6.29.2015

戦争後遺症

ある種の危険と、遊戯をともなった、陶酔的な感動はなくなって、静かな幸福が日常を占めるようになってしまった。

バイクで遊び、自転車で遊び、ぼくは孤独にあっても、山、川、海へ行き、自然と戯れることで、心身の充足を得ているようだ。

田舎の生活は、ぼくをたまには苦しめる。

ひとつに、女性のセンスが悪いこと。本当に、美人というか、自分に自信をもっていいレベルの女性は、例外なくケバケバしく飾り立てている。茶髪の髪に、厚ぼったい白化粧、濃いアイラインは醜悪だ。

もうひとつ、人々の文化レベルが低いこと。これは、日本という中央集権国家の影響かもしれない。地方人は、あきらかにバカではないけど、テレビによる痴愚化のせいか、人々の知性は幼児化されている。

人々はJ-POPを聴き、ミニバンに憧れ、ドンキホーテ、イオン……。こういった生活様式は、今はマイルドヤンキーと呼ばれているが、彼らは、まことに効率の良い消費者として、奴隷を再生産する働きを担っている。

実のところ、マイルドヤンキーと呼ばれる兵隊たちが、日本経済を動かしている。

ぼくらはいまだ一億総玉砕の火の玉精神を抱えているらしく、その実情は、都会よりも田舎に住んでいると如実に見ることができる。兵士は、精神を捨てなければならない。自由や、平等に対する憧れは禁忌である。

「国防」というこの呪いが、日本を支配しているらしい。それは中国という大国が隣り合っているせいもあるし、アメリカに原爆を二度も落とされたトラウマが、民族レベルで染み付いているせいかもしれない。

ぼくらは恐怖にかりたてられて生きている。老後の心配とか、リストラの心配で、電車に飛び込む人もいる。実際のところ、日本も最低限の社会保障はあるのだから、失職したところで死ぬわけではない。

しかし、「経済的な敗北が死を意味する」というトラウマは、日本が強く経験したことであるから、人々が電車に飛び込むのは、その追体験といえるのかもしれない。日本はいまだ戦争後遺症の最中で、人々の精神を蝕んでいる。

地政学的に、日本という場所は危険なのだろう。いまや二大大国となったアメリカと中国に挟まれた危機感と緊張感で、この国は支配されているように思う。当然ながら、韓国も、北朝鮮も、同様の緊張感を抱いているだろう。

右翼、左翼という言葉が、文字通り右(アメリカ)か左(中国)に付くか、というようになっている。日本の右翼活動家も、左翼活動家も、表面的なレベルではこの単純な隷属願望にとらわれているようだ。

沖縄の市民と政府の対立は、米中の冷戦におけるもっともHotな戦場だとして海外メディアは注目しているようである。多くの左翼的な知識人が沖縄を擁護しているが、米中の冷戦というマクロな実情を前提としているのかはわからない。

もっとも、米中の関係はいまのところ良好だが、良好な国家間でも戦争は起きるものだ。戦争という揺り動かしで、大儲けする人々がいる。日本(韓国、北朝鮮)が戦場になって、米中両者が痛みなく利益を得るような、そんな構図の戦争が起きそうだ。朝鮮戦争で高度経済成長を達成した因果が、かえってくるのかもしれない。

こういう無責任な予測を立てることは、楽しいことだ。根拠など何もない。ただ、今年はどうもキナ臭くて仕方がない。去年の年越しの瞬間は、ものすごい突風が吹いていたことを思い出す。あのように風の強い大晦日はかつてなかったように思う。

よく考えたら、このように、びくびくと悲観的な予測を立てるのも、ひとつの戦争後遺症かもしれない。今日は月曜日、仕事は嫌だけど、我慢しよう。

6.28.2015

隷属、競争、嫉妬、個人。

結局、この国の民は奴隷なのかもしれないと考える。

確かに、ぼくらは自由に愉しく生きているけども、それは奴隷であることの否定にはならない。これらは両立する。自分が自由であり、愉しく生きていると思うこと、これは奴隷にも可能なのだ。

ぼくらの生は奪われている。もちろんある程度であれば、問題ないと考える人の方が多いのかもしれない。世の中、多かれ少なかれ、そういうことはあるものだ、と。こういう人は、不動産屋の理不尽な退去費用にも、過剰に高い高速料金にも、不必要な交通違反の罰金にも、とくに抗議の声をあげることなく、支払ってしまう。

こういう、事なかれ主義の人物が、この世の大部分を占めているらしい。これは究極的なエゴイズムだ。たとえば、原付の30km/h制限は時代遅れだから撤廃すべきだ、と主張しようとする。すると、人々はこう言うのだ。「俺は二輪免許を持っているから関係ない。嫌なら免許を取ればいい」。

しかし、二輪免許は費用も時間もかかるし(たぶん国際比較したらコストは世界一だろう)、仕事上50ccの原付に乗らなければならない人は一定数存在する。しまいには、こういう主張をする人は、原付にしか乗れない貧乏人に違いない、と決め付けられ、実際のところぼくは大型二輪免許を持っているのだが、「貧乏人=自己責任」であるから、ひとりの失敗した人間の戯言として、聞く耳をもたれないということが往々にある。

この手の人々は、公共心がまるで育たなかったのである。彼の頭のなかでは、自己しかない。自分のことしか考えないのである。他者が不当な制度によって苦しめられているから、救いの手を差し伸べようとは一切考えない。自分がその制度から解放されているから、それでよい、と、本当に考えている。

実にこういう人間が日本では多いようだ。海外ではどうなのかは知らないが、原付30km/h制限のような、警察の利益のためだけに存在するような不当な制度は聞いたことがないから、市民が公共心を持ち、法的な主体性、責任感をある程度は共有しているのではないかと想像する。

上のような、悪法に対して過剰に適応してしまった人間たちは、不当な政治的な圧力のすべてに対し、屈従することになる。これもしょうがないことだ。彼らにとって、日本とは正当な法の支配する、自由な国である。だから、この完全な国でだれかが苦しむことは自己責任なのである。

しかしまあ、これほど為政者にとって都合のいい話はない。

奴隷はあまりにも増えすぎたから、その中で競争させることにした。競争に負けた無能な奴隷は、自分の無力さを呪うようになった。競争に勝った奴隷は、自分に誇りを持つようになった。このようにしておけば、主人は安泰である。彼らは自己に固執するようになる。自分の行為が、自分の境遇を生んだのだと、信じるようになる。奴隷は、次第に、「自分が人生の主人だ」と思うようになる。

競争という教義が、実に人間のまともな精神を狂わせるらしい。だれかを蹴落とし、だれかに蹴落とされる人生のなかで、絶対的価値観は破壊され、他者との相対的関係にのみ目がいくようになる。

ぼくはといえば、だから、オリンピックは大嫌いである。ぼくは水泳が好きだし、自転車やバイクで旅するのも好きだが、だれかより速く泳ごう・走ろうとは思わない。オリンピックは、行為と目的の逆転である。槍投げは、本来獲物をしとめるための技術だが、今では獲物はどこにもなく、地面に突きたてて、それを全世界が拍手喝采しているのだから、これは一種の狂気である。まあ「祭典」とはつねに狂気じみたものではある。

競争化社会とは、相対的価値観の蔓延である。それは人間を痴愚化せるものである。だから、国民をよく隷従させるには、効果的手法であるらしい。人々は、年収を比較したり、社会的地位を比べたり、何かの賞をとるために、切磋琢磨する。このようなくだらない感情は、常識的に考えてみれば、人生の時間をかけるためには値しないことだし、ほとんどの人は多かれ少なかれそのことを知っているとは思うのだが、それでもやめられない。人は他者との相対化に一生懸命になる。生涯を捧げることになる。ついぞ、人生の意味など考える暇はなくなる。

実のところ、人間にたいした違いはない。そうだから、ぼくらは天才的な技巧を持つ画家や音楽家に共鳴できるのである(思想家でもよい)。彼らがもしもぼくらとぜんぜん違っていて、遠く離れているのであれば、彼らの行為とその結果に共感することはできないだろう。実際には、それとは逆に、優れた作品を前にすると生まれるのは強烈な共感である。

「巧くやろう」「驚かせよう」と考えるプロの演奏家は(一定レベル以上であれば)いない。自然に、無私とならなければ聞くに堪えない愚劣な演奏になることはわかりきっているからである。無私、とは競争心の欠如である。差異の消滅であり、全人類との調和である。

人間に差異はない。差異は迷妄である。差異は、第三者の作りだしたものである。「彼は有能だが、お前は無能だ」と言われたときに、人の心に邪悪が芽生える。嫉妬の感情である。競争社会は「嫉妬」で人々を絡めとろうとする。このような感情を、注意深く、取り除いてやらなければならない。

とここまで書いて、「嫉妬」という言葉に、興味を感じてきた。本の一冊でも読んでみたい。嫉妬とは、差異への執着である。差異はどこからきたのだろうか。それは個人と個人の関係というよりは、第三者的な「社会」からきていると考えることができる。なぜならば、世界に二人の人間しかいなければ、彼に嫉妬することはないからである。

人は第三者的視点に立って、自己と他者を比較する。嫉妬とは実に社会的な感情であるらしい。母親にとっての自己と兄弟。教師にとっての自己と他の生徒。恋人にとっての自己と他の男。この第三者的な要素が嫉妬の感情には不可欠なのである。

嫉妬の感情は、社会の高度化にともなって深化してきたのか、それとも原始社会には存在しないのか。たぶん、原始社会では「個」という概念そのものが発達していないので、嫉妬の感情もなかっただろうとは思う。

集団の心理とは最古の人間心理である、われわれはそう結論づけねばならない。集団の残渣をすべて軽視し、その上で個人心理としてわれわれが孤立させたものとは、もともとの集団心理から、後になってようやく徐々に、いわば依然として一部だけその輪郭を浮かび上がらせたものなのだ。(フロイト)

フロイトを驚嘆させたこの真実が、ここに適応できることになる。集団とは個人が集まって形成されたのではない。集団がまずあって、個人が生まれたのである。

だから個人という概念は、シュレーディンガーが否定している。つまり我々が固有のものだと思っている思考や意識は、実は他者と共有されているのだ、と彼は主張している。これは上のフロイトの集団真理についての考察や、ユングの潜在意識論とも共通しているし、インド哲学にも(多分)通じるものである。

まあぼく自身を考えてみても、孤独が好きだ、他人が嫌いだ、なんて言いながら、考えていることはここでこうして吐露している。ぼくは何かを吐き出さずにはいられないのだ。外向的な人間であれば喋ることによって、内気なぼくにとってはこうしてブログに書き留めるのである。とにかく人は自分だけの思想を黙っていることができない。なんらかの方法で、吐露せざるをえない。結果だけを見れば、意識は共有されるのだ。

この、最終的には必ず達成される意識の共有を考えると、人間固有の思想など、ないのかもしれない。ぼくらの考え……革新的だと思った思想も含めて、思想の大部分が、ニーチェや、マルクスに還元できたりするのは、この事情によるものかもしれない。

とかまあ散漫に考えていたら、頭が痛くなってきたので、今日は久しぶりにバイクに乗って散策してこようと思う。

6.27.2015

科学と進歩について

人間は進歩しているのだろうか。科学史で見れば、人間は進歩している、ということができるだろう。一方では、人間はいつでも変わらない、という見方もできる。古代に比べて人間は、退歩している、腐敗している、そのような見方もある。

いずれにせよ、ぼくはとしては中立的な立場をとりたいと考える。人間はいつだって人間だったのだし、これからも人間なのだと。それは潮の満ち引きにも似た永劫性だ。

人間が進歩している、そのように考えることはできる。ぼくらはゲーテやドフトエフスキーのような文学に触れることができるし、古代では、キリストや仏陀のような宗教思想もなかった。だいたい、自動車やルンバ、ドラム式洗濯機といったものは、科学の膨大な蓄積によって築き上げられている。

科学はその性質上進歩し、退歩はしない。それが科学の本質だ。

以前、金は詐術だ、ということを書いた。あのときは、学生時代住んでいたアパートの不動産会社から不当な退去費用を請求されたので、ちょっとした係争中なのであった。ぼくが「埒があかないので、弁護士に相談する」と言うと、一転して「書類に不備が見つかりました」と言い出し始めた。

以上の経験的事実からしても、こういうことが言える。金は詐術だ。

これと同じような密接な関係が科学にも見つけることができる。科学の性質はまず進歩であって、それ以外ではない。科学が科学である条件は、進歩なのであり、進歩のない科学は存在しない。

だから、科学の全盛期の20世紀ヨーロッパにおいて、ダーウィニズムが世の中の主流となったのは、そういう事情による。人々が大事に愛で抱きかかえるのは、もはや「徳」ではなかったし、「宗教」でもなかった。だから、なにかにすがらないと夜も眠れない人類は、「科学」を抱き枕にすることにした。

こうして、人々は「進歩」するようになった。

実のところ、人々は、抱きかかえられるのであれば何でもいいのである。人々には宗教が必要なのではない。何か絶対的なものを抱いていなければ生きていけないのである。かつては宗教だったし、今では科学なのだ。ダーウィニズムは、その科学における宗教的役割を担っている。

「人類の全般的進歩に与する」か。シュレーディンガーによれば、すべての人間が、無意識的にでも、その「進歩」に貢献しているのだという。それというのも、進歩はあまりにゆるやかだから、一個の人生の内部において、それに貢献していると気づくことはないこともあるとか。

こうした進歩思想は、たしかに、人類の個別の生を考える上で、有用なものであると思う。生物学的に人類を考察したときには、これが正しいように感じる。

ところで、芸術や、宗教や、徳は、何と関係するのだろう。徳は進歩とは無縁だろう。多分に退歩がありうる。芸術は、科学と似たような系譜を辿っているように感じる。宗教はといえば、時間軸そのものを否定しているように思える。

科学とは何ぞや?という考察を深めていきたい。科学を解くことが、現代の社会を読み解くことであると思う。



真理は自己に内在する、という事実に、最近は懐疑的になってしまった。自分は凡庸で、脆弱な人間であり、倫理的には優れておらず、少し考えてはみるものの、何も行動はせず、肉を食い、油を飲み、愉悦に満ちた生活を送っている。

一年前くらいのぼくは貴族主義的であった、それは貧困に満ちた生活のなかだったから、自分をそのように認めることは、よかったのだ。ところが、日本という国の全体が、今は貧しくなっており、過重労働に人々があえいでいる中、自分だけが高給をとり、自由に、楽しく生きている……。

このような現実が、思った以上にぼくの身を切り裂くようだ。よくもまあ、世の中の金持ちたちは、安逸のなかで暮らせるものだと思う。彼らは、生まれたときからそうだから、疑問に思わないのかもしれない。ぼくはと言えば、片田舎の、裕福ではない家庭に生まれたから、自分の境遇が、あまり信じられないのである。

不幸のなかで、一人だけ幸福であることは、結局、不幸なのだ。そもそも、ぼくはそのようであってはならないのだ。ぼくは、全員が幸福であるときに、ひとり、不幸でなければならない。ぼくはもう、遺伝子的に、そういう宿命を受けているのだ。

ところが、日本においては、不幸がますます巨大に膨れあがっている。人々は、悩み、苦しみ、そのなかで知恵を見つけ出しているようだ。実に苦しみこそ人を賢くする。だから、奴隷にある程度の幸福を与えることは、つねに大切なことなのだ。現代の社会構造は、その基本的な掟を忘れてしまったようだ。

ともあれ、ぼくは、幸福であることで、また不幸を味わってもいる。笑い、喜び、楽しみ、飛び上がる、そのようなことに疑問を抱かない人間であればよかったと、常々思う。

ぼくは苦しみ抜いたから、苦しむことから逃げる術に長けている。だから、ぼくはある程度は幸福に生きているのだ。しかし、自分の不幸から抜け出したあとには、他者の不幸がぼくを苦しめるものだとは、ついぞ知らなかったのである。

この新しい不幸に、ぼくはどう行動すればよいのか、考える。今日は自転車で、また、100kmくらい走るつもりである。おにぎりを3個、バッグに入れて、日焼け止めを塗って、ただ走る。走っている間は、上の疑問を、考えてみようと思う。




6.26.2015

シュレーディンガーの哲学

シュレーディンガーの本を読んでいる。その中に、このような一節がある。

「私は、現にあるがままの私なのだ。私の個性のための場を与えよ。自然が私に教えた本能的衝動に自由な発展あれ。自制も克己も無意味だ、牧師然とした[偽善的な]いかさまだ。神とは自然のことだ。母なる自然は私を、彼女にかなうように、またあるべき(soll)姿に創った。だから、ほかのいかなる当為(Soll)も戯言なのだ。」
これに類した言葉は、いろいろな方面から聞かれるものであり、それは事実に即応した格言としてしばしば言及されているものである。(「わが世界観」)

実に、ぼくの現在の思想はこのようなものである。しかし、シュレーディンガーはこの主張を、「道義性に対する強力で破壊的な攻撃」としている。それで、この考えは根拠薄弱なのだという。

それにもかかわらず、この格言に対する自然科学的根拠は――ありがたいことに――薄弱なものである。今日われわれが有機体の進化から得た洞察によれば、われわれの全生涯は、原初的な自我とのたえまのない闘争であらざるをえないし、実際またそうであるということが、よく理解できると私は思う。(同著、強調原文)

シュレーディンガーの言う「有機体の進化」とは、脳の機能からの洞察である。彼は脳の「記憶」の機能に着目した。われわれは、子供の時期には、自転車の運転や、靴紐の結び方に苦労するけども、いまではまったく無意識的にそれを行うことができる。それらの行為は、それを何百回と繰り返した今では、別段「意識」することなく、完了することができる。

このことから、シュレーディンガーは、われわれの「意識」にのぼる事象とは、新規の行いなのだ、と結論付けた。壁にかけた著名な絵画が、しだいに壁紙の模様と変わらなくなるように、だ。

彼の言いたい有機体進歩とは、現在の我々が靴紐を容易に結ぶことができるように、日常のさまざまな課題を克服し、それを無意識下においやり、つぎの新しい、より複雑な課題に対処するよう「成長」することなのだろう。

これはシュレーディンガーの特異な思想である。

つまり<われわれ>は進化しているのである。<われわれ>人間は、依然としてフル稼業の状態で、日々少しずつ糧[=人間]の進化を遂行している。事実個々の人生、すなわち個々人の日常生活は、たとえそれがいかにとるにたらないものであっても、種の微々たる進化を表現しているのである。(同著)

先ほど、ぼくの自然主義的な価値観を思いっきり否定されたが、この「進歩に与する」という考え方は、理解できなくはない……というか、ぼくも同様の価値観を持っていた。

去年の10月だ。
著名な芸術作品や哲学のような、「不滅」なものに触れる人は、ひとつの宿命を背負う。芸術作品を鑑賞すると、ぼくらはその美しさや楽しさに子どものようにはしゃいで飛び跳ねるけども、決してそれだけで終わるのではない。彼らの作品が与えるすばらしさの中にはあるメッセージが含まれている。それは彼らが生涯をかけて追求した「人類の全般的進歩に貢献する」という使命を果たせ、という義務である。
だから、読むことでも聴くことでも、ぼくらが芸術作品に触れるとき、無意識にある思念を「引き継いでいる」のである。過去の偉人たちが言う。ここまでが私の仕事だった、ここからは君の――というわけだ。父の大事に整備した田畑を子が引き継がねばならないように。 (前を向くこと

いつからかこのような認識は欠落して、シュレーディンガーの言う「道義に対する攻撃的な思想」に染まってしまったようだ。

でも、ぼくとしては、究極的な自然というのは、決して道徳に背くものでないと考える。シュレーディンガーは、「われなすべし」「われ欲す」を切り分け、両者の矛盾的関係を解きほぐそうとしたのだが、ぼくからすれば、この両者は究極的には同一のものであると思う。

つまり、個人の意志としては、自然主義的思想から行為するとしても、行為の結果として、人類の全般的進歩に与するということがありうる。

実のところ、ぼくらが自然的傾向を持とうとするとき、それは怠惰やエゴというよりも、かえって義務感からなされるものでありうる。それ現在主流の思想に対する革命的感情であって……道義に対する攻撃が「エゴ」や「怠惰」であるならば、それはむしろ非自然的領域の方にたぶんに含まれているように感じる。

人間生来の性質が、進歩を志すものであるなら、人間はただ自然であることによって、その進歩を行うことができるのではないか。それは靴紐を結ぶがごとく、無意識的にだ。



というようなことを考えたが、いまいち了解できない。だいたい、「我が世界観」は読み切っていないのだが、あまりにも正面からシュレーディンガーに全否定されたので、ちょっと書いてみた。

今日は気圧が乱れていて、体調が悪い。仕事でもミスをたくさんするのだろう。

6.24.2015

金について

ぼくらは働くことで人生を金にかえる。

しかし人生を金にかえることで、まず経営者に金が行くし、その次には税金として国に持っていかれる。その他、あらゆる企業が、商品が、媚びた悪魔のような顔をして、その金を奪おうとする。

結局、手元に残るのは、わずかな小銭だけで、それはぼくらの人生の対価としては、あまりに小さいものだ。ぼくらは身を粉にして働いて、それで手元には何も残らない、ということがありうる。

金は他者から収奪すべきものであって、まじめに稼ごうと思ってはならない。金はそのように獲得されるものではない。金を得ようと思うなら、まず人を騙さなければならない。それが金本来の性質なのである。

いつからか、まじめにこつこつ働いて、金を得ることが、美徳になった。こんな馬鹿馬鹿しい考えはないのである。こつこつ働くこと、それは無知ゆえの悲劇なのであって、決して正しい道ではない。金の本質を見誤っているからだ。

金持ちは、卑しい。なぜなら、彼らは人々を騙して金をせしめているからだ。しかし、実はこれこそが正しい金の集めかたなのだ。

世の中の商品はほとんどすべてがまやかしだ。スーパーでトマトを買うならいいが、保険商材や英会話教材やビジネス書の99.9%は、ゴミでしかない。ついでに言えば、年金もただの詐欺だ。交通違反の罰金も詐欺だ。

人々は知らず知らずのうちに身包み剥がされている。

人々は、働いた賃金をたいてい、ろくでもないことに使ってしまう。ゲームとか、居酒屋とか、高級車、パチンコ、保険、外国語教室、専門学校、学習塾、賃貸アパート、マイホーム。まあなんでもいいのだが、たいてい金が絡むところには詐術が潜んでいると言っていいだろう。

捨てさせろ
無駄使いさせろ
季節を忘れさせろ
贈り物をさせろ
組み合わせで買わせろ
きっかけを投じろ
流行遅れにさせろ
気安く買わせろ
混乱をつくり出せ
(電通PRの戦略十訓)

現代人が「リアル」だと思っている社会は、現実には上のような原則にしたがって作られている、仮想現実なのである。ぼくらが当たり前のように生きている現実は、すべて、まやかしである。ぼくらの思想や頭脳や精神は、効率よく搾取されるように、改造されている。テレビによって、教育によって。

金はその性質として詐術である。だから、究極的な資本主義社会とは、完全な詐術なのである。

その世界は、すべての人々が、自分を自由だと思い、幸福だと認識し、その実は、ほとんどすべての生命が、奪われており……生き続け、さらに労働を提供するため以外の栄養は、何も与えられない、このような「幸福な病人」が99.9%を占める社会のことなのだ。(ところで、搾取する側も、自分が搾取しているとは次第に思わなくなるから、彼らもまた幸福なのである)

もっとも、これは「最大多数の最大幸福」に適うから、ステキな社会ではある。

上記は別に陰謀論ではなく、民主主義的な資本主義社会の行き着く正常な帰結だ。だからといって、共産主義がいいというわけではない。ぼくは、人間は孤独であるべきだと思うから、そもそも社会には期待していないのだ。だから、社会がどのような形態をとろうと、つねに間違った方向に進む、これは仕方ないことだと思っている。

だれもかれも、金のために働いているのに、金を正しく使うことについては、とんと無知なのだから、おそろしいことだと思う。

明日は給料日だ。


6.23.2015

幸福な日々

世の中のものはなんでも我慢できる。幸福な日の連続だけは我慢できない。ゲーテ

精神の退廃を感じる。もうまじめに何事を捉えようとは思わなくなってくる。ぼくの唯一の取り柄だったクソまじめさも、だいぶ抑制されている。

現在は、幸福である。食事と運動、長すぎない労働時間というのは、まことに人を健康にするもののようだ。

最近、弁当を作るようになった。自転車通勤するようになった。これらの生活の変化、ある意味での豊かさが、ぼくの肉体に余剰を与える。

病苦が幸福の最大の障害であるように、健康とは、幸福の最大の要因であるらしい。ぼくもまた、肉体が健康になり、幸福になってしまった。

ぼくはどこにも定住することができない。田舎は、都市部より少しましだが、それでも、今度は日本から抜け出そうと考えている。この国は、知性的には退廃している。文化的には死滅している。

村上春樹の精神は北欧に置かれているし、内田光子はイギリス人だ。草間彌生はニューヨーク、岡本太郎はフランス。このように、日本の優れた才能は、おおむね輸入品である。日本的抑圧を離れたところにしか、まっとうな芸術は生まれない、という気がする。

ともあれ、世界旅行に向けて、いろいろ考えを馳せる。もっとも、旅行などする必要はないのだ。ただ究極的にぼくが求めるのは、ある種の静謐と、完全な孤独なのだから。それは、よく鍛錬すれば、猥雑な日本の都市部でも可能なことだろう。

ぼくのある種の未熟さが、外国へと駆り立てる。結局、外国には定住できないだろうという気がする。ぼくはどこにでも定住できないのだ。それは「幸福」であってもだ。

人間は幸福になってしまえば、今度は退屈に悩まされる、とはカントだかの言である。凡庸と狂気、快楽と苦痛、幸福と不幸。成功と失敗。そういえば、これらは同一のものである。
アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。(ギーター)

どちらかに救いを求めないこと。

今が幸福でも、不幸でも、それは必然である。不幸なときには、幸福に救いを求め、幸福なときにはかえって不幸に郷愁が沸くものである。

しかし、不幸を絶対的不幸として、享受すること。これが必然を愛すること、運命愛である。不幸なときには、幸福なく、幸福なときには、不幸はないのだから。それはマーヤーでしかない。

というような……朝から宗教的な気分になってしまった。昔のぼくは、ここまで宗教が好きではなかった。でも、宗教はいいものだ。救いになるものだ。もっとも、個人的レベルの信仰に限る。集団は常に間違っているからだ。その意味では国家神道もカトリックも創価学会も変わらない。

最近は、うわついて、まともなことが書けない。そういう時期もあるのかもしれない。人間は、根本的に、怒らなければならない。「否」を発しなければならない。頭ではわかっているが、つかの間の幸福を享受すること、これを自分にときには許してやりたいとも思う。それは、実のところ、不幸を愛する行為でもある。幸福は長持ちしないと、そんな当たり前のことは、百も承知だからだ。



6.22.2015

Cahier

退廃的な、朝の気分。

もう自分がどうなるものでもない、という気がする。

土日は幸福に過ごした。土曜日はバイクで高野山へ行った。日曜日はいい感じの曇天だったので、自転車で一日中走っていた。

高野山では、「正しくありたい」ということを強く思った。そうだから、戦国武将のような過去の権力者の墓に向かって、ぼくに力をください、と願っておいた。

日曜日は、正しくあることとは何かをずっと考えていた。

ぼくはといえば、弱い一個の人間に過ぎないのである。これは確かだ。ぼくは飯を食らい、クソを垂れ、マスをかいて、豚のように眠る一個の生き物だ。

真理とは正しいのであり、正しいということは、結局、幸福への道なのだろう。現状を「完全な幸福」と錯誤して、世の人々は満足してしまう。これこそ真の地獄である、とヴェイユが言っていた。
地獄についてのふたつの考え方。ふつうの考え方(慰めのない苦しみ)。わたしの考え方(にせの完全な幸福。あやまって天国にいると信じること)。(「重力と恩寵」)

ヴェイユの「重力と恩寵」はまことにぼくの心をうち震わせた。ぼくは、ヴェイユを自分の同類のようにも感じた。しかし、ぼくとヴェイユは決定的に違う。

第一に、彼女のように父親が医師ではないし、「パスカル並」と評価された数学教授を兄に持つわけでもない。ぼくの父は知的職業についておらず、兄は社会的地位の低い仕事をしている。彼女は元哲学教授だったが、ぼくはサラリーマンだ。

第二に、彼女のように、底辺層の仕事に就き、病弱な体ながらその中で人一倍働き、さらに正当な給料まで受けとりを拒否する、そういう聖人のような行為はぼくにはできない。ぼくは中産階級の仕事に就き、健康な体でも人並みに働かず、給料はきっちり貰っている。それで余暇も、給料も、足りない、足りない、とわめいている。

このように、偉人たるべく生まれた彼女とは根本的にぼくは「違う」。

彼女の精神は、著書は、ぼくの共感を呼ぶのに、彼女との境遇は、ここまで違うのである。これは不思議なことだ、とつねづね思う。ニーチェを読んでいてもそうだ。ぼくはニーチェのような天才ではない、父親が神父でもない。しかし、著書は心を打つ。

彼らは、降りてきてくれているのかもしれない。自分の真理を、自分の著作に、翻訳してくれているのかもしれない。かもしれない、というか、当然そうなのだろう。医者が患者に病理学を説明するときのように、しょせん一般向けなのだから、岩波新書のように、噛み砕いて教えてくれているのである。

何事も、原著にあたることが大切なものだ。そうだから、著書を著書のまま受け取らず、彼らの心の奥底に触れることが必要なのだろう。本を読んで満足してはならない。

ぼくはニーチェやヴェイユのような高みに憧れるが、それは永遠に適わないだろう。それはある意味で必然なのだから、抗ってはならないと思う。運命に抗うとは、必然に対する冒涜である。

ぼくは凡庸な一市民として終わるのかもしれない?それは寒々しい未来像ではあるけど、それで良いという気もする。ともあれ、自分が何かに「なりたい」などと、思わないことだ。その邪心が、人間を畸形化してしまう。

ぼくがもし、偉い人間になったとしても、それは必然であり、凡庸な市民として幸福に過ごしたとしても、それは必然、発狂し首をくくったとしても、それは必然なのだ。必然とは、自然であるということで、川の水が逆流しないようなものだ。

運命に対し手放しになる。これは旅を楽しむ上で大切な要素だが、普段生きていく上でも重要であると思う、社会は見せかけの選択肢ばかり与えるけど、それは迷妄である。自己責任論などと、愚にもつかない新興宗教がこの国では流行ってはいるけれど。

「これが人生であったか。さらばよし、もう一度!」


ぼくは賢者のように生きていく道しかないようである、それはぼくの鋭敏な神経が物語っていることである。ぼくはあらゆる刺激に弱い。刺激に弱いということは、外部の情報をより多く受けとっているということである。

ぼくは聴覚過敏になってしまって、最近では、車の音が耐えられないのである。でも、車の音が耐えられない、そんな人間はどう生きればよいのだろうか。考えてみると、この国は、聴覚が鋭敏な人間には、耐えられない国であるらしい。どこへ行っても騒がしい。家電屋や、スーパーの生鮮コーナーですら、ぼくを苦しめる。静寂はどこにいったってない。

ぼくは孤独でありたいのに、騒音が、ぼくを孤独から引き剥がす。自動車の轟音が鳴るたびに、ぼくの魂が少しずつ奪われていく、という気がする。

でも、同時にこの聴覚過敏が、ぼくを静寂へと導き、ぼくを真の孤独へ導き、真の音楽へと導いていくのだろう、という予感もある。神経鋭敏者は、神経が鋭敏であるということでまことに苦しむが、神経が鋭敏であるということで、同時に美を享受するのである。恐ろしい苦しみも、救いとなる美も、神経過敏者には、強烈である。

なお、ぼくが賢者に向いているといったところで、それは「向いている」というだけで、ぼくが賢者であることや、それになることを保証するわけでもない。ニーチェやヴェイユと共鳴したところで、ニーチェやヴェイユのようなレベルには永遠に届かないのと同じである。

ただ、自分は賢者向きであって、市民とも、戦士とも違うのだ、と思うことは、生きる上で少しの指針になるようだ。

賢者、というと大仰だから、知識人とか、文化人と言い直してもいいかもしれない。

ところで、ヴェイユはニーチェが嫌いだったようである。その理由は、表現が大げさだからだと。なんだかわかる気がする。

仕事に行こう……。

6.20.2015

もっとも持つが、もっとも持たない人

ぼくらは、夢を奪われて生きている。

昔、ぼくがなりたかった職業は、冒険家であった。

小学校くらいには、漫画家になりたいと思った。腕はいまいちだったが、漫画は、さんざん書いていた。

中学校にあがると、少し現実的になって、SEになろうと思った。当時はITバブルで、SEは憧れの職業だった。HTMLや、PHPに取り組んだ。

大学生くらいになると、プロの音楽家になろうと思った。それは、ある部分で可能になったときもあるけど(報酬を貰えばプロ、という定義ならば)。

現実のぼくは、地方に生きるサラリーマンで、税金をたっぷり払い、経営者を潤わせている。

痩せっぽちの給料で一ヶ月を働く。一生懸命働く。抑うつに襲われても、病苦の重い身体を引きずっても、とりあえず出勤して、タイムカードを押す。

労働の循環は、ぼくをじわじわとなぶり殺しにしてくれる。

鈍感な人間たちは、疑問をいだかない。それどころか、こうした生活に喜びを見出しているらしい。彼らは仕事を楽しい、という。彼らは、少なくとも0以上の喜びを日々得ている。やりがいがある、充実している、彼らは目を輝かせ、飛び跳ねる。

ぼくはといえば、毎日収支計算はマイナスなのだ。つまり、毎日、何かをすり減らしながら生きている。だから、ぼくは自分の背後の血糊を見つめて、ため息をつくしかない。

財布の中には、血と肉の刻印のついた紙幣がある。ぼくには、これを手放しには使えない。同じ、血と肉に戻す以外には。

たかだか、数十万円や数百万円のために、人生を台無しにすることは、悪魔的な所業だと思う。しかし、日本人はもう悪魔になってしまったのだ。おそらく、サイコパスとは悪魔である。ギーターでいえば、激質の人間。

だからといって、労働からぼくは逃れられない。賃金のない労働というのはありえないし、賃金がなければぼくは生きていけない。

とはいえ、ぼくの労働は8.5時間で終わり、世間の人々より高給だし、家賃もほとんど払っていない。昨日、会社の人間が言っていたが、ぼくの先輩は、私大の教授職より上の金を稼いでいるらしい。

そうだから、ぼくは金銭と、労働環境において恵まれている、と言えるのかもしれない。

しかし、そのことが何を意味するだろう?それが、幸福なのか、裕福であること、所有していること、そんなことが。

ぼくには高級車よりも、一匹の猫の方がはるかに貴重に思えるし、高名な絵画よりも、わずかな雲に飾られた海辺の夕日の方が美しいと感じる。夕日は所有できないし、猫も……犬との主従関係と比べれば「所有できない」と言えるだろう。友情を所有できないのと同じで。

所有、あるいは占有できるものに、だいたい、価値はないのだ。

だれもがこのことに気づいてしまえば、資本主義社会は崩壊する。だから、人間が、夕日に、とってかわった。政治家やアイドルは時に、太陽の代わりをする。猫の振りをする人間もある。人間は大真面目に、仮面=メタファーをかぶってみせる。このようなたわいない喜劇が、現代の「進歩的」社会なのだ。

金を持つことは、人を持つことだ。それは人間売買、家畜人ヤプーを購入することでもある。美しい女も、よく働く奴隷も、学者や政治家たちを言いなりにさせることも、金さえあればそれなりに可能だ。

しかし金で動くのは、人間でしかないという限界も持ち合わせている。そうだから、金持ちがもっとも恐れるのは、太陽であり、海であり、星なのである。金持ちは、焦燥感にかられて、太陽を得ようとする。つまり、アイドルと寝ようとする。政治家に懐柔しようとする。絵画を購入する。しかし、それはただの仮面であることに、すぐ気づくだろう。

彼らはつねに欠乏しているのだ。彼らは金=人間は潤沢に持っているが、それだけでしかない。彼らはもっとも持つが、もっとも持たないのである。彼らはもっとも満足し、同時に欠乏している。

金は、大した意味をもっていない。手段の目的化……。「逆立ちした世界」。

ぼくはオリンピックが大嫌いで、スポーツも嫌いなのだが、それは手段が目的化しているからである。実に、資本主義社会とは、手段の目的化が絶対的基盤であり、もはや教義と言ってもいいくらいだ。

自転車で、遠いところへ出かける。これはすばらしいことだ。しかし、狭い競技場で、くるくる回るだけの自転車競技に、まったく価値を見出せない。それをやることも御免だし、見ることも御免である。

しかし、これを肯定しなければ、資本主義も肯定できない。

だから、世間の大金持ち連中が、オリンピックを愛することもわかる気がする。オリンピックという四年に一年の祭典は、資本による支配の再確認なのだ。オリンピックで人々が熱狂すれば、それはよき統治の表れなのだ。

5年後に控えた東京オリンピックは、おそらく悲惨な結果に終わるだろう。それは資本主義の終焉とちょうど重なるのかもしれない……。

逆立ちした世界は、いずれ、倒れる。と、よくわからないことを書いて終わる。

6.19.2015

服従と献身

なんだか弛緩した日々のようで、身体が落ちつかない。

労働がはっきりと責苦の形をとるときは、まだいいのかもしれない。労働がやさしく、寛容になってしまうと、その毒性は一層あがる。

人間の自由意志をつぶすには、彼を縛りつける必要はない。偽の、形骸化した自由を与えるだけで十分である。

ただ人間だけが、人間を道具化することができる。
抑圧もある段階に他すると、権力者は必然的にその奴隷たちから、あがめ奉られるようになる。そのわけは、他人の玩弄物となって、完全な強制に服していると考えるのは、ひとりの人間にとって堪えられないことだからである。そこで、強制からまぬがれるためのあらゆる手段も奪われているとなれば、もはやあとは、強制的に自分に課されてくるひとつびとつの事柄を、自分が自発的に実行しているのだと自分で自分に言い含めること、言いかえれば、服従献身にすりかえること以外に手立てはない。そしてどうかすると、命じられているよりも以上のことまで果たそうと努力するのであるが、その苦しみは前ほどつらくはないのである。それはちょうど、子どもたちが罰として加えられたら辛抱できないような苦痛でも、遊んでいるときなら、笑いながらじっとこらえているのと同じ現象によるのである。このようなまわり道をしながら、隷属はたましいを堕落させて行くのである。(「重力と恩寵」ヴェイユ 強調原文)

「服従から献身へのすりかえ」 は実に日本的であって、例えば本来は行政が担うべき市民サービスを代行する「町内会」という組織も、労働生産性を下げるだけのサービス残業を行うブラック企業の社員も、その根本的な動機は、はや服従ではなく、「献身」となっている。

実質的に、日系企業と、町内会のような組織は、支配を国民に浸透させるためのシステムである。日本の大企業は教育機関である、と諸外国からよく指摘される。

新入社員はみんな一斉に箒を手に道路掃除をさせられ、冷たい川につかり、あるいは山を行進して登らされ、屈辱的で、心身がへとへとになるようなことをやらされる。集団での徹底的な訓練や、互いに告白し合ったりと、文化人類学者ならこれぞ浄化、イニシエーションの儀式であると大喜びするような訓練の数々には、重要な目的がある。つまり軍隊の新兵訓練と同じで、個人の意思を打ち砕こう押しているわけだ。(「いまだ人間を幸福にしない日本というシステム」カレル・ヴァン・ウォルフレン)

ぼくらは抑圧的な生活のなかで、しだいしだいに、自分が外部の圧力に服従しているのでなく、主体的な「善意」でしていると思い込むようになる。

ところで、善意とは自発的行動以外の何物でもない。自分がしたいからしているのだ、したがって、これは自由意志でしているのだ、と思うようになること、この服従から献身=善意への移行に、ひとびとは気づかないうちに慣れてくる。

善意は浸潤する。それは善いことだからだ。だから、町内会の重鎮は、みな狂っている。残業を一日6,7時間行う人々もまた、狂っている。

彼らの行為の本質は「ただ働き」である。ところで、ただ働きはふたつの意味しかもたない。ひとつは「ボランティア」であり、もうひとつは「奴隷労働」である。

彼らは善意を振りまくつもりで、抑圧を振りまく。これこそもっともたちの悪い、魂の腐敗である。このようなゴミ虫は見つけしだい徹底的に叩き潰すべきだが、しかしゴミ虫の数の方が圧倒的に多くなってしまった。

「権力者は必然的にその奴隷たちから、あがめ奉られるようになる」。ところが、権力者はすでにもう見えなくなっている(天皇が最後の偶像であった)。企業経営者も、もはや権力者とは言いがたい。彼らもまた抑圧された国民でしかない。だから、ぼくらは漠然と「愛国心」とか「国家に対する忠誠」と言うしかなくなる。日本的な愛国心とは、たいていこのような曖昧な、代償的なものである。

E・フロムの「自由からの逃走」で指摘されていたことは、ファシズムという強硬的な支配にもっとも喜び勇んで迎合したのが、中産階級の下層だったということだった。上流階級も、下流も、ファシズムには否定的だった。しかし、中産階級の下層という、もっとも抑圧的な立場(下流は諦められるが、中産階級はそれも許されない)は、ファシズムに迎合した。それはおそらく彼らがファシズムの基盤である「善意」と親和性が高かったからだろう。

ファシズムは、強ばった、陰惨な政治ではない。実のところ、笑顔の統治である。「もはや笑わぬ者のいないこと」、これがファシズムの目指す理想である。

ただひとつの救いの道は、強制されているという堪えられない思いを、献身といった幻想でおきかえるのでなく、必然と言う概念できかえるところにある。(同書同章)

ヴェイユによると、このようになる。結局、抑圧からは逃れられないのだから、運命を享受することしかないのだろう。ぼくらはすでに自由のはずである。ただ迷妄のみが、その事実を覆い隠す。内的自由をうち捨てないこと。


今日はかっこつけて、小難しく書いたが、まったく筋が通らない。毎日、朝の時間をかけて書いてはいるけど、時間的制約もあるし、まだまだ勉強不足で、表現も稚拙である。

もっと、勉強をしたいと思う。ヴェイユを読むと、よい勉強になると思う。勉強というか、魂の純化というか、霊性の鍛錬というべきか・・・。

それにしても、いま自分のしていること、考えていることが、はたして正しいのか、わからない。いまのぼくは、いくら他人に「それはバカげている」と言われても、跳ねつけるようにしている。独りで、書物と、ぼく個人にやってくる現象を吟味して、それでいろいろと書いている。

そうだから、今のぼくが間違っているとすれば、それに気づくことができるのは、未来の自分でしかない。

しかし、未来のぼくは、もう今のぼくではないのだから、今のぼくのことを正しく認識することはできない。だから、人間は、その都度正しいのかもしれない。
「ぼくたちの心の中にだれかがいて、それがなんでも知っている、ということを心得ておくのは、とてもいいことだよ」(「デミアン」ヘッセ)

内的神性のようなものが存在するとすれば、ただ孤独のみが、神へ至る道になるだろうという気がする。ところが、日常のあらゆる雑事が、ぼくを孤独から引き剥がす。ぼく自身が、孤独に恐怖し、そこにじっとしていられないということもある。孤独のアマチュア。

現代は、孤独の許されない社会だ。人間が増えすぎて、どこへ行っても、人がいるのだから。やはり、人口密度の少ない北欧あたりに移住したい、という想いが消えない。


昨日から、名前を変えてみた。黒崎潮(くろさき しお)という名前である。名前なんてどうでもいいのだから、拘る必要もないのだが、仕事中にこの響きがぽんと頭に出てきて、とても気に入ったので、この名前にすることにした。

御厨鉄は、ペンネームだったが、その名前で現実に呼ばれることもなんどかあった。今思うと、良い思い出である。

6.17.2015

すべての者が毒を飲むところ

かれらがよじ登って行くさまを見るがいい。この敏捷な猿どもが!
かれらはおたがいの頭を踏み越えてよじ登りつつ、お互いを泥沼に引きずり落とそうとする。
誰もかれもが王座につこうとする。これがかれらの狂気だ、まるで幸福が王座にあるかのように!だが王座にあるのはしばしば泥にすぎない。また王座がしばしば泥の上に乗っていることもある。(ニーチェ「ツァラトゥストラ」「新しい偶像」より)

昨日は仕事の打ち上げだった。

ぼくの単純労働もようやく終わった。飲み会で、さんざん、うまいものを食べた。一皿2000円や、3000円の料理を、みなで食べあさった。

その席で、こう言われた。

「お前からはどうもやる気が感じられない。野心はあるのか?」もちろんもっと婉曲した表現だけど、酔っ払った一人の30台女性社員に言われた。

それを始めとして、ぼくの仕事のダメだしの流れになりかけた。そこで、ちょうど、運転代行がきたのでお開きになった。助かった、と思った。せっかく豪華な料理を食べたのに、これではイーブンどころか、マイナスになってしまう。

野心、とはなにか?

それは持たねばならないものなのだろうか。たしかに、野心があればぼくはもっと仕事に熱が入るという気がする。ぼくはほぼ定時であがるし、与えられた以上の仕事をしようとは思わない。

だいたい、8.5時間の労働のなかで、ぼくは精一杯やっているのだ。ぼくは自分のペースを固守しないと潰れてしまうことを知っている。そうだから、適度な肉体的休息と、精神的安堵は、自分のタイミングで入れる。(だいたい、日本人の一人当たりGDPは、定時で帰っている外国人以下ではないか)

野心とは、金持ちになろうとか、偉くなろうとか、そういう意味であるらしい。その意味で言うのであれば、ぼくに野心はない。



どうも、日本の会社では、野心を持たねばいけないらしい。たしかに、ぼくの友人、知性的で優しかった大学の友人でさえ、会社に入って一年もすると、「俺は社長になるんだ」と豪語するのだから、そのように「教育」されていくものかもしれない。

野心で会社の構造は成り立っているのかもしれない。

考えてみると、学生時代から競争、競争の連続であった。学年で何番、全国で何番、というような、果てしない競争の連続で、それは社会に出ても変わらない。むしろ、聖域であるべき教育の現場が、資本主義的な体制に飲み込まれているといえるかもしれない。

もちろん資本主義的体制というのは、資本家を満足させるためだけでなく、現代ではもっと根本的な部分、「国防」に関与してくるのだろう。二次大戦で日本が喫した敗北は、経済的貧しさにその原因があった。

だから、ぼくらが「偉くなろう」と思って仕事や社内政治に熱を入れることは、実質的に国防に繋がっていると言えるだろう。ぼくら個々人の注力、つまりエネルギーを注ぐことによって、この国の形は成り立っている。

ぼくらが稼ごうと思うことで、この国は豊かになり、そうしてその豊かさは、国防につながる。国防とは、ぼくらの共同体的生命の維持であり、それがゆえに、絶対的教条になりうる。

絶対的教条とは、法律を超越したこの社会に漂う「空気」である。つまり、これこそ数日前からつらつらと書いている「善意」なのである。

考えてみれば、原発は国防組織だった。それは「即座に核爆弾を製造できる」というコード、外国に対する牽制だった。だから、われわれは原発を廃することは不可能なのである。原発とは、アメリカの打算とか、科学発展上の素朴な失敗ではない。ぼくらの「善意」の結晶なのである。それがたまたま爆発して、何人もの命を奪ったところで何になるだろう?「彼は正しいことをしたのだ、結果的には間違いだとしても」



なんだか話がどんどん大きくなってしまった。ただ、この二重の視点はおもしろい。片方のぼくは日本のしがない会社員だが、同時に世界=人間的視点(コモンセンス)から、ぼくの現状を眺めることができる。

このコモンセンスは本当にありがたいものだ。混乱や迷妄といったものから救い出してくれる。「日本人なら~」「社会人なら~」というようなイデオロギーに屈することがなくなる。現実をより単純に、正確に描くことができる。

ぼくは人間であって、それ以上じゃないし、それ以下でもないのである。そう自覚している以上は、ぼくは絶対的に正しい。もちろん、上に書いたようなことが誤りである可能性はあるのだが……。しかし、自分が正しいという確信は、もう揺るがないような気がする。

そうだから、ぼくが仕事に熱中できないことも、野心をもたないことも、正しいのである。

 善人も悪人も、すべての者が毒を飲むところ、それを私は国家と呼ぶ。善人も悪人も、すべてがおのれ自身を失うところ、それが国家である。すべての人間の緩慢なる自殺、それが「生きがい」と呼ばれるところ、それが国家である。(同書同章)

 善人も悪人も、すべての者が毒を飲むところ、それを私は会社と呼ぶ。善人も悪人も、すべてがおのれ自身を失うところ、それが会社である。すべての人間の緩慢なる自殺、それが「やりがい」と呼ばれるところ、それが会社である。


6.16.2015

奴隷国民

奴隷と市民とのちがい(モンテスキュー、ルソー……)。奴隷は主人に従う者であり、市民は法に従う者である。(「重力と恩寵」シモーヌ・ヴェイユ ちくま学芸 p254)
ここで出ているモンテスキューとルソーは、「法の精神」、「人間不平等起源論」をそれぞれ指していると解説にある。

日本をふり返ってみると、この国では、遵法精神というのは見当たらないように思う。

瑣末なことでは、決して守れない自動車の制限速度。町内会における人権侵害。企業におけるサービス残業。巨大な根本的基盤では、原発、自衛隊、ということになるだろう。

法律は、いざとなったら踏みにじることができる。「軍隊を持たない」と憲法に明記された国において、軍隊を持つことができる。

原発事故では、だれも法律的に罰を受けていない。たしかに、名目上東電には賠償責任が生じたが、その金は税金と電気料金の値上げによって補填されたので、懲罰と言えるかは微妙だ。現に、ここ二年で同社は過去最高益をあげている。おめでとう東電!

そういうわけだから、この国は、法治国家ではない。認識を改めなければならない。このことは、実のところ、ぼくにとっても大変な作業だ。四半世紀持ち続けていた幻想を捨て去らなければならないのだから。

しかし、冒頭のヴェイユによればぼくらは「市民」ではなく「奴隷」であることになる。だから、この国の民は、すべて、奴隷と言えるのかもしれない。

法の権利(と義務)を受けていない国民は、例えばひとりの教師の、ひとりの親の、ひとりの上司の、ひとりの社長の、ひとつの国家の、奴隷になる。アカハラ、パワハラ、セクハラ、虐待、経済的搾取。あらゆるハラスメント(=いじめ、嫌がらせ)は正当化される。なぜなら、相手は奴隷だから。

いじめっ子は、もっともよく順応した子だ。だから、そのいじめを罰しても、いじめっ子はすぐには反省できない。彼を襲うのは、ひとつの根本的な矛盾だ。それは国家的規模の矛盾だ。彼はこう言われているに等しい。「君のしていることは正しく、そして悪い」。

しかし、いじめっ子はいずれ、こう思うだろう。自分が正しかったのだと。なぜなら、日本社会はひとつのいじめ(主人―奴隷)関係で成り立っている社会だからだ。それが学校という特殊な場では否定されただけで……。教養なく、日本にとどまる限りは、彼はもっとも適応した人間として、春を謳歌する。高い地位と、富と、幸福に囲まれる。

「父よ、彼らをおゆるしください。かれらは何をしているのか、わからずにいるのです」ルカ二三・三四

さて、ヴェイユに戻る。
見方をかえれば、主人がたいへんやさしいこともあり、法がたいへん過酷なこともある。だが、そんなことでなにひとつ事態は変わらない。気まぐれと規則とのあいだにへだたりがあるという点に、すべてが胚胎している。
気まぐれに従うのが、どうして奴隷的な屈従になるのだろうか。その最終的な原因は、たましいと時間との関係に存する。他人の気ままに従う人は、時間の流れの上で一時停止を命じられている。次の瞬間には、何がもたらされるかを待っている(何よりも屈辱的な状況で……)。この人は、自分の時間すらも自由はできない。現在はこの人にとって、もう未来の方へ重みをかけて行けるような梃子ではないのだ。(同著・強調原文)

隷従とは気まぐれに従うことであり、極言すれば、それは魂の時間を止めることなのである……。と言ってみたけど、よくわからない。ぼくら奴隷の時間は止まってしまっているのか。時間すらも、奪われてしまったのか?

この一節はもう少し時間をかけて理解したい。

それにしても、久しぶりにいい本にあたった。ヴェイユは本物の天才だろう。ニーチェクラスの天才だと思う。これが女性だっていうんだから、興味深い。でもニーチェがルー・ザロメによって受胎されたように、(そしてソクラテスにとっての悪妻のように)「書かれたもの」の実態は、ほとんど女性が関与していると言えるのかもしれない。「男を妊娠させる女」は、たしかにいるのだろう。

仕事行く。

6.15.2015

よい憂鬱、悪い憂鬱

昨日は、実に正しく、苦しんだ。久しぶりに苦しむことができた。

実は昨日は、街コンに行く予定だったのだが、湿気のせいか、髪型がうまく決まらず、気分も不安ないやな感じになってきたので、主催者にキャンセルを報告した。すると、キャンセル料が発生するといわれた。おそらく、数千円が請求されるのだろう。

このように、金は、するするとぼくの手元を抜け落ちていく。

ぼくは、バカみたいなことで金を使ってしまう。サイズの合わない靴を買ったり、絶対に着ないようなTシャツを買って、金を失う。バイクの鍵を出先でなくしたと思い込んで、鍵業者に頼んで、そのあとすぐ見つかって、出張費の五千円を払ったこともあった。

何にもならないようなことで、金を失っていく。

ぼくはお金は好きではないが、節約家だという自負がある。基本的には自炊だ。ギャンブルはしないし、高い物を買う気もない。最近はドラム式洗濯機を買ったけど、あれは就職記念だった。車は、まあ、中古の軽自動車だし・・・。

でも、お金が貯まらないものだ。ぼくはたぶん、お金に好かれてはいないのではないか、と思うときがある。実際、ぼくは、金のために作られた世界が、全部嫌いだ。

とにかく、失った数千円と、曇天と湿度100%、実に不快な天気が、ぼくを憂鬱に落としこんでくれた。

でも、それはよい憂鬱だった。



よい憂鬱、悪い憂鬱。

ヴェイユは「不幸」と「苦痛」を使い分けていて、苦痛は神に近づくための肯定的刺激であるのに対し、不幸は感覚を麻痺させたり、迷妄に陥らせるようなものとして、否定的に書かれている。

ぼくからすれば、「否」の感情を持つのであれば、川のすべてが海に導かれるように、真理に到達できるように思っていたが、そうでもないのかもしれない。人間の精神を殺してしまうような否=不幸は、たしかに存在する。

「嘔吐」の一節を思い出した。
私は彼女がときには、歌いやめるとすぐぶつぶつ呟くことや単調なその苦悩から解放されて、思い切り苦しみ、絶望のなかに沈湎することを望まないのか考えてみる。しかしとにかくそれは不可能だろう。彼女はがんじがらめになっているのだ。(「嘔吐」サルトル)

がんじがらめ――全面的な苦痛のなかに飛び込むこと、不幸はそれを絶対に許さない、ということか。

「単調な」不幸は、真の意味で、もっとも不幸である。それは、苦しみだが、真理からは逆に離れる。苦しみ損という奴だ。苦しむにも、コツがある。
苦痛もある段階に達すると、世界がぽろりと落ちてしまう。だが、そのあとでは、安らぎがやってくる。それからまた、激痛がおこるとしても、次にはまた、安らぎがやってくる。もしこのことを知っていれば、この段階がかえって次にくる安らぎへの期待となる。その結果、世界との接触もたち切られずにすむ。(「重力と恩寵」ヴェイユ)

このシモーヌ・ヴェイユの一説は、「成功と不成功を平等のものと見て、諸々の行為をせよ。」という、ギーターの奥義を彷彿とさせる。


ぼくは世界から、離れたり戻ったりだ。だから、硬直した現実的な社会では、まこと生きづらい。今日からまた、労働の場では、浮遊感に苦しみにながら仕事をするだろう。

浮遊感とは、「浮く」ことである。集団から「浮く」ことは、ぼくにとって珍しいことではない。実際に、精神は、あちこちに浮いてしまっているのだ。そうだから、他者が「あいつは浮いている」と指摘することは、誤りではない。

彼らが大真面目に取り組んでいるものが、ぼくにとってはまるで興味がわかない。退屈であくびが出ることもあるし、やりたくなくて、悲鳴をあげそうになるときもある。

ぼくと職場をつなぐコードは、ひとつ「賃金」であって、もし金のもつ拘束力がなければ、ぼくは数秒も待たずに、職場との関係を断絶するだろう。会社のために働く、という認識はない。

経営者と労働者は、ただ金という臍帯でのみ繋がれる。いくら、家族的繋がりとか、助け合いとか、そういう「善意」でつなげたところで、そんなものはぼくにとってないも同然だ。



話が散漫になるが、最近マクドナルドの外人社長はやっと、日本が合理主義ではなく「善意」で統治されていると気づいたらしい。当然、ビジネスも善意が支配する。

そうだから、「子ども―母親」という絶対善に近いつながりを、商品に投影したようだ。Baby in carという不可解な英語。善性の主張。いまさら遅いという気がするけど。

6.14.2015

浮浪人

まったくやる気もクソもない朝だ。

労働の循環が豊かな生活を奪っていく。喜びも、悲しみも、労働という狭い箱庭のなかに求める、そういう人間になってしまったら、これはもうおしまいなのだろう。

喜怒哀楽を労働から得るようにして、そうして、休日は、何をするでもなく、ぼんやりと虚空を見つめるようにして、体力の充足を得て、つぎには、月曜日――次の過酷な労働へと向かう、そんな生活に、順応してしまったとき

人間は死ぬ。

そうだから、慣れないことが大切なのだ。それは、労働に喜びも悲しみを見出さず、ただ労働を労働として見つめ、労働に「やりがい」など求めたりせず、労働とは「苦役」「厄介ごと」「拷問」であることを忘れないこと、それはつまり労働を正しく苦しむこと、つねに今日から仕事についた人であるかのように、とまどい、困惑すること、これが大切なのだ。

この生活が当たり前だ、この生活は私に向いている、そう思ったら、ダメだ、逃れよ、人間の適応とは、怠惰の兆しである。適応とは、無思考である。そうだから、つねに刺すような痛みを認識することだ。この痛みから離れる方向に向かえ、君はつねに針で刺されているのだ、この痛みを認識しなくなれば、やがて化膿し、死に至る。

それでも、ぼくは問う、幸せになってはならないのか、と、幸せとは、25日の給料日のためにあくせく働いて、労働の提供する喜びと悲しみに満足し、余暇の時間はただ仕事のためだけに休息し、その循環の生活を春夏秋冬40回繰り返す程度に続けることである。

世の中のほとんどのひとは、こういう生活なのだからなあ!

たしかに、幸せかもしれない?人々は、もろもろの消費物を買う、家とか、大型バイクとか、高級車、革靴、パチンコ、性風俗、とにかく、消費するものはたくさんある。ぼくらは金のために命を削っている。そうだから、金がもし万能でなかったら、ぼくらは命を無駄遣いしたことになる。

消費は楽しいことだ、消費とは人生のもっとも強烈な喜びだ……「これ、一切なり」と人々は妄計する。でも、命は世界のすべてだけど、金は世界のすべてではない。

――もっとも持たない人間が、もっとも持つ

ということがありうる。貧困に飛び込んだアシジのフランシス。

ぼくの両手はがらあきだが、背嚢にはこれから金が詰め込まれることになっている。この背嚢が、ぼくを殺すのかもしれない。

そうだから、金を得たら、また無一文になることを、宣言しておこう。たぶん、世界旅行によって、貯金はほとんどゼロになるだろう。ぼくはまだ、恵まれている。親戚が寛容なひとで、彼女は元教師なのだが、いざとなったらぼくに金を貸してくれると言っている。祖母も、ぼくが自由に使える金を70万円くらい残してくれている。

だから、働いた金を、すべて旅行につぎ込んで、世界の美しいところと、醜いところと、旅の絶望と希望とを、少なくとも1年、長ければ3,4年――あらゆる時間的制約、年齢とか、無職期間とか、そういう考えを取り払って、長い時間をかけて、身体に染みこませ、精神に染みこませ、もう、死んでもいい――生と死が平等になるくらいの、そういう境地に辿りつきたいものだ。

世界を知ること、知を追求すること、真理を追い求めること、自己にたどり着くこと、これ以上の人間の義務はないだろう。


新しいさすらいのはじめのうちは、取りもどした自由をよろめくようにむさぼりながら、ゴルトムントはまず、旅をするものの、ふるさとも時間も忘れた生活の生き方をふたたび学ばねばならなかった。だれにも従わず、天候と季節にだけ左右され、目標を持たず、屋根をいただかず、何も所有せず、偶然にたいして手放しになって、流浪者たちは、子どもらしい勇敢な、みずぼらしくて強い生活を送る。彼らは、楽園から追われたアダムのむすこである。無邪気な動物の兄弟である。彼らは天の手から、時々刻々、彼らに与えられるものを受け取る。太陽を、雨を、霧を、雪を、暑気と寒気を、安楽と難儀を。――彼らにとっては、時間も歴史も努力も、家を持つものが盲進する発展とか進歩とかいう妙な偶像もなかった。浮浪人は、敏感であるにせよ、粗野であるにせよ、腕達者であるにせよ、無骨であるにせよ、勇敢であるにせよ、臆病であるにせよ、常に彼の心は子どもであり、常に彼は最初の日のように、いっさいの世界歴史の始まり以前のように暮らし、彼の生活はわずかの単純な本能と必要によって導かれる。彼は利口であるにせよ、愚かであるにせよ、いっさいの生活がどんなにもろく無常であるかを、またすべての生き物がそのわずかばかりの暖かい血で氷のように冷たい世界をどんなに貧しく小心翼々と忍んでいるかを深く悟っているにせよ、あるいは、貧しい胃の命令にただ子どものようにがつがつと従っているにせよ、――彼は常に、所有する人間や定住する人間の反対者であり、相いれぬ敵である。所有し定住する人間は、いっさいの存在のはかなさや、いっさいの生命の不断の吸いたいや、われわれをめぐって宇宙をみたしている仮借ない氷のように冷たい死などを想起させられることを欲しないから、彼を憎み、軽蔑し、怖れる。(「知と愛」ヘッセ)

6.13.2015

善意統治とがん細胞

この国は善意で統制される。

だから、地震が起きたときには、ただその悲惨な状況を伝えるだけだったメディアが、原発事故という国家統制の最大の危機に陥ったときには、唐突に「善意」を訴えだし、もちろん事故の報道はしたものの、同時に自衛隊の救助活動とか、ボランティア団体の姿をさかんに映すようになった。「善意」を訴えるようになった。

これをレトリックに受けとった大衆は、「ただちに影響はない」という言葉に安心し、「食べて応援」に精を出し、放射能リスクを公平(震災前の日本基準、あるいは国際的基準)に語る人を「放射脳」と罵った。

おそらく、「ただちに影響はない」と言った枝野氏は永遠に裁かれないだろう。というのも、彼は善意で発言したからだ。情報統制を行ったマスコミも、同様だ。彼らは国家的危機に対し、「国民の混乱を助長しないため」に、情報制限を行った。そして、それが結果として、多くの被爆者を生んだとしてもだ。

この国は、民主主義国家ではない。そのついでに、法治国家ですらない。このふたつの錯誤が、多くの混乱を生み出している。タテマエでは、この国は民主主義であり、法治国家であるが、あくまでタテマエであることを理解しよう。

もっとも端的なタテマエは、「自衛隊」の存在であって、左翼の大好きな「第九条」では「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」とある。

自衛隊とはだれがどう見ても「陸海空軍その他の戦力」であって、それ以外ではない。これを否定する人はいないだろう。ぼくは自衛隊を廃せよと言うのではない。自衛隊を持つなら憲法正せ、そうでないなら憲法守れ、と、当然の民主主義的、法的な手続きを踏め、と言いたいのだ。

それを、あれこれ理由をつけて正当化する。国防という、国家のもつ最大最重要の課題で、堂々と憲法違反を行っている。土台からおかしいのだ。でも、この国はもともと法治国家でないとしたら、こんな主張は空疎でしかない。それどころか、的外れともいえるだろう。

自衛隊は国益に敵っている。他国の脅威から国民を守っているし、災害時には助けてくれる。自衛隊をなくせ、と本気で思っている人はわずかだろう。為政者と、その代弁者は言う、「それなら、自衛隊をなくせばいいのか」そうではない。

自衛隊の存在は、憲法違反である。これは否定しようがない。たしかに、このような憲法は時代錯誤だが、改正せずに違反を続けるのであれば、この国の基盤が根本から「法律違反」であることになる。それは国民にも漏出し、違法は当たり前のムードをつくりだす。

つまり、自衛隊はブラック企業であり、町内会の一端と言うことが言えるだろう。われわれの情操教育は、善意を育むことだ。それは権利意識の養成では決してない。権利意識と、善意は相容れない。西洋は善意を失い、権利意識を得た。日本はその逆だ。

すなわち、日本人に人権はない。

それを嘆いてはならない。われわれが統治されている様式の必然であるから。人権を叫ぶことは空しい。それは国家基盤を覆すという、途方もないプロセスを踏まなければ達成できないからだ。



震災直後は、日本の統治の現実が、まざまざと剥きだしになった。だからぼくなどはひどく混乱してしまった。何も考えずに享受していた生活に、まず地震の揺り動かしがおきて、そのすぐあとに放射能が振り落ちてきた。

被爆して損傷した染色体は、指数関数的に細胞増殖をする。だから、気づいたときにはもう手遅れ、ということが少なくない。

日本にとっての細胞、すなわち日本国民のなかにも、がん細胞がちらほら……(ぼくのような)。そして、それは増殖している、と言えるかもしれない。増殖したがん細胞はその宿主に機能不全を起こし、死に至らせる。

このがんを日本の統治は適切に処置できるだろうか、見物である。外科的な切除を行うか?より強力な放射線照射で死滅させるか?抗がん剤を投与するか?いずれにせよ、痛みを伴う治療だ。それとも、あやしげな民間療法にでも頼るのだろうか。

がん細胞が勝つか、善意が勝つか。ぼくには、どちらの結末がよいかわからない。なるようにしかならない、ということだろう。

6.12.2015

嘔吐

昨日の午前2時ごろ、突然悪心を感じて目覚め、トイレに駆け込むと、寝る前に食べた豚肉ともやし炒めを、全部戻してしまった。そうして、朝6時まで、吐いたり、落ち着いたりを繰り返していた。

はっきり言って、まるきり病気でふらふらだったけど、会社には行った。仕事にはならなかった。けど、日本の会社だから、とりあえず出勤しておくことは大切なことだ。がんばってる姿を見せること、これがすべてだ。

強力な胃薬を買って、胃の不快感はよくなったけど、こんどは頭痛とだるさが残ったので、頭痛薬を飲んだ。それでも、ひたいがすごい熱を持っていた。次は解熱鎮痛薬を飲んだ。

風邪なら薬を飲めばいい、胃痛なら胃薬を、不眠なら睡眠薬、鬱病なら抗欝剤、なんでもとりそろえているから、働け……。

「昨日夜中に気持ち悪くなって目覚めたんです」と言ったけど、会社のひとたちは、冷たかった。体調管理もできない奴め、といった視線を感じた。タイチョウカンリも、シゴトノウチと。

そうだから、仕事中ぼくはさんざん見えないSOSのサインを出したけど、怠け癖、仮病のように思われたらしい。

もう、熱と吐き気と頭痛で、ふらふらだったから、耐え切れず肘をついて仕事をしていた。そうでなければ椅子から転げ落ちそうだったからだ。すると、先輩社員が「暇ならこの仕事をやってくれ」と頼んできた。本当に、叫びそうになったけど、心の中で抑えた。休憩時間にトイレにいくと、血尿が出ていた。

でもまあ、耐えられる、この人たちが、人間の心を失っているのは、しかたのないことだ。他者を慈しむ心とか、他者の苦しみに共感する能力を失っていたり、仕事がすべてだと考えて、仕事では有能だけど、生活を見失っているとしても、そしてそれを当然のように考えていることも、しょうがないことだ。

家に帰ると、18時ぐらいだったが、すぐに布団に崩れ落ちて、寝てしまった。そうして、12時間まるまる寝たら、気分は良くなった。18時に帰られるから、それは、よかった。世間では21時帰宅なんて普通のことなのだ。それなら、今日も苦しみは続いていただろう。


統治は法に優先する、当たり前のことだ。町内会を解体してしまえば、ブラック企業を駆逐してしまえば、日本の統治は終わる。少なくとも、現在の統治様式は終わることになる。

それは自民党的支配とも言えるが、自民党的支配とは、ほとんど日本的支配とも言えるだろう。だから、いちがいに、法律を徹底しようとしても、それが日本のためになるかはわからない。

もっとも、西欧国は法で統治されている、文字通りの法治国家だ。それは歴史的背景によるものと言えるのかもしれない。日本では法と統治は結びつかない。日本の統治は法よりも善意によるもので、そうだから法治国家ではない、と言い切ることができるだろう。

ひとびとのそれぞれが、自分の法的な権利意識に目覚めて、主張しだすようになったら、この国は間違いなく転覆するだろう。それが良いことなのかはわからない。ぼくには、仕事漬けになっている人々は、案外、幸福だと思う。ただその生活が、ぼくにはまるきり合わないというだけだ。

世の中には、町内会の労務や、企業の過酷な労働の中に救いを見出す人がいる。そういう人は、ぼくから言わせれば「サイコパス」という類の精神疾患なのだが、それでも彼らは日本では「もっとも適応した人」になる。たとえば、日本では、和民の社長のような典型的なサイコパスが自民党から出馬していたりする。(よく考えれば、首相のA氏もその気がある)

Psychopathy Checklist (PCL)
1. 口達者/表面的な魅力 12. 乱交的な性関係
2. 過去におけるサイコパスあるいは類似の診断 13. 幼少期からの行動上の問題
3. 自己中心性/自己価値の誇大的な感覚 14. 現実的で長期的な計画の欠如
4. 退屈しやすさ/欲求不満耐性の低さ 15. 衝動性
5. 病的に嘘をついたり人を騙す 16. 親として無責任な行動
6. 狡猾さ/正直さの欠如 17. 数多くの結婚・離婚歴
7. 良心の呵責あるいは罪悪感の欠如 18. 少年時代の非行
8. 情緒の深みや感情の欠如 19. 保護観察あるいは執行猶予期間の再犯の危険が高い
9. 無神経/共感の欠如 20. 自分の行動に対する責任を受け入れることができない
10. 寄生虫的な生活様式 21. 多種類の犯罪行為
11. 短気/行動のコントロールの欠如 22. 薬物やアルコールの乱用が反社会的行動の直接の原因ではない

サイコパスが居心地のよさを感じる社会だ。だから日本社会はサイコパス化した、と言えるだろう。

では、その対極に位置する神経症のぼくは、どうすればよいのだろう。

ひとつには、日本に残って、社会転覆に寄与することだ。それには、ペンの力とか、デモ行進が必要なわけではない。ただ、死なずに、生きているだけでいいのだが……。

もうひとつは、サイコパスではない国家に逃げ込むことだ。これは一般的な法治国家で十分だ。

まあ、現実的には後者ということになるだろう。簡単だし。

最近思ったのだけど、十分な収入さえあれば、日本でもそこそこ快適な生活を送れるという目算がついた。それは豪勢な一軒家に趣味のいい車、よい労働環境とよい仕事内容、よい楽器とよい書物、静寂と平安に満ちた生活だ。

しかし、周りの(サイコパス以外の)人間がすべて苦しんでいるのに、それに耐えられるだろうか、という気がする。年収1000万円くらいのひと、世間的には大変恵まれた境遇にある人は、こういった苦しみにどう折り合いをつけているのだろう。

つまり、貧しい人々から椅子を奪っているという現実、自分が富む代わりに、何十人もの人々が、貧困に陥っているという現実。ぼくにはどうも、「自己責任」という呪詛で片付けることができない。貧しい人を見ることは、やりきれないことだ。

ここでいう貧しさは単なる金銭にとどまらない。テレビなんかで朝の通勤ラッシュを見ると、悲しい気持ちになる。彼らは時間も、肉体も、ドブのなかに突っ込んでいる、と。わずかな賃金の三分の一を家賃につぎ込み、チェーン店やコンビニ弁当の毒残飯で胃袋を満たす彼ら。

ぼくからは、東京に対する憧憬は消えうせてしまった。おそらく都市一極集中も自民党的支配の一端なのだろう。たぶん、正常な感覚、権利意識を取り戻した人間には、都市部は魅力的にうつらないだろう。あまりにも、人口過密すぎるし、生きていくには過酷すぎる。

人々が、都市のネオンや夜景に気をとられずに、田舎の星空の美しさに気づいたときに、自民党支配は終わる。それはサイコパスから人間への揺り動かしだ。

その揺り動かしは、いつくるだろうか、と考える。某ネコブログは、10月ごろと予想しているけど。



6.10.2015

この国の急所

この国は「みなさまの善意」でなりたっているのだ、とふと思った。

もう何百回言及するかわからないが、町内会にはゴミ捨て場の管理という使命がある。

これは出されたゴミが分別されているか検査する仕事であり、ゴミ出しの時間が守られているかチェックする仕事であり、カラスからゴミを荒らされるのを守るというような、けっこう身体を張った仕事である。

ところで、分別されたゴミはほとんどすべてが一緒に燃やされてしまうし、ゴミ捨て場が他国のようにコンテナ型になれば、人はカラスと戦う必要もなくなる。そうだから、道端にゴミ袋が露出しているスラムのような光景は実は日本だけのものだし、他国ではゴミの管理はたいてい行政か民間企業の仕事で、市民の「自治」に任されることはない。

町内会は「任意団体」である。構成員の全員が、主体的な意志をもって構成している団体であり、わかりやすい例では大学におけるサークルが任意団体である。

つまり、町内会はまずもって「善意」で成り立ってるということができるだろう。なにしろゴミの管理を「愛好」する人なんていないのだから、その行動を説明するには善意しか浮かばない。

ところで、市役所はこの町内会の「善意」をはじめから当て込んでいるようだ。

町内会は電柱につけられた電灯の電気料金、電球交換までするから、町内会に入ることを拒絶した家の周辺は、夜になると真っ暗になる、ということがある。

しかし、任意団体に入らないというだけで、いまどき家の周りに外灯をつけてもらえない……というひどい扱いは、法的に認められるものではない。

それは当然で、本来はゴミ捨て場の管理や、電柱の管理は、行政の仕事なのである。公的な仕事は公務員がやる、とは、よく考えてみれば当たり前である。だから、別に町内会に入らなくても申請すれば電灯はつく。

大半の町内会は任意団体である以上、一切の義務を持たないと同時に、一切の権利もまたもたない。これを知っておくと、町内会トラブルに悩むひとはだいぶ楽になるだろう。

町内会と市役所の関係は不可解だが、しかし不可解なものを不可解として認めなければならないのだろう。



ところで、この町内会の構造はそのまま企業体制に当てはめられるのではないか、と就職してから気づいた。日本でサービス残業が蔓延するのは、経営者の圧力だったり、巧みな扇動によるものではない。それよりも、意外なことに、サービス残業はぼくらの「善意」なのだ。

それは、「みんなでこの会社をよくしよう」という善意で、町内会の「みんなで地域をよくしよう」という精神とよく似ている。経営者(町内会でいうところの市役所)は、社員が残業しないからといって戒めることはない。それよりも同じ立場の社員が、もっとも強く圧力をかける。

会社愛、地域愛、愛国心……この種の同調圧力が、日本のいたるところで機能しているのだろう。この圧力は、善意の強制であり、端的な例では、世界がぎょっとした「食べて応援」である。

この善意は、何よりも「統治」のために利用されている。町内会も、サービス残業も、日本の優れた統治の副作用と言うことができる。

だから、「ブラック企業」、「町内会」といったシステムは、これは永遠に是正されない。

町内会やブラック企業が是正されたとき、つまり「統治」と「司法」の力関係が逆転したときに、国家統制が破れ、この国は崩壊するのだろう。あんがい町内会やブラック企業は、日本の起爆点とも言える急所なのかもしれない。善意の構造が崩壊すれば、それは同時に統治の崩壊を意味するのだから。

長くなった上にぜんぜんまとまっていないのだが、とりあえず残しておこう。もう少し煮詰めてみたい。

6.09.2015

友情と嗅覚

清水真木というニーチェ研究者が好きで、その著書「友情を疑う」では、ルソーやキケロを例にあげ友情という概念がいかに哲学者に扱われてきたかいわば友情の系譜学というべき内容で古代ローマ・ギリシャからフランス革命前後、そして現代日本までを友情という概念で紐といている。

カント以前以降の友情概念の対比はなるほどぼくにも美しい公理であると思う。カント以前の哲学者は友情を「引力」だと決め付けていた。ところがこれに「斥力」を発見したのがカントである。引力とは愛であり、斥力は尊敬であると。他者を尊敬するということは、遠ざけることであるということだ。例えば、ぼくらが「敬語」を使うとき、それはある距離感を示していることになる。

引力だけの関係では人間関係はうまくいかないだろう。ルソーの友情概念は、他者との完全な同化であった。しかしルソーが実際的にその友人関係が可能だったのは生涯でただ一人であったことからもわかるように(そして相手が夭折したことにより可能だったように)、まずもって普通の人間には不可能であるし、そして夫婦関係がたいてい危機に陥るように、10年20年という長期的関係というのは難しいものであろう。

人間関係は、愛に偏りすぎれば破綻する。親しき仲にも礼儀あり、という言葉は「尊敬」の持つ斥力の重要性を示している。それはフロイト的にはヤマアラシのジレンマなのであり、カント的に言えば非社交的社交ということになる。

人間は、完全に他者とは同化できないが、しかしそれを求めてやまない悲しい人間と言えるかもしれない。とはいえ、愛も、尊敬も決して悪い概念ではないのだから、愛すると同時に尊敬することが必要と言えるだろう。



ぼく自身に友情はない。友人はいない。恋人もいない。家族との関係も、ほとんど断絶している。せいぜい、職場の人間と会話するくらいだが、それでも良いという気がしている。

ところで、昨日食べたものは、カキフライとチキンとニンニクなのだが、この組み合わせは、実に精がつくものであるらしい。

最近自転車を始めたから、適度な飢餓感を得ることができる。そうすると、あまりしょうもないものに、食指が向かなくなるようだ。

健全な飢餓感が、健全な嗅覚を生む。健全な嗅覚が健全な食材を選ぶ。健全な食材が、健全な肉体を作り、健全な肉体が健全な精神を生む。

そうだから、食べるということは案外バカにならないものであるし、食べることよりももっと「飢える」ことが大切だと言えるのだろう。

以前、断食したときにも感じたことだが、世の中には不要な食べ物ばかり溢れかえっている。このような社会では、ひとはただ食べているだけでも病気になってしまうだろう。現代人を悩ませる高血圧も、糖尿病も、高脂血症も、すべて食事(と運動)の疾患である。(なお、これらの生活習慣病は日本人の六割を殺している)。

ぼくらの鼻はバカになっている。だからうまいものとまずいものの違いがわからない。ところで、うまいものとは健康によく、まずいものは身体に悪い。この逆ではない。

この感覚は、飢餓状態を体験すればよくわかるだろう。飢餓のときに、ポテチやソーセージを食べようと思わない。ただ米と味噌汁のような粗食を求めるし、それが驚くほど美味なのである。

嗅覚とは、人間の根源的な能力である。もっとも原始的な感覚器官である。だから、この器官が狂っているということは、人々に予想以上大きな影響を与えているのかもしれない、と思う。

肉体の飢餓、精神の飢餓、いずれも求めなければならないだろう。それは嗅覚を鋭敏にするためだ。飽食に満たされていれば、すぐにバカになってしまうものであるらしい。

日本の騒音は世界一だが、それにぼくらは慣らされている。電車が「忘れ物するなよ」と指図することも、トラックが「左に曲がります」とアナウンスすることも、スーパーでフュージョン系の音楽がガンガン鳴っていることも、一定の意味があるとぼくらは考えている。

視覚の騒がしさにも、ぼくらは耐えている。テレビをつければケバケバしい原色だらけ、都市は電柱と電線で埋め尽くされ、ブックオフやヤマダ電機のような原色そのものの店舗が日本中にそびえたち、人々はミニバンのような醜悪なデザインの車を「かっこいい」と思っている。

過酷な疲労にも、ぼくらは慣れきっている。労働時間はどんどん長くなり、ついには日本人男性の半分以上が、一日10時間働くようになった。このような状況は是正される気配がまったくない。当の長時間労働者自身が、こういう。「金をもらっているのだから、長く働くのは当たり前だ」「社会は理不尽なものだ」。だから、ひとびとはこのような状況をしぶしぶでも受容しなければならない。そうして、いつか「慣れる」。

このように、ぼくらの感覚器官は、汚染され、正常な機能を失っている。

そうだから、一度すべてを廃絶するのがよいのだろう。病気における療養処置であり、一時的に休ませるだけでいい。いちばんよいのは、海外に行ってみることだろう。そこでは当たり前のように静寂が確保されている。都市は都市で、田舎は田舎で景観を保っている。人々は当たり前のように17時が過ぎると街に溢れ帰り、それぞれ思い思いに人生を楽しんでいる。

もっとも、海外がすべて正しいというわけにもいかないだろうが、人間としてのまともな感覚、コモンセンスを思い出すためには、海外旅行は実に有効であると考える。

この国の精神全体が、ある神経症にかかっているように思えてならない。そして、神経症は、たいてい治療不能だ。世界大戦に敗北しても、原発事故を起こしても、国家の支配構造はまるで変わらなかったから、そういうことなのだろう。

6.07.2015

田舎生活と展望

田舎の生活をしてよかったと思うことは……とにかくあらゆるものが無償で手に入るものだと、知ったことにある。

例えば、「海」だとか、「空」だとかを眺めるためには、特に月額利用料がかかるわけではない……。

そうして、田舎の利点とは、永遠性を如実に知ることにある。

永遠性とは、昔からそこにあったもので、これからもそこにあるだろうものである。

それは、潮の満ち引きであったり、星の輝きであったりする。

海を眺めれば、古人や未来の人々との共感を得ることができる。

なぜなら人間は海や空とつねに共にあったのであり、これからも常にあるだろうからだ。

肝心なことは、ぼくらはその情景をすでに与えられている、ということで……。

美しい自然の情景に比べれば、芸術作品は、何もかも陳腐だ。

草木と人間の関係はすばらしいものがある。ぜひ山に登ってくださいと思う。ぜひ海を眺めてください、ぜひ木々に囲まれてください。人間に囲まれ、人間によじ登り、人間ばかり眺めているひとがいるけど、そんなことをしていたら病気になるのは当然なのですよ。

人間の海が、人間の山が、人間の森が、都市なのだろう。肉と骨との猥雑な騒音のかたまりが都市だ。そこでは、海は汚れ、太陽は死ぬ。

最近、田舎暮らしがブームのようだ。若者と老人の両方でブームは起きているという。でも、たいていはうまくいかないだろう。

ぼくは少し恵まれていた。収入源があるのだから。

そうして、孤独であることに特に不満を持たないから。無教養な人、高齢者ばかりの田舎でも、やっていける。本を読んでれば、孤独はない。

それでも、都市部にはもう戻ろうとは思わない。少なくとも、日本の都市は、搾取と放蕩の場で、滅びる前のローマを思わせる。

だいたい、収入の1/3が家賃ってどういうことだ?税金が少なく見積もって1/3なのである。そうだから、手元に残るのは働いた金の1/3・・・。ワーキングプアも増えるはずである。

都市部は、単純に、笑顔の人が少ない。本当に少ない。

もっとも、田舎のすべてが良いわけではない。だが、孤独に生きたい人間には、実に快適のようである。孤独「に」逃げ込める場がたくさんある。喫茶店の不味いコーヒーに800円払う必要もない。



昨日までの憂鬱は、自転車に乗って3,40km走ることで解決された。それは海沿いのルートで、車のほとんどない、美しい道だった。

最近の書く内容は陳腐で、明晰さに欠ける。日常のことばかりだ、と思う。25歳くらいから、人は読書などしなくなるものかもしれない。ただ本のありがたみだとか、本のすばらしさを知ってはいるけど、それに手をつける時間が減ってしまった。

突然ぼくに30日の休暇が与えられたとしても、読める本はせいぜい2,3冊だろう。がっぷり四つに組んで本に取り組むことは少なくなった。

実際的な世界に飛び込め、ということなのかもしれない。

最近生きる道を考えている。

どう生きるか。

ひとつは、勤続二年くらいで今の仕事を辞めて、世界を放浪することである。

もうひとつは、勤続五年くらいで今の仕事を辞めて、独立することである。

別に今の仕事に不満はない。たまの休日出勤はあるが、そこそこホワイトだし(8.5時間労働)、給料は高く、手当ても十分で、社員が少ないから、大事にされるようである。

それでも、ぼくの定住できない性質が、ぼくを追い込むだろう。

ぼくは社員というよりは経営者に向いている、と思う。とにかく仕事ができないのだから、だれかに助けてもらう他ないのである。そうして、リーダーとはある種の欠乏がないと、務まらないものだ。

なぜなら、集団の持つ根源的意味は、助け合いだから……ぼくは無能だから、みなさん助けてください、と言える人が、もっとも経営者に向いているのだと思う……。

「俺は有能だから、ついてこい!」なんて奴は、最悪の経営者だろう……。たいてい、ワンマンで、社員は振りまわされるから、最初はよくとも、経営が傾いてしまう。

とにかく、経営者となってしまえば……。
そうすれば、静謐な環境で、落ち着いて仕事ができるのだと考える。プライバシーの確保された社長室で、一日5時間程度で仕事を終わらせて、あとは読書という生活もできるかもしれない?

夢物語だろうか。

別に金が欲しいわけではない。ぼくが欲しいのは金よりも自由で……。そうだから、売り上げに血眼あげることはない。なんだか楽しそうで、現実逃避なのかもしれないが、いろいろ考えてしまう。

でも、現実的には、放浪旅行の方が先だろう。人間に栄養を与えるという意味では、旅行は実にいいものだ。当然、一人で……。安宿に泊まる、貧乏旅でなければならない。孤独な異人の旅。

ぼくが行ったことのある国は少ない。西欧に憧れるけど、西欧に行ったことはない。アメリカに行ったこともない。何も知ってはいないのだ。そうだから、1年か2年くらい、ぶらぶらとあてのない旅をしてみたい、と思う。

それは、金と暇を得ることのできる六十歳以降では、ぜったいにダメなのだ。精神もしわがれて、何も吸収できないし、それを活かす場も、すでにないのだ。

などと、将来設計を考えてみた。ようやく、精神が持ち直してきた。昨日は、働きながらうつ病に似た症状が出て、自分でも驚いた。つまり、身体が麻痺したように動かなくなり、声を出すことすらままならないのである。

ひとは簡単に欝に落ち込むものだ。

そうだから、自分の精神の健康はきちんと見守らなければならない……。精神を守るのは、まず自分でなければならない。だれかを責め立てても、それはしょうがないことだ。

今日は、何をしようか。また自転車で出かけてみようかな、と思う。

6.06.2015

hard times

仕事が、つらい。

昨日は8:30に出社して、20:30に仕事を終えた、労働時間は11時間、だ。そうして、そのあと、上司とご飯を食べにいった、嫌だったけど、断る気力もなかった。

ぼくには、わからない、どうして仕事で全てを出し切ることが当たり前とされているのだろう。仕事で100%の力を放出しきることが当たり前で、それが求められるのだろう。人間は、働くために生きてるのではないだろうに。

上司は毎日23時に帰っていて、オーナーや社長からの評価が非常に高い人だ。遅くまで仕事をしているから、毎日コンビニ弁当だし、ほとんどない休日には、寝ているだけなのだという。

彼のような人間が、実際にはたいへん標準的な日本人なのではないか、と考えたりする。

彼と話をしていても、空漠で、高校生と会話しているような気分になる、実際の年齢は六十歳を越えているのだが、まるで子どものように感じるときもある。

昨日、ほとんどはじめて、11時間の労働をしてみたけど、磨耗した精神のなかで感じるのは、猛烈な「褒められたい」という感情であった、ぼくはがんばっているのだから、それは評価されるべきだ、という感情。

実に不当な労働時間ではあるけど、たとえば社長に「お疲れ様」と100円の缶コーヒーでも与えられたら、ぼくは仕事をがんばってよかった、と思ってしまうかもしれない。よし、明日も11時間はたらこうという気になるかもしれない。

これが、実に怖いことだ。

長時間の労働は、思考を鈍磨させる、欠乏した精神が、免疫力を弱める、そうして、他者にうまいことつけ込まれてしまう。

洗脳のプロセスは、まず徹底的に精神を疲弊させることだ。精神を粉々にして、そこに教条を叩き込む。これは新興宗教でも、大企業でも、必ず行われていることだ。

警戒、警戒することだ!サボれ。精神の危機を感じたら、サボれ。身を守るんだ……。

この国では10時間以上もはたらくことが当たり前だが、一日に7時間しかはたらかない国にも経済的に負けている。

なんだか一億総玉砕とかやっている国が、志願制のアメリカにころっと潰されるような惨めさを、追体験しているように思う。

実際、ぼくらの払っている税金は、株価をあげるために使われている。実に、一億総玉砕の精神だ。

やはり、海外に移住するということが、望ましいことのように思う、そう思わないと、ぼくの精神はやりきれない。この国、ほんとうにだめだ。

ネズミが危機を肌で感じるように、ぼくも皮膚感覚で恐怖を感じている、この国は、いつかとんでもないことになる、そしてそのいつかは近いうちなのだと。

ぼくはニュースを見ないから、逆にわかると言える気がする。本来、世の中の動きは、文字や映像ではなく、肌で感じることなのだろう。

ともあれ今日も仕事であって、ぼくは、へとへとの身体を鞭打って、職場に向かわなければならない。休日出勤は、わずかな給料は出るけど、やりきれないものだ。

ぼくが本を読んで脳内にインプットした、いろんな思想家や、宗教家や、科学者や、芸術家たちが、みんな、今のぼくの状況について、「違う」「違う」とささやいてくる。お前の生活は、正しくない、と。お前の生活はそうあってはならない、と。

ぼくの精神は、彼らのおかげで均衡を保っている、本当に、読書が、ぼくの精神を救ってくれている。そうでなければ、簡単に会社に精神を支配されて、あの俗物的上司のようになってしまうだろう。

一日10時間の労働は、人間を潰してしまう。一日8時間の労働でも、厳しいものだ。一日3~4時間程度であれば、ひとは「ゆたかな生活」を得られるだろう。事実、ひとは昔からそれくらいしか働いてなかったのだ。

金に興味はない。金から解放されるという意味での、金以外に興味はない。ぼくが求めるのは、知ることだ。知ることが、単調な労働からぼくを救ってくれるように、実に知こそ力なれば、だ。ひとは精神において自由になれる。

実に、多くの若い芸術家や音楽家が、労働のために、才能を台無しにしてしまったのだろう。成功した芸術家は、たいてい、富裕層の出身だ。労働からははじめから解放されている身分だ。

一日何時間も労働に費やしていれば、人間はダメになってしまう、潰され、芽を摘み取られてしまう。

暴力がこの世を支配している。ただ生きることを肯定しない社会は狂気だ。すぐに終焉を迎えるだろう。




6.05.2015

あわない仕事

労働の循環が私を苦しめる。

合わない仕事というのは存在する。

ぼくの今週から与えられた仕事は、単純な事務作業、ひとつの作業をするのに1~2分かかり、それを日に3~400回繰り返す。

この作業は、まことに辛いものがある。

体感では、そこまで辛くはないのだ、座って、マウスとキーボードをぽちぽちとやっていればいいのだ。

そう、辛くはない。だから、昨日は労働から解放されると、新しく買った自転車であちこち散策して、星と風を楽しみ、そのあとに風呂で清水真木の本を読んで、次には刺身と地産のニンニクを料理して食べて、酒を飲んで寝た。

そこまでは幸福だったけど、寝たあとに、絶望しかないような夢を見た、だれからも嫌われ、排斥されるような夢、ぼくが泣き叫ぶのを、だれもが喜んでいるような夢を、絶望にひざまずき、死の不安に苛まれるような夢を、それぞれ見た。

このような夢は、久しぶりのものだった。長い長い、鮮明な夢だった。

朝起きて、怖くなった。ここまでぼくの精神は蝕まれていたのかと思う。日常のぼくは平気でいるのに、夢がやっとぼくの精神の損傷を教えてくれたわけだ。

――大嫌いな仕事より
少し合わない仕事の方が
危険だ

気づいたときには
手遅れだから

労働は、少しずつ精神を蝕んでいく、それでも、人間は、さまざまな状況に適合してしまう。先週までしていた仕事は、ぼくにとって受け入れられるものだ。今週からの仕事は、ぼくには、「少し」向いていない……つまり、それだけにぼくを苦しめるものであることをぼくは悟った。

考えてみれば、最近車の運転中に、過度に怒りっぽくなったり、料理中に食材をぶちまけたり、大事なことを忘れることが多かった。あの一連の変化が、精神が蝕まれている徴候だったのだと思う。

ぼくの同世代は、三日で仕事を辞めてしまうとか言われて、顰蹙を買っているけど、たぶん彼らの防衛本能が正常に機能しているのだと考える。センパイ方の言うとおり、仕事を長く続けて、慣れてしまえば、そこにはある適合=鈍化が生まれて、一時的には楽になるだろう。

それでも、気づいたときには手遅れ、なのだ。その顛末は、精神を崩壊させて不幸な道を歩むか、自殺するか、だ。じわじわとなぶり殺しだ。だから、早く辞めるしかないのだ。

――病気の人間が、健康人を笑う。

――若さとは、健康であることだ。

――健康であることは、少数であることだ。


この仕事が終われば、一時的に与えられているだけで、仕事量から考えて、来週中には終えてしまうつもりだ。

それが終われば、いままで二ヶ月の、牧歌的な労働生活が待っている、当時は辛いと思っていたが、今考えれば、それはそれは幸福な生活だ。それだから、ようやく耐えられる。

少し、力を抜こう。

6.04.2015

仕事の下手な日本人

日本人の労働観は醜悪きわまる。

今している労働がかなり過酷なので、疲れが溜まってしかたない。やっていることは単調な事務作業なのだが、ひとつにはその単調さそのものがぼくを苦しめるのだし、もうひとつは労働の環境が劣悪すぎる。

仕事の単調さはまあしかたがない。単調な仕事などいくらでもあるし、ふつう仕事とは単調なものだ。

労働の環境、これはいかんともしがたい。

ぼくは労働に向いていない。労働に向いていないから、労働を最大限効率化する術を知っている。

事実、学業という知的労働において、ぼくが人並み少し上の成績をあげたのは、この効率化のおかげであった。

それは例えば、静謐な環境で作業すること、適度に音楽を流すこと、一時間に5分はコーヒーブレイクをすること、昼食後は半時間仮眠すること、気が向いたら散歩などの軽い運動をすること、ときには人と雑談すること。

これらの行為は、少なくともぼくの労働効率をあげるためには必須であった。

ところが、それが許されない空気が労働現場にはある。

伸びをして目をつむり、身体を休ませることも、コーヒーひとつ飲むのも、なんだか遠慮せねばならない。当然ながら外に散歩へなどいけない。行動はつねに監督されている。この感じが、たまらなく嫌だ。

たとえば12時からの昼休憩が終わって、13時から仕事の終わる18時までの5時間、無休憩ではたらかなければならない。

これが工場のようなライン作業ではなくて、時間的拘束の少ない事務作業だというのだから乾いた笑いが出る。5時間?

人の集中力は90分しか持たないというのは、有名だ。当然ながら、効率は最低にまで落ちて、無駄なストレスを蓄積させねばならない。

日本人の労働は、いつまで「バイト感覚」なのだろう、と思う。つまり、「給料が発生している時間は働く」という固定観念に縛られている。そのこと自体が労働生産性を損なうことも多いのだが、人はかたくなに信奉しているようだ。

ぼくらが経営者に出さなければいけないのは「成果」であって、「労働」ではないはずである。そうして、経営者が求めるべきものも同様である。

ところが、適度に休みながら100の成果をあげるよりも、黙々とPCデスクにへばりついて80の成果をあげる人間の方が評価は高い、となる。80の人間は「がんばっている」「熱意がある」「けなげだ」となる。ついでに残業してくれればなおいい。

アホか。ただの無能じゃないか。

日本の一人当たりGDPは低い。経済的に破綻寸前のスペインと同列にある。その理由はこういうところにある。みな、仕事をする「振り」ばかりしている。そうして、それを仕事だと思っている。

端的には、仕事とは、手指を動かし、休まないことだと思っている。上司の顔色を伺うことだと思っている。労働は苦役だと思っている。イヤイヤながらすることだと思っている。

だから労働の効率化なんてしてはならないことだし、そんなことを考える奴は、まじめに仕事をしていない、と評価される。

「労働の効率化を提案する人間が阻害される」。このバカみたいな現状が、日本式ファシズムだ。

労働の目的はただ成果を出すことだ……という、この観点が驚くほど欠落している。欧米国が特別に成果主義なのではない。中国でも、インドでも、世界中どこでも成果主義だ。仕事が成果を出すべきものというのは、当たり前の前提だ。

こんな国が経済大国だというのだから、笑ってしまう。まあ、もう沈みかけだが。

今日も仕事へ行こう。今日と、明日を塗りつぶしてしまえば、休みが待っているのだから・・・。


6.03.2015

水と油

雨の日や曇りの日は最高に気分が悪くなる。

社会に適合した感覚、幸福感というものも、実はぼくの腹の上のただ1cmの脂肪に由来するものに過ぎないことがわかった。

脂肪がつくと、近くのものしか見えなくなるようだ。遠く先の理想とか、永遠不滅への憧れは、1cmの脂肪で遮断される。目の前の食事、目の前の快楽、目の前の賃金が、すべてになる。

そうだから、宗教家は禁欲に励むのかもしれない。太った宗教家など、インチキだ。痩せた力士がインチキなのと同じで。

脂肪の鎧は、日常をごく当たり前に過ごすことを助けてくれる。それだけでなく、脂肪はなんらかの快楽物質を、精神にまぜているようだ。それはたぶん、生肯定的な感じをもたらすものに違いない。

ところで生を肯定的にとらえること、これはほとんどの場合錯誤なのだから、これを厳しく戒めねばならない。生きやすいということは、間違っているということだ。

Untitled (from the series Still Water (The River Thames, for Example)) - Roni Horn, 1999


水の印が好きだ。昼休みは車を走らせて、海の近くまでいく。そこで海風を受けながら、ご飯を食べることにしている。日常的にも、水をがぶがぶ飲んで、顔を頻繁に洗うようにしている。仕事から帰ってくれば、ぬるくわかした風呂に一時間程度入るようにしている。

視野や皮膚や消化器……に水を行き渡らせると、精神からギトギトした感じがなくなって、だいぶ良い気分になるものだ。油は水とは相容れない。

そういうわけで脂肪を落とす試みを考えている。

その前に、なぜ太ったか。おそらく、年齢的なものだろう。この年齢にもなると、何を食べても脂肪がつかない、ということにはならなくなる。だいたい、年をとると誰でも脂肪がついてくるものだ。

だから、25歳を過ぎたあたりから、ひとが太ってくるのはある意味であたり前で、悪いことではない。女性であればなおそうだ。

でも、先に述べたように、ある霊感は、脂肪によって遮断されてしまうものであるらしい。いわば水の印が、はじかれて、入ってこなくなる。そうしてひとは幸福になってしまう。

水が与えるのは知性であって、油が与えるのは痴愚である、そんな気がしている。当然、知は苦しみであり、痴愚とは安楽なのだが・・・。

女たちが過度に痩せようと試みる現象を、単なるファッションへの憧れと片付けるのは、早計だろう。彼女たちが求めているのはある霊感のような気がする。

なんだかバカバカしいスピリチュアルのようだが、ともかく、痩せようと思う。そう思って、最近自転車を買った。これで通勤するようにしたら、痩せてくるのかもしれない。

6.02.2015

脂肪のかたまり

ぼくの書いていることが日によって違っていたり、矛盾しているように思われるのは、それはしかたのないことだ。ぼく自身いまの考えに納得できているわけではない。いままで書かれたことに、大した執着もない。事実、執着するほどの価値はないのだし、そもそもたいして読まれていない。

散文を書くことで、ぼくの精神はいくらか和らぐ。ぼくの精神はやっと居場所を見つける。このような感情になれるのは、ただ文章を書いているときと、楽器で遊んでいるときだけだ。

なにもかも間違っているのではないか、という不安はある。社会はそのような不安をつねに与える。社会それ自体は信頼の置けるものではない。信じていたものが、簡単に裏切られる。世の中には「社会的」な人間がいる、社会を信用し、心を託すひとびとがいる、この巨像は絶対に倒れないのだ、と信じる人が。

でもまあ、いまの日本社会でそれはどうなのか、と思う。だれでもグーグル検索すれば日本の異常点が見えてくる。単一言語で単一民族の島国だからって、やりたい放題にぼくらは支配されている。そんなことは少し検索すればだれでもわかるようになった。

善良な社会というイメージは打ち破られて、民は国家に不信を抱くようになった。その想念をツギハギするために日本礼賛番組がやられているけど、そんなものにほとんど効果がないことは、やっている方もわかっているはずだろう。それは東京オリンピックなど開催したところで日本は沈む運命にあるのと同じくらい自明だ。

ともあれ書くことと、音楽は、ぼくを陶酔に導く。それはただ自己完結である限りにおいて、陶酔的なのである。この毎日の記述も、たしかに他者の影響は少しあるが、そこまで深いものではない。そんで、音楽の方は完全に自己満足である。

それでも、他者の目というのはどうしても意識する。そりゃそうだ。もう他者の目を意識することがないとすれば、それは完全に狂人だ。しかし、他者の目はなにかといえば、特定の個人ではない。まあ結局は大澤真幸の提示した「超越的他者」という概念になるだろう。

われわれは常に見られている。キリスト者であれば神の目、日本人であれば世間体ということになるだろう。そうだから、ぼくが孤独に音楽をやっているときも、それは完全に断絶された孤独ではないのである。

音はだれにも届かず、ぼくの姿もだれにも見られることはないが、しかしぼくは見られていて、音はだれかに届いているのである。

これは矛盾だが、しかし、ぼくの行動を説明する。他者の目がなくなれば、ぼくは楽器をやることもなくなるだろう。同時に、この文章にしても、読まれることはないが、読まれているということができるのかもしれない?いや、最近はコメントが多いから、明白に読まれていることを意識せざるを得ないのだが。

最近仕事の関係で文章を書くことがあるが、きれいな文章とか、良い文章と言われる。まあお世辞なのかもしれないが、それにしても、こう何年もだらだらと書き溜めていれば、文章力もついていくようである。

初めてこのブログに書いたのは2012年だが、そのときにあるように「ただ書くこと」が文章上達の術であることは間違いないだろう。というかこれはトートロジーと言ってもいいくらい自明だ。乗馬がうまくなりたいのであれば、馬に乗ればいいのだ。

文章力、これは「コミュ力」みたいに気持ち悪い言葉なのだが、ともあれ書くということを続けていれば、流水が石をなめらかにしていくように、勝手に洗練されていくもののようだ。

ぼくは別にきれいな文章を書こうとか、巧みな文章を書こうという気持ちは一切持たない、そのような気分は、絶対に文章を損なうからだ。自然であること、つまりは実直さこそがすべてだと思う。

ところで、仕事で書くのとは違って、少なくともここにあげている文章はひどいものだと思う。昨日など、まるで何を書いているのかわからない。昔からそうなのだが、ぼくの文章は読まれることを拒絶しているようなところがある。

それでも最近は少しましになってきたようだ。

生活の少しの安定が、ぼくをある程度解放している。ぼくのお腹についた贅肉が、ぼくの精神を安定させているようだ。就職して体重が3kgぐらい増えた。皮と筋肉だけだったぼくの腹に、1cmばかりの肉がついたことになる。この肉は、ぼくの腑を守る。少しの冷えや刺激であれば耐えられる。すぐに下痢したり、風邪をひくということがなくなった。

こうしたことの影響が、文章に出ている、ということができるだろう。こうした生活の少しの変化が、ついた脂肪が、日常の喪失体験よりもずっと、ぼくの文章や音楽に影響を与えるもののようだ。

6.01.2015

人間不適合社会

「おん身に月桂冠が現れるとき、それは幸福よりむしろ苦悩の印」ゲーテ

神経症者は、「自分は幸福であってはならない」と思い込んでいる……言われることがある。

しかし、幸福は実際、着心地の悪いシャツみたいなもので、それに馴染んでしまえば、人間は肥えた豚になってしまうのではないか。

一切皆苦を説いた仏陀は神経症者ということができるだろう。病気であることは、まぎれもなく不幸である。宗教者と精神病の関連はあるだろう。創造家と精神病の関連もまた、あるだろう。あらゆる創造の原初は統合失調症状にある・・・とだれかが言っていた。

外傷や先天畸形がとくになければ、ぼくらに狂気というのはありえない。事実、いまの精神病は、過去においては狂気ではなかったはずだ。それは社会から隠蔽されるべきものではなかった。

(例えばぼくの神経症は、ある箇所に定住せず、放浪の旅を続ける生活ならば、原理的に発生しないタイプのものだ。しかし、今では事実上だれしも「定住を強いられる」社会だから、ぼくは神経症に悩まされる。)

統合失調症はある程度真実に近い存在である。それは理性を解体しているからである。実に理性こそ迷妄である、ということは、西洋哲学が理性を武器に真理に到達しようとして、ことごとく失敗したことからも伺える。

真理とは、理性よりも狂気に近しい。真理はだれにとっても有益なものだが、現代では同時に社会的な害悪になった。そうだから、理性は持ち上げられ、狂気は排斥される。

精神病患者は幽閉され、さまざまな中枢神経系の薬を投与され、その能力を奪われる。

結局のところ、健常人は健康であるとともに、ある種の無能を示している。健康であるということは、ある限界を持っていることでもある。つまりぼくらは病人に「嫉妬」するということもあるのだ。とくに精神においては。

それは多くの名作家や音楽家のほとんどが精神的な逸脱を持っていたことからもわかるだろう。無能なひとは、薬物に頼る。大麻は統合失調症的な現象=理性の解体を生じる。だから、冴えない音楽家が薬物で逮捕されるというお決まりのパターンは、彼らが特別に反社会的であるというわけではなくて、むしろ社会的に成功したいという思いからなのである(まあ結果的にジャンキーになっているとしても)。

長らく、精神病の根本原因はわかっていない。脳内の神経伝達物質がどうのこうの、と知った顔で説明されることがあるが、肝心の薬理学的と生理学的において根本的な矛盾があるので、いまだに「定説はない」というのが現状である。

こうなると、「それは本当に病なのか?」という疑問がぬぐえない。バセドー病であれば、甲状腺ホルモン値が高いのであるし、喘息は、アレルギー反応で過度に気道が狭窄することで説明できる。では、精神の病は?

肉体の病気と、精神の病気は違う。まあこれは当たり前のことだ。身体病のゴールは、身体の異常=ある機能・組織の欠乏や過剰を抑制すること。

精神病のゴールは、社会復帰させることだ。本人が妄想のなかで幸福であればそれで良い、という風にはならない。「まともな社会人」に彼を作り変えること、これが精神科医の仕事だ。

私たちのおかげで、下手な詩を唸ったり、つまらぬコラムを書いたりしていた人間が、どうにかこうにか毎朝事務所に通い始め、結婚し、子どもをもうけた。たぶん、自分の子はサラリーマンか商売人にするだろう。(「創造と狂気」フレデリック・グロ)

ところで、社会に不適合であることは罪であるとされるが、社会が人間に不適合であることは罰せられない。社会がいびつであっても、精神病は作り変えられる。もちろん、精神科医はそれが仕事なのだからしかたがない。社会を作り変えるのは、政治家と市民の仕事だからだ。

しかし、政治家と市民が、実に政治家と市民らしい腐敗をした現代では、ますます社会不適合者が量産され、彼らは隠しきれないほど大きくなるだろう。もはや治療不可能な病人で溢れかえるだろう。彼らは市民的地位を得だすだろう。はじめはマイノリティーとして、しかし彼らの病気は感染性をもっているから、次第に社会を埋め尽くすだろう。

虚構に真理が台頭する世の中になるのかもしれない?まあこれは夢物語・・・。

ともあれぼくは精神の健康を得ようとしている。精神の健康とは、幸福であることだ。ところで、今まで幸福に裏切られ続けてきたぼくとしては、この幸福がはたして「本物」なのか、という点が重要なのだ。