10.30.2014

理想について

生活が一変して、怠惰になった。

性格区分によると、ぼくは「分裂質の理想型」であり、そういう人の生活はコロコロと移り動くのだとか。几帳面な優等生が、一週間後にはヤンキーになっており、そのさらに一週間後にはまた優等生に戻っているような。……思い当たる節がありすぎて怖い。

怠惰な生活とは、ろくに読書もせずに、友人や後輩と話したり、買い物を楽しんだりすることである。今日は少しばかり読書をした。しかし昨日、一昨日とまるで書物に手をつけなかった。無意味な日々だったと思う。何かを意味づけるものは、未来にある。二度と使われることのないだろうマグカップは無意味である。しかしこれからコーヒーが注がれるとなれば別だ。社交は一時の慰労しか与えてくれない。一方で知識は血肉となり、永遠の暖かみを与えてくれる。だから本を読んで勉強することが大切なのだ。

ところで、ぼくらの人生はすべて、自己と環境の戦いである。ぼくらの生活を事細かに見ていくと、すべての行動の原理は、「自分の理想を勝ち取るため」であることがわかる。ぼくらが仕事をしているとき、歩いてゆくとき、何かを買うとき、パチンコを打つとき、ぼくらは理想を追いかけている。それは現状を変えるためだ。

理想を持っている動物はいない。動物たちの脳では、理想の世界を構築することができない。だから彼らは自分の求めているものが何なのか知らないまま、ホルモンやニューロンの刺激によって衝動的に動き回る。一方で、人は一旦世界から離脱し、内面世界に引きこもることができる。それは想像力によって、である。

少し前にぼくは人間の定義として「自分の死が必ず訪れると認識している動物」としたが、これを「高度な想像力を有する動物」としてもよい。なぜなら死を経験していないぼくらにとって、死は想像の産物だからだ。アンソニー・ストーが言ったように、「想像力は、すべての動物の中で人間においてもっとも発達している」と。

ぼくらは衝動的な欲求ではなく、理想に向かって動く。それは高度な抽象化の技術と、記憶力の成せる業だ。人生に完全に満足し切ってしまう人はいない。年収一億円の人がいたとして、彼の思うことは「もっと稼ぎたい」ということだ。マズローの段階説のように、ひとつ壁を乗りこえればより高次の欲求が待っている。

理想は想像力によってつくられる。しかし、作られた理想はぼくらの脳みその中にしか存在ない。だから、次には、ぼくらはこれを具現化しなければならない。これも人間に与えられた固有の能力である。ぼくらは内面世界を持ち、抽象思考を可能にした。しかし、それは単に逃避先を見つけたことを意味するのではない。そこから現実を変えるという作業が必要になる。理想を現実に適応していくのだ。全て生きるという行為は、それの繰り返しである。

ぼくらの生きている社会では、大部分の人が内面世界を構築しようとしない。彼らは衝動的に動き、動物に近しい存在に思える。また、社会の支配者層は大衆がコントローラブルな動物であるよう望んでいる。市場経済にしても、消費者は動物的であって欲しいと願っている。だれもが大衆に理性など望んでいない。だから、大衆は心置きなく愚昧化する。

一方で、優れた内面世界を持ちながら、臆病や自惚れのために、あるいは能力が足りずに世の中を変えられなかった人もいる。ぼくらに大切なことは、ひとつに自分の声に耳を傾けることであり、次には果敢に現実世界に挑むということだろう。それによってぼくらは真に生きることができると思う。

10.29.2014

自己について

二日酔いだった昨日、楽器の練習をしてみると思いの外調子がよかった。適度な神経の麻痺が「こうしよう」という意志の枷を外させる。楽器との関係がニュートラルになり、調和し、楽器はもはや特別な環境物ではなくなって、ぼくの四肢の一部のように自由に鳴ってくれた。

意志の馬具を外すことが重要だとニーチェは言ったが、ぼくもそのように思う。意志とはどこまでも脳の神経回路による稚拙な業である。ぼくは楽器において意志を介在させたくない。意志がはたらくと、「うまくやろう」「うまく見せよう」という気持ちが働いて結果的に不自由になる。

全て芸術は表現である。だから、どう巧妙に表現するかが重要に思われている。とんでもないテクニックの持ち主はたくさんいる。でも、案外「表現したいもの」それ自体のクオリティを上げることには注意が払われない。ぼくらが芸術で表現するものは、普通自己の精神である。その自己を深く掘り下げようという人は希少だ。ハイネは「人間は自分自身のことはいつも嘘をつく」と言ったがその通りで、自分の精神の根っこまで把握している人はほとんどいないだろう。インド哲学や仏教では梵我一如という言葉がある。またキリスト教においても、神=創造主は精神の最奥にあられる、という考え方がある。これは究極的には、自己と世界は同一であるという認識である。西田幾多郎の言ったように、「自己の深さは世界の深さ」なのである。

作品が深化していく、ということがありうる。つまり演奏によって、執筆によって、絵筆を走らせることによって、徐々に自分を深めていく。作品を創るとき、普通ひとは孤独である。演奏家であっても、基本的には練習は独りである。その過程で自己を見つけていく。草間彌生はNYのアパートの一室でひとり、巨大なキャンパスに向かい、トイレと食事の時間以外は延々と「網」を描き続けたという。彼女は何度か発狂しかけ、救急車で運ばれた。自己を知るという過程は危険な冒険であると思う。狂気の臨界点の近くでなければよい作品は描けないし、自己は発見できないようである。

音楽家でも、技巧的にはアマチュアレベルだが感動させる演奏をする人はいる。天才的な技巧を持っていて、素人を喜ばせるが、通人から見れば上滑りの皮相的演奏、という人もいる。英才教育によって天才的な音楽家は爆発的に増えた。特に中国や韓国の優れた演奏家はたくさん生まれている。小学生でありながらショパンだかバッハだかのエチュードをマスターし、十五歳でカーネギー・ホールで演奏するような。しかし、天才的な技巧が必ずしも成功を生むとは限らない。やはり芸術とは表現であるから、自己の芯を持ってない限りは凡庸な演奏家でしかないのだ。

結論を言えば、自己を知り、そして世界を知り、知性を身につけた優れた人間であることが芸術においても必要なのである。優れた芸術家はすべて、優れた人間である。ぼくはそのように思う。病跡学においては、偉大な芸術家や哲学者のほとんどは精神に異常をきたしていた、と言われている。そのことが、人間の欠陥と無能力さを示すのではない。彼らは確かに鋭敏な神経をもって生まれた。そのことは彼らを生きづらくさせた。しかし、彼らは不幸に屈服することなく、自己から目を逸らさず、強靱な知性と理性によって仕事を成し遂げた。そこに偉大さがある。彼らが精神の異常性を持っていたことが偉いのではない。「凡庸な狂人」はいつの時代でも、たくさんいる。問題はその壁を乗りこえられるかなのだ。

インド哲学の聖典、ギーターでは人間を三種類に分けている。「バラモン(司教)的」「戦士的」「市民的」な人間である(これはカースト制度の由来にもなっている)。戦士的な人は、勇敢に戦い、死を怖れてはならない。市民的である人は、調和的に生き、暖かな家庭を築かねばならない。バラモン的な人は、知恵を求め、真理に到達せねばならない。以上はぼくの勝手な解釈なので、間違いもあるだろうが概ねそんなところだろう。

哲学者、芸術家はバラモン的な素質を生まれ持ったと考えることができる。彼らを偉大たらしめるのは、彼らが少なからず真理に近づき、その生まれ持った使命を全うしたからである。

ぼくもバラモン的な素質を持っているという自負がある。こういう人の神経は鋭敏であり、ときに精神異常を起こす。しかし、ぼくは自分の運命を多少は把握している。だからもはや市民的であろうとは思わないし、戦士的である必要も感じない。それは市民をバカにしたり、戦士を軽蔑するということではない。戦士的な人が戦士的であるとき、それはバラモン的な人がバラモン的であるのと同様に美しい。

自己の探求の第一歩は、自分の役割を知ることだろう。そのためには、最初に言ったように、意志の馬具を外し自由になることが必要なのである。都市の喧噪の中では、精神の内奥の声はかき消されてしまう。外国へ一人旅をしたり、瞑想でもすれば良いと思う。そして本当の自分に出会い、「覚醒」するのである。自分探しという言葉はバカにされることも多いが、ぼくは良い言葉だと思う。長くなったのでこの辺で。

われわれの課題は目覚めていることに他ならない。ニーチェ
肉体労働をやれる程度に目覚めている人間ならいくらでもいるが、知性を有効にはたらかせることができるほど目覚めている人間となると百万人にひとりしかいない。詩的な人生、神聖な人生を送れるほど、となると一億人にひとりくらいのものだ。H. D. ソロー
精神的目覚めの炬火がもえるとき、窟中の暗はそのまま悟りの明となる。鈴木大拙

10.28.2014

仕事について

昨日やっとある仕事を終えた。仕事というか試験なのだけど。それが終わるとどんちゃん騒ぎをしたので、今はずいぶん頭が痛い。

仕事に打ち込むことはそんなに悪いことではないと思う。ぼくは試験のためにコンスタントに一日十時間は勉強したし、試験日が近づくとさらに勉強した。昨日など飯も勉強しながらといった具合だった。けっこうな激務だと思うし、さらにまずいことには、そこまで関心の持てない勉強内容なので、辛いものではあった。

それではなぜその仕事をきちんとやり遂げられたかと言えば、ぼくの場合、周囲の外圧と、試験に落第したときの恐怖が突きうごかしているのである。だれもがそうであるように、できれば試験なんて受けたくない。労働も同じもので、働かずに金が貰えればそれでいいのである。

ところが、実際に試験を終えて思うことは、何かに打ち込むということによって非常な充足感が得られるということである。その努力が報われるか、徒労に終わるかということには影響されない。また仕事の内容を問わない。仕事とはまず第一に抑圧の性質を持っているとぼくは思う。仕事によって人は不自由になるのであり、エネルギーを削がれ、時間を失う。その点では掃除夫も高級官僚も変わらない。ミュージシャンだって、音楽を仕事にした途端に音楽が嫌になる。

ところが仕事を放棄せずにまじめに取り組むとき、人間の能力は初めて発揮されるということになる。人間はどこまでも反動的な生き物である。そのことの意味は、むしろ仕事のような外部の抑圧が、人間の外形を作るということだ。

ぼくらは一見自由に自分を組み上げていると考えている。ノベル・ゲームのように選択肢によって人生が分岐していると考えている。しかしそれは誤りで、ぼくらの輪郭は環境によって作られており、そこに意志の入り込む余地はないのだ。世の中にはレゴブロックのように自分の人生を積み上げていると錯覚している人がいるが(たくさん)、それは誤謬なので、ちょっとした風であっけなく崩れる。

人間を真に成長せしめるものは苦難であり、外圧である。かえって厳しい環境の方がぼくらを幸福に導く。ぼくらはこの抑圧を認識しなければならない。人生は抑圧に満ちているということ、それどころか、抑圧が人生を構成していることを発見しなければならない。そうすれば、自分が自由だと錯覚しておかしな方向へ進んだり、あるいは存在しない自由に向かって盲進することはなくなる。ちょっとしたことに根をあげ、何事にも真剣になれないということはなくなるだろう。

10.26.2014

生活について

最近はのんべんだらりとやっている。

一日十時間は勉強している。
一日一時間は楽器を練習している。
一日一時間は何か書いている。
一日一時間は読書している。
一日七時間は眠れている。

このバランスが良い。もはや生活にほとんど不満はない。あるとすれば勉強が忙しくて読書の時間が少ないくらい。が、勉強も知識を得るという点では同じなのだから、これもまた楽しいものだ。

禁欲とともに、余暇の楽しみをほとんど捨てた。辞めたのはスマホのネット閲覧とか、テレビを見ること、街で買い物をすることなど。だからぼくの生活はずいぶんシンプルになった。おかげで一日十時間勉強をしても大して疲れない。食事のせいもあるだろう。パンとスープ、サラダ、目玉焼き、納豆くらいしか食べないので、ずいぶん体が楽になった。今まで食べていたガッツリした牛丼、からあげ定食、ラーメンはずいぶん体の負担になっていたことがわかる(年とってそういうのが受けつけなくなったとも言える)。

楽器の練習は一日一時間くらい行うようにしている。短すぎるという人もいるかもしれないが、普通は一時間も練習すればくたくたである。昔は教本には、10やるよりは100やれ、100よりは1000やれと物量攻めだったが、最近の教本では「一日一時間でもいいから楽器に触れろ」とある。ぼくもその方が良いと思う。というのもまずもって楽器の演奏とは集中力を要求するものであり、集中力は普通何時間も持たないからだ。

丸山健二がオススメする小説家のスタイルは、朝の2,3時間ぐっと集中して執筆し、残りは自由に過ごすというものである。これは副業ではなく、「専業」の作家である。一日の労働時間はたったの2,3時間ということになる。しかし、人間にできる創造的な仕事とはこれが限界という気もする。丸山は残りの時間を何をしているのかと言えば、彼は長野の田舎に住んでいるので、たぶん農業をやっているのだろう。いい生活だ。セレンディピティという言葉があるが、案外こうしたフリーな時間で着想を得ることもありうる。

ぼくは来年から働くことになるが、社長と面談したときに徹底して確認したことがある。それは「残業がないこと」「土日は休めること」「有給を取れること」の三つである。というのも、ぼくの本当の生活は余暇にあるのであり、読書や楽器に費やせる時間がなければチューブタイヤのようにパンクしてしまうだろう。それでは仕事にならない。適切な余暇こそ良い仕事に必要なものである。だから、タブーとされがちなこの三つをきっちり質問してやった。こんなぼくに内定を出してくれたのだからいい会社である。

余暇というとどうも怠惰なイメージがつきまとう。こたつに入ってテレビを見ているようなくだらない時間。仕事と仕事の間の、無駄に流すだけの時間。実際に、家に帰ってもそれくらいしかすることはないのだから仕事をして残業代を稼ごうという人もいる。それくらいしかしないのだからもっと遅くまで働けと企業も言う。何というか、貧困な生だと思う。首輪を外され自由となった奴隷は、よりどころのなさに不安を覚えるというが、同じだろう。生活の空漠さを仕事という借りもので埋めているのである。

自己に誠実でない人は他者に誠実にもなれない。誠実でない作品はすべてゴミ屑だ。例えその作品が数億円稼ごうと、教科書に載ろうとだ。よい芸術作品はよい人間からしか生まれない、とぼくは思っている。そしてよい人間はよい生活から生まれ、よい生活はよい行為から生まれる。だから行為の分別を知るということが、誠実さの基準なのである。

10.25.2014

死と真理について

最近非常に腑に落ちることがあった。真理は存在しないのである。そう考えると、いろいろなことがぴたっと嵌まる。

ぼくはこのブログで、何度かこう言ってきた。人間を定義づけるものは、自分が死にゆく存在であることを自覚していることである、と。なぜなら人間以外に自らの死を認識している動物はいないからだ。他者の死であれば認識できる。例えば霊長類で最高の知性を持つゴリラは、他者の死を「眠りのようなもの」と捕らえている。ゴリラはまだ二つのことに気づいていない。それは死と眠りは別物であり仲間は永遠に目を覚まさないということ、死が近い将来に彼自身にも訪れるという事実である。彼の認識は人間の二歳児のそれと似ている。ある研究によれば、「自分にも死が必ず訪れる」と悟るには、九歳児程度の知能が必要なのだという(思い当たる人は多いはず)。

さて、人間は近い将来における自らの死を認識するよう生まれついた。キリスト教ではアニミズムと異なり、人間を他の動物と区別している。人間は神に似せて作られた創造物だ、というわけである。この考え方は、もはや人間が動物と同じ価値規範を持たないという意味で正しい。ぼくらは目前のエサだとか、フェロモンに衝動的につきうごかされる動物ではなくなった。

もしも生が無限であるか、死に目を向けることがなければ、ぼくらはいくらでも怠惰に生活することができる。車の発明なんて必要ない。歩いて行けばよい。はたらく必要もない。ハクスレーの「すばらしい新世界」のように、ただ戯れに飯を食べ、戯れに性交するという日々だろう。

ところがぼくらは死を認識してしまった。ぼくらは何へ向かうのか。その行く先が「真理」とか「真実」なのである。なぜならそれらの概念は永遠の要素を持つからである。常ならざる存在であるぼくらが、永遠性を持つものを愛するということは必然である。それはか弱い女が力強い男を求めるのと似ている。

重要なことは、ぼくらは知恵を愛するけども、それは決して主体的な振るまいではないということだ。あらゆる動物が、環境と肉体によって行動が決定づけられているように、ぼくらも「死」という檻に気づいた動物に過ぎない。だから、ぼくらはゲージの中のラットがそうするように、叩いたり、動き回ったりして何とか出口を探しもとめるのである。

冒頭の「真理は存在しない」ということの意味は、人間の探し当てたと思っている「真理」は、人間の欲求から切り離せていないということだ。動物にとっては、ぼくらの考える真理とは目の前のバナナ以上のものではないだろう。プラトンの言うようなイデアは存在しない。しかし、そのような真理は全ての人間が求めている。ぼくらはカントを読めばそこに真理を感じ興奮する。その意味では確かに存在するのである。

ところで、真理など存在しないとすれば、ぼくらがそれを求めることは間違っているのだろうか。すべては徒労なのではないだろうか。これについては簡単に答えられるものではないが、ぼくらがこの死から逃れられないという事実によって数々の偉大な業績を残したことは事実である。芸術作品然り、科学の発明然り。

怠惰に衝動的に振る舞うことは本当ではない。ぼくらは一旦死を認識した以上、動物には戻れない。動物的に振る舞う人びと、例えば飽食にあけくれ怠惰な生活を送る人は間違っている、と言うことができるだろう。彼は人間であって動物ではないからだ。

動物的な人は「俺は自分に素直すぎるだけなんだ」というが、誤謬である。普通のひとびとが思っているのとは反対に、すべて高貴な人間は自分の欲求に素直なものだ。ただ彼はより高次の欲求にしたがっているのである。動物的な人間は目が開いていない。自らの死を認識できないのであれば二歳児と同じである。しかし成熟した脳みその知能指数がそこまで異なることはない。彼はただそれを遠ざけて、無意識に追いやっている。その方が楽だし、またそうすることが慣習だからだ。しかしそういう人間は、肉親の死や、自らの老いなどの機会によって改心することになるだろう。

ぼくらが必ず死ぬことは事実である。そうであれば、ぼくらがただ食べ、寝て終わるという生活は本当ではない。そうした生活は、むしろぼくらを阻害するものである。ただ肉体的自己を満足させるだけであってはならない。あがき続けるということが、人間の正しい姿勢である。

ずいぶん稚拙な哲学を展開してしまった。でもまあ、哲学は少数の天才のためだけのものではないと思ったりするのである。

10.22.2014

禁欲について

禁欲的な生活は続いている。

過去にも禁欲生活を試みたことがある。幾度となく失敗し、最長で100日続けば良いほうだった。以前のぼくは情欲にかられたら、それを強引に力でねじ伏せていた。しかしそれはあまり好ましい方法ではなかったと思う。

今回は、それよりももっと母性的に対応している。母親のもつような注意深さで自分を監視し、少しでもそういう気を見せたら、その火をそっと消してあげるのだ。まあ、ベッドに隠したエロ本がいつの間にか勉強机の上に置かれているといった具合に似ている。

「禁煙」については良い実践書がいくらでもある。ところが「禁欲」となるとろくな本がない。試みる人は少ないし、おおっぴらに語ることでもないからだろう。なので、キリスト教のサイトを良く見ている。ぼくは別にクリスチャンでも何でもなく、シントゥイスト?である(旅先の外人に「神道を信じている」と説明するときいつも難儀したことを思い出す)。しかしキリスト教は悪魔の誘惑と2000年闘ってきた歴史の積み重ねがある。これはまったく比類なき叡智であって、利用しない手はない。

欲情は火のようなものであり、燃えさかる前に消化することが肝心であるとか、悪魔の声に耳を貸してはならない、また悪魔と議論しようと思ってはならない。悪魔は何千年も人間と議論してきたので、弁論に長けている。ただ、神の言葉を放つことにより打ち勝つことができる……とか。禁欲の道に悩むことがあれば、聖書関連のサイトが良い。

ところで、何となくサイトを見ていると、ひとつ良いこと言うなあというのがあった。「神に赦せないほど大きな罪はない」という言葉である。こんなこと言われたらコロッと改宗してしまうかもしれない。人は罪を犯すものだし、過去はどこまでも自分を追ってくるものだ。神の許しを乞いたくもなる。

いったん禁欲して世の中を見渡してみると、日本がいかに堕落しているかわかる。コンビニに行けば堂々とエロ本が売られているし、スマホで調べ物をすると、エロ広告がページ繰りをしつっこく追いかける。何かの本で、日常にポルノが氾濫しているのは世界中でも日本とタイくらいだ、と書いてあった。ぼくは数カ国しか海外に行った経験はないが、その実感はある(パチンコ屋が堂々と駅前にあるのも特異なのだが……)。

マア、アメリカであってもポルノにアクセスすることは簡単だ。サウス・パークのマーシュ(XVideo中毒になった回がある)は特例ではなくって、アメリカ人は一日平均して7つのポルノ動画を観るのだという。

そうでなくとも、街の女の子たちはバーンとおっぱいや太ももを晒している。少し前のぼくであれば、「僥倖!」とか言って目で追いかけたが、今はぐっと俯かなければならない。酷である。

こうした社会で禁欲生活を続けていくことは難しい。だいいち、教科書でも「オナニーは悪ではありませんよ」と書いてあるのだ。今では違うかもしれないが、ぼくが義務教育を受けていたときはそうだった。この性教育はどうかと思う。実際のところ、ぼくはオナニーは悪である、と思う。必要悪だ。たぶん、オナニーを公的に厳罰化したら、性犯罪は爆発的に上がるだろう。

しかし、個人が良く生きようと思ったら、禁欲は極めて有効であると思う。日々を生産的に生きられるという気がする。まあまだ10日も経っていないが、このように思う。

ちなみにオナニーの語源であるオナンは、旧約聖書の登場人物である。精液を地に流したことでヤハウェの反感を買い、殺された。これは膣外射精だったと言われているのだが。

10.21.2014

前を向くこと

著名な芸術作品や哲学のような、「不滅」なものに触れる人は、ひとつの宿命を背負う。芸術作品を鑑賞すると、ぼくらはその美しさや楽しさに子どものようにはしゃいで飛び跳ねるけども、決してそれだけで終わるのではない。彼らの作品が与えるすばらしさの中にはあるメッセージが含まれている。それは彼らが生涯をかけて追求した「人類の全般的進歩に貢献する」という使命を果たせ、という義務である。

だから、読むことでも聴くことでも、ぼくらが芸術作品に触れるとき、無意識にある思念を「引き継いでいる」のである。過去の偉人たちが言う。ここまでが私の仕事だった、ここからは君の――というわけだ。父の大事に整備した田畑を子が引き継がねばならないように。

作品と時代性は切り離せない。村上春樹とプラトンは違う要素を持っているし、草間彌生とミケランジェロも同様である。個人の作品にしても、処女作と晩年の作品では味付けがまるで違うのが常である。作品各々が時代性を持つということは、彼らがひとつの歴史に組み込まれていることを意味する。歴史から切り離された作品はない。すべて何らかの文脈の上に立つのであり、そうでない限りは無価値か狂気の作品だ。シュルレアリスムの作品が世に受け入れられたのは、それが創造物であり、芸術史の止揚となったからである。現代にゴッホそのままの画家があらわれても評価はされない。それは進歩ではなく退歩だであり、価値はむしろ反転してしまう。

既存の芸術作品はすべて過去のものである。だからディレッタントはたまに罠に陥る。現代に倦怠するあまり、モーツァルトの時代に憧れるのである。それはモーツァルトの作品に心酔するというよりも(彼はそう思っているが)モーツァルトの時代がただ「遠い」からだ。現代ジャズを否定し60年代ジャズしか聴かない人もそうだし、昔の250ccレーサー・レプリカ・バイク以外認めない人も然り。

ところが、ぼくらは過去ばかりを見ていられない。時間は一方向だ。また、足元ばかりを見ているのではない。時間は止まらないからだ。人間の目は前にしかついていないのだし、また後ろに走ることも難しい。ぼくらはどちらかと言えば、前に進むようにできている。過去に落ち着いてしまうことはまったく人間の本態に反する。田畑の草むしりをいくらしたところで、種をまかねば意味がない。全ての「意味」は、未来に向かっている。

ぼくらは過去を見た分だけ、前に飛翔できるだろう。芸術作品を見るとき、そこに感じるのはぼくらの生きる意味である。ぼくらはまったく歴史から切り離された、狂気の時代に生きているように思える。この現代は色彩がゴチャゴチャして様相をつかみづらい。しかし、それは現代に安住しようと試みるからである。ぼくらの未来はシンプルだし、過去もまたシンプルだった。それは正規分布のグラフに似る。ぼくらは未来に立つことによって、この恐ろしく物で溢れかえり、同時に空漠である現代社会から抜け出すことができるのである。

必要なことは、現代から抜け出して、未来に立つことだ。それは常に肌寒さに悩まされることを意味する。しかし、今更それを厭うぼくらではないはずだ。

10.20.2014

高潔であること

高潔になろうと毎日努力している。高潔さとは、誠実であり、貴族的であることだと思っている。世の中には、お金持ちになるための本や友達に好かれる本はあっても、気高く生きるための指南書は少ない。ぼくらはそうした価値基準に立つことは稀だ。金を持っているか、権力はあるか、人当たりはよいか、おっぱいは大きいかに目がいってしまう。しかし人間にとってもっとも大事なことはこの誠実さという態度である。

それでは誠実さと何か。それは、以前言ったように「やるべきことをやり、不要なことをしない」ということに尽きる。この行為の取捨選択が重要である。行為が人格を作り上げるからである。やるべきこと、やるべきでないこととは何か。一つの判断基準に、友人あるいは神に、その行為を堂々と言えるかどうかである。私はこれをした、と相手の目を見て言えるかどうかだ。

そんなことを心がけてからぼくの生活はシンプルになった。ぼくの食生活はより一層質素になったし、また、禁欲を続けている。人間関係についても、円滑に進むよう努力をしている。本当にささいなことの積み重ねなのだと思う。例えばカップラーメンを食べるにしても、毎度スープを飲み干していれば病気になってしまう。「それをしない」という意志が必要なのだ。大したことではないが、それだけで、のちのちばったり倒れて大手術を受けることを避けられる。同じように、ちょっとした軌道修正、日々の理性的な修正によって人間の出来は大きく変わるものだと思う。

禁欲については、まだ若いぼくにとって非常に困難なのだけれど、下劣な妄想をしそうになったときは軽くたしなめてくれる、もうひとりの自分を呼び起こすことで可能になる。この「軽くたしなめる」ということが重要で、厳罰を下す神は不要である。惹起された欲情は、初期であれば消化することができる。だから恐怖というよりも、ずっと注意深さと迅速さが大切になる。というか、スマホのエロ広告マジでやめてほしい。あれは取り締まるべきだ。

ぼくの生活においては、すべきことよりも、禁ずべき事柄が多くあった。数多くの悪習から離れたので、ぼくの生活は実にシンプルになった。外食でラーメンやからあげ定食を食すことがなくなったので、料理をするようになった。肉を焼くときの、野菜を炒めるときの得も言われぬ楽しさよ。仕事の疲れが一気に飛ぶ。まったくぼくは何という思い過ごしをしていたのか。旅の喜びが目的地よりも道中にあるように、本当の幸せとはこういうところにあるのだと思う。友人は自炊をしないという。曰く「料理と片付けに30分かかるとしたら、時給換算で400円無駄にすることになる。外食した方がましだ」と。これは、一見本当に見えて嘘っぱちだ。料理は楽しいからだ。

世の中にはいろんな選択肢があるように見える。欲望は消費によって解消される。本当に人間の持つあらゆる欲求に対し、適切な商品が提供されている。耳かきすら金を払えばしてもらえるのである。社会は成熟した。金は万能のように思える。

科学は確かに発展した。いまや世界中の人びとと瞬時にコミュニケーションがとれる。空飛ぶ自動車の時代はまだだが、300馬力の市販バイクはカワサキが作った。

唐突なバイクネタ

ところが、人間が人間を生みだすことは未だできていない。稚拙なロボットや、万能細胞は作れるとしても。人間の真の目標についても同じである。人間の生まれ持った人生の目標や意味といったものは、相変わらず原初のままであって、人間がいくら手を伸ばしても、それを改変することができていない。だからみな、ありがたがって2000年前の聖書を読むし、バガヴァッド・ギーターの文章が高貴な芳香を持つのだ。人間のやるべき行いとはギリシャ哲学やインド哲学の時代から大して変わっていない。

気高く生きるということは、多少の痛みを伴う。欲望のままに生きることの方が楽に思えるときもある。しかし、そこまで大変なことではない。厳格な戒律に縛られる必要もない。ただ、少しの軌道修正によって可能になることだと思う。重要なことは常に目を開いていることであり、それを続けることだろう。



最近胃が弱っている。ぼくの疲労はまず第一に胃腸にくる。酒を飲むと焼けるように痛む。潰瘍ができているのかもしれない。胃は精神の象徴だと聞いたことがある。日本人はマイナー調の曲(暗く悲しい響きの曲)が好きだが、その理由は西洋人に比べ胃が弱いからなのだと(黒沢明の「生きる」を思い出す)。胃が弱ると、ぼくの精神の均衡は崩れて、昔の女の幻影を追い求め始める。ぼくは仕事にならないので、バイクに跨がって学校から帰って寝る。すべて人生の問題は寝ることによって解決する。肉体と精神を問わず、重病人は大抵ベッドに寝かされて運動を禁じられるが、あれも治療の一環である。ヒュプノスに感謝を(ついでにハルシオンに感謝を)。

ところで、昨日寝ているときに「眼鏡が壊れる」夢を見た。夢診断では、これは見当違いの思い込みをしていることを警告しているのだという。昨日僕は「自分は冒険家なんです!」なんてこっぱずかしいことを書いたが、あれは誤りかもしれない。

10.19.2014

冒険家

ぼくのような人間に価値があるとすれば、それは独立しているという点だろう。

ぼくは集団の中にあって、快活に話すことが苦手である。他者がいるとぼくはどもるし、言葉に詰まってしまう。天性のネガティビストであり、人とお茶を飲んでいる間にも、「この人は、ぼくのような粗末な人間と話すよりは、テレビを見ていた方が気楽ではないのか」と勘ぐってしまう類の人間である。また、ぼくは仕事に熱中するタイプではない。アルバイトをしているときでも、「いかに少ない労働量で時給を稼ぐか」ということを終始考えていた。そんなわけで人に愛されず、また仕事もよくよくしない、社会的に無価値な人間であると思っていた。

もちろんぼくだって電柱やポストではないのだから、社会の要求をちゃんと肌身に感じていた。ぼくは友達に好かれようと道化を演じ、「コミュ力」を磨こうとした。同僚に気に入られようと、人の1.2倍くらい仕事をした。しかし、どこかで「なぜこんなことをしなければならないのか」と思い始めてしまう。そして長く続かない。想像してみてほしいが、突発的に人より仕事をして、評価されることを望むような奴は職場でいちばん使えないのである。下手な怠け者よりたちが悪い。自然、ぼくは以前よりもっと社会から拒絶されるようになった。

そうして、ぼくはどこかで吹っ切れた。友人とは縁を切り、バイトも辞めた。ただ音楽を聴いて、読書して、日々を過ごした。それは居心地がよく、朝の風のように澄んだ平穏だった。

しだいに悟ったことは、ぼくには友人も仕事も無価値であるということである。必要は発明の母というが、才能も欲求にしたがって形作られるものだ。たとえば有名になろうと思って楽器を練習する奴は絶対にうまくならない。それが才能がないということならそうなのだろう。彼はニコ生でもやった方がいい。

人の愛を求める人間は弁に長け、労使されることを求める人は時給900円に何も疑わなくなる。ぼくは長らく社会的な価値観の奴隷であった、父なる社会様はこうおっしゃる。「友達を作りたまえ。いつもにこにこ笑い、組織の潤滑な構成員たれ」「よく働き、仕事を認めれるようになりたまえ」。こうした価値観、マスコミや学校で「教育」された価値観からぼくは自由になった。ぼくは思う存分しかめつらをし、怠惰に非生産的に生活している。

コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」だの、アンソニー・ストーやクレッチマーの本の中では、ぼくのようなつまはじきもののすべきことは共通している。それは隠遁し、学問や芸術の中で生きよということだ。どういうわけかこの世は王者と平民だけで構成されているのではないらしい。疎外者はまだ社会の構成員でありうる。それは学問的、芸術的な功績をあげることによって。人間はまったく個人であることはありえないのだ。

ぼくのような人間は、社会から離れた寒空の中で、叡智をつかんで持ってこいというわけだ。ぼくらの仕事は冒険家のそれに近い。危険と困難の先に、何か美しいものを探し求めるのだ。ぼくらの中には、発狂や自殺という形でドロップアウトする落伍者もいるが、そうならないよう、強靱な意志と勇気と智慧をもって進まねばならない。ぼくらの多くは本当の仕事を忘れている。目を開かれていないぼくらは、愛に恵まれず仕事に無能である理由を知らなかった。その理由は温もりと定住を離れて未知の世界に飛び出したかったからなのである。血が、本性が求めているのだ。

ぼくらの先人の姿や墓場は必ずしも目につくものではない。冒険家たちの持ち帰った宝物は、すぐに王様が取り上げてしまうし、平民たちはその模造品を自分の装飾具にしたがる。彼らは一旦宝物を得ると、冒険家たちを追放して、その像を塗り替えてしまう。彼らには信じられないのだ。人類の進歩に貢献した人間が、王族や平民でない「つまはじきもの」ということが。だから、冒険家たちの本当の姿は歴史の闇に葬られる。

そんなわけで、ぼくらのような人間が自分の本当の仕事に気づいたときはつねに危険を伴う。ぼくらの父や兄となる冒険家たちの通った道は、あまりに古いか時によってかき消されているので、ぼくらは耳を澄まし、極度に警戒しながら、大胆に歩まなければならない。

買いかぶりすぎかもしれないが、ぼくは自分のことをそのように捉えている。

10.18.2014

高貴さについて

ある女のことが忘れられない、ということをこのブログの中で書き続けているのだけど、あいも変わらず想い続けてしまっている。最近のぼくの心理の傾向は、彼女に対する愛情を敵意にかえてなんとか喪失体験に適応しようと試みているようだ。

他者を求めるということは、未熟さのあらわれだろう。何にも欠けることのない人がだれかを恋い慕うことはない。優れて成熟した人間が、高級車やマンションの誘惑に惑わされることがないように、彼は他者を愛することはあっても、失恋してピストル自殺などという狂気染みたふるまいはしないだろう。

恋はまず第一義に、狂気である。狂気の闇底に陥らない、強い、円熟した人間を目指さねばならない。彼女はぼくにないものを持っていた。そうだから彼女を求めるのだ。その欠如の対象は、必ずしも彼女個人にあるのではない。もっと普遍的なものだろう。

彼女のことを冷静に分析すれば、ぼくのような身分の者からすれば高貴すぎる、ということになる。現代日本には貴族も王族もない(あ、天皇がいた)が、少し昔であれば、ぼくは農奴で、彼女は華族といったような絶望的な関係だったはずだ。それだけの生まれの違いがあった。

彼女の叔父や叔母は知事であり、国際的な企業の経営者であり、また大学教授であった。ぼくの親類はといえば、消防士であり、中学教師であり、中小企業のサラリーマンであった。彼女の家族は月に一度正装して赤坂のレストランへ出かけたが、ぼくは月に一度家族でラーメンを食べに行った。彼女は著名な進学校を出たが、ぼくは偏差値40の高校を出た。彼女はバイオリンでバッハを弾くが、ぼくは下卑たアメリカ音楽をやっていた。

このように、彼女は高貴な人間であった。この彼女の高貴さが、田舎から出てきたぼくには物珍しく、強烈にぼくの興味を惹いたということになるだろう。彼女は見たことのない色で輝く宝石であった。ぼくは彼女の属するハイソサイエティに憧れをもった。単なる金持ちの到底達することのできない、本当の生まれの違いである。この生まれの違いを意識する人は少ない。ぼくも彼女を知るまでは、世間には金持ちか貧乏かの違いくらいで、人間に根本的な「育ちの違い」があると思ってはいなかった。しかし、優れた家系、劣悪な家系というのはある。

ぼくの家系が特別劣るとは思わない。一応の歴史はあるし、それなりに名の知れた先祖もいる。しかしぼくの一つ上の世代に、社会的に成功したという人はいなかった。またその人生を開花させたという人も知らない。ぼくの父は卑しく、母は愚鈍だった(ごめん両親よ)。またぼくの育ちも猛烈に悪かった。

彼女とは数ヶ月、交際した。交際と言っても彼女からすれば遊びだったろうが。それが次第に縁遠くなった。彼女の熱が冷めたのだろう。今でもキャンパスでたまにすれ違うが、気まずい挨拶を交わすだけだ。ぼくはもう彼女を追うことはなくなった。しかし、彼女の幻影にはいまだ悩まされ続けている。この幻影は何者だ?

さきほども言ったように、何かを渇望するということは、ぼくに何かが欠如していることを意味する。それは彼女自身かといえばそうではない。彼女という一個のヒトの個体がぼくに従属することをぼくが求めているのではない。

人間の認識の限界をぼくは知っている。ある女がブランド物のハンドバッグを求めているからといって、彼女が本当に求めているものはハンドバッグそのものではないことをぼくは知っている。それは彼女の生活を変えたいという願望だったり……日常の倦怠への絶望だったり……にぎやかな消費社会への参画の欲求だったりと……恐ろしく雑多な、もやもやして錯綜した感情が、彼女をハンドバッグへ至らせる。彼女はこう言うだろう。「私はこのハンドバッグが欲しい」。しかし、ぼくは知っている。彼女はハンドバッグの中の虚空を求めているのだと。だから、彼女はハンドバッグを手にしたとたん失望する。本当に求めているものはそんなものではないからだ。

ぼくが求めていることは、たぶん、まだ曖昧だが、高貴であることだ。人間として気高く生きることだ。ぼくの中の彼女は、その点が強調されている。ぼくが彼女を理想化するとすれば、その点なのだ。

彼女はぼくの生き方を修正してくれた。彼女を知ったことはよかったと思う。ぼくはこれまで、あまりに卑しい人間だったから……。今後も彼女の幻影はぼくにつきまとい続けるだろう。しかしそれもよいことだ。恋の激しい焔はぼくの精神をどん底まで突き落としたが、彼女との思い出は、温かい持続する光を与えてくれるものに変わると信じたい。

愛することについて

ひとを愛することができるようになったと最近感じている。これまでのぼくは他者をまるで愛することができていなかった。愛することを怖れ、また愛されることを怖れていたためである。

ぼくが長らく自分が盲だったと思うことに、他者の中に自分を見つけることができなかった。他者のどこかには必ず自己がいる。それを知っていると、自分を愛するように他者を愛することができるようになった。

他者を愛するためには自分を愛することが必要だった。

初めは自己を愛せなかった時代である。自分というものが認められず、そのため自分を愛する道具として他者を利用した。「友達が何人いる」というステータスや、スケジュール帳が予定で埋まるというような充足感、漫画にあるような典型的な仲良しグループに身を置くことが自分を愛するために必要だった。こうした習慣は二十歳まで続いた。他者が自分を必要しているのだから、「自分は存在していい」。このような理由で行うコミュニケーションは意味をなすこともなく、人びともバカではないので、ぼくは拒絶された。

次には、いつしかぼくはそんな習慣を辞めた。世界を一気に拒絶した。孤独の中に浸り、ただ自己とだけ語らった。徹底的な個人主義者となって、勝手気ままに行動し、規則を守らず、常識を無視した。マスコミや社交をはねつけ、ひとり暗い部屋で宗教や哲学の本を読んだ。永遠独立の個人がぼくの目指すところだった。
「君ね、ひとりで生きてるんじゃないんだよ」とある教授に言われたことがある。今では彼の言葉の意味もわかるが、あのときは全ての人間は一人で生まれ、一人で死んでいくのだとぼくは信じていた。孤独の中は、それより前の渇望の時期より多くの自尊心が得られた。ぼくはそれだけで生きていけた。あらゆる他者を否定し、自分だけを心底愛して暮らしていた。ぼくは冷たく暗い孤独の最果てを歩んだ。

そうした二つの時期を越えて、ようやく人間社会に帰ろうという気になった。一度自分を愛することを覚えてしまうと、応用が効くものだ。ぼくは初めて他者を心底愛せるようになった。他者の尊重とか、尊敬といった言葉の意味がわかるようになった。ある人が、ある人固有の能力を自由に発現しているとき、ぼくは彼を愛する。彼の何気ない仕草に、彼特有の才能、人格、意志が見られたときにぼくは彼を愛する。彼が挫折に苦しみ、自己を痛めつけているときに、ぼくは彼を愛する。他者のどこかには自己がいる。それは握手を求めるばかりではない。眠っているかもしれないし、牙を剥くかもしれない。とにかくそれを探し出すことである。

こうしたことを学んだときに、世界は一気に輝けるものになった。何といっても、世界のあらゆるところに他者がいるのであり、他者があるところには愛情がある。ぼくは今その眩しさに戸惑っている子どもというわけだ。



この三つのプロセスは、まず「自己も他者も愛せない」第一の状態から、第二の「自己だけは愛せる」状態となり、最後の「自己も他者も愛せる」という三段階を踏んでいる。普通の子どもは、たぶん遅くとも十五歳になるまでにはこうした成熟した愛の感情を発達させるものだと思う。ぼくの場合ではあまりに遅すぎた。どういうわけか?遺伝的な欠陥なのか、環境的な阻害作用によるものかは知らないが、ぼくはこの年でようやく愛情を得ることができたことは事実だ。

第一の時期、他者を利用しようという人間は、最近の精神医学で言うと「境界例(ボーダー)」ということになるだろう。これはつまり、母親から受けるような無償の愛を、赤の他人からも要求するということである。ぼくのエピソードを鑑みると、境界例の治療には、まず他者から切り離し、自立させることが必要なのではないかと思う。それは母体であるところの他者から解放するということである。



今日は鎧淳訳の「バガヴァッド・ギーター」を読んだ。ギーターはインド神話のクライマックスの部分であり、全世界で聖書の次に読まれている。インドへ旅行に行ったときに、電車で隣り合った奴に「ぼくはギーターが好きでよく読むんだよ」と言うと喜ばれたり、感心されたものだ。非暴力、不服従で有名もマハトマ・ガンジーも挫折しそうになったときは本書を開いて慰められたという。

それだけの著作だから、中身はすばらしく、ぼくはたいへん感服してしまった。筆舌に尽くしがたい箴言の数々である。ニーチェ、テグジュペリ、ヘッセ、宮沢賢治がなんだったろうか。ぼくの読んだ数百冊の本がなんだったか。数百冊という冊数、読書に費やした時間は何だったか。全ての智慧がここにあったのだ。

ネットの情報量が書籍を越えたという。しかし、ネットのすべてのテキストを見ても、ギーターの数十頁を越えるものはないだろう。すべては紀元前数世紀に書かれていた。ぼくらの苦悩が、道が、そこに書かれていたというわけだ。

哲学はインド哲学とギリシャ哲学とで完結しているという話をよく聞く。そんなわけあるか、俺たちは進歩しているのだから。原子の構造も天体の動きも知らない奴らに何がわかるというのか……ぼくも賛同するが、哲学に関しては、生き方に関しては、ぼくらは退歩してるとは言えないだろうか。

10.16.2014

ときの奔流のなかで

こんなブログであっても、パソコンに向かっていると、さあ何を書いてやろうかという気になるのである。自分でも不思議な習慣だと思うが、ブログに何か書くということが日課になってしまった。

慣習にしていることと言えば、もうひとつ、楽器の練習がある。たぶん、ぼくの日常で心から好きと言えることはこのふたつだと思う。好きであるということは、毎日の反復を厭わないことだ。他者の強制がなくても、あるいは何らかの制約や障害があっても、それをしてしまうということだ。

芸術とは弱者のためのものであると思う。ゲーテやバッハは成功したけれども、彼らもまた弱い人だった。彼らは弱かったが、その弱さに潰れない強さもまたもっていた。だが、その本態はどこまでも弱い人間だった。

本当の強者は歴史の表には立たないものなのではないか、という気がしている。時の風化に耐えられないようなものに存外の価値がある。岡本太郎は、石器時代なんて呼称は誤解を招く、石器しか残らなかったから石器時代と言われているだけで、布地や藁細工など、他の文化もちゃんとあったのだ、というようなことを言っていたと思う。

本当に良いものは、大々的に名作扱いされるものでなく、だれの目にも止まらないものや、細々とマニア=愛好家に大事に保管されるようなものにあるのではないかと思う。

ぼくはサティやハチャトゥリアンを聴く。それは大変すばらしい音楽なのだが、どうも心にしっくりこない。ぼくは自分のために作られたような作品が欲しいのである。芸術家の動機とはそういうものかもしれない。あらゆる文学に手を出して、「これだけか!これだけなのか!」と嘆くひとが小説家になるのだろう。まず自分にとって慰めになるような作品を生みだしたいという衝動。

ところで、長く書いてきてわかることは、ぼくの文章は堅苦しく、表現体として稚拙だということである。ぼくは美しい文章を書けない。詩なんてもっての他である。だからといって難しい文章も無理だ。自分に文才がないと言うつもりはない。こうして毎日書くことはできているのだから、多少の才はある。ただ、ヘタクソだ。

ぼくの楽器も稚拙だったが、毎日幾ばくかの時間を費やすことによって、不思議と形になってきた。焦点が次第にあってくるという不思議な感覚だ。ヘタクソな演奏はブレているものである。あっちへ行ったり、こっちへ行ったりせわしない。一方、最高の作品は、あるバランスを保っている。これ以上でもマズいし、これ以下でもマズいという、急所を捉えているものだ。

まあ、ブサイクに生まれついても、しょうがないものだ。それは変えようがない。短い指でも優れたピアニストになれる。また、楽器から教わることがもっとも多いのだし、書くことについても、自分のエクリチュールに教わることが多い。気長に続けることだろう。

10.14.2014

誠実さについて

赤子は積み木を組み上げる。ひとつひとつ慎重に。彼は秩序立った積み木のできばえに満足するが、それは長く続かない。積み木は簡単に崩れてしまう。彼が不注意に手を伸ばしたときに、彼が他のおもちゃに気をひかれ、歩き出したときに。あるいは彼が辛抱強く見守っていたとしても、母親が帰ってきたらそれを片付けてしまう。積み木は必ず崩れる。

人の生も似たようなものだ。人は必ず死ぬのだから。大事なのは、その生に意味があるのかどうかだ。人生を形作るのは意味であり、もはや生に意味を感じられないとしたら、人は狂気に逃げ込むか、自殺するかしかなくなってしまう。ぼくらはそう遠くない未来に自分が死ぬことを予見しているが、それならどうして今生きているのか、と問うことは的外れではない。

何かしらの意味はあるはずだ。赤子は積み木が崩れることをいつか悟るが、それでもやめることはない。彼が木片を積み上げる運動をやめるのは、ただひとつ、もっと大きなものを積み上げるときである。



人間を理性的動物たらしめるものに、「誠実さ」があると思う。この誠実さが最近のテーマになって、ぼくのあたまをぐるぐる回っている。結論としては、誠実さとは、やるべきことをやり、不要なことをやらない、ということから生まれてくるのではないかと考えている。

優れた芸術品にも同じことが言えるだろう。やるべきことをやり、不要なことをやらない作品はだれしもが愛し求めるものだ。

ぼくは今けっこう忙しい仕事に追われているが、そうした中でかえって自分は誠実になれているという気がする。仕事をして、休むだけの日々の中で、ぼくはどんどん誠実になっていく。下劣な誘惑は時間の無駄として切り捨てることができる。

人間には、仕事に圧迫されることが必要なのかもしれない。仕事もなく、完全な自由の身に置かれると、かえって大気の中に霧散してしまうような心許なさを覚えるものだ。ぼくらの外形を与えるのは労務のような圧力であり、それに幾ばくかの対抗的な力を加えることによって、ぼくらは自分のアイデンティティを創り上げる。ドゥルーズだったと思うが、「その人間的な本質において、人間とはひとつの反動的な存在である」と。



しかし、最近は過労なのではないかと思うときがある。昨夜寝ているときに、吐き気に襲われ目覚めてしまい、二時間ほど煩悶した。今日は立ち上がるたびに立ちくらみがする。何か悪い兆候という気がしなくもない。

教養について

この二、三年になって急激に本を読むようになった。

ぼくはほとんど読書をしてこなかった。実家に置かれているマジメな本と言えば、せいぜい半分も読まれなかっただろうエミールくらいのもので、あとは筒井康隆とか、小松左京が多かった。そんな家庭だったので、ぼくは自然、筒井康隆などを好んで読むようになった(中二のときは当然太宰治も読んだが)。

それが、大学四年目くらいから本を読むようになった。マア、あのときは暇だったのだと思う。ある本をきっかけに読書にはまった。その本は「ビジネスマンの父から息子への三十通の手紙」というタイトルで、カナダのCEOが同じようにビジネスマンを志す息子に書いた手紙をまとめたものである。その中に、息子へのおすすめの書籍が書いてあり、V・E・フランクルや、エーリッヒ・フロムのような心理学者をぼくは知ることができた。そこからは芋づる式に、読書の深みに嵌まっていった。朝から晩まで読書していた。暇だったのだ。

そこから芸術にはまり近所の美術館に飛びこんだり、西洋音楽、ワグナーやベートーヴェンを聴くようになった。

こうしてぼくは「教養」を身につけた、と言うことができるだろう。まあ教養というとおこがましい気もするが、名著、名作に触れるということはやはり教養だろう。教養かぶれの自分は、どんどんめぼしい本に手を出した。愛すべき岩波文庫、ちくま学芸文庫が本棚を埋め尽くした。ゴッホやセザンヌのバカでかい画集も買った。

教養とは「リベラル・アーツ」という言葉が由来であり、リベラル・アーツとは古代ギリシャの自由人たちが身につけるべき学問なのだという。まあ、奴隷と自由人との話だから少し違うのだが、教養を得てぼくが実感することは、自由を得たということである。

というのも、ぼくはどんなにうら寂しい世界へ行っても、本と音楽さえあればやっていけるからである。例え会社を首になっても、友達がゼロになっても、「それならそれで読書に没頭できるなあ」とぼんやり考えることができる。もはや会社や他者に左右されないということは、まあ、自由なのだろう。独立独歩である。

ぼくが地方に就職することを伝えると、友人はこう言った、「フットワークが軽いね!鉄はツイッターもフェイスブックもやってないんだろう?寂しすぎないか?」と。それが、全然寂しくない。もともとコミュニケーションが苦手であり、好きではなかったせいかもしれないが、たまの交遊さえあればあとは本でも読んで過ごせばよいと思っている。だから、この東京に身を置いているときも、僻地にいるときも、ぼくの生活は変わることはないだろう。同じように本を読み、ブログを書いているだろう。

東京に縛られる人間は教養が足りていないとぼくは考える。彼は雑多な街道で、行き当たりばったりに何かを得ることを期待しているのだ。きらびやかな既成品しか彼の得るものはないだろう。本当の作品は彼を素通りするだろう。

シュヴァイツァーが水道も電気もないアフリカに医者として向かったときも、彼は同じようなことを言った。
不思議に聞こえるかもしれないが、教養ある者は、ない者にくらべて、原生林の生活に堪えやすい。なぜならば前者は後者の知らない慰めをもつからである。まじめな書を読むと、土人の不信や、動物の跳梁で終日戦い疲れた機会のような存在をやめてふたたび人間にかえる。いつも自分に返って新しい力をうる道を知らない人びとはわざわいなことだ!その人はアフリカの恐ろしい散文のような生活のために死ぬのである。(水と原生林のはざまで)
教養とは人間の最後の頼みの綱であるとぼくは思っている。

最近の人びとは読書をしないらしい。月に一冊も読まない人が全体の半分を占めるのだという。しかしそれも当然だと思う。本以外の娯楽が増えたからだ。娯楽が本しかなかった時代は過ぎた。かつては小説だけが娯楽だったから、小説を読むとバカになると言われていた。今ではテレビやニコニコ動画があるのだからそちらに流れる人が増える。読書は別に特別ではない。悪書も良書もあるのだから。下手な小説より「ラピュタ」を観た方がよっぽどいいこともある。

だらだら書いていたら時間がなくなった。学校へ行きます。

10.13.2014

失恋の痛みについて

ひとりの女を忘れられないということは、陳腐な悩みだ。陳腐な悩みだが、初めの人類が誕生してウン百万年、ろくな解決策も発明されなかった。怠惰な人類のせいで、だれもがこの苦痛を生身のまま受容しなければいけないことになっている。ある作家はその作品の中で、失意の青年にピストル自殺させたが、それが大ベストセラーになったいうのだからよっぽどだ。

ぼく自身も数ヶ月前からひとりの女の幻影にずいぶん悩んできた。しかし近頃ようやっと落ち着いてきた。結局、ぼくは相手を理想化しているのだということを知った。男はひとりの女を自分の中で美しく肥大化させ、それに温かく包まれる空想に浸りたがる。しかし、だれもが知っている通り、彼女は女であり、女神ではない。ひとりの人間なのだ。過ちを犯すし、道に迷う、孤独な、不幸な、ひとりの人間なのである。

ぼくらは拒絶の絶望と孤独の中で、いつのまにか彼女を追うことをやめてしまう。彼女ではなく、ぼくらのそれぞれが抱く女性のイデア……「アニマ」を追うようになる。たしかに、彼女と似た服を着ているし、話し方も似ている。だが、それはもう彼女ではないのだ。彼女の生々しい欠点や人間らしい人格的欠落は、ときの経過とともに都合良く消されていき……いつしか、純然なアニマとなる。完全な理想=イデアであるところのアニマ。

このアニマが、アニマであることに大部分の男性は気づかないでいる。だからしつこく元カノに連絡したり、相手にのめり込み、ひとりの女が人生のすべてであるように錯覚し、ほんの小さな期待に人生を賭ける。ところが人生は映画ではないのだから、ピストル自殺的な結末に至る。

あけすけに言えば、結婚する男の大部分は新婦ではなくアニマを見ているだろう。彼女であれば円満な結婚生活が送れる――と考えているとすれば、それは100%間違っている。幸せな老夫婦を見て、ぼくらは純朴な結婚生活の理想像を夢想するけども、彼らの歩んできた道のりを実際に見てみると、信じられないくらいドロドロしているものだ。

だが、人間の生活とはそういうものだ。迷い、不安で、悲愴であり、不幸なのである。最愛の人が、他の男に心惹かれていることにだれが耐えられるだろうか?しかし、それに耐えてこその円満な結婚生活なのだ。このように、どんな道でも人間の生活は楽ではない。楽な生活なんて、いつかしっぺ返しを喰らうものなのだ。だから、恋が成就してハッピーエンドという作品はどうもピンとこないものだ。恋人が死ぬ方がストーリーは格段に良い。幸福は長続きしないものであり、結末にはふさわしくない。

ぼくは恐らく、今後の人生で……彼女と似たようなアニマに悩まされることだろう。新しい勤務先で、故郷で、旅先で。それを考えると、ほほえましくなる。笑って済ませられるくらいの時は経った。

男はつねに女のイデアを求める。そして、彼女を手に入れたところで、イデアは絶対に手に入らない。たとえ堀北真希を彼女にしたところでぼくは満足できないだろう。その上で、恋愛に対する姿勢を考えるべきだと最近思う。人生が不幸に満ちていたところでやめてしまうわけにはいかない。人間だからだ。ぼくらは恋愛が虚妄であると知りながらも、それをやめることができないだろう。ぼくは次の恋愛においては笑うことを忘れないでおきたい。自分の哀れさを笑うくらいの余裕がないと、たちまち沈み込んでしまう。

失恋に悩む人に、ぼくはかける言葉はない。ただ、苦痛こそが人を成長させ……気高くさせ、そして、君の失恋は大部分の人間の乗りこえた道であることくらいは、教えてあげたいと思う。

10.12.2014

人生と金について

何も望まなくなってしまった。老人の気分だ。昔のような、ガツガツとした気概はなくなった。毎日分厚い教科書を読みふけったり、英語の勉強をする、女を遊びに誘うような一般的な喜び、出世への道が魅力的には思えなくなった。

かつてはビジネス書を読みふけり、金持ちになることを目標にしていた。また、自分は有能であり、特別な才能を持っており、金持ちになることも容易だという気がしていた。しかし、実際には、金を得るために能力は必要ないと最近気づいた。ただ必要なのは、金を愛する気持ちである。精神論というわけじゃないが、漫画が好きではない人が漫画家になれるはずがない。

幸福や成功の道は金銭的な富裕にあると思っていた。というのも、ぼくは下流社会に育ったから金にはうるさかったし(貧乏人の方が生活のはるかに多くを金銭的苦悩に支配されている)、マスコミなどもバブルの余韻で物質的金銭的幸福を信じていた。

今になっては、静かに読書すること、音楽を愛すること、教養を深めること。そして自分の好むと信ずる道を歩むこと、これ以上に求めるべきことはない。

俗に言う「意識高い系」が幼稚に見えてしまうのは、ビジネス書を鵜呑みにしているからである。ビジネス書は一種の洗脳書だ。当然のように経済的成功=幸福と考えている。生活のリソースのすべてをビジネスに捧げろ、と書いている。だから経済的成功は確かに近くなるのである。そして、それをよくよく批判もせず、自分の性向を探ることもせず、やれ起業家になるだの、出世するだの、目をきらきら輝かせるのだから子どもである。

アレン・カーの書いた禁煙指南のベストセラー本がある。煙草はクソだ、メリットなんてひとつもないぜ、ということが全頁にわたって続く本だ。あれも洗脳のテクニックを利用している。その洗脳はぼくの頭脳も二年間マインドコントロールしたが、今では幸いなことに喫煙を再開している。知性の勝利である。

さきほど言ったように、ぼくは自分の信ずる道を行きたいと思う。

そのためであれば、貧乏の苦渋を舐めることも、だれにも認められず静かに死んでいくのもかまわない。ぼくは少し前から、自分の人生に拘泥することがなくなった。人生とはただの道具だ。金は道具のための道具だ。

人生をきらびやかに輝かせることは、農具をぴかぴかに磨くようなことだという気がしている。本末転倒なのだ。

10.11.2014

だれもが心を持っている

「ビジネスマンの父から息子への30通の手紙」という、カナダの製薬会社社長の書いた本が好きなのだが、その中にはこうある。
ひとかどの人物になるための条件は何か?第一に必要なことは、だれもが心を持っているという事実を悟ることだろう。自分で自分のなかに育てた、独特の、たったひとつしかない、ひとりひとりの心である。
最近このことをよくよく考えている。この一年あまり、暗い孤独の中に暮らしてきた。大衆を軽蔑し、神経質に社交を退け、文学や哲学に没頭した。その間、親切にしてくれる友人たちを拒絶した(同時に、女たちには拒絶された)。孤独にこそ智慧がある、真理があると信じていた。

しかし、最近は逆に、人びとの中に溶け込み、打ち解けようと思うようになった。きっかけはわからない。季節の移り変わりのようなものかもしれないし、年を取ったからかもしれない。寂しかったからではない。孤独から離れることはむしろ辛かった。とにかく、ぼくは以前よりずっと多く笑い、話すようになった。

孤独のどん底にいた経験は決して無駄ではなかったと思う。孤独は本当にいろいろなことを教えてくれた。もっとも徹底的に学んだことは、「人間は不幸だ」ということである。この世は苦痛に満ちているということである。これを知ったぼくはもはや過去のぼくではなくなった。今、生活の中でそうであるように、ひとびとと楽しく雑談していても、自分は孤独人なのだという感覚はぬぐえない。孤独で過ごす中にあった巨大な自意識は今も生きていて、静かにぼくを見守っている。

苦痛を知り、それから解脱した人には義務がある。それは、過去の自分のように苦痛にもがいている人に道を示唆することである。彼を絶望の淵からすくい上げるでもない。彼を癒やすわけでもない。ただ、明かりを与えてあげることだ。誠実な、優れた芸術はすべて道を照らすものであると思う。

「ビジネスマンの父から~」の続きを引用しておく。
君がこの事実を悟り、君の心を支配するのは君自身であること、そして君の心が君に与える力の大きさを理解するとき、君は初めて、ほんとうに君自身の仕事をすることができる。こうなったとき初めて、君は常にほかの人たちを見習い、他の人たちと同じ行動を取り、ほかの人たちとの助けを求めることをしなくなるだろう。君は基本的に、君自身を見つめるようになるだろう。

10.09.2014

至高体験 - peak experience

今日は小さな至高体験をした。至高体験とはマズローの提唱した概念である。日常の中に潜む絶頂体験とでも言うべきか。
至高体験とは「そのひとの人生でただひとつもっとも嬉しく幸せな、もっとも幸福な瞬間」・・・人間が十分に機能しており、強壮な感じがし、自分に自信を持ち、完全に支配している瞬間のことである。(「マズローの心理学」)

例えば「ジャズバンドのドラムを演奏して働きながら医学校へ行ったある若者は、彼の全演奏のなかで、突然自分が優れたドラマーであり、自分の出来映えは完璧であるように感じる絶頂を3度味わったと後年報告した」というような例である。ほんの些細な日常的な出来事と感じるような瞬間に訪れることもある。家事を終えた主婦が、旦那と子どもが仲良く戯れているのを見て至高体験に達したという。

ぼくは過去何度かこの至高体験めいたものを経験しているが、初めてのときはまさしくマズローの本を買って読んでいるときだった。それから、ドラマーの医学生のように楽器を練習しているときには至高体験は訪れてくれず、もっぱら静かな環境でコーヒーを飲みながら読書しているときに訪れた。

今日の場合は、教授や後輩と長い雑談をしたあと、コーヒーを淹れ、自習室に戻りパット・メセニーの古い音源を聴きながらヘッセの「デミアン」を開いているときであった。

そのとき聞いていたのは"There will be never another you"(あなたなしでは)というジャズ・スタンダード・ソング。たまに「アナナシ」と略されるがすごくダサい。

その瞬間の感覚は格別のものだ。全てが収まるべきところに収まっているような感じ。並大抵の喜びではない。過去のすべてが正しかったし、今後訪れるだろう未来もすべてが正しく進んでいくだろうという感動に満ちた経験である。そして自己は完全であり、自己には何も欠けておらず、それ自体で完成されているという鮮烈な感動である。

ところで、なぜ今日訪れたのか?と思う。コーヒーを飲んで本を読むくらい一日に何回もすることである。たぶん、ひとつ壁を破ったときに至高体験は訪れるのではないかとぼくは思っている。

最近、ぼくはひとつの見切りをつけた。孤独に殻に閉じこもっていた自分にムチうって、大衆の荒波に揉ませてやろうと思った。だから今日は、普段は苦手だった雑談に積極的に参加した。同輩や教授と冗談を交わし、明るく笑ってやった。それは久しぶりの前進であり、恥ずかしさもあったが、小さな感動を与えてくれた。

医学生や主婦も、ジャズドラムの演奏や、夫と子どもの幸せな光景それだけによって至高体験になったわけではないだろう。人間の心理とはそう単純なものではないはずだ。ジャズドラムを叩いていないときにも、生活がある。歩いているときに、夕飯を食べているときにも人間の精神は揺れ動いている。彼らの日常のなかで蓄積した自己肯定感、ふだんは社会的慣習や、固定観念によって抑圧され行き場のなくなった自己肯定感が、その瞬間に一気に表出したのである。

ぼくだって、メセニーの音楽や「デミアン」にそこまで感動したというわけではない。ただ自己肯定感は無意識から首を出すことを望んでいたのだと思う。メセニー、デミアン、コーヒーはそのお膳立てにすぎない。

至高体験。たぶん気づかないうちにだれもがこういう経験をしているのだろうと思う。この暗闇の中の雷光のような瞬間があるからこそ、人生を生きていてもいいか、と思うのである。

10.08.2014

羊の皮を被った

人と仲良くしなさいという、当たり前の金言をぼくは無視し続けてきた。

十代の頃は他人に気に入られるよう努力していた。二十代のはじめには、それを諦めた。今ではひとに嫌われることが当たり前であり、孤独が自然な空気になった。お陰で、ずいぶん味気ない人生を送ってきた。

確かに、人と違う人間は排斥されるのが普通のようである。集団的な、大衆的な価値観と異なるというそれだけのことで、人はその人に嫌悪感を抱くようにできている。集団による個の排斥は、理性的であるというよりは本能的だから、色んな策を弄しようにもどうしようもないのだ。中卒の集まりにひとり東大生がいれば排除されるし、その逆も然りだ。しかし、だからといって異端者が大衆から遠ざかり、孤独の安逸に逃げ込むことが必ずしも正しいとぼくは思わない。

強靱な知性と、自制心をもって、くだらない連中にも笑顔を振りまき、親身になってやることが思ったより重要なのではないかとぼくは考える。というと選民的だが。しかし、やはり、異端者はどこか高次のところにいる人間である。「一匹狼と羊の群れ」のような例えが好んで使われるのは、人が本能的に孤独人の強さを知っているからではないかと思う。

羊たちにとって集団にいることは楽だ。同様に、狼にとっては独りでいることが楽なのである。孤独は確かに、味わってみると案外素晴らしいものなのだ。しかしそれでは何も生まれないだろう。孤独が苦痛ではなく安逸をもたらす段階においては、羊たちにとっての無思考と同じように、孤独が感覚を麻痺させる。

第一級の天才、例えばゲーテやカントは、ともに社交好きだと思われているらしい。ぼくは思うのだが、偉大な小説家や哲学者というものは、絶対に社交なんて好きではない。それでも彼らは本能的に社交の価値を認めていたのだと思う。それで、彼らの強靱な知性と、自制心をもって社交の場に身を置いた。カントは雑談の場において、自分の専門分野である哲学の話を絶対にしなかったという。また、大変な聞き上手であったと言う。これらから、カントの社交は表層的であったとぼくは思うのだがどうだろうか。

優れた精神の持ち主は社交を厭わないものだ。ぼくはずいぶん孤独に身を慣らしてしまった。これからは、にこやかに、快活な人間になろうという努力を少ししてみる予定である。ただ、これが大変難しいのだけど。

ぼくにとっては、愛することも愛されることも、危険と不安を孕んでいるように思える。おそらくカントはあれだけ毎晩自宅に客人を招待していながら……そのだれも愛さなかったことだろうと思う。たぶんね。

「デミアン」のオルガン奏者

最近また日記を書くことにした。手書きの方の日記である。有名なスペインのメーカーのノートを買った。手書きの日記の方が落ち着くものだ。ノートには濃紺のペンで書くようにしている。ノート紙はベージュなことが多いので、青の方が合う。これもこだわりのひとつである。

八月までは細々と書いていたのだが、今日まで放置してしまっていた。机に向かうことが少なかったせいもある。日記がないと、どうも生活の質が落ちてしまうようである。無駄な一日、何も学ばなかった一日ができてしまう。無為に過ごす日ような空白が一日あっても、日記を書くことがなければなんとも思わないのである。その日一日、小さなことでも何かしら学ぶということが大切だ。

最近生活していて思うのは、自分の下品さであり、年も取り醜くなったということで、一応学生という身分ではあるのだがどうもキャンパスで肩身が狭い。無邪気にはしゃぐような元気な学生連中を見ていると自分とは違う生き物のように思えてくる。半年後には大学を出るのだ、と考えると少し気分が落ち着く。

また、ぼくはエリートコースを外れた人間であり、前途洋々の同級生を前にしてもやはり変な焦燥にかられる。別に恥じる必要もないのだが、明るい未来に希望を見る学生たちとも、自分は違うと感じる。就活前にはこんなこと感じる由もなかったが。

同級生たちを見ていると、女との醜悪な思い出が彷彿とされて不快だ。もはやすべて思い出にしてしまいたい。人間の優れた能力は忘却である。忘却の浄化作用によって、遠い過去であるほど美しくなる。もっとも精神に苦痛をあたえる拷問のひとつは、過去最悪の記憶を毎日見せられることだろう。人生にはどれだけ多くの惨めな失敗と、無情な別れがあることだろう。もう終わったことだというのにその都度思い起こされてはたまらない。

「ひとさえひとにとどまらぬ」という宮沢賢治の言葉を思い出す。これを思い出して力をつけるようにしている。愛別離苦なんてだれもが経験している。ぼくの女が寝取られたところで、彼女も間男もまた孤独なのだ。悲しい話である。

過去もなく未来もなく、というように生きたいが、過去はどこまでも追ってくるというのが本当だと思う。それでも逃げたいものである。過去はすでに血肉になってしまっている。忘却はあくまで形式的である。どれだけ忘却の海に深く沈めても、ふとした拍子に思い出すこともあれば、無意識的に過去のトラウマを避けるように行動していたりする。人間の精神は厄介なものだと思う。

いよいよ深い孤独に突き落とされている気分だ。ぼくにとって救いは、少数の友人と、音楽くらいのものである。ハチャトゥリアンの「ワルツ」や、サティの「ジムノペディ」、メンデルス・ゾーンの「賛歌」。こういう音楽を耳栓型のイヤホンで聴く。そうすると、現実に少しは希望が見えてくる。現実に少しの秩序が彩られる。美しい音楽に触れていないと精神の均衡が保てないのだから、ぼくも弱い人間だ。

わたしはいつでも、何か美しく神聖だと感じられるものに、とりまかれていないとだめなのだ――オルガン音楽とか神秘とか、象徴とか神話とか言うものにね。わたしはそれが必要だし、それをすてようとは思わない。――これがわたしの弱点なんだよ。だってわたしはね、ときどきわかることがあるんだ、ジンクレエル、たまにはわかっているんだもの――こんな望みをおこしてはいけない、それはぜいたくだ、弱さだ、ということがね。(「デミアン」/ヘッセ)

人がモーツァルトを好むのは、それが遠く過去の芸術だからだ。おそらく現代にモーツァルト音楽が生まれていれば、彼はその価値を認めないだろう。

この世の中で、ほんとうにむずかしいのは、このことだけなんだよ。そうまでまるはだかで、ひとりぼっちでいることは、わたしにはできないのだ。

美しい音楽に慰められていると、いつもこのオルガン奏者の言葉を思い出してしまう。

もう運命だけしか望まない人は、手本も理想ももたない。なにひとつしたしいものも、なぐさめになるようなものも、もってはいないのだよ。そうしてほんとうを言えば、人はこの道を行かなければならないわけさ。

もはやエリック・サティも、ヘルマン・ヘッセもなく……セザンヌも、ヴラマンクもなく……ぼくは生きていかなければならないのか。本当に「生きる」というのであれば、そうでなければならないのか。人生とは峻酷なものだ。

10.07.2014

書くことに価値はない

プロ志望の音楽家や小説家の人びとが、いわゆる「普通の人」の仕事を馬鹿にしているのを見ると変な気持ちになる。彼らからすれば、普通の人がしている仕事は無能のするものであり……その仕事に価値はないというわけだ。もっと独創的な、個性を活かせる仕事があるというのに、「普通の人」は安全な領域に落ち着いてしまい、そこで堡塁を築こうとしている、というわけだ。

しかし、ぼくの思うところでは、演奏や物書きはもっとも低次の領域に属する。何しろ、おもちゃの太鼓を叩くくらい赤ん坊でもできる。文章を書くことなら小学校一年生でも可能だろう。彼らが自分のしていることを、芸術敵だとか、文化的だとか思っているのだからぼくは笑ってしまう。書くこと、弾くこと、そんなことに価値はない。コンビニ店員が商品の陳列を整えるような、経理が電卓を叩くような、意地汚い手指の運動でしかないのだ。

じゃあぼくはなぜ音楽を聴くし小説を読むのか?それは、書き手の精神が、演奏家や作曲家の精神がぼくに伝わってくるからである。ストラヴィンスキーの音楽からはストラヴィンスキーの精神を。ゲーテの文学からはゲーテの精神を、というわけだ。ぼくが見ているのは画家の精神であって、鼓膜を通る周波数、規則的・恣意的に油が塗りたくられた厚紙ではないということだ。

優れた精神からしか優れた作品は生まれない。村上隆はたぶんすぐに忘れられるだろう。反対に、草間彌生はその影響力を保ち続けるだろう(個人的にこの二人、同じ現代芸術家だが、どうも格が違うという気がしている)。

優れた精神の持ち主こそ芸術を目指すべきなのだ。ぼくは小手先だけの空っぽの芸術など興味ないし、大方の人間もそうだろう。ぼくが求める芸術家は、酒に溺れ、女に溺れて、自殺してしまうような臆病者ではない。反対に、それでも生き抜くという人間である。運命に翻弄されながら、それでも生きることを、自分の信ずるものを信じ抜く人間である。茨の道を笑って進むような強い人間の芸術である。

創作は個人的な仕事である以上、自己を表現するものでしかない。これはほんと。

優れた精神とはどうやって育つことができるのか。たぶん、孤独と苦悩が栄養になるだろう。筋肉と同じ話だ。マッチョな人は毎日筋繊維を痛めつけている。だから筋肉はモリモリと育つのだ。同じように、偉業を為した人の全てに深い絶望がある。

自分は文弱の徒だから酒を飲んでニートしている……大した働きを見せず、世俗の人を馬鹿にする……そんな人生に大した苦痛はない。楽なのだ。人間は楽な方に落ち着きたがる。しかし、何事にも真剣になるというのが本当の芸術家だと思う。誠実であることだ。痛みも、喜びも真剣に受け取ることだろう。

と、勝手なことを言って今日は寝る。



ずいぶん変なことを今朝言ったと思った。

ぼくにとっては、地に足のついた芸術が向いているのかもしれないと今日思った。毎日決まった時間だけ、コツコツと仕事をする。自分の独力によって成果をあげる。荒削りのものを、緻密に、時間をかけて球に削りあげる。そういった単調なルーチンの中に人生の慰みを得られる気がするのだ。

はてな的な、あまりにはてな的な

新しい倦怠がある。

ぼくと同じように日々の恨み辛みをコツコツと書いていくようなブログがあって、それを欠かさず読んでいた。筆者はぼくよりずっと年上の人もいて、ずっと若い人もいる。みんな頭が良さそうで、教養豊富で、コンプレックスを持っていて、人生がうまくいっていないようなタイプだ。書くことと言えば芸術や科学や新聞記事に感動したとか……ときには感情をそのまま表現することもある。ただならぬ生々しさにぼくは共感していたのだが……。

しかし、それにももう、飽きた。そして一時はぼくを惹きつけたのに、一体彼らはなぜあんなにもくだらないのだろう、と考えてみた。彼らの書いていることは決して文学に見劣りするものではないのである。地下牢の手記的であるし、ラスコーリニコフ的である。青臭くて実験的であるところも文学的だ。ところが、やはり、すぐに公示するというあれがよくない。ブログという形式、ツイッターという形式が彼らを殺している、というわけだ。

基本的に、毎日彼らは書いているわけだが、葛藤はその都度発散されてしまう。せっかく人格の成熟や、創造のタネになりそうな大事にすべき日々の苦悩が、小分けにされてしまい、しょぼい日記に空費され、もはや真剣に悩むということもなくなってしまうのである。書いて、みんなが読んでくれて、それで満足してしまう。ささやかな、悲劇的な文士に祭り上げられて彼は満足してしまう。これがぼくの気に入らない。この人格の停滞感、苦悩の浪費、よくよく消化もせず排泄してしまうような感じが!ぼくは気に入らないのだと思う。

まあこのブログもほとんどそんな感じだったから自戒でもある。じゃあこれから毎日更新するのは辞めにする、というわけにはいかない。ぼくがすべきことは、少し誠実になることである。やはり秘匿すべきところは秘匿すべきだし、出すべきでない感情は押し殺すべきなのだ。下品に、包み隠さず公示するというのは、どうも日本人的でない。奥ゆかしいわびさび、みたいなね。そういうことも大事でしょう。きっと。辛かった、悲しかったですなんて誰でも言えるんだから。ねえ?

10.06.2014

あわ

老いるとは満足するということだ。丸みを持つことだ。

ぼくは何も持っていないという気がする。反対に、何でもできるという気もする。おそらく前者が正しいのではないか。ぼくは泡沫だ。生まれて、消えるだけ。

こんなブログでも読んでくれる人がいることが嬉しい。単純に、承認欲求が満たされる気がする。厳密には、ぼくは孤独に浸りきることができない。社会から離れることができない。だから、こうして内面を書いて、公開して慰められている。だから力強い創作とも無縁なのだ。こうして、ネットで適当に語ることが、ぼくに適度なしびれを与えて、それが全部台無しにする。

ぼくにどんな人生が可能だっただろうか。そして今からどんな人生が可能だろうか。ぼくは単なる泡となって消えてゆく。確かに、ぼくは鋭敏な神経を持っていた。これは天性のものだという自覚もある。本当に、これのお陰で苦しく辛い人生を歩んできた。ぼくの半生は、決して普通のものではなかったし、孤独で痛ましいものだった。だからこそ、美しいものを見ることもできた。音楽、絵画、文学、それらが全てぼくのために用意されたように感じた。

だが、ぼくには誠実さが欠けていた。ぼくは何かを生みだすにはあまりに忍耐が欠けていた。小説を書くにしても、一日だけ創作欲のままに書いて、それだけだ。推敲も何もしない。それで、公開してしまう。少しばかりのレビューがついて、それに満足している。
ダメだ。これじゃダメなんだよ。毎日数時間でもコツコツ書いて、丁寧に見直しして、孤独に、暗い作業に耐えなきゃいけない。クオリティの高い作品を仕上げなくてはいけない。

小学生のときは何時間でも漫画を書いていた。そして何百ページの大作を描き上げた。その思い出が原体験としてぼくの脳裏に焼き付いている。なぜあれほど漫画を書いていたのだろう。そしてなぜその忍耐強さがどこかへ行ってしまったのだろう。こうしてブログを書くこともなかったからだろうか。あのときは、生活の全てが漫画だった。

今漫画を描けないのは……たぶん、あまりに他の人と差がついてしまったからだろう。中学、高校と描き続けてきたひとと比べてぼくはヘタクソで……まともに顔も描けやしない。だから、だれにでもできる文学に逃げたというわけだ。

絵は好きだから今でもたまに人物画など描いたりする。6B, 4B, 2B, HBの鉛筆をそろえた。練り消しゴムも買った。上等なスケッチブックを買った。描いていると……本当に没入してしまって……幸福になる。幸福というか、全てがしっくりくる感じだ。自分が行為するのではなく、行為のなかに自分が沈むような。

好きなことはたぶん絵を描くことだ。でも、今更という感じだ。絵はコツコツ勉強しなければならない。そしてコツコツ描いてきた人間にぼくは勝ち目がない。

そう、大学に入ってからも好きだったことがあった。それは音楽で……本当に毎日何時間でも練習していた。部室に住んでるのか、と言われたこともある。あそこには幽霊がいる、と言われたこともある。だが、それが今更何になるだろう?ぼくの技術なんて屁みたいなもんだ。部内では確かに上手い部類だったが……。

それでも、ある後輩がきてから認識がかわった。両親がプロの音楽家であり……小学生のときから日本を代表する音楽家に習っていた彼は本当に上手かった。彼とぼくとではお話にならなかった。ぼくは彼に完全に打ちのめされてしまった。ぼくは井の中の蛙だったというわけだ。

この場で懺悔したいのだが……ぼくは何度嫉妬にかられて彼に卑劣な行為をしただろうか?先輩という立場を利用して、彼をいじめたのだ。そのせいかは知らないが、彼は大学を辞めて……音大に入り直し……学生生活とプロ活動を両立している……。

……

今でも楽器の練習は続けている。単なる惰性だ。ずっとひとりで練習しているし、他人に公開しようという気もない。評価されるのが怖いのかもしれない。他人の前で失敗するのがいやなのだろう。結局、臆病者なのだ、ぼくは。世の中に飛びこんで行くということができない。

漫画、音楽、そして小説も、全部が中途半端だ。今更ぼくにどんな道があるだろう。小銭を稼ぎ、堡塁を築き、ささやかなディレッタントとして一生を終えるのがお似合いだろうか。ぼくは何にも真剣になれず、何一つ大した仕事もできずに一生を終えるのだろうか。少しばかり音楽ができて、絵が描けて、つまらない短編を書けるだけの、ちっぽけな泡。

10.05.2014

鏡に負け犬が映っている

最近映画をよく見る。映画はあまり好きではないのだが、今回「ニュー・シネマ・パラダイス」というイタリアの映画を観て感じ入ることがあった。

アルフレードが旅立つ若き主人公にかけた言葉が忘れられない。

「帰ってくるな 私たちを忘れろ 手紙も書くな ノスタルジーに惑わされるな すべて忘れろ 我慢できずに帰ってきても私の家には入れない」
「自分のすることを愛せ 子どものとき映写室を愛したように」

自分のすることを愛する……。

自分のすることを愛する。それができているだろうか?ぼくは。何もかも間違っているのではないか。ぼくの人生は間違いだらけなのではないか。確かに、紆余曲折はあっても、結局すべてに意味があって……ひとつの目標に向かっている……と考えるときもある。今は生活のために、金を稼ぐしかない。夢や目標だって持っている。でも、ぼくは本当はただの臆病なのではないか。後になって振り返ってみれば後悔しかない人生を送っているのではないか。
しかし、人間の生活とはそのようなものだ。それ以上の人生など、だれも望めない。だれもが狭く、暗く、じめじめしたトンネルのような人生を歩んでいる。
とぼくは以前書いたが。本当だろうか?本当に人生とはそんなものだろうか。ぼくはよく飼い慣らされた犬ではないのか。人生に諦めをつけ、社会に屈服しているのではないか。負け犬はまず、自分が間違っていることを覚えさせられる。ぼくは自分を抑圧して……本当の自分にならないまま死んでいくのではないか。

ぼくは今の自分を、自分の行為を、愛することはできない。

ああ、この耐えきれない倦怠!映画のような人生ならいいんだ。60年代、70年代、世の中はシンプルだった。しかし、あまりに濁りきって、何もかもが固着したこの現代の日本の中で闘わなくてはいけないとは。

ともかく、ぼくは生きる。別に、市民たちのために公園を作るだけでもいいんだ。生きるとは、耐えず外圧に向かって立ち向かうことだ……。決して生かされてはならない。生かされるくらいなら、死んでやれ。死んでしまえ。

優れた芸術

酒ばかり飲んで生活している。

本当の芸術とはどういったものなのだろうかと考えている。考えてみると、やはり孤独というものを要求するものなのではないかなと思う。なぜなら、優れた芸術というのは歴史を革新するような斬新さと影響力を持つものであるから……。優れた芸術家の活動の始め、あるいはその生涯はだれにでも認められるものではなく、露骨に無視される、かえって阻害される、嫌悪、侮蔑、批判に晒されるというのが常なのではないだろうか。だから、優れた作品に待っている評価はこき下ろしが常であり、優れた芸術家には峻厳な信念が要求されるものなのだ。

その始めからすごい!と言われる作品は実は大したものではない。だからカフカとか、宮沢賢治、ペソアの作品というのは、夏目漱石や坂口安吾に比べて強烈な個性と色彩を持っている(気がする)。

いつの時代でも成功者は既成のルールに乗っかり、集団や社会を大事に大事にするものだ。だから芸術家とは反対である。芸術家はこの既存のルールをぶち壊さなくてはならない。太宰治が作ったルールを……村上春樹が作ったルールを……壊してやれ。

反時代性を持ちながら、社会を革新する力を持っているもの、そういうものを作らなければならない。そのためには、ドフトエフスキーに心酔していてはならないのだ。こんなもん俺にも書ける、あるいは俺が書きたいのはこんなものではない……という風にならなくては。

集団は批評眼を曇らせるはたらきを持つらしい。どうも、孤独に、自由でないと本当の物の価値はわからなくなってくる。ロバート・パーシグの言ったような「クオリティ」を追求しなければならない。それは自己だけの持つ絶対的な価値基準であり……世界を隔絶し、対象と自己だけの閉鎖系にあって初めて、物の価値がわかるのである。

ぼくらは別にまあ、社会の中でのらりくらりと生きていくことも可能である。しかし誰にも認められず、奥さんに逃げられるような厳しい芸術家の道を行くことも可能である。どちらが良いかはわからない。本当にわからん。幸福というものが、どちらにあるだろうか。人生に然りを言えるのはどちらだろうか。どちらかといえば、後者?うーん。

10.03.2014

憂鬱の顔を見てみれば

憂鬱は出来事の中にあるのではない。反対に、あの出来事とこの出来事の間の、日常の中に潜んでいる。憂鬱は苦難と試練の中にあるのではない。反対に、希薄さと空虚さの中に潜んでいる。

ぼくらは耐えられない憂鬱に陥ったとき、その原因を求める(一義的な原因をだ)。仕事で失敗したからだ、女に振られたからだ……あるいは幼少期の喪失体験だ……そういう風に原因を求める。そうして、ひとつ目星をつけたら、あれが原因だったのかと溜飲を下げる。しかし、そうではない。そんなところに原因があるのではない。憂鬱の原因は、ただこの生活の中に潜んでいる。怠惰な繰り返しの中……。カップラーメンの麺を口に運ぶときだとか……。街中で往来の人びとを気にしながら、そして気にせずに歩いているときだとか……。そういうところに憂鬱はあるのだ。「そこでもなく」「ここでもなく」見過ごされた生活の中に、ぼくらの耐えがたい苦悩が潜んでいる。

ぼくらが憂鬱になるのは単なるreactionなのではない。憂鬱とは主体的な振るまいである。東日本大震災のときでも、自殺は増えなかった。かえって、生きてやろうという人が増えたのである。決して、何にも悩まずカラッと生きることが正しいのではない。そんな人間こそ病気なのだ。どうも人間はある周期で憂鬱に沈まなければいけないらしい。いくら環境を整備したところで……憂鬱になるときはくる。仕事の成績は良く……家族に恵まれ……美しい未来像……そんな人間にも、憂鬱は平然とやってくる!こつこつと築き上げた堡塁を乗りこえて!洪水が石垣を浸潤するように!そして、何もかもめちゃくちゃにする。しかし、彼は本心から憂鬱を憎むだろうけども……。どうだろう?憂鬱の顔を見てみれば、それは彼自身なのだから……。

「私は幸福に生きる」?それは結構。しかし、不幸はどこまでもついてくる、少し遅らせることだけは、人間には可能である。それだけの違いだ。

10.02.2014

失恋の痛みをどこまでも引きずる男

ひどい夢を見てしまった。

昔好きだった女のマンションに行く。壁に耳を当てる。彼女と男の会話が聞こえる。彼女と男は連れだって出て行く。音楽に関する親しげな会話をしている。ぼくは顔を伏せてすれ違う。彼らはぼくに気づかない。彼女たちが離れると、ぼくはひとりでマンションを去った。


で、目が覚める。こんな夢を見てしまうと、眠ろうという気がなくなる。

まあありがちな失恋ネタなのだが、彼女がどれだけぼくの心を支配しているかがよくわかる。それにぼくは彼女を肉欲的に愛しているのではなく、彼女の人格や知性を愛しているのである。それにしても、そろそろ忘れてもいいくらいなのだが……。彼女のことを長い間引きずる理由は、たぶん十分に悲しんでいないからなのだと思う。

苦しむことも一つの才能だ、とだれかが言ったがぼくはこの能力に欠けている。ぼくは中学のとき、ある女子からいじめに遭っていた。ぼくはたしかに中学から変だったが、クラスに自分の居場所を見つけ、ある程度馴染んでいたと思う。だから今考えても、彼女たちの振るまいは理不尽だった。ぼくを「身障」と呼びつけ、彼女は家が近いので通学が重なることもあり、「身障に付きまとわれた」とぼくに聞こえよがしに言うのだ。

そのときから、ぼくは十分に苦しむ術を持たなかった。別にどうでもいいやと放っておいたのである。そして、高校生になってたまにそのことを思い出すのだが、そのときも、「彼女たちは子どもだった。子どものすることは仕方ない」とキレイに片をつけようとしていた。ネットを見たら、「昔いじめてきた奴を殺したい」と言う意見が主流で、いじめの程度に依るのかもしれないが、ぼくはその温度差にびっくりしたことがある。

とまあこのように哀しみについても不感症的であり、ぼくは彼女に冷たくされ、疎遠になっていく間も、とくに悲しむこともせず、「こんなものだろう」と冷静に処した。それは明らかに自分の問題であるのに、他者の恋愛が終わることのようにぼんやりと構えている。「恋愛はうまく行かないのが当たり前だし、終わるときは悲しいよね」と早々に諦めた。しかし、そんな甘い方法で失恋の痛手が癒やせるわけではないだろう。だから彼女が夢に出てくるのだ。

ぼくは今更彼女を手に入れることはできない、と考えている。それすら実際のところは思い込みなのかもしれない。元はと言えば、ぼくが彼女に冷たくしたのだ。ぼくは彼女がちょっと不信な振るまいをしたり、ぼくを軽視するような態度をとると、我慢できずにすぐに距離を置いた。ぼくは痛みにひどく敏感だから、あらかじめマージンを取っているのだ。それが彼女を傷つけたのである。

だから、ぼくはショーペンハウエルの言う馬鹿者なのだ。
利口な人間は適当な距離をおいて火に当たり、馬鹿者みたいに手を突っ込んだりはしない。ばかな人間は手を突っ込んでやけどをしてから、寒い孤独へ逃れて、火が燃えて困るといって嘆くのである。(「幸福について」)
勇気を出して、彼女にもう一度やり直さないかと声をかけることがひとつの区切りになる気がする。そして、大いに泣きまくることなのだと思う。全身に哀しみを受けとめて、子どものように泣ければどんなに気持ちがいいか。

ぼくは中学のときから妙に達観していたのだ、自分の受けとめる刺激に憤りもせず、そのようなものだと人生に見切りをつけ、悲しむ自分を封殺すること。しかしそんな超人的な行為は不可能である。自己を過度に抑圧し、哀しみは解消されずに終わる。結果的には、過去に支配され続ける、がんじがらめの男になってしまう。

彼女たちを見送ったあとに、夢の続きがあったことを思い出した。

マンションの敷地内を歩いていると、クリニックの看板が目にかかる。そしてこう思う。医学部再受験しようかな。卒業したら三十歳半ばか。人生をトータルで見たら金銭的には回収できるのかもしれない。「でも、ぼくはいつになったら本当に生き始めるのか?」
そして目覚めたのだ。

これもおもしろいところで、ぼくのフラストレーションは権力欲にシフトしている。つまり失恋の痛手から金、医者というステータスへ逃げ込んでいるのだ。確かに過去にもこうした逃避的な権力追求があったと思う。

マア、人間の振るまいとしては上等な部類のものだと思う。失恋の痛みはあまりに大きいと、弱い人間を潰してしまう可能性がある。「素直に悲しむ」ことはかなり強靱な精神を要求するものである。だからぼくは「彼女に振られたんです」と言って泣いている人を見ると、とても健全で、羨ましいことだと思う。本当は悲しんでいるのに、平気な顔をしているぼくは、グロテスクで歪な人間であり、子どものような未熟な精神を持っている、ということになるだろう。

医学部再受験というよくわからない計画を考案したのちに、「ぼくはいつになったら本当に生き始めるのか?」と嘆くことは正しい。ぼくは全てを後回しにしているようだ。それは医学部に入学して、六年間を勉強に費やし、その後本当に「生き始める」と言うような。これは暗示的でもある。ぼくは六年かけてこの失恋を癒やそうとしているのかもしれない。

六年も?洒落にならない。そんな長い間苦しむのはまっぴらごめんだ。本当は、今、思いっきり悲しむことなのだ。人生の悲哀を直に受けとめるべきなのだ。その勇気も、体力も、ぼくには欠けている。これが本当に悲しいことである。せいぜいできることと言えば、泣ける映画でも観て、そうして代償的に涙を流すことだろう。そんなことしかできないのだ。屈折している。弱い。それが現在のぼくである。

10.01.2014

zaccccccky 雑記

今日は幸福な一日だった。

昔の女を思い出すことなく、将来の不安もなく、黙々と目の前の課題をこなしていた。疲れたら友人と談笑すること、これが思いの外楽しい。ぼくは長い間こうしてブログを書いていた、生に倦んだような内容、キチガイじみた垂れ流し、アホまるだしの言論を狂気の海の底でこっそり書いていたのだけど、そうした過去の期間は全て病的だったのであり、責任ある仕事をこなし、友人と他愛のない話に花を咲かせること、それだけに満足する生活こそ、本当の人間なのだという気がする。ぼくはやっと狂気から目覚めたのであり、これまでの全ては空白の期間、低次の期間、忘れるべき期間という気がしてくる。

しかし、社交に喜びを見出し、仕事に疑問なくとりかかるという現在の幸福な、まったく幸福な状況はすでに消え入るべきものであることをぼくは知っている、ぼくはすぐにいつもの偏執的な疑問符に襲われるだろう、かくあるべきなのか?かくあるべきなのか、という。

ぼくはまったく不幸に生まれついてしまった。

最近思うことは、ぼくは本当に狭い世界しか知らないということだ。他者との関係を最小限にしているし、新しいことに挑戦しようという気もない。ただルーチンに身を落としている、家に帰ったら煙草を一本吸い、ブログを書いて、読書、映画鑑賞、そうして一日が終わる。だれもここには関与しないし、新しい風が入ることはない。ぼく個人は、読書と音楽さえあればどんな暮らしでもいいと思っている。ぼくはどんな底辺な職業に陥ることも厭わないが、サティやショスタコビッチを聴くことを禁じられたら怒り狂うだろう。ぼくにとってルーチンというのがひとつの平穏なのかもしれない。身の周りに何か楽しそうなイベントがなければ嫌という人がいる、美術館の企画展や音楽コンサートのようなお祭り騒ぎがなければ嫌だという人が。でもぼくは、とりあえず晩酌があって、音楽があって、たまに映画さえあれば、もはや何でもいいのだ。日常に期待すべき特異点はない。ぼくにとって人生はすでに死んでおり……いや、すでに死んでいることが望ましいのだ。

ぼくの生活の範囲は狭いが、おそらく交友関係に恵まれ、毎日刺激的な生活を送ること、これもまた狭いのだろう。ぼくの知人が、「某大物政治家の息子と飲んできた」と自慢することがある、これもすごいことだと思うが、まったく羨ましくならない。彼もまたひとつの片隅であって、大物政治家も、その息子も、片隅である。しかし、人間の生活とはそのようなものだ。それ以上の人生など、だれも望めない。だれもが狭く、暗く、じめじめしたトンネルのような人生を歩んでいる。

ぼくはかつて金持ちの生活に憧れたが、それは世界の頂点を知るためであった、そうして「こんなものか」と絶望するためであった。ぼくは会社に入る前から辞めることを考えているし、この年で死ぬときのことばかり考えている。ぼくのような人間はこの先どうなるのかわからない。友人たちもぼくがどうなるのかひやひやする、と言う。ひとつわかることは、こうして生き方ばかり考えている人間は通例というよりは例外ということだけだ。

ぼくはよく生きる自信はないが、ただ悩んでいることは正しいという気がする。だれも答えを持っているわけではない。聖人や偉人はすべて苦悩の人である。だから、ぼくは孤独も死も怖くないのだ。

頭が白んできた、寝る。

理性と本能について

九月が終わろうとしている。


ぼくは良い人間に成りたいと思う。良い人間というのは、家畜であってもダメだし、動物園の見せものであってもならない。当然、家畜は長生きするし、動物園の動物にしてもそうだ。毎日満足にエサが食べられ、貧窮するということもない。雨風はしのげるし、外敵の脅威もない。しかし、どうだろう。もう駆けることのない駝鳥というものは。いささかグロテスクだと思う。家畜を見たときの憐憫さはこういうところにある。

人間は強力な理性をもってして自然を克服してきた。ところが、この理性に拘泥するのもよくないとぼくは思う。本能こそホンモノであって、理性は道具でなければならない。よく理性的な人間(得てして禁欲的な人間)は、本能的に振る舞う人を見て、だらしない、動物的だ、ケダモノのようだ、と言うけれども、そう言っている方も理性の家畜であり、飼い慣らされた人物である。

人間の本当に高次な欲求は、本能を阻害しない、と思うのだ。本能と言っても、ぼくの言う本能とは食欲性欲のようなフロイト的な指標を指すのではない。マズロー的な実存欲求を示す。

マザーテレサ、シュヴァイツァー、ガンジー、アウシュビッツのコルベル神父にしても、彼らの偉業というのは、本能的でなければ達成できなかっただろう。彼らは理性的にも正しいことをしたし、彼らの精神の内奥の要求にもまた子どものように素直だった、とぼくは推察する。

本当の本能とは、ただ「生きる」ことを要求するものではない。「食べること」「性交すること」を望んでいるわけではない。本能はぼくらにもっとすばらしいことを要求しているはずだ。例えば川で溺れる少年を見かけたら、命を犠牲にするリスクを厭わず助けるのが本能的な振るまいであり、なすすべもなく見守るのが理性的ということもありうる。とにかく、理性を信奉し本能を排斥してしまうこと、これが現代人の悲劇であると思う。

ぼくらの幸福は、理性と本能の合致したところにある。ぼくらは注意深く本能の要求を探れば、道を誤ることはないだろう。低次な本能に翻弄され、怠惰な犯罪者になるということもないし、理性の奴隷になって人生を空費してしまうこともない。よき人生は、理性が本能を阻害せず、理性が本能を阻害せずという道だ。そういう道を見つけたら、あとはもう形振り構わず進むことだろう。