2.24.2015

死と存在について

お前はバカなのだ、とか、お前には才能はないのだ、とか言ってもらったほうが、ぼくにとっては良いクスリになるのかもしれないが、結局のところ、ぼくは反省というものをしないし、できないし、生来、他者の意見が心を占めるスペースがひとよりも狭くできているので、あまり意味がないことなのかもしれない。

もはや自分にできる最大限の努力とは、自分という存在を勝手きままにさせること、あらゆるくびきや、しがらみを、注意深く取りはらって、西へ行けば西へ行かせ、東に行けば東に行かせるといった具合に、好き勝手にさせることしかないのだ。

かつてのぼくは、ひたすらある方向に自分を進ませようと思ったが、そんなことは非人間的であって、少なくともぼくの精神とは趣味が違った。

そういうわけだから、もはやぼくの仕事といえば、たいしたことは残っていない。自分というコマは勝手に動いてくれる。あとはいかに自己を解放させるかだが、これには知性が必要になる。くびきを外すにも、まずくびきが見えていなくては話にならない。

ぼくに必要なのは自分を解放させてくれる自由としての知であって、よい耳やよい鼻よい目を与えてくれるような知、知るたびにかえって無知になれるような、そういった類の、上質の知でなくてはならない。



まあ社会的存在であるところのぼくは、凡庸な精神の持ち主である。ぼくにできることはたかが知れているのかもしれない。が、名誉とか、死というものは、ぼくのなかでだんだん小さくなってゆくのである。

幸福という状況にあるときの人間精神は不思議だと思う。幸福なとき、人間はかならずこう思っている。「もう死んでもいい」というふうに。受験に受かった。もう死んでもいい。恋人とキスした。もう死んでもいい……。人間が幸福なときに、死という存在は指でつまめる程度に小さくなってしまう。

すなわち、人間が幸福であるときは、人間存在が死という概念を超越するほど強大になるということだろう。これはもちろん一時的であって、すぐに死の不安に捕縛されてしまうのだが。

しかし、人間にとって死は経験不可能なものであるし(「死んだことのある人」はいない)、ほんとうに存在するのかはわからない。ぼくらが死について知っていることは、死はいつか訪れるだろうという憶測でしかない。ただ、一旦イマココを振り返ってみると、ぼくらが存在しているということは真実である。デカルトではないが、まあとりあえず、ぼくらは存在はしている。その存在とは、元来死よりも大きいはずである。

死というのは、理性的憶測のなかにしか存在しない。だから一般的な動物は死を認識しない。もっとも知能の高い霊長類であっても、彼らにとって、仲間の死は「眠り」のようなものだと考えられている。

また、もっとも知能の高いチンパンジー、絵を描くことのできるチンパンジーでも、「想像で絵を描くことが不可能」であることが研究結果で明らかになった。想像という行為ができるのは、ただ人間のみなのである。

このふたつの事実から推測できることは、死という概念は人間という一動物の頭脳のなかにしかないということである。人間固有のものとは言いがたく、おそらく死という概念は、想像や予測といった能力をもった生物であれば、すべてにつきまとう必然的産物なのだろう。

このように、ぼくらが必ず訪れるものだとしばしば考える「死」は、実際には存在しない、と疑ってみることはできる。このことは、現代科学のすべてが、覆される恐れをつねに持っているのと同じである。人間の認識には限界があるということだ。

ところが、ぼくらが存在していることは疑いようがない。ぼくらはイマココに存在しているのだし、死というのは、少なくとも今はないし、かつてなかった。これからあるかも、疑わしい。ということは、存在というものが、本来的には人生において覇者なのである。

以上を踏まえると、必要以上に死を怖れるような行為、死を免れようと努力する行為というのは、自分が生みだした概念に自分が振りまわされるようなものなのである。死は根本的にオバケなのである。

なかには「君は死を怖れるようなことはないという。それなら今死んだらどうだ。飯を食べずに、寒空のなかで餓死すればよい」と思う人がいるだろう。それは当然、まっぴらごめんだ。ぼくはお腹が空いたら、ごはんを食べるし、寒いときには暖房をつけるが、それは死の恐怖とはまた違うのである。死は必ず、肉体の破壊を伴う。それは単純に嫌である。

ぼくらは「死ぬまでのあいだ生きている」のではない。「生きている」、というだけである。端的にいえば、死の中に生があるのではなく、生の中に死がある……。この違いを書きたかったが、うまくまとまらなかった。



十月にはこう書いていた。
ぼくらが必ず死ぬことは事実である。そうであれば、ぼくらがただ食べ、寝て終わるという生活は本当ではない。そうした生活は、むしろぼくらを阻害するものである。ただ肉体的自己を満足させるだけであってはならない。あがき続けるということが、人間の正しい姿勢である。(「死と真理について」)
四ヶ月でずいぶん変わるものだ……。


しばらく、更新が止まるかもしれない。来週までたいへん忙しいので。

2.23.2015

世界一高い携帯料金

日本という国は世界一高いものだらけであってそれというのも市場原理が機能しておらず談合により値段が決まるからだと言われている。

某社が100円で売っているところに別の会社が80円で売る、ここに価格競争が生まれる。その競争で消費者は安くて良い商品を得ることができるのだが、ほとんどの場合このようにはいかない。力をつけた大企業はその力でもって新企業を取り込み、癒着する。

例えばジュースの値段が現在は130円で統一されている。これは事実上カルテルであり独占禁止法に触れるのだが、大企業であれば官僚や司法も抱き込んでしまうので追求されることはない。

この商慣習はあらゆる国内向け商品で行われている。高級時計やスーツでもそうだし、ポテトチップスやカップラーメンでもそうである。だから、海外に行くとあまりに食料品やブランド品が安いので驚くことがある。

資本主義とは何のためにあったか、まず考えるべきだろう。その根幹にはひとびとが豊かに暮らすという目的がある。だから、普通は社会で軽蔑される「商人」はこの世の春を謳歌することが許されたのである。



というわけで大学卒業にあたり携帯料金が自腹になったのでどうしようかと考えて、調べていると、ぼくひとりで月に9000円も払っていることがわかった。これには仰天した。あまりに高い。

月に9000円という内訳は、パケ放題、端末、他サービス料ということらしい。ぼくは特別贅沢な携帯ユーザーではない。おそらく一般的なiPhoneユーザーであると思う。ということは、普通のiPhoneユーザーは、これくらい払っているということだろう。

月9000円、一日にすると300円である。学食の昼飯と変わらないのだ。こんなものを払い続けていたのか……(親に払わせていたのだが)。これにはiPhoneの端末代も入っているはずだが(つまりローン)、これを抜いても5000円程度にはなるはずで、恐ろしい商売だと思う。たかだか電話である。

調べてみると、格安SIMというサービスがあるらしい。SIMを差し込むことで、ネット通信が可能になる。こちらは、最安で月額1000円を切る。高速通信(4GやLTE)も可能だが、少し割高になる。ぼくは一日にだいたい100MBはネットをしていることがわかったので、4Gまで高速通信のできるサービスにしようと思うのだが、それでも月額1500円程度である。
(さまざまな会社があるが、ぼくはiij mioにしようと思う。廉価だし、安定しているらしい。iij mioはドコモの電波塔を使っているので、通信も安定していると思われる)

また通話機能についても、050から始まる電話番号で通話可能なサービスがある。こちらも料金は様々だが、月額0~300円、通話料金は三大キャリアよりずっと安いらしい。ただし、110番通報や119番通報ができないというデメリットがあるとのこと。

以上を踏まえると、「ネットと電話がしたい」のであれば、端末代は別として、月1000円で携帯は持てるのである。そうして、LTEが使いたい、というのであれば月1500円で済む。


まったく、ぼくは自分が情報弱者だったと思う。なぜソフトバンクやauやドコモで、月5000円も払わねばならないのだろう。これは本当に疑問だ。

そうして、世の中の大多数の人間がCMや慣習にだまされて、格安SIMの何倍もの料金を払っているという構図はそら恐ろしいものがある。おそらく、メディアが格安SIMの存在を抹殺しているからなのだろう。大手スポンサーの害となることは決してできないのがメディアである。

そういうわけだから、「これ、もしかして高すぎるんじゃないか?」と思ったことは、しっかりと調べあげることが個々人に要求されるのだと思う。まず気づくこと、それから時間をかけて調べることだろう。

日本では世界一高い料金というのが数多く存在している。高速料金や自動車の維持費もそのひとつで、東京からある地方に車で行こうとしたら、飛行機の10倍時間がかかるくせに、高速代+ガソリン代で飛行機代より高くつくという奇妙な現象が起きている。また自動車免許はその取得だけで30万円かかるが、こんな不合理な制度は世界で日本だけだ。

上述した内容は回避する術がないものがほとんどだが、しかし中には携帯料金のようにコストを下げることが可能な例もある。そうして、「そもそも車は持つ必要があるのか?」と考えてみることも有効だと考える。

それにしても、ブラック企業に勤めて、夜23時に仕事から解放されるような人びとに、ものごとを調べあげて考える時間があるわけがなく、一日10時間もテレビを見るおばちゃんやボケはじめたおじいちゃんにはSIMの差し替えなど難解すぎて理解できるはずもなく、気づかないうちに搾取されつづけるというのが、この日本社会なのだろう。

2.22.2015

重さと軽さについて

そこでわれわれは何を選ぶべきであろうか?重さか、あるいは、軽さか?(クンデラ)

さいきんは自分のような人間にも居場所ができた。ぼくには友人らしいものができ、屈託のない冗談を、交わすことができるようになった。

ぼく自身もたしかに変わったのだろうが、周囲の人間たちのほうも、ずいぶんと変わったと思う。「リア充」のようなひとあたりのいい(しかし軽薄な)タイプの人間を崇拝することは辞め、ぼくのように、口べたで陰性な人間に少し関心がいくようになったようだ。

このような変遷は珍しいことではなく、昔のある時期も、陰性の人間に焦点があたることがあった。だから太宰治はあのアンニュイな顔写真を好んで使ったのである。なにか厭世的で、思索にふけり、神経質そうな写真だ。

アンニュイ
太宰治は精神が不安定になりがちな思春期の子どもたちによく好まれる。自殺だとか生きることのつらさ惨めさとかを巧みな文学表現で描いているのだから、共感できるのだろう。

意外と太宰は、大衆向けのキャッチーな作品を書いたように思う。けっして宮沢賢治のような、真の隠者ではない。あの時代は、沈鬱な作家が受ける時代だった。そのような空気があった。

これは少し前の日本とは対称的である。直近の日本においては、「話術」に優れていることが人間の価値を示した。それはお笑いブームに象徴されるように、ものごとをまじめに捉えず、茶化して遊ぶような、賑やかで、楽しい(そして空疎な)人間が好まれた。職人気質の俳優だとか、まじめな文化人といったものは排除されるか、屈服を強いられ、発言は彼らの笑いにかき消された。

お笑いブームだけでなく、日本全体に、そういう空気があった。現実に、陰性の人間であるぼくは友人も恋人もいない冬の時代を過ごしたし、就職活動においては実能力よりも「コミュニケーション能力」のようなものが重視され、企業人は「プレゼン力」を求められ、読書や芸術のような趣味は評価されず、学生時代に起業したとか、サークルでリーダーシップを発揮したとかが重要になるような、そういう空気が醸成されていた。

流行とは、流れゆくものと書く。あとになって考えれば、なぜこんなものが?というようなものが、持ちあげられたりする。時代は変わった。比較的軽薄なテレビ局であるフジテレビが没落し、やや堅苦しいテレビ朝日が現在は首位なのだという。これも、「軽さ」と「重さ」の逆転といえるだろう。

現在はある程度バランスのとれた時代であると思う。少し「軽さ」一辺倒の時代から、「揺りうごかし」がきている。

この理由を考えると、やはり先の地震と、それに続く原発事故に原因を求めることができると思う。これは説明するといくらでも書くことが可能だが、簡単に言えば、メディアへの強い不信、すなわち饒舌な人間への不信というものがひとびとの心に深く根付いているのだろう。

だからぼくのような口数の少ない人間の情報へ関心が集まり、そうしてぼくは友達が多くなって、日常をちょっぴり楽しく快適に過ごせている、というわけである。

精神病質者はつねに存在する。しかし平時はわれわれが彼らを鑑定し、一旦緩急あるときには彼らがわれわれを支配する。(「天才の心理学」/クレッチマー) 


ファッションの変遷

実際のところ、電通などの広告会社が示すとおり、流行はある程度コントロールできる。広告媒体による流行創生の結晶がバブル期であったと思う。

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バブル期のファッション

この八十年代のファッションが奇異に感じさせるのは、文化と切り離された商業的象徴だからである。ミリタリーコートとか、登山用のジャケット、あるいはブリティッシュ・トラディショナルやヒップホップ・ファッションといったものは、バックグラウンドとなる文化が鮮明である。それらのファッションは文化や歴史に根ざしたものであり、したがって流行するのもわかるのだが、八十年代のファッションはまったくの根無し草であり、背景も意図もわからない。

ファッションとは消費の象徴であり高度に商業的なものであると思う。なぜなら人間は夏はTシャツ、冬はユニクロのダウンを着ていればまず快適なのである。そこでいかに思考をねじまげ、商品を魅力に思わせ、買わせるか、という点に、企業努力がはっきりと表れる。

スタジャン……
少し前、再びバブル・ファッションが流行る、とマスコミが喧伝した。そしてその流行創生はすこし成功したと思う。ぼくの大学でも「なぜこんなものを?」というような服を着ている人がいる。ただ、この流行は小規模に終わり、そしてすでに過ぎ去ったのではないか。前述したようなバブルファッションの欠点もあるだろうし、もう広告メディアの影響力が弱まり、流行を牽引するような時代でもなくなったのだろう。

ただ、いまはマトリックスのアンダーソン君のようなロングコートが流行っているようで、こちらは成功しているようだ。短身の男が着るとちんちくりんでかっこわるいのだが、ある程度たっぱがあればかっこいいと思う。ただ、やはり、大学生がロングコートを着ているというのは奇妙である。


 
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大正時代のファッションを現代に再現/当時の写真
ある外国人が、経済成長期の日本を訪れて、「昔の日本人女性はたいへん魅力的だったが、ジーンズを履くようになって残念だ」と言ったそうだ。ぼくも同様のことを思う。

大正時代のファッションがたいへん優れているように感じる。モボ、モガのファッションは、いまでも通じうる。というのは、単に古典的な服装というだけでなく、和洋のバランスがいい中庸を得ているということである。このように、時代の移り変わるときに、もっともすばらしい文化が発露するもののようだ。そうして、好ましいファッションは決して長続きするものではない。女性の美しいスカートはすぐにもんぺに変わってしまっただろうし、そうでなくとも扇動され歪められ、バブルのようになってしまうのである。

2.21.2015

自然と超自然

ソクラテスとプラトンに支配された二千年。

現代思想はソクラテスとプラトンによって支配されているのかもしれない。
ソクラテス以前のギリシャの思想家たちが考えていた『自然』は、「自然科学の対象にされるような一部の存在者、いわゆる外的・物質的自然を差すのではなく、日本語の『自然(じねん・しぜん)にもあるような『自ずからあるがままのあり方』『本来のあり方』という意味での自然(フェシス)を指しているらしい。

そうして、

「そこに、まったく異質なものの考え方、いわば超自然的な原理を設定し、それを拠点にしてすべてを考えていく超自然的な思考様式を持ち込んだのがプラトンなのだ。」 

と木田元が「反哲学史」で指摘している。なぜプラトンはイデア論的な思考様式を生みだしたのか?
「著者はプラトンがギリシア本来の考え方に逆らって「哲学」を編みださなければならなかった事情をアテネの没落とソクラテスの刑死という時代状況から説明している。自然の内なる生命力を肯定するギリシア土着の考え方にしたがう限り、ポリスのコントロールはできない。ポリスをコントロールし、ソクラテスの刑死のような衆愚政治に歯止めをかけるには世界を被造物ととらえるセム系の考え方に切り替える必要がある。」(KINOKUNIYA 書評空間「反哲学史」書評より)

これは優れた説明だと思う。プラトンはソクラテスの死を乗りこえるために、超自然的な哲学を生みだした。(ちなみにこれらの本を、ぼくは読んでいない。すべて中村隆一郎氏のブログ「私の演劇時評」からの引用である。)

西洋思想は非自然的といわれる。キリスト教においても、自然は人間がゆたかに暮らしていけるように神が創造したものであって、人間の所有物ではあれど、神的な要素は少ない。これはアニミズム的観点からはかけ離れている。

人間が自然的な思想から解放されたのは、ソクラテス―プラトン以後なのだ、と考えるといろいろなことが符合する。超自然的価値観は、プラトンから始まった。現代に至るまでの二千年の思想は、プラトンが生みだした。プラトンの系譜は、カントやヘーゲルにまで続いた。これに反発したのがニーチェからハイデガーにいたる「反哲学」であるというのが木田元の主張である(フロイトを加えてもいいかもしれない)。ところで、ニーチェやハイデガーは勝ったのだろうか。二千年のイデオロギーに勝利したのだろうか。

ときどきぼくは思うのだが、なぜいまもプラトンは読まれ続けているのだろうか。ソクラテス―プラトン―アリストテレスの思想を囓っておくことが、古くから一般的な教養だとされている。ひとびとは歴史学の興味もないのに、二千年以上前の思想を読み、驚嘆する。そこから現代にも生きる思想を見つける。

結局、それは、プラトンの生んだ教義、イデオロギーが、現代にも続いている証左ではないのか。二千年前もの思想が、いまだ克服されていないのである。それはキリスト教が現代の最大勢力であることと、無関係ではあるまい。

ニーチェが「神は死んだ」としながら、デュオニソスというギリシャ神話の神を持ち出したのは、ニーチェがアンチクリスト的な無神論を主張しただけではなくて、自然主義的アニミズムへの回帰を目指したからではないのか。

イデオロギーの戦争は二千年続いている。それは「自然と超自然の戦い」であった。このように二千年をひもといてみると、おもしろいかもしれない。

いろいろ調べていたら、永井均が似たような考えをツイートしていた。
一般に今日の自然主義を分析哲学の伝統からの逸脱として批判することは重要だろう。私はニーチェを超越論哲学の伝統からの逸脱として批判したことがあるが、本質的には同じこと。「神は死んだ(ニーチェもね)」という言に反して、ニーチェ(とその系譜の現代思想)と自然主義は実は同じ穴の貉だから。



木田元の「反哲学史」については、Masaaki Onoの書き抜きがけっこうよくまとめられていると思う。木田元、すごい人だなあ。

「反哲学史」は、あまりに評判がよいので、二年前くらいに買っておいたのだが、半分ほど読んで放置してしまっていた。いまは引っ越しの準備のため、すべての本が段ボールのなかなので、読み返すことができないでいる。

本はほとんど新居に持っていくことにした。ぼくは働きにいくのではない。本を読むために、田舎へ飛ぶのだ。これくらいの気概である。

本は、たいてい文庫本を買うようにしているが、それでも段ボール五箱くらいになった。昔読んだビジネス書やくだらない商業書はすべて捨てることにした。

あらかた詰めこんだら、信じられないくらい重たい。ボロアパートの床に穴が空きそうだ。この感じ、好きである。やはり、電子書籍は嫌いだ。紙が好きだ、と思う。

2.20.2015

民主主義への憎悪

大衆が正しいとき、それはファシズムなのではないか。

というようなことがぽんとあたまに出てきて、澄んだ冬空のもと散歩しながら、こねくり回して考えてみると、すこしいい考えのように思えた。

ぼくには、民主主義というものは、人間にとって不自然な体制のように思える。大衆は、自らの集団を導くようにできていない。

現に、日本の民主主義はどうだ。まるで機能しちゃいない。選挙にいっているか。ぼくらは政治のことを議論するか。ぼくらには政治的判断をする十分な判断材料を与えられているか。ぼくらがだれかの政治的主張を聞くとき、耳を閉ざしていないか。

そう、だれも、政治なんて、関心はないのである。先の衆院選でわかったとおり、ぼくら日本人の半数は、投票にすらいかない。あれだけ「選挙にいこう」とキャンペーンしても半分は家で寝転がっているのである。投票した人間にしたって、ほんとうに日本の将来を考えているひとというのは、ごくわずかである。

授業中でも読書中でも邪魔してくるあの選挙カー。なぜあんなバカげた代物が街を走り回っているのか。「あんなことをしても、不興を買うだけだ、俺はあいつには絶対いれないぞ……」と思う人が多いだろうし、ぼくもそう思うのだが、ああいう行為が「選挙活動」として広く行われる以上、たぶんぼくらの予想以上に「効果的」なのだと思われる。

ようは、ああいう幼稚な戦術が重要になるほど、大衆が持ちあわせている政治的主義は脆弱だ、ということなのである。大衆がだれに投票するか、という決意は、何回も名前を叫ばれると容易にゆらいでしまうレベルのものなのだ。

ぼくはこのことをもって、大衆をバカにしたいわけではない。いや、大衆ははっきりとバカなのであって、それは決して悪いことではないとぼくは言いたいのだ。そうして、民主主義という制度がでたらめだということを言いたいのだ。

本来は大衆は正しくあることはできないのである。大衆というものは、それだけでは、脳を失った人間に等しい。大衆は、導かれることはできても、導くことは決してできないのである。

これは当然だ。あらゆる動物集団がそうであるように、権力は少数の有力者に集中するようにできている。現に、ほとんどの会社には社長があり経営者がある。だから、民主主義社会のように、すべての人間に集団を左右する権利があるという構図は非自然的であり、奇妙である。

民主主義のような制度は、少数だとたしかにうまくいく。ルソーも「小国であれば民主主義は適している」と述べており、三十人程度のクラスであれば、投票で事を決める方が全員納得するし、結果的に正しい決定を得ることが多いのだ。

ぼくも小学生のときは行事などで、投票で物事を決めた(決めさせられた)。この形式的な民主主義は「少数」で「よく議論した」上で投票するのであれば効果的である。ぼくも消防のちっぽけな頭脳で「これは大変優れたシステムだ」と認識した。しかし、これが罠だった。

この投票制が「多数」で「ろくに議論もなく」行われたらどうなるのか?

三十人のクラスで行った投票と、一億人以上の日本国有権者が行った投票で同じ効果があらわれると考えるのならそれは狂気である。おそらくこの虚偽に大部分のひとが惑わされている。

一億人の有権者はなにを基に投票するのだろうか?彼ら各々が、民主制の責任と理想を胸に抱き、立候補者の主張を比較吟味し、自己の利益と国益を考慮し、適性な投票を行うだろうか?

もちろんそんなことはない。そんなことをしている人は有権者が1000人いれば1人いればいいほうだ。99.9%の人間は、雰囲気で決めるのだ。テレビで言っているから、選挙カーでがんばっていたから、うちの地区ではあの人に入れるから、投票する……!

この程度なのである。この程度なんですよ。民主主義って。

予想するしかないけど、たぶん外国も似たようなもんでしょう。オルテガが「大衆」の痴愚を警戒したのが第一次大戦後のスペイン、ル・ボンが「群衆心理」を批判したのが十九世紀末。

ぼくは思うのだけど、結局人間集団にとって理想的な社会とは、民主主義なのではなく、少数の為政者と、それ以外の大衆という関係なのだと思う。これは王政とか寡頭制を意味する。

ぼくは全人類が平等であることを望んでいるけれども、政治的に平等であることが正しいとは思えない。人間には、リーダーが必要だ。それは、生まれもってのリーダーであって、選挙カーとか、メディアによって決まるものではない。



民主主義のもうひとつの見方。

民主主義とは、大衆のもつルサンチマン的憎悪によって権力者を血祭りにあげる制度である。フランス革命におけるギロチンである。つまり、権力者と大衆を切り離す制度なのである。それは脳と四肢の断絶を示しており、国家にとっては毒なのである。

民主主義は、集団にとって必要となる「頭脳」を人体から切り離すイデオロギーであった。こうした仕組みは、国家の弱体化を招いた。頭脳を失った人体はあちこちにぶつかり、傷ついた。

ぼくらは北朝鮮を独裁者が支配する凄惨な国だと思う。しかし、プロレスと同じで、世界にもヒールは必要なのである。北朝鮮はだれが支配しているか?民主主義のイデオロギーは彼らによって維持されている、と考えることもできる。これは陰謀論なので、もう進めない。

冒頭で、民衆が正しいとき、ファシズムなのではないか、と書いた。このことの意味は、民衆が正しく政治に関与することなど不可能であり、もし可能であるとすれば民主主義が高次に結晶化されたファシズム政治ということである。これは、ヒトラーがドイツ国民の民主主義によって選ばれたことに証明される。

ファシズムにおいて、民主主義は民主主義を超越し、国家と大衆が同化し、強大な威力をもつことになる。それはかつての日本軍が異常な強さを見せたことと関係する。世界中がファシズムを監視し撲滅しようとするのも、パワーバランスを乱すほどの大国の存在が不都合だからだ。

ぼくは政治が嫌いだから、ただ政治から離れていたいと思う。だから、できる限り公平な目で政治を見て、これを書いている。ぼくには今後の日本のことがわからない。明確なことは、いまの日本はファシズムに向かっている。ただ、首相の能力の低さにより、これは失敗するだろう。しかし、ファシズムのもつ利点、国力の増強という点で失敗することは、不都合なのか正しいのか。これがわからない。

まあ、だれも読まないだろう。ちょっとすっきりした。寝る。

2.19.2015

ねこと犬と人間

猫好きのひとと、犬好きのひと、ずいぶん性格が違うのでおもしろい。

犬は男性的であり猫は女性的である。犬は権力の象徴であり、猫は自由である。犬は善悪の象徴をもつが猫にはない。

たとえば、ケルベロスは三頭の犬がモデルだが、オルトロスは二つの犬の頭の他に、背中から7つの蛇の頭が生え、尻尾も蛇になっていたと言われる。タコじゃないんだな。
善性の象徴としては「もののけ姫」の山犬たちのような象徴がある。モデルがあるのかもしれない。

北斎季親

犬はよく悪魔の象徴になる。なぜなのだろう。人間と犬との付き合いは猫よりもずっと長い。そのわりには、猫の方がよいイメージをもっているように思う。

例えば招き猫、というものがあって、右手をあげると金を呼び、左手をあげると人を呼び、両手をあげると「お手上げ」、逆効果だ、という話がある。招き猫は邪悪の要素がない。
(これって左脳右脳の話なのかな?左脳=右手は計算、右脳=左手はユーモアの領域……)

古代エジプトにおいては猫は神聖化されていた。エジプトがペルシャに侵攻されるときに大量の猫を放たれて、エジプト軍は身動きがとれなかったといわれる。
俗説らしいけど。
一人のローマ人が一匹の猫を死に至らしめた。民衆は「殺戮」を行ったそのローマ人の家に殺到した。彼を助けようとしてエジプト国王が派遣した治安官たちの努力も、ローマの威力が呼び起こす一般的な恐れも、この男の命を助けることに役立たなかった。彼のなしたことは偶発的なことであったということが認められたにも関わらず、であった。これは風聞にもとづいて私が書いている事ではなくて、私自身がエジプト滞在中に目撃したことである。(ディオドロス)

どれだけ猫が好きなんだ……。

「あいつは犬だ」というときは侮辱の意味を含む。「あいつは猫だ」というとき、そこにはあまり侮辱の意味はない。(あ、泥棒猫という表現があるな……)

ひとつに犬が人間に危害を加えうる存在だからかもしれない。ぼくもよく下校中野良犬においかけられて、半泣きで逃げたことがある。猫であれば、ぷいっとどこかへ行ってしまうだけだろう。

あるいは、犬に対する人間の引け目があるのかもしれない。猟犬の扱いはかなり過酷で、狩猟の能力がなくなると、山に捨てられる。それだけならまだいいが、ハンターは猟銃の的にして遊ぶこともあるのだという。

この感覚は人間的にどうなんだ?と思うが、、、とりあえず猟犬はまず道具として使われるということであり、ペットである前に一個の奴隷であった。奴隷に対してもつイメージと、犬に対するイメージが重なるのは、こういうところにあるのだろう。犬は鎖でつながれるし。

猫がエジプトにおいて神聖化されていたのは、貯蔵庫の穀物を荒らすネズミを退治してくれるからであるとされる。猫は肉食だから、穀物には手をつけない。この関係は、奴隷というわけではない。猫は食料が多いのだから自然と居つき、ネズミが退治されれば、人びとも、猫も助かる。そういうわけだから、猫が神聖視されるというのもわかる気がする。良好な関係なのだ。

あとは単純に猫がかわいいというのもあるだろう。猫の眼球は大きくて、たとえば人間の子どもの目が相対的に大きいように、猫は成長しても「子どもらしい」顔を維持する。これは、だれがみてもかわいいのである。

ロリータフェイス

ただ、いま生き残っている猫は「かわいい」種だけであるらしい。かわいいから人間に愛でられ、種が繁栄したのだとか。冗談みたいな話だ。

今日はさっさと家を出てしまわなければならないので、適当だけれども、これで筆を置く。なにが言いたいかというと、猫が飼いたいのだ。

2.18.2015

ヘーゲルはインチキ?

小谷野敦が「日本文化論のインチキ」において、ヘーゲルのことを「インチキ文化論の元」と批判していて、大いに笑った。

ついでにいえば難解で知られるヴェーバーの理論や、デリダやドゥルーズを「非論理的」とばっちり批判していて、それ以上に日本の文化人をばしばしと切り捨てて、この人はすごい人だな、とぼくは思った。

こういうことは大学人にはまず不可能な仕事で、ヘーゲルの哲学なんていまだに何十人もの「すごいセンセイ方」が研究していることを知っているし、彼らは地道にコツコツとヘーゲル一筋何十年というくらいなのだから、「ヘーゲルの『歴史哲学』はインチキ」なんていう発言は、彼らの生活圏をおびやかす行為であって、さらに彼らには専門家という矜持もあるものだから、全力で潰され、職を追われるというのが普通だからだ。
(学者ってふだんは大人しいけど自分の領域が侵犯されると獰猛な獣のように襲ってきますよ。人生かけてるからね)

だから評論家という立場で小谷野はがんばっているなあとぼくは感心したのだ。

まあたしかにぼくはヘーゲルをまともに読んだためしがない。カントについてはいまでも「読むべきだ」という声があるがヘーゲルにはそういう声がないのである。たぶんぼくの周りの少数の読書家のすべてが「挫折」しているはずである。(ヘーゲルを読み理解したのなら嬉々として「ヘーゲルはねえ」と物知り顔をするはずだ……)

ぼくもヘーゲルを最後まで読めない自分を知性的敗北のように感じていて、現代的なあらゆる思想家はたいていヘーゲルをもちだしてくるものだから、そのたびにコンプレックスをくすぐられるような気分になった。

が、ヘーゲルがインチキであるなら、それは良いことだ。ぼくにとっては。読んだひと、カワイソ。

ただドゥルーズやデリダはたしかに「非論理的」「非学問的」ではあるのだが、ぼくはまだ読み続けたいと思う。おそらく彼らは非学問的領域に価値を認めたはずであり、その点で学問という枠組みを超越した学問なのだから、おそらくニュートン力学で相対性理論を否定するような危険があると思う。

ソーカル事件というすごく有名なスキャンダルがあって、ただ難解なだけのエセ論文を書いたらそれが有名雑誌に載ってしまった、というギャグみたいな話がある。その論文のタイトルは「境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて」というものでこれだけで「なんだかすごそうだぞ」、と感じるものだ。

それをあげてラカンやドゥルーズのような難解な思想家はインチキだ、ということがよくいわれる。ぼくもラカンは実際ちんぷんかんぷんなのだが、しかし、けっきょく評価している人間、学界の能力的・倫理的なレベルが問題なのであって、ラカンの正当性が問われるべきなのだろうか。(ソーカルの本を読んでないのでまだはっきりと言えないが。ちなみに物理学界に殴り込みをかけた逆ソーカル事件というものもある)

ただ日本の学会においても、小谷野いわく、ラカン研究やドゥルーズ研究においては「非科学的」「非論理的」な論文をいくら書いても許容されるらしく、それは科学者の姿勢としてどうなのか、とぼくも疑わざるをえない。それは科学の限界性を示しているのか?科学は自分の殻をやぶるときにきたのか?それとも単純に学者の怠慢なのか。

だいたい、ユング心理学は非科学性と神話との近似性ゆえにオカルト扱いだけれども、それならラカンもオカルトでいいじゃないか。フロイト派とユング派で差別するのか?と思ったり。

ともあれ小谷野の本一冊で世の中のいろんな権威が「どうしようもなくアホ」であることを知れたのはよいことだと思う。この前あげていた「甘えの構造」という本もバッサリ批判されていてさもありなんと感じた。科学という武器がありながらそれを研ぐことを忘れる学者の多きこと。権威にやすやすと騙される学者の多いこと。

知性の象徴でもある「東大卒教授職」というエリートの方々にしても迷妄にかられるものらしく、世の中というものはほんとうにバカばかりで構成されているのではないか?と感じてしまう。メディアにおいて神的に扱われるこうしたエリートたちも、飯を食い、クソをし、女を抱き、ついにはボケるわけで、天皇の次には彼らを人間界に引きずりおろさねばならんな、と考えたりする。

最近ずいぶん世の中に暗いイメージをもっていたが、小谷野の本で一気に明るい気分になった。また世の中をどのように解釈をすべきなのか、自分のなかで定まらなかったが、ひとつの方法を見つけた。

つまり世の中は、単純に、バカのあつまりであり、人間は、そのほとんどはうごめく小動物に違いないのであり、痙攣的に、少しの仕事をし、少しの芸術を生みだし、そうしてコロリと死んでいくことには、ほとんどすべての人間が例外がないのだ。それはインチキソフィストの跋扈するソクラテスの時代と変わらない。

もはや、人間に対してなにかの期待を持つことは、幻想を抱くことは、辞めた方がいいのかもしれない。安部ちゃんが戦争をしようとしているところで、アホの政策によってこどもや妊婦たちが放射能漬けになっているところで、それがなんだというのだ。それは悲劇というよりも喜劇だ。バカによってバカが死ぬのだから喜劇に違いない。

ぼくはもう、真剣さをなくしたいのである。勃起した陰茎のようなクソまじめさを取りはらいたいのである。



wikipediaのヘーゲルの項を読むと、こうある。
バートランド・ラッセルは『西洋哲学史』("History of Western Philosophy"、1945年)の中で、ヘーゲルのことを、最も理解が困難な哲学者であると書いている。彼によれば、ヘーゲルは当時の現在誤っているとされている論理学に基づき、壮大な論理体系を作り上げたのであって、そのことがかえって多くの人に多大な興味を持たせる結果になったのである。
論理体系が間違っているのであり、主旨としては間違っていないのかもしれない。気が向いたらヘーゲルを読んでみたい、と思う。時間と体力のあるときに……。



それにしても、これには笑った。
現代浮世絵師が指摘 湯川さん殺害画像はニセモノ

香港の浮世絵師って、またすごいところからつっこみが入ったな……。

2.17.2015

いろいろと考えるけれども

自分の現実認識を考えるとずいぶん甘っちょろい。

世の中をどのように見ればよいのか、ということがいまだにわからないでいる。人と人とのつながり、世界の全般的システム、人生の生き方について、明確なモデルがない。宗教はいろいろ教えてくれる。ただ、警戒心が沸いてしまって、それらに没頭することができない。

キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教、いろいろあるけれども、莫大な人数の人間がそれらを信じているということは、おそらく虚偽なのだろう。なぜなら、大衆は真理に到達できないから。真理に到達できるのは、少数の慧眼をもった人、真理のためには世俗的なものを捨てる覚悟をしたひとである。(だから東大生がオウム真理教のようなカルト教団に魅惑されるということも少しは理解できる)

真理は広まらない、というのが実際のようで、教育でも、マスメディアでも、包み隠されている事柄は多い。たしかに図書館にいけば、たいていの真実はそこに記述されている。

しかし、あるAという書物を選んで、Bという書物を選ばなかった、とする。そのために真実に到達できない、ということはよくあるものだ。それでは、なぜAという書物を選んだのか?Bではなく?

ここではたらいているのは、はたして意志という言葉で片付けられるものなのか。環境と自己に還元できるものなのか。そこにはある種の力、イデオロギーがはたらいているのではないか。それはマスメディアや教育を媒介とする権力者たちのはたらきがあるのではないのか。

このように、世の中は情報戦といってもいい有様で、真実というものは巧妙にごまかされる。事実は常にそこにあるのだが、イデオロギーのフィルタリングで、あたかも存在しないかのようにされてしまう。

反対に「ない」ことを、あるかのように見せることも可能で、権力者がマスメディアを利用して行う奇術はある意味で魔法である。現代では畜群を追いかける犬も不要になったようで、ただ羊たちに「そこに犬がいる」と思わせることができれば、畜群は勝手に動いてくれる。このことが、最近ではとくに汎用されているな、と思う。

それで真実に到達するにはどうすればいいのか、ということをよくぼくは考えるのだけれど、けっきょく、人間に聞いても埒があかないのだと思う。そういう事情から、森や海と心を通じ合わせることで、そこから智慧を得たいと考えている。

それはぼくが原初的なアニミズムに回帰するということで、現代人であるぼくにはすでに難しいのかもしれないが、「人間対自然の直接的関係」を回復するということが目標である。革命revolution は回帰を意味する。そんなわけでぼくはひとり革命を行う予定である。

まあこんなことを書いていてもぼくは自然からメッセージを得ましたーなんていうことはこれまでになかった。ただ海をみれば心和み、木々のなかでは心の平静を得た。その程度のことだが、人間集団のなかにあるよりは真実に近いという印象があるのである。それは繊細な違いだが、crucialな変化がつねに微小な変化から始まるように、大地震が初期微動に導かれるように、個人的には重大な事実なのである。

マジかいな、ついに気が狂ったのか、と思われるだろうことをぼくは知っている。「ぼくは海や森と対話するのです」などといったらすぐに黄色い救急車で運ばれるだろう。しかし、「木々と語らう」「海に抱かれる」などの詩的表現はただの技巧ではなく真実を示すものであるとぼくは思う。

(自然と対話するといっても、読書は続ける予定である。ただ、少数の賢人たち以外の話は、神経質にシャットダウンしたいという気分だ。もう大衆には見切りをつけたい)



ルソーの「社会契約論」を読んでいると貴族による政治が人間社会にとって自然でありもっとも理想的と書いてあってそれはそのとおりだと思った。それならなんでフランス革命で貴族は排除され民衆による民主主義が台頭したのかが疑問だ。(と、思ってよく調べると国の財政難にあたり、貴族が課税に反発したことが市民の不満を買ったらしい。それは自業自得……)

ぼくは貴族による政治は妥当だと思っている。だって、ブラック企業で正常な思考を失ったサラリーマンや、一日十時間のテレビ漬けで白痴化したおばちゃんや、高齢化で認知症が入ったおじいさんに政治を任せることは、はっきりと危険だとぼくは思うからだ。

貴族の良い点は質の高い教育を受けていること、したがってふつうはある程度の倫理観とコモン・センスを持ちあわせていることだ。また、自分が政治的主体であるという当事者意識をもつことが可能ということである。彼らはふつう労働をしないし自由な時間を持ちあわせている。したがって十分な勉強をし、政治について熟慮することが可能になる。

日本でいえば農民に政治を任せるか武士に政治を任せるか、というところで、ぼくらが武士にもつイメージは高潔、清貧、寡黙、正義、といった感じだろう。ぼくらは農民に政治を任せたいか?武士に政治を任せたいか?と考えてみるともうこれは選択の余地がない。自然的に考えれば少数のエリートさんお願いします、ということになる。

ただ日本の現代の政治においても貴族制は生きているという説がある。たとえば歴代の首相や大政治家のほとんどに血のつながりがある、ということがまことしやかに語られている。これが事実だとすれば現代は民主制というより貴族制だが、だれしも知るとおり政治は腐敗している。

ルソーは「人民は腐敗することはありえないが、欺かれることはある」といった。貴族は欺かれることは少ないが、腐敗しやすいのだろう。そういえば、ルソーはこんなことも言っていた。「最良の政府は選挙貴族制であり、最悪の政府は世襲貴族制である」と。現代日本は民主主義の顔をした最悪の世襲貴族制であると言えるのかもしれない。

現代においては貴族は貴族の顔をしていない。表向きは平民のような顔をしている。このことの意味は、彼らはノブレス・オブリージュ、貴族的な責任を失った貴族であり、きらびやかな豚にすぎないのだろう。



いまネットでいろいろ読んでいたら、こんな話があった。

もう時間が無いので、結論だけ書きます。三澤さん。あんまり、こういうことで、神経をすり減らして悩まないで下さい。ご自分の目の前の読みたい本を、読めばいいのです。 それが一番いいです。
古典的な大作をそれなりに読んでいないと、自分は、大学知識人になれないのではないか、たいした論文は書けないのではないか、という、不安や恐怖は、それは、被害妄想というものです。そういう考えを捨てなさい。「自分は、大秀才でありたい。そうあるべきだ」と思うのは、20台の終わりまでです。人は、みな、それぞれに自分自身の能力を過信し、そして、うぬぼれ、やがて、そのこと自体に、自ら裏切られ、失意し、自分の頭がたいしたことは無かったと、自覚し、そのことをやがて受け入れて、そして死んでゆくのです。
今の私から見れば、丸山真男(まるやままさお)もたいしたことはなかったなあ、となります。
こんな国では、大秀才や大知識人は生まれようがありません。これは、いつもの私の自嘲癖の文ではありません。古典作品など、ほとんどの日本人が、いくら知識人、読書人を気取ってみても、真実のところは、いくらも読んでいないのです。そんな人生時間、生活時間は、どう探しても、見つかるわけが無い。私もそうです。18歳のとき以来、私には、満足な読書時間はもう2度とありませんでした。目先の生活に追われてあっと言う間に、自分の中年時代が終わりました。
ですから、もの書き言論人としての私は、すべてをやっつけ仕事でやってきました。締め切りに追われながら苦しみながら書いてきました。 もういいや、で「えい。や」と、「読んだことにして」、がりがりと、「該当箇所のようなところを、鋭く見抜いて」それで、古典大作の海を、自分なりに苦心して渡ってきました。 どんな人も本当はたいしたことはないのです。(副島隆彦:サイト

そういうものなんだろうか。なんだか、久しぶりに心にひびく言葉を聞いた。

まだ二十代の真っ最中だからわからないが、「人は、みな、それぞれに自分自身の能力を過信し、そして、うぬぼれ、やがて、そのこと自体に、自ら裏切られ、失意し、自分の頭がたいしたことは無かったと、自覚し、そのことをやがて受け入れて、そして死んでゆく」という帰結が当然のような気がする。ぼくもうすうすと自分の知性の限界を感じるときがある。

しかし、読書時間の確保はしたいなあ。二,三年くらいは本だけの生活がしたい。コリン・ウィルソンが処女作「アウトサイダー」を出版するまでは、昼は図書館で書物にかじりつき、夜は野宿して、その繰り返しだけの生活をしたというけど、この生活が、どんな金持ちの生活よりも贅沢に思えてしまう。

2.16.2015

権力への意志

なるほどIMFはヤクザで首相はヒトラーでイラク戦争は制裁でグローバリズムは罠で宗教は詐欺で教育は洗脳で町内会はファシズムだったと。それはわかった。

それでぼくはどうしたらいいんだ。世の中が一気に冷たくなってしまった気分だ。

ただひとつわかったことといえば人間は理由のないことをしないということだ。ある意味すがすがしいくらいに。人間はある欲動につきうごかされる動物にすぎないのだ。

善意とは虚偽か、あるいは奇跡だ。ぼくらに関心のあることといえば、自己を拡大していくこと。すなわち、権力への意志、それしかない。「我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものとなろうとする意欲」。なるほど、やっぱり常にニーチェは正しい。

世の中はこれだけなのだろう。フロイトはリビドーに全てを求めた。土居は「甘え」に全てを求めた。しかしそれよりも「力」に求めたニーチェがより優れた精神分析家のように思う。

もちろん、世間一般の小市民たちは善意を振りまいている……。権力?そんなものはごめんですよ。わたしは家内と息子が幸せならいいんだ。つつましい家庭、それがわたしの全てです……と、言う人があるかもしれない。彼は、実のところ、見事に抑制された動物ではないか?エサを食べようとすると電気ショックを受ける牛は、しまいには餓死するというが……。

だれもかれも権力を志向する世界、そんなものを世の為政者は望むだろうか?あなたが王さまだったとして……だれもかれもが自分の座を奪いにくるような世界を望むだろうか。そんなはずはないのだ。だれもかれも弱々しく、生活に満足し、なにも知らないような状態、これこそが「理想」なのだ。

そういうわけで、いわば道徳とか、宗教というものは、都合の良いように改竄され、ひとびとは権力を意志しなくなる。そこでは、だれもが足を引っ張りあうような、相互に均質化の監視を行うような、ファシズムの世界が広がる。

だからニーチェは能動的ニヒリズムを説いたのだな。権力を志向する人間どもは醜い。しかし、それでもあえて権力を意志する。同じ土俵に立ち、自己を広げてゆく。戦う、という決意をする。貧弱な人間であるよりは哄笑をあげる金毛獣であろうとする。

人間がよりよく生きようというのなら、それしか道がないのかもしれない。ニーチェの時代もそうだったし、いまではもっとそうなのだろう。



ぼくは見えない敵と戦う中二病なのかもしれない。ぼくはおそろしく愚かな人間あるいは統合失調症患者のように思われるのかもしれない。もちろん常識的な視点に立てばそれが正しいことをぼくは知っている。ぼくも小市民の一員であるから。

でも、常識、それがなんだというのか。それは不変の真理だろうか?それとも突貫工事のイデオロギーだろうか?

日本人がきれい好きなのは東京オリンピックからで、それより前は道にゴミを捨てる痰を吐く列に割りこむという有様だったことはあまり知られていない。

ともかく、ぼくは1=0の世界に恋い焦がれるのである。

ボブ・マーリーとIMF

昨日もまた映画を観ていた。

「ジャマイカ 楽園の真実」というドキュメンタリー。なぜジャマイカが貧困に陥っているのか?を追求した映画。

その原因は、主に多国籍企業、グローバリズム、IMFであるとされている。

ジャマイカの税収のうち、半分近くはIMFや世界銀行の借金の返済に使われる。そりゃ貧困だ。利息も20%近くだし、インフレで額面あがるしたまらない。

作中、酪農家がせっかく搾乳したミルクを流して捨てたり、作物を捨てる描写があり、なんとももったいない。外国産の方が安く輸入されるから、農家は死ぬ。関税はIMFに禁じられている。なんだかTPP後の日本のような。

それにしてもおもしろいと感じるのはIMFってけっこう怖い機関なんだなあということ。グローバリズムがうさんくさい概念であることは知っていたけど、IMFはもう少しまともな機関という印象があった。

貧しいところには経済援助しますよ、先進国が助けますよ。そういう機関かと思っていた。実際は冷酷な金貸しというのが実態のようで。途上国の富を先進国に吸い上げるということか。

IMFから金を借りるというのは、半分植民地になるようなもの。
じゃあ借りなきゃいいじゃんって話だけど、借りずにデフォルトすると、 もう国としてやっていけない。その国の持ってる金の価値がなくなるからな。
もうひとつ「植民地化」って比喩をすると、そもそも貧しい国がなんで金を借りなきゃならなくなってるかっつーと、それはIMFに巨額の資金を拠出してる先進国のある種の横暴が あるんだな。1997年のアジア通貨危機は、アメリカはじめ欧米のファンドが仕掛けたようなもんだし、
今回の金融危機も、サブプライムがらみで起こってるわけだ。欧米がマネーゲームして、 その尻拭いを途上国がするって寸法。
100年前の帝国主義の時代と変わらない。欧米列強(と、日本w)という先進国が、 戦車や戦闘機のかわりにドルで侵略…おっと、進出してるようなもんだ。
ただしこのドル、豊かな資源にはかなわない。だからオイルを抑えている中東には、 ドルじゃなくアメリカの戦車や戦闘機が飛んでるってわけ。
よかったね、日本人で。100年前も今も、日本はこういうポジションなんです。 (働くモノニュース : 人生VIP職人ブログwww

個人間でも、国家間においても、強者による不幸の押しつけと、富の搾取によって世界は回っているんだな。なんだか壮大なスペクタクルが見えてくる気がする。

ジャマイカといえばレゲエ、レゲエといえばボブマーリーだけれども、ボブマーリーの歌詞ってけっこう思想的なんでびっくりした。もっとガンジャでラブ&ピース的な歌手かと思っていた。

マーリーはバビロンを抜けだせと謡う。このバビロンとはなにかというと、資本主義社会だったり、白人至上主義、グローバリズムなわけだ。政府や役人、警官、プチブルたち。

ぼくらにとっては資本主義の三角形構造は当たり前だけれども、資本主義はほんとうにぼくらを豊かにしているのか?と一度くらいは考えてみるべきだと思う。

523 :No Name No Cry:2013/01/27(日) 13:06:25.49 ID:txG49Suv
サッカーのボブの動きが軽やか過ぎる。一目で運動神経もいいのが分かる。
あの髪型と髭で印象が精悍なのは目だ。強い意志の宿った目。日本人であんな目をした人間がいるだろうか?日本人の目はみんな疲れて死んでいる。
日本の今の政府は景気をよくしよう、経済成長率を上げようといろいろやっているが、それで日本人は幸福にならないだろう。
それは現在のジャマイカでも同じだ。幸福の国なんてものは資本主義が支配するこの世界には存在しない。
その資本主義の勝者と言われる富裕層も私には幸福に見えない。搾取し、得たものを必死で手離すまいとする亡者が幸福には見えない。
仮定の話として、突然日本人全員がラスタファリアンになったらどうだろう?
全員が物質的な豊かさを追い求めるのをやめ、周囲の人々をお互いに助け始めたらどうなるだろう?
経済成長率は落ちるだろう。でも幸福度は上がり、自殺者はいなくなるだろう。
現実には、出し抜く人間がでてくるし、他人を騙し踏みつけてでも富を得ようとする人間ばかりのこの世界では、この仮定の話はほぼ不可能だ。
歴史上、それを命がけで本気で実現しようとした音楽家がいる。具体的に積極的に銃弾も恐れずに政治に介入して戦った音楽家がいる。
それがボブ・マーリーだ。凡百のミュージシャンとは次元が違うんである。



今日は2chからの引用が多くなってしまった。積極的に読もうとは思わないが、検索で引っかかったところは、けっこう良いレスもあるんだよな。

2chはあまり読みたくない。まとめサイトも恣意的な情報が多くなってきた。一日に何百万アクセスもあるサイトが放って置かれるわけもなく……。

自由な言論の場なんてないのかもしれない。結局、ひとびとは用意された思想と用意された思想をぶつけあうことしかできない。民主党だろうと、自民党だろうと、大して変わらない。共産主義や資本主義でも大して変わらないのだろう。

もっと、根本的な問題があるはずだ、と思う。

ちょっと最近はダメだ。どうも頭がぼんやりしてしまって、ろくなことが書けないのだ。数日間、部屋にこもって、映画と読書ばかりしている。人間と会うことがないから、現実味が薄れて、存在が蒸散していくような気分だ。

今日は学校に行く。そうして、現実を取り戻したいと思う。

2.15.2015

今後の道筋

快楽ではなく、純潔が、幸福ではなく、美と霊性が、ぼくの目的なのであった。(「デミアン」ヘッセ)

最近は自分のゆくすえを考えて逆に寒気がしている。

楽観的に考えてゆくこともできるけど、普通に考えたら、神経質な変人として一生を終える気がする。

ぼくは自然と自己によって生きていこうとしている。このことは、田舎に移住して、あらゆる人工的な楽しみを退け、用意された思想を退け、ただ木々や海との対話によって生きていこうとする決意である。

ぼくは自己と自然の共振のためだけに余生を使いたいと思っている。ぼくは神経質な人間であった。ひとが近くにいると、背筋がぴりぴりとして、不快な気分になった。ひとり部屋にいるときが幸せだったし、楽器を弾くときもひとりのときが最高に楽しかった。

もうこのような人間性であるので、ひとの中に生きていくことは諦めることにした。過去を振りかえれば、このような人間は決して少数派ではなかった、と思う。たいていの思想家や芸術家は孤独だったし、自然を好んだものだ。

ぼくは大仰な思想家になろうとは思っていない。おそらくぼくの知性は世界をゆるがすには足りていないし、そのための努力にも、時間を割こうと思わない。

ぼくの関心としては、自己を充溢させることにある。けっきょくのところ、ぼくはエゴイストである。自分にしか関心がない。人間たちが一生懸命に築き上げる、かつてそうであったもの、いまそうであるもの、これからそうなるもの、というものにもおよそ関心がない。

かつては社会的に成功することが目標だった。ぼくの名を世界に轟かせたいと思った。それは新渡戸の母が手紙に書いたような「日本はおろか世界に名を上候様と楽しみ居候」の精神だった。

しかし、最近では社会的成功というものも、虚飾に満ちた空想的なエサのように思えた。栄誉ある特攻隊員と、社会的な成功者は変わらないように感じる。その意味は、どちらも提灯であり、管理下にあるということである。

ぼくは自然が好きである。ただ、それはOLたちが好む「ロハス」などと何が違うのかはわからない。

かつての人間にとって、自然とは合理的なものではなかった――とだれかが指摘していた。いまの自然は人間に支配されている、というわけだ。いまのぼくらは自然から霊性を得ることが難しい。それは動物園の動物を観察するようなものだからである。

たしかにそうかもしれないが、それなら津波で原発事故がなぜ起きたのだろう。けっきょく、人間は自然には勝てないということではないか。

地震に対する感情は不思議なものだと思う。ぼくは地震がけっこう好きである。人間は自然には勝てないということを教えてくれるから。

まあこういう幼稚なアニミズムがすくすくと芽生えている。いかんことだと思う。たしかに、西洋思想からは離れてゆくのである。それはある種のストイシズムからの離脱でもある。それは「甘え」の世界でもあるのだろう。

あの名著が説いたように、「甘え」が日本人のメンタリティをあらわしているのだ、と考えるといろいろ合点がいく。太宰治も夏目漱石も甘えん坊のように見える。豊かな自然にあると人間は甘えていくものなのだろうと思う。キリスト教やイスラム教は砂漠で生まれたものだ。砂漠の民にとって自然は過酷であり、ゆえに排除すべきものだった。

ともあれ今後の自分はますます世間的にはダメになり、手がつけられない変人おっさんになっていくのだと思う。これは予言である。



昨日は頭痛くどこにもいけなかった。なので、あいかわらず映画を観る。「パルプフィクション」という映画。たしかに、楽しかった。ザ・B級。エンターテイメント。

あとは中東の米軍による戦争犯罪を描いた「ハート・アタッカー」という映画(「ハート・ロッカー」ではない。ダメ邦題だ……)。これも、けっこう良い映画だった。けっきょく、戦場という状況のなかでは、戦うのは被害者と被害者なのだ、ということがわかる。ああいう場に放り込まれたらぼくだって戦争犯罪をしかねない。ただ、ソンミ村のような虐殺は理解の範疇を超えているけど……。

まあ最近話題の「アメリカン・スナイパー」よりは百倍良い映画でしょう。

あとは「甘えの構造」を読んでいた。天皇制と甘えの関係とかすごくおもしろい。天皇は甘やかされた存在である。日本国民すべてに甘やかされて生きている。それがかつては権力構造のトップであったし、いまは日本人の象徴である。ここに日本の精神性がある、と。日本の国家構造にあまねく「甘え」は存在している……。

戦後の天皇制にたいする反発がないと書けないだろうな。

いまだと、天皇批判や天皇制を悪く書くと怖い目にあう。アマゾンのレビューとか、とんでもないことになるのですよ。民俗学的には的確に指摘した良い本なのに、★ひとつの的外れなレビューが「参考になった」数が多くていちばん先に出てくる。(「甘えの構造」はさすがに妥当なレビューだけど)

こういうことがよくあるので、アマゾンのレビューを必ずしも信じてはいけない。★ひとつのレビューだけならダメ本だけど、★ひとつのレビューと★5つのレビューが混交している本は、たいてい読むべき良い本だったりする。

ところで、★5つだけの本が良いかというと、これが必ずしもそうではない。それだから良い本を探し当てるのは難しい。けっきょく古典がいちばんよい、となってしまう。


2.14.2015

1=1の世界と1=0の世界

この世にはふたつの世界があると考えるとわかりやすいのかもしれない。

ひとつはフィヒテの有名な定理「1=1」に基づく世界であり、もうひとつはそこから外れた「1=0」の世界。

なお、この考え方は、木村敏「異常の構造」からのパクリである。これを展開させたい。

ぼくらの科学の根源は、「1=1」という定理が前提にある。別に数学だけに限った話ではなく、論理学の大前提となる定理である。そうして論理的でない科学はないのであるから、科学においてはすべて「1=1」である。

では非科学の世界においては、どのような公理がはたらいているかというと、「1=0」なのである。木村敏によれば、精神分裂病の患者はこのような世界を生きているのだという。

精神分裂病とはぼくには単なる病気とは考えがたい。古来であればシャーマン、巫女、つまり霊能者や宗教家、予言士という役割をもっていた存在と考えている。彼らは1=0の思考様式で、儀式や予言をこなしてきた。

古来の数学者が素朴にも考えたように、科学によって神の声を聞くことは不可能だったし、未来のこともいまだわからない。

ともかく、世の中を1=1の尋常的世界と、1=0の異常な世界にカテゴライズすると見えてくるものがある。

1=1という世界は、公正明大であり、普通だれにでも理解可能であり、したがって平等なものである。それは「公理」と呼ばれるものである。ということは、広くだれもが認める論理である。そうして、「常識」というものもここに含まれる。

1=1の世界には、文明的なものはあらかた入ってしまう。経済もそうだし、法律や政治もそうだ。政治といえば、民主主義というものは1=1思想の極端な例である。常識や公理の信奉だからである。

なお、カントやプラトンもこちら側だ。プラトンは民主主義を否定したけれども、こちら側なのである。カントは「知的直観は神に属するものであって人間に属するものではない」とか言ったが、この考え方は1=1に属する。

では1=0の世界はどうだろうか。ここに入るものは、上にあげたような宗教家、霊能者というものがまず入るだろう。

ただ、キリスト教的な宗教家はすこしずれるのかもしれない。キリスト教は明確な1=1の思想をもつ特異な宗教だからである。キリスト者は熱心に魔女狩りをしたから、そこからもこうした精神様式が伺える。ともかく土着の信仰や仏教、古神道のようなものは1=0であった。

宗教家以外はどうかというとこれは俄然おもしろくなる。おそらく芸術家という職業は1=0である。「創造」という行為を意志するとき、ぼくらは常識にとらわれていては仕事
にならないことを知っている。

こうした仕事をするときに、ふだんは常識的世界にある1=1の世界のぼくらは、いったん思考を解体し、1=0の非論理的世界に飛びこんでゆく。そこは暗く恐ろしいカオスの世界だけれども、恵み深い宝物も多く存在するのである。そうしてぼくらは天恵ともいえるアイデアをもって生還する。

すなわち、画家、音楽家、小説家、脚本家、あるいは飛躍的な成果をあげる科学者や哲学者といったものはすべて、1=0を生業とする人間である。これらの職業は、明確に「才能」がいる分野である。公理はなく、平等ではない。

さて、この世で生きていくためには完全に1=0の世界に浸ってはならない。非論理の世界から戻ってこない人間は狂人だからだ。古来このような人間が神の使いのように扱われたとしても、現代においてはただの治療すべき統合失調症なのである。

確かに<狂人>と芸術家(および思想家)のいずれもが、意識と身体の深層の最下部まで降りていって、意味以前の性の欲動とじかに対峙し、この身のうずきに酔いしれる。しかし後者は、たとえその行動と思想が狂気と紙一重であっても、必ずや深層から表層の制度へ立ち戻り、これをくぐりぬけて再び文化と言葉が発生する現場へと降りていき、さらにその欲動を昇華する<生の円環運動>を反復する強靱な精神力を保っている人びとなのではあるまいか。(「言葉・狂気・エロス」)

深く潜った方が良い宝物が得られるが、その次にはぼくらは「帰ってこなければいけない」。これが芸術家の義務である。

哲学者のなかでは、デュオニソスを崇拝したニーチェが恐らくこの1=0の価値を知っていたに違いない。ニーチェは最後には発狂したが、深く潜りすぎてしまったのかもしれない。

病跡学においては、天才はつねに病人であった。それはてんかん、躁鬱、神経症、統合失調症など、およそほとんどすべての天才が精神病を持っていた。このことの意味は、彼らが1=0、すなわち異常の世界の仕事をしていたという事実があるのみであり、精神医学の1=1、常識の世界からみれば特異であり病気であった、というだけにすぎない。



世界―歴史の動きを見てみると、上記のような1=1と1=0のイデオロギーの熾烈な戦いだった、と考えてみるとおもしろいかもしれない。それは何も魔女狩りだけではない。第二次世界大戦だとか、最近の中東における戦争についても、そういえるのかもしれない。

資本主義はひとつの1=1である。民主主義は1=1である。ぼくらは無思考に民主主義を崇拝することがあるけれども、しょせんはひとつのイデオロギーであることを知っていなければならない。(では共産主義や寡頭政治が1=0なのか、と言われると微妙なところだが……)

そして、このイデオロギーの戦争ではだいたい1=1が勝利する。見かけ上この世界のほとんどは1=1に支配されている。「常識」は嫉妬深い犬のような注意深さで異常を見つけ、叩きつぶすものである。

ただ、表面的な洗脳に人間の精神が負けることはあまりないので、抑圧された1=0の勃興がいずれ訪れるかもしれない。そのときのことを考えると、ぼくは少し楽しみになる。

2.12.2015

Everlasting ZACKY

いつもくだらない思想もどきを書いているばかりなので、本当に日常のことを書いてみたいと思う。

今日も勉強をすべく大学へ向かった。最近は歩いて登校するのが好きである。

研究室にいくと数名の同級生がいるのですこし話した。彼らとももう三年近くの付き合いで、気のおけない仲になっている。ぼくは警戒心が強いので、何年も一緒に過ごさないとこういうフランクな関係にはなれない。

研究室はいつもよりも賑やかだった。後輩たちが押しこめられている。どうやら担当教授が多忙で、暇をもてあましているらしい。それぞれ論文を読んだり、雑談したり。

賑やかすぎて声を聞き取れないくらいだったので、見切りをつけて、昼食を食べにいった。学食で、ひとりで飯を食べた。いつものからあげ定食を頼んだ。ここ最近は、フランツ・リストばかり聞いている。リストのピアノを聞くとなんでも美しく、そして良くなる。からあげも輝いてみえる。

研究室へ戻るとあいかわらずうるさい。ぼくはうるさい環境がダメだ。うるさいところにいると、気力を一気に削がれてしまう。そのときは、ほんとうにイライラしたので、帰ることにした。別にしなければいけない勉強ではないし。ああいうところに平気でいられる人間とは、構造が違うのだと思う。図書館にいけばよいのだが、そういう気分ではなかった。

けっきょく学校にいってしたことといえば学食を食べただけだったのだが、それにしても天気が良いので、閉じこもって勉強する必要もなかったかもしれない。歩いているだけで気分がいい。日光があたたかくマフラーもいらないくらいだ。学生のほとんど通らないような、狭い山道を歩いてゆく。すれ違いのウォーキングのおじさんが、怪訝そうにぼくの顔をみる。

アパートに帰ると全身が暑い。郵便受けをみると祖母からの仕送りがきていた。なかには一万円札が数枚入っていた。ありがたきことよ。そのまま鍵をもって、バイクに乗る。しなければならないことがけっこうあった。コンビニで用事を片付け、役場に向かう。

役場までの道のりは二十分くらいある。200ccのバイクで、トコトコと走っていく。途中、白バイがバイクを捕まえていた。たぶんGPZ900だろうか。ほんとうに、白バイは大して悪くないひとばかり捕まえている。最高性能のバイクと最高性能のライダーですることといえばカツアゲだ。いやな存在だと思う。

役場につくと丁寧に案内されたが、けっきょく用事は片付かなかった。べつのところへ行かなければいけないらしい。何となくそんな気はしていたから、別に困惑はしなかった。

それにしても、職員の対応がだんだんと良くなっている気がする。ここ最近、公務員のバッシングがひどいからだろう。べつに彼らの給料を決めているのは彼ら自身ではないのだが、たしかに、すこし割高ではあると思う。

せっかく街へ出て、金もあるので、なにか買い物をしたくなった。それで、中古家具の店へ行った。家具は、好きだ。ネットで家具を買うと失敗することが多いのは、手触りやサイズ感が確認できないからだと思う。家具はまず触れるもの。触覚に訴えるものが、良い家具なのです。だからよいテーブル等は、表面をなでると、へりに触れると、それだけで気品がわかるものなのです。と嘘ぶいたが、来月にはアパートを引き払うのに家具など買うわけがないので、店を出た。

もともとぼくは下流階級出身で地方民だから金をもったところで使うあてがない。せいぜいバイクか楽器かというところだが、ケチなので高いバイクも高い楽器も買いたくない。それが朽ちるときのことを創造すると物悲しく、どうしても良い買い物とは思えないのである。それにブルジョワのいくような店も知らないので、金をもっていくところといえば、ブックオフとか、ハードオフくらいのものだ、自分でも惨めな気分になる。

ハードオフにいってボロなのにバカみたいにボっている中古楽器をいじり回す。五十万円のウッドベースの弦をはじくとボーーーーンとさすがにいい音を響かせる。ベースの音はほんとうに好きだ。耳よりもお腹に響いてくる。たぶん胎内にいたときに聞こえたすべての音はベース音だったのだと思う。ウッドベースが女体の形をしているのもそのせいなのだ。

美しいプロポーション。

つぎにブックオフへ行った。あいかわらずブックオフは「いらしゃーせー!」の声がうるさい。ここは本屋だろう、いちおう……。それに臭い。

岩波文庫のところはろくなものがなかったがルソーの「社会契約論」と「エミール」の上巻が108円で売っていたので買っておくことにした。「エミール」はインドで知り合った某私大の学生が酷評していたな。せっかくの旅行をガ○ジャで数日無駄にすごした彼もいまは一流企業でばりばりやっているに違いない。

ぷらぷらあてもなく店内を眺めている。良い本はあまりない。それにしても、ブックオフは色彩がごちゃごちゃとうるさい店構えだと思う。店内のBGMも本当にうるさい。カナルイヤホンで音楽を聞いてもダメだ。

全店このデザインにしてくれ。

ユダヤ人関係の本や世阿弥の本を買おうと思ったがどうせ読まないだろうからやめておいた。注意深く本棚を睨んでいるとドゥルーズの「批評と臨床」が108円で売られていた。なんてこった!買う以外ないぜ。ものの価値をしらない馬鹿な店員どもだ。

ついでに古書が並んだコーナーで名著「甘えの構造」がやはり108円で売られていたので買っておく。少し日焼けしているが中はきれいで読みやすそうだった。四冊、432円。我ながら良い買い物をしたと思う。

本をバイクに積んでスーパーへ。良い本を買えた喜びで財布が緩んでいるのでスコッチウィスキーを買ってしまった。Ballantine'sという少し風流な名前の酒だ。酒の味はよくしらないがデザインで選んだ。

あとはフランスパンを買って帰宅した。さいきんフランスパンがブームなのである。おおきなお椀に、レタスをしきつめるでしょう。軽くマヨネーズをかけるでしょう。そのうえに、こんがり焼いたフランスパンを四切ればかし載せるでしょう。そして、そのうえに、ブロックベーコンと目玉焼きをのせるのですよ。これをぼくは「フランスパン丼」と呼んでいるのだけど、これで海外展開できるんじゃないかってくらいうまい。箸で食べるのがポイントで、丼ものをがっつくようにフランスパンにかじりつく。日本の喫茶店で、680円くらいで売り出したらブームになるだろう。

フランスパンって、形がしあわせの形をしているのだよ。バッグからこんにちは、フランスパン。食感もしあわせの食感である。噛みちぎるとき、ふわってしあわせの蒸気がたちこめるじゃないか。食べやすく媚びた貧弱な食パンなんてナンセンスだよ。

スコッチはおいしかった。酔い加減もチューハイや発泡酒と比べてだいぶすっきりしている。

風呂にはいりながらドゥルーズを読む。まあ難解といえば難解なのだけどさいきんこういう本も引っかかりなく読めるようになってきた。別の世界の常識を手に入れてしまった感がある。表世界に対する裏世界。ルソーやニーチェやドゥルーズみたいな思想家っていうのはあっちの世界の常識を持っているんだろうなと思う。

冒頭でドゥルーズも「文章とは絵であり音楽である」みたいなことを言っていて昨日ぼくが書いたことと同じで驚いた。昨日のは、たぶんどこかで読んだことを無意識で書いたんだろうが……。それにしてもこういう偶然が最近多いのだ。

あいかわらずシャンプーは使わない。もう一ヶ月以上シャンプーで洗浄していないがとくに異常はない。冬はこれで十分だろう。夏で汗をかいたら、こうはいかないかもしれない。

風呂をあがっても暇なので映画を観る。「ラバー」という映画。殺人念力パワーを持ったタイヤが主人公のシュルレアリスム的映画だ。


いいかんじのポスター(Odilon Redonっぽい?)

印象的なシーンが多い。


設定がシュールなら脚本もよくわからないのだが、正直いって内容はたいしておもしろくない。というかシュールな作品って、高評価すると映画通みたいに思われるのが常だ。ゴダールの映画みてうんうん頷いてたら映画通でしょう。でもこれはおもしろくないよ、本当に。少し好きではあるけど。

昨日も映画を観た。「ザ・クリミナル」というジャーナリスト対国家という構図の重厚なドラマだった。割と良い作品だとは思うのだが、これが、けっこうしんどくて……。やはり映像作品って、精神にくるものが多い。文章や音楽ばかりを楽しんでいると、ちょっとした映像にこてんぱんに潰されることがある。特に政治色が濃いものは。その点、この「ラバー」は良い映画だった。繊細な感覚が安心して喜ぶ映画というか。首が爆発するようなグロテスクなシーンはあるけど、イデオロギーよりはマシなのだ。

で、寝ようと思ったが寝る気がおきないので久しぶりに漫画を読んだ。「猫又指南」という猫漫画。これもまたシュールで楽しい。作者はニューヨーク在住らしい。そして、父親が作家なんだとか。いったいだれなんだろうと思ってぐぐったがよくわからない。父親が作家というのは、実にうらやましい。創造家の血が流れているということだろう。ニューヨーク在住というのもうらやましい……。自分を考えると少し嫌になる。

猫又指南

まあそんな感じで一日を過ごした。明日はしっかりと勉強するだろう。こうして日常のことばかり書いていたら、ずいぶん長くなった。一日のなかに、書くべきことは、たくさんある。それはけっして、読まれるべきものではないのだけど。




最近のおすすめMusic。ポール・チェンバースも、フィニアス・ニューボーンも、とっくに亡くなっているが、ドラマーのロイ・ヘインズはまだまだ現役である。



このひとのドラムは、本当にナチュラルで良い。聴きやすくはないが。

とにかく、ひたすらに書いてしまったらすっきりした。今日はもう寝ようと思う。

増えすぎた羊

人間は平等ではない。

精神異常者は治療すべきではない。

現代においては、霊性をもった人間は、気狂いとされる。彼は薬によって、脳内のモノアミンを調節される。そうして彼は治療される。彼は常識の世界に帰ってくる。


人間はあまりに増えすぎたのだ。増えすぎたから、ちっぽけな家を買うのに、四十年ローンを組まねばならない。増えすぎたから、ぼくらは生まれたときから莫大な借金を背負っている。

ぼくらは人間としてまともな生活を送りたいと思う。そのためには「四十年きっちりとはたらけよ」。ぼくらははたらいて、身を粉にして、やっと人並みの生活を達成する。そのときには、もう白髪が生えている。

木は生えている。土壌は豊かである。雨は降る。海には魚が豊富にある。人間は、おそらく、何もなくても生きていける。

しかし、現実では、「土地を買う」のにウン千万、家を建てるのにまたウン千万円かかる。なんという事態だ。ひとが増えすぎたのだ。だから土地に見えない線を張って、ここは俺のものだ、ここに入ったら犯罪なのだぞ、警察を呼ぶぞ、と息巻く。なんという貧困だろう!

だれもかれも車を買おうとする、車を買って乗り回す。ワゴンRだろうがポルシェだろうが一緒だ。だれもが車を買い求める。コンクリートの舗装がはりめぐらされた。散歩する人びとは道の隅ですれ違うのもやっとだ。道は混む。渋滞だらけだ。それなら二車線にしよう。三車線にしよう。なんてざまだ!

人間は増えすぎたのだ。そうして、だれもかれもが、はたらく。ここに貧困が生まれる。労働の賃金は安くなり、仕事にあぶれる失業者が生まれる。はたらけない人間は、病気だから、抗うつ剤飲め、パキシルを飲め、となる。だれもかれも労働にかりだされる!いまでは老人や女性までも、労働にかりだされる。それが美徳とされる。なんという貧困だろう。

だれもがものを買うことを迫られる。家を買え、車を買え、保険に入れ、塾に通え、レストランで食事しろ……。

日本人の義務はなにか。ひとつに、労働すること。ふたつに、増えること。みっつに、消費すること。労働と消費は、ともに支配者たちへの奉仕である。そうして、その奉仕の程度は人口に比例する。

百人の国だろうと百万人の国だろうと王の数は変わらない。であるならば、大国の王に!豚を増やしましょう。羊を増やしましょう。今年は羊年。大きな羊は美しく、幸なるかな。

民主主義を利用するのは国民ではなく権力者である。団塊の世代の思想を支配すれば、民主主義が民主主義でなくなることを彼らは当時から知っていた。だから、団塊の世代の洗脳教育は、他の何倍も強い。彼らは柔軟性に欠けている、そう思うでしょう。画一的だと……。教育のたまものなのですよ。日本はコントローラブルな国になったのです。正常な国になったのです。

人間であること、これを追求するべきだ。

と今日は半錯乱気味だが学校へ行く。

2.11.2015

霊感について

芸術とはすべて霊感なのだと思う。文章は文章であってはならない。文章はテキストであり、同時に音であり、絵である。ゆえに、それは無限の広がりをもった世界でなくてはならない。

霊感という言葉は非科学的だとみなされるらしい。それは当然であって霊感を慎重に取りのぞいたものが科学だからだ。だれにでも公正明大に理解可能なものが科学だ。ところが霊的なものの理解ははっきり個人の資質に頼られる。

端的な例では幽霊が見えるひとと見えないひとがいる。これは生まれもった血によるものであって、見えるひとはとことん見え、見えないひとにはまるで見えないものなのだという。(ぼくは後者)

幽霊となるとすこし逸脱するから、別の例をあげよう。ある部屋にいて、居心地が悪くて十分でもいられないという人がいる。しかしそこに住んでいるひとは何十年も住んで平気なことがある。溜まったゴミの臭い、明るすぎる照明、電車のとおる騒音、色彩の強すぎる家具、など、前者にとっては信じられないほど苦痛な環境に、後者の人間は平気で住んでいる。

この場合は前者のほうが霊感が高いということができるだろう。それはつまり感覚の鋭敏さといってもいいし、神経系の反応閾値が低いといってもいいかもしれない。後者の人間には前者の不満は理解できないだろう。説明したところで、あまり通じるものではないのだ。これが科学的学習と違い、霊感が資質によることを示す。

ぼくは幽霊というものに懐疑的だが、おそらく環境的な負の要因の集積が、意識の表象に幽霊という人的な形であらわれているのではないかと思う。心霊スポットといわれる場所は、行ったことのあるひとならわかると思うが、たしかに薄気味が悪い。居心地は最低である。それは端から心霊スポットと知らなくてもそうなのである。あとから「あそこはね……」といわれて、合点がいく、ということもある。

場は霊気をもっている、と感じる。ぼくらはより高次の五感によってか、あるいは第六感によってかはしらないが、場から少しずつ霊気を感じとっている。だれにとっても海は開放的で美しく、同時に自然に対する畏怖の感情を持たせるものであり、山頂はわびしく、気高く、力強い。

ぼくらは自然から切り離されてしまうわけにはいかない。無機的に見える東京の街並みだって、コンクリートもビルも電柱も自動車も、すべての資源は大地の自然を利用してつくられたものである。もちろんコンクリート舗装から霊感を得ることは森のなかの巨石から得ることよりも難しいから、OLやサラリーマンは、長期休暇を利用してたびたび田舎へ旅行をしなくてはならない。

結局のところ木で作られた家もコンクリートで作られたビルも変わらず、自然的である。ぼくらの身の周りのものすべてが、人間が「生みだした」ものではなく、人間が「自然を加工した」ものであることに気づくべきである。人間はあいかわらず地球の乳房からミルクを飲んでいる赤ちゃんに等しい。

Earth - Jean-Michel Basquiat
"Earth" Basquiat 1984

そうであるならばアースの声に耳を傾けよ、というと新興宗教の開祖みたいだが、地球の声にはあるていど耳を貸さなければならないと真に思う。さいきんぼくの脳裏にはひとつの言葉が焼きついている、それは二宮尊徳のいった「誠実な人間は未来のことを知ることができる」という言葉である。

誠実な人間とは何に対して誠実であることなのだろうか。日本人の感覚では、他者に対して誠実である、となるかもしれない。キリスト者であれば神に対して誠実である、ということになるだろう。

ただぼくの思うかぎりでは、誠実であることは、何かに対して約束を守ることではなく、単純に自然であることだ。なぜなら、自然に誤謬や虚偽はないからだ。そうして、そもそも、人間は自然なのである。

ぼくは人体の構造をよくよく勉強したのだが、人体というのは、不思議なものである。いったい、ぼくの心臓は、ぼくのものなのだろうか。ぼくの意志とは無関係に動いて、ぼくの脳に血液を与えてくれる。アステカの儀式ではないが、ナイフで心臓だけをとりだしてみても、そいつはドクドクとひとりで脈打っている。こいつは何ものなのか。「ぼく」なのか。

このように、自分という存在の所有物が、ふつう考えられているような「肉体」というひとつの枠組みではないといったん考えてしまうと、深く思索の網にからめとられてしまう。ぼくの精神だって、ぼくのものではないかもしれない。ぼくは言葉によって思考するが、この言葉だって他者からの貰いものである。

ぼくはわけもわからずこの言葉を使う必要にかられているのだけれども、この日本語のもつ言葉の意味、起源、力を、十分に理解しているわけではない。けっきょく、言葉とは何ものなのだ?言葉がぼくのものでないとしたら、「ぼく」はどこにいるのか?

心理的に、言語なしに得られる観念とは何であろうか。そのようなものはたぶん存在しない。あるいは存在しても、無定形と呼べる形のもとでしかない。私たちはおそらく、言語の助けを借りずには二つの観念を識別する手段をもたないだろう。(断章/ソシュール) 

ともあれ、人間とは思った以上に自分の意志で動いているのではない。ぼくらの肉体は自然であり、また環境も自然である。ぼくらは自然を克服したようにおもっているが、それも変形した自然なのである。

誠実な人間は、さきのことを知ることができる。誠実な人間とは、自然的な人間である。なぜなら自然ほど誠実なものはないからである。自然的な人間は、先のことを知ることができる。

先のことを知ることのできる人間こそ、人間としてきわめて重要な能力をもっていると思う。おそらく人間を人間たらしめる極めて特徴的な能力は、想像力だからである。

そうして、先のことを知る人間が、つねにその力によって、人類を導いてきた。それは遠く過去をさかのぼればシャーマンや巫女であり、いまであれば芸術家や思想家になる。

世の中のあらゆる創作物は、先のことを知る霊感によらなければならない、とぼくは思うのである。霊感を欠いた作品は、良い商品にはなるかもしれないが、その場かぎり、消費されて、捨てられて、おしまいである。



優れた作品に対する讃辞として「神がかっている」という言葉があるでしょう。神がかり、シャーマニズム。心霊、神霊ということなのですよ。





ところで、二宮尊徳は一圓融合を説いた。一圓とは村社会の協調性を説いたものだろうが、もしかすればずっと深い意味をもっていて、地球との和合を示しているのかもしれない。二宮尊徳のちょうど生まれた頃に、本木良永によってコペルニクスの地動説が日本に紹介された。このことが関与しているのかもしれない。

2.08.2015

Opmistic Zack

純潔という最高の本能は、これに取りつかれた者を一個の聖者として、もっとも奇異な、かつ最も危険な孤独化のうちに置くのである。

今後自分がどのようになっていくかを考えると楽しみだと思う。

いまぼくは静かな満足のうちにある。最近みつけた喜びの源泉は、数ヶ月前に見つけた「自己」というものであり、もうひとつは「自然」である。このふたつが、ぼくの日常をゆたかにあたためてくれるので、ぼくはもう何にも不満をもたなくなった。

世の中の小説家は、たとえば芥川賞のような賞をとると大いに喜ぶものらしい。「才能ある新人」が「名士たち」に「選ばれたこと」を「喜ぶ」。一見自然だが、ぼくはどうも不自然に感じる。権威的な賞を無警戒によろこぶ芸術家なんて……。

ぼくには、芥川賞だの、ナントカ賞というものは、飛び立とうとするひなどりに結びつけられた重しのように見える。芸術作品が、賞という額縁のなかに入ってしまった。そのとき、芸術は死ぬのではないか。

文学賞を揶揄した筒井康隆の「大いなる助走」は半分事実なのだと思う。受賞作品が、純粋に作品の出来で決まることなどない。審査員に政治的な力がはたらいていたり、十分な批評眼がないこともあるし、バイアスがかかっているということもある。だから「文学賞受賞マニュアル」なんてものがあったりする。だいぶ、金をとられるらしいが……。

さいきんは、文学は死んだのかもしれないと思うことがある。本の売り上げはどんどん落ちている。日本人の半数は本を月に一冊も読まないのだという。ぼくも現代の小説はほとんど読まないし、たいして興味もない。

あんがい、構造的なものなのかもしれない。良い文学が生まれる土壌というものはあるはずだ。日本の文化的荒廃はなんて様だろう、と思う。音楽は言うまでもなく地に落ちている。小説も鳴かず飛ばず。絵画はよく知らないが、最近有名な画家はいただろうか。

アニメは、もうダメだろう。官民あげてさんざん持ちあげたけれど、そこには永続性をもつ芸術ではなく、消費しておわりの商品があるだけだった。けっきょく、クール・ジャパンはJ-POPと同じように粗製濫造で終わった。外国人はほとんど見向きもしなかっただろう。一般の日本人も、たいして興味をもったわけではなかった。いまでは、ぼくは宮崎駿くらいしか興味がない。しかし宮崎駿も、黒澤明のように過去のひとになりつつある。彼が死んだら、アニメは終わるだろう。

このような背景のなかで、よい作品が生まれるだろうか。作り手も、受け手もだめとなれば。おそらく、たいへん優秀なひとびとが、押しつぶされそうな日常の重圧のなかで、細々と活動しているのだろう。だれにも認められず、変人として静かに生涯を終えるのだろうと思う。

ぼくもそのような道を歩むだろう。

ただ、ぼくは最初に書いたように、もはや「自然」と「自己」において充足しているのであり、賞とか、他者の評価は、ぼくにとって余計な邪魔ものでしかないのだ。

自然はいつでもそこにある。自己も同様だ。病気の人間たちは、自然を嫌い、自己を嫌うものらしい。だから権威や他者にすがろうとする。悲しい人生だと思う。

ぼくは木のごつごつした肌を見ることによろこび、やわらかい新雪を踏みしめるときによろこぶ。自分の指が巧みに動くことをよろこび、心臓がやさしく脈打つ音によろこぶ。このような人間には、もはやなにも必要ないのだろう。

俗世間のひとびとは、うごめき絡み合い、愛だの善だのぶつくさ唱えるけど、まどろっこしい。

ぼくは清潔でありたいのである。そうして、純潔の精神を得たつぎには、ぼくがどこへ行こうとしているのか、楽しみなのである。ぼくはまた、しばらく、自分を自由にさせてあげたいと思う。

2.07.2015

たった二千年

雲や波の観察は人間研究より楽しかった。人間は、なによりもつるつるする虚偽のにかわで包まれ守られていることによって、ほかの自然と違うのだということを知って、私は驚いた。まもなく私は、私の知人達すべてについても同じ現象を観察した。
 
――つまり、各人めいめい、自分特有の本質を知らないくせに、一個の人格、はっきりした人物をよそおうように余儀なくされる、という事情の結果である。私は自分自身にそのことを確認して、妙な気持ちになり、人びとの核心に迫ろうと欲することを断念した。大多数の人間においては、このにかわ質のもののほうがはるかに重要であった。(「郷愁」ヘッセ)

  • キリストが生まれたのは2,000年前。
  • 農作の歴史は10,000年前。
  • 人類が生まれたのは200,000年前。
  • 植物や魚が誕生したのは500,000,000年前。
  • 地球が誕生したのは5,600,000,000年前。

2000年の歴史がぼくらを形作るすべてのように錯覚するけれども、この2000年ってあまりに薄っぺらくないだろうか?

20年は、あっという間だ。……ぼくの体感では。

そうして、それを100回繰りかえしたら2000年。だいたい二十歳で子どもを産むとして、100代前のご先祖さまがキリストと同世代。

ロマンがないな。

(人間の資本化?)

人類はいま、はっきりと病気なのだろう。上のグラフは、明確に異常だ。健全ではない。

飢えることがなくなり、医療が進歩し、人類は発展した。しかし、ぼくらはだれもかれも救うべきだったのだろうか?死にゆくひとびとは死なせた方がよかったのではないか。

もちろんこの考えが非倫理的であることはわかるし、ぼくだって病気になったらたすけてほしいと思うが……。ともかく、だれもが食事を得、病気が治るとなれば、人口は増えつづけるものなのだろう。

ぼくは人間は二千年以上の間病気だったのだと考える。プラトンは病気。アリストテレスも病気。なぜならポリスがひとつの病気だから。

ぼくらはそれよりももっと、古代人の教えを聞くべきではないか。そうして、草木の声を聞き、地球の声を聞くべきではないのか。

……というようなことは、書いてて恥ずかしいのだが。

最近大樹の陰にたたずむとほんとうにあたたかな気持ちになっていいのですよ。何かこう木々に深い知性を感じるのはなぜなんだろう。

よく考えてみると、ぼくの尊敬するような知識人は、人間的であるというよりは植物的である。つまり彼は現実の荒波にはまったくの無抵抗であり、ただ寡黙に静かにある人間だが、ある事象を問うと、彼は短い言葉で真実を伝える。彼を見ていると、「決断とは引きうけられた状況である」というメルロ・ポンティの言葉を思い出す。

犬のような人間、豚のような人間はこの世にいくらでもいるけれど、植物的なひととなるとなかなかいない。「草食系」は流行ったフレーズだが……。食ってどうする。

草木と人間の関係はすばらしいものがある。ぜひ山に登ってくださいと思う。ぜひ海を眺めてください、ぜひ木々に囲まれてください。人間に囲まれ、人間によじ登り、人間ばかり眺めているひとがいるけど、そんなことをしていたら病気になるのは当然なのですよ。

「いいかい、孤独がいけないという警告は少なくとも二十五万回はきかされてきたんだからね」
「われわれは人びとが孤独を憎悪するように仕向ける。そして、孤独を経験したりすることがほとんど不可能なように人びとの生活を設計してある。」
もちろんいまは上のようなハクスレーのBrave New Worldなわけだけど。

人間なんて歴史が浅いのだから。ほんとうの智慧というのは、植物や、大地や海がもっているのですよ。



ああ、バカみたいなスピリチュアリズムだな、と自分でも思う。神秘主義ということだろう。ヒッピーや中年おばさんとかわらない。

最近のぼくは人間に失望しているのである。人間が、嫌だ……。

人間の限界性、人間の醜悪さ、弱さ。「賢さ」とは、ふつう、弱者のものである。弱いから技術を身につけ、弱いから知識を身につけていった。腕っぷしの強い丈夫は、ふつうバカだ。反対に、虚弱そうな人間がいまの総理大臣だったりする。

ぼくらが文明に負い目をもっているとすれば、文明や技術というものが、人間の弱さの象徴であるところにあるのではないかな。植物は技術なんてない。魚は文明なんてもたない。だから人間はそれらを自由に使うことができる。でも、ぼくらは魚や植物に笑われているのですよ。弱いなあ、姑息だなあ、ちっぽけだなあ、と。

そうした負い目を感じながらも、人間は家を建てたり食事をしないわけにはいかないので、自然を利用してゆく。キリスト教的な考え方では、人間が豊かに暮らしていくために動植物が与えられたとあるけど、これはひどい誤謬ではないかと思う。

文明至上主義、科学至上主義が近視眼的なのは、文明こそ人間の力であり、大事にすべき宝物であると考えているところにあって、文明なんてものは、ほんとうは弱さの象徴、ずる賢さの象徴なのだ、と考えてしまうと新しい知見がえられるのかもしれない。

おそらく本当の深い智慧とは、こういうところにある。

まあ

ただの

アニミズムだな。


2.06.2015

講義恐怖症

最近の自分をふりかえってみると、だいぶ調子にのっていたなと思う。うわついてふわふわしたことしか書けていない。

ぼくはいま、たしかによろこばしい状況にあるのである。そろそろ、大学という組織から抜けだすことができるという希望もあるし、ごみごみした東京におさらばできるという状況にある。

ただ、ぼくの精神がはっきりと自由になったと感じるのは、講義というものがぼくの日常から消え去ってからだった。ぼくは講義がたまらなくいやだった、と思う。だから出席をとればそうそうに講義室を出ていったし……可能なかぎりは貴重な睡眠時間にあてていた。

なにが嫌かというと、あの強制的な環境、自由のない環境がいやだったのだとおもう。まえに立つ先生はえらくて、聞いてるぼくらは彼のようになることを志向させられる。メールの確認も、おしゃべりも、コーヒーを飲むことも、足を組んだり、頬杖をつくことも、好ましくないとされる。

ふりかえるとぼくの生活は講義、講義でそまっていた、二十年間も長いあいだ、講義というものにしばられつづけていた。いったい机に座って板書したり話を聞くことにそこまでの意義があるのだろうか?ぼくのような人間は、ひとり自習するときの方がずっと有意義にかんじるのだが。


とはいっても、これはドンキホーテ的な挑戦である。ひとが講義を受けはじめたのはおそらく何千年もまえからで……そうして、いまでも全世界の学生諸氏が講義を受けている。講義という構造はひとつの承認されたコモンセンスなのである。


ボローニャ大学における1350年代の講義風景を描いた写本挿絵

この挿絵を見ていたら笑ってしまった。右手前の寝ている奴が、ぼくである。当時から講義ってのは退屈だったんだなあ……。ボローニャ大学はイタリアの世界最古の総合大学とのこと。日本でも江戸時代から寺子屋があった。

こうした教育体制のなにが嫌いかというと、自然的でないのだと思う。自然栽培に対する工場生産のように感じる。たしかに効率性や生産性でかんがえると、技能知識をみにつけた完成品がたくさん得られるのだろうけど、なにか人間と人間の関係を冒涜したような印象をみつけてしまう。

ぼくの高校は底辺校だったので、体育教師がなぜか歴史や国語をおしえていた。そのような教師の授業のときは、みな、肩肘をぴしっとはって熱心そうに授業を受けていた。ところがぼくはいつもどおり寝てしまったので、授業の最中にもかかわらず、「ちょっとこい」と廊下に呼びだされた。

そして、体重100kgはありそうな巨漢の教師に、なんと壁ドンをされたのである。そうして、「おまえは俺をなめているのか」と至近距離ですごまれた。もちろん、「ちがいます」と言うしかない。さんざんにらまれ、恫喝されて解放されたときは、すこし涙目になった。ほかの生徒たちは、もどってくるぼくの表情を興味深げにみた。

上流階級のひとはびっくりするかもしれないが、底辺校とはこんなものなのである。

この監視という要素がいやなのかもしれない。大学の講義はもっとずっと楽で自由だったが、それでも監視の目は感じていた。「しゃべっている奴は出ていけ!」という教授がいる。これはいいと思うが……。寝ていたりやスマホをいじっている程度で注意する教授の講義は、非常に嫌だった。

なにが嫌かというと、一方向的な強制性がいやなのかもしれない。「スマホをいじっても、いいじゃないか。お前の講義がつまらないのだから……」とはけっして言い返せないのだ。学生証の提示をさせて即刻不可というパターンもある。この対等ならざる関係がいやだ。

ほんらい、大学っていうのは、大人と大人の関係であって、師弟関係じゃないでしょう。授業態度にケチをつけるのなら、講義態度にケチをつける権利もある……そうじゃないのかな(だいたい、つまらない教授にかぎってこういう上下関係をあらわにして見せつける)。

この根源をたどると、教授が単位を与えて、学生は単位をもらうという、関係性にあるのだと思う。やはり、ここにも権力的関係があるのだ。教授による生殺与奪の掌握だ。ぼくらは教授をえらいと思わなければならない。へりくだっておべっかを使わなければならない。なぜなら、彼らがぼくらの生活を握っているから……。

出席をとらない講義をする教授はえらい。試験の出来だけで成績を決める教授はえらい。ぼくは彼らを尊敬してやまない。

まあ話が長くなったが、ぼくは講義がなくなってからというもの、精神的に解放されて、きわめて清涼な気分をあじわっている。おそらく講義の根底には権力の結びつきがあったからなのだろう。

ぼくはもうだれにも生殺与奪を握られたくないし、反対に他人になにかを強制することも好まない。国家や、企業や、宗教や、家族に、ぼくの生命や思想をコントロールされたくないのである。ぼくはくびきを逃れて自由になりたいのである。そのためなら貧乏でも、孤独でも、それはかまわないのだ。


また,オペラント条件づけの原理から考えても,出席確認による出席の維持は本人にとって報酬となるものによる行動の維持(正の強化)ではなく,嫌悪刺激(この場合は失格,落第などの結果)をその行動によって回避できること(負の強化)による行動維持である.負の強化により維持される行動は,一般に本人にとって不愉快で自発性をともなわず,また消去抵抗(注10)が弱いので強化がなくなると(この場合は出席を取らなくなると)すぐに消去する.つまり,出席確認によって維持されている出席は本人にとって不本意で不快であり,確認しなくなれば即座に出席しなくなってしまう恐れがある.調査結果ではそうした傾向は明らかになっていないが,自由記述に「おもしろい講義で出席を取られるのはまだがまんできるが,くだらない講義に出席で縛られるのは非常に不愉快」というような否定的な感情反応が多くみられることは重要である.
実際にはその大学や学部のカリキュラムや講義が出席を維持できないレベルのものであることをまったく反省しないで,「いまの学生は強制しないとサボる」「学生が自発的に講義に興味をもつなどということはない」などと学生にその責任をおわせ,厳しい出席評価によって学生を強制的に出席させるようなことでは,大学教育は堕落するばかりである.自由記述の中にも「自分の講義に自信のない教員ほど出席が厳しいのでは」「出席とらないと誰も来ないのが怖いのでは」と,教員の本音をきちんと見抜いている意見がたくさんあった.学生は講義から教員の実力をきちんと判断している.小学校や中学校のように教員と生徒との発達段階が明らかに異なっている場合ならいざ知らず,大学では教員も学生も「おとな」であり,教員よりも学生の知的水準が高いこと,教員のレベルの低さが学生に見透かされていることは,いくらでもありうる.
 学生を教室に呼び戻すために必要なのは出席確認などの姑息な方法ではなく,学生がそこに価値を見出せるおもしろくて興味のもてる講義を展開するように教員が努力することだけである.それを理想論と退け,学生のレベルが低いだの,最近の学生は意欲がないだのと嘆き続けるだけなら,大学教員という職業を今後も続けることにどんな夢がもてるだろうか. (「講義における出席確認と出席の維持」渡邊芳之講師

なるほど、おもしろい……が、こんな論文書いて干されないのだろうか?

2.05.2015

Kiva

神秘主義者、とりわけエゴチストと猥褻な偽レアリストは社会にとって最低の敵である。社会には彼らから身を守る最低限の権利がある。社会とは人類だけが生き、繁栄し、より高い地点へと進歩することのできる自然で有機的な形式であることに同意してくれる人々よ、文明を価値あるプラスなもの、守る価値のあるものと考える人々よ、反社会的害虫を容赦なく足で踏みつけようではないか。ニーチェのように「自由に徘徊する享楽的な肉食獣」に熱狂している人にはこう言おう。「文明の外に出て行け。私たちから離れて、さ迷えばよい。できるものなら自分で道を平らにして、小屋を建て、服を着て、自らを養えばいい。私たちの通りも家もお前のために作られたのではない。私たちの畑はお前のために耕されたのではない。私たちの仕事の一切は、互いに尊重し合い、互いに敬意を払い、相互に助け合い、全体の利益のためにエゴイズムを押さえる人たちによってなされたのである。ここには享楽的な肉食獣のための場所は一切ない。もしお前が私たちのところにもぐりこもうとするなら、棍棒で殴られて気を失うことになろう」。 Ibird, t. II, p.550-561

ぼくは社会のフリーライダーである。ぼくには社会のためにエゴイズムを押さえるような趣味はない。ぼくの人生はぼくのものであって社会のものではない。 ぼくはたまたま生まれた社会に人生をささげるつもりはない。

社会のなかにぼくがあるのではない。ぼくのなかに社会があるのだ。社会がぼくに奉仕するのであれば甘んじて享受するが、それに対して借用書をつきつけて、取り立てをするようなことはお門違いだ。

しかし社会に対しなにかを還元したい気持ちはぼくにだってある。自然的感情はエゴイズムだけでなく集団への奉仕の情動も生む。ただそれは道路工事や農作業にあるのではない。それが向いている人間がいる。ぼくは彼らを尊敬する。しかし、ぼくはそのような仕事に喜びを感じるタイプの人間ではない。農業は楽しそうではあるから、できないことはないと思うが……。

Untitled (A Southwest Indian on Kiva) - Xavier Martinez
(*Kiva:Pueblo Indianの地下礼拝場)

ぼくは美しいものを追いかける。真理を追い求める。だから、本を読むのだ。本を読んで、社会を突きはなして、ただ哲人や自分とだけ会話するのである。でも、それがどうしてエゴイスティックな享楽なのか?どうしてそれが反社会的活動になるのか?

だれにとっても真理や美はあたたかく、快いものだ。真理を増幅し発振していくのであればそれは全体の利益にも適う。たしかに食べることや、快適な住居は、人間にとって必要なものだが、しかし人間はそれだけで生きていけるものではない。

二種類の人間を、私は尊敬している。三番目はいない。最初の人間は、土から作られた道具である肉体を使い、営々として大地を征服し、それを人間のものにする、労苦に疲れ果てた労働者である。彼の硬い手は、私にとって尊いものだ。その手は曲がり、荒れているが、そこにはこの地球の王笏ともいうべき永遠の王者の妙なる美徳が宿っている。また、すっかり日焼けして、土によごれ、粗野な知性にあふれた、そのいかつい顔も尊い。雄々しく生きる人間の顔だからである。ああ、君は粗野なればこそ――さらに言えば、われわれは君を愛するとともに哀れまねばならぬからこそ、いっそう尊く思われるのである。虐待された兄弟よ!われわれのために、君の背中はこんなにも曲がってしまった。君は貧乏籤をひいて、われわれのために徴集された兵士であり、われわれのために戦って、ひどい手傷を負ってしまったのだ。こんなふうに述べたのは、君のなかにも神が創造した形相が宿っているからであるが、その形相は表面にあらわれる運命にはなかったのだ。それは労働の厚い付着物とよごれとに覆われたままでいなくてはならなかった。また、君の肉体はその魂と同様に、自由を知ることはできなかった。だが、労苦をいとわずに働き、さらに働きつづけたまえ。ほかのだれが義務から逃れようと、君は義務を果たしているのだから。日々のパンという、まったく不可欠なもののために働いているのだから。

私が尊敬する――しかもさらに深く尊敬する――二番目の人間は、精神的に不可欠なもの、つまり日々のパンではなくて、生命のパンのために労苦をいとわず働いているひとである。彼もまた、内面的調和を求め、行為なり言葉なりによってそれをあきらかにしようと、高尚か低俗かにかかわりなく、あらゆる外面的な活動を通して努力することにより、みずからの義務を果たしている人間ではあるまいか?彼の外面的努力が内面的努力とひとつとなったときに、彼は最高の人間となる。そのときこそ彼を『芸術家』と呼ぶことができるのだ。彼は単に地上の職人ではなく、天上でつくられた道具を用いてわれわれのために天を征服してくれる、霊感にあふれた思想家となる。もし貧しくて卑賤なひとびとが、われわれを食べさせてくれるために働くのだとすれば、地位の高い、栄光を担うひとびとは、その返礼として、前者に光と手引きと自由と不死を与えるために働くべきではあるまいか?彼らのあいだにどれほど程度の差があろうと、私はこれら二種類の人間を尊敬する。それ以外の人間はみな籾殻や塵にすぎない。どこへなりと風の意のままに吹き飛ばされてしまうがよいのだ。(カーライル「衣装哲学」)

いまの時代は、グルメとセックスしか知らない人間がこの世の勝者になっている。金銭に精神を汚染された恥知らずの犬が大手をふって歩く。このような社会では、美や真理を求める人間は、地べたを這いつくばるしかない。

しかし、このような人生こそ望むものだ。生きがいがあるってもんだ。


2.04.2015

「死にたい」という感情

「ああ、ぼくはねえ、きみ、心の底で、年をとることにひどく好奇心を持っているんですよ。青春なんてごまかしです。まったく新聞や読本でもてはやされるごまかしです。人生の最も美しい時だなんて!そんなばかなことが!老人こそ常にぼくにはるかに幸福な印象を与えます。青春は一生の最も困難な時代です。たとえば自殺は、年をとってからはほとんどまったく起こらない。」(「春の嵐」ヘッセ)

朝六時に起きるつもりが朝十時に起きる。思った以上に日々の生活が負担になっているようだ。ぼくの生活もショートしかけているのかもしれない。睡眠の異常は精神の警告であることが多い。苦いチョコレートと、ココアを飲む。

友人は希死念慮におそわれているが、ぼくの方は死にたいとはひさしく思ったことがない。これはぼくの精神において独特の能力だと思う。

ぼくの人生はずっと不幸であった。もっとも不幸な中学、高校時代や大学生活の初期をふりかえると、死んでもおかしくない状況にあった。もう絶対戻りたくないな、と思う。

しかしぼくはそれでも死ぬということを選ばなかった。死ぬという発想がなかった。ぼくは昔から、これだけ辛いのに、自殺しようという気持ちにならないのが自分で不思議だった。まわりの友人は、自殺未遂やリストカットをしたものだが、ぼくの方はそんな衝動にかられない。

それでも精神は確かにボロボロに傷ついていたから、神経症が発症した。そのせいで、またこのくだらない日本社会の学級村では、ずいぶんつらい思いをした。

神経症と鬱は類縁にあるのだと思う。つまり躁鬱病はまさしく循環の病気で、鬱病と躁病を繰りかえすが、神経症のほうはかえって小さな異常状態を日常のあらゆるところに永続させる。

鬱病の人間は、症状がないときには、いたって健康的な精神を見せる。彼は完全のように思える。社交的で、愛にあふれ、雄弁闊達で、仕事もたいへん有能である。しかし、あるところから、だんだんおかしくなってゆく。かれは死と絶望のなかに沈みこむ。そうして、深みにはまった彼はなかなか帰ってこない。一定の期間を過ぎると、彼はようやく回復して、いままで通りの姿を見せる。いわば彼は、異常と正常を循環する。

神経症の人間は、日常のなかにおいて異常行動を見せる。彼の異常行動はつねに日常の中にある。つまり手を洗い続けないと気がすまなかったり、ガスを止めたか気になって何度も家に帰ってしまう、など。このように、少しの神経の昂ぶり、不条理な行動が日常を支配する。

しかしかれの症状には躁鬱病のような変動はない。急激に症状が進行するようなことはない。ただ、彼は日常的に異常行動をしめすのだ。それは永遠のように思える。実際、神経症を治すことは非常に難しいとされている。有効な薬もないし、唯一効果的とされる治療法は、たいへんコストがかかるのでほとんどの病院で採用していない……。だから彼はふつう死ぬまで異常行動を繰りかえす。

こう考えてみると、鬱病者、神経症者、どちらもいたく繊細な精神をもっているのだと思う。しかし鬱病が「憂鬱」を長いあいだ蓄積して一気に解放するのにたいし、神経症は日々の生活のなかで表出させ、小出しにつぶしていっているのだ、とぼくは考える。

(ぼくはまだ神経症をわずらっているのです。つまり、このブログも、狂気の小出しなのだ……。)

鬱病


Eleanor Davis

日本では鬱病がとくに多いのだが、その根底には、「憂鬱は間違ったことだ」という考えがあるからかもしれない。つまり屈託なく笑い、仕事をこなし、友人多く、家族にやさしいという理想的な人間像にしばられているのだ。彼にとって憂鬱とは「病気」であり「異常」なのだ。

だから周到に憂鬱をつつみかくしてゆく。だれの目から見せないようにする。そうして、しまいには、自分の目からも隠していく。しかし、感情を抑圧したところで消えてしまうものではない。禁欲的な聖職者がかえって異常性癖をもつように、どこかで漏出する。

ただ鬱病の人間は強い精神と注意深さをもっているのだろう。包み隠して、溜めこんで、ほんとうにぎりぎりのラインまで、憂鬱を隠しこむ。そしてそれはある時点で、限界を超えたダムのように決壊する。

憂鬱は間違ったことではない。仏陀の言うとおり、人生はその本質からいって不幸なのだから、憂鬱になることは自然だ。それなのに、テレビをつければひとびとはつねに幸福である。また、学校教育でぼくらは幸福を目指し、追求するように駆り立てられる。社会全体が、不健全なイデオロギーをもっている。

(ドラマやアニメでは、登場人物は確かにいったん不幸に陥ることもあるが、必ず彼は克服してゆく。「努力」や「友情」によって。嫌なことだ!バッドエンドは、ニュースの犯罪やテロのなかにしかないのだ。それこそが真実なのに。)

そのためにぼくらは受験勉強をがんばり、出世競争をがんばる。そうして不幸を負け組たちに押しつけ、押しつけ、自分たちは完全な幸福を得たように思う。

しかし、ひとが人生に勝てることがあっただろうか?そんなことはない。人生の勝者なんて存在しない。人生は不幸であり、人間は敗者なのである。

だから、たしかに、バカな人間ほど幸福である。ただ器用なだけのバカが、この世でもっとも幸福に恵まれた人生を歩む。なにも見えちゃいないからだ。そうして、聡明な人間ほど人生を深く探求するのだから、かれはあるところで不幸にぶつかってしまう。

幸福な人生など存在しない。人間の到達しうる最高の人生は、英雄的人生である。(ショーペンハウエル)

だから乱暴にいってしまえば、この社会にあっては、精神を狂わせない人間の方が愚鈍なのである。である……。

ぜんぜん鬱病の説明になっていないな。

上で語ったのは、社会によって作られた鬱病についてである。遺伝的な鬱病、器質的な鬱病もあるだろうと思う。ほんとうに、精神病は、だれにもわからないのだ。いまのところ、世界中の科学者は、精神における錬金術師の状態である。だからぼくのような人間が適当なことを書けるということだ。


2.03.2015

精神を病んだ友人

今日は友人と話をしていた。ひさしぶりにあった彼はずいぶんやつれていた。それに、髪が薄くなっていた。

軽い近況報告をしたあとに、彼はぽつりと「最近死にたいんだよね」と言い出した。話を聞くと、夢も、希望も、失ってしまったらしい。生きていることの何もかもがつまらなく、現実が空虚感につつまれている、ということだった。いままでの人生は最低だったし、これからも最悪だろう、と。認知機能にも変調がきている。飯を食べても味がしないし、寝ているのか起きているのかわからなくなる。原付に乗っていると、気づいたら信号無視をしている。「危うく轢かれかけたよ」と意外なほど快活な語り口で、かれはぼくに語った。

それで彼の救いはなにかというと、アイドルグループのファンクラブのオフ会に参加することが楽しみなのだという。彼にとって、アイドルというのは傷ついた人間たちの理想だった。遠くから眺めるだけで、精神のぶつかりあいもないし、肉体の干渉もない。ただ、それが彼にとっての癒やしなのだという。ファンクラブのひとびとは、みんなどこかに傷を負ったひとばかりで、それゆえに、優しい。ぼくは彼の話に共感した。

ぼくはふだんあまり社交好きではないのだが、こうして憂鬱な気分に陥ったひとの話を聞くのは、たいへん好きである。こうしたひとを前にすると、自分でも怖いくらい聞き上手になる。案外、カウンセラーとか向いているのかもしれない……。

このまえ、ぼくは不幸な人間からは離れたい、ということを書いたと思う。でも、憂鬱に沈んだ人間の言葉は大好きだ。ぼくは彼との会話を心の底から楽しんだ。しかし同時に、会話を楽しんでしまう自分が嫌だった。ひとの不幸を喜んでいる下賤な人間のように思えたからだ。

なぜこういう会話が楽しいのか。ぼくは彼との会話で何を得ているのか。しばらく考えて、やっとわかった。

ぼくは彼の生命力を認めているのだ。鬱病の人間は、ぼくは思うのだが、まちがいなく生きようとしている。憂鬱に襲われがんじがらめになりながらも、なんとか生きる道を探している。かれはそのとき、生きているのである。危機に瀕した人間は、生傷を剥き出しにしながらも、歩んでいく。その傷の底には、生命そのものが光っている。ぼくはその光が好きなのだと思う。

それにしても、最近聡明な人間ほど精神を病んでいる気がする。ぼくの周りではそんな傾向がある。

王さまは裸だ

ルソーの晩年のエセ―を読んでいたらたいへん悲しくなった。なんて純朴な人間だろう、そしてそれゆえにつらく孤独な人生を歩んだのだろう。

ルソーは反権力的な思想をもっていた。教育論として有名な「エミール」では王族や貴族をこれでもかというくらい批判している。市民に平等や自由を与えるのでないかぎり、政府なんてない方が良い、と。それだから、世の為政者たちに大いに嫌われた。「エミール」は発禁処分になった。

ルソーはそれから、迫害されつづけた。興味深いのは、スパイにつきまとわれていたという記述である。権力者の手先であるスパイが、市民たちの間でルソーの悪評を広め、そのためにルソーは村八分的な扱いを受けていたとされている。

なるほど晩年は被害妄想にかられていたのか、天才に妄想はつきものだな......とぼくは思ったが、実際にスパイ行為があった、という記述がありびっくりした。現代風にいえば集団ストーカー的な嫌がらせである。それが当時のフランスからあったのだな。

ルソーは本来は明るく社交好きで、街のひとびととの交流も好きな人間だった。それが、他者と接するときもつねに恐怖がつきまうようになった。

彼は牢獄に入れられたわけでも、毒ニンジンを飲まされたわけでもないが、おそろしく残酷な措置をとられた人間ではあると思う。結局、彼は、人間不信に陥り、自分しか信じることができなくなった。

全体主義的支配は、統治形式としては、この孤立だけでは満足せずに私生活をも破壊するという点で前例のないものである――全体主義的支配はlonelinessの上に、すなわち人間が持つ最も根本的で最も絶望的な経験の一つである、 自分がこの世界にまったく属していないという経験の上に成立っている。(ハンナ・アレント)

迫害されたといえば毒ニンジンの杯をあおったソクラテスである。昨日ちょうどソクラテスの講義動画を見ていた(たいした動画ではないので埋め込みはしない……)。

そのなかで、こんな発言があった。
「『偉くて有名なひとびとはほとんど知性を欠いている』とソクラテスは言ってしまった」
「これはいっちゃいかんですねw 本当のことはいつでも言っちゃいけないんだ」
「現代でもそうだけどあまり本当のことを言っちゃうと排除されちゃうんですね」
「まあソクラテスは真実のひとだから本当のこと言っちゃったんですね」

ちょっとまあぼくが驚いたことを聞いてください。

「ほんとうのことは言ってはいけないのか!」

と驚いた。ほんとうに、驚いた。ぼくは純粋すぎた……。

思えば、言論の自由だとか、思想の自由というものは、しょせん「建前」でしかない。「王さまは裸だ!」といえば、現代でも処罰は免れえない。

「天皇は○○○で○○○○○○○だ!」とは思っていても、言ってはならないのだ……。権力はあまねく存在している。庶民に自由な発現など、許されるわけがないのだ。

ソクラテスは司法によって殺害され、ルソーはいわば政府の手先であるマスコミにバッシングされるような形で村八分となった。昔から正しい思想をもった人間はこうなるようだ。

まったく思想が自由になりすぎると為政者にとっては我慢ならないものになるらしい。ぼくも少しく考えていかなければならないようだ。

このブログでは、つねに正直に書いていこうと思っているし、それに、ぼくがルソーやソクラテスほどの影響力をもつかといえば、可能性はゼロに等しいのだが……。それにしても、権力の力を見せつけられると、やはり嫌なものである。

ぼくの小学校のときの教師は、よくこういっていた。彼女から学んだことは更年期のおばさんはオソロシイものだ、ということだけだと思っていたが、この言葉は良い教えだった。

つまり「お口にチャック」。


ごく少数の者たち、たとえば英雄、愛国者、殉教者、偉大な改革者、それに人間の名に値する人間などが、肉体や頭脳ばかりでなく、良心をもって国家に仕えており、だからこそ彼らの大部分は国家に抵抗せざるを得ないのだ。そこで彼らは一般に、国家からは敵として扱われる。賢者は、ただ人間として役に立つだけであり、「土塊」となって「風穴をふさぐ」ことには堪えられない。そんなお役目はせいぜいのところ、自分が死んだあとの死体にまかせておけばよいと思っている。(「市民の反抗」ソロー)



先にルソーを反権力と書いたが、そうではないかもしれない……。

フランス革命的な「権力は悪だ!たたきつぶせ!」というようなノリとはまた違う。おそらく、「反抗」ならまだ許されるだろう。権力があるところに反抗があるから。飼い犬もときに手を噛む。このことを知っていた徳川幕府は、人為的に反乱を起こし、市民のガス抜きをしていた。結果的に「太平の世」である。

実は権力がもっとも忌み嫌うのは、「侮辱」である。「侮辱」は、犬と飼い主をつなぐリードを切ってしまうことだからだ。飼い主を犬の立場に引きずりおろすだけではない。同時に、犬を人間の立場まで引き上げる行為である。ソクラテスやルソーはこれを行った。

侮辱があるところに人間の目覚めがある。人間を奴隷的立場から解放するのは、武力ではなく、「気づき」なのである。これが為政者のいちばん怖れることなのだ。

だから特権階級の権力をないものとして扱う、権力を迷妄だとしたルソーは反権力者だったわけではない。反権力とは、権力を認め、それに反抗することだからである。それではなんていえばいいのだろう。

と考えてみてもよくわからない。ボキャ貧で……。

2.02.2015

老婦人

朝顔に つるべとられて もらい水 (加賀千代)
スーパーで半額弁当や菓子パンを買いこんでいく老婦人を見ると、悲しくて悲しくてやりきれなくなるのはぼくだけなのだろうか。

サラリーマンや貧乏学生が半額弁当を買うならいい。だが、おばあさんが買っていくのは嫌だ。心の底から嫌な組み合わせだと思う。

息子を一人前に育てあげ、娘が結婚したときには、そして孫の顔を見たときには、涙を流しただろう、老婦人。ぼくのたわいない浅知恵を吹き飛ばすような、質量をもった経験と智慧をもっているだろう老婦人。

そのおばあさんが、腐りかけの、ガラクタみたいな弁当を食べている……というのは、まことにやりきれない。

ぼくの祖母はまだ存命だが……。彼女はまだ料理を自分で作り、そうして、農作業もしている。広い家を毎朝掃除し、祖父の介護をするかたわら、庭には花も植えるし、漬け物を作ったり、こんにゃくを作ったり、忙しい、しかし充実した日々を送っている。

なにも、ぼくの祖母のような生き方が正しいとおしつけたいわけではないが……。

東京の老人たちは、妙に、悲しい。



スーパーで見かける老婦人たちはどのような生き方をしているのだろう?

あまり、考えたくはない。彼女たちの部屋に、弁当のポリエチレン容器が積み重なっている光景というのは、ぼくの価値観でいえば、不幸でしかない。

人間関係について

太宰治というペンネームの「ダザイ」はDaseinから来ているという説がある。ダーザイン、英語ではbethere、日本語では現存在。



人間関係に理想はない。ぼくらが他者を求めるのは、本能だからである。

本能に理想はない。食欲に理想はないし、性欲にもない。本能的欲求は、まず「現存」する。

プラトンによれば、理想=イデアは観想のなかにある。つまり、現実には存在しない。しかし、本能は現実に存在する。よって、本能には理想はない。

あるとすれば、蛇の抜け殻のような形式的なことがらである。

食欲の形式的な理想……野菜の多い食事、腹八分目、伝統的な日本食、あるいは高級フレンチ、中華、懐石料理、または家族と食べるすき焼きや鍋料理など。

マアひとそれぞれだな。

しかし、腹を満たすこと、これがまず大前提なのだ。

性欲にかんしても何らかの形で解消する。本質的には、性欲はまず「在る」のであって、それに理想はない。自慰だろうと、ブスだろうと、美人だろうと、ひとまずわれわれは解消を迫られる。

同様に、ぼくらがひとを求めることもまた本能である。なぜなら、ぼくらの体重が数キロしかなく、甘いミルクの匂いを漂わせていたときには、母親がどこかへいくたびに泣いて抗議したに違いない。他者が必要なのである。

ぼくらは生まれたときから食事をし、排泄し、眠り、そうして、他者を求めた。乳児期には性欲こそないものの(フロイトを否定するなら)、ぼくらは大人になったいまでも食べ、排泄し、眠っている。どうして他者を求める欲求が、本能ではないと言えるのか。



マズローの欲求段階説。
頂点の上にある自己超越はときどき無視されるが、
これこそマズローが力点を置いたところなんである。


このピラミッドはけっこう疑問符のつく代物なのだが……、便宜上もってきた。

この図の上下矢印を見ると、物質的欲求が「本能」であり、精神的欲求は「理性」なのだな、と思うかもしれない。

だが実は、マズローが言うところによれば、全部「本能」なのである。つまりぼくらには物質的本能と精神的「本能」があって……。他者を求めること、自己実現を図ることもまた、本能の一環ということになる。

つまりぼくらが聖人君子のような善人を見たときに、「彼には本能がない」「彼は本能を超越した」というようなことを思うかもしれないが、その反対で、彼は本能にきわめて忠実である、というのがほんとうなのである……。

「本能」が全ての知性のうちでもっとも知性的である。(「善悪の彼岸」)

存在と本能の関係は、興味深い。ぼくらは「在る」。在るところの人間は、かならず本能的欲求に束縛される。在ることと本能は同一のようにも感じる。

在るときのぼくらは、つねに肉体をともなう。よく、肉体と精神は切り離されて考えられてきた。それは本能と理性が切り離されたようにである。しかしぼくは思うのだが、肉体と和合しない精神などないし、本能なき理性もないと感じる。

存在、つまり肉体=本能が大前提で、そのうえに浮かぶボートのようなものが精神、理性であると考える。ボートが転覆しようが、大海はいたって平気なのである。これはけっきょくは、無意識と意識の関係でもある。

長々と書いた。結局ぼくは何がいいたいのかというと、他者を思いやること、他者と良好な関係を築くこと、これは本能によるものであって、理性の領域ではないということだ。


ぼくらはこう考えるかもしれない。学校の教育がなければ、集団生活を送ってこなければ、他者をおもいやる心は育たない、と。つまり社会性とは、教育によって育まれるものである、と。

たしかにこれは一面では真実である。狼に育てられた少年は、服を着ることを拒み、喜ばしいことやおもしろおかしいことがあっても笑うことがない。ひとにある程度の教育が必要なことも事実である。

では教育とは何なのか。


猫が巧みに狩りをするのは親猫に教えられたからである。子猫は、最初は弱ったねずみを与えられる。しだいに、元気なねずみが与えられる。そうして子猫は狩りを学んでゆく。

それでは、猫の狩猟は理性的な行為なのか?いや、だれもそうは思わないだろう。猫に理性はないのだから。

となると、教育は理性の領域にあるのではないということができる。つまり、教育がまずもって本能領域に属するし、本能によって教えられる社会性もまた本能領域に属するということである。

ぼくらは、他人とうまくコミュニケーションがとれない子どもを見ると、彼をどうにかして救いたい、と思う。彼を地獄のような孤独から解放したい、と思う。おそらく、この欲求は本能だろう。

ある民俗学の本を読んでいたら、「妊娠した母親が胎内の子どもに語りかける」という風習は、あらゆる民族に見られるのだそうである。つまり日本でもヨーロッパでも変わりはないし、エスキモーでも未開部族でも、「母親は胎児に語りかける」のである。

ぼくらは思っているよりも、本能にしたがって生きている。というか、理性のはたらきを見つけることが難しい……。いったいひとはいつ、理性的になるのだろう?これがわからない。……理性とはゆがめられた本能ではないか?というひとつの疑問。


ぼくは本能を礼賛したいと思う。つねに本能は正しく、美しいからだ。理性は邪魔者だとおもっている。おそらく、教育は必要だが、学校教育なんていうものは不要だろう。宗教的な教育も不要だ。人間は、そのままで完全である。反対に、形式的な教育によってゆがめられることの方がはるかに多い。

マズローの言う、優れた人間の社交関係とはどんなものだったか。以下に記す。
心理的に健康な人間は高度に独立的であるが、同時にまた人間関係を楽しむこともできる。彼らは社会のもっとも個人主義的なメンバーであると同時に、もっとも社会的で、友情に満ち、愛情深いメンバーでもある。
他人が友情をあたためているのに彼らは他人を必要としないという理由から、彼らは縁遠い孤立した存在と他人からときにはみられる。(「マズローの心理学」)
これを書いて思ったのだが、思想的な深みにはまった「嘔吐」のロカンタンさんも似たような状況にある。
すべてこういう連中は自分達の意見をのべ、自分達が同じ意見であるのを幸せにも認めることにときを過ごす。みんなが同じことを、みんな一緒に考えていることを、ああ、いかに彼らが重要視していることか。それは彼らの間を、目の据わった、自分の内面を見つめていることがあきらかな、そして彼らとはもうまったく意見が一致することのないひとりの男が通って行くときに彼らがどんな顔をするかをみれば、充分わかることだ。 
知的に深化していくことは、孤独になることなのだろう。ロカンタンはマズロー的な健康人とは違ったものだとは思うが、マズロー的な人物が天使的であるとすれば、ロカンタンは堕天使的なもので、つまり類縁なのかもしれない。

おそらくあらゆる芸術や思想は「なりそこない」の堕天使さんが築き上げているのではないか?「心理的に健康な人間」は、おそらく進歩的な哲学や芸術に興味はないだろう。

とはいえ、行った限りもどってこない「狂人」もまた、芸術に貢献することはできない。

確かに<狂人>と芸術家(および思想家)のいずれもが、意識と身体の深層の最下部まで降りていって、意味以前の性の欲動とじかに対峙し、この身のうずきに酔いしれる。しかし後者は、たとえその行動と思想が狂気と紙一重であっても、必ずや深層から表層の制度へ立ち戻り、これをくぐりぬけて再び文化と言葉が発生する現場へと降りていき、さらにその欲動を昇華する<生の円環運動>を反復する強靱な精神力を保っている人びとなのではあるまいか。(「言葉・狂気・エロス」/丸山圭三郎)

狂人と芸術家はたしかに親戚ではあるのだろう。やはり、人間は強くなくてはならない。狂気に負けてはならないってこと。

狂気と本能の関係が気になってきた。ぼくらが眠っているときに見る夢、あれはなんなのだろう。夢のなかにおいて、ぼくらは空を飛ぶこともできるし、殺されることも経験できる。時間や空間を超越する。理性的には支離滅裂である。しかし、ある意味で、筋は通っている。別の公理がはたらいている。だからフロイトは夢分析を治療に応用したのだし、夢占いが案外当たるのである。

あれが本能のカタチなのではないか。ぼくらが寝ているときに、おそらく理性などないのだから。まあこれを書くとまた長くなるので温めておこう。

理性と本能について:このときは、理性と本能の二項対立を信じていた。しかしいまでは、理性の存在が怪しくなってきた。)



最近はまあだれも読まないだろうことばかり書いている。しかしこうして書いているときぼくは楽しく充溢しているのである。

だれも読まなくてけっこう……。だれもが好んで読むものに価値はないと思っている。鼻持ちならない、くだらない、嫌悪感をもよおす、相容れない読み物が目標である。


「金魚鉢と猫」小原 古邨

2.01.2015

助け、助けられるということ

一日もはや憶い出となる夕べの頃おいの水面を渡る音楽にも似た人々を身の囲りにもつがよい。(「善悪の彼岸」)

ぼくは社会不適合者でありつまはじきものである。

ところが、「ぼくは弱いのです。助けてください」と周りにたいして助けを乞うときの、あの快さ。ひとびとは、やはり、優しい。

たすけ、たすけられるときの人間の関係は、きわめてプリミティブで、したがって美しく、力強いものだ。

どんなに敵対している人間でさえ、彼が餓え死にしそうなときに、パンを分けあたえないことはない。彼が死にかけているときに、彼の心や体を踏みにじることはない。

人間関係は、いびつにゆがめられてきた。愉快に話せること……はっきりと物事をしゃべること……そんなものが何になるのか。

ひとは必要以上にひとに翻弄されるようになってきた。友人関係がうまくいかない、家族関係がうまくいかない。

そんなことは当たり前だ。きみたちは近すぎるのだ。お互いがお互いを恃み、独立していない。君たちはたがいに助け合っているように思っているが、その実お互いを嫌悪し侮辱しているのだ。

分子間の引力と斥力

分子は近付けすぎると反発する。その反発力の強さは、すさまじい。その反対に離れるとどうだろうか?関係は0に精算される。

凝り固まった関係にどちらが有益か、考えることだ。恋人が「距離をおきたい」と言ったのなら、それはすなおに認めることだろう。

そうして、グラフのように人間関係には、近すぎず、遠すぎずの良い関係があるはずだ。

人間は仲間にはがまんできないと感じながらも、一方でこの仲間から離れることもできないのである。(「非社交的社交」カント)

ひとびとは、まず、独立することを学ばなくてはならない。しかし、同時に助け合うことも学ぶべきだ。ひとはひとりで生きているのではない。

人間は人間を助けるようにできている。法律や、税金によって強制されるのではない。ひとはそれぞれでは完全ではない。詩人は武人ではないし、武人は商人ではない。

ぼくらは必要なときに「助けてください」と言わねばならない。個々人はそれ自体では完全ではなく、ある分野では無力であることを知っていなければならない。

憂鬱に落ちこんだときや、乗りこえられない壁を見つけたときは「助けてください」と声をあげるべきなのだ。

人間は、君を助ける。

"The Water Carriers" by Xavier Martinez

ぼくらは、人間関係を始原に戻してしまわなければならないだろう。ひととひととのつながりは自然に作られるものであって、鋳型があるわけではない。理想もまた、ない。

ぼくらは自然的感情を尊重すべきなのである。人間は人間とうまくやっていける。ホームレスのひとを、軽蔑の目で見たり、派遣は負け組だから見捨てればよい、という考えは、自然に反する。

困っているひとは助けよ。

助け、助けられよ。

極論すれば、自余の人間関係は、すべて不純である。母は子を助ける。男は女を助ける。そうして、子は母を助け、女は男を助ける。ひとはひとを助ける。

それ以上のなにが必要なのか?