1.31.2015

ニート礼賛

最近の自分の記事はずいぶん甘ちゃんだなあと思う。おそらく政治が公正だったことなど過去においてはまれだし、マスメディアが演劇になるのはゲッペルスの時代から変わらないのだろう。

「報道」とはルポタージュ・フォトの訳語だが、なぜ道という言葉がつくかというと、言葉によって導く、という意味があるからだ。報道によるイデオロギー形成は甚大であり、当時から経済的・党派的宣伝になることが知られていた。だからプロパガンダや虚偽広告とは切っても切り離せない関係にあるのだ。報道とはそもそもが畜群を導くものである。

政治は中立的であってはならない、政治においては真実など何も価値もない、と自分で言っておきながら、政治がさてもぞもぞと不愉快な動きをしだすと、「こいつらは何をやっているのかわからない!オソロシイ!」と悲鳴をあげだす自分が情けない。

というのもぼくにはある種のイデオロギーが作られていたのであり、マスメディアは三権を監視する第四の権力であり、政治家は民主主義によって選ばれた人民の代表であるという牧歌的なイデアを、この年まで維持してきたのだ。

もともとぼくは政治という世界が大嫌いだった。おかげでお花畑を脳内に描いていたのだが、今となっては知れば知るほど虚偽だらけ、失望しかない。おそらく、国民が政治に関心を持たないのは関心を持つとアラだらけだからだろう。国民の政治的無能化が行われているのもそれが都合がいいからだ。

もはや新しい前提に立たねばならないということだ。つまり政治は虚偽、マスコミは演劇、人民は畜群。支配する人される人。「そうなのではないか」ではなく「そうなのだ」と思ってしまわなければ……いつまでもうじうじと希望を持ってはいけないのだ。

私の見るところ、いったん小事に関心を向ける習慣が身につくと、精神は永久に汚れてしまい、その結果、われわれのあらゆる思想は小事の色に染まることになる。われわれの知性そのものが、いわばマカダム工法で舗装される――つまり、知性の基盤が粉々に砕かれ、その上を旅の車が転がってゆく――ことになるわけだ。(「市民の反抗」ソロー)

結局、政治だのマスメディアだのは、バカの集まりである。本質的にあいいれない集団なのだから、そんな連中のことを考えるのは時間の無駄だ。アホの連中に振りまわされるほど人生に余裕はない。

ぼくは本を読みたい。本を読んで、思想を身につけたい。知識を充実させ、豊穣な魂をもちたい。音楽を聴き、楽器をより鍛錬し、魂の息吹を表現したい。個として独立したい。個として独立した人間には、政治も、マスコミもない。個人は組織より強い。個人はつねに集団を凌駕する。

であるから、日常の些末なこと、バカが戦争を起こしたがっているとか、バカのせいで市民が死にかけているとか、気にかけてはならないのだ。

ぼくの知人には優れて霊感高くまた知性にあふれた人間がいるのだが、彼は首切り画像など少しも関心がないらしい。まあ平常運転ということだろう。いまさらになって喚くぼくは恥ずかしい人間なのである、ふつうの人間であれば二十歳くらいにはもう悟っていることなのだろう。

知の豊穣ということを考える。

昨日は雪が降ったのでわざわざ歩いて床屋へいった。雪を踏みしめ白い息を吐きながら歩いているとそれだけで自分が人生の勝者になった気がする。幸福はこうした日常と日常の間にあるのだろう。

床屋へいって、人生相談をしてきた。つまりぼくは労働に向いていないので、この先の人生が不安だ、ということだ。床屋のお兄さんは大笑いした。

不思議なもので、「ぼくは有能だからバリバリ仕事がしたいんです」といういわゆる意識高い系人間は、嫌悪感を催すが、「ぼくは無能だから仕事したくないんです」という人間には、好意が沸く。このときの感情は不思議である。

単なる自虐ネタに対する好意だけでなく、ある種の尊敬の念をももってしまう。労働に向いていない、とはけっこうcrucialな言葉である。

つまり、人間が生きていくためには必ず必要な「労働」、社会の一員として認められるために18歳や22歳までに整えておかねばならない「社会適合」を持っていないと宣言すること、社会不適合であり、人生において損害と不幸しかないことを認めるということはなかなかできることではない。自分は社会的な脱落者であり、それだけに世界を外から見る視点を持っている、イデオロギーを倒壊させるだけの力を持っている、ようなニュアンスがある。

つまり彼は世界の外に立っており、その意味では異邦人であり、永遠なのである(また勢いで意味のわからないことを書いている)。

世間的には労働において無力であることは、恥ずべきことである、それだけで非国民的な烙印を押されるものである、「働くことのできない」ニートはこれまでメディアを通じてさんざんバカにされ続けてきた。

しかし思うのだが、現代社会において労働とはlaborであってworkではない。日本の労働環境はおそらくOECD中で下から一、二位を争うだろう(たぶん韓国と)。つまり「やりがい」なんて詐欺でしかなく、生活における重荷でしかなく、サラリーマンは家族や生活を守るために粉骨砕身はたらくしかないのだ。

その意味では最終的に鬱病や重篤疾患でドクターストップがかかるような「労働適合者」たちは、かならずしも勝ち組ではない。社会適合者=リア充が勝ち組で、不適合者=非リアが負け組という図式、これもイデオロギーである。

というのも、働かない人間は脅威なのである。uncontrollableな人民なのである。さんざん義務教育の過程において、「社会の一員として活躍しよう!」と洗脳してきたにもかかわらず、それが「無効」だったということは、単なる落伍者を意味するのではなく、ある意味では「強者」であり、「叛逆者」なのである。

だからぼくらはニートを見ると蔑み、彼らは弱い人間なんだ、と思うかもしれないが、ほんとうのところでは、まじめに働いて順調に生きている人びとこそ「意志の弱い」畜群であり、「働いたら負けだと思っている」ニートたちの方こそ、強靱な精神をもっており、真理に近しいということもありうるのである。

上述したようなイデオロギーがはびこっているので、たいていのニートたちは自分は弱い人間なんだ、自分は間違った人間なんだ、と思っている。ここにイデオロギーが勝利する。強固なイデオロギーに支配されてしまったニートたちは、しまいには精神を病んだり自殺してしまう。

ニートたちは「病気」であるとされ、抗うつ剤や抗不安剤を飲まされ、カウンセリングを受けさせ再教育を施し、まっさらな社会適合者に矯正される。しかしこれでいいのか、とはだれも思わない。

ぼくはニートを礼賛する。現代社会において、彼らこそ人間だからだ。彼らこそ間違った人間像にノンをつきつける人間だからだ。そうして、イデオロギーを憎む。画一化した価値観を憎む。

「ある種の精神にとっては一粒の小さな狂気のほうが、わずかな貴族の血にまさるだろう。半狂人がいなくなったあかつきには文明社会は滅びるであろう。溢れる知恵によってではなく、溢れる凡庸さによってである。これは掛け値なしに断言できる」
キュレールにとって、天才と狂気は、完成した文明と、媒介物の増殖が創り出したものである。罰を受けずにはおれないのだ。未開文明に天才はいないが、狂気もない。キュレールにとって天才と狂気は「歴史の操作手(オペレーター)」である。(創造と狂気/F.グロ)

1.30.2015

責任の所在

社会は有機体であるとする。

社会が機能不全に陥るとすれば、それは人間の身体が病気になったようなものである。

現代医学においては、病気の原因はあるていど解明されている。がんという病気は細胞の異常増殖であるし、喘息は自己免疫による気道収縮であるし、脳卒中は脳内の血栓の梗塞あるいは出血が原因である。

このように、一部の器官の失調が、全体としての機能不全を生むのが「病」の基本的なルールだ。

日本人が原発事故において責任をとらなかった、という事実は奇妙なものだと思う。胃がんになったならば、胃を摘出するか、放射線か抗がん剤で攻撃するものだ。しかし、それを行わなかった。なぜか。

そこに悪はなかったのか。悪は、あった。東電、政治家、行政機関、マスコミ、学会、あらゆる分野に悪はあった。しかし、範囲が広すぎたのではないか。おそらく、それぞれの悪は、軽微なもの。ちょっと論文をつごう良く改竄したり……軽微な事故をごまかしたり……子どもじみた小さな悪が、つもりつもって前代未聞の大事故を起こした。

そう、子どもじみているのだ。だれもかれも、自分が何をしているのか知らず、自分の行為がどう結果に結びついたかも、わかっていない。おそらく彼らが全員、「俺は悪くない」と思っていることだろう。

外部の人間がどうこう判断できるものではない。当事者自身が、自分のしたことをわかっていないのだから。原子力規制委員を解体したところで、解決にはならないだろうし、東電社長を逮捕したところで、何も変わらないことは事実だろう。

つまりぼくらが対峙しているのはひとつの蜃気楼であって、とんでもなく巨大であるのだが、近づくと霧散してしまうような、手応えのない悪なのである。

ぼくは陰謀論を信じないが、信じたい気持ちはわかる。陰謀論とは、以下のようなものである。「大地震はアメリカによる民主党政権に対する制裁であり、人工地震である」、「放射線による人体実験を行うために、ユダヤ人が陰謀し、わざと多数の市民を被爆させた」というようなもの。

これらを完全に否定するだけの情報をぼくは持っていないが、たぶん、妄想だろう。しかし、こうした妄想や飛躍した推論が生じてしまう過程は理解できるのである。

ぼくらを襲ったのはたしかに巨大な悪である。そうして、巨大な悪が、漠然とした小さな悪のつみかさね、意図なきものだったとしたら、ぼくらはどうすればよいのか。ぼくらは、だれの責任も問えないではないか。ぼくらは、ただ漠然と、人間は愚かな生きものだ、と諦めるしかないではないか。

わかりやすい敵を作る。これによって人びとの感情は落としどころを見つける。しかし、これも罠なのだろう。人間は思考するが、その思考を阻害するような落とし穴はいたるところにある。そこで人間は考えることを辞める。注意深く、警戒しなければならない。安住できるところこそ、危険なのである。

アダムスミスの「見えざる手」はミクロな経済の動きを示すものである。個々人の利益追求が、健全な経済を生む、という考えだ。これを転用すれば、個々人の小さな悪が、積み重なって巨悪を生むということもありうるのだろう。それはあたかも神が「見えざる手」で歴史をコントロールしているかのようである。

おそらく、悪は全身に転移しているのであり、切っても意味なし、全身作用の薬もなく、ただ免疫や代謝による自浄作用を望むしかない、という状況である。

自浄作用は、たぶん、何十年もかかるのだろう。つまりぼくらや、ぼくの下の世代が、歴史をきちんと学び、各々が「過去の人間たちは最低だった」と知ることで、少しずつ変化していくのだろうと思う。

その意味では、現代はひとつの転換期にきている、と感じる。

おそらく、甲状腺ガンは増え続けるだろう。甲状腺ガンは予後のいいガンだが、手術で甲状腺を全摘しなければならない。そうなれば、一生甲状腺ホルモンを飲まねばならない。首筋に手術痕も残る。それに、甲状腺ガンは肺に転移しやすい。いったん転移してしまえば、根治ははるかに難しくなる。

それに、放射能の影響は甲状腺にとどまるものではない。甲状腺ガンはヨウ素131によって起こされる。当然、日本にばらまかれたのはヨウ素だけでなく、ストロンチウムや、セシウムが放出されていることをぼくらは知っている。セシウムは筋肉に、ストロンチウムは骨に蓄積する。そうして、はるかに厄介なα線を放出するウランやプルトニウムもばらまかれた。おそらく甲状腺ガンに相当するようなガンや機能不全が起こるだろう。

本当にやるせないことだが……まず被害を被るのは、子どもたちである。そもそも妊婦が被爆すると胎児の奇形の原因となるし、細胞分裂の活発な新生児においては、ガンのリスクも数倍高くなる。

子どもは死に、母親は嘆き悲しむだろう。これは「放射脳」ではない。おそらく現代の科学で、中立的な立場で考えると、こうなると考えることが自然であるし、現実として、福島近隣の甲状腺ガンは増える一方である。

女たちが悲しむとき、世の中は変わる……と、せめてこう信じたい。女は種を守り、男は個を守るからである。世界は、女たちの涙から変わっていく。これもまた、「見えざる手」の作用である。善が悪を駆逐する、そのような瞬間をぼくらは目の当たりにできるのかもしれない。

国家が終わるところ、そこに、はじめて人間が始まる。余計な人間でない人間が始まる。必要な人間の歌が始まる。一回限りの、かけがえのない歌が始まる。
国家が終わるところ、その時、かなたを見るがいい、わが兄弟たちよ!あなたがたの眼に映るもの、あの虹、あの超人への橋。
ツァラトゥストラはこう言った。

1.29.2015

見えざる手

世の中が汚い、醜いと考えてみても始まらず。日本国民が騙されているのだとか、洗脳されているとか、喚いてみても、空疎である。

ぼくは陰謀論者ではない。ユダヤ人が牛耳っている……というような、安易な答えに飛びつきたくはない。しかし、個人個人の悪意や怠慢が積み重なったときに、自然的に陰謀が発生することもありうる。それはアダムスミスの「国富論」のように、個々人の利益欲求が、「見えざる手」を作りだすかのようにである。

ウォルフレンの指摘するところによれば、日本の官僚たちは個々人のレベルでは非常に優秀で誠実なのだという。しかし、彼らは自分の在籍する省庁の権限を優先するあまり、国益を損ねることが多いのだそうだ。ここで興味深いのは、彼ら官僚たちは私欲にかられているのではなく、「ほんとうに国益のことを考えていた」ということである。つまり、省庁の権限を増幅することこそが国益に繋がる、というドグマが彼らを支配しているのである。

国益のためと信じて行動するが、かえって国益を損なう。そこには思考停止や倫理観の欠如がある。それはぼくらにも日頃持ちうるレベルの誤謬である。よかれと思ってやったことが、必ずしも良い結果を生むとは限らない。たとえば、子どものためを思って積極的に援助したが、それが「お節介」であり、子どもの健全な発育を妨げた、というようなことはよくあるだろう。

個々人の小さな倫理観の欠如、これくらいはいいだろうという逸脱が積み重なって、大きな流れを生むこともありうる。そして、大きな流れが大きなシナリオを生む。これは日本ではよくあることだ。

端的にいえば、原発が爆発したところで、だれも責任をとらないのである。ぼくは3.11からの報道を見ていて、もしかしたら、だれも責任を取らずに終わるのではないかな?という気がしていた。というのも、テレビに出てくる連中全員が「俺、悪くねーし」という顔をしているからである。それは現実になった。

おそらく、責任を取らないというより、取れないのだ。だれもが少しずつ悪さをしている。その悪さは、彼らの感覚からすれば、60km/h制限のところを70km/hで走った程度なのだ。「ほんとうに悪いのはあいつだ」という連鎖が、円環になっていて、もはや収拾がつかない。だから、ぼくらは口を揃えてこういうしかない。「原子力ムラが悪かったのだ」。つまり社会有機論ではないが、ぼくらは責任の所在を、原子力ムラの「見えざる手」に求めなくてはならないのである。

ともあれ、国民は日本のメディアの策略にまんまと引っかかるもののようだ。これは昔からそうなので、いまさら嘆いてもしかたないのだろう。大衆は、やはり、バカなのである。大衆は、バカにされているのである。畜群なのである。

ぼくが「Kenji Gotoはそもそも何ものなんだ?どうもただ者には見えない。ぼくらと同じような平凡な日本人とは思えない。それがKenji Gotoに共感できない理由だ。」というようなことを学食のからあげを食いながら言うと、学生諸氏は「ゴトウケンジはゼンリョウなるジャーナリストである」という大本営発表を繰り返して、うーむ、となる。最終的に錯乱したぼくが「あいむちゃーりー!」と叫ぶと「不謹慎だ」と冷めた口調で戒められた。

だから、ぼくは最近学んだのである。日本の大衆はバカで、メディアは容易に彼らをコントロールする、ということを、学んだ。もうこのことは前提であり、これに逐一憤慨することは、ぼくの血圧をあげるだけだということを、学んだ。大衆はアホで、騙されている。今後も騙され続ける。こんな当然のことを叫んでも、何も変わりはしないのである。

ぼくはすでに3.11でこれを学んだ。メディアは、大衆誘導のためのもの。政府は国民の生命をなんとも思っていない。

今日はたいへん酒を飲んでいる。ぼくはつねづねこう思う。コーヒーを飲んだとき、つまり交感神経が活性化されたときにぼくは夢を見ていて、抑制系のアルコールがはたらくときには、かえって現実を見るのである。

ぼくには、いま、やっと世界がクリアに見える。大衆はバカだ。もはや片鱗の同情も希望もあってはならない。大衆はバカで……ぼくは無力で……そうして、犯人はいない。これが事実なのだろう。人間はすべて、病気なのである。ぼくはこう思う。何もかも、救いようがない。正しい道だろうと、地獄への道だろうと、人間にはただ、漫然と進むことしかできないで、世界の行く末は、盲人の卓球に等しいのである。

また、くだらないことを書いた。何にもならない代物だ。

戦争はつねに嘘から始まる

最近の演劇はもう飽き飽きしている。新鮮味がない。

いま思えば、五十カ国の首脳がデモに参加というのはひとつの象徴だったと思う。みなさん足並み揃えていきましょう、仲間はずれは許しませんよ、騙しましょう、儲けましょう、という新年会だったのではないか。

パリでは実際にひとが殺されているので、それは残念だった。しかし、いま話題の人質については、本当に殺されているのか?という気がする。写真も、怪しい……。画像一枚というのはどうなんだろう。ネットに転がってる首切り動画のように動画としてあげなかったのは「大人の事情」があったのだろうか。

だいたい彼らが何ものなのか、という点も謎である。いったい彼らは何を目的として中東に乗り込んだのか。ぼくらと彼らの接点は「日本人」というだけである。もしも彼らが一般的な旅行者だったら、おおいに憤慨すべきだろう。

しかし、実際は、彼らは中東に人殺しをしにいったのかもしれないし、政府の密命を受けていたのかもしれないし、劇団員の仕事を任されていたのかもしれない。そこが読めないので、唐突に「勇敢なジャーナリストだったんです!」と一斉報道されてもピンとこないでしらけてしまう。

それだけならまだしも、記者クラブで世界的に悪名高い日本の談合メディアが「これは報道の自由に対するテロだ!」なんて声明を出すと、悪い冗談としか思えない。

政府やマスコミは、とにかくシンプルな図式にしたいらしい。シンプルな方が畜群をコントロールするにはよい。恐怖という名の黒い犬が羊の群れを追いかける。

歴史はこうして作られるのか、という気がする。将来の教科書には、イスラム国がテロや誘拐をしたので、西洋諸国に懲らしめられました、とだけ載るのだろう。桃太郎レベルだな。


戦争は常に「嘘」から始まる。

さいきんはもうアホの演劇がつまらないのでぼくの生活も一種の虚脱モードに入っている。

こうして強制的に演劇を見させられているというのが、ひとつの事実である。だれもかれもこの演劇を楽しんでいる。これは演劇だ、と気づいていても、注目させられているという点で、こうしてつらつらと書いている点で、敗北なのである。
「クソコラグランプリ」は痛快な芸術だ。
どうでもいいものは、茶化して遊ぶしかないのだ。
とまえに書いた。ぼくはクソコラグランプリにおおいに共鳴した。大げさに言ってしまえば、日本のもつ底力に驚嘆した。それは一連の演劇のもつ引力を突きはなすものだったからだ。フランスの低俗な風刺画の何千倍も健全である。

クソコラの一例。

おそらくユーモア、茶化すということこそ、人間のもつ最高の武器なのだろう。

より美しい世界を求める願いは、いつの時代にも、遠い目標を目指して三つの道を見出してきた。第一の道は俗世を放棄し、美しい世界はただ彼岸にあると信じて、その神の国へ至ろうとする道である。それに対して第二の道は現実の世界を改良し、完成させることをめざす道であり、人々がこの道のあることに気づいたのは、ようやく十八世紀に入ってからのことだった。第三の道とは、夢見る道、すなわち現実の生活の形を、美しい「芸術の形に作りかえる」というそのような道である。それは、「芸術作品のなかに、美の道が表現されるというだけのことではなく、生活そのものを、美をもって高め、社会そのものを、遊びとかたちで満たそうとする」生き方。(「中世の秋」ホイジンガ)

ホイジンガの言った「社会そのものを、遊びとかたちで満たそうとする」という記述が、クソコラグランプリと合致すると思う。まあ、ちょっと褒めすぎかもしれない。

フロイトによれば、人間のもつもっとも高次の防衛機制が「ユーモア」であるという。ショーペンハウエルによれば、「朗らかさだけが幸福のいわば本物の貨幣である」と。

われわれは、もっと笑わなくてはならない。笑う人間だけが人生の勝者なのだ。


最近知ったことだが、日本語のもつリズムは8ビートなのだという。例えば和歌の七五調は8ビートである。これがアメリカだとジャズに代表されるような4ビートであり、フランスでは3ビート(ワルツ)で、ドイツだと2ビートになるのだという。

日本では「パソコン」「ケータイ」「ニッポン」「けいおん!」などのような4シラブルの単語が好まれる。西欧国においては、4シラブルの言葉を好むのはラテン系の言語に限られるらしい。つまり「ソナチネ」「ソノラマ」「マカロニ」「ロザリオ」などである。

単純な憶測だが、日本人のもつもともとの血は、ラテン系に近いのかもしれない。ということは、陽気でくよくよ悩まず、よく笑う人間である。

いまの日本人は、勤勉だがユーモアに欠けるとよく言われる。このような性質は、戦後作られた性質で、ほんらいの日本人からかけ離れたものなのかもしれない。

「変わり兜」
こういうものを見ると
日本はかつてユーモア大国だったのでは……と思ってしまう。

うさぎと侍はよくマッチする

1.26.2015

「どうでもいい」人質事件

学校へはいったものの、またひとぎらいの発作が出てしまい、今日は休むことにした。

大学生という存在が、いよいよ肌に合わなくなったらしい。どいつもこいつも、バカみたいに見える。もっとも、昔の自分もバカな学生だったのだが(今もか?)、だからといって不快なものは不快だ。

駐輪場でバイクにエンジンをかけていると、うすのろの警備員がじっとこちらを見ている。腹が立つので、じっと見返してやったら、目をそらした。警備員とは何様なのか。何をもって衆人を監視するのか。もちろんそれは仕事だから、なのだろうけど。たまに自転車やバイクにいたずらされるのと、気持ちの悪いおっさんが日がな一日立っているのとどちらが良いだろうか、とはだれも考えない。

不要だ。この世は不要なもので溢れかえっている。

大学の友人は進学することになりこの大学にあと四年も過ごすのだという。かわいそうだと思う。もうこの街も、大学も、学生も、警備員も、うんざりだ。ぼくの肌に合わない。中身のないものに体裁を整えて魅力的に見せているのは商品だけでなく人間たちもだ。価値のあるものがない。

離れられないということ

四月から環境ががらりと変わってド田舎に行くことを考えると気分がいい。しかし、ド田舎だろうと、人間は腐っているだろうし、生活は辛いのだろうと思う。もうこのへんのことは、あきらめた。

他者との距離はずっと大きくなるだろう。それは物理的な意味でだ。隣家まで遠い、というだけで、ぼくの血圧は下がっていく。その点はよい。しかし田舎の方が人間関係は煩わしい、とよくいわれている。

物理的に遠くなれば、精神的に近くなるもののようだ。東京は反対で、精神的に遠くなるが、物理的に近くなる。新宿駅へ行ってみよ。朝八時の中央線に乗ってみよ。肉体の近さと心の隔絶を如実にかんじることができると思う。

けっきょく、人間は人間から離れられない。田舎だろうと都会だろうと変わらない。それが社会のシステムだ。

権力は、必ず、他者を縛りつけ、離れられなくする。「離れられなくする」という言葉が、さいきんひどく重要のようにおもう。ひとがある個人、組織や社会から離れられないとき、そこに権力が発現している。



「どうでもいい」人質事件

たとえ他者から自由になったところで、ぼくは日本人であることを辞められない。イスラム国で日本人が処刑された。こんなことは、正直いって、どうでもいいことだ。人なんてそこら中で死んでいるし、殺人事件もめずらしくはない。

しかし、ぼくが日本人であるというだけで、こうしたニュースに関心が行ってしまう。それは、ぼくが国家に守られているからであり、それだけでなく、国家がぼくの生殺与奪を掌握しているからであり、ぼくの精神は、首輪をつけられているからであり、こうしたニュースから離れることができない。

日本の行く末なんて、死ぬほどどうでもいい。ぼくはぼくの人生しか興味がない。そうであるのがすべての人間の自然的感情であるのに、教育を通じて、メディアを通じて国家が介入してきて、コントロールしようとする。国と国民の「絆」、つまり家畜を逃れられなくする綱は、かたく結ばれている。

「クソコラグランプリ」は痛快な芸術だ。
どうでもいいものは、茶化して遊ぶしかないのだ。

日本が戦争するとする。イスラム国程度であれば、アメリカや日本の軍産が儲かって、自衛隊員が殺されて終わるだろう。それだけで済むならまだましだろうが、ほんとうにそれだけで済むのか、という気もする。

仮に、全面戦争となったとしたらどうだろう。たとえば日英米vs中露というようなモデル。ぼくらの生活は破壊されるだろう。「わだつみの声」の学徒兵たちのように、本を読むことができないことが苦痛で、新聞の少しの活字に慰められる、という生活になるのかもしれない。それならまだいいが、核ミサイルで一度に蒸発してしまうということもあるだろう。

国家という存在が邪魔くさい。

最近の政治の動きを見ていると、ほんとうに国家が邪魔くさいと思う、ぼくの生活に緩衝しないでどこか遠くでやってくれ、と思う。

安部ちゃんがヒトラーみたいな悪者にされているけれどそれは近視眼的だ。本当に悪い人間は表にでてこない。

棄民政策なんていつの時代も行われていただろうし、支配者側としても、国民一人の生命なんて死ぬほどどうでもいいのだろうけど、ここまであからさまに人命をコマのように使うことは最近までなかったと思う。今までも人命はコマだったのだが、それは巧妙に隠されていた。


パリのクソコラ官製デモもそうだけど、世界的に仕事が雑になってきて、なにか焦っているようにも感じる。

昨日この会見を見ていた。おもしろいので、ラジオ代わりに聞いてもいい。



あの人質たちだって、公安の邪魔がはいらなければ救えたのだ。ということは、人質が救われては、国にとって都合が悪いってわけだ。陰謀論ではないが、いまのところ全部シナリオ通りのように感じる。トントントン、と気持ちよくステップを踏んでいる。

上のコラージュでは日本人が武器を手にして、イスラム国が人質にとられているが、案外これが真実を示しているのではないか、と思う。

ところで、さいきん中田考が超重要人物になっていて笑った。あのひとは、個人的には誠実な神学者だと思っている。もっとも一筋縄でいかない怪人物であることはまちがいないが。


侵略戦争だったのか

昨日、ある考古学の書籍に、韓国が「侵略統治」されていたと書かれていたことに言及したのだけども、そのあとにニュースを見るとちょうど関連するような記事がふたつあった。

ひとつは安部ちゃんが韓国とお話しする戦後七〇年の「安部談話」において「侵略」という言葉を使うのかどうか、というニュースで、もうひとつは大阪の近代博物館で「侵略」という言葉が消えた、というニュースだった。

これらのことについて語る前に、ぼくは自分の思考したことが、翌日にはニュースになっていたことに大変驚いた、と言っておきたい。

ぼくは書籍を読んで、日本ははたして「侵略」したのか?ということを考えた。書籍は00年代に書かれたものだし、ぼくはテレビを見ない。しかしそのあとにスマホでニュースを見ると、日本の「侵略」がテーマとなる記事がふたつあった。

まあ偶然なのだろうが、ほんとうに全て偶然なのだろうか。ぼくに変な嗅覚が身についてしまったのかもしれない。まあ……たまたまだろう。偶然偶然。

というわけで、安部ちゃんは「侵略」という表現をいいかげん辞めたいようで、民主党のおっさんがそれを批判している。だが大阪の博物館では市議会員の反対を受け、すでに「侵略」の記述が消えた。

日本の二大都市、東京、大阪で、「侵略」という言葉が消えようとしている、ということはひとつの大きい動きだと思う。

国家として過去の戦争を「侵略だった」と認めているという事態は、じっさい異常である。それを言ったらほとんどの戦争は侵略になるからだ。だから、国家として「侵略戦争をしました」と認めている国は、全世界でドイツと日本だけで、何百年もアジア諸国を植民地化して搾取していたイギリスなどは一言も謝罪なんてしない。

そもそも韓国の統治は戦争がなかったし、国際会議では合法的統治だったという結論がでている。「ジャパンマネーで偏った結論がでている」という指摘もあるかもしれないが、韓国が主導して、歴史を見直そうとする「韓国併合再検討国際会議」というものが開かれたけれども、それでも「違法だった」というコンセンサスを得ることはできなかった。だからこれはもう、中立的視点では「侵略統治」とは言いがたい。

ただ、学問的な領域である歴史学と政治は別物だ。歴史は学問である以上中立的でなければならず、あらゆる利害と無縁であるべきだ。だから先の書籍において「侵略統治」という言葉が使われていたことをぼくは批判した。

しかし、政治においては「中立性」「真実」なんてなんの意味もない。安部ちゃんが「侵略」というキーワードを除くということには、必ずしも賛成できない。



神学界の怪物が中田考ならば政界の怪物である小沢一郎は安部談話の件についてこう語っていた。

NHK島田 解説委員 ; 今年は戦後70年の節目の年ですね。で,安倍総理も総理大臣談話として,今の時代についてですね,新たなコメントを出すという構えのようなんですけれども,小沢さんは,その総理大臣談話,新しい70年のもの,どのようにあるべきとお考えですか。
小沢一郎 代表 ;  僕はね,やっぱり,はっきりと歴史の事実は事実として認めると。 その上に立っての将来展望ということであるべきで。
 安倍さんも,もう少しね,自分の心の中のことを素直に,正直に話しをしないと,いけないんじゃないかなと。
 今さっき言った集団的自衛権のことであれ何であれもう,言葉で誤魔化して何とか言い訳しよういう,そういうやり方は良くない。
 一強多弱と呼ばれるぐらいね,議席あるんですから。もっと本当にこう思うというんなら,自信持って,はっきりした明確な言動を取るべきだ。
 それがトップ・リーダーの役割じゃないかと思いますね。
NHK島田 解説委員 ; 村山総理の時からの 「痛切なお詫び」 といった文言の踏襲,これは必ずしも求めないんですか。
小沢一郎 代表
 いや。ですからそれは,安倍さん自身の考え方ですが。
 私は,歴史の事実は事実としてはっきりと認め,お詫びするところは,するべし。 その上でのきちんとした友好関係・協力関係ということであるべきだと思いますね。<毅然として厳しい表情で>(小沢一郎代表 生活の党と山本太郎となかまたち NHK日曜討論2015/01/25:下線は引用者)


これ、必ずしも「侵略」という単語を外すことを批判しているようにも見えない。むしろ反対ではないのか?さっき言ったように、事実としては韓国統治は合法だったのだから、安部ちゃんがこの文章を読んだら、「ざわちんのお墨付きだ」と喜ぶことだろう。

政治家は「自分の心の中のことを素直に,正直に話」すことなんてできないことは、ざわちんも同じようで。二回も同じことを言ったということは、これが用意してきた言葉であり、<毅然として厳しい表情>になったのは、余計な質問をしてきた解説員にイラついたからだろう。

朝日新聞の従軍慰安婦記事について、「じゅうぶんな裏付けを欠き」「日本国民の名誉を傷つけた」という理由で学者をはじめとする8700人が損害賠償を求める集団訴訟したとのこと。これもタイミングの良すぎるニュースだと思う。それにしても8700人とはあまりに多い。

慰安婦についても微妙な問題だがやはり中立的視点に立つと韓国側によってかなり誇張されているのが実際だろう。

韓国はねつ造や誇張を武器に政治利用してきたがこんどは日本が事実を武器に反撃してきたわけでこれではひとたまりもない。しかし韓国は国をあげて反日教育を施しておりその怨恨は根深く、理性的な対話で取りのぞけるものではない。日韓関係は今後冬の時代がくるだろうと思う。




今日はだらだら書いた。最近の政治は気持ちが悪いが、いつだって政治は気持ち悪かった。さいきんはオブラートに包む手間をはぶいているだけである。

ある土地に囲いをして、『これはおれのものだ』と最初におもいつき、それを信じてしまうほど単純な人びとを見つけた人こそ、政治社会の真の創立者であった(「人間不平等起源論」ルソー)


1.25.2015

ルーツ 謎めく縄文

自分という存在を知るためには、ぜひとも民族的なルーツをしる必要があると感じる。

民族主義というわけではないが、子が親に似るのは遺伝的に当然であるし、血族が似るのも同様で、そうであるなら、自分の民族が過去どのように生きてきたかを考えることは、自分自身を知ること、という風に考える。

極端にいえば、黒人が水泳をしようとしても無駄であるし、それならバネを活かしてバスケをした方がいい。おそらくこれと同じような「向き・不向き」が、精神においてもある、とぼくは考える。よりよく生きるためには、自分を知るためには、自分の血を知る必要がある。

精神は平等だ、というような行きすぎた平等主義が世の中にはびこっていて、だからすし詰めの教室で詰め込み教育が行われて、工業製品のような国民がいっちょうあがりなわけだけれども、これは間違っている。精神は平等ではない。女性の精神と、男性の精神は違う。そもそも、大きく家庭環境にも影響されるだろうし、程度はわからないが血によっても違うのだろう。

ぼくは霊魂という意味であれば、それぞれ平等にもっていると思う。ただ、精神というものを、無理に平等という風に誘導するのは危険である。だれしも同じ感受性や能力をもっているという幻想が、ときに人を傷つける。肉体がそれぞれ違うように、精神も違う。

ぼくは長らく自分のニート的な性格を矯正しようと思ったが、これは諦めた。精神を矯正しようなどと思うものではない。精神改造はファシズムである。

ともあれぼくは自分のルーツを知ろうとしている。


「列島創世記」というダメ本

それで、歴史の本を読んだ。「旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記 (全集 日本の歴史 1)」という考古学の本で、石器時代から縄文、弥生、古墳時代を一冊の本にまとめたものなのだが、これがどうやらダメ本だったので、がっかりしている(安くなかったのだ)。

単純に、記述が不誠実である。安直な考察、誘導的な理論、説明が不十分、と、批判的に読むことを知らなければおかしな知識を身につけさせられてしまう。

筆者は「認知考古学」の分野では日本を代表する存在するらしい。認知考古学とは歴史を心理学的に解釈してゆくものとのことだが、この時点でぼくのあたまの中で警報が鳴る。精神医学は一定の臨床成績や生化学をベースにしているが、心理学とは未成熟な、一種の神話的な科学だからである。およそ心理学を武器に歴史を再構築など、できるはずがない……。

本著において、「最新の『心の科学』によれば、この部分はこう解釈できる」というような記述が何遍か繰り返される。ただ、その「心の科学」がどういったものなのかの説明は一切ない。いったいそれはフロイトを元にしているのか、行動心理学なのか、マズロー的な心理モデルなのか、そういった記述は一切ない。ただ「そうなる」と言われるのみで、おバカな読者であれば、「なるほど、科学は進歩しているなあ」と鵜呑みにしてしまうだろう。

こういったダメ本がなぜ生まれてしまったのか。気になったのでよくよく調べると、考古学という分野は、だいぶドロドロした世界らしい。

文献のない時代を考察していくから、どうしても主観が混じってしまうし、そこに政治的意図が加わると、もうぐちゃぐちゃ。もはや真実に到達することは難しくなる。

政治的といえば、本書のなかで、韓国の日本統治時代に、日本人が韓国の遺跡を発掘したことが記述されていた。そのときの表現が、「韓国の侵略統治時代に~」という風に書かれていて、違和感をもった。侵略統治という不思議な言葉はなんなのだろう。

「侵略統治時代」と検索をかけると、たしかに少しヒットするのだが、どうやらこれを行ったのは日本だけらしい。イギリスやフランスのアジア植民地化については、「侵略統治」などという言葉は使われない。

日本がアジア方面を統治すると、たとえ合法的な手続きを踏まえたうえでも、「侵略」という冠がつくのである。こういう中立性を欠いた史観を何というかといえば、自虐史観、である。学術的な立場をとるなら、安易にこういう言葉をもちいるべきではない。

あとは単純に、文章がダメだ。てきとーに書いた文章というのは、本当に読むのがつらい。内容もてきとーとなれば、300頁も読んだ自分を褒めてあげたくなる。

よく売れている本のようである。アマゾンでの評価は良いし、サントリー学術賞というよくわからない賞を受賞した本だが、だからといって安心できるものではないのだな。リテラシーを身につけなくては。

本著の詳しい批判は、以下が参考になる。
松木武彦著『列島創世記』を読む -新しい手法・技術は正しいのか?-
下手な小説のような松木武彦著「列島創世記」を読む。


縄文人とはなにものなのか

というわけで、どうやら考古学という分野は信用ならない学説がはびこっているのが実際であることを知った。

火焔土器

最近は長浜浩明の「日本人ルーツの謎を解く」という本が話題になっているらしい。長浜は東工大出身の建築家であり、歴史専門家ではない。しかし、徹底的にバイアスを取りのぞき、これまでの旧態依然とした癒着体質の学会を切る本として有名なのだとか。

ぼくはまだ読んだことはないが、アマゾンの書評によると、
縄文時代は、一万数千年前日本列島が大陸から切り離された時から始まった。
歴史的事実、エポックの列挙。
.群馬県岩宿遺跡で磨製石斧発見。約30000年前。
.青森県大平山元'T遺跡から土器出土。約16000年前。
.鳥取県板屋'V遺跡から稲作の痕跡見つかる。約9500年前。
.北海道垣の島B遺跡で世界最古の漆器出土。約9000年前。
.青森県風張遺跡で米粒見つかる。約3000年前。
.佐賀県唐津市菜畑遺跡で灌漑施設を伴う水田遺構出土。約2600年前。
要するに稲作起源は、弥生時代でなく縄文人も栽培していた。狩猟採集民ではなく高度の文化を持っていた。
そして、弥生と連続に推移して断続していないということである。
渡来人がやってき来たというのは、単なる予断、推測であり物的証拠は何もない。
事実は、その逆だったのである。著者は従来の仮説を検証してその中でY染色体及び最近の言語学の成果について評価している。

とある。稲作が大陸から伝来された、という事実は誤謬のようである。ちょっと、これにはびっくりした。教科書的な歴史はなんだったのか……。

浅学なぼくのあたまのなかでは、こうした歴史が築き上げられていた。未開的な縄文人が、狩猟をしながら生活している。朝鮮半島から、九州北部に、弥生人たちが渡来する。そして武具や稲作などの高次の文明を伝え、繁栄し、やがて日本全土に広まっていく……。

ってこれ違うのか。上の「列島創世記」でも、昔読んだ教科書にも、九州に渡来人がやってきたことは書かれていたと思うが。実は縄文人と弥生人という区別はなく、縄文人がもともと高度の文明をもっていた?そして、生活習慣の変化により、弥生人的な骨格になっていった?(本当か?遺伝子学的な調査はなんだったのか)

衝撃的な事実の連続で、混乱してしまう。何を信じればよいのやら。

ますます不思議だ、縄文人。自分のルーツを知るという試みは、思ったよりも険しい道のりであるらしい。

一般的なダメ~な縄文人像。(小樽市総合博物館)


実際には、女性はきらびやかな装飾を施された
服装・装飾具をまとっていたと考えられている。





現代的な解釈に基づく縄文人女性の再現。おしゃれさん。
(国立科学博物館)

Our kids wearing Jomon-era garb at the recreated prehistoric village
長野の縄文遺跡で着ることのできる衣装。
史実的に正しいのかはわからない。

1.24.2015

自己とは、自己と環境である

オルテガの有名な「自己とは、自己と環境である」という言葉は、まず第一に高貴に生きる人間の崇高な義務をあらわしている。

オルテガの指摘するところによれば、ぼくらはまず人間の社会のなかに生まれた。それはとうぜんで、ぼくらはたんぽぽの種のように遠くまで飛んで自生するわけではない。母親の肉体から生まれたのであるし、母親だけでなく、助産婦や父親、兄弟や学校、ひろく社会に囲まれて生きている。

人間はまず社会的存在だった、というのがオルテガの意見である。

ところで人間には社会的性質のほかに、ふかく内面世界を探求するという能力をもっている。社会を拒絶し、孤独に引きこもり、思索にふける。このとき人間はいっけん反社会的である。単純に反社会的な価値観をもつことが多いということでもあるし、実際的な仕事、交遊を離れ、観想的な世界にひたる人間は、消極的に反社会的であるといえる。

じじつ、内面世界の慧眼をもったひとは、大衆を批判する。衆愚から離れようとする。オルテガはニーチェの影響を深く受けていたから、大衆嫌いも受けついでいるのだ……。

人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。第一は、自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんらの特別な要求を持たない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である。(「大衆の反逆」)

ところで、内面世界をふかく探求したところで、何が得られるというのだろう。それはひとりよがりの真実なのだろうか。オナニー的な、というのは、発見者ひとりで消費するような類のものなのか。

そうではない、はずである。そうであるなら、孤独な散歩のなかに生まれたカントの哲学も、ただカント自身が愉しんでおしまい、ということになる。

オルテガが考えたところでは、ぼくらは内面世界で良い知識を得たとしても、そこでとどまってはならない。それを現実に適応せねばならない。

行動はそれに先立つところの観想によって律せられていないならば不可能であり、またその反対に、自己沈潜は未来の行動を立案する以外のなにものでもないのである。
それゆえ人間の運命は、まずもって行動である。われわれは考えるために生きるのではなく、かえってその反対に、存在し続けるために考えるのである。(「個人と社会」)

人間と社会は、切り離せない。たしかに内面世界は楽しく魅力的な世界ではあるが、人間は社会から離れてしまうこともできない。行ったのであれば戻ってこなくてはならないのである。

だから、オルテガは「自己とは、自己と環境である」とした。自分の人生をよりよくするためには、ただ知識を身につけて、ゆたかな感性世界に生きるだけでは不十分である。社会にはたらきかけ、環境を整備しなくてはならない。これが、高貴な人間、つまり知性的で勤勉な人間の義務ということになる。

義務、というものは嫌なものである。できればない方がよい……。人間のゆたかな思想は、まったく自由でくびきから解き放たれたように思うけれども、そこには高貴な人間のもつ責任があり、公示と施用の義務がある、とオルテガは指摘したのである。

……である。

「自己とは、自己と環境である」という言葉が、あたまから離れずに書いてきたのだけど、これをいったのは、オルテガだったよなあ。なんか、違う気がしてきた。ググっても出てこない。

それにしても、「自己とは、自己と環境である」とは良い言葉である。なにか禅的な響きをもっている。

自己が自己にとどまらず、環境を含有するのであれば、自己=自己+環境となる。そうして、自己+環境=自己+環境+環境=自己+環境+環境+環境... といったように、自己がある一点から、世界に浸潤してゆくような、無限に発振してゆくようなスペクタクルを感じる。

もっとも、この数式は論理的には成りたたない。環境=0であるなら、成りたつが、環境はゼロではなく現実に存在する。しかし、仮に自己→∞であれば、どうだろう。環境が任意の実数であることも成りたつことになる。

自己が無限であるときに、自己は環境を浸潤していくと、そう考えることもできる。……言葉遊びだな。



けっきょく「自己とは自己と環境である」という言葉が、どこで聞いたものかわからないが、木村敏が似たようなことを言っていた(いつもこのひとを「きむらびん」と読んでしまう)。

自己とは、自己と世界とのあいだ――現在の事物的世界とのあいだだけでなく、当面の他者とのあいだ、所属集団とのあいだ、過去や未来の世界とのあいだなどを含む――の、そしてなによりも自己と自己とのあいだの関係そのもののことである。(「関係としての自己」)

けっこうオルテガと共通するところがある。

1.23.2015

Marionnette

ぼくの失敗作の人生は

別の道もあったのではないかと

ひとり 泣いている


確かにぼくは安寧の人生に辿り着こうとしている。就職してから住むだろう賃貸物件も、決まりつつある。それは、いちばん近い燐家まで30mくらいはある、田んぼのどまんなかのような一軒家……。

それは限りなく天国的である。おそらく玄関を開ければ、無機質なビルでもなく、老人がせせこましい庭を手入れをしているショボい住宅でもなく、満点の青空が望めるはずだ。

それは限りなく天国的で、日光や風を遮る隣家もなく、好きなだけオーディオや楽器を楽しめる。メンデルスゾーンを流そう。ロン・カーターのベースを楽しもう。鼻歌をいくら歌っても、苦情はこない……。

それは限りなく天国であり、ソファに寝転がって本を読んでいるところを、上階の足音や、DIYの金槌の音で邪魔されることはない。耳栓フリーな住宅。耳から膿をださなくても済む住宅。

仕事は八時間きっかり……たぶん晴れていれば自転車通勤、雨の日は自動車通勤になるだろう。また、田舎は、景色がすばらしい。グーグルマップで予定の物件から就職先を辿ってみたら、それはたまらなく美しい道のりだった。

商業施設はおろか、民家すらない。小さな山を越えて、海が見える。山の木々も、植林された杉でなく、勝手気ままにはえるブナ林である。ああ、たまらない。人間が人間に還られる時間が、労働の前と後にあるなんて。

給料は、正直言って、良い。同世代のあたまひとつ越えたくらいの給料を得ることができる。

ぼくはおそらく、幸福な人生を選んでいるだろう。そもそもの人生設計が……幸福を最大限増幅できるような人生を選んできた。ぼくが底辺の高校を選んだときの理由は、特待生として、学費が全額無料になるからであった。ぼくがこの大学を選んだ理由も、食いっぱぐれない良い生活ができるようにだった。

ぼくは鋭敏な嗅覚をもっていた。未来は生きづらくなることを知っていた。だから、良い生活ができるようにこれまで生きてきた。おのおのが、おのおのの幸福を追求するのが現代社会である。だから、ぼくは成功者とも言えるだろう。

しかし……。

幸福、それが何になるのか?

例えばぼくが池袋のボロいアパートで貧困の生活を送るとして、田舎に住むぼくと、どちらが正しい人生なのだろうか。もっと言ってしまえば、ぼくがリュックサックひとつに全てを詰めこんで諸国を放浪する旅人だったとして、どちらが正しい人生なのか?と考える。

ぼくは金に満足する。安逸な生活に満足する。しかし、ぼくは知ってしまった。金のある生活、物のある生活は、かえって価値がないと、貧乏学生のうちから、知ってしまった。

でも、幸福な人生、辛苦に満ちた人生、人間はどちらかしか生きることはできない。

幸福な人間は、マリオネットに近い。マリオネットは――自分が人間なのだと、想い続ける。

不穏

最近いろいろなことがありすぎる。テロがあってデモがあって誘拐があって……。まだ二〇一五年になって一ヶ月経っていないということに驚く。

これが戦時中の感覚なのだろうか。のっぴきならない現実を伝える情報、あまりに強烈な情報が飛びこんでくる。いままでニュースがこんなに圧力を持っていることはなかった。

かえって日常は平穏なのだが、以前のようにニュースの話題を出すことがはばかられる。あまりにもぼくらの生活に近すぎるからだし、また、フランスのデモも身代金誘拐も、自然発生的というよりは作為的で、そこにどうしようもないわだかまりを感じる。演劇を見ている気分だ。

昨日はヘリが上空を飛んでいただけで、不穏な気持ちになった。

世界が大きく動こうとしているのだろう、と思う。そしてその中に間違いなく日本も入っている。

「東京でイスラム過激派によるテロが起きるようになる」ことを警戒している人がいる。たしかにそのようなことが起きることもあるだろう。

ただ、それよりも怖いのは、フランスのように官製暴動が起き、それによって大衆の同意を得たかのように、国が勝手に動いてしまうことである。というか、いつでも、国は勝手に動くのだが。

ぼくらにとっての脅威は、イスラム国のような仮想敵ではなく、明白に、自分たちの国である。



私事だが、というか、私事しか書かないブログなのだが、ぼくの精神は、二〇一五年の今になるまでに急激な成長をとげた。三年前に書いたクソみたいな記事を読むと、自分の精神がいかにひよこちゃんだったかわかる。ただ今日までに何かに急かされるように勉強し研鑽してきた。

この理由は、早死にが決定したからだと思っていた。ぼくは放射能で四十歳前に死ぬだろう、なぜなら酒にタバコに神経過敏、おまけにフライドポテトが大好きで、ガンになるリスク・ファクターは常人の何十倍もあるからである。こんなガン役満なぼくであるから、一生懸命勉強しなきゃ人生もったいない。

という風に考えていたが、いまの世紀末的なぴりぴりした世相を見ていると、二〇一五年、この年の動乱を生き抜くために知識を蓄えてきた、と思えるようになってきた。

なるほど、ぼくの精神の成熟はいま一皮剥けた段階にあり、どんとこい世紀末(=末法)、煮て焼いて食ってやろうという豪胆もなくはないのである。

本能とか、無意識とかは、ことに自分の生命が危うくなるようなときには、事前に察知するものであってバカにできない。猫だって死期を悟る。

いま、あるべくして自己があり、世界がある、という気がする。



どうせ死ぬ、早いか遅いかというだけで、できるならば、あまり痛くなくしてほしい。安楽死をするなら、モルヒネと青酸カリで楽に行けるだろうか。

バガヴァッド・ギーターを読んでいる。もう何度も読んだが、良い本である。読んでいると、死の恐怖が薄れていく。

人間に霊魂があるのかどうかわからないが、貪欲に生きようとする肉体と、知を愛する精神とは、どうも別個のような気がしている。

けっきょく、生きようとするのも、グルメやセックスを楽しむのも、ぼくの肉体の方である。肉体は、乗りものである。乗りものはガソリンやオイルを要求するが、ぼくらがガソリンを飲む必要はない。くるまが故障したら降りればよいのであって、それにしがみつく必要もない。

肉体滅びても、霊魂が残るのであれば、死は怖くないだろう。今日も学校へいく。

1.22.2015

ひとの精神はよくカエルに似る

価値観の転換。

アカデミズムの破壊。ということは、まじめにコツコツがんばって何かを築き上げる、というロールモデルの撤廃である。40年間満員電車に揺られてちんちくりんなマイホームを築き上げる……「クソまじめ」なものは、だれが見ても吐き気を催す。人間的に見えて、その実ぞっとするほど非人間的だからである。

きれいな花を描きましょう、男女の恋愛を描きましょう、死の別れを描きましょう、というパターニズムの地獄から脱出するのである。

芸術とは楽しいものであって、たしかに、数々の文献が芸術家の不幸や精神異常を指摘しているが、それでも彼らの人生は楽しかった。不幸であっても、ひとは楽しくいることができるし、正常でいるよりは病んでいる方が、ひとの生きる道は楽しい。楽しくなければ、芸術は力を持たない。

生活のために、幸福になるために絵を描く、そこに画家は死ぬ。楽しさに幸福が台頭したとき、芸術家は死ぬ。だから優れた芸術家は、幸福というハリボテを警戒し敵視し、死ぬまで拒絶した人間と言えるかもしれない。

アカデミズムから離れたとき、ひとは本当の孤独に陥る。だが、いまさら指摘するまでもなく、孤独の道こそ正しいのである。


どうも、従来の価値観は、和合しないものであるらしい。価値観に揺すぶりをかけると、疑わしい偽物がぼんやりとわかってくる。愛、は存在しない。というと極端だから、「自己保存に与しない愛はない」と言っておこう。幸福もまた、まやかしである。善と悪という基準は、わずかに認めてもよいが、今後なくなるかもしれない曖昧で人工的基準だ、と指摘しておきたい。

ところでその半面光ってくる価値観もある。それが楽しさであったり、存在である。存在、being、在るということは、愛よりも、幸福よりも、はるかに大きい。というのも、それが地球だからである。われわれがいくらバベルの塔を築き上げようとも、地球の大きさからしてみれば一本の毛に過ぎないように、存在はあまりにも強大であり、その上になりたつ価値観は、あってもなくても変わらないものなのである。

まず、「在る」ということが人間の仕事なのである。「嘔吐」とはロカンタンがマロニエの根の「存在」に心を奪われてしまったお話である。「異邦人」は存在人ムルソーがバベル人間たちに断罪されて殺されるまでのお話である。

……となると、ぼくの現在の思考形態は、実存主義からの拝借となる。なあんだ、アカデミズムじゃないか。権威主義じゃないか。おまけに時代遅れだ。いまどきサルトルなんて……。

人間の思考なんて、拝借でしかないのかもしれない。でも、過去の本に没頭したことのない人間はいないだろうさ。

ひとりの作家がしばらくの間われわれの心をまったく独占し、ついで他の作家が占領し、そうしてしまいにはわれわれの心の中で作家たちがたがいに影響し始める。あの作家とこの作家を比較計量してみて、それぞれが他に欠けているよい性質、しかもほかのとは調和しないちがった性質を持っていることがわかる、とこのときじっさい批評的になり始めたのだ。こうして批判力が成長するにつれて、ひとりの文学者の個性によって心を占有されることがなくなってゆく。よい批評家――皆が批評家になるよう努めなければならない、批評を新聞の書評屋に任せてはいけないのだ――とは鋭い、持続性のある感受性と、識別力を増してゆく広い読書的知識を併せ持つ人である。……たがいにたいへんちがった人生観がいくつかわれわれの心の中に同居して、たがいに影響し合っている、われわれ自身の個性は自己を主張してめいめい独特な配置のしかたでそれぞれの人生観に位置を与えるのである。(「文芸批評論」/T. S. エリオット)

だから人間の精神なんていうのは、偉い人が同居しまくって、はじめて一人前なのである。


人間の精神はカエルの受精卵の発達過程によく似ている……とぼくはつねづね考える。


やっつけ仕事

原初の精神に、例えばニーチェが闖入してくるとする。これがファーストインパクトである。つぎにその敵手ともいえるカントを学ぶ。そして現代哲学が学びたいからフーコーを、暇だからヘーゲルを、座右の書としてパスカルを読むとする。こうして人間の精神は分裂し、成熟する。最後には、精神のなかに核ができはじめる。これが「自我」である。

こうして人間は精神を分化成長させる。人間は二度生まれる、ということである。

もっともこの場合は哲学というだけで、科学者でも、文学でも、それは構わない。

重要なことは、人間は原初の状態では核を持ちえないのであり、その状態でひとはぼうふらのように漂い、ロボットのように強制され、奴隷のように搾取されるしかないのである。ひとは本を読まねばならない。学習し、影響を受けていかなければならない。当たり前だが。

1.21.2015

にやにや笑う怪物

変なところに立って

にやにや笑う怪物



愛を知ることはできない。愛はただ、信じることだけできる。

信じるとは、知ることではない。信じることと、知ることは反対である。信ずる者と知る者の対立は、裁判所とガリレオの間にあり、また、恋い焦がれる少女の胸中にあった。

愛を知ったときに、愛は消える。ゆえに、愛を知ることはできない。



ガリレオ。
ただし、本当に誠実なやりかたでデータをとったのかどうか、という点に関しては怪しい点があるらしい。つまり自分の説・仮説に合うようにデータをいじっていたらしいとブロードやウェイドによって指摘されている。つまり「自然科学の父」と呼ばれるような人がすでに、現代で言う「科学における不正行為」に相当するようなことを行っていたのであり、不正行為の問題が20世紀になってにわかに始まったかのような印象を持つのは適切ではなく、実は自然科学はつきつめればその父(開拓者)まで腐っているような、かなり根深い問題だとブロードやウェイドは指摘しているのである。(出典:W.ブロード, N.ウェイド『背信の科学者たち』講談社、2006)

科学なんてそんなもんだろう。嘘、ごまかし、ねつ造のはびこる世界。

でも、それが本当の姿だ。相互信頼と不干渉によって成りたつ科学なんて、ビジネスや宗教と変わらない。

信じるとは見えなくすること。



ある脳外科医の教授がこう言っていた。

「医学は科学だ。だから、科学に沿わないことは決してしてはならない」

科学が間違っていたらどうするのか?医師の経験が勝ることはないのか……と考えるが、「最大限正しいらしい」のが科学なのだろう。それは彼なりのリアリズムなのだと、勝手に納得した。他者の生命を担う人間の、ぎりぎりの判断。医師は孤独だ。

医学と哲学は、よく似ている。東洋医学、西洋医学があり、東洋哲学、西洋哲学がある。
人間のことは、決してわからない。哲学者にも、今のところわからないし、日々五臓六腑を相手にしている外科医にもわからない。「これはつまり、なんなのか」。

だから、東洋の見方perspectiveと、西洋の見方が残されている。

東洋医学は、西洋医学により、少しばかり解明されてきているようだ。しかし、それにしても、東洋医学は動じない。自分が正しいことを信じているかのようである。東洋医学は広い。西洋医学は狭い。どちらも、良いことだと思う。



最近の私は、よく笑い、よく社交を楽しむ。社交を楽しむとき、私は、他者と談笑しながら、いろいろなものをくすねとっている。ひとを楽しませると、隙ができる。そこから奪っていく。物質的な泥棒などしない。そんなことは、バカのすることだ。ぼくはもっと大事なものを奪っていく。

社交的な人間は功利的だ。(だれでもわかることだが)



自分のなかで、変化が起きている、と感じる。認識の再構築が必要なのだと思う。これまでのアカデミックな、頑強な柱によって打ち立てられた価値観は、転倒し、分解され、踊り回る、という段階にきている。

アカデミックな知識は、ぼくをある程度満足させてくれた。こいつらは、しばらく引きずり回っていたい。アカデミックな知識、それだけでは不十分だ。ゴツゴツした知識は、肌触りが悪い。添加して、研磨することが必要だ。

最近夢の世界を楽しんでいる。今朝、ぼくは大西洋で情報を得る夢を見た。この情報がなにかわからなかったが、ニュースを見ると、オランド仏大統領とオバマ米大統領が電話で会談していた。なるほど、あれをキャッチしていたのか、とびっくりしたのだが……しょせん夢の話なのだ、と戒める理性も、いくぶんかは存在している。

現実は表世界、夢は裏世界。表と裏の境界が薄くなってきているようだ。おそらく新しい時代は、このような変革でやってくるのだろう。

夢がまた市民権を得る。

そのような時代がやってくるのかもしれない。

統合失調症は夢に浸った人間。



酒を飲んだのです。

寝ます。


zacky :摩天楼---

アルチュセールを捉えて放さなかったスピノザとは何ものなのか。
アルチュセールの唱えた「国家のイデオロギー装置」とは何ものなのか。

スピノザの本を読んだことがなく輪郭もつかめない。本を買おうと思ったのだがそれを読んでしまうにはまた一ヶ月ほどかかるだろう。昨日やっと一冊本を読んだが、これもインフルエンザの療養中に読んだだけで、本格的な読書ではない。

いでおろぎーそうち……。

イデオロギーというのは政治的言説のことですが、アルチュセールに言わせれば、言説が空中に浮遊しているだけではどうしようもないので、具体的な生産関係の中に根付いて、それを生み出す母体がなければならないわけです。
アルチュセールは言います、資本制生産は生産諸力の再生産と同時にその言説の再生産をしなければ存続することはできない、と。
この世界の組織といわれるもののすべて、たとえば学校・会社・官庁・教会・軍隊・刑務所・自治体・工場・協会・農協・NPO…etc。
そうした組織はそれぞれ特有の言説があり、国家はそうした言説の集合体として存在する。
たとえば学校では絶えず試験によって生徒の序列化をして将来成績の良い生徒が社会の頂点に立って、成績の悪い生徒を従属させそれを承認するための訓練が行われているし、会社では学歴によって将来の出世が決められているのを黙認することが要求されるし、工場では工員が職場の職長に従うことが日々訓練されているし、刑務所では受刑者が軍隊のような分列行進をしたり、規則正しい生活を強制されて毎日点呼がされるし、軍隊では上官に絶対服従が強いられるし、点呼・分列行進が日々課されるし、…そのようにして下の者が上の者に従うことが訓練を通して身体に覚えこまされます。
イデオロギーは頭ばかりでなく、身体に埋め込まれるのです。
そのようなイデオロギーの具体的な、イデオロギーを生み出す母体のことをアルチュセールは「イデオロギー装置」といいました。(知恵袋

そう難しい概念でもなさそうだ。 

卒業に向けていろいろ忙しく、まだ本を読むほどの余裕がない。早く田舎でリタイア生活がしたい。定時あがりってだけでありがたい。

思えば良い時期に東京を離れると思う。イケダハヤトというブロガーは、高知に移住したらしい。ブログタイトルは「まだ東京で消耗してるの?」なかなかおもしろいことをする。ああいう人間は、敏感に察知して、俊敏に動く。隼人、颯人、早人だものな。

たぶん、東京の魅力が薄れてきている。ひとが集まりすぎ、なにもかも消耗し尽くしてしまった。東京がだれにも魅力的だった時代が終わろうとしている。マンション価格の下落、廃墟化。一見きらびやかだけど、一皮剥いてしまえば、公害だらけ、搾取だらけ、コンクリートだらけの、つまらない街。

まあ、そこそこお金をもっている方々には、まだ東京はステキな摩天楼なのだろう。こういう人間はなかなか動けない。ゆでがえる、である。気づけばゆかいな奴隷たちは脱出している。

一極集中という異常事態が終わろうとしている、だれもかれも同じCDを買うという時代でもないし……。この国の中心点が、ぽっかりあいてしまう、もはや中心の方をだれも見ようともしない、そういう時代がこようとしているのではないかと思う。遊牧民的な人間がふえているのかも?

そう考えると、最近の「愛国放送」なんて理に適っている。なんとかつなぎ止めたいわけだ。ぼくらは日本人だ、日本人のイデオロギーを持て、日本人はすごいんだ、世界が羨むニッポンジン!というわけだ。

韓国人をバカにしていたけど、韓国と同じくらい息苦しい国になってきている。

経済的にはおしまいに近い国である。だれもかれも、この国が沈みかけた船であることを知っている。だから、延命措置をとるよりも、まだうまみのあるところを削ぎとって、さっさと逃げてしまおう、というのがおおかたの支配者層の目算らしい。

おかねもち・ネットワークでは、相互扶助の美しい仕組みができあがっている。お金持ちは絶対に損をしない。東電見てればわかるよね。

どうやら日本は底なしに貧しくなっているようだ。つけは末端から。末端は、派遣労働者、若者たち。派遣を握るものが覇権を握る、と。


今朝みた夢が、象徴的だった。夢を見ているときに、何かを受信してしまったのか、情報がダダダダっと入ってきて、処理能力が追いつかなくてあわてている夢だった。

日本にあるので、米中の情報が入ってくるのはいいとしても、意識の片方がイギリス近くの大西洋に飛んでいて、欧米の情報もずばずば入ってくる。

で、情報の濁流のなかでもみくちゃになるだけで、けっきょくなんの情報も得られなかったのだが、その感想としては、よのなかの情報から、表も裏もなくなる、ということを知った。

その意味は、メビウスの輪を表しているのではない。そうではなくて、表面しかない、裏面しかない情報が増えるということだ。これが情報革命ということらしい。

この世の情報は、なにも信じてはいけないようである。現在ニッポンでも、あらゆる加工品の食材を信用してはならない、という時代にきているが、情報についても、嗅覚をはたらかせねばならない。

ただ、この夢は少し啓示的で良いと思った。どうやら今後、良い情報がぼくのなかに入り込んでくる……という気がする。情報を制するものが、勝ち。小説家も、哲学も、けっきょくは情報戦だろう。

まあ、単なる夢だ。今日はひさしぶりに学校にいこう。

1.20.2015

労働に向かない人間からのお願い

「――労働に向いた人びとは、労働をしてください。ただ、ぼくのような人間が、無理して労働すると、すぐに身体を壊すし、だいたい、時給八百円分もまともにはたらけませんで、現場を撹乱するだけなのです。職場にいる迷惑そのもの、『使えない人』がぼくなのです。

いいですか、みなさんのカンパでぼくにお金をください。ぼくはみなさんが労働に勤しむ間に読書して、知識をたくわえて、的確なアドバイスをしてあげます。

たとえばみなさんが人生に悩んで、どうにもならなくなったときは、ぼくが人生相談を引きうけます。君の不幸の根源は、お国の教育が悪かったのか、でたらめの宗教が悪かったのか、友人が悪いのか、そういったことを、ぼくが話を聞いて判断してあげます。するとあなたは、明日も労働にはげむことができるのです。もちろん、お代はいただきませんよ。

『はたらかざる者食うべからず』と言いますね。この言葉をぼくに向けないでくださいね。ぼくは知っているのです。この言葉はね、資本家に向けた言葉なのですよ。資本家ははたらきません。でも、お金だけちょろまかしていきます。高級車を買います。女を買いますね。悪いことに使います。許せません。

ぼくにお金をあげることは、よいことなのです。ぼくは外国の本を読みます。論文も読みます。芸術も、好きです。ぼくは、どうしたことか、買い物にも興味なく、テレビもつまらなくて見れません。飾り立てた高級料理よりも、自炊したご飯の方が好きです。お金があったところで、本を買う以外の使い道を知らないのです。

ですから、ぼくは普段は使い物になりませんが、君たちがちょっと労働の循環のなかでうまくいかなかったり、世の中がおかしな方向に進みそうになったときは、ぼくを頼るといいのです。世の中は助け合いです。助けてあげますよ。だから助けてください、ね。」



Giovanni Boldini's A Lady with a Cat




ぼく=学生の生活はニート生活である。まだまだお子様である。二十代も半ばを過ぎた今になって、おばにお年玉をもらってしまった。これに加え、親父から一万円をもらい、祖母から二万円をもらった。

実家から帰るときには、財布は分厚くなっていた。経済的な独立とはほど遠い。

金をもらっても、とくに使う当てがない。ぼくは金をもらうたびに複雑な気持ちになる。金をもらうと、喜んでいいのか、わからない。たしかに、生活の安心感による、上気した気持ちはある。ただ、金をそのまま欲しいものに使うというニュアンスがわかない。

金をもらっても、ぼくは跳び上がって喜ぶということはしない。当然のようにポケットにねじ込み、うわついた感謝の言葉を述べるにとどまる。どうも、四半世紀も養われペットの立場を維持していると、いたについてくるものらしい。
「事実、逆のことが起こる場合もいくらかはあるが、形式的な教育の期間延長は人格の退化をもたらす例が多い」ヘンリー・C・リンク
あはは。


しかしこんな人間の方が、かえって金を与える側には喜ばしいのかもしれない。実際、ぼくは悪いことに金は使ってないからな。酒やタバコはやるが……。

ああ、与える側に回る自分の想像がつかない。子どもにお年玉をやらねばならなくなったら、ぼくは逃げ回るのではないかな。

そういえば、アパートのドアノブに、電気料金催促の赤札がからまっていた。あれを越えると、いよいよ電気が差し止められるのである。一万円は、電気代に使おうと思う。


ようやく風邪が治ってきた。治りかけがいちばん大事で、ここでバイクででかけたり、ラーメンを食べにいったりするから、なかなか治らない。

1.19.2015

愛の誤謬

他者を愛することはできない。なぜなら、他者は自己ではないからである。

血のつながりがあれば、愛することはできる。いくらかは自分だからである。

「知」のつながりであっても、愛することができる。知は血。自分を構成しうるからである。

しかし、何のつながりもない他者を愛することは、自然の理に反する。

他者を愛するとき、自己の破壊が伴う。他者を愛するとき、自己が溶出する。

自己と他者の境界を曖昧にし、正常な機能を失わせる。これが権力のはたらきである。

権力のはたらきは、まず、血や知の結びつきを取りはらう。そうして、本来つながりのない人間同士を、限界まで近づける。次には、その拒否反応によって、個々人が持つ、自己と自己との関係を破壊する。こうしてひとは過剰適応を達成する。

すなわち、満員電車、ブラック企業、町内会であり、奴隷船、強制収容所、監獄である。

自己への裏切りが強まってゆくと、本来的に内的自己が強いひとほど、逆作用を受けて死んでいく。これが日本の自殺率が高い理由である。

日本社会のなかでは、内的自己の弱い人間だけが生き残り、繁栄し、より強力な支配に貢献する。そうして優れた奴隷が生き残る。

権力はひとを近付ける。かつて大流行した「絆」という言葉は、その語源としては、家畜をつなぎとめるための綱をさした。


過去記事:愛について


インフルエンザで寝込んでいた。あと一日寝れば治るかな。

1.17.2015

悪の感染

人間の大いなる危険は病人である。(「善悪の彼岸」)

ぼくははっきりと、日本という国が嫌いになってしまった。

だからといって、海外に行っても同じことなのだろう。フランスもまた、気持ちの悪い国になってしまった。自由と言論のメッカだった、フランス。

おそらく、これほど世界が歪にゆがめられた時代もないのではないかと思う。ぼくの感情は、日本への失望というより、広い意味での、国家というものへの絶望だろう。

あるいは、かわらぬ歴史の繰り返しなのかもしれない。いつの時代でも、民主主義のため、正義のためと政治家が言い出すときこそ、危険な時代の始まりだったのだから。

自然的な、清潔で美しい人間の思想は駆逐されて、吐き気をもよおす概念がウィルスのように蔓延している。

「自然に還れ」というルソーの思想は、縄文時代の史実と合致している。縄文時代の遺跡からは、武器がひとつも見つからない。戦争がなかったのだ。それに、女性の装飾品が多く、女性が大事にされていた社会だと考えられている。

ひとは、本来、平和に生きてゆくことができる。このことをルソーは知っていた。リヴァイアサンは想像上の怪物でしかなかった。

悪は伝播する。

人間はその素体としては、悪も善もない存在である。しかし、悪は伝播する。

ある平和的な人物がいる。ある日、彼の財産が盗まれて、その日から彼は貧困に陥ったとする。彼は、盗むという行為の醜さをだれよりも知っている。しかし、頭からは「盗む」という概念が離れない。

「盗み」によって今の苦しみがあるならば、なぜ私は盗んではならないのか?

ついには、彼は盗みをはたらくようになる。なんらかの迫害が、次の迫害を産む。これが人間の悲劇であり、悪の感染である。

学校でのいじめがなくならないというが、これも自然である。大人は大人を迫害している。大人は子どもを迫害している。ところが、子どもが大人を迫害することは、できない。そうであるなら、どうして子どもが子どもを迫害することだけ、辞めさせることができるのか。

いじめっ子を憎んだところで、何になるのか。「いじめを無視する人も、いじめに荷担している」という信じられない暴論がまかり通っている。子どもは何も悪くない。悪いのは、教室に大人が持ち込んだ毒素である。

悪は伝播する。人間は治療されなければならない。この二千年は病的な歴史だった。

最近歴史を勉強することが多いのだが、過去に起こったことのほとんどすべてが、気に食わない。ぼくの趣味とは合致しない。ぼくにとっては今のところ、縄文時代が唯一のユートピアであり、地上の楽園だったと思う。

現在、純粋な縄文人たちは、北海道の隅と沖縄という日本の両端に追いやられている。そうして、基地を押しつけられたり、奴隷労働をさせられたりと、散々である。正しい人間は常にこう扱われる。病人には、健康な人間が許せない。

別に日本だけに起きたことではない。アメリカのインディアン、オーストラリアのアボリジニも同様だ。

しかし、1788年よりイギリスによる植民地化によって、初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚はスポーツハンティングとして多くのアボリジニを殺害した。「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記された日記がサウスウエールズ州の図書館に残されている。(アボリジニ - Wikipedia

世の中はまあ、こんな畜生みたいな奴らばかりである。



縄文系、弥生系。日本人の七割は弥生系と言われる。

なぜか首都圏は弥生系が多い。

ぼくは顔の作りがほとんど完全に縄文人なのだが、ぼくは東京を見捨てて、地方に行こうとしている。血が嫌う、ということがあるのかもしれない。


このまえ、エアアジアの社長からメールが届いた。もちろんぼくだけでなく、すべてのユーザーに届けられているのだろう。

いつもエアアジアをご利用いただき誠にありがとうございます。 この数週間は、13年前にエアアジアを立ち上げて以来、私の人生で最も困難で苦しい時間です。
私たちが受け取ったすべての暖かい言葉とサポートに対して心から感謝しております。皆さまから愛と励ましのメッセージをいただき、これからの安全な運航とサービスに対する決意を一層強くしております。調査の進捗状況に関しましては新しい情報が入り次第随時アップデートさせていただきます。
お客様が安心してご利用いただけますよう、私たちは当社の製品とサービスの見直しを徹底的に行い、より良いサービスをお客様にご提供できるよう努めてまいります。
最も困難な時ではございますが、これからもお客様により良いサービスを提供してまいりますので、よろしくお願いいたします。
17,000名のエアアジアの従業員と共に、QZ8501に搭乗していたご家族の方々や愛する方のために祈り続けます。


ぼくはまだエアアジアという企業を信じている。大部分の国にぼくは失望するのだが、マレーシアという国はまだ信じられるし、その旗手であるエアアジアも同様。


1.16.2015

zacking

風邪を引いた。

昨日「悩みなどひとに話すな、それが処世術だ」、と言ったが、ここでのぼくは愚痴ばかりだ。

まあネットの環境ならいいのだ。

ネットの対人関係は、極めて楽で、理想的だと思う。ぼくはまず、他人の顔を見ることが苦手で、視線恐怖症といってもいいのだが、できることなら他者と会話するときには、ついたてを挟みたいくらいなのだ。

しかし、文章においては、こうして適当になんでも書ける。おまけに、つまらない文章を書いても、嫌みな顔や、とりつくろった笑顔で返されることもない。

ぼくは虚空に向かって書き続けるのである。つまり、ぼくはただ文章を書くために書いているのであり、なんらかの目的や、対象、条件が介在することはなく、純質のものを書きたいと思っている。

そうであるから、いろんな作家の文章を吟味することはあっても、それを真似しようと思ったり、そこから教訓を得ようという気にならない(勝手に似てしまうことはある)。また、だれかの気に入られるようなことを書こうという気がしない。

当然、ほとんど賞賛もなく、なんの報酬も入ってこないのだが、それはそれで、いいのである。

昔好きだったひとにchikirinという社会派ブロガーおばさんがいる。ぼくは彼女の文章がたいへん気に入って、数年分のすべての過去記事を読んだことがある。そのなかに、「『すごい』と言われたら『ヤバイ』と思え」とあって、実に味わい深い言葉だと感じた。成功こそ、落とし穴なのである。そもそも、評価されることは決してすばらしいことではない。アマゾンを見ていると、とんでもなくつまらない本が、星五つだったりする。

音楽の練習についても同様で、ぼくは楽器との「直接的な対話」を重んじている。

ぼくらのもとめる音楽は楽譜でなく、楽器と、自己の内奥にすでにあるのであり、そこに何ものも介在しないとき、真の音楽を味わえる。というわけで、観客はときに邪魔でしかないし、共演者すらいらないということも多々ある。大部分の音楽家は個人練習こそが「音楽」であり、コンサートやセッションは余興にすぎない、といっている。(もっともぼくはド素人なのだが)

人間の成長とは、何かを得ることではなく、何かを捨てることだ、ぼくらは芸術作品に触れるとき、精緻なテクニックや表層的な理論に感銘を覚えるのではない。芸術はしょせん、媒介であって、人間の潜在意識と、潜在意識が共鳴しあう、ここに芸術の価値がある。

ということは、絵などの作品を前にした瞬間の想念としての「良」と「否」こそがすべてであり、それ以外のすべては、無味乾燥の後付けでしかない。

もっとも、他者の評価を気にしないと食っていけない、という実情があるだろう。そうなると、才能が貧困によって潰されることになる。かつて、成功した実業家は芸術家のパトロンになりたがったものだが、こうした関係が、本来望ましいものだと思う。(もっともニジンスキーのような悲惨な例もあるが)

金はあるが、芸術的なセンスがないひとがいて、金はないが、芸術に長けているひとがいれば、それは相互に助け合うのが自然である。

ところが、ぼくらの住む日本という国では、このような自然なつながりは見たところ破壊され、助けるべき人間を助けることはしないようだ。日本人はきちんと列に並ぶ一方で、貧相な格好をした派遣労働者やシングルマザーに対しては「負け組が」と毒づくのである。

と、よくわからない日本批判で今日は終わる。風邪だから頭が回らないのである。

1.15.2015

同情について

同情という感情も、人間を人間でなくする類のものであると思う。

なにか祥のあったひとであれば、ひとは近寄りたいと思う。不幸があったひとに対しては、近寄りたくない、と思う。それが自然である。

ある若者がマンモスを狩ってきたら、集落は総出で出むかえる。結婚したら、みんなで祝う。祥は分かち合えるからである。

葬式でもひとは集まるが、あれは不幸を閉じ込める必要のためだ。ある家で不幸があって、そのままにしていては、周辺に不幸が漏出する。葬式とは封印の儀式なのである。


友人の留年が決定したらしい。

彼とはけっこう長い付き合いなのだが、ぼくは自分でも驚くほど、慰めの言葉をかけるということをしなかった。反対に、ぼくは彼をないもののように扱った。できる限り、離れていたかった。

憐れみの言葉をかけたところで、どうにかなるものではない。それでは問題を解決できない。ぼくは彼の力になれるよう、できるだけのことをしたいが、憐れみ、同情が、なんだというのか。

ぼくはかれに実際的になにもしてやれない。だから、彼には近づきたくない。不幸が移されるだけである。

憐れみ、同情の世界では、彼の側にいて、慰める、ということが重要になるらしい。それは確かに彼の不幸を減衰させることができると思う。

しかし、できることといえば、不幸を分かち合うということで、分かち合うということは、自分にとって損になるということだ。これは自己犠牲だ。自己犠牲は欺瞞だ。

自己犠牲は欺瞞である。というのも、ひとは自己を他者に与えるということはできないからだ。人間はすべての動物と同じように、功利的である。だから、同情のあるところには、計画と、契約書がある。

アンパンマンは、たしかに自分の顔を他者に食わせている。これは優れた自己犠牲の精神だと言われるが、あれを見ているひとならだれもがわかるとおり、顔なんてポンポンすげかえられるのである。「新しい顔」は日々生産されているのである。アンパンマンの顔がひとつだけしかなかったら、ぜったいに食べさせない。これは断言できる!

同情はなにも生まない。困ったひとに何かしてやりたいと思う、これは自然の感情だ。しかし、慰める、という行為は、ことごとく空虚で、ぼくの肌に合わない。

人間はたびたび不幸になるが、不幸に押しつぶされるほど人間は弱くない。不幸は人間を強くする。人間に気づきをあたえる。同情とは、この優れた機会を奪うものである。

以上によって、ぼくは同情を断罪する。


同情する人間を私が非難するのは、ややもすると恥じらいの心、畏れの念、自他の間の隔たりに対する細やかな感情が彼らからは失われ、同情がたちまちにして愚衆臭いにおいを放ち、不作法との見境がつかなくなってしまうからであり、――また、同情の手が一個の偉大なる運命、傷手を負うた孤独、重い責務を背負っているという特権の中にまでさしのべられると、ときと場合によっては、かえってそれらを破壊してしまうことさえあるからに他ならない。(「この人をみよ」/ニーチェ)

書き抜き帳を見たら、今日書いたことは、だいたいニーチェの言ってることと同じだった。結局、読んだこと、学んだことが表出しているだけなのかな。自分だけの思想なんてないのかもしれない。

ニーチェの「この人をみよ」の原題は、「エクセ・ホモ」というラテン語であり、新約聖書のヨハネ福音書からとられた。ユダヤの太守ピラトが民衆の前で、いばらの冠のキリストを指さしていった言葉とされる。

このエクセ・ホモは有名な言葉なのか知らないが、岡本太郎の絵にも同じタイトルのものがある。

"Ecce homo" 1963 岡本太郎

もっとも、太郎はニーチェの影響を強く受けた人物であるから、ニーチェから取ったと考える方がいいかもしれない。

あの本は、開いて数秒で笑える。「なぜ私はかくも怜悧なのか」「なぜ私は良い本を書くのか」といった自画自賛が続く。でも、彼はほんとうに怜悧で良い本を書いたから、だれも文句が言えない。

彼を理解し賛同していた人間は、彼の生きている間には五人もいなかったという。ニーチェはほとんど評価されなくとも、自分のしたことの価値を知っていた。

ぼくはニーチェの影響を受けた人間が大好きだ。フーコー、バタイユ、オルテガ、ヘッセ、枚挙に暇がない。ニーチェという人間は何ものなんだろう。神のつかいか、宇宙人ではないのか。


余話。

ぼくのような人間が処世術を語るのもおこがましいが、何か不幸があったときは、それを決して口にしてはならない、と思う。不幸を晒すということは、人前で性器をさらすにひとしい行為だ。見苦しいし、ひとが離れるのである。

不幸な人間にはだれも近寄りたくない。

「私はかわいそうなの」とアピールする女がたまにいるが、あれなどは最悪だ。なまじ同情は善しとされる現代だから、彼女を慰めるやつがいて、永遠に治療されない。自分がバカなことを言っていると、気づくことがない。これは社会病理のひとつだろう。

1.12.2015

Möbius Loop

最近の日常はどうも流れて消えてゆく類のものらしい。

もう何も必要なく、何も怖れることはない。

そういう境地に辿り着こうとしている、という気がする。


ぼくの大学生活はもうすぐ終わることになっている。それからぼくは就職してはたらくことになる。目に見えていることだが、仕事は嫌であり、退屈だろう。仕事はぼくをひきこもりの生活から引っぺがすだろう。おそろしい退屈な円環のなかにぼくは放りこまれる。

ぼくはまだ、somethingになるという夢を捨ててはいない。つまり、特別である人間。話題になるべき人間。ただ、考えてみると、何かをゴテゴテに飾り付けること……例えば、年収2000万円とか……東大を出たとか……こういうことは、空虚である。

この世で特筆すべき人間は、「自分である」人間であり、その意味では、タイトルの汝自分を知れという標語は、実に的を射ている。(自画自賛)

ここ一年ばかり、ぼくは自分のなかを探求した。自分は何ものかを知ろうと思った。

ところが、自分のことを知ろうとしていくうちに、どんどん他者や自然環境に広がっていった。自分の核心を求めて、観察、凝視していくと、かえって無限の広さを見つけたのである。

自分の精神の内奥の潜在意識の底の底には、薄明かりがぼんやりと見えて、注意深く潜っていくと、そのあかりは小さな穴であって、驚くべきことに、その下には大空があり、さらにその下には、大地と海があった。そうして、大地には他者がいた。

自分のなかに他者がいる。

つまり、ぼくら人間はメビウスの輪である。自分というものを辿ると、他者になる。他者を辿ると、自己に行き着く。人間だけではない。自然や環境も、自己である。




表もなく裏もない。自己は全てであり、自己はひとつである。自己は世界である。



ぼくの生活は最近楽しい。近頃、幸福という言葉がうさんくさく感じたので、それでは幸福ではなくより真実に近い言葉はなにか、と考えると、「楽しい」という言葉に行き着いた。

楽しいという状態がなにを示すか。それは存在しているということだろう。

存在する。これが第一義であり、すべてである。善悪とか、幸不幸は、些末な指標でしかない。ぼくらはまず存在しており、各々その存在の程度がある。存在を十分に発揮しているひとの生活は楽しい。存在が不十分なひとは、つまらない。

この「楽しい――つまらない」の指標は、善悪とか、幸不幸よりもより根源的で、真実に近いと思う。

というのも、つまらない人間であっても、善であったり、幸福であることはできる。しかし、彼らの人生は楽しくない。存在の程度は低く、あってもなくても変わらない。

彼らは存在を無理に押さえ込んでいる。善悪や幸不幸という価値基準が、存在を否定していることになる。

ところが、存在がまずすべての始まりであり、存在がすべての前提である以上、そのうえに成りたつ善悪、幸福がドグマ的な価値基準をもつことは、本末転倒である。ここに、現代道徳の矛盾がある。

存在が充溢している人間は、幸福にあっても、不幸にあっても楽しく、また彼には、善も悪もない。

存在するためには、自己が自己に立脚しているということが必要だ。つまり、外的な指標、年収とか学歴のような、メディアや教育の押しつける価値観を離れることだ。ただ自分の欲求に従い、動く人間には、善もなく悪もなく、幸福も不幸もない。

ぼくらは獅子がうさぎを食い殺すとしても、それを悪だと思わない。また、ぼくらは自然にある木々を見て、それらが幸福だとか、不幸だとは思わない。それは「在る」のである。

ところで、人間は自殺することがあるが、これも存在とその他の価値基準の逆転によるものだ。動物は決して自殺しない。「こんなに不幸なら死んでしまえばいい」「生きていても迷惑だから死んだ方がいい」これらの逆転した思考様式は、教育とメディアのような洗脳システムのたまものである。日本人はとくに自殺が多いが、それは構造主義的に考えれば、自分で死んでいるのではなく、殺されているのである。

もはや第三者の視点で自分を見て、他者の物差しで自分を批評しない人間。ただ自分だけの欲求に忠実である人間。このようなひとが、存在しているといえるのだと思う。

1.11.2015

とはいえ、人間は思考する。

この言葉が好きだ。

とはいえ、人間は思考する。

ここに、人間のすべてが凝縮されているのではないかと思う。人生は何かと壁がある。女に振られた。仕事でミスした。自動車事故を起こした。病気にかかった……。まあいろいろあるわけだが、こうした状況に陥ると、ひとは「どん詰まり」になる。

とはいえ、人間は思考する。これによって、次の一歩が踏み出せる。

数日前、あたまの中でふっとこの言葉が浮かんで、それからずっと唱えていた。すばらしい言葉だ。だれの言葉だったか?

それを最近やっと思いだした。シモーヌ・ヴェイユの「自由と社会的抑圧」の言葉だ。最近この本の引用がとても多い。
生きている人間は、なにがあろうとも、頑として揺るがぬ必然に四方から圧迫されつづける。とはいえ、人間は思考する。ゆえに、必然が押しつけてくる外的刺激に手もなく屈するか、みずから練りあげた必然の内的表象に自身を適合させるか、というふたつの選択肢を有する。ここにこそ隷従と自由の対立がある。 
けっこう話の核となる部分である。

なんていうことのないこの一文が、なぜぼくの潜在意識からぽっと出てきたのか。そう考えると、この言葉は意外と魅力に溢れていることに気づいた。

まず、「とはいえ」が良い。この逆接詞が凡庸な「しかし, だが, それでも, ところが」でもぼくの記憶に残らなかっただろう。「思考する」という言葉は類語が少ないが、これが「考える」になっていてもまたぼくを興ざめさせるだろう。

これはひとつに音の問題である。「kangaeru」と「siko-suru」であれば、後者の方が美しい。濁音とは濁った音であり、日本語では良い響きではない。肉と肉のすれ合う言葉である。もっとも、それが効果的にはたらくこともある。ニンンハシコウスル、この塩梅は絶妙である。

そうすると、ロダンの「考える人」は、ひどい訳ということになるが……。もし、「考える人」が「思考する人間」となると、また印象が違って見えないだろうか。
(ところで、この「考える人」は何ものなのかというと、ダンテの「神曲」をモチーフにしていて、地獄の門から地獄を眺めている人……というのがその実際のようである)


ところで、これは岩波文庫版なのだけど、翻訳者を見てみると「冨原眞弓」となっている。ふーん、女性だったのか。調べると、哲学科の教授であるようだ。

ヴェイユもまた珍しい女性哲学者である。女性の哲人に、女性の訳者。哲学書にしては、すごくレアな組み合わせなんじゃないだろうか。

ともあれ、女性というのは、言葉に対するニュアンスが別格に鋭い、ということを表題の語句から感じとった次第である。

最近、女性の書く文章のほうがはるかに男のそれよりよいと思うことが多い。ぼくが好んで読むブログがあるのだが、その著者は「美しいイラストを描くように文章を書く」のが良いと言っていて、そのとおりだと感じた。

考えてみると、日本語とは象形文字である。ということは、文章全体が絵である、ということもありうるのかもしれない。

余談になるが、欧米人は日本語を見ると絵にしか見えないようである。インドに行ったとき、ボランティアにきていたオーストリア人と仲良くなったのだが、彼女の名前をひらがなで書いてあげると、魔法使いをみるような目でぼくの手先を見つめている。あんまり嬉しがるのでそのメモはあげた。

たしかに日本語は特殊な言語であると思う。また、ぼくもまた日本語の使い手である以上、それを深く探求していこうと思う。

冨原眞弓女史とのもうひとつの接点。彼女はトーベ・ヤンソンのムーミンシリーズの翻訳者でもあるらしい。ぼくもムーミンは好きである。あいにくぼくの本棚にあるムーミン本は彼女の訳書ではなかったが……。なんだかシンパシーを感じる。


と以上、どうでもいいことを書いた。クオリティは低い。しかし、時間と体力がないのである。最近勉強漬けの日々で、余裕がない。一日十時間以上は勉強している。が、まあこうした生活も悪くない。けっきょく、勉強はひとりでやるもので……ひとりでやることは大好きだ。自由だからだ。バイトの接客業より、ぜんぜん楽に感じる。とはいっても、時間と体力はしっかり削られるので、こうしてクオリティの低い記事を書くのである。

1.08.2015

愛について bLraiOnwaVshiEng


愛はないと仮定する。

愛はない。だが、愛という概念を作りたい。どうすればよいか。

無から有を作りだすことはできない。しかし、対称物をつくりだすことはできる。すなわち、0=-1+1である。これが万物創世の神秘である。

「+」は善であり、「-」は悪である。そして、愛は善である。悪とは愛のないことを意味する。ここに愛は住処を見つけた。そしてその次には、愛という呪詛が爆発的に広まった。

しかし、善悪の二元論は、空しい二項対立である。足し合わせれば消える。だから愛の発明家や活動家たちは、盛んにこう宣伝した。「愛せ」「善を行え」と。西洋において、キリスト教はこのために利用された、九割の真実と一割の毒素を交えてキリスト教は伝播した。

こうして愛はふくれあがり、同時に悪もふくれあがった。愛に感染したひとびとは、ますます善=愛を渇望したが、求めれば求めるほど、悪は大きくなった。

善なる世界は、悪を排除することにした。しかし善だけの世界に、善は存在することはできない。善は悪を求める。そこで善人たちは、自分以外に悪を見つけようとした。ここに善人たちによる悪の討伐が始まる。愛が暴力装置となるときである。

この遠征により、多くの原住民が殺された。とくに日本においては、縄文人が殺された。最近では、イスラム国の人びとがアメリカに殺された。そして、殺戮と同時にお約束のように愛が感染する。

いまでは、いたるところに愛がある。愛によって世界は征服されつつある。

しかし、エントロピーは増大する。善と悪はその静電引力により、いつしか和合する。愛は無に帰る。所詮、人の作ったものなんてはかないものである。自然の法則には勝てない。

この精算が行われたあとは、人間の生活は悪もなく善もなく、自然に生きることが可能になるだろう。人間は再び、動物と同じように、しなやかな美しい生きものになるだろう。これが超人である。超人はこう思うだろう。人類は2000年の間、悪夢を見ていたのだ。


ということを、考えていた。ちんぷんかんぷんだな。

孔子は「仁人は身を殺して以て仁を成すことあり」とした。仁とは愛であり、仁人とは愛を成すひとである。この意味は、愛に生きるためなら身を滅ぼさなければならないということで、つまりそれほど愛を実現することが難しいということになる。

そんな難しいのなら、辞めてしまえばいい。人間、すべてかなぐり捨ててしまった方が、うまくいくものだ。

ひとは何かをつけ足すことばかり考えている。テレビで納豆がダイエットにいいと流すと、翌日には売り切れる。ほんとうに痩せたければ、なにも食べなければいいだけなのに。何かをつけ足すことによって改善をこころみる。それが貧困の精神である。すなわち餓鬼道である。

最近、ルソーの「自然に還れ」という哲学が共感できてしかたがない。ルソーもまた、自由と孤独を愛するひとであった。

人間の魂の最初のもっとも単純なはたらきについて省察してみると、私はそこに理性に先だつ二つの原理が認められるように思う。
 
その一つはわれわれの安寧と自己保存とについて、熱烈な関心をわれわれにもたせるものであり、もう一つはあらゆる感性的存在、主としてわれわれの同胞が滅び、または苦しむのを見ることに、自然な嫌悪を起させるものである。
 
じつは、このほかに社交性の原理などをもってくる必要は少しもなく、右の二つの原理を、われわれの精神が協力させたり、組み合せたり、できることから、自然法のすべての規則が生じてくるように思われる。(「人間不平等起源論」)
 
今日書いたこの記事も、以下の文章に影響されている。 
人間にとってこの意味で「自然」な生活とは,「簡素で一様で孤独な(ル
ソー1755:47/傍点は越野)」生活である。人々は「定まった住居もなく,た
がいに相手を必要ともせず,恐らくは一生に二度会うか会わないかくらいで,
知りあうこともなく,話しあうこともな(ルソー1755:58)」いまま,「自然」
のみに従って孤独に生活している。他者との関係をもたないのであるから,こ
の段階の人間は「道徳」を知らないと想定されている。ルソーの思想はしばし
ば「性善説」と言われるが,誤解をおそれずに言えば,「自然状態」の人間は
の 「前社会的」であるがゆえに,前道徳的な存在として想定されているのである。(「ルソーの「自然」観念の二重性」越野章二)

まったく同意してしまう。この前社会的な自然状態こそ、ぼくの理想とする生活である。結局、ぼくの考えることなんてだれかが前に知っていることなのだな、と思う。

とはいえ愛についてはおもしろいのでもう少し考えてみたい。

1.07.2015

雑記 - CH3COOH

最近はどうも弛緩していて、不幸というのをあまり感じなくなった。日常は普通に輝いているし、天気の日は嬉しく、雨の日は嬉しい。

人間、不幸であることが正常なのか、幸福であるのが正常なのかは、わからない。仏教では「一切皆苦」であるし、ショーペンハウエルも、幸福は迷妄に過ぎないと切り捨て、その系譜であるニーチェはニヒリズムを説いた。

幸福とは何なのか、と考えると、これも前に愛について考えたときのように、迷妄ではないのか、と思わずにいられない。つまり、この世に幸福はない。ゆえに、不幸もない。だからこうした使えない抽象概念は、捨ててしまうのがいちばんいいのかもしれない。「幸」という漢字は象形文字で、人を束縛する手かせをかたどってるのだという。

とかく普通よしとされている言葉には気をつけなくてはならない。しつこいようだが、ぼくは町内会についての現実を知ったときに、ぼくの子どもじみた視界が、一気に開けたように思う。そこから、いかに日本という国がダメであるかを知った。

世の中には三種の人間がいるように思う。一種は「強者」であり、彼は世の中の矛盾を知りながら、矛盾を飲み込み、平気でそのなかで生きていけるひとである。

もう一種は「弱者」であり、ここにぼくは最近入ったのだが、世の中の矛盾に耐えきれず、距離を置こうとし、世捨て人になるようなひとである。

最後は矛盾自体に気づいていない「」がいる。べつに豚でもいいが。彼らは、強者でも弱者でもない。彼らは強者や弱者と比べて、あまりにも大量に存在するが、実のところ、存在しないに等しい。水分子がいくらあったところで、ぼくらにとっては手元の一杯の水に過ぎないのと同じである。

世の中は、矛盾ばかりである、普通知られている知識、学校教育で得られるもの、マスコミの流すもの、薄っぺらい紙切れのような歴史は、すべて偽りであったと思う。それはよくできた小説ではあるのだが、それ以上ではなかった。

ほん よめ

とは言っても、ぼくはネトウヨのようにネットの知識からこうした現実を知ったのではなかった。

実際のところ、多くの人間が衆愚を指摘している。大衆はバカだと、はばかりなく言い切っている。オルテガ、ニーチェ、フーコー、あとはル・ボンでもいいのだが、世間的に頭のいい人びと、真理に近づいたとされる人がこぞって大衆を批判する。

こうした現実が気になった、なぜこんなことになってしまったのか?大衆はなぜ知性を開花させることができないのか、と。人間は脳みそをもっている。その容量は大して変わらない。アインシュタインの脳は常人よりもむしろ小さかった。

人間はそれ自体、完璧なものである。だが、それをダメにしてしまうことは可能だ。歩かない人間の足がやせ細るがごとく、知性も使わなければしぼんでいく。

そうした生理的な衰退を、故意に利用するものもいる。それがひとつは権力のはたらきなのだろう、人間を知性的動物ではなく、家畜にかえてしまう力。それが権力である。

そうして権力のはたらき、実態をもって機能しているこの権力を考えてみると、ネットでよく言われるような「マスコミは嘘をついている」「日本はアメリカに支配されている」といった事柄が、事実のように思えてくる。

また、3.11で経験したような、情報統制や、子どもたちを無用に被爆させた為政者たちの不可解な行動も、説明ができる。本心はつかめないものの、ひとつの確たる事実は、彼らが日本国民を家畜のように考えているということである。

上記以外にも、「為政者と畜群」という構図を考えてみると、長年の疑問だったことがすんなりと氷解することがあった。おそらくこれは被害妄想ではなく、より真実に近しいのだろう。

ぼくはこの新しい視点をとくに絶望するでもなく、いたって平静に受けいれたのだが、その瞬間、ぼくはひとつのイニシエーションを感じた。自分という人間が変わったのである。そうして、ぼくは前述の「羊」から「弱者」になった。この変化が昇格か降格なのかはわからないが、柵の外に出てしまったことは確かだ。


ところで、前に「愛」について考えた、あれはクソみたいな文章になってしまったのだが、きっちりと辛抱強く考えればすばらしい本が一冊書けるのではないかという気がしている。実際、「愛はないんだ」と知ったときは、小躍りしたくなるような喜びに包まれた。その喜びは、どちらかといえば精神の内奥からくるものであったので、おそらく真実に近いのだと思う。

最近思うのは世の中には不必要なものが多すぎるということであるが、実のところ、ものだけでなく概念にも不要なものが多いのである。愛はない。愛はないと考えてみると、世の中はすっきりする。

ぼくらはある概念があると、それに対処するよう思考がはたらく。「愛」という概念が与えられたならば、これは愛だ、これは愛ではない、愛すべきなのか、愛されるべきなのか、という風に思考する。

言葉は道具である。ぼくらは道具を前にするとまず「使う」ことを選ぶ。ところが、それが「存在するのか、存在しないのか」は目がいかない。

トンカチのような道具は、たしかに存在する(ややこしい哲学的解釈はいらない)。ところが言語=抽象的な概念は、それが存在しないということがありうるのである。

愛という概念は、多くのひとびとに共有されているから、疑問にも思わない。しかしその実態は無である。存在しないものから無理矢理捻出した概念は、これはオカルトと変わらない。

ぼくらはコモン・センスのなかで、愛という設計図をやりとりしている。しかしそれは欠陥があるので、だれも作りだすのに成功しない。これがトリックである、この世界に愛は存在しない。よって、ぼくらは滑稽な錬金術師に落ちぶれる。

愛という言葉はキリスト教が発明した呪詛である。愛によってひとはひとに縛られる。こうして人間たちのいびつな凝析物ができあがる。パノプティコンの看守にとっては、とても扱いやすい囚人ができあがる。

キリスト教によってローマ帝国は滅びたと言われることがある、それが事実なのかもしれない。キリスト教は愛の宗教である。愛の宗教が生みだしたものは、とんでもない放蕩の世界であった。「余計なもの」の世界であった。それは、人が殺し合うような見せものであり、脈絡のないセックスであり、豪勢な食事であり、貴族たちは味覚を満足させるため、食べては吐き、吐いては食べた。

余計なものが、余計なものを産み、連鎖してゆく。これが現代に通じる毒素であり、ガンである。


以上散漫に書き綴った。しばらくこうしてだらだら書くことがなかったので、勝手にひとりで楽しんでいる。


す しお ふろ

今日の雑記の「CH3COOH」は酢酸を意味する。こうして書くと、上下がシンメトリーで美しい形をしている。丸みをもったC, O, 3と、引き締まるようなHのバランスがいい。陰陽の調和というべきか。

そんなことはどうでもよくて、最近は「酢の風呂」に入るようにしているのである。

手順は簡単で、風呂に、酢をコップ一杯いれるだけ。

酢は消臭効果があるといわれている。民間療法だが、ワキガのひとに有効であるとされている。また酢には弱い界面活性のはたらきがあって、洗浄力もあり、弱酸性で殺菌効果ものぞめる。ちなみに匂いはそこまで気にならない。

ついでに塩を何十gか加えると、これは冷え性対策になる。足先までぽかぽかになる。また塩にも多少、洗浄効果があるようだ。

この酢+塩風呂に長く浸かっていると、身体のほとんどの汚れが落ちてしまう。浴槽のなかでよくすすげば、髪の汚れも落ちる。信じられないかもしれないが、シャンプーはいらない。軽くシャワーですすぐだけで快適になる。

酢は業務スーパーで80円/500ml、塩は50円/1kgなので、それなりにコスパはいい。

ぼくはこれで肌が良い感じになって、身体のあちこちが痒いのがなくなった。自分ではわからないが、たぶん体臭も軽減したのではないかと思う。また、髪にコシが戻って、妙にふわふわになった。頭皮のかゆみもなくなった。たぶん、シャンプーが悪さをしていたのだろう。

ようはシャンプーも「余計なもの」なのである。愛が消費社会を作り、消費社会がシャンプーを作った。ここにも、余計なものの連鎖があるということだ。

日本の騒音は世界一ひどい

日本という国に耐えられない、と思うことがある。ひとつに騒音に対する寛容さ、というか鈍感さである。

ご近所さんがうるさい

現在進行形で今もそうなのだが、ぼくのアパートの隣の戸建てで、独居老人がDIYをしている。なにを作っているのか知らないが、カンカンカンカン、金槌で打ち付ける。金属研磨をするようなチュイイイインという甲高い音が聞こえることもある。

ぼくはだいたいそれに起こされる。かなりの音量で、外を出てみると、200mくらい離れたところでも聞こえる。静かな住宅街だからだろう。非常によく響いている。

日曜だけならまだわかる。しかし老人に休日の概念はない。ひどいときは朝から晩まで、ずーっとカンカンやっている。

カンカンカンカンカンカン……カンカンカン……カンカンカンカンカンカン
 ……チュイイイイイイイン……
(x∞)

これも八時くらいから始まるようになったのでまだマシだが、ぼくが連日警察を呼ばなければ朝の四時や五時から平気で始めていた。(市役所が無能だったので警察を呼ぶしかない。こういうときは110番が有効だ)

しかし、思うのはその周囲の住民である。

住宅街なので、老人宅の周囲にもぐるっと住宅が並んでいる。こいつらは、うるさいと思ったことはないのだろうか?いや、明らかにうるさい。叩き起こされる。音楽を聴こうとすれば、カンカンカンと邪魔してくる。本を読んでいても、それを邪魔される。耳栓をしても、ホワイトノイズをかけても、突き抜けてくる。(ぼくはこのアパートにいるときは常に耳栓かイヤホンをしている。おかげで外耳がただれている)

こいつらはバカなのか?なぜ辞めさせない?

田舎から出てきたぼくが、なぜしたくもない110番をして老人の暴挙を辞めさせなければならないのか。いったいなぜ近所住民はここまで寛容なのか。

ちなみに、向かいの家も異常である。ぼくが指摘するまでは、ぼくの窓の3m向かいに犬を飼わせ、ぼくが何かするたびにワンワン吠えさせた。たちの悪いことに、ほとんどしつけがなってない。夜中の一時までは吠え続ける。犯罪的だ。

本当に、犬を殺してやろうかと思ったが、動物に罪はないので、保健所に電話して「ぼくの部屋の窓のすぐ向かいに犬がいる。こんな異常な飼い方は今すぐ辞めさせてほしい」と伝えて移動させた。それはよいのだが、たまに向かいの家の主婦とすれ違うと、睨んでくることがある。

ぼくが悪者なのか!

この国はぼくの知らない文化やルールが支配していて、ぼくはそれを破っているイレギュラーなのかもしれない。それはおそらくどんなにうるさくしても構わないというルールで、他人の安眠を妨害してもいいし、他人の読書を妨害しても、それは「お互い様」なのである、ぼくが耳栓をしなければならず耳がかさぶただらけでも、うるさいときはカフェや学校に非難しなくてはならなくても、家にいるときに安心できず、血圧があがって妙な動悸がすることも、すべてぼくが悪いのである。きっとそうだ。

ずっと犬が大好きだったが、いまでは蹴りたくなるくらい嫌いになってしまった。将来は猫を飼いたい。猫は静かだからだ。少なくとも、一日中吠え続けることはない。


◆電車がうるさい

電車内とホームのアナウンスは、本当に、迷惑そのものであり、「電車がきますご注意ください黄色い線の内側におさがりください車内奥ほどにおつめくださいご乗車ありがとうございます○○線はお乗り換えください車両とホームの隙間があいていることがございます傘などの忘れ物が増えておりますお忘れ物のないようお気をつけください」などと延々アナウンスしている。大音量で。

海外に行ったことがある人ならわかると思うが、電車がきた場合、ポーンという鐘がひとつ鳴るだけである。それすらないことも多々ある。海外の方がよほどワビサビの世界である。

ぼくは電車アナウンスには3つの意味があると思っている。ひとつに、車掌の自己満である。車内全体に声を響かせることは、たいへんな優越感を呼ぶ。

校長先生のお話が長いのは、彼が話好きなわけでも、また話すべき内容が多いわけでも決してない。ただそれが快感だからである。その瞬間かれは神なのである。車掌のアナウンスは歌うような「鼻についた」しゃべり方だが、まさにナルシシズムの表れであり、いわば自慰行為だ。

もうひとつは、確かに効果があるのだと思われる。つまり、100回も1000回も聞かされると、そのとおりに動いてしまうという人間の心理がある。これはテレビCMのしつこい繰り返しを見ていればわかるだろう。

毎日聞かされる電車通勤のひとは、車内放送をどう思っているのだろうか。「もはやうるさく感じない」というのが本当ではないか。

そのように無警戒にメッセージに接するときが、いちばん危ないのであって、無意識でコントロールされる人間の一丁上がりというわけである。経営者や政治家などの支配者層は特別な事情がない限り電車に乗らないが、こういうマインドコントロールを避けているのである。


Brainwashing now

最後は単なる責任逃れだ。アナウンスしないから電車に轢かれました、というひとが1000万人に1人いるかもしれない。ぼくらがアナウンスを我慢するおかげで、彼らの命は救われるのだ。

テレビがうるさい

テレビでは口角に泡を飛ばしてぎゃーぎゃー喚いている芸能人だらけで、くだらないSE、BGMで埋め尽くされる。音量を下げればよいのだが、そうすると情報が入ってこないし、そもそも視覚的にもギラギラしているので無音でもうるさいという現象が起きている。

ぼくはもう二年以上テレビを見ていないのだが、Youtubeで海外の番組を観ると、たいへんほっとする。ほっとするというのは、テレビという媒体が健全であることは可能であり、日本のメディアがただ異常なだけだったのだ、と気づくことができるからである。

◆おわりに

商店街や町内放送なども挙げたかったが、ここら辺で辞めておく。日本の騒音はおそらく、世界一ひどいのではないかと思う。少なくともぼくが旅行した国では、日本以上にうるさい国はない。

日本は不名誉な世界一が多い。コンビニで売られているエロ本の数は世界一だろう。ギャンブル依存症も世界一だ。サービス残業も世界一。電車の混雑度、世界一。(そういえばパチンコ店はまさに騒音ボックスだが、その中で不動で座っている姿は実によく日本人の性格を表している)

こうした日本の異常性を考えると、日本の騒音と戦うことをあきらめて、国外に出ていくしかないものと思われる。

ブログや書籍でささやかにレジスタンス活動をしているものもいるが、結局すべての人間の価値観を変えていかなければならないので、ペリーの黒船級の衝撃を日本国民に与えないと無理なのではないか、とぼくは思っている。


黒船襲来 - 20XX


1.06.2015

愛は存在しない

ひとはほんとうに誰かを愛することは決してない。唯一愛するのはその誰かに関して作り上げる観念だけだ。愛しているのは、自分がでっちあげた概念であり、結局のところ、それは自分自身なのである。(「不穏の書」ペソア)

「汝の隣人を愛せ」

という有名なフレーズがあるが、この言葉につねに違和感を覚える。

愛するとはどういうことなのか?

何度も書いたことであるが、ぼくは恋愛のできない人間である。しかし、ぼくは決して攻撃的な人間ではないし、友好的にひとと接することも、できないことはない。社交にも、それなりに喜びと楽しみを見だすことができる(最近は)。

だが、他者を愛することとなると、難しい。親交は長く続くが、愛は長く続かない。なぜなのだろう。

愛は、他者を近づける。他者を「思いやる」。しかし、他者を見ていく以上、嫌なところが目につく。離れたい。そこで作用する言葉が「愛」である。「愛」によって、多少のことは目をつぶるし、我慢してやる、ということになる。すなわち、自然状態においては相性の問題から距離をおくような相手を近くに置き、堪え忍ぶ努力、これが愛の本質である。

愛はその性質からして非自然的であるので、あらゆる不安定な化合物がそうであるように、エントロピー増大の法則に従い容易に瓦解する。よって、愛はおのおのの恒常的な努力によって成りたつ。愛にはエネルギーをつねにそそぎ、その形態を維持しなくてはならない。

すなわち、愛とは、他者への嫌悪をごまかすまやかしである。嫌な相手とも一緒にいられるような強制力が「愛」である。すばらしいと思うだろうか。ぼくは嫌な相手からは離れたいが。


また、とくに恋愛において嫌になるのは、相手を独占したいという願望である。ぼくは性的に適齢の人間が、だれとセックスしようと自由だと思っている。しかし、愛はそれを束縛する。愛という概念によって、嫉妬の感情が惹起される。それが両者をコントロールする。

愛とはひとつの約束である。結婚式場において聞かれる「永遠の愛を誓う」とは、その相手を永遠に愛するという意味のほかに、「相手以外を決して愛さない」という暗示がある(というかこちらの意味あいの方が強い)。また、恋愛においても「告白」という契約の場がある。「付き合ってください」「よろしくお願いします」これが恋愛の契約である。それを避けていても、「私たちって付き合っているんだよね?」と契約を迫られることになって……焦る。

愛は契約である。愛があるところに、醜悪な嫉妬の感情がある。嫉妬の感情は、復讐、私刑を容認する。つまり、これは約束の反故に対する処罰である。

以上をまとめると、愛とは、ある人間とある人間が近しい関係にある場合、その関係を維持するようはたらくものである。その内容とは、ふつう思われているような本能的な「恋愛感情」とは違い、多分に理性的な「契約」によって支配されているのである。嫉妬の感情とは「契約違反」に対する怒りである。

ところでもうひとつ嫉妬の感情が生まれる場所がある。それが資本主義である。市場経済においては、上流階級が底辺層の何百倍もの資産をもつ。このような不平等が、怨嗟を生む。資産とは、おおむね金である。金はそれ自体に何ら価値はなく、約束によって成りたつ。よって、資本主義社会は契約によって成りたつ。すなわち愛と同質である。よって、資本主義社会の増長とともに、愛の概念もこの世を覆い尽くす。我々は公的な生活、私的な生活ともに、嫉妬と怨嗟に飲み込まれてゆく。

嫉妬の感情はルサンチマンのものである。よって、愛はルサンチマンを大量生産する。キリスト教が奴隷道徳であるという点は、これによって証明される。

われわれは、愛を求めるべきではなかったのだ。

愛から離れ、資本からも離れる。これが強者の倫理である。

個人的には、「愛は存在しない」と考えるとすべてがうまくいく。つまり、愛という言葉は総合的無意識に作用する呪術であり、つくろうとしても決してうまくいかないものである。われわれはシーシュポスの神話のように、徒労に終わる努力を一生涯続けることになる。

宣教師がやってくるまで、日本には「愛」という概念がなかった。愛とは仏教の言葉で性交を示したから、宣教師が「隣人を愛せ」というと庶民は大笑いしたという。それでは非西洋的な日本が野蛮な国だったかというと、そんなことはない。むしろ当時では、キリスト教が邪教だったのだ。とくにカトリックはひどい。「キリストの絵を踏むくらいなら死ね」と教える宗教がカルトでなくてなにか。

話がそれた。恋愛⇒結婚の流れは不自然であると思う。まあフリーセックスなんてバカげてるが、自由を求める人間にとって、恋愛とは不要なものだったのだ。だから、最近の「彼女彼氏がいない」という傾向はいいと思う。もしかすれば、いまは愛という概念に革命のおこる過渡期であって、出生率の低下も、今後改善していくのかもしれない。

1.05.2015

統合失調症について

道化師は王さまを笑うことのできる唯一の存在だった。

道化師とは現代風にいえば統合失調症である。彼はあらゆる点で自由であり、彼にとって王を頂点とする権力構造は存在しないものであり、慣習や模倣の概念がなく、よって正しき文法は存在せず、定住の概念はなく、飢えや肉体的苦痛などには生理的な反応を示しても、死というものに対しては、必ずしも恐れを抱いているわけではない。

ところが、今では王さまを笑う人はだれもいなくなった。王さまは道化師を牢獄に押しこめた。道化師は病気だからである。

そうしてできあがった社会は、珍妙な有様だった。まともな人間に構築された社会は、すぐに窒息しそうな疲弊感を生んだ。

現代の統合失調症患者の妄想は、つまらない。一般にトンデモな妄想が多いとされるが、最近では、妄想の没個性化が進んでいる。いわく「盗聴されている」「つきまとわれている」「監視されている」といったものが非常に多い。

よく考えると、これらが示すものの総体は「監獄」であるといえる。監獄とは、監視される牢獄である。このメタファーは真実である。

彼らが自由であることは、数千年前から変わらない。自由である彼らは、常人よりも容易に真実に辿り着く。であるから、彼らの妄想=真理が画一的になったとすれば、それは我々の社会が画一化していることになる。

画一化とは、相互監視、相互盗聴、私刑の容認推奨される全体主義であり、ファシズムである。彼らは実際のところ、監視されている。それは彼と物・者の間に浸透した権力によってである。よって、彼の「被害告発」は真実なのだが、医師はそれを「典型的妄想」と片付け、アリピプラゾールを飲ませ、患者をまともに社会復帰させる。

狂人は病気になった。治療すべき病気になった。統合「失調」症という言葉は恣意的につけられている。つまり、この患者は何かの能力を失っているのであり、反対に我々の認識を凌駕した真実を語っているのだ、などとだれも思わなくなった。

かつて、道化師は、真実の言葉を話した。王さまはそれを好み、つねに周囲においた。今、真実の言葉は、牢獄のなかでむなしく響くばかりである。

ところで精神病院だけが牢獄なのではない。この社会全体が広い牢獄なのである。



Charles Steffen
Charles Steffen 1994 

1.04.2015

貧しさについて

私がおもに語りかけたいのは、あぶく銭をかき集めてみたものの、その使い方も捨て方もわからず、自分用に金銀製の足かせを鍛えている、見かけは金持ちだがあらゆる階層のなかでもぞっとするほど貧しい、あの階層のひとびとである。(ソロー「森の生活」)

世の中には貧しい人が増えた。

ところが、「そんなことはないよ。日本は豊かな国だよ。恵まれてるよ」と言うおバカがやたら多い。なので、いろいろ考えてみた。


コンビニの弁当を食べることは貧しい。チェーン店の牛丼も、また貧しい。料理をする時間がない。買い物にいく時間がない。どう料理すればいいかわからない。片付けをする気力がない、という。これは全て、貧しさの証左である。

コンビニの総菜パンがありえないくらい小さくなっている。チョコレートは本当にカカオが入っているのか、と疑いたくなるチープさ。乳製品は総じて高すぎる。ポテチはほとんど量がない。これらは、貧しさの証左である。

ストロング系のチューハイが定着したことは貧しい。酩酊のために口にする酒は、大変まずい。「しらふではいられない」から、酒を飲む。精神的に貧しくなっているのだ。(ぼくもたまに飲むのだが)

スマホのゲームをすること、くだらないテレビを見ることは貧しい。例え無料であっても、膨大な生活の時間が奪われていることに気づかない。日本人はパチンコに平均年間30万円費やしていて世界一のギャンブル狂だそうだが、これは心も貧しいし、財布も貧しくする。

日本のドメスティック(国内)ブランドのぺらぺらの服を着てる奴、これも貧しい。輸入品でも、たいていが輸入元の価格の二倍も三倍もふっかけている。日本の衣料品は本当に値下がりしないのでびっくりする。海外の通販サイトでは、セールで80%引きから、さらにクーポンで20%引きなど普通である(言っておくが、0%になるわけではない)。だからうまくすれば日本の価格の何十分の一で買える。このことを知らないで高い服を買わされている日本人は、貧しい。

白熱球の代わりに、蛍光灯をつけることは貧しい。昔ある女が、「私インテリアに凝ってるの」と言っていたが、部屋に行ってみると、確かに家具それぞれは凝っているが、青白い蛍光灯がすべてを台無しにしていた。まさに鼻白むという奴だ。明るさが豊かさの象徴だった時代をいつまで引きずっているのか。こういう人間にとって、レストランやバーよりも、スーパーの生鮮売り場の方が居心地がいいのだろう。つまり、感受性が衰えている。美や生活に対する感受性が欠如している。習慣に屈服している。
これは、貧しい。

同様にして、電柱だらけの町並みに文句を言わないこと、あらゆる地点において警報音や録音音声のガアガアうるさい日本の屋外すべて(電車、バス、エスカレーター、店舗、商店街、住宅街)の環境に疑問を抱かないこと、これもまた貧しい。騒音は暴力である。何度でも繰り返してやりたい。騒音は暴力である。

くだらない「じぇいぽっぷ」を聴くことも貧困である。別にテクノでも、プログレでも、ジャズでもクラシックでもそれは構わない。ただ「じぇいぽっぷ」は本当に粗悪品である。たまにコンビニで流れているのを聴いて、愕然とする。これのどこが音楽なのかと。こうしたものを好む人間は間違いなく何かに取り憑かれているのであり、したがって搾取される側の人間であり、これは貧しさを示す。
また、ハードロックは集団陶酔であるので、これは貧しい。(ごめんなさい)

ちっぽけなうさぎ小屋に住んで、クソ高い家賃を払っているのも貧しい。

子どもをつくらずに、働く女性。これも貧しい。女の幸せはどこにあるか、三秒考えればわかることである。

通勤一時間以上、満員電車、これは深刻な貧困である。通勤先の会社がブラック企業であれば、世界最悪レベルの貧困だろう。

一説によると、満員電車のストレスは戦場のストレスと同じくらいひどいとか。このように、PTSDクラスのストレスを抱えながらも会社に通うこと、これはとんでもなく貧しい。


以上、この世の大半の日本人は貧しかったのである。証明終わり。

ぼくらの過去の偉人たちは、ぼくたちが貧しい想いをしないように、すばらしい作品を遺してくれた。それがなくとも、海や森のような自然がぼくらに豊かな環境を与えてくれた。これらを味わうことが本当の贅沢である。

ところが大半のひとは、そんなものに目もくれず、汚くうるさい街に住み、金をどぶに捨てて、ガラクタや毒をかき漁っている。

なにも金を持つことが豊かさなのではないことは、上記を読めばわかるだろう。中流階級、年収1000万円程度の人間は、まだ貧しい。300万円程度の下流の方が、幻想を追い求めることなく、節約の楽しみを味わいながら、よい生活を送れるのかもしれない。

本当のよき生活とは、一冊の本、静謐な環境、木漏れ日、適度な仕事、たっぷりの余暇なのである。もっとも、これらはぼくにとってそうというだけで、人それぞれ違っていいと思うが。



ところで、先の中流1000万円・下流300万円という区分は間違っている。いまは300万円も稼げればいい方だ、ということになっている。が、わざとつけた。

2時間の通勤。12時間の派遣労働。日給6400円(-交通費)。ボロアパートに帰ってコンビニ弁当、ストロングチューハイ。この世を呪い、就寝。こういう貧困のモデルのようなひとが急増しているように感じる。これは間違いなく絶望的な貧困だ。

ぼくのような学生が、他人を貧困だと指摘することは正しくない、あるいは不快だ、という指摘がある。また派遣労働者のひとにしても、「俺はまともな社会の一員だ」「俺は幸福だ」と反発することがあるかもしれない。しかし、彼が貧しいことは事実だ。

問題は彼が貧しいのは自己責任ではなく、したがってぼくは彼の貧しさを責めたりあざ笑っているのではなく、日本の構造的な欠陥(ある意味で正しく機能した搾取の構造)に激しい怒りをもって抗議しているのだが、そんなことにも気づかないのであれば、これもひとつの貧困に数えることができるだろう。

ぼくのようなある意味で恵まれた人間が、貧しい人から目を背け続けた結果が、今の日本だと思うのだが? 違うだろうか。



参考:
電柱あるなし

以下2chがメイン
960 :(。´ω`。):2014/10/31(金) 06:32:22.39 ID:82Mt7KG2O>>613
おれセコムに勤めてたけどセコムにもシャワーはないんだ。
なんでかって言うとね、
昔はシャワーありの支社もあったの。
でも24明けだか36明けにシャワー浴びたら、心臓麻痺で死んじゃった社員が出たんで、
一切禁止になったんだってさ。
死ぬなら自宅で死ねって。 

都心部に通ってた頃、乗り換え一回で一時間半の通勤だった。
毎日々々クソ混んでる路線で、ある日キチガイ女とオッサンが俺のとなりで
キ「あんた触ったでしょ今!
オ「あぁ?!殺すぞババア!!
とか喧嘩はじめて、こんな蟹工船に揺られてちゃ俺も心を病むと思い、翌日からマイカー通勤にした。
月に5~6マンはかかったけど、心身病むのに比べたら安い。

『幸福の政治経済学―人々の幸せを促進するものは何か』
という著作を発表したスイスの経済学者ブルーノ・フライとアロイス・スタッツァーは、
「通勤パラドックス」と 呼ぶ傾向を明らかにしています。
それは、人は住むところを選ぶとき、長い通勤時間の苦痛を 過小評価するというものです。
つまり、たとえ45分余計に通勤時間がかかっても、部屋数が多く
芝生の庭も付いた郊外の家に住めば 幸せになれると人々は考えがちになるのです。
フライ氏とスタッツァー氏の計算によると、通勤に1時間を要する人の場合、
職場に歩いて通える人と同程度の満足度を得るためには、
その人よりも40%多くお金を稼がなければならないという。

会社でパワハラを受けてていて自殺も考えていた頃、母校の大学の研究室に1人で営業に行けと言われいったときの帰り
学生街のゆっくりな時間の流れ、楽しかった思いでが蘇り、道ばたで自然と膝をついて泣いてたわ
それから数時間後に辞表を作成した 

陰謀論びより

陰謀論がおもしろい。

単純におもしろいので昨日などは朝から晩まで陰謀論のサイトを読んでいた。もちろん大部分は眉唾だ。3.11は人工地震だった……9.11は自作自演だった……この世は爬虫類人に、裏天皇に、ユダヤ人に支配されている……とか。

まあ「フリーメイソン」が暗躍している、というのは少しばかり信用できる。

というのも、アメリカの象徴である自由の女神は「フランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソンリーの間に交わされた贈り物であった(wikipedia)」とあり、アメリカの国父であるワシントンもフリーメイソンリーだった、というのが史実としてあるからだ。

「初期の移民は宗教闘争から逃れてきた者が多く、その中にフリーメイソンの会員が数多く含まれていたことに起因し、フリーメイソンの理念と集会はコロニーの人々をまとめる役割を持った。アメリカの建国にたずさわったベンジャミン・フランクリンやジョージ・ワシントンなど、「アメリカ建国の父」56人の内、53人が会員であった。(wikipeidia)」

つまり、アメリカはフリーメイソンに支配されていたんだよ!

な、なんだってー。

となる。ちなみにあのモーツァルトやバッハ、シルレルやゲーテもメイソンリーだったとか。ちょっと驚きである。ともあれ、作品が優れていることに変わりはない。ウェインショーターやハービーハンコックがSGIでもぼくはファンだぞ。



陰謀論は楽しい。なぜ楽しいのかわからない。ある人が、「歴史は小説で、神話は真実である」と言っていたが、陰謀論というのはたしかに神話的である。なるほど、神話的だから惹きつける魔力を秘めているのかもしれない。

ここ最近、ぼくはずいぶんおかしな方向に行っていると感じる。まっとうな学問的書物を読まなくなった。そうして、オカルト本とか、陰謀論のサイトを読んでいる。

ただまあ、自分に好き勝手させてみようと思う。生暖かい目で自分を見守ってやろう。

いちばん大きい、しかも意外な影響を与えるのは、まさに「娯楽」のために「快楽だけを目的として」読むものだ、と皆をびっくりさせるようなことを私は言いたいのである。知らぬ間にやすやすと感化を及ぼすのは、骨折らずに読む本だ。(「文芸批評論」T. S. エリオット)



昨日、日本の将来が怪しい、ということを書いた。

以下を読んでみると、確かに日本は「沈みかけた船」どころか、「だれも自分が死んだことに気づいていない幽霊船」なのではないかと思ってしまう。本当にそうなの?ということもあるが。

知れば知るほど絶望する国、それが日本

最近は適当なことばかり書いているな。正月ボケかもしれない。

1.03.2015

日本が終わるにおい

動物的な嗅覚で言うならば

日本という国はもうかなり崖っぷちにきていると思う。

なんだかんだ言って、ここ十年ばかりは、日本は大丈夫だった。が、原発事故を境に、どんどん悪化していった。あと数年後に、日本がどうなっているのか、これがまったくわからない。

ひとは未来にビジョンを描く。ビジョンを描くから、30年のローンで家を買う。死後のことを想い、信仰心をもつ。これが人間の能力だ。

ぼくも卒業したら、今と同じような日本という国でなにかしらの仕事をする……ということを頭に描いていた。が、なんだか最近は、そういうビジョンはびりびりに破られて、よくわからない灰色で描かれている。

ぼくは本を選ぶときに単純な嗅覚で選ぶようにしている、本棚のなかで光るものがあったらそれを読む。あるいはブログのだれかが紹介していたような本を、運命的な導きだと感じたら、それを読む。理性というよりは、無意識的な本能にしたがって読むようにしている。

そうすると、まさしく自分が求めているようなことが書かれていて、本能はすげえ!とひとり感服してしまう。

ところで、以前は文学や哲学を読むことが多かったのだが、最近は趣がずいぶん変わってしまった。

ぼくの読む本の内容は、日本という国がどのように動いているのか、日本の方向を決めているのはだれなのか、これから日本がどうなるのか、という比較的ミクロな世界にうつっていった。

これは自分でも意外だった。最初は、むつかしい文学に嫌気がさしたのか思ったが、考えてみると、日本の危機、つまり自分の環境の危機が、より喫緊に迫っているということなのかもしれない。いわば災害にいちはやく気づくねずみや鳥のように、ぼくの本能が警戒している。

だいたい哲学というのは……古代ギリシャや、近代ヨーロッパのような平和な時代につむがれるもので、緊急中には見向きもされなくなるものだと思う。

ぼくはテレビを見ないので、世の中がどのように動いていくか、ブログやネットニュースを読んで判断している。鋭敏なひとはおおむね、ぼくと同種の危機感をもっているようだ。ちょっと日本おかしいぞ?と。いや、いままでもおかしかったが、加速度的に異常さが進んでいる、という。

日本人は、動かない。主体ではない。政治的に無能化されている。だから、お上が何をしようとあずかりしらずだ。原発事故が起きて、こどもたちの甲状腺ガンが増えていても、だれも責任を取らないという国が日本である。賠償金は電気料金にうわのせでも、黙って払うのが日本人である。(あ、すごく腹が立ってきた)

たとえば、「食べて応援」なんてキチガイキャンペーンがあったけれども(外国人は唖然としたらしい。あたりまえだ)、協賛している企業の役員や、政治家、官僚が食べると思うだろうか?自分の嫁や子どもには「そんな危ないもの食べるな」と言っているはずだ。馬鹿な国民になにもかも背負わせようとしている。消費者は豚だからいいんだ。また増えるさ、と。
ぼくの母はいまだに善意で福島県産の干物など送ってくれるので、途方に暮れてしまう。

ブログのひとたちは、こう言っているようである。これからは、きちんといろんなことに気づけるひとだけが生き残って、何も考えずにのらくら生きているひとは絶滅すると。オカルト系のひとは、これが自然淘汰、人類の進化みたいに言っているひともいる。

具体的に日本がどう変化し、どうなるかについてはぼくは言えない。安部ちゃんが独裁政治と話題になっているが、ぼくはそうは思わない。独裁政治だったら、マスコミの役員と食事会する必要なんてないよ。「こうしろ」で済むんだから。実際は寡頭政治だ。限定された支配者層による政治。まあ独裁だと思われた方が、その他大勢のひとびとにとっては都合がいいのだけれども。

最近の異常な金融緩和や法改正は、日本の支配者層が「勝ち逃げ」したいがための政策に見える。沈みゆく船から金品財宝をもって逃げ去るための準備。

結局は未来のことだから、どうなるかはわからない。ただここ最近で空気感がはっきりと変わったように思う。たぶんこう感じているのは、ぼくだけじゃないはず。まあ知ったところでどうにもならないのが悔しいところではある。

ところで、ゴルバチョフはこう言っていた。「ソ連が崩壊したのはチェルノブイリ原発事故のせいだ」と。この状況と、よく似ているのかもしれない。チェルノブイリの事故があってから五年で、ソ連は崩壊した。五年……。


断食礼賛

嗅覚を鍛える方法。いったん全てから離れ、隔絶する。

例えば断食をすると、本当の食べ物の味を知ることができる。断食を数日間行い、スーパーに行くと、商品のほとんどが人間の胃にそぐわない、奇怪な人工物であることがわかる。同じように値札を貼られているから、きらびやかに飾られているから、またCMで美人女優が食べているから、人間は騙されて、そういうものが「美味」で「必要だ」と思い込まされる。

が、飢餓状態に陥った動物は、はっきりと見分けることができる。大衆がこぞって喜ぶような、きらびやかに飾られたケーキや豚の丸焼きは、毒でしかない。

たぶん、断食をしたならば、人間の胃にはお米と、味噌汁、あとは少しの野菜、ときに魚介類。それらがあれば十分であることに気づくだろう。

この断食をいろいろと応用してみるといいかもしれない。理性に対する本能の台頭。いわば、滝に打たれるようなこと、常人が絶対にしないことをしてみる。魂に磨きをかけるということだ。

テレビや新聞のような大味な情報も、いったん廃絶してしまうといいのかも。雲や山のような自然がどれだけ豊かな情報をもっているかを知ることができるだろう。なんか仙人みたいだけど。

1.02.2015

困ったときの自己頼み

ひとびとは自らを保持することを知らなければならない。これが独立についてのもっとも峻烈な試練である。(「善悪の彼岸」)

ぼくが毎年やっている年越しの儀式があることは昨日書いた。うすぐらい部屋で鏡に向かい、「自分」に願をかけるのだ。別にだれに教わったことでもないが、実はこれは、意外と有効な手段じゃないかと思っている。

一般的には、神社で神頼みすると願いが叶うとされている。ぼくとしては、本当にそうなのか?と首をかしげざるをえない。

そもそも神社というものは、天皇を頂点とする国家神道を定着させるため、明治政府の国策によってあたふたと作られたものだ。つまりその構造として、支配と統治の概念がある。

支配と統治とは、ようは平民に力をもたせないことである。さすがにぼくたちは政府が「みんなが平和に楽しく暮らすため」の存在でないことには気づいたはずだ。その反対だ。生かさず殺さず、である(これが端的に表れたのがブラック企業)。どのような統治においても、市民の反乱ほど恐ろしいものはない。
主人は奴隷を恐れるからこそ、奴隷にとって恐るべき存在となる(「自由と社会的抑圧」)

そんな神社が、平民に神の助力なんて与えるだろうか。

「神さまにお願いすればいつか叶う」という曖昧な報酬体系が、ひとびとの力を奪う方向にはたらいている、とひねくれて考えることもできる。

たしかに、願ったあとに叶うことがある。良いことがあるかもしれない。偶然でもそういうことがあると、神さまのおかげだ、と思うようになる。こうなるとドツボだ。悪いことがあると、神なんていないんだな――とは思わなくなる。お願いが足りなかったのだ、という風に思う。

このように、パブロフの犬やギャンブル依存症のようにスイッチを押し続ける養分的なひとが生まれる。こうして本当の問題からは目がそらされる。

村人が飢えてるのに、厳しい税金のせいにしないで、自分の信仰が足りなかったんだ……って思ってくれたらこれほど都合のいいことはない。信仰とはだいたいこういうもんだ。だから、信仰心が世間的に善とされる。信仰心が美徳とされる。まさにニーチェの言った奴隷道徳だ。

じゃあ本当の問題ってなんだ?となる。

それは自己と環境である。だいたいある問題が解決できなかったとき、自分の能力が足りないか、あるいは環境的要因があった、と考えるのが当然だ。

話がながくなったが、結局行為の主体はどこまでも自分なんである。行為主体を神に委譲することは、間違っている。

そして、自分という存在は、それ自体で完全なんである。だって、君自身はすべてが完全に機能している。肝臓がなかったり、心臓が変拍子刻んでいる、ということは普通ない。完全な君は、為政者と等価である。真の意味で平等である。

だから、君には大抵のことができるということだ。ほんとうであれば、とっくに成功しているのだ。それができないということは、なにかしらの環境要因が君の才能の発露を抑制していることになる。だから、こうお願いすることが大事なのだ。

「自分よ、自由になってください」

自分さんにお願いすることは神頼みよりたぶんより確実だろう。行為の主体はどうしても自己なのだから。おそらくこの「自分頼み」を全国のひとが続けたら、日本はひっくり返る、と、それくらいの力はあるんじゃないかなーと勝手に思っている。

別にぼくは神を否定しているわけじゃない。が、自分を信じずに神を信じるというのは誤謬だ。自分の完全性に目覚めること、これが実存である。

マア安いビジネス書みたいで嫌な表現だが、潜在意識にはたらきかけるのだ。そうすれば夢は叶うだろう。たぶんね。

自らを自己を高めるべきである。自己を沈めてはならぬ。実に自己こそ自己の友である。自己こそ自己の敵である。自らを自己を克服した人にとって、自己は自己の友である。しかし自己を制していないものにとって、自己はまさに敵のように敵対する。(「バガヴァッドギーター」上村 勝彦訳)

1.01.2015

マレーシアの航空機事故について

あけましておめでとうございます。

年越しは楽しく過ごした。あいかわらず独りで過ごしたのだけども、キースジャレットを流しながら、いいウィスキーを飲んだ。

ろうそくと鏡で、例年通り儀式めいた年越しをした。
僕は毎年、0時近くになると人とは違う儀式をしている。テレビもない、電球ひとつの薄明かりの下、正座して大鏡に映った自己と対面するのである。そして過ぎた一年とこれからの一年を想う。(去年の1/1

今年は、「ぼくに世界を正しい方向へ変えるだけの力をください」と神さまにお願いしておいた。ちょっと中二的だが。叶うといいなあ。

年が変わるとすぐに、風がびゅうびゅうと吹き荒れて、部屋ががたがたと揺れた。すごい風だった。今年は変化の年なのかもしれない。


マレーシアが大変なことになっている

マレーシア航空370便が行方不明(2014年3月8日)、マレーシア航空の機体MH17が墜落(2014年7月17日)、今度はLCCのエアアジア機が墜落した。

ぼくはマレーシアに何度か旅行でいったことがある。エアアジアがめちゃくちゃ安いからだ。セール価格なら、羽田からマレーシアまで往復で17000円(サーチャージ込み)で行ける。

席は狭いし食事などのサービスも有料だが、下手に韓国行くより安いってわけだ。(おまけに、全身赤いスーツのスチュワーデスがなんともセクシーでかっこいい)

マレーシアは英語が通じる。宗教はムスリムが多い。華僑が多く、中華街が賑わっている。都市はきれいに整備されていて、アジアでも最高クラスに治安がいい。ペナン島などリゾート地にもことかかない。もちろんベースには東南アジア文化があって、意外と、多様な文化がぎっしり詰まったおもしろい国なのである。

マレーシアに飽きたらば、シンガポールに飛んでも、タイやラオスに飛んでもいい。ちょっと足(羽?)を伸ばせばオーストラリア、インドまで行ける。なんといっても、エアアジアは安い。普通の1/2~1/4の価格で飛べる。

エアアジアはマレーシアの顔である。もとは、現経営者がただで買い取った負債まみれの会社だ。そこから卓越した経営手腕によって世界最大のLCCにのし上がった。けっこうドラマチックに発展した、勢いにのった企業である。韓国におけるサムスンみたいな感じかな。

マレーシアはエアアジアと共に、アジアのハブ的な国家として発展した。インドや中国とは、民族的なつながりがある。タイやラオスなどとは、経済的に、イスラム諸国とは宗教的につながっている。一応、宗主国であるイギリスとの関係もある(チャールズ皇太子が来訪したときは大騒ぎだった)。マレーシアは東京における新宿のようなものだ。東南アジアの中心として栄えるには十分すぎる条件だった。

その矢先の事故である。これは、単なる航空事故ではない。マレーシアを襲う未曾有の危機と言っても過言ではないと思う。

ぼくとしても、大変残念である。一刻も早い乗客の救助と原因究明を望む。



以下余話

個人的に、この一連の事件はどうもきな臭い。日航機123便事故くらい怪しい。通信が突然断絶するわけがないし、こうまで機体が見つからないというのもおかしい。

エアアジアのシンボルカラーは赤。エア「アジア」。アジアの象徴は中国。中国に対する象徴的な牽制とか?エアアジアの乗客はインドネシア人が中心のようだが、370便はほとんどが中国人だった。

もうひとつ、イスラム国家マレーシアを代表する企業への大打撃。宗教的な事情もありそう。まあ、中国とイスラム教が嫌いっていったらだいたい決まってしまうけど。

マレーシア航空の事故が続いたときに、TPP参加を渋っているマレーシアに対する制裁だという憶測が飛んでいた。これはプラザ合意を渋っていた日本を襲った123便の事故と合致する。

ヴァン・ウォルフレンが、「最近のアメリカはおかしい。非常におかしい」と切羽詰まった口調で言ってたけども、ぼくも同様のことを思う。日本では改憲問題で大騒ぎだが、これもアメリカの意向に沿った政策だろう。アメリカが作った憲法だから、アメリカが変える。日本が勝手に変えることができると思うなら、それは迷妄だ。

戦争できるようになって得する人がいるわけで、それは間違いなくぼくら国民ではない。ちょっと、世の中がヤバイ感じになっていきそうな予感がします。(浅い考察だなあ)



ところで、日航機123便事故のボイスレコーダーはなぜかかなりの部分がカットされている。何もなかったら全部公開するはずで、何かしらの不都合な事実があったことは疑いようがないと思う。

墜落現場近くの地元民は、「123便」「御巣鷹山で520人死亡」ということから、即座に「国常立尊への生け贄だ」と直感したらしい。これはちょっと黒すぎるお話。