5.31.2015

プチブル・ライフ

最近の自分は多少幸福めいてきて、困惑している。

運命は不思議なもので、ぼくがある地点に定まろうとすると、次にはそこから動かざるをえなくなる。永遠的なものに近づいたと思えば、それを取り去ってしまう。

ぼくは不幸こそ叡智の根源であると考えた。あらゆる知性は、苦しみと同質である。生きるということは苦痛であり、それが自然なのだ……「精神と全自然との合一性の認識」。
生きることが「楽しみ」とか「安逸」だと思うことが、人を一層怖ろしい絶望に陥れるのだ……ということを考えていた。

で、そういうある真理にたどり着いたと同時に、こんどは幸福に襲われるのだから参ってしまう。

ぼくの生活の大きな変化……学生から労働者への、ボロアパートから一戸建てへの、スクーターから軽自動車への、都会から田舎への、それぞれ変化は、ぼくに幸福をもたらしたようだ。ついでに、最近は職場にも受け入れられてきて、(かつての自分ではまったく想像もできなかったことだが)、労働者仲間と親しく雑談するようになった。

考えてみれば、中産階級のやや上、いわゆるアッパーミドルとか、プチブルという領域は、もっとも幸福に近い階層であるらしい。ぼくも現時点ではその領域にある。(もっとも、年収1000万円からがプチブルだ……いや、2000万円からだ……という定義づけはあるだろうが)

すなわち、ルンバが駆けて、ドラム式洗濯機が回り、トイレは自動で開閉する。これらのわずかな変化、わずかな解放が、積もり積もって、ぼくに幸福を与えてくれるようだ。

次には幸福を脱ぎ去らなければならない、ということを考える。いずれ、弛緩した生活は本物ではないと、捨て去るときがくるのかもしれない。

それとも、ぼくは幸福なプチブルとして、曖昧な知恵を抱えたディレッタントとして、今後の生を終えるのかもしれない?ぼくはとうに「治療されて」しまっていて、健康人として、凡庸なありふれた世俗人として消滅してしまうのかもしれない。

運命がぼくに命じているのは、お前はもう十分苦しんだから、十分知恵をつけたから、もう休め、祥を享受しろ、ということなのか。それとも、より大きな不幸と絶望を与えるための前準備なのか。

いずれにせよ、ぼくが幸福だと思うことは、金銭でも、名誉でも、快楽でもない。ぼくは富の蓄積それ自体に興味は沸かないし、承認欲求もあまりない。性欲はあるが、性交に対する熱情はあまりない。

ああ、でもたしかに、少し精神の変化はあるかもしれない。昨日は、孤独でささやかに幸福な土曜日には、家具屋に行き、セール品の8万円のソファに座ってみて、これはいい、ぜひ買いたい、というふうに思った。

8万円・・・学生時代の、一か月分の生活費だ!家賃を3万円差し引いて、残りは、50円の納豆とか、半額の魚の切り身とか、20円のモヤシを買うために、使ったものだ(もちろん酒やタバコにも使ったが)。

ずいぶん変わってしまった……。何も知らないうちに、人間は変わってしまうものだ。

でも、環境が変われば、人間が変わるのは当たり前だ。やはり、人間には差異などはないらしい。環境がすべてを規定する。自己とは、自己と環境である。不幸で、絶望に満ちた人間に、ぽんと1000万円でも与えてしまえば、もう変わってしまうだろう。

かつての自分と、いまのぼくは違うのだ。過去は断絶されている。ぼくはもうかつての自分には戻れないだろう。

ともあれ、ぼくは不幸に落ち着けず、幸福にも落ち着けないという予感はしている。人間は揺れ動く生き物であるらしい。永遠に定まらぬということがぼくの不幸であり、喜びでもあるのだろう。

「一度この病気にかかったものは、二、三度失望すると、もう自分とほかの人たちのあいだにはぜんぜん関係がない、せいぜい誤解があるだけだ、実際は各人みな絶対的な孤独の中をさすらっているのであって、他人に自分をほんとにわからすことはできない、なにものも他人と分かち合い共にすることはできない、と思い込んでしまう。そういう病人は思い上がって、たがいに理解し合い愛し合うことのできる健全な人たちはみな衆愚だ、と考えるということにもなる。この病気が一般的になると、人類は死滅するほかはないだろう。しかし、それは中部ヨーロッパと上層階級とだけに見られることだ。若い人たちの場合にはこの病気は治る。これはむしろもう青年の心身転換期の避けがたい病気にさえなっている」
……
「しかし治療法はありますよ。われとなんじとのあいだには橋がないというのは、また各人みな孤独で理解されずに歩いているというのは、妄想ですよ。その反対に、人びとが共通に持っているものは、各個人が各個に持っており他人と自己を区別する標準とするところの者より、はるかに多くかつ重大なのです。」
……
「じゃ、やってごらんなさいよ!本を読んだり、理論をひねくったりしてはいけない。……自分自身のことより、ほかの人のことをよけい考えるように、しばらく修業してみなさい!それが、なおるための唯一の道です」
「自分の幸福に対しある程度無関心にならなくてはいけない。自分なんかなんだ、と考えることを学ばなければいけない。それに役立つ手段がただひとつある。きみは、自分の幸福より相手の人の幸福が重大だというほどに、だれかある人を愛する修業をしなければならない。といって、恋をせよというのじゃありませんよ!そりゃ正反対です」(「春の嵐」ヘルマン・ヘッセ)
......
「まず自分のほうからほかの人びとを理解し、喜ばし、正しく遇するように試みなければなりません」



5.30.2015

差異という迷妄

それにしても、ぼくにはバカなことしか書けないようだ。どれもこれも薄っぺらく、表面的だ。女のように一元的にしか語ることができない。ある種の男性的な厳格さ、真剣さのようなものが欠如している。

永遠的なもの、偉大なもの、そういうものにあこがれることがあったが、もはや不可能だろう。ぼくの書くことは、ぼく自身を満足させることしかできない。

書くことのすべてが、錯誤に満ち満ちているようだ。そりゃそうだ。ぼくは勉強していないのだから。この世にはぼくの知らないことがたくさんある。知識は膨大に積み重なった。そうだから、ぼくより勉強している学者とか、作家なんかには勝てるはずがない。

それでも、なんだか執着が離れてしまった。ぼくの知らない美しい世界がどこかにある、とはもはや思わなくなった。

かつては、その執着がぼくを苦しめた。例えば、自分が東大卒でない苦しみ。海外生活経験がないことの苦しみ。本を1000冊読んでいない苦しみ。3歳から楽器を始めていない苦しみ。精神的な健康から程遠かった苦しみ。

でもまあ、ぼくはぼくであることしかできないのだし、ぼくはぼくであるというだけで、それはひとつの冒険なのである。

最近、個性というものを滅却させてみようと思っている。実に個性という迷妄がひとを苦しめるからだ。

フロイト心理学はクソデタラメだ。人間の精神が過去の経験によって規定されることはない。ハンス少年は普遍性を持たない。精神分析は狂人による病人の治療だ。そこに健康の概念はない。

健康な人間は過去に束縛されない。過去に執着することが精神の病気を生む。ぼくらが受けた親の教育から、学校の教育から、ぼくらは自由になることができる。というか、すでに自由だ。

ぼくらは、自分が自分であることの責任を放棄することもできる。ぼくらが今人生に苦しむのは、「毒親」のせいだ、と言うこともできる。「フロイト心理学によれば、過去の心的外傷が……」と知った顔をすることはできる。

ぼくらのポピュリスティックな無責任主義が、あるいは近代以降の自由意志に対する閉塞感が、フロイト心理学という神話を選んだ。ぼくらの未来と現在は、すでに決まっているのだ。つまり今の苦しみも、過去の清算でしかないということだ。

しかし実際は、親の教育なんて何の意味もない。

昨日会社の健康診断があったが、血圧が低血圧すれすれだった。そんなことは、これを読んでいる人には、自明のことだろう。高血圧の人間は以上のような文章を書かない。ぼくは低血圧であるがゆえに、日々鬱屈した文章を書く。

ぼくの血圧が50mmHg高ければ、ぼくの書く文章はまったく違うものになり、そうしてぼくはまったく違う人生を歩むことだろう。たかが血圧が、人間を左右する。

人間は規定されない。人間は記述されない。人間は論理ではない。人間は歴史をもたない。

ただし、病的な人間は規定されるし、記述されうる。カルテにおけるジェノグラム、エピソード。

ぼくは神経質に生まれた。そうして、低血圧である。親の教育なんて、関係ない。ぼくが神経質であることは、生まれもったものだし、低血圧であることは、親の影響よりはるかに食事の影響だ。

いま勤めている会社がぼくに影響を与えるとしても、それは固有の事実ではない。ぼくは普遍的なものしか受け取らないからだ。ぼくに与えられるものはぼくだけに与えられるものではない。そうして、ある人物にだけ与えられる事実もまた存在しない。

ぼくらの人生はある限界を持っているが、それは個という存在が限界を持た「ねばならない」からである。個として生きる以上は限界を受忍しなければならない。しかし、万人に共通の神性をもつ限りは、ぼくらは世界をあまねく満たすことができる。

個に執着すること、それは他者との間に線を引くことだ。そうして、小さな差異に、子どもじみた執着を持つことだ。しかし、人間と人間の間にそれほどの差異はない。

もちろん、社会において差異は重要なファクターだ。学者に向いている奴がいれば、ドカチンに向いている奴がいる。社会のもっとも根源的な意義は役割分担だ。だから、社会的生物は、必然的に差異に執着することになる。

だが人間は四肢を持つものだし、その目は二つで、指は五本であるし、「泣いた赤鬼」を読めば悲しくなる。「個性」とは、社会的迷妄である。われわれは個性を求める。人と違うことを望む。だが、それは手段と目的の逆転だ。ひとびとをありもしない個性に駆り立てる現代は、産業社会的な悲劇である。

ぼくらに差異はない。

だから、もっとも軽蔑する人間にも、自分と同じものを見つけなければならない。自分の中に他者を見つけ、他者の中に自己を見つけることだ。そうすれば差異という執着、個性という迷妄から抜け出せるはずだ。




ぼくはたしかに、世間的に見れば、個性的と言われる部類に入るが、ぼくに固有なことなんて何もない。ぼくを規定することは、少し神経過敏ということくらいである。

ぼくを規定することは、どこの大学を出たとか、部活が何だった、ということではない。神経過敏で、少し低血圧な人間ということだけだ。だれでも神経が過敏になり、低血圧になれば、ぼくと同じになる。ぼくに固有なものはないのである。

それって個性じゃないの?といわれそうだ。もちろん人間がすべて同じであることはありえない。そこには差異がある。しかし、差異よりも同質性の方がはるかに大きい。現代の社会的病は、差異を無限に増幅することにより生じる。

それは権力構造的必然なのだろう。社会組織が大きくなれば……ある人間がある人間の上に立たなければならない段階が生じる。そこに差異の神話が生まれる。次第に、人間が役割を持つのではなく、役割が人間を規定するようになった。それは進化というより、退化であると言えるだろう。

サルやゴリラにも階層構造があるが、ぼくらはサルでもゴリラでもない。ニーチェは俗人を「サルの中のサル」と酷評したが……。

なんかまたダメなことを書いた気分だ。今は土曜の朝だから、なんでも許されるだろう。

5.29.2015

ブラック企業とブラック学校

感情の起伏も何もない、ニュートラルな気分。

仕事の時間にあっても、それはぼくを責め苛むものではなくなった。

いろいろ改善したことがある。最近は、仕事にTシャツで行くようになった。いままではシャツを着ていたのだが。あとは、仕事中に水を飲むようになった。目薬をさすようにした。

今朝、某猫ブログを見たら、水を飲むことが健康において大事だとか書いてあった。これは事実だろう。ぼくも大学のときは、500mlのペットボトルを持ち歩いていて、給水機でなんども補充した。たぶん日に2,3リットルは飲んでいただろうと思う。水を飲むだけで、だいぶ気分がすっきりするものだ。

仕事が「させられるもの」ではなく、いくらか能動的になった。業務の効率改善案とか、そういうものも考えるようになった。

仕事は楽にこなすべきである。仕事を苦しんで行わなければならない、という考えは、唾棄すべき精神主義だ。この軍国主義的なストイシズムは、単純に労働時間と成果が比例する高度成長期には効果があったのかもしれないが、商品がハードからソフトに移行した今では、逆効果だ。日本をもっとも貧しくしている概念とすらいえる。

ぼくらは生活をゆたかにするために仕事をしているのであって、その逆ではない。仕事は苦しむべきだと考えている人は、その点で逆転している。

おそらく、仕事で苦しむ「ふり」をしている人間たちは、ふだんの生活で、かつての人生で、苦しんでこなかった人だろう。だから苦しんでいる自分を、楽しむことができるのだ。大学生が、バイトを「仕事」と言うような感覚だ。ぼくはといえば、もう苦しむのはたくさんだから、仕事くらいは楽にこなしたい。

仕事は、苦しみを与える場になった。仕事は、すべてを与えるようになった。だから人生を仕事に捧げる人が多いのだろう。


日本の大企業は「公的教育機関」と言われることがある。それは研修や独特の企業風土によって、社員の性格を巧みに書き換えるからである。それは単なる「仕事場」の役割を超越している。

日本の学校もまた独特なものである。学校は勉強するところ、というのは世界共通だが、音楽や美術の授業が毎週あったり、熱心な部活動があったり、ということはない。

すなわち、美術や音楽に、野球やサッカーに興味があるのであれば、諸外国においては、「家に帰ってから勝手にやれ」となる。単純な理論で、学校は勉強するところであり、芸術やスポーツは勉強するものではないからである。

ところが、日本の学校は何もかも提供する。それどころか、夜7時まで続く部活動や、体育祭が強制参加である。ついでに、躾も、友情も、道徳教育も、社会規範、公共心も、学校が与えることになっている。

このように、学校が「勉強するところ」ではなく、人格形成の総合的な教育機関になっているところに、日本的教育の特異点がある。

だから、子どもたちにとっては学校がすべての世界となる。なぜなら学校はすべてを与えてくれるからである。親も、社会も、不要になる。日本の子どもにだけ反抗期があると聞くが、そういうところに理由があるのではないか。実質的に親が不要なのである。

学校がすべてだから、日本では「学園モノ」が大流行するのだろう。一般的には、学校は勉強するだけの退屈なところだが、日本では世界のすべてなのだ。

それにしても、いったん学校が世界のすべてとなってしまうと、そこからの落伍者はつらいものがあるだろう。何もかも与えてくれる母性的な世界の喪失を意味するからである。

学校へ行かなくなると、子どもたちは「ひきこもり」になる。これは象徴的な事実だ。というのも、彼にとっては学校の世界がすべてで、そうであるからこそ、学校へ行けなくなったならば、じっと行動を中止するしかないのである。

まあ「ひきこもり」になったならば、不良仲間とつるんで狼藉をはたらくということはないから、良いのかもしれないが。

長くなったが、上記のような日本的学校教育は、すべて日本の大企業風土にも当てはまるものだ。会社がすべてとなるプロセスには、まず「学校がすべて」であったという背景があり、それは学校から企業へ場が移っても、まるで変わることがない。

人格形成のすべてを企業や学校にゆだねること、喜びも、苦しみも、すべてを企業や学校の「中に」求めること、つまり人間の個々の生が、企業や学校に内包されること、これは日本特有の心理状況だと思う。


当然ながらぼくはこのような風土を危険だし、おかしいことだと思っている。企業や学校に内包されたままの人々は、おそらく死ぬまで世界に立脚することがなくなるからである。

生の与えてくれる苦しみや楽しみを、直接に感じることはなく、マスキングされた、あるいは加工されたデタラメな感情を、企業によって与えられる構造は、はっきりとグロテスクである。

この考えでいくと、日本に溢れかえったブラック企業の根底には、ブラック学校の存在があるといえるだろう。教育の責任は重い、ということだ。

乳母からすべてを与えられるように、企業や学校からすべてを与えられるのであれば、もはや「私生活」など不要になってしまう。個人の生は、企業=学校に捧げられた生になる。ブラック企業から離れられず、依存する人が多いこともよく指摘されているが、これもまた同様の心理背景があると言えるだろう。

自分の生は自分のものでしかなく、その意味で個々人それぞれが責任を持っている。その責任を、放棄してはならない。

世の中には拘束されることに安らぎを覚える人がいる。人形として動くことに疑問を持たない人がいるが、そこから解放されることだろう。

5.27.2015

苦しむことについて 5

生きることに向いていないということが、私の天才の徴かもしれないし、私の臆病さが洗練さの徴かもしれない。(ペソア)

苦しむこと、それが真剣に生きることなのであれば、そうなのかもしれない。

実際のところは、ぼくは楽になりたいとつねに思っていた。

世間の人びとが何気なくとおりすぎていく日常の日々が、ぼくにとっては痛苦と絶望に満ちていたものだから、ぼくは困惑して、這いつくばり、救いを求めたものだった。

結局、楽になれればそれがいちばん良いのだ、と思うけど、それは許されなかったというわけだ。だれによって許されなかったかといえば、それは社会でも法律でもなく、なによりも自己に許されなかったのである。

だから、ぼくにとって自己は二重の意味をもっている。ぼくをもっとも苦しめる仇は、まずもって自己なのである。しかし、いまとなってはもっとも大きな恩寵を与えてくれる存在も、また自己だ。

ぼくの生は苦しみに満ちているものだ。ぼくはある種の神経過敏で、音、光、あるいは人間関係や社会的抑圧のような、環境のなかのあらゆる要素・刺激がぼくを責め苛むのである。

世間的にこういう人間はよくいることだろう、こういう人は、ひどくなると、神経症になる。神経症になった人間の人生は、ひどい孤独と、絶望のなかにおかれるけども、革新的な神経症治療法(まあやることは草むしりだが)を確立したことで有名な森田センセが言うには、「神経症は病気ではない」ということである。

ぼくとしてもそのように思う、ぼくは普通の肉体を持っていて、病弱というよりはむしろ頑強だ。だから自分が精神を患っていることが不思議で仕方なかった。だがその理由は簡単で、神経が鋭敏なだけなのだ。

神経が鋭くなっているということが、ぼくを日常の仕事において無能化し、絶望に陥らせ、そうして、音楽や絵画にぼくを陶酔させ、読ませ、この文章を書かせる。

だから、ぼくの苦しみというのは、自己のどこかが間違っていたり、欠損していたり、失調しているわけではないのだ。それとは反対に、ぼくが苦しむことは、自己が自己であるがゆえのもので、それ自体はまったく健康ということになる。森田センセの言いたいことはそういうことなのだろう。

「私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ」という古い作品のあれになる。

ニーチェの提唱した概念もこういうことなのだろうと考えたりする。ぼくは何も、自分から苦しみの渦中に飛び込みたいと思うことはないのである。しかし、結局は、川が海に流れていくように、絶望に引き寄せられてしまう。

問題は、その流れに逆らうのか、その流れを受け入れるかだ。能動的ニヒリズム、すなわち永劫回帰の承認とは、そういうことではないのか。

社会は、快適さを追及せよ、と世間に訴えかけている。虚偽の人生モデルができあがっている。それは、もはや苦しむことのない世界、キリスト教的な、楽園のモデルである。都市は楽園だ。自然から、恩恵を残し、苦しみと絶望だけを排除した「快適な」世界。

だから、田舎にいって、美しい、畏ろしい自然に囲まれながら生きることも、また神経過敏の人生の必然なのだ、ということも考えたりする。(ペソアは都市好きだが……)

ともあれ、このひとつの真理というべきか、苦しむことについての省察は、けっこういい感じのものだと思う。

ぼくは神経症を10年以上患っていて、もがき苦しんだが、近頃になってようやく克服できたと考える。克服とは、治療ではなく、単に受け入れるということだけだが。だからまあ、この省察は、ぼくにとって10年の重みを持っている。

仕事に行こう……。

5.26.2015

雑記

何も書く気が起きない気分。

昨日は憂鬱ひどく、さんざん仕事でミスをやらかした。頭が麻痺したように動かなかった。自分でも笑ってしまうほどのミスだった。

ときどき自分が障害者なのではないかと思うときがある。まちがいなく社会不適合者であるし、たぶん受診すれば精神疾患と診断されるのだろうが、こんな自分がフルタイムでまともに仕事をしているというのだから、それは奇跡に近いことである。

どんな場に行っても、「自分はいまここにいてはいけない」という気分が消えない。もっとも田舎はふつうそういう場所だ。「私はこんなところにいるべきじゃない!」と若者たちは都市部に行く。そうして、「私はここにいるべきなんだ」となる。

でも、東京より田舎ははるかに快適だ。静かな環境にすぐ逃げ込むことができるし、海や空が美しい。それに、ルンバとドラム式洗濯機を買ったら、ほとんど家事をする必要もなくなった。車を持ったら、ずっと日常が楽しくなった。

二回目の給料が出た。思ったよりも、税金や保険で持っていかれるから、給料は少ない。それでも、家賃はほとんど出るから、給料は自由にできる。

金を何に使うべきなのだろう?

何よりも、時間が欲しい、ゆっくり休む時間と、本を読む時間と、楽器をやる時間と、旅行に行く時間を。ぼくは、働くために生まれてきたのではないのだ。

そうだから、ひとつには貯蓄するのが良いのだろう。仕事を辞めてしまえば、時間ができるから。有給もとりにくそうだし、そうするしかないのが実情だ。

労働のなかに喜びを見出せるひとはすばらしい。ぼくは仕事に熱中することができない。いつも、時計ばかりみて、一時間経った、これでいくら稼いだ、と自分を慰めている。援助交際をしている女子高生のような空しい気分だ。

都会の商品たちは、「欲しいでしょう?」と言う。都会の仕事たちは、「楽しいでしょう?」と問いかける(そうして労働者たちは「役に立っているでしょう?」と顔色を伺う)。でも、商品なんてガラクタばかりで金の無駄だし、仕事は辛いものでしかない。変な付加価値をつけて、自分を慰めることもできるけど、それは無思考がゆえだ。

都会では、つまらない仕事に従事させて、つまらない商品に金を使わせる、ひとつのサイクルができている。愚鈍な人は働き損だ。いつまでも搾取されることには変わりない。だから、最近の消費しない若者というのは、少しの希望だ。あるいは搾取が少し露骨になって、はじめから賃金を与えないという構図になっているのかもしれない。



ぼくはここでさんざん、自分が知者や賢者かのように語っているけれども、それにもし騙された人がいるとすれば、実際のぼくを見て幻滅するだろう。

ぼくはてんで楽しい会話ができないし、変なところで笑うし、挙動不審の、気持ち悪い人である。そうして、仕事は本当にできない。たぶん、10年仕事を続けて、ようやく普通のひとの2年目、というところだろう。責任感がないから、失敗してもへらへらしているし、不愉快きわまりない存在だ。

ついでに、あらゆる支払いを滞らせ、期限をまったく守らない。法律もたいして守らない。信号無視くらい平気でやる。年賀状は返さない。そうして、電話にもほとんど出ない。留守電も聞かない。折り返しもしない。

そのような、社会性は皆無の人間である。

とうとつに自己紹介を始めてしまったが……。

自分の思考を吐露する場面にあまり出くわさない。ここに書きなぐる程度のものだ。でも、たまに少数の友人に自分の考えを打ち明けるときは、まるきりキチガイのような扱いを受ける。

実際、ぼくはキチガイなのだろう。それでいいんだとも考える。ぼくはバカで、気持ち悪い存在だし、どこにいても邪魔者だし、使えない無能なのだろう。しかし、それはけっこう。ひとりで立つことは、気分のいいことだ。

5.24.2015

苦しむことについて 4

苦しむこと、それは精神を深化させることである。

ニーチェの思想を理解する上で重要な対概念がある。それは「健康」と「病気」だ。

肉体において……
  • 健康な人間は運動し、肉体に負荷をかけることで、能力をつけ、成長する。
  • 病気の人間は刺激や運動を遠ざけ、安静に臥すことで療養する。

これを精神に転化したのがニーチェの考えである。

すなわち、
健康な人間とは、生存が苦痛に満ちたもの、無意味なものであることを教えるペシミスティックな認識、生存への意欲を毀損し、生存に敵対的に作用するような認識を真なるものと認めることができるばかりではなく、自らの健康のために、生存を一層無意味なもの、一層苦痛に満ちたものにするようなペシミスティックな認識を真なるものとして欲求し、自分のために捏造する意欲すら持った存在を指すと考えねばなりません。このような健康な人間こそ、ニーチェが「強者」と呼ぶ存在に他なりません。(「知の教科書 ニーチェ」清水真木)

だから、既存の価値観によりそうような、プラトニズムやロマン主義といったものをニーチェは批判したわけだ。

ルー・ザロメ(左)への求婚を即座に拒否されなぜか上機嫌のニーチェ

最近、ペシミスティックな考えを受け入れることが大事だと、繰り返してきたけど、なんのことはない、それはニーチェの考えだった。

自分のオリジナルな考えってないものだな。何年か前に、ずっとニーチェの本を読み漁っていた時期があって、鞄にはいつも「善悪の彼岸」とか「ツァラトゥストラ」があったのだが、その影響が今に残っているのかもしれない。

ギーターを読んでいると、師の言うことに忠実であれ、とか、師を敬え、という記述がよく出る。ぼくにとっての師匠?そんなものはいないのだが……と考えたのだが、よく考えれば、師が今生きている必要はないわけだ。

それなら、ニーチェに弟子入りしようか、とそんなことが頭に浮かぶ。



昨日は会社の人間と飲み会へ行ってきた。少し高めの中華料理屋で散々、飲み食いした。

社長の奢りだから懐は痛まない。ビール、ビール、ビール。最後には、代行を呼んでもらった。「領収書をもらっておけよ」と耳打ちされた。

昔のぼくは酔っ払うと、ひどい倦怠感でしゃべることができなくなったが、最近は笑い上戸になってきたようである。どちらかといえば饒舌になった。

こういう変化はあっても、相変わらず飲み会という場は大嫌いである。なんだか幼児的な集まりだ。ひとり、ダメな社員というか、仕事はそこそこできるのだが、性格が子ども染みた人間がいて、まあ60歳近くなのだが、彼のせいで飲み会はさんざんになった。別に暴れたりというわけではないが、つまらない話をえんえん聞かされたので、ぼくは眠くなってしまい、あくびをかみ殺すしかなかった。

いい年をした大人であっても、何も知らない子どものような人間というのは、やはりいるようである。下品な笑い、低俗な会話、不真面目、虚偽、まあ彼のような人間は、もはや何も知ることのないまま、消えてゆくのだろう。

声の大きい人間のために、その他のおとなしい人間は我慢せねばならない。そういった実情は、飲み会でも社会でも変わらないようだ。

それにしても、飲み会は、多少ぼくの孤独をやわらげてくれたようである。少しでも、質が悪くても、社交は必要だ。ぼくはといえば、四月から、まるで友人などいないのだから。

信頼できる友人が欲しいとは、少し思うが、そんなものは永遠にできないだろう。ぼくに必要なのは「場」であって、ある対象ではない。友情は存在しないのだから。

人間と人間は、相容れない。できることは、同じ場を共有することだけだ。

5.23.2015

予言について

昨日はあきらかに精神に変調が起きていて、変なことをたくさん書いた。

仕事へ行ってからも、違和感がずっと残っていた。ぼくだけがおかしいというよりは、みな、少しずつ違っている。疲れやすかったり、ぼんやりしがちだったり。かえって妙に元気で、普段おとなしいひとが饒舌だったり。

そうだから、その原因はなにか、とずっと考えていた。5/22は明らかに変な日だった。ニュースを見ると、たいしたことはおきていない。箱根山も噴火していないし、特に地震が起きたわけでもない。

ひとつ気になるのは、環水平アークが全国的に観測されたということだ。


空がおかしかったから、みんな変だったのか……と、妙に溜飲を降ろした。こっちでは計測されてないけど。



予言とか、予知など、バカバカしいものだ。未来を知る?そんなことはできるわけはないと、理性は言う。科学では否定されてしまうけど、宗教では予言はきわめて重要だ。

おもしろいことに、コーランではキリストは「預言士」として書かれている。そうして、キリストの受胎も予言されたものだが、予言した東方の三博士はゾロアスター教徒である。当然ムハンマドもアラーの「預言者」である。

預言と予言を混同するな、と言われそうだが、予言とは、未来の予測であり、預言とは、人知を超えた知恵である。根本では同質だ。

なぜ人は予言が可能か。

大災害だろうと、政治革命だろうと、突然起こるわけではなくて、必ず膨大なエネルギーが蓄積していく過程があるはずである。そういった変化は、目に見えない領域であったり、他者が見過ごしてしまうようなところにあったりする(ナマズなどの動物は、それを感じ取っているわけだ)。こうした情報を受信することで、ある程度の予言ができるんではないか。

だから予言とは、注意深さ、感性の鋭さ、と換言できるだろう。大災害も、おそらくは事前に感じ取ることができるはずだ。もっとも、ネットでよくいる予言士なんて、すべてペテンか錯誤だろうけど。

だいたいの宗教家において、予言は重要なファクターだ。あとは呪術も(ゾロアスターは呪術師)。

予言は単なる感性の鋭さであり、呪術とは言葉の力である。つまりは、センスのいい詩人なんて、宗教家に適正があるのだろう。ヒンドゥー教においては、真理にもっとも近い人物は「詩聖」と言われていた。

まあよくわからないことを書いた。ともあれ、先のことを知ることは大切である。それは人間を超えた能力というよりは、人間本来の能力であると思う。



5.22.2015

苦しむことについて 3

自分のしていることの価値も、自分がなぜここにいるのかも、知らない。

自分が身を投じているちっぽけな職場も、おもしろみのない仕事も、なにも自分の精神に影響を与えない。

労働はなんらかの効果を及ぼすと思っていたが、かえってその空虚さが意外だった。日常は灰色に潰される。

だから、ひとは四十年働ききったあとに、何もなかった人生に絶望するのだろう。返して、と、ぼくの人生を返してくれ、と嘆くのだろう。

人間の生は、苦痛には耐えられるけれども、空虚さには耐えられないものだ。苦痛はむしろ、人の精神を深化させるものだ。だから、われわれは十字架を求めるのだ。

人は、存分に苦しむべきだ。

会社という環境が、ひとを管理してくれる。管理されると、ひとは苦しみから解放される。

そうだから、フーコーの言説を借りて、「人々は管理されているんだ!」と告発したところで何も変わらない。真相は、「人々は管理されたがっている」という点にあるからだ。

だからまあ、ひとびとがぐうたらであることは仕方のないことだ。それは楽だからだ。怠惰はあらゆる情熱の覇者である、からだ。

労働漬けの方が、人生を考える必要がなくなる。「私の生はこれで良いのか」という命題も、「私はなぜ生きるのか」という命題も、もはや頭をちらつくことすらなくなる。



ぼくの人生はといえば、相変わらず、楽ではない。楽なときもある。でも、半日楽だったと思うと、こうではない、こうではない、と脳みそが締め付けられる思いがする。

人は飢えるべきだし、人は孤独であるべきだし、人は痛みを感じるべきだろう。断食したラットの方が健康な肉体である、という。

管理された人生は灰色だけれども
数々の呪詛が
労働者の生活に
架空のいろどりを与える

架空のいろどり、それは昇給や昇進、高級車や、飾り立てた女たちだろう。

最近考えたのだが、観覧車は太陽のメタファーで、ジェットコースターは山、スプラッシュマウンテンは川なんだと気づいた。お化け屋敷は深い森だ。メリーゴーランドは天体?かよくわからないが、ともかく、われわれは、自然の中での楽しみや恐怖を、遊園地という人工物のなかで得ているのだと知った。

しかし、遊園地などバブルが過ぎたらばたばたと潰れてしまったことが示すように、それは架空のいろどりでしかない。模倣品は、どこまで追求しても模倣品。本物には敵わない……。

高級車も、それは架空のものだ。

最近、あることを考えた。

生活のなかに、一台の高級車があること。一匹の猫があること。どちらが豊かだろうか?

The Cat - Gwen John, 1905-1908

明白にコストがかかるのは前者だが、その喜びは、後者の方が大きいだろう。単純な事実だが、しかし、そのことにぼくは驚いた。

考えてみれば、車やバイクを保有することはペットを持つ感覚と似ている。

好きな車は眺めているだけで楽しいものだし、一緒の時間を過ごすことを喜ぶものだ。そうして、エンジンの動力に感動するときも、それは動物の能力に驚嘆するときとよく似ている。



労働者たちの生活を彩っていた呪詛は、もうその効果を失わせてきている。

かつて、ひとはがっつりと働いた。ラジカセ、ビデオデッキ、スポーツカー、CD……欲しいものがあったからだ。しかし、「しまむら」とか「吉野家」、「ダイソー」が世の中を埋め尽くしてしまうと、しだいにこうも考えたくなる。

金なんて、要らないのでは……。

金を使うことの喜びが消えると、経済社会は破綻する。

そうだから、今度は、消費の喜びにかえて、金を失う恐怖を強めることにした。老後は金がないと生きていけない……と、ひとびとは思わされている。

その恐怖で、ひとびとは貯蓄にかりたてられ、そうして、高齢者の三分の一は2500万円以上の貯蓄を得るにいたった。

でもほんとうに金がなくなれば、生活保護で生きていけるものだ。国民の生活は憲法で保障されているのだから、実は何の不安もないのだ。

それでも、メディアが恐怖を植えつけるから、老人たちは騙される。老後が不安だ、と。そうして利潤を得たのは保険会社や、投資会社だろう。

愚鈍なひとは、生活を奪われた上に、その報酬すら持っていかれる。何もかもふんだくられるというわけだ。



何か辛いことがあったのなら、服を買いあさったり、焼肉を食べたり、ガールズバーにいかなくても、静かな海辺で、ゆっくり夕日を眺めていれば、それで精神は楽になるものだ。

偽者を買う必要はない。本物がいたるところにあるからだ。それに気づいてしまえば、もう金に執着することはなくなる。

恋愛もひとつの執着だ。

彼女のような人には
二度と会えないかもしれない

これは錯誤だ。なぜなら、あらゆる人間は、根本において同質だからである。

人間の根底に流れる神性に気づくこと、これさえできれば、あらゆる人間を愛することができるだろう。……ぼくはまだこの領域には達していないが。

孤独であることが、あらゆる人間を相対化する。長い孤独のなかで、ぼくの精神は独立したと言えるだろう。人間(じんかん)にあって迷わず。

ヴェーダによれば、純質の知恵は始め苦しく、あとに幸を与える。激質の知恵は始めに快を与え、あとに苦を与える。

ぼくの精神も、そろそろ楽になりたいものだ。もう十分苦しんだよね。

社会は悪で、孤独は善です。そして孤独な人間は本当に他者を必要としません。それは自己充足的存在です。エピクテトスは、本当の財産は私たち自身のなかにある財産であると教えてくれはしなかったでしょうか。モンテーニュは他人から借りることを止めて、自分の中からのみ汲み出せと忠告してはいなかったでしょうか。(「はかない幸福―ルソー」ツヴェタン・トドロフ 某ブログより……)

孤独はいいものだ。

ぼくは苦しんだ
世の中の
たいていの人間よりも苦しんだ
そうして
もがいてきたのだ
絶望の海で
溺れ死ぬ寸前だった

自分は人よりも苦しんだ、とはっきり言えることは、良いことだ。稀有なことだ。

神経症を患った短い人生のなかで、わずかな報酬があるとすれば、私は苦しんだ、という確信ぐらいのものだ。

だから、この確信を大事にしようと思う。

5.21.2015

笑うな

自己はすでに完成されている。

自己は世界であり、世界は自己である。そうして、世界=自己は絶対存在であり、絶対神である。

これがヒンドゥー教(大乗仏教)の教えである。アートマン=ブラフマン、つまり梵我一如の考えだ。梵とは宇宙の最高原理であり、我とは自己である。

考えてみると、自分は神と同一なのだ、宇宙の最高原理なのだ、と考えることは究極的な自己肯定といえるのかもしれない。

それはつねに傲慢や錯誤と隣り合わせだ。だからまともな宗教では思い上がりを厳しく戒めるし、そういう予防線を張っても、ある宗教が邪教化したり、政治に取り込まれたりということはしかたないことなのだろう。

ヒンドゥー教は究極的な自己肯定にその本義がある。結局は、自己の最奥と世界を同一化させるプロセスと言えるのかもしれない。
通常の理性では信じがたいことかもしれないが、君──そして意識をもつ他のすべての存在──は、万有のなかの万有だということなのである。君が日々営んでいる君のその生命は、世界の現象のたんなる一部分ではなく、ある確かな意味合いをもって、現象全体をなすものだと言うこともできる。…
周知のように[古代インドの]婆羅門たちはこれを、タト・トワム・アスィ(Tat tvam asi=其は汝なり)という、神聖にして神秘的であり、しかも単純かつ明解な、かの金言として表現した。──それはまた、「われは東方にあり、西方にあり、地上にあり、天上にあり、われは全世界なり」という言葉としても表現された。(「道を求めて」エルヴィン・シュレディンガー)

キリスト教もまた、自己肯定である。それは十字架を背負うこと(生きること)の肯定だからである。受難を「引き受ける」ことは、運命の享受(自己肯定)であり、十字架を背負ったキリストとの同化である。

宗教など、群盲象を評す、でしかないのかもしれない。われわれ人類はいまだに真理に到達できていないのかもしれない。であるから、さまざまな教義や宗派は同じ真理を表しているということがありうる。

ただ個人的にはヒンドゥー教の教えはすばらしいと感じる。まだキリスト教は深くは知らないし、ヒンドゥー教の教えと言ったって、ギーターぐらいしか読んでないのだが。



この田舎にもインド料理店があって、たまにいくのだが、インド人たちは、ほとんどしゃべらない。笑顔にならない。まるで接客業失格のその態度は、かえってインド人の強さの表れのような気がする。

インドへ旅行へ行ったときも、まじめな人々は、へらへらと笑うことはなかった。にっこり、仏陀的なほほえみをたたえるだけであった。へらへら笑いかけてくる奴らは、ほとんどがすべて詐欺師で、あとはヤク中だった。

だから日本へ帰ると、コンビニ店員まで媚びた犬のような表情(失礼)をすることに、だいぶ違和感を覚えた。

たしかに、接客業とは客がいなければ成り立たない商売である。でも、そこまで人間を安売りしてしまう必要があるのか。だいたい、客がいなければ成り立たないのはコンビニオーナーである。バイトごときは、客が来ない方がむしろ楽なのである。

あるいは、他者に対する恐怖心が笑顔という防衛機構をはたらかせるのかもしれない?たしかにぼくが接客業をしていても、かのインド人のような態度をとることは難しいだろう。客のクレームとか、上司の恫喝が怖くて、それはできないだろう。

インド人の半端な仕事は、実にいい気持ちになる。

就職してから、手抜き仕事を見るとほっとするようになった。

例えば、この前アメリカから射撃訓練用のイヤーマフを輸入したのだが、その梱包が実に爽快だった。ダンボールをあけると、剥き出しのイヤーマフがゴロンと入っている。それだけだ。

日本であれば、ビニール梱包と、乾燥剤と、何枚もの説明書きと、クッションがしきつめられているはずである。そうして、外箱はガタピシとビニールテープで圧着されているはずだ。

米人は合理的である、といえるのかもしれない。梱包剤でぎゅうぎゅう詰めにするよりは、傷物や故障品は交換してやる方がローコストだろう。

また日本の愚痴になるが、梱包がひどすぎる。組み立て家具をひとつ買うと、それだけで40lのゴミ袋に収まらない量のゴミがでる。これがエコの国なのか(いや、そうではない)。

これが「おもてなし」の実像なのだろう。バカバカしいありがた迷惑の連続だ。それは労働神経症の結晶だ。

人間はもっと自然体で生活できるようになるべきだ。コミュニケーション能力なんて言葉は棄却すべきだ。他者が好きかどうかは、生まれたときにすでに決まっているだろう。神経質な人間は他者が嫌いで、鈍感な人間は社交好きだ。それは赤ん坊のときから判別できる。よく笑う子どもと、よく泣くこどもだ。

神経質な人間が社交力をつけようとすること、それは自然体からの離脱、すなわち人工物化、工業製品化でしかない。実際のところ、臆病な人間が無理して発するジョークほど場を白けさせるものはない。

自然体であることは、笑顔とか、おしゃべりにあるのではない。かえって無口になること、他者を遠ざけることでもある。

だから、笑顔をやめるべきなのだ。インド人のように。ニコニコ笑いのファシズムに屈するな。君よ、一個の独立した不機嫌者であれ。



日本人は労働神経症である。その本質は、自己否定にある。つまり、自己よりもマニュアルの優先である。

労働において、仕事にあくせく取り組まなければならないと考えている。「仕事は辛く苦しいもの」だと思っているし、そうであるべきだと思っている。

しかし、太古から人間は働いてきた。それは本能的活動だった。

ひとは狩をし、釣りをし、種を植え、家を建てた。そうでなければ、自然を眺め、絵を描き、踊り、音楽に親しんだ。

自然的営為から、現代の労働は逸脱している。

サービス業は現近代的な発明品である。その過剰は、資本主義的社会の末路と言えるだろう。

なぜなら、もはやモノを売ることができなければ、サービスを売るしかないからである。そしてもはや売るものがなくなれば、資本主義社会は崩壊する。

日本では醜悪なデザインのミニバンがブームである。これは作られたブームだ。売りモノは資本力によって創り出される。

客は「創り出される」。客はあるものではなく作るものになった。それはテレビ広告によって、ネットの恣意的なブームによって、企業=学校教育によって。

人々は「買いたい」と思うが、実のところ、それは「買わせたい」という企業の精神と合致しているのだ。

ぼくらは店員のサービスが悪いとクレームをいれる。なぜなら、ぼくらは「サービスが欲しい」と思わされているからである。

「俺たちは客だぞ!」という悲痛な叫びが聞こえる。彼らは、もはや自己を喪失している。企業の意志にしたがう、資本主義的工業製品に成り下がっている。

まあよくわからないことを書いたが、少し煮詰めたい。

5.20.2015

Coffee Roomba

とくに書きたいこともないニュートラルな感覚。平和ボケといえばそれまでなのだろう。

最近生活が優れて豊かになった。ルンバが届いたのだがそれではない。18時に帰社したあとに、一杯のコーヒーを飲むことにした。そして、車の中か図書館で、一時間程度本を読むことにした。

大学にいたときは、だいたい19時から21時に実験が終わったから、そこから自習室に篭って読書した。そこでもやはりコーヒーを飲んだ。

コーヒーを飲むと、たかが文章を読むということが、音楽を聴くということが、たいへん彩り豊かに感じられる。カフェインの効果なのだろう。

考えてみると、ぼくの一日はだいたいにおいて、コーヒーか酒に酔っていることになる。ただ、最近は仕事終わりにコーヒーを飲むことはなくなった。夜の不眠を恐れたためだ。

それだから、家に帰れば、酒を飲んで怠惰な時間を過ごしていた。

考えてみれば、カフェインは四時間程度で効果がだいぶ収まるから、18時にコーヒーを飲むことは問題ない。

仕事終わりにコーヒーを飲むようになってから、酒の量はだいぶ減った。酒が入っても、カフェインの覚醒作用のせいか、理性が残るようになったようだ。このバランスがなかなかいい。実のところ、泥酔した翌日の方が身体に支障が出る。

考えてみればぼくは読書をするために今の仕事についたのであった。本を読まないのでは、本末転倒だ。

そういえば昨日、上司が言っていたが、別の支社にいる人間で、某有名私大の文学部と同大院を卒業してから、別の理系大学に入り、ぼくの会社に入った人間がいるらしい。おかしな経歴の持ち主だ。無口な変わりものだという。

いちど、話してみたいものだ。

ぼくの会社は、田舎にあることもあって、変わりものが多いのだという。ぼく自身も変わりものだが。変わりものとは、ふつう、社会のつまはじきものだ。

ぼくのいとこは、その先輩社員と同じ大学を出たが、某国の大使館を勤めたあとに、重工業で有名な財閥系企業に入った。

そのようなまともな人間は、もはや悩むこともなく、幸福な人生を歩むことだろう。

ぼくにはもはや未来の計画も過去の反省もない。漠然と流れるように生きるだけだ。


ルンバを稼動させる前に、部屋をきれいにしなくてはならない。

5.19.2015

いったりきたり

精神を深化させて、反社会的な方向に行ってやろうと思うときがあるが、そうすると会社での仕事はやりづらくなるし、人々との会話もままならなくなる。

この板ばさみに苦しんでいる。

これは理性と本能の葛藤のようなものだ。存在としてのぼくは、真理をつかみたいと思うし、理性としてのぼくは、俗世間の雑事を気にかけている。

できることであれば、仕事なんて抛って、どこか南国の島か、それか空気の乾燥した山にでも登って、そこに隠遁したいものだ。それでも、ぼくは今の生活を捨てきれない。せっかく買った車とドラム式洗濯機をどうするのだ、と考える。それに、仕事をして毎月給料をもらえるということは、心地いいリズムだ。気持ちよくて、安心できて、それは胎内の鼓動音に似ている。

過去の人間は、一日三時間しか働かなかった、その現実を考えてみる。カフカの仕事も午前だけだった。

現代では、一日八時間働くことはあたりまえで、それだけでも足りなくて、日本人は十時間くらい働いて、通勤に一時間程度かけている。それで一人前だとされる。

そうして、日に三時間しか働けない人間は、ぐうたらな怠け者、あるいは病人扱いだ。八時間の労働に耐えられなくて、疲れ切って動けなくなる人、うつ病になる人がいる。彼らは栄養ドリンクとか、カウンセリングとか、抗欝剤とか飲み込んで、そうして社会復帰する。是正される。

そういう社会だ。

でも、本来ひとは三時間以上働かなかった。それ以上働く意義もなかった。現代はたしかに豊かになったし、寿命も延びたけど、昔の人間と今の人間、どちらが良い人生を歩んだだろうか?

まあ、単純なノスタルジアといえるかもしれない。このようなことは、考えてもしかたないことだ。過去の生活を現代に持ってきたところで、それはもはや別物なのだ。

ぼくは今ここに在り、ここ以外にない。そのことにいちいち、口を挟んではならない。運命は享受しなければならない。自分の本分を全うするということ。

しかしまあこういう堅苦しいクソまじめ精神主義もどうでもいいものだ。執着を引っぱがし、解体してゆくことだろう。今あることに疑問をはさまないこと、神と自分を介在させないこと。存在を浸潤させること。

わたしは、偶然わたしの通る道におかれ、そして神からも愛されている人々と、神とが触れあうことのできるように、身を引かねばならない。わたしがそこにいるのは、つつしみのないことなのだ。まるで、恋しあうふたりや、親しい友人ふたりのあいだに割り込むようなものなのだ。わたしは、フィアンセがくるのを待っている若い女性ではない。そうではなく、婚約者たちのそばから離れようとしない、うるさい第三者なのだ。婚約者たちが本当にふたりきりでいられるように、第三者は離れなければならない。
ただ、このわたしが姿を消してしまえるならば、神と、今わたしが歩んでいる大地、今わたしの耳に波音をひびかせている海……などとのあいだに、完全な愛のつながりが生じるだろう。
わたしの中にあるエネルギーだとか、天分だとかが、いったいどれほど大切なものなのだろう。そんなものには、つねづねうんざりしているから、わたしは消え去るのだ。(「重力と恩寵」シモーヌ・ヴェイユ)

自分の本分を発揮したい、自分の本分とは何か、と考えることも、仕様のないことだ。スポーツでも芸術でも、意志や理性が介在するととたんにダメになる。生きるということについても、無思考の方がいいに違いない。


5.18.2015

厭国感

頭が痛い。また、酒を飲みすぎたようだ。

自分のしたいことを考えてみても、よくわからない。人間のそれぞれがどのように自分の人生に納得しているのかも、同様にして、わからない。

世の中には満足そうな顔をしている人ばかりだ。通いなれた路を歩むかのように、人生を歩んでいる。それはうらやましいと同時に、寒気のすることだ。

田舎に住んでいると、個性的な人はほとんどいない。個性的とは、かつてなかったし、これからもないだろう人物のことだ。

例えば、うるさい子どもを引き連れて、ミニバンに乗っている、あるいはミニバンを買うことが夢の、マイルドヤンキー的な人物。こういう人は、どれだけ見つめても、三秒目を閉じれば忘れてしまう。

田舎は循環する。それは田畑のようにだ。農作物に望まれることは、まず第一に、毎年安定して供給されることだ。

彼らはまさに輪廻の渦をぐるぐると回るのだろう。それは無知と幸福の渦だ。


田舎の人々の好むミニバンも、軽自動車も、日本独特のブームだ。したがって外国メーカーの参入がなく、日本の自動車産業=国力の上昇に一役買っている。つまり、ミニバンに乗る人々は愛国者なのだ。(その証拠に、日の丸マークがよく付いている)

それにしても、ぼくが(醜悪なミニバンの走っていない)海外に出ようという気分になったということは、憂国、というより「厭国」的なムードが全国的に高まっているはずだ。

だからこそ、少し前に、メディアで「日本はこんなにすばらしい国なんだ」という日本再発見的な番組が盛んに報じられていたのだろう。ぼくはテレビを見ていないが、ネットでそういうブームがあると知った(「愛国ポルノ」と呼ぶ人もいるようだ)。

ネットにおいてもその有様は変わらなくて、「外国人から見た日本」関係のブログが大人気だ。その「外国人」はただの烏合の衆なのだが、それでもアホにとってはありがたいらしい。

おそらく、マスメディアが官製報道であるのと同様に、ブログもある程度は国策的に作られている面もあるのだろう。例えばgoogleで日本の不満点を検索しようとすると、必ず撹乱されてしまう。

「日本の子どもはなぜ過度に騒がしいのか?」という点を調べようと検索する。すると、「日本の子どもはおとなしい!すばらしい!」というような鼻白む記事がずらっと出てくる(ほんと気持ち悪い)。

このあたり、固有の言語をもっている島国だからできる情報統制だろう。日本が英語圏であれば、こうはいかないはずだ。こうも煙幕を張られてしまうと、ネットは真実を語る、なんて嘘の時代になってしまった。

「日本はすばらしい!」という価値観と、「ミニバンはかっこいい!」という価値観はよく似ている。それはあくまでも作られた価値観であり、洗脳であり、管理=呪縛であり、したがって自由な立場にある人間からすれば、まるで理解できない考えだ。

現実的に考えれば、老人があふれ、子どもが生まれず、原発事故という負債を抱えたこの国には未来がないだろう。官僚は腐敗し、マスコミは隷従し、大企業は癒着し、大衆は愚昧化し、という具合なのだから救いがない。

だからといって、海外だから安住できるとは限らない。それは当然だ。重要なことは、より安全な国を見つけ出すことではない。どこか別の国に行ける、という自由を得ることだ。

それにしても、もっと金を貯めなければ!今は我慢して労働に身を沈めよう。

5.16.2015

苦しむことについて 2

神経過敏、焦燥感、イライラ、易怒性。

昨日は酒を飲まなかったが、その離脱症状が出ているのだろう。なにしろ一ヶ月くらい、毎晩酒を飲んでいたのだから。酒量も日を追うごとに多くなっていき、初めはチューハイ一缶で済んでいたものが、二缶、二缶+ウィスキーと際限なく増えてゆく。最後の方は記憶がなくなる。寝ゲロはないが、何度か夜中に起きて戻しそうなこともあった。

職場の十歳上の先輩より顔が老け込んでいる自分に驚いた。まあ、ぼくは酒と煙草を毎日やるし、彼の方は武道をやるというのだから、十歳差なんて逆転してしまうのかもしれない。

それでも、一日低気圧だからということもあるのだろう、「こんなはずではなかった」「この世にあってはならない」という気持ちになり、見えない壁に押しつぶされるような気分と、体と精神が蒸散してしまうような気分が合わさる。

でもまあ人間は苦痛だらけの生き物だ。というか、生きるということは環境に晒されることであり、環境に晒されるということは、基本的には過酷であるに違いない。

中原博通という、ブロガーというかイラストレーターというか文筆家がいて、「ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか」というブログをぼくは好んで読むのだけど、彼の人間論はなかなかおもしろい。人類が二足歩行を始めたのは、その方が生きやすいからではない、その方が無能になるからである、と彼は言うわけだ。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、身体能力を大幅に後退させる体験だった。その姿勢はとても不安定で、胸・腹・性器等の急所を外にさらして攻撃されたらひとたまりもなかった。それは「生きられない」姿勢だった。なのに人類は自然界で生き残ってゆき、さらにそこから進化発展していった。進化発展してゆかなければ生き残れなかったともいえる。つまりそうやって猿よりも弱い猿として歴史を歩みはじめた原初の人類が生き残ってくることができたのはその社会(集団)が無能であってもなんとか生きてゆけるような仕組みになっていったからであり、そのとき誰もが「生きられない無能なもの」になってゆき、誰もが「生きられない無能なもの」である他者を生かそうとしていった。彼らが二本の足で立って向き合うことには、そういういわば介護し合う関係になってゆく体験をはらんでいた。

独特な考えではあると思うけど、そういえば岡本太郎も同様のことを言っていた。「人間が樹上の生活をやめ、危険の多い地上で生活し始めたのはそれが楽だからではない。挑戦であり怒りであった。」というようなよくわからない「太郎節」だったと思うが、岡本太郎が芸大中退、中原氏が多摩美中退ということだから、根底であい通じるものがあったのかもしれない。

ぼくとしてもこの考えは支持したいと思う、人間とはなんぞや、この奇怪な生き物はなにか、と考えてみると、たしかに「苦痛」という感覚はすべての生き物と同様かかえているけれども、この「苦痛を受け入れること」、ここに人間としての特異点があるのではないかなと思うのだ。

生きるということは苦痛だが、それを知りながら苦難を受け入れること、これは人間以外すべての動物に不可能なことだ。ラットに刺激を与えれば、すべてのラットは逃避反応を示す。刺激を与え続ければ、やがてストレスで死ぬ。しかし人間はといえば、かえって苦痛を認め、そこから超越することを学んだ。

だから原罪という観念が生まれたのは、必然だった。原罪は神の与えたものであるから神聖なものだ。キリスト教において人間は生まれながら十字架を背負うのだが、これは苦痛を神の恩寵(=神聖なるもの=絶対的肯定)として認めることだ。
わたしの中にある罪が、<わたし>と言わせるのだ。
わたしはすべてである。だが、そういう<わたし>は神である。それは、一個の<わたし>ではない。
悪が区切りをつくるのだ。神がすべてとあい等しくなるのを妨げるのだ。
私が<わたし>であるというのは、わたしの悲惨のためである。ある意味で神が<わたし>である(つまり、一個の人格:ペルソヌである)ようにするのは、宇宙の悲惨のためである。(「重力と恩寵」シモーヌ・ヴェイユ)
環境はつねにわれわれに苦痛を与える。一戸建てを借りたところで、ドラム式洗濯機を買ったところで、環境はわれわれを責め苛む。というか、われわれ自身が環境中に常に苦痛を「見つけ出す」といえるかもしれない。

ぼくらの平常は苦痛にあふれている。この感覚が、大切なのだとぼくは気づいた。つまり、平凡な人々は、「なんでもないような日々が幸せだったと思う」のであるが、なんでもないような日々は常に不幸と苦痛で塗りつぶされている、それは幸福でもなんでもないのだ。知ることとは不幸になることであり、不幸になることとは、知ることである。

今頭のなかで「能動的ニヒリズム」という言葉が渦巻く。結局ニーチェの影響なのか。つまり能動的ニヒリズムとは、人間への回帰なのだろう。

そういえばシモーヌ・ヴェイユも、カミュも、「バガヴァッドギーター」の影響を受けていたと最近聞いた。おもしろい本だ、ギーターは。

5.15.2015

犠牲になったセックス

酒量がどんどん増えていき、それに伴いつまみもたくさん食べるため、脂肪がつき、血液は濁り、神経は死んでいく。

そういうわけだから、断酒を試みるも、一日の労働耐えがたく、その対価として一日の終わりにせめて、アルコールで頭を濁らせなければ、とても理性的であっては日々を送れないというのが現実である。

一日8時間半の労働が耐え難い。長すぎる。まるで趣味の時間などないではないか。これでは働くために生きているかのようだ。労働はぼくの人生の一部なのだから、勝手に居座って、我が物顔をしてもらっては困る。

昔の人間は3時間しか労働しなかった、残りの時間はセックスだの音楽セッションだのダンスだの土器づくりだの朗読会だのしていたのだろう。ああなんてすばらしい生活。だいたい原始の労働といえば狩猟だの釣りだの山菜・木の実ひろいだ。遊びのようなものではないか。重税と重労働に苦しんでいた江戸時代の農民たちも、けっきょく3時間しか働いてなかったという史実がある。なぜ三倍近くにふくれあがったのだ。人間は「進歩」したのではなかったか?

ぼくがセックスできないのもすべての精力を労働に搾り取られているからである、実際労働はぼくのすべてを要求する、余力を残らず搾り取っていく、「生半可な気持ちで仕事をしてはならない」と、だれもが本当に思っている、でもまさに半可な気持ちで仕事はすべきなのだ、なぜならぼくは時間を提供し、企業は賃金を提供する、それだけの関係でしかないからだ。

立って仕事するよりは座って仕事をした方がいいし、喉が渇けば水を飲んだ方がいい。暑かったり寒ければ空調を入れる。それが労働生産性というものだ。でも、日本人はこれらを「甘え」と考える。

「ぼくがセックスできないこと」は不思議なことだ。よく考えれば、こんなことはあってはならないのだ。五体満足で、普通に暮らしている人間が、セックスの権利を剥奪されることなど、あってはならない。もっともぼくは神経症で、人嫌いだから、ある面ではしかたないが、ぼくの周りの「健康的」なひとびとでも、ほとんど浮いた話はない。実際日本人は世界一セックスしないというが、いったいセックスはどこへ行ってしまったのだろうか。

セックスは間違いなく生産活動である、あのルーチン的な前戯と、前後運動と、終焉finishingのそれぞれは、工場の生産工程を思わせる。つまり人間がもっている生産活動である、しかし、その生産能力は労働に回されてしまうのだ、「生半可ではない」とはそういうことなのだ、労働に生活を捧げるとはそういうことなのだ。ぼくらの受け取るモノやサービスは、本来セックスだったものなのだ。犠牲になったセックスなのだ。

というわけで今日も仕事に行く。くだらないことを書いた。

5.14.2015

娯楽の効用 / 犬は去ぬ

ああそっか。

「これは楽しいけど、しょせん娯楽だね、フィクションだね」、と思うときがある。でも、楽しく感じたってことは、それは存在するってことなんだ。

なぜなら、楽しいとき、人は存在し、存在しないとき、人は楽しくないからである。

人が存在するのは、幸福なときでも、実利的な働きをしているときでもない。「楽しい」ときである。楽しさは、不幸なときにもやってくるし、労働の最中だろうと、休暇の最中でもやってくる。

だから、子ども向けアニメだろうが、無名作家の三文小説だろうが、それを「楽しい」と感じれば、それはあなたにとって、強く存在していることになる。

それは、作り話だろうと、夢物語だろうと、あなたにとっての真実として提供されたことを意味する。楽しさとは、存在=真実の享受だから。

幸福はときに迷妄だが、楽しさは常に真実だ。なぜなら幸福は過去や未来のような条件を要求するが、楽しさはイマココの実在だからだ。何かを楽しいと感じるとき、それは真実なのだ。

だから、「しょせん息抜きの娯楽だから」と思うことを舐めてはいけない。読むことは、書くことを意味する。そうしてそれは、生きることなのである。

実際のところ、読書はある特定の他者との対話ではない。それよりもずっと自己との対話である。
しかしいちばん大きい、しかも意外な影響を与えるのは、まさに「娯楽」のために「快楽だけを目的として」読むものだ、と皆をびっくりさせるようなことを私は言いたいのである。知らぬ間にやすやすと感化を及ぼすのは、骨折らずに読む本だ。(「文芸批評論」T.S.エリオット)
最近エリオットの言うことがやっとわかってきた。

フィクションはフィクションで終わらない。それは神話が表すように、実話よりずっと多くの真実を伝えうる。伝えうるというか、真実の表現のためにフィクションは生まれたのだ。こんな当たり前のことに、最近やっと気づいた。

だから、何がぼくに影響を与えているのか、作品が何を伝えたいのかを知っておくことが必要だと感じる。自分で収支記録をつけておきたいのである。

「楽しさ」は芸術の必要条件だが、実際のところ、これを悪用する人間もいる。「低俗作品」「バカの三文記事」に見せかけて読者をコントロールしようという悪い人間もいる。それが昔からの、呪詛の類なのだろう。たくみに存在に働きかける、とは呪いの一種である。

今考えると、プロパガンダとかサブリミナル、洗脳って、呪詛の現代版だよなあ……。
呪詛は、ことばのもつ呪力に対する信仰と深く関係している。不用意に発したことばが呪詛になってしまうという例は多い。……バントゥー系の農耕民ニャキュサ人の間では、道徳規範に外れたことを行った者がいると、人々はそのことをささやき始め、そのことばが冷たい風のように相手を襲い、病気にするという。これを彼らは「人々の気息」とも「呪詛」ともいう。このように呪詛が社会の維持の働きをもっていることも多いのである。(日本大百科全書(ニッポニカ) #呪詛
呪いには、おどろおどろしい複雑怪奇な呪文が必要なわけではない。ただの噂話も、呪詛になりうるのだ。言葉は呪いである。

まとまらない、めちゃくちゃだ。これらは朝コーヒーを淹れているときに思いついたことで……だからぜんぜん煮詰まっていない。

ああそうだ!とひらめいたのはいいがぜんぜん表現できないのである。概念としては体得したのに表現できないくやしさ。たぶん二三日経てば整理がつくのだろう。


最近、ある夢を見た。犬に追いかけられる夢。


大きな犬が、野太い声で吠えながら、追いかけてくる。ぼくはさんざん追いかけ回されたあげく、夢特有の浮力で建物の屋根にのぼって、犬から逃れた。犬は飛び跳ねたり、忌まわしげに吠えたりしている。初めは恐ろしさに震えていたが、やがてあることに気づいた。

犬は、高みにのぼれない。高みにある相手に対しては、さかんに吠えるか、ぴょんぴょん飛び跳ねることしかできない。たしかに聴覚はおそろしい鳴き声を伝えるだろう。視覚は凶暴な犬の姿を捉えるだろう。

しかしその牙は決してぼくの皮膚を切り裂くことはできないのである。なぜなら彼は高みに昇れないからだ。目を閉じ、耳をふさいでしまえば、存在は消えてしまう。ぼくがもっと高みに昇れば、その姿は蟻のように小さくなり、鳴き声は風のささやきで消えてしまう。

犬は何のためにぼくを追いかけるか?ぼくを恨んでいるわけでも、ぼくの肉が欲しいわけでもない。存在を認めてもらうためである。

でも、残念ながら、犬は消失してしまう。さようなら、哀れな犬さん。悔しければ、高みにあがっておいで。それは永遠に、無理だろうけど……。

5.13.2015

自由とは必然であるということ

当然ながら、権利の前には義務があるわけで・・・。

生まれたときから自由の恩恵を受けているぼくは、権利ばかり主張している駄々っ子のようなものかもしれない。日本の現状が嫌だから、自分でそれを改善する意志を持たずに、海外に逃げるなんて、それは無責任といわれても仕方がないだろう。

生まれ育った環境に感謝を、育ててくれた両親に感謝を、と言われるけども、両親に感謝したり、環境に感謝したいという気はない。環境もまたぼくによって支えられているのだし、両親もまたぼくによって支えられているのだ。何か感謝という概念が、嫌いでしかたがない。

善意はありがたく受け入れる、不必要な恩寵は退ける。別に感謝を表明する必要はない。強いていえば、享受することが感謝の表現だ。当然のように受け入れるということ、これが最大限の表現だ。なぜなら優れた善意とは、つねに自然で、過不足のないものだからだ。

話を戻そう。権利ということについて、ドイツのイェーリングという過激なおじさんはこう言うわけだ。

私権に対する個人の権利感覚が鈍感・臆病・無気力であり、不公正な法律や劣悪の制度に遮られて個人が自分の力を自由に、力強く発揮する場がなく、支持と助力を期待してしかるべき場合に迫害が行われ、その結果、不法は堪え忍ぶもの、どうにもならないものだという見方が慣れっこになっているとしよう。そんなに卑屈な、いじけた、無気力な権利感覚が、ひとたび個人ではなく全国民の権利が――たとえば国民の政治的自由の圧殺、憲法の違反ないし破棄、外敵の侵攻によって――侵害されるやいなや突如として敏感になり、精力的な行動に転ずることなど、だれが信じられようか?……そんなことはありえない!(「権利のための闘争」)

つまりイェーリングは「義務」とは忍従や我慢ではなく、むしろ各々の国民が自己の権利を自覚し、それを追及することにある、と言っているわけだ。そうしなければ国家における外敵や病気に対処できるわけがないよね、と。

でも、大衆に権利意識はない。権利ってなに?とぽかんと口を開ける人間が大部分なわけだ。家の前が抜け道で騒音がうるさい?30分のサービス残業?おいおい、それくらい我慢しろよ……となる。

孤独な作家イプセンの「民衆の敵」では、こうある。
「眞理と自由とのもつとも危險な敵」は「堅實なる多數である! さうだ! この呪ふべき、堅實なる、ぐうたらなる多數である」、「多數が正義を有することは斷じてない!」、「このひろい地球上いたるところ、馬鹿こそまさしく壓倒的大多數を占めるものである」、「馬鹿が悧巧を支配することがあたりまへ、とは怪しからん話ではないか!」、「正義とはつねに小數のみの所有するところのものだ」云々。(「ヘンリック・イプセン『民衆の敵』」から引っ張った)
真理と自由とは、「堅実な多数」には存ぜず、「バカが利口を支配している」と。まあ、でもそうかもしれない?堅実な人間は慣習の支配する社会で重宝されるものだし……。というか、堅実な人間とはまさに慣習そのものを体現する存在だ。

ぼくは最大限自由でありたいと思う。おそらく自由こそ正義だと思うからだ。ところで、自由とは「あれこれ選択できること」ではない。大澤真幸が「自由という牢獄」であげたように、「出口の扉がありすぎて脱出できなくなった人」のようであってはならない。

そうではなくて、自由とはかえって、迷いのないものだとぼくは考える。ある必然性にしたがって行動すること。つまり、自然であることだ。りんごが木から落ちるように、人間として生まれもった本分をそのままに発揮すること。おそらく、これ以上の正義は存在しないのではないかと思う。

自由の本質は「選択」ではない。自由な状態において、選択はすでになされているのだから。自由とは「必然=自然」である。

であるから、自由とは勝ち取るものというよりは、人間回帰なのだと思う。それは自然状態を意味するのか、はわからない。自由主義者は何を主張すればよいのだろう。縄文時代のような太古に戻れということか、それとも人間回帰の実現できる新社会を作り出せということか。現実的には後者だろうけど。

必然はどのように得られるか、といえば、それは自己を知っていくことしかない。いろいろなイデオロギーや迷妄を取り払って、自己と直接的に対話するような感じで、内的世界をよく観察することだろう。


ぼく自身、神経症という厄介な病気に苦しんだけど(今もだが)病気がもっとも苦しかった時期は、自分の苦しみを「間違ったもの」だとし、自分の病気を「治すべきもの」だとしていたときだ。

でも今では、自分が苦しむことは正しいことだと感じる。つまり、このような社会で、苦しみを持たない人間の方がどこかおかしいのだという(今考えると当たり前の)結論に至った。そうして、自分の苦しみを解消しようと試みるのではなく、なぜ苦しいのかを検討するようにした。そうすることで、はじめて、自分と向き合ったことになる。

最近サザエさんに言及することが多いけど、サザエさんでは晩御飯で円卓を囲まない人物は存在しない。ちびまる子では、神経を患って学校を休む人物なんて存在しない。まあ子ども向けアニメにそんなものを求めてもしょうがないのだが、記述されているものよりも、「記述されていないこと」の方が重要なのだと最近気づいた。記述されないこと、それが排除の構造なのだと。

実のところ、ぼくを苦しめていたのはこの「不在感」なのだ。ぼくのような人間があたりを見回してもいない、テレビや漫画には絶対に登場しないということ、これが実際ぼくを苦しめた。「悪役」とか「脇役」として存在するならまだいい。しかし、どこを見回してもいないのだ。だから、ある程度の年齢に達して、文学や哲学に触れて、やっと「生きることを許された」ような実感を得た。

この世のアウトサイダーを記述してあげること、社会から阻害されている人間を保護してあげること、これが今の社会に必要なことだと思う。そのためにはまずはそういう人々を認識することが大事なのだ。現時点において、彼らは「存在しない」のだから。

とまとめてみた。相変わらず仕事は、嫌だ。でも行くしかない。

5.12.2015

14歳の精神

昨日考えたことはおもしろい。

人間は14歳で完成する。それは人間的な成熟だ。しかし社会はそれを容認しない。人間的な成熟ではなく、社会的に成熟するよう作り変える。そうして、20歳頃には社会に摩擦なく適合できる「常識人」ができあがる。

人間的成熟とは、既存の社会や慣習を否定することだろう。すべてを根本的に見つめなおし、嫌なものには「否」をつきつける。学校は本当に必要なのか?授業を受ける価値があるのか?こういった考え方ができるということは、まことに人間的だ。

社会的成熟とは、そういう思考をできなくすることだ。つまり、社会的に成熟した人間は、「変えられないものは、考えてもしかたない」と考える。既存の慣習の場の中で努力しようとする。それは会社内で出世競争をしようと考えることだし、リストラを死と結びつける考えだ。

社会的成熟とは「しかたない」の精神だ。精神の牙を抜くプロセスだ。

ところで海外でも反抗期は存在するが、日本ほどではないと聞く。

高校生の息子がいますが、反抗期ないですね。
凄く素直でいい子です。
友人の子供達も反抗期で大変だなんて言ってる人なんてまったくいませんし、息子の友人達も、感じの良い子ばかりでそういった話はききません。女の子も父親を毛嫌いしてるなんて話も聞きません。
この反抗期について、友人の間で話題になった事があります。
やはり、日本の子供達が育っていく環境がそうさせているんではないですかね?
こちらで問題のある子は、やはり家庭に問題のある子ですね。
家庭が円満なところは、子供もそのまま素直に育っている感じです。(海外で子育てすると反抗期・娘の父親嫌いがない?
もちろん気難しい時期はあるようだけど。

この違いは何なのだろうか?

おそらく、人間的な感情をむげに否定するようなことがないからだろう。「学校へ行きたくない」といえば、日本人の親は、最初は困惑しながら、次には激昂して「行きなさい!」と繰り返すばかりだろう。

「なぜ学校へ行かなければならないのか」という問いに、だれもが答えられるわけではない。ぼくも簡単には答えられないし、普通の親たちはまず回答不能だろう。

ぼくは振り返ると、中学や高校は絶望的に大嫌いで、二度とあの環境のなかに放り込まれたくないと思っている。

しかしよく考えれば、「義務教育」とは親が子どもに教育を受ける権利を与える義務であって、子どもが受けなければいけないものではない。子どもがもし「行きたくない」といえば、それは尊重してあげるべきものだろう。

ところが、「サザエさん」や「ちびまる子」に不登校の子どもが絶対に存在しないように、親にとって、自分の子どもが不登校になることは、だれしもが恐ろしく感じるだろう。サザエさんの円卓から、ちびまる子のクラスから、消失すること、もはや記述されないこと、これは世界からの消失を意味するのだから。

話が冗長になってしまったが、海外で反抗期がない事実はおもしろい。中二たちは、なにに反抗しているのだろうか?彼らの浅い経験では、漠然と「社会」とか、「親」とか答えるしかない。しかし、もっと根本的な部分で矛盾があるのかもしれない。それははっきりと見えないが、若い肌には体感できるものなのだろう。


それにしても、こうして書いていると、田舎の軽トラやなんかが、窓のすぐ外をびゅんびゅん駆け回るので、その音と振動で精神が消耗していく。(耳栓はつけてるし、ノイズは大音量でかけているのだが)

家選びを間違えたかもしれない。まさか田舎の小道で、こんなに往来が多いとは……。この騒音がなければ最高の環境なんだが。

近くの幹線道路がつねに渋滞気味で、こちらまで回ってくるのだろう。これは明白に道路政策の失敗だが、市役所に訴えたところで改善するわけがない。

引越しするにも、莫大な金がかかるのだろうな。引越し費用は十数万円、また敷金と礼金(四十万円くらいか?)を払わなければならない。何もかもクソな国だ。

海外から高性能のイヤーマフと耳栓を注文したから(日本で買うと3倍以上の値がつく)、それが届けば何とか対応できるかもしれない。

できなければ、窓を二重窓にしてしまおう。大家も拒否はしないだろう。日本の窓の遮音性と断熱性基準は、欧米どころか韓国以下で、ほとんど違法クラスの筒抜けのものだという。エアコンの暖気冷気も外に駄々漏れである。これがゴミ分別世界一のエコな国だ。美しい日本。

しかし防音サッシの費用も20万円くらいか?やるせないな。壁から音が入ってくるのであれば、意味がないし。

金は貯めなければならないのに、ただまともな人間的生活をしようというだけで、金がぽんぽん抜けていく。

早く海外脱出がしたい。人間にとって、自然で当たり前の生活がしたい。おそらくそういった生活は、日本では一部の富裕層しかありつけないものなのだろう。

5.11.2015

ムーミンとサザエさん

最近またムーミンが好きになってきた。

ムーミンで印象に残ったシーンがあって、いじわるのミイが隠れて善行をしたというので、みんなでパーティをしようとなった。(新ムーミン1972年版 #15 ミイってやさしいの?


そのパーティで、ムーミン家や来客のひとびとは円卓を囲むのだけど、トゥーティッキ(おしゃまさん)はテーブルにつかずに、階段で本を読んでいる。



スナフキンはといえば「柄ではないから」と参加を辞退している。



もちろんだれも「あいつは階段で飯を食っている」「変な奴だ」とののしることもない。それを当然として、受け入れている。

この感覚が、非常に好きだった。

というのも、ぼく自身、会食というのが苦手・嫌いで、できることならワイワイ・ガヤガヤのなかには混じりたくないと思うのである。

「サザエさん」は国民的アニメと言われるが、その点ではやはり古すぎる。例えばカツオが「自我に目覚めた」として(なんだか笑える)、いつもの「テーブル(こたつ)を囲んでの食事」に参加しないとする。「ぼくは部屋で食べるよ」なんて言って、キェルケゴールでも片手に自室に引きこもるとする。

毎回必ずある円卓での食事シーン

そうすれば、家族は何とかして彼を円卓に引き戻すだろう。あれこれ策を講じて、最終的には、カツオが元通り円卓に帰着し、それで話は一件落着となるだろう。

ここにあるのは、円卓を囲むことの絶対的正義である。円卓での食事は、決して否定されることはない。なぜなら円卓は家族の絆を生みだす象徴的な場である。それを否定することは家族のつながりをも否定することになるのだ。

したがって、円卓の否定は、家族の否定ともなりうる。もちろん家族という単位は否定されることもありうる。だれでも思春期のときは、自分の家庭を心の底から憎み疎んだはずだ。これが一時的なものだからと言って、誤っているとも限らない。集団が完全であることは、個人が完全であるより、ずっと難しいものだ。

カツオの円卓からの離脱は、家族共同体の危機である。それは明らかに慣習の破壊だ。だから、家族は全力でカツオを元に戻そうとする。当然、サザエさん一家は「善意」でそれを行う。あらゆる異端者に対する制裁は善意で行われるものだ。

もちろん上のようなストーリーは勝手にでっちあげたものだから、アニメで似たような話があるわけではない。というか、国民的アニメという立場上、たぶん放送できないだろう。「円卓」は絶対的象徴であってそこに少しでも疑問の余地があってはならない。それは一種の信仰である。

この信仰は、「町内会」にも通じるし、震災後の「絆」騒動にも通じるものがある。「絆」は一見理想的な概念だが、しかしその概念は「絆」の外側に他者のあることを認めないことにつながる(認識と容認の両方の意味で)。

だからサザエさんでは、円卓を囲まない「個人」などは永遠に登場しないだろう。

まあややこしくなったが、ムーミンを見ていてぼくは心が安らぐし、かえってサザエさんは好きになれない。まあもう5,6年はサザエさんを見ていないのだが。



ぼくはといえば中学生くらいから家族との食事を拒否していた。それは他人の前ではご飯が食べづらいというまあ「会食恐怖」の類と言ってもいい。ただ、最近はそうした精神も悪くないものだと思っている。実際に、家族との関係は別に悪化していない(良くもないが)。

反抗期という時期をどう考えればよいのだろうか。人がもっとも反抗的になる時期は第二反抗期、つまり14歳くらいだろう。ところで、この14歳とはどういう時期だろうか。

いまでは20歳からが「成人」ということになるが、これは近代以降のことで、たぶん寿命が30年ほどしかない昔であれば、14歳くらいになれば立派な「大人」扱いだっただろう。

つまり反抗期とは、子どもが大人になり、人間が自立するまさにその瞬間なのかもしれない。現代ではそういった自我を(無理やりに)抑えつけて、学校に通わせ、大学まで通わせることをして、それを「成熟」だと考えている。

反抗期は一時的な発作のようなものでだとされ、従順に言うことを聞き、社会を批判否定するよりは、社会のなかで「うまく立ち回る」ことが、成熟だとされている。

でも実際に、社会はろくなものではない。だから否定されるべきものだし、反抗期の訴え、たとえば「親の言いなりになりたくない」とか「学校にいきたくない」という感情は、正しいだろう。実際、学校教育は問題だらけだし。

ぼくはよく人に「中二病」とか、「反抗期」とか言われることがある。実際そうなんだろう。でも、中二精神や反抗精神と言ったものは、人間に必要なものだと最近は考える。「大人は汚い。大人の考えは間違っている」。実際そのとおりだろうからだ。

5.10.2015

種の感覚について

別にこの国が嫌になって海外に出て行ったとしても、その先にはまた次の失望があるだけかもしれない。というか、たぶんそうだ。

それでも日本という国が我慢ならない点は数多くある。昨日も車で5時間ほど走っていたが、ほかの車のデザインの趣味の悪さに反吐が出そうだった。四角くてゴテゴテとした飾りのついたミニバンとか、それを模して小型化した軽自動車の類のデザインは、最悪の部類だ。あんなものが売れているというのだから、もはや日本人のセンスは地に落ちたのだろう。

催吐性に優れたデザイン

センスとは感覚であるから、なにかを感じとる能力だ。ミニバンとか、上の軽自動車に違和感を抱かない人が日本の大部分だとすれば、これはセンスの欠如だ。もしも上の画像のようなクルマを「かっこいい」とか「美しい」と思っているのだとしたら、それは本当に終わっている。

もっとも、ひとはこういうだろう。何が美しいか、何がかっこいいかは「人それぞれ」だと。こういう人の言いたいことはわかる。この相対主義は、まことに現代思想のメインストリームだ。ひとつのイデオロギーと言ってもいい。

しかし美しさとはおよそ万人に通低するものだ。なぜならわれわれは個人である前に、同じ人間であるからだ。それは種として同じということだ。もちろん中には遺伝子から違うダウン症の人もあるだろう。しかし一般論として、なにか対象を前にして、美を感じるとき、だれしも同様の印象を持つはずだ。そこで個々人の持つ「個性」のはたらきは、一般に信仰されているほど強くない。

別に絵画や音楽を理解しろという話ではない。だれだって、「泣いた赤鬼」を読めば悲しい気持ちになる。喜劇を読むかのようにゲラゲラ笑う奴は、普通いない。それが種としての感覚だ。

ぼくの世代は個性、個性と叫ばれて生きてきた。だから中には、「個性」が「種の感覚」を超越した、と思う人がいる。個人は集団を超越したのだ、と信じる人が。

そういう人は、萌えアニメを見ることも、古典文学を読むことも、平等だと考える。これが相対主義だ。もちろん萌えアニメを文学的に読みとることも可能だし、古典文学をアニメ感覚で見ることも可能だ。

しかし両者は平等ではない。

なんか今ひらめきのようなものを感じた。アニメは古典文学に勝ることはない。それでは良い作品とは何なのか。

良い作品とは、「種」に訴えかけるものではないか。

萌えアニメは特定の個人に訴えかけることを目的としている。特定の個人とは、オタクである。その意味でアニメは普遍性がなくて、「クールジャパン」などと喧伝したけど、海外では一部のナードにしか認知されていない。オタクが消滅したり、オタクの気が変われば、萌えアニメも消滅する(「長門有希は俺の嫁」と言っていたオタクの婚姻関係は今、どうなっているか?)。

なぜ古典は生き残るか。それは「種」に訴えかけるからだ。個人は消滅するが、種は今後もたぶん生き残るだろう。

なんだか話がめちゃくちゃに飛んでしまった。しかし同様のことだ。日本の萌えアニメが海外で受け入れられないのと同様、日本のミニバンや軽自動車の類も、海外では受け入れられていない。つまり普遍性がないのだ。

たいてい、日本でだけなされていて、海外では一般性をもたない制度や仕組みは、「日本の文化」と容易に片付けてはならない。そこにはたいてい、利権だとか、無思考があるのである。

たとえば日本の道路は過度にきれいで、「外国人は日本の道路を羨望している」と自慰的思考にふける人がいるけど、道路工事に莫大な税金がつぎ込まれているのだから当然である。海外は無駄だからしないだけである。

日本は島国だから、歴史をもつ独特の国だから、「しかたがない」という思考停止があるけれども、それも危険な罠だ。実際のところ現代の日本人はほとんど歴史から断絶されている。それは戦争というショック状態が一時あったからだ。

例えば「亭主関白」「雷親父(波平的な)」は日本古来からあるように考えがちだけど、実際にはここ百年程度の歴史しかない。(ソースは失念したが調べれば出るだろう)

「日本人は清潔好き」「日本人は列に並ぶ」という考えもあるが、これは東京オリンピックの後遺症である。つまり、日本の道路や日本人のマナーが悪かったので、「日本の印象が悪くなる」ことから、さかんに国家統制が行われた名残である。

「日本人は働きもの」という考えがあるが、江戸時代の人間はほとんど働いてなかった。それどころか「派遣社員」「日雇い労働者」が大半だった。日本は戦後なのに復興したのではない。戦後だから復興したのだ。モーレツ社員の実像は、ほとんど兵隊のイメージと重なる。「会社員」で構成された会社より「兵隊」がはたらく会社が強いのは当然といえるだろう。

実際のところは、ぼくらは日本人である前に人間であるのだから、海外と価値観はそれほど違うわけではない。良いものは良いと感じるし、悪いものは悪いと感じる。だから、海外で売れている商品が日本市場に入ると一気に淘汰が行われる、ということがある(ガラパゴス携帯がスマホに駆逐されたように)。

だから、海外でなされていて、日本でだけ行われていないことというのは、実は注意深く見ていかなければならない。日本では「世界一」のものが多い。

日本でだけ行われている事柄を一時調べたことがあった。その一部を以下に記す。

  • なぜ日本だけサービス残業があるのか。
  • なぜ日本だけ有給を取れないのか。
  • なぜ日本だけ引っ越しの平均費用が高いのか。
  • なぜ日本だけ礼金・更新料があるのか。
  • なぜ日本だけ花粉症があるのか。
  • なぜ日本だけタミフルを使うのか。
  • なぜ日本だけ狂犬病予防注射を毎年打つのか。
  • なぜ日本だけ選挙カーでキャンペーンするのか。
  • なぜ日本だけ自動車税が重複しているのか。
  • なぜ日本だけAVにモザイクがあるのか。
  • なぜ日本だけ自動車免許に2~30万円かかるのか。
  • なぜ日本だけ二十五年間年金を払わないと一円も支給されないのか。


これらはたいていが、「日本の文化」であるというよりは、利権や怠慢や圧政・悪政という言葉で片付けられてしまう。

となれば、海外に移住することはけっこう大事なことなんじゃないかと考え始めた。決して無駄ではないだろう。日本という国を客観視できるし、それに、いつでも国外脱出できるという担保は、精神衛生上有益である。

ところで、海外移住をした先達の人々を見ていると、必ずしも満足している人ばかりではない。海外が快適で、絶対に帰らないという人もいれば、日本はやっぱりすばらしい国だ、と考える人がいる。ぼくがどちらに転ぶかわからないが、まあとにかく一度試してみようと思う。

5.09.2015

苦しむことについて

自己に対して然りを言うこと、これは成熟した果実である。(道徳の系譜)
何も考えず現状肯定な人間は嫌になる。しかし、そういった人が世の中の大部分だ。

それはおそらくギーター風に言えば暗質の人間なのだろう。

ギーターでは人間を三種類に分けている。純質、激質、暗質の人間である。ぼくのなかの簡単なイメージで言えば、純質の人間は利他的で知を愛し真理に近い人、激質の人間は権力欲の強いバリバリ働くタイプ、暗質の人間は無気力なニートだ。

おもしろいことにギーターではそれぞれが食べるものの傾向までいい当てている。純質の人間は腹持ちのいい口当たりのまろやかなものを好み、激質の人間はしょっぱかったり辛いものを好み(カレーやラーメン?)、暗質の人間は腐りかけのものを食べる(半額弁当か?)。

このあたり、クレッチマーの性格分類に通じるものがある。食べるものが、体を構成する。また精神も、体とは切り離せるものではない。

最近少し太ってきて、ここ十年くらい56kgをキープしていたのが、58kgまであがってきた。それだけで精神はだいぶ鈍化してしまったように思う。

あの「モード」、神経がひどく鋭敏になる感覚がときに恋しくなる。もちろんその鋭敏さは、厭世観と切り離せるものではない。孤独の闇に逃げ込み、神経が興奮し、その苦痛にのたうち回るような感覚は、幸福とは程遠いが、ときおり見える雷鳴のような輝きには確かにすばらしいものがあった。

この感覚は、一人旅にも似ていて、行中は苦痛でしかなく、肉体と精神の負担著しいが、
ある瞬間にぱっと、生のすばらしさを全身で受け止めるような、そういった瞬間がある。

それは例えば世界遺産を目の当たりにしたときとか、そういう陳腐な瞬間ではない。かえってそういう瞬間には、失望と退屈とがあるものである。そうではなく、旅先の空が青かったり、異国の人々の軽やかな笑顔を目にしたりとか、そういったささいなときに世界と自己が一致するような感覚になる。

太った理由を探ってみると、ここのところ毎日酒を飲んでいるからに違いない。汚泥のような日々だ。

金はある。ぼくの初任給を言うと、だれもが「もらいすぎ」という。ぼくもある程度は給料で会社を選んだのだから、当然のなりゆきだが、それにしても金に執着のないぼくが、仕事のできない無能のぼくが高給取りとは笑えるものだ。案外世の金持ちはこういう気分をもっているのかもしれない。

金を持っていても金がなくても、人生のゆたかさとは関係がない。かえって、大学時代の方がぼくの生活はゆたかだったと思う。もっとも、それは発狂しそうなおぞましい苦痛とセットだった。というのも、スラムと変わらない生活環境と、貧困があったからだ。

それにしても思うのは、苦痛を感じるのにも才能がいるということだ。先の暗質の人々を見て思うのは、無理やり自分を納得させているということだ。理性が自分の感情を抑えつけている。内的に矛盾している。自己を深い根元で否定している。

「俺はこのままで何も文句はないよ」というときの彼の表情には、たしかに満足というよりは、不満が見てとれる。でも本人はそれに気づいていない。あるいは、無理やりに目をそむけている。だから「君だって不満なはずだ」と指摘すれば、彼は感謝するどころか、逆鱗に触れられたように激昂する。いつもこのパターンで、うんざりする。

人間は、本来、何でも知ることができるはずだ。おそらく理性が、それを抑えつけてしまう。

暗質の人間は、根本において自己矛盾的で、精神倒錯気味である。とは言っても、それが世の中のスタンダードなのだから(おとなしい小市民)、純質の人間、激質の人間はかえって狂人扱いされてしまう。

苦しむことは、内的な訴えに耳を傾けることだ。だから、苦しむことというのは、かえって最大限自分を認めることなのだ。自分を肯定することは、苦しいことなのだ。自己肯定とは、ほがらかな協調と円満にあるのではない。かえって孤独と絶望のなかに見つけられるものだ。

人は苦痛を感じることでしか、前に進めない。苦痛が人生を導くのだ。だって、そこに苦痛がなかったら人はどうして前に進もうと思うだろうか?

苦痛に対する感情=「否」、それが存在の前提ということになるだろう。「然り」は「否」の先にしかない。

ところで「然り」とは苦しみからの解放を意味するのではない。苦しむよう生まれた人間は、必ず苦しみ続ける。それは運命のようなものだ。だから、「苦しむ」ことを「肯定」するのだ。

暗質の人間は苦痛に気づかず、激質の人間は苦痛を超越した(できる)と思い込む。そうではなく、もっとも真理に近いことは、苦しむことを受け入れることなのだろう。

それから私は自分の明るい日には、太陽や森や茶色の岩や遠い銀色の山々を、幸福と美と受胎との重なる感情をもってながめた。また暗いときには私は、自分の病める心が二重の熱をもってひろがり激するのを感じた。私はもはや快楽と憂苦とを区別しなかった。それはたがいにひとしく、どちらもが私に苦痛をあたえ、どちらもが甘美であった。私の心が楽しんだり悲しんだりしているあいだにも、私の知からはしずかにその上に立って傍観し、明るさと暗さが兄弟のように結びついていることを、苦悩と平和とはおなじ偉大な音楽の拍子、力、部分であることを知った。(「春の嵐」ヘッセ)「知から」ってなんだ?

5.08.2015

労働と金と移住

肉体の流動化。

おそろしいほど仕事のミスがない。

てきぱきと、周囲を支配する空気を機敏に察知し、適度にサボりながらも、表面的には「ずっと仕事してる」体を装い、休憩に入れと指示があったときには「もっと仕事したかったのになあ」というニュアンスを1%くらい混ぜた顔で笑顔で返事をする。

上司とはきさくに話をする。上司が5話しかけてきたとしたら、3はこちらからも話をする。会話のなかでは、あまり笑顔にならない。笑顔と無表情のバランスを考える。ずっと笑顔な人間は気持ち悪いし、人は他者が「笑顔になる」ことを喜ぶものだ。

そんなわけで仕事はある意味充足しつつある。人間はどんな環境にも適応してしまうものだ。もっとも仕事はかなりハードである。休み明けだから元気に動けているだけで、たぶん、週五日はたらけ、となったら体調を崩し始めるだろう。

いくら貯めれば外国へ移住できるのだろう、ということを考える。本当は、移住先で収入源があればよいのだが、当面は難しいだろう。しかし、日本の家賃とか、生活コストはあまりにも高いのだから、ただ生きていくだけであれば、そこまで金はかからないはずだ。

食品に消費税はかからないし、日本のあらゆる業界にある談合:価格カルテルもないはずだから、ソーセージやチーズが300円といった異常な相場もないはずだ。結婚するのか怪しい(というか多分しない)が、教育のコストも海外ではほとんど無料で、日本のように数千万円かかるということもない。もちろん高速道路も無料か、それに近い値段だ。自動車税も日本と比べればただみたいなもの。破綻することが目に見えている年金もなし。

別に、ぼくはケチなわけではない。公正・適正な価格であれば何でも払うが、だれかの私腹を肥やすために金を(つまり労働の対価:犠牲となった生活、を)払うことはうんざりなのだ。

株取引で財をなした人は、夫婦でシンガポールへ移住したのだという。「友人や家族と離れて寂しくないか」と言われることもあるというが、彼らは「そもそも人間関係が嫌いだからよかった」のだという。もともと彼らも町内会などの地域関係にうんざりしていた人だとか(なまじ金を持っているから、嫉妬の目にさらされる)。

彼らの発言にぼくはひどく共感してしまった。人と関わらなくていいならば、関わりたくはない。それは「他者とうまくコミュニケーションができないから」というような、反動的なものではない。もっと根源的に、他人が嫌なのである。他人と接するようにできていないのである。おそらくぼくは時代が違えば流浪の民だっただろう。

もちろん彼ら二人にも友人がいるはずだし、ぼくにだって今も連絡する数人の友人くらいはある。しかし、それ以上の関係はもう不要だ。「明日だれそれに会う」というだけで、ぼくの一日は破綻する。

ところで、ぼくの生活に必要なものを考えてみると、車が一台、バイクが一台、静かな一戸建て、あとは本と楽器とパソコンがあればひとまず完了ということになる。あとはスーパーマーケットとアマゾンさえあれば、何も要らない。

たぶん地下室のある海外の物件なら、生の楽器が演奏できるだろう。日本語の本を仕入れたいが、難しいかもしれない。いまさら英語を勉強しなおさなければいけないかも。それはそれで、楽しそうではある。

いったい世間の人々はなにをするためにあくせく働いているのだろう。先月は、初任給と、入社支度金と、就職祝いもろもろを合わせて、100万円近くの収入が入った。それだけでもう欲しいものは揃ってしまった。ぼくにはもう欲しいものがなくなってしまった。

人生の支出ランキング

住宅はともかく、生命保険なんていらないし、車は30万円の軽自動車で十分だし、養育費などは海外であれば実質タダだし、子どもの結婚なんて子どもが出せばいいでしょ。

なんだこのランキング。まったく理解できない。太文字にしたいくらい理解できない。

ぼくには、金の使い道がない。せいぜい、書籍代くらいか。でも図書館があれば金がかからないし。

もちろん、海外移住用の資金が必要だからぼくは労働を継続させる予定だが、日本での生活を続けるとすれば、もはや賃金の支出の大部分は税金を払うためになってしまう。

資本主義ってもうだめなんじゃないの?と思った金曜の朝だ。

5.07.2015

クリマ

この連休はまったく孤独に過ごした。たまたまこちらに観光にきた親戚以外とは、言葉を交わすこともほとんどなかった。

そのおかげで、まったくそのおかげで、精神はよく回復した。ひとと話さないこと、ひとの近くにいないことは、ゆたかなことだ。恵まれたことだ。

それでも、他者との関係が断絶したわけではない。他者とはどうしようもなくつながっている。というのも、自己のなかに他者性は必ず入っているからである。

存在の発端は、母親の肉体の一部だ。そこから、周りにはつねに他者があった。「保護者がいなければ生きていけない」と、生まれたときから学習しつづけた。だから会社のオーナーごときに下卑た嘘笑いを見せるのだ。

「一人では生きていけない」。そんなことは当たり前だ。しかし、表層のつながりがすべてではない。孤独であること、隠遁や瞑想の目的のひとつは、かえって深層のつながりを認識することだろう。そこで、他者は極端に抽象化される。母親とか、友人とか、遠く異国の人々とか、すべてがひとつの概念になる。抽象化された先は、涅槃だったり、神そのものになったり、さまざまだろう。
自分のなかに他者がいる。
つまり、ぼくら人間はメビウスの輪である。自分というものを辿ると、他者になる。他者を辿ると、自己に行き着く。人間だけではない。自然や環境も、自己である。
というようなことを一月に書いたが、案外的外れではないかもしれない。しかし昔の記事は読んでいて寒気がするな……。

孤独であることは、かえって他者とのつながりを見つけることでもあった。人を嫌い、世を呪って生きてきたぼくであっても、他者とのつながりをどうしても切り離せないことを知った。この事実はしぶしぶ認めるしかなかった。

それはある意味で西洋個人主義との決別でもあった。まず自己があり、そこから他者があるのではない。自己のなかに他者があり、他者の中に自己があるのである。それは道教のシンボルであるところの陰陽図にもよく似る。

陰陽図大極魚
万物の陰陽は表裏一体なのである。自己と他者も、また一体と見なさなければならない。

自己と他者を切り分ける前は、おそらくすべてが自己だったはずである。これは精神の発達過程を考えると、赤子の領域である。また、未開の民族にあっても、自己と他者を区別しない、という調査結果もあった(はず)。

ひとは赤子になりたがるものかもしれない。それはニーチェの「駱駝」「獅子」「赤子」の三段論法的な意味で……。

西田幾多郎の「主客未分」も、おそらくこの領域のことではないのか……。すべてが自己であるならば、それは主客未分といっても差し支えないだろう。

「主客未分の状態」とは言語の階層構造さへできていない状態では「見るもの - 主体(subject)」も「見られるもの - 客体(object)」すら生まれてくることはない状態です。このあと、人間のフィルターを通して「主客」の分別が出来上がるというわけです。
自己が他者で他者が自己なり。世界はひとつの現象である。

思考を解体させよう。きっと社会不適合の烙印を押されるけども。
スイスの精神医学者ビンスワンガーは、数十年にわたる臨床活動の総決算として集成した「精神分裂病」のなかで、分裂病(スキゾフレニー)は人間存在に異質な病態ではなく、人間から人間へ、現存在(ダー・ザイン)から現存在への自由な交わりを通して現れる特有な世界内のあり方であると規定している。
文化とは、そもそもがこのスキゾフレニー的動きをもつ生(レーベン)の、人間的な表現なのであって、私たちは表層意識においてこそ硬直化され画一化された生き方を強いられているけれども、その深層意識にあっては、常に流動的生成に向かって開かれた身を生きているのである。(「言葉・狂気・エロス」丸山圭三郎)

統合失調症って赤子なんだろうな。つまり言語以前の領域を彼は経験していて(=純粋経験と見るには早いか)、だから「言葉のサラダ」と言われるように、言語のつながりがおかしくなる。

精神疾患を見るときの誤りは、彼が正常な能力を「失っている」と考えることにある。実際のところ、彼はある感覚あるいは能力が過度に鋭敏になっているのだろう。だから狂気と天才は紙一重なのだ。

言語学って言語以前のことを知る学問でもあるんだな、と考えたりした。

5.06.2015

ゴミ問題が解決した

せっかく一戸建てを借りたものの、長らくゴミを出すことがおそろしく、一部屋がまるまるゴミ置き場になってしまった。大量のダンボールと、ゴミ袋(大)が10袋。暑くなってきたこともあり、異臭を漂わせている。

市役所に電話したら、直接持ち込んだらどうか、とのこと。よく調べていなかったのだが、近所に焼却場があり、土曜や祝日も午前だけはやっているらしい。なんてこった、知らなかった。

さっそく車にゴミを詰め込んで、出発してみる。距離にして3,4分のところに焼却場はあった。つくと、重量計の上に車を乗せろとの指示。ゴミを詰んだままこれに乗り、ゴミを捨てたあとにまた乗って、差分を計測するらしい。

車のままゴミ処理場のなかに入る。なかにはゴミをプールする巨大な縦穴があって、その前に車をつける。ゴミ処理のおっさんが、ぼくの車からゴミ袋をつかみとり、ぽーんと穴に投げ入れる。もしかしたら分別チェックがあるかも……という懸念は、まったく不要だった。

ぼくも真似して、ぽーんと投げ入れる。思わず笑ってしまった。しつこくぼくの部屋を占拠していたゴミが、一瞬にして処分されていく。市民による分別のチェックも、プライバシーの侵害もない。朝8時までに出せとか言われることもない。なんという清清しさ!

ダンボールも同様にして、一瞬にして処分されていった。帰りに計測したが、追加料金はなし。ゴミのなくなった空き部屋は、よく換気して、寝室にしてやった。

週に一度、十五分くらいかかるが、それでもゴミは簡単に処分されることがわかった。もともと、近所のゴミステーションは遠くて、車が必要な場所にあったのだから、大して手間は変わらないことになる。

ゴミステーションの「しきたり」から解放されることは、町内会から解放されることも意味する。これにより、無用な関係性のなかに縛られることはなくなる。休日をドブさらいに使う必要もないということだ。

ゴミの管理が町内会の最後の牙城だった。しかし、市民に「ゴミ捨て場を使わせない」ことは最高裁によって否定された。つぎには、ゴミの分別によって市民に干渉することを考えた。

リサイクルで環境を守れ、と日本中で叫ばれた。実際のところ、日本は世界一ゴミの分別が厳しいが、ゴミの排出量は世界一である。エコとは程遠い国だ(その証拠に電力を食い、空き缶やペットボトルを量産する自動販売機が至るところにある)。

この矛盾した態度は、結局のところ、ゴミ利権と市民統制にあるのだろう。家電を捨てようとすれば「リサイクル料金」とやらでウン千円も取られる。その金の行き先はまったく不透明だ。また、ゴミを市民がチェックし、プライバシーを侵害することが常態化している。

この国は、理性なき国である。公平とか、公正という視点がすっぽり抜け落ちている。

この前も、四国へ旅行へ行ってきたが、神戸から四国までの高速料金で4000円も取られた。ところで、このルートには下道がないのである。四国・神戸間を車やバイクで移動しようというのなら、貧乏人であろうとなんだろうと、4000円を払わねばならない。なんというシステムだろう。

往復8000円?普通の人の給料の、5,6時間分だ。四国神戸間を移動する「通行料」だけでこれだ。こんな話があるか。

問題は、このような料金を制定する行政もそうだが、「なんとなく」払ってしまっている市民の方にもある。つまり、「対話不可能」な市民がうまい具合に作られてしまっているのだ。「これはおかしいよね」というと、「でもそれはしょうがないことだ」と人々はあきらめてしまう。そのために役人に都合のよい生きづらい社会がつくられていく。

実際ぼくが日本で生きていくことを辞めて海外で暮らしたいと思うのは、こうした「対話不可能」な人々のせいである。声を決してあげない日本人のせいである。

ともあれゴミを出せたことはよかった。まともな生活に一歩近づけたと思う。

5.05.2015

「私はダンスができ、人生の表面をよく知っているので、あんたはふしぎに思うのね、私が幸福でないのを。私は私で、あんたがそんなに人生に失望しているのを不思議に思うわ。だってあんたはいちばん美しい深いこと、つまり精神や芸術や思索に親しんでいるんだもの。だから、私たちはたがいに惹きつけ合ったのよ。……私たちふたりは悪魔の子だと思わない?」(「荒野のおおかみ」ヘッセ)

不快な気分が続いていたが軽く夜のドライブをして海風に触れたらよくなった。

車を走らせることが無意識的になってきて、走っていると精神的に落ち着くようになってきた。夢を見ると思考がまとまったりということがあるけれど、車を走っていると同じように精神が下降していって、もろもろの考えが納得したり、精神が安定したり、という効果があるようだ。とくに、夜の町並みを走っている感覚は、夢の世界みたいだ。目をつぶったときの闇と光の交錯は、夜の運転の感覚と似ている。

田舎のひとびとは、まったくぼくの興味をそそらない。男は似たようなヤンキー風の人々で、女性は悲しくなるほど不細工しかいない。考えてみると、都会の美人の多さは当たり前のものではなかったようだ。都会の女性たちの完成度の高さ、美への追求のストイックさはすごいものがある。ほとんど芸術品だ。田舎の女性と都会の女性は、同じ人間とは思えない。汚いジャージにボサボサの茶髪、下品であるかへたくそな化粧、3年前に流行ったファッション、というような人間は都会にはいない。

そもそも、失礼を承知で言うが、骨格から不細工な女性が田舎には多い。都会は美人たちを吸収してしまうものらしい。才能ある人や、知的な人は、みな都会に吸い込まれてしまって、戻ってこない。

東京の大学にいたときに、今いるところに就職したい、と研究室の准教授にいったら、「そんなところは負け組の行くところだ」と一笑に付された。負け組、たしかに。若干三十過ぎで准教授のエリートからしてみれば、田舎の小企業ではたらく人間は、負け組でしかないだろう。

自分はたしかに負け組だが、不思議と負け組であることに悔しさがわかない。漫画かなにかであれば、「なにくそ」とがんばって、成功をつかみ取るだろう。そういったサクセス・ストーリーのようには、ならない。だれかに勝つこと、負けることは、どうでもいいことだ。ましてや「組」に入ることなど。汚泥の山は登らない。

昨日おとといと四国へいってきた。なんとなく、だ。ぼくはどうせ日本を離れる予定だ。それがいつになるかはわからないし、海外移住なんて夢物語に終わるのかもしれない。ただ、国を離れるのであれば、それまでに、生まれ育った国を知っておきたいと思ったのだ。

いまの日本は、完全に生きづらい貧しい国になってしまった。もうこの国に、未来はあまりないのだと感じる。感じる、というか、つぼ型の人口グラフを見れば、それはもう予測というよりは宣告なのだろう。東京オリンピックが最後の花火だ。あとは、戦争のようなバクチに出るしかない。

生まれ育ったという以外に、この国に対する愛着はなく、他国と比べてしまえば惨めな国民が住まう「おしまいの国」でしかない。サービス残業、低賃金、高すぎるインフラ、文化的荒廃、重税、自殺率、官僚・報道の腐敗、どれも救いようがない。

それでも、日本の歴史は嫌いにはなれない。過去の日本はおそらくそこそこよかったのではないか、と夢想したりする。ぼくのような中途半端な歴史の知識しかもたない人は、決まって縄文時代や江戸時代に理想を見つけたりするそうだが、ぼくも同様だ。いや、江戸は生きづらそうだが、縄文時代はやはりイデア的な輝きをもっている。

とにかく日本のことを知っておこうと思った。そのための四国旅行だったが、まあまあよいものだった。まあまあというのは、時間がなくあまりめぐれなかったためだ。

鳴門の滝より。
四国といっても、同じ日本であるから、地方都市特有のチェーン店で埋め尽くされた汚い街並みは共通だが、それでも山へ登ったりすると、岩や山の表情の違いに驚くことがある。

まあ、四国の旅行記などどうでもよいことだ。



幸福とは何か、と考えることがある。おそらく人は幸福に到達できないのだろう。

何千年も前から、人々は幸福にいたるにはどうすればよいかを考えていた。仏教では、それは輪廻転生から解脱し、仏になることだとされた。ところで、その幸福にたどり着いた仏はどれだけいるのか?この人類の歴史において、仏陀その人以外にはいないのである。幸福はだから、ほとんど不可能に近いのだ。

キリスト教では、ひとびとは「原罪」を背負っているとされた。それによって人々は楽園から追放された。この生は流刑なのである。したがって、不幸なのだ。

人生は多かれ少なかれ、不幸なものであるし、知ることとは、悲しむことでもある。

この虚偽に満ちた世界では、あべこべに、悲しむことがおかしいことだとされている。訳もなく泣きたい気もちになることは、だれにだってあることだ。この生は苦しく、悲しいものだからだ。それなのに、ときには、それが異常だとされる。

憂鬱がひどくなれば、それは病気だ、と人々はいう。脳内のモノアミンがどうとか、こじつける。病気は治さなければならない。そうして、ひとは抗欝剤や抗不安薬によって「健康」になる。健康であることは、人生の悲しさにもう気づかないことを意味する。

だれもが偽の幸福で満足するよう強いられる。これが幸福なのだ、と百万回いわれれば、だれだってそういうものだと思ってしまうだろう。しかし、そこから抜け出さなくてはならない。
あなたの知性が迷妄の汚れを離れるとき、あなたは、聞くであろうことと聞いたこととを嫌うだろう。(ギーター)
本当の幸福を、追求せねばならない。もっとも、幸福への追求をやめることが、かえって幸福への近道だったりもするのだけど。

5.02.2015

過剰と欠乏について

コメントがくると書く気がなくなる。それはぼくを虚脱させる。結局他人の視線が苦手なのだろう。

ぼくは与える人間であって、与えられる人間ではないのだと思う。この世には与える人「過剰型」と与えられる人「欠乏型」がいて、与えられる人は他者との関係において力を得る人だ。そうして、ぼくは過剰型なので、つねに人に何か与えているので、家計簿はつねに赤字、財布はすっからかんになってしまった。

過剰であるから、与えることが好きなのではない。与えることは、だいたいにおいて、損をすることだ。もらうことは、かえって富むことだ。だから、ぼくのような過剰型は、とにかく人里離れたスイスの山奥みたいな一戸建てで隠遁するのが望みだし、欠乏型の人間は池袋とか原宿とかそういう、とにかく人の集まるところが好きなのだろう。テレビをつけてみると、欠乏型の人間ばかりがいて、それを見る人々は、自然と、彼に富を与えている。

それにしても、過剰と欠乏の関係は逆説的だ。ひとは言う、人懐っこくおしゃべりな人間は「陽気」で、無口で人見知りな人間は「陰気」だと。陽は過剰で陰は欠乏であるはずだ。

しかしもっとも貧しい人間がもっとも富むこともありうるものだ。「きれいはきたない。きたないはきれい」、過剰が欠乏であり、欠乏が過剰でもある。

ぼくはなんどかこう言われたことがある、「お前はなんのために生きているのかわからない」と、これは事実だ。ぼくは生まれてこの方消耗しきっていた。10代を終えるころにはからからのボロ雑巾になっていて、世の中を呪うしかなかった。しかし何のために生きるか、という命題はだれにもわからないものだ。

生き方についてのある巨大な承認がある。それは「大企業出世街道」「資産億単位」「美人な奥さん」「夢のマイホーム」「友人100人」といった陳腐な条件だ。これらの条件をして、彼はなんのために生きているか「わかる」。彼は美人の奥さんのために生きているのだ、企業でバリバリはたらくために生きているのだ、それによって、彼の生命活動は承認される。これらの条件は人に承認を与えるが、その承認はといえば神でも国家でもなく、大衆、すなわち「世間」からきている。承認による承認の連鎖。

しかし、この承認の連鎖のどこかにほころびができれば、霧散してしまうようなものだ。そろそろその兆しがきている。生きることのテーマが、ついには変わってしまうような時代だ。もっとも、世の中が変わりそうな空気、そのひび割れるような不穏な音がかすかに聞こえるような時代に限って、何も変わらなかったりするものだが。

それでなくても、変化はついにだれにも気づかれなかったりするものだ。社会の変化は個人の内面の変化とも似て、だれかに指摘されなければ気づけるものではない。しかし、これだけ情報が全人類的にいきわたるようになると、もうだれもその動きを指摘するものはないだろう。わずかに聞こえるのは、変化することを忘れてしまった老人たちのしわがれた声でしかない(最近の高齢者の犯罪率の高さは、ある種の不適合の結果であると感じる)。

池田晶子という、バブル時代に美人哲学者として活躍した人間がいた。その人はこういう、
以前は、言わなくちゃいけないこと、本当に伝えたいことは、自分の足でその場に行ってでも伝えていました。そのくらい言葉には価値がありました。言葉を安売りしてはいけません。それは自分を安売りすることに通じます。そのことをみんな忘れてしまっているんですね。
この種の発言は聞いたことがなかった。サッカーでも、楽器でも、やればやるほど上手になるものだ。だからこうして毎日数千字を書くことは、これは「安売り」なのかもしれない、などとは考えたことはなかった。

しかしスティーブン・キングはこういう、
作家になりたいのなら、絶対にしなければならないことがふたつある。たくさん読み、たくさん書くことだ。私の知る限り、そのかわりになるものはないし、近道もない。(「書くことについて」)
もっとも彼の小説は読んだことはなくて、「シャイニング」、「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」などの映画が好きなだけだが、この公理は実際正しいだろう。

ものを書くことは治療法の一形態である。書いたり作曲したり描いたりしない人はみんな、いったいどうやって狂気や欝、人間の境遇にはつきものの追い詰められるような恐怖から逃げおおせるのかと、私はときどき不思議に思う(グレアム・グリーン)
と言われるとおり、書くことによってぼくの生はある慰めを得ている。それでも、彼らの言う「書くこと」とはブログに散文的に公開することではなかっただろう。書くことは出世=成功にもなり、生の慰めにもなるが、前者を追及するのであれば、池田の言うことはたしかだろう。

ぼくの書いている文章は、散文的で、したがってひとつの結晶ではない。ぼくの書くことは、かえって精神を解体し、すりつぶし、霧散させること、そうして余剰の精神のもつ緊張を少し楽にしてあげること、でしかない。それ自体が無為な行為で、なにものも生み出すことはない行為だ。

とにかく書くという悪癖が収まらず、漫然と生を消耗させているのかもしれないが、生きることは消耗することでもあるし、今日はバイクでどこかへ行く予定なので、これで終わりにする。