3.31.2015

首輪を前にして

明日から働くのだと考えると・・・。

当然だが、重苦しい気持ちになる。

世の中には働くことが好きな人間と嫌な人間がいる。

別にマルクスかぶれではないが、本来、考えてみれば、人間は働くことが好きなはずだ。

まあ好きというか、自然な感覚でひとは働くのだと思う。あれこれ料理に好き嫌いがあるのと同じように、嫌な作業や職務はあるだろうが、それでも人間は自然とはたらくようにできていると感じる。

機械による自動化がすすめば、人間はついには働かなくてよくなるだろうーーとマルクスは考えたが、しかし、すべての仕事が自動化されても人間は仕事をするだろう。(なお、マルクスを持ち出したがぼくは全然マルクスについて知らない。)

この記述はもちろんworkとlaborを混同しているのである。しかし、人が食事をするのと同じくらいに、仕事というのは本能的であると思う。

例えば人間の生命活動が一日一錠のカプセルでまかなえる新商品が発売されたとする。糖質、脂質、たんぱく質、食物繊維、ビタミン、ミネラル、微量金属元素まで・・・すべてが入っているとしてだ。

ひとびとはそのカプセルを望むだろうか?そうではないだろう。まあ爆発的に売れることはたしかだろうが、それでもひとは食事をするだろう。肉を歯で細断し米を咀嚼するだろう。

話がソイレント・グリーンっぽくなっているが、結局、単純化すれば、われわれは労働から解放されたいのではない。それはぼくらが食事から解放されたいのではないのと同じ理由である。ぼくらが求めているのは、質の良い労働である。そして、質の良い食事なのである。

もっとも、世の中には仕事をしないで生きているひとびとがいる。何らかの理由で・・・。もっとも多いのは、定年退職した人びと・・・。その中には、まだ仕事をしたいという人がたくさんいて、それはアバウト・シュミット的なありがた迷惑を引き起こすのだけど、ぼくが東京の住宅地にいて感じたことは、ひとには労働が必要ということである。

その住宅地は老人が多かったが・・・、毎日毎日庭の手入れをしているひと、同じ車を毎日磨いている人、陶器を屋外で磨いている人、に出くわしたのだから!

この犠牲者たちは、ほんとうにぼくの心情を揺さぶってくれた。この人びとは、何のために生きているのか?

それはともかくとして、ひとには何らかの仕事が必要なのだということは事実だろう。毎日車を磨いても、陶器を磨いても意味はない。そこに表れているのは、仕事への要求である。


前置きが長くなった。長くなりすぎた。ほんとうは、日本の宗教的とすらいえる労働観を指摘したいのであった。でも長くなったし、明日も初出勤の日であるから、この程度で辞めて眠りにつくことにしよう。ハルシオンくん頼みで・・・。

場所について

漫画喫茶にて。

田舎の漫画喫茶はすごく接客が丁寧だ。まあ平日の昼ということもあるだろうが、閑散としていて、まったりと落ち着ける。料金は5時間1200円。まあ普通か。

東京では漫画喫茶というと、家のない派遣社員が宿泊所代わりに使ったり、金のないカップルが楽しむためにあるようなところだが、あまりそういう負のオーラ、退廃的な印象はない。

田舎での生活も四日目になって、異国にきたような違和感と緊張感は薄れていった。はじめは、日本語の通じる外国にきたような寄る辺のなさを感じていたが、生活の身の回りのことを片付けていくうちに、次第に環境に適応していっているようだ。

それにしても、引越しという作業は肉体的にも精神的にも多大なストレスがかかるものである。何百キロも離れたところならなおさらだし、海外に移住するとなると、その何倍もつらいものだろう。

しかし、人間はどこかにはいなければならない。この地球上のどこかには、自分の身をおいておかねばならない。なぜ私はここにいるのか?と問うのは愚問だ。人間は「どこかにはいなければならない」のだから。

なぜ赤坂のオフィスではなく田舎の小企業に?タワーマンションではなく田んぼに囲まれた平屋に?

そのように考え始めれば葛藤が生じるが、ぼくの肉体が地中に埋もれるか海に沈められるまではこの地表のなかにあらねばならない。六本木のタワーマンションにいたところで、「なぜ私はここに」という問いは等しくやってくることだろう。
私はなぜ あらゆる人 あらゆる場ではないのか 
という葛藤をペソアは抱えていたが、人生は一度きりであり、他者の生と自分の生は違う。どれだけ多種多様の人生がこの世にあろうが、ぼくが歩む人生と他者の人生は本質的に違う。自己の人生と他者の人生は比較不可能であり、 ゆえに根本的に次元が違うといえるだろう。

それにしても、ぼくは自分の意志でここにきたのか。何かに導かれてここにきたのか。それは偶然のはたらきといえるのかもしれないが、偶然などこの世にはないのだ。今打っている文章が、今日食べる飯が、明日のぼくを形作ってゆく。

人間とは人間と環境を指すのであり、いくらかりそめの主体性を信奉したところで惨めな気持ちになるだけだ。ぼくがここにきたのも、ある川の流れに沿っているように感じる。それは現実的に考えれば遺伝子情報とか過去の経験というふうに還元できるのかもしれないが、ともかく自己を制御するのが、自分自身の意志というよりは、自己の内奥と、外部の環境の二極にしたがっているように感じる。

ぼくはこの流れの中にあることに少しの安心を覚える。流れに身をゆだねてしまえば――人生の一回性も納得できる。すべてのことに意味があるのであり、すべてがぼくを形作る。ぼくという存在主体は、環境と内奥の間で揺れうごく「観察者」でしかない。

結局のところ、この奔流の先に何があるのかはわからない。死ねばすべてが「終わり」だが、その続きはあるのか。あるとしたら、いったいどこに用意されているのか。死の先は認識不可能の領域である。

と、引越しの話からだいぶずれてしまった。

とにかく、このように、考えることはいくらでもある。自分がどこにあるかという疑問を持つこと、その疑問に気をわずらうことは時間の無駄だろう。

ぼくはあらゆるこだわり・執着を捨てたい。真の自由を追求したいと思う。知とは自由に他ならない。知とはこだわりを捨て去った先にある。

在る、という至上命題が前提としてあり、会社とか、給料とかは、枝葉の問題でしかない。まあそのような姿勢で生きていこうと思う。

3.30.2015

田舎での生活三日目

今日で新居での生活は三日目になる。市役所へ行ったり、必需日の買い物、電化製品を注文したりと忙しい。

冷蔵庫や電子レンジは前の家主が置いていってくれた。冷蔵庫には340lと書いてある・・・。明らかにオーバースペックである。前の冷蔵庫の二倍はあるぞ。まだ卵と水と酒しか入っていないので、ガラガラだ。

洗濯機がないのが不便で注文した。ここで何度か予告したとおり、10万円以上するドラム式の洗濯機を買った。

これもオーバースペックなのだろうが、とにかく洗濯という作業がぼくは死ぬほど嫌いであり、くつしたくらいなら濡れたまま床に散らかして風乾するのを待つだけなのだが、新しい洗濯機は洗濯、乾燥を自動でやってくれ、さらには風アイロンとかいう機能があるのでシワも伸ばしてくれる。

夜寝る前にポチッとやり、朝起きたら洗濯機から取り出してそのまま着るというぐうたら極まりない生活を実現できるという。

まったく、すばらしい文明だ。

そもそも一人暮らしで一軒家というのが一般的にはオーバースペックであるし、トイレが自動オープンで音楽まで流れるのだから痛く感動する。もちろんうるさいので消すが。

あと、お風呂が沸きましたーーといった類のアナウンスは、だれが喜ぶんだろうか?独居老人の類だろうか。

まだバイクに積んできた寝袋で寝ていて、布団も注文していないのに、アマゾンでスピーカーを買ってやった。

これで、一軒家暮らしのすばらしさを知った。他者に気兼ねなく音楽が流せるという安心感。ついでに、鼻歌や口笛も自由だ。

気ままに鼻歌を歌えること!

これがほんとうにすばらしいことで・・・アパートでは当然不可能なことはもちろん、実家の一戸建てでも、スピーカーで音楽を流すことくらいは可能だが、鼻歌なんて家族には聞かれたくないだろう。

なんとなく新居になじめなかったのは数日だけで、いまでは快適な一軒家の生活を楽しんでいる。

ぼくはなぜこんなところに来たのだろう、と思うことが何度もある。なぜ東京都心ではなく、こんなところへ?

この葛藤が消えることはないだろう。地方は、文化的には死に近い領域である。だれもかれも、無力=卑屈な精神性を示していて、腐ったじゃがいものようだ・・・。

そんなところで、救いになるのはやはり教養であって・・・。別に自分に教養があると言いたいのではないが、教養と言われるような要素が、自分にとって大きな救いになるのは事実である。

不思議に聞こえるかもしれないが、教養ある者は、ない者にくらべて、原生林の生活に堪えやすい。なぜならば前者は後者の知らない慰めをもつからである。まじめな書を読むと、土人の不信や、動物の跳梁で終日戦い疲れた機会のような存在をやめてふたたび人間にかえる。いつも自分に返って新しい力をうる道を知らない人びとはわざわいなことだ!その人はアフリカの恐ろしい散文のような生活のために死ぬのである。水と原生林の狭間で シュヴァイツェル

もっとも、まだ真に人間的な付き合いをする人がいないからそのように思うだけだと信じたい。

あまり書きたくはないことだが、原発事故の影響も少ない地域なので、東京よりは気にせず魚介類や農作物を買える。

東京に住んでいたときは、スーパーに行くたびに憤りと困惑を覚えたが、そのようなストレスがないだけで、買い物は非常に楽しくなる。そうだった、本来海鮮物を買うときは、嫌な気分になるのではなく、楽しいものだったのだ、という感覚を思い出す。

もっとも放射能放出から4年以上たった今、日本一帯、どこも安全ではないだろうが・・・。

このように、田舎暮らしは今のところ、だいたいの部分においては良好のようである。もっとも、問題点はたくさんある。例えば交通マナーが最悪であること・・・市役所が人を待たせすぎること・・・警官の態度が威圧的であること。

ともあれ、いまは順調と言っていいだろう。働き始めると、また変わってくるのだろうが。

搾取の構造


日本人は奴隷である、という風に考えるといろいろうまくいく。


日本は生活コストが世界一かかる国と見ていい。生活コストランキングでは、一位にならない年の方が少ないくらいだ。

何をするにも金がかかってしかたない国で、たとえば食料品や医療品を買うのに8%も税金を取る国はまれである。

実質田舎では必要不可欠な自動車免許をとるためには、安くて20万円、普通は30万円程度のコストがかかる。それだけならまだしも、二年に一度の免許更新、駐禁の緑虫、自動車税・ガソリン税など車一台を維持するために金はどんどん持っていかれる。

日本はおそらく先進国中高速道路の利用料金が世界一高い国である。青森から鹿児島まで高速道路を使うと割引なしで4万円かかるが、このようなことは諸外国ではありえない。おおむね無料であるか、あるいは年間通行料を払えば乗り放題というのが主流である。

電車のコストも諸外国の2ー3倍、タクシーの値段もおそらく世界一だろう。

ちなみにタクシーについては値下げされる余地があったが、タクシーの過度の価格競争を抑止するために国が介入する不思議な資本主義国家である。国をあげてのタクシーカルテルである。まあだいたいこのような形で不正価格は維持される。


住宅のコストも世界一である。固定資産税はバカ高いし、賃貸マンションにしても、家賃の他に敷金礼金がかかる。家賃7万円の都内のアパートでも入居時に35万円近くかかるのだから異常である。


敷金は担保として預ける金だが退去時に払い戻されることはまれだ。外国でも入居時にデポジット金が必要になるがたいてい全額返金が普通である。

携帯料金についても世界一高い。総務省が世界一高くて不名誉だから安くしろと通達するくらいだ。だいたい諸外国では無料wifiが飛んでいるのが常識で、マレーシアなどは入国してからずっとwifiが使えた。

このように生きていくためのインフラに過度の金がかかるのが日本である。ちなみに音楽コンサートも高すぎる。8000円とか10000円もとりやがる。映画の料金も2000円程度で世界一だ。美術館や文化展で1000円以上とるのは暴利だ。

以上の実情を踏まえるとわれわれは搾取され続ける奴隷でしかない。日本人は人件費が高すぎるから、工場が海外に移転してしまうなどという話がよくあるが、高すぎる人件費はいったいどこへ消えるのか?日本人はゆたかに生活できてはいない。

無賃労働で金を稼ぎ最低賃金レベルの対価でほとんど貯蓄もできないありさまだ。

ただ考えるところでは資本家に搾取されるという従来のモデルは古すぎると思う。資本家だって別に潤っているわけではない。もちろん一般的な労働者に比べるとゆたかに生活しているが、アメリカのように飛び抜けて資産をもっているというわけではない。官僚にしても同様である。たかだか年収4000万円くらいは驚く額ではない。

ぼくらが払う莫大な金はどこに流れていくのだろう。ぼくらの労働の結晶は、どこに消えてしまうのだろう。税金とか、高すぎる料金という形でなけなしの金は手指の間をすりぬけていくが、その金はどこへゆくのか。

と考えてみると、やっぱり外国かなあ・・・と思ってしまう。

表面上、主に払っている国はアメリカである。当然ながら、アメリカには戦争で負けたので仕方ない。アメリカに払うということは、イスラエルや、イギリスに払うことでもある。

もうひとつは朝鮮系で、例えばパチンコマネーは北朝鮮に行っているというのはよく聞く話。日本の暴力団には朝鮮人が多いというのは割と公然の事実で、そうした裏社会の金は朝鮮半島に持っていかれる。

韓国はIMF=アメリカに搾取され、北朝鮮は中露と仲の良い国であるから、実質的には日本の富は中露、米英に絞りとられていると考えることができるのかもしれない。

国家というものがどうあるべきかという問いを考えると複雑で目眩がするくらいだ。制裁を受けるくらいなら諸外国に金をばらまいた方が良策ということも多々ある。




ただまあ一個の搾取される国民として、自分の何気なく払っている金がどこに消えてゆくのか、を知ること、知ろうとすることは大変重要だとぼくは考える。

3.29.2015

新居にて


最近はとくになにも書いていなかった。


しかし書きたいことはたくさんあった。ただ、PCがないので書けなかった。しかたないので、いまはヤマダ電機で買ったiPhoneにキーボードで打っている。

いまは田舎に引っ越しが住んだ段階だ。もう東京都民ではない。

実家からの距離は520kmほど。バイクに荷物を積めるだけ積んで、オール下道の道のりは、朝から晩まで11時間かかった。

ぼくがここに来て感じたことは・・・。空が高い、ということだ。実家は標高が高くて、もう少し圧迫感のある空である。ときには空に近すぎて、ひどい霧に見舞われることが多々ある。

東京では、空気や高層ビルのせいか、空の存在自体が薄い。大都市は空をも引きずり落としてしまうもののようだ。

こちらでは、そのどちらとも違う。海にちかいから、標高は低いはずだ。そのせいか、ほんとうに、空の表情が良い。空が大地を包みこむような雄大さがある。
空には表情があるのである。

まあ空なんて生きていく上ではどうでもいいことである。すぐに見慣れてしまうだろう・・・。

新居はド田舎にある。下見のときには気づかなかったが、案外車の音がうるさい。しかし、それを除けばさすが一軒家である。音がなさすぎて怖いくらいだ。耳栓をしなくていい生活にまだ慣れないみたいで、カナルイヤホンをつけたままで寝た。

アパートでは、咳をするにも気をつかわなくてはならなかった。上階から物音が聞こえると、夜も眠れず、何度も起こされ、天井に向かってものを投げたりした。

買い物では、案外地方都市的な住みやすさもあるようで、ニトリ・しまむら・JAやドラッグストアがあり(決して近くはないが)、とりあえず生きていくだけなら問題ないようである。

とくに、スーパーで卵が10個108円で売られているのを見たときには、田舎は物価が高いというイメージがあっただけに、スポンジに暖かいお湯がしみこむような(?)安心感を覚えたのであった。

それでも田舎に失望することはいくつかある。ひとつに、パチンコ屋が多いこと。つぎに、防災無線が死ぬほどうるさいこと。朝昼晩に、三回、チャイムがなったり、良い子は早く帰りましょうといった具合の無意味な放送が鳴ったりする。

せっかくの静かな環境をなぜぶち壊しにするのだろう?

これは田舎に限った話ではないが・・・。のべつ喋り続けるエレベーターとか、洗脳のような店内放送、キチガイじみた電車アナウンスの内容と騒音は別に東京も同じである。こうなると、前に書いたように国外脱出しかないようにも思えてくる。

日本人は、静寂が権利であるという認識が薄い。本当に信じられないのだが・・・。
これをよく考えてみると、日本人の文化レベルということに還元できるのかもしれない。
高度に文化的な領域では静謐が保たれるもののようだ。例えばクラシックのコンサート。図書館。そして博物館や美術館。

反対に、文化的に劣悪な環境では、けたたましい騒音が発生する。バラエティ番組。大衆居酒屋。コンビニ。家電量販店。とくに最悪なのがパチンコ屋だが、その文化的な劣悪さは言うまでもないだろう。視覚的に言えば、駅前を支配する消費者金融の広告だとか、スマホまで浸潤するエロサイト広告が言えるだろう。

本来、日本人は静寂や美しい景観を好んだはずだ。小川の流れる音、たまに聞こえるししおどしのかこんという音。また、砂利、木材、障子といったシンプルで目を煩わせない情景、こうしたものに趣を感じるのが日本人でなかったか。

まあ、ぼくは日本文化などイメージでしか知らないが・・・。

とにかく、このように趣味のいいはずの日本人が、下劣なチャイムで、アナウンスで静寂を破壊していくのを見るのはまことに残念な限りである。

もっとも、いつの時代もそのようなものだったのかもしれない、とぼくは諦めを感じることがある。ゆたかな庭園とか、静かな環境を持っていたのは一部の貴族や武士だっただろう。

新渡戸の武士道などは、日本人の精神性をあらわしているーなどという人がいるが、あんなものはキリスト教的な教育制度に劣等感を感じた新渡戸がでっちあげた行動規範である。

ハイデガーでもニーチェでもそうだが、戦争に利用されるとややこしくなる。戦争は史実を簡単にゆがめてしまうからである。

新渡戸的な武士道精神は日本人全体の規範となったが、そもそも日本人の大部分は農奴だったのであり、それはフランス革命のような市民革命を経験していない、まことに優秀な奴隷だったのである。

ある人が、日本人はバカだと思っていたが、最近はずる賢いのだと考えるに至った、と言っていたが、最近はぼくもそれに同意するようになった。ずる賢さこそ農奴の特性であって、その理由は農奴が弱者だからである。弱者だって、人間であるからには、ただ卑屈であるに留まらない。これについては七人の侍の菊千代が渾身の演技でうまく説明している。

また話がどんどんずれていってしまったぞ。

とりあえず、いまぼくは田舎にいる。その場所はあえて書かないが。それにしたって、田舎はいいところだ。でも、楽園なんかではない。いろいろな感情がせめぎ合っている。また、書こう。今日はまた酔ってしまった。また明日だ・・・。

3.26.2015

日本脱出を考える 2

昨日書いたことを読んでみると子ども染みていて自分でも笑ってしまった。昨日に限らずつねに子どもっぽいのだが……。

年齢相応の文章を書こうと思っても難しい。ぼくよりずっと大人びた文章を書く十代とか平気でいるので困る。ぼくより上手に書く大学生(ぼくのように年を食っていない大学生)とか見ると、差がついてしまったものだな、と思う。

しかしリベラルな人間ってのは子どもっぽいのかもしれない。「サービス残業なんてしたくないよ!」と主張する人間はまさに「我慢のきかない子ども」である。

その代わりに、もくもくと十四時間でも十六時間でもはたらく社員は、まるで「しつけのできた子ども」であって、周囲からあがめられ、認められる。

ってどっちも子どもじゃないか。

まあ永遠に幼児性を捨てきれないのが日本人である。マッカーサーは勇敢に戦った日本軍が、終戦後には手の平返して自分を神のように崇め奉るのを見て、「日本人は十二才の子どものようだ」と言ったという。

もっともこの発言の解釈には諸説ある。

 月刊誌「正論」2月号で元バンクーバー総領事の多賀敏行氏は、「『日本人は12歳』、マッカーサー発言の真意は侮蔑にあらず」と題して次のようにマッカーサーの発言を紹介していました。
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 「ドイツは言うなれば確信犯で、冷徹に国益の損得勘定を考えてああいう悪いことをやった。日本はそうではない。まだ国際社会に出て間がなくて、ちょっと道を踏み外してしまった。でも、自分が占領統治をして良い国になったのだから、大丈夫だ」と。そして「日本はまだ12歳の少年で、まだ教育可能で、覚えが早く優等生だ」・・・(引用元

まあめちゃくちゃ無理がある。「正論」かあ。

いずれにせよ戦後70年たっても日本人は永遠の十二才である。



海外へ移住したい……と思ったことをきっかけにいろいろ調べていた。

調べるうちに、「案外日本は住みやすい」という事実も知った。もちろん治安よく料理のうまい国であるし、そもそもぼくにとって母国だから、友人や家族もいるし、言葉も通じる、文化的にも日本は好きである。

海外に出たひとびとのうち、何割かは戻ってくる。資金がつきた、という事情も多いが、外国の文化になじめなかったという人もいる。

旅行するのと移住するのとでは話が違う。海外旅行へはぼくも何度かでかけたが、長くても数週間でしかない。ロングステイを何度か経験してから決めなければならない。

このように海外に出ることはまこと難しく、日本は安住できる国である。これがぼくの調査によって知ることのできた結果である。

しかしそれでもぼくが「海外に出たい」という気持ちは変わらない。なぜか。

というのも日本人の精神性が我慢ならないのである。なにか貧しい、卑しいものを感じてしまう。

木々のない都市、狭い寒い高いしょぼい家、クソみたいなJPOP、利権と化したマスコミ、満員電車、サービス残業、過労死、自動車利権、リサイクル利権、免許利権、道路利権、コンビニのエロ本、駅前のパチンコ屋、軽自動車、電柱と自販機だらけの景観、町内会、消防団、吐くほど飲む文化……。

などなど!

これらの日本固有の文化を見るにつけ、「どうして?」「なぜ?」という疑念が晴れないのである。日本は豊かだ、すばらしい国だ、という。それは一面では事実だが、実際のところ、「すばらしい国家」などというものは存在しない。良い部分があれば、ダメな部分もある。それが上の例である。

たとえば日本はGDP3位の豊かな国だ、という主張がある。その一方で、労働環境はOECD中最下位を韓国と争っている。

日本は治安が良くて安全な国だ、という。一方で、放射能は原発からダダ漏れで、それが生物濃縮された海産物は平気で市場に出回っている(ときに産地偽装をして!)。

日本はちょっと歩けば何でも手に入る便利な国だ、という。一方で、都市景観はまさに悲惨な有様をしめしている。

東京目黒区(引用元:プレゼン工房

ハンブルグ郊外(引用元:プレゼン工房

まあ目黒区と郊外を比べるのはアレだが……。立川やさいたま市でもたいして変わらないだろう笑


ぼくは海外にユートピアを求めているわけではない。海外だって、いろいろ住んでいて辛いことはあるだろう。ただそれらの詳細をぼくはまだ知らない。いちおう、今は良い点ばかり探してしまっているのだが……。

ロングバケーションがあるとか、都市景観が公共財として確保されているとか、教育コストが実質ただとか……。

まあ良い点があれば悪い点もあるのが実際だろう。そうしたメリットデメリットを精査して、自分に合った国があればそこに移住する、という姿勢がよいのだろう。

ネットで「日本のこういうところがダメだよね」と指摘すると、必ず「じゃあ日本から出て行けばいい」と怒られてしまうのだが、これは一面事実である。

ある国民であるという前に、ひとは人間であるのだから、人間が国家を選択する、これが自由主義というものだろう。

ぼくは日本という国が好きではあるから、今後のことを考えると残念な気持ちになる。いまはまだネトウヨのような狂信的な愛国者や、マスコミの「日本アゲ」で溜飲を下すひとが増えているけど、いつか国民の目が覚めてしまったら、どうなるのだろう、と思う。

国には良いところがあり、悪いところがあるとぼくは言ったが、「より優れた国」「より劣った国」は当然ある。ぼくはカナダやドイツには移住したいが、メキシコのような危ない国には旅行もしたくない。

米コンサルタント会社マーサーの「世界で最も居住に適した都市」の2015年調査では、豊かな生活を送れる国TOP10は以下の通り。


ちなみに日本の都市のランキングは東京、神戸、京都が40~50番くらい。「日本は住みやすい国だ」本当なのか?

2008年には35位程度だったので円安の影響があるのだろう。

「世界で最も居住に適した都市」の調査はマーサ―以外にもグローバル情報誌「モノクル」も行っているが、これによると日本は2014年調査で堂々の第2位となる。ただしこの調査では母数がたったの25都市なのであてにならない。(マーサ―では215都市)

少し前に「東京は世界で二番目に住みやすいんだ!」という記述で溢れかえったがまあよくある統計トリックである。


日本人のロングステイ先ランキング

世界的視点でなく、日本人がロングステイした国は上のようになる。やはりマレーシアは強い笑

良い国なんだよね、ほんと。治安・言語・医療・アクセス、言うことなし。物価はやや高いがシンガポールほどではない。若者が多くて活気あるし。

タイ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドは移住先としては定番だろう。ハワイは移住というよりは富裕層の余暇か。



移住を決め込んで二日目になるが「いつかこの国を去るのだ」と思うといろいろ気分が晴れやかになる。まあ子どもの空想に終わるのかもしれないが、精神衛生上はたいへん良いことだと思う。



こんなことを調べている場合ではない……。引っ越しの準備をせねば。

3.25.2015

日本脱出を考える

ここ最近で本当に日本が嫌いになってしまったぼくは、海外に移住することを考えはじめた。もう奴隷は嫌なのである。

調べてみると、海外移住を決断した日本人は割と多いらしい。みな、ぼくと同じように日本に疑問を持ちうんざりしている人のようだ。ネットに情報がごろごろ転がっている。

言語

障壁となるのはまず言語であるとされる。日本人は英語ができないとよく言われるが、これは事実だ。というか、読み書きはマアマアできるのだが、話すことがてんでできないのだ。a か the か、可算か不可算かを知ったところでコミュニケーション上はあまり意味がない。しかし日本式英語教育では、そういったことばかり重視される。

これをして「日本は国外流出を防ぐためにわざと英語をできないようにしている」と言われているが、まあそう思うくらいひどい。そういえばTOEICも海外では評価されないガラパゴス資格だ。

まあ英語については何とかなるという気がする。受験英語が得意だったというレベルだが……。

仕事

言語の問題以外に、収入源という問題がある。早期リタイアで移住するならともかく、まとまった金がないのであればはたらかなければならない。






上のグラフを見ると、日本のように、生活に困窮するようなワーキングプアに陥る可能性は低いと考える(アメリカは別だが)。

労働環境で言えば、一般的な欧州諸国では「サービス残業」はありえないし、労働時間も定時だし、二ヶ月くらいの長期休暇もあるし、有給は取り放題だし、非正規社員と正規社員の給料が違うということもありえない。

というわけで、「外国に移住したら生活に困窮するのではないか……?」という疑問は、おそらく先入観でしかないだろう。それよりも、ずっと豊かに生活できる可能性がある。

ちなみに日本の失業率は欧州に比べて低いといわれているがそれが本当かはわからない。統計の取り方が違うとも言われている。このあたり、池田順がそれっぽいことを言っているが実際はどうなのだろうか。





住環境について

住環境についても、日本の住まいは本当に劣悪であるとされる。ロシア人が「日本の冬は寒い」とうんざりするくらいなのだ。

まず、壁が薄い。断熱性も防音性も先進国中最底辺レベル。面積も「うさぎ小屋」と揶揄されるくらい狭い。東京の一人当たり占有面積は世界一狭く、ソファも置けない。

ニセ木材、ビニルの壁紙などで飾られたみじめな掘っ立て小屋が何千万円もする。庭なんて考えられない。

実は、「風呂が寒い」「朝起きて息が白くなる」「窓が結露する」「壁紙にカビが生える」などという国は日本だけなのである。まず断熱性の規制基準が厳しいという点、あとはセントラルヒーティングという家全体をあたためる暖房装置が標準装備されている点に理由がある。

部屋のなかでガスストーブをつけるという狂気は日本だけである。

年末に私のパートナー(彼はまだ日本に行ったことがないです)を連れて一時帰国しようと考えていたのですが、実家のあの寒さ、特にお風呂、を考えて春に延期しました。あの寒さ、不便さ、居心地の悪さには腹が立つと同時に飽きれてしまいます。
それほどドイツの家は快適です。
建築のことは全くわかりませんが、室内の温度だけでなく、音についても。東京のマンションで普段私たちが音楽を聴くボリュームで聴いてみたら、すぐにでも苦情かなにかくるでしょうね。壁が薄っぺらいですものね。
そしてベルリンは家賃が安い(脱線しますが。。)。そして日本の住宅よりも何百倍も快適。
というだけで、ほかにたくさん不便なことがあるベルリンでも、やっていけます。

精神的ストレス

ある書き込みをネットで見つけて、ほんとうに物悲しくなることがあった。

死にたくなるほど追い詰められることは、海外に住んでいるとありえない」と。

この「海外」がどこなのかはわからないが(たぶんパキシル漬けのアメリカ人ではないだろう)、「そんな社会がありえるんだ」「死にたいと思わない社会が普通なのだ」としみじみ感じるとともに、「人間らしい暮らし」を求めて海外に脱出したい気持ちが一層強くなった。





移住するとなれば、その国のことをよく知らなければならない。数年は日本で働いて、資金を貯めよう。そしていろいろな国を回って、その上で考えたいと思う。

まあとにかく、花粉がないというだけで海外はすばらしいのだが!早く脱出したいよ。



さて、実は日本脱出を考えるきっかけとなった出来事があった。下の記述を先に書き始めていたのだが、だんだん日本脱出がメインになってきたので前後を入れ替えた。消してもいいのだがなんとなくもったいないので残しておく。

リサイクル料の狂気

昨日は引っ越しの準備をしていたが、その過程で、日本が本当に嫌になることがあった。

冷蔵庫や洗濯機を捨てようと思ったのだが、それを処分してもらうには、「リサイクル料
」を払わなければいけないらしい。「ふん。まあ300円くらいだろう」とたかをくくっていたが、蓋を開けてみれば、それぞれ「5000円以上」かかるらしい。

冷蔵庫と洗濯機を捨てるには11000円程度かかることになる。

これを知ったときはさすがに絶句した。こんな国ってあるか?

最低賃金800円の国だぞ。低所得者は冷蔵庫と洗濯機を「捨てる」ために、二日分の給料を払わねばならない。

5000円はあまりに高すぎる。しかも、このリサイクル料がどこに消えてゆくかがわからない。

よく林道を走っていると道ばたに捨てられている冷蔵庫があって、「なぜこんなところに?」と疑問に思っていたが、こんな悪法がまかりとおっているのでは不法投棄も自然の成り行きと考えるしかない。

この制度が制定されたときに、「こんな法律は日本でしか成りたたないだろう。家電メーカーが結託しており、国民が盲目的に法に従うようでないと」と言ったひとがあるそうだが、これはそのとおりだろう。

しかし、日本では不法がまかりとおる。自動車免許をとるのに30万円かかる、国立大学に金がかかる、といった非常識な制度に、だれも疑問を持たない。このあたり、島国だからか、奴隷根性からくるのかはわからない。


「エコは地球を救う」本当に?

リサイクルというのはひとつの信仰に近い。国策なのである。

この絵のようなプロパガンダはどこにでも見られる。小学校の校庭のフェンスや、指定ゴミ袋の包装にプリントしてあったりする。

「リサイクルしなければならない」と小学生のうちに徹底的にたたき込む。また、その絵を見たひとびとも「リサイクルしなければな」と思うだろう。

ぼくはこれを見て痛ましい気持ちになる。教育と洗脳の境は微妙だ。しかし、これは洗脳により近いではないか。なんというか、プロパガンダ的メッセージを子どもに書かせるという図式が本当に気持ち悪い。


「リサイクルが大切だ」という建前はわかるが、実情としてはゴミの分別などしてもあまり意味がない。たいていゴミを分別したところですべて一緒くたに燃やす0のである。

ペットボトルについては資源として中国に輸出するらしいが、しかし、自治体が中国に資源を輸出するためになぜ国民が分別などという労働をやらされなければいけないのか。日本はいつから共産主義になったのだ。

日本がリサイクルに躍起になる理由はひとつである。金だ。つまりハイブリッドカーを作る自動車産業、エコ製品を作る家電メーカー、天下り先を望む官僚とが結託して、リサイクル信仰を広めた。

まあここでも原子力と「官学報」の結託が見られるわけだ。マスコミはリサイクルは本当に意味があるの?などとは問わないし、学者たちは地球温暖化という不安ビジネスに乗っかっていく。(もちろん反発する学者もいる)

というか、エコビジネスの根元を探っていくとそこには原発推進があるのかもしれない。「エコ」で「クリーン」な原発と、「エコ」で「クリーン」なハイブリッドカーやリサイクルといったものは、すべて同じ軸でつながっている。

となると、ぼくがリサイクル法に生理的なレベルでの憤りを感じたのは、根元には原発ビジネスがあるからなのだろう。もう原発への嫌悪がトラウマレベルで染みついていて、アレルギー反応を起こしたのだろう。

3.24.2015

憲法と闘争

みずから虫けらになる者は、あとで踏みつけられても文句は言えない(「徳論の形而上学的基礎づけ」カント)

憲法において納税の義務、勤労の義務が示されているという主張がある。これをもとに「ニートは悪だ」みたいな論調が形成されていった。

しかしこれは誤りである。まず前提として、どこの国でも憲法というのは国民が国家権力に対し規定するものであって、国家が国民に強いるためのものではない(立憲主義的憲法)。

これをもとに某イタリア人社会学者が「日本は憲法で納税しろと書いている。こんなオゲレツな憲法は世界で日本だけだよー」と言っているがこれは半面誤っている。なぜなら上にあげた理由により国民は憲法を守る義務がないからである。

憲法99条に「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とある。

憲法を守るべきひとびと「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」の中に「国民」がないことにお気づきになるだろう。

法学においてはこの99条の解釈は微妙になるらしい。しかし憲法というものの成り立ちを考えれば、「国民は憲法を守る義務がない」と解釈するのが妥当だろう。

国民がニートだから即ち「憲法違反だ」となる道理は通じない。それが正しいなら失業者や納税しない(どころか税金で食っている)生活保護者は牢屋に入らなければならない。

日本人の誤った憲法解釈は都合良く拡大されていった。

生活保護者やニートのような社会的弱者はマスコミによって大バッシングを受けた。このような風潮は非常に日本的である。マスコミが権力者に媚びへつらい弱者を攻撃するという異常が日本特有であるし、日本人個々人の荒廃した精神もまたあらわしている。

だいたい「働かざるもの食うべからず」とはだれに向けた言葉であったか。働かずにぐうたらしている怠け者ではない。資本家に向けた言葉だ。つまり他者を働かせ利潤を得ている人間に向けた言葉であるが、しかし本来的な意味で使われることは現代ではほとんどない。言葉を考え正しく用いなければならない一例である。

日本人を解釈するとすれば一面としては「権利意識がない」という表現が正しいと思う。

というのは「なぜ満員電車に乗らねばならないのか」「なぜ食品にも消費税がかかるのか」「なぜ残業代が会社から払われないのか」といった日常における些細な基本的権利の侵害を、だれもが黙認しているという実態、これが権利意識のなさを表している。

本当はだれもが立ち上がるべきなのだがだれもそうしない。こうした絶望的な空気感はどこからやってくるのか。それは国民の権利意識のなさにあるだろう。つまり、朝の新宿駅で「満員電車は人権侵害だ!」とひとりシュプレヒコールを送っても、だれもがそこを素通りするはずである。「バカがおかしなことをやっているな、暇でうらやましいよ」と思って素通りするはずである。

この共感のなさ、冷たさが事前に察知できるがゆえに、声をあげようとだれも思わないのである。

そうした事情の下では、法律を遵守させようとする勇気をもつ少数の人びとの運命は苦難に満ちたものになる。恣意を前にして退却することを潔しとしない力強い権利感覚は、かれらにとってまさに災いをもたらすものになる。かれらは本来仲間であるべき人びとすべてから見捨てられて、一般の無関心と臆病により拡大された無法状態にひとり立ち向かう。せめて自分自身に忠実であった、という自己満足しか得られないのに大きな犠牲を払うことによって、彼は世間から評価されるどころか物笑いの種にされるのである。そうした状態をもたらした責任は、法律に違反した人びとはなくて、法律を守らせようとする勇気をもたない人びとにある。不法が権利を駆逐した場合、告発さるべきは不法ではなくて、これを許した権利の方である。(「権利のための闘争」イェーリング)
日本人が権利意識を持たないかぎり、奴隷労働のような労働条件や、奴隷船のような満員電車は改善しないだろう。そして、奴隷を奴隷たらしめているのは、主人のせいではない。多数の無関心、臆病さ、つまり奴隷根性なのである(もっともこうした奴隷根性は主人たちの「教育」によって醸成されたと考えることはできる)。

だいたい、こういう「事なかれ」な姿勢こそ実は憲法違反なのである。

「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。」第十二条で「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」と規定しています。つまり、国民は、憲法を為政者に守らせ、人権を自ら守る戦いを続けて行かなければならないのです。(Q1 憲法尊重擁護義務は国民が憲法を守ること?

まあ現実問題、日本人は奴隷である。死ぬまで働かされるのが日本人である。これについては、だれも異論はないだろう。

憲法第18条には、「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」とある。また労働基準法第5条では「使用者は、暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によつて、労働者の意思に反して労働を強制してはならない」と明記されている。

戦う武器はすでに手元にあるのである。それなのに、である。


ワタミで過労自殺した森美菜さん26才の遺書
月の残業時間は140時間を超過したという


だれが彼女を殺したか?

だれが彼女を殺したか?

胸に手をあてて考えねばならないだろう。





国家共同体が各人に生命・身体を賭けて外敵と戦うべしと命ずることが許されるならば、……外敵に対すると同様に内部の敵に対しても、すべての思慮ある者、勇気あるものが結集し、団結して当たるべきではなかろうか?(イェーリング・同書)

最近は「内部の敵」であるところのマスメディアが「日本はすばらしいんだ」と喧伝してやまないが、これも体制側の保身のひとつだろう。子どもや妊婦を被爆させる国のいったいどこがすばらしいのか。バカをいうな。

ISISだの韓国だのに目を奪われるな。内部の敵を叩きつぶせ。「恣意・無法というヒュドラが頭をもたげたときは、誰もがそれを踏み砕く使命と義務を有する」のだから。

3.23.2015

結婚式、芥川賞、ソクラテス

先日友人の結婚式に出ていたが、結婚式という文化はよくわからないものだ。

とにかくバカバカしいど派手さで、訳の分からぬまま進行し、大金を払い、酒を飲んで、うまいものを食って終わる。とにかく奢侈、派手、豪快な式である。ただそのそれぞれの行為の意味はわからない。

とくに意味不明なのが、なぜ結婚式で新郎新婦はキリスト教に改宗するのか?(ただし一日だけ)ということだ。ほんとうにわけがわからない。カタコトの日本語で「アナタハエイエンノアイヲチカイマスカー」なんて言われる。ちゃんと「キリスト」だの「主」だの「聖書には~」と異教のタームが出てくるのだが、当事者たちも、参加者も、これに何を感じているのだろう。

あれはまともな牧師がやっているのではない、というのは有名な話である。まだ牧師ならましな方で、その辺の外国人を雇って、それっぽいことを言わせていることもある。

新郎も新婦も、そんなことをつゆ知らず偽牧師にクソマジメに宣誓しているのだから、これは喜劇である。クソマジメに父母も涙を流している。やっと改宗してくれたから喜んでいるのか?差別的な意味はないが、カタコトの日本語はおもしろいものだ。MR.Baterを思い出して笑いそうになる。

憶測に過ぎないが、本当のキリスト教徒は「教会」で式をあげるのであり、結婚式場のなかに建てられた「ナンチャッテ教会」で式を挙げることはないだろう。

こういう式典は空虚なものなので、ぼくはできる限り退けたいものである。


クソマジメと言えばぼくもクソマジメな人間なので、世の中の実像とか、生きる意味とか、考えてもしょうがないようなことばかり考えている。

ひさしぶりに兄と会った。四月から就職する、というと年収の話になった。どうやら一年目にして、兄の収入を超えるらしい。こんなことは、やはり、言うべきではなかっただろうか。

ぼくには社会人としての常識がない。まだマネーゲームの渦中にない。ぼくは長く学生であったし、人間であった。学生という気分は抜け落ちるのだろうが、人間としてのぼくは「聞かれたことは正直に答えるべきだ」ということになる。芽生え始めた社会人としてのぼくは、「そんなことは例え兄弟であっても言うべきでない」、と戒めるだろう。

ぼくにとって年収が300万円だろうと1000万円だろうとそれはどうでもいいことだ。どうもひとびとはこういう数字を気にするらしい。テストが百点であれば喜び偏差値が70であれば喜び年収が1000万円であれば喜ぶ。

数字というものがひとびとを支配するようになった。ひとびとは順位に支配されているのである。アイデンティティーという言葉が人びとを支配する。

東大卒としてのアイデンティティ、医者としてのアイデンティティ、とかくアイデンティティを持つことは良いとされているが、自分本来を直視すれば、そんなものに依拠するようではダメだろう。

肩書きは与えられるものでしかなく、内から生まれいずるものではない。医師免許は厚生労働省が与えるものだし、その給料にしたって、だれが払っているのだ。1000万円の年俸はだれが払っているのか。それはより強い人間だ。君は養育されているのだ。都合のよい道具に。

それなると大部分の小説家は出版社の養分ということになってしまう。が、まあそれも一面では事実なのかもしれない。


この前「芥川賞を素直に喜ぶ小説家ってどうなのか?」と思ったことを書いた。まあたしかに芥川賞は小説家としての免許状というような要素もあるので賞金や生活のことを考えて喜ぶのはいいだろうが、それにしたって、飯を食うために作品を書くものだろうか、と思ってしまう。

芥川賞を辞退した文芸家はいるようだ。

 第11回芥川賞(昭和15年上期)は高木卓の「歌と門の盾」が受賞作に決定したが、高木は「2日考えた末」辞退した。高木卓(本名・安藤煕(ひろし))は一高のドイツ語の教授、「歌と門の盾」は大伴家持を主人公にした歴史小説だった。
 菊池寛はこの受賞辞退について、「話の屑籠」(同年9月号「文藝春秋」)で怒りを書きつらねた。いわく、
「審査の正不正、適不適は審査員の責任であり、受賞者が負ふべきものではない。活字にして発表した以上、貶誉は他人に委すべきで、賞められて困るやうなら、初めから発表しない方がいいと思ふ」
 文壇の大御所といわれた人らしい発言だが、高木の辞退理由もなんだか歯切れが悪かったのも事実である。
 辞退理由の真相らしきものは、意外にも次の第12回芥川賞を「平賀源内」で受賞した、櫻田常久の「感想」(受賞のことば)で明らかになった。高木と櫻田は同人誌の仲間であり、高木は櫻田の「かい露の章」が同じ11回の候補になっていると思いこんでいた。そして自分が辞退すれば、先輩である櫻田が受賞できると考えたようである。「かい露の章」は最終候補作に残っていなかったのだから、ちょっと痛ましい誤認だった。

菊池寛の怒りっぷりが笑える。

考えてみると賞というものは絶対的な主従の関係がある。賞だの名誉を与えるのは当然「偉い方」であり、受け取る側は「より劣る方」である。生徒が校長先生の功績をたたえて賞を与えることはないだろう。天皇はよくがんばったからぼくが賞をあげよう、などと言い出せば右翼に殺されるだろう。

賞を受けるということは「褒められてよかった」で終わりではなく、権力構造的に組みこまれることを意味するから、とうぜん拒絶も予想できることである。

事実上菊池ひとりが作品を選ぶ権利をもっていた初期の芥川賞などは、菊池寛に賞を貰うようなものだから、賞を拒絶するということは実際「俺はお前以下ではない」という菊池に対するメッセージにもなる。

菊池が激怒した内訳はこういった具合である。引用文には辞退に対し好意的な解釈がされているが、実際のところは権威に対する拒絶か、菊池に恥をかかせるために辞退したのだとぼくは考えている。

賞というのは受ける側に利益があるように思いがちだが、与える側にも名誉がある。すごい奴に賞を与えた自分は、もっとすごいことになるのだから。


権威の棄却、金銭の棄却、名誉への拒絶、そんなものが重要になってくるのだろう。

結局、人間はだれも真理に到達できない。ソクラテスは「お前がいちばん賢いんだよー」という神託を受けて大いにとまどった。「俺は何も知らんぞ。俺が賢者なわけがない」と。それで、ソクラテスはいろんな賢者に問答をして自分より賢い人間がいることを確かめようとした。しかし、賢者だと思ったひとびとは何も知っていないことをソクラテスを知った。そして、ソクラテスは「自分が無知ということを知っているから、自分は賢いのだろう」と悟るに至った。

有名な「無知の知」であるが「何でも知っているかのように振る舞う」人間のいかに多きことか。

とは言ってもぼくだって「賞は権力構造だー」なんて一見真実らしいことを言って物知り顔ではある。高慢さと無知はイコールである、ということを肝に銘じておこう。

3.22.2015

日本について

なんとはなく思っていたことだけど、日本という国は大変生きづらい国だ。

東北の震災があったときに、配給をもらう被災者の方々が、きちんと列を並んでいるのを見て、「さすが日本人」「中国人や韓国人と違って民度が高い」というような讃辞が飛んでいた。これを聞いて、たしかに秩序立っていて良いことだと思うが、どこか引っかかるような違和感があった。

その何年かあとに、この違和感の正体がわかった。そういった列に並ぶような「事なかれ主義」そのものが、原発事故を引き起こしたのだ。つまり日本人の特性であるこの性格が、一面では事故を引き起こし、一面では統率のとれた行動をする、このような解釈をした。実際のところ、原子力ムラの人びとは「原発は安全である」という列にきれいに並んでいたのである。

日本では、被爆した市民による反原発デモが封殺された。デモの抑止は、国家権力でも、東電もなくて、「同じ被爆した市民が」反原発デモを封殺した。「放射脳」だの、「左翼」だの、そう言った言葉で中傷し、デモは沈静化した。「電気代が高くなると企業が困るから再稼働しろ」というようなことをネトウヨのニートが言い出す国だからほんとうに訳が分からない。

デモは民主主義国家において投票と同じくらい重要なものだという認識があるが、どうだろうか。原発でなくてもいい。不満はそこら中にある。満員電車反対デモ、違法残業反対デモ、消費税反対デモなんてしてみたらステキだと思うが、だれもしない。じゃあお前がやれと言われたら、困るのだが。

移住するのであればマレーシアが良いと考えている。マレーシア文化は西欧とアジアのいいところどりといった具合で、多民族国家だからアメリカ的な自由主義が生きているし(宗教じみたネオリベではない)、何度か旅行して、若者が元気な国だという印象を持った。都市は栄え、少し外れればリゾート地に事欠かず、街並みは美しく、医療レベルも治安もアジア随一だ。

ただ最近は米英のような列強に嫌われているのか知らないが、不運な事故が相次いでいるのが気になるところである(航空機はどこへ消えたのだ?わからないなんてはずがないだろう)。

それにしても、日本ほど若者が笑顔でない国はないと思う。実際のところ、ワープアの日本人よりもギリシャの失業者の方が楽しそうに思える。

実際そうだろう。日本では、失業者は落伍者、人生の敗者に扱われるが、西欧にはそのような習慣がない(少なくとも、日本のようにバッシングを受けることはない)。

日本に暮らしていて我慢ならないのは、日本人の民度の低さだ。そんなことはない、日本人の民度は高いのだ、という人がいるとすれば、ぼくは失笑するしかない。たしかに、日本人は為政者にとっては大変優れた奴隷ではあると思うが。

なにしろ高度に被爆を受けてもだれも責任をとらないで大丈夫だし、一日十四時間働かせるような違法行為も簡単にできる。とにかく人的資本として日本人ほど優れたものはない。それはあくまで資本であって、よき国民ではない。

試験的に移民政策が行われているが外国人は不当な労働を強いられるとすぐにデモやストで抗議するので、日本人の方が扱いやすいと結論されている。当然の権利を放棄するのが日本人である。

そういえばどこかの外国人は「日本では資本主義が信仰の対象なのだ」と言われていた。ぼくもそう思う、日本では金が信仰の対象なのだ。

目先の金欲しさに汚染された食品を売り払う農家がある。まあこういう情報は眉唾だが、「危なくて自分は決して食べられないものを流通させている。正直、罪悪感がある」とある農家がツイートしたらしい。

このように、徳というものがこの日本からは完全に消失して、マネーゲームが全てになった。とにかく金を稼いだもの勝ち、善意とか、道徳などは、かき消えてしまった。妊婦が「食べて応援」などとキチガイ染みた広告に影響されて奇形児を産むことになったとしても、それはどうでもいいことだ。

日本的思考では、この酪農家の自殺も「自己責任」となるのだろうか。

「徳が消えた」国家が日本である。……と考えるといろいろわかりやすくなる。いまでも、日本ではクソみたいな満員電車が走っているし、クソみたいなうさぎ小屋アパートが乱立しているし、クソみたいな軽自動車を買うことを強いられている。

でもこういうと、必ず反発を受ける。それでも買う奴がいるんだからいいだろう、イヤなら買わなければいい。なるほど、自由経済的に考えれば正しい考え方だ、

しかし、東京電力を辞めて他の安い電力会社にしたい……という選択肢は、ほとんどない。おかしいことだ。今もぼくらは、東京電力の電気料金を払い続けて、バカのクソアホが爆発させた原発とか、避難民の住居費とか、おまけに幹部の退職金まで、ほとんどの国民が上乗せして払っている。

とにかく、この国には正義というものがない。正義という概念自体が失われてしまったかのようだ。国全体が、経済のことしか考えていない。だから金さえ稼げれば何をやってもいいと思っている。

東電は海水に放射能を垂れ流し、一年間秘匿した。日本の持つ国際的なイメージはここ数年で地に落ちたのではないか。「日本人は嘘つきだ」と言われても、ぼくはこれを否定できない。国民自体、裏切られ続けているのだから。

テロリストに国民が拉致されたときも、それを知りながらテロリストを挑発するような外遊を行った。明らかに首相の強攻策が人質を殺したのだが、これを指摘すると「テロリストの肩を持つのか」と脅される。

まあこの国では、国民というのはほとんど主権を握っていないのだ。ぼくらは羊のように扱われる。犬に追われ、あっちへ、こっちへ誘導される。市民が市民を監視する。人権なんて、あってないようなものだ。

というわけだから、ぼくは海外に移住することをひとつの目標にしたいと思う。この国では、人間が人間らしく生きることは難しい。もっとも、それはどこへ行っても変わらないのかもしれないが、民主主義の機能している国というのを一度経験してみたいのである。

これまで、日本という国家に対して、ある信仰心があった。なんだかんだいっても日本人は優れている、すごいんだ、と思っていた。最近はそれがくつがえってしまった。そのようなことはまるでない。日本人はダメなのだ。日本という国家は、もうお終いなのだ。そのように感じている。

3.21.2015

森の花ざかり

少し憂鬱にかられていた。大学を卒業しこれから就職するとなればだれでもそうだろう。しかし、働くことは悪いことばかりではない。当然、良い面があるから働くのだ。

なんといっても、金がなくては始まらないし、だいたい、仕事なくして、日々をどうして過ごせば良いかもわからない。

春休みになればしようと思っていたことはたくさんあった、しかし、余暇が日常になってしまうと、かえって嫌気がさすものだ。

この世の大部分のひとは、雇われることで金銭を得ている。絲山秋子も言っていたが、作家業をするためには、会社人の経験が必須らしい。

考えてみれば普通小説というものはマスをターゲットにしている。大衆というのは、世の99%の人間のことである。多かれ少なかれ大衆は雇われ人である。

世界は旅客機の客席に似ている、とだれかが言っていた。エコノミークラスに九割のひとが乗り、残りの一割はビジネス席だ。これらは前後の部屋で区切られている。ファーストクラスには数人の乗客のみが乗る。これは階層が違うので、エコノミーやビジネスのひとびとは、ファーストクラスの人びとの顔を見ることすらできない。

ぼくらエコノミーな人間には知り得ない世界がある。おそらく数万のランチを何食わぬ顔で平らげるぼくの勤務先のオーナーのような人は、ビジネスクラスだろう。プチブルというべきか。

プチブルは会社の社長とか、大学理事長みたいに、目に見えている存在ではある。そうして、ファーストクラスの連中はぼくらの「上の階」にいる。もちろん1%の富裕層にしても、目に見える、ビルゲイツとか、三木谷のような存在がいるが、日本では個々人の収入を厳密に調べるようなことをしていないので、もっと金を得ている人がいるだろう。

時給800円の人間が、道路を走るフェラーリを見たところで、それはいまいちぴんとこないものだ。彼の目には、その後ろを走るダイハツ・ムーヴの方が、くっきりとした輪郭を持っている。(まあ、貧乏でもスーパーカーファンはいるものだが……)

ぼくらはすべてを見えているわけではない。ぼくらは見たいものしか見ない。やはり脳は情報削減装置と言うことができるだろう。すべてを見ることのできる人間は、統合失調症か何かなのだろう。

時給800円の人間の哲学と、年収1000万円の哲学がある。これは偏見ではなく、当然のことだ。ひとは環境によって作られるし、生まれもった遺伝子にもよる。女には女の哲学が、男には男の、日本人には日本人の、という風にそれぞれ根本的な思想は違ってくる。

その点、ぼくからは貧困という世界が遠ざかることになる。ぼくはそこそこ豊かに暮らすことが決定した。そのことへの嫌悪感は当然ある。

どちらかといえばぼくは変化を嫌うタイプであると思う。タイプ、というか、神経質な人間はだいたいそうだ。新品のバイクは落ち着かなくて、何万キロも共にしたようなボロバイクが好きだ。

いままでの生活は貧困そのものだったが、いまでは就職を記念して、生協の500円のイヤホンから、SHUREのいいイヤホンにクラスチェンジした。これでジャズを聴いているとBGMがBGMとして機能しなくなる。音の存在感が全然違う……。

まあぼくは消費に走っていくのだろう。部屋ではルンバを飼いドラム式洗濯機を回すだろう。日の当たる一軒家(東京ではこれを得るだけでもとても難しい)で良い絨毯を眺め良いソファのなかに沈むだろう。もはやブックオフで108円の本を漁ることはなくなるのだろう。晩飯のおかずが納豆だけという貧困も遠い記憶になるのだろう。3000円の買い物に一週間悩むことも二度とあるまい。

人間は変化する、なにもかもが変わってしまうのだろう。学生の哲学があれば会社員の哲学がある。

人生に良いも悪いもない。そして、偶然などないのだろう。これが永劫回帰の考え方だろう。だからシャルル・クロの短い詩に、深い感動を覚える。

かの女は森の花ざかりに死んで行った
かの女は余所にもっと青い森のあることを知っていた

Flowers on the forest edge - Ivan Shishkin, 1893

調べると、この詩は、三島由紀夫の「花ざかりの森」のエピローグに使われたらしい。たしかに三島の好きそうな詩。



いったい自分が正しい道を歩んでいるのか、と思うことがある。しかし、人生というものは、正しい、悪い、という尺度で測れるものではない。二次元の人間が三次元を知ろうと試みるようなもので、ぼくらには判断不可能なのである。

ムルソーくんがママンの葬式の次の日にセックスしようが、太陽の下でアラブ人を銃殺しようが、それは本来、だれにも裁けるものではないのだ。

だいたい、すべての殺人は個人の悪に帰結できるものではない。そんなことは、ふつうの良識ある人間ならだれでもわかることだ。人がだれかを憎むときには、必ず何かが介在している。死がひとを「追いやる」ものであるのと同様、ひとは殺人という状況に追いやられていく。

その主語は、貧困でも、教育でも、社会構造でも、構わないが、とにかくそういうものは「見えない」ことにされ、罰せられることはない。

しかしだれも悪くない、強いていうなら社会が悪いんだーなんて言ったら司法は崩壊するのだから、個人の自由意志、自己責任という具合に帰結される。これは善悪の尺度というよりは、統治のメソッドでもある。統治と司法はなかなか切り離せないものだ。

究極的には、司法がなければ統治はないし、統治がなければ司法はない。ruleとは、規則、慣習、支配を表すが……。

それはともかくとして、ヘラクレイトスだ。
「貴殿は、『自然について』なる書物を著されているが、それは理解するのが難しく、解釈するのも困難な書物です。……そこで、ヒュスタスペスの子、王ダレイオスは、貴殿から直接に講義を受けて、ギリシアの教養にあずかりたいと望んでいるわけです。ですから、小生に会われるべく、わが王宮へ至急お出かけいただきたいのです。……小生のところでは、貴殿にはあらゆる特権があたえられるでしょう……。」
という王さまの教育係という学者として最高の地位への推薦に対し(東大教授なんて比にならない地位だ)、
「この地上にあるかぎりのすべての人間は、真理と公正さから遠ざかって、みじめな愚かさゆえに、飽くことを知らぬ貪欲や、名声の渇望へと心を向けているのです。しかし、このわたしは、そのようないかなる邪悪さにも覚えはなく、嫉妬と深く結びついているところの、あらゆるもので充ち足りた状態を避けており、また華々しく見えることも遠ざけていますがゆえに、ペルシアの地へ赴くことはできないでしょう。僅かのものでも、わたしの意にそうものであれば、わたしは満足しているのですから。」
と返したのがヘラクレイトスである。

このような過去の偉人と、自分を重ね合わせた時期が自分にもあった。

今後同じ状態になることがあるだろうか。ひとはだれでも一時期は詩人になるものだというが、ぼくのなかの詩人はもう死んでしまったのか。

「あまりにも遅すぎた!」という永遠の嘆き。ーーすべての出来上がった者の憂鬱だ!(善悪の彼岸)
ふん。

要するにきみは、ツールーズの小市民なのだ。何ものも、きみの肩を鷲摑みにしてくれるものはなかったのだ、手遅れとなる以前に、いまでも、きみが作られている粘土はかわいて、固くなってしまっていて、今後、何ものも、最初きみのうちに宿っていたかもしれない、眠れる音楽家を、詩人を、あるいはまた天文学者を、目ざめさせることは、はや絶対にできなくなってしまった。(「人間の土地」テグジュペリ)
ふーん。

人は誰しも
いったん
安定した世界に
身を置くと
精神も
それにならって
俗化し
理想を忘れて
だんだん
怠惰になって
いくようだ
青春時代に描いた
夢や理想とは
かけはなれた
生活をしながらも
自分を
磨こうという
気持ちすら忘れ
そのぬるま湯の
心地よさに
いつしか慣れて
満足に本も読まず
堕落した生活を
送るようになって
いくのである
(新渡戸稲造)

なるほど。

そういえば、忘れていたな。ぼくにすべき仕事があるとすれば、光を与えることだったのだ。かつてのぼくは、死ぬような思いで生きていた。それは世間とは相いれない性格もあるし、神経症という病的な逸脱も原因だった。

そこから知のみがぼくを救ってくれたのだ。

まあ、ぼくの場合苦難から救ってくれたのは読書だったが、本を書いたのも人間である。親や友人に救われたというひとが多いだろうが、ぼくはといえば、ただ文学や哲学が救ってくれたのである。

だから、ともかく、かつての自分のように、冷たく、暗い人生を歩んでいる人、人生の何もかもがわからず、自分がどこにいて、何をしているのかもわからない、そういう人の蒙を啓くような仕事、これをぼくはしなければいけないのだ。

とはいっても、まだぼくは未熟であるし、研鑽していかねばならない……。

楽器の方は相変わらず続けている。続けるということが全てなのだろう、だれにも教わらず、黙々と練習していたから、下手なセミプロくらいの技能はついたと思う。楽器はそろそろ七年目というところだろう。まだまだ発展途上だが……。

文章の方も、ずっと続けて上手になっていきたいものである。しかし、毎日毎日書き殴っているだけだし、とくに上手い表現とか狙っているわけではない。文章は音楽とまた違っている。技術だけでごまかしの効くものではない。

なにか小説をまた書いてみたいと思う。前にあるサイトで公開したときには、数名褒めてくれる人がいた程度だが、ブログをこうしてだらだらと書いてきたのだから、また違うものが書けるかもしれない。

とにかく、ひさびさに書いたら、もやもやした鬱屈した感情が少しすっきりした。良いことだ。一日何も食べていなかったから、何か食べてこよう。






3.18.2015

学生らしい無軌道はぼくから去ろうとする

イエスの受胎をゾロアスター(ツァラトゥストラ)が予言していたという説があってびっくりした。そんなことがあるのか……。

とまあその辺の叙述を冒険中である。古代ギリシャの対となるペルシャの歴史、あまり焦点があてられることはないが、その文化、宗教はまことに惹かれるものがある。

この時期は古本屋に良い本が多くなる。学生が引っ越していくからだろう、おそらく文学部の学生が売り払った岩波文庫の「カラマーゾフの兄弟」とか、経済学部(あるいは活動家?)の学生が売ったマルクス・エンゲルス・イェーリングあたりの灰色の背の本を買う。ついでにシラーも買っておく。

108円だったが、書き込みも汚れも少なく、きれいなもんである(果たしてちゃんと読んだのだろうか?)。

岩波文庫は新版の方がなにかとよい。印刷がいいし、フォントが読みやすくなっている。でもまあぼくもぎりぎり学生であるから、まだ学生らしい吝嗇がある。

108円出せば読めるのに、800円もする新品の本を買うなんてバカげている。そう、そのとおりだが……。

ああ、こういう感覚もなくなってしまうのだな。

ぼくは「食うに困る学生」であった。実家で米も作っているので、米だけは潤沢にあった。それだから、学校に行く前にはおにぎりを作っていった。このおにぎりさえあれば、学食の味噌汁(30円)をおかずにして、十分なカロリーがとれる。ちょっと味気なければ、塩を足したり、七味を加えればよい……。

そういえば、ぼくが費用対カロリーを重視している、というと、実家暮らしの連中は理解できぬ風にぼくを見つめるのだった。あいつらは飯が無尽蔵に食えると思っているが、こちらは少ない金銭で最大限の栄養をつけねばならず、したがって同じ100円の商品にしたって、カロリーの高い商品を自然選んでゆくのである。

だから、「ペヤング超大盛り」などはたまの贅沢であった。外食にラーメンを食べたいこともあるが……これなら、ペヤングでいいじゃないか……と、ラーメン750円-ペヤング200円=550円の差額を気にする


そんなような感覚が

あった。

「ゆかり」という、紫蘇のふりかけが大好きだった。しかし、それは贅沢品だったので、おにぎりに使うことはできなかった……。そんな生活が、想像できるだろうか?ぜひ想像してもらいたいものだ、貧困であり、美しい生活……。

でも、これもなくなっていくのだなと、

学生の終わりを肌身に感じる。

岡本太郎は、「若さの恥辱と、年よりの不潔」という対比を「今日の芸術」において示した。これは、精神的には豊かでありながら、経済的には弱者である「若さ」と、物質的には豊かだが、精神的には貧しい「年より」の対比になるのだろうが……。

それにしても、精神的に豊かで、物質的に豊かである、そのような状態は、無理なのだろうか?

無理なのだろうなあ、とぼくは思う。たぶん、無理なのだ……。

経済的成功は、精神の退廃をもたらすものであるようだ。

学生から勤め人への変遷。本当に、これは大きいものだ。

できるなら、逃げてしまいたい。ぼくにはきっと、勤まらない、何もかも……。仕事において、何がいちばん大事かは、知っているつもりだ。それは、上司と仲良くすること、同僚と仲良くすること。これが、ぼくはできないことを知っている。すなわち、ぼくは社会でうまくやっていけない人間なのである。

ぼくのような人間は、社会のあたたかい密度のなかで、満足していくような人間ではない、そういうことを改めて認識するのであった。と、まあよくわからない。またクソみたいなことを書いたが、これで眠りにつくことにする。



3.17.2015

人生のある諦め

どうも自己嫌悪の日々である。

鬱屈としている。何も成せないのではないかという疑念がある。

もはや自分が何でもできる・何にでもなれる、という可能性に充ちた青春の時代は過ぎ去って、ある程度固定化した人生、先が見えてくるような人生を感じている。

スピードを出した車で、道路の奥に壁が見えてきたような、実感としてはそのような人生感覚を得ている。

自分というものがある程度わかってくると、道は自ずとできてしまうものらしい。そうだから、強引にあちらやこちらへ行かせようとするよりも、黙ってそれにつき従うという、一種の諦めのような感情が萌芽してくる。

まあそのようなもので、自分の人生にとって、ある程度の平和が良いのか、Stimulatingな人生が良いのかということを自己に問うていくけれども、自己の主体性が人生に与える影響なんて実は軽微で、結局はなるようにしかならないということを知った。

この生は、もはやunder controlなのではなく、生とか、人生というひとつの時間軸が、自己の内在する存在から離れていってしまうように感じる。

つまり自分が飯を食い、ある仕事をするときも、自己存在は遠く星や太陽のように見守っているのであって、良い母親のような不干渉で、自分は勝手に動いてゆく。

それは「異邦人」においてムルソーが殺人を犯した理由を「夏の太陽」のせいとしたのと、感覚的には似ている。ムルソーは結局死刑の判決を受けるが、これが示すとおり、法律というものはたぶんに「自己責任」の信奉の生きた世界である。

われわれがAという道を選ぶのか、Bという道を選ぶのか。豊かな生活を送ってきた少年が暴力団に入ったり窃盗犯になるようなことはまずないし、貧しい生活を送ってきた少年が東大の法学部に入ることも滅多にないことである。

ぼくらは生まれたときから宇宙的環境とそのもうひとつの基軸である歴史に支配されているのであり、そのなかでモノを考えたとしても、二次元世界の人間に三次元的思考が不可能なように、しょせんは考えたつもりなだけで、何ら限界を突破できるものではない。

Aなのか、Bなのか、という問い自体が、環境によって極端に制限された選択肢であり、ほんとうは無限の可能性があるものだが、人間の大脳という「情報削減装置」がそれを許さず、われわれはつねに、「あれかこれか」の選択に悩まされている。これを打破することは人間には不可能である。

そういえばキェルケゴールは「美的生活の行き着く先は絶望に他ならない」としたがそもそも絶望のない美なんてあるのだろうか?

ぼくらは迷路のなかのラットと変わることがない。

というわけで自分の人生に対するある諦めがある。

つまり人間の存在は限界ばかりである。もともとぼくのもつこの有機的な眼球とか大脳というものは、まったく原初的で不完全な代物であり、やりきれない気分になる。こんな眼球で真実を捉えることができるのか。この程度の脳みそで、真実を知ることができるのか。

人間が真理に到達することは難しい。人間が人間的思考にとどまる限りは真理とは無縁である。人間の見る世界は人間的世界であり実際の世界ではない。原子とか銀河は普遍的真理のようにみえて人間的創作である。

そうだから仏教徒は座禅するのだろう。座禅するときは思考してはならないとされる。大脳のはたらきを極限まで鎮静し、平常であれば削減されるはずの「情報」を得る。そこから宇宙の脱人間的な、普遍的真理を得る。このプロセスが座禅の目的だと思う。冥想とは冥を想うと書く。

古くから魂と肉体という二元論が人間を支配していた。こう考えたくなる気持ちはわかる。人間の肉体はその造形があまりに動物的である。だから肉体と切り離された、神的な領域が自分にも備わっているに違いない、という願望は自然と生まれることだろう。

肉体を愛したギリシャ人の神話とは違い、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の神ヤハウェは人型をとらない。というかキリストやマリアはともかく、ヤハウェについては偶像が禁じられているのでこれが形をとれない。

人間にヤハウェの偶像が造れないということは、その造形を人間が絶対的に知ることができないからである。ここにも二次元的人間の三次元的解釈の不可能性が見てとれる。

こうした考えの源流にはやはりプラトンがどうしても浮かんでしまう。プラトンは人間には正確な三角形を決して描くことはできないとした。こうした正確な三角形はイデア界にしか存在しないのだ、というのがプラトンの考えである。

人間のイデア、神的な存在であるところの人間がどこかにあるに違いない、という考えはプラトン的とも言えるだろう。また、ギリシャ神話的な神(日本的な神とも通じるものがある)を否定し、それらを不完全なものとして棄却し、イデア的な神=ヤハウェを生みだしたのも、この源流としては、プラトンがあると考えてみてもおもしろい。

話が散漫になった。結局、プラトン以後の世界と、プラトン以前の世界、どちらが正しいのか、という話になってくる。プラトン的な世界は永く西洋を支配したがこれを一千年以上あとになってニーチェが覆した。肉体への回帰、アポロンからデュオニソスへの回帰を示したのがニーチェである。

今のぼくは結局ニヒリズムに陥っているわけで、ニーチェ風にいえばラクダの状態に今あるということか。屈従のラクダの状態から獅子へと、獅子から赤子へとならねばならない、それが超人への道筋だとニーチェは言い表したけれども、このプロセスはなかなか楽ではない。

人生は一切皆苦という点ではプラトンもニーチェも同じだったのだろう。プラトンはそれだから理想的世界を別に創り出したし、ニーチェはそうではなく、あえて人生を受けいれる、能動的ニヒリズムを示した。

人生はだれにとっても辛く、本当に、やるせないものだということは、だれしも感じるところである。

まあしかし、人生はなるようにしかならん、という諦観が、現実のぼくの認識としてあるわけで、この諦めを乗りこえられるのかどうか、というところである……。

3.16.2015

魔性の胎

だめだな。何を書いてもまとまりがない。

花粉が良くないのかもしれないし、こうしてひとり部屋に閉じこもって、とぐろを巻いているのが良くないのかもしれない。

一旦読書の習慣が薄れてしまった。同時に、鋭敏さとか霊感のようなものが、すっと抜けてしまったように思う。ぼくが高度の思考を得られていると自覚するときは、書物からインストールした賢者や哲学者を頭のなかで戦わせて、止揚させるときにあった。

結局、すべては借りものなのであって、人間の思考にオリジナルなんてほとんど存在しないだろう。ぼくらが生まれた瞬間から、周囲には歴史がある。ぼくらの思考の中に歴史があるのでなく、歴史の中に思考があるのである。まあ人間思考の限界性というべきか。

とにかく読書の習慣がなくなってしまった。

人間の生には外圧が必要だ。ストレスのない状態というのは、ほんとうではない。ネガティブな、否定的な感情が悪く思われる現代だけれども、ほんらい、ひとは、つねに、恨み、嫌い、生きてきたものだと思う。

苦痛とか、不幸こそが人間を知に導く。知は血であり、したがって痛みであるらしい。IQが高いひとほど幸福度は下がるのだという。この世は知れば知るほど冷たいものである。

仏教的な価値観では、この生は解脱すべき輪廻であるとされる。この世に安住する人間は、いってしまえば凡愚であり、なにも見えていない。賢者は輪廻転生から解脱しようと試みる。

まあ究極的にネガティブな考えではある。しかし現実的に考えてみても、真実とか、正義とか、善行をつらぬこうとする人間は決まって不幸に陥るようである。そうして、狡猾で、道義を外れた人間がこの世の春を謳歌し、名誉とか富といったものを独占してしまうものであるらしい。

ギーターにおいてはこうした痴愚たちは迷妄にかられており、また転生するにあたってもより悪い存在になるらしい。

ちょっと長いが鎧淳氏の翻訳から引用してみる。

なお以下の内容はヒンドゥー教における最高神ヴィシュヌ(仏教においては毘紐天)がアルジュナ王子に語りかけているところ。

――――――――――――――――――――――――――――――――

魔的(運命の)人びとは、(正しき)活動と、(不義の)止熄を知らず。純潔も、善行もはたまた真実も、かれらのうちに存ぜず。

かれらいう、「世は、真実なく、根柢なく、主なく、互いに(因となり、果となり、)生起するにあらず。ただ欲愛に因れるのほかなし」と。

この見解に拠り立ちて、自狂に酔える智慧乏しき徒輩は、行為無慚にして、世に害意を抱き、滅びに赴く。

飽くをば知らぬ欲愛に身を委ね、偽善、傲慢、放恣に充ち、迷妄ゆえに、邪見を抱き、行状浄からず、(世を)送る。

死まで続く、限りなき不安に(身を)委ね、欲愛への耽溺をこととし、「これ、一切」と妄計し、

数多願望の詭策に縛されて、欲愛、忿怒を恣(ほしいまま)にし、欲愛の享楽のため、道ならぬ手立てにより、利財の山を築かんと努む。

「われは、今日、こを得たり。この望み、われは達せん。こはわがもの。この財宝もまた、さらに、(わがもの)たるべし。

かの怨敵はわれによりて討たる。他(の敵)も、われ討つべし。われは主。われは享受者。われは成功者。われは強力にして、幸運なり。

われ富裕にして、生まれ貴し。他のなんびとか、われに等し。祭式を行い、(祭僧に)施し、われみずからが悦ばん」と、惑執蕩けがたきものたちは(考う)。

かのものたちは千々の想念に心乱れ、迷妄の盲瞽に掩われて、欲愛(より生ずるもの)の享楽に惑執し、忌まわしき地獄に陥つ。

かれらは己(のみ)を尊しとし、驕慢にして、財を誇り、(財を)恃む心に充ち、名のみの祭式により、規定の式によらず、上辺のみ祀り、

我執、暴力、高慢と、欲愛、忿怒に身を委ね、自他の肉体のうちなるわれを憎悪しつつ、(われを)誹謗す。

この無慚にして、憎しみ抱ける、人中、最低位の不浄のものらを、われ、絶えず、輪廻において、ほかならぬ、魔性の胎へと抛げいる。

魔性の胎に陥りて、広劫多生の間、心惑い、クンティー妃の王子よ、ゆめ、われを得ずして、それより、かれら、最低の状態に赴く。

己を滅ぼす、これなる地獄の門は三重。欲愛と忿怒、貪婪、(これ)なり。されば、ひと、この三を抛つべし。

――――――――――――――――――――――――――――――――

難しい言葉が多いが、まあお金に汚い人間は、人間のなかでもっとも卑しく汚い人間だから、もっと最低の状態に転生させますよーってな流れだと思う。

ギーターのなかでも上記の部分はかなり気に入っているところで、だから長々と引用してしまったのだが、「俺が神なんだ」「俺が成功者だ」「俺は強いんだ」「俺は幸運だ」と思っているような傲慢な金持ちたちは、結局は地獄に落ちる、そういう風に世の中はできているんだ、と思うことで、妙に溜飲が下がるような気分になる。



結局のところ、ぼくは大学を出てそこそこ稼ぐことになっても、あくまでそこそこでしかない。まっとうに働いて、普通に生きていくだけでは、富豪にはなれない。がめつく、狡猾で、不義な人間にならなければならない。

現代的な考え方、とくにアメリカ式の価値観では、お金を稼ぐことは良いことだとされる。日本でも、ビジネス書だのなんだので、優秀なビジネスマンになることを推奨している。

しかし、本来的にはビジネスマン=商人は、つねに社会的下層に置かれた。もちろん彼らは金を持っているのだから、実際的には権力を持っていただろうが、そのバランスをとるために、例えば士農工商では農民や職人よりも商人は下に置かれたわけだ。

とはいっても、少し前のアメリカでは、「金を取るか、名誉を取るか」という二者択一だった。金持ちは汚い、という伝統的な価値観が生きていた。それが次第に金の力が露骨に強くなっていって、金で名誉が買えるようになった。もちろん昔から豪農が貴族の地位を得たりということもあったけれど、あくまで例外であり、現代のようなおおっぴらに「金持ちは偉い」みたいな価値観はなかったことだろう。

またルソーも「現代の政治は経済のことばかり考えていて、徳を考えることがなくなった」と嘆いていて、まったくどこかの政権と同じだと思ったり。

とにかく金、金、金がこの世を支配している。

金を積めばひとも殺せる。たとえばあいつを殺したら一億円やる、と言われて、拒める人がどれだけあるだろうか。もちろん、一億だろうと十億だろうと、人なんて殺さないよというひとがあるかもしれない。こういうひとは、比較的経済的に恵まれていて、豊かに暮らし、日常に満足していることだろう。

それなら、この世の経済をコントロールして、ひとびとを貧しくしてしまったらどうだろうか?食うには困らないが、車は軽自動車しか買えないし、結婚もできない。労働時間は長く、寝る時間も確保できない。どこかの国のようだが――

こうなったら、ひとびとは金に憧れを抱くようになる。金さえあれば、自由になれる。金さえあれば、豊かに暮らせる。というわけで、みな、血眼になって金を集めようと躍起になっているわけだが、おそらくそれには理由があるのだろう。

徳川幕府では「生かさず殺さず」が是とされていた。一億総中流なんていう時代は、今考えても異常である。マスが力を持つことは、国家を管理するひとびとにとっては実際恐ろしいことだったろうと思う。

ただもうそんな「豊かな大衆」という近代国家の産物は、国家にとってはいつ爆発するかわからない危険物でしかない。少数の金持ちであれば、ひとりひとり懐柔させ、コントロールすることも可能だが、大衆となると難しくなる。

もっともあの時代はネットもなく情報に乏しかったから、マスメディアで右や左に行かせておけば、とりあえずひとびとは満足していて、うまく統治されていたわけだ。

現代日本の税金はだいたい四割くらいであるとされる。儲けている人や、酒やタバコなどの嗜好品をやる人は、五割や六割もとられるだろう。

こうして人民は貧しくなる。ほんとうに貧しい人びとは、明日のパンを得るのに精一杯で、政治にも、国家の矛盾にも目がいかなくなる。だから、格差社会というのは、正しい統治の一側面でもあるわけだ。

人民をコントロールすること、もはや何も考えさせないこと、戦争になれば前線に向かわせ、平時は富を献上する、理想的な人民を作りだすことが国家の至上命題である。

いまでも、就職できなかったり、貧しい人びとは、「自衛隊に入ろう」というようなキャンペーンが、大っぴらにではないが、静かになされている。

長くなったが、上のような格差とか、貧困層の拡大といったことは、為政者側の個人的な欲望にも敵うし、国家を守るという点でも、適切なようである。

安部ちゃんは「国民の生命を守るのは医者がすること。政治家のすることは国家を守ることだ」と言っていたけど、この点では有言実行と言うべきか。

もっとも、福祉国家とか、格差の少ない国ではどう統治しているのか、こちらはよくわからない。

とにかく、人びとから搾取し、暴利を得ている経営者とかそういった人びとは、「魔性の胎」行きなようである。そう考えることによって少し救われるのである。

3.15.2015

貴族社会

しばらくニュートラルな気分が続いている。

いまは学生と労働者の幕間である。最後のこの時間を楽しめるひともいるだろうし、来月からは「懲役四十年」と嘆き悲しんでいるひともいるだろう。

ぼくはといえば、中立的な気分だ。たしかに、一面では悲しくもあるが、もう一面ではようやく解放されたような気分がある。

はたらくということがどういうことなのかはわからないが、ぼくの印象では、あまりいいイメージがない。仕事laborとは、自分の魂を削って金銭を得るようなイメージがある。

仕事という言葉に、プライベートな日常生活まで侵犯してくる負のイメージがつねにつきまとう。事実そのとおりなのである。労働者というのは、第一に道具であるのであって、人間であるということは忘却の彼方に捨て置かねばならない。日本的な資本主義社会とはそのようなものだ。

会社という組織が、労使の関係だけではなく、家族的な価値観の共有をしようとすること、個に浸潤しようとすること、これがぼくをひどく苛立たせる。労働者と経営者の関係は、労働契約書のどおりにはいかない。労働力だけでなく、魂を売り渡せ、と訴える、これが日本社会である。

結局、町内会ファシズムと変わらないのだ。「あいつだけが抜け駆けしている」「許せない」というような相互監視は、会社という組織でも同じだ。だから日本では有給休暇が消化されない。学校でも会社でも、とかく陰湿な社会である。

きまじめとか、律儀とか、日本人論はさまざまだが、もともとの性質がどうとか歴史的な立場で論じるより、現在的に矯正している側に焦点をあてるべきだと思う。日本の学校教育はかなり異質である。だれもが同じ服を着て、きれいに整列させるのだから。

教育と洗脳は区別が難しい。倫理的に考えたら、すべての教育は放棄すべきだろう。そうして、エミール少年的な教育を施すべきだろう。

しかし、現実的には、すべての人間が人間である必要はない。

資本主義社会においては、人間は不要なようである。きれいに整頓された歯車、これが必要なのであって、行動の予測が難しく、ときに思い通りにうごかない人間というのは、欠陥品なのである。

というわけだから、一部のエリートが人間思考を占有し、あとの畜群をコントロールしてゆく、これが現代社会を説明するひとつの解釈なのだろう。

それにしても、こうした陰謀論的な感覚がもはや平然とぼくのなかに居座ってしまった。それでも、おおくのひとがぼくと同じような感覚を抱いているようである。それも当然であって、原発事故において、ぼくらは明確に騙されたのであるから、これで目覚めないようでは歯車として優秀すぎるということだろう。

ぼくらはフランス革命の前夜とか、第二次世界大戦中のような、歴史に吸いこまれるような感覚を知ることができない。しかし結局、ぼくの思考も歴史から逃れることはできない。

かつての哲学者は、俗人たちがあまりに無思考なことを嘆いているが、その原因までは考えようとはしなかった。俗人が俗人であることを望む存在があることを、哲学者は知らなかったというわけだ。

まとまりがなくてすまないがこんなところで終わる。また、酒を飲んでいるのだが、酒を飲みながら書いていると、途中で失速してしまう。ほんとうは朝書くといいのだろう。

最近は、日常を倦怠が支配している。花粉が飛ぶ季節というのもあるだろうし、暖かくなってきたという事情もあるだろう。どうも思考が深化していかない、つまらない感覚である。

3.13.2015

人生は虚無だ。

人間の生の秘密なんて、だれにだってわからないのだから、楽しく、のんきに生きていけるのであれば、それで十分だ、というようにも考える。

人間というものは、案外簡単に死んでもらうものだ。ぼくは毎日酒を飲んでいるし、タバコを吸っているし、メンタルイルネスをもっているし、とにかく不健康きわまりない人間であるから、脳で血栓かなにか詰まって、ぱたりと倒れてしまうかもしれない。

エリオットの詩はよい。

世界はこうして終わる
世界はこうして終わる
世界はこうして終わる
どかんと終わらず、へなへなと

もはや、死ぬということは、前提であって、覆らない。

そういえば、仏陀は「死後の世界はあるのですか」と弟子に聞かれて「死などない」と答えたのだという。なかなかやるな、仏陀。

仏陀をありがたがって、仏陀のようなライフスタイルを望むことや、イエスをあやかって、イエスのようなロン毛にしようと考えるひとは、迷妄にとらわれているひとである。

ひとはそのままで十分なのであり、自己のなかにおいてすべてが完結しているのだから、ただ、存在し、その存在と自己を溶け合わせてゆけば、自ずと全ての真理が見えてくる。

宗教というものが権力と融合して以来ほんとうに真理に到達できるひとはとても少なくなってしまった。なぜなら権力はひとを道具化してしまうからである。道具は思考しない。

とにかく、自分で考えることだ。自分のことは自分にゆだねることだ。だれかれの甘言にくるめとられて、必要のない保険に入らされるように、宗教に身をゆだねてしまうことははっきりと危険である。

別にキリスト教とか仏教が悪いというわけではないが、その亜種である○○学会とか、○○教会というものがどのように機能しているかは、多少のリテラシーがあればわかることである。

生はたしかに苦痛で、不安で、おそろしいものであるが、その不安は、どのようにしてもなくならないのだ。とかく現代において「不安になること」が悪い、異常なことだ、という風に扱われている。事実「社会不安障害」なるビョーキがアメリカの精神医学会によって創作されたが、このような脆弱で不合理な社会においては、不安にならない方がおかしいのである。

それなのに、不安である自己を救おうとして、不安を解消しようとして行動してしまう。そこには、きちんと罠がはられている。ひとびとは、これに警戒しなくてはならない。

ほんとうに優れた宗教というものは、あれこれ周辺の面倒を見てくれるものではない。あれをしろ、これをしろと指図するものでもない。

「知らんがな。勝手にしろ」

これが正しい宗教の教えであって、例外はない。



まあ、こうして、適当なことを言っている。

自分の生を考えると不安になるが、それは生に重きを置きすぎているからなのだろう、と思う。ぼくらは生まれてから、死ぬまで、何も知ることがない。別に恥じる必要はない。きっといまある60億人分の命のすべてが、同じだから。何も知ることがない。「そのようなものだった」人生。それでよいのではないか。

ぼくらは奴隷なのかもしれない。コングロマリットの奴隷かもしれないし、思想の奴隷かもしれないし、旦那の奴隷なのかもしれない。そうして、人生の時間だとか、富を奪われるかもしれないが、そこで悔恨してはならないのだろう。

自分の人生とは、このようなものであった。暗く、惨めで、何の収穫もなかった。それでも、

「これが人生であったか。さらばよし、もう一度!」

というわけだ。結局、ニーチェがあらわれてしまう……。

知性的な人間であれば、人生がいかに苦難に満ちているかはすぐにわかってしまうものだ。この世には、苦痛から解放された、幸福で塗りたくられたようなユートピアは存在しない。バカな女は、ジャニーズのお嫁さんになることを夢見、バカな男は高級車とか社長の座に全てを見出すが、多少の智慧さえあれば、そんなことがつまらぬ迷妄であることはわかる。

人生は虚無だ。難しいが、そこをさらに踏み越えてしまわなければいけないのだろう。

3.12.2015

愚痴こそが人生のすべてと

考えてみれば、新しく従業員を雇いとろうと考えている会社は、成長しているか、成長が望める会社に違いない。

オーナーの奥さんは、その辺にいそうなおばちゃんに見えて、高級フレンチを芋煮でも食うかのように平らげ、夜は巨大なリゾートマンションに帰っていくのだからいささかシュールである。

日本国民の数%は、億単位の資産を持っていると聞いたことがある。金はあるところにはあるのだ。ただ、ぼくらが気づかないだけで。

ブックオフに行くと、ちくま文庫のところに田辺聖子があったので読んだ。そのなかには、「学生は物質的には貧しくとも精神的には豊かである」というようなことが書かれていた。

気に入ったフレーズが一行でもある本は、手元に置かなくては気がすまなくなる。いちど本に愛情をもってしまうと、もういけないのだ。そういうわけだから、360円ばかりを出して、本を買った。

もともと田辺聖子は好きだ。若い男で田辺聖子を好むひとがいるのかはわからないが、ぼくは好きなのである。彼女は「おかん」であって、田舎の「おふくろ」とはまた違い、東京的な「お母さん」でもない。まあ、おばちゃんというのは、おかんというのはこういう感じだよな、という偶像として田辺聖子は良いのだと思う。

それにしても、金銭ということに、ぼくはひどく混乱している。昨日食べた伊勢エビだとか、巨大なアワビとかは(奢ってもらったのだが)、たかがランチに、数万円は使っていた。数万円だ。一万円ではないぞ。2,3万円は使っていた……。

伊勢エビにしたって、エビと比べれば少し上等というくらいだ。カサゴとか、確かに、うまかったが。

ブックオフにいるぼくはといえば、108円の本と、360円の本を比べて、360円の本を買うことに戸惑いを感じるのだが(なにしろ本は読めさえすればよいので、たしょう汚くても、それはかまわないのだ)、世の中というのはよくわからない、カクサシャカイだ、と言われれば納得はするのだが、どうやらほんとうにそういった社会であるらしい。

ぼくは四月からはたらくことになるが、ぼくの給料は、かなり高い。学生時代は、月に10万円以下で生活していたが、これからは、その何倍もの給与を得られる。もはや、この荒波の前には、108円と360円の金額差、その金額差に呻吟する苦悩とか……喜びとか、繊細さというものも、かき消えてしまうのだろう。

ぼくは、この点を明確にしておきたい。金には決して溺れたくないのだ。たしかに、金は高級車を約束するし、高級な人びととの交流とか、高級な生活を約束するけれども、それ以上ではない。ぼくはいまのところ、金持ちではない。だからわからないが、たぶん、金というのは、むなしいものである。

金は、むなしいものである。

人間存在のだれもが、金ということに頭脳を拘束されてしまっている。貧しい人は当然そうだが、金を持っているひとも、金をもっと稼ごうとしてしまう。女を「産む機械」と呼べば職を追放されるが、人間を「稼ぐ機械」と言っても、非難は受けない、なぜなら事実そのとおりだからだ。ニュースを見ても、GDPがどうのこうのということばかりだ。

金がもたらすものはわずかな喜びでしかない。

ぼくは、たいへん悲しいのである、金をつかもうとして、世のひとびとは暴れ回る、この金は俺のものだ、と。ときには、人間を殺しもする。金が欲しいがためにだ。それでも、金を得てしまうと、案外つまらないものだ、ということがわかってしまう。

人間の生という不思議がある。人間という生の不思議の前には、金など、なんの価値もない。贅沢品はいくらでもある。ブラックタイガーの代わりに、伊勢エビを。あさりの代わりに、あわびはいかがですか。ああ、バカ、バカ!そんなことではない。

人間は、勝手にグラデーションと、階級をつくられて、それをよじ登れ、と命令されている、それで一段階あがるごとに、素朴な人間は喜んでいる。バカなのか?どこに品位を捨ててきたのか、馬鹿者が。

ぼくは辛い。辛い。辛い。ぼくは辛いのだ。獅子は駆ける。気高く走る。カモメは飛ぶ。悠々と、飛んで、それで、すべてが充溢している。

人間は何をしているのだ。人間は、何をするよう、しむけられているのだ。人間は、気高く生きることを許されていないのか。

人間にだけ、悪が存在し、人間だけが、人間を道具にしてしまう。自由に生きているように思えるぼくらだって、歴史に翻弄されているのだ。

人間は、しょせん、無力だ。

なにも知らずに死んでいくのだ。ぼくは。ただ生きて、死んでいくことには、かわりない。みなさん、死というものが、怖くないのですか。と、ぼくは問いたくなる。

なにも成せぬのだ。すべて相対的なものは沈んでいくのだ。そうして、絶対的なものなど、なにもない。なにもないということだけが、絶対的だ。釈迦も、イエスも、決して救ってはくれない。早く気づくべきなのだ。

今日はひどく酒を飲んでしまった。痛飲という奴だ。

それにしても思うのは、ぼくは人間存在の大通りを歩んでいるということである。大学生は精神的に豊かで、物質的に貧しい。これからは、物質的に豊かで、精神的に貧しくなるのか?それだけは、ごめんだ!と思っていても、そうなってしまうのかもしれない。

見苦しい文章で申し訳ないが、今日は、これだけ捨て置くようにして、寝てしまおう。明日もまた忙しいのだ。

3.11.2015

田舎の小企業と高級フレンチ

今は遠く田舎にある小企業の見学と物件の下見に行っている。出先のホテルでPCをいじっている。

自分の境遇を思うとわけがわからなくなる。

田舎の企業のオーナーは思ったよりも拝金主義であり、昨晩はオーナー夫妻とその娘と、高級フレンチを食べさせられた。ぼくの普段の一週間分の食費くらいするだろうフレンチはたしかにうまかったのだが、ぼくはそれよりもそういった空気の持つ毒々しさがいやだった。

こうした田舎であっても、細々と生きているひとばかりではない。明確な、食う人、食われる人がある。実家の自分の生活をかんがみる、ラーメンを食べて、それが週の一度のご馳走だったが、そんな自分の家庭は食われる側だったのだろう。ぼくは漫画で得た知識、「ナイフやフォークは外側から使う」ということを知っていたおかげで、なんとかフレンチを乗り切ることができた……。

フレンチを食べている間ぼくは人間嫌いの発作が出てしまい、ぼくの甘えといってしまえばそれまでだが、重い沈黙がおしこめる、だいぶ陰惨な食事会になってしまった。料理の持つ魅力とは不釣合いな気まずさ、「もう分かり合えないのだ」と知ってしまった人間同士特有の、やりきれない無力感のなかにあった。

生殺与奪は会社のオーナーが握っている。いまだってホテル代はオーナーに出してもらっている。だからオーナーに気に入られることが、仕事のひとつになるはずだ。だれだって、生活のために仕事をしているのであって、労働のために労働をしているわけではない。その意味では、ぼくの対応はひどくまずいものだったと思う。ただ、こういう貴族趣味的な、成金趣味的なものは、明確にぼくの人格と相容れない。

田舎にぼくが何を求めてきているのか、オーナー連中は知らないらしい。給料が高いから、待遇がよいからきているわけではない。ぼくは田舎の素朴さと都会にない豊かさを求めているのだが、そういった面では、期待を裏切られたことになる。

表層的な社交の場は、とにかく、苦手だ、そこではだれも傷つかない上品なユーモアが好まれるのであって、非社交的人間の持つ趣味、毒気をもった趣味は好まれない。だれもが演じることを要求される。もともと人生を演じているようなひとには、楽しめるだろうが。

ネットで退職したひとのことばかり調べている。同じ人間嫌いだった江戸川乱歩のことなど調べる。ぼくも、やはり筆一本で食っていけたらそれに勝ることはないと考えるが、そんなことは夢物語かもしれない。

3.09.2015

Potato chips dialy

人間の幸福というものを考えると不思議である。

昨日など暇だったので、あまったジャガイモをスライスして、揚げてやった。ポテトチップスを作ったのである。それで、ジムビームをレモン入り炭酸水で割って、ずっと酒を飲んでいた。

この自家製ポテトチップスは、はじめて作ったのだが、あまりに美味なので感心した。揚げたての熱々感もそうだし、じゃがいものほくほくした分厚い感じもすごく気に入った(スライスが下手なのだが)。

本来のポテトチップスは、ここまでうまいものだったのだ。それが、工場で揚げられ、包装されてしまうと妙に味気なくなる。

市場のポテトチップスは、いろんな味が売られている。

うすしお以外にも、ガーリック味とか、コンソメ味、梅味とか、なかには「ステーキ味」なんていうのもあるが、「どん兵衛味」などというジャンクなものがあって、何がしたいのかよくわからない。

とにかく、自分で揚げてしまうのであればポテトチップスは塩で十分うまいことがわかった。

イメージ図

もちろん、それなりにコストはかかる。じゃがいも以外にも油やガス代がけっこうかかるし、油が跳ねるから掃除が大変だ。それでもこのうまさは病みつきになる。

愛らしい丸っこいじゃがいもを、ざくざくと切り刻んでいく気分も、一枚一枚、油に投入していく気分も、すばらしいものがある。水分が油中で気泡をたてる音や、じゃがいもがきつね色にあがる光景など、幸福を覚える。

これには時間的コストもかかることも事実だ。だから、忙しい現代人は、既成品のパッケージングされたポテチで我慢しろ、となる。これはほんとうに残念なことだと思う。

自販機の缶コーヒーよりも、豆から挽いた方が断然うまい。これに異論はないはずだ。

しかし、だれもが缶コーヒーを求める。忙しいからだ。彼らには豆を挽く時間も、ドリップする時間ももったいないと感じる。

自分の銭をわけてやりたがる者は見当たらないが、生活となるとだれもかれもが、なんと多くの人びとに分け与えていることか。
……実際多忙な人にかぎって、生きること、すなわちよく生きることがもっともまれである。(「人生の短さについて」セネカ)

人間は、実際、働きすぎなのだ。よく生活するため、身を粉にしてはたらく。対価は払われる。雀の涙のような賃金だ。そして、その四割は税金でもっていかれる。

これでは、働くだけ損だ。だれもが、そのことに気づかなければならない。例えパイロットだろうと、医者だろうと、働いている以上は、搾取されているのである。

国家や会社のためでなく、自分や家族のためだけにはたらく、そのような生活が本当のはずだ。だれかの所有物であるところの会社で、所有物である仕事を手伝って、それで賃金を得るという図式が、異常なのだ。

この自炊の楽しみは、延長してゆけば、農業も自分でやってしまえ、ということになるのかもしれない。

自分が大切に育ててきたものを、自分の手で加工し、自分で食すというプロセスは、まことに人間最大の喜びではないかと思う。

なんというか陳腐な表現ではあるのだけど。

ぼくは都会の生活を離れる。教授いわく、「負け組の行くところ」である。ところで、就職先の会社のオーナーの奥さんは、「都会では人間の生活ができない」と嘆いていた。

どちらが正しいのかはわからない、が……。

そういえばルソーを読んでいたらこんな記述があった。

人びとは、都市地区が、直ちに、権力と名誉とを独占し、やがて田園地区を下落させたと思うかも知れない。が事実はまったくその反対であった。初期のローマ人が田園生活の趣味を持っていたことはよく知られている。この趣味は、賢明な建国者から、初期のローマ人に伝えられたものだが、それは自由と、耕作並びに軍役とを結びつけ、技術、手工業、陰謀、財産、奴隷制を、いわば都市へ追放したのである。(「社会契約論」)

田舎に住むことが名誉として考えられていた時代もあったのだ。田舎と呼ばずに、田園生活と書くとたしかに豊かに思える。

隠遁者は、インドや中国の思想家に多い。アメリカではソローがいるし、古代ギリシャにはヘラクレイトスがいた。まあ大体の感受性豊かな人間は都市嫌いで人間嫌いである。無論ペソアのように都会を愛した人もいるが。

ぼくは完全な隠者になるわけではない。はっきりと社会的存在である、が、精神的には、隠者のように暮らしたいと思う。

何もないなかに、ぽつんとある一軒家は、実はゆたかなのではないか?と思う。日本の住宅環境は、世界でも最悪のレベルらしい。狭小なアパートに住んでいては、人間は、ちっぽけなままで終わってしまうだろう。

3.07.2015

カツカレーは胃もたれする

四月から生活が一変する。

第一にぼくは学生ではなくなる。

第二に住む環境がド田舎の一軒家になる。

第三に社会人となり給料を得ることができる。

学生という身分はすばらしいものだったと今になって思う。ぼくはリア充とはほど遠い存在で陰惨な学生だったが、読書と音楽に出会い、それなりに充実した日々を送ることを知った。

私立だったから、周囲はまあまあ金持ちで、まあまあ教養があって、いわば上流階級的な社会的存在と触れ、東京でなければ一生知ることのできなかっただろう人種を知った。ジャズやクラシックといった音楽の楽しさも、こういう連中から知ったし、失礼にあたらないよう拒絶する絶妙な感情表現とかいった、上流階級特有の仕草もしることができた。

だがまあ、こういう連中など、もはやどうでもいいことだ。金を持っているとか、教養があるとか、これらは、皮相的なことでしかない。だれもがフロイトだの、ニーチェだのを読み散らかすが、ほんとうに読んでいる奴はいない。アクセサリー感覚だ。

東京に対するコンプレックスが消えたことは、良いことだった。この七年間の生活で、東京の虚像が消え、東京がもっているはずの求心力はまやかしだったことがわかった。これはたとえて言うなら、銀座のコハダよりも回転寿司のサーモンマヨの方がうまいぞ、ということと同じである。より正確には、ドイツの思想よりもインドや中国の方が行けるぞ、というのにも似ている。

とにかくぼくは東京を離れはたらくのである。田舎の小企業勤務である。海と山が近い。ぼくはなぜあんなところへ行くのか、たまにわからなくなる。それにしたって、人間というものはどこかに身をおかなくてはならない生きものである。いちいち、「なぜ私はここにあるのか」を問うていては、始まらない。

ぼくの実家は山中にあるのだが、夏に海水浴にいくたびに、こう思ったものだった。

「海というものは、なんてすばらしいのだろうか。水面の色は見ていて飽きず、白砂はやさしく足を包み、海中は不思議で楽しい生きものに満ちている。海の近くに住む人びとは、どれだけ幸福なのだろうか」

それ以来完全に海に取り憑かれてしまい、バイクで出かけるとすれば、必ず海へ向かった。そうして、だれもいないような岸辺で、海面と向かい合い、一時間でもぼおっとしていた。ときには、ひとりで海水浴して、波と戦った。

いったい、美しい海ひとつと、東京の都市が与える魅力、どちらが優れているのか。……ということを考え、ぼくは海を選んだ。


金ということについても、これから収入を得るということが、不思議でしかたない。今日、最後の家賃を振り込むために銀行へ行ったが、通帳の残高は15万円と出ていた。これは、ぼくにとって、非常な大金である。ぼくのこれまでの生活費は、だいたい一ヶ月に8万円程度だった。家賃を除けば、5万円である。このなかからやりくりしていたのだ。

今は、金を自由に使えるのだ、と思って少し贅沢をしている。それは、皿を洗うのにお湯を使ったり、カレーからカツカレーにグレードアップするような、ささいなことばかりだ。

しかし、実際のところ、冷たい水でも皿は洗えるし、カツカレーは少し胃もたれする。友人が口に運ぶのを見てあれほど憧れたカツも、思ったより薄く、油っこいだけで、さほどうまくない。生活レベルがあがったところで、あまりよいことはない。カレーがカツカレーになったところで人間は飢えず、しまむらのパンツからアルマーニのパンツに変わったところで、そこそこ快適なことには変わりない。100が101になった程度だ。

ぼくは早くから金に失望しているから、これからいくら稼げようが、あまり関係ない気がする。自分という人間は、金によって変わるのだろうか。貯金が1000万円もいったら、それを誇るようになるだろうか。なるのかもしれない。だが、1000万円で何をするのだ。何もしないのだろう。

人生に意味を見つけることが、難しい。結局、生の目的は、子どもだとか、家族とかに落ち着くのだろうか。芸術というものに一生を捧げてしまいたいという気はする。ただ、最近は文学や芸術にも、ある種の失望がある。

死というものが恐ろしくある一方で、死という終着点があるからこそ、いまを堪えしのげるという気がしている。

zack ノンズ zack

いまは大学生活と会社生活の幕間の、短い休みなわけだけれども、こうして特にすることもない日々を過ごしていると、少しずつ自己が解体されていくような気分になる。

一日の仕事といえば、クリーニングにワイシャツをだしに行くだけとか、少しモノを片付けて終わり、というように、一日だれとも会話しないこともよくあるくらいに、ぼくの生活はある意味で貧しくなっている。

いちおう細々としたスケジュールはあるので、突発的にどこかへ行ったり、ということもできない。バイクで出かけるにも、どうも天気が悪くて、開放的な気分にはなれなさそうだ。

こうして何をするでもなく、日々が過ぎていく感覚は、大学の一年のときとか、春休み夏休みのときに感じたことだ。あのときも空漠とした時間を浪費していたのだ。味のない巨大なパンを食わされているような日常である。

いまと昔では、少し違うように思う。あのときは、言いようのない恐怖にかられて、友人の家に泊まりにいったり、女の子をデートに誘ったり、何かしらの行動を起こしていた。
休みを有効に利用できない自分は無能であり、異端であり、必要とされない人間なのだ、という恐怖があった。

ところが、今では、はなから自分は異端であると感じるし、無能で、だれにも必要とされていないことを知っているし、それに悪びれることもないことを知っているので、その点は解消されているのである。そもそも、長期の休暇というのは、だれもが羨み、同時に怖れるものだということは、定年退職後のおじさんを見ればわかる。

それでもどうも自分がうまく機能していない、こんなようではいけない、という感覚がある。

人間には一日八時間の労働が五日分必要なのかもしれない。ひとは本当に自由になった瞬間に、壊れてしまうものなのかもしれない。とりあえず飯を食べる必要があるということ、服を着る必要があるということ、そのために働かねばならないという必要は、人間にはある種の救いなのかもしれない。

過去を振りかえれば、稲作が始まって以来、ほとんどの人間にとって世の中はブラック社会になったのだが、それまでの狩猟民族たちは、一日三時間はたらけば、あとはもうはたらく必要はなかった。一日三時間、狩りをして、食うことはできるし、女連中は服をつくったり、木の実を拾ってきたりしてくれるので、もう本当にすることはないのだ。

彼らは退屈で死ぬことはなかったのだろうか。今のように、映画もないし、本もない。でも、実際のところ、彼らは楽しく生きていたのではないかと思う。子どもと相撲をとったり、談笑したり、ぼくのように陰気な人間は土いじりをしたり、粘土細工を作って自己満足していたのだろう。「働かずにいる」ことに罪悪感もなにもない。働く必要などどこにもないのだから。

日本の狩猟民族たちは女性を大切にしたという。女性の装飾品がたくさん出土されていて、男性は女性たちに装飾品を作り、プレゼントしたのではないか、と言われている。単純なユートピアに浸るわけではいけないが、女性を大切にする文化というのは、すばらしいものである。フロムが「愛とは何よりもまず与えることだ」と言ったことを思い出す。まあ、たぶん暇だっただけだろうが。

こういうどうでもいいことを書いてもしかたない。

最近、ノンズnonesという人種がアメリカで流行っているらしい。ノンズとは既存の宗教ではない宗教にはまる連中だ。信仰心はあるのだが、キリスト教を信仰するわけではなく、他のカルトに入信するわけでもなく、ただ自己とか、少しのオカルトを信仰するような連中である。

このノンズが、まったく自分そのものなので驚いた。ぼくも神道や仏教にはそこまで魅力を持っていない。大衆向けの宗教は、真理に到達できないという考えを、つねづねここで吐き出してきた。だから、このブログのタイトルにあるようにただ自己と語らって真理に到達しようと目論んでいるのである。

こうした考えは、きわめてぼく個人的なものだと思っていたが、遠くアメリカの地で同様の潮流があると聞いて、ユングの集合的無意識ではないが、人間とは、分かちがたいものなのだという実感を新たにした。

「宗教ではない宗教」が今後流行するのだろう。宗教ではない宗教とは、このノンズたちの信仰する原初的な、自己回帰的な宗教であって、出来合の神とか、聖書を信仰するタイプのものではなく、オリジナルの、セルフメードのものなのだろう。

この流れが良いことなのか、悪いことなのかはわからないが、既存の社会通念が疑われ、権力構造が覆されるような流れはあると思う。二十一世紀は人間価値観のリモデリングが始まるのだ。

というような遠大なことを考えていると退屈な日常も少し慰められるのである。今日もとりあえず、学校へ行って読書しよう。

3.06.2015

ムードについて

デスクと椅子を解体し粗大ゴミに出してしまったら、あまり書く気のなくなるものだ。

人間を支配しているのは論理や公理よりもはるかに「ムード」なのであって、このことは、ファッションの研究家とか、人気漫画を描いている人にはよくわかるものだと思う。

例えばぼくらは「氷」とか「炎」というような言葉を聞いたときに、脳裏には、たしかに氷そのものが表象としてでるけれども、その氷をつかんですっぽりと抜いてしまった後にも、「『氷そのもの』以外の氷」という部分があるはずである。

その非表象的な氷の部分が、ムードに近しいものである。例えば「冷たい」「溶ける」「水」といったことのみならず「氷室京介」だの「青」「減圧」「北海道」だの連想ゲーム的に飛んでいくはずである。

ムードという領域は、聴覚でいえば超音波や低周波に近く、視覚においては紫外線や赤外線に近い。人間には知覚が難しいとされながら、それでも人体に影響を与えているようなものだ。

弾性のある一面にボールをぶつけると、それは放射状に波打ってゆき、次第に消えるものだが、このように、あるひとつの言葉は、人間全体に波及し、効果を与える。

「言葉は霊である」というようなことは、極度に鋭敏な人間にとっては事実だろう。絵画などの芸術作品においても、ムードの支配する霊的な分野と公理的な、アカデミックな領域があるのであって、たいてい良い作品というのは、ムード=非論理によって描かれている。

そもそも、宗教の象徴的なものは、言葉によって紡がれてきた。ひとつに聖書があるし、もうひとつに、コーランがある。本来は口伝のギーターも現代ではよく読まれている。原初、言葉とは神的、霊的なものであった。というか、論理と非論理が未分化というべきか。

科学や哲学は万能のように扱われるが実際にはそうではない。たぶんに「ムード」を扱う必要のある心理学は、まだフロイト派やユング派が現存しているように、ほとんど宗教的な逸脱や決めつけが飛び交っている。ソシュールを始めとする言語学についても、これはずいぶん怪しい学問なので、ソーカルが爆弾を仕込んで学会に郵送し、これを内部から破壊した。

でもまあぼくがそれでも心理学や言語学を好むのは、科学の持つ限界性を認識しながら、その限界領域を飛び越えようという気概である。学問として異端であってもいいじゃない。真理に近づくには学問から逸脱せねばならない。

と長くなったがとにかくデスクと椅子がないのでやる気がでないのである。おまけに花粉がひどいのだ……。

3.04.2015

Furniture furniture

ということばかり考えていても始まらない。新居へ引っ越すためあれもこれも捨てていかねばならない。

捨てると気分がいい。現在のアパートには七年間住んだ。壁は穴だらけだ。窓もがたついている。

音に敏感であったぼくは、もともと田舎の一軒家に住んでいたから、とてもアパートの環境には耐えられなかった。寝静まろうというときに隣室から騒音あれば、壁ドンをしたし、朝から老人がDIYを始めて起こされたら、警察を呼んだ。

ぼくにはおよそ集団生活が向いていない。他人の行動のいちいちが、癪に障るのである。他者という存在は、基本的にはマイナスでしかない。ぼくはツイッターの類も、フェイスブックもやらない。少しラインはやるけれども、ほとんど参加しない。電話は受けとらない。メールも必要最低限だ。

他者に対する失望というか、そういうものがある。そうだから、燐家との距離が30mくらいはある田舎の一軒家に引っ越す予定である。楽しみでしかたない。

部屋を片付けていると、ほんとうにガラクタだらけだということがわかる。「なぜこんなものを買ったのだ?」というようなものがある。一時の熱に浮かされ、金を浪費する。消費社会とはそういうものなのだろう。

ここ数年間は、洋服もほとんど買わないし、学食を除けば、外食をしなくなった。驚かれるだろうが、テレビもいまだアナログである(なぜか映る)。そうして、月のクレジットカードの使用のほとんどが書籍代になった。あらゆる世俗的な楽しみは棄却されたということだ。

それにしても我慢ならないのは、デスクが安っぽいということである。このデスクは、ぼくの生活運用の最大の失敗だった。安っぽい合板に、塩化ビニルのような木目模様のシートが貼られている惨めなこのデスクとは、7年間も付き合ったが、くだらない洋服や享楽的なガラクタを買うよりは、十万円くらいはたいても、良いデスクを買うべきだった。

結局、新居にいったら、良いデスクを買う予定だ。そうであるなら、始めから買っておくべきなのだ。良い家具は、長持ちするし、長く使えば、それだけ愛着が沸く。ヨーロッパ趣味ではないが、家具は財産のように考えるべきだ。

そういえば、昔の日本でも家具は一家の財産だったという。ぼくの祖母も、いかめしい和箪笥や、ちゃぶ台を大事にとっていて、「これが嫁入り道具だった」と以前言っていた。

いまは楽天だのイケアだのニトリだので、家具は買うものになってきている。安い、中国製の、ガタガタした、得たいの知れない、大量生産の、資本主義社会の、家具が、大量に売られている。

まあ世の中の大部分のひとはそういうところで家具を選ぶようにできている。(こういう現象を見るにつけ、ぼくはいったいひとびとが豊かになったのか、貧しくなったのかわからなくなる)

家具は、生活の一部を構成するものであって、良い車を買ったり、良いPCを買う一方で、チープな家具を買うようでは、実は本質が見えていないのである。たしかに、車やPCはスペックで良さがわかるが、家具は明確なスペックがない。審美眼を要求する領域である。だからこそ、注意深く家具を選ばねばならない。

実は、こういった毎日触れるものこそ、人間を軌道転換させるものだ、という風に思われてならない。絵画を一枚飾るものにしても、その絵画のあたえる日常への「効果」を考えねばならない。よく「呪いの絵画」「不幸の絵画」なんてものがあるが、呪いなんてあるわけがないのであって、それは絵画が人生に与える「効果」を考慮しない結果である。

とにかく、家具は毎日触れ、毎日見るものだ。良い家具は良い人生を育む。

いっそのこと、自分で家具を作ってしまうのも手だろう。そうすれば、自分好みのものを作ることができるし、それが失敗したとしても、良い職人の作った家具がどのようなものかがわかる。

自作デスクの例。変なライト……。

ソローは「森の生活」のなかで、家具どころか家までも自分の手で作ってしまったのだが、そのような生活がうらやましくて仕方ない。デザイナー家具とか、大職人の逸品でもそれはそれでよいのだが、結局人間はそれぞれ違うのだし、その個人にぴったりあった家具というのは、高い金を払ってオーダーメイドするか、自分で作ってしまうしかない。

たとえば椅子をオレンジ色にしたいと思っていても、既成品のオレンジがどうも気に食わない、ということがある。もっと渋めのオレンジが良いのだが……。と、ここで妥協してはいけない。いつのまにか生活が貧しくなる。こういうわずかな不協和音の持続が、精神にダメージを及ぼすものだ。

自分で家具を作るというのがひとつの理想だろう。ただ、現実には、そのような時間も、場所もない、というのが日本社会である。東京で家具を作ることは難しいだろう。住宅街でトンカチをカンカンとやれば、ぼくのような人間が、警察を呼ぶのだから。

人間は、もっと散らばってしまわなければならない。東京は異常空間である。ぼくはいつか、東京が自分の重力に堪えかねて瓦解してしまわないか怖れている。

話が散漫になってしまった。

くだらないことばかり書いているな。とにかく……引っ越しの準備を続けよう。

3.03.2015

生に倦む

人間は、勝手に生まれて、なにもわからずに、ただ死に向かって進まねばならない点ではすべて平等なのだろう。

それはソクラテスもそうだし、凡夫でも同じだ。たしかに、ニーチェやソクラテスはある程度がんばった。だから努力賞的に、後生に名が残っているけれども、根本的な問題にたいしては何もわからないという点では平等である。

ぼくは田舎に行こうとしている。田舎で、そこそこ稼いで、そこそこいい家に住んで、いい車に乗って、いいバイクを買うだろう。だが、それがなんだというのか。

ぼくはあたたかな堡塁を築いて、そこに安住しようとしている。そうして、ルーチン的な労働のあいだに、わずかに読書をすることで、生に慰みを与える。そのような生活をしようとしている。

ともあれ、人間は働かなければならないし、大学人という人種であっても、くだらない事務作業に追われることは変わりない。文筆業や芸術家の人間だって、食う仕事と、ほんとうの仕事は別に考えているはずである。

「自由ということ」と、「食うこと」の間の矛盾を解決することが難しい。

ぼくという人間は、ふたつに別れてしまえば、ずいぶん楽なのだ。片方は暖かな家庭をもって、出世して、金を稼いでもらいたい。もう片方は、ボロボロの衣類をまとって、世界を放浪してもらいたい。そうすれば、両者とも満足できる。

二重人格というものが90年代くらいにブームになったが、学術的には否定的に扱われるらしい。しょせん二重人格なんて、願望の産物ということだろう。人間とは矛盾的存在だから、理想状態とはほど遠い。しかし理想を求めていくと、精神を分裂させなければならなくなる。

人格が二つになった状態は、たしかにひとつの理想である。男であっても、女でありたいと思うことがあるし、まじめな仕事をする一方で、変態趣味を発露させたいと思う。


人間は、理性的な社会を構築し、明晰な論理とルールでもって発展してきたけれども、このルールが、人間を破壊してゆくということもありうるものだ。

ぼくらは本当に目が覚めているのだろうか。生まれたときから当然のようにあるルール、論理、これらは本当だろうか。教育=洗脳はすでに完成されていて、ぼくらはその範囲内でしかものを考えることができないのではないか。

真理とは、積み上げるものではなく、取り除き、解体していく先にあるはずだ。真理とは、シンプルで、ほのかにあたたかいものに違いない。人間は、自分を壁にぶつけて、殻を破っていかなければならない。血と、痛みが、人生の本質ということだろう。

人間は、生まれてから、死ぬまでを生きねばならない。これは悲しいことだ。結局のところ、人間の思考は、真理に達しえない。なぜなら、死という根本命題を解決しないことには、真理に到達できないのだし、いまだ死という謎を乗りこえた知者はひとりとしていない。

人間はちっぽけな葦だ、たしかにわずかに考えるけれども、なにもかも足りていない。

そういうわけで、今後の生きる道を考えているが、すべて間違っているように考えてしまって、ずいぶん辛い思いをしている。

やがて老齢と経験とが
手をたずさえて
彼を死へと導いてゆく
そのとき彼は覚らされるのだ
あのように長い
あのように苦しかった精神であったのに
自分の生涯は
みんな間違っていたのだ、と
(ゲーテ)


3.02.2015

Anti Triangle

しばらく読書やブログ更新を休んでいた。

離れていると見えてくるものも多い。こうしてくだらない書き物だけをしていてはらちがあかない、という自明な事実をあらためて発見する。他者との交わりをどのようにしていくか、社会にどのように交渉していくか、というところに帰結しなければならない、と考える。

また、本を読むことにしても、それはどこまで血や肉になっているのか、ということを考えねばならない。ルソーを読んだ、パスカルを読んだ、それは重要なことだけれども、読んだ知識は、どこかへ吐き出さなければならない。

人間は知ったまま、じっとしていることができない生きものだ。なにか秘密を隠していても、目や、仕草が、それとなく示唆する。この記事のように、たった数KBの書き物にしても、事実は伝わる。文は人なり。

そうでなくても、秘密の吐露、というのは人間的な愉しみだと思う。なにかを明るみに出すこと、ひとに聞いてもらうことは快楽であるし、必要なことだ。

ぼくは社会から逃れることはできないが、社会からは離れていたいと思う。現実のぼくは、学校のつぎには、企業に飲み込まれるわけだ。それでも、ぼくはできるだけ小さな企業を選んだ。田舎の、のんびりとした個人経営的な企業だ。

巨大な組織は、構造がわかりにくい。各々の構成員が主体的に活動しているように見えて、実はそうでないこともある。細切れになった仕事を、全員が、なんとなくこなしているし、仕事が終われば飲み会にいったり、部下の人生相談を受けたりする。

しかし、それはしているのか、されているのか。あるひとつの小さな行動の傾向、小さな発言の末端、それらの上にはたらく権力だとか、上位の意志は見えていない。

巨大な三角形構造はヤクルトレディにも朝日新聞の配達員にも見てとれる。だが、いったん飲み込まれてしまえば、それらはもう見えなくなる。明日の仕事と、明日のパンしか、見えなくなる。それではいけない。大組織に飲み込まれてはいけない。当然ながら、国家という組織にも飲み込まれない。

中小企業であれば、ずっとそのはたらきは見えやすくなる。たとえそれに対処することができなくとも、見えるということが大切なのだ。人間は、見えない罠に対してはやすやすと引っかかってしまう。ちっぽけなエサと粗末な住居のなかに安住してしまう。自由意志を譲り渡さないこと、自分を道具にしてしまわないことだ。


自由であるということは、高みにあることだ。高みの空気は清涼であり、わずかな草花しか育たない。日はまっすぐにあたり、星は輝き、風は吹き荒れる。