ひとは切羽詰まると、社会的役割やペルソナ的人格を維持できなくなる。傍から見るとそういった状態は幼児的だったり、人格破綻に見えるものだが。とにかく人格は普段通りの精神の均衡を得られるまで仮面を外し本性を現す。

で、ぼくはここ数日、憂鬱な状態に置かれていたわけだが、そこで何かしらのアクションをしようというときにまずした行為は「断食」だったわけだ。つまり食べる、摂取することを拒絶した。断食というと主体的に行っているようだし、事実主体的に行っているように日記を書いたが、この拒食が強いストレスからの逃避や回復の目的で行われたことは今となると正しいと感じる。ちなみにぼくの体型はたまに健康診断で「ちゃんと食べましょう」と注意されるくらい痩せている。

人はだれしもがストレスを感じると拒食に至るわけではない。たぶん、「たくさん食べてストレス解消」という人の方が多いのではないかと思う。特に女性はほとんどがそうだろうし、それと同じように、外向的な人間であれば、ケーキやラーメン二郎を食べることによって精神的危機からの脱出を図るだろう。

これは人間関係についても同様だ。例えば何かしらの対人的なトラブルがあったときに、内向的なタイプは「しばらく一人にしてくれ」と言うだろう。もしかしたら、一人旅に出てしまうかもしれない。外界を遮断し、自閉的に閉じこもるのである。一方、外向的な人間は、家族や友人に親身に相談に乗ってもらい、慰めを得ることができるだろう。

食に関する行動様式と、対人的な行動様式は同様の傾向があるということだ。おもしろいなあとしみじみ感じた。おそらく仕事についても、前者は散漫で効率的であり、後者は融通が利かず、慎重にこなすだろう。

内向と外向の違いは、母親の愛情が関与すると言われている。外向的人間が他者を求めるのは、母親から十分な愛情を受けていたからで、彼は生涯他者に対して信頼を置き続けるというわけだ。内向的人間の場合、母親から十分な愛情を受けられず、人間不信に陥る。どちらが良いという話ではないが、後者は全般的に不幸であると思う。マア、幸福だけが人生ではないのだ。ちなみに前者は鬱病になりやすく、後者は神経症か分裂病になりやすい傾向がある。

内向的性質、外向的性質は遺伝的あるいは先天的に決まっているのだ、という説もある。ぼく個人としては、遺伝と環境、両方の影響があるものとしたい。当然、人間の身体は遺伝によって形作られるのだし、そうなら精神だって遺伝するに違いない。しかし環境によって人の身体は変化するし、精神もまたそうだろう。

ぼくが断食を好むというひとつの事柄についても、こうした理由があるわけだな。ぼくという人格を最近は多少客観視できるようになった。ニューロティックであることは、必ずしも悪いことではない。自分を知り、自分に向いたことをすることが幸せだろう。

日本の労働環境について

久しぶりに会う知人の女が「聞いたよ!鉄!」と言ってきた。田舎に就職することを聞きつけたのだという。ぼくが海の近くの街ではたらきたいのだ、というと驚いていた。そんなことで仕事を選ぶな、と。

ぼくは自分が働く、というイメージが沸かない。バイトはいくらかしてきたが、働いて楽しいという感情はほとんどなかった。バイトで友達を作ったり、仲間と協力して目標に邁進するというような楽しみ方をぼくは知らなかった。ぼくは時間と労働を提供し、店側はぼくに金銭を提供し……というだけの間柄。だから義理でシフトを融通させる必要も感じず、自主的に積極的にはたらこうともせず、勤務時間中もサボれる限りはサボった。仕事後の飲み会や食事には誘われなかったし、誘われても全て拒否した。第一、父親が自由業でありサラリーマンでも何でもない。親父を見ても社会の掟などまるでわからない。

そういうわけで、ぼくは余暇に生きようというのだ。一日8時間は労働のルーチンに沈めよう。それはけっして空虚な時間ではない。ぼくのような不感症でも、自分が社会の役に立っているという意識がなければ潰れてしまう。それに、8時間程度は慌ただしく働くのでなければ一日は耐えようのない重さを持つだろう。問題は、余暇だ。ぼくには本を読んで研究する時間と、楽器を練習する時間が必要だ。だから落ち着いた環境が必要だし、定時であがれることが必要だ。あとはそこそこの金。

日本社会の労働は異常である。ぼくのように社会に疎い人間から見ても、日本人の労働環境は狂気じみている。まず、通勤に平均して一時間かかるというのがおかしい。片道一時間なので、一日二時間。おまけに人口過密の満員電車に揺られるのだから、精神的にも肉体的にも負担は大きい。

あるアメリカの心理学者によると、片道一時間の通勤時間のサラリーマンと、同じ会社に徒歩で通うサラリーマンがあるとすると、彼らの満足度を均等にするには、片道一時間のサラリーマンに四割増しの給料を与えなければならないのだという。これはつまり、徒歩圏内のしょぼいアパートではなく、遠方のマンションや一戸建てを選ぼうという場合に四割分の給与を捨てることを覚悟せよ、ということである。通勤に一時間かけている人びとは大変な損失をしていることに気づかねばならない。

第二に、労働時間がおかしい。日本人は働き過ぎである。おそらく先進国中で世界一はたらいているのではないか?残業は平均して40時間ほどあるらしい(これは一部上場の大企業の平均である)。これを日に直すと、一日10時間労働ということになる。

そして、ここに統計にあらわれないサービス残業が加わる。現代日本において、労働者の実に半分が「残業代を全て貰えていない」のだという。さすがに一切出ないという例は少ないが、「残業代が半分しかでない」「所定時間以上は出ない」というような、企業のマイルールによって残業代が制限されるという不思議な事例がある。さすがにサービス残業を強制する大企業は少ないが、中小企業では公然と残業代未払いをしているようだ。

一日10時間働いて……一日の2時間を通勤にかける。7時間寝るとすると……残りは5時間?5時間のフリータイム?ちゃんちゃらおかしいよ、というわけだ。

ぼくは田舎勤務で、残業はないし(本当かはわからないが、労働条件にはそうある)、たぶん一軒家を借りるだろう(きれいな二階建ての一軒家が月7万円で借りられる!駐車場二台付きだ)。それに、通勤時間はおよそ15分程度だ。

ぼくの選択は間違っているのだろうか。企業ブランド、社会を動かしているという実感、エリートたちとの交遊、都会的な楽しみ、ぼくはそれらを全て捨て去って余暇を求めた。もちろん都市部でも定時上がりのホワイト企業はあるし、住宅手当が十万円出るから徒歩圏内のマンションが借りられる、という人もあるだろう。が、ぼくはそういったとこは落ちてしまったので、これは妥協なのだが。

9.29.2014

禁欲生活

断食もどき三日目。もう辞める。

糖分が欲しくなったらチョコレートをつまんでいるので正式な断食ではない。二日目の夜に眠れないのでハムエッグを食ったし、三日目(今日)など昼にミネストローネを食べた。ぜんぜん断食ではない。しかし普段の2,3割程度に摂取カロリーを落とし込んでおり、それなりに効果はあったと思う。ひとつに、下腹部がものすごく引っ込んだ。骨盤が浮き出るくらいだ。次に、頭がすっきりした。普段どれだけ消化にエネルギーや酸素を使っていたかを実感する。胃に物が入らないと副交感神経優位にならず、眠くならない。すっきりしたお腹と、すっきりした頭を手に入れたわけだ。断食はやはり良い。

不要な物を食べないと、いろいろ神経質になるらしい。音楽などの芸術性に対する感受性があがる。いろいろな変化に敏感になる。季節の移ろいや、その日の気候などに関心が向くようになる。性的な禁欲も断食とあわせると良いようだ。むやみと自慰やセックスをしようという気がなくなる。食事についても、ラーメンやハンバーガーのようなものを食べている人が信じられなくなる。自然と、野菜たっぷりのスープのような、消化の良い、原型をとどめている料理に箸が向く。以前断食したときは、ただ味噌汁とご飯……それだけが恋しかった。

今回は、禁酒、禁欲、断食を並行させている。禁酒は今の瞬間辞めた。酒ばっかりはね……。三日辞めたから勘弁してほしい。

この世の多くの病気は、ただ飽食を辞めれば治るようになっている。高血圧や高脂血症などは規則正しい生活をすれば治る。それなのにだれしも食欲を抑えることができないとは病的な社会であると思う。ただ脂を摂らないこと……塩分を摂らないこと……それがそんなに難しいことだろうか?目の前においしそうなご飯を差し出されて、我慢できませんだと?それじゃ豚じゃないか。

みな、一度断食をすべきなのだ。小学校あたりで、一日断食をさせればいい。一日食べなくて死ぬ奴はいない。人体はそんなにやわではない。飢饉を乗り越えてきた日本人は特に飢えに強い。断食をすれば、普段の食のありがたみがわかるだろう。いかに自分たちが甘やかされた環境にいたかがわかる。ぼくらは食品によって生かされているが、同時に不要な食品も摂らされていることに気づくだろう。

昭和一ケタ生まれの人などは、「魚なんて食べない、ハンバーグがいい、という子どもに対しては、飯などやらんでいい」と言ったそうな。ぼくもまったく同感である。……ぼかぁ頑固親父みたいになってるのかな。まあ、ともかく酒はうまいや。

9.28.2014

自己実現について

自分のことを深く知るにつれて、自分の意識や理性の小ささを知る。ひとは本当に自由意志を持っているのだろうか?という疑いが離れない。ぼくらは与えられた環境と、生まれもった遺伝子との間の相互作用でしかないのではないか……と。ぼくはぼくであるし、ぼくはぼくの皮膚感覚をもっていて、ぼくはぼくの四肢を動かすこともできる、思考することも可能だ。ぼくらは環境と本能との間に、理性があると信じている。でもそれが正しいのだろうか。それが自由意志を示すのだろうか。理性とは幻ではないのか。ほんとうに理性が介在するとしても、それがあることがはたして「良い」のだろうか。

脳は情報削減装置だ、と言った心理学者がいた。われわれは本当であれば、宇宙の真理を知ることができる。ただ脳が情報を取捨選択するおかげで……われわれはナイフとフォークを使って、目の前のステーキを口に運ぶことに終始するというわけだ。そうでなければ、われわれは生活することを辞めてしまい、すぐに死んでしまうから。

脳を介して見たときに、マロニエの根はマロニエの根だが、理性を介在させなければ、マロニエの根は「存在そのもの」になるのだろう。母親の死を前にして、「悲しむべきところだから悲しもう」と思うこともまた理性的なふるまいである。しかし理性を介在しなければ、母親の死とは必然であるし、特別悲しむべきことでもないと思うことが正しいのかもしれない。

ぼくらは環境と本能に従っている以上、常に正しい。異邦人であるムルソーが「ぼくはつねに正しかったし、今も正しい。」と言ったのもその意味で正しいのだ。といって、本能とは矮小なものではない。腹が減ったら飯を食べる。これはまだいいが、目の前に女がいるから犯す、というのも本能的な振るまいではない。人間の本能というのはそういう風にできてはいない。

マズローの欲求段階説は有名だが、これは低次の欲求を超越して完成した人間になる……というモデルなのではない。ぼくらは安全を確保し……食欲を満足させ……性欲を満足させて、それを土台にしてやっと人間らしい振るまいができる……というわけではない。

ぼくらの自己実現とは、実は本能的な欲求なのだ。ぼくらが自己実現の欲求を持っていること、これは動物と人間を切り離すものではない。むしろ理性を捨てて本能や無意識に立ち返ること、これが自己実現の近道なのである。なにしろ、マズロー自身、自己実現や自己超越は人間の「本能」であるとはっきり言った。

だから、むしろ人は理性的であるときに、自己実現を求めなくなるということがありうる。頭の固い教師や企業の重役はこのドツボに陥っている。自己実現とは崇高な欲求である、だれしもが求めるべきものである。ところでこの欲求は必ずしも形式的な教育を要するものではないと思う。むしろそうした教育が自己実現を阻害するということもたぶんにありうる。なぜなら自己実現の欲求は本能であり、本能とは生まれつき備わっているものだからだ。例えば教養の身についたエリートサラリーマンよりも、底辺ではたらくの農夫の方が自己実現しているということも十分ありうるのだ。

だから、ぼくらは知識をどんどん背負っていくけれども、時にはそれを全て取り払って、自由に伸びをすることも必要なのだと思う。そうして、真に本能に自由にさせてやること、環境と本能に手放しになることが必要なのだ。

なにもドビュッシーやモーツァルトを聴きまくることが教養を意味するのではない。AKBだろうと、GLAYだろうと聴くのだ。それが本当の人間だ。生まれたときから過ちひとつ犯さず、聖人君子のような、イデア的な人間などいない。「放蕩者の生活が聖者の生活へのいちばん近い道のひとつでありうる」のである。

何が言いたいかっていうと、とにかく自分を自由にしてやることが重要なのだ。自由にするということは、金をがっぽり稼いだり、女をレイプすることを意味するのではない。本当に自己の欲求に従ったとき、人は初めて自分の求めていることができるのである。

9.27.2014

断食デイ

断食もどきをしている。と言っても、水しか摂らない完全な断食ではない。今のところ、チョコレートとコーヒーは摂っているし、必要を感じたので野菜ジュースも飲んだ。最近勉強に明け暮れる日々なので、脳みそに糖分が行かなければ話にならない。それに、血糖値が下がりすぎては筋力まで落ちてしまう。ただ食事は丸一日していない。

酒は前から断っているし、「あの按摩」もしていない。カフェインを除いていろいろ断っている。これまで一ヶ月くらい、酒は飲む、むやみと按摩するで不摂生だったので、ここで生活をリセットしようというわけだ。

ダイエットとか、そういうはっきりとした目的はない。何か精神のわだかまりに、区切りをつけたいという曖昧な要求による。女が髪を切る心理と似ているかもしれない。

たった一日の断食と、数日の断食と禁欲だけでずいぶん見違えるようになった。水泳の習慣を戻したことも影響しているかもしれない。酒を飲んでいた時期は、ずいぶん自分の将来を案じたり、自分の無能さに嘆く日があったけど、ガラスに映った自分を見て安心した。ずいぶんと鋭い目つきをしていたのだ。顔が締まり、目に光が戻ってきた。

「こういう目をしているなら、まだ俺は大丈夫だろう」

と自信がついた。まっとうな、人間らしい人間に戻ることができたようだ。

神経もいつもの健康を取り戻した。音楽に対する感受性が戻ってきたし、秋の風景を美しいと感じるようにもなった。酒と飽食は本当に神経を鈍らせるものだと実感する。ぼくはアル中の作家である中島らもの作品もブコウスキーもヘッセも好きだ。しかし、ぼくのような人間は酒でダメになってしまうたちだろう。

かといって、過度の禁欲も才能を奪うことをぼくは知っている。だから難しいのだ。

禁欲的芸術家などほとんど考えられないが、禁欲的な若き学徒はそう珍しくはない。……だいたい、私は、性的禁欲が、エネルギッシュで独立独行の行動人や、独創的思想家や、勇敢な解放者、改革者などを生みだすのに役立つという印象を持ったことがない。性的禁欲はお行儀のよい弱虫を生むことがはるかに多い。そして、その弱虫は長じて、強力な個人が示す範にしぶしぶ従うような大多数の人びとのなかに埋没してしまうのである。(「創造のダイナミクス」ストー)

だれだって、弱虫にはなりたくないというのが本当だろう。マアとりあえず……明日まで食事は断とう。

ぼくが地方の小企業に行くまでの話

孤独に関する本を読みふけっている。

世間的な、大企業へ行くような、快活なヤッピー的な人種とぼくはどこが違っていたのだろうか。

学生生活を振り返ると、確かにぼくの周りは金持ちが多かった。医者の息子だとか、大企業の役員だとか、そういう家の子息が多かった。ぼくが家賃3万円のアパートでカツカツに生活しているのに対し、誕生日プレゼントで外車を買ってもらった歯医者の娘(しかも乗らない)、生活費とは別に月30万円の小遣いをもらってる医者の息子、23区内なのに門付き庭付きガレージ付きの豪邸に住んでる会社経営者の息子など。

ぼくは地方の旧家の生まれで、父親はあるスポーツ選手だった。両親はかろうじて大卒だったけれど、教養はなかった。車の中で流れる曲はDeep purpleだったし、母は酒を飲みながらカルビーのかっぱえびせんをつまみ、「100円で幸せになれる」と喜んでいた。親戚にかろうじて東北大卒の人がいるくらいで、教養だとか芸術のような文化的生活に無縁な田舎のロー・ソサイエティにぼくは属していた。

高校は底辺だった。かつては校内に監視カメラがついていたという噂だし、不良生徒がバイクで「校舎内を」走り回っていたという有名な逸話もある。学生の大半はDQNか勉強のできないオタクであり、煙草どころかドラッグで捕まる奴がいた。ヤクザみたいな男子生徒がキャバ嬢のような女生徒と反目し、「レイプすんぞ!」「やってみろ!」と怒鳴っている、ような高校だった。

そこからなぜ大学へ行こうとしたかはわからない。学問への憧れがあったわけではない。たぶんぼくは貧乏が嫌だった。「お金は大事だ」ということを、嫌というほど母親にたたき込まれた。そこで、ぼくは授業のほとんどを放棄して、自習に明け暮れた。教師も黙認してくれて、学校に来なくともぎりぎり出席日数を間に合わせてくれた。結果、MARCHの底辺くらいには受かったのだけど、満足できずに浪人。親には予備校になんていかなくていいから、一年好きにさせてくれと言った。結果、今の大学に来た。しかし、ぼくのような境遇の人間はレアケースのようだ。

一年間ほとんど交遊もせず黙々と勉強していたぼくは、大学に入ってすぐに新入生と馴染むことができずに孤立した。孤立した結果、学生生活に耐えられなくなり、一年で留年を経験した。ぼくの学生生活は楽器によって支えられていた。ひたすらに楽器を練習して、部員に認められて、やっと居場所ができた。そうして持ち前の「独学」で試験勉強をなんとか乗りこえてきた。

就活では、何もかもが馴染めなかった。大企業の人事の人間たちは自分とは違う人間のように思えた。それは大学ではほとんど交遊のなかった「ハイソサイエティ」の人種たちの未来像がそこにいた。明るく快活で白んだ面接会場を疑いもせず、調和してそこに存在していた。高級スーツと腕時計、社会の上位にいることに疑いも抱かず、平然としている人間。

結果、ぼくはそういう人びとの共感を得ることはできずに面接に落ちまくった。独学だけは相変わらず得意だったから、SPIの模試では常に上位だった。学内で一位をとったこともある。TOEICの点数も、労せず高得点を取れた。しかし、そんなことはまったく意味をなさなかった。ぼくは面接の場面では浮いた。なぜ自分がスーツを着てこんなところにいるのかわからなかった。面接官もきっと、なぜこんな人間がここにいるのか、と思ったことだろう。

ある求人が気にかかり、縁もゆかりもない地方の企業を受けたときに、大変気に入ってもらえた。面接が終わると車で観光名所の紹介をしてもらえた上に、晩飯を奢ってもらい、宿泊費まで出してもらえた。2,3時間経営者らと話したが、「都会は人間の住むところではない」と言っていた。彼らは夫婦で会社経営しており、それまでは某大手企業で働いていたという。妙な共感と居心地のよさを感じたぼくは、数ヶ月間悩んだが、結果その企業の内定を受諾した。

ぼくは地方から東京に出て、そうしてまた地方に戻る。世間的に見ればそれは没落かもしれない。大学の助教は、「そんなところは人間の行くところではない。」「負け組の行くところだ」とけっこう真剣な眼差しでぼくに言った。

しかし、案外本当の生活というものは田舎にあるものなのかもしれない、とぼくは思う。ぼくは田舎に馴染めず東京に出たが、東京にも馴染めなかった。結局、東京にいようと、田舎にいようとこの寂寞とした感覚はなくならないものだと思う。ハイソサイエティなひとびとは、東京に迷わず馴染める。田舎のDQNたちは、田舎の生活に順応する。ぼくはたまたま田舎に生まれたが、たぶん東京に生まれていようが転落し続けたことだろう。

これからの人生がどうなるかはわからないが、ぼくはけっこう自分の選択に満足している。

9.26.2014

就職活動終わりました。

今日、内定受諾の電話を入れた。さんざんじらされたので、先方は大喜びである。

ぼくが勤めようとしている企業は、ある地方の小都市にある小企業である。本当に小さい企業だが、待遇は悪くない。ぼくがこの仕事に決めた理由は勤務時間であって……。9時から18時まで。残業は月に2~3時間だという。月に、である。信じられないよ、まったく。いまどきどんな企業でも残業はある。公務員であってもそうだ。だから、自由に時間を使えることを優先して選んだ。

結局ぼくは始めに志したような大企業に入ることが適わなかったが……。いずれにせよ、数年で辞める予定だったのでどうでもいいことだ。大企業に入社していたとしても、大体ぼくの志望した部署は激務であり……繁忙期は月80時間残業した、と説明会で言っていたくらいだ。月80時間とは「厚生労働省がきわめて危険性が高いとしている過労死認定基準」である。しかしネット界隈を見ていると、このような職場は日本ではざらにあるというのだから恐ろしい。

他にもぼくが志望した企業は大体がハードワークで……22時帰宅、7時出勤は当たり前だとか……。ああ、まったく!一体人はなぜそこまで働くのか?その仕事は本当に人生の大部分を捧げるのに値するのだろうか。

そうなると必ずしも大企業に入社することが正しいとは思えない。労働とはあくまで他人や世間のためにすることだ。それ以外に、本を読む時間、楽器を練習する時間がなければぼくは発狂してしまうだろう。(もちろん残業ほぼなしの大企業もあることは知っている。しかしぼくの学部から行けるような大企業は……そんなものはない!)

まあ、ともかくこの小企業についても、数年で辞めることになるに違いない。というのも金を貯めたら一年くらい、あちこちを放浪して回りたいのだ。

ところで、やっと就活が終わったのだと思うと感慨深い。去年の九月からSPIだのTOEICだの何だの……ぼくは努力したが、今になっておもうとそんなことは重要ではなかった。ぼくは集団に向いていない人間だった。社会性のない人間だった。人事の人間はそういう奴を落とすことに余念がない。まともな、成熟した、安定した企業においてはそういう人間は基本的には不要である。

だれしもが会社勤めに向いているわけではない。というのが実際のところである。だからぼくの就活は失敗したわけだ。まあ、それはそれで良いという気もする。食っていけないわけではないし、ぼくは肩書きにあまり興味はない。

ひとまず、生活に一段落ついた。学生生活も残り半年か。生きるということは何かを失うことだという実感がますます強くなってくる。

できるならニートがいいけど

金を稼ぐことだ。人に尽くすことだ。

ぼくの精神に欠如したものを取り戻さねばならない。それは人間性、社会性、義務の精神だ。人間はひとりで生きているわけではない。理不尽なことにも耐えなければならない。社会に溶け込む努力をしなければならない。仮借ない現実に向かって、生活に向かって立ち向かわなければならない。最低限、大人になったのだから経済的に自立しなければならないし、そこから見えてくるものもあるだろう。

ぼくはどんどんと悪い世界に行く、自分の行きたくない道へ行こうとしている。しかし、そうでない人間などあるのか。それが人間の本当の生活ではないのか。戦時中の若者の手記を読んで何を思ったか。人間の崇高さは生活や環境とは別のところにある、ということだ。むしろ仮借ない生活の抵抗があってこそ生がきらめくこともある。抑圧的な環境が才能を花開かせるということもある。運命に対して無条件になることだ。閉じこもるのではなく、自己を開いていくことだ。

人生には本当にいろいろなことがあるが、自分だけしたいことをするというわけにはいかない。そんな人生は作られたもの、提供されたものであって自然ではない。この世のほとんどの人間は、与えられた運命を全うしている。一部の天才か、狂人を除けば、すべての人間は生活のささやかな喜びに慰めを得て、二本の足で立っているのだ。それが本当の強さだろう。ぼくはなんて甘えているのか。「働きたくない」「自由でありたい」?ぴよぴよひよこちゃんだ。自由はつかみ取るものであって逃げた先にあるものではない。

社会的に優れた人間であること。義務を全うし、後ろ指を指されぬ人間になること。これをひとつ経験してみるのも悪くない。

金は、しっかり稼いでやろう。そこからだ。ぼくは残念ながら金で満足できない人間である。しかし人間何をするにも金は必要なのだから……。金を得て、それからの目標を見据えよう。

金が入ったら、新宿で必死にはたらいて生活しているある女の子を支援したいと思う。彼女はぼくより聡明であり、勇気を持っているから……。金を受け取る権利がある。ぼくは恵まれている。親が金を持っていたから大学に行かせてもらって、割のいい職を得ようとしている。彼女は大学も出ていない。自分の金で家賃を払い、生活費を稼いでいる。助けてやることだ。ぼくにできることと言えば、それくらいだ。しかし、それはエゴではないだろうか?彼女の自立した精神を阻害することになりはしないだろうか。金を与えるということにも責任はある。

ともかく、金の使い道を考えることは楽しいことだ。ぼくは絶対に金を浪費させることはないだろう。贅沢に興味はない。かといって、貯蓄に励むこともないだろう。世間的にみれば無駄なこと、もったいないことに費やすだろう。他人の助けに金を投じるだろう。旅に出るために金を使うだろう。

ぼくは来年から働くことになる。それを考えると、薄ら寒い気がしてくる。しかし、だれしもが食い扶持を得るために働いているのだ。甘えていてはいけない。

9.25.2014

憂鬱との付き合い方

めんどくさい神経を持ったもので……。

今日一日沈鬱としていた。何がいけないのかわからない。ぼくは、自分の何に不満で何に迷っているのだろうか。なぜぼくはここまで憂鬱でならなければならないのか。四肢は重いし、頭はしびれたようにはたらかず、動きは緩慢で、のろのろと歩くしかない。視界は色彩を失い、対象は意味を失い、意識が閉じこもっていく。

ひたすらに憂鬱と戦う。風邪を引いたようなもんだ。対処法はある。しかし何度直面しても、この憂鬱には慣れない。最近は断酒しているので、酒で解決することはできない。本当は、睡眠薬を飲めれば一番良いのだが。あらゆる憂鬱は睡眠が改善してくれるのだから。ハルシオンは特にいい。抗不安作用もある。ぴんと立った神経をなだめてくれるし、いささか強引ではあるが眠りに意識を沈めてくれる。10時間も眠れば大抵の憂鬱は改善するものだ。

しかし、最近の心療内科は大繁盛しているようで……。予約が二週間先ということもザラなのだ。必要な薬が手元にない。他の病院へ行くにも、紹介状がないと受け付けてくれない。八方ふさがりだ。ハルシオンは最大処方の28日分を貰っている。これをもったいないので、半錠ずつちまちまと服用する。何、「飲んだ」という事実だけでもほっと安心して眠れるものだ。それが、いつのまにか切らしてしまったようだ。

ぼくらが精神衛生を考えるとなると……突然ひどい憂鬱にかられるとなると……合法の範疇では、本当に脆弱なものしかない。ショックアブゾーバーは酒か、煙草か。あるいはセントジョーンズワートのような精神作用を持つサプリメントか。

ぼくの場合は、しょうがないので、コンビニでココアとチョコレートを買ってきた。本当であれば、友人に悩みを打ち明けるというのがいちばん自然でいいのだろうけど。ぼくにそんな友達はなし。ぼくはひとりで憂鬱と戦うしかない。


ところで、就職は明日決定させる予定である。さんざん引き延ばしてきたが、もう就活は終わりにしてやる。

ぼくが就職に対して曖昧な態度をとってきたのは、何も勤務先が田舎だからとかいうわけではない。ぼくは長らくそういうふうに誤解してきた。でも、本当は「働く」ということ、「学生」という身分から「労働者」という身分に移ることが嫌だったんだと思う。学生という立場はまだ自由で、未分化な卵のようなところがある。才能を開花させるのも人次第……。しかし、職場では卵であることは許されない。成熟した人間であることを要求される。ある程度、円滑な歯車であることを要求される。

ぼくはまったく社会性については未熟で、おまけにエゴが強い。だからたぶん上手くやっていけないだろうことを始めから知ってしまっている。神経症というネックもある。だから、ぼくのような人間はひっそりと死んでいくのが好ましいのだろう。あるいはだれの迷惑にもならないところで……地下牢のようなところで……手記でも綴っていればいいというのが本当なのだろう。

ぼくにとって労働は本来的な行為ではないのである。賃金に値するはたらきができる自信がない。しかしそんなことも言ってられまい。ぼくは昔このブログで、卒業したら就職なんかせずに「世界旅行に行きたい」と言った。それ自体はすばらしい考えだと思うが、そのために何をした?金はない。英語力もガタ落ちしている。モラトリアム少年は何だって言えるさ。でも、もう二十五歳なんだから、夢みがちな少年ではいられないのだ。

まあ、何でもいいさ。少し気が晴れた。


混沌がぼくを飲み込む前にすべきこと。ゆっくり風呂に入ること。ヘッセを読むこと。映画を観ること。眠くなったら、ベッドに入って、スマホを握らずに目を閉じること。今できる最良の処方箋だ。

ああ、ハルシオンが恋しい。

「人と違うことを怖れてはならない」

「人と違うことを怖れてはならない」

人と違うことを怖れてはならない。これは昔読んだビジネス書に書いてあったことである。あの当時は、それを読んで理解したつもりだった。

まだ何年も学生生活の残りがあった時期である。その言葉に感銘を受けたぼくは、変わったことをやってやろうと思った。しかし、せいぜい妙な資格の勉強をしたり、海外旅行に出かけるくらいで、相変わらず学生のままだった。「正規のルート」をぼくは歩んでいた。

人と違うことというのは、奇抜な服装をしたりピアスを開けることではない。「人と違うことを怖れてはならない」とは、学生の身に甘んじることではない。いざとなれば大学を中退して、何かの勉強に打ちこんだり、ベンチャービジネスを立ち上げたりという選択肢もあったはずだ。しかしそれほどの厳しい決断というのは、頭に浮かびさえしなかったのだ。

しかし今、実際に人と違う道を歩もうとしている。かなりイレギュラーな人生を歩もうとしている。その決断にずいぶんぼくは迷ってしまった。「東京」、温もりのある第二の故郷が恋しかった。大学のみなと同じように哀しみ、喜び、それを共有したい気持ちにかられた。見知らぬ土地へ飛びこんでいくのが怖かった。

しかし、「ひとと違うことを怖れない」ということは、孤独と、肌寒さを受け入れることなのだと思う。ぼくはこの言葉の意味を、些末なビジネス書に書かれた言葉の意味をまるで理解していなかったのだ。本当に「ひとと違う」ということは、奇抜な服装とは大違いだ。だれも同伴せず、だれも支援してくれない道を行くのだ。その荒れた道を進むには、強靱な精神力を要求される。ぼくは強い人間ではない。敏感で弱い人間だ。だから、この言葉を実践することは正直、怖い。怖いが、やらねばならないという妙な使命感だけがぼくを後押ししている。

いざ心を決めてしまうとそれが正しい決断のように思えてくる。見知らぬ土地で特殊な職業に就く。結局、そこまでしようという人はなかなかいない。故郷も離れたくないし、都会も離れたくないというのが人間だ。

ぼくはつねづね「アウトサイダー」であると自認してきた。今更、人肌恋しいなどと言ってはならないのだ。成功したら、それで良し。失敗もまた良し。行動せずに口だけで夢を語り、堡塁を築くことに人生を費やす小市民であってはならない。ぼくは自分で自分を投げだしてやらねばならない。恐ろしい方向にもどんどん行ってやろう。結局それが正しい道だ。

9.24.2014

馬鹿の手記

俺は何をやっているのだ。

俺はただ生を燃焼させたいのだ。俺はだらだらと過ごしたいのではない。生を空費させたいのではない。運命に対し手放しになろう。怖いこと、ダメになる方向へ進んでやろう。職業や、勤務地がなんだというのだ?俺はただ進むのだ。俺が進むこの道の意味を、大部分のひとは理解することができないだろう。君にとってはそうかもしれないけど、俺にとっては違う。それだけの話だ。

明日になったら、入社承諾の電話を入れよう。どうにでもなれだ。

金は必要だ。しかし知識はもっと必要だ。もう知識は十分手に入れた。俺は金の使い道を誤ることはない。田舎へ行こう。そこで金を稼いで、その金をもっと増やしてやろう。そして、自由になる。いろんなものを見る。金は自由を得るためと、世界を知るためだ。そのために使おう。そんなこと、二年前には知っていた。知っていたのに、今になって迷っている。バカか。何も成長していないんだ、俺は。

金は必要だ。現代じゃ、金がなけりゃ何もできないし、誰も見向きもしないんだ。ある程度稼いだら、何でもしてやる。思いっきり楽しんで、思いっきり絶望してやる。この世では、まともに悲しむにも金が必要なんだ。

俺はくだらない労働者になる。生活のために働く労働者になる。そう、俺は天才ではない。才能も実績も何もない。だから俺は自分で自分を助けるしかない。しかし、こんな俺でも生きることは可能だ。俺は死ぬときに、ただ「彼は生きた」と言われることを望む。

寂しくなったら女々しく喚き、怖くなったらぎゃあぎゃあ騒ぐ、そんな人間には一切の価値はない。こうと決めたら動じるな。くだらない人間なのだから、せめて高潔であれ。

趣味について。

最近またプール通いをしている。

泳ぐという行為に無性に惹かれる。というのも、水泳は水と肉体だけの単純な世界である。そこには他者は介在せず、人為的な何者も存在せず、一個の秩序がある。

水はそれ自身で自然を提供してくれる。水に浸かるという非日常的な行為がゴミゴミとした現代の喧噪からぼくを引き離しているというわけだ。たぶん金持ちが水泳を好むのはこういう理由ではないかと考えたりする。

水泳していて思ったのはもうこりゃ一生モンの趣味だな、ということであって、一生続けたい趣味がまた一個増えたことになる。ひとつは読書であり、ひとつは楽器であり、そして水泳だ。もうこの3つは三大栄養素の如く、ぼくの生活を構成する三大趣味である。もうひとつ、バイクを加えてもいい。ぼくが人生に少しばかり感謝するとすればこうしたすばらしい趣味に巡り会えたことである。

ところでいずれの趣味にも共通することなのだが、もはや上達とか、そういうことを考えなくなってしまった。上手くやろうという気がない。ただ自然に、自分が好むままに、行為の中に沈湎している。自己に対する否定も肯定もない。もちろん、技巧的に稚拙にやっていてはつまらないので、自然と上手くやるよう身体がはたらくのだが、以前のようにがむしゃらに技術を鍛錬するということはなくなったのである。

例えばぼくより速くコーナーを曲がれるバイク乗りは山ほどいるし、ぼくを楽々と抜いていくスイマーもいる。ぼくよりたくさん本を読む人はざらにいて、ぼくより上手く楽器を演奏する人も然り。でも、ぼくは彼らに嫉妬するということはなくなった。彼らを見て俺もがんばろうという気がなくなった。

この感情は何だろうか。ぼくも落ち着いたということだろうか。バイクが、本が、楽器が、水が与えてくれる世界を無条件に受け入れるということ。結局いずれの趣味も孤独を要求するものだ。ぼくは趣味に対し、他者の不在性を求めているようだ。

一生バイクに乗っていたいと思うし、他の趣味も続けたいとぼくは思っている。しかしそのいずれも、生活とは乖離している。ということはつまり人生に肉薄していないのだ。軽薄で、無責任で、つまらない慰めでしかない。自慰的な趣味であるということだ。これが正しいのか?恐らく正しくないだろう。もっと葛藤と、努力が必要なのだ。そうは思っていても……。

なんだか最近は無為に日常を過ごすだけだ。生きているという実感が沸かない。また嫌な倦怠の時期がきたのかもしれない。

9.23.2014

自由について考える。

今日も中二病日記を書く。

現代ではもはや絶対的価値観はなくなってしまった。昔であれば、村単位の共同体が全てであったし、あるいは宗教がこの世の「理」を描いていた。

村社会は牧歌的な社会である。「いかに生きるか?」と悩むことは現代人より少ないだろう。共同体のために献身してはたらけばだれかが守ってくれるし、共同体はアイデンティティを与えてくれる。村の一員として、誇りをもって生を全うすることができる。

ある部族の話をすると……彼らは太陽神を信仰しているが、毎朝儀式を行う。彼らは儀式を行うことで、自分たちがエネルギーを与え太陽を動かしていると信じている。彼らが儀式を辞めたとき太陽は昇らなくなり、闇の時代が訪れ、世界は滅びると……。

ところが、現代は「個人」の時代であり、神もとうに死んだ。「世界を守るための儀式」のような絶対的な価値基準が喪失してしまった世の中では、おのおの個人が自分にとっての「正しいこと」を模索していかなければならない。

おそらく自由であるということは、過酷で峻厳なことである。というのも、人は自由になった瞬間、何をしてよいかわからず当惑し、信ずるべきもののないことに恐怖してしまうからだ。

自由とは、絶対的な価値観を拒絶したところ、または絶対的な価値観とされているものの矛盾を暴き、それを超越したところにある。であるから、当然それはすがるべきもの、人生に意味を与えてくれたところの価値観と決別することである。

現代人の多くが、「意味」を喪失してしまっている。なぜ生きているのか……。考えてもわからず、大抵の人は考えることを辞める。しかし、たまに変に凝り性な人間がいて、彼らは精神を病んでいくというわけだ(夏目漱石もそうして神経を病んだという)。「不誠実か、発狂か」という言葉がある。これは真実に生きぬことは不誠実であり、しかし真実を求めようとすれば、道を踏みはずし発狂することが常という意味だ。

現代にあって、人はだれしもが自由になることが可能である。にも関わらず、会社、親、恋愛、学歴、年収、権力、新興宗教、マスメディア、あるいは2ちゃんねるの偏差値表などの既成の価値観に自己を帰属したがる。帰属というよりは、隷従と言った方がいいかもしれない。価値観は勝手に与えられる。それに従えばとりあえずの幸福が約束される。その方が「ただ生きる」だけならはるかに楽ではあるので、大部分の人間がこうした権威にすがって、特に疑問もなく生きている。

年収200万円であるよりは年収1000万円である方がよく、後者であるから自分は「幸せ」であり「正しい」と感じる。しかし当然ながら年収200万円の者の方が正しく幸せであるということも多々ある。問題は、そうした可能性を度外視し、思考停止してしまうことにある。前者は自分を失敗者で不幸だと感じ、後者は自分を幸福と感じる。これが絶対的価値観にすがるということの意味だ。両者とも目を開ききっていないのである。生きるとはそう単純なことではないだろう。

個人として生きる人間は、最終的には、自分を知らなければならない。他者や集団の価値観から自由になった個人にとって、ただ信ずるべきもの、正しいものは自己にしかないからだ。デカルトの「我考える、ゆえに我あり」を引用してもいいだろう。あらゆる社会規範や、既存の思想は「不自由」のもとである。だから、自由な人間はただ自己をのみ追求する。多くの哲学者や芸術家が「エゴイスティック」であったのは彼らもまた自己の重要さを知っていたからである。

おそらく自己をどれだけ掘り下げてみたところで尽きるものではなく、答えなんてないのだろう。そんなことが可能であれば、たぶん仏陀のように「解脱」し、後光が差していることだろう。だが、解脱なんてほとんど全ての人間には不可能だ。たぶん人間に可能な最良、最善の人生とは、模索し、悩み続ける人生である。

過去はどこまでも追ってくる。死の間際には、だれしもが「自分の人生は間違っていた」と悟って死ぬのだろう。それが人間の原罪である。生まれ落ち、死にゆかねばならない人間の罪である。人間の本質とはこうした葛藤にある。人間の本質は悩むことである。だから、悩むことを辞めてはならない。獅子が駆けることを、鳥が飛ぶことをやめてはならないのと同じように。悩んでいる限り、正しいのである。例え全てが間違っているように思えても、悩む以上ひととして正しいのだ。

たぶんね。

9.22.2014

死と孤独について

わたしの涙をたずさえて、あなたの孤独のなかに行きなさい。わが兄弟よ。わたしが愛するのは、自分自身を越えて創造しようとし、そのために破滅する者だ。――ツァラトゥストラはこう言った。

どうしたって生きるのは難しい。もっと自然に生きられれば良いのだけど!社会的な制約がそれを許さない。ぼくは社会さんとはほどほどにお付き合いしたい。老後の面倒は見ますよ、選挙権あげますよ。ああ、まだるっこしい。

でも、社会がなければぼくはあっけなく死んでしまうことも確かなのだ。いくら、過去の天才たちが孤独によって叡智を授かったとしてもだ。社会に憤り大衆を軽蔑したことのない賢人はいなかった。しかし彼らのだれ一人として、社会的動物でなかった者はいないのだ。

しかし、孤独とは人類の全般的進歩のひとつである。実は「集団生活」は人間特有の文明的な生活ではないと言うと、驚く人が多い。集団生活それ自体は、サルでもイルカでもできることである。何度でも言うが、フロイトがマジでびっくりしたことに、原始生活では「個人の意志、思考」は存在せず、「集団の意識」が個々人を支配しているのである。

これはちょっと考えてみればわかることで、例えば寂れた山村にいくとすると、村民みな似通った考え方をしていることに気づくだろう。断固とした村の戒律、あるいは長老の意見が最優先であり、彼ら個人の意志は存在しない。老婆だろうと若者だろうとひどく似通っていて、村ひとつが意志を持っているような錯覚に陥る。都会では逆だ。演歌ではなくクラシックを聴いてるからといって集団から排斥されることはない。詩人を名乗っても石を投げられることはない。文明的な社会とは、得てして個人主義的なものである。もっとも、都心でも大部分が村社会的なのだが……。

ニーチェが「まことに、個人とは近代の産物である」と言ったように、最近になって人間は集団から抜け出すことができた。しかしいまだ集団的意識に支配されている人もいるのである。例えば、マスコミの作ったブームに踊らされたり、会社に人生を捧げてしまうようなタイプがこれだ。彼らはまだサルかイルカのレベルだ。団塊世代の男性を見ているとこのタイプが多く……まるで小学生かと思うような幼稚さなのだが……まあこれはいい。

ともあれ、個人であること、孤独であることは、人類の比較的新しい一歩なのである。

ひとはどんなときに孤独へ逃げ込むのだろうか?

ぼくはたぶん、将来確実に訪れる自分の死を認識したときだと思う。というのも、これは高度に知性的なことだからだ。小学校三年生レベルの知能が必要であるとされており、それ未満では、死は眠りに近しいもの、自分には訪れないものと誤認される。

人は自分の将来の死について考えたとき、集団的迷妄から目を背ける。集団的迷妄の中では死について考えるようなことはしない、させない。ハクスレーの「すばらしい新世界」における「幸福な」ユートピアでも同様である。
「死に対する条件反射訓練は生後十八ヶ月で開始されるのです、――子供たちは死を当然の出来事と考えるようになります。」

ぼくは道行くひとびとにこう問いたい衝動にかられることがある。例えば新宿駅のホームで……

「そこの忙しげに歩くサラリーマンよ!君たちは、自分が死すべき存在であることを知っているのか?それは数十年後かもしれないが、明日かもしれないのだ。そして、いつか必ず君らは死ぬのだ。だれかではなく、君らが死ななければならない。それでも明日の生活のために、人生を犠牲にするのか?せかせかと、歩かされるのか?生活のために生活を犠牲にするのか?」

なんて言ったら即交番行きだと思うのだけど。ぼくはACのような広告機構に、「あなたは死にます」と言って欲しい。そしたら、みんな少しはまともな生活が送れるんじゃないかなあと思うのだ。和気あいあいとした熟年夫婦がにこやかに「死亡保険が○千万円もつくのね」と言っている保険のCMじゃあ意味がない。

あなたは死にますよ、と。別にどこかの殺人事件や天災に恐怖することはないのだ。君も死ぬ。早いか遅いかだけだ。死をもって人は初めて生きることができる。

バルビュス「地獄」の主人公も言っている。「死こそ、あらゆる観念のなかで重要なものだ」

9.21.2014

金や権力の虚妄

今日は一日バイクに乗っていた。昼には帰ろうと思っていたが……寄り道をたくさんしてやった。家に帰りたくない気分だったのだ。

ぼくのバイクは200ccしかないチンケなバイクなのだが、不思議としっくりくるので長く乗っている。1100ccのバイクにも乗ったことはあるが、どうにも手に余る。重すぎるし、過激すぎる。メンテもしづらい。

200ccのバイクでポコポコとかわいい排気音を奏でながら走っていると、風景と風とエンジンとが調和してなんか悟りみたいなものが見えてくる気がする。どんな大型バイクよりも200ccのバイクの方が良いということもありうるのだ。

ところで、バイクで走りながらいろいろなことを考えた。

もしも、だ。もしも、すばらしい高級料理よりも白ご飯のおにぎりの方が好きという人間がいたらどうか(某芸術家を思い出すが)。高級ワインよりも、単なる水の方が好きという人がいたらどうか。世界遺産の絶景よりも道ばたの草花を愛でる人がいたらどうか。

そういう人は、どうやって生きていけば良いのだろう?とぼくは考える。たぶんそういう人の方が、生きることはずっと困難ではないかと思うのだ。

普通の人のように、自炊するよりはフランス料理が食べたいし、山梨県に住むよりは港区に住みたいし、平社員であるよりは社長でありたいというのであれば話は簡単である。大部分の人がそう思っているのだから、道は踏みならされている。ビジネス書でも買って、自己啓発セミナーに行けば良い。そしてバリバリ働けばよい。迷いなく、狂いなく、黙々と。そうこうしているうちにお迎えがくるだろう。それがきっと幸福な人生だ。

そうではなくて、おにぎりや水で満足してしまう人は?もはや何も必要としない人は?世間が用意してくれる、高級マンションだとか、高級車のような一生を捧げてようやく得られるような目標をもたない人は?高級車の魅力も、マンションの魅力も、幻影でしかないことを知ってしまった人はどう生きるのか?

金や権力の虚妄に気づいてしまう人がいる。金や権力というものは、一見すばらしいものだが、空虚である。というのも、それらへの志向は社会安定のための用意された目標だからである。市民が「もっと金を!」と願わなければ経済なんて動きっこないのだ。市民が「水とおにぎりあればいいやん」と思ったら、国は栄えないだろう。

ぼくは今、その段階にいる。金や権力にはもはや魅力を感じない。それは人生の目標とするにはあまりに脆弱だからだ。何かこう、打ちこんで、全力を捧げるべき物事があるはずだ。一個の人間として為すべき仕事があるはずだ。

その仕事は、何だろうか?何だろうか。

難しいなあ。

MUSS ES SEIN

昨日は勉強中、ずっとある女の子のことを頭に思い浮かべていた。そうして、今朝は彼女に無視される夢を見ていた。こうした情愛をコントロールすることには慣れていたはずなのに、人間の感情は思い通りにならないものだ。

何がぼくを彼女に惹きつけるのだろうか。その音楽的才能だろうか。さっぱりした性格だろうか。機知に富んだ話し方だろうか。家柄の良さだろうか。彼女の痩せぎすな身体だろうか。神経質な顔つきだろうか。酒好きなところだろうか。ぼくのあげた小説を読んでくれることだろうか。ぼくに手料理を作ってくれることだろうか。

わからないが、もう終わったことだ。ぼくは次の女性に向かわなくてはならない。場合によっては、女性そのものを断たねばならない。それは禁欲という意味ではなく、性交の間であっても心を許さないということだ。決して愛することなく愛するということ。「存在の耐えられない軽さ」のトマーシュに似ている。

坂口安吾は太宰の入水自殺に触れてこういった。
元々、本当に女に惚れるなどゝいうことは、芸道の人には、できないものである。芸道とは、そういう鬼だけの棲むところだ。
ほんとかいな、安吾さん。



生き方に大いに悩んでいるが、丸山健二を見ていると自分の人生の先輩という気がしてくる。彼のような孤独の生き方、集団的に生きる人びとを軽蔑する生き方にぼくは正直嫌悪感を覚えるが、同族嫌悪のようなものかもしれない。

芸術の役割とはこういうところにあるだろう。つまり、現代における異端者、キチガイや異常者が正しく精神の葛藤を昇華させるような道を与えることである。ぼくがセザンヌの絵を見て涙するのも、ストラヴィンスキーを聴いて涙するのも、彼らが紛う事なき「異端者」であり、彼らが異端者でありながら「正しく」生きているその知性、力強さに感動するからである。

おそらくぼくのような精神疾患持ちは欠陥品ではなく、正しく道を与えられている。しかしその道を無視したり、「いやいや」をして進むことを拒むと、精神疾患として顕在してくる。

いいかね。君が進むのは修羅の道、というわけだ。君はまっすぐとその道を進まなければならない。そうでない限り、君は一歩も進めない。ガスが漏れていないか気になって一向に目的地に辿りつけない神経症のように、気狂いとして終わるだけだ。

ぼくらに与えられた道は普通の人とは違う。ただ違うというだけなのに、それに恐怖している。たしかに、常識的ではない道だ。孤独で寂しい道だ。しかし、その道を進まなければいけない。道を進むか、そこに止まるかしかない。君には普通の道はない。異端の道しかないのだ。進むか、とどまるか選べよ。

「そうでなければならない」。

丸山健二に対する感情

丸山健二という小説家の作品を読んだ。作品というか、「田舎暮らしに殺されない法」というエッセイなのだが。ブログとかツイッターも興味から見てみた。

彼の人格に強い共感を覚えるときもあれば、そうした自分を恥じることもある。とにかく強烈な人物である。


彼の容貌はまるで右翼活動家のように強烈だが、ツイッターの発言を見ると左翼家である。というか、文化人は基本左翼なのだろうが……。顔の造形は松本人志に似ている。峻厳な、創造家の顔つきである。

彼は「孤独のエキスパート」と言われている人物であるらしい。長野県の山間に住み、庭いじりをしながら小説を書いているのだと。23歳で芥川賞受賞。綿矢りさが同賞を19歳で受賞するまでは最年少受賞者だった。

生まれる時代さえ早ければ、彼は太宰治や三島由紀夫に匹敵する文豪だった、と言われている。……本当だろうか?本当かもしれない。三島由紀夫が現代に生まれていれば自衛隊に向かって叫び、自刃する必要もなかったのではないか。ツイッターで咆吼し、それなりにリツイートされれば満足してしまうものかもしれない?太宰も入水なんてせずとも?か。そうかしらん。

彼の作品や、ツイッターを見ていて感じるのはたまらない好意と嫌悪感である。それは彼があまりに人間らしく見えるからかもしれない。彼はまだ人間を失っていない人間である。ひたすらに野性の本能に従って生きている動物の獣臭がむせかえるほど強烈なように、彼もまたその人間臭を失っていない人物である。彼は小説家であるから、その人間臭さは書物やツイッターからも漂ってくる。

彼の著書、「まだ見ぬ書き手へ」を買った。自分のような人間が目指す先は、彼のような徹底した孤独人なのかもしれない。そう思うと、その道が恐ろしくも感じる。ぼくは彼のようにニューロティックに叫び続けるのだろうか。まあ、それは今やっていることだけど。それにしてもスキンヘッドはいやだなあ。
本物の光は漆黒の闇のなかでしか輝きません。
本物の感動は現実のおぞましさのなかでしか出会えません。
(「田舎暮らしに殺されない法」より)

9.19.2014

はるちゃん

今日は疲労が蓄積しているので学校を休んだ。目が覚めて身体が重たいときは休むべきだ。別にやらなければいけないこともない。無理をするから病気になるのだ。おそらく、慢性的な睡眠不足と長期の飲酒が原因だろう。ここあたりで生活をリセットせねば。

日本人働きすぎ問題

ローマ帝国の文献を読んでいたら庶民の労働は一日五,六時間、朝から昼までとあった。あとは余暇の時間であり、劇場やコロッセオに行ったり、社交に興じたりして文化的活動を楽しんだ後、たっぷり九時間眠るのである。

江戸時代も同様であり、一日三時間もはたらけばあとは余暇だったという記述があった(気がする)。週に三日は休みだったとも聞く。

どうして現代人は豊かになったのにも関わらず一日八時間も働かねばならないのか。洗濯機もあり、掃除機もある。生活は便利になった。それなのに、なぜ労働時間はむやみやたらと伸びるのか。ひどい例だと、一日十二時間以上も働かされるということもあるのだ。これはまことに文化など何もない生活であって、ローマ人のように仕事終わりに劇場なんて行けるはずもなく、ただ家に帰ったら眠る。土曜日も疲れがとれないので眠る。日曜日にやっと、劇場をひとつ見れるというのが現代人の一般的な生活ではないのか。

こうした文化的貧困はいわゆる「日常系アニメ」に端的に表れていると思う。日常系アニメとは数年前に流行った、単に女の子が高校生活を送るというだけのアニメである。なぜそんなものが好んで視聴されたのか。視聴者はただ憩いと救いを求めているのだ。暑苦しい少年漫画のようなものは、視聴者を情熱だとか、勇気、正義に駆り立てる。そんなものは鬱陶しい。

視聴者は憩いと救いを求めている。だから、視聴者は実は視聴すら求めていない。彼らが欲しているのは、ただテレビの前に座って「休む」ことなのである。だから低刺激で情報量の少ない日常系アニメは好都合なのだ。日常系アニメはいわば現代の河川的な原風景であって、河川と同じように適度なノイズが緊張をほぐし、精神安定作用をもたらす。

またよくわからない仮説を立てた。ところであらゆる精神疾患の原因は「睡眠障害」であるとも言われる。「原因」とは言い過ぎかもしれないが、大抵の精神疾患は睡眠障害から始まることは事実であるという。日本人の睡眠時間は先進国中の最低クラスだ。その理由は過剰な労働時間とストレスによる過緊張であることに疑いない。必然的に精神疾患の温床となっており、日本は世界にも稀に見る自殺大国である。

「最近よく眠れなくて……」ということがあれば、すぐに心療内科にいくべきだ。そこで睡眠薬をもらうといい。本来であれば、労働局へ訴えて労働時間の改善を求めるのが良いのだが、彼らはまったく効果がないのが通説だから、自衛するしかない。ぐっすり眠れば大抵の精神不安定は治るものだ。

アル中と睡眠薬

ぼくはよく心療内科で「ハルシオン」を貰う。作用時間が短く、強力な催眠作用作用を持つ睡眠薬である(そのお陰で睡眠強姦に用いられたりラリパッパが遊んでイメージの悪い薬だが、正直それならもっといい薬がある)。

ぼくは最近軽いアルコール依存症と不眠に悩まされているのだが、このハルシオンが双方の改善に役立つ。睡眠改善薬であるから不眠に役立つのは当然として、アル中にどうして役立つのだろうか?それはライフスタイルの改善を見込めるからだ。

酒を飲む時間を考えると、これはもう確実に「夜」である。そして、場所を考えると「家」である。つまり、「夜」に「家」で過ごす時間に、必然的に酒が欲しくなってしまう。そうだから、夜に家にいなければよい。といって、それは現実的ではない。だから「夜」の時間を減らしてしまうのである。

ぼくらは普通家に帰ってから夜寝るまでを余暇として、朝ばたばたと会社や学校に行くのを日常としているが、そうではなくて、自宅に帰ったらすぐに寝てしまい、早朝起きるという生活にすればよい。普通、夜の七時や八時にすぐ眠れないものだが、ハルシオン様があればなんとかなる、というわけだ(次第に生活サイクルが形成されていくと薬も不要になる)。朝から酒を飲もうという人はいまい。

この早朝起きる暮らしのよいところは、好きなだけ眠れるということである。目覚まし時計に起こされるのではなく、自分の身体が望む時間だけ眠れる。

ショーペンハウエルは「朝は人生のエッセンスである」としたが、人の脳のはたらきは普通、朝もっともよく働く。この時間を無駄にしてはもったいない。朝の空気は澄んでいるし、静寂につつまれてまったく快適である。コーヒーを飲みながら静かに読書している時間の方が、酒に酔ってくだらないことをしている時間よりはるかに貴重であると思うがどうか。

9.18.2014

そうだ、内定辞退しよう

喜びと悲しみの循環を繰り返すような日々だが、時間とともに確実に何かが失われているのを感じる。おそらく人生とは螺旋を下るようなものなんだろう。

ただ孤独にでも書き続けることだ。ぼくは田舎への就職をほぼ決定したと書いたがそれはもう辞退しようと思っている。というのも条件が話と違うからだ。思っていたより激務だったのである。経営者としては「不景気だからしかたない」「人手が足りないから仕方ない」のだろうが、嘘はついたらいけないでしょ。その点を話あって、納得いく説明がなければ辞退、だ。また就職活動を開始するのはめんどくさいが余暇の時間だけは譲れない。ぼくは金と暇のために田舎へ行くのであって、バリバリ働くためではない。

未だに就職が決まっていないというのは少し焦燥を感じることでもある。周りを見ると、大手企業に決まって意気揚々と社会人としてのスタートを準備したり、学生生活の残りを楽しんでいる。こうなったら、最悪フリーターでも良いという気がしている。これまでの学生生活を振り返ると、大して金がなくても生きていけるのである。

それで、金よりももっと重要なことはあるはずだ。その「何か」を突きつめれば結局金はついてくるし、金への執着ももっとなくなるだろう。iwatam氏は現代は金よりも知識の時代だとしたが、当たっていると思う。コリン・ウィルソンは昼は図書館に籠もり、夜は野宿というスタイルでベストセラー「アウトサイダー」を書いた。その方が、サラリーマンよりずっといい。甘い考えと一蹴されるだろうが。

就職活動を振り返ってみて思うことはぼくはどうしても集団に馴染めず、定着できない人間であるということだ。エゴが強すぎるのかもしれない。こうした人間にとって就職は難しい。どんな会社でも、決してひとりで成り立つものではないから。そして、簡単に離れていくような自由人は不都合だ。ぼくのような人が向いているのはたぶんSEのような、職人的な技術をもって抽象世界に没我するような職業だろう。

最近一日中自習室に籠もって勉強しているのだが、そのようなときにぼくは世界が調和的であると感じる。生活があるべきところに落ち着いていると感じる。ぼくのような人はきっと多いだろう。なかには友達と楽しく快活にしゃべっているときに調和を感じる人がいるし、あるいは自分の部下が黙々と働いている姿に調和を覚える人もいる。おそらくその充足感は、自分の性質、生まれ持った性質と環境が一致していることによって起こる。

人それぞれ違った性質を持っている。ユング心理学を元にした「MBTI」という心理テストでは人を十六種類に分けている(これはよく当たるので米国の採用試験にも使われている)。たぶん、内向的な人間が弁護士になるのは向いていないし、外向的な人間が工芸職人になることも向いていないだろう。判断的な人は科学者に向いているし、直感的な人は芸術家に向いている。だから、人それぞれ違った目標があっていいし、その方が社会はうまくいくのだ。

どんな川も最終的には海に辿り着くものだ。ぼくらは無理に川をせき止めたり、迂回させようとするが、それは逆に遠回りだ。ただ自分を自由にさせてやること。自分の本当にしたいことを見つけ出すこと。それが幸福だろう。

さぐりを求めると・・・その人の目がさぐり求めるものだけを見る、ということになりやすい。また、その人は常にさぐり求めたものだけを考え、一つの目標を持ち、目標に取りつかれているので、何ものをも見いだすことができず、何ものをも心の中に受け入れることができない、ということになりやすい。さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである。(「シッダールタ」/ヘッセ)

「人間には、何かの目標がなければだめなのだ。おそらく目標だけが、人間を退屈から引き離す。 」とぼくは前書いたのだけど、ヘッセは真逆のことを書いている。ダメダメだな、ぼくは。

9.17.2014

二十五歳

ヘッセの「シッダールタ」を読んだ。シッダールタとは釈迦のことであり、ようはお釈迦様の伝記である。

なるほど時間なんて形象でしかないのかもしれない。過去の自分も未来の自分も同じであるということ。ぼくらは死を怖れてはいけない。なぜなら、ぼくらの生はすでに死を内包しているし、時間が形象に過ぎないのであれば、生きているということは死んでいるということでもある。永遠の命があるとすれば、それは宇宙の理に反することだろう。

今日アクセスカウンターを見てみたら過去にないくらいアクセスが悪かった。こんなものか。文筆家になる、と言っておいて文章でひとを集められないのだから悲しいことだ。おまけに昨日、久しぶりに人とセッションしたらあまりにひどい出来だった。しかし音楽はいいのである。ぼくは音楽で食おうとは思っていない。音楽は孤独と相性が悪いという気がしている。あれもコミュニケーション能力が要求されるものだ。

文章においては、孤独も良い味付けになる。どうせ孤独なら、とことんまで孤独な方がいい。ブログで中途半端にアクセスを稼いでもしかたない。とまあ、アクセス数を気にするなんて俗物的で小市民的なのだけど。

いや、確かにぼくは俗物だ。しかし聖人の真理にも憧れるものだ。しかし実際には、俗物になりきることもできず聖人になろうという決意もできず、宙ぶらりんの人間だ。どうもぼくには勇気が足りない。なぜだろう。しかし、自分を無理にでも変えようという熱く燃えた若い時代は過ぎ去ってしまったように思う。昔はナンパに挑戦したり、リア充集団の集まりに参加したりしたけど。ぼくの青春は終わってしまっただろうか。妙に自分は自分なのだから、仕方ないというような落ち着きがぼくを沈めている。

退廃である。死である。しかし、なんだろうこの絶対的な肯定感は。ぼくの四半世紀は自分を否定することに費やされたが、これからは自分を肯定して生きていけるということだろうか。自己肯定とは、同時に恐ろしいことである。世間的には負け組の領域に落ちていくことだ。なぜなら、このままではいけないという感情だけが人を高みに連れて行くからだ。苦痛を盛んに受け入れ、重い荷物を背負うようなラクダの時代があって初めて人は獅子になれるのだ。

シッダールタでは修業の道中、川渡しに出会い、その弟子になる。川渡しは仏陀のような賢者の教えを乞おうとは思わない。ただ川の音に、声に耳を傾けるだけである。彼はそれによって、それだけによって真理に到達した。彼は川渡しであることを恥じなかった。彼は真理を得るために必要なことを知っていた。

ぼくはどうなるだろうか。ぼくは正しく生きているだろうか。自分が正しいという感覚、これはすべて誤っているのではないか。ぼくは確かに平静としている。落ち着いている。しかし、そんなことでぼくは正しく生きていけるのか。生の正しい態度とは「怒り」ではなかったか。ぼくの青春はすでに死んだのだろうか。ひとは二十五歳くらいになると変わる。
どんな人でも、その若き日には、全体的な精神的態度において、新鮮さと興奮性とを多く保っており――二十五歳頃から、徐々に、あるいは急激に消え去ってしまう。その後にくるものは、機械的な職務の処理と、睡眠と、食事とであって、個性と呼ぶべきものはほんのわずかしか残らない。(「天才の心理学」/クレッチマー)

ぼくは一個の社会人として落ち着くのだろうか。あれだけ騒いでいて、ねえ。

9.16.2014

感動屋の生禅

稲妻に悟らぬ人の貴さよ   芭蕉

ぼくと同じように鋭敏な神経の持ち主はゴマンといるだろう。そして、そういう人間が文筆家を目指す可能性は高い。理由は単純で、ひとりでできるから。

内向的人間は芸術が好きだ。芸術を知る感性もあるし、芸術はひとりでやるものだ。おまけに芸術は普通、ひとつの世界として完結している。秩序立った世界を構築することはニューロティックな人間にとって魅力的である。箱庭療法みたいなものだ。

スーザン・ケインは弁護士を辞めて執筆業を始めたが、その取材中、著名な心理学者にこう言われたそうだ。「君みたいな人は、自己完結的な仕事をやりたがるんだよ」

芸術家にしろ、精神病者にしろ、彼らが強い「エゴ」を持っているとはアンソニー・ストーの言った通りである。問題はそのエゴをどうするかだ。エゴに潰されるのか、エゴを秩序立ったものに昇華していくのか。

一体ぼくだけに優れたものがあるだろうか?ぼくが他のニューロティックと違う点はあるのだろうか。きっとあるはずだ。人間はみな、天命というものを持って生まれたとぼくは信じている。問題はそれに気づくか気づかないかなのだ。それに気づく人間は苦難にあっても幸福だし、気づかない人間は満足していても不幸である

天命はどうやって知ることができるのか?それはたぶん、額面の年収でもリクナビでも2ちゃんのまとめサイトでもなく、ただ自分の精神の内奥にあるはずだ。人は耐えずこれを知ろうと求めなければならない。

天命を知るとは、自分本来の生き方に立ち返ることである。自然に生きている人は、正しい行為しかしない。彼は行為の中に没我し、行為の全てが自発的、能動的であり、例え人の役に立つ行いをしても見返りなど求めはしない。

これは「愛」と言うこともできる。愛は常に能動的であり、代価を要求しないものだからだ。そうでなければただの偏執である。ひとを愛するためには、まず自分を知らねばならないということだ。

いきなり愛とか語っちゃって自分でも気持ち悪いから辞めよう。ともかく、人間はいちど孤独になるべきなのだ。静かに自分の精神に耳を傾けるということ。大衆の喧噪で自分の心を散り散りに切り裂いてはならない。

9.15.2014

人生の意味を考えている

しょうもない一日だ。特に何をしたいという欲求もなく生きている。前に「家畜はつながれて飯を食べていくだけで満足できる」と書いたが、今日の無気力で怠惰な一日は家畜とまったく変わるところなし。ぼくもただ生を漫然と空費しているだけの存在に過ぎない。

田舎暮らしをシミュレートしてみたところ、案外悪くない。生活には余裕があるし、車さえあれば不便ではない。残業はほとんどなく通勤時間は十分。ぼくの嫌いな人混みも満員電車もない。ただ近所づきあいを経験したことがないのでその点だけは問題になりそうだ。引っ越しの挨拶はきちんとしたいが、町内会だけはやんわり断りたい。自由に暮らせなければ意味がない。独身の単身者なら、断ったところでそこまで問題になることはないだろう。

仕事が終われば毎日海に出たり、読書をして過ごすのだ。楽器の練習をしたり、バイクの整備をしたりね。田舎だから金は溜まる。しかし、そこからは?

ぼくは田舎に定住するつもりはない。どこにだって定住するつもりはないのだ。就活をしているときにこう言われてぞっとしたことを覚えている。「これから40年以上はたらく会社ですから、慎重に会社選びをしましょう」。そう、40年。40年もの間ひとつの会社ではたらくのが「普通」なのだ。40年会社員として働いて、何になるだろうか。その人生は自分のものだっただろうか。死ぬときに「もっと働けば良かった」と思う人はいない。

田舎で金を貯めてぼくは何がしたいのだろう。かつてぼくは年収2000万円を目標としてライフプランを立てていたが、それはぼくが豪奢な生活に憧れていたわけではなく、早期に金銭から解放されるためだった。解放されて、さて、その次は?ぼくは何がしたいのか。ぼくは自由に向かいたいのではない。自由になって、それからしたいことがあるはずだ。それがなければ全て空虚だ。



人生の意味を考えている。精神病や神経症の病因は「意味の不在」から来るものだという説がある。人生に意味なんてない、という恐怖が神経症者を襲う。この虚無感は「死に至る病」である。だから、それに対する防衛反応として神経症が発症する。

しかし、どうだろう。人生に本当に意味なんてあるのだろうか。例えば家族への愛情だとか、社会への貢献をすること、この行為に意味があるのだろうか。ぼくらはただ生まれ死んでいく。その間に何かしらの意味を見つけることは可能なのだろうか。考え始めるとぼくらは虚空に浮かんでいるシャボン玉のようにあっけない自己の存在に気づくだろう。何者も絶対ではないのだ。

ある部族は毎朝きまって儀式を行うという。その儀式は太陽神に捧げるもので、彼らが儀式を辞めると太陽はエネルギーを失い、動くことを止め、世界は滅びるのだという。もちろんこのこと自体はまったく空想的で荒唐無稽だ。しかし、その部族は幸福ではないだろうか。太陽を動かし、世界秩序を維持するというこの上ない使命を持った彼らが、人生の意味の喪失に悩むことはない。

日本では熱心な宗教家もまれだ。ぼくらはすでに地球が太陽の周りを回っていることを知っている。ぼくらが生きようが死のうが、数億年は地球が自転を続けることを知っている。ぼくらは自分たちに崇高な使命も何もないことを知っている。ぼくらがしなければならないことはチンケな仕事をして日銭を稼ぎ、税金を払い、飯を食い、女を抱くことだ。

それらのどこに意味なんてあるだろうか。先に述べた部族の顔は精悍で真剣であり、崇高な使命感を持った人間だけが持つ情熱に燃えた目をしていたという。いったいこの国のだれがそんな顔をできるだろう?

神経症者はおそらく、人生に意味なんてないという仮借ない事実を知ってしまっている。問題はそこからだ。意味のない世界に屈服するのか、そこから立ち上がっていくのか。地獄の絶望に沈みながら、それでもにっこり笑えるかなのだ。人間の気高さや偉大さはそうしたところから生まれるのだろう。

……

前に人生に執着することを辞めた、と書いた。しかし暇ができると考えてしまうものだ。「偉大な人はいかに生きるかを常に考えている」とセネカは言ったが、ぼくはそれが優れているとは思わない。考えて、その次には行為をせねばならない。行為を。

9.14.2014

人生が旅であること

頽廃的な日々を送っている。

ぼくの人生は恐らく旅のようなものになるだろう。昔から旅が好きだった。ぼくは両親が目を離すとどこかへ消えているような子どもだったという。そして幾ばくかして、ひょこっと現れる。あそこを奥に行くとキレイな沢があったよ、とどうでもいい情報を手にして。

今でも旅は好きだ。インド、マレーシア、タイ、オーストラリア、韓国……。旅は必ずひとりで行くことにしている。友人といくと、旅情が濁るのだ。結局のところ旅とは一人になるために行くものであり、「自分探しの旅」などと言うように腰を据えて自分と向き合うためのものなのだ。

旅とは必ずしも快楽に満ちているわけではない。おそらく快適に過ごすのであれば日本以上の場所はないと思う。飯はうまいし、清潔な環境で、世界一の接客。だから海外旅行をする若者は減っているのだ。しかし、旅の目的はむしろ刺激を受けるためである、と言えば否定する者はないだろう。

人間だけが退屈を許されていない。乳牛であれば、数畳の世界で事足りるのである。毎日飼料を食べ、糞を片付けられて、ただ繋げられていても数十年を生きる。人間は何かをしなくては生きていけない生き物である。登山家も世界一大きなパイも同じだ。ひとはなぜ山を登るのか?これは理性的なものではない。上っ面だけの功名心だとか、狂気が彼を支配しているのではない。おそらく人間には、何かの目標がなければだめなのだ。おそらく目標だけが、人間を退屈から引き離す。

「海外なんていって何になるんだ。金を払って嫌な思いをするだけじゃないか」と言う人間は、たぶん人間というよりは牛に近いのだろう。食べてすぐ寝ると牛になるよ、と言うが、人間も牛になれるのだ。もっとエゲつない言葉を使えば彼は家畜だ。彼は人生に満足しているのだ。おいしいご飯も食べられるし……。ネットでオナニーできるし……というわけだ。おそらくこうした人生は間違っている。少なくとも、ぼくの肌には合わない。

人生が旅であるということ。ぼくの人生は循環を描くのではなく、直線であるということ。

循環的な人生とは、再生産的な人生である、両親が自分を産んで、自分も子どもを産む。親が政治家だから、自分も政治家の道を歩む。親が高学歴だから、自分も受験をがんばる。そうして財を引き継ぎ、それをさらに子どもに受け継いでゆく。こうした人生はまともで、幸福だ。大部分の大衆の目標となる人生でもある。

直線的な人生とは、おそらくそこまで生産的なものではない。最先端の技術を身につける、だれもやったことのない分野で活躍する、何か創造的な行為をもってして、人類全般の「進歩」に貢献する。当たれば生産的だが、大部分は何もできずに終わってゆく。

ぼくはたぶん後者だろう。なぜかはわからない。ぼくは変テコな人生を歩んでいる。親は無教養だし、高校はほとんど最底辺だったが、独学でそれなりの東京の大学に進んだ。そして次には田舎へ飛ぶのだ。

音楽でいえば、J-POPを聴くかクラシックやジャズを聴くかというところだろう。ぼくがJ-POPを聴くと退屈なように、クラシックを聴くと退屈な人間もいるのである。クラシックは世界の中に音楽を得ることができるのではない。音楽の中の世界に没入することを要求するのである。これはひとつの冒険である。

ぼくの人生は旅である。しかし旅でない人生があるだろうか?旅のように過酷でなく、刺激もないとすれば、それは恐らく偽物の人生だ。人間は生身で、自分の身体ひとつで生きていかなければならない。神経を尖らせて、鋭い目つきで前に進んでいかなくてはならない。

9.13.2014

君は人生を降りたのかと言われたので

田舎に暮らすことを決意したので、それを周囲に宣伝している。なんのことはない、ぼくはまだ迷っているのだ。言うことによって決意を固めたいのである。

ぼくがしようとしているのはいわゆる「Iターン」。縁もゆかりもない土地に赴くのだ。「上京」ではない。京も何もない。みんなになぜそんなことをするのか、と言われるから、端的に金が良いのだ、と答えている。

まあ、仕事とは他人のため、金のためにすることだ。ぼくは経営者の奴隷になろうとしているが、経営者だって社会や顧客の奴隷なのだ。あらゆる労働は隷属である。しかし本当の仕事というものがある。本当の仕事とは、ただ自分のためだけに行うことだ。ぼくが書き物をするときは別に顧客のためだとか、読者のためとか考えることはない。ただ自分が求めるままに書いている。これこそ本当の仕事だ。自分が自分のために行うことが、本当の仕事だ。

それでは田舎勤務はどうなのか、というと残業がほとんどなく、通勤に体力や時間を奪われることがない。仕事自体もハードではない。おそらく、家に帰って「本当の仕事」をするというすばらしい生活ができると思う。

ぼくは田舎に行きます、と言うと君は人生を降りたのかと言われることがある。人生を降りるとはどういうことなのだろう。たしかにぼくは普通でない方向に生きようとしている。同級生たちにぼくのような人間はいないか、とさんざん訪ねたが、「いない」という。田舎に行くと言っても、せいぜい千葉とか、埼玉のような、郊外どまりである。そしてみなそれなりの企業に就職するのだ。

思えば、ぼくはアンパイな人生を歩んできたと思う。ぼくは自分の人生がおよそ困難な道であることを早くから知っていた。神経症は中学二年あたりから発症し、そこからはまともな人生を歩めないことを覚悟した。だからこそ、大して好きでもない学問を勉強し、食いっぱぐれないような大学や学部を選択したのだ。好きだった漫画は書くことを辞めたし、SE(当時は憧れの職業だった)になろうという気もどこかへ行った。

今となってはその選択は有効に働いたと思う。今のところ、破滅的な人生は歩んでいない。ぼくと同じ病気のひとをネットで見かけると、仕事を辞めてニートをしているとか、引きこもりになって高校を中退したという人がいるので、幸運にもなかなか適応できていると言える。

人生を降りるとはどういうことだろうか?都心は確かに引力を持つ。埼玉や千葉に住んでいる人のほとんどが、チャンスさえあれば東京に住みたいと思っているだろう。みなその中心に近づきたいと思う。都心はピラミッドの頂点なのである。同様のピラミッド構造は他にもある。それは会社だ。経営者が頂点で、底辺は平社員である。だれもが昇進を望んでいる。ピラミッドの上に行きたいと思う。

おそらく人生を降りないということは、その都心への志向を、経営者への志向を保ち続けることなのだろう。ぼくが行こうとしている田舎を、「負け組の行くところだ」と言い切った教授もその類の人間だ。それが人生を降りることを意味するのであれば、ぼくは確かに人生を降りたのだろう。しかし、ね。
かれらがよじ登って行くさまを見るがいい。この敏捷な猿どもが!
かれらはおたがいの頭を踏み越えてよじ登りつつ、お互いを泥沼に引きずり落とそうとする。
誰もかれもが王座につこうとする。これがかれらの狂気だ、まるで幸福が王座にあるかのように!だが王座にあるのはしばしば泥にすぎない。また王座がしばしば泥の上に乗っていることもある。
わたしから見れば、かれらはみな狂人であり、よじ登る猿であり、熱にうかされた者である。
かれらの偶像、この冷ややかな怪獣は悪臭を放つ。かれら、この偶像を崇拝する者ことごとく悪臭を放つ。
わが兄弟たちよ。あなた方は、かれらの欲望の口元から出てくる毒気の中で窒息する気なのか?むしろ窓を打ち破って、外へ飛び出すがいい!
悪臭から逃れよ! あらずもがな人間たちが営む偶像礼拝から逃れよ!悪臭から逃れよ! この人身御供から立ち昇る濛気から脱出せよ!
(ツァラトゥストラはかく語りき「新しい偶像」より)

いったいどう生きるのが正しいだろうか?とつねづねぼくは考えるが、その考える時間もまた人生の空費という気がしなくもない。おそらく本当に考えるべきことは生活に関することではないのだ。ぼくが田舎に行こうと、都会に行こうと、それはどうでもいいことだ。本当に生活というものは、支障がそれほどなく、平均的な生活が送れればそれ以上考えるべきではない。よりよい高級車が欲しいとか、マンションをグレードアップしたいとか、そんな愚考に貴重な時間を費やすべきでない。「中庸」とはこういうことである。人生のどうでもいいことは、中庸で済ませ、本当に考えるべき事柄に考えを向けよ。人生は思っているよりはるかに短いのだから。

凡庸な狂人

どうしようもない湿気と酒を飲んだあとの気持ち悪さ。自律神経のちょっとした異常、発汗、だるさ、吐き気、頭痛に悩まされている。

昨日書いたことはよく覚えていないのだが、読み返してみるとなかなか的を射ているじゃないか。ぼくはただ対人関係に悩まされているのだ。思い返すと小学三年生の頃、ぼくは学校からの帰り道で延々唱えていた。「人間関係を良くしてください」と、何度も、何度も、唱えれば神様が聞き届けてくれるような気がして繰り返し唱えていた。

あの頃からぼくは孤立していたのだ。あの狭いクラスの中で孤立していた。いじめを受けていたとか、友達がいなかったというわけではない。ただ人間関係の些細なことにぼくは深く傷ついていたのだ。その理由ははっきりとはわからない。しかしたぶん、ぼくには親の愛情が欠如していたのではないかと思う。あるいは、親にひどい裏切り行為を受けたのだろうか。おそらく先天的に神経が鋭敏であることと、親の裏切り、それがあってぼくの人格はこんなものになってしまったということだ。

孤独な人生の先には何があるのかわからないが、弛緩というよりは緊張の世界があることはわかる。恐らく、孤独に生きる人間は賢く強いだろう。例えば筋肉は筋繊維が切れなければ発達しない。運動による負荷がなければなよなよ、ぶよぶよした腕になるだろう。精神においても同じことで、苦痛、ひたすら苦痛を受け入れれば強い精神になる。

肉体美を追求するマッチョな人間にとって、なよなよ痩せた人間やぶよぶよ太った人間が我慢ならないように、孤独者が大衆を嫌悪するのも正当な理由あることなのである。おそらくぼくらが片腕を失った人間や失明した人間に、いくらかの畏怖を覚えるのはそういうことだろう。

問題は、その孤独への性向自体が錯誤であるかもしれないということだ。孤立することに理由はあるのだろうか?一体、母親というひとりの人間が彼を裏切ったからといって彼は全人類を恨む必要はあるのだろうか。フロイト心理学でいえば、「然り」ということになる。小さく弱く脆い存在だった彼にとってただ母親だけが世界だからだ。母親の裏切りは世界の裏切りなのである。

全世界に裏切られるということ!認識の全てが裏切りであるということ!成熟した精神を持つ大人にとって、裏切りは一部のことである。恋人が裏切った?会社に裏切られた?それでも、世界の全てが彼を否定したわけではない。しかし幼児にとっては……恐らくそれ以上、はるかにそれ以上の恐怖、絶望が彼を支配したことだろう。だから彼はそのトラウマを一生引きずって生きていくのである。十字架を背負って生きていくのである。なんとまあ哀れで不幸な人間か。

不幸な人間、小さな傷ついた人間はどう生きればよいのだろう。天才たちのいずれもが精神病の素因を持っていたことを考えると興味深い。たぶん、アリストテレスが狂気と天才は紙一重と言ったことはある程度正しいだろう。ある程度、というのは、本当に優れた天才は狂気を克服する術を知っているからである。その点ニジンスキーやゴッホは「二流」だったと言わざるをえない。

アインシュタインは誰もが認める天才だが、社交に興じ、豊かな人間関係を築く精神を持っていた。おそらく物理学の秩序が彼をまともにしたのだろう。彼の尋常ならざる知性が彼を狂気から引き離した。例えばエーリッヒ・ヘラ―がカフカを分析したときの言葉はこれと一致する。
もちろん、(カフカのそれは)狂気に近い精神状態である。書斎机、解体する危険をはらむ精神をひとまとめにして維持することができる想像力、完全無欠の知性、この三つがかろうじて彼を狂気から引き離す。
知性とはまず第一に反動的なものであると思う。ひとは過酷な状況に置かれると知性をはたらかせる。混沌とした環境や状況を秩序あるものにするということ、これがまず知性のはたらきである。知性は秩序を志向する。

天才が科学や芸術に没頭するのはそれが好きだとか、愛しているからではない。それがないと精神が瓦解してしまうのである。おそらく彼にとって世界はあまりに混沌としていて、容易に彼を傷つけ、裏切るものである。だから彼らは秩序の世界に逃げ込む。そこで真理を見つけようともくろむ。なぜなら真理は、その定義上、彼を絶対に裏切ることはないし、究極の秩序だからである。

さて、ぼくも何かしらの創作行為をしなくてはならない。もちろんこの書き物が精神衛生に役立っていることは確かだ。しかし、もっとでかいことをやらかしたいと思うのである。芸術とはまず行為である。おそらく行為だけがぼくの精神に治癒をもたらすだろう。

ぼくは精神を瓦解させる、凡庸な狂人であってはならない。「凡庸な狂人」というと逆説的だが、おそらく1万人いれば500人は凡庸な狂人であり、そのなかのただひとりが天才なのだろう。狂気の海の中にあって、ただひとり輝く人間。そこに達しなければならない、とぼくは思っている。おそらくぼくは健常者になれないだろう。そうであればそこを目指すしかないのである。

AZKCY 雑記ちゃん

今日は友人たちと飲んできた。僕以外には男一人に、女一人というメンツ。なぜかホモネタで盛り上がった。
が、相変わらずぼくは飲み会の場では啞であり……。結局のところ大して楽しくなかった。

ぼくが人間との交流において一切の快楽や充足を得られないというのはどういうことなのだろう?酒は、大好きだ。人間を前にして鋭さを増すぼくの神経を和らげてくれるから。友人たちの発する言葉、それらも好きだ。ぼくは友人たちの言葉を愛している。おそらく友人の男は女を愛しているのだが、その駆け引きを見ていて楽しく思う。だが、ぼくがそれらの関係に関与することは望ましいこととは思わないし、ぼく自身がいる意味も感じなかった。

友人達とぼくとの交流、その交流を愛することをできないというのは何ということだろう。友人達をぼくは愛している。酒も愛している。しかし、あくまで自己が関係する事柄に幸福を認められない。このことがぼくの病気なのだろうか。自分が幸せになってはならないということ。自分が幸せになってはならないと思うから、つねにぼくは不幸なのだろうか。ぼくのような人間は、いくら他者からの賞賛や愛情の表明を得られたとしても、痴呆みたいな顔でこう言うのだそうである。「本当にぼくを愛しているの?」と。

恐らく不幸な両親な元では、こどもがこういった抑圧的な人間になることもありうるかもしれない。親たちがimplyする。お前は不幸でなくてはならない、と。


まあ、そういうこともあるかもしれないな。

あらゆる人間交流の場がぼくを拒絶する。ぼくは友人たちの打ち明けるおもしろい話に耳を傾けることができず、至って思慮深い、紳士的な彼らのふるまいにも欺瞞を感じるというのだから……。ぼくがひたすら楽器や文学、絵画に逃げてきたのはそういうことだろう。インターネットでしか本音を話せない哀れな人間に育ったのもそういうことだろう。

今日はひどく酔っ払った。明日はまともな日々を送りたいと思うし、またまともなことを書きたいと思う。



ぼくにとって書くということは、排泄や食事に似ている。決して高尚なことではない。芸術を構築しようと思って文章を書く奴はクソだ。しかし、それは誰にとっても同じだ。だれだってブログなんて書けるのだ。バカか。

ぼくは芸術という事柄に固執した。おそらく人間にとってマジメになるべき事柄は、死と、生、この二つだけだ。この二つにとって、芸術が必要であればそれを選択すべきだし、そうでなければ芸術なんて単なる余剰、時間の無駄である。しかしおそらくぼくの人生にあって、芸術というものはひとつの決定打という気がしている。

ぼくは神経質に人生の不要な事柄を退けてきた。安定や隷属、堡塁や家庭といった事柄を切り捨ててきたのである。ぼくはただ生きていたいと思う。その願望は実存への欲求と言ってもいいかもしれないが。そのためには芸術が必要なのである……。

と、またくだらないキザっぽい(というよりはキチガイ臭い)ことを書いた。最近思うのだが、たまに過去の自分の日記を見るとほんと、読むに堪えない。なんて臭いことを書いているんだ。読み手を無視したようなことを書いているんだ、と。まあ今日の日記もそれに類することだが、どうかご勘弁いただきたい。ただ書くこと、それだけが主旨のブログである。


どうせ自慰的日記なのだから、好きなことを書くぞ。メンデルスゾーン交響曲第2番『讃歌』の第6曲。
Stricke des Todes hatten uns umfangen, 死の綱が私たちを取り巻いた、
und Angst der Hölle hatte uns getroffen, そして地獄の不安が私たちを捕えた、
wir wandelten in Finsternis. 私たちはさまよった、暗闇の中を。
Er aber spricht: Wache auf! der du schläfst, あの方はしかし言う:目覚めよ!眠っている者よ、
stehe auf von den Toten, ich will dich erleuchten. 立ち上がれ、死者の中から、私があなたを明るく照らそう。
Wir riefen in der Finsternis: 私たちは呼びかけた、暗闇のなかで:
Hüter, ist die Nacht bald hin? 見張り人よ、夜はまもなく明けるのでしょうか?
Der Hüter aber sprach: 見張り人はしかし言った:
Wenn der Morgen schon kommt, so wird es doch Nacht sein; 朝がまさに来るなら、それでもなお夜があるだろう;
wenn ihr schon fraget, so werdet ihr doch wiederkommen und wieder fragen: お前たちがまさに尋ねるなら、それでもまた来てそして再び尋ねるだろう:
Hüter, ist die Nacht bald hin? 見張り人よ、夜はまもなく明けるのでしょうか? 

9.12.2014

田舎の住宅事情に驚愕す

田舎に就職しようということになったので、その近辺を調べている。

田舎とは言っても勤務先の近くにはマクドナルドや吉野家もあればダイソーやスーパー、ホームセンター、映画館、漫画喫茶くらいはある。よくある田舎自慢のように「最寄りのスーパーまで数時間」ということはない。寂れた街というよりは、小都市と言ったところだろうか?

観光地なのでそれなりのバーや高級料理店もあるし、温泉まである。正直なところ、ぼくの生家よりだいぶ便利がいい(大都市に行こうとなったら不便だが)。

音楽スタジオがないのが激痛だが、だれもいない「山」には事欠かない土地柄である。野山で野外練習というのも味がある(か?)。

すばらしいことに生活圏のほとんどが海に面している。ぼくは山育ちなので、つねづね海の美しい街に住みたいと思っていた。温暖な気候、人びとは陽気で優しく、なんといってもあの表情豊かな大海。陸上の街や人や生活を超越して微動だにしない大海。観光地として有名なほど美しい海である。そして観光地として有名な街は、だいたいの人びとは外来人に優しいものだ。

賃貸物件を調べていると、どこの家賃も信じられないくらい安い。都内で1ルームを借りる値段で、リゾートマンションや一軒家が借りられる。12畳のリビングや2LDKが数万円で借りられるのがすごい。都内なら3~4倍はするし、郊外でも倍はするだろう。それだけ地域住民の収入が低いということなのだろうか。

住宅手当がかなり出るので、今住んでいる家賃三万円のアパートから大幅にランクアップすることができる。住宅環境は生活の要である。ぼくがまず欲しいのは、荘厳なテーブルと、重厚なソファ、機能的なイス、そしてアンティークな本棚であり、そのいずれもこの穴だらけのアパートには似合わない。(多くの神経過敏がそうであるように、ぼくはインテリアに凝りたいと思う。自宅は内的な秩序を保てる空間でなければならない)

若いくせに贅沢と思われようが、家具にはストーリーが必要だと思う、また良い家具というものは一生使えるものだ。ニトリやイケアのような大量生産の「クオリティ」の低い家具は、結局のところすぐ痛んで買い換えを迫られるし、じわじわと使用者の品格を下げるものだ。

それにしても一軒家が借りられるというのはいいかもしれない。マンションのような集合住宅には嫌悪感がある。あの細胞分裂的あるいはハチノス的な構造は気持ちが悪いし、ぼくは騒音にひどく敏感なので、いくら鉄筋コンクリートでも隣人が無神経な家族だとすべておじゃんである。しかし、ひとり暮らしで100平米の一軒家?と考えると自分でも笑ってしまう。ぼくは何をしたいのだ。でも、バカげた境遇が眼前に選択肢に浮かぶ自分に多少の満足を見いだす。意外と悪くない人生かもしれないな。



思うのは、なぜみな都内のせせこましいアパートを借りて、満員電車に詰め込まれるような生活を望むのかということである。仕事さえあれば田舎生活も悪くないはずだ。ぼくが「○○県へ就職するよ」と言うと、きっと後悔するよ、チャレンジャーだね、と言われる。ぼくからすれば、君らの方こそチャレンジャーなのだが……。

そうした人の生活を見てみると、交友関係が広く、また都会の生活に慣れきっているという印象がある。あるいは東京の生活に憧憬を抱いている様子である。対人的な関係を望むならたしかに東京はすばらしいところだ。交通のアクセスはいいし、大学を卒業してほとんどの同級生が都内近辺に住まうという。オシャレで個性的な若者が多く、刺激的な出会いに事欠かない、遊び場所にも困らない。すごい人、芸能人や有名人もたくさん住んでいる。そして文化の中心地である。

だが、ぼくが東京で得たものと言えば、愉快な友人や刺激的な出会いというよりは、書籍と音楽くらいのものだった。そしてオシャレなダイニングバーよりもマックのコーヒーを飲むような生活だった。金さえあれば、東京は魅力的なのかもしれないなあ、とは思うが……。

9.11.2014

スキゾイド・アンドロイド

友人たちに恐らく田舎に就職することになると思う旨を伝えるとひどく驚いていた。確かにお前は普通のところに就職しないと思っていたが、なぜそんな辺鄙なところに、というわけだ。

ぼくはそもそも田舎の出である。そして東京には七年暮らしたことになるが、それでも東京の魅力はわからなかった。一時期新宿に通っていたときもあったが、目的地に行き、用事を済ませ、そしてただ帰るだけだった。ぼくには下北沢だとか渋谷や秋葉原といった街は魅力ではなかった。ぼくは下北沢のおしゃれな兄さんとも馴染めなかったし、秋葉原のオタクたちとも馴染めなかった。ぼくは常に異邦人だった。

住宅街の中の狭すぎるアパートにも馴染めなかった。周囲の目、主婦と老人の話し声がぼくを苛立たせた。ぼくの居場所と言えば、大学の自習室、あるいは図書館、部室くらいだった。静謐であり、孤独が固守されるような場所、そこでぼくははじめて息をつくことができる。

かといって、田舎の生活にぼくは馴染んでいたわけではない。田舎の「付き合い」というのも不気味に見える。が、自然はぼくにとって美しいものだった。ぼくは実家からバイクで三十分のところの、人がほとんどこない高台につくられたベンチに座って読書をすることが好きだった。

同郷の友人と一度だけ会ったことがある。彼は千葉に暮らしており、東京の造船会社で働いているというが、東京の生活は嫌だから地元の市役所に転職したいのだという。「やっぱり地元がいちばんだよ。東京にもすぐ行けるし、恋しいよ」と少し痩せた彼は言った。

田舎か、東京か?東京の魅力とはなんなのだろうか。確かに求心力はある。何かイベント事があれば東京だ。しかし、テレビを付けなければ、ネットのくだらないサイトを見なければ、ただ書籍と、音楽の芸術に触れていれば……東京なんてどうでもいいものだ。全てが虚飾だ。自然とはあくまでも「自然」であり、その点で美しい。だからぼくは人間から離れるために田舎暮らしをしようとしている、といっていいかもしれない。

田舎のひとびとを軽蔑して都会に出てきたが、そこにあるのは失望だけだった。もはやどこにとってもぼくは異邦人であり、ただ自然にすがるしかないのだ。


最近の趣味はクラシック音楽を聴くことである。ストラヴィンスキーの「春の祭典」を聴いていたら涙が出た。ぼくは最近三度泣いた。一度は本を読んで。次は美術館でセザンヌを見て。今回が三度目。すべて孤独のうちの出来事だった。

こんな人間もいるものだ。人を怖れ、拒絶し、ただ自然と芸術の美しさに救いを求める。ぼくの人生の本体は孤独のなかにあり、それに外れるものすべては仮象であるということ。

ところで哀しみにもぼくは慣れてしまったように思う。というのは自分の偏執狂的な部分を除くことができたからだ。虐められたのび太はジャイアンに執着する。だから不幸なのだ。恋人に振られた男は彼女に固執する。だから不幸なのだ。哀しみは自己のなかにしか存在しない。怖れですらそうだ。だから、対象に何かを求めずに……。ただ心の内に耳を澄ますことだ。

哀しみは偏執を生む。ぼくは今、かなりの部分で解放されていると思う。もはやだれの嘲笑も、嫌悪も、ぼくを動かすことはできないだろう。ところで、ぼくはただ人生に偏執することを辞めたのだ。ぼくはそれでだいぶ自由になったよ。

分裂質の人が創造へ向かう理由

「実際には、われわれの身に起こる数々の書きものの中でも、その最も偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくるのである。むろんその狂気とは、神から授かって与えられる狂気でなければならないけれども。」ソクラテス

今日もとりとめもなく書いてみよう。アンソニー・ストーの「創造のダイナミクス」が予想以上に良い本だった。非常に優れた本にもかかわらず、日本ではほとんど読まれていないようだ。

人はなぜ芸術を志すのか。天才的な芸術家は精神的な病人なのだろうか……。というアリストテレス以来言われてきた天才狂人説を子細に検討している。病的な精神をもっていて、最近芸術に目覚めた?ぼくはぜひともこの点を知りたいと思っていた。

今回はぼくのような人格、分裂質の人がなぜ創作へ向かうのかを書いてみたいと思う。

「分裂質」とは適当に引用してきたが以下のような人格である。
ぶんれつきしつ【分裂気質 schizothymia】

クレッチマーによる性格類型の一つ。彼は,精神分裂病から分裂病質schizoidと分裂気質への移行系列を提起したが,このうち正常な範囲のものを分裂気質と呼んだ。感受性には過敏(敏感)と鈍感(冷淡)の両極があり,人と交わる態度は自閉的である。精神的テンポはしばしば飛躍性と固着不変性との間を往来し,精神運動機能はしばしば刺激に不相応で,抑圧,麻痺,阻止,硬直などを示す。体型はやせ型と親和性を示す。具体的な人間像の代表としては,上品で感覚の繊細な人,孤独な理想家,冷たい支配者と利己的な人,無味乾燥または鈍感な人の四つのタイプをあげている。(出典:株式会社日立ソリューションズ・ビジネス)

分裂質の人が創作に向いている理由
以下は分裂質についての記述からの引用である。
第一に、創造活動の多くは孤独なものであるから、そういう仕事を選ぶということは、分裂病の人が他人との直接的関係という問題を避けて通れるということになる。
小説家や漫画家は極度に個人的な職業である。ひとと関わらず、外界と隔絶した空間で思うまま創作に打ちこむことができる。普通、分裂質のひとはコミュニケーションを楽しむことができない。健常なひとびとが他者との交流で得られる承認欲求や自己実現を、分裂質の人間は創作によって「間接的に」得ることができるのである。

第二に、創造活動は、分裂病の人が万能空想の少なくとも一部を存続させることを可能にする。

分裂気質の人間は幼児的な万能感を持っている。分裂症者は、理由もなく自分を卑下する一方で、自分が特異な存在であり、またある種の才能に優れていると信じ込んでいる。その無能感も万能感も、病的なレベルであるし、特に万能感は社会との葛藤を生みやすい。創作の中であれば、例えば「男らしくない」ことを気に病む作家がハードボイルドな主人公を生みだすなどすることで、そうした万能感を維持することができる。

第三に、創造活動は、分裂病の人にとっては、その人自身の価値の図式を反映するものである。すでにみたとおり、その図式においては、外界よりも内的世界がより重要視されるというのが特徴になっている。
分裂質の人間は集団とのコミュニケーションにおいて自己を充足することができなかった人間であり、孤独であった。そのため代償的に内面世界を築き上げる。多くのひとびとが内面世界と向き合うことをせず、また必要性を感じてこなかったのに対し、分裂質の人間は富に内面世界に沈潜してきたのである。そのため分裂質の人間は、内界の価値を世間に認めさせたいという欲求を持つ。そうした内界の描写に音楽や、小説や絵画といった創造活動は向いている。
第四に、ある種の創造力は、カフカにみてとれる恣意的な予測不可能性の感じを征服するのにとくに向いている。
これまで予想できないと思われていた世界に自分自身の秩序を付与できるとはなんとすばらしいことだろう。
分裂質の人間は自己防衛的に秩序を求める。たとえば神経質な子ども達がベッドサイドの人形たちを整列させるような「儀式」をすることで、子どもは安心して眠ることができる。この秩序への欲求が病的に強いのが分裂病の人間で、例えば彼らは異性との恋愛において相手に自分の理想像を押しつける。異性が少しでも裏切りを見せると、彼は「秩序を乱された」と感じ憤慨する。
創作においては、まさしく世界を「創り上げる」ことができる。そのため分裂質の作家は秩序的な世界を生みだすことが多い。

第五に、創造活動が、世界に意味を乱せない分裂病の人を脅かす怖れに対する防衛として作用できることは明白である。…… 対人関係に失望した多くの芸術家、それに多くの科学者が、より平凡な人びとが人間関係に見出す意味や価値を、その仕事に見出していることは疑いない。
創作はまず防衛的行為ということができるだろう。友人や家族から愛情を受け、また与えるといった自己充足の行為に失敗した分裂質の人間にとって、人生は恐ろしく空虚なものになる。その空虚さ、意味の欠乏こそ神経症や分裂病を生むのだ。そこで、彼らは世界に「意味」を与えるために創作に打ちこむ。「(分裂性格では)、愛することも愛されることも、危険と不安を孕んでいるように思えるのである。その結果、こういう人は、聖人になっても、感情的交誼を回避しがちになる。しかしながら、人生に意味を与えるのは感情的交誼なのであるから、人生自体が無意味に思える危険がつねに存在することになる。」

以上のような理由から、ストーは分裂質の人間が創造へ向かうとした。どうも代償的に、しぶしぶ芸術に向かっているという印象である。が、まあそんなものなのかもしれない。


ショーペンハウエルの説によれば、詩人と、哲学者と、天才とは、孤独であるように、宿命づけられて居るのであって、且つそれ故にこそ、彼等が人間中での貴族であり、最高の種類に属するのだそうである……つまりよく考えて見れば、僕も決して交際嫌いというわけではない。ただ多くの一般の人々は、僕の変人である性格を理解してくれないので、こちらで自分を仮装したり、警戒したり、絶えず神経を使ったりして、社交そのものが煩わしく、窮屈に感じられるからである。僕は好んで洞窟に棲んでるのではない。むしろ孤独を強いられて居るのである(萩原翔太郎)


ところで、天才は狂人なのだろうか?よく言われるように芸術家は神経症的、抑鬱的なのだろうか。ゴッホは耳をそぎ落とし、ニーチェやニジンスキーは発狂した。しかし、ストーは必ずしもそうではないと言う。天才が鋭敏な神経を持ち、深く内的世界に熟達していることは事実である。普通、神経症者はこの内的世界に没頭してしまったり、あるいは外的世界とのギャップに適合できず、精神病を発症する。ところが天才の場合は、強靱な知性と能力によってこのギャップを乗りこえるのである。

この点についてはまた後日……。

9.10.2014

【報告】田舎に就職することがほぼ決定

そろそろ就職先を決めようかというところにきている。今考えているのはかなり田舎の就職先である。そこは条件がよく、休日は土日にきちんととれ、残業もほとんどない。金と余暇。これを重視したというわけだ。おまけに、仕事内容は少しだけ精神医学的な部分と関与する。だから楽しそうでもある。だがまあ、基本的にはルーチンでつまらない仕事だ。

地理的には温暖な太平洋側気候であり、日本有数の美しい海に面している。田舎なので山もあるし、キャンプ地には困らない。山海の幸に恵まれ、食品は非常に安く、そして美味いという。ただ、日本でもかなり田舎の部類に入る。東京へのアクセスは死ぬほど悪い。だがまあ、金を出せば一時間で羽田まで行ける。

そんな辺鄙なところではあるが、ぼく自身の生活を振り返ると東京にいる意味は薄いかもしれないと思うのだ。休日にすることと言えばこうしてパソコンに向かっているか、本を読むか、楽器を弾くか、バイクでそれこそ山や海に行くか、といった具合なので。外食もほとんどしない。ただ、たまに美術館へ行くので……それだけは惜しい。

芸術的にはどうなのかという場所である。音楽や芸術と離れたくはないが……。しかし、今でさえ音楽系のライブにはほとんどいかない。年に2,3度と言った具合である。ライブに出演するということもほとんどなくなった。まあ、月に一度都市部に行くくらいの余裕はあるだろうしそれはどうとでもなるだろう。

ひとつ気になっているのが、面接官が「文化レベルが合うかどうか……」と言っていたことだ。田舎のひとびとは芸術だとか文化的なことについて興味がないに違いない。田舎の人の興味は車、パチンコ、女程度だ。まあそんなものだろう。しかし、それが本当の生活ではないとだれが言い切ることができるだろうか。都市部で満員電車に揺られ、東京の文化と生活に誇りを持ち生き急ぐひとびとは正しいのだろうか。面接官曰く「都市部から来た人たちはみんな健康になる」とのこと。美味い飯と、豊かな自然、ゆっくり流れる時間。悪くない。
おそらく私たちは、本当の生活は都会のなかにあり、いま目にしているこのすべては単なる田舎の退屈な風景にすぎない、と思い込んでいたようである。おかしな話である。真理がやってきて扉を叩くと、「あっちへ行け、私は真理を求めているのだ」と人は言う。だから真理は立ち去ってしまう。不思議なことだ。(「禅とオートバイ修理技術」/ロバート・パーシグ)
田舎から出てきた教授は「そんなところ負け組が行くところだ」と言っていたが、どうだろうか。 確かにそうかもしれない?ぼくは世間的には負け組である。もともと、病人だから仕方ないさ。ペソアの言うこともわかるが……。
私は都会にいることを愛するために、田舎に行ってみたい。でもそうしないでも、私は都会が好きだ。だが、田舎に行けば、二倍も都会が好きになる(「不穏の書」)
ぼくは芸術的な感性というものはネットでも仕入れることができると僭越ながら思っている。というか、絶対に現代的な芸術のファクターは「ネット」であるとすら思っている。それはたぶんテレビでも本でも美術館でもないだろう。

そのネットのおかげで田舎でも生きていけるわけだ。およそ文化的なものは視覚と聴覚によって味わえる(音楽も絵画も直に体験するのがいちばんであることはわかるが)。そして、物流によって何でも「買う」ことはできる。何も丸井だとか、三越に行く必要もないのである。今だって服は全部海外サイトから買っているし、本はアマゾンが中心だ。生活に必要なものはネットとスーパーで買える。そしてスーパーくらい田舎にもある。

そんなわけで、ぼくは自然派の人間として生きていくことになりそうです。まあ、ポウもメルヴィルも文化的に壊滅的なド田舎で書いてたからあんな異質な本が書けたわけで。それはそれで良いのではないかと思う。

9.09.2014

NEUROTIC x DEPRESSION

今日はあまりに憂鬱がひどいので、矢も盾もたまらず講義を抜け出して家に帰った。友人には体調が悪くなったので帰ると言った。途中、度数の濃いチューハイと激辛カレーを買い、家に帰ると昼間から痛飲した。

激辛カレーは「LEE 辛さ十倍」なのだが、それほど辛くもないのでタバスコをかけてやった。食べながら飲んでいると酔っ払ったので、そのまま寝た。

今、腹には刺激物が腸を刺激することによる疝痛がある。あとは酒によるひどい倦怠と。こうした行為は明らかに自傷行為だ。ぼくはなぜこんなにも憂鬱なのだろうか。

ま、自分のことを知ったというところだろうか。

ぼくは永遠に幸福になれず、永遠にまともにはなれない。ぼくは前々から自分が神経症であることをここで告白しているが、相変わらずの症状だ。ところで、精神病と肉体病は違う。精神はどこかが悪くなって、それを取り除く……というわけにはいかない。考えてみると、精神病はすべて人格の病気だ。自分が自分であることが病的なのである。だから社会的に逸脱した精神を、社会適合の目的から修正すること、これが精神治療なのである。自分が自分であってはならないということ……。

例えば、だれもが経験したあの狭い教室、人口過密の一クラスの村社会。あの学級社会の中に適合できずドロップアウトしたとする。それは病的なのであり、修正すべきと見なされる。親はきっと言うだろう。「なんとかこの子が学校に通えるようにしてください。まともな人間にしてください」と。まあ、ぼくにはそういう経験はないのだが……(我慢してきたので!)。
そのときに、彼の人格を認めることは普通、できないだろう。彼はただあらゆる誤謬に鋭敏なだけであり、間違っているのは学級制度なのではないのか?とはだれも思わないだろう。結果、彼は治療により健常になる。それで万事OKだ。精神病とはそういう類のものだ。(もっとも、重度障害や自殺の危険のある大鬱病は積極的治療を施すべきだ)

ぼく個人が狂っているのか社会が狂っているのかはわからない。しかし、おそらく、ぼくがもっと貧しく成熟していない国に生まれたのであればこんな病気に罹ってはいなかっただろう。ぼくが病気になったことはぼくだけの責任ではないが、しかしぼくは病気の自分を生きねばならない。
「病気にかかったのはあなたの責任ではないが、現在病気を治すのはあなたの責任です。あなたが私にはできませんと言ったら、あなたは自分をのけ者にしているのです。身体がどこもこわれていないかぎり、他の普通の人ができることは何でもできるのです」(アブラハム・M・ロウ)
大体、社会が狂っていなかったことなどない。ぼくは別に社会を恨んではいない。あるビジネス書、なんてことのない海外輸入のビジネス書を昔読んだのだが、その本の冒頭にはこう書いてあった。「この世界は狂っている。まずそれを認めることです。」今考えるとすごいことを書いていたな、と思う。

できることなら、健常な、まともな幸福を生きたいと思う。他人と共感し、仲良く幸福に生きられれば良いと思う……。でも、ぼくに生きられるのは狂気と混沌の世界なのだ。もう決定事項なのだ。それを前提として生きねばならない。

ぼくは創作に向いた人間である宣言

まあ、何でも書いてやろう。

ぼくは自分のことを弱い人間だと思っているが、それはたぶん病的な考え方なのだろう。例えばだれかと話している間にも、「自分は相手にとって取るに足らない人間なのではないか」と常に怖れている。なにげない日常会話でも、話している内容はすべて本心から話したいことではない。相手に気に入られるための計算尽くの内容である。

相手もそれを知っているから、ぼくは決して心を開かず、「慇懃無礼」な人間だと思われる。ぼくはそこにいない人間のように扱われる。そうして、ぼくよりもはるかに気を遣わずあけすけに話す友人の方が、だれにでも好かれている。

ぼくは他者を怖れている。こうした他者に対する恐怖や不信はぼくの人格の重要な要素だ。どうしてこうなったのか? 原因はよくわからない。普通、心理学では、神経症の原因は幼少期の親の愛情の欠如が原因と言われるけど、少なくとも記憶の限りそんなことはなかった。両親はぼくを溺愛していた。その過剰な愛情が良くなかったのかもしれないが。

ぼくは自分のことを弱者であり不具だと思う一方で、超人的な才能があると空想している。幼児的万能感、ナルシシズム。これも「自分がダメ人間だ」と思うのと同じくらい病的な考え方だろう。

臆面もなく過去に書いたことを引用してやる。
芸術はぼくに奉仕する。芸術は永遠に奴隷であって、主人ではない。ぼくの精神が芸術を創ることを意志する。高みに昇った精神は、ただ光を発することを望む。光は遠く裾野を照らすかもしれないが、それはぼくの知ったことではない。(8/4

ぼくのようなダメ人間が周りを見下すのはどうしたことなのだろうか?ぼくは内面世界のすばらしさを知っているが……。本当のところ、内面世界なんて健康な人間には不要なのである。ドビュッシーなんて一度も聞いたことなくても、AKBで楽しめるじゃない。ジャック・デリダなんて読まなくても村上春樹でいいじゃない……。じゃない。

そういうことだ。ぼくはただの、対人恐怖症なのである。そう、人間が怖い臆病者だ。だから人から逃げて逃げて、孤独になった。それでも肌寒いのは嫌だ。愛情や承認が欲しくて、着々と内面世界を築き上げた……とこういうわけだ。ぼくが楽しい会話に入らず、テレビのエンターテイメント番組も黙殺し、淡々と哲学書を読むのもこういったわけだ。

別に有名になりたいとか、特別な人間になりたいとか、そういう目的ではない。内面世界はぼくの防衛的本能によって創られたものだ。逃避的、代償的に創られたものだ。じゃあ、そこに価値がないとしたら?価値がないとしたら、ぼくの半生はまったく無駄なものになってしまう。だから、続いて防衛的本能はこの内面世界の価値を認めさせる方向にはたらく……。創作によって。

ぼくという人間の性質はこういったものだ。ぼくはたぶん、創作に向いている人間だ。しかしそれは神に選ばれたとか、天才性を示すものではない。ぼくはただ、少しばかり傷を負った人間なのだ。人間嫌いの臆病な気むずかしい人間。

人間、小さな傷ついた人間、彼こそは創造のもっとも奥深くにわけ入り、原初のままの太陽のほの暗い中心から、最も遠く離れ行ったもの。(D. H. ロレンス)

9.08.2014

射精後の倦怠に包まれて

おはようございます。ひどい倦怠に打ちひしがれている。その原因のひとつに生活の変化があった。日常のルーチンが大きく変わったのだ。もうひとつに、季節の変化がある。夏は終わり秋が来ようとしている。

人体はどうやら毎年の季節の到来をそのつど新しく受け入れているらしい。暑くなったり寒くなると、人体が適応しようとがんばるためじわじわ負荷がかかる。だから季節の変わり目は鬱や自殺が多い。

まあ、どうでもいいさ。ぼくの初々しい新鮮さや、盲目的な信望、情熱といった類のものは死のうとしている。いよいよ不感症になってきたというわけだ。

ぼくの友人は、ある目標のために「一日十時間努力する」と言っている。すばらしいことだと思うが、邪推なぼくはどこからその意志が、エネルギーが沸くのかと訝らざるをえない。

人間の偉業はすべて病的だ。エベレスト登頂も、世界一巨大なパイも同じことだ。端から見れば「なぜそんなことを?」と思う類のものだ。別に、人間そんなことしなくても生きていける。見てみろよ。大したことない奴だって、飯は食うし女は抱いている。それなりに社会で成功してるんだ。なぜ、そんな険しい道を行く?

君は自己実現しようとがんばっているけど……それは世の中に対する復讐なのではないか。君は集団から阻害され、女に見向きもされなかった。だから偉くなって見返してやりたい、というわけだ。神経症者は意外と成功者が多い。しかし、心理学者の驚くことに、その成功は幸福とは関係ない。迷妄は迷妄のままってことだ。

君は童貞なんじゃないか?その時間でバイトして、ソープにでもいけよ。きっと見方が変わるさ。

ああ、クズ野郎。


ぼくは思うのだが、あらゆる若き芸術家に対し自由にできる女をひとりあてがったらきっと彼の芸術的感性は瓦解すると思う。頽廃的なフリーセックスを描いたのはハクスレーの「すばらしき世界」だが、そうした市民は見事に畜群家していた。

どうやら性的満足はわれわれを幸福にする代わりに何か大事な神性を奪うものだと思う。我々はオルガスムスと共に地に足をつける。幸福で勤勉な、物資を消費する市民となるのだ。その証拠に大体の人間が、婚姻と共に夢を追うことを諦めて堡塁を築き始める。これはホルモンのせいだろうね。

例えば男性は射精後急に冷静になるが、それと同じように継続的射精は男性をマイホームへと駆り立てるのではないか。これはおもしろい仮説だ。ぼくらは所詮、動物だ。デミアンは言った。「つまりね、人間に自由意志なんてないんだよ」。


話を戻そう。天才は病人である。フランスの大作家シムノンは言った。「著述業は職業ではなく、不幸な天職である。芸術家はけして幸福にはなりえないと思う」。

ところが、最近はぼくの病は治りつつあるのではないかと思う。神経症ではなくて、もうひとつの病気の方だ。こちらが治りつつあるので、ぼくはかえってアパシーに悩まされている。


現在のぼくの最大の疑問。

ぼくは芸術に駆り立てられているが、それは欲求不満による「昇華」なのか?
ぼくは芸術的才能に優れているわけではなく、病気だから芸術を志向するのか?(つまり、才能と病気は別なのか?)

まあ似たような二つだ。この二つの疑問を解決してくれそうな本が手元にある。「創造のダイナミクス」という心理学者アンソニー・ストーの本だ。まあ、いつになったら読み切るか?もうアパシーが読書の習慣も奪おうとしている。早く季節と環境に順応してくれよ、俺の身体。



昔から心理学は好きだった……。人間の関心が持てることと言ったらおよそ自分のことだけだからだ。遠くアフリカの難民に寄付する人は偉大に思われる。そんなに遠くまで届く人類愛はそうはないからだ。しかしそういう人であっても、新宿駅のホームレスには見向きもしないものだ。結局、人間自分のことしか関心がないということ……。さて、学校へ……。

9.07.2014

A Simple Man

頽廃的な日々を送っている。ということはつまり、ある程度の幸福を持って生きていると言うことだ。

現代的であるということは……幸福であるということだと思う。ひとは現代に到達するまで、あらゆる不幸を排除してきた。科学とは征服である。自然のもたらす災禍を次々と克服してきたわけ。農学とか建築学とか化学も全部征服のためのツールだ。

そんなわけで不幸をしらみつぶしに消していくのが科学だろう。ヒロシマ・ナガサキを思い出せ!科学は悪だ!なんて言っても始まらないよ。倫理学や法学だってあるわけ。人はそういう過ちから学んでいけるもんだ。

しかし、ヴェイユの言ったように人は自然を克服した後には人間に支配されるのであり……。幸福な中産階級にかえって精神病が蔓延したとおり、物質的充足は必ずしも人間の幸福に寄与しないのかもしれない。そういえばナチスのホロコーストを激賛したのは中産階級の下位だったとか?

でも、ねえ。280円で牛丼が食えて……その辺でぶっ倒れても救急車がきて……あったかい布団が1000円……。モノは溢れているよ。一体不幸なんてどこにあるんだろうね?という気にもなるわけだ。もちろん、病人は不幸だよ。でも大体の病人は治ってしまうものだし……。ともあれ、ぼくは健康だ。

それで……ぼくはいま、幸福だ。およそ欲求は満たされている。食欲も、性欲も……名誉欲も、たぶん?ぼくはこの東京の九月七日において満足だ。ぼくはこの溢れんばかりの人間と車とビルを包み込んだ人口過密の都市において満足なわけ。ぼくは行き交う人びとの中の一人であり、その気になればニコニコと口笛を吹きながら往来を歩いてもいいよ。

ね、ぼくは幸福なのだよ。およそ……現代的な意味においては、幸福なのだ。たぶん、ぼくが今日死ぬとなったら見苦しく喚くだろうな。

まあ、どうでもいいさ。ぼくは過去はなく、未来もない。ムルソーみたいな気分だよ。ぼくはただ、生きている。ムルソーは幸福だっただろうか?母親が死んだ次の日にはセックスをして娯楽映画を見て笑っていた彼は幸福だったのだろうか。少なくとも彼は正しかったし、ぼくもその点は同意するが……。「完璧であるためには、存在するだけでよい」とペソアは言った。けっきょく、ぼんやりと……衝動的に(本能的に、動物的に)生きるのがよいのかもしれない。

ねえ?何もお金が欲しいからと言って、強盗する必要はない。起業して成功する必要もない。雇用されて、働けばよいのだ。同様にして、指が傷つけば止血する。お腹が空けばご飯を食べる。これがいちばん優れた人生哲学とは思わないかな?

「指が傷つけば止血する。」なにも喚いたり、救急車を呼ぶ必要はない。止血して、消毒して、絆創膏だ。止血もしないで、衣類を汚す必要もないし、傷を好奇心でほじくり返す必要もないわけだ。

さて、本当の問題は……傷も何もないときだ。傷がないとき、人はどうすればよいのだろうか。ただ、存在する。そんなことが可能なのかね。完璧な人間はいないから、存在するだけの人間もまたいないのだろうな。

まあ、どうでもいいことを書いた。質量のないことを書いたよ。悪いか。

9.06.2014

軽さについて

ひどい天気だ。

昨日からキャンプに行っていた。キャンプと言えばかっこいいが、要は野宿だ。バイクにテントを積んで……という。相変わらず解放感がすばらしい。九月の月はきれいだった。

東京に帰ると学校へ行き、しばし読書した。飽きてきたので、部室に行って友人とセッションした。フルトヴェングラーは「すべて『即興曲をつくる』ということが本当にいっさいの真の音楽活動の根本形式である」と言ったが、その通りだと思う。ジャズはいい。何がいいって、まず演奏家にとっての救いであることが。アポロ的というよりは過剰にディオニソス的なところが。

そうして、友人と別れたら読書の続き。そういう一日であった。今日は一日、幸福に過ごした。人生の転機とも言うべきイベントもあった。おかげで、ぼくは至って現代的な人間になれたという実感がある。

ぼくはあまりに病的だった。これまであまりに暗すぎたのではないかと思う。病苦と狂気の災禍で喘いでいたのがぼくだ。ぼくは、もう少し軽さの味を知るべきだ。そうして幸福と満足の味も知るべきだろう。

ぼくはあまりに人生を重く捉えすぎたのだ。昨日言ったように……確かにぼくらは死ぬ。これは途方もない事実だ。死ぬ?死ぬということはどういうことだ。死なない方法はないのか。なぜ死ななくてはならないのか……。人は考えて、やめて、また考える。

確かに、その事実はとんでもない質量を持つが、人間はそれの持つ引力を「知り」つつも、遠く飛翔することができるはずだ。

能動的であること!主体的であること!これらがおそらく幸福の秘訣だ。ありきたりな悲観論運命論なんて退けてしまえ。というのが今のぼくの感想だ。

また、どうでもいいことを書いた。何か質量のあることを書きたい。ぼくは生を燃焼させたいのだ。

9.05.2014

地に足がついた二十五歳

浮ついた感情がどこかへ消えてしまったようだ。

自分が何か特別な人間であると思いたかっただけなのかもしれない。試しにぼくの周りに聞いてみようか。ぼくは特別な人間だと思う?ぼくは天才だと思う?ぼくは将来、有名な人物になると思う?

いずれもNoだ。ぼくはただちょっと変わってるだけの人……少しコミュ障な人、というだけだ。

一時はニーチェやヘッセに自分を重ねて喜んだが……。少しばかりそういう「性質」を持った人はざらにいるのだ。少しばかり絵を描くのが好きだからとマチス級の天才になれるとはだれも思わない。哲学が好きだからとカント級の天才になれるとは思わない。ニーチェが生きていた時代にも、ニーチェと同じように哲学を愛する人間がたぶん五万といたし、そうした人間は特に有名にもならず、功績もあげず死んでいったのだ。

思想や芸術で大成する、などと、そういう幼児的な夢は、もうだれも持っちゃいないのだ。ぼくの友人はたしかにサッカーが好きだが……彼がサッカー選手になるなどと言い出したらぼくは一生懸命止めるだろう。それが彼のためだからだ。その代わりにこう言うだろう。サッカーチームのコーチとか、スポーツ用品会社に就職しなよと。

だれだって、好き勝手生きられるわけではない。

ところで……ぼくは自分が死ぬことを知っている。いつか死ぬ、それはいつのことかわからず、また必ず自分に訪れることだ。これを考えると、社会的規範がバカらしくなってくる。社会は生き続ける。構成員がひとり死んだところで相変わらず社会は存続するからだ。しかし、ぼくら個人が死んだら?さて、どうなるかはわからないが、少なくとも社会からはいなくなる。だから社会に限られた生を捧げることにもリスクがある。自分のために人生のリソースを使えなかった、と嘆く人もいるのだ。

ひとは死を見つめはじめたとき、反社会的存在となる。社会が相対的に小さくなり、自己目的的になる。自己のなかに社会が包括される。社会に属する個人から、個人に社会が属するようになる。

たぶん、その方が知性的な振るまいなのだろう。社会的活動は動物でもできる。言語能力についても人間固有のものではない。ただ前途の死を見つめることができること、これが人間だけにできる行いである。

だからハイデガー的な意味で、ぼくらは死を見つめることが大事なのだろう。そうして始めて生を考えることができる。

ぼくは、どういう人生を歩めばよいのだろう。そればかり考えている。何か正しい道があるはずだ。ぼくは、富や権力はもはやいらないと思っている。かっこつけているわけではないが、満足に飯を食べているときにカツ丼を勧められても食べたくないし、そういうときにがつがつとカツ丼を食べている人を見ると多少の吐き気を感じる。ぼくは飢えているわけではない。だから欲求段階説的に言えば、より高次の欲求を満たすべきなのだ。しかし、ここからが難しい。

でも、たぶん単純なことなのだ。マズローの欲求段階説で重要なことは、最高次元の自己実現、あるいは自己超越の欲求ですら「理性的」なものでないということだ。そうではなく、人間はすべて本能的に自己実現をしていく。飯を食べるのと同じように、人間は自己実現の本能を持っているのだ。だから、ぼくらはどう生きようというときに、直観と本能に頼るべきである。つまり、哲学者風に理性的であるよりは、落ち着いた環境で黙想し……禅的に閃きを得るということがより本来的なのだろう。

ユング曰く、「無意識は自分の存在を知られたがっている」と。ぼくらは内面世界の声に耳を貸さなければならない。社会的規範の前に、だ。ぼくは別に有名になったり、成功する必要すらいらないのではないか?ただ「善く生きる」こと、これだけなのかもしれないな。

9.04.2014

CCCYYYAZ - 雑記

今日は一日座学をして、そして楽器を練習して帰った。久しぶりに早く帰ったので、途中マックでコーヒーを飲みつつニーチェを読む。ニーチェはやはり強烈に良いと思う。

ただ……昨今、読書に対する情熱も薄くなっている。かといって、現実世界に興味を持ったわけでもない。倦怠が襲ってきたのだ。悪い傾向だと思う。

今日は珍しくあの子に……夢の中と、講義中と、朝晩の登下校の間に、何度となく頭に浮かべる女子に会った。二言三言言葉を交わしただけだ。もう終わりということはわかっているのだ。相手にとってもそうだし、たぶん第三者から見ても明白な”終わり”なのだ。頭では理解しているのに、男という生き物は情けないもので、最後に好いた女をいつまでも好いている。

そして、別の女のラインを二週間くらい放置していたのだが、やっと返信した。今まで忙しかったふりをした。実際忙しかったが、いくら忙しくてもラインを返す時間くらいある。ようは、それほど好きじゃないのだ。好きの反対は嫌いではなく無関心~なんてバカな言葉があったが、あれはほんとだ。君はバカな女じゃないのだから、それくらいわかってくれよ。

ぼくは一方で女に捨てられ、一方で女を捨てている。何がしたいのだろう。

女といえばおもしろい話があった。マズローが調べたところによると二十人に一人、つまりある集団に5%はリーダー格となる「優位者」がいる。優位者は例えば小隊を率いるのに適した性格だ。こうした優位者は女にもいる。彼女たちは、「男をとっかえひっかえし」「マスターベーションを好み」「同性愛(レズ)の傾向がある」とのこと。逆に、低位のものは異性に安定を求め、性を不浄なものと毛嫌いするという……。

ぼくが付き合ってきた女達は、みんな「優位者」だ!あいつらみんな性欲強かったぞ。俺の手を陰部につけて腰振ってるような女たちだ。しかも、しょっちゅう同性にモテると言ってた。まあ、いまさらどうでもいいが……。下世話なことを言った。

ぼく自身は「優位者」ではないだろう。マズローがそうでなかったようにぼくも内気で内向的な低位者だろう。

話が散漫に飛ぶが、ぼくは昔から自分がどういう人間なのかわからなかった。学校という集団社会ではある程度グループ分けがなされる。大別すれば「大人しいグループ」と「活発なグループ」だ。このふたつは上下関係と言ってもいいかもしれない。だいたい、スポーツのできる冗談のうまい活発なグループが上位にたち、大人しいオタクっぽい奴らは下位だ。これはアメリカの学校でも同じなんだとか。

で、ぼくはどちらにも属さなかった。孤立していたわけではないが……。スポーツは苦手だったから上位グループの人間とも違うし、下位のグループの精彩のなさが嫌いだった。ぼくは上位グループの中堅どころと親友になって、そいつといつも一緒に行動するパターンが多かった。その傾向は今ではなくなって、大学ではだいたい一人で行動しているのだが……。

たしかに、スポーツ万能、快活な男性というのをぼくは必要としている気がする。ホモではないぞ。ただ、戸愚呂兄と戸愚呂弟のような……相補的な人間が必要なのだ。実際そういう人間と仲が良い。

だから何だというところだ。ぼくはいつまでこんなことを書き続けるのだろうか?ぼくは上手く書こうという気はないし、良く書こうという気もなし。ぼくが書き続けることに意味があるとは思えない。そして、何か創作しようにも、ぼくはあまりに稚拙であって……(悲しいくらいにだ)。ぼくは長い遺書を書いているのかもしれないな。過去を洗いざらい書き尽くして、それを息子に託す、みたいなね。まあ、息子ができるのか知らないが。

くだらない日記であるよりは、遺書である方がいい。その方がおもしろい。

滑稽なバカが書いた

昨日はまるで自分に価値なんてないという気のする一日だった。思わず深酒をしてしまった。

そういう日も必要なのかもしれない。自分は正しいといつも思っていても、成長しないから。ぼくは昔から孤独だし、不幸だった。いまさら傷ついても仕方ないのだよ、俺よ。お前は無表情に自分と対話していればいいのだ。そういう風に生まれついたのだから。

お前の人生はどうしたわけか失敗作に近いのだが、だからといって残りの人生を放棄してしまうのももったいないことだ。今まで通りに生活を過ごしてしまっては、それこそ浪費だろう。お前に必要なのは変化である。たぶん、健常に暮らせるならそれがいちばん良いのだろう。ある人間を孤独な創作に「追いやる」ものは病的な性質のものだ。

集団の中に温かさを感じない。だれしもが追い求める当たり前の幸福を身体が受け付けない。そういう不感症とnauseaを持って生まれたのがお前だ。だから自然と、友人や家族よりもドフトエフスキーやゲーテに救いを求めるようになる。本はお前から離れないからだ。

どうやっても自分が滑稽なバカに見えてくるな。ぼくは正しいことをしているだろうか。ぼくは正しい人間でありたい。幸福になれないとわかったから、せめて正しい人間になりたい。

「不誠実か、発狂か」?

ずいぶん人生とは酷薄なものだ。真実を求めるものは狂気すれすれを生きなければならない。

真実?プッ。お前は何を言ってるんだ。中二病のモラトリアムおっさんがお前だ。お前みたいな若はげに何ができるって言うんだよ。お前が本当に有能で知性的な人間なら……お前は教授たちにバカにされないし、女に見捨てられることはないはずだぞ。「地下牢の手記」みたいな蛆虫になりやがって。

マア、ともかく。ぼくは決めている。生の地獄に喘いでいる人に向かって、ぼくも地獄を生きている!と言えるような人になりたい。それがたぶんいちばんの救いなのだ。「地獄なんて迷妄だ」「すぐに良くなるさ」と言うことは、最も彼を傷つける。ぼくができることといえば、それくらい……。

まあ、だから?そんなことは一部の天才に任せておきたまえよ……。ぼくは生活に埋没するのだ……。失敗作は大人しく寝転がっていればいいさ……。

9.03.2014

目標について

昨日はチューハイを二杯飲んだだけで酔っ払ってしまって、興奮していた。コリン・ウィルソンは「アルコール中毒者は酒によって至高体験を得ようとしている」と言ったが、その通りだと思う。

ぼくは酔っ払った結果、デュシャンもクソだし、ゲーテもドフトエフスキーもクソなので、ぼくの意志ひとつで彼らを超越できると宣言した(そして恥ずかしいので消した)。

あの感覚は、すごい。つまり才能も実績も、権力も金もない人間が、ただひとりで、天才に打ち勝とうというのだから。どこからそんなバカげた自信が沸いてくるんだ……?

当然、ゲーテに勝つということは、一般的な社会人たち、時の流れに逆らえず忘却されていく社会人たち全てに勝つということである。そうして筒井康隆や、ヘッセのような、ゲーテ以下とされる作家たちにもぼくは勝つのである。

何言ってるんだこいつは……と自分でも思うが、単なる酔っ払いの戯れ言と切り捨てるのもぼくは惜しい気がする。

あの自信に満ちた気分は、たぶん、世の天才が平常持っている感覚なのではないかと思う。だって、ゲーテはクソだから俺がゲーテ以上のものを作ってやるという人がいなければ文明は進歩しないでしょう。残念なことにゲーテはいまだ超越されておらず、なのだが。

葉隠には「武勇と小人は、我は日本一と大高慢にてなければならず。」とある。たしかに、「俺は日本一だ」という気概なくして大業はならないだろう。

まあ、でもね。「俺はビッグになるぜ!」と言ってる泥酔した大学生や「あのクソ上司ぶん殴ってやる!」と息巻く会社員と何が違うのか?といえば微妙だ。

でも、どうだろ。和民みたいな安居酒屋で、近くの奴が「営業部署でNo.1になるぞ!」とか言っててもあーはいはいがんばってね、という感じだが、「俺はゲイツを超す」なんて真顔で言ってる奴がいたらちょっとビビる。そういうことだろうな。何か根本的に狂気じみてる。しかし、少し魅力的じゃないか。どんな奴だろうかと興味が沸く。どうやってゲイツを超越するのだろう、と惹きつけられる。

そういう人間の方が、ぼくは好きだなあ。バカみたいにでかい目標を持ってる奴。明日のパンを気にするようじゃダメだ。明日のパンとは、マイホームだとか、昇進のことだよ!それじゃダメなんだ。……とぼくは僭越ながら思う。

目標。

彼は別人になって聖堂を出た。まったく一変した世界を通って彼の歩みは彼をつれだした。木彫の甘い神聖な像の前に立ったあの瞬間から、ゴルトムントは、今までついぞ持たなかったものを、他人の場合あれほどしばしば嘲笑するか、うらやむかしたものを、すなわち目標を持つようになった!彼は目標を持った。たぶんそれに到達するだろう。そして彼の支離滅裂な生活全体が高い意味と価値とを獲得するだろう。この新しい気持ちが喜びと恐れとをもって彼をみたし、彼の歩みを速めた。彼の歩いている美しい朗らかな国道は、昨日と同じものではなかった。(「知と愛」/ヘッセ)
目標に至る精神の軌跡を自然の山に譬えることは、ごく自然な試みかもしれない。しかしほとんどの人は、この渓谷に住んでいる人たちのように、その山を目前にしながらみずからは決して足を踏み入れようとしない。ただ、かつて底を歩いた人たちの話に満足げに耳を傾けている。彼らはこうして身にかかる苦難を避けているのだ。なかには熟達したガイドに伴われて山に入り、目的地に到達する人もいる。また何の経験もないのに闇雲に自分の道を切り開こうとする者もいる。だがこうした人のほとんどは目的地を前に挫折してしまう。しかし希には、純然たる意志と、運と、神の恩寵によってその目的を成就する者がいる。いったん頂を極めれば、そこに至る道は限りなく見えてくる。(「禅とオートバイ修理技術」/ロバート・パーシグ)
多くの大偉人は一切の邪魔者を退け、財産や公職も快楽も捨てたうえ、ただ、いかに生きるかを知ろうとする、このことのみを人生の最後まで唯一の目標とし続けた。(「人生について」/セネカ)
近代人は自分の欲することを知っているというまぼろしのもとに生きているが、実際には欲すると予想されるもの をを欲しているにすぎない。自分自身に対して自らの目標を与える危険と責任は、深く恐れてとろうとしない。(「自由からの逃走」/E.フロム)

9.02.2014

クソみたいな作品を書いてしまった。

インドで出会った上智大の青年は、英語の発音がすばらしかった。

怪しいインド人が両替で詐欺紛いのことをすると、青年は途端にぶち切れて「You suck!」や「You shitty fucking asshole」などの流暢な英語で罵声を浴びせかけるのだった。「Fuck you」くらいしか侮蔑語を知らなかったぼくは軽いカルチャーショックを受けたものだった。

何が言いたいかと言うと昨日書いた短編小説、あれはまさにShitty fucking assholeである。書き上げたものが口や手よりも肛門に近いというのは不思議なことだ。朝起きて大変な間違いをしたと思って、一刻も早く消さなければと思ったが、別にいいやと怠惰な感情につつまれて残すことにした。

ダメだ、まともな作品が書けないのだ。ぜんぜんヘタクソだ。ヘタクソすぎて赤面する。ぼくは口ばかり大きな無能者である。偉そうなことばかり言って、現実には何もできない。ちょっといろいろ考えねばならないぞ……。

ぼくは確かに、自分に好きにさせてやろうと思った。ぼくの知ってる女もこういった、「三十歳まで好きにやればいい」と。直近にもこう言った。人にはそれぞれ役割があり、ぼくにとってはそれは読むことと、書くことなのだ……と。でも、何も、ねえ? Shittyな小説なんて書くのやめちまえよ、クソ。

東京芸大を出て二十年間芸術活動をして、結局アート活動を辞めてしまい、「普通のおばちゃん」になったという人がいる。大野佐紀子である。こうした人の人生は悲惨だろうか?案外そうではないと思う。
 振り返ってみると私は、「特別」な人で或る芸術家に憧れて美術を志し、ある意味"正統派"の破綻のない道を歩いてきた。作品がある程度評価され、ささやかながら理解者やファンに恵まれ、たまに小さな企画展に呼ばれ、毎年個展を開催する。アートに首までどっぷり浸かり、アーティストであることに何の疑問も持たずにきた私は、「アーティストでない自分」というものをついぞ想像したことがなかった。 
 しかし私は、「毎日作らないと生きていけない」タイプのアーティストではなかったし、生まれついての天才型アーティストでもなかった。そして職業アーティストにもなれなかった。そういう人は、自分から進んで入った場所でやれることがなくなったと思ったら、やめればいいのである。

まあ、いいだろう。三十歳までは自由にやれよ。続けるってことは大事なことだ。例えクソの習慣でも、歩み始めたんなら、最後まで……。ちくしょう、このコーヒー、洗剤の味がするじゃんよ。もうイヤだ。今日は学校へ行くのだ。

9.01.2014

短編小説「ある作家志望の夏」

「書きたいことを書くのがいちばんだよ」

 とカナコが言う。ぼくは日光を浴びたステンドグラスのどろんとした色彩を眺めている。今日も三十度を超える猛暑日で、弱いクーラーが効いたこの部屋でも湿気があって、まったく、暑い。ぼくが汗を拭っても、カナコは超然とした顔で、背の立ったベッドで、布団を腰まで被っている。

 彼女は暑くないのだろうか。彼女の黒髪は、すとんと迷いなく肩に落ちていて、眉毛はあまり整えられていないがそれでも自然な生え方をしている。そうして眼光は落ち着いていて、ぼくの顔を見ていた。ぼくはどぎまぎしてまたベッドサイドのステンドグラスに目を移した。なにか返事をしなければという思いで、

「書きたいことかあ」

とだけつぶやいた。

 ぼくは作家志望の三十二歳のフリーターである。深夜のコンビニバイトをしながら、それが終わると小説を書いている。しかし、最近はまったく筆が進まず、コンビニバイトのシフトもがんがん入れられてしまうので書く余裕もない。生活が完全に行き詰まっていた。

たぶん人間には固有の役割がある

過去の日記を読んでいると、むずがゆい気持ちになってくる。ヘタクソだったなと。二ヶ月前の日記と、直近に書いた日記を比較してもそうだ。まあだいたい酔っ払って書いているので、夜書いた手紙がアレなのと同じく、大体こっ恥ずかしいことを書いているのだが……。

恥ずかしいことでも何でも書いてみようじゃん、というのがこのブログの趣旨であって、疑問に思うことは何でも書くし、本人が正しいと思っているだけで、間違っていることでもばんばん書くよ。



ここ数日は実家に帰っていた。バイクで方々を遊び回ったり、家で静かに読書をしていた。コリン・ウィルソンの「自己実現の心理学」という本を読んだ。この本はウィルソンが心理学者マズローについて書いたような体裁である。しかし途中からウィルソンが興奮してきたのか、散漫に思いつくまま書きましたというような流れになっているのがちょっとよろしくない。途中から退屈した。

至高体験

マズローの言うところの「至高体験」は、ぼくも体験したことがある。あれは震災一年後のことだったと思うが、読書の習慣を始めて数週間後のことだった。そのときは、授業が終わったら自習室に行き、二十三時頃まで本を読むという生活をしていた。その日読んでいたのはまさに「マズローの心理学」というフランク・コーブルの本であって、その内容はまさに至高体験についてであったのだが、その至高体験の項を読んでいるときに「至高体験」した。

至高体験とはマズローによれば「そのひとの人生でただひとつもっとも嬉しく幸せな、もっとも幸福な瞬間」・・・人間が十分に機能しており、強壮な感じがし、自分に自信を持ち、完全に支配している瞬間のことである。

例をあげると、「ジャズバンドのドラムを演奏して働きながら医学校へ行ったある若者は、彼の全演奏のなかで、突然自分が優れたドラマーであり、自分の出来映えは完璧であるように感じる絶頂を3度味わったと後年報告した」というような体験である。他に、ある主婦が旦那と息子が戯れている光景を見て至高体験したという例もある。

至高体験とは実存への目覚めであると思う。つまり、絶対的な自己肯定感に満たされるような気分。ぼくはそのときに「至高体験童貞」を捨てたわけだが、そのときの強烈な感覚は今でも覚えている。いわば突然美しい勝利の音楽が鳴りだすといった気分であった。自己が充足し、完全に自由であるという気分になった。自己の然りが全宇宙に放射されるような……抽象的で申し訳ない。とにかくそれは、これまでにない感覚であった。

コリン・ウィルソンは至高体験によって人が「格上げ」されると言うのだが、たしかに一段階上の世界に昇る感覚があった。その日の至高体験前の状態と、体験後では人間が変わった気分になったものである。つまり、ある大仕事を達成したときに手をじっと見つめて、これが私の手なのかと疑問に思うときと似ている。

特にぼくの至高体験は強いものだったと思う。ぼくのそれまでの人生は、過度に抑圧されていた。自由意志というものがなく、自分が何をすべきかも知らず、人生の意味を知らなかったわけだ。目が開いていなかった。それが、読書体験によって、世界の広さを、意味をはじめて知ったのだろう。抑圧され、鬱積した自由意志が、読書によって放出されたと言うこともできる。

至高体験は、その一度の他に、何度か読書中に訪れた。大体、義務を終えたあとの静かな環境で、清潔な机に座りながら本と対峙している最中に訪れた。それはニーチェを読んでいるときだったり、ヘッセを読んでいるときだったが、決まって本を読むときに訪れた(楽器演奏中にも小さな至高体験は何度かあったが)。

二年前の読書中に至高体験を受けて、ぼくはなぜか文筆家になろうとしている。不思議な縁だ。そこで思うのだが、たぶん人間には固有の役割があるのだろう。人間は自由であれば、その役割へとまっすぐ突き進む。政治家、芸術家、医師、旅人……。ところが、親や社会、集団の強制によってその性向は無意識下に追いやられてしまう。医者一家に生まれれば必然的に医者となるし、芸術家一家であれば、音楽や絵画をやらされる……。

しかし、抑圧されたその役割の萌芽は、絶対に消えることはない。ふとした拍子に、コンクリートの壁はひび割れて、これまで抑圧されてきた自己実現への欲求が噴出する。その劇的な瞬間が「至高体験」なのだと、ぼくは思っている。

ジャズドラマーの医学生の例ではおそらく、医者よりもドラマーの方が向いているのだろう。まあ、音楽愛好家やアマチュア演奏家でも良いだろうが……。

主婦の例であれば、幸福である。おそらく女性の幸福、正しい幸福を彼女は得ることができたのだ。誤解を怖れずに言うと、たぶん男性の役割は多様だが、女性の役割は主に「妊娠」や「家庭」といったところにあると思う。主婦の彼女が、仮にハイミスのフェミニストだったら悲惨な人生を送ったに違いない……、とぼくは思う。

ヨナ・コンプレックス

ところで、同著の冒頭にヨナ・コンプレックスという言葉が出てきた。マズローが講義中に、「これからの心理学を牽引していくという気概のある学生はいるかな?」と聞いたところ、その心理学部の生徒たちはだれひとり手を挙げなかったという。マズローの講義を受けているエリート達がである。この当事者性の欠如は、けっこう身に覚えのあることだ。

例えば東大生の集団に向かって、これからの日本を導いていく気概はあるか?と聞いたらたぶんそれほどの人間は手を挙げないだろう。何となく働いて、稼いで、偉くなって、幸福ならそれでいいや……とだれしもが思っている。

別に東大生でなくても、ぼくらは現代に生きて、一時代を担う人間なのである。フリーターでも引きこもりでも、この時代に生きている以上は何かしらの使命を持っているのだ。俺が時代を牽引する、という意識を持っても全然罪ではない……どころか、それはもう厳然たる事実なのだ。君たちが、牽引しなければ人類は前進できないのだ。

ぼくたちは、ただ生まれて、死ぬようにはできていない。各々の役割を見つけることが、たぶん生きるために必要なことである。そうして始めて自分の人生を生きることができるのではないか、とぼくは思う。