7.31.2015

生きることのない人々


生きてあることの喜びも悲しみも知らずに生きている。

奴隷はただ疲れ切ることが求められる。そうだから、仕事がないから休み、ということはない。

この世で、大切なことは、ほとんどただで手に入るものだ。ぼくは、死ぬまでに、「失われた時を求めて」を完読してみたいと思う。その本は、近くの図書館へ行けば借りられる。音楽も、Youtubeでなんでも聞けるのだし・・・。ライブ動画なんて見放題だ。

貧困とは、金を使ってしまうことだ。艦これとか、AKBとか、まったく知らないままに過ぎ去ってしまうブームが溢れかえっている。強引に見せつけられる醜悪な趣味もある(ミニバンの気持ち悪さは、何とかならないのだろうか)。ともあれ、彼らはふんだんに金を遣う。バカなことに使う。しかし、彼らこそが日本経済の基盤なのだ。

日本人はバカである。これは、ぼくが賢いというわけではないのだが、バカのぼくから見ても、日本人はバカである。呆けている。人間としての義務と権利を、放棄している。どうか踏みにじってください、と懇願している。根本的に、対話や議論が不可能だ。

生まれる国を間違えた。第一、暑すぎる。

それでも日本が好きなときもある。それは翻訳された書籍がたいへん多いということで……。たとえばニーチェがもっとも翻訳された国は実は日本なのである。

でも英語を勉強すればそんなことも必要ないのかもしれない。

日本が嫌だから、静かに去っていく人が多いのかもしれない。ぼくも最近は、こういうことをグチグチ書き連ねたところでしょうがないという気がしている。最近は、日本人をバカにした本が好きで、日本で暮らしていく生きづらさを描いた本ばかり読んでいて、海外放浪とか、海外移住の本を読むようになった。でもぜんぶ無駄なことだ。

いつのまに日本が嫌いになったかわからない。日本が嫌いというより、単に定住できないという性格のせいかもしれない。東京から田舎に住んでも、たいして変わらなかった。バカは多いし、うるさいし、汚い。今の職場を辞めたら、北海道あたりに移住したいと考えている。少なくとも、涼しいし、乾燥して、人が少ないからだ。

じめじめ、ざわざわ、ガーガー、ざーざー、ひそひそ、日本を象徴する音。

日本の住宅は、カビが生えているというと、外人どもはびっくりする。「おいきみ、あれは貧困街なんだろうね。なんて貧しい住宅だろう」「おい、なんてことを言うんだ。あれは日本の平均的住宅さ。日本人は30年のローンを組んでああいう家を建てるのさ」

日本に現在広がっている貧困層は、愛国心が強い。映画でよく出る、アメリカの田舎町のパブに入り浸る、小汚い作業着の、バカな保守層みたいだ。マイルドヤンキーってその類の人間なんだろう。彼らは何も知らないが、幸福だ。ネトウヨとマイルドヤンキーは、内向的か外向的かの違いしかない。どちらも、反知性主義的で、貧しい。

職場の人間が、そこそこ知的なので、助かっている。海外情勢とか、大学の研究の話とか、歴史について話すことができるので、息をつくことができる。

反知性主義の人間は、18歳で知性のピークを迎えるが、知性的な人間は、年々賢くなっていくので、ぼくが到底かなわないような知識を蓄えている。何を語らせても、10分は語れるタイプだ。まあ、職場に、そういう人は少ししかいない。たいてい、美味いものを食うことが唯一の趣味の、典型的日本人だ。

フランスの、ガイドマンは、日本人が食い物にしか関心がないので、驚くのだという。ルーブル美術館も、パリの均整のとれた市街も、興味がない。日本人は口をあければ「うまいものを食わせてくれ」と要求するのだ。そんな人間がパリに存在することに、彼らは驚くのだ。しかし日本のテレビを見ていると、それもわかる気がする。ほんと、だれかが何かを食っているところばかりだ。

じゃあ、内田樹が騒ぎ出した日本の「反知性主義」ってのはマスコミのせいなのか。ユダヤ人に牛耳られたマスコミが日本を痴愚化している!これは、ひとつの答えであるのかもしれないが、そんなことは一平民には永遠にわからないことだ。

でもまあ一平民はテレビに支配され、テレビは自民党に支配され、自民党はアメリカに支配され、アメリカは巨大資本に支配され、巨大資本は……。

ぼくのようなぼんくらには遠く見えない上の世界から長く伸びた糸によってぼくは支配されているのだ。悪のトリクルダウンだ。ところでこの鎖を打ち切るのは簡単であって、だれとも関わらず自己を恃んで生きていけばよいだけである。そして同じようにだれとも関わらずuniqueに生きてきた哲人、賢人、芸術家と(精神風土で)触れ合えばよいのだ。

人類は永遠に奴隷制を捨てることができないのかもしれない。古代のギリシャ人を褒め称えるべきだ。彼らは奴隷制と向き合った。

マージナル・マン、どんな国にも適応できない。人が、街が、私を拒絶する、それがどんな類のものであっても。



7.27.2015

ROuku 労苦

人間が感じられることは、人間向きの情報でしかない。

そんな当たり前のことを、TEDで一生懸命プレゼンしている人がいた。

当たり前だ。我々は人間だ。我々が持っている五感は、我々の生存のためのものでしかない。

毒虫は醜く感じるし、花は美しく感じるものだ。海はどことなく母親のメタファーを与える。これは万人に共通の感覚だ。というのも、だれもが母親から生まれてきたからだ。

ところで、動物たちにとって海とはなんであるか。「これは地表の7割を埋め尽くす広大な水域だ」などと認識している動物はいない。あらゆる生命の根源であるという意識も及ばない。

動物たちにとって、海とは単なる広大な池、塩気の多い池なのかもしれない。実際、それで彼らには十分なのだ(ここで想定しているのは、草食の哺乳類動物である)。彼らにとっては、飲料水にも、水浴びにも、餌場にも適さない。苦労して渡った先に何かあるものでもない。

そうだから、動物たちにとって、海とは無なのかもしれない。それは、評価の対象になる以前のもの、表象として浮かび上がらないもの、無意識のプロセッサーにより削除処理が行われるもの。SFCのファイナルファンタジーで言えば、壁の向こうにある#000000の虚無空間。


このように、動物たちは海を正しく理解できない。しかし、人間は自分が地球という球体の惑星に住んでいることを知っているし、進化論的に考えれば、我々の遥かなる故郷であることを知っている。

ところで、というわけだ。我々は、たしかに海をこのように認識している。しかし、それは正しいのか?そもそも、進化論ってホントーなのか?

だれもがこれを正しいという。しかし、ここで言う「だれも」というのは、人間でしかない。ここでは、まったく別の認識を持つ、神とか宇宙人の出る幕はないのだ。われわれが、「普遍的」真理であるというとき、それは「ただし人間に限る」という担保を持っているわけだ。

人間だ。これを読んでいるお前も、私も、悲しいことに人間であって、それ以外である可能性は、Google Robotを除けばゼロだ。そうして、Google Robotという近未来的人物は、実のところ人間の認識以上を与えられておらず、それゆえに人間未満でしかない。

ロボットもまた、人間でしかなく、それは動物すら乗り越えられない。人間が動物を「包括」できたことはないからだ。ゴキブリや豚のような人間はたくさんいるが、彼らは実のところ、ゴキブリ以上の存在ではない。中途半端に人間で、中途半端に動物的であり、ゴキブリと呼ぶには不十分であり、かといって人間と呼ぶにも不十分なのである。そうだから、人間が作ったロボットは、つねに人間以下だし、動物以下なのだ。

我々に許されているのは、人間であるか、人間以下であるかということであって、だから我々が神の真似をして作ったロボットも、永遠に動物には勝てないし、人間に到達することもないのである。

だからこそ、我々には、神が必要なのだ。

神学と哲学は相反する。片方は人間の無力さを説き、片方は人間の可能性を(あくまで)信じるからである。私には、人間は、神という存在を信じるしかないという気がする。というのも、人間は、上に述べた認識からしても、不可能性によってがんじがらめになっているからだ。

私には、真実はやってこない……いつまで経ってもこない。明日も仕事が待っているからだ。私は生きねばならないのだ。私の貯蓄が百万円を突破したのだ。予想外の夏のボーナス。そうだから、真実がなんだ、ということは、数年は寝かせておかねばなるまい。

生活の必要が、私の正しい認識を阻むとしても、それはしょうがないことだ。私は人間であるのだから。人間であるということは、目の前のつまらない、くだらないことに、どうしようもなく鮮烈に悩み、苦しみ、そうして、自分が自分であることを呪い、悲しみ、涙を流し、拳を床に叩きつける、そういうことの連続だからだ。

私が浮遊し、飛び跳ねる、そういうときは、酒に酔ったときでしかないということは、寒々しいことだ。かといって、仕事から解放されたときに、酒を飲んで精神の解放を愉しむこと。これは人類普遍であるという気がする。

実に、人類普遍であるとされているものが、実際のところはただの為政者の都合に過ぎず、本当の人類の普遍性は、芸術の中にふんだんに隠されていることに、ひとびとに気づいて欲しいものだ。


私は、ただの、気味の悪い人間である。だれにも、共感されたことはない。孤独に生きることが義務付けられているかのようだ。私は幸福を得るためには高いコストを払わねばならず……そのため、不満足であることに慣れてしまった。


何を訴えたいのか、わからない。だれにもわからないだろう。だれにもわからないだろうことに、恍惚を感じることもある。もう、なんでもいいのだ。仕事は、全く進まない。もう、仕事とは、無縁に生きたいものだけど、労苦というものがぼくを活性化させる、そのことも知っている。やりきれない気分だ。従属と自由。まったくの自由になれば、人は人生の索莫さと戦わなければならなくなる。やりきれない。人間とは、まったくやりきれない存在になった。





7.26.2015

ルソーを誤読する

ルソーを読んでいると、この人の精神性は、自分とあまりに似ていることに気がつく。

「人間不平等起源論」は、ぼくがつねづねここで指摘しているような、社会の欺瞞と、自然への憧憬である。

ルソーは、原始生活を送るような自然人と、都市生活を送る文明人を比較しており、両者をこのように対比している。

野生人は休息と自由を満喫しながら暮らしており、ただ生きること、何もせずにのんびりと過ごすことだけを望んでいる。
それとは反対にいつも何かしている都市の市民は汗を流し、たえず動き回り、もっとせわしない仕事を探していらいらしつづけるのである。彼は死ぬまで働く。……自分の憎んでいる権力者と、自分の軽蔑している金持ちに媚びへつらい、こうした人々に仕える栄誉を手にするためなら、どんなことも厭わない。
……自分の奴隷状態を自慢して、こうした奴隷状態に加わろうとしない人々を軽蔑する。

都市と田舎のこうした対比は、近代フランスでも変わらなかったようだ。

我々もまた、死ぬまで働くし、(それは寿命まで、という意味ではなく、本当に労働に殺されるのだが)、せかせか動きまわっているという点では、朝の新宿駅の競歩大会に参加すれば理解できるものだと思う。

田舎にいったところで、ブラック企業はあるだろうが、全体としてのんびりしている、というのが実感としてある。

例えば、ぼくはさっそく水道料金を3ヶ月分滞納しているのだが、東京であれば、赤字で「重要」の印がついた催促状が1週間ごとに届いたものだが、こちらではそうした制度はないようだ(なので限界まで払わないでみようと思う)。

ぼくが田舎に移り住んだのも、結局のところ、生を自分のために使いたいという思いがあったからであり、都市的な感覚についていけなかったということもある。

ルソーによれば、都市部の文明的な人間は、他者との相異に執着しており、「他人の目」をひどく気にしているということだ。たしかに、都市部のシティボーイは、一枚8000円のTシャツを何枚もクローゼットに備蓄しているようだが、ぼくはといえば、しまむらで買った500円のTシャツ3枚でこの夏を乗り切る予定である。

自然人には、人間に差異を見つける能力はなかった、というのがルソーの指摘である。つまり、自然人たちは、異性の美醜もわからなかったので、適当にセックスしてそれで満足していたということである。そして、自分の子どもを見分ける能力もなかったのだ(本当か?)。

ところが我々文明人は、人間は違うのだ、それぞれ個性を持っているのだ、という信奉を持っている。ぼくは何回か、人間それぞれの「差異」というのは、迷妄でしかないと書いたが、これはルソーの考えと一致している。

年収2000万円の人と、年収200万円の人とでは違う人間のように扱われるし、東大卒の高級官僚と中卒の豆腐屋さんは別種の生き物のように扱われる。

このような関係は、奴隷と主人の関係に似ている。つまり、主人は奴隷を必要とするために、差異という概念を植え付ける。すると、植え付けられた奴隷の方も、主人なしではいられなくなる。

この主人ー奴隷という関係、人間が人間を所有するという関係が、文明の根本基盤である……というようなことは、ルソーは一言も述べておらず、ぼくの勝手な発想だが、一面では事実だと思う。

そうだから、文明社会がもっとも恐れるのは、奴隷を必要としなくなった主人であり、主人を必要としなくなった奴隷なのである。それは、真の意味で独立した人間、一人であることに満足した自然人なのだ。

この自然人は、存在するというだけで文明社会の基盤を揺るがす脅威だから、潜在的レベルで、文明的人間に駆逐されていく。これは、小学校のいじめとか、職場におけるパワハラのような形で顕在化する。

例によって上のようなことはルソーは一言も言っていないのだが、妄想が先走ってしまった。

以前、権力とはなんぞやと考えたことがあった。そのときに、権力の根本原理とは、「離れられなくする」ことにあるとぼくは知った。

結局のところ、権力とは首枷に似たようなものだ。人間と人間の関係に働くある強制性ーー関係が強制性をもつことーーこれが権力なのだ。

ところで、首枷というメタファーは奴隷ー主人の関係を示すものに他ならない。そうして、国家とはひとつの巨大な権力構造であることを考えてみると、国家がおぞましい腐臭を放つ理由がよくわかるのである。

この意味は、国家とは主人ー奴隷関係の堆積物であるということだ。

整理すると、文明人の人間関係は強制性を持っている(権力を持つ=主人ー奴隷関係)。自然人の人間関係はそれがなく、非権力的だということである。

本著で有名なフレーズがある。「ある広さの土地に囲いを作って、これはわたしのものだと宣言することを思いつき、それを信じてしまうほど素朴な人々をみいだした最初の人こそ、市民社会を創設した人なのである」。

ここで、「ある広さの土地」を「ある数の人間」に変えてみてもおもしろいかもしれない。

まあくだらないことを書いた。ルソーは大好きだ。自分と似た人間という気がするからだ。

自分と似ている人間は人口比で言うと1%かそれ未満で存在するのだが、中島義道もその一人である。ただ、彼と似ていることは吐き気を催すが、ルソーと似ていることは嬉しいから不思議だ。













7.25.2015

compensation

いったい世の中の人々が、自分の人生にどのように折り合いをつけて生きているか、教えてもらいたいものだ。

画家になるべき、音楽家になるべき人々、いや、絵を描くべき、音楽をやるべき人々、繊細な神経を持ち、美しさに敏感で、人には見えないものが見える人々、こうした人々が、生きる必要に迫られて、人生を投げ捨ててしまう、そうしてだれかのために人生を切り売りする。

本来は、絵筆を握るべき手指がハンマーを握り、鍵盤を打ちつけるべき手指がキーボードを叩いているわけだが、こういう人々は、どう人生を慰めているのですか。

これは、私の人生ではなかった。だれかのための人生だった、でも、だれだって自分のために生きられているわけではない、それは彼のような主人も私のような奴隷も同じなのだ、夢物語は捨てよ、イデアには到達できない、恐ろしく雑多で恐ろしく何もないーーそれが人生の内容物だ。

そう考えているのですか。

私の人生は、すでに何でもないもの、過ぎ去ったもの、わずかな賃金で、わずかな消費を楽しみに生きていくもの、少しずつ快適になる人生、少しずつ豊かになる人生、これ以上望むべくもない。私には友人がいる、同じ時代に生きて、同じように人生を生きている人々、彼らもまた、人生に諦めているのだし、生きることに、たいして価値を認めていないのだ、彼らの友人も、そのまた友人も、同じだ。ああでも、女にモテる奴、金持ち、お偉いさんは羨ましい。彼らは生きているからね、人生は充実してるだろうね。でも、俺の知人の大部分は死んでいるし、実際、それが俺のハラカラなんだ。

人が大学を出るとすぐにも牢獄に閉じ込められて一日一日を塗りつぶすようなルーチン、一生続くかのようなルーチンに身を落とすことはぞっとすることだ。

仕事は楽しい、大好きだ、仕事はやりがいがある、生きる意味を与えてくれる、仕事は交友関係を広めてくれる、仕事は自分の価値を高めてくれる。

首ちょんぱしてやろうか。

本当の絶望に到達するのにも、いまは難しくなった、悲しむことは体力のいることだし、たっぷりの時間が必要だけど、その両方は、仕事で費やされてしまっている。

悲しむーーとは、ひとつの免疫反応で、外敵やストレスに対する防御なのだ。そうだから、必要量悲しむことができなければ、人は突如、内側から、修復不可能に破壊されてしまう。それが鬱病であり、自殺である。苦痛と不幸の違い。

幸福な国、悲しみのない国、テレビではだれもが笑っている、お笑いブームの明るい国、24時間笑顔のサイコパスが崇めたて祀られる国ではあるけれど、中央線は自殺の名所化している。

こっそりと死を選ぶ人の人生はステキだと思う。

トーベ・ヤンソンは無人の孤島に移り住んだ。それは二つの島に分かれていたから、万力島と呼ばれていた。彼女はそこで実に快適に暮らしたらしい。水はドラム缶に貯めた雨水で、電気はなくても、太陽光で……。


日本という国は、これは奴隷の国であると結論付けた。もう日本について考えることは、やめにしたいと思う。決定的だったのは、日本の公共工事のバカ高い費用、森林や河川を破壊しつくした公共工事の連続が、実はアメリカの要請によるものだと知ったことだ。結局、この国はアメリカをはじめとする諸外国の言いなりであって、官僚の愚昧とか、政治構造とか、大企業、大衆の痴愚を批判したところで、どうなるものでもない。彼らは主人面した奴隷であって、その意味では責任がないのだ。

私は主人を探し求めていたが、この国にはないようだった。さすがグローバル社会、ワンワールドの時代だ。

実のところ、今日も仕事なのだ。仕事、楽しい仕事。振り込まれる給料は、実はわずかだ。まだ新車が一台買えるだけの貯金もない。日本円の価値は、これからどんどん下がって行く。商品の価格はあがり、給料は下がっていくだろう。奴隷の奴隷の奴隷の奴隷ーーにふさわしい生活が待っている。



仕事は楽しい、大好きだ、仕事はやりがいがある、生きる意味を与えてくれる、仕事は交友関係を広めてくれる、仕事は自分の価値を高めてくれる。

7.24.2015

DONUTS donuts

我々が認識できるのは、ドーナツ的世界でしかないということだ。

我々には例えば100年後とか、銀河の外のような時間的・距離的遠景を知ることはできない。この意味は、「世界とは何なのか」という命題の回答不可能性を示している。

それと同様、自己自身の内奥もまた、わからない。なぜ自分が生まれたのか、自分が自分である理由はどういうことなのか、といった哲学的命題は、いまだ人間の知性は到達できていない。

そういうわけだから、我々が認識できる世界は、近すぎても遠すぎてもいけない……中心の欠けた、限界的な広がりを持つという意味でのドーナツでしかないのだ。

ドーナツの外側と中空をどう埋めればよいのか?

そこには奇跡だの、神だのが入るのだが、これらは非言語的な領域である。というのも、我々は「神とはかくなるものなり」と言葉で説明するのは簡単だが、神的体験は結局のところ言葉で説明することができないからだ。

ドーナツ外(あるいは内)は、言語化不可能の世界である。

例えば大麻でラリパッパの体験をしたとする。この体験は、いくら言葉で説明しようとしても難しいものだ。もっともかなりの領域まで描写は可能である。しかし、こうしたラリる、という通常の精神構造を逸脱した体験は、根本的に言語的世界(ドーナツの身)の外側(内側)に位置するのである。

それは統合失調症患者の世界とか、自閉症患者の世界が、「なったことがなければわからない世界」であることと似ている。例えばドナ・ウィリアムズの「自閉症だった私へ」を読めば、ある程度、近似的世界を知ることができる。しかし、それは翻訳されると同時に失われてしまう体験である。

麻薬中毒者、精神疾患患者のもつ世界は、ある程度このドーナツの内側に踏み込んだものである。

ところで、ドーナツはふたつの外領域を持っている。それは内と外の領域であるが、これらは可分なのだろうか?実のところ、ドーナツを二次元的に考えれば中空は断絶されており、三次元的に考えれば中空も外界も同じ虚空である。

自己の精神が、世界の遥か広大な構造とリンクしているのか否か。

このことの答えは、瞑想に耽ることで世界を知ろうと試みる禅僧が参考になる。つまり彼が体験しているのは、客観的にはただの自己の精神内奥(精神の中心点=中空)を探究しているだけに過ぎないのだが、彼はそこで宇宙の真理を手にすることを望んでいるのだ。

こういうわけだから、内は外、外は内ということが言えるかもしれない。自己=世界的な認識である。


とまあくだらないことを書いた。

ある仕事の期限が迫っている。来週の土曜まで……。本当に、時間がないので困っている。ゲーテも読みたいし、ルソーも読みたいのだけど、そんな時間は許されていないというわけだ。

仕事の要求が、ぼくを飲み込んで行き、ついにはぼくはその環境に適合してしまうのではないか、と恐れている。道具=隷属化した人間。よく考えてみれば、就活って「最良奴隷選手権」だったよなあ、と思う。

7.23.2015

孤独と富

吐瀉物のような日々を送っている。

一日一日を消耗させるように生きている。あらゆる感動もなく、地を這うアリのように、疑問を持たず、無表情に、仕事をしている。

自分の境遇が理解できない。ある種の客観的な視点が、消えてしまった。渦中の人間に、渦の外は見えない。かつては渦の様相を見ることができた。今では、渦の大きさも、形も、まるでわからない。わかっているのは、渦が肉体を切り刻む力強さと、諦観である。

生きていることの、無意味さと、これほど肉薄することもかつてなかったように思う。たしかに、快適な生活、一日8時間超の労働と、高給を得て生きている。暮らし向きはよくなった。

ところが、それがために、人生の空虚さに怯えなければならなくなった。理想の人生を手にとった瞬間に、その空漠さに耐えられなくなる。空漠さ、すなわち真空。

苦痛こそが人生に意味を与えるのだが、私の人生は、快適さを追求する。快適であって、何が悪い?と思う、だれだって扇風機じゃなくてエアコンをつけるだろう。

私はたしかに、名誉とか、社会的地位を捨てて、田舎にきたものだった。皇居近くの商社で働く友人とか、三鷹の研究所で働く友人とは、もう会うことはほとんどないだろう。芸能界に憧れ、学位を捨ててプロデューサーに弟子入りした友人とも、会うことはないだろう。大学を中退して、音大に入ってプロ活動をしている友人とも。

名誉、地位、それはたしかに求めるべきものなのかもしれない。私は、生活の快適さをばかりもとめていたが、これはより低次の欲求なのだろうか?たしかに、立身出世は魅力的なものだ。実に生涯を捧げてもよいものにも感じられる。

いつかは社長に、いつかはプロデューサーに、という夢の引力が、人々を駆り立てる。彼らを見ていると、自分は何をしているのだろう、と感じることがある。人々があくせく目標に向かって努力しているというのに、自分は、日々を消耗させるだけ、最低限の仕事をこなせば、あとは酒を飲んで、読書をするだけというような、独居老人のような日々を送っている。

こんな人間は、ドラマとは程遠い人間だ。ゆえに、こういう人間は、人生経験に乏しく、いくら文筆家を目指したところで、だれの共感も得られずに死んでいくのである。

私は人間である、その意味で、永遠である。と叫んでみたところで、社長さんやプロデューサーは耳を貸さないだろう。私は人間である、そのままの人間だ、だから、それ自体で完璧なのである、と言ってみたところで、女たちは嘲笑するだろう。

私には、社会の仕組みがよくわからない。私がまるきり間違っているのだろうが、まるきり正しいという気もたしかにするのである。

労働の循環は、思考を鈍麻させる。つまり、これ以外の人生も可能である[可能だった]のではないか、という想定に、到達できなくさせる。そうだから、世の中のサラリーマンたちは、あれほど満足しているのだ。

これからの人生を、どう生きればよいのかわからない。私には、目指すべき指針がない。とりあえず、孤独に歩め、というメッセージを精神の内奥から感じるし、同時に、ある程度は(経済的に)富め、というメッセージを受け取る。

これは個人的な内奥というより、家族的・先祖的な要請であるらしい。というのも、私の先祖は豪農であり、かつては栄えた旧家であるから、ちゃんと稼げよ、という声が家族を通して、あるいは直接に響いてくるのである。

富むこと、そして、孤独であること。この方向で生きていこうか。

なに、富むことは悪いことではない。何年か前にも、年収2000万円を人生目標に掲げていたではないか。まともに絶望するのにも、金がかかる時代だ。金から解放されるためにも、金がいるものだ。

例え富んだとしても、孤独であれば、道を踏み外すまい。

ちょっと金儲けの方法も考えてみよう。

7.21.2015

散漫な雑記

旅行に出かけていた。

今日からまた日常のルーティンが始まるわけだ。やりきれない思い。しかし、来週にはもう給料日だ。そう考えると、救いだが……。

もう今月のクレジットカード請求が、7万円を超えていた。これでは今月も、ろくに貯金できずに終わるだろう。

何を買ったのだろう、いちばん大きい買い物は20000円で、これは自転車だ。あとはバイク用品とか、自転車用品、書籍だ。

今月から、自転車通勤を始めた、これで金がだいぶ浮くはずだ。通勤費は一日250円くらい出る、帰りに買い物などでいろいろ寄ることを考えると、実際にそれくらいかかる。だから一日自転車通勤をすれば、500円お金が浮くわけだ。

しかし、それにしても月に1万円程度しか浮かないことになる。

金がどこへ消えていくのだろう。

旅行中、家が欲しい、という思いが強くなった。田舎の山道を登ったところにある民宿や、アレックスカーの古民家を見ていると、安い金でも快適な環境が得られることを知った。

家を新しく建てるというよりも、田舎の朽ちて行く家を買い叩き、改修した方が安上がりのようだ。

しかし、当面の目標。

家よりも何よりも、デスクが欲しいということを切に思う。貯金が100万円を越えたら、買ってしまおうかなと思う。

30万円の軽自動車と、7万円で買った中古のバイクで耐え忍んでいる。デスクくらい、いいのを買っても罰は当たらない。

そう考えると、生きていくことが少し楽しく感じる。

西洋人の生活の中心はソファだが、私はデスクなのだ。何しろ寄り添う人もいないし、テレビはつまらない。本を読むか、パソコンに向かう以外ないのである。

パソコンといえば、もう一週間も、パソコンなしで生活できている。なければないでいいのかもしれない。

寄り添う人がいないということ。自分が孤独であることが、不思議だと思う。あらゆる人間が、自分の前を通りすぎていった。

旅行中は、一人だったが、それでもとても楽しかった。私は、一人で、それで満足してしまった。

どうせなら、もっと孤独に生活したいものだ。孤島暮らしも悪くない。

乾燥した、北海道の奥地あたりで暮らしてみたいと思う。降雪量の少ないところ。セントラル・ヒーティング、二重窓、できればレンガ造り。車の騒音が聞こえない……視界に他者の家がうつらないような場所。

何もないことを探すのが、難しい時代になってしまった。

散漫に書いた。とくに、これといったこともないのだ。日常は通りすぎて行く。旅行に行ったところで、おもしろくはない、実のところ、辛いことの方が多かった。

いつも、何をしても、収支計算は負なのだが、それを確かめるだけでも旅に価値はあるのだろう。

7.18.2015

獄中の窓

YOUTUBEで哲サラ氏(哲学するサラリーマン)氏の講義動画を見つけた。

彼のことはブログでしか知らなかったが、動画で見ると意外と、恰幅のいいひとであった。しかし、少しどもりがちな独白的な講義は、大学の退屈なおじいさん教授の講義を思い出させるが、哲学に関しては意外とマッチするようである。楽しい。

公開された講義数は数百にのぼるが、そのうちの「哲学夜話」を現在視聴している。

その中で、オーウェルの「1984」とカフカの「審判」を対比した、クンデラの批評が紹介されていた。これはおもしろかった。

カフカの「審判」で、K氏が獄中から外を眺めるシーンがある。街中の情景描写である。若い女がバケツに水が貯まるのを眺め、男は労働者にしきりに指示をだし、家と家の間には紐が張られ、洗濯物がすでに干されている……。

こういった描写は、人間がある限りは永続するだろうものである。

たしかに今はドラム式洗濯機があるし、欧州では外に洗濯物を干すことが景観の問題から難しくなっているにせよ、たとえばバケツのような容器に水を貯める瞬間というのは、かつてあったし、これからもあろうものである。

このような、人間自身に訴えかける描写にクンデラは着目した。

これに対し、管理社会を描いた「1984」では、このような「獄中の窓」は存在しない。つまり、永遠は不在であり、登場人物はすべて、歴史から切り離されているというわけだ。

こうしたオーウェルによる永遠の排除、「窓」の封鎖をクンデラは批判している。オーウェルはファシズムを批判しているように見えるが、実のところ彼自身がファシズム的な技巧(排除・断絶)を用いて、それを描いているというわけだ。

クンデラは、このような「窓」のない作品は、芸術として低レベルである、としている。

芸術は永遠性を付与されていなければならない、ということだろう。ちなみに上のは記憶をもとに書いているのでかなり曲解しているかもしれない。

永遠性とは、かつてそうだったし、これからもそうだろうものである。潮の満ち引きや天体の回転などはこれに当てはまるだろう。男女の恋愛がしつこいほど描かれるのも、人間が存続する以上、このテーマは揺るがないものだからである。

上のような批評は、哲学的な解釈も可能であると思う。つまり、我々の人生は永遠なのか、それとも断絶されているのか、という点である。

私の個人的・私的な苦悩は、かつての人間が味わい、これからの人間も苦しむことなのかもしれない……これを展開していけば、喜び、思考、出来事……あらゆることは人類の既存の共通体験ということになり、特定の時代の個人による占有物はなくなってしまう。

となると、私個人とは何なのか、ということになる。私自身はイマココにあるが、しかし、その私というのは、かつてあったし、これからもあるのである。即ち、こうして一人で引きこもって文章を書いている今も、私は自己や個人といった断絶された存在なのではなく、無限の広がりをもって存在していることになる。

あらゆる行為や、感情が個人に帰属できず、人類という財産からの借り物だとすれば、これはどうすればよいのか。

私的な概念が喪失する。自己が溶出する。哲学夜話の目標は「死を受容する」ことにあるようだが、たしかに自己の永遠性を知ることで、死を超越することができるように思う。

ぼんやりと考えていたことではあるけど、講義形式で学ぶとやはり気づくことが多い。

今日も仕事だが、たぶん楽だから、もう少し考えてみたい。






7.17.2015

脳のリビドー

何もかも自信が持てずに、あらゆる拠り所もなしに、さまようように生きている。

面の皮が薄い。私の環境はおそらく日本の労働環境のなかではかなり恵まれた方がと思う。楽だ。おとといなどは、あまりに暇だったので、勤務時間中にゲーテを読んでいた。

それでも、少しの人間関係の阻害感があると、やりきれない不安に陥る。きっかけはいくらでもある。

昨日は、ある女の夢を見た。大学時代……去年の今くらいに、付き合っていた女だ。距離的に離れても、彼女が依然私を支配しているということは、不思議なことだ。

あの女は、男を妊娠させる女、そういうタイプだ。ルー・ザロメ的な。だから、受胎した私は、つわりの苦しみを抱えていかなければならない……この例えは気持ち悪いな。昔、ジュニアっていうシュワちゃんが妊娠する映画があったけど。

人間とは遠く離れていたいが、結局のところ、人間との関係が全てを生んでいる。意味とは、人間に関することだ。実存とは、人間に関することだ。孤独もまた、人間との距離感を示すもので、断絶では決してない。

自分の蓄えた豊かなものは、だれかに分け与えるのでなければ、意味がない。

こういう倫理的な領域に、最近ようやく達せたようだ。思春期的な高慢さはいよいよ卒業したというわけだ。少しつまらない人間になることを意味する。

ゲーテ曰く、天才は青春を何度も経験するということだが、私は天才ではなかった、ということだろう。もう、苦しく真理に近かったあの一時代は、訪れないような気がする。

最近はいろいろな夢衝動理想にふり回されることが嫌で、もうなるようになるしかないんだから、水のように、ただ引力に従って生きてみよう、と考えている。

孤独、それがやはり大事だと思う、自分の声に耳を傾ける、もっともゆたかな時間、これを大切にしなければならない。

よい本を読んで何時間かすると、ふと本を机において、虚空を眺めたくなるようなときが訪れる。そのとき、表層的・理論的・記号的な思考はなされないのだが、脳は非常に大きな働きをしていて、無意識的な領域ですべてが統合されるような、莫大な計算がなされるような感覚に陥る。

そのあとしばらくは夢心地で、脳の機能がアップデートされたような新鮮な気分になる(この効果は二時間くらい続き、車の運転をすると危険なのでしばらく休む必要がある)。

いわば脳のリビドー的瞬間であるが、これは月に一回くらいあるようである。マズロー的に言えば超体験なのだろう。

性的なリビドーと同じで、ムードが必要だ。静寂で雑音なく、孤独でなければならない。しかし、他者は必要だ。遠くに同じように読書にいそしむ幾人かが背景として必要だ。また、ある程度体調が良好であることが要求される。

現在であれば、地域の図書館であり、以前であれば大学の自習室でこのリビドーを体験した。不思議なことに、ひとりで読書にしているときはこのすばらしい体験は得られないのである。

考えてみると、禅の瞑想などもこの体験を追求しているのかもしれない。禅の瞑想は、意外と集団的である。つまり、座禅を行う寺などでは、何十人もの禅僧が集まり、一斉に座禅を組む。

もっとも個人的と思われる真理の探求の瞬間が、集団に対して開かれていなければならないようだ。



最近集団的自衛権がどうのこうので、騒がしくなっているが、日本が民主主義だったことはないし、「強い国」を国是としているのだから、今さら驚くことでもないと思う。

不可解な国、ニッポン、この国の不思議は、ほとんどが「嘘」からきている。だれもかれも平気で嘘をつくので、ついには本当のことが、だれにも見えなくなってしまった。

「アンダーコントロール」「食べて応援」などの名文句は、国益のためなら虚偽が許されるという証拠になっている。

嘘、これがこの国の唯一の法なのだ。日本中に巣食う嘘、これはどこから来たのか?

なんとなくだが、原因は、天皇制にあると考えている。皇室の嘘を正せば、国は正直になるだろう。虚偽の結界としての皇室。

仕事に行こう。風が強い。






















7.16.2015

哀れなるマージナル・マン

一日が短い。労働の時間が膨張していって、私的な余暇の時間をどんどんと圧迫していっているような気がする。

朝はつねに寝足りず、かといって夜は何もしていない。飯、風呂、楽器、少しの読書で、一日が終わってしまう。

自分が不正直になるにつれ、生きることは快適になっていった。美と快適は相容れない。初めは意識的についていた嘘が、しだいに無意識を飲みこんでしまう。

私には、もはや、生活の豊かさということがわからない。生活が豊かであるとは、放蕩と読書の生活、あるいは年収が1000万円で、何十万円かのソファやデスクのある生活なのか。

人生のもっとも貴重な時代を、仕事でやり過ごしていくことは、かなわないことだ。

話の流れで、「同窓会には行きましたか」と職場の上司に問うと、自分は夢を諦めて、もうこんな田舎で消耗しているだけで、同窓には会えない、恥ずかしい、大企業で立派に出世している同窓と違い、自分は田舎の小企業の一社員でしかない、と言っていた。このヤロー新卒で入った俺はどうなるんだ、と思ったけど、まあそんなものかもしれない。

だれもが「本当の生活」を求めて葛藤している。田舎の人は都会に憧れ、都会の人は田舎に憧れる。日本人は外国に憧れ(舶来信仰)、外国人は遠く東洋の国に思いを馳せる(オリエンタリズム)。

自分の、いろいろな考えが固着し、腐敗し、人生にとっての毒素となってしまう前に、ガツンと、ハンマーでガラスを砕くような、そんな衝撃を求めている。そうでなければ、死んだ方がましだ。

生きること、これはわからない。

どうやりくりすれば良いのか。思考が安逸を阻害する。こうあることもできるはずだ、という思考が、わけのわからぬ方向にぼくを進ませる。

本を読みたい。先哲たちに教えていただきたいものだ。ああ、でもその時間はない。新書なら一日で読める。でも、古典を読むのは、つらい。一日で、まるで進展してないことがわかる。哲学となると、もっと難解だ。どうしてこうも難解なのか(きっと、昔の人は時間があったのだろう)。

絶対の時間が失われていく。時間がどうしてこんなにもないのか。私は、日々、数時間を自分のために使うので精一杯だ。やっと取り戻せたと思ったら、すぐ仕事の重圧が、ぼくを飲み込んでいく。

自分が、文筆家志望だという事実が、まるで馬鹿らしいことに感じる。凡庸な才能しか持っておらず、凡庸な経歴しか持っていない。しかし、正常人ではない。狂気の天才ではないし、かといってまともな常識人でもない。

この宙ぶらりんは、つらいものだ。片足は狂気に、片足は理性に。次第に引き裂かれていく。

悩むことなく、平気で仕事をし、セックスをし、けばけばしいメッキで飾られたミニバンでも買うような人種になってしまえば、人生は楽なのだろうし、反対に、完全な気狂いになって、幽閉され、クソを口に運んでいる方が楽なのかもしれない、と思うことがある。

しかし、この哀れなるマージナル・マンは、どちらにもたれることも許されず、つねに均衡を保つように、筋肉の緊張を要求される、生きるということが、すなわち疲弊と消耗である。

ぼくはたぶん、早々に死ぬだろう。

そう、文筆家志望なのだけど、何もしていない、せいぜい、少しの読書をするだけで、文芸雑誌なんて読んでいないし、ナントカ賞に応募することもない。創作は、一年ほどしていない。創作熱は、さほどない。取材とか、文献研究とか、正直言って、めんどくさい。

自分が何をしたいのかわからない。このくだらないブログしか、残っていない。しかしこれが最後の砦でもある。自慰的な散文と、自慰的な楽器演奏、これだけがぼくの人生で唯一色彩を持っている。

死の絶望も、今では恋しい。死は特別の意味を持たなくなった。信仰に似た感動はもはやない、生活の延長、あるいは裏返しでしかない。

絶対への信仰を取り戻さなくてはならない。

今日も仕事に行こう。


7.15.2015

科学と芸術について

いまさらになってゲーテのファウストを読んでいる。

当たり前だが、すごい本だ。このような古典が存在するのであれば、詩人の仕事はもう大部分終わったようなものだろう。

本を読むということは、実に経済的な行為である。というのも、他者が考え抜いたエッセンスを、数日で体得できるからである。

そういうわけだから、読書は進歩的な行為と言えるかもしれない。既存の芸術や、科学、あるいは文芸は、それを享楽することができると同時に、義務感を育むものである。その前提を土台として、さらなる高み辿り着く義務である。

世界中、あらゆる哲学者が、いまだに紀元前のギリシャ哲学から多くを得ているという事実は、驚くべきことだ。まあ、哲学は、いったい進歩しているのか退歩しているのかわからない分野だ。

科学は、はっきりと進歩していると言えるだろう。科学それ自体は完成された不可逆性を持っている。科学は広がることはあっても、その領域を狭めることはない。社会的要請は、科学を聖域とすることを認めた。もっとも、科学と権力ががっちりと結びついた国もある。

芸術という分野も、進歩しているのかは、はっきりとわからない曖昧なところがある。近代以降の芸術は、永遠と独立を目指しているように感じる。そうだから、芸術作品は進歩という系譜図に収まることは望まないし(結果的にそうなるにせよ)、また、時代性を排除しようと試みるものらしい。そうだから、ゲーテの詩はいまだ美しさを保っているのである。

もう少しいえば、芸術はつねに人間をテーマにするものであるらしい。人間に訴えかけるものだから、当然だが、例えば美しい海を描くときにも、それは人間を排除しているわけではない。人間のなかに海を生じさせる仕事であり、その共鳴がなければ、芸術とは言えないだろう。

そうは言っても、3Bを聴かずにクラシック音楽を志すことや、シェイクスピアやゲーテを読まずに文芸を志すこともまた、難しいことだろう。

科学が不可逆性を持っているとすれば、芸術は不可能性を持っているだろう。つまり、若き芸術家の脆弱な精神は、巨人の引力には打ち勝てない。たいていの芸術家は、その巨人の手のひらの世界で、遊ぶしかなくなる。独創性を志しながら、結局は凡庸なカウンターでしかなくなる。この引力から逃げるすべは、自分もまた巨人になることだ。そのためには、ひたすら孤独と永遠を追求しなければならない。

なんだか支離滅裂になったが、結論としては、芸術は科学ではない。どちらも進歩性を対象に望むものだが、科学は個人の叡智が鉄骨となってひたすらに上に向かうバビロンの塔であり、芸術は反対に、そのような価値を認めず、個人の独立を要求するのである。

科学は天を志向し、芸術は地を目指すのである。



というよくわからないことを書く。

「誰が何のために私をこんなに苦しめるのか?」

と書いた漫画家、山田花子。彼女は24歳で飛び降り自殺をしたけども、彼女の洞察力は舌を巻く。真の芸術家気質だったと思う。

漫画という領域は、いまだ商業主義から離れられていないらしい。もっとも、現代のほとんどの芸術は商業主義に侵されている。

そういう社会だから、彼女は精神を病み、命を絶った。同じように、鋭敏な神経を持ち、そのために美しさや真実を愛し、それがために命を絶つ人がなくならないのだろう。

子どもじみた空想だが、彼女が日本以外の国に生まれていれば、多少なりとも生きやすかったのではないかと思う。

彼女の嘆きの大部分は、学校クラスのなかのヒエラルキーや、バイトでの人間関係についてだ。独立した個人を重んじる外国であれば、生に絶望することはなかっただろう。

ぼくと同じような神経症者は、割と図太く生きるらしい。神経症は一種の防衛反応だから、かえって死の衝動に免疫力がついている。

が、山田花子のような統合失調症と鬱病をミックスしたようなタイプは、結構な確率で自死してしまう。

このような死は、どこから来たのか、と考えるとやるせなくなる。大部分は、未熟な国家のせいだからである。

国家的束縛を離れて、芸術作品に触れることが、命を救うことがある。芸術は、人間とはこういうものなのだ、と教えてくれるからである。それは親や学校が教えてくれるバカ丸出しのドグマではない。仕事ができないから、友達ができないから、非人間扱いをされることはない。

あなたは、人間だ。そして、私も人間だ。そうして、あなたの地獄を、私も味わっている。

このような救いが、優れた芸術にはあると感じる。

7.14.2015

幼稚園騒音を考える

騒音が、なぜぼくをここまで追いつめるのかわからない。人は、目を閉じることも、嗅覚を遮断することもできるのに、音に対してはまったくの無防備だ。

「子どもの声は騒音なのか?」というテーマが、一時期流行ったことがあった。都内の幼稚園が近所のクレームをうけて、グラウンドの周りに防音壁を作ることになった。それに対して、行きすぎなのではないのかという声があがっていた。

これ自体はよい議題だと思った。日本人は平均的に音に対して鈍感すぎるから、少しはその状況が多少でも改善するという希望があった。

ところが、みな、見当違いの議論をしていた。

とくに不可解だったのが、子どもの声が実際に環境において騒音のレベルであるかという議論はされずに、「子どもだから我慢すべき」という主張が多くを占めたことだ。

子どもの声だろうと、トラックの騒音だろうと、一定レベルを超えた騒音は環境中から極力排除すべきだろう。

社会的要請が、ここまで心理の奥深く、私的領域まで抑圧する社会もないのではないか。つまり、社会はこう言うのである。「うるさいと思うな」

実際には、世の中には子ども嫌いというのが一定数存在するし、そもそも人間の声は脳内でかなり増幅されるので、人の声の方がはるかに不快だということの方が多いだろう。

「子どもなのだからしかたない」と思うことは勝手だが、それを強制することは間違っている。

まあ、ネットでの議論だからしょうがないのかもしれないが、「実際にその幼稚園の騒音はどの程度だったのか」という点はだれも語らずじまいだった。

「子どもはうるさいもの」という概念が、いつから生まれてきたかわからない。幼稚園では、たしかに、子どもたちはうるさい。「元気よく挨拶しましょおおお」「お歌を歌いましょおおお」と、保母は絶叫する。そうだから、子どもも負けじと応答する。

子どもは何にでも成りうる。静かにも、うるさくも、だ。実際、他国では日本の子ども以上にうるさい生き物はなかったように思う。例えば日曜のホームセンターやスーパーともなれば、子どもたちの奇声ともつかぬ絶叫が聞こえてくるが、あの動物的咆哮は日本でしか聞いたことがない。(多分、例のごとく、中国や韓国でも見られるのだろうけどこれは省く)。

子どもは元気がいちばんというイデオロギーが、子どもたちを動物化する。この手のイデオロギーはあまねく支配している。静かで内向的な子どもがいれば、大人は「病気なのではないか」「虐待でも受けているのではないか」と訝しがる。(実際、この手の子ども……静かで思慮深く、シャイな子どもを見つけると大変嬉しくなる)

ところで、最近は、うるさすぎて落ち着かない子どもも「治療対象」になったようである。小児レベルの「メチルフェニデート」を与えることで、集中力が増すのだという。メチルフェニデート、商品名はリタリンだ(子ども用はコンサータ)。一時期「リタラー」という言葉が流行ったが、覚醒剤と同様の作用を示すことで若者の間で流行した薬である。治療効果はあるのだろうが、子どもに覚醒剤を与えるとは、ぞっとする話ではある。

鬱病で治療し、騒がしければ治療される、しまいには健常人などいなくなるのかもしれない。

話がずれたが、結局、日本の子どもは極端にうるさいという可能性を考慮に入れるべきだと思う。それは幼稚園教育の問題に繋がる。

第二に、住宅の過密と、貧弱な防音性の問題がある。日本のほとんど全ての住宅でアルミサッシが使われているが、これは他国ではほとんど使われておらず、法律で使用を禁じられることもある代物である。なぜというに、エアコンの冷気や暖気がほとんど逃げてしまうからである。そして、外部の音を遮断するという目的では、ほとんど役立たずだからである。ついでに、建築費の節約のためか、断熱材がほとんど使われず、壁が薄いという実情がある。

そういうわけで、我々の住環境がひどく貧弱である、という問題がある。幼稚園が防音壁を立てるというのは、これは原因と結果を取り違えているだろう。我々の住宅が必要な機能を欠いているのである。

これで、幼稚園騒音解決の道のりができた。

まず、子どもたちを絶叫させるような教育は、およそ先進国の教育ではないということを念頭に、教育改革を起こす。保母が「お歌をうたいましょおおおおお」と叫ぶ必要はない。高校の授業と同じ程度の、普通の声量で話す。(そもそも、合唱は必要なのか?とも思うが)

第二に、日本の住宅事情を改善する。アルミサッシを法規制し、断熱材に一定の厚みがなければ、違法建築として取り締まる。二重窓を標準化する。これによって、多いに節電効果も高まるはずだ。

まあ、どちらも絶対実現しないのだろうが。


7.13.2015

青春の亡骸

夢や展望と言った概念は消えて一日一日を矮小な喜びとともに費やしている。本を読むけど読むだけだ。古典はしんどくなった。哲学はとくに無理だ。実のところ現代的な哲学も、よくわからない。ジョルジョ・アガンベンがいったい何を言いたいのか、だれか教えてくれ。これだけ知識が積み重なってしまった時代では、本を読むだけで一生を終えてしまうのではないか。本や知識とは、それをもって行為するためではないのか。それ自体を目的にするのは、変態性欲と同じように、生に対する逆説ではないのか。

日常が静かに充実し満たされていく感覚がある。ファウストの詩人いわく、「私はなんにも持ってはいなかったが、真理への欲求と、錯覚を喜ぶ心とで満ち足りていた。どうか私にあの不羈なるままの衝動を、不快な、悩みに満ちた幸福を、憎しみの念力と愛の威力とを、私の青春を、とりもどしてください。」

加齢はだれにも襲いかかる。だれもが年をとると丸くなる。青春は去る。それでいいのかもしれない。深く、悩み、絶望した過去は消え去ろうとする。これは喜びでもあるが、それにしても、ひどい喪失感だ。

最近、記憶力が落ちてきた。昨日のことがわからない。昨日何したかがわからない。今日の曜日が、なんだったかわからないため、土曜日なんかには、実は勤務日だったのではないかと思って、一瞬ゾッとする。一日一日を貴重に生きていた日が、学生時代にはあった。生や知に目覚めたある時期から、ぼくは日記をつけていた。その日記は何年か続いた。書き忘れた日は、後日つけたしたが、大抵毎日書いていた。そして、去年の同じ日は……一昨年の同じ日は……と読み返すのが、楽しかったりした。一日一日が、極彩色や、ひどい灰色で彩られた。あのときは、一日一日に意味があったのだ。

日々の生活から、恐ろしい重圧も、ときおり味わう雷鳴のような多幸感もないのであれば、日記をつけることになど、さほど意味はないのだろう。ぼくは、時間がない。できる限り、休むことに時間を使いたいのだ。休まなければ、考えることも難しくなる。今は思考の小さな灯火を絶やすまいとなんとか守ろうとしているのだ。

月に一度給料が与えられると、もうそのことしか考えられなくなる。金が、ひとを惑わす。新宿の通勤電車、スーツに身を包んだ不幸なひとびとは、だれもが金を稼ぐために必死なのだ。何のための金?第一に、生きていくための金だ。金、金、金……金が彼らをここまで追い立てる。人間は貧しくなった。金のために生活が貧しくなった。

金のためだけに、杉植林が行われ、金のためだけに、山が削られ、金のためだけに、河川はコンクリート化する。そうして、田舎の情景も極めて醜悪になってしまった。杉植林のせいで、土砂崩れがおきて、人々の命を飲み込む。なんというか、皮肉だ。

ともあれ……生が貧しくなろうと、生きていかねばならないことには違いない。今日も今日の義務を果たす。生活は、戦いだ。神経を、硬く張ることは、疲れるけど、必要なことだろう。

7.12.2015

奴隷の条件

アパートの退去費用は、国交省の工事とよく似ている。つまり、あれこれ理由をつけて、できるだけ金を毟りとろうとする。だから、国はこれを規制できない。

学校のいじめは、国家的な情操教育の結果だ。だから、これは末端では解決できないし、かといって中枢で規制することはできない。官僚は有能だがひとつのことができない。「誤りを認めること」。

日本人の個性の欠如は、教育の結果である(制服、全国統一的カリキュラム、チャイム、右向け右、体育座り、全校統一給食、クラス制、班制、全校集会)。

意外と知られていない事実。全校集会が頻繁にあるのは、日本だけ。

知性の欠如もまた、教育の結果である(ひたすら詰めこむ暗記教育、正誤問題、マークシート)。

文化的貧困も、教育の結果である(5時に学校が終わり、そこから10時まで塾、あるいは部活動。美術館にいく時間もなければ、本を読む時間もない)。

奴隷に求められるただひとつのこと。

「疲れ切ること」

これが奴隷の条件だ。

疲れ切るとどうなるか。考えることがめんどくさくなる。

ルノー工場の女性工員「考えることは、きっとだれか他の人がやってくれているのだわ」

次第に、人は「支配されたくなる」。実にこの国家は、支配者によってコントロールされてるのではない。あらゆる非近代国家と同様、支配されたい国民によって、コントロールされている。

裁判所で、泣きわめく戦犯者たち。俺は悪くない。俺はただ「みんなのために」したんだ(一方で、外国のスパイは、哄笑した)。

「なぜ俺が叩かれるんだ?」という顔で記者会見する、東電の幹部。彼らもまた、懸命に働き、国に尽くす、善意の人間であった。

疲れることは善だ。この国は、だれもかれも疲れようとする。エアコンをつけない。座らない。せかせか歩き回る。仕事を見つけようとする。「何かやることありますか?」

日曜日は、町内会で奉仕。

一度も考えたことのない人間は、考えることを極度に恐れ始める。それは過去の否定につながるからだ。

彼らにとって「考えること」とは、まず自分の無知を認めること、自分の過去が国家統制によって犠牲にされてきたことを、認めることだからだ。自分の人生が、台無しだったことを認めることだからだ。

「そんなことはできない」。目覚めることは怖い。なら、アニメを見よう。テレビを見よう。JPOPを聞こう。これらは、考えないことを勧めてくれる。「私は、正しいんだ」

一日10時間の労働と、あとはテレビを見ることによって一日が終われば、人はついに考えることなくその生涯を終えることができる。すばらしく完成された人生。ディストピアはここ日本に完成していた。



いじめ。考えない人間による、考える人間の排斥。彼らにとって、意志をもった人間は不気味にうつる。「勇気と節操をもっている人たちは、ほかの人たちからみると、いつだって非常に気味のわるいものさ」とデミアン。

7.10.2015

消費と搾取

今日、コーヒーをこぼした。PCにこぼした。おかげで、14000円で買った中古のノートパソコンは、死んだ。電源ランプすらつかなくなってしまった。

これで、先延ばしにしていた新しいPCを買うというめんどうな作業が急務となった。

何かを買うということが、これほど楽しみではないというのは、どういうことなのだろう。

子どものときはもっと楽しいことだった、駄菓子屋でヨーグルトではないヨーグルト様のものを買っていたときは、純粋に消費に喜びを見出していた。

子どもの頃は、金は労働の対価ではなかったし、500円が大金だった。いまは違う。

消費に対する感情は、昔とは違う。これは別に子ども大人という違いだけでなく、だれしもが今では感じるようになったことなのだろう。

労働の対価である金は、ぼくらの血で塗られており、そうだから金を使うことの生理的な恐怖感というのがある。これは、超過労働が当たり前となり、時間給に換算すると東南アジアにも満たない貧弱な給料となったときに、ますます傾向を強めた。

もうひとつは、市場価格に対する不信感であり、「もしかしてそれは高すぎるのではないか」「私の消費は、私を豊かにするのではなく、だれかを豊かにするだけではないのか」という神経質な傾向が、物を買う意欲を削いでいる。つまり人々が、商品に対し猜疑心を抱くようになる。

もっとも、PCであれば、世界的に価格競争が行われているのだから、そこまで悩む必要はない。適当に、スペックの条件を満たすなかで安いものを選んでいけばよい。

それ以外の、電気料金とか、税金とか、酒や食品、考えていくとやりきれないような出費が数知れない。

スーパーのポテチにしたって、これは談合価格なのだろう、と思うと、買うのを控えてしまう。

日本の商品は、大抵の場合、他先進国と比べると貧弱で高価だが、その一因は価格カルテルが当然という風土によるのだろう。

たとえばバターが買えないと民が嘆く先進国がいったいこの国以外にあるだろうか?(そもそもバターは高すぎるのだが)。

自販機も事実上公的なカルテルが認められている。

このようにぼくらの身の回りの商品は、企業努力によって魅力的になった商品という資本主義的なモデルは消えて、実質的に大資本やカルテル企業団体による搾取という様相を示している。

そうだから、ぼくは消費するときには、ドッと疲れるような気分になる。抜け目のない搾取から身を守らなければならない、と気を張るのである。

アパートの退去費用は、「弁護士を通す」と言ったら、半額以下の費用になった。敷金は帰ってこなかったが、精神的な疲弊がひどく、諦めることにした。

無知なバカな連中から金をせしめれば何でもいい、という奴ばかりだ。
ミニバンなどという、醜悪な車が買われているのも、貧困ビジネスだ。

ここで言う貧困とは、文化的貧困のことでもある(もっとも経済的貧困と文化的貧困は容易に切り離せない)。AKBやソーシャルゲームも貧困ビジネスだ。

この国はどんどん貧しくなっている。当然、ゆたかな国なのだという幻想は捨て去るべきなのだろう。

中国の株価が激動している。その余波で、日本がどうなるかはわからない。中国はまだ伸び代がある国だ。

ところが、日本はどうか。伝統的な大企業が粉飾決算で批判を浴びる。オリンピック会場で行政の無能を示している。原発は解決の目処もつかない。そうでなくても世界一の高齢化社会だ。

やはり、脱出がいいという気がしてきた。仕事に行こう。


7.09.2015

I would prefer not to

生に倦みながら生きている。

いったい幸福とは何か、と思う。この日常は、たしかに幸福なのだろう。

昨日の仕事は暇だった。仕事が終わると、図書館へ行って本を読んだ。うるさい人がいたので、そうそうに切り上げて、コンビニへ行った。この港沿いのコンビニには、猫がいる(黒猫は、美しいと思う。なんとか猫が飼えないものか)。ツナパンを買って与える。ついでに酒も買っておく。

家に帰って、半額で買った豚肉と、キムチを炒める。地産のネギをたっぷり和える。うまい。そこそこ酔うと、自然と床につく。

とくに何をするでもなく、日常が過ぎていく。

もともとの夢とか、希望のようなものは、生活の循環のうちに磨耗していって、今ではなにかあいまいなもの、思い出そうとしても思い出せない遠く灰色のものになってしまった。

ぼくはある程度の人物になろうと努力していたようだ、教養を身につけ、読書の習慣を続ければ、ちょっとした国際的認知度もあるくらいの大人物になれる、という気がしていた。

今ではそんな感情も消えうせてしまった。ぼくは凡庸なディレッタントだ。ボンヨーナ・ディレッタント。

自分が何か特に優れているとは思えないし、それどころか、基本的には無能であるとすら感じる。

バートルビーは絶対的に正しいと思う、I would prefer not to……彼は雇用主を助けることを拒絶し、働くことを拒絶し、食べることを拒絶する。

I would prefer not to
バートルビーはあらゆる拒絶をする。しかし、決して激しい拒絶ではない。丁重に、静かに、冷ややかに、しかし(過剰に)礼儀正しく、力強く、拒絶をする。

働くこと……それはたしかに、「できればしない方が望ましい」ものである。そうして、食べることも、究極的にはそういった類のことだ。

食べることの拒絶は、仏僧でも、キリスト者でも、ムスリムでも見られることだ。もはや行為しないこと、絶対の境地。「ああ、バートルビー!ああ、人間!」。そう、バートルビーはただの人間だった。思考が行為を超越した人。

と、唐突に「バートルビー」の批評が始まる。批評と言えるのかはわからない、批評なんて書いたこともないからだ。批評とはつまらない仕事だと思う。ドゥルーズも今考えるとつまらない人間だったと思う。

ひろさちやの本を読んでいると「我々の社会では、『人間』であることが禁忌なのです」というようなことが書いてあった。ぼくらはニートでもダメリーマンでもオタクでもDQNでも存在することを許される。しかし、彼らが「人間」になったとき、あるいはなろうとするときには、世間、社会、大衆が牙を剥く。

これは皮膚感覚で同意できることだ。ついでに言ってしまえば、フーコーと合わせて考えると、精神疾患者は実に「人間らしい人間」であるといえる。

社会が成熟していき、社会構造が密に堅固になるにつれ、人間は疎外されていく。だから彼らは犯罪者と同じく幽閉されるのだ。かつては、キチガイや白痴は、とくに阻害されることもなく、人々と共生していた。今ではほとんど例外なく、精神病院の狭い部屋のなかに幽閉される。社会から「見えないもの」にされる。

バートルビーも間違いなく「狂人」であるけど、それは裏を返せば人間的であるとも言える。狂気は、実際のところ、とても人間らしい要素だ。われわれは狂気を、常識から遠く離れたところにあると考えるけど、実際は理性など狂気の上に乗っかった小さな浮き舟に過ぎない。創造の深遠を知りたければ、この狂気に飛び込むしかない……。

のかもしれない。


家を建てる、ことを夢想するのが楽しみになってしまった。べつに豪奢な生活がしたいわけではない。「他人の家に賃貸で住む」というのが気持ち悪いのである。当たり前の感覚ではないだろうか?

あと、日本の住宅は(トイレを除けば)ほとんど途上国レベルだと感じる。これがぼくを苛立たせる。

そうだから、実家の畑に小さな家を建てようと思う。畑の真ん中の、車の騒音も届かない場所だ。

日本で他に住みたいところといえば、北海道がある。あそこは大陸の雰囲気を持っている。実のところ、日本は雨が多すぎる。そして湿度が高い。快適な生活とは程遠い国だ。北海道でも札幌は豪雪地帯だからダメだ。網走あたりがいいだろう。

とはいっても、家を建てるとなれば、金を稼がなければならないので、大変だ。それに、家という財産を持つことが、個人的には恐ろしい。ぼくはもう少し世捨て人的であったと思うのだが。

ともあれ世界旅行は今の職場を離れたときにしたいと思う。外国に移住するか、日本に「根をもつ」かは、そのあとに考えればよいことだ。


丸山真男をあいかわらず読んでいるけど、物質主義から精神主義への脱却がファシズムの兆候だと指摘されていた。言われてみれば、かつての日本はきわめて精神主義的であった。現代でも、ブラック企業はきわめて精神主義的である。だから、一日8時間できっちり仕事を終わらせるよりも、12時間だらだら働いた方が評価される。

会社は利益をあげる組織ではなく、人生を捧げる組織になった。その結果が、成果のともなわない超過労働であり、一人当たりGDPの低迷である。

ところで、丸山真男の指摘は、空恐ろしいものである。国粋主義とは無縁と思える左翼的なスピリチュアルな感性が、けっきょくは国粋主義に流れていくという実情を示しているからである。たとえば、脱アカデミズム、反権威主義、あるいは神秘主義のようなファシズムと(一見)相反するような傾向が、結局はファシズムに行き着くということを示しているからである。

人が資本主義からも社会主義からも離れたときに、ファシズムが待っているのだろう。

富、これを考えねばならないと思う。

7.08.2015

zacc

昨日はくだらない国家論を書いた。ネットの知識をつぎはぎにしたような稚拙な論考だ。

いったい自分はこの国のことをまるで知らない。日本という国家については、ほとんど避けていた。ぼくは外国の文学や思想ばかり読んでいた。舶来品をありがたがっているわけではない。単純に、翻訳されるだけの価値がある作品は質が高いからである(古典はさらに質が高い)。

だから日本人論ということについても、新渡戸の武士道とか、葉隠みたいなほとんど的外れな本や、日本通のガイジンの書いた、ヴァン・ウォルフレンとか、アレックス・カーみたいな、日本人は不幸だ……というような本しか読んでいない。

日本人は幸福だ、と最近のメディアが騒ぎ立てるから、その反動で、ぼくは日本人はまるきり不幸なのだ、と思うようになってしまった。日本のマスメディアはぼくには不可解な存在だ。外国人にとってはもっと不可解だろう。

たしかに、この国には問題が多い。何度も繰り返し述べたように、この国は法治国家ですらなく、民主主義国家でもない。だから、先進国的な条件からは逸脱している。だがこれは東アジアにおいては普通のことだ。日本人はたいてい、中国人や韓国人を嫌うけど、ぼくには中国という国家が不可解なのと同じくらい、日本人が理解できない。

ただ、それがいちがいに悪いとは言えないのかもしれない。不明瞭な空気が支配する国家であって、何がいけないのだろう?

それはあくまでもひとつの「国家」の形であって、国家が「民主主義」であったり、「法治国家」であることが求められるのは、近代以降である。それまで数千年は、日本は君主国家だったのだし、21世紀の現在もたいして変わらない寡頭政治である。ただ、ぼく自身は民主主義に偶像的信仰心は抱いていない。「情」治国家の日本は、たしかに生きづらいが、大部分の人にとっては快適なのだろう。


話を戻すと、昨日読んだ丸山真男の「超国家主義の論理と心理」が、たいへんこのあたりの無知を補ってくれた。まだ、その短い論文を読んだだけだが、ひさしぶりに知的な興奮を覚えた。日本とはなんだ、ということを知ろうとするなら、丸山真男がいいのかもしれない。

ごく最近、自称イタリア人社会学者が、「昔はよかった」病という本を出したらしい。ぼくはこの人のことも好きだ。

ぼくもまた、同病にかかっているのかもしれない。でも、やっぱり日本人は不幸だ、と思う。シモーヌ・ヴェイユの「労働と人生についての省察」で、ヴェイユは、ルノー工場で労働者として従事する。これ、現代の日本人からすれば皮肉にしか見えないだろう。

ヴェイユはさんざん、労働環境の劣悪さを嘆く、もうやっていけない、とこぼしたりする。それでも、労働は8時間で終わるのだ!日本人は、たいてい、10時間働いている。それに、首都圏であれば、通勤時間が二時間……。長期休暇は、ない。残業代も、ない。


やはり、ぼくらの労働の成果=富が、どこに運ばれてゆくのかは、まったくの疑問である。それは不可解な公共事業(なんたらピックの建物に象徴される)や、不可解な海外援助に消えていくのかもしれない。あるいはもっとありきたりに、天下り団体の私腹に入っているのかもしれない。

富の流れを、GPSでもつけて、追えるようになれば楽なのに、と思う。今くらい技術があれば、Googleあたりが開発しそうだけど。

と思ったら、イギリスですでに開発されたらしい。Where Does My Money Go? というサイト。これ、少し前にアメリカで流行った曲のタイトルだったと思う。日本版もある。自分の払った住民税がどのように使われるか知ることができる。(でも、ためしにやってみたけど、ぜんぜんすっきりしない)





まったく関係ないが、海外サイトの美しさはなんてことだろうと思う。上のサイトも、イギリスのサイトを元に作っているようだが、海外サイトは、デザインの基本をしっかりと抑えている。デザインの基本とは、別に何時間も勉強する必要はない。ただ美しさの条件を整えるだけでいい。

美しさの五箇条は、以下のとおりである。

  • Keep It Simple
  • Use Meaningful Symbolism
  • Use 2-3 Basic Colors
  • No Lettering Or Seals
  • Be Distinctive

つまり、シンプルにする、意味のある記号を用いる、2~3種類の基本色を使う、文字や紋章は入れない、特徴的(個性的)であること、である。

これはTEDの「ローマン・マーズ: 街の旗が、誰にも気づかれない最悪のデザインになる理由」から持ってきたものだけど、たしかにぼくが良いデザインだと思うものは、ほとんどがこの原則を守っているので感心する。

アレックス・カーの「ニッポン景観論」における日本の醜悪な都市に対する批判も、上のような基本的なデザインセンスの欠如に由来するものがほとんどだった。つまり、日本は「ゴチャゴチャしていて」「無意味な記号で溢れ」「色彩は雑多で」「文字や注意書きだらけで」「まったくの無個性」なのである。

無個性、というのは、説明が要るだろう。日本の地方都市はどこも変わらない。

たとえばこの画像がどこかわかるだろうか?


東京、大阪、名古屋、福岡、宮城、広島、ある程度栄えた都市なら、どこでもあてはまりそうな光景だ。遠くに山があるから、東京ではないかもしれない?ちなみに正解は京都だ。

あるいは日本的デザインの象徴はサイトデザインに表れているかもしれない。

もっとも大衆的商業サイトと比べるのは酷かもしれないが

本当に、日本人は文字が好きだと感心する。漢字が象形文字だからかもしれない。ぼくのドラム式洗濯機も、せっかくのいいデザインが日本語で埋め尽くされて台無しだ。

車のデザインはさすがに常識を守っているようで、給油口にでかでかと「給油口」と書かれたステッカーは貼られていないし、ドア・モール付近に「危険!指挟み注意!」とかいう注意書きもない。ハンドルに「警告:前を見て運転してください」とか書いてあるわけでもない。この点は、ぼくが日本車を評価できる点である。

でも、日本が法治国家である必要はないのと同様、デザインの原則など守る必要などないのかもしれない。ただ、日本人も潜在意識では美に対する意識をもっているようで、たとえばiPhoneがあっという間にスマホを駆逐してしまった。

ああ、くだらない。こんなことはどうでもいいのだ。

最近は時間が本当にないのだ。精神を深化させるような時間もない。一日、二時間読書するのがやっとだ。それだと、ぜんぜん読書が進まない。

心境の変化がある。海外移住が当面の目標だったが、実家の畑の土地を借りて、そこに家を建てようかという欲望が沸いてきた。畑は人里離れた場所にある。二重窓で、防音性と断熱性を徹底して、セントラルヒーティングで年中快適、好きな木材を使って、好きなデザインの家で暮らせば、それは幸福かもしれない……ということを考えたりする。

とはいっても、家を建てるには3000万円くらいかかるらしい。それくらいの金を作るには、10年や20年かかってしまう。

自分で建てれば、1000万円以下で済むだろうか?と考える。二年くらいかけて、勉強しながらコツコツ建てれば楽しそうだ。それで2000万円の費用が浮くとすれば、無職期間も悪いものではない。

ただ、ぼくの実家は最近箱根の噴火をくらいそうで、それが不安なのだが……。

ともあれ、今日も仕事にいこう。ひどく雑多なことを書いた。

7.07.2015

韓国の富と、日本の富

韓国という国を考えると、ぼくらが思っている以上に、その存在は重要だと思う。

ぼくはネトウヨではないが、この国ははっきりと不幸な国であって、労働時間とか、自殺率のような不名誉な数値では、毎回トップになっている。昔であれば、自殺大国や、過労死大国は日本であったのだが、いつのまにか韓国が躍り出ている。

彼らもまた、日本と同様の悩みをかかえている。深刻な格差、賃金の安さ、政治の腐敗、官民癒着など。

ぼくはあまり人種の差異など感じない方で、外国旅行で韓国人に出くわしても、普通に接していた。あたりまえだが、顔かたちが似ているので、親近感すら沸いた。彼らは例外なく英語が達者なので、感心したものだ。良い意味でも悪い意味でも厚顔な中国人と比べて、韓国人からは反対に、独特の憂いや恥じらいを感じることが多く、そこが好きだった。

そうなので、韓国が不幸な国であることは不思議だった。

ただ、韓国の主要企業を考えると、これらの企業はほとんど外国資本であるらしく、彼らの労働のだいぶぶんは、外国に搾取されているようだった。調べてみると、どうやらIMFが絡んでいるようで、2000年初頭、韓国は、おろかなことに、IMFの要求に全面的に従ったらしい。

IMFは国際ヤクザのようなものであり、その実態は「ジャマイカ 楽園の真実」という2001年のドキュメンタリー映画で知ったのだが、国家救済の顔をして、日本や米国、ドイツのような「一流国」が、途上国から搾り取るようなシステムを作りだす機関である。

まあぼくは経済学なんててんで知らないけど、IMFがどうもキナ臭い組織であることは間違いないようだ。彼らの要求は、たとえば金融市場と資本市場を国際経済社会に無条件に解放させることだ。

経済的に破綻寸前の国が、市場を解放するとどうなるか?

資本力のある多国籍企業が、途上国に進出する。外国製の安いコーン、パンが、市場を埋め尽くす。人々は米国産の作物を食べ、米国の企業の労働者として働くようになる(多くの場合、劣悪な環境)。国内産業は壊滅し、自給率も下がる。やがて人々は、外国に対する政治的主権まで奪われる。

「貿易を自由化し、市場を開放しろ(そうすれば経済が活性化する)」というIMFの要求は、字面を見れば当然の要求のように思われる。しかしその結果は、国内産業の破壊、多国籍企業による人々の奴隷化である。IMFは実質的な植民地化に貢献していると言えるだろう。

話を戻すと、韓国はすでに植民地化が行われた国だ、と考えることができる。宗主国は、もはやIMFという、顔のない国である。

IMFの要求に対しては、いま、ギリシャが果敢に対抗しているらしい。日本のメディアは、「借りた金は返せ」と近視眼的に主張しているようだが、それもそのはずで、IMFに世界で二番目に出資している国は日本である。まあいつもの大本営発表ということだろう。

ともあれ最近恐ろしいと感じることは、日本の不幸が韓国の不幸と近似していることである。日本は豊かな国と教わって二十年以上生きてきたけれど、ぼくらも韓国と同様、外国資本に奪われるだけの人生なのかもしれない。

平均的な日本人の生活は、端的に言えば「信じられないほど労働時間が長くて、信じられないほど賃金が安い」ということに尽きるだろう。ぼくらの働いた成果はどこに行っているのだろうか?「働けど 働けど」というのが今の実態なのではないか。

米国は日本以上の格差社会だが、その富は目に見える形で存在する。日本では資産数億で金持ち扱いだが、米国の金持ちは、資産数百億というレベルがごろごろ存在する。このように、資本家と労働者の関係が明確ならば、まだ是正の余地がある。

しかし、日本では金持ちといってもたかが知れている。米国と同じように貧しい底辺層が大部分を占めているけど、米国と同じくらい富んでいるわけではない。(もっとも、皇室の内帑金のように陰で莫大な富を蓄えているのかもしれないが……)

韓国であれば、IMFが諸悪の根源だったといえるのだし、米国であれば、資本家(あるいは自由主義)が悪かったのだ、ということができる。しかし、いったい日本の不幸はどこから来ているのだろうか?

ぼくらの受け取るべき当然の利益、権利、富はどこに流れていっているのだろう?

単純に考えれば、米国なのだが……。まあ、そういうことを考えながら、今日も働こう。

7.05.2015

激質の日

昨日のデスクは……。

実際のところそこまで良いものではなかった、と思う。20代の今ならいいけど、30代くらいになって、肌が乾燥し、雑多な病気を抱えるような年齢になって、あの空飛ぶアイロンプレートのようなデスクに座るのは、いささか滑稽であると感じる。


昨日は、大変な憂鬱に襲われた。憂鬱というよりも、激しい怒りに似た感情であった。違う、こうではない、というdenialの精神が、全身をカッカと熱したようであった。

そうだから、ぼくはこの一軒家で、叫び声をあげ、ばたばたと暴れまわった。何がぼくをそこまで苛立たせるのか知らなかった。昨日のデスクの記事を書いていて、それの後半部分がPCの電源が落ちてぜんぶ失われたときには、怒りでくらくらと眩暈がしたほどだった。

ぼくを襲うのは常に憂鬱だったが、ここまで怒りがぼくを支配したのは、珍しいことだった。

おそらく金曜日にくだらない飲み会に出席したからだろう。

会社に入ってから、飲み会に金を使ったことはない。ぼくはいつも先輩や社長の気に入った高級料理店や料亭で、うまいものをたらふく食い、うまい酒を飲む。運転代行も払ってもらう。それらは全部無料だが、正直いって、家で半額の惣菜をおかずにご飯を食べるほうが、ずっと幸福なことだった。

彼らは、「奢り」なのだからと、ぼくを引き連りまわして、餌付けし、感謝しろ、というような顔をする。ふざけるな、ぼくの読書の時間と、休息の時間を奪っておいて、絶対の時間=生命を奪っておいて、へらへら笑っていやがる。

醜悪な中年の連中、もう精神が生活に飲み込まれて、思考も、苦痛も感じなくなった人間、前にも後ろにも進もうと思えなくなる、あの類の、苦痛なき不幸に包まれた幸福な人間、預金額にばかり目がいって、時間の概念を失った人間。

ああ、退廃!

永遠、という秩序が、人間を高みにもたらすらしい。それは時間を超越した永遠性である。永遠とは、善であり、真実である。

循環し再生産されるマイルドヤンキーやサラリーマン、田舎の農家みたいな連中、シブヤノワカモノ、量産型大学生……日本人の99%は、刹那的に生きているだけで、「真理」という一点については、もはや考えないようである。

ぼくの怒りは、二時間程度の読書と、普段の倍の酒と、刺身と、カキフライによって贖われた。その副作用を避けるために、胃薬も投入した。これで、今日は、少し安定した。

自分の精神をコントロールすることにかけて、ぼくの技能はたいへん高いと思う。自分の肉体と、それに乗っかった精神と、折り合いをつけて生きている。

いったい自分が自分であることは、不思議なことだ。我慢ならないことであるし、ある程度は幸いなことであったと思う。ぼくには、自分の精神と、肉体は、第三者的であるように感じる。

上のふたつとは別に、絶対主体的な、魂のようなものがあると考える。というのも、ぼくはこの精神に振り回され、肉体に振り回されているから、どうも「自分のもの」という気がしないのだ。

昨日は聴覚過敏者のサイトをいろいろ見ていた。ぼくは最近になって、自分が聴覚過敏だと知った。いや、単なる自己診断なのだが、これを書いている今も、耳栓と、射撃用のイヤーマフをつけているから、聴覚過敏だと言えるだろう。

聴覚過敏者のブログを読んでいて感じるのは、彼らはたいてい文章がうまいし、書くことも好きだということである。どうも記述という行為は、精神・神経的な障害と、折り合いが良いらしい。

耳が、我慢ならない。ぼくはついでに、視覚過敏も持っているかもしれない。昔、野球をやっていたけど、グラウンドに反射する太陽の光がまぶしくて、まるきり耐えられなかったことがある。太陽を直視できたソクラテスとは反対である。

まあ、往々にして、神経症患者というのは神経過敏をもっていることだろう。

ぼくはもう、こういう性質なのだということで、自分を肯定することにした。光や音が苦手なら、それからあきらめて逃げよう、と思った。病気=治療すべきものという考えが、ぼくを長い間苦しめてくれた。でも、実際のところは、ぼくよりも社会や集団のほうが、ずっと病んでいた。

自分の健康さには、おそれいる!ぼくの血液検査の良好な結果を、ここに掲げてみたいものだ。毎日酒を飲んでいるのに、肝臓値は健康だし、善玉コレステロールが基準値より多く、悪玉が少ないのである。そして、血圧も、血糖値も、最良の結果をたたき出している。

実に、生活習慣病のひとびとは、病んでいるといえるだろう。彼らは甘いものを食べて糖尿になる。しょっぱいものを食べて血圧をあげる。油っこいものを食べて高脂血症になる。

食べるということへの無関心さ!生活に絶対的なゆたかさがなくなると、人はこのような退廃に落ちるらしい。もはや自分が何を食べているかすら、彼らにはわからないのである。もっとも原始的な感覚――嗅覚、味覚の麻痺。健全な食欲の喪失。

健康法ということでいえば、もうシャンプーをしなくなって半年くらい経つ。夏になっても割と具合がいいようである。あの合成洗剤を頭に振りかける行為は、まったく理解できない。化学工場と皮膚科とグルになってるのか、と思うときがある。

まあ、このような健康自慢はどうでもいいことだ。ぼくはどうせ、長くは生きられないという気がしている。だからこそ、狂ったように書きまくっているとも言える。

今日は、とくに何をする気も起きない日だ。暇ついでに、トーベ・ヤンソンで良い文章があったのでここに書きたい。
いまではわたしもカリンを嫉妬せずに愛している。贈りものをしようとする。彼女が必要とするもの、好きなものならなんでも。ところが彼女はいつでもまず浴室(バスルーム)にいってひとりになり、贈りものをうけるべきか否かを神と相談する。うけてよいと思われる例外もあるが、たいていは海に投げ捨てられる。カリンがとくに気にいったものは、なにがなんでも海に投げ捨てられねばならない。
切り抜いてみると、そう良いものではないかもしれない。

馬鹿みたいに多弁な日だ。今日はどこか遠くへ行こう。

7.04.2015

10数万円のデスク

デスクの購入を検討している。

いまの候補は、デンマークからの輸入デスク。10~20万円が相場だ。

この丸みを帯びた、月並みだが「遊び心にとんだ」デザインに、少し惚れつつある。



家具は、総じて、丸みを帯びるべきだ、というのが、ミッドセンチュリーの基本理念であるらしい。合理的に考えれば部屋はどうやってもたいてい直方体で「四角い」のであるし、家具もそれに準拠するのが自然だ。

それに、直線的なデザインと曲線的なデザインでは、その生産コストも段違いである。楕円に削りだすだけでも何倍のコストがかかる。しかしそれでも曲線的デザインを追求したのは、この時代特有の考えであると思う。

当時のデザイナーは、心底「人間の生活を豊かにする」ということを考えていたのだろうと思うし、またそれが許容されるだけのひとびとの根本的な豊かさ、余裕のようなものがあったのだろう。

角ばったデスクは、人間の心を少しずつ傷つけていく――もっとも、こんなことをわめいても狂人扱いされるだけだ。しかし、狂人の方がずっと(過剰に)人間的である、というのがぼくの考えである。

われわれはもっと神経症・恐怖症患者の声をきかねばならない。先端恐怖症はいても、丸み恐怖症は存在しない。彼らはいたずらに[無根拠に]怖がっているのではない。人と同じ感性をもっている。だが、彼らは人よりも「我慢ならない」のである。

「ゆでがえる」の例が表すように、人は少しずつ肉体的・精神的に侵害されていっても、たいていの人は気づかないものであるらしい。だから、机の角が90度であることや、消費税が8%であることや、日本の景観が醜悪であり、騒音も世界一であること、などは、声をあげて叫んでも無視されてしまう。

憂鬱や自殺の原因を、恋人との離別や、肉親との死別のようなわかりやすいエピソードに帰着させようとする人は多いが(精神科医)、実際のところは日常の小さなダメージ、ドラクエの毒状態のようなストレスが、ひとを絶望に追い込んでいくこともありうる。彼らのHPはすでに1なので、ちょっとした精神的アクシデントで死に追い込まれるのである。

ぼくらは、四角いものよりも丸いものを好む。だから、ミッドセンチュリーの家具は革新的であったのであり、永続するものなのだと感じる。まあ、デザインなどまるで勉強したことがないからざれごとだ。



働きだして一年にもならないぼくが、10数万円の家具を買うことは、なにか後ろめたい気分を感じるものだ。人はこう考えるかもしれない、お前は富裕層だ、と。

たしかにぼくの経済的状況は恵まれている。このことを否定しようとは思わない。ぼくは金持ちなのに貧民の振りをする人や、貧民なのに見栄を張っている人間が大嫌いだ。ぼくは富んでいる。これからも、おそらく富むだろう。

考えてみれば、四月にはドラム式洗濯機を買い、軽自動車を買い、ルンバを買った。次にはちょっとお高いデスクだ。このようなことは、ふつうの社会人には難しいに違いない。

しかし、世の中には金をドブに捨ててる人も少なくない。彼らの方が、ぼくから見れば信じられないほど富んでいる。たとえば、自転車に100万円かけたり、自動車に数千万円をかける人がいる。腕時計のような、あってもなくても変わらないような代物に、100万円をかける。ただの革靴に10万円とか、スーツに50万円とか、テレビにウン十万円、仮設住宅のように貧相なマイホームに数千万円、たかが料理に数千円をかけたり、ちょっとした宴会だけで、数万円をかけたりする。彼らは、海外旅行へ行くにも割高のパック旅行をして、自前での旅行の何倍もの費用をかけていて、何種類もの保険に入って、生活を圧迫している。

このような人々の信じられない浪費を考えると、ぼくがデスクを買うことはとてもかわいげのあることのように思う。

……

以下、デスクを買う経済性を1000字くらい書いたのだが、それらはPCの電源コードのせいで全部消えてしまった。すごくがっかりした。

今日は、土曜日なので、車を海沿いにでも止めて、読書してこよう。

7.03.2015

外部の人間

実に雑多な夢を見て……起きる。

ふわふわと不快な気分、現実認識があやしい。

あまりに早く、七月が到来した、これまで、3回の給与が出て、60日程度、働いたようだ。もう十分だ、という気がする。労働は、ぼくを打ちのめすはずだった。しかし、ぼくは適度に順応した。仕事に何も期待していない分、失望もなかったようだ。かえって、就職活動のノリで仕事に向かった人の方が、悲劇を見るのかもしれない。

このようなはずではなかった、安定だけが人から能力を奪うというのに、その安定の泥沼に、見事に嵌ってしまった。

それにしても、世間の人より(かなり)多く貰っているはずだが、この給料は、こんなにも安いものかと思う。税金と、生活費によって、大部分をとられてしまう。余剰分は、ぱーと使ってしまおうという気には一切なれない。貯金、貯金、貯金……。

貯蓄額が多くなれば、消費に目が向くようになるのかもしれない。ぼくの貯金は学生時代の10倍程度になったが、それでも1万円の買い物に、二週間悩んだりする。服は、学生時代のものと、しまむらで間に合わせているし、食べ物は、毎日弁当を昼に食べて、夜も、軽い自炊している。それでも生活は、妙な窮屈感がある。

ぼくの給料は高い。だが、現実には、ほとんど何ももらえていないという気がする。ぼくの労働の成果は、大部分は、経営者と、国が持っていってしまう。消費税や、数々の税もそうだが、何十もの仲介者が、ぼくから少しずつ肉を剥いで去っていくようだ。返せ、返せ、ぼくの肉を返してくれ、と、こうわめいてもしょうがない。

しかし、これはあらゆる国でそうなのだから我慢するしかない。

資本主義は、拡大主義だ。個人が拡大していこうと望む、その結果が高給取りの経営者だし、こういう社会では、正義は消滅するから、官僚たちもまた権力に取りつかれる。彼らは社会的必然であって、社会のまま流れ着いた人々だから、ぼくは彼らを責めようがない。それなら、資本主義を廃せ、と時代遅れの革命家気取りになろうという気にもならないので、ぼくは相変わらず、傷だらけの身体を見て嘆くしかない。

日本という国を見ていると、正義の概念はどこにもなくなってしまったように思う。正義、善、真実のような概念は、いったいこの国には必要ないようだ。

アレックス・カーの「ニッポン景観論」は、一般向けの本のため、あえてあまり踏み込まれず書かれているのだが、少しだけ書かれている「工業主義」のムードが日本を支配している、というような記述が重要なのではないかと思う。

工業主義で、景観の深刻な醜悪さ以外にも、日本のいろいろな側面を説明することができる。それはウサギ小屋のような日本の狭い部屋もそうだし、日本人の文化的貧困(J-POP、軽ワゴン、ミニバン)や、ビジネス書や新書に見られる無教養主義、制服と整然とした机が支配する学校の教室など、まあいろんなことが、「日本人は工業主義なのだ」と考えることで説明できる(という気がする)。

工業主義とは、工業を優先させることではなく、かえって工業に飲み込まれることだ。それは資本主義が最後には国家を飲み込んだことと同様だ。



話が飛ぶが、「彼らは工業主義だ」と言うことはできても、「我々は工業主義だ」と表現することはできない。そのことは、認識できない。なぜなら人々は包み込まれているからだ。支配的なムードから抜け出した人間にしか、その集団を語ることはできない。

だから、世間的なムードから離脱した人間、コリン・ウィルソン風に言えば「アウトサイダー(つまり、「我々」を喪失した人間)」にしか、人間集団を正しく評価認識し、修正することのできる人物はいないと言うことができるだろう。

ここに孤独者の価値がある。つねにとまどい、困惑するこの人の生は多難で苦痛に満ちているが、種のためには良い働きをもたらすらしい。それは当節においては、狂気じみていて、異端者のように感じるかもしれないが、時とともに彼は評価されるはずである。

アウトサイダーは、種を超越した人物なのだろうか。それとも、それは「織り込み済み」なのか。この疑問は、なかなか重大なテーマである。もうひとつの概念もある。それは「失敗作」である。
彼は、欲望の充足に失敗した神経症患者であるがゆえに「アウトサイダー」なのであろうか?それとも彼を孤独に押しやる深い本能ゆえに神経病の兆候を呈するのか?(「アウトサイダー」コリン・ウィルソン)
ここでの記述は、精神の病的失調という「失敗」か、本能による「織り込み済み」と比べている。

最終的に彼はアウトサイダーの価値を認め、「全ての『アウトサイダー』には進歩への希求がある。」と評価するにいたる。

最初の疑問、「織り込み済み」か「種の逸脱者」か、という問題は、結局は人類が進歩しているか、それともわれわれはただの生命体であるか、という問題に帰着する。

つまり、われわれ人類がつねに「進歩」している生き物であれば、アウトサイダーは生物学的にその存在が必然なのであるし、そうではなく、人類が環境におかれた他の動物と同じに、ただ偶然にしたがって生きているのだとすれば、アウトサイダーは単なる失敗作、と言うことができるのかもしれない。

ぼくは紛れもなくアウトサイダーだが(それは友人が一人もいないという現実と照らし合わせてもそうだ)、どう生きればよいか、という疑問が消えない。過去の思想家や芸術家のようなアウトサイダーたちと作品をとおして心を通わせるとき、道が示されているような気がする。

でも、進歩主義は皮膚感覚のレベルで嫌いだ。人類は、進歩しているのか。このテーマは、もう少し考えてみよう。

7.02.2015

醜悪な日本の都市景観

冗談のように、時代遅れの国だと思う。

アレックス・カーの「ニッポン景観論」を読んだ。たっぷり皮肉をもってして、近代以降の日本が、美しい景観をいかに破壊してきたかを論じている。

日本の景観は実に醜悪である。そんなことは、少し海外に行ったことのある人や、あるいは日本に観光にきた外国人なら、だれでもわかっているはずだ(韓国、台湾、中国は日本並みに汚いので除く)。

とにかく、ケバケバしい原色の看板と、空に絡みついたような電線が醜悪極まりない。

原色を使わなければ気がすまないらしい。

これは地方都市も同様で、看板だらけ、電柱だらけ。緑はなく、家がごみごみと密集し、雑多でスラムのようである。国内旅行が趣味の人ならわかるだろうが、これは日本全国どこへ行っても同じだ。
 
この光景は47都道府県すべてに見られる。
住宅街は「過密」と「雑多」の二原則によって作られる。


自然豊かな渓谷も日本人の手によって美しく生まれ変わる。

なかには、こういう情景にも過剰適応してしまう人がいる。「電線は日本の風土に溶け込んでいる」。電線は美しい、とまで言う人がいる。

こういう人は、いったんモニターから目を離して、パソコン周りのコードを見て欲しい。

日本の原風景

実のところ、日本の都市景観はこの絡まったPCケーブルレベルである。


まあ、どんな世の中でもそれに迎合して、溶け込んでしまう人がいる。自分がおかれている状況に、何の疑問も抱けない人はいくらでもいるものだ。そういう人は、いつも言っているように「サイコパス」なのであって、自分の腕が切り落とされていることにも気づかないタイプである。

ぼくは、日本を醜悪な国だと思うが、意外なことには、上のような「適合者」がたくさんいるらしい。かれらは日本は快適で豊かな国だと、本当に思っている。

ぼくは聴覚過敏をわずらっていて、全体的に神経質である。細かい痛みに弱いのである。つまり、音だけでなく、上のような貧困な情景や、視覚の雑多さに、けっこう苦しめられてしまうのだ。

アレックス・カーによれば、日本の醜悪な情景は「工業」を最優先させ、それから抜け出せない日本人の性質に依るものだとしている。電線も、看板も、無駄な公共工事も、昔は先進性・豊かさの象徴だったのだろう。

この日本の醜悪さは、結局、劣悪な労働環境や、騒音地獄のような、あらゆる慣例的な悪習とつながっているのだろう。

ぼくは、日本の都市景観はもちろん、日本のうるさいスーパーマーケットも、日本の労働環境も、醜い軽自動車やミニバンも、日本人の大半も大嫌いである。ぼくは日本の伝統的な文化は好きだし、興味もあるが、大半は近代以降ことごとく破壊されてしまったようだ。

美しい景観の都市に住みたい……静かな環境で暮らしたい……という人間はどうすればよいのだろうか?

実のところ、日本でも高級住宅街のような場はあるが、おそろしく金がかかるのが現実である。それに、一歩敷地を抜け出せばまた醜い風景と戦わなければならない。

そうだから、金持ちになるか、海外移住という選択肢が生まれるのだが、海外移住の方が楽だという風に思うのだ。



移住を考えると、少し気が楽になる。今を耐え忍ぶことができる。都市から田舎への移住は、完全ではないが、ぼくの生活を楽にした。同様の効果が海外移住にも望めるだろうと思う。

問題は、仕事、というだけで……。十分な収入源、これがないといけない。もっとも、海外ではアルバイトでも時給1500~2000円だというのだから、食えないことはないのだろうが。

7.01.2015

憂鬱の治療

死の綱が私たちを取り巻いた、
そして地獄の不安が私たちを捕えた、
私たちはさまよった、暗闇の中を。(詩篇116:3)

再び憂鬱。

手指が動かず、思考は緩慢で、「助けてくれ」ともがき続けている。別に悲しいことがあったわけではない。具体的な事象それ自体は、ぼくを苦しめることができない。というのも、最近はある確信を持ったのである。すなわち、苦しみとは外的環境によるものではなく、内的要因に依るものだと。

苦しみと、悲しみとが運命付けられている人がいる。この人は、富を得て幸福な境遇にあっても、悲しむものだ。貧困は、まだしも彼を救ってくれる。富むことが幸福への道だという幻想を信じることができるからだ。だから、一旦富んでしまうと、新しい絶望が彼を襲うようになる。

人はすべて幸福を求めるようにできている。これは間違いないことだろう。問題は、真の幸福とは何なのか、ということである。それは少なくとも、マイホームだとか、「友達百人」にあるのではない。年収二千万円とか、文化勲章にあるのではない。このような信仰を持つ人はカッコ付きの「幸い」である。

だから、一見、幸福をすべてなげうち、絶望の海に沈みこむように見える人が、幸福の探求者でありうる。大学教授の資格を持ちながら、工場の最底辺労働に従事したシモーヌ・ヴェイユは、幸福の探求者である。彼女はただ自分が「幸い」であることに耐えられなかったのだろう。

ところで彼女の働いていた最底辺の労働はたしかに過酷だったようだが、その労働は一日8時間で終わったようである。だから彼女は「重力と恩寵」において次のようなことを言っている。「一日八時間働く労働者が、毎日一時間の読書をしたとしても、それは絶望しかもたらさない」

思い出しながらだから、実際はもう少し違ったニュアンスかもしれない。少なくとも、当時は一日八時間とは当時の感覚では相当長い労働であったらしい。ところが、今の日本人ときたらどうだ。八時間で帰られる企業なんてほとんどない。だれもかれも、残業で身をつぶしている。日本人の半分は本を開くこともないのだと聞いたことがある。

「憂鬱の感情は内的なものである」と言ったが、さっそくそれと矛盾することを書きたい。ぼくらの憂鬱は、我々が苦しめられていることに起因する。この社会では、99%の国民は、知らず知らずのうちに搾取され、苦しめられている。だれもかれも苦しめられているから、もはや、それが当たり前になってしまった。

だから、憂鬱者とは、この抑圧と搾取の支配に無意識的にでも気づいた人物と言えるのかもしれない。彼は日常の生活が、単なる拷問の連続だと気づいたのである。しかし、彼には次に何をなすべきか、皆目検討がつかないだろう。だから、絶望の中に沈むしかなくなる。

現代では憂鬱は病気であるとされる。憂鬱者を薬で治療せよ、とされる。これはつまり、鞭打たれ、苦しめられている奴隷に、笑うことを強制する行為である。過去の奴隷制の歴史のなかでも、これほど残酷な行為は行われなかった。

このような社会では、苦しむことのできる人間は、負け犬というよりは、知者と言えるのかもしれない。

――抑圧的な社会では、サイコパスが手本とされる。彼は腕を切り落とされても気づかないからである。

この社会において、苦しむことのできる人は、正しく、そして貴重であるから、自己の価値を、大事に守らねばならない。「苦しむとき、人は一人で苦しむ」とペソアは言った。だから、憂鬱に苦しむときは、ただ自己のみが自己を救わなければならない。

散漫に書いた、書くことは、憂鬱の非常に良い治療法だと思う。

ものを書くことは治療法の一形態である。書いたり作曲したり描いたりしない人はみんな、いったいどうやって狂気や欝、人間の境遇にはつきものの追い詰められるような恐怖から逃げおおせるのかと、私はときどき不思議に思う(グレアム・グリーン)