8.31.2015

Nervosität

私の現実認識がまるで間違っているという気がしなくもない。――黒崎潮は、現実知覚がゆがめられてるから、相対的にだけでなく絶対的に無能のものとして考えるのが一番よい。

現実認識は、多かれ少なかれ人それぞれで違っている。私は都市の雑踏にどうしようもなく圧倒されてしまう。かえってその雑踏が、お祭り騒ぎのようで好きだという人がいる。私は騒音の中に悪を見つけだす。彼は騒音の中に快を見出す。同じノイズでも、人によって見方は違う。



私による世界は、神経症者の世界だ。彼の見る世界は、健常な世界だ。私の世界は健常な世界から排斥されている。接点がないのかもしれない。共通項的な世界がある。常識、それがイデオロギーの覇者である。幸福を求めればバカでなければならず、真理を求めれば狂人でなければならない――世ニシタガヘバ望ミアルニ似タリ。俗ニ背ケバ狂人ノ如シ。

私が神経症者であることが、私を規定する。私はそれ以外であるのか。私は、この人生を神経症者として過ごすことが運命づけられている。私は、健常な道を歩んではならない。

私はそもそもが孤独を好む性質ではないことを自分で知っている。
神経質の厭人症で、人を避け、独居を好むとかいうことも、みな続発性、すなわち二次的に自己の病に対する影響を恐れ、そのために病がますます憎悪するのではないかという杞憂の結果として起こるものである。
と、森田先生。

孤独を好む人などいない。隠遁生活をしているものが、かえって人を愛していることもありうる。ただ、彼は身を隠さなければならないのだ。鬼だから。
ほかのみんなと同じように、僕もまた、家族や友情、愛情や親交の必要を感じている。僕とて消火栓や街灯のように、石や鉄でできているわけではないのだ。
と、ゴッホ(鬼)。人間の姿をして、人間でないものがある。



輪の中にいる人。辺縁に追いやられた人。問題は、そのどちらが人間なのか、ということだ。



8.30.2015

30歳までの目標

甘い。甘い甘い甘い。

金を貯めなければならないのだ。私はこの国を発たねばならないのだ。

なんとなく、この国は肌に合わない。どうしてかはわからない。自分の祖国を愛せないということは、悲しいことだ。ともあれ、私はどこへ行っても自分が日本人であると感じると思う。日本という国においてはつねに異邦人だったとしてもだ。

家具を買おうと思ったが、輸入家具のほとんどはぼったくりらしい。日本人は粗末な家具に、現地の何倍もの金を払っている。ときには外国人の使い古したゴミを、日本人がありがたがって買うなど屈辱的な例もあると。

物の価値を知らないとは、悲しいことだと思う。

私はぼったくりで物を買う趣味はない。貯金がいくら貯まったところでほとんど消費する気が起きないのもそのせいだ。何もかもが高すぎる。私は、30%オフか半額になった食肉類でしか買うことができない。惣菜も半額でようやく買うかどうかだ。

服は、この前イギリスから買った。8ポンドのチノパンと、10ポンドのシャツ。両方で18ポンド。3000円といったところだ。国際郵便で送料は無料だ。決して安物ではない。8ポンドのチノパンは、元は40ポンド(7000円くらい)の代物だ。外国のセールとはこういうものだ。日本では、たぶん1万2000円くらいで売られるのではないかな。私が売るとすれば、それくらいの値段はつける。それでも多分売れるからだ。

日本のブランド品は、恐ろしく低品質だ。たぶん消費者の質が悪いのだろう。雑誌で宣伝したブランド名をつけていれば売れる。すぐ色あせても、よれよれになっても、だれも文句を言わない。いい消費者だと思う。うまく飼いならされている。

おかげで、日本の商品は何もかも高くて低品質だ。高くて低品質の物を買う人々は、必然的に貧しくなる。貧しさが無知無教養を生み、それがまた貧しさを生む。背が高い箱型の軽自動車を買い、箱型のミニバンを夢見るような国民は、世界中でこの国の人々だけだろう。

私は海外に行って、いろいろな物を見て周りたいと思う。いろんな苦しみと、いろんな楽しさを感じたいと思う。そうして食い扶持も見つけたい。ついでに言えば終の住処も見つけたいものだ。そのために、英語を勉強すべきだろうと思って、仕事の合間に英単語を勉強したりしている。

英語の勉強もそうなのだが、結局のところ知識がないと旅行に出たところで意味はない。目を開かないままに移動するだけ、ということになる。そうだから、今のうちにいろいろと本を読んで、最低限の教養を身に着けるようにしたい。

来年、仕事を辞めて国を出るとすると、私はもう28歳になっている。いいおっさんだ。二年間働いた金で、二年間海外放浪する。30歳の誕生日に、旅を終わらせよう。そのあとは、海外に住処を見つけるか?あるいは、日本で就職し細々と暮らすのかはわからない。ただ、どちらでもいいという気がする。二年も旅すれば、もう死んでもいいと思うくらいにはなっているだろう。

8.28.2015

「和」の統治

財産が欲しいと思いつつ、財産を所有することは面倒だと思う。だいたい金に人生の時間を奪われたくないし、あの世に金は持っていけないのだし。

とは言っても、現実の私は金のために人生を費やしている。明日の食い扶持のために今日働いている、というわけだ。私に十分な金があれば、今のように一日9時間近くを仕事に費やすようなことはしないだろう。そのようなことは実際、バカバカしいことだ。

私は労働は人間の本能だと思っている。汗水流して働くこと、社会参画と言ってもいいが、人はそのような働きを志向するよう運命づけられていると思っている。そうだから、労働から阻害されることもまた悲劇である。

だから、仕事とのちょうどいい距離感があればいいのだ。カフカのように、午前中だけで仕事が終わるとか。そういう仕事であれば、午後をまるまる創作に使うような生活も可能だろうと思う。

日本人は「和」の精神をもっているが、これが法を逸脱させる。「和」の精神がサービス残業を当然とさせる。ひとは、法より和を優先させるが、これは当然のことだ。我々の国家を維持するのはこの「和」なのだ。

西洋は社会と個人は契約で結び付けられている。が、日本人はつねに和の中にある。個人が融解しており、集団的精神のなかに組み込まれている。「一匹の虹鱒は、個体としての虹鱒であることはない。常に集団の中の虹鱒なのだ。」というようなことをだれかが言っていた。

しかし西洋人とてまるで個人として独立自由であるかというとそういうわけではない。

そういう幻想はたしかにあったがフーコーの新しい権力像によって打ち破られたわけだ。フーコーによれば、権力とは自由を奪うものである。そうして、同時に「自由」に振る舞うことをうながすのだ。我々が自由であると思うとき、それは権力の不在を意味するのではないのである。かえって、権力がよりよく働いているといえるのである。

そういうわけだから、「完全な自由」とは西洋理想主義的な幻想でしかなかった。かえって日本人の方がリアリストと言えるだろう。つまり我々は、人間の関係は契約や法律だけでうまくいかないことを知っているのだ。

西洋人の自由思想の根底にはJ.S ミルがあるが、ミルの言い分は「法律を破らなければなにをしても自由だ」というものである。そんなことは日本では適応不可能である。

日本人は、法律を破ることに対し何の抵抗もない。制限速度を平然と破る。巡回中の警察車両でも速度オーバーで走る。企業は平然と談合し、カルテルを作る。

そういうわけだから、法律を破らない個人に対して私刑を行うことも日常化している。その一端が、クラスにおける「いじめ」の発生であり、パワハラ・アカハラ・セクハラなのであり、「村八分」なのである。

時事ネタはあまり書きたくないが、今話題の武藤議員は日本人の精神をよく表している。彼によれば
日本国憲法の「国民主権・基本的人権の尊重・平和主義」という三大原理が「日本的精神」を破壊し、現在の日本の「精神的荒廃」をもたらした(引用元
ということだ。私は、彼は彼なりの適切な主張をしていると思う。現実をきちんと見据えている。つまり、「和」の社会と「法」の社会は相容れないのである、市民が基本的人権を主張したら「和」の社会はことごとく潰れてしまう。そうして「和」が崩壊するときには、国体(国の精神)も崩壊するのである。

だから日本は「本音」と「建て前」をうまく使い、表向きは近代国家の様相を示すことに成功している。つまり、建て前では基本的人権が保証されているが、本音ではそうではないという意味で。

日本人に人権はない、これは当然の事実だが大事なことで強調しておこうと思う。

日本人が個人としての権利に目覚めたときに、日本人の精神性はなくなるということだ。結局のところ、日本社会で生じている問題の数々は、西洋個人主義と、東洋集団主義との間の矛盾に帰結することができる、気がする。




8.26.2015

財産を増やすべきか

昨日給与が振り込まれた。貯蓄額が高くなる。これを、寝かせておくだけでは「損」というものだ。今はゼロ金利の時代なのだし……。

世の中の個人投資家を見ていると、作り上げられた空気感にまんまと乗せられているように思う。日本は好景気なのだ、と思っていればそれだけで売りのタイミングを逃してしまう。

まともな経済感覚をつけたいものだ。そのためには、テレビなど観てはならないだろう。テレビとは、少数の勝ち組(エリート)による、多数の負け組(庶民)の支配である。ということは、テレビが有益な情報など流すわけがない。もっともジャーナリズムが権勢に(表向きにも)組み込まれているのは先進国で日本(と中国)くらいだが。

経済感覚とは、新車で車を買わないこと、ブランドものの衣類を買わないこと、消耗品は廉価なものを買うこと、など……。新車のベンツを買えば、資産価値は半年やそこらで激減する。1000万円がすぐに6,700万円になってしまう。人は知らずのうちに300万円を強奪されることになる。こういうわけだから、車は中古車に限るのだ。衣類などは、自宅でタグを切った時点で価値は激減する。

結局のところ、投資とは財産を増やすために行うのだ。上のような浪費をするようでは、財産など増えるわけがない……。そう、投資とは財産を増やすために行うもので、ギャンブル遊びではないのだ。ここのところを多くの人がはき違えている……。

それにしても、抵抗感がある。相変わらず、「自分が豊かになるべきなのか」という点がわからないのだ。つまり、自分が富裕層であるべきなのか、ということだ。あらゆる哲学書や、宗教書は清貧を説く。飢えたる者に汝のパンを裂き与えよ――財に恃むものは悪魔だと。(セネカは例外で、「金はないよりあった方がいいから持っているのだ、それの何が悪い」と開き直っている)

ともあれ、経済的呪縛から解放されることは必要かもしれない。私は億万長者になったところで、相変わらず人生の虚しいことには変わらないと思っている。労働から解放されれば、苦しむ時間が増えるだけだということもわかっている。財を所有すれば、今度は財に所有されるだろうことも、漠然とわかる。

こういう倫理的な思考はまだ保有している。しかし、金があったなら!という欲望もある。500万円くらいあれば、私は現在の仕事に見切りをつけ、数年ばかり海外を放浪するだろう。もし何億円かあれば、北海道にスイス風の豪邸を建て、北欧デザイナーの家具に囲まれ、本を読むだけで静かに過ごすだろう。あるいは北欧に移住してしまうかもしれない。現地の何倍も高い輸入家具を買うよりは、現地で買った方が、いろいろなコストを勘案しても安いかもしれない。

それ以上の欲望は特にない。私は遊びを知らない田舎人だから、「都会で豪遊」などということがわからない。何度か高級料亭に連れられたりするが、居心地が悪いだけだった。

だから、私はある程度、財を持つに値する人間だと思う。私は欲に溺れないだろうからだ。金は虚しいものだとわかっているので。

投資の本は腐るほどあるが、それよりも古典文学や、宗教書を読んでみようと思う。財産を持つべきか、もう少し考えてみたいと思うのだ。

8.25.2015

投資について

苦悩、賢者 ⇔ 幸福、愚者

不幸な人々が増えていけば、人びとの知性を増強していくことになる。そして知性とは、自由への道筋であるのだから、人びとは隷属状態から解放されることになる。

支配者があるとすれば、そのような事態は回避したいのだから、ふたつの方法を考える。ひとつは、知性を封じることだ。アレクサンドリア図書館の破壊。知への道筋を封じる。もうひとつは、人々を幸福にさせる。知性への欲求を封じる。

人びとを幸福にさせるには、ふたつの方法がある。実質的なバラまきによって、豊かに暮らせるようにする。もうひとつ、豊かだと「思い込ませる」。当然ながら、後者の方がずっと楽だ。

そういうわけなので、この国では大衆はつねに自分が「恵まれている」と思っているのである。しかし、実際は生活は貧しくなっているのだから、ある臨界点を超えれば人々は、知性に目覚めることになる。


日本の株価が暴落しているが、そもそもが高すぎたのである。景気がいい話と言えば、円安になって輸出産業が豊かになったという話だけで、なんら魅力的な新商品が開発されたわけではない。市場は相変わらず、軽自動車やスマホゲームのような、国際競争力のない、国内の貧困層向けビジネスが賑わっているだけだった。あとは、中国人の「爆買い」。

この下げは止まらないだろう、と私は思っている。株なんて買ったこともないが、私は日本の株式市場は魅力的に思えない。中国市場の勢いが止まれば、日本市場もそれまでだろう。


投資を否定すべきか。

考えてみれば私の人生も投資の結果成り立っている。例えば、受験。受験のときは、「あとあと楽になれるように」とそのとき努力していたのである。そのおかげで私はある程度の知的財産と、わずかな人的財産と、現在の収入を得ることができている。

私は高卒で地元に残り働いていたら、と思うとぞっとする。

投資というと大仰だが、「あとあと楽になれるように現在行動する」ということだから、それは土を耕し種を植えるような楽しみであり、冬のために肉を塩漬けにするような自然な営為ではないのか。それは人間という動物の持つ「想像力」という能力の発露なのではないか。

何かを買うときも、それは投資の性格を持つ。私は15万円の家具の購入を検討しているが、それは少なくとも、ヤフオクにでも売れば10万円程度で売れるだろうことを予測している。

また、現在のバイクを購入するときには、7万円で購入したのだが、中古市場相場は10万円以上だった。これは一種の投資と言ってもいいかもしれない。今は海沿いの町に住んでいるので、サビだらけだから10万円では売れないだろうが……。

消費と投資は違うのだろう。ティッシュを買うのと、家具やバイクを買うのとでは、性格を異にするということ。

金に向かったり、性愛に向かったり、あるいは知性に向かって人々は投資するものなのかもしれない。本を読むときも、そのときの愉しみというよりは、その後の蓄えになる、という要素があるのだから。まあ、ある程度投資というものに手を出してもいいと思っている。今の株には手を出す気になれないが……。


8.23.2015

孤独と知性について

知識の上に知識が立って、そのような連鎖によって真実に到達しようとしても、それはいつか崩れ去ってしまうもの、風雨には耐えられないものでしかない。

ただ、それでも知性的なものに触れると、やはり嬉しく感じてしまう。知性というと、インテリぶった表現になってしまうが、そういった傲慢さと知性は本来無縁である。というのは、知識人や専門家のセンセーは偉そうにしているが、彼らは知識があるだけで、知性はないからである。知性とは、究極的には美や善と相通じるものである。傲り高ぶる人間というのは善というよりは悪であるから、彼らには知性が欠如している。

そういうわけだから、私が信用しているのは、インテリではない。ただの二種類である。それは、弛緩した幸福人と、苦悩する賢人とである。その二種類だけが、本当の人間という気がする。苦悩する幸福人とは矛盾だし、弛緩した賢人というのも同様だ。しかし、このうちの後者は大変多いように思う。

人生というものは結局のところ苦痛でしかないのだから、知識を身に着けるたびに、人はそれを受け入れていかなければならない。

私は、精神医学とか、哲学を勉強した。勉強したというか、本を読んだだけだけど。精神医学を勉強したのは、神経症の解決法を見つけるためである。これは、ついに見つからなかった。私は一生この病気と付き合っていくしかないのだ、と悟った。つぎに生じた疑問は、この神経症はそもそも治すべきものなのかということだった。この答えは精神医学の範疇を越えていたから、哲学の勉強をした。哲サラさん風に言えば、「私が在ることの奇跡」の探求である。しかし、奇跡の探求など学問でどうにかなるものではない。次に宗教を少し勉強した。キリスト教の精神、インド哲学の精神。今は、西洋と東洋の比較を主に勉強している。これは社会学ということになる。しかし、社会学ってのは実にあやふやな学問だ。

こうして、私は苦しみをひとつの種として、知識へと枝を伸ばしていったのである。このエピソードを考えてみると、私は人よりも「生きづらい」から知識をつけていったということがわかる。木々は光が当たらなければ、光に向かって枝葉を伸ばすものである。私はもしも自分が「健常な精神」を持っていて、「生きやすい」状況にあったら、田舎のしょうもない循環における、ひとりの小作農で終わっていただろうと思う。そのようなことは、容易に想像できることである。

そうだから、上に述べたように、賢人とはまず苦しんでいなければならないと思う。苦しむとは、どういうことか。まあ端的に言えば、孤独であること。アウトサイダー、あるいは境界人であること。「人と違う」ということ。いつか賢人が知識人になってしまうときがある。満足してしまうのである。苦痛をもはや感じなくなるのだ。私もそうなるかもしれない。まあ、それは、それまでなのでしょう。

孤独が人を知に向けさせる。哲学者や、賢人は、たいてい不幸な孤独者だった。というと、カントは社交的だったじゃないか、彼は談話好きだった、という人がよくいる。しかし、カントは絶対に本業である哲学の話はしなかった。それだけで、私は彼が十分に孤独だったと思う。自分の仕事のことを、他人に打ち明けない人とは孤独なのではないか。

天才だから孤独なのか、孤独だから天才なのか。私の例をとってみると(私は天才ではないが(あるいはそうかもしれないが))、生まれてから20年、知性とは無縁だったと思う(孤独ではあった)。21歳のときだったと思うが、マズローの本を読んでいて、その中のある瞬間に、雷鳴のような感動を覚えたのである。それから私は、知性に生きようという気になったのだ。怠惰から知性へ向けさせる、あの転換がなければ、と思うとぞっとする。しかし、その瞬間はいずれ必ず訪れただろう。というのも、私は苦しんでいたのだし、マズローだろうがニーチェだろうが、きっかけさえあれば何でもよかったのだ。

こう考えてみると、孤独であるべき人は生来そう運命づけられているのであり、それと同様に、知性もまた生来のものだと言えるのだろう。結局のところ、「感受性が高い」のだと思う。とは、神経過敏なのだ。神経過敏の良い点は、知性や美に対して鋭敏であることである。神経過敏の悪い点は、何事にも我慢できず、苦痛を感じ、そして孤独であることである。知性とは孤独である。孤独のない知性は、すべて偽物だから、これを判断材料にするといろいろなことに惑わされなくなる。

思想の表明が明示的にせよ暗黙裡にせよ「われわれ」という小さな語に先行された瞬間、知性はすでに敗れ去っている。(シモーヌ・ヴェイユ)

8.22.2015

いつわりの

激することもなく退廃的に生きている。しぼんだ風船みたいに日常は味気ないものだ。

生活のなかで不快に感じることは多い。それが私を権力や富に向かわせる。例えば、傲慢な知的エリートを見たとき。不感症の感動屋を見たとき。凡愚、凡愚、凡愚。ピラミッドの頂点に近づけば、と思う。そうすれば、高級な人間たちと、高級な生活を送れるのかもしれない。

私は能力がないから、才能に欠けるから、こうして、三角形の底辺で生きている。私の両手には何もない。職はあり、金はあるけど、それでどうすればよいのか。500円のTシャツを着て、500円のサンダルを履き、図書館で、これを打っている。

人の上に人が立ち、その人の上にまた人が立つ。この連鎖で、人は神になろうと試みるが、結局のところ、神にはなれない。神にはなれないし、真理にも到達できない。つまり、どんな人間でも死ぬのだから、神にはなれないのだし、人間の認識には限界があるから、真理にも到達不可能だ。

知の可能性。ソローは、われわれが到達できる最高知とは、いわゆる「知識」ではなく、「知性への共感」であるとした。知識を積み上げて、積み上げて、その上に新しい知識を積み上げる。その山をよじ登れば、真理に到達できると人は思うかもしれないが、これも不可能だ。最後にはガラガラと崩れてしまうだろう。

考えてみれば、どんな人間でも「脳」で考えているわけだ。理性的に考えること、これは脳のはたらきである。そうして、脳とは何であるか考えてみれば、これは人間という種が繁栄するための道具ということになる。ネズミにも脳はあるし、ゴリラやくじらにもあるわけだが、しかし、我々の脳だけ特別に真理に到達できる、と、傲慢にも、そんな風に考えることができるだろうか(キリスト者は思うかもしれない)。

ともあれ私は古代ギリシャの人々が考えたように、知ることを善しとして生きていくことを決めたのだから、これは続けていきたいと思う。

社会人になって感じたことがあるとすれば、人間は適当に生きていても、割合なんとかなるということだ。生きることは簡単なのだ。私はいろいろな知識を身につけるたびにそう感じる。生は苦悩に満ちている、それもまた事実だ。しかし、本当の苦悩は、社会の押し付けてくる重圧にあるのではない。生の根源的な苦しみは、絶えず人を悩ませるが、しかし、社会的な「空気」あるいは「掟」は、大部分が迷妄であることが多い。

人は、雑事に知性を働かせることをせずに、もっと根本的な問題に取り掛からなくてはならない。文明が進展するにつれて、偽物ばかりが増えた。偽のビール、偽のバター、偽のソーセージ。偽の木材、偽の革、偽のレンガ。偽の音楽、偽の芸術、偽の小説。まだまだ、偽の宗教、偽の人間関係、偽の美、偽の労働……。偽物ばかりに取り囲まれて、人はついに己が人生までも偽物に作り替えてしまうようになる。

人は、思っている以上に自分の意思で動けているわけではない。環境と、遺伝子がほとんどすべてのようにも感じるときがある。ある人間が私に向かって怒り声をあげるとき、私は「この人を操っているのは何だろう?」と考えている。

私もまた環境と遺伝子の組み合わせでしかない。いったい、どこまでが自分の意志なのか、と考えるときがある。カルヴァン派のような運命論に陥ることもある。我々は自由でありうるのか?運命に対して主体性を持つことができるのか。

自由はあくまである、とするのが西洋=社会だ。自由はない、と考えるのが東洋=世間だ。我々日本人には、自由は存在しない。だから、同時に責任もないのだ。つまらない生禅めいたことを書いた、今日はここまで。

8.21.2015

Noise

よく眠ってしまえばとくに悩むこともなく、足取り確かに歩むことができる。

本を読もうと思えば不眠を選ばなければならないし、よい睡眠を選ぼうとすれば読書が犠牲になる。仕事の時間があまりにも長く、あまりにも体力を奪うから、私はこの両者のどちらかを選択しなければならない。

一生においてもっとも本を読むのに適した年齢にあって読書に没頭できないことは悲しいことである。とは言っても、大学生のときでさえ本はろくに読まなかった。三日で一冊くらい?ほとんど享楽的に読んでいるだけだった。

時間さえあればこんなことができる、と思っていても、実際に時間が与えられると何もできないものだ。怠惰はあらゆる情熱に勝利する、と……。それにしても、17時に仕事が終わればよいのに、と思う。そうすれば帰りがけに図書館へ行って、20時まで読書ができる。

今読んでいるのはプラトンの「饗宴」だが、このような薄い本を読むのにも、何週間もかかってしまう。もっとも、つい他の本を読んでしまうという事情もある。

「実際の世の中の人々」、かつて大学でともに勉学に励んだような人びとは、社会という舞台において、それなりの活躍をしているのだろう、と思う。大学を卒業して、フリーランスとしてマスコミの世界に飛び込んだ友人は、ようやく番組制作の仕事をいくつか任されるようになった。

他の人々も、会社のような組織のなかで、それぞれの情熱を持ち、厄介な人間関係や仕事に精一杯取り組んでいることだろうと思う。それはそれで、美しいことだと思う、彼らの生き方をなんら否定すべきではない。

ただ私は「世の中の人々」ではなかった、私は外側の人間だった。「私は外側の人間だった」という事実に、やっと気づくまでに、20年もかかってしまった。ただ、おそらく外側に脱出できた人間なんていないから、私は境界人なのだろうと思う。

どんな場所だろうと、人間集団だろうと、私は排斥されてきた。私は長くそのことに悩んだが、今ではそれを当然として受け止めることができる。私は都市のなかで華やかに生きる、ということを理想と思えない。反対にぞっとしてしまう。視界にだれも映らないような、聴覚を自然の音以外で汚されないような、静かな自然の環境のなかで、読書をするような生活に憧れる。

私が境界人である証明。聴覚過敏であること。「社会的な音」をノイズとして受け止めてしまうこと。普通の人は、自動車のエンジン音や、子どもの叫び声を我慢できる。それは社会的な音だからだ。私は、そのような音に我慢ができずに、耳栓をいつも携帯している。寝るときも、イヤーマフをつけている(寝返りが打ちにくい)。

神経症の病理は、こういうプロセスの欠如と言えるだろう。必要な情報処理が行われないこと。ノイズがノイズのまま、認識として飛び込んでくること。

ともあれわかっていることは、こういう性質は一生涯変えようがないということである。神経症者は治療不可能だから、神経症者として生きていくしかない。

8.19.2015

マカダム工法

私の見るところ、いったん小事に関心を向ける習慣が身につくと、精神は永久に汚れてしまい、その結果、われわれのあらゆる思想は小事の色に染まることになる。われわれの知性そのものが、いわばマカダム工法で舗装される――つまり、知性の基盤が粉々に砕かれ、その上を旅の車が転がってゆく――ことになるわけだ。(「市民の反抗」ソロー)

許しがたく、甘っちょろい考えだ、と思う。金を稼ごうなどと……。すでに持っているものを、もっと増やそうなど考えることは、甘っちょろいことだ。これが金の恐ろしさなのかもしれない。ある程度裕福になってしまえば、もう金に取りつかれてしまう。

もっとも、自分が豊かなのかはわからない。たまには、学生時代によく経験したような空漠さに襲われることがある。ときには恐ろしい重力に押し潰され、ときには重力の不在により飛び回り傷つくときもあった。

今では、その反対の感情もある。というのは、自分の時間的・金銭的豊かさに満足するときもあるということだ。ついでに言えば、知的に満たされていること。自分の性質が固定化されてくること。言ってしまえば、成熟。社会的にはimmatureだが、immatureであるように成熟してしまった。

あらゆる教師の言うように、人間が変わることができるのは十代から、せいぜい二十代前半である。私は、二十代前半のときに自分が変わる経験をすることができた。これで、無知の輪廻のなかから、多少なりとも解放されたように思う。

今では、年を取ったので、もう十分生きた、という気がする。肌は乾燥し、髪は抜けてきた。私はある程度成熟して、自分の生活態度に幾ばくかの自信を持つことが可能になった。暗い嵐の時代は過ぎ去って、自分のどうしようもない所在なさ、暗闇のなかをどこに進んでいるのかわからない日々からは、抜け出したように思う。私はいまだに想い悩んでいるが、それは確信をもって思い悩んでいるのであり、何年か前にそうしたように、悩むことの正当性にも悩むようなあの恐ろしい連鎖に陥ることはなくなった。

自分は年齢の割にはひどく成熟していると思うときがある。内田樹のような「偉い先生」のブログの記事を読んで、こいつはバカだと思うこともある。その割には、未成熟である。つまり、仕事においてはバカのようなミスを繰り返すので、職場での信頼はゼロに近い。

私はもう、対人関係に悩むことはないだろうと思う。あらゆる人間は、私にとってどうでもいい。私は、ネットの世界が居心地いいと思う。一日数アクセスでも、こうして読者があって、私の私的な感嘆と、退屈なつぶやきが披露できるのであれば、それ以上望むべくもないと思う。人に認められようが、認められまいが、これはどうでもいい。書物を読み、こうして書く場があれば、この連鎖の媒介となることができれば、私個人の名誉とか、富といったものは、さほど関心のないことだ。

もしもネットがなかったら……。もしもネットがなかったら、と考えることは難しい。今Youtubeでサン・サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」のコンサート映像を見ながらこれを打っているが、そのようなことが可能であることが、ときどき理解できなくなる。その意味では、我々はどうしようもなく豊かである、と感じる。豊かすぎる。マイナーなアメリカのジャズ・プレイヤーのセッション動画も、ブルー・ノートのライブ映像も、プロ・プレイヤーのティーチング動画も、ただで、すぐに、鑑賞することができる。

我々が当たり前のように享受しているこの科学文明は、人類史500万年の中でもかつてありえないものだった。このような社会で、自分をどのように置けばよいのか。私はこうして科学文明の贅沢を享受しながらも、同時に古典作品に感激を得、数千年前の宗教奥義書に深く共感するのだから不思議だ。人間の生活は変わったが、人間は変わらないのかもしれない。芸術とは、その意味では永遠の価値を持つのだろう。
こうしてわれわれが、すでにみずからの神聖さを汚してしまったとすれば――汚さなかった者がいるだろうか?――それを救済する方法は、用心深く、献身的に、みずからの神聖さを取り戻し、ふたたび精神の神殿をうち建てることだろう。みずからの精神――つまりは自分自身――を扱うときには、自分が後見人となっている無邪気なあどけない子どもに接するときのようにし、その子どもの関心をどんな対象、どんな主題に向けるべきかについて、細心の注意を払わなくてはならない。(同上)

人間は、子どもであると同時に母親でなくてはならない。金を稼ごうなどと、つまらない企ては擲つことだろう。

8.18.2015

雑記

何かしら打ち込むべき仕事を持たずに生きていくことは不幸である。

しかし、楽しい仕事、そんなものが世の中にあっただろうか。やりがいに満ちた仕事……。「私は、この仕事に満足している。定年まで続けたい。いや、死ぬまで続けたい」。そんな仕事があるものだろうか。

仕事がある種の義務である以上は、基本的には苦痛でしかないだろうとは思う。仕事とは、経営者でもない限り、主体的な行為ではない。労働監督者があり、その指示通りに動くことだ。このようなことに、喜びを見出すことは難しいだろう。

労働が短ければ、まだよかった。一日のうち数時間であれば、まだ我慢できる。これが、10時間とか、12時間になってしまった。労働は人々の生活を飲み込んでしまったから、単なる苦痛以上の役割を持たなければならなくなった。そうして、「やりがい」という不思議な概念が誕生したのである。

他の社会人と接する機会がまったくないので、他人の生活に想像が及ばない。大企業の社員とか、自営業の人間はそれなりに楽しいのかもしれない。

楽しさとはなんだろう。労働は退屈だ。一時間過ぎた…二時間過ぎた…八時間半…よし、退勤だ……。一日過ぎた…一週間過ぎた…よし、給料日だ……。

私は、労働が終わる時間と、給与がもらえる瞬間にしか喜びを感じない。そうであるなら、この仕事をしていることは、端的に言えば「金のため」であり、「しなくてよければ、しないで済ませたいもの」なのである。(しかし、そうでない人がどれだけいるだろう?)

日本人は実は仕事嫌いだ、という統計を見たことがある。まとまった金があればだれもが仕事を投げ出したいと思っている(私のように)。これは外国人から見れば奇異に見えるようである。しかし、あれだけ毎日職場に縛られていては、仕事嫌いになるのも当然ではないのか。西欧国のように、一日七時間労働で、一か月のバカンス付きであれば仕事をしてもいいとなるだろう。

疲れてしまった。

部屋をきれいにしておくことが、精神の均衡を保つ上で重要だと考える。インテリアに気を遣わなくてはならない。今は、ニトリの1000円のデスクでこれを打っているが……。これに慣れてはいけないだろう。こんなガラクタ。

毎日、少しずつの喜びを。

日本では、本物を得ることが難しい。ビールの偽物、チーズの偽物、ベーコンの偽物……。日本の大手メーカーが作ったチルドピザを、イタリア人に食べさせてみたいものだ。彼らはおそらく、日本人は、本当に豊かな国民なのか?これが本当にGDP世界三位の国なのか?と疑うだろう。

見るだけでも我慢ならない、プレハブのような住宅も……。わけのわからない税制によって生まれた、奇怪な車(軽自動車)も……。

この国が貧しくなっていることは疑いようがない。でも、この貧困の同調圧力から逃れなければならない。ニトリの家具を買って、しまむらの服を買って、軽自動車に乗って、雪印のチーズを食べて、すかすかで中身のないパンに、紙のように薄いポテチ、紙のように薄い食肉を食べ、第三のビールを飲む。これが典型的な日本人だろう。なんだか戦時中のようだ。「贅沢は敵」、というわけだ。

豊かに暮らす方法があるに違いない。少なくとも私だけでも、豊かに暮らさねばならない。本当の生を享受せねばならない、と思う。これは反体制的な生活である。ある隷属に対する、貧しさの同調圧力に対する抵抗である……。

ひとつ、財をなすということを目標に、がんばってみようと思う。私は仕事をしなければいけない、のではない。金を稼がなければならないのだ。金を稼いでしまえば、仕事をしなくても済むということだ。

8.17.2015

効率的な投資

金が貯まったので、ある程度の自由はあるはずなのだが、それを行使しようという気にならない。

なぜ私が都市部で働かなかったかというと、都市部ではどんな会社でも年功序列のため、長い年月をかけなければまとまった金が手に入らないからである。40才という年齢で1000万円とか、そういう金を得てもしょうがないという気がする。というか、40代までサラリーマン勤めをしている自分が想像できない。

そういうわけで、26才の今から割と多めの給料をもらえる今の職場で働いている。今はせいぜい、軍資金は100万円しかないのだが。

「早めに金を持っているといい」という理由は、金は金を呼び寄せるからである。月10万円を投資などで稼ぎたいとすれば、一億円もっていれば0.1%の利益を出せばいいのだが、100万円しかなければ月10%の利益を上げなければならない。また、複利計算でいうと投資を始めるのが早ければ早いほど利鞘は大きくなる。

だから、金を増やすための金は、若いうちにできるだけ多く得た方がよいのである。

ではどのような投資があるかというと、これはまだ不明……。株やFXということになるのだろう。円相場も東証も不自然な介入が行われるので信頼ならないという気がする。マンション経営?駐車場経営?ということを考える。あるいは、これを元手に起業、とか考えてみる。

まあこういった直接的な投資ではなくとも、世界旅行とか、語学の勉強に金をかける方がまだいいのかもしれない。株やFXなどは、結局は胴元が稼ぐだけのギャンブルだ。

もっといいだろうことは、読書ということになるだろう。哲学書や、思想書を読みふけること。これには大した金はかからないが……目下最大に有効な(時間的)投資という風に考えている。

そうなると、また図書館で本を借り、あるいはAmazonで中古の本を買いあさるということになる。これでは、せっかくの収入が持ち腐れだ。

机を買おうと思った。12万円の、ローズウッドの、1950年代に作られたデンマーク製の机だ。ローズウッドの色合いと豪快な木目は好きである。

ただ、私の貧乏な性質がこれを買うことを頑なに拒んでいる。ルンバに5万円、電子楽器に10万円、洗濯機に12万円、軽自動車に30万円を払った。これらと比べると机は異質である。つまり費用対効果という点が見えてこない。これは完全に「贅沢」である。

しかし、軽自動車はいずれ壊れ、電子楽器やルンバもやがて使えなくなるだろう。そう考えてみると、机はリペアしながら使えるので、下手すれば一生涯使えるかもしれない。

私は自分をどこに置けばよいかわからないので、困っている。つまり、国内にこれからもずっといるのであれば、机を買ってもいいわけだ。これが海外に移住するとか、海外に何年も暮らすということになれば、机を買うのは無駄ということになる。

しかし、海外に行くのだろうか?ということも考える。日本社会はまことに生きづらいが、幼稚な人間の住む、非合理的な世界だと割り切ってしまえば、まあそれなりに快適に生きてはいけるわけだ。

ともあれ、旅行だけはしたいものだ。世界旅行者といえば、ネットでは「緑のくつした」「みどくつさん」でおなじみの西本健一郎という人物が有名である。京大工学部卒、英検一級のエリート(自称)。彼の旅行記はそれなりに参考になる。旅って、実際のところ、こういうものだよな、というところが見えてくる。つまり、決して快適ではないし、楽ではないし、イライラすることばかりだよな、という点だ(みどくつ氏はネットのあらゆるところでバカにされ誹謗中傷されているが私は評価している)。

金を稼がねばならない。それを増やさなければならない。金が貯まったら、自分の家を建てたいと思う。そうして、簡素な輸入家具に囲まれて、生きていきたいものである。仕事は午前中だけ。あとは読書。ソファで読書、デスクで読書、風呂で読書、というわけだ。たまに自転車やバイクで遊んで……。畑仕事もいいかもしれない。こういう、いい生活good lifeを送りたいと思う。

まあ隠遁生活というわけだ。当然のように結婚はしないのが前提だ。私は、性愛というものに恵まれなかったと思う。エロースは私を見捨てたのである。

とりあえずデスクだけは買っておこうか。一日の大半を過ごすのだし。あとは貯金しよう……。完全に雑記になってしまった。



8.16.2015

西洋と非西洋

阿部謹也の日本人論はたいへんおもしろいと思う。私が疑問に感じていた、日本と外国の違いを、独特な解釈でもって説明してくれる。

結局のところ、フーコーの言ったように告解confessionが個人を生み出した、ということになるようである。つまり、神と対峙し、自分の罪を告白すること、告白し、許しを請うこと、この行為の連続が個人を育んだ、と。

阿部によればこの告解はそうとう生々しいらしい。妻とこんな体位で何回セックスをしました、とか。そんなことをも話さねばならない。セックスをしなくとも、自慰をしても告白する。どんな妄想で自慰をしました、とか。

この告解が重要な意味を持つ。というのは、個人として私はこういう行為をした、この行為は私に責任がある、と自分の行為の原因を自己に求める行為だからである。

この責任というのを考えてみると、私は「だれも責任を取らない」日本人の態度も、説明がつく気がする。つまり、彼らは自由ではないのである。自由ではないということは、責任をとりようがないということだ。ということは、「原子力村」には責任があるけれども、そのなかの個人をとりあげて「こいつが悪い」という風には言えないことを意味する。

阿部謹也の思想を考えるうえで重要なのは「社会」と「世間」という対比であり、「社会」とは西洋的なモデル、つまり個人が集まって社会を作り出すという社会である。この考えを根底として、民主主義が生まれた。これに対して「世間」というのは日本における抽象概念であって、個人はこれに帰依することによって生き延びることができる、そういったシステムである。そんで、これには個人は存在しないことを特徴とする。

個人が存在しない集団?そんなものが存在するのか……。と考えるかもしれないが、ニーチェが言ったように、「個人とはまことに近代の産物」なのであるし、ここで何度も書いたことだが、フロイトが驚愕したように、「集団は個人に先立つ」のである。

集団の心理とは最古の人間心理である、われわれはそう結論づけねばならない。集団の残渣をすべて軽視し、その上で個人心理としてわれわれが孤立させたものとは、もともとの集団心理から、後になってようやく徐々に、いわば依然として一部だけその輪郭を浮かび上がらせたものなのだ。フロイト

それにしても、個人individualという言葉は当然のように現代日本の我々が使っている言葉であり、西洋概念をよく理解しているように思う。しかし、阿部によれば、我々が個人と使うときと、西洋本来の意味とはまた違うのだという。

例えば我々の個人というのは、会社内での自分の立ち位置とか、仲良しグループのなかでの自分の位置づけといったような、ある集団内の位置づけということになる。集団という基礎づけが必要なのである。たとえばクラスで完全に孤立した人間は、「個人」としての尊厳など与えられない。これに似た構造は、会社の「追い出し部屋」にも存在する。

これに対し、西洋の個人はまったくの孤独であることが可能である。個人が基礎付けになって集団が作られるようになる。

以上を踏まえると、「個人を前提として集団が作られる」、これが西洋的モデルであり、「集団を前提として個人が作られる」これが日本的なモデルということができるのかもしれない(このようなことは、阿部は述べていない)。

西洋⇔日本という対比だが、これは別に日本に限った話ではない。本来は西洋⇔非西洋とすべきである。というのも、どんな未開の部族においても「個人」という概念はおそらく存在しないからである。阿部によれば西洋においても11,12世紀までは存在しなかったのである。

このことの意味は、西洋はある程度「逆立ちしている」ということであり、非西洋である日本は正立しているのである。もっとも、逆立ちした西洋(個人が集団を生むという逆立ち)がより「進歩的」ということはできるかもしれない。ただその一方で、より自然な生き方をしているのは日本と言うことができるだろう。

日本の不幸は、西洋概念を受け入れる際に失敗したことにある。「我々の社会は民主主義国だ」と言ったところで選挙は茶番であり、「我々の社会は法治国家だ」と叫んでもブラック企業の経営者が自民党に入るのだから、冗談としか思えない。

私はこういったギャップに気づかなかったから、何年も苦しんだ。「だれが何のためにここまで私を苦しめるのか?」と思い悩んだ。しかし、日本に「社会」は存在せず、不可解な論理が支配する「世間」しかないのである。結局このことを知って、いろんな疑問が氷解したように思う。

8.14.2015

世界の境界

お盆休みというのを貰ったが、とくに実家に帰ろうという気もなく、本と、音楽でもって、過ごしている。

お盆休みとは、なんなのだろうと思う。キリスト者とか、ムスリムの人はどう思っているのだろう。日本人の「世間」においては、そのような人間はいないと思われているのかもしれない。あるいは、当のキリスト者たちも、お盆休みの概念を受け入れているのかもしれない。

阿部謹也という、一橋大学の学長だった人のドイツでのエピソードがおもしろかった。彼がドイツ人学者と宗教観について話しているときに、輪廻転生の話になった。すると、突然学者の妻が、話に割って入った。「私は輪廻転生は、あると思うんです」と。彼女はキリスト者だから、信仰とは矛盾するはずだった。それでも彼女は輪廻転生はあるのだ、と言って譲らず、しまいには顔を赤くして泣き出してしまった。あとで聞くところによれば、彼女(と学者)の娘は重度の障害を抱えていて、その人生はあまりに過酷だった。だから、来世ではまともな人間として、幸福に生きていけることが可能だ、と彼女は信じているのだという。

輪廻転生、循環の世界だ。よく知られているように、輪廻転生とは、仏教では悟りを開いて解脱すべきものだが、その価値観がキリスト者の救いになることもあるのだ。

昨日はYoutubeでゲームの実況動画を見ていた。ガイジンさんの動画。アメリカ人ではなかったと思う。最近では、自分でゲームをするということはしなくなったが、その代わり他人のプレイ動画を見るようになった。まあ、単純に孤独が薄れるということもある。私のこのような習性は、下劣だと思うが、しかし、ネットでの人との繋がり(このブログを含めて)がなくなれば、私は潰れてしまうだろうと思う。このような繋がりがあるから、だれも知人のいない田舎へ行くことができるのだし、ついには外国に行こうとなっても、完全な孤独は避けることができる。サルトルの言ったような、「孤独のアマチュア」。偽の隠遁なのだ。しかしまあ、完全な隠遁など達成できるものだろうか。一度この繋がりを知った上で。トーベ・ヤンソンの離島暮らしには憧れるが、「インターネット」という繋がりから私は離れられそうにない。なにしろ十余年、この繋がりと付き合ってきたのだ。

話が飛んだが、ガイジンの実況動画は、私の西洋への憧憬を打ち砕いてくれたように思う。軽薄で、露骨な感情表現、明文化されすぎていてつまらないユーモア。いちおう、サウス・パークでパロられるくらい人気のある動画なのだが。酒を飲みながら見ていたが、鼻白んですぐ消してしまった。日本の実況動画の、アットホームな感じ、雑多で、センスのない、じめじめした感じも、悪いものではないと思う。とにかく、英語を聞くことは脳が活性化してよいと感じる。外国語は、たまに聞くといい。

このような私事ばかり書いている。最近はこのブログのアクセス数が落ちてきているので、それはそれで快適に書くことができる。何か気張った感じで、肩肘張らせて書くのはしんどい。一円にもなりはしないのだ。

「幻の桜」で検索してくる人が多い。それほど、あのブログは記述されないのだろう。だから、あんなつまらない記事が検索で上位にくる。彼女はあらゆることを記述するが、彼女はあらゆる人間から記述されないのである。彼女もまた境界人のひとりである。つまり、現代における呪術師であり、預言者ということになる。前にも述べたことだが、近代以前にはこうした人間はある程度崇拝されていた。だが、現在の彼女のアパートや、生活状況が示すとおり、彼女はあれだけの才能がありながら、表舞台からは排除され、細々と暮らしている。

阿部謹也いわく、中世以前においては世界はふたつの領域をもっていた。卑近の世界であるミクロコスモスと、人間が到達することのできない未知の世界であるマクロコスモスである。例えばある農村があるとする。その村の農民にとっては、村の垣根の内側がミクロコスモスであり、外側の森や山などはマクロコスモスの世界だった。ひとびとは、マクロコスモスを畏れ敬った。そこは、人間の世界ではなかったから、したがって、神々や、魑魅魍魎の世界だった。これがあらゆる文明に見られたアニミズムだった。

ところが、キリスト教価値観は違った。キリスト教において、自然は人間のために神が用意したものなのである。だから、マクロコスモスなどというものは存在しない。人間はあらゆる自然を利用することができる。このような価値観が、科学の発展を生んだ。そうして、我々が科学の利益を享受するとき、このマクロコスモスの消滅も同時に輸入するのである。

だから、西洋文明が科学技術とともに再び華やいだ近代以降、呪術や巫女といったものの地位は急激に落ちた。なぜなら、科学はマクロコスモスの不在をまざまざと提示し、それを迷妄だと切り捨てたからだ。雷は空の雷雲内に電位差が生じた場合の放電であって、神の怒りではないのである。そうして呪術師や預言者の役割とは、マクロコスモスとミクロコスモスを行き来することだったのだから、その「境界」がなくなってしまい、世界がひとつとなってしまえば、彼らはおまんま食い上げということになるのである。

それがために、この科学が侵犯した「ひとつの世界」においては、狂気と理性を行き来する精神病者は牢獄のなかに閉じ込められることになる。あるいは、社会構造から排斥されることになる。狂人の声にはだれも耳を貸さなくなる。話がだいぶ飛躍してしまった、上の事柄は必ずしも阿部が述べたことではないのだが、MAHAOという人物も、まあそういった境界に位置する人間なのだと私は思っている。

8.13.2015

西洋と東洋

寄る辺のなさを感じる。

昨日はひさびさに大学の友人と会った。院生の彼は、まあ、元気そうだった。彼は去年からまるで変っていなかった。それだけに、私は変わったのだと、感じた。

私は変わらなくてはならないし、また、あらゆる人から、離れなければならないのだろう、と思う。私は直線的に生きねばならないのだと思う。循環できないのだ。

キリスト教以前の時間は循環していた。秋が終われば、また冬がくる。冬が終われば、春が……。これが循環する世界である。子どもを作り、老い、死ぬ、それも循環のサイクルだ。

キリスト教が、直線的な時間軸を作った。それはつまり、天地創造と、最後の審判とを結ぶ、ひとつの直線である。

循環と、直線の、ふたつの巨大なイデオロギーがある。西洋はほとんどが直線で……。日本はちょうど半々ぐらいなのだと思う。

私は、どういうわけか、直線に生きることが運命づけられているらしい。つまり、私は「進歩」の側にあるのである。この前は、私がこういう性質である理由を、大学で西洋思想に「かぶれた」からだと思っていた。しかし、考えてみれば、もう生まれ持った性質なのかもしれない。

私が私である以上に、私の精神の病的な性質が、私を支配してしまった。もう、神経症になってから、十年以上になる。いよいよ、生まれてから今まで、神経症である時間の方が長いくらいになった。

昔であれば、自分の精神の病を、家庭環境や、学校におけるトラウマに求めようとした。つまり、私は正常に生まれてきたのに関わらず、外的な要因によって捻じ曲げられてしまったのだ、と考えようとした。「毒親」「学級制度」「トラウマ」など。これは、一般的な精神医学の考え方でもある。つまり、あるエピソードに求めようとしたのだ。精神を記述しようと試みたのだ。

ところが、現実には、鬱病の原因がゲノムにあるように、私も遺伝子の規定によって、自分がこうなるよう運命づけられていたのだ、と感じる(そう、運命なのだ。ゲノムとは運命以外のなんであるか)。

私がどこに生まれようと、だれの元に生まれようと、私は神経症だったのだろう。もっとも、今のような症状になるとは限らない。形を変えるかもしれない。ドアノブの不潔さに耐えられず触れなかったかもしれないし、ガスの元栓が気になってどこにも出かけられないかもしれない。

とにかく、私は病的な精神をもって生まれた。それは、たまたま現代では病気という扱いだが、私は、自分の病気をある程度愛している。その意味で、私は自分の病気を、病気だとは考えていない。私はたしかに、十余年、苦痛を感じはしたけれど、苦痛の分だけ美しいものを知ることができた。苦痛の分だけ、目を覚ますことができた、と、そう感じる。

話が散漫になった。

私の病的精神が、私を孤独においやった。私は循環から阻害された。孤独のうちには、何もなかったから、そこに神を見つけるしかなかった。だから、私は神対自己という直線的イデオロギーに組み込まれた。私は、循環の世界に生きるには、苦しみすぎたという気がする。

西洋的なもの、直線、理性、「ズルい」人々。苦しむ人々。

東洋的なもの、循環、感情、「白痴」の人々。苦しまない人々。

どちらが良いのか、なんてことはわからないが、自分がどちらであるのか、またどちらであるべきかを考えることは有益であると思う。

8.10.2015

ある錯誤

日本についてある錯誤があったのだが、それは日本は法治国家であり、民主主義国家であり、それがゆえに、我々の人権は保障されている、というものだった。

だから私は大学でパワハラを受ければ、それに対して抗議したし、自分の権利が侵害されようとしたら、懸命に主張した。

たとえば、不動産屋で退去費用で法外な値段を吹っかけられたら、簡易裁判をしようとしたし、危険な割り込みをする自動車には、クラクションを鳴らし続けた。隣人がうるさければ、警察に訴えた。まあ、こんなことは軽微なことだが、それでも、私は自分が個人としての権利を持ち、あらゆる個人や組織に対し「平等」であるという感覚を持っていた。

それがために、原発の事故のすぐ後では、客観的事実(つまり放射能は危険だという事実)を、大学のプレゼンで発表したのだが、それで袋叩きにあった。たしかに私の調査が甘かったこともあるが、しかし、結果的には、プレゼンで発表したとおりに、甲状腺がんは増え続けた。私はこれが事実である以上、公にすべきであるし、ただの学生ではあったが、科学という場でその公表は容認される、と信じていた。だが、ひとびとはそれを不当だと判断した。「言っていいことと悪いことがある」と判断した。彼らは、混じりけのない正義の感情で、私をつぶした。

しかし、今考えてみると、私は「西洋個人主義」とか、「近代合理主義」に被れていたのだ、という風に思う。それはある種の幻想だった。私の行いは、おそらく、西洋であれば自然に行われていることだろうが、ここ日本においては、まったくの異端でしかなかった。

この原因を考えてみると、大学で、読書に目覚め、西洋的な思想家の書物を読みふけったからだと思う。政治的な事柄や、思想的なことについては、私の両親はまったく何も教育してくれなかったし、また、友人たちもそれらについて無知だった。孤独が私を思想に追いやった。苦痛が私を哲学に追いやった。そういうわけだから、私は哲学や思想を身につけて、次第にそれは血や肉にまで同化してしまった。

私の中に根付いた西洋精神が、私を生きづらくさせているのだと感じる。かといって、いまさら西洋の理想が根付いた自分から、これを引きはがすことも難しい。

プロセスが必要だ。私は西洋精神(というかキリスト教的精神)を知ったが、日本のことをまるで知らなかった。日本のことを調べてみようと思う。日本的なもの、非キリスト教的なもの、アニミズム、土着の精神、呪術。私は、西洋的なものは絶対的ではないと思う。西洋精神は進歩的だが、進歩的であるという理由で必ずしも肯定すべきではないと思う。究極的には、人間は進歩しているのか(すべきなのか)という問題になりそうだ。

8.07.2015

immature amateur

どんなところに行っても、私は環境に馴染めない。どんなところに行っても、他者は私を阻害する。

この原因を考えてみると、自分が無能だから、何も為せないのだろうと思う。最近は、一人称を「ぼく」から「私」に変えて、ちょっと偉そうにしてみたが、結局のところ、何もなせない無能であることに、変わりはないようだ。

私は大学において授業を受けることを拒み、会社にて働くことを拒んでいる。というのも、勉強にそこまで価値を見いだせなかったということもあるし、働くことは実際、つまらないからだ。それでも社会的要請でしかたなく働いている。私はどうしようもなく未成熟である。

成熟した人間の思考が、わからない。彼らにとって働くことはそんなに魅力なのだろうか。いいや、そういうわけではない。働くのは嫌だが、働く。だから彼らは成熟しているのだ。私は、働くのが嫌だから、つまらない仕事は、なるべくしたくないと思っている。だから、未成熟なのだ。

私は、自分が、ある種の適応障害という気がしている。「適応障害」と自分の精神に烙印を押せば、これで完結する。マージナル・マンとか、かっこつけた名称はいらない。私は、神経症で、軽度の躁鬱で、適応障害である。これで、私の精神を説明することができる。

やる気とか、熱意は、いったい何なのだろう。そのような、抽象概念は、私にはなかった。私には、熱意がない。がんばろうという気になれない。つねに、休息を求めている。私は自分の自由にできる時間が欲しいと思う。金銭、地位も最低限あればよいのだ。

がむしゃらに働く、そういうことに喜びを見いだせるのであればよいと思う。大学生のときは、何時間でも楽器を練習していた。それで、私は自分に熱意があると感じた。しかし、楽器も、上手な後輩が入ってからはやる気がなくなった。今では、文章家になるんだ、とか、世界旅行をするんだ、ということが目標になっているが、かといって何をしているわけでもない。

確かに、毎日こういった文章を綴れる以上は、多少は文章業に向いているのかもしれないが、楽器と同じように、他者との関わりを拒絶しているから、独りよがりの、未熟なものにならざるを得ない。未熟であることが、私を説明する一語である。

成熟した、大人になりたいと思う。いや、なりたいとは思わない。どちらなのだろう。いずれにせよ、私は、未成熟な薄い肌をもってして、この世を渡るしかないという気がしている。自分は変えられないのだから。私は、他者から糾弾され、嫌悪と軽蔑の眼差しを受けながらも、一人で、自分の足をもってして、歩むしかないという気がしている。


8.06.2015

労働に向かない人間の雑記

なぜこんなにもがんばらなければならないのだろう、と思う。

自分の仕事に誇りはあまりない。しないでいいなら、しないで済ませたいし、もし三億円が手に入ったら、今の仕事は午前だけしかしないだろう。それくらいの関係でしかない。

私は、今、金が必要だから、働いている。別に、やりがいとか、楽しみは求めていない。仕事にやりがいは感じていない。仕事はしたくてするものではない、と思っている。責任感も、あまり、ない。

日本人は、クソまじめすぎる。笑いがない。仕事に対する距離感がない。どうせ、大したことのない仕事なのだが、そのことがわからない。仕事が、ひとびとの生活を飲み込んでしまった。仕事は生活の一部ではなくなった。主従関係が逆転した。今では、仕事の中に生活があるようになった。この事実が日本人の精神を規定する(サービス残業、過労死、家庭崩壊)。

仕事は、(公務員でなければ)単なる、金儲けである。あらゆる企業が、金儲けを企んで躍起になっている。こういう世界において、私も一労働者として、経営者の金儲けに与するために、一日の大半を犠牲にしている。それだけの事実なのに、ひとびとは、経営者のパシリになることに喜びを感じ、明日にはもっと良いパシリになれるよう、願をかけて眠りにつくのである。

こうした社会において、私は、金に価値を見つけられない人間だった。私は、世の中の贅沢に興味をもたない(もてない)、朴訥な田舎人であった。私は中古の軽自動車のボロさとか、中古で買った200ccのバイクに、どうしようもない愛情を感じる類の人間だった。

金を持てばそれが変わるかと思った。私は、金の力に溺れるつもりだった。それが、今でもスーパーで半額の惣菜を買い、職場に弁当を持っていき、気候がよければ自転車で通勤する、貧乏人の精神を維持していた。

私は、芸術家の素質を持っていると自分に確信を持っていた。しかし、それも間違いだと気づいた。世の中の芸術品は、類まれな努力の結晶であることを知った。そして、私は努力のできない人間であった。私は本質的に、世の中のあらゆることに関心が持てなかった。私が興味あることは、なにかに働きかけることではない。なにかから離れることなのだ。

私は26年生きてきて、ただ不幸なだけの人生を味わってきた。私はあらゆる社会的環境で不適合だった。だから、できうるかぎり、人から離れることを目標としてきた。人間のあらゆることが我慢ならなかった。他者があるときに、私は不幸になった。しかし、それは実際のところ、自己に対する失望があるからである。

私は揺れ動く、自分があまりにも正しいから、他者が間違っているのか?それとも、他者が正しくて、私ひとりが痴愚なのだろうか?と。

宗教は私を救ってくれる。私のような人間のために、宗教があるという気がする。キリスト教は好きだ。私は、辛いことがあると、「神は私の味方」とノートに殴りつけた。そうすると、救われた気がするから不思議だ。

神は私の味方、神は私の味方……。

やりきれない日常で満ちている。このような雑多な出来事の連続に、脳味噌を支配されたくないと思う。私の人生目標は、食うに困らず、時間に追われず、あらゆる執着を離れ、ただ本を読むという生活である。こういう人間に、金や、権力の誘惑がなんだろう?

もちろん、美しい音楽と、澄んだ味のコーヒーと、脳味噌をかき回すような、アルコール飲料は、欠かせない。

コーヒーとアルコールのサイクル、これで十分、日常は完成するのだ。安上がりな人間だ、と思う。私には何もないが、私にはすべてがあるのである。

乾燥した空気

天才の成立は乾燥した空気や澄み切った空を条件としている。
私はある自由な素質を持つ秀でた精神が、たまたま風土的なものに対する本能的鋭敏さを欠いていたというそれだけの理由で、狭量になり、卑屈になり、ただの専門家に成り下がり、気むずかし屋で終わってしまったケースを、目の当たりに見て知っている。(「この人を見よ」)
疲労で身体が起き上がらない。今週も、土曜日出勤がある。職場の先輩は、今年いっぱいで辞めてしまうらしい。この会社はどうなるのだろう。まあ、転職に抵抗はない。つぎは、北海道あたりへ行きたいと思う。乾燥した、大陸的な空気を味わいたいと思う。

その前に、海外旅行へ行こう、と思う、とりあえず、やっぱり、アジアになるのだろうか。あまり金がなくて、長期滞在となればアジアになる。でも、タイも、マレーシアも好景気だ。昔と違って円安だから、1.5倍くらい何もかもが高いことになる。

中国人は日本にきてあらゆるものを買いつくしているらしい。私もその感覚はわかる気がする。なんでも安ければ、日本にくるだろう。田舎の人々の憧れは銀座の高級ブティックではなくドン・キホーテである。この前楽器の部品を買おうとしたら、米国アマゾンより日本のアマゾンの方が安かった。たいてい、なんでも、日本の価格相場が高いので、これはショックだった。おそらく、日本の価格相場はもともと高いのだが、それを上回る円安効果ということだろう。

日本人はそうとう貧しくなってしまった。最近の軽自動車は、ほんとうに貧困の塊のように見える。いったい何が悲しくてあんな奇形のような車を買うのだろう。「大きいミニバン」とか、「広々とした軽自動車」のような得体の知れない奇形は、たしかに、国内市場をターゲットにするにはいいのだろう(外国では絶対に売れないから)。

同様のことが、チーズやビールに言えるのであって、第三のビールという「ビール風アルコール飲料」という謎の液体が売り上げを伸ばしている。子ども騙しのように小さくて不味いチーズがスーパーで売られている。牛肉や豚肉にしても、紙のように薄い。

これらすべては、市場原理が働いていないことに由来する。市場原理によれば、時代が進むにつれて、あらゆる商品が、改良、改善され、よりコストの低い、良い商品が、消費者に行きわたることになる。ところが、これが機能していない。ビールやチューハイは、びっくりするほど価格が横並びだ。結局、これは公共の精神の欠如ということで解決できるだろう。村の精神、公共の精神がある。日本人は前者しか持ち合わせていない、ということになる。

名目上は社会の根幹であるはずの法治の概念や公共の概念がまるで欠如しているのはおそらくそういう情操教育、二大洗脳装置(教育と洗脳の境界はあいまいだ)であるところの学校教育とマスメディアに原因があるのだろう。この国はひとつの村であり、近代国家以前の代物である。だれが見たってマスコミは既得権益の寡占事業だが、彼らは国民の情報統制という大切な仕事を授かっているのだから、いくらの無法も許されるのである。

同様に大企業たとえばキリンやアサヒ、トヨタやホンダ、東芝やシャープ、あるいは三井・三菱のような伝統的企業は、何をしても許されるのである。おそらくそれは単なる営利団体である以上の存在だからである。これは国体と言ってもいいかもしれない。(例えば警察や軍隊と同じような)国の肉体なのである。

公共の精神が欠如しているので、政治も、民間企業も、区別なく、ひとつの中心点に向かって動いている。それは一個のイデオロギーと呼ぶにはあまりに巨大である。その中枢概念によって、我々は動いている。中枢概念に近ければ近いほど、エリートであり、優秀者であり、生活の保障がされている。この中枢概念に遠ければ、奴隷の苦汁を舐めさせられる。低学歴、精神病者、地方居住者。そうだから、西洋的な三角形のモデルと日本は違うのである。日本は同心円状の支配構造なのだ。

というのは丸山真男のパクリなのでこれ以上はやめておく。西洋は論理の国であり、東洋は感情の国、ということだろう。

こういう国もあった、ということだ。こういう国もあって、私はしばらく住んでいた、ということだ。私は、この国を離れる必要を感じる。肌に合わないからだ。ただ、何度も書いている通り、西洋国で私が安住できるかといえば、それは不可能だろう。私は、国家自体に、肌が合わないのだ。ただ、濃密なムードによる支配よりは、明文化された論理や法律の方が、まだ回避がしやすいと感じる。

8.05.2015

nowhere

考えることを辞めてしまえば快適に生きていける。

就職してからというもの、人生は確実に空疎になった。これでいいのかもしれない。大学のときは、おそろしいほど雑多な内容に、悩み、苦しみ、考え抜いていたものだと思う。私は、今は、頭を使うとなれば、せいぜい本を読むときくらいのもので、肉体は流動化し、考えずとも、いろいろな動作をし、労働をこなしている。

生の目的なんてわかりはしない。目的なんてなくてもいいのかもしれない。人間はいつしか人生の目的を快適さだと考え始めた。より快適な車や家を得ることが人生目的になった。まあ世の人々の考え方も私にわからないでもない。私も快適さを求めて田舎の戸建てに引っ越したのだし……(現実には、いまでも車の騒音に悩まされているが)

しかし苦しみが消失した先には別の苦しみが待っているものであり、最後には退屈という拷問が控えているのだから、生活レベルをあげることに、そこまで時間をかける必要もないように感じる。

人生の目標はわからないが、私はいろんな芸術作品を見たいと思うし、本を読みたいと思う。私が考えた以上のことを、考えている人が、本の中には幾万もいるのに、それらの人物は現実の私の近辺にはひとりもいないという索莫さは、おそろしい。

もっとも、私より賢く、私より成功している人物が身近にいれば、嫉妬に狂ってしまうかもしれない。私がなぜ彼ではないのか、私より彼がなぜ真理に近いのか、と嘆くかもしれない。そうだから、本という距離感はすばらしいと思う。それに、古典だとなおいい。時間的距離が、差異を増幅させ、それを目立たなくしてくれる。

私に一年の自由をくれないだろうか、読みたい本が溜まっているのだから。そんなことは許されないのだろうか。私に一年の自由をください。ちょっと海外旅行に行きたいのです。

海外旅行を考えると、うんざりする。それはたいてい、苦痛に満ちた体験だからだ。暑さ、寒さ、悪臭、汗、質の悪いホテル、詐欺師、ドラッグ、吐き気+腹痛+トイレがない。個人旅行とは、そういう濃厚な苦悩を引き受けることでしかない…という気がするが、私はアジアばかり旅行しているので、欧州やアメリカではそういうことはないかもしれない?

いくらあれば、世界旅行ができるのだろう。もう飛び立てるのかもしれない。でも100万円じゃ、少し、足りない気がする。200万円貯めるまで待とうか。円高の時代ならよかったけど。旅行の最悪の苦痛は、時間に追われることであり、次に金のなさに追われることである。たっぷりの時間、たっぷりの資金で旅行に望みたいものだ。

飛行機代がいちばんのネックだ。アメリカに行ったら、中古のバイクを買って、それで散策したいと思う。自分でも直せるようなオフロードバイクだ。「禅とオートバイと修理技術」という本が好きだった。あれはたしか、ホンダのビジネスバイクでアメリカ一周をしていたと思う。

そうして、南米を下って行って、南米を一周してみたい。これで、アメリカと、南米は制覇できる。カナダも行けるのかな。カナダ……何もなさそうなイメージだけど。ヨーロッパもバイクがいいのかもしれない。それならいっそ、バイクで世界一周とかどうだろうか。しかし盗難や、強盗が怖いし、パンク等のトラブルに対処できる自身がない。

このように夢(妄想)を広げてみたところで、現実の私は、今日も9時間以上を、労働に費やさなければならない。労働の単純な繰り返しが、私を待っている。田舎の小企業勤務は、やるせない気分になる。大企業で働く人々は、人生のすばらしさを謳歌しているのだろうか。必ずしも、そうではないのだろうが……。しかし、エリート意識に浸れるというのは、いい気分だろうな、と思う。私は、そのような価値を認めないから、快適さを優先させて田舎に行ったが、同僚がある程度の高学歴であり、教養人であれば、それは楽しいものだと思う。もっとも、高学歴でも、大企業に入るような連中は、教養人とは限らないだろうが。

ともあれ、自分が「高級」であるという感覚は、すばらしいに違いない。それこそ、私に欠如しているものだ。自分は縦軸で考えると、つまらぬ地位を占めている。田舎の小企業の平社員なのだから。今日も山を切り開いた山道を、品のない軽自動車と、軽トラに挟まれて出勤する。縦軸なんてない、そう考えるのは簡単だが、偏差値教育を受けてきた我々から、その教義がそう易々と消えるものではない。縦軸という価値観が、日本を占めている。

これからの文学は、と唐突にひらめいた、これからの文学は、世界的なものでなければならない。日本文学という、せせこましい、自慰的な文学は消滅するだろう。世界的視点で、日本を再評価すること、これができなければ二流の作品になるだろう。それは、邦画がダメになり、アニメがクソと化したのと同じ理由による。閉じこもった人間には、日本の芸術をクソと認めることすらできていない。文化的退廃は、うちに閉じこもることにある。なにしろ、手を伸ばせば世界が手に入る時代だ。日本を相対化せねばならない。

ああ、仕事の時間が待っている。辛い。水曜日は、辛い。

8.03.2015

飢餓のヘゲモニー

日常は、考えていたよりも私を締め出さなかった。

仕事が一段落ついた。日常は大部分がルーティンだが、こういう「期日」というものがあると、生活にメリハリがつくようだ。

人は、苦しむときにも、その苦しみから解放されたときにも美しい。苦しみという基準がなければ、人間は生きているのかわからない。我々の人生は、いかに苦しんだか、いかに苦しまなかったか、ということに尽きる。嫌な仕事はあるものだ。嫌な人間もいる。「とかくこの世は生きにくい」。

明日は今日よりよくなるという思いが私の脳みそを弛緩させる。毎月給与があるということ、それで蓄えが増えていくという事実が、人間の幸福を効率よく呼び起こしてくれる。そうでなければ、月給制がどうして世界を埋め尽くしただろう。

人間は金持ちになると傲慢になる。金持ちの大半は、自分の能力や才能で金持ちになったと信じている。しかし実際は、東大卒である彼は、自分の力というよりは、親の力で東大に入れたのだ。受験勉強とは、このような傲慢さを身に着けるプロセスである。試験のとき、彼はたしかに独力で問題に向かっているが、しかしその一方で受験票すら得られず、予備校にも行けない人間がいるなど思いも及ばない。

高級車は横断歩道で止まらない。おんぼろの車ほどよく止まるのだという。もちろんこれは外国の話で、日本だと高級車だろうと、おんぼろの軽だろうと止まらない。

日本人を考えると不思議な生き物だと思う。昨日述べた林秀彦は結局のところ縄文時代の日本人を賛美しているようだった。つまり砂漠の民と森林の民というわけだ。日本人は甘い、実際それはそうなのかもしれない。何しろ食べ物があるのだから戦う理由もない。縄文時代の土器からは人殺しの道具が見つかっていない。これは驚くべきことなのだという。

一方砂漠の民は信じられないくらい貧しい土壌を競って戦争ばかりしてきた。こうして彼らは理論とか科学とか西洋的な価値観を手に入れてきたわけだ。そうだから彼らは「強い」のである、それは戦ってきたから、「賢い」のである、それは議論(論争)してきたからだ。つまり彼らの根本には飢餓があるのである。

日本人には飢餓がない。砂漠の民は飢えている。おそらくこの違いはDNAレベルで刻み込まれているのだろう。そうだから日本人は徹底的に甘いのである。どうせ放逐されても食うに困らないからである。だから何をされても阿呆面をしているのである。

考えてみれば土壌が豊かな土地ほど文化的発展は遅いようだ。東南アジアは少し前まで発展途上国扱いだった。イギリスに永く支配されたマレーシアやシンガポールは今や日本以上の先進国である(と思う)。しかしそれでよいのかとも思う。それは結局西洋化に成功している事実以上ではないからだ。

先進国になることと西洋的であることは同じだ。民主主義や三権分立は西洋のシステムだ。これを日本に持ち込んでもしょうがない。この国は建前上はそれらシステムを輸入した。それは「必要」からだ。だが、実際にはそれらは機能不全を起こしているし、だれもがそれでもいいと考えている。

私は日本という国を再評価してやってもいいのではないかと思う。この国は二流国である、なぜならば法治国家ではない。横断歩道でだれも止まらないし、歩行者はそれを当然だと思い、運転手もまた然り。しかし、これほど西洋的なマインドが精神に根付かなかった国はないのではないか。独自の発展を遂げたガラパゴス国家なのだ。

韓国を見てみると、自国の文化を捨て去って欧化することが富裕層あるいは知識層の常識となっている。つまり18歳になると米国の名の知れた大学に入り、そこで母国の風習や習慣を捨て去るのである。日本ではこのような習慣は一般的ではないと思う。東大に入っても、そこまでエリート意識をもつわけでもなく、日本の大学生特有のモラトリアムに溶け込み、日本企業特有の「就活」に打ち込む。

私から見ても、この国はよくわからない。ウォルフレンのような日本研究者でも、この国の動きはまるで掴めなかった。ウォルフレンは、しょうがないので、だいたいアメリカの意向通り動いているんだろう、と予想した。しかし、それも「建て前」なのかもしれない。かといって、この「建て前」をめくったところで真相が出てくるとは限らない。それは別の建て前なのかもしれない。この国の動きは、たまねぎの皮のようだ。

東洋の論理は、論理の不在である。だから、西洋人にはまるで理解できないのだと思う。彼らは論理以前の思考など、ないのだから。論理的に、神秘主義に行き着くことはあるが、それ以上踏み込むことはできないのである。

独特に統治された国だ。uniqueだと思う。世界にひとつくらいは、こういう国があってもいいと思う。だれもが民主主義や法治国家のようなプラトニックな理想に教化される必要はない。西洋はもとより、中国も、韓国も、飢餓の病に落ちている。中国のバブル経済は、国力をつけた中国を骨抜きにするだろう。人間が経済的な享楽にひたると、どれほどバカになるかはぼくらの上の世代を見ればわかる。

日本人は、日本人として、アホであればよいのである。それが悪いとは思わない。AKBを聞いて、アニメを見て、パチンコを打って、たまには途方もない努力をして、くだらないビジネス書でも読んで感動すればいい。

政治のことを考えてはいけないし、自分の境遇が不幸なのだと考えてはいけない。絶対に読んではいけないのは、学問書であったり、哲学書、古典作品の類である。人生に疑問をもってはならない。甘やかし、甘やかされる、そういう関係をぜひ維持してほしい。それが国体としての日本なのだ。西洋人からすればぞっとするほど幼児的でimmatureだが、immatureであることを誇ればいい。

そう考えてみると、日本のマスコミとか、自動車会社、官僚のような「支配層」が、案外日本のことを真剣に考え、愛しているのではないかとすら思う。

ともあれ今の与党は、国民を飢えさせようと躍起だ。もちろん名目は日本経済の復活だが、その実態はインフレと賃金低下である。庶民が飢えようとしているのだ、この豊かな国にあって。どのような意図であれ、これは悪を蔓延させる有効な手段である。

西洋的なマインドは、根底に飢えがある。飢えが嫉妬を生んだ。嫉妬が差異を作りだした。差異が理論を生んだ。理論が科学を生んだ。しかし、飢えさえなければ、理論も科学も不要なのだ。そういう時代になった。

日本的なマインドを、広げるべきだろう。21世紀、我々は子どもに還るのである。子どもとは、自然人である。食べて、セックスして、何の悩みもなく、生きるのである。

これはディストピアなのか?ユートピアなのか?それはわからない。科学を放棄した我々は、もう神に支配されることはなくなるし、死というものもやがて考えなくなるだろう。それでいいのかもしれない。我々には、もともと死の苦痛なんていらないのかもしれない。動物は、仲間の死を見つめても、そこまで考えるわけではない。ああ、長いこと眠っているな、と思うだけだ。しかし論理がわれわれをこう思わせる。「どうやら、人間はだれもが死ぬらしい。ということは、私も死ぬに違いない」と。この論理的帰結が人間を何千年も苦しめる。しかし、私の死と、他者の死は違うのだ。論理と科学を放棄すれば、他者の死は、自分の死となんの関わりもなくなるだろう。他者の死は単なる現象になるだろう。そうすれば、自分の死は生において「不在」になる。

The Inferno, Canto 21 - Gustave Dore


神や天使は飢えない。飢えているのは、常に悪魔だ。



こうして日本ageをしてみたが、相変わらず住みづらい国であることに違いはない。アングロサクソンと共同生活する機会を得てみたいものだと思う。

8.02.2015

「ただのバカ」ではない日本人

林秀彦の「日本を捨てて、日本を知った」という本が、たいへんラディカルな日本人論(非日本人論)を展開しているので、おもしろかった。林氏は19歳まで日本で暮らし、それからヨーロッパを転々とし、最後にオーストラリアに落ち着いた元脚本家である。

この本の帯にはこうある。「アングロサクソンはセコく、日本人は甘い」。

私はさんざん「日本人はとんでもないバカだ」「自ら奴隷に貶めている」というようなことを好んで書いてきたが氏もこれと似たようなことを記述している。だからこそ氏は日本で暮らすことを拒絶した。

では白人が賢いのか。これは事実である、と氏は言う。これはもともと白人が常に争いながら生きてきたからだという。

日本の自然に恵まれた環境では、ただおいしいものを食べていれば幸福だった。「幸」という言葉のもとは、釣竿の針仕掛けや、矢を示した。この語源からしても、うまいものを食べていれば、それで満足、という国だったのであるし、庶民のレベルでも、肥沃な大地から作物が採れ、山や森からは木の実や小動物を得ることができた。食うに困らぬ安逸の生活である。

白人(アングロサクソン)はこうではなかった。白人のメンタリティはキリスト教と共鳴するようできているが、キリスト教は砂漠の民の宗教である。砂漠では、作物はおろか、水を得ることも難しい。少数の食物しかないところに、争いが生じる。それは経済的な争いだったり、騙しあいであったり、果ては殺し合いにまで発展した。そういう世の中だったから、是が非でも「神の救済」が必要だったのである。

氏はロックの発言を引用している。
ジョン・ロックは、ギリシャの照りつける太陽と、岩なのか土なのかわからないような禿山を眺め、「ギリシャ文化は、この山ばかりの不毛な土地に育ったもので、知識に頼るしかなかったのだ」と、嘆息まじりに実感した。
西洋的な精神はキリスト教に還元でき、知は古代ギリシャに還元できるだろうが、その両者とも、砂漠のような厳しい環境から生まれたものである。

というわけだから、ノーテンキな日本人と、知性的な外人、という図式ができあがる。では、日本人はバカなのだろうか?グルメ番組だらけのテレビを眺める日本人は単なる痴愚なのだろうか?

そうではない、と氏はいう。その前提として、氏はintelligenceとintellectを区別している。どちらも知能とか、知性と訳せる言葉だが、intelligence=脳の能力faculty of brainと、intellect=心の力power of mindという風にわけている。これに従うと、犬コロはintelligenceはあるが、intellectは持っていない、ということになる(デカルト風に言えば)。

氏は、intelligenceで言えば日本人は劣るが、intellectでは決して劣らない、と語る。これは日本人の持つテレパシー的な意思疎通能力、「一から十を知る」ような右脳的領域のことである。日本人はintellectを発達させた。西洋人は、嫉妬や争い、窮乏の歴史の中で、intelligenceを発達させてきた。まあ「和魂洋才」という言葉のままである。

氏はこうした日本人的なintellectな価値観、いまでは異端でしかない価値観が、やがて世界に広がっていくと確信している。そうなのかもしれない。だいたい、これほど食物にあふれ、快適に暮らせる時代に、嫉妬や、争いは不要である。科学もこれ以上の発展は不要かもしれない。

小谷野敦が、ブログでこんなことを書いていたことを思い出す。
学問というのも、実は本来、終わらせることが目的のはずで、そして実際終りつつあるのだが、いつの間にか、終わらせるのが目的だということを忘れて、永遠に続くかのように錯覚してしまったのだ。つまり「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」であって、本来は三年で卒業する高校生活を、いつまでもしていたい、という夢と同じようなものを、学者たちは抱いているのである。(元記事
もちろん、西洋価値観がなだれ込んできているのが日本の現状である。たとえば愛国を自負するネトウヨは嫉妬と憎悪に満ちているという点で非日本人的な存在である。

現在は政府主導で日本の米国化が目指されている。これは格差と貧困の国家であり、ゆえに嫉妬と憎悪のエネルギーに満ちた国だということである。米国の傀儡政権である自民党が急いでいるのは、日本人のintellectの死なのだろう。

まあ長くなったが、この国を見直すきっかけを得た。日本人は痴愚だ、ということがわかっても、日本は本当に「ダメな国」なのか?という疑問がぬぐえなかった。西洋的先進国の基準からは到底日本は一流国と呼べないのだが、このような統治は他国と比べてより間違っているのか、劣っているのか、ということである。この本によれば、日本人はマインドの点ではずっと優れているといえるのかもしれない(ゆえに、憎悪と嫉妬の前には無力なのである)。

ルソーの「人間不平等起源論」に描かれた「自然人」と、(西洋思想以前の)日本人は、よく似通うように感じる。つまり、差異の不在である。恋人なんて概念はなく、自分の子どもがだれか、ということも気にならなかった。お上ではお家騒動なんてあっただろうけど、大部分の人間は、だれがどうとか、どうでもよかったのである。

この「どうでもいい」というメンタリティ、「うまいものが食えればそれでいい」というメンタリティは、意外と国際的価値があるものかもしれない、と感じるのである。それは嫉妬を原動力とし、知性を武器に戦ってきた西洋的価値観とはまったく逆のものだからである。