4.30.2015

コンピューター神経症

朝、強烈な不快感で目覚める。胃の調子悪く、嘔吐感あり、全身のだるさ、筋肉の痛み、頭痛、鼻づまりあり、神経の方は著しく過敏で、近所の家の犬の無駄吠えに殺意沸く。

しかし今日も仕事だ。

工業製品としてのぼくはこのような自分を抑えねばならない、予測可能な人間、日々のルーチンを着実にこなす、よきコンピューターでなければならない。よきコンピューター、記憶容量が大きく、情報処理能力が高く、エラーを吐かない。すなわち日本の受験エリートたちはコンピューターである。それは永遠に「使われる」ための道具でしかない。

しかしそれはぼくのような田舎のルーザーでも変わらない。なぜならぼくはエリートコンピューターに奉仕するポンコツコンピューターだからだ。

まあとにかく人間がいくらCPUを目指したところでそれには到達できない。だから世界は神経症化する。CPUの視点では、世界は道具化する。金を稼ぎ、最大限ゆたかに生活する場となる。そのための「価格com」である。つまりコストパフォーマンスが世界の原理となる。出る金と入る金、これが道具的人間の世界のすべてである。金銭は数値化される。CPUの性能も「GDP」「株価」「偏差値」という数字に表される。それは数字的世界である。数字的世界とは、ピュタゴラスの世界である。

ところが、人間の内なる声はつねに悲鳴をあげつづける。精神は抑圧され、破壊される。当然、人間の精神はコンピューターになりえない。そこに「否」の精神が発露する。ときにその感情は燃え上がり、ついに人間を殺す。それがための中央線飛び込みである。戦争だろうと、自殺だろうと、人は死に続ける。とうぜん、彼らは自ら死を選ぶわけではない。死に追い込まれるのである。

死という誘惑に警戒せよ!

ところで、警戒とは、索敵し、発見し、直視することだ。小さな誘惑を、見つけてあげること。見つけて、保護してあげることだ。「知」とはまなざしなれば。母親のもつ注意深さで自己を観察すること。

知ること、人間の精神を取り戻すこと、工業製品的社会に、まずもって否を突きつけること、巨大な理想から離れて、自由を知ること。

「知」とは、静かに深呼吸すること。体を楽にすること。浮遊すること。流れること。



よくわからないポエムを吐いて学校へ行く。あ、学校じゃない、会社なのだ・・・。

4.29.2015

ソクラテス・プラクシス

たとえばある人間が国家だとか教育とか世間の慣習に支配されていようと、それは自由の喪失とはならない。
左翼は、自己決定を顕揚する議論に対して、しばしばこんな批判をしてきた。自己決定は幻想である、自己決定だとみなされていることは、本当は、社会構造によって、権力によって、要するに超越的な他者によって規定されているのであって、真の自己決定でない云々。こうした批判は、自己決定論にとって何の打撃でもない。自己決定は、本来、まさにそういうものだからである。 
自己決定は、自己決定ではない限りにおいて――超越的な他者に準拠している限りにおいて――自己決定たりえていたのだ。自己決定にとって本当の脅威は、自己決定が実は他者(による)決定だということではない。逆である。自己決定が本当に純粋な自己決定になっているということにこそ、自己決定にとっての真の脅威があるのだ。自己決定は、自己決定として純粋化されたとき、ついに自己自身を解消してしまうのである。(「自由という牢獄」大澤 真幸:強調著者)

「超越的な他者」というキーワードは、「神」とか「世間」のような、恒常的に存在するが、つねに第三者的であるような視点をさす。こうした他者があるなかで人は行動してきた。

「自由」が至上命題となった現代社会で、なぜわれわれは息苦しく生きているのか。そういった逆説的な現象の説明として、大澤はこの「超越的他者」の喪失をひとつの理由にあげている。

現代に生きるぼくらの生活は確かに自由である。たとえばぼくが日本に嫌気がさしたら外国で生活をしたい、と思うことは自由の端的な表れである。かつては海外移住、どころか海外旅行さえ一部の特権階級しかできなかった。農民であれば一生を村の中で過ごして、それ以外の生活なんて考えられなかった。ところがいまのぼくは、アジアやヨーロッパの数々の国を比較し、ここは生活費が安い、ここは景観がいい、とスマホでも選ぶ感覚で吟味することができる。

ぼくらには国家も神もなくなった。世間もなくなった(ついでに言えば「見えざる手」もピケティによって死んだ)。それは自由を追求する社会によって、代替可能なものに、なければないでかまわないものになった。ところがこの快適な社会が、まさに自由の行き着く先の社会が、「自由という牢獄」を生み出すのだと大澤は指摘する。

ぼくらがある行動をするとき、それはあるイデオロギーのせいかもしれない。たとえば市町村の同調圧力が、市民を「日曜日のどぶさらい」に駆り立てるのかもしれない。しかしそれをして彼の自由意志が侵害されることにはならない。

純粋に彼の行動が彼自身に帰属されるとき、そこには責任がなく、したがって自由が喪失される。つまり「自由によって責任が生ずる」という論理の逆転を大澤は示している……のか?

責任とはまずもって他者の存在を必要とするものであり、自由とは個に内在するものではなく他者との関係のなかで生じる。大澤はこの他者の存在を「超越的他者」としているのである。

他者から責任が生まれ、責任から自由が生まれる。

重要なことは、自らの存在を選択し、引き受ける主体となるためには、どうしても他者による承認を媒介にしなくてはならない、ということである。自分自身にとっては、自らがこのようなものとしてこの世界にあるということは絶対の必然であって、それを選択の対象とすること(偶有的なものとして扱うこと)はできないからである。他者のみが、それを「承認」という形式で、選択の対象であるかのように遇することができるのだ。

極端なまとめかたをすれば、他者との関係のなかに自己があるということだろう。責任を担いうる=主体的な自己とは、他者との関係を切り離した先にあるのではない。逆に他者との関係の中にある(……ここで、他者とは神でも国家のような、原理的に第三者であるところの他者)。

すなわち「自己とは、自己と環境である」。



他者のいない世界は存在しない。つまり世界=他者である。

自由は個にすべてを還元した。個人は切り離された原子になった(アトミズム)。しかし切り離された原子は、その表象の示すとおり、世界=他者から遠くなる。世界の希薄化は、生の空虚さを生む。ここに生の貧困、ソクラテスの提示した「善き生」からの脱落が生まれる。

というわけで、ここにひとつの公理ができる。「世界=他者=責任=自由」である(?)。まあJ.S.ミル的な「自由論」も、サルトルの「アンガージュマン」も、還元すれば、この「世界=他者=責任=自由」を追求しろってことなんじゃねーの?

だからオルテガが言ったように、ひとは確かに孤独に引きこもりがちで、観想の世界に引きこもりがちだけど、重要なことは、「そこから戻ってこなければならない」ということだ。つまり、そこから他者との関係を回復しなければならない。
それゆえ人間の歴史を通じて、そのたびごとにより複雑に、そしてより豊かな形をとって周期的に繰り返される三つのそれぞれ異なった契機があることになる。1 人間は物の中で難破し、自己を失ったと感じる。これが自己疎外である。2 人間はエネルギッシュな努力を傾けて、自己の内面に引きこもり、こうして物について考え、それをできるだけ支配しようとする。これが自己沈潜であり、ローマ人たちのいう観想的生活vita contemplativaであり、ギリシア人たちのいう思索的生theoretikosbios、すなわち思索theoria である。3 人間は予定計画に従って世界に働きかけるため、ふたたび世界に没入する。これが行動であり、行動的生活であり、プラクシスplaxisである。
したがって行動はそれに先立つところの観想によって律せられていないならば不可能であり、またその反対に、自己沈潜は未来の行動を立案する以外のなにものでもないのである。(「個人と社会」オルテガ・イ・ガセット)
行動とは、他者との関係を回復すること以外の何ものでもない。

このプラクシス、行動的生活が、アトミズム的な現代社会からは欠如しているのではないの?他者との関係を回復すること。他者、すなわち自由の世界に沈潜すること。

話は飛ぶが、現代純文学の問題点は、自己沈潜して、そこから帰ってこないことだろう。

たしかに現代的な大衆は、まずもってテオリアの領域まで行き着いていないけど、オルテガの言う「観想的生活」に到達したとしても、そこで満足しちゃダメだ。たしかにそれは相対的に見れば優れた領域だけど、そこから、プラクシスへ行かなければならない。

プラクシスはたしかに痛みの伴うものだが、臆病な人間でも、テオリアから抜け出さなくてはならない。それは原子論だのなんだのの論議に参与せず、ただ「知の実践」を追求したソクラテスのように。

4.28.2015

存在と現象

最近は肉体が流動化してきたのか、仕事も無意識的に行えるようになってきた。

朝に少しの絶望を感じたつぎには、すでに夕方になっている。仕事に対する感情は、消えていく。喜びもつらさもない。やりがいなんてものは、当然ない。一笑に付すべきものだ。職場のひとたちとの人間関係も、深みはなく、希望も失望もなく、平坦なものだ。

以前は、一時間が経つたびに、「時給にしていくらだ」、ということを考えていた。対価を意識していた。その感覚も消えて、仕事が日常に空気のように浸潤して、もはや対価のことは考えなくなった。職場の人間たちも、背景である前に、それぞれが人間だった。その過去を、未来を、想像してみたりした。それでも、いまは、この職場のひとびとは、この市のひとびとは、背景となった。

それは見ようと思えば見えるもの、しかし、さりとて興味のわかないもの。

欲しいものが、もうない。金は必要ではない。生身の人間も、必要ではない。ぼくに必要なのは、かえって「なくす」こと、つまり、貧困と、自由と、孤独である。この3つは、それぞれ独立するわけではない。貧困は自由であり、自由は孤独である。それは同質で溶け混じったひとつの現象だ。

世界は現象である、と思うのは、ゾロアスターについて書いた翌日に高野山へ向かったことだ。大して歴史にも興味のないぼくが、貴重な休日を何時間ものドライブに費やして、なぜ高野山へ向かったのだ?

帰り道、ずっと首をかしげていた。なぜぼくは高野山へ行ったのか。なぜいまこの山道を運転しているのか。ぼくの深層心理が、ゾロアスターと高野山を結びつけていたのか。それとも、高野山に「呼ばれた」のか。

科学的説明は前者であり、宗教的な説明は後者である。しかし、科学と宗教という区分は不適だ。どちらも群盲象を評す、でしかない。

第一の事実は、ぼくが高野山へ行ったということだ。この理由を解明することは実際的には不可能だ。

宗教も、科学も、人間に利益を与える。人生をゆたかにするための知恵だ。科学は、たしかにドラム式洗濯機をぼくに与えた。宗教も、ぼくにある温かみや勇気を与える。宗教的な考えも、科学的な考えも、人間の生活をある程度ゆたかにする。

しかし、すべてを教えてくれるわけではない。そういったものではない。あくまで、「実利的なもの」だし、知恵としては不完全だ。知はすでに内在するものだ。おそらく賢者といった類の人に、宗教はなく、科学もないだろう。世界は現象である。

それはペソアの言ったことと同じように、「完璧であるためには、存在するだけでいい」。

オルテガの言うように、「それゆえ人間の運命は、まずもって行動である。われわれは考えるために生きるのではなく、かえってその反対に、存在し続けるために考えるのである」

疲れてきた。まじめな話はもういいや。

君はあのとき俗世界に飛び出すかわりに、思索家になったとしたら、不幸を引き起こしたかもしれない。つまり君は神秘家になっただろう。神秘家は、手短に、いくらか大ざっぱに言えば、心象から離れることのできないような思索家であって、言い換えれば、全然思索家ではない。神秘家は、おもてに現れぬ芸術家、すなわち、詩句を用いぬ詩人、絵筆を持たぬ画家、音を発せぬ音楽家だ。彼らの中には、このうえない天分を恵まれた高貴な精神があるが、彼らはみな例外なく、不幸な人間だ。君もそのひとりになったかもしれない。そうならずに、ありがたいことに、君は芸術家になり、形象の世界をものにした。(「知と愛」 ヘルマン・ヘッセ)

「詩句を用いぬ詩人、絵筆を持たぬ画家、音を発せぬ音楽家」とは、なんという悲痛な生だろうか。芸術という行動がある人は幸いなり。

ぼくにも芸術が欲しい。ぼくがしていることといえば、こうして文章を起こすことか、たまに楽器をもてあそぶくらいのことしかない。それ以外は、灰色の人生であって、まったく救いがない。

腹が痛い。腹の痛みは精神にも影響がある。当然だ。いまこうして考えていることと、ぼくの肉体は、同じ現象だ。歯痛にさいなまれた人間が書く小説は、まさしく歯痛的だろう。

芸術家を知ろうというとき、そのひとの人生を考えたがる。ニーチェは梅毒だった、女に振られた、そういうことが、人間の思想を説明することになる。やっかいなスケベ根性だ!でも、それは正しいのだ。きっと。

こういうことを書いているときに、ぼくは、精神のすべてをさらけだしている気分になる、注意深い人物であれば、ぼくの人と成りを探り当ててしまうだろう。新宿の混雑の中にあっても、ぼくを見つけだすだろう。

今ははっきりと、不調だ。いったい「パワースポット」とは、パワーが得られるところなのか、それとも反対にパワーを奪われるところなのか?

4.27.2015

ゾロアスター教と高野山

体調悪い。風邪と吐き気。

昨日は高野山へ行ってきた。なんの因果かわからない。ただ、山をちょっと運転してみたかっただけだ。

車で数時間、軽自動車には厳しい坂を上ったところに高野山はある。高野山は密教の総本山ということになるらしい。弘法大師空海の修行の場。

が、宗教に興味あるといっても、ほとんど知識はないがために、寺を散策して、デザインや但し書きを眺めるだけにとどまる。ひとびとは、境内に入ってひざまずいたり、お経を唱えて礼をする、賽銭箱に金を入れるなど、さまざまだった。

寺の数々はたしかにすごいものだった。その中へ入っても、仏像とか、宗教画のような、文化遺産が非常に多い。

それにしても、何本もの腕で剣や宝玉を持ち、舞踏するような躍動感で、おそろしい顔でにらんでくる神像があり、一般的な仏教のイメージとは違うと感じた。

仏像といえば、慈愛の微笑みをもっているものというイメージがある。あの中性的なほほえみは、男であり女であり、母であり子どもでもあり、人間をどこか超越したものがある。しかし、破壊神的な神もあるはずであり、というかよく考えれば大黒天ってシヴァ神だ。
大黒天ー日本には密教の伝来とともに伝わり、天部と言われる仏教の守護神達の一人で、軍神・戦闘神、富貴爵禄の神とされたが、特に中国においてマハーカーラの3つの性格のうち、財福を強調して祀られたものが、日本に伝えられた。密教を通じて伝来したことから初期には主に真言宗や天台宗で信仰された。
密教とシヴァ神はセットで日本に持ちこまれた。

日曜日の高野山はお祭り騒ぎのようで、混雑するバス、わいわい、がやがやのおばちゃんなど、およそ宗教的な聖地とは思えない騒々しさだった。それを警備する現地の人々は、どこか下界のひとびとを見下しているようにも感じた。

聖地といえばインドのバラナシに行ったことがあるが、あそこはもっと静かだったように思う。日本人は、とにかくお祭り騒ぎが大好きだ。これも宗教的事情なのかもしれない。

高野山を散策して気がついたのは、天皇との関係が深いことである。いたるところに「天皇陛下」の立て札がある。それ以外でも、皇室と関係するような記述が多々。なるほど、高野山の念的なエネルギーは天皇に持っていかれるのか、と妙に納得した。

というか、そもそも嵯峨天皇が高野山を空海に与えたのか・・・。無知って怖い。

境内にいるときに、ぼんやり考えながら歩いていたのだけど、あるときはっとしたことに気づいて、少し怖くなるくらい驚いた。密教ってゾロアスターと関係あるんじゃないのか?と。ゾロアスターも密儀宗教だし。

高野山に行く前日に、ゾロアスターについて書いていた。ギリシャ哲学とキリスト教の根底にあるゾロアスター。おそらくゾロアスターのなぞを解明することが、西洋思想を理解するうえで極めて重要になるはずだった。

ところが、西洋思想だけではなく東洋思想においてもゾロアスターは関係するのかもしれない。仏陀が生まれる百数十年前にゾロアスターは生きていた。

大いにあります。ゾロアスター教は別名「拝火教」とも呼ばれ、儀式の際に火を焚くことを大きな特徴としていますが、日本でもお盆の「火送り」(迎え火や送り火を焚く風習)や、密教の「護摩焚き」など、火を使う儀式が数多くあり、これらの多くはゾロアスター教に何らかの影響を受けている可能性が極めて高いと考えられます。・・・
私も田舎でお盆に火送りをするのを見たことがありますが、儀式の内容からすると、明らかに仏教よりもゾロアスター教の影響を受けている・・・と考えた方が妥当だと思います。・・・また、仏教の教派の中に「密教」というものがありますが、これもゾロアスター教の影響をかなり受けています。ゾロアスター教そのものというよりも、ゾロアスター教と仏教両方の影響を受けて成立した「マニ教」と「ミトラ教」という宗教がありますが、これが東洋人には仏教と区別がつかずにそのまま仏教の一教派として受け入れられてしまった・・・と考えられます。事実、「密教」という言葉は「ミトラ教」そのものを表しているという有力な説もありますし、密教の寺院に行くと、はっきりとマニ教の開祖である「マニ」(摩尼?というような表記)の名が記載されて祭られています。

 知恵袋のアンサーだが。ミトラ教=密教?眉唾だな。

ゾロアスター教と日本宗教の関係を調べようとすると、必ずオカルト的なサイトに飛んでしまう。そういう人は、「宇宙人」とか「爬虫類人」とか、平気で言われてもとまどうしかない。

きちんとした文献にあたることだろう。


いまとなっては、ゾロアスター教の信者が減少傾向にあり、存続が危ぶまれているという。それは入信の条件が極めて厳しいからでもあるのだが(血縁が必要)、このことが疑問だった。宗教って普通、信者を増やそうとするものでしょう。だからエホバや層化のようなエセ宗教は総力をあげて勧誘活動をする。

実際、ゾロアスター教はキリスト教に敗北した。エルンスト・ルナンいわく、「もしキリスト教の成長がいくつかの致命的な病によって遅らせられていたなら、世界はミトラス教化されていただろう」。ポテンシャルはあったということか。

そういえば、織田信長が高野山を焼き討ちしたこともあった。この虐殺はキリスト教伝道師にそそのかされて、ということだったそうだが、日本におけるゾロアスター教とキリスト教の戦いともいえるかもしれない。

しかし、敗北したゾロアスター教はといえば、特別焦っているようにも思えない。妙に泰然としている。

この理由は、もしかしたら、仏教とキリスト教に、ゾロアスター教が組み込まれているからかもしれない。たしか、イスラム教とも関係は深かったはずだ。

キリスト教や仏教を信奉しているつもりが、いつのまにかゾロアスター教を信奉していることになる。そうであるなら、ゾロアスター教は永遠に不滅といえるのかもしれない。

皇室とゾロアスター教の関係はどうなるんだろう。同じ太陽神だし。皇室ってほんと、オカルトな世界だなあ・・・。

そういえば、「日本人はクリスチャンでもないのにクリスマスを祝う」と、節操のなさを馬鹿にされることが多いけど、そもそも12月25日の祭式は本来、キリストの聖誕祭ではなく、太陽神を祝うものだという。
ローマ帝国時代、12月25日(冬至)にはナタリス・インウィクティと呼ばれる祭典があった。この祭典は、ソル・インウィクトゥス(不敗の太陽神)の誕生を祭るものである。このソル・インウィクトゥスとミトラスの関係をミトラス教徒がどう考えていたかは、当時の碑文から明白である。碑文には「ソル・インウィクトゥス・ミトラス」と記されており、ミトラス教徒にとってはミトラスがソル・インウィクトゥスであった。ミトラス教徒は太陽神ミトラスが冬至に「再び生まれる」という信仰をもち、冬至を祝った。(短くなり続けていた昼の時間が冬至を境に長くなっていくことから)。
現代において、12月25日は一般にイエス・キリストの誕生日とされキリスト教の祭日「クリスマス」として認識されている。しかし、これはキリスト教が広がる過程で前述の祭を吸収した後付けの習慣である。『新約聖書』にイエス・キリストが生まれた日付や時季を示す記述はなく、キリスト教各宗派においてもクリスマスはあくまで「イエス・キリストの降誕を記念し祝う祭日」としており、この日をイエス・キリストの誕生日と認定しているわけではない。(wikipedia

ゾロアスター教、恐るべし。

4.25.2015

西洋思想におけるゾロアスター

端的にいえば、アリストテレスは生物学を追求し、プラトンは数学を追及した。

理系の人間ならわかるだろうが、理系の学問はひとつのグラデーションをなしている。すなわち抽象と具象の二極である。もっとも抽象的な理系学問は数学であり、つぎに物理、化学、そして生物、と区分されていく。

この説明ではもっとも具象的な学問は生物ということになるが、さらに医学や工学を加えてもいいだろう。数学より抽象的な学問も、哲学や神学があるといえる。

ともあれ、プラトンーアリストテレスの関係は対極に語られることが多い。

ソクラテスはどこに位置したかといえば、このユニークな人間は、学問的な領域に属さない。なぜなら彼は知りようのないことは考えても無駄だと考える、感性の人間だったからだ。ソクラテスは、世界がいかに構成されているかに特別な関心を抱かなかったようである。人間の持つ能力の限界を知っていたのだろう。

プラトンという人間は、人類の知の歴史において、これ以上ないほど重要な人物である。そもそもが、ソクラテスの思想はプラトンによって広められた。ソクラテスは本を書かなかったから、プラトンが執筆・出版したことによりソクラテスの思想が現代まで残っていることになる。

プラトン自体の思想も極めて重要であり、キリスト教に影響を与えた。それはパウロが深くプラトニズムに感化を受けていたことからもわかる。

「人間の不死性は、部分的にキリスト教会に取り入れられたプラトン主義的宗教哲学の基礎的な信条の一つである。」 (Werner Jaeger, “The Greek ideas of immortality”, Harvard Theological Review, Volume LII, July 1959, Number 3, 筆者強調 ).引用元 
ついでに言えばカントにも深く影響を与えているようで、哲学史を単純化すれば、実に2000年の間、プラトンの思想は生き続けていたことになる。ところがニーチェが脱カント―プラトン的な思想を示したことにより、人類の精神はプラトンの独裁から逃れることになる。それがすなわち、「神は死んだ」である。

さてそのプラトンの思想はどこからやってきたのか?もっとも、師であるソクラテスの影響は色濃いだろうが、しかし、ぼくがもっとも気になるのは、ピュタゴラスとの関係である。単純に考えれば、数学という点でプラトンとピュタゴラスは共通点を持つから、ありうる話ではある。

それでは、そのピュタゴラスの思想はどこからきたのだろうか。これは有名な話だが、ピュタゴラスはゾロアスター教に強く影響を受けていたとされる。

以上をまとめると、新しい系譜ができあがる。ゾロアスター⇒ピュタゴラス⇒プラトン⇒カントの流れである。

それにしても、「ツァラトゥストラ」とはゾロアスターだから、これは奇妙な符合である。ゾロアスターの系譜であるプラトニズムを、ニーチェがゾロアスターの名を借りて破壊するのだから。

古代ギリシャに精通するニーチェだから、すべてを知りながら、あえてゾロアスターの名前を借りたのかもしれない。あるいは、神がかり?ともかんぐってしまう。あれだけの完成度の詩篇を、数日で書き上げたというのだから、よくある神示のようでもある。

実際のところ、現代に残るゾロアスター教と、「ツァラトゥストラ」の内容はほとんど関連はないとされているようだ。

ともあれ、西洋思想史において、ゾロアスターという人物が極めて重要な人物であるように思えてならない。もう少し勉強してみたいと思う。


おとことおんな

昨日は一日不快でたまらなかった、ぼくを捨てた恋人とか、嫌な先輩を思い出したりした。

嫌な先輩の方は、偶然にもぼくと名前が同じだが、性格の方はまるで違った。ぼくが神経症なら彼はサイコパスだった。つまり、ワタミの社長とか、松岡修造の類と同じで、人の感情に鈍感で、おそろしいほど利己的だった。もっとも、彼には友人が多かったし、恋人も取っ替え引っ替えしていた。そう、そういう人間の方が社会的に成功する。それは渡邉美樹も松岡修造も変わらない。彼は業界トップの大企業に入った。もともと、金持ちの家に生まれていたし、順当なエリート街道だ。

彼とのつながりは部活動だったが、彼の音楽に対する姿勢というか哲学や思想は皆無だった。彼の音楽演奏は、冒険や試みもなく、理性も感性もなく、ただそれっぽいだけ、表層を泳ぎ回っているように見えた。実際下手だった。下手だったが、政治力はあったので、部長まで昇りつめた。それでも、世間はそんなことを気にしない。

企業面接で聞かれるのはリーダーシップだ、コミュニケーション能力だ。そう、それがすべて。

彼はぼくが知る限りもっとも成功した人間だし、今後も成功し続けるとは思う。しかし、なぜかまったく尊敬する気にならない。

彼はぼくより金を持っている。ぼくより仕事ができるだろうし、成功している。セックスだって、ぼくの何十倍もしている。友達も、何十倍も多いだろう。

それなのに、彼はぼくの下にいる!

なぜだ。それは、ぼくが彼になりたいとか、憧れるようなことは一切ないからだ。彼はたしかにセックスと金の点ではぼくよりも豊かだが、それを差し引いてみても、彼の魅力は乏しい。常識で考えれば彼はぼくのはるか上に位置するが、ぼくの認識では彼は指でつまんで持ち上げなければならない暗愚だ。

ところが、暗愚の徒輩が、ぼくと対等となる瞬間がある。それはやはり、女がらみなのだ。

ぼくが愛する女が、ぼくではなく、彼のような人間を愛するとき、彼はぼくに勝利する。そりゃそうだ。女はリアリストだ。子宮が精神を支配する。だから、超一流企業のコミュニケーション強者であれば、そちらが魅力に違いない。

ぼくはいろんな女の浮気相手になった。プロボクサーの恋人を持つ女、ボンボンの有名私大の恋人を持つ女。それでも、ぼくの恋人になる人間はいなかった。おそらく、ぼくはある種の引力を持つのだが、それは味見にとどめておくべきもの、少しの遊びで満足する類のもの、すぐに失望してしまう甘いお菓子のようなものかもしれない。その関係は意外と居心地がいいのだが、必ず最後にはぼくが泣くはめになるのだ。

自分の愛する女が、嫌いな男を愛する。このようなことは、よくあることだ。ありすぎるくらいだ。秀でた知性をもつ哲学者や芸術家が、恋愛においてほとんど必ず失敗するのは不思議なことだ。知に生きると決めた人間は、愛することをやめなければいけないのかもしれない。

ぼくがすべきことは、愛することを辞めること、ひとりの人間に執着することを辞めること。とは、結婚しないことではない。かたくなに結婚しないと意志することも、また執着だからだ。執着しないことに執着する。つまり、流れるがまま、拒まず、追わずということだろう。

気分が少し楽になってきた。今日は土曜だ。社会人になって気づいたことは、疲れがどっと襲うのは、休日であるということだ。

4.24.2015

春ちゃんとぼく

第三階級はなにによって革命に導かれたか?

という問いに対し、歴史学者のルフェーブルは「革命的群衆」において、「語らいconversation」と「プロパガンダ」をあげている。プロパガンダとしては、印刷物、シャンソン(歌謡)、演説の類である。語らいとは、つまり会話だが、まさしく伝言ゲーム的に、変容し、影響しあい、次第に巨大になっていく大衆独特の現象をさしている。

本著において独特だと思うのは、フランス革命が「陰謀論」によって起こされたことを指摘している点だ。フランス革命前には、「支配階級は第三階級を破壊しようとしている」という陰謀論が広まった。その恐怖はフランス中に伝播した。

ところが革命後にはそのような証拠は何一つ見つかっておらず、結局、それは「誤解」だった。代わりにわかったことは、支配者層は「そこまで考えていない」ということだった。たしかにわずかばかりの大砲や、護衛がいたけれども、それだけだった。彼らは寸前まで市民が自分たちを襲うなどと考えず、まさに「寝耳に水」だった。

錯誤が生まれ、恐怖が市井に伝播し、増長された恐怖が恐怖を生み、人民を駆り立てる。革命は、恐怖と錯誤によって起きた。

(この書き方ではルフェーブルを誤読していると言われるだろうが)



快適な社会生活を営むために必要なことは、十分な睡眠だ。

ぼくは二つの武器をもっている、片手にはハルシオンという睡眠薬、片手にはレキソタンという抗不安薬だ。仕事の前にレキソタンを飲むと、実に快適に仕事ができるものである。

ただ、レキソタンを飲むと集中力が続かず、ミスが連発する。たちの悪いことに、抗不安剤のはたらきで、ミスに対しても焦ることがない。「あーミスしちゃいましたてへぺろ」くらいにしか謝れないので、周りの顰蹙も買う。これはよくないだろう。

というわけで、超短時間型の睡眠薬であるハルシオンをとくにしんどかった日に飲むようにした。睡眠導入剤だが、抗不安作用もある。ついでに筋弛緩作用もあるので、肩こりにもいい。

もっとも恐怖を感じるのは朝、出勤してすぐの時間なので、夜にハルシオンを飲んでおけば、朝も少し気分が楽になる。効き目はおそらく昼までには完全に消失するので、うっかりミスもレキソタンほどではない。

当然、熟眠できるので朝起きたときの目覚めがよい。

もともと前のアパートの騒音で眠れず医者にもらった睡眠薬であり、就活で緊張を隠すためにもらった抗不安剤だったのだが、どちらもぼくの生活には具合がいいみたいだ。

とりあえず、今日が金曜日ということは、救いのあることだ。おまけに、やっと明日は光回線の工事だ。これさえあれば、ぼくの生活にはなんの不自由もないというわけだ。

生活の快適さは、ぼくにめまいを感じさせる。ぼくのような人間が、まっとうな生活をしてよいのか、と思う。ぼくは何かしらの不幸を受けなければいけない人間で、社会におけるゴミ捨て場のようなもので、存在は不快だけど、便利だし、なくてはならないものだったはずだ。

もっとも、どんな組織に移っても、初めはうまくいくものだ。それは周囲のひとびとにある程度の気遣いと誤認が生きているからで、月日の雨風がそれらをかき消してしまうと、人々は、ぼくに敵意を向けはじめる。

敵意のトゲが、ぼくを覚醒させ、追いたて、逃避させる。ぼくの人生は逃げてばかりだが、実際のところ、ひとはみな逃げ続けるものではないか。問題は、後ろに逃げるか、前に逃げるかだ。

定住できないという苦しみがあり、定住できないという喜びがある。小市民的な生活に憧れることもある。妻と子供、仕事と友人、税金とマイホーム。だが、これらは、もはや別個の人間のものであって、ぼくの人生とは縁のない、遠くにある絵でしかない。

何が書きたいのか、よくわからなくなってきた。とにかく、智慧を得ることだ。本を読むことだろう。ぼくが人生に幾ばくかの期待を持てるとすれば、知識を身につけること、これだけしかない。

金とか、家庭とか、ぼくには無縁のものだ。あってもいいけど、なくても構わない。ただ、知識だけはなくては困る。知識は、金をいくら積まれたところで渡せるものではない。

知恵ある人間が、唯一自由であることができる。

4.23.2015

雑記でしかない

どちらかといえば、諦めて屈従した人間の方が美しい。

世の中はどうにもならないことだらけだ。それに対して、どう対応するのか。一時的に逃避するのか、諦めて受け入れるのか。

身体が労働に適応していく。精神の鬱屈さと比べて、仕事をする手先はスムーズになっていく。それにしても、ほんとうに嫌なものだなあ、仕事は!

せめて、週の休みが三日あれば、4時には帰れれば、ぼくの人生は、ずっと充実するのになあ。昼休みが終わって、「あと4時間半働かなければならない」というときが、いちばん絶望する。

明後日は給料日だから、それだけが楽しみだ。しかし、金で何が買えるのだろう?もう、車も、ドラム式洗濯機も買ってしまった。生活に必要なものは、すべて・・・。

あとは、インターネットがさえ繋がれば、(まさか契約から工事まで一ヶ月もかかるとは!)ぼくの生活はもう満足できるレベルだ。

初めの月こそ生活費に3、40万円かかったが、今となっては、買わなければならないものは、日々の食品と、酒くらいだ。

 あとは、老後のために働いてゆくのだろうか?

そう、普通に生きている人間なら大きな出費がある。マイホーム、結婚式、教育費。でも、どれも本当に必要かは疑問だ。教育なんて、親がするものでしょう?

仕事をする、という感覚がよくわからない。何のために仕事をするのか?ひとびとは言う、「やりがい」のためだ、と。

実際のところ、空疎な人生を何かで埋めたいのではないかと思う。大学時代、スケジュール帳が予定で埋まらないと我慢ならない人がいた。ぼくはといえばスケジュール帳なんて持ち歩いたことはなかった。用事なんてなかったからだ。

もちろん待ち合わせをすっぽかしたり大事な講義を欠席したことはあるけど、なんのことはない、大抵のことは何とかなるものだ。

時間という拘束がぼくには嫌でたまらない。時間に追われて仕事をすることはブサイクだ。イケてない。人生を無駄にしている。少しくらいの遅延や遅刻には寛容になるべきだと思うし、少しくらい遅れただけで平謝りする必要はない。

仕事を愛するひとは、だれかに命じられたいのかもしれない。あるいは多くの人と関わりたいのかもしれない。

たしかに、仕事を通じて感じたことは、命令されることにも喜びがあることであり、そして、たくさんの人と関わることができるということである。

つまり「やりがい」の中には、「出会い」という要素があるわけだ。

結局、人生の意味とは、ひととひととの関係の中にしかないということだろう。もちろん、生身の人間を愛せる人は、それでいい。

ただ、ぼくはといえば、現実の人間にはあまり価値を認められないのだ。少しばかり期待をもったとしても、すぐに失望する。もともと対人恐怖の気があるから、深い人間関係が構築できないという理由もある。

コミュニケーション能力というブームは完全に過ぎ去ったようだ。「だれとでも仲良くできるスキル」なんて気持ち悪いだけだ。あの当時はだれもが演じられた人形のような喋り方をしていたと思う。みな人気者になろうとしていた。おもしろい話をさかんにして、ときには「聞き上手」になりたがった。

バカげたことだ。

人間は怖い。怖くてたまらないものだ。それでも、人間は必要だ。人間に対する感情は、恋慕に似ている。つまり、恐怖が最優先するということだ。歪な感情がないまぜになるということだ。

人間関係は、信頼で成り立つのではない、まず何よりも不信だ。あの通行人は俺を刺そうとしているのではないか、職場の同僚は俺を嫌っているのではないか、恋人は浮気しているのではないか、家族は俺を疎ましく思っているのではないか。

一旦生じた疑念が、強固に人間を結びつけていく、その関係は密接に、肉と肉のすれあう音がするほど、激しくなっていく。

ぼくは、人間関係の狂気を知っている。ぼくも嫉妬の感情にかられて、恋人に辛くあたったことはあるし、クラスの友達と関係がうまくいかなくて、夜を泣き明かしたこともある。

ひとと当たり前のように接すること、これが難しい時期があった。距離感がつかめないというか・・・。他者に何もかも求めすぎたのだ。とは、自分を軽視していたのだ。だから、自分という源泉からすべてを得ようとしている今では、他者はどうでもよくなった。

ぼくに恋人はできるのだろうか。できたら、ここに報告しよう。金は、まあまあ、顔は、そこそこ、運動神経はない、服装のセンスはふつう、トークはバツ、口べた、将来性は・・・あやしい。

ぼくに恋人は似合わない。自分で想像しても笑ってしまう。

もう会社に行く時間だ。木曜日の朝は、少しは気が楽だ。

4.22.2015

汚泥の山のぼれ

この国の民は死ぬまで働く。

みなで働かなければ豊かさを維持できないから。経済大国で豊かな暮らし。「繁華街で豪遊」がみんなの目標。なんでも食べて、好きなだけセックスする豊かな人生。そのためならば同僚を蹴落とし、家庭は崩壊する。

だれもかれも、職場の競争に躍起になる。汚泥の山に登りたがる。

事実、社長は神で、上司は神の使いであった。「もしも神が存在するのであれば、どうして自分が神でないことに耐えられようか!」

みな、目指せ、トップになれ、これがオリンピック精神である。ほんとうの勝者は、箱庭の戦場にはいないのだが。対価としてはあまりにも粗末なメダルと、ちんけな賞金。

怪我をすれば勲章を貰える、命を落とせばもっとだ。これが軍隊の恩情だ。したがって、顕現する統治である。



最近仕事に疲れて疲れてしかたがない。疲れがとれないのだ。四月初旬に比べるとまるきり肉体が老化してしまったかのようだ。

考えてみると、日曜日にすでに倦怠感がひどかったのだから、今週がボロボロなのも仕方ないのかもしれない。

それでも十八時には帰るし、出社は八時半で良いのだが、それだけが救いだ。

しかし、それからの時間は怠惰にしか過ごせない。せっかく良い図書館を見つけたのだから、毎晩閉まるまで読書をしようと思ったが、そんな気力はない。

仕事という引力が、ぼくから何もかも奪いとっていく。

豊かな生活を得るために、生活を犠牲にしている。

「奪われる」のか、「犠牲にしている」のか。

ぼくを動かしているのは、本当に自己か。環境と、他者の意志が、ぼくを休まずに働かせる。

調べると、アメリカの初任給は40万円で、日本の初任給の倍らしい。バカバカしいことだ。大卒初任給の20万円など、ドラム式洗濯機と、低グレードの電子楽器を買えば消えてしまう。

それにしたって、日本市場のドラム式洗濯機はバカ高いのだ。それはいまだに「外に干す」風習があるから、海外のように競争原理が働かないのだ。

ここにもすばらしい日本精神が働いている。合理性よりも慣習、苦労は美徳、労働時間に比べてあまりにも粗末な一人当たりGDP・・・。

電子楽器にしたって、ユーザー数があまりに少ないから、日本では高くなる。

それに、象印やティファールではない、少し洒落た電気ポットを買おうと思うと、イタリアとかドイツから輸入しなければならない。(それにしても、イタリア製はやっぱり故障が多いらしい)

だれもかれも生活の質を考えないから、市場はゴミのような製品で溢れかえる。それはサービス残業が蔓延する理由と同じだ。だれも声をあげないから、結局市民が苦しくなる。

絵画ポスターを買ったから額縁を探したが、どこにも売っていない。代わりに売っているのは、「賞状を飾る」あのオジさん臭い額縁ばかりである。いったい、アホなのか、賞状が何になる、そんなものを日々眺めるのか、それが望みか、と拳を胸に叩きつけながら問うてみたくなる。

だからニトリに行ってシンプルなこと以外何の価値もない安い額縁を四つ買ってやった。言っておくがニトリは家具におけるしまむら洋品店であり、あんなものを「オシャレ」とか「ステキ」と思ってはならない、決して・・・。

実のところアマゾンで検索してもろくな額縁はないのでびっくりする。それほど需要がないということだろう。

生活を豊かにするという概念がない。テーブルや椅子は安ければ安いほどいい。そんな金があったら、寿司でも食うし、フィギュアでも買うし、パチンコにつぎこむよ、これが大衆文化だ。

「重要なことは、金の使い道をつくることだ」とある経営者が言っていた。

そう、金を使う先はいくらでもある。ぼくが買った30万円の車は、300万円の車と比べるとほんとうにおもちゃだ。しかし、300万円の車だって、1000万円の車とは雲泥だ。

ぼくらは三角形の上に登るよう、常に強いられている。金はそのための道具でもある。

汚泥ノ山登レ、これが日本精神である。

繰り返すが、だれもかれも、生活のために生活を犠牲にしている。

だが、豊かな生活とは、もうすでにあるのではないか?仕事を辞めて、したい生活がある。夜は車の中に泊まり、朝から晩まで図書館に引きこもるという生活。

この生活に身を投じてもいいかなあ、という気がする。ぼくに必要なことは、精神に栄養を与えることなのだ。肉体を満足させることではない。











4.21.2015

書きたいことはいくらでもあるのだけど、まだ不十分だ、魂が磨かれきっていないのであって、永遠に、ぼくはまともな文章を書くことなく、だれかの心を震わせることなく、このまま沈んでいくのかもしれない。

肉体が朽ち果て、残すべきものがなに一つないとしても、自分の人生は良かった、と言えるだろうか。子どももなく、資産もなく、作品もない。

ぼくの音楽は、「だれも聴いていない状況」でしか光を得ない。録音していたり、他者とのセッションにおいて、ぼくの音楽はぎこちなく鈍り、破綻する。

ぼくの人生も同様のものなのかもしれない。ぼくは、自分の人生の価値を、自分ひとりでしか味わえないのかもしれない。

ぼくの葬式で、「あいつは凄かった」「いい人だった」と言ってくれる人間は皆無だろう、だれもが首を傾げるだろう。

「この人の人生は何だったのか?なぜこの人は生きていたのか?その生は何をもたらしたか?」

他者があるところで、ぼくは傲慢で、臆病だった。他者が恐ろしかったし、また煩わしかった。結局、他者のいるところでぼくは羽を伸ばすことができなかった。自分は自由だ、と感じるときは、デスクライトひとつの薄暗い自室のなかか、敷居で区切られた自習スペースか、だれもいない音楽練習室でしかなかった。

ぼくには残すべきものは何もないだろう。ヘラクレイトスのように、「不滅の誉れ」に恋い焦がれた時期もあった、自分という人間を、社会にドンと叩きつけてやりたい、そう思う時期もあった。

だが、この手応えのなさよ。社会に対しては、ほとほと失望してしまった。社会はゲルのようで、何事か投げつけても、音もなく吸収されるだけだった。社会それ自体は、なんら変わることがなかった。

一個人の力など、巨大な社会においては力を持たないし、日本という社会は、もともと頭脳をもたない。結局、属国なのだし、属国の国民は無力だ。声は宗主国には届かない。

ともかく、政治なんてどうでもいいことだ。子どもや妊婦が被爆にさらされようと、ぼくは何も感じなくなった。

不滅の誉れとは、けっきょく社会のなかに自分を残すことだ。何万人に名前を知られようが、それがなんだというんだ。「みんなに偉いと言って欲しい」のか。何という稚拙な動機だ。

大衆はアホだ。これはもう、ぼくの頭の中では、一個の覆らざる真実だ。もっとも、貴族主義というわけではない。財閥系サラリーマンや高級官僚のような社会的エリートもバカばっかりだ。だから大衆にいくら尊ばれたところで、それは意味を持たない。

精神の貴族主義ということだ。高貴な精神、これを持つことだ。それ自体で充溢した存在となること、個人として完成すること。貴族、即ちある少数者。

個人として完成したならば、もはや名誉や金銭に拘ることはないだろう。自己と世界は直接にリンクするのだから、名誉とか金銭のような不純な媒介物はいらない。

ぼくは孤独な道をいく。もはや、だれの目にも狂気で、だれの目にもバカバカしい道をいく。もう、いいのだ。放っておいてくれ。



4.20.2015

狂気と孤独

昨日昼頃から恐ろしい憂鬱。

午前中は市民ホールで楽器の練習をし、午後からは自動車の納車があった。

どう考えても「すばらしい日曜日」だ。ただ、楽器はぜんぜんうまく演奏できなかったし、初めてのマイカーも、なんだかイマイチだった。

自動車の運転とは、芋虫の体に加わることである。バイクと違って、奇妙な圧力が加わる。車間距離も、走行速度も前後の車に指図されているような不快感。

田舎だからというのもあるだろう、だらだら走っていると煽られる。

車とは、こんなものか、と思う。まあ今日のような雨の日には助かるが・・・。


憂鬱は突然やってくる、影も音もない。ほんとうにだれかがコントロールしているようにも思う。ぼくの憂鬱のスイッチが押されると、ぼくはおもしろいように反応する。一気に体が重くなり、嘔吐感に襲われ、四肢はしびれ、世の中を呪うようになる。

ドラクエでいえば全世界の平原や森が毒の沼になったようなもので、動けば動くほど体力を削がれる。

ネットスラングで精神障害者は「電波」と言われていたが、これはなかなか良い言葉だ。統合失調症の解体した文章、「言葉のサラダ」とも言われる症状は、ひどく混線したラジオを思わせる。

このぼくの憂鬱にしたって、どこか遠くの不幸とか、それを受信しているのかもしれない、と思うことがある。

これはオカルト的な領域になるが、人間はすべてを知ることができる、とぼくは思っている。できる、というか、すべてを知っているのだ、と思う。

ただ、それはスパゲティに振りかける1μgのタバスコのようなもので、それだけで「タバスコだ、辛い」などと思う人が皆無なのと同様である。

あまりにぼくらの知覚は目の前のことにとらわれている。まあ、目の前の仕事よりも幾何学の定理を気にかけていたら首になるわけだ。生きていけないのだ。

脳が環境を生き抜くための情報「削減」装置であるならば、ぼくらが知り得たはずの世界的情報は、脳みそがフィルタリングしていることになる。

ある意味で脳の機能が弱い人間、つまり感受性豊かな人間、霊能者や司祭、芸術家は、ひとが知り得ぬ領域を知ることができる。

精神疾患は脳の障害と関連があると言われているが、おそらくそのとおりなのだろう。ただ、脳の障害がアルツハイマーのような認知記憶的な障害を生むとは限らず、かえって優れた性質を表すこともあるだろう。

なぜなら、疫学的には人類の1%は常に統合失調症の患者である。統合失調症患者は世界に数千万人いることになる。

これは生物的な「アクシデント」であるというよりは、必要から統合失調症患者が生産されている、と考える方が合理的だ。


天才とキチガイは親戚だとだれかが言ったがそのとおりで、統合失調症はその「才能」を活かすことができれば常人の達しえぬ業績を残すことができる。

しかし、大衆は彼らを恐れると同時に、羨んだ。凡愚であるところの自分を呪った。だから、大衆が力を持った現代では、こうした能力者たちは社会から排除されねばならなかった。

いつの世も、世界は恐怖と羨望で動くものだ。

なんか能力者というと中二チック、だけど。

ぼくは統合失調症ではないけど、彼らに関連する書籍を読みふけった。狂気とはなにか、知りたいと思った。

それは狂気という世界への憧れだった。

理性が解体したものが狂気だと、そんなことが言えるのだろうか?実のところ、理性の上に狂気があるのではないか?

純然たる感覚を都合よく切り落とし編集したものが理性的感覚ではないのか。

だれもかれも、世界の真理に到達できない。ある人はドラッグを使うし、ある人は瞑想して真理に到達したいと願う。それにしても、真理とはもはや狂気なのではないか?

イプセンの「民衆の敵」では、「いかにも、私はキチガイだ。真理のキチガイなのだ。」というような言葉があった。

大衆社会において、真理を叫ぶものは、自然、キチガイとならざるを得ない。

そう、たしかに気が違っているのだろう。民衆の預かりしらぬ真理という領域がある。

真理を求める人間は、孤独だ。恐怖と羨望によって、排斥される。

孤独が天才を作り出すのか、天才が孤独を望むのか。

「私の習性は、孤独によるものであり、人間達のものではない」と、ルソーだったか、セナンクールだったかが言っていた。いずれにしろ、それは私と同種の精神――あるいはこう言ってよければ、同じ種族の精神なのだ。(「不穏の書、断章」ペソア)



孤独であること!それをぼくも望みたいものだ。

ひっそりと、だれの干渉もなく生きていきたい。肉体と肉体の干渉、視線と視線の干渉は、ぼくには荷が重すぎる。ひとと一緒にいて、安らぎを感じることはなかった。つねに恐怖と苛立ちと嘔吐があった。

昨日ぼくは「生活が完成した」と書いた。自分でも笑ってしまったのだが、まだ当然恋人はいないし、友人のひとりもこちらにはいない。それなのに、生活が完成した、充実した人生だ、なんて言えるひとはなかなかいないだろう。

自分の人間軽視に笑える。しかし、社交とはテレビのようなものだ。なければない方が良い、捨て去るべき慣習。

嘘笑いと嘘笑いの共鳴。さしのべた握手の手は真実、あべこべの方向を向いている。毒を食らい、時間をドブにすてて、ああ楽しかった、充実した一日だった・・・これが社交というものだ。

現実のぼくは夏休みが明けるのを恐れる大学生のときを思い出す。今日から5日間、人間関係を耐えしのがねばならない。

たしかに、人間関係はときに力をくれるものだ。充足感をもらえるものだ。ただ、それを得るためには、恐ろしい量の支払いをしなければならない!

ドブさらいをしていても、充実感はある。

そういえば、昨日は日曜だというのに、朝の8時からぼくの借家の前の道路をドブさらいする集団があった。

正直言って、恐怖だった。本当に家のすぐ前で、こちらから作業風景が見える。数人の男たちの野太い声と、がりがりというスコップをあてるような音が部屋の中を支配した。

窓を開けっ放しにしていたのだが、閉めようか迷った。外からこちらが丸見えだ。しかし、それは当てつけに映るだろう。「お前がのんびり遊び呆けている間、俺たちは働いているんだ」という空気が、窓の外を支配していた。

外から男たちが消えると、心底ホッとした。血圧が下がった。ほんとうは音楽練習に行きたかったのだが、全身が硬直し、一歩も動けなかった。

あのような風習は、ぜひ辞めて欲しいものだ。怖い。怖いのだ。家の前を知らない人間たちがたむろしているというのは、ほんとうに恐ろしいことだ。

仕事で作業しているのは構わない。しかし、ただの市民がそこにいるのである。これは、怖いことだ。不審者集団が家の前を占拠している、とあやうく警察を呼ぶところだった。

それにしても、なぜこんなに恐ろしいのかわからない。大げさかもしれないが、ここしばらく味わったことのない恐怖だった。

ああ、今日も仕事にいかねば。今日こそ、へばってしまうかもしれない。ぼくは労働に向いていないのだ。



4.19.2015

司祭・戦士・市民

生活が完成した。

昨日、通勤途中にあるバカでかい文化ホールへ行ってみた。

金がふんだんにかかっているようで並の私立大学よりモダンできれいだ。このド田舎の山の中にこんな施設があるとは知らなかった。

中には図書室やカフェやセミナー室がある。で、図書室へ行ってみた。期待はしていなかった。というのも、ここの住民の文化レベルの低さは知っているのである。

駅前の書店にはほとんど「ちくま学芸」だの「みすず」だの「岩波」だの文化レベルのバロメーター的書物は皆無で、その代わりに焼き直しのビジネス書とくだらない新書で埋め尽くされている。

おまけにここの住民は、休日にすることといえば釣り、であれば上等だが、残りはパチンコというのだから救えない。

だから図書館には期待していなかった。「はらぺこあおむし」があれば上等なレベルだろうと・・・。

しかし、なんということか!岩波文庫コーナーがあったのである。ゆうに数千冊の岩波文庫が、ずらっと並ぶ。なんという光景だ!

金塊を探りあてた気分だった。神は我を救いたもうた!ぼくは「ろうそくの科学」をつかみとり、涙をぼろぼろ流しながら、崩れ落ちて天を仰いだ(ウソ)。

ともかく最高の時間の過ごし方である「静かに読書する」場と、岩波文庫という武器を手に入れてしまったぼくの生活は、ついに円環がつながり、ここに完成したことになる。

もっとも、岩波文庫は最低限の教養であるから、浮いた金でウニベルシタスなどを買おう。

まったく運命とは不思議なもので、知を求める人間には幸いな場所を提供してくれるものである。まさか、10分の通勤途中にあるなんて・・・。

ありがとう、仏陀キリストムハンマド、ゾロアスターにクリシュナよ。

運命は、知を求める人間が、怠惰に生活していくことを決して許さない。自分の運命は受け入れて生きてゆこう。

もっとも、岩波文庫だけでは不十分だろうから、浮いた分は(法外に高い)ウニベルシタスを買う金にしよう・・。



「ソクラテス以前以降」によれば、ソクラテス以前のギリシャでは、哲学はただの自然科学だったが、ソクラテスの画期的な点は「いかに生くべきか」という人生の根本命題を問うたことにある。

ソクラテスはこの世の始まりがどうとか、物質は原子からできているとか、そういう教えを一切しなかったし、感心を持たなかった。なぜならそれらが「わかりようがない」からであり、「役に立たない」からである。

「いかに生くべきか」と問われたギリシャは動揺した。商人はより多くの金を稼ごうとし、医師は人を救おうとした。それだけを考えていればよかった。しかし、金を稼ぐことがほんとうに良い人生なのだろうか?人を救うことがつねに正しいのだろうか?人々は立ち止まって考えなければならなかった。

そこで三つの主張が生まれた。ひとつは、人間は快楽を求めるべきだ、という考え。もうひとつは、名誉が人生に重要だ、という考え(死すべき事物にかえて不滅の誉れを・・・)。最後に知が重要だ、という考え・・・。

議論好きのギリシャ人たちはああでもないこうでもないと議論したが、答えは出なかったという。そんで、ソクラテスは知を重視したから、(知=善という立場)なんとなく以降のギリシャでは知恵が大事ということになっている。

ただ、ぼくが思うに、バガヴァッド・ギーターにすでに答えがかかれている。つまり人間は三種類にわけられるのであって、「市民」「戦士」「バラモン(司祭)」である。それぞれ、快楽、名誉、智慧を追求する。この性質はなかば生まれ持った性質であるとされて、だからカースト制でひとびとは生まれたときから区分される。

まあインドのカースト制はなんともいえずもやもやする類の代物だが・・・。

ギリシャ人はだれもが平等だと考え、すべての人間に通じるイデー的な人生命題があると考えていた(奴隷はいたが)。プラトンにつながるそういう素地があった。しかし結局のところ人間はそれぞれに違うのだから、市民として生まれついた人は市民として快楽に生きるべきだし、戦士は戦士として名誉に生きるべきなのだろう。

ギーターの影響を受けたカースト制の三角形構造においては、バラモンがもっとも階級的に高く、戦士はその次、市民はもっとも下位に位置する。

これはプラトンの「君主論」においても同様なことが書かれている。つまり知を愛する君主こそが最良最善の、すなわちイデー的な君主である、ということである。知を愛する人が人民を統治すべきであり、戦士や市民が権力を握るとろくなことがない・・・という考えは、ギリシャもインドも変わらなかったし、現代の歴史家のいくらかも認めることだと思う。(古来の日本でも、卑弥呼=巫女が権力のトップだった)

ただ今日の文脈では、ぼくは自分をバラモン的だ、高貴なのだ、俺を総理大臣にしろ、と言いたいように思われるだろう。鼻持ちならない傲慢な文章はいつものことだが、しかしそういうことを言いたいのではない。

ぼくのまったき新しい考え方をここに提示したいと思うのだが、「市民」「戦士」「司祭」といった分類は、ひとつの「つまみ」によってなされるのである。

それは「感覚の鋭敏さ」である。結局のところ、人間の性質はこれによって決まる!

極度に感覚が鋭敏な人間が司祭である。彼らはひとの気づかないことに気がつく。細かい差異を見つけられるし、遠大な構想を練ることもできる。それは霊感とか、神通力とも言える領域だ。キチガイじみた独創性によって、科学や芸術領域においても実績を残す。

反対に、感覚が鈍い人間がいる。彼らは痛みに強く、また死を賭した闘いを前にしても物怖じしない。勇敢さをもった人間が、戦士だ。兵士だけでなく、商人やスポーツ選手にも向いているだろう。

そしてその中間に位置する、一般的な感覚をもった人びとが、市民である。彼らはまさに市民的であり、戦士と司祭の両者に付き従うことによって力を発揮する。

重要なことは、バラモン的な人間は稀少であり、戦士的な人間はそれよりも少し多いくらい、世の中の大部分は市民で構成されているということだ。つまり、感覚の敏感さを横軸にとれば、歪度が負の値を示す(左に傾いた)正規分布を示すということである。これがカースト制の三角形構造の理由である。

金が鉄よりも価値があるように、少ないということは、尊いのである。

それにしても感覚器官の鋭敏さがきれいな正規分布を描かない、戦士>司祭であるのは不思議だ。たぶん出生数は同数なのだろう。ただ、感覚が鋭敏な人間は、それだけ負荷に弱いということでもあるから、病弱であることが多いし、肉体的あるいは精神的病気によって死んだり社会の表舞台に出てこないのかもしれない、と予想する。戦士はその性質から、めったに病気にならないものだし。

感受性の過剰さこそ病気の入り口、直接的原因である。ひとが神経衰弱に陥ったり、強迫観念に取りつかれたり、ペシミストになるのは、脳の出来とか、暗いものへと向かう精神を持つからではない。過敏だからである。ひとつひとつの感覚が苦痛となり、それを分析し、苦い味わいを持つからである。神経衰弱のすべてはこうした感じ方、分析の仕方のうちにある。『医学と現代のペシミズム』

人間の性質は、神経の鋭敏さによって決まるのだ。これが、おそらくもっとも人間を決定する要素だ。

アメリカのどこかの大学が、「音に敏感な人間は天才であることが多い」という研究結果を出していた。例によって、ぼくは自分が天才だと言いたいのではないぞ、といちおう付言しなければならないのだが、ともあれ、これは真実だろう。というか、当然の帰結である。

感覚器官の鋭敏さが、司祭を生み、知を追及させる。感覚器官の鈍感さが、戦士を生み、名誉を追及させる。人間とは、これだけなのだ。

これは少し、ダーウィニズム的な考えだ。とは、夢やロマンがなく、科学主義だということだ。共同体が生き残るためのには、多様性がなくてはならない。極度に知的な人間がなければ、人類は前進できないし、極度に勇敢な人間がなければ、外敵にやられてしまう。市民だけの共同体は滅びるしかないし、司祭や戦士だけでも同様である。

ぼくは上記を、人間社会を知る上で良い武器であると考える。

現代日本の嫌なところは市民がバラモンや戦士の上に立っていることである。それはちょうどオルテガがもっとも倦んだ社会である。その傾向は、拡声器や防災無線による騒音の撒き散らしに表れているし、人質の見殺しも、戦士のメタファーとして考えることができる。安部という人間を見ればわかるように、誇りも知性もない小市民的がこの国のリーダーである。

だから、バラモン的人間がこの日本で充実した生を得ようというのなら、田舎に隠遁するか、海外に亡命するのが得策なのである。

4.18.2015

メタファーとしての鬼と母

生活レベルの向上とは良いものだ。

昨日仕事が終わると、金曜日の開放感から、少し高いコーヒーと、少し高いウィスキーを買ってやった。

ウィスキーは、ハイボールにして、風呂の読書時間のお供にした。実にいい気分だ。コーヒーは今飲んでいるが、さすがに品のいい味がする。

労働は苦役だ。そして、労働は賃金を生むものだ。

賃金のない労働は奉仕だし、隷従である。それは上下関係を孕んでいる。権力者や尊ぶべき他者に対して行うのが奉仕で、奴隷的立場に自分を貶めるのが隷従である。

であるから、日本的な現象であるサービス残業とは、すべて上下関係を前提としていると考えてよい。もっともそれは単に上司や経営者の圧力とは限らない。もっと複雑な「場」が支配していることも多い。それは「空気」とも呼ばれる。

さて、この「空気」はだれが生み出したものなのか?

・・・一般的な労働はこれとは違い、労使関係は対等である。使用者と労働者は、ただの人間である。人間と人間は、対等であらねばならない。これが一般的な民主主義の考え方だ。

とはいってもこれは大衆の痴愚を生む。世間でもっとも権威ある職業は「医者」だが、患者が医者と「対等だ」と思うことで、そこに齟齬が生じている。

日本では「モンスターペアレント」という言葉が流行した。ひとびとは、「教師」というひとつの権威を自分たちのもとに引きずり落とした。

その背景には、私塾に通わせる子供の増加もあるのだろう。つまり、教育は自分たちの力によってできるのだ、と思うことによって、教師は威光を失った。あとは大卒のレベル低下もあるだろう・・・。

同様に、「モンスターペイシェント」という言葉も生まれた。即ちimpatientなpatientである。彼らも、自分の肉体は自分でコントロールできると思っている。メディアはさかんに健康番組(ほとんどは眉唾だが)を打ちだしているし、昨今の過剰な健康ブームは、医者なんてかからなくても病気は治せるのだ、という誤解を生んだ。

この民主主義的現象にさかんに異を唱えたのがフランスのジャック・ランシエールだが、実に民主主義的な国であるフランスで、このような反動が起きることはおもしろい。

結局のところ、ぼくらはスタートでは平等であるべきだが、結果を平等だと思ってはならないということだろう。ある小学校では「徒競走で全員が一位」としているようだが、この考え方こそ民主主義的白痴の根本を表している。

医者と患者の関係は対等ではない。それは治す側と、治される側という、絶対的な関係もあるし、そもそも「医者は偉い」のである。勉強量や臨床経験からして、一般的な患者はそのレベルに到達できない。

もっとも、「ロレンツォのオイル」のようなケースもある。一般人の血の滲む努力の結果、医者や科学者を通りこして、世界的な発見をすることもありうる。しかし、それはあくまでレアケースだろう。

少なくとも、テレビの健康番組を鵜呑みにするようなリテラシーのない人は、医者の言うことに口を挟もうとは思わないことである。

とはいえ、おかしな医者もいるものだから、「それはおかしいだろう」と思うことには、きっちりと反論せねばならない。だが、その判断は難しいものだ。いちばん良いのは、名の知れた大学病院にかかることで、彼らはつねにマスコミの(国家や大企業より厳しい)監視を受けていて、医療ミスを死ぬほど恐れているから・・・おかしな治療を受けることはないだろう。

話がだいぶそれてしまった。カフェインの駆動力で変な方向へ行ってしまうのだ。

労働者と使用者は対等である。べつに使用者は偉くないからである。それは小学生にとって校長先生がただのハゲたおっさんで、体育教師の山下より怖くないのと同じである。

ぼくらは賃金を求め、彼らは労働力を求める。このような関係は相補的であるから、ゆえに対等である・・・。

ああ、混乱してきた。

医者も患者を必要とするからである。

そして実際のところ、ぼくであっても経営者や雇用者にはそれなりの権威を感じるからである。

患者や父兄のモンスター化は、痴愚化と言えるのだろうか。それは実に民主主義的な傾向なのではないか。たしかに、医者や教師に対する要求は的外れなことが多い。しかし、日本的な学校教育を受けてきたぼくにとっても、日本の教育は問題だらけであることがわかる。

給食費を払わないなどは論外だが、「自分の子どもには牛乳を飲ませたくない」などの主張はまったくの正当である。また、「修学旅行に行かせたくない」も理由によっては正当だと思う。

権威に対して、市民的な権利意識が目覚め、主体の回復としてのモンスター化?抑圧からの反動?

すなわち、彼らを「モンスター」だとして阻害し制圧するためのPRがあのマスコミ報道だったのか。芽生え始めた権利意識をゲシュタポ的な市民監視によって摘みとり叩き潰すための広報活動が「モンペ」などの言葉だったのか。

それは桃太郎における鬼=モンスターが縄文人だったがごとく、戦時中の「鬼畜米英」の言葉が如く。

ああそうか、真理はつねに少数派の方にあるのだった。少数派、すなわち「オニ」の方に。

そして、つねに権利意識は母親から生まれるものだ。それは放射能汚染に対してもっとも過敏に反応したのが母親たちだったことからもわかる。

この日本で、鬼とは母親なのだ。そう考えると、先進国中もっとも高いシングルマザーの貧困率の理由もわかる。彼女たちは、国家に迫害されているのだ。縄文人の作り出した土偶の多くが、妊婦の形をしているように、縄文人は母親というコードを崇拝していた。すなわち鬼=縄文人=母親である。母親というシンボルは、この国家において伝統的に迫害されるもののようだ。

あーなんかすっきりした。報道と、言葉の力って恐ろしい。モンスターペアレントと聞くと、悪いものだと思ってしまうし、そのように報道されると、そういうものだと思ってしまう。迷妄が一個とれたぞ。

さて、何の話がしたいのだったか?

4.17.2015

フライデー・フライデー

木曜日に疲れのピークに達し、今日は一日寝ても、その重みを引きずっている。

仕事はきっちり18時に終わる。公務員を除けば恵まれた方だろう。それにしても、なぜこんなにも辛いのだろう?

大した仕事ではない。肉体的にも、精神的にも。ただ、つらいのだ。職場という場が、苦手なのかもしれない。

大学でそれなりに精神の均衡を保っていたのは、嫌なときには欠席して、家で寝転がっていたからだ。

というか、ほとんど授業に出た記憶がないのだが・・・。

一日8時間、実際の労働時間は8時間半だが、この時間は恐ろしく長い。

労働は苦役だ。

今日だって、身体が恐ろしくだるく、労働を拒否している。体調不良で休めたら良いのだが、やはり恐ろしいのは同僚の目だ。

日本的な企業は、学校のクラスと変わらない。陰湿な相互監視によって成り立つ。

俺と同じ苦しみを味わえ、さもなくば、許さない。このルサンチマン的な感情が、社会や組織を安定させる秘訣だ。それはゴミ分別・町内会・PTAである。

個人に集団が優先する。法律に慣習が優先する。

数年でこの仕事を辞めるつもりだ。何か金を稼ぐ手段を得たいものだ。そうすれば、ぼくは日本を離れるだろう。

失望しかない国だ。程度の低い国だ。何もかも気に食わない。惚けた国民の顔を見ると、蹴飛ばしたくなる。

ぼくは仕事ができない。もとから、労働に向かないことは知っているが、二週間働いて、それに気がついた。

別に大した問題ではない。仕事など、まじめに取り組むべきものではないということを知っているから、人より仕事ができないのだ。

「民衆はしばしばよりよき知恵をもつ。必要なことのみを知るがゆえに」とラクタンティウスは言った。

労働力を提供し、賃金をもらう。それだけの関係だ。同僚諸君よ、君はぼくの兄弟ではないし、上司諸君よ、君らは母親でも父親でもないのだ。

必要な仕事は、してやろう。ただ、それは自己実現のためではない。金のためだ。

やすやすと魂を売る気はない。ぼくの人生は、余暇の方にある。ちんけな仕事は苦役だ。そんなものに、君は生命を賭けてしまう。君は経営者のパシリであることに、誇りを持つのだ。

本来人間が命がけでするべきなのは、自分本位の「道楽」なのであって、「仕事」はしょせん、お客様のご要望にお応えする他人本位の奉仕に過ぎない、と夏目漱石は言った。

それにしたって、労働をしているときの、精神も肉体も労働を拒否する感覚は、自分でも驚くほどだ。

「もう嫌だ」という感覚で、肉体が重く痺れ、精神は灰色に押しつぶされ、思考がぼんやりし、自然と涙が出てくる。

ひとは疲れると目が赤くなるが、実のところ、彼は泣いているのだ。つらい、つらい、と。本人も気づかないものだが。

日本という国は、国際的な統計によると、仕事に対して世界一「やりがい」を求める国であるらしい。

日本人のもうひとつの特徴は、金銭的報酬を重視しないことである。

やりがいとは何だろうか?考えてみてもわからない。

ちなみに、オランダも同じくらい「やりがい」を求めるという。

ただし、「仕事に対する満足度」という項目では、オランダ国民は世界一仕事に満足しているのに対し、日本は下位に位置している。

個人的には、仕事に対する報酬が十分に与えられてからやりがいを追求するべきだと思う。

低賃金、サービス残業、休日出勤の日々のなかで、せめて「やりがい」という空疎な報酬を求めたいと人は思うのかもしれない。

そうでなければ、自分の行動を合理化できない。そりゃそうだ。タダ働きを本人の意志でしているのでないのならば、それは「奴隷」だ。

しかし、だれも自分を「奴隷」だと認めたくはないだろう。

だから代償的に「やりがい」を求める。俺は仕事が好きだからやるんだ。社員のみんなのためになることが好きだから仕事をするんだ。

日本では労働は美徳だと考えられている。アリとキリギリスの話が大好きで、高学歴のエリートビジネスマンは尊敬されて、浮世を生きる売れない芸術家・音楽家は落伍者としてバカにされる。

その結果が文化的貧困でありエコノミックアニマルである。

それにしても、よくもまあ、ここまで洗脳しきったことだと思う!教育の力か、マスコミの力か。だれもかれも正しく生きることをせず、したがって「だれかのために」生活を潰している。哀れなことだ。

ともあれ、今日は金曜日だ。余力はないが、仕事へ行こう。

4.16.2015

詩人よ詩人たれ

感覚器官が敏感なのだろう。

すなわち神経質ということでもあるのだが、外部からの情報や刺激に対して人よりも負荷の高いぼくは、日常を過ごすことが快適であるというよりは、不快であることが多い。

それというのも社会は基本的には「無神経」だからである。

画一的な学校教育では体育会系的な鈍感・愚直な人間が喜ばれるのであり、そうした工業製品的に生産された大衆は、自分のしていることは正しいと思っているし、自分は幸福だと思っている。実際彼らは上手に大企業に入り込み、世間的な勝ち組になることも多い。

自分を支配しているイデオロギーを疑うこともせず、その存在すら知ることすらなく、従って彼はひとつの道具=奴隷に自分を貶めているのだが、そんなことは夢にも思わない人間が社会の大部分を構築しており、したがってともすれば反社会的=自己志向的になりがちな神経質な人間は、社会的に生きづらくなっていく。

神経質な人間は、無神経な人間集団のなかにある限り、アリ地獄の中のように下降せざるをえない。

ex.「電車のアナウンスはうるさくないか?音量もでかいし無駄なことばかり言っている」と言うと、首をかしげるバカばかりだ。


もっとも、どんな人間であっても、ただ自己を追求し、自己を知ることができれば知性的な人間になることができる。

鈍感な詩人はあってはならないし、神経質な戦士というのもあってはならないものだ。

詩人に生まれついたのに詩人にならないことは罪だ。ところが、だれもかれも戦士になることを強いられる。

ところで、詩人?

というのも詩人にとっては、人間も物も、思想も夢想もまったく同じだからである。詩人が知っているのは、彼の前に浮かび上がるさまざまな現象だけであり、彼はそれを悩み、悩みながら幸福なのである。(「詩人と現代」ホーフマンスタール)

この言葉が最近のぼくをとらえていて、結局のところ、科学に対するオカルト的領域とは、現象を現象として捉えることなのだとぼくは思う。

このあたり、勉強をしてないからよくわからない。ただ、昨日「閑静な住宅地はスラムだ」と書いたが、現象として考えればスラムと日本の住宅街は通底している。

現象とは、論理以前の領域であり、西田風に言えば純粋経験ということになるのかもしれない。

それは言葉以前とは言わないが、原初的な言語レベルで了解される感覚把握のこととぼくは考える。あくまで比喩的表現だが、表層意識に対する潜在意識と言えるかもしれないし、脳神経に対する脊髄反応と言えるのかもしれない。

そういえばサルトルの短編の中で、青年が「あいつらは、それを握ってしまう!」と小馬鹿にするシーンがあった。「それ」とはスプーンである。恋人の父親が、食事を口に運ぶのを小馬鹿にしているのである。

当然スプーンは握るべきものだし、握らないでどうするのだという気にもなる。

しかし、一本のスプーンを前にしたぼくらにとって、握る以外の選択肢もあるはずだろう。

その選択肢をつらつらと書こうとしたが、書くたびに違う!となる。スプーンを芸術的に考察したり、人格に見たてたり、とか、そういうことではないのだ。スプーンという現象を捉えること、それは、「スプーンが春だ」とか、「スプーンは窓だ」というように考えることなのだ。スプーンが窓や炎や上司や陰茎になる領域、この逸脱、すべておしなべて自己の前に平等に並べること?なのだ。わけわからん。

ともあれ、ここで、握らないスプーンが、すなわち現象である。厳密に言えば、握り、握らないスプーンが現象なのだろう。

そういえば筒井康隆の作品に、「みそ汁の中に社会が見えます」で始まるいい感じのファンタジー短編があったがこれも似たようなものだ。

このあたりは勉強不足であり今後も追求していきたい領域である。ロジェ・カイヨワの「斜線」がけっこう良さそうなんだよな。まだ読めてないけど。

結局ラリったような認識、統合失調症的な認識が詩人の領域ということだろう。

宗祖ゾロアスターは「真理に到達した人」であるが、ただそれだけですごいのではない。彼が当時、「ゾロアスターってすごい!」と思われていたのは、「大麻を使わずに真理に到達した」からである。

なんじゃそりゃ、という気分であるが、元来芸術や宗教といったものは大麻のような「ラリる」気分と不可分だったのだろう。

中島らもを持ち出すまでもなく小説家、芸術家、音楽家はラリパッパなものであるし、草間彌生のように統合失調症の人間も多いものだ。そういえば大麻を使用すると統合失調症のリスクがあがると言われているが、「現象」的に考えれば自然なことである。それは同一の現象だからである。

現代は「健全な社会」だから、ラリパッパは牢屋に、精神病患者は病院にそれぞれ閉じ込められるけれども、それはどういう理由によるのか。このあたりは、フーコーを読めば掴めそうである。結局、権力や支配と関連してくる。

かつては、みんなが大麻を楽しんでいたし、精神病のひとも呪術師として活躍した。

日本は大麻に対して世界一厳しい国と言われるが、それも町内会と同じ統治の一環なのかもしれない、ということを考えたりする。

ああ、会社行きたくない。


4.15.2015

新入社員の心得

どんな愛情にもとらわれてはならない。孤独を守ろう。もしいつか、真の愛情が与えられる日がくるとしたら、そのときには、内なる孤独と友情との間に対立はなくなっているだろう。いや、このまちがいないしるしによって、あなたは友情をそれとはっきり認めるだろう。このほかの愛情はすべて、きびしく規律に従ってととのえて行かなければならない。(「重力と恩寵」シモーヌ・ヴェイユ)

昨日いろいろと本が届いた。「重力と恩寵」もその一冊。ぱっと開いたときに目についたのが上の文章である。



最近は仕事も多少覚えてきてそれなりに楽しく、というよりも「安心して」仕事をしている。基本的にみな優しく指導してくれる。

仕事がどうにも嫌だったのはバイトの経験があったからだろう。ひどかったのはコンビニバイトで徹底的に人格否定をされた上に、サービス残業とサービス早出を二時間ばかりさせられた。最後はいい年して大泣きしながら辞めたのだが、あのトラウマが今も残っていて自分は仕事などできないのだと烙印を押していた。

しかし仕事というものはだれにでもできるものだ。問題は、だれかと同じくらい仕事をこなそうとは決して思わないことだ。自分の限界値を知り、それ以上の仕事量がきたら、ノンと言い切ることだ。無理はしないってこと。

楽器の経験がすごく役に立っている。ぼくは楽器を8年続けていることになるが、もともと大学の部活で始めたものだから、大学にいた7年間、後輩の指導にあたる機会も少なくなかった。

そのなかで重要な知見をえた。

ひとつに、音楽には絶対的なセンスというものがある。簡単にいえば、粗野な人間、鈍感な人間には音楽は向かない。結局、音楽とは手指の運動ではなく、耳、感覚器官が大事なのだ。

もうひとつに、技量というものは、時間がないと身につかないということである。いきなり上手くできる人間なんて存在しないし、逆にある程度時間をこなせば、みなそれなりのレベルになる。

第三に、技量は「ひとに教えられる」ことによって育つものではない。むしろ教育がかえって阻害することも多い。技量とは、人との関係よりも、楽器との関係のなかで育まれるものだ。

この三つを統括するとどうなるか。センスという要素は、「自己」である。これを、「楽器(音楽)」という要素と、「時間」という概念でリンクする。そこに他者を介在させない。

つまり、シンプルに「自己」と「楽器」が接する「時間」が重要ということだ。自己を欠落させてもいけないし、また楽器(音楽)を欠落させてもいけない。

話がそれてしまったが、もともと言いたかったことは「最初はだれでも仕事が遅く、ミスをする」という当たり前の公理があることだ。この事実を事前に知っていることが、新人にとって重要だ。

それを知っていることのメリットはふたつあり、ひとつに自分のミスで上司が明らかに苛立っていたとしても、落ち着いて「次気をつければいい」と思える点にあり、第二に失敗をごまかしたり自分が有能な振りをしようとは思わなくなることだ。

第一の点はよく知られているが第二の点の方が重要で、これをしてしまうと大きく信用を損なう。ひとは仕事のできない人間は許せても嘘をつく人間は許せない。

仕事においてもうひとつ重要なことは「技量は勝手についてくる」という認識であり、仕事なんてこなしていれば勝手に技量がつくということだ。

このことを知っていれば今の自分に絶望することはなくなるはずだ。

もっとも、仕事にもセンスや向き不向きがあるのであって、仕事のできるAさんと同じ仕事をこなそうとしたり、同じスタイルの仕事を志しても、頓挫する。簡単な事実だが、あなたはAさんではないからだ。

自分のペースで仕事をこなすことだ。仕事と自己の関係がすべてで、ここに他者を介在させてはいけないということだ。

目の前の仕事に集中することだろう。

もっともそれを許さない企業も日本では多い。わざと膨大な仕事を任せたり、難しい仕事をさせて精神的・肉体的に追い詰め、人格矯正や洗脳を行う企業もあるだろう。というか、そういう企業が多いのだろう。

だいたいの人間が、そういうイニシエーション的過程を経ると変わってしまう。仕事に異常なほどの価値を求めてしまう。空疎な「やりがい」を無限にまで広げてしまう。人生のための仕事から、仕事のための人生へ・・・。

大学の知性的だった友人が「社長を目指す」と意気込むようになってぼくは失望したことがある。社長なんてお山の大将じゃないか。それに、君が勤めているのは知名度も実績も大したことのない企業じゃないか。報酬だって、残業時間に比べてあまりにも少ない・・・。

まあ彼は「やりがい」を見つけてしまったのかもしれない。

一体「やりがい」とはなんだろう?仕事は確かにある種の達成感を与えてくれる。自分が役に立っているというような実感はある。それはバイトのような単純作業でも、芸術のような独創性が求められる作業でも、さして変わらないだろう。それは仕事それ自体に内在する要素だから、理解できるものだ。

ところが、労働の「やりがい」とは、高度にイデオロギー的概念である。つまり、実態を伴わない。

仕事が与えてくれる普通の達成感がある。第二に、金銭の与える報酬がある。これらの自然的感情と、ある意味で狂信的な「やりがい」は相容れない。

存在しないものを信奉させ、そこから搾取するというのは、まあ「いつもの構造」と言えるのかもしれない。それはゴミ分別や町内会と根底では通じていくのだろう。

話があちこちに飛んだ。「やりがい」とはおもしろい概念だから今後も考えていきたい。



冒頭のヴェイユの言葉はぼくによく響いた。というのも職場の人間に多少の愛情を感じる機会があるからであり、そういった自分を戒めなければならないからだ。

 またあなたの愛情の発作をも警戒するが言い!孤独な人間は、たまたま出会った者に、すぐ握手を求めるようになる。
 たいがいの人間には、握手するための手をさしだしてはならない。前足をわたせばいい。そしてわたしは、あなたの前足が猛獣の爪を備えていることを望む。(「ツァラトゥストラはこう言った」の「創造者の道」より)

ちっぽけな世界、ちっぽけな組織で生きるぼくにとってこれは難しいものだ。人間との関わりを冷淡に処理していかねばならない。





4.14.2015

生活のゆたかさ

東京にいたときの生活の困窮は過ぎ去っていった。

かつての住居は日の一切当たらない住宅街の真ん中にあった。六畳間の1Rの窓の向かいには家の壁があった。日光もそうだし、風さえほとんど入ってこなかった。

玄関は北側に位置してここもひどく結露した。風呂も台所もなにもかもカビだらけだった。玄関を開ければ、こんにちは!5mの向かいのちっぽけな庭で毎日12時間ガーデニングを楽しむ「悲壮な老人」がじろりとこちらを睨んでくる。

東に位置する隣居には「賑やかな老人」がいてカンカンカンと朝五時にDIYを始めてくれる。やあ、賑やかだね。警察を呼ぼう。

ベランダの先1mに安っぽい偽レンガの壁をばーんと見せてくれる真向かいの家はおしゃべりな主婦がいてうるさく、夏場は窓を開けられない。そのおばさん以上にうるさいのが101匹ワンちゃんのブームで買ったのだろう黒ぶちの犬であり四六時中吠え続ける。よし、保健所に通報だ。

台所はまな板一枚置くスペースがなく流しの角に引っ掛けておかねばならずしくじるとすべてが流しに落ちた。

火口もひとつしかないのでパスタを茹でながらソースをつくるという芸当はできない。茹でたパスタを放置してソースを作る。麺は伸び切ってしまい最悪の食感だ。

風呂には窓がなくユニットバスであり黒カビの発生源であった。そのおかげか部屋中にカビが繁殖し、年がら年中ぼくは咳き込んだ。喘息になったと思い病院にいったがそれくらいなら換気扇を毎日つけるべきだった。

壁は薄く隣人の話し声が聞こえてくるくらいだ。たぶん普通に過ごしているだけだろう上階の足音もドカドカと鳴るので就寝の早いぼくは11時頃に起こされると苛立って天井に穴をあけた。

そんな環境でもなんとかやっていけたのは実際のところ実家もボロだったし、そこから始めての一人暮らしだったからだ。だいたいどこもこんなものだろうと思っていた。家賃6万とか8万円の友人のアパートへ行っても、部屋で桃鉄をして騒いでいると壁ドンのすごい音がしたし、そこまで大差はなかったようにも思う。

しかし、今の一軒家にきたら全てが変わった。革命的だった。これが生活レベルの向上ということか・・・。今まで住んでいたところ、東京の「閑静な住宅街」というべき地区が、ただのスラムだったことを痛感した。

とにかく自由で解放的なのであって、部屋で独り言もできるし、歌うこともできるし、音楽や電子楽器を鳴らすこともできる。窓をあければ30m先に隣家が見えるものの、大部分は山とか、「空」である。ときには田んぼで農作業をする老婆も見える。風も日光も何にも遮られずに入ってきて、空気もきれいで、本当にさわやかだ。

システムキッチンは快適そのもので、三つの火口とグリルもついたコンロで自炊が超効率化するし、収納が多いので部屋が汚くならない。冷蔵庫は勝手に氷を作ってくれるし、風呂はボタンひとつでお湯が湧いて、勝手に湯温を調節してくれるし、トイレは勝手に開いてくれて、勝手に流してくれるし、洗濯機はボタンひとつで洗濯から乾燥までしてくれて、もう二度と日干しすることはないだろうと感じる。

庭には3畳ほどのガーデニングスペースがあって、ホームセンターに行ったときには美しい植物を物色することもできるし、駐車場つきなので好きなだけ洗車やメンテができる。部屋にはスペースが多いので、気に入った絵を掛けることもできる、大きな絵も圧迫感がない。部屋も広いので1Rではとても置けなかったソファを置いたり一人がけの揺り椅子なんて西洋趣味のものを置くこともできる。それどころか部屋が余っていて、今はゴミ置き場になっているが片付いたら完全な趣味部屋にしてもよい。本をこれでもかと置いたり充実した電子楽器スペースにして友人が遠方からきたときのために他の楽器も置いたら楽しめるかもしれない。

海に行くにも山に行くにもいい環境で東京のように伊豆や富士山へ行くために渋滞を我慢しなければいけないということがない。最近林道バイクツーリングが趣味だったが日曜日に散策したら楽しめそうなガレ場を15分のところに発見した。同様に海釣り人が集結する場所を15分くらいのところに発見した。楽器の練習スペースが最大の懸念だったが市の施設で楽器練習室も発見した。つまり休日は楽器を楽しめるし、バイクを楽しめるし、釣りも楽しめるというわけだ。もちろん家で落ち着いて読書をすることも可能だ。

なかなかにいい生活である。もっとも、これは都会から田舎への変化だけでなく、貧乏学生から社会人への転換という要素もあるが。

田舎へ行けば寂しくなる、東京に戻りたくなると予想していたが、そのようなことはない。田舎へ出向した友人などは、休みになると用事もないのに東京に行き、満員電車に揉まれ、スクランブル交差点的な雑踏に浸りたくなるとのことだが・・・何という逆転だろう!

もっとも、生まれながらの江戸っ子ならぬ、生まれながらのメトロポリタンというのは同世代にたまに存在する。彼らは、田舎のなにもない空間に恐怖し、手付かずの自然におびえ、東京へ戻って周りに高い建物が見えてくるとほっとするのだという。一般的な感覚とは真逆だろうが、彼らにとっての故郷はそういうものなのだろう。


ともあれ、田舎では、趣味の良い人間は少ない。平日は仕事、休日はパチンコ、それだけ。という人も少なくない。何というか、哲学を持って生きている人間は少ないように感じる。空疎で、何ら特筆すべきこともない人生だ。それでも、別に他人の人生は他人のものであるから、自分は自分の人生を豊かにすればよい。

哲学を持った人間は東京でも滅多にいるものではないし、そのような人間と直接会ったところで、「哲学のある会話」なんて絶対にしないだろう。言葉の端々から高潔さを感じ取とって、なんとなくラポール形成をするだけである。

だから、哲人とのもっとも優れた対話とは、書物やネットのようなテクストを通じて行うことが良いのであって、別に某アイドルのように会って話せる必要はないのである。



最近ぼくの住んでいるところは東京で何かがあったときの「避難所」として別荘など買われることが多いらしい。東京という場所は、魅力を失いつつあるし、また危険な場所にもなりつつある、と感じる。

最近の強行的な政治(国民軽視、報道弾圧)がある意味でヤケクソ染みているように見えるのは、遠からず政治的転覆、それでなくとも大異変が起こることを政府が予想しているのではないかとぼくは想像する。

日本が抱える巨大な時限爆弾は「原発の晩発障害」だろう。傷つけられた遺伝子は数年経って(おそらくその兆候はすでに出ているだろうが)悪性腫瘍や臓器不全を引き起こす。これは極めて自然科学的な論理である。

日本人は権利意識が薄いから、公害への反応も小さい。水俣病などの反応が薄く、政府も対応がにぶかったのは、行政の不誠実さもさることながら、国民の声が小さいことも一因である。

ところが、東京という世界有数の都市、日本一の都市がもし公害に晒されていたとなれば、どのような反応が起きるかは予想できない。日本では前代未聞の事態となるだろう。

東京が事故直後のフォールアウトに見舞われたことは事実である。また、ぼくの知る限りスーパーの生鮮品などは線量的にかなりヤバそうなものが売られていた。もちろんお上が「食べて応援」などと言っているのだから、別に驚くことではない。

おそらく東北の原発付近ほどではないだろうが、健康被害は東京でも確実に起きるだろう。そのときの恐慌は凄まじいものになるのではないかとぼくは思う。

もっとも、その反応は事故直後のように、一部の知識人や富裕層にのみ起こるのかもしれない。大衆はいつもどおり上手に統制されるのかもしれない。どれだけ学者やジャーナリストが適正な指摘をしようと、マスコミのすべてが「アンダーコントロール」なのだから、大衆はテレビの方を信じるだろう。

ただ最近の政府のヤケクソを考えてみると、もう彼らは後先のことをあまり考えていないようにも思える。つまり今後はある種の「ドサクサ」が起きるのであって、為政者の小さな悪事などどうせかき消えてしまう、と予想しているようにも感じる。

一月から日本がどんどんキナ臭い方向に向かっているという皮膚感覚があった。その原因は、こういった政府の無軌道な態度にあったのだな、と今になって思う。



まあ田舎の話からだいぶ遠くなったが、田舎へ引っ越した理由のひとつに、原発事故があったことにも変わりない。適切な情報が開示されない以上疑いは決して晴れるものではない。

東京がもしも安全に住める環境になれば、また戻っても良いかなと感じる。

あと、家賃が安くなれば・・・。

4.13.2015

無知と恐怖のゴミ分別

海外ではせいぜいリサイクルゴミと普通のゴミを分ける程度であり、日本のようにビデオテープを捨てるのにしてもケースはプラスチック、テープは燃えるゴミ、シールも剥がして燃えるゴミ、ネジは不燃ゴミという風にいちいち分解して捨てなければいけない、ということはない。

ゴミという一面からも支配構造が見えてくるのである。一般に町内会は強制参加のように思われている、その理由は「町内会に入らないとゴミステーションが使えない」という実情があるからだ。

この町内会の殺し文句によって人々は「任意団体」に嫌でも入らなければならない。

現代人は個人主義的傾向があるということは言われているがそれは生活レベルの向上により個人がひとりでも生きていけるようになったからだ。

昔の農村であれば近所付き合いは大変濃密であった、農作業にしろ家事にしろそれぞれ助け合わなければまったく仕事にならないからだ。

その傾向は戦時中でも同様で、「非国民」的な扱いを受けた人々は近所住民から分断され不便な生活を強いられた。

しかし現代においてその必要はほとんどなくなった。それだから浮遊した無軌道な反社会分子が育つようになってきている。

当然ながら体制と反体制があって、その止揚によって社会が前進するのであり、「先進」国ではどこでもそのような形をとっている。

ところが日本はいまだ重度の監視社会と愚民政策によって事実上の官僚支配である。

そしてその一端が「ゴミ問題」なのである。

戦時中に町内会は市民による市民の監視のために生まれた、濃密な人間関係を作りだし、その中でボロを出した反乱分子は即座に憲兵に密告された。

現代ではゴミ袋に名前を書くことを事実上強制し、そのゴミの開示は町内会員の自由とされており、プライバシーもなにもあったものではない。

おそらくまともな知能を持った人間であれば先のビデオテープのような過剰な分別はバカらしくてやってられないものである。クソ忙しいなかでそんなことをする時間があったら少しでも休暇を取りたいし少しでも仕事を片付けたいだろう。

だいたいリサイクルの神話が事実ならいいが温暖化の根拠も怪しいもので、地球のためではなく大企業と行政を喜ばせるだけではないかと一度は考えるはずだ。

そうであるからだいたい知性的な人間はゴミの分別を怠るわけで、そういう人間が地域から閉め出されるか、地域と戦うか、諦めて地域に迎合するかとなる。

日本のように世界一分別が厳しい国でも「粛々と」分別が行われている理由はただ無知によるか、恐怖による。

「ゴミの管理が地域住民によって行われている」という事実が異常なのである。この21世紀になってインフラが市民任せというのか。

もっとも形式上は町内会は「任意団体」であるから、好き好んでゴミステーションの維持をしたがる団体があるので、市役所は少しの報酬を与えて仕事を委託するということになる。

しかし、町内会にいる人間のだれが「加入は任意」だと考えているだろうか?そしてだれがゴミの管理をしたいと考えるだろうか?

だれもかれも何も考えようとせず自分の行為を正当化したがる。「だって市役所の仕事が増えるだろ」「自分たちのことは自分たちでやろう」「なんでも役所任せにしてはいけない」「ゴミ捨て場の清掃をしない奴はゴミをだすな」「権利には義務がつきものだ」

こういう意見はネット上で散見されるが、バカな役人とバカな市民によってこの国は維持され強固な統制がとられているのだと思う。

ひとはだれでもゴミを出さねばならないが、その行き先が法律もなにもあったものではない特殊な団体(成り立ちから構成員の人格まで、法律よりも慣習が支配する組織)であることは正直恐怖である。

もっとも現代では人々は地域のアホと関わることなく生きていける。クソみたいな人間との関係は拒絶できるし、すばらしい人間とだけ付き合うことも可能だ。

人間関係はそれこそ「任意」の関係であって、別にだれと付き合おうが、だれを拒否しようが個人の勝手だ。それでも「同じ地域の住民だから仲良くしろ」という号令が飛ぶ。

これが「仲良しファシズム」であり、日本的教育の主要な教条である。

当然ながらクラスという狭い人間集団の中にはイジメっ子もいるし精神異常者もいる。極端に言えばクラス全員と話が合わないという人もあるのだが、そういう人間は孤立する。

仲良しファシズムはこうした孤立者を弾劾する。教師と洗脳された子どもたちによって、彼の精神は踏み込まれ矯正される。彼に人格の尊厳はないのであって、それは「彼が間違っているから」であり、「病気だから」、矯正されるべき精神なのである。この構図は町内会組織においても見られるし、また企業組織においてもよくあることだ。

無知と誤謬の上に立った笑顔と善意ほど恐ろしいものはない。しかし実際のところ、ファシズムのあるところに笑顔は多い。迫害は常に笑顔をともなう。

彼らの多くは自分を善人だと思っている。「俺ってなにも知らないしバカだけど、悪いことはしてねえよ」と思っている。

実際彼を無知にしているのが何者かはわからない。彼が悪いのではないことはぼくもわかる。たぶん低俗なマスコミが悪いのだろうし、質の悪い教育が彼の人格を作り出したのだろう。

上記のことを書いてきたがいまだぼくの家に「町内会関係者」の訪問はない。喜ばしいことである。

できるだけ隙を作らないように生活しているが、ゴミの分別だけはやる気が起きないので、一室がゴミ袋だらけになっている。

ゴミにあれこれケチをつけることが新参者の私的空間に乗り込み新参者を否定し矯正するイニシエーション的罵倒をするチャンスである(それはたぶん彼らの惨めな人生においては自分が優位に立っていると感じる恍惚的な瞬間なのだろう)。

だから陰湿な町内会であれば、新参者がゴミを出すのを虎視眈々と待っているはずである。今日は出したか。どれ、袋をあけろ。素性を探れ。資源ゴミが入っているな。家へ持っていけ、怒鳴りつけろ・・・。

そうはいくものか。

車が手に入ったら、とりあえずは焼却場にもっていく。その次には、市役所と交渉だ。自分は町内会という組織団体が宗教団体より苦手であるから戸別回収をして欲しい、と頼んでみようか。

もっとも市役所の手先が町内会なのだから簡単にはいかないだろう。

まあ上記は杞憂に終わるのかもしれないしぼくの地域の町内会もテキトーな活動しているゆるい団体かもしれない。そうであることを望むが・・・、町のゴミ袋をコンビニで買ったら「氏名と住所」を書く欄があったので頭を抱えている。いったい俺にどうしろというのだ?

「ゴミを出す」だけにこれだけ悩んでみたが、こんなことに悩む市民は日本人くらいのものだろう。本当にこの国は不便な国であり、不可解かつ不愉快な国であり、ゴミ捨て難民として国外脱出も辞さない気分である。




4.12.2015

ホリデー・ホリデー

田舎での土日は孤独だが別に学生時代から土日は本を読む程度で過ごしていたのだから変わらない。

人と時間を過ごすことは苦痛であり喜びでもあるはずだがぼくにとっては苦しみの方が多いようである。

田舎とは言ったが地方都市の圏内であり20分ほどバイクで走れば(車なら30分くらいか)市街に入る。

昨日は文化ホールのようなところの音楽練習スタジオを借りることができたので、午前中を借りた。3時間で1000円ちょっとなので、普通の貸しスタジオ(一時間500円が相場)より少し安いくらいか。といっても交響楽団の練習ができそうなくらいだだっぴろいのだが・・・。なんだか贅沢だ。

そのあとは寿司屋に入ってランチを食べた。800円で、うどんと握り寿司が食べられる。

東京で、汚泥のようなラーメンを同じ値段で食べていたのが不思議に感じる。もっとも、歳のせいでそういうジャンクなものが受け付けなくなったからかもしれない。

次には漫画喫茶でネットをした。まだネット回線が繋がらないのだ。3月末に申請はしたのだがそこから連絡がつかない。いつかけても混み合ってるとか自動音声が流れる。ちゃんとしてくれIIJ・・・。この記事もiPhoneから書かねばならない。

漫画喫茶は5時間1200円。アマゾンで本を買い漁る。学生時代は買えなかったような本を買ってしまう。〆て6000円・・・。

あとは庭に差し込む太陽発電のライトとか・・・。そういうものを買っておく。アマゾンだと2000円以上だが、ニトリだと1000円とかで買えてしまう。

家に帰る前にニトリに寄ってポスターサイズの額縁を買う。オールポスターズが全品30%オフのセールをしていたので、ボルディーニの絵とか、ヴラマンクを買っておいたのだ。ボルディーニは800円くらいで買えたが、ヴラマンクは4000円以上した・・・。

ゴッホの絵が人気あるみたいだけど、発狂して耳を削ぎ落とした画家の絵を家に飾るセンスがわからない。新宿の美術館で「ひまわり」を見たけど、やっぱり少し禍々しかった。

ボルディーニは社会的に成功した画家だし・・・。そのせいか少しあざといような気もするけど、やはり好きだ。ヴラマンクは趣味。

オールポスターズのポスターはグレードによるのかもしれないが意外とチャチで印刷も荒い。まあポスターだから仕方ないのだろうがちょっとがっかりだ。遠目にはいい感じだが。

玄関が無駄に広いのでこういったところに絵を差し込んだり観葉植物を置きたいと願っていたが意外といい感じだ。

そういえば車も買う予定であって車種はミラジーノに決めた。乗り出し32万円、ミニ万円である。やはり形が好きなのと軽自動車で維持費が安い点、あとはコンパクトなMTなので楽しめそうという理由である。

車にはこだわりはなく雨の日の通勤用である。ただ最近のノッポ系の軽自動車やオゲレツなミニバンとか大嫌いで仕方がない。ああいう醜悪な車が庭に停まっていて不快にならないのだろうか?

ぼくの家の車庫はリビングに面しておりリビングの窓からバーンとクルマが望める。いまはバイクが一台止まっているがなかなか気分がいい。ここに先のオゲレツ車が停まっていたら毎日の生活が台無しだ。

ともあれ最近のコペンとかロードスターは良いと感じる。バイクと同じで古臭いデザインが一掃されていく方向にあると感じる。ただ、高いんだよな。あまりに・・・。

そんなわけで今日は散々金を使ったし遊び呆けた。田舎でも楽しめる。ネットさえあれば、引きこもり生活に拍車がかかるのだが。

家に帰ると、実家から炊飯器が届いていた。5年ほど前に買った奴で、けっこう気に入っているので届けてもらった。蓋をあけてみたら、封筒が入っていて、祖母から、就職祝いが届いていた。金額、20万円。手紙には、100万円あげますとあって、残りの80万円は必要になったら送りますとある。

これは、ナイスである、ナイスであるのだが、もし大学1年のときにくれれば、ぼくは留年することはなかっただろう。あまりに仕送りが少なくて、生活苦で留年したようなものだったから・・・(もっとも怠け癖に加えて、対人恐怖的な要素もあったが)。

就職祝いに100万円とは、なかなか稀有なことだ。感謝はしたい。ぼくは普段家族に対してぶっきらぼうだが、家族はちゃんと見ていてくれたみたいだ。

こういう血の繋がりというのは不思議なものだと思う。ぼくは孤独で、独立していると感じているが、他方ではこういう繋がりがある。

ともあれ20万円はありがたい。最近買ったデカイものはドラム式洗濯機と電子楽器で、それだけで20万円はいくのだから実のところクレジットカードの支払いが怖いのであった。

残りの80万円を要求することはないだろう。大学では、家賃を除けば月5万円の生活費でやっていけたのだから。

買い物を続けるのは良いのだがそれにともなうゴミの処分に困っている。

家の一室をゴミが占領している。田舎のゴミ出しは、はっきりと、恐怖なのである。ゴミを出すのが怖い。プライバシーを詮索されたり、家に怒鳴り込んでくるのではないか、そういう恐怖がある。いわゆる「ゴミババア」だの、「ゴミジジイ」といった類の害獣はおそらく田舎では多いはずだ。

実際のところ日本のゴミの分別は世界一のレベルで、その細かさは異常である。

いやいや、エコ大国のドイツでも分別は厳しいんだよーという話もよく聞く。ぼくもそんなものか、と思っていたが、在日ドイツ人がゴミの分別に困惑し恐怖するという記事を読んで考えをあらためた。

今日はゴミを出してないんです。すごく怖かったからです!また間違えがあると、どうしようと思っています!夜もぜんぜん眠れなかったんです!!!今、すごい寝不足です。おじいさんはなぜ、私のゴミ袋だって、分かりましたか。どうして私のアパートを知っていますか。多分追いかけました!!! いやな感じですね!!!スゴクブチ切れました。

やはり「ゴミ出しに恐怖を感じなければならない」ことは異常であるらしい(そりゃそうか)。

日本のガラパゴス文化がここにもある。日本だけはいまだ戦争中なのだろう。ゴミの分別をしない人間は「非国民」なのである。

市民による市民の監視という権力構造がいまだ残っている。

ぼくは思うのだが、ゴミジジイやゴミババアは、もし日本が戦争ともなれば、怪しい人間や反戦的な人間を嬉々として憲兵に突き出すに違いない。

フロムが「自由からの逃走」において指摘したことは、ユダヤ人をより苛烈に追い詰め、ファシズムに心酔した人間は、「中産階級の下層」にもっとも多いことだった。

このあたりの、無教養で、自分の無力感や無価値観に苛まれ、脆弱なアイデンティティしか持てない人々は、ファシズムの権威に大変な魅力を感じるものらしい。

同じ構造は戦時中のファシズム機構の末端組織(町内会)にもあっただろうし、現代のネトウヨにおいても同様だろう。

とにかく、ゴミをなんとかせねば・・・。クルマがあれば、自分で焼却場に持っていくのだが。それもどうなんだ、という気がしてならないが・・・。一度、役所と相談して自分の庭から回収してくれと言ってみようか。


4.11.2015

静かな土曜日

はたらくことになっても見知った日常が流れるだけで沈滞した鬱屈した日々はここ最近異常に多い雨天の空のようである。

人間を知っているとあらゆることに驚くことはなくなるのであって、会社組織も人間の結合体である以上はなにかの模倣、なにかの再発現であって、退屈な点では大学と変わらないし、良い点もまた大学と変わらない。人の醜いところも、人の美しいところも変わらない。

内的な面でいえば、変わる点といえば給料をもらっていることくらいで、これを考えるとたしかに妙な気分になる。

労働に対価が発生する気分としてはバイトで経験積みだ。ぼくは仕事に対して絶対に「一生懸命に」なりたくないたちだ。もっとも、責任感は持っているが、自分と仕事を天秤にかけて、仕事を優先させるような価値観は持ち合わせていない。

献身というものが嫌なのである。それに、コンビニでは大声をはりあげて「こちらあたためますかああああ?」などと吠えるのがサービス精神だと思っているようで、事実旅行にきた外人などはクレイジージャパニーズは時給7ドルでここまでやるのかと驚嘆するのだが、毎日コンビニを利用する身としてはうんざりしてしかたないのである。

労働賛美といったものが日本にはびこっている。個人的には生きていく必要以上に働きたいなどとは思わない。週三日の休日、午後4時に終わるような勤務形態であれば、月15万円でいいから働かせてくれと思う。

都市部では時給換算すると最低賃金を割るような企業が多いらしい。給料もでないのにサービス残業したり休日出勤をするらしい。いや、別に田舎でも同様のなのだろうが都市部のブロガーしか見てないのだ。

まったく考えられないことだが、仕事にはいくらかの「やりがい」というものはあるのであり、それはぼくが一週間の労働によって学んだことでもあるのだが、しかしそれは賃金がご飯だとすればごま塩のような調味料的なものであり、あってもよいがなくても構わないものだし、それにひとはごま塩だけを食べるものではない。

働くようになって感じたことは休憩はきっちりとって定時にあがることが大事だということだ、一時間の残業でもぼくはヘトヘトにへばってしまいミスを連発した。

ぼくの先輩にあたるひとは、大学のOBなのだが、本当に労働漬けだ。土曜日に午前勤務があるのだが、彼はそれをこなしたあと、20時頃まで残業して、日曜日まで会社にきて仕上げる。まったく超人的だ。しかも多分彼は残業申請をしていない。

ぼくは彼をあまり尊敬できない。尊敬とは、自分が成りたい対象にしか抱けない感情だ。

たしかに彼はすごいところもある、技術も知識も持っているが、なんだか悲愴なのだ。なぜそこまで身を粉にして働くのだろう。彼の奥さんが去年亡くなったと聞いたことがある。まだ彼を知ってすぐだから、彼がいつかパンクしてしまうのか、それが彼の平常運転なのかはわからない。しかしだれに対しても明るくフレンドリーな彼は精神的にずいぶん危ない綱渡りをしているようにも感じる。


もうひとりの先輩は会社に大変嫌われている人でもう辞めることが確定しているのだが、ドギツイ顔をした人で、ヒラメを包丁の尻でさんざん潰したような感じなのだが、ぼくは彼がけっこう好きだった。

ぼく自身彼が掴めず苦手だったがひとに好意を抱く理由なんて適当なもんで、彼の着ているセーターがしぶくてセンスが良かったことと、ぼくが偶然机に置きっ放しにしていた「宗祖ゾロアスター」に反応して、「宗教に興味あるのか。俺は禅にはまっててなあ」というので、「西田幾多郎とかですか」と生意気な発言をしてやったら、「君、西田読んだの?」「いえ、最初の数ページだけです」「だよなあ」とアホっぽい会話をした、それだけの経緯である。

宗教に対する感情は、大部分の日本人は「いかがわしいインチキ」としか思っていないはずだし、ぼくの会社のオーナーも社長も部長も同様だろう。しかし実はいかがわしいインチキであるカルト宗教は「日本労働教」であるのだが、このことはあまり知られていない。これは国家統制のイデオロギー的統治と地続きである、日本人が無宗教だなどという考えはちゃんちゃらおかしいのである。

戦後後遺症という言葉があるが実際はいまだ日本人は戦争をしているのだ。その証拠が死ぬまで働く日本人であり、イニシエーション的なシューカツ、ケンシューである。

日本人に必要なのはまず宗教の鞍替えであって、日本労働教の狂気から離脱することである。もっともそれは創価学会のような体制的組織に組み込まれても元の木阿弥であるのだから、とりあえずなにかの聖典を読んでみるべきだと思う。

禅もキリスト教も仏教もインド哲学も中途半端にしか学べていないぼくではあるが、その上司同様、労働教組織においては異端であり、おそらく彼は堂々と異を唱えたはずであるが、ぼくはといえばまだ臆病な隠れキリシタン的な立場であり、昼休みは一時間きっかり、18時になったら帰りたいような素振りをするくらいのささいな抵抗をしているだけである。

ともかく彼は数ヶ月以内にはいなくなってしまうだろう。おもしろい、深みを持った人間は企業にそぐわない。

だいたいこういう人間は学校という組織でも嫌われるものである。

最近日本のダメなところはいろいろ繋がりがあっておもしろいと感じる。例えば自動車やバイクのデザインはどうもちんちくりんでダサい。

あまりにもダサいので外国のデザイナーを使うケースが多いが、それでも最終決定権は幹部にあるので、結局ダサくなる。例えばある設計士がこれ以上なく優れた企画図と、ダメな企画図を持って行き、事実上前者を選ばせるように仕向けたところ、幹部会議で満場一致でダメ企画図を選ぶ、ということがある。

こうしたことがなぜ起こるのか、いろいろ考えてみたのだが、これだけ都市景観が醜悪で、電線だらけで緑なく、群生するプレハブ小屋とか、ケバケバしい看板に囲まれていては、良いデザイン感覚なんて持ちようがないのだろう。だから良い趣味をもった日本人は外国車を買うのである。

ともあれ日本という国家を深く知りたいものだと思う。教育という過程でおそらく日本という国家はぼくの精神にイデオロギー形成をしてくれちゃっているはずである。その毒素から自分を解放するのが当面の目標である。

4.09.2015

散文的生活

朝7時に起床。携帯をチェック。ニュースとか、ブログの更新を確認したあと、お湯をわかして、その間シャワーを浴びる。コーヒーをドリップする。ドリップの間に、梅干しと、トマトを食べる。腹が空いていたらバナナを。コーヒーを飲みながら、仕事行きたくない系のサイトを検索して、日本が世界最悪の労働環境にあることを再確認する。

8時になったら着替える。私服で通勤できるのが良いところである。適当なシャツとチノパンを履いて、バイクにまたがる。

最近は本当に雨が多くてうんざりする。

だいたい8時20分には会社に着く。出社時間は8時半。新人だからはやく出社してやろうという気持ちは一切ない。

仕事は今のところ単純作業が多い。じゃっかんアスペルガーの入ったぼくには向いた作業だ。

12時半から一時間休憩。おにぎりか、惣菜パンをひとつ。ネットか本で時間を過ごす。

13時から、また業務。仕事内容は、いい加減うんざりしてくる頃だ。

18時になると、おめでとう、退社の時間だ。上司が帰っていいよといって、帰宅する。ほんとうは17時半退社のはずだったが、まあいい。

途中、買い物などして、19時帰宅。20時まで本でも読みながら風呂。それから自炊、食事。酒。

22時過ぎ、就寝。

最近の日常はこのループだ。

18時退社というとうらやましがられるがこの生活にもそろそろうんざりしつつある。

カフカは保険庁の事務をしていたらしいがそれは午前中で勤務が終わるのだという。だから執筆業などができたのだ。

いまの日本では一日八時間でも少ない方で一日12時間や14時間は平気で働かねばならないらしい。おまけに満員電車で片道一時間など普通なのだ。なんという荒廃した生活だろうか。

実際のところ八時間でも長いのであって海外では一日七時間が普通である。つまり9時に出社して休憩一時間、17時に帰るという具合である。このような時間的裕福さは日本ではまったく見られない。いくら金があったところで時間がなければ家庭は崩壊し夫婦仲は劣悪でプライベートのつながりは断絶されてゆく。思索や趣味の時間もとれなくなる。そうしてますます仕事にのめりこんでゆく。

ぼくには別に仕事に対する期待はない。数年務めたら、海外へ出るのだから・・・。しかし、数年とは何と長いことだろう!この一週間を、何百回も繰り返すのだと・・・。

それにしても、こうして、田舎の地で、まったくのひとりであること、肉親も、友人もなく、ぽつんとひとりでいることは、稀有なことだ、といま、酩酊の中で感じた。

外にはカエルが鳴くばかりで、四人がけのテーブルには、ぼくひとりが、キーボードを叩き込んでいる。

ぼくがいま、ここにいる必然性がわからない。

そう、納得しようとはした。ひとはどこかに身を置かねばならないのだから・・・。なぜここにいるのかは、問わないことだ、と自分に対して説得した。

かつての友人たちは、ぼくにこういったものだった。「なぜ、あんなところに行くの?」今の同僚たちは、「なぜこんなところに?」と問うのである。

なぜなのだろう?と自分でも考えるが、いくら考えても、わからない。唐突に疑問に襲われるのだ。これは自分の生なのか、ということを。

それにしたって、人生など、コントロールできるものではない。西へ行くつもりが、東へ行く。

どんな辺境へ行くにしても、音楽とか、文学は身近にあるのであって、それらがぼくの血肉と共振する以上は、それ以外の世界は瑣末な付属品というほかないという気がする。

仕事をしなくても、死ぬわけではない。アシジのフランシスではないが、貧困の生活もまた豊かなものである。

自由の時間は、しばらくお預けか。音楽と、読書が、恋しい。絶対的時間がないのだ。悲しいことだと思う。


4.06.2015

働くということ

田舎の企業で勤めて一週間ぐらいになる。

いまだ学生気分が抜けないぼくはたぶん光の速さで嫌われているだろう。別に嫌われてることはどうでもいいことだ。嫌われつづけの人生だから、もう慣れた。

多くの人が知らずに身につけている社交性といったものがぼくからは欠如している。

ある人間に取りいること、この技術を持っていないし、その行為に対する熱意も持ち合わせていない。

すべての人間はぼくの目の前を素通りしてゆく。

それは家族であっても変らない。

ぼくはほとんど家族とコミュニケーションをとらないが、それは別に悪いことではないと思っている。

中原道義だっけ?が、「成熟した人間は積極的にコミュニケーションをとろうとしない。それは例え親子であってもだ」というようなことを言っていて、その一言だけで自分を正当化している。

家族でこうなのだから、いったい社員たちとどう接すれば良いのだろう?

このように書くと完全なアスペのようだけど、社員の冗談には笑い声をあげるぐらいのことはするし、しゃっきりと爽やかな挨拶をするくらいの常識を持っている。

ただそのときのぼくは空疎であり、魂はどこかへ行っている。高度に社交的な空間は、ぼくの精神が毛嫌いするから、こう警告してくる。ここはお前のいる場所ではない、と。

ぼくのような人間が、どのように思われているかは知らない。

しかし、根本的には、ぼくは正しく生きようとしている人間であり、真とか、善とか、美とか、そのような理想が実在するかはともかくとして、そうありたいとは願っている。

ぼくにとって社会的地位はどうでもいいことだし、金銭的な追求はしない。豊かな生活は求めるけど、それは精神的、時間的な豊かさを求めているのであり…。例えばドラム式洗濯機を買う一方で、サラダとマヨネーズトーストという夕飯を食べている。

もっとも、労働の時間は決して苦役ではない。 ぼくは最近労働の価値を
知った。労働に従事しているひとびとは、その内側から見れば案外美しいものである。仕事という場において普通ひとびとは全人的にぶつかるのだから、そのような場で、人間が生き生きと輝かないはずはないのである。

それだから、最近は労働を苦役だと思うことはやめた。労働のどこにそんな価値が潜んでいるのか、ぼくは実際に働いてみるまでは知らなかった。

もっともこの労働とは、会社勤めである必要はないのであり、育児とか、芸術活動でもよい。

人間が人間である以上は、何か仕事をせねばならない。このことは事実であるようだ。

ニートだって仕事をする。というのは、インターネットが普及してから引きこもりは爆発的に増えたからである。彼らはネットのなかで仕事を見付けだす。それは2chで炎上させる「仕事」でもよいし、MMOのようなオンラインゲームでレベルを上げる「仕事」でもよいのである。

本来は社会的義務から逸脱したはずの引きこもりが、極めて自然に、自分の仕事を見つけ出すのは驚くべきことである。

人間とは、仕事をする生き物なのである。このことを、最近になって僕は知った。

前にも書いたことだが・・・、仕事とは食事に似ているのである。ぼくらは食事という行為の是非を問わない。モノを食べるなんてハレンチだから辞めよう、とはならない。ただし、そこには価値観が強く反映される。ベジタリアンは肉食を忌み嫌うし、ムスリムは豚肉を食べない。目玉焼きの味付けにしても、塩だのケチャップだの議論する。

我々はより良い食事を求めるし、その良い食事とは、それぞれ違う。それと同じようなことが、仕事についても言えるだろう。

このことを知ることができたことは、まだ勤務して一週間に満たないが、良いと感じたことである。

正直、働き始めて失望することも多い。17時半退社のはずが18時退社だったり・・・。残業代は申請式で、本当に出るのか?疑問だし・・・。辞められるなら、辞めてしまいたいという気もする。

それにしても、海外に行こうというのならそれなりの資金を貯めておかねばならない。

それに、今の生活にはいくらか満足もしてしまっているのである。田舎の一軒家は、いいものだ。ドラム式洗濯機も、すべてがオートマティックに働く便所も、スイッチひとつの風呂もすばらしい。

住環境が完成しつつある。

自分という人間は、このように埋没してしまうのかもしれない。たしかに暮らしは学生時代に比べてずっと良くなった。

だが、なんだというのだ。精神的な豊かさを、追い求めたいのではなかったか・・・。

少し、整理が必要なようである。それは月曜日という環境のせいもあるだろう。自己が不安定で仕方ない。自己が自己を掌握するには、孤独の時間と静寂が必要だが、日本的な労働はこれを破壊するのである。

ああ、疲れた。明日も仕事だ。









4.05.2015

大型テレビをもつ奴隷

圧政とは何か、と考えてみると、人間を人間でなくしてしまうということ、これ以上の暴力的政策はないだろう。

すべての人間は本来的に自由であるし、その生を自分のためだけに行使する権利を持っている。しかし、そのような近代以降の理想的価値観は日本においては僅少だ。

本当は人間だったはずのぼくらは工業的製品と兵隊のハイブリッドに作り上げられる。

実際的には圧政と聞くと貧農からの搾取というようなわかりやすいモデルが想起されるが、これは圧政とは言えない。まだ人民が決起する可能性が残っているからだ。

もっとも恐ろしくまた危険な圧政は人々が搾取され行動を支配されているにも関わらず、そのことに思いもよらない世論が形成されることである。

我々はいい暮らしをしている、確かに理不尽なこともあるが、他の国に比べれば・・・。

教育やメディアによってこのような価値観が形成されると少数派、例えば「この国はおかしい。われわれは奴隷だ」と声をあげるような人々は侮蔑され攻撃され抹殺される。

それは無知な人間に「地球は丸い」と教えるようなものだからである。

実際のところ抑圧的な社会においては市民が警察になり憲兵になる。市民の分断が行われ、少数派の危険因子は抹殺されてゆく。それが町内会でありPTAである。

たしかに手枷足枷といった奴隷的な象徴は現代では見られないが、注意深く観察すればいたるところに鎖は見えてくる。

それは例えばある企業に勤務する人に明らかであり、優良企業にいる人々は精神の支配を、ブラック企業にいる人々は精神と肉体の全人的な隷属化を受けていると考えることができる。

ブラック企業に苦しむ人は、普通に考えれば「辞めれば良い」のであるが、その辞める自由は彼にあるのか。

現実には、彼がどれだけ血反吐を吐こうが、愚痴を吐こうが、その異常な奴隷的労働から解放されることはない。

法律的に考えれば彼の離職の自由は保証されているはずだが、しかし彼は「奴隷的環境」から抜け出すことが事実上「できない」。

誰にとっても奴隷であるよりは自由人でありたいものだ。だから、彼が自由意志で奴隷的環境に甘んじているのだ、と考えることはやめよう。世間には特殊な嗜好をもった人がいるが、ここでは一般論で話を進める。

それでは、何が彼を奴隷的環境に繋ぎとめるのだろう?

我々は「行為」と「結果」に着目し、動機、意志といった要素はいったん切り離すべきだ。

そうでなければ、すべてが自己責任になってしまう。生活保護も自己責任だし、ニートの急増も自己責任だ。そうではない。

言葉を変えれば貧困層と失業者が増えているのである。それは個人の問題ではなく社会の構造的問題であることは明らかだ。

失業者が増えている国において、「失業者が増えているのは、失業者が悪い」と断じるアホがどこにいるか。それがこの国ではたいへん多いのである。

この日本人の思考様式はまことに奴隷的である。奴隷は主人に歯向かわないのである。奴隷の屈折した攻撃衝動はどこに向かうか。同じ奴隷、それもより弱い奴隷である。

ここまで気の向くままに書いてきたが、ひとつ大きな疑問がある。

このような支配様式、奴隷が奴隷であることに満足するような支配は、近現代の産物なのだろうか?

もしかすれば、絵本に書かれるような圧政、直接的暴力と直接的搾取のネロ的な暴政は、イデオロギーのひとつではないかということだ。

ブラック企業に勤める人が、そのような人生を歩まねばならなかったように、中世の貧農たちは、それなりに自分の人生に満足していたのではないか。「われわれの人生は、そう悪いものではない」という世論が貧農の中にもあったのではないか。

ブラック企業の人が23時に退社するときのため息と、貧農の人びとが豆だけのスープを前にしたときのため息は、同じ種類のものではないか。

つまりぼくらの生活は憲法や民主主義によって変えられた要素は何もないのであり、人民はいまだ奴隷的な貧農なのではないか。

というようなことを考えたが、少し極端だな。今の個々人は、たしかに豊かであるからだ。昔は金持ちにしか買えなかった大型テレビも数万円で買えるのである。

「大型テレビを持つ奴隷」そんなものがありうるのだろうか?

ハクスレーの「すばらしい新世界」では、大衆は豊かだがすべてがコントロールされている。大衆は「幸福」である。何の不満もなく生きている。

完成された統治とはそのようなものかもしれない。だれもが幸福だが、決して人間的ではない大衆。

「俺はいい生活をしている。たしかに仕事は大変だけど、この国は治安がいいし、飯もうまいんだよ」

このような発言がネット上のいたるところにある。満足した奴隷というところか。


相変わらずよくまとまらなかった。


ああ、読書をしたいのに時間がない。体力もごっそり削られている。学生時代が懐かしくなる。一日に40pくらいしか読めない。仕事になれてゆけば、何とかなるだろうか。

4.03.2015

支配と統治の一端

社会のなかにおけるぼくら個人は、統治される側であり、そして、支配される側である。

この当たり前の観点は、知っている人にとってはいまさら過ぎる知識なのだろうが、知らない人間はまったく多い。多すぎるくらいだ。大衆はみなこのことを意識することはないし、知ることもないと言っていい。

ぼくらは教育によって刷り込まれる。この国は民主主義である、と。つまり八百屋のおっさんでも酒屋でも、「平等に」投票権を持っているのだし、だれに投票しても「自由」であるから、民それぞれが国を支配していくのだ、とそのような理想像が学校教育・メディア教育によって刷り込まれている。

しかし実情としては日本では選挙は形式的な意味しかもっていない。だからぼくらは選挙結果にいちいち落胆せねばならないのだが・・・。

端的に言えばこの国には支配層があり民主主義など機能していない。我々は支配層に支配され、そして、統治されている。

こうした観点は、陰謀論的な一般的に頭ワルイ系の考えと思われがちだが、渡辺治という一橋の名誉教授が20年ほど前に指摘しており(「現代日本の支配構造分析」)、ああわりと大学のセンセイもこういうことを言うのだな、と感じ入った。

ぼくはといえば大変愚かしいことだが最近になってこの事実を知った。その源流には原発事故による政治に対する絶望があったのであり(それは国民に対する絶望でもあったのだが)、直接的なきっかけとしては安部政権のあまりにも強硬的な政治的態度がある。

なんとなく生き辛い国だ・・・と思うことは多かったが、その根底にはつねに、支配層による統治の図式が見えてくるのである。

サービス残業や個人の権限が無視される軍国主義的な企業体制であったり、理不尽に高すぎる税金や、町内会やPTAといった人心をコントロールする社会構造などに、統治の構造が随所に見られる。

そんなことは、明々白々だ。社会があるところに統治がある。

ぼくはいずれ海外に出たいと思っているが、いったいどこの国がこの支配をまぬがれているのだろう。日本のマスコミに比べれば何倍も公正に見えるBBCなどのメデイアもただ狡猾なだけと聞く。



ともあれ、ぼくには仕事があるのであって・・・。本当に、めんどうくさいことだ。明日も土曜日にかかわらず休日出勤せねばならない・・・。

別に強制ではないのだが、「強制ではないけど来てもらえる?」と言われて、断る新入社員がいるだろうか・・・。まあ、最低限給料が出るからましなのだろう・・・。この日本では。

仕事という領域に身をおいて気づくことはたくさんある。いずれ書きたいのだが・・・。日本的な労働観・・・。部活動の延長のような労働環境はいますぐ取りやめるべきだろう。もっとも、この労働に対する価値観も、支配と統治の構造に組み込まれているのであり、例えばサービス残業を廃止してホワイト企業になった中小企業が即座に経営不振に陥り他企業との競争に負けるように、われわれ個人とか、一企業がどうこうしたところで変わらないのだろう。変わるときがあるとすれば支配層に合理的理由があるときであり、少数派の民意などかき消えてしまうもののようだ。

4.01.2015

4・1

社会人一日目であるが、たいして感慨はない。普通の感覚で、普通に一日を過ごした。労働はたしかにつまらなく、味気なく、新人の立場は気をつかって面倒だった。

田舎の人びととの一日の労働を終えた。職場では東京出身(大学のOB)がひとりいるだけであとは全員地元出身だ。こういってしまうのは偏見かもしれないが、田舎の人びとは・・・。一次元的だ。

つまり重層的ではないのであって、人間的に深みを感じることが少ない。ヤンキーはヤンキーだし、オタクはオタクで一面的だ。もっとも都市部でも一面的な人間は多かったが、ぼくの興味をそそるような、この人は底知れないな、という人は少ない。

自然に考えれば、彼らがドゥルーズやカントを読むことはほとんどありえないことで、反対に、彼らがテレビ番組漬けであることは存分にありうることだ。

教養とは何か。音楽を知っている人間には音楽的視点が与えられるし、美術や文学についても同様だ。

宗教を学んでいれば、キリストや仏陀的な視点も与えられる。それは決して、意識上に表れるとは限らない。むしろ言葉にだして語れることはまれで、ある発言の些細な機微に、あらわれたりする。

そのようなわずかな教養の端々が、人間の深みを作っている。大卒が一般的に好まれるのはそのせいではないか。高校教育のような全般的教育ではなく、専門的知識を得たところ・・・。

ある民族衣装に精通する人間でも、ある有機合成反応をむさぼり学んだ人間でもいいが、そのような人間には、確固たる別視点があるのである。

壁にあるシミを見て「ああ、壁のシミだな」と考え、それ以上思考を深化させられない人は一次元的であり、そこから一歩踏み込み、美術的あるいは音楽的ーー哲学的でも宗教的でも科学的でもよいのだがーー 解釈を得られるひとが教養あるひとであるといえるだろう。


教養の要素がなぜクラシックにはありJーPOPにはないのか。なぜ名画には与えられバラエティ番組には与えられないのか。これは実際気になることである。

もちろんこの前提には多くの異議があることだろう。結局のところ「モーツァルト効果」はガセであったし、クラシックとJーPOPは同じ音楽なのだから対等だ、ということも理解できる。それは趣味の問題でしかない・・・と。しかしぼくらは趣味の問題に対しては沈黙すべきなのか?
友だちよ、あなたがたはわたしに言うだろう。趣味や嗜好のことは、争うべきではない。だが、およそ生きることは、趣味と嗜好をめぐっての争いである!
趣味とは、同時に分銅であり、秤皿であり、秤り手であることを意味する。およそ生きとし生けるものはで、分銅と秤皿と秤り手をめぐる争いを知らずに、生きようとするのは、救いがたい!
というようなことをニーチェが言っていた。

趣味こそ人間の本性が表れる。医者であるか、大学教授であるかはあまり関係がない。犬が好きか、猫が好きか。この程度の選択の方が、よほど人間には関する情報を与えてくれるものだ。

話を戻そう。クラシックは都会的だ。JーPOPは田舎的だ。JーPOPはまぎれもなくマスメディアが作り出した偶像だが、そのマスメディアは東京から発信されるのにも関わらず、東京人はかえって鼻白み、田舎の人々がより強く影響されていくのだから、皮肉な話である。

文化的荒廃のなかにあっても、田んぼの真ん中にあっても、何か救いを感じる。家を帰ったときに、内田光子のモーツァルトを流し、ドゥルーズを風呂で読んでいると、生き返ったような気持ちになるものだ。

まだ田舎に住んで間もなく、労働も一日済んだだけなのだが、学んだことといえば、結局、人生は苦役でもなく安楽でもないということだ。苦役と安楽の間、自由と不自由の間、そこを往き来すること、それが人生の本質なのだ、ということを感じる。

人間は、例え8時間を単純労働に沈めようとも、もしも彼が強ければ、その人生を豊かにすることができるのである。

教養というものが、もはやぼくに残された、すがるべき唯一のものになってしまった。

ぼくは惨めな人間だが・・・。人生に、何の不安もなくなってしまった。もう、人生、この生に、期待することもなく、したがって失望することもないだろう。ぼくの人生の大部分はもう決まってしまっていて・・・。20歳ぐらいのときまでは、人生は自分の意志で切り開くものだ・・・そのような感覚を持っていたが、そんなことはない。

人生は、もう、決まってしまっている・・・。それは、よくあるような懲役40年という話ではない。例え仕事を辞めて転職したとしても、ニートになったとしても、それは必然であり、ということは、決められてしまったことなのだ。

日本的な労働観は、ぼくのなかで完全に消えてしまったようだ。ぼくは仕事に喜びを見出そうとはあまり思わない。最上の音楽もyoutubeで聴けるのだし・・・。時間的な裕福さ、これが全てなのだろうと、個人的には感じている。

どんな時間でも自分自身の必要のためにだけ用いる人、毎日毎日を最後の一日と決める人、このような人は明日を望むこともないし恐れることもない。セネカ