11.29.2014

断酒について

酒神ほど強力なものがあろうか。これほど美しく、空想的で、熱情的で、陽気で、憂鬱なものがあろうか。酒神は英雄で魔術師だ。誘惑者で、愛の神の兄弟だ。彼には不可能なことができる。貧しい人間の心を、美しい不思議な詞をもって満たす。彼は、私という孤独な百姓を王さまに、詩人に、賢者にした。からっぽになった生命の小舟に、新しい運命を積み、難破したものを大きな生命の奔流の中へ押し戻してくれる。(「郷愁」ヘッセ)

酒を一週間ほど辞めているのだが、非常に体調がいい。どうも肉体の健康というよりも、精神的な健康の方が改善されたようだ。妙に多幸感がある。ぼくは幸福というものを信用していないので、これは少し気持ち悪い。

これまでは一日ビール一リットルくらいは飲んでいた。さすがに金がかかって仕方ないし、寝起きの気分が悪く、記憶力や判断力など全般的な思考の障害が気になるし、酔った状態ではバイクでコンビニへ行くこともできないのでよろしくない。

あるクリニックのサイトを見ていると、こんな文言があった。
「私達は、診察の際に病歴をとる際に、結婚当時の飲酒癖を奥さんから聴取しますが、アルコール依存症になる人は、25歳~27歳で晩酌のくせがあった人が圧倒的に多いのです。」(アルコール依存症の回復のために
これはまさにぼくであって、このままでは依存症になってしまう。

それで酒を一旦辞めてみた。

考えてみれば、二十歳(いやそれ以前)から飲まない週というものはなかった。本当になかった。センター試験の前日も飲んでいた記憶がある。だからこれは個人的に革新的なことなのである。


なぜ酒を辞められないのか

酒という奴は厄介な存在だと思っている。

だいいち、ぼくらの身体には酒を欲するようにできている。

酒と人間の関係は古い。あまりにも古い。糖分さえあれば酒は勝手にできるのだから考えてみると当然だが、紀元前3000年頃のメソポタミア文明にはすでにワインがあったとされる。だから、合法ハーブがどうのと騒いでいるが、酒の害についてはまるで取りざたされないのは歴史的背景もあるのである。

また、ロビー活動の賜物か知らないが、アルコール類のテレビCMをばんばん打ち出している。健康そうな男女が、うまそうな料理でごくごくと酒を飲んでいる情景がテレビで流れている。酒はおいしい!酒は楽しい!酒はかっこいい!ぼくらは子どものうちからこんな風にすりこまれるのだ。外国からしてみれば犯罪的な広告に見えるらしい。確かにこんなものを許容していれば、アル中は増える一方である。

さらに、アル中は遺伝する。ぼくの両親はひどい酒飲みだった。だから当然、ぼくも渇酒の人生が運命づけられているというわけだ。

ヘミングウェイやフィッツジェラルドが酒を飲んだのは、想像力に富んでいたからでもなければ、阻害されていたからでも、精神的に弱かったからでもない。アル中というのは、飲むようにできているのである。(「書くことについて」スティーブン・キング)

最近は減っているようだが、「飲み会」というのもアル中製造の機会だ。日本人は何かあるたびに酒を飲んで騒がなければ気が済まないらしい。しかも痛飲する。意識を失うまで飲み続ける。これも外国人から見れば奇異らしい。「無礼講」としてらんちき騒ぎをするのは、それだけ日本人が普段抑圧されているということの裏返しだろう。

こうした風習が何を生みだすかと言えば、晩酌の習慣である。例えば試験が終わったから飲む、仕事で一段落したから飲む、という風に、プライベートな生活空間に酒が浸潤してくるのだ。しまいにはどういうことになるか?ぼくらにははっきりわかっているはずである。つまり何かと理由をつけて、毎晩飲むようになってしまう。

「今日は嫌なことがあったから飲もう」これはまだ、いい。しかし、「今日は嬉しいことがあったから飲もう」となると、危ない。さらに重度になると、「今日は何もなくてつまらなかったから飲もう」となる。結果として、毎晩飲む依存症のできあがりである。

どうやって酒をやめるか

酒を辞めるにはテクニックがあるようだ。個人的には、

  • 代替のノンアルコールビール、あるいは炭酸飲料を飲むこと
  • 浮いた酒代で豪華なものを食べること
  • 夜はさっさと寝てしまうこと

という方法があると思う。

酒代が浮いたので、ぼくの晩飯は二倍くらい豪華になった。例えばいままでは白菜と豆腐の水炊きだったのだが、そこに鶏肉が入るようになった。ほんとうにありがたいことであり、酒をやめてよかったと思うことができる。

夜はどうしても気が緩む。ひとり暮らしでは寂しい時間であり、酒を飲みたくなってしまう。だからさっさと寝てしまう。アルコール中毒では、夜眠れないからという理由で飲んでしまう人が多い。しかし酒は一時的に入眠作用があるとしても、そのあとの睡眠は浅くなり、質の悪い睡眠となってしまう。だから酒を飲むのは逆効果だ。

かといって、寝付けないということもあるだろう。あまり勧められたものではないが、そういう人は入眠障害と診断することもできるので、心療内科にいって睡眠薬を貰うといいとぼくは思う。

ある中年男性がハルシオンを毎晩服用している。彼はかつてアル中だったのだが、彼曰く、「酒よりも身体にいいし、安いし、こっちの方が絶対いいよ。」とのこと。ただ睡眠薬も副作用がある。中枢神経に効く薬なので、長期服用は並の医薬品より怖いイメージがある。まあ生活のリズムをつくるためには効果的だと思う。

ところで、アルコールを常飲している人は酒の代謝産物である酢酸を、脳が栄養源として取り込んでいる場合があり、そのため酒を辞めた途端、脳がエネルギー不足状態となり軽度の脳萎縮が起こる可能性があるという(あまりエビデンスレベルは高くないようだが)。

酒を絶つときは、予防的に酢を飲むと痴呆を防げるかもしれない。 酢は料理でもいいし、リンゴ酢などから摂ってもいいと思う。

 大学時代に酒豪のクラスメートがいたが、彼はよく酢を飲んでいた。彼の机には酢の瓶がいつも置いてあり、コップについではガブガブと飲んでいた。彼が言うには、酢がすごくうまいのだという。しかも酢を飲むと集中力が高まり勉強がはかどるのだという(そんなことあるかいな)。

 しかし、この謎が30年以上も経ってようやく解けたのであった。アルコールを飲み続けると、脳の神経細胞はアルコールの代謝産物である酢酸ばかりをエネルギー源として利用するように変化してしまうという論文が出たのである。彼は、ブトウ糖よりも酢酸を好んで消費するようになった脳の命令に従って、昼間から脳のエネルギー源として酢を好んで飲んでいたのだ。今、ようやくクラスメートの謎が解けたのであった。(場末P科病院の精神科医のblog

というわけで、今のところ断酒は成功している。

こうして記事を書いてみたものの、たぶんまた酒を飲んでしまうだろう。酒神からは逃れられない、という気がしている。

11.28.2014

原子力村は日本人の村である

昨日、福島原発についての動画を観ていた。あのノーム・チョムスキーに、「子どもたちを放射能から守る世界ネットワーク」が福島原発事故の問題についてインタビューしたのだ。


興味深いのは、「フクシマ」が主題であるはずなのに、チョムスキーの話が一貫して「自分たち(アメリカ人)を振り返ることが大切だ」と説いていることだ。インタビュワーがさんざん話の焦点を「日本の失策」「マスコミの情報統制」「福島の子ども」にシフトさせようとするのだが、チョムスキーの語ることはほとんど全てアメリカの政策、アメリカの歴史、アメリカの陰謀なのである。

このことは、チョムスキーがちょっと疲れているのだとか(そのように見えるが)、日本のことに関心がなく、自国民のことしか考えていない、ということとは違う。彼は逆に、日本のことを非常によく理解しているのだ。日本のなにを理解しているのか。それは、日本という国が独立して主体的に動きうる国ではなく、アメリカの属国であるということだ。

だから、日本で子どもたちが放射能で健康被害を受けていると言っても、その原因は日本の国家だとか、東電、マスコミのようないわゆる「原子力村」に悪の根源があるわけではない。日本という国は、悪者には決してなれないのだ。脅迫され、意のままに動かされる人間に罪はない。子どもが失敗したら、親の、つまりアメリカの責任だというわけだ。このことをチョムスキーは理解しているのだな、とぼくは理解した。だから彼は、日本のマスコミのことも国のことも、あまり批判しようとはしない。彼は本当の原因がどこにあるかを知っており、そうした批判は皮相的にすぎないことを知っているのだ。



けっきょく、日本は敗戦国であるし、その相手は史上最大の超大国アメリカである。日本はいまだ主権なき国家というのが悲しい現実である。

原子力産業のひとびとや、東電や、首相やその周辺の政治家を当時見ていて思ったのは、彼らも極めて日本人的だ、ということである。彼らは「悪の枢軸」のように扱われることが多い(特にネットで)。しかし彼らが巧みに陰謀や権謀術数を駆使し、国民をコントロールして利潤を得ていたようにはどうしても思えなかった。そのように考えてしまえば楽だし、実際そう考えている人は多い。

でも、清水社長や管首相の姿は、哀れで頼りない、大震災に狼狽している情けない日本人だった。それはぼくらと同じ、日本人らしい日本人であるということだ。確かに彼らは数え切れない失敗を晒したが、決して悪質なものではなく、むしろ子どもじみた失敗が多かった。そこにあるのは巨悪ではなく、単に「慌てふためいている日本人」の姿だった。だから、当時の政策や悪人とされる人びとを、ぼくは無碍に批判することはできない。彼らの姿はぼくらの姿でもある。チョムスキーの言葉を借りれば、「自らを振り返らなければならない」。

アメリカの属国となってから半世紀以上たつうちに、ぼくらは次第に頭脳を失っていったのではないか。つまり、思考し、判断し、決定するという前頭葉のはたらきを失ったのではないか。

だから、アメリカの言いなりとなって地震大国の日本の沿岸に原発を建てた。少数の科学者の警告など無視し、原発の津波対策をろくすっぽしなかった(科学者の声を無視したのは、ぼくら市民も含まれる)。そしていざ事故が起こったあとは、バカな政策によって子どもたちや妊婦を無用に被爆させた。マスコミは談合し、情報公開を極めて制限した(彼らは「国民が混乱するから」と善意で情報を制限していたらしい。ほんとバカにしてるけど、結果的には正しかったとすら思えてくる)。

諸外国から見れば、日本の対応は極めて異様に見えるはずだ。なぜだれもかれもがあり得ない失敗をし、間違った方向へ進んだのか?そして市民たちはすべてが明るみになった今でもそのことを批判せず、変えようとしないのだろうか……?と。

結局のところ、何が悪かったのだろうか。アメリカが悪いといっても始まらないだろう。それに、戦争に負けたことをいまさら反省してもしかたない。ぼくらは確かに奴隷である。国家が隷属しているならば、ぼくら国民も奴隷と言うほかない。しかし、奴隷であっても精神のなかで人は自由になれるのである。何もかも譲り渡してはいけない。奴隷には奴隷なりの狡知があるはずだ。ともかく、原発関連の一連の「大失敗」は、「責任を持ち、自分で考える」ということがことごとく抜け落ちていたが原因だったように思う。その意味では、日本人は大いに反省すべきだろう。だれが悪いというわけではない。日本人の連帯責任である。だれか悪者を探すということこそが、思考停止の始まりなのである。

ちょっと今日はめちゃくちゃなことを書いたかもしれない。まあいつもか。






普通の日記

ぼくは田舎に就職を決めているのだが、そのことを友人に話すと大いに受ける。とくに、ぼくが庭付きの一軒家に住むというと、笑われる(実際は田舎なので、月六万円くらいでしゃれた一軒家が借りられる)。コンビニまで「自動車で」二十分かかるというと、大爆笑である。

海が近いので、仕事が終わったら釣りをして(今時めずらしい定時上がりの会社である)、その成果を晩飯にする、サーフィンやヨット遊びをしてもいい、などというと感心されたり、就活を控えた後輩に妙に食いつかれたりする。とくに教授くらいの年齢の方には、とてもうらやましがられる。

お前はその年で隠居するつもりなのか、といわれると、ぼくは「そうです」と答える。若いときの苦労はなんとやらというが、ぼくは苦労するにしても、自分のために苦労したいと考える。会社や社会のために貢献するだけでは、自分が置いてきぼりになってしまう。もちろん、会社とプライベートを両立させることのできる器用な人はいるが……。

ぼくは、到底社会に向いていない人間である。とくにこの競争社会、消費社会というものが肌に合わない。一日十時間も働かされるのでは、家に帰るたびに、ぜいぜい喘いでしまう。だから、金と時間を選んだ。どう考えても、若いときに暇があった方がいい。セネカも言ったが、身体がどうにもならなくなってから暇と金を得てもしょうがないのだ。

11.26.2014

ニーチェの功績を考える

人間の本質というものを考えると、まずもって、性別の違いがあるだろう。男であって、同時に女であるような人はいない。こうした形態的に明白な違いである性差の他に、もうひとつ、精神の違いがあると思う。

人間は性別の他に、もうひとつの特性を与えられているとぼくは考える。その双極は、精神に生きるか、肉体に生きるかである。わかりやすく分類すれば、前者は学者や研究者などの知的労働者に向いており、趣味も読書や将棋などだ。後者は漁師やドカチンなどの肉体労働に向いており、スポーツを好む。

ニーチェのいう「超人」とは、個人的な解釈になるが、精神性と肉体性を兼ね備えた人物であると思う。つまり、聖職者のような神経質でなよなよした人間は、鋭敏な知性を持つものの、肉体=大地的な快楽を知らず、不十分である。かといって大衆(労働者)でもいけない。彼らの知っていることもほんの一部だからである。

精神性と肉体性を備えた超人は、個人として完成している。彼はもはや聖職者にも従わないし、大衆にも従わない。なぜなら彼らはすでに両方の性質を持ちあわせているからである。彼はただ自分のみに従うため、最高の主体性を持つ。彼の行動はすべてが正しいのであって、彼は善悪の彼岸にある。彼は「他者を超越した至高者性」を持つ。彼はアポロンであると同時に、デュオニソスである。
そんな神なんか失せろ! 神なんかいないほうがましだ, 独力で運命を作るほうがましだ, 阿呆であるほうがましだ, みずから神であるほうがましだ!(『ディオニュソス哲学への道』 序説より)

ただ、この超人というのは神話的であって、「ありえない」とぼく思っている。結局ニーチェの求めた超人というのは、両性具有的な偶像である。両性具有が(ほぼ)存在しないのと同様、超人も存在しないだろう。

古来から人は両性具有を崇拝し、そうありたいと願った。ぼくらは男であるか、女である。性別とはひとつの超越不可能な限界点である。だから、両性具有の崇拝は、限界的な個人であることからの超越の願望である。

例えばインド・ヨーロッパの多くの宗教は、昔、原初の両性具有者がいて、男性と女性がひとつになっていたとした。またシヴァ神やエロースなど、多くの神々は両性具有であった。

ニーチェの功績とは、新しい古典的な宗教の誕生にある。彼は新しい神話を作った。それは超人が神であるような神話である。だから、彼は言った。「神は死んだ」と。

一般的には、ニーチェの志向は「大地=肉体」であり、「デュオニソス」と言われるが、ぼくはそうは思わない。そもそも、アポロン主義はデュオニソス的な地底があって発育したと言われる。
ディオニュソス的ギリシア人こそ, アポロン的となることを必要としたのである。 いいかえれば, 物すごいもの, 多様なもの, 不確実なもの, 恐ろしいものへのその意志を, 節度への, 単純性への, 規則と概念に従属することへの意志でくじくことを必要としたのである。(
ギリシャ以降のヨーロッパは、過剰なアポロン主義であった。論理による支配、厳格なアカデミズムの潮流である。ニーチェの功績とは、当時あまりに軽視されていたデュオニソス神を救いあげ、復活させたことにあると思う。

ニーチェは、アポロン的なるものを否定し、デュオニソス神を崇拝するにとどまらなかった。彼はアポロン的なものを前提として、その上にデュオニソス神を置いたのである。ギリシャからニーチェ以前までのヨーロッパは、デュオニソス的なものの上にアポロンが立つという二階建ての静的な建築物だった。ところが、アポロン的なものの上に、デュオニソス的なものがおかれたことによって、その上にさらにアポロン的なものが、そのうえにデュオニソス的な……という無限の連鎖が生まれた。これによって、思想、そして人間は、無限の活物になったのだ。

ニーチェ以降、アポロン的なものとデュオニソス的なものは
永劫的に台頭しあっている。

こうした動的なはたらきによって、アポロン的なものとデュオニソス的なものとの永遠的な多重層が生まれていくとぼくは考える。ニーチェを境にして、停滞した人間の歴史が動き出したということができるだろう。



くだらないことを書いた。明白な失敗である。勉強不足である。引用元の論文も大して読み込めていない。これは失敗作として、いちおう残しておきたい。

でもこの転換によっていろいろ説明ができる気がする。西洋美術史もそうだし、下のユングの精神モデルも覆せる気がするし(まさか)、フーコーの言った「近代以前に人間は存在しなかった」だったかな、あのラディカルな発言も理解できる気がする。気がするというだけだ。こんなことしてないで学校へ行かなきゃいけないのに……。







ふつうの日記

最近は至って幸福なので、困っている。つまるところ、人間関係が良好であれば人間というのは安泰に暮らせるものだ。

相手を理解し、理解される日々なので、一日一日が充足される。明日を忘れ、昨日を忘れてしまう。もはや哲学書も頭に入らなくなってくる。力の余剰は沸いてくるものの、それは負のエネルギーではなく、陽性で開けっぴろげなものになった。今であれば、友人が死ねば泣くだろうし、友人の頼み事も聞いてやることだろう。つまりぼくはずいぶん人間らしくなった。

しかしそれでいいのかもしれない。それが人間の本当の生活なのかもしれない、と思うことがある。

幸福は迷妄であるとか、一切皆苦だとか、他人とは地獄であると言われるけども、どれも人間性に反していると言えないだろうか。人間を解剖しその本質を知ること、「将来の死」を悟り絶望すること、それが人間的行為なのだろうか。そうではなくて、単純に「イマココ」に生きること、幸福にひたり盲目的に生きること、これも人間的な営みと言えるのではないだろうか。

釣りの楽しみは、待つ楽しみである。待っているそのときが楽しいのであって、大物を釣り上げることになろうと、魚の代わりに空き缶だろうと、イマココは単純に幸福なのである。哲学者は、釣果を知ることを試みる(それは多分、不可能なのだが)。そして現在の幸福はなおざりになってしまう。

日本人は、非常に楽観的だと思うことがある。戦争になれば一生懸命国のために尽くし、経済成長したら金を使うことを無邪気に楽しんだ。現代でも、ひとびとは労苦に喘ぎながらも、幸福である。例えば、「萌えアニメ」のブームがあったが、オタクたちはユートピア的な空想世界を作り上げて、なんとかしてイマココを楽しもうとしている。

ここが西洋人と日本人の違いだとぼくは考える。イマココを楽しんでいるなら、なんで日本人は自殺するんだと言われそうだ。まあ生半可な考えである。

11.25.2014

傲慢と卑屈

これだけ毎日書いているとわかることがあって、それはぼくの文章は生意気ということである。どうもよくない。自分で読んでてもなんかむかついてくるのである。自分を偉いと思っていやがる。

この性質は数年前の書き始めからそうだった。数年前、ぼくは三島由紀夫の「葉隠入門」を読んで感銘を受けた。その本には次の訓示がある。「武勇と若い者の生き方については、我こそは日本一だと大傲慢でなければならない。」

これをしばらく座右として、偉っそうに生きる免罪符にしていた。ところが最近これに続きがあることを知った。「しかし、自分の非を知ったら、すぐ捨て改めるようにしなくてはならない。」

まあ、それはそうだよね、という話。傲慢であることは必要悪であって、目標ではないのだ。もっとも、臆病であってもならない。このバランスが重要なのだ。
機械的な、あるいは臆病な服従は、何の役にも立たない。思い上がった反抗はなおさら役に立たない。というのは、傲慢と卑屈から生じる結果は、同一のものだからである。それにこの二つは、人の考えているより、ずっと近い関係のものである。(ロジェ・カイヨワ「文学の思い上がり」)

Evening in the Studio 1993 Lucien Freud

芸術というものを考えると、カイヨワが言っていたことが頭をよぎる。いわく、「芸術とはまず何よりも、人に好かれなくてはならない」と。当然だ。当然なのだが、難しい言葉だ。ひとが好くものとはなんだろうか。

近代以降の芸術は、一見してひとを寄せつけないものがある。グロテスクだったり、露骨なエロスだったり、汚らしく、人間の嫌悪感を呼びおこすようなもの。しかし、ひとはそういうものにも「好意」を抱く不思議な生きものである。

うんち、というものがある。ぼくらは特殊性癖がない限り、うんちは嫌いである。少なくとも、自分ではそのように思っている。

しかしその昔、小学生時代には(男の子は)うんちをこよなく愛していた。コロコロコミックのような少年誌はうんちで溢れている。また、フロイトの言うように肛門期というものがあり、心理的な発達過程における重大なファクターなので、ひとはうんち的なものに対して愛憎混じった並々ならぬ関心を抱く。

(例えば、はじめはうんちをすると母親に褒められるのだが、二才くらいになって排便訓練がされると、今度は「汚い」「くさい」と罵られるのである。これが重大な葛藤を生む)

だから「汚いモノ」も芸術になり得るのだ。ひとに好かれうるのだ。人間とはどうも一枚岩でいかない生きものである。屈折している。バタイユは「好色漢と聖女の情念は同一」だとしたが、倒錯し矛盾しゆれ動くものというのが人間であるらしい。

ともあれ、可憐な花だけが芸術ではない、ということだ。むしろ、花を見て「美しい」と思うことは凡庸な精神だと思う。同じものを見て違う解釈をすることが独創性だろう。と凡庸なことを言う。

11.24.2014

音楽について




コンゴ共和国のスラム街の”セッション”。空き缶から作った楽器、即興。車いすの老人、子ども。

こうした動画を観ると、自分のやってきた音楽はなんだったのか、と考えてしまう。いままでまるで見当違いのことをしてきた気がする。

日本の音楽は荒廃したと言われる。いまやアイドル・グループがランキングを総なめしている。十年前にはだれにも想像できなかったことが今起きている。

大衆から音楽が遠くなってしまったようにぼくは思う。だれもが音楽を聴くことはしても、演奏することは辞めてしまう。みな受験、就活、仕事で忙しいのだ。楽器は遊び、余剰……人生=競争に必要のないものとして切り捨てられる。音楽は商品として買える。何も自分で作りだす必要はないというわけだ。

「仕事が忙しい」。この言葉はあらゆる人間的生活の放棄を正当化する。結婚ができない。仕事が忙しいからだ。眠れない。仕事が忙しいからだ。本が読めない。仕事が忙しいからだ。歯医者にゆけない。仕事が忙しいからだ。

文化的荒廃と労働時間の長さは相関する。一日十二時間はたらき(+通勤片道一時間)、土曜日もはたらく人間に、文化的生活は無理である。憲法では「健康的で文化的な最低限度の生活」が保証されている、はずだがなぜか黙殺されている。少し前には「アフターファイブ」なんて言葉があった。今では一部の幸運な人を除けば、だれもそのことが信じられない。

マルクスは技術の進歩によって未来人(我々)は労働から解放されると信じていた。ところが、技術が進歩するとともにますます人間は労働に縛りつけられた。たしかに優秀なロボットは誕生した。しかし、ロボットは相変わらず高価で、人間よりコストがかかることもある。ロボットは労働者によって使役されるものではなく、労働者と競合する存在になった。結果的に、労働者は安い賃金でクソみたいに長く働くしかない。

長時間労働が日本人を文化から遠ざけたことによって、いま文化畑は荒れ放題なのである。

ところで、現代の音楽家は、社会の底辺にあるように思う。スポットライトと歓声を浴びる一部の音楽家はともかく、その足元では小さなハコや個人レッスンでぎりぎりの食い扶持を稼ぐ大勢のひとびとがいる。彼らは芸術家というよりも、よくて職業人と見なされ、最悪人生の落伍者である。彼らは貧乏を覚悟し、理想を追求した人間なのだが、だれからも尊敬されない。

現代では何もかも金だ。金を持っている奴が偉く、金を持っている奴が賢い。金が倫理に台頭した。今は考えられないが、昔は金と名誉は自然と切り離されていた。金持ちになるためには高貴さを手放さなければならなかった。だが、いまや金のために卑しくなることをだれも気にしなくなった。2014年、資本主義はぼくらの頭の隅々まで浸透したということだろう。

11.23.2014

酒と老い

最近酒を飲んで酔い潰れることが多い。おかげで明白に頭が悪くなった。酒のせいというよりも、ストレスのせいかもしれない。強力なストレスにかられると、思考は鈍麻するようにできている。そのストレス源は明白なのだが、今の段階でどうにかできることではない。

ここ数日、大してひとと話すこともなく、孤独に作業することが多いので思考がまとまらない。昔だってずいぶん孤独に行動していたのだから、いまさら何を言っているのか、というところだが、昔の孤独と今の孤独では質的な違いを感じる。

昔の孤独は、すぐに社会に戻れる準備ができていた。それは子どもが部屋にひとりで取り残されても、数分、数時間で「母親が戻ってくる」と確信している状態に似ている。今は孤独に陥ると、ほんとうの意味で孤独である。命綱などない。昔は孤独の中に遊びにいくことができた。今は孤独の中が住処になってしまった。

社会との接点がないので、思考が思う存分解体する。その気になれば、バッドトリップのような気分にもなれる。

(ツーンという耳鳴り。視野狭窄)
「もしかして……?いや、そうだ。大変だ、俺の心臓が動いてない!いや、脈が速すぎる!止まってしまった!……おい、俺は息をしているか?」
起きろ! と念じると思考が統合されて、変な焦燥はなくなる。

話がそれた。ようは子どもじみた孤独から、老人的な孤独に移ったように思うのだ。事実、最近は自分がたいへん老いたように思う。体力が弱っているせいかもしれないが……。

スーパーに行ったときなどに、「自分は還暦を越えた孤独な老人なのだ」と妄想すると、意外と楽しい遊びになる。自分には未来がない。果たすべき仕事もない。友人はない。愛するものもない。ただ、スーパーへ行って、飯を買うだけが楽しみな孤独な老人。金はある。時間もあるのだが、その使い道を知らない。だれも自分を見ない。なぜなら私はどこにでもいる老人だからだ。二十年後には死んでいるか、ボケている。だれもかれもが私を無視する。テレビを見て、寝るだけの日々……。


なんか久しぶりに書くとダメだな。こういう日記というものは、やや睡眠不足の状態で起きて、半覚醒のときに書くに限る。ぼくの場合は、朝起きて五分以内に書き始める。朝起きて、小便をして、コーヒーを沸かして、そこから一時間ばかしブログを更新する。そしてさっさと学校へ行ってしまう。こうすると、あとあと消すこともない、しゃきっとした文章が書ける。

今日は寝過ぎた。脳みそが十分覚醒してしまうと、ダメなのだ。書いては消し書いては消しを繰り返してしまう。脳=理性が邪魔をするということがありうる。現代では脳科学が新しい宗教になっているが、ぼくはどちらかといえば「脳は情報削減装置である」と説いた、ラディカルな心理学者を支持したい。

11.20.2014

人類みな欠陥品

最近精神がじわじわと変わりつつあるのを感じる。他者を認めるようになって、自分を認めることができるようになった。

もっとも強く感じたこと、根本的に悟ることのできた真理は、自分がダメな人間であっても、それはそれで良いということだ。

というか、世の中、ダメな人だらけだ。臆病な人もいれば、傲慢な人もいる。散財する奴もいれば、過度の守銭奴もいる。みんなそれぞれ、欠陥品なのだけども、うまくごまかして人生やっていっているのだ。このことが気づけなかった。

ぼくは、自分が特別な存在であると思っていたのだ。これは中学のときから変な病気を発症していたためで、そのためぼくは絶対孤独の中に落としこめられた。おかげで他者とは共感不可能であり、自分と他者がいれば必ず自分が劣っている存在だと思った。なぜならばぼくは「キチガイ」「異常者」であり、他者とは常に「健常」だったからだ。

ところが、どんな人間でも自分と同じようにくだらないコンプレックスで悩み、うまくつじつま合わせをしてごまかし、だれの目にも触れないところで悪いことをし、あるいは泣き、他人の前では「いい顔」をしていることなど、ぼくには理解不能だった。

そんなわけで、ぼくは四捨五入して三十になろうというときになって、人は「一面的」なものではないことを知った。いや、ひとが二面的であることは知っていた。それはぼくの前では親しげに接し、ぼくの前から去るときに毒づくといった類の二面性だった。しかし、そうではなく、他者であるところの「彼」にとっても、彼自身の精神は倒錯しており、一枚岩ではいかない、それひとつでカオスに満ちた存在であるということを今更ながら知った。

ようは、「もしかして意識を持っているのはぼくだけなんではないか」という小学生にありがちな妄想を、この年まで引きずってきたことになるだろう。現実はどうだろうか。あなたにとって、あなたの精神は厄介なカオスであるし、ぼくにとっても然りというわけだ。

この小さな変革があっていらい、世の中は一変してあたたかいものになった。もはやぼくだけが欠陥品ではないのだ。完全な人がいるとすれば、それは完全なごまかしなのだ。ぼくはあらゆる人の欠陥を愛でることができるだろう。というのも、欠陥はぼくにもあるからだ。また、自分の欠陥を愛でることもできる。欠陥は、必ずしも人間にとってなくすべきものではないからだ。

もっとも、努力すれば治せる欠陥は治すべきだろう。しかし、努力して治せなければ、もう諦めるということが重要なのだ。そうしなければ、長い間前に進めなくなる。

流砂の中にとらわれた人は、そこから出ようともがく。もがけばもがくほど、奥深くはまってしまう。流砂にとらわれたら、大事なことは、そこで寝転がってしまい、動かないことである。しかし不安にかられている人間にとって、ただじっと動かないことほど難しいことはないものだ。

11.19.2014

rambling thoughts

案外、俗世界に入り込んでしまえば何とかなるものだと思う。

ぼくが小学生の頃は、この世を呪った。他者に嫌われることががまんならなかった。だからぼくは神様に向かって、何百回もこう唱えた。「人付き合いをよくしてください」。学校から家までの間の二十分近く、ずっと念じ続ければ叶うものと信じていた。

結果としては、ぼくの人付き合いはまるでよくならなかった。中学くらいのときは、妙な神経症を発症して、ますます人から嫌われた。少し人と違うだけで排斥されるおそろしい年齢期である。ぼくの神経症は人生を一気にどん底に突き落とした。

そんなわけで、暗い中学世代を送ったあとはオートマティックに暗い高校時代を送らねばならなかった。まあ、友人はいた。ぼくはなぜかいつも、一人の親友を持っていた。ぼくと正反対の人間だ。明るく育ちがよかったり、運動ができて腕っ節がよかったり。ぼくを嫌う生徒と、ぼくを好く少数の生徒とで、不思議な均衡が保たれていた。

それでも、ぼくの暗い生活というのは、だれとも共有できない、極めて個人的な悩みの中にあった。神経症といってもいろいろあって、ぼくと同じ神経症のひとはほとんどいない。でも、ネットというツールのおかげでぼくと同じことに悩む人を知ることができた。

本当に、これは、救いだった。ネットがなかったら、ぼくは死んでいただろう。ぼくは数年の間、同じ病気の人びとと掲示板を通じて接した。大学に入ったあと、東京で彼らとオフ会をしたこともある。ぼくは生まれて初めて、自分以外の他人に自分の症状のことを打ちあけることができた。発症して八年目くらいだったと思う。

結局、神経症は今でも治っていないのだが。が、まあこれはいい。何を言いたいのだったかな?そう、ぼくは大して嫌われていないということだった。ただ生きる、というだけなら十分、やっていけるようになった。人並みの幸福を見つけて、小さな居場所を築いて生きていくこと。「ささやかな家庭」。

ぼくは少し成熟したのだと思う。これまでは、人と対等の関係を築くにも精一杯だった。それが、やっと他人に認められるようになってきた。ぼくが変わったというよりは、周りが変質したのかもしれない。一辺倒の「リア充」よりも、ぼくのような変人の方がおもしろく、おまけに希少だということに気づいたのかもしれない。まあおかげでぼくはなんとか小さな幸福を見つけて、生きていけるという気がしている。

それがいいのか、悪いのか?というのは別にする。つねづね、幸福に耽溺するのは悪だ、というのがぼくの教条だったのだから。弱者の倫理だろうか。まあ、弱者も強者も、異端であることに変わりはない。今日くらいは、ささやかな幸福に安住したいのだ。

11.18.2014

統失と鬱の友人

友人のふたりが発狂した。

というと興味をそそる書き出しだけど、そう大それた話ではない。それぞれ「統合失調症」と「鬱病」を発症したというだけだ。こう書くとずいぶん味気なくなる。*

統合失調症の方は、パソコンやスマホから出てくる「電波」が不快だとし、両方ともアルミホイルでぐるぐる巻きにしてしまった。次第に症状が悪くなり、授業中にやにや笑いだし、虚空と会話しはじめ、しまいにはどこかへふらふら行ってしまうようになった。典型的といえば典型的な統合失調症の陽性症状である。彼は学校へこなくなった。彼は実家から通っているので、たぶん両親が自宅療養なり入院なりさせているのだろう。

もうひとりの方は、ある日を境に突然学校へこなくなった。連絡しても返事がこない。恋人、指導教員のメールや電話をすべて無視し、友人たちがアパートを訪問しても鍵を開けず、「貝」のように閉じこもってしまった。ところが、彼は二週間ほど経つと何食わぬ顔で登校した。「電波」君と違い、彼は回復したのである。いわく「人に会いたくない時期だった」と。

両者に共通することはひじょーに頭がいいということである。底辺校出身、成績も底辺のぼくとは違い、あっと驚くような有名高校出身で、まあ彼らは大学受験で失敗したのだろうが、こんな大学へ来てもめげずに勉学をがんばっている。

そんな彼らが精神に異常をきたすのだから、さもありなんというか、天才と狂気はなんとやらというか。ぼくは「天才が神の賜物だとすれば狂気はそれに添えられた神の嫉妬である」というだれかの言葉を思い出した。また、智慧を身につけることは、不幸を背負いこむことに他ならないというある作家の言葉も思い出した。

ぼくも精神衛生には気をつけたいものだと思う。季節の変わり目はたしかにクるものがあるのだ……。



*:鬱病は発狂じゃないでしょ、と思うかもしれない。「あれは心の風邪だ」と(GSK
洗脳CMが効いている……!)。
たしかに幻覚や錯乱はないのだけど、本当の鬱の発作がひどくなるときは、虚空を見つめて半日動かない、という症状がある。声をかけても指でつついても無駄。無反応なのではなく、気づかないのだ。外界の刺激を遮断している。こういうときは患者は部屋にひとりでいるか(危険だ)、入院しているので、人目につくことはない(友人がそうだったか知らないが、話した感じかなり近しい)。

「死にたいよー」「悲しいよー」だけが鬱病ではないのだ。鬱病は病気である。精神の病気である。単なる「憂鬱」「悲しい気分」とは違う。悲しい出来事があって悲しむのは健康な普通の人間だ。鬱病はそうではない。何もないのに悲しい。何もかもうまくいっているときが逆に危ないということもある。

新型鬱病はよくわからない。

ネットで見つけた
鬱病患者との接し方

11.17.2014

「知性化」 あまりに青年期的な

自分のここ数年分の言動を振り返ってみると、フロイトの言う「防衛機制」がはたらいていたように思う。防衛機制にもいろいろあるが、ぼくにもっとも当てはまるのは「知性化」である。
知性化intellectualization
[[防衛機制]]の一つ。本能・衝動をコントロールするために,情緒的な問題を抽象的に論じたり,過度に知的な活動によって覆い隠すようなこと。青年期に顕著にみられ,この時期の性欲や攻撃性の高まりをかわすために哲学や宗教に没頭するといったことは典型的な例である。
これがまるで自分のことなので笑ってしまった。まさしくぼくの今の関心は哲学と宗教である。直近の記事においても、子ども染みた知性礼賛を行っているので読んで笑ってほしい(知識について)。

自分を知ろうというときに、このブログでもそうなのだが、ぼくは精神医学や心理学に頼ろうとしている。これは本質から遠ざかっている、と言えるだろう。本当に必要なことは、ありのままの、生身の自分を見つめることである。しかしぼくは繊細(≒未成熟)な精神の持ち主なので、見つめる方の主体も、見つめられる客体としての自己も、その行為には耐えられそうにない。だから、精神医学や心理学に頼る。自分をそういった緩衝剤を介して見る。そうした一連の思考プロセスが、このブログ全体から透けてみえる。

たとえばぼくが飲み会でとんでもない暴言を吐いてしまったとする。あとあとぼくはこう思う。「あの発言は単なる言葉の間違いというよりは、抑圧された深層心理の表出だと解釈した方がリーズナブルだ。その心理は幼少期の父親との関係におけるトーテミズム的な葛藤と離乳期の喪失体験から生まれたものである、云々」。……そんな解釈は必要はないのだ。成熟した人間は、「アホだったなあ」と笑って済ませるだろう。だれにでも失敗はあるのだから。

メタっぽいが、この「知性化についての記事」も知性化の例となる。”いんてれくちゃらいぜえしょん”なんて言葉はいらないんだ、本当は。ぼくは甘ちゃんなんですーと言えばよろしい。客体としてのぼくも、よし、こいつは甘ちゃんだ、と認めればよろしい。しかしそれがなかなかできない。このように書くことができるのだから、ぼくは一歩前進できているようにも思うのだが、実感としては案外そうでもなく、難しい。

ぼくはこの「知性化」そのものの行動をしていた。「青年期に顕著に見られる」ような、典型的な思考のドツボに嵌まっていたのである。しかし、この事実もなかなか受け入れがたいものだ。このことに気づく一方で、自分は典型ではない、特別な人間だと思いたい、という幼児的願望がぼくを支配している。率直に言えば、「ぼくは人一倍これまで苦しんできたのだから、普通であってはならない。それでは収支計算が合わない」という気持ちがある。いじめられっ子は、いじめられたことにも価値を求めるものだ。これも一種の防衛機制だろうが。

実際のところ、どうなのだろうか。自分がもはや特別ではなく、凡庸な小市民だと思うこと、これが成熟なのだろうか。この疑問には簡単に答えられないだろう。もしも現代にドフトエフスキーがいたとして、現代医療によって彼のてんかん発作を治療したら作品は生まれなくなるかもしれない。それが人類にとって良いことかわからないし、ドフトエフスキー自身にとって良いことかも微妙なところだ。

ただ、大部分の人間が凡庸な小市民として生きていくのが世の中である。サッカー選手を目指していた人のほとんどは夢を諦める。だから確率的には「俺はその辺のおっさんと変わることはないさ。仕事をして家族を養って幸せに生きていくんだ。」と宣言してしまった方が、多くの人間にとって利益になる。しかし一方で、ひとりの潜在的な天才が死んでしまう、ということもあるだろう。

実際に、「知性化」はけっこう高次の防衛機制であって、肯定的な側面もあり一概に否定できるものではないようだ。だれにとっても、知識を身につけることは善いことだろう。

同じ防衛機制でも、成熟した人間のものと、心理的に幼児的な人間のものがあるようである。防衛機制でもっとも代表的なものは「すっぱいブドウ」の「合理化」だが、Vaillantの分類によると、より成熟したものとして「利他主義」や「昇華」の他、「ユーモア」なんてものもある(これらのワードについての詳細はこちら)。人が困難に陥ったとき、防衛機制は自然とはたらくものであるから、成熟した防衛機制を身につけることが大事だろう。

ところで気になるのは「知性化は青年期に顕著である」ということである。この「青年期」とはいったい何歳から何歳なのか。調べると、エリクソンによれば「13歳から19歳頃」、発達心理学では「14、15歳~24、25歳までの性的成熟・身体変化を伴う時期」なのだという。げえっ。早い。全共闘の大学生がマルクスを読むようなものか。ぼくは25才だから、ぎりぎりセーフと思いたい。

まあ、大人の階段を昇っているということか。この年でねえ。



今日は朝からお腹が痛かったので学校を休み、一日精神科医のブログを読んでいた。

場末P科病院の精神科医のblog

筆者は勤務医の方なのだが、本当に勉強熱心で、公明正大であり、立派な先生だと思う。内容もとてもおもしろく、質、量ともに無償公開するのがもったいないくらいで、あっという間に一日が潰れてしまった。精神医学に興味のある方におすすめです。
ちなみにこのブログの影響で魚油のサプリを買った。

11.15.2014

知識について

フーコーやハンナアレントを読んでいるときは幸福である。内田樹のブログを読んでいるときも幸福である。それだけでなく、チェコの近代史を調べていても幸福であるし、最新の精神医学について学んでいるときも幸福で、バイクのエンジン構造を調べているときも幸福なのだ。

「知識」を身につけることがなぜこんなにも喜ばしいのだろうか。たぶんそれは、知識がそれ自体では決して役立たないからだろう。知識が知識にとどまる限り、その価値は無に等しい。しかし知識はぼくらの日常的な行動決定において、確実に影響している。知識は広く「行為」に直結する。だから、知識を得る喜びは、同時によき行為の喜びでもあるのだ。それは相乗的な喜びといえるだろう。知識は種であり、行為は花である。

ふつう知識を得た人は、より多くの知を求める。そうして学ぶことが喜びである人間と、学ぶことが苦痛でしかない人間の「二極化」が起きる。これは痛ましい事実だ。ぼくも二十歳くらいのときは、後者だった。盲と言ってもいい時期だった。

小学生が「ぼくは何のために勉強するの?」と問うたら、「立派な大人になるためだよ」と答えればよいだろう。立派な大人とは、エリートビジネスマンや、医師、弁護士である必要はない。立派な行為ができる人でありさえすればよいのだ。

ってまあ、「勉強は大切」という当たり前のことなんだけどさ。当たり前の事実だ。

いろいろ学んで行くにつれて、この「当たり前の事実」がより真実味を帯びてくる。世界は思ったよりもシンプルだ。知識のない人は即時的に生きる。「Aという場合にはBをせよ」「CのときにはDをせよ」という、一問一答式の行為を行う。こういう人は、例えばグーグルの検索結果を信奉する。彼にとって世界は複雑怪奇だ。しかし、よい知識を持った人は、そのようには生きない。彼は「Eであれ」という言葉のみにしか従わない。Eは善だったり愛だったりするのだが、大同小異だろう。

この世にはある真理がある、という気がする。そのことを直接言い表せた書物は、聖書や聖典含め、この世に存在しない。真実を表せないということ、それが言葉の限界だ。だから禅問答では言語=論理的な破綻が見られる。しかし多くの優れた書は、その輪郭をわずかに縁取ることに成功している。それによって、学ぶにつれ、おぼろげながら「絶対不変の真理」が自己のなかで形成されていく。その真理は、どちらかといえば、あたたかく(永遠に)、丸っこく、子どものように単純なのだ。

とまたわけのわからないことを書いたが、ぼくが読書をする理由はそのようなものである。真理を求めているのだ。こっぱずかしいセリフだが、真理こそ万人が求めるべきものだと思う。

ぼくの友人たちは、ぼくがちくま学芸文庫を手にしているとき、小説を読んでいると思っているようだ。多くの人が本といえば「恋愛小説」や「ミステリー」で、思想書などに手を出さない。これは残念なことだと思う(小説が悪いということではない)。

彼らは思想書や学術書は難しいと思っている。しかしそんなことはないのであって、難しいということはそれを「求めていない」のだ。「私にとってむずかしい本は、私にとって必要でなく、私にとって必要な本は、私にとってかならずやさしい」と加藤周一は言ったが、その通りだと思う。真理などいらない、と考えている人が大半で、その事実がぼくにとって残念なのだ。

11.14.2014

成熟とは遠い男

仕事をして飯を食べてよく寝たら、だいぶ精神の状態が良くなった。

ぼくはこれまで自己に執着しすぎていた。最近はひととよく話すようにしている。昼飯も友人ととるようになった。社会の中で自分がどのように位置づけられるのか、ほんのちょっとだけ考えるようになった。

今までぼくは社会を拒絶していた。自分は社会からのつまはじきものなのであり、他者からの評価などどうでもよいと考えていた。しかし、ぼくは相変わらず学生であるし、社会の提供する治安、サービス、商品を受け入れている。なんだかんだいっても、ぼくは社会の含有物である。だから社会を必要以上に拒絶することは辞めた。その証拠にある程度、愛想笑いをするようになった。

この脱離-和合のプロセスが「成熟」の段階だというのならそうなのだろう。ぼくが子どもの頃は、「社会の一員として」という言葉がよく使われた。人は社会という共同体の中で生きているのだから、社会の求める役割を演じろという要求は、当然のように思われる。

しかし、社会とは何なのか?なぜそのような義務がぼくらに課せられているのか?ぼくらは自由な独立した人間であってはならないのか?そのような役割は必要なのか?というような疑問を持つこともひととして当然であるように思う。その疑問を曖昧にして、わかったふりをした自称「成熟した社会人」もいるが、そういう人間は優等生的な子どもと変わらない。

これらの疑問の答えは、いったん社会から離れなければ見つけられないだろう。外部からきた異邦人の目で、自分の国、街、共同体、文化……を見つめなければ、社会の本当の姿を見ることはできない。そのためには、ひとつの方法として読書があるし、多様な人と交流して知見を得ることも重要だろう。あるいは実際に海外に飛んでしまうのもアリだ。

自分は多少は成熟したように思う。とは言っても、円滑なコミュニケーションをとれるような人とは自分は根本的に違う、と感じる。ぼくは人と話すときに、居心地の悪さを感じる(相手もたぶん感じている)。自分の惨めさに嫌気がさして、死んでしまいたくなるような精神の危機が頻繁にある。こうした現象を、未成熟の証だと言うのならそうなのだろう。

しかし成熟とはなんだろうか、と思うことがある。もはや自分のことを悩まないということ、「答えを見つけた」と信じること、いわばアイデンティティの確立、これが成熟なのだろうか。

ユング派、フロイト派の精神分析を表現した小話がある。
ふたりの永遠の少年タイプが、フロイト派とユング派の分析治療をたがいに別々に受けてみた。やがて、再会したふたりはおたがいの経過について会話する。フロイト派の治療を受けた青年は、すっかり社会に適応し始め、自分の幼児性も克服し順調にいきつつあるという。これからどうするのかと尋ねると、いずれお金をかせいで結婚するつもりだ。と言う。
ひきかえ、ユング派の治療を受けていた青年はさっぱり変化がみられない。未だに方向が見えない。
しかしフロイト派の治療を受けていた青年は、こう言う。
「なんてことだ ! 分析家たちは悪魔も追い払ってくれたけれど、一緒にぼくのなかの天使まで追い払ってしまった」

ある精神科医いわく、「ある種の精神にとっては一粒の小さな狂気のほうが、わずかな貴族の血にまさるだろう。半狂人がいなくなったあかつきには文明社会は滅びるであろう。溢れる知恵によってではなく、溢れる凡庸さによってである。これは掛け値なしに断言できる」と。

で?って感じではあるんだが。

自覚的な狂気の道ねえ。「不誠実か、発狂か」。誠実であるだけ、人は狂気に転落してしまう。


最近は内田樹のブログをよく読んでいる。この人は掛け値なしに天才だと思う。あとは、ハンナアレントと、フーコーを読んでいる。……今更だ。勉強の楽しみを知るのが遅すぎた、という気がしている。もう二十七才なのだ(かわいげのない数字!)。ブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリスン、カート・コバーンはこの年で死んだという。まあ今更フーコーに手をつけるとしても、一年前は太宰治とか坂口安吾に熱中していたのだから、多少は進歩していると言えるのだろうが。

自分の年齢間違えてた。二十六才になるのだった。アホか俺は。

11.13.2014

酒/社会運動

何かやるべきなのだが本態を外してしまっている。

昨日はただ酒で一日を塗りつぶした。恐ろしい量を飲んだ。飲酒という行為は広く公認されているが、実は狂気を理性から台頭させるものであると思う。意志という手綱を狂気に譲り渡すのだ。酒を痛飲したいときには、理性を敗北させたいという欲求や、あるいは理性が敗北したという事実がある。これだけ狂気が封殺された社会にあっても、ひとは狂気を求める。それは逆説的だが、理性こそが狂気を孕んでいて、狂気は実際のところ、驚くほど純粋だからだ。

ぼくの人生はうまく行っていない。うまく行っていると思い込もうとしたのだ。ぼくは、本と楽器があればいいと思っていた。当然ながら、それは嘘だ。もっとやるべき行為がある。ぼくはどうも循環する日々に理想を求めてしまう癖がある。それは極めて強迫的な欲求だ。欲求というか、固定化した日々に「逃避」しているのだ。正しい道へ導いてくれる他者をぼくは必要としていると思う。

ある人が社会運動に熱中しているのを見て、ぼくは少し羨ましく思った。ある運動の一部になること、それが先頭であってもマスの中であっても同じことだが、それを想像してみると不思議な高揚がある。社会をひっくり返し、国家をくつがえすような社会運動に参加することは個人の矮小な悩みをかき消してくれる。マスそれぞれの惨めな人生など、大義の前ではもはや塵に過ぎない。

人は同化への意志を持っているように思う。その同化がある偉大な目的のためであれば余計に魅力的である。だが、ぼくはそれだけに運動からは離れていたい。危険な誘惑だ。

「叫び声があがるところに良き認識はない」とはだれの言葉だったかな。今日はもう学校へ行こう。そして勉強する。

11.12.2014

変人について

ぼくのブログは変だ。異常だと思う。どうもぼくは衆人環視のもとで変なことを口走りたいという欲求があるようだ。露悪癖と言うべきか……。以前もどこかで、そういうご指摘を受けたことがある。まったく事実だと思う。

思い返せば、中学の頃からこうした文章を書いてはネット上に公開していた。十四才のあの頃は、自分の文体は子ども特有のもので、だから大人になれば自然と「天声人語」のような文章が書けると信じていた。ところがどうしたことか、十年以上経っても当時のままである。

いずれにせよ文章を書くことが好きだ。精神がアンバランスな人間にとって、文章は何か救いのように感じられるものだ。「描くという行為にはなにかあるにちがいないぞ、だってたいていの狂人はなにもいわれなくても描きはじめるんだから。」とポルケ。

自分が変人であることを受け入れて、生きることがだいぶ楽になったように思う。「変な奴」と言われるとかえって自分が受け入れられたような気がする。なぜならぼくは変だからだ。

ぼくは集団になじめないようにできている。こちらの警戒心は強いし、集団の方にしても、ぼくのような人間を組みこむには、長い受容期間を必要とする。普通のひとでも集団の中に入っていくのは緊張を要すると思うのだが、なかにははじめから馴染んでしまう人もいるだろうし、数週間かかるという人もいるだろう。ぼくの場合は「2~3年」かかるのである。大抵の初対面の人には絶対に自分をださない。

いわば、「勇気に欠けている」「警戒心が強すぎる」「自意識過剰で他者の評価を怖れている」ということが自分の短所であると思う。よほど慣れた人であっても、近くに座られるとはっきりと不快である。あっちにいってくれよ、と思うのだ。

ところで、ゴダールが「私の作品には批評が必要だ。楽しかったとか、気に入ったという感想はいらない。根拠ある批評こそが次の作品に生きる」と言っていて「さすが」と思った。

ぼくは他者の評価も、批評も黙殺するような、孤高の芸術家というものがあっても良いと思っていたが、そんなものは幻影なのかもしれない。まあカフカや宮沢賢治のような例もあるが、それはほんの一部でしかない。他者に勇気を持って作品を公開するということが必要だ。どこかに必要だ。何かしらのフィードバックを受けねば、作品はあらぬ方向へ行ってしまう。

もっとも、芸術の大部分が孤独を要求するものであるということは事実だと思う。孤独も要求するし、批評も要求するのだ。というか、極論を言ってしまえば、芸術は全てを要求するものだと思う。全てとは、人生を構成する全ての要素のことだ。ひとつの人生を捧ぐ気持ちがなければ、一流の芸術家にはなれないだろう。と偉っそうに言ってみる。

ここ最近はというと、何も成せてはいない。あいかわらず何も起きず、何も身につかず、空虚な日常だ。ともあれ、生活習慣が改善されたのはよかったと思う。かえすがえすも「まとめサイト」や「動画サイト」に浪費された時間が惜しい。今はそういう時間を完全に断っていて、代わりに読書したりライブ映像を観ている。そちらの方がはるかに有意義だ。

生活が意味を持つようになったのは、ここ数年のことだ。読書は本当に人間に必要だと思う。

11.11.2014

幼児的万能感

ここ数日の日記はずいぶん間違ったものだったと思う。それで今、ひどい憂鬱なのだという気がしている。昨日の夜はけっこう陽気だったんだけど……。

人間という生き物は独特だ。自分が自分自身の手綱を握らなくてはならない。正しい方向に進むためにはそのことが必要だ。適切な栄養を与え、ときには休息を与える。そのためには自分の声に耳を傾けなくてはならない。自分が何を望んでいるのか、母親の注意深さで見守らなくてはならない。

母親も誤ることはある。「子どもの健康のためには○○を与えるといい」という風説があるとそればかり与えたり、子どものためを思って塾通いをさせるが、そのことが子どもの十分な発達を邪魔することがある。大事なことは、子どもが本当は何を望んでいるのかを察することだ。彼は医者や弁護士となる前に、ひとりの人間として成熟することを望んでいるものだ。
もし神々があるのなら、どうしてわたしは、自分が神とならないことに、堪えられようか!
とニーチェは言ったが、ぼくもそのとおりの不安に駆られている。ぼくにとって、フーコーやハンナアレントは神のようだ。あまりに優れていてまるで勝ち目がない。ぼくは彼(彼女)らのようには「もはや」なれないということが、ぼくを苦しめる。もっとも、フーコーに匹敵する日本人なんて、ほとんどゼロなのだろうが。

同様に、オバマに匹敵したいという人がいても、アインシュタインを超越したいという人がいても、彼らに待っているのは絶望だけだろう。羽生名人に勝ちたいとか、内田光子に勝ちたいと思っても、ほとんど叶わない。これらの願いは子どもじみている。そんなことは望んではならないのだ。何も知らない子どもか、狂人だけに許された願いなのだろう。
私はなぜ あらゆる人 あらゆる場ではないのか?(アルヴァロ・デ・カンポス)
この憂鬱と葛藤は、人間存在特有の寂しさか。 そう考えると少し救われる。

今日も学校にいかねば。

11.10.2014

労働だいすき

四月から学生ではないのだ。

ぼくは労働という点で無能である。これは数々のバイト経験が示唆することで、ぼくは無意識的に仕事をするということができない。狭い店内で、他者の存在があるなかで、慣れた運動をすること、また客の前で店員という奉仕者になりきること、これができない。さらに悪いことには、同僚たちと親しくうちとけた雑談をすることができない。もっともぼくは人並み以上に努力をしたのだ。しかし、そのたびに適性に欠け、欠陥がある労働ロボットであることを自覚させられた。

このために、優秀なロボット諸氏には見下され、労働監督者には「力はあっても頭脳は足りんなあ」なんてバカにされたりした。ぼくは笑った。自分の無能さをさらけだすよりは道化という仮面をつけたいと思った。結局、いちばんぼくに向いた労働は「ピザ宅配」で、その理由はいつでも外界に逃避できるからだった。

ぼくには労働は向いていない。大部分の人は向いているのだが。「狂気の歴史」によれば、中世ヨーロッパで精神病院(というか収容施設)に送りこまれたのは狂人だけではなかった。売春婦や浮浪者などの、「労働ができない人間」は一緒くたに詰め込まれた。精神欠陥は社会的無能を示すものであるし、社会的無能は精神欠陥を示すものだった。ぼくの精神のある種の欠陥と過剰は、労働の無能とつながっている。

が、まあ働かなくてはならないだろう。大学の研究活動では、ぼくは確かに無能だったのだが、そこそこの成果をあげた。というのもほとんど完全に個人が支配する仕事だったからであり、自由であり、進展が目に見える仕事だったからだろう。他者の不在性と、創造性のある仕事であり、ぼくには向いていた。……ひとまず、田舎に出向して強制労働だ。音楽と本があれば寂しくない。

世の中には、直線的に生きる人と円を描いて生きる人がいるという気がする。だれかは後者を再生産者と名付けたが。再生産者たちに「憧れる人はだれ?」と聞くと、「父親」と答えることが多い。彼らはまさに、父親の辿った道をなぞっていく。田舎の人間に多いのだが(田畑は循環の象徴である)、都市部でも珍しくない。一流企業の部長とか、政治家や医者の息子は父親に憧れを持つ。彼らの人生目的は「維持」「存続」「継承」であり、それなりに崇高な使命だ。

ぼくは直線的に生きる人だろう。というのも、父親に対して他者以上の感情を持つことができないからだ。また、兄弟たちのように我慢強く労働に甘んじるということができない。ぼくはあてもなく放浪し、突飛な仕事をして生きていくだろう。

これはぼくが特別に無能というよりは、甘やかされた末っ子だからかもしれない。「末っ子クズ説」というワードがぼくの研究室で流行っている。末っ子はどうも「ダメな」人が多い。仕事は不完全だし、ミスが多い。しかし妙な愛嬌があるので憎めない。仕事ができないことを指摘されても、素直にそれを認める。妙に吹っ切れている。

仕事ができないことが「不幸」なのだろうか。現代では必ずしもそうではないという気がする。日本の労働環境は悪い。最悪と言ってもいいかもしれない。そのような状況で、労働に必要以上の義務感をもったり、楽しみを持ってしまうと、足元をすくわれることになりかねない。多くの人間が労働によって殺されているが、社会変革は行われない。

ブラジルでは学生四十人が無残にも殺され、抗議デモが起きている。日本でいくら過労死、自殺者が出たところで、ぼくらは声を挙げない。電車に轢かれて死ぬ人は「落伍者」なのであり、「負けた」のだ。彼らが肉塊になるたびにぼくらはほくそ笑む。負けた奴がいるとすれば俺は勝ったのだと。そのようにして社会は安定化する。

そろそろ学校に行かなくてはいけない時間だ。中身のないことばかり書いたので、最後におもしろい記事を引用したい。
学年のはじめに生徒が自分で選んだ席は、重要な社会心理学的意味を持つ。たとえば、学年のはじめには、次のような生徒が、一番後部の席に”たまたま”坐ってしまうことがある。留年性である父親のない一人っ子、母親のない一人っ子、きわめて不適応な状態にある精神的な問題児、学校生活から逃避の傾向が強い生徒、他の学校から転学してきた年長の生徒、二十歳、二十一歳になっても留年している生徒である。(「人間の空間」R・ソマー)

ぼくも「後ろ組」 でした。

11.09.2014

構造主義だった

昨日、構造主義に関する本を読んでいたら笑ってしまった。ぼくがこのブログで書いていたこと、発見したと思っていたこと、それは構造主義だったのだ。
しかしぼくらの精神はどこまで独立しているのだろうか。どこまでが自分本来の、固有の精神なのだろうか。実際のところ、全ての精神は借りものなのではないか。例えば、何かの思想を持ったとしても、そのルーツは書籍であり、友人であり、教師なのである。何かしらの人、物、出来事に還元できるのだ。
昨日書いたこれも、(かなり稚拙な)構造主義でアリマス。 もっとも、「人、物、出来事」の次にさらに普遍的な「構造」に還元しなければならないのだけど。

ぼくは構造主義を学んだことはない。直接的に学ぼうとしたのは昨日読んだ本が初めてだ。しかし、すでに現代はポスト構造主義の時代だ。構造主義は世界に十分行き渡った。ぼくの周りにも構造主義が取りまいている。勝利した思想は書籍や知識層にとどまらず、大衆へ、大気へと、ヘゲモニックに浸潤していく。

だから、ぼくは極めて構造主義的に構造主義的技法を身につけ、そして構造主義を「発見」したのだ。わかりにくい表現だが、事実はこうなのだ。このバカバカしさ!愚鈍なぼくは、今更のように構造主義を発見して喜んでいた。アホだ。勉強不足だ。

やはり、体系的な勉強は不可欠だと思われる。哲学がやりたいんだったら、気ままに好きな本ばかり読むだけではいけない。網羅的に教科書的に学んでいくこと、退屈だがこのことが必要という気がする。そうでなければ、ただ浮遊する点を集めることになる。教科書的な学習は、その内容を学ぶのが目的ではない。それを踏み越えるために必要なのだ。だから編み目状で立体的な体系的知識が必須なのである。点を足場にしていてはいつか滑り落ちてしまう。

ところで、ガザーリィの「中庸の神学」を読んでいたら、著者がこう言った。「私はイスラムを学ぶために、哲学、神学、スーフィ派...を学ぶ必要があると考えた。四百人を相手にする講義で連日忙しかったが、哲学については二年間ですべてを学んだ」。ぼくは驚いた。二年で哲学を修得するなど、天才の仕事だ(実際ガザーリィは天才なのだろうが)。

でも、よく考えてみるとそれは西暦1000年に著された本だった。当時は哲学といえば、アリストテレスやプラトン、ソクラテス、他デモクリトスやヘラクレイトスのようなギリシャ哲学に限局されていたのだ。なんて平易な世界だったのだろうか?

今はヘーゲル、カント、ハイデガー、ヒューム、ラカンのような哲人たちの難解な思想が展開されている。展開された思想は閉じられることを知らない。ヘーゲルひとつ研究するのだって、数年はかかるだろうに!ぼくの手元にはジャン=リュック・ナンシーの「自由の経験」という哲学書(ナンシーの博士論文らしい)あるが、これを読みとくにもたぶん半年はかかる。

そう考えると、現代は恐ろしい時代である。人間が「総合知」を得るのは難しい。人は断片的な知性しか手に入れることができない。人生はせいぜい八十年しかないのだ。その中でも哲学書なんて読もうという年齢はさらに限られる。

まあともあれ、日々勉強していくことが大事なんだろう。ぼくは無知に気づけた。それも一歩前進ということで、こっぱずかしいけれども、喜んで受け入れたい。

11.08.2014

義務について

本の選択が強迫的になってきた。これが読みたい、というよりは「これは読まなければならない」というような。

どんな趣味においてもそうだが、ある趣味に向かわせる性向が、単純な享楽から義務感へと転換するターニングポイントが存在する。子どものように楽しむだけだった個人が、ひとつの文化の担い手、継承者として自覚するような瞬間だ。

AKBのような俗な事柄でもそうで、単純にアイドルを眺めることを楽しんでいた人に、「自分がアイドルを支えるんだ」という奉仕の精神が発生する。それによって、CDを数千枚買うというような、単なる趣味という枠組みでは考えづらい事態が発生する。あのビジネスの恐ろしいところは、そういう精神(ある意味で崇高な精神)をも食い物にしてしまうところで、結果的にはアイドルではなく事務所を肥やさせるだけである。※

とは言ってもぼくの転換は小さな転換で、ただ太宰治よりはフーコーを読まねば、という程度の違いなのだけど。


ぼくらはひとりで生まれてきたわけではない。人工授精によって「フラスコの中で生まれた」という人があるとしても、両親のDNAを引き継いではいる。そこには必ず関係性がある。それでも、ぼくらは独立した個人として、一つの人格を持っていると思っている。自分が今この瞬間に自由ではないと思っている人があるだろうか?あなたも、ぼくも、次の瞬間に白目を剥いて「オッパッピー!」と叫ぶことが可能なのだ(もちろんしないことも可能だ)。この自由の概念は、自分が他者から切り離された、独立した個人であるという前提から生まれるものである。

しかしぼくらの精神はどこまで独立しているのだろうか。どこまでが自分本来の、固有の精神なのだろうか。実際のところ、全ての精神は借りものなのではないか。例えば、何かの思想を持ったとしても、そのルーツは書籍であり、友人であり、教師なのである。何かしらの人、物、出来事に還元できるのだ。

ぼくらの精神をひもといて見ると、自分固有のものが何もないことに驚くだろう。たしかにぼくらの精神はさまざまな要素が脈絡なく構成されているが、オリジナリティーといえば、ただその要素と要素の「関係」にのみあるのであって、「要素」それ自体はすべて借りものである。だいいち、ぼくらが思考するその「言語」自体が借りものなのだ。これはけっこう非情な事実である。

ヘッセは「人間とは幾層もの皮が重なったたまねぎだ」というようなことを言った。自分を探ろうと思って外皮を剥いていっても、現れるのは次の「皮」ばかり。最後の一枚を剥いてみると、そこには何もない。

人間とはそのようなものなのかもしれない。そもそも、ぼくらの肉体が借りものである。ぼくらは人間である以上、何かを食べなければならない。動物でも植物でもいいのだが……。ともかくそういった生き物である以上、何かに依存することを強いられ、独立は不可能なのだ。

ぼくはこの事実を長いこと認めたくなかったが、最近になってようやく受け入れられたという気がする。ぼくはずいぶん傲慢に粘ったものだ。ぼくは君とは違う。独立した個人なのだ。君と趣味が違うとしても当然だ。ぼくをそっとしておいてくれ、と……。しかし、自分のことを知るにつれ、その肉体も、精神も借りものだけで構成されていることに気がついた。そうしてみると、自分の態度は滑稽なものだった。

ひとつの義務感がぼくの中に芽生えている。精算する、という必要だ。精算とは、借りたものを返すということに他ならず、ついでに多少の利子も付け加えなければならない。

享楽から義務への転換。ノーブレスオブリージュとはいうが、富める者や賢い人間は概ね、義務の世界に生きている。普通考えられていることとは逆に、かえって愚者や貧しい人間ほど、気ままに享楽的に生きているものだ。ぼくはできることなら前者でありたいと思う。

人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんらの特別な要求を持たない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である。「大衆の反逆」オルテガ・イ・ガセット


※AKBファンの他に例をあげるとすれば、AVGN(Angry Video Game Nard)か。彼はクソゲーを批評する動画を制作しているのだけど、そのクオリティーは映像作品として非常に高い。彼はファミコン世代の一プレイヤーだったが、今でもクソゲーを愛好するとともに、レゲー(クソゲー)文化の発信者として一翼を担っている。

11.07.2014

民主主義について

民主主義は、権力の超克を原理として措定する――だが、それは、権力の真理、権力の偉大(もっといえば、権力の荘厳!)としてであって、権力の破棄としてではない。ジャン=リュック・ナンシー

民主主義について書かれた本を読んでいると、昔から「良いもの」と教育(洗脳)されてきた民主主義という代物が、ずいぶんいかがわしいものに見えてくる。

民主主義というのは広く行き渡ったシステムであると思う。学校の取り決めでは普通、投票制が使われる。ここで、一票は平等である。どれだけ熱意と真意のこもった一票も、怠惰と私欲にまみれた一票も「平等」であり、それが民主主義というものである。

時事問題になるが、タイで、華僑のタクシンが大統領になった。彼は都市部の税金を貧しい地方や農民にばらまくことによって国民の絶大な支持を得た。彼は無敵だった。彼を批判する敵は都市部におけるエリートと富裕層だけで、絶対的少数だからである。このような逆転を孕んでいるのが民主主義である。これが良いとか、悪いとかについてはここでは言及しない。ちなみに西欧諸国はタクシンを「民主主義の敵」と批判しており、朝日新聞などはかえって「民衆の味方」としてタクシンを好評価しているという。ひどい温度差だ。

人類の持つ寡頭制(少数による統治)に対する恨みは大きい。確かに、変人や不適な統治者のために国が振り回されていた過去がある。牧歌的な例では「生類憐れみの令」であり、陰惨な例では第二次世界大戦である。

しかし、民衆が必ず正解を導くという誤ったイメージはどこから沸いたのだろうか。無知がつみかさなると国を正しく導くことができるというのか。むしろ民衆が暴走する、ということがありうるのだ。ナチスのホロコーストの実質的な主犯は、中産階級の人間すなわち「大衆」であったことが心理学者のフロムに指摘されている。コーン=ベンディットもうこう言った。「しかしヒトラーを連れてきたのは民主主義である」と。 

ところで現代の日本を振り返ってみると、この国で民主主義は機能しているだろうか。ぼくはそのようなことはないと思う。なぜなら民主主義は自由な報道、自由な経済、自由な政治があって初めて成りたつものだが、どれも達成できているとは言いがたいからだ。そのいずれも既得権益層によって支配されている。報道、経済、政治は平然と癒着している。同じ層が混じり合わないということはない。原発事故という超非常事態でも、一枚岩の優れた連携をとって一億の国民の目を覆った(皮肉なことにぼくは日本の底力を感じた)。しかしぼくはそのことを単純に批判することはできない。

それは日本という国の選んだ道なのかもしれないという気がしているからだ。ここでいう国とは、統治者と国民を含んでいる。もともと少数の特権階級が統治してきた日本において民主主義を導入すれば、それは本来農民だった人びとが政権を握り、国を導いてゆくことを意味する。そんなことは可能か。不可能だ。手に余る。であるから、少数の政治的な秀才たちを大衆であるぼくらが選出することになる。これは事実上の寡頭制への逃避である。

ぼくら日本人が唯一、民主主義的に物事を決められたことがあるとすればそれは「民主主義を放棄することに合意した」という事実だけなのかもしれない。ぼくらは残念なことに、西欧諸国ほど民主主義への準備がされていなかった(もっとも西欧も準備不足だが)。

原発の再稼働について考えてみても、国民が健康を傷つけられた大変な事故があったにもかかわらず、その事実は黙殺され、何事もなかったことのように政策が進んでいく。しかし、そのように同意したのが、過去の大衆であり、今のぼくらなのである。「お上の言うことは絶対」であり、無知に甘んじ、啓蒙もせず、諦めと怠惰のため息をつくばかりなのがぼくらの姿なのである。

11.06.2014

ブログデザイン変更 /憂鬱について

ずいぶんとブログのデザインを変えた。十ヶ月ぶりの変更。

昨日までこんな感じだった。

相変わらず、好きなものばかり貼り付けたゴテゴテスタイル。


ここ数日は憂鬱がひどく、学校にも行けていない。昼から酒、ではなく、昼から睡眠薬を飲んで寝ている。ぼくの精神も回復することが必要だ。人間の精神の回復はほとんどが、睡眠によって達成される。ぼくも今はだいぶよくなった。実のところ、あらゆる精神病で睡眠不足が徴候となるのだ。そんなわけでみなさんにも、睡眠薬をおすすめしたい。精神の瓦解を防ぐ予防薬としての睡眠薬だ。

肉体と同じように精神も管理できないものだろうか。ぼくの肉体はおそらく、そこそこ健康と言えるだろう。酒をよく飲むので肝臓は良くないだろうが、健康によいものを食べ、タバコも日に数本なので……。

ところが、精神となるとそうはいかない。世の中の圧力が、精神のコントロールを許さない。ぼくらが閉じこもることは社会的に許されていない。習慣の強制力によって、人の顔を見ることが常に要求される。そして相対するその人も、嫌なことだらけの人生の中で、辛い顔ひとつしないのだから、ぼくも悲しい顔を見せるわけにはいかない。約束された笑顔と笑顔の相互作用の底で、ますます人生に絶望してしまう。

人は孤独になる時間を必要とすることもある、ということをわかってもらいたいものだ。ときとしてその方がずっと温かい。

昨晩寝る前にアンドレ・ブルトン「溶ける魚」を読んでいた。そのせいか、起きる前の半覚醒状態のときになって、ぼくは視点による世界の構築の過程を研究していた。ぼくらの眼前に広がる世界はいかに生みだされるのか。それは当然視るということによって可能なのだが、しかしぼくらの視線は事物の中心しか視ることができない。また視線を動かすときには、ぼくらが思っているよりもはるかに非連続的なものなのである。動画というよりは連続写真に似ている。しかしぼくらは世界を認識している。ぼくらの背後が奈落の底になっているのではないか、などとは思わない。このことの意味は……結局、世界なんて存在しないのではないか、ぼくらが生きているのは人間の感覚器官に都合良く構築される、人間的、あまりに人間的な世界なのだ……。というようなことをもっと深く考えたかったのだが、近くの老人がバカでかいくしゃみをしたので起こされてしまった。

くだらない哲学である。しかし哲学とは高尚なのだろうか。哲学が「人生の大問題」「ひとが考えるべきこと」であるなどという牧歌的なイメージはどこから沸いたのか。哲人たちは、知性の使いどころを間違えたのではないかと思う。オルテガ曰く、
哲学とはひきこもりanabasisであり、自分自身に向かって自己を容赦なくさらけだすことによって、自分自身の収支決算をすることである。他人の前では、われわれは完全に裸でないし、また裸でいることもできない。つまりもし他人がわれわれを見ているならば、その他人のまなざしはすでにわれわれの眼からわれわれ自身を覆ってしまうのである。
つまり哲学はシェンシア(科学)ではなく、インデセンシア(不謹慎なこと)である。というのは、それは物や自分自身をまったくの裸に、一糸まとわぬ姿――物や私の純粋の姿――にすることだからである。厳密に言うなら(sensu stricto)諸科学は決して純粋な認識ではなく、単に物を巧妙にあやつり利用するための実利的技術にすぎない。しかしながら哲学は、物についての恐ろしくも孤独な、そして寂しい真理である。(「個人と社会」より)
哲学は変態趣味のオナニーとよく似ている。 

とまあろくでもないことばかり語ってもしかたない。ぼくはブログのデザインを変えた。デザインを慣習から自由にしたことで、ブログを少し客観的に見ることができた。このブログの存在価値とはなんぞや。ぼくは文章を書くことが好きだが、ただいたずらに吐き出すだけというのも味がない。何かに打ち込まなくては、という気がしている。

精神病患者に紙とペンを渡すと、なにも指示しなくても、延々と書き続けるものなのだという。彼らは紙切れ一枚に、恐ろしく小さな文字で、恐ろしい量の文章を書き上げる。ペンの代わりに絵筆を持たせると今度は絵を描きはじめる。生涯で五百枚の絵を描き上げた患者もいたという。……精神科医たちは、彼らがそれを好きだからしていると思っているらしい。単純な思考である。彼らはかまぼこ工場の従業員が、かまぼこが好きだから仕事をしていると思っているのである。狂気と現実を行き来する患者は、何かを持ち帰ろうとしているのだ。その99.9%はうまくいかないし、うまくいったうちの99.9%は黙殺されるとしてもだ。

私の場合、書くことは身を落とすことだ。だが、書かずにはいられない。書くこと、それは、嫌悪感を催しながらも、やってしまう麻薬のようなもの、軽蔑しながら、そのなかで生きている悪徳なのだ。必要な毒というのがあって、とても繊細な、魂という材料でできている。われわれの夢の廃墟の片隅で摘まれた草や、墓石の脇にとどまっている黒い蝶や、魂の地獄のような水のざわめく岸辺でその枝を揺する、淫らな木々の長い葉っぱで。(「不穏の書、断章」フェルナンド・ペソア)

今すべきことは、知識を身につけることだという気もする。読むこと、書くこと、聴くこと、演奏すること、人生はこれだけで良いと思う。ただ智慧のみが、この人生ですがるに値するものという気がする。金も愛情も、すぐにしぼんでしまうものだ。

智慧は裏切らない。なぜこの世で智慧だけがこうも偉大で、ぼくを惹きつけるのかは謎である。ある人は権力に向かうし、女性の多くは異性に向かう。それもすばらしいことだと思うが、ぼくだけは知性に惹かれるのだ。恋愛もジョークもできない奴がガリ勉化するのと同じ論理かな。アインシュタインは物理学に「逃避」した。

「真実と知性とに濾された夢だけが尊い」とだれかが言った。また、どうでもいいことを書いた。

11.04.2014

人生の停滞感

人生の停滞感が否めない。

ブログを読み返していると、自分でも何が言いたいのかよくわからない。万人に公開されているブログでありながら、文章はひどく読みづらく、読むことを拒絶しているとすら思われる。文章は表現の一形態であり、そのようなものである以上は、ぼく個人の人格をむざむざとさらけだす。つまり、意識の上では読みやすい文章を志しているにもかかわらず、ぼくの潜在意識では、分裂質特有の他者を遠ざけたい心理がはたらいている。これがぼくのブログの奇形的な文章の正体である。ぼくは無意識に言葉で壁を作っているのである(加えて、文章が下手)。

ぼくはこのままだれにも理解されずに「奇妙なおっさん」で終わるのではないか。そのことが怖い。しかし、ぼくはともかく「知」をよりどころにしている。金や、権力でもなく、ただ知を追い求めたいのだ。そのような人間にとって、もはや幸福のもつ価値は崩れ去る。満足な豚よりも不満足なソクラテス、というわけだ。不幸が知の源泉であり、孤独が天才の学校である。ただぼく自身を子細に眺めてみると、実はこれは「不満足な豚」ではないか、という気もしてるのだ。ぼくは人間だと思い込んだ狂った豚なのかもしれない……。まあ、願い続ければきっと人間になれるだろう。ピノキオみたいな感じで。


ところで、「創造と狂気(フレデリック・グロ著、3500円もする)」という書籍の中にぼくのことが書かれていたので引用したい。長いけど。
「彼らは少年時代からその早熟さと、すべてを理解し把握する能力によって目立っている。しかし同時にその気まぐれ、頑固さ、本能的な残酷さ、激しく痙攣的な怒りの発作が目につく。思春期には頭痛やさまざまな神経症の疾患を訴えることが多い。同時に興奮や欝の一時的発作もある。さらに情念に捕らわれた心的傾向の極端なものもある(神秘主義、自慰、漠とした性的願望、旅行熱、偉業の追及など)」
大人になると精神の不安定さは増大し、魅惑的で、独特、エキセントリックで、人を惹きつけるが、危険なパーソナリティが生まれる。さらに創造的だが、欠陥がある。これらの点は以下のようにレジス教授の『精神医学要諦』に明言されている。後にアンドレ・ブルトンが丁寧に書き写すくだりである。
「大人になった彼らは、複合的で、異質の要素からなる存在、バランスを欠いた要素、正反対の美質と欠点からなる存在である。さらにある側面では才能に恵まれているが他の側面では不十分である。知性の面では、時として極めて高い想像力、構想力、表現力を有す。つまり言葉、芸術、詩の才がある。程度の差はあれ、彼らに欠けているのは、判断力、生真面目さ、とくに持続力、論理力であり、知的な生産活動と人生の行為における一貫性である。このためその往々にしてすばらしい資質にもかかわらず、彼らは理性的な仕方では行動できず、ひとつの職業を継続的に勤めることができない。それは彼らの能力を超えているように思える。自分と家族の利害を守ることが出来ず、商売を切盛りし、子どもの教育をみることができない」
幼年から現在までの自己を振り返ってみても、おおむねぼくはここに書かれたような人間である。詩才があるというような点には疑問も沸くが、驚くほど精緻にぼくを描いてくれたという気分だ。

精神医学の本に、典型的なエピソードとして自分と酷似した例を見つけることが正しいのかはわからない。けっこう複雑な心境である。自分のことについて知り尽くしてしまうことが正しいのだろうか?ぼくは「理性を欠き」、「子どもの教育に失敗し」、「家族を守れず」、「職業を転々とする」のだ。自分の運命の行く先が破滅であることを知るのが正しいのだろうか。これはガンの宣告に似たような問題だ。汝自身を知れとは言うが、酷なもんである。

ぼくはヘッセの言ったことを信じたい。人間にはひとつの自我があるのではない。無数の要素によって自我が成り立っていると。だから神経症的な病んだ精神はぼくの一部であり、その他には健常で、普遍的な性質をもった自己があるのかもしれない。そう思うことで、少し希望が持てる。

大衆について

相変わらず前の個人と社会の関係についての考えが頭を離れない。「社会(テーゼ)が個人(アンチテーゼ)を生みだし、止揚され、社会が改革される」という考えだ。

こういってよければ、これはひとつの「思想」ということになるだろう。ぼくにとって思想を持つということは初めての経験だった。だから今、そわそわして落ち着かない気持ちでいる(初めてブリーフではなくトランクスを履いた小学生のような)。

些末な思想の断片であればいくらでも持っていた。資本主義はああだ、精神医学はこうだ、と言ったような、あまりに具体的な借りものの考えはあった。しかし血肉になって馴染んでいった思想はこれが初めてだった。

この思想は新しいものではない。ニーチェやオルテガ、ハイデガー、ポパー、フーコーのような哲学者はかなりの比重を置いて語っているし、文学においても大体個人と社会という関係で進んでいる。とくに、イプセンの作品なんてほとんどこの通りに進む。例えば、こうだ。
「真理と自由とのもっとも危険な敵は、かの堅実なる多数、よいか、この呪うべき、堅実なる、ぐうたらな多数である。……多数が正義を有することは決してない。断じてないのだ!これこそあまねく瀰漫した社会的虚偽の一つであって、これに対しては一箇の自由な思考する人間は反逆せざるをえないのである。……正義とはつねに少数の所有するところのものなのだ」『民衆の敵』

結局、この自国民を叱りつけた「王」は戦地で死ぬ。国民がどうなるかは語られていない。しかし、実は作中で予言されている。つまり、「王は死に」、「民は滅び」、「第三帝国が築き上げられる」と……。これ、ぼくが言った弁証法のモデルとまったく一致している。

ようは、ぼくは人間社会のもうひとつの機構を発見したということになる。あらゆる作品において「生と死」「男女の愛」は人類普遍のテーマだ。ここに、ぼくは「個人と社会」という新しい概念を加えた。ぼくは今までこのことが見えていなかった。いや、社会によって隠されていたのだ。

民主主義的な社会における教育の力がいかに根強いことか!とぼくは驚く。みんな仲良く、個性豊かに、お互い認め合おうというような。欺瞞、欺瞞だった。個性などなかった。個性を発育することは阻害されていた。なぜなら、個性とは社会と相容れないものだからだ。だから、個性を尊重せよと口では言っている教師が、個性的な振る舞いをした生徒をひっぱたいて戒めるという矛盾した教育が行われる(生徒はたまったもんじゃない)。

個性を生まれもった人間はどうすればよいか。個性を捨てて社会に同化するか、個性を保持して社会から離れるかである。個性とは、社会がかかげるAが好き?Bが好き?という命題に対して、少数派となる「B」を選ぶことではない。「C」を選ぶことだ。社会が提供してくれるA、Bを排除して、Cを追い求めるのが真の個性である。しかし社会は動揺する。そんな人間は慣習の破壊者だからだ。そしてまず「慣習」によって、社会はできあがっているのだ。

ぼくは「ゆとり教育」を受けた。幸運なことに、この世代は比較的「個性豊かに」に育てられた(比較的、というだけで真の個性を育む教育とはまったく言いがたいが)。このような世代の人びとは、一般的に社会で「使えない」とされている。その理由を見てみると、終業時間になるとさっさと帰ってしまったり、理不尽な扱いや叱責に耐えられないのだという。

ぼくはよくやった!と思う。彼らは社会に対する挑戦者なのだ。世界的に見れば、従業員を残業までさせてこき使ったり、部下を頭ごなしに怒鳴りつけるなど、非常識極まりない。なぜなら使用者と従業員は対等であるという当たり前の感覚が根付いているからだ。

おじさん世代は、ただ慣習の強制力によって残業を黙々とこなす。部下をねちっこく叱りつける。自分が何をしているのか自覚はないのだ。今までもそうだったし、これからもそうすべきだ、というただそれだけの理由で。この「慣習のロボット化した人間」というのが大衆の正体である。

まあこの話はまた今度。

とにかく、ぼくは新しい思想を身につけたというわけだ。これはぼくが独自に生みだしたわけではない。先ほど言ったように、さまざまな文学、哲学、聖典において語られていることだった。ぼくは鈍感だったので、そのメッセージに気づくのがあまりに遅かったのだ。おそらく多くの人がとっくにこの事実に気づいていることだと思う。

「大衆はアホなのではないか?」

こう思ったことはないだろうか。ぼくも当初は、その疑問を打ち消そうと努力した。「いや、ぼくも大衆の一人なのだから、そんな大それたことは言えない……。」しかし、やはりこのことは、明言することがはばかられるこの疑問は、Yesなのである。こう言い切ってしまうしかない。

もともと、このブログの発端は「世界を変える」ことにあった。その根っこには、原発事故があった。ぼくは事態にまったく対応できていない政府、電力会社や、マスコミに振り回され、衝動的に動く大衆を見てこう思った。「こいつら、アホだ」。実際のところ、こう思わなければ嘘である。あれは大いなる失敗だった。巨大な躓きだった。確かに、少数の英雄は涙ぐましい活躍をしたと思う。しかしやはり大衆となると、アホだった(たぶん同様のことを二次大戦中の賢い日本人は思っていただろう。大衆はアホだ、と)。

身分制度の生きていた江戸時代であればマシだったのかもしれない。武士は武士でそれなりに気高く生きていたし(たぶん)、農民が愚鈍で、商人が卑しくても、それは公知の事実だったからだ。なにもかも現代はごちゃ混ぜになってしまった。そして貴族でも王族でもなく、大衆が勝利したのである。現代社会のさまざまな歪みはこうしたところから生まれている。

長くなったのでそろそろ辞めよう。普通、著名人がツイッターで「大衆はアホだ」なんてつぶやいたら大炎上だろう(炎上とは非常に大衆的な行為だと思う……)。相も変わらずだれも見ないブログなので、こうしたタブーを言ってみる気になった。

11.03.2014

ZACKY - 雑記 - YKCAZ

ぼくは正しい方向に進んでいるのだろうか、と思うことがある。とくに友人たちと話しているときだ。彼らが快活に話す生活のこと……恋愛、結婚、不動産情報、仕事、うまい飯屋について。これらすべてをぼくは捨て去ろうとしている。

ぼくはただ、書物と、音楽と、静かな散歩さえあればもう何もいらないのではないかと思っている。生活の必要事たち(多くのひとがそれに楽しみと期待を抱いている)は、ぼくを現実に引き戻すtroublesomeな厄介事としか思えない。

ぼくの権力意識のなさは人並み外れているようだ。世間的な出世に興味がない。また、出世をしている人にも何も感じない。大学の教授など、朝から晩まで研究して、それでも業績は科学のほんの些末な一領域の前進に過ぎず、給料はそこそこ貰っているが、いろいろと見合わないなあという気がしている。だからぼくは普通の学生のように教授に接することができない。気のいいおっちゃんがいるな、というくらいだ。
分裂病の人びとは、人間の階層のなかでの自分の地位についての現実的感覚を発達することができない場合が非常に多い。それは彼らが、非常に初期の段階で、同輩との誠実な相互作用を止めたからである。(「創造のダイナミクス」アンソニー・ストー)
ははあ。記憶はないけどたぶんそういうことがあったのだろう。

誠実な相互作用とは何だろうか。いわば、社会のルールの中でがんばることだろう。社会とは慣習の集合体であるから……。普通の感覚で、受験戦争に勝ち抜き、就職戦争に勝ち抜き、出世競争に勝ち抜いた人間に勝利が与えられる、そのようなルールの中で生きていくことだろう。社会的な人間(彼らはトークスキルと清潔さ、手入れの行き届いた髪で判別できる。髪は社会性がよく表れる)は本当にそのように生きてゆく。

また、楽しむことにしても、彼らは本当に単純で、ライブ・イベントとか、ちょっとお高いレストランが最大の楽しみなのである。間違っても、ストラヴィンスキーに異様な恍惚を感じたり、ペソアを読んで「これは自分だ」なんて思わないわけですよ。

でも、実際彼らは鈍感だし、その分幸福になれるだろう。

ぼくらの不幸と美的感覚は親戚であって、元を辿れば感覚の鋭敏さにあるのだ。閾値が低いのだ。ぼくらはちょっとした刺激でも痛むのだ。不幸にできているのだ。

……そういえば、昨日「はたらかないアリに意義がある」という新書を読んだ。大変感心した。はたらきアリの集団には必ず二割だけサボっているアリがいるがあれは生物学上何の意味があるのか、ということだった。

はたらかないアリは「はたらかなくては」と思うまでの閾値が高いのだと。人間でも、部屋が少し汚れただけで掃除を始める人がいれば、多少汚れても気にならない人がいるのと同じだ。はたらかないアリは巣に危機が訪れると「そろそろやべえな」と働き出す。これによって、結果的に巣の存続は長らえる。まあ細かい理由は忘れたが、彼らにも意味がある、という結論だった(適当)。

ムシ社会を人間社会に単純に当てはめることはできないが、ぼくらの神経が鋭敏であることにも理由があるに違いない。単純に言って、極わずかな色の違いが判別できる人間は有用だろう。音感を持っている人間は有用だろう。芸術とはすべて微細なバランスを要求されるものである、少し多くてはダメ、足りないとダメ、というぎりぎりの境界上を目指さなくてはならない。その意味では「鋭敏者」は芸術向きである。(職人向き、とも言える。語源を辿ると芸術家と職人≒技術者は同義だ)

また社会的意義としては、小さな変化に気づけるため、予言者として機能するのではないか。というとスピリチュアルだが。例えば山のささいな変化や、地鳴りに気づいて土砂崩れを予言したりということはできるだろう。現代社会においても遠からぬ経済崩壊を予言する、などに向いているのかもしれない。

ぼくらは不幸に生まれたが、そのことに意味があるに違いない。その意味に気づけないとすればそれが本当の地獄だろう。ぼくの知人は、自殺してしまったり、人生に意義が見いだせず引きこもってしまう人がいた。ぼくも過去の自分は地獄にあったと思う。このような人にとって必要なことは「幸福」ではなく「意味」なのである。

何が言いたいのかよくわからない。今日はだいぶ適当に書いた。そういう気分。

11.02.2014

個人について

偉大な哲学者、芸術家の作品に触れ、また天才を研究したパトグラフィーや論文を読んでいて、頭をつかんで離れない疑問があった。なぜ彼らは孤独に引きこもろうとするのか。また、大衆を軽蔑するのだろうか?

これらの理由が昨日わかった。「社会があって次に個人が生まれた」という事実を思い出していただきたい。個人とは、社会のアンチテーゼなのである。ということは、個人おのおのが個人おのおのとして存在しようというとき、大衆であること、社会に属することを少なからず拒絶しなければならない。その性質は根本的にアウトサイダーのそれなのだ。

この事実は社会構造を一変させる。よく言われるように、社会は個人が参与し、構成するものではなくなった。そもそも個人とは希少なものだからだ。反対に、社会が個人を生みだす。そして生みだした個人の手によって崩壊し、新しい社会に導かれる。

社会は大衆が支えるのであって、ここでいう「個人」とは別物だ。無論、社会の構成員それぞれが別の肉体を持ち、特質を持っていることは認める。しかし、例えば、田舎の閉鎖的な村に行ったことがあるならわかるだろう。村全体が一つの意志を持っており、村人たちは村というひとつの組織体のロボットのように動く錯覚を覚えるものだ。「村の掟」や「村長の命令」には盲従する。あのように意志を持たず揺れ動く人びと、指導者がいなければ何もできない頭脳を欠いたような生き物、それが大衆である。

E. フロムによれば、第二次大戦でもっともホロコーストに賛同し、ユダヤ人の虐殺に貢献したのは中産階級の下層だったとされる。つまり大衆だ。このように、自分で物を考えられず、自分が何をしているのかわからない、ということが大衆のひとつの性質なのだ。

ところで、個人=天才たちは反社会あるいは非社会的存在でありながら社会と接しないわけにはいかない。

第一に、まず社会のおかげで彼らは生まれたからだ。病跡学によれば、天才は高度な教育を受けた裕福な家庭で生まれやすい。発展途上国や貧乏な環境にあっては、才能の芽は摘まれてしまう。彼らは労働に不適な痴愚として扱われる。優れた教育を受け、思想する自由を与えられたことによってはじめて天才的な思想が生まれる。成熟し、安定した社会の余剰にこそ叛逆者たる天才が生まれる、と言うことができるだろう。

また、アウトサイダーであるところの個人も、社会から完全に逸脱することはできない。「人間は一人では生きていけない」という事実は、言葉通りの事実だからだ。だから個人の仕事は、社会を変えることになる。

結果的に、社会は生みだした個人によって止揚される。テーゼであるところの大衆=社会があり、アンチテーゼの個人=天才がある。そして社会は変革されるのである。社会はそのようにしてより良い方向に進んできた。社会が病んでいるとすれば、それはもはや変化しないということなのだ。

簡単なモデル図を描いてみた。雑な仕事。

もう少し展開できる考えだと思う。例えば、成熟した社会で精神病が増えるのはなぜか?なんて興味深いテーマじゃないだろうか。ともかく、今日はここまで。

ところで、このような意見は、ぼくの耳に都合がいいから発しているわけではない。ひとつの事実であり、個人的には重要な気づきだと思っているから文章にまとめている。このように読者の少ないブログだから、どんな稚拙で未熟な論でも、言ってやろうというわけだ。まあ生暖かい目で見守ってください。

続き? ⇒大衆について

11.01.2014

社会から個人が誕生したという事実について

「個人が感動すれば、社会は動揺するのよ」(すばらしい新世界/オルダス・ハクスレー)

最近ひとつの事実を知って、いろいろ納得いくことがあった。

「人間一人で生まれて一人で死ぬ」というような成句があるが、あれは嘘だ。なぜなら、ぼくらは必ず母体から生まれるからだ。その時点で母親という他者があり、一人ではない。そしてたぶん父が近くにいただろうし、産婦人科医、助産師、あとは看護師などの数多くの視線に見守られてぼくらは生まれた。

人間の出産は哺乳類の中でも大変な難産である(頭がでかすぎるのだ)。そして人間は極めて未熟な状態で生まれる。この二つの事実がぼくらを生まれながらにして社会的存在としている。ぼくらのその生まれは大変な愛情と視線に囲まれている。

かのベストセラーは「はじめに言葉ありき」で始まるがその通りで、ぼくらの生まれでた瞬間、すでに言葉が辺りを囲んでいる。「男の子ですよ(今は超音波でわかるから言わないか)」「私の可愛い子」でもなんでもいいが、大仕事を終えた母親、職業人たちが何も言葉を発しないとしたら不気味である。また、母親は子どもに語りかけるようにできている。これは慣習というよりは本能的な行為で、どのような民族にあっても、また高度な社会においても母親は赤子に言葉をかける。そして、言葉とは社会の始まりである。ぼくらは母胎から離れて孤独だったのではない。社会という新しい母胎がすでに身を包んでいる。

ぼくが言いたいことは、人間の持つ社会性は後天的に教育などによって身につけられるものではない、ということだ。本来、社会性は極めて先天的に近い性質だ。子どもは泣くことによって母親から乳をもらえることを知っている。これはひとつの社会性である。

ところで、社会性は人間固有のものではない。サルやゴリラの群れを観察してもそこには社会がある。だいぶ本来の意味から離れるが、アリやハチ、あるいはカビのような真菌類についても社会があるとされている。また、どんな未開の部族を探してみても、共同生活を営まない人間はない。

それでは人間と動物の社会は何が違うのだろうか?動物も社会を持っているなら、人間の社会とどこが違うのか。ここが重要な点だ。サルの社会構造は普通、永遠に変わらない。ゴリラたちが「明日からは投票でボスを決めます」なんてやり始めたら動物学者は困惑するだろう。ところが人間の社会は揺れ動く。投票で議員を決めましょう……次には女性にも投票権を……というわけだ。

人間社会と動物社会をわかつ点、それは「絶えず揺れ動き、進歩を目指している」ということである。このことが人間を地上の王者たらしめてきた。その分、陰惨な戦争もあったが……。ともかく、ぼくらの社会は内部から揺れ動き、そのことによって前進するのである。

人間はなぜ人間固有の社会、「進歩的な社会」を持つことができたのか。それは、実は個人が社会から逸脱することによって可能になったのだ。つまり、ぼくらは高度な記憶力と抽象化能力を持っており――それは大脳皮質が可能にするのだが――そのことが、絶えず社会から離れられないぼくらを一時的に内面世界に避難させる。このことによって初めて、空気のように身を取りまいていた社会を対象化し、批判する精神を持つことができるのである。孤独人が社会を動かしたのだ。例えばムハンマド、キリスト、仏陀は、いずれも真理を得るまで長い間隠遁した。

端的に言ってしまえば、ぼくらは孤独に引きこもることによって社会を揺り動かすことができるということだ。一方で、孤独に引きこもることを知らない人間は……高度に社会的ではあるものの、サルやゴリラのような動物と大して変わらない、ということになる。動物は孤独に引きこもることはしない。人間の本態は社会性にあるのではない。孤独にあったのだ

この考え方、つまり人間は初めから社会的存在だったのであり、その気になれば永遠に「個人」になることなく死ぬことも可能であり、ただ内面世界という高度な知性のなせる業によって人は創造性を育み、社会進歩に貢献できる、という考え方は、ぼくの頭の中に一条の光を差してくれた。

フロイトはある民族を研究していて次の事実に大変驚いたという。
集団の心理とは最古の人間心理である、われわれはそう結論づけねばならない。集団の残渣をすべて軽視し、その上で個人心理としてわれわれが孤立させたものとは、もともとの集団心理から、後になってようやく徐々に、いわば依然として一部だけその輪郭を浮かび上がらせたものなのだ。
今となってはこのことをすんなり理解できる。個人が集まって社会を作り上げるというモデルは虚像だった。社会が始めにあり、そこから個人が誕生したのである。


個人的にこれはコペルニクス的転回だった。「社会から個人へ」。これでいろんなことが腑に落ちた。人間は社会を抜け出し、個人になるのだ。


賢明な、または高貴な一切の事物の創始は、個人から出てくるものであり、また個人から出てこざるをえないものである。(「自由論」/J.S. ミル)
孤独――社会に逆らい社会を越える強さを個人に付与する条件 (「一次元的人間」/マルクーゼ)
存在が無を凌駕するように、個人は集団を凌駕する。(「自由と社会的抑圧」/ヴェイユ)

続きっぽいの⇒「個人について」