9.30.2015

理性と宗教

とくに最近は書くことがない。フーコーを読みたいと、ずっと思っているが、それに費やす時間がほとんどなく、体力的にも、時間的にも、そういった哲学的な問題を熟慮するような余裕がなくなってきてしまった。

知とは何か、を知りたいと思う。ニーチェはアポロン的な理性主義に対しデュオニソスを持ち込んだ。ニーチェは「神は死んだ」と宣告したがフーコーは「人間は死んだ」とした。つまり近代ヨーロッパの人文主義の否定であり、人間の自由意志の否定ともいえるだろう。

というようなことは、だれでも理解しているレベルなので、もっと調べていきたいと思う、ただその時間がない。

人間が精神的に満足してしまうときに、精神の光が鈍るようだ。というのも、我々が満足してしまうことはありえず、「満足した」と信じることは、誤謬でしかないからである。

この世は苦痛でしかないのだから、我々が目覚めているということは、この苦痛の認識に他ならない。苦痛を認識して、「さらば、もう一度!」となるか。あるいは、「もはや意志しないことが至上なのだ」となるか。

仏教も、キリスト教も、どうも信用することができない昨今である。ニーチェ以降の思想に触れているひとは、この二大宗教をどう捉えているのだろう?人間の哲学を知った人にとって、神(仏)の哲学とは。

我々には、狂気と理性のふたつの教義があったはずである。しかし、現代に残っているのはたまたま理性の教義だけ、ということがありうるのではないか。それは文書が歴史に残るのに対し、音楽は時の風化とともに忘れ去られるのと同じくして。

したがって、キリスト教も仏教も、「理性的に」行われる再解釈が繰り返されるうちに、本来はそのなかに残っていた狂気の要素も、風化し、あるいは排除され、現代に残っている我々が信奉するそれは、ほとんど別物と言ってもいいかもしれない。

この推察は、フーコーの言ってるような言説の持つ「排除」や「禁忌」「分別」とも重なる。例えば本来の聖書に狂気じみた呪いのような文言があったとして、キリスト教が力を持っていく段階で、理性的に「処理される」ということは想像に難くないことである。

例えば、解釈不能な狂気の文言があったとすれば、布教の折に必ず大衆から「これはどういう意味か」と問われるはずである。こういうめんどくさいことは、消してしまえ、初めからないものとしてしまえ、となっても不思議ではない。どのような宗教も、世界に広がっていくうちに、公的な性質をまとううちに、「まともな宗教」へと作り替えられるのだろう。

フーコーの言ったように、知と権力とはまことに切り離せないものである。知が何ら権力と結びつかずに伝播することはふつうあり得ない。何らかの経済的効果を狙っているものである。そういうわけだから、我々がふつう得る知とは、「教えた方が得な知」であり、「教えたくない知」では決してないわけだ。この差異は、「教えやすい知」と「教えづらい知」という差でもある。

そういうわけで、我々はブッダの思想も、キリストの思想も、その「理性」の面しか知ることができない。それは隠蔽ではなく、狂気というのがふつう、時の風化や、布教における経済性に耐えられないためである。私はヨブ記などはかなり「逝っちゃってる」と思うが、しかしそのヨブ記も一見不条理に思えて、理性的に解釈できるという意味では、これは狂気ではない。

宗教が、その狂気の面を得たときに本当の力を持つのかもしれない。私は、オーム真理教などはその線を狙っていたのではないかとひそかに思っている。

また、高野山の密教(=ミトラ教?)なども、狂気の要素がどこかしらにあるはずだと思っている。狂気の奥義とは、秘密のうちにしか伝授されないものであると思う。それは社会的にはタブーであるはずだ。

ある宗教の神話的諸前提が、正教的独断論のきびしい悟性的な目にさらされて、歴史的な出来事の総計として体系化され、人々はおずおずと神話の信ずべきことを弁護しながらも、神話が自然に生きのび生長しつづけることに対しては、ことごとに反抗しはじめるといった時、その宗教は通例生命を持たなくなる。(「悲劇の誕生」ニーチェ)

9.28.2015

知とは何か

しかしまあ自分の存在のくだらなさについては自分で嫌というほどわかっている。

最近酒量が多くなってどうも頭がぼんやりするようだ、孤独に、酒ばかり飲んでいる生活は間違っている。そのことはなんとなくわかるにせよ、それでは理想的な生活とはどういったものなのか、がわからない。

生きることが苦手であるために、生きることについて考えなければならない。生きることに長けている私の真逆の人びとは、実に幸福そうに、疑問を持たず生きている。

あのような人々を見ていると、本当に「一切皆苦」は正しいのだろうかと私は疑問に思う。哲学や宗教の救いを希求する人は、明らかに不幸だ。しかし、そういった世界に対する理解が不要な人がいる。彼らはいつ苦しんでいるのか。

人間が認識を深めるにつれ、人間はより一層の不幸に陥るもののようだ。それでは知とは何のためにあるのか?一切が苦痛だと知り、「何も望まない」ことを学習するためだろうか。それとも、アポロン的な不幸の束縛を離れ、ディオニュソス的な陶酔に身を任せるためだろうか。

最近フーコーを読んでいるけども、知とは何か?という疑問については、フーコーほど優れた考察をしている哲学者もいないと思う。まだ断片的にしか彼の思想は理解できていないが……。もう少し読書を続けてみようと思う。

9.27.2015

work

そういうわけで、昨日は精神の貴族主義について語ってみたのだが、自分が特別優れた頭脳や理性、思考力を持っているとはいまいち考えづらい。私の知能は凡庸であり、天才とはいいがたいし、会話はまずもって苦手、文章を書くことについても長く苦手であった。現実に私は、およそ社会に対して何ら有効な能力を持たない。

もしも私の在ることに何らかの価値をつけることができるとすれば、その異常性と、バカ正直さということになるだろう、私が見ている世界は、他の誰かが見ている世界と「違う」ということ、さらにそれをありのままに「語る」ということ、このふたつが私の仕事ということになる。

私は、ひとより何かを知っているというわけでもないし、計算や記憶力に優れているとも言い難い、とくに記憶力については大部分の人よりだいぶ悪いという自覚がある(酒のせいか?)。私はかつて狂気の世界に苦しんでいた、今でも半分は狂気の人間であるし、今はまともな生活を送れているから、ある程度健常でもある。私は異人=狂人でありながら、そうした生の実感に対して、このように表現もできるというわけだ。半狂半常、あちらとこちらを行き来するということ。

例えば、この世のどれだけの人間が、「自分は精神的な貴族である」と表現できるか、を考えてみると、そのようなことを(ブログでも)大っぴらに語れる人間というのは少数であると思う。それは「貴族」という階級社会のシンボルに対する嫌悪・忌避だったりするわけだけども、われわれは(そういう障壁を乗りこえて)自分のことを「貴族」であるとは、なかなか言表しにくいものである。

そういうわけだから、例えば社会における無能者、精神病院の檻のなかにある狂人が「私は貴族です」と言うとき、叫ぶわけでもなく、静かに語り掛けるとき、私たちは何らかの効果を感じると思う。それは狂人の戯言として無視するか、あるいは真実として見るか、人それぞれだけれども、ともあれその「効果」こそ、私の仕事のひとつということになる。

9.26.2015

精神の高貴さ

PCモニターに映る音楽家たちが、自分の同族、同胞であるといういつもの印象は抜け落ちて、代わりに自分に奉仕するある特殊技能人、というふうに見えてきた昨日は、さすがに、こうなったらおしまいだろうと、半笑いしてしまった。

いつもであれば、私は音楽家に共鳴し、そのパトスと忘我の感覚をともに喜ぶのだけど、昨日音楽を聴いていたときには、私は完全な「お客様」になってしまい、本当の意味で良質の音楽を聴くということができなくなっていた。

近頃は俗物じみた性根が染みついてしまって、自分は偉いのだ、成功者なのだ、というふうに、一定の満足を得てしまったように思う、なぜならば、この田舎においては、私は大部分のひとびとよりも経済的に成功しているし、また、そこそこの大学を出ているという意味では、出自もまた良いのである。

一生をこの田舎で暮らす人々、またその精神も自由になることを知らず、生まれ、死んでいくようなひとびとが大半である。スマホゲー、テレビ、彼らの精神を堕落させるものは(何もない田舎においても)たくさんある。これは田舎の実情である。

ただ、私は、精神世界を充実させようという人も、とくに理性的に・意識的に行動を統制しようとしない、田舎の朴訥な人々も、どちらが優れているというわけでもないと思う。漁師や、農家をどうしてバカにできるだろう。

私は、たまたま知性的に生きることが運命づけられているのであり、もしそういう性向がなければ、ひとびとは無理をして学を身に着けるよりも、海や山に向かい、各々の労作をして生きていくことが、もっとも幸福であると思う。その幸福を、愚かだとか、無知だとか、指をさして批判するほど私は腐っているわけではない。

主知主義――プラトン(ソクラテス)からカントまでの(アポロン的な)考えは、人々を理性に駆り立てた。理性以外に光明はないのだと、永く西洋の人々に思い込ませた。これによって、司祭のような知的なエリートを、人びとは崇拝した(そういえばニーチェの父も牧師であった)。

同様に、官僚や大学教授が「偉い」とされる時代であり、教授連中も自分のことを「偉い」と思っている社会ではあるけれども、私は農家も、大学教授も、同じように尊重できると思う。

インド哲学にあるように、人間には生まれ持った性向というものがあるのであり、非知性的な人は非知性的に生きるべきだし、知性的な人間は、知性を持つべきだろう。こちらの方が人間を歪めずに、「エミール」にあるように、人間本来の持つ善性を損なうことはないはずである。

知性的なひとびとが、不幸な境遇によってワープアにされその一生を終えたり、あるいは愚昧な人間が知的職業に就いたりすると、これは人類にとっての損失ということになる。例えばろくに論文も書かずに政治競争に没頭している大学教授などそれである。

だから、私は身分制度には反対であるけれども、個人としての性向については、生まれつきのものを認めるべきだと思う。そうして、私自身が知性的に生きねばならぬということも、これは驕りではない。むしろ「せねばらない」という義務感があるのである。

以上のことは、オルテガの言った「精神の貴族主義」と同一の考えである。内田樹がうまく指摘したように、ニーチェの貴族主義とオルテガの貴族主義は違う。ニーチェにとって貴族は「勝ち誇った自己肯定」を持つが、オルテガにとってはそういった自己肯定はむしろ「大衆」の方が持っているのであり、貴族はたえざる自己超越の連続である。したがって、貴族はつねに自己を鑑み、不備があれば厳密にこれを正すという手続きが不可欠になるのである。

そういうわけなので、私も精神的貴族であるので、こうして自己反省しているというわけだ。……自分で言うと、たいへん恥ずかしい表現であるけども。

9.25.2015

安住と放浪

バカみたいに、弛緩した日常だ。酒を飲み、うまい飯をくらい、それで一日が充足しているかのようだ。

かつての私には、よい食事も、よい酒もなかったが、それなりに幸福だった気がする。いや、幸福ではなかったが、神は身近にいた、そのような生活をしていた、と思う。

身ひとつであちこちにぶつかり、よろめき歩くような放浪をしてみたいと思うときがある。あるいは、孤独に読書だけに励む生活を何年かしてみたいと思うこともある。

いずれにせよ、私はある面では成熟してしまった、ということが言えるだろう。私の人生設計は、長いこと、楽して稼ぐことにあったのだが、現実に今楽をして金を稼いでみて、どうもこれで良いとは思えなくなってきた。

成熟した男は、危険と遊戯とを求める――とニーチェは言ったけれども、財をつみあげ、それを喜ぶような精神は、ほとんど腐りきっていると言ってもいいだろう。しかし、熟れることと腐ることは同時に進むのだ。

私は、無軌道に生きていくつもりだった。少なくとも、内面的な自己の要求に対しては、それを母親のような注意深さで見つけてあげるつもりだった。それが、日常の要求・社会的な要求に、しだいに翻弄され、進むべき道もわからなくなってきた。

積み上げるのは難しいけど、放擲するだけなら一瞬でできる。「アシジのフランシスコ」的なタイミングを見計らっている。しばらくはこのままでいいのかもしれないし、あるいはこのままずるずると精神が腐敗していくのかもしれない。

しがない中産階級の会社員として、一生を終えるのは、たまらなく嫌なことだ。しかし、大部分の人は、そうやって死んでいくのだけど……。

人間がもし無限に生きるのであれば、地位を築き上げ財を蓄えることがひとつの目標になるだろう。しかし、人間はいつか死んでしまうものだし、その死がいつ訪れるかもわからない。死の不安は根源的なものだ。人間から切り離せない。それどころか、死の不安ほど人間を人間たらしめる要素もないのだろう。

孤独に本を読む生活を、何年も続けたいものだ。あるいは遠く異境において、異邦人としてぷらぷらしたいものだ。どうやらそれが私の当面の目標ということになりそうだ。しかし、ひとは願望を持ちつつも、やはり日常に飲み込まれ、そこに安住してしまうかもしれない。

9.24.2015

上級国民・一般国民

今日は激しく雨が降っている。障子ががたがたと揺れている。

輸入家具が欲しいと思ったがそのようなものはこの近辺では売っておらず、通販ということになるのだが、その送料だけでも数万円するので弱っている。

いちおう近辺のインテリアショップへ行ったが、10万円以下で買えるようなものは合材とか加工品ばかりで木材本来の味わいは皆無と言ったものだった。

高値を出さなければ純木材の家具が買えないとは悲しい時代ではある。

景気が傾くと人々はますます合成品に依存するらしい。いま、どれだけの人々が生ビールを飲めているだろうか?ほとんどの人は第三のビール、よくて発泡酒なのではないか。第三のビールは正確には「ビール風アルコール飲料」であるから、これは「合成ビール」ということになる。

本物のチョコレートとか、本物のパン、本物のバター、本物のベーコン……。あるいは、本物の木材とか、(プレハブではない)本物の住宅のようなものを手に入れようとすると、日本では極端に生活コストが高くなる。

これは、消費者の心理が「安ければ安いほどよい」となっているからだろう。庶民が高級品に憧れることはなくなった、みな、軽自動車でいいと思っているし、外食はファミレスでいいと思っている。雑貨はダイソー、服はユニクロやしまむらというわけだ。

そういうわけで、廉価品については価格競争が行われるけれども、高級品の相手は富裕層に限られることになったので、ここに価格競争は行われることは逆に少なくなっているのかもしれない。

世の中が「大部分の貧困層」と「一部の富裕層」というふうに二極化してくると、商品もまた二極化してくるものらしい。

例えばスーパーにはよく高価な輸入チーズのコーナーがあるが、これを貧困層の人が見るときには、「だれがあんな高いものを買うんだろう」といぶかるだろうけども、富裕層はこうしたものしか買わないということがあるのである。舌の肥えた富裕層は、水と油で薄めた国産の低品質のチーズなど、食べる気が起きないのかもしれない。

私は収入で考えると、富裕層とは言えないけれども、貧困層というわけでもない、中間層ということになる。今は、こうした人間にはほとんど魅力的な商品はない時代である。品質は良いが、高すぎるものか、安いが品質の悪いものばかりという気がする。

そうだから、そこそこの品質で、そこそこの値段のものは、ヨーロッパあたりから輸入するのが良いということになる。やはりこれも商品と社会の連関に拠るもので、中産階級の多いヨーロッパではそういった商品は魅力的なものが多いのである。

日本という社会は、実感が湧くことは少ないのだが、数字上では恐ろしく格差が広がっている国である。例えば一生年収300万円で呻吟しなければならない人がいる一方で、大企業の幹部として年収2000万円もらっている人がいる。

貧困層は自分の生活を悪いものだと思っていないようだ。私は見えない階層化が進んでいるのだと考える。社会の階層に意識を向けることがないと、自分の立ち位置を客観的に見ることもできないのだろう。自分の首に枷がついていることにも気づかないのである。

オリンピック騒動のときに、ネットで「上級国民」「一般国民」という言葉が流行って、私はこれはとても適切な言葉だと感じた。

現実に、「富裕層」と「貧困層」は二極化しているのだが、メディアで取り上げられるのは主に貧困層ばかりのようだ。貧困が拡大しているだけでなく、富裕層の富が増大しているのだが、富裕層に対する指摘はほとんどなされないように思う。

そうだから、あの時代にように、我々は「堪えがたきを堪え」るよう強いられている。そうして無知・無学な貧困層が耐えている一方で、富裕層はこの世の春を謳歌しているのである。

話がだいぶずれていったが、まあデスクくらいは良いものを買いたいと思っている。

9.23.2015

生の肯定

美しいものと、苦しみとは、同時になくなっていくもののようだ。

人間は苦しみに苛まれるが、それから解放されると次には退屈に悩まされる、と言ったのがショーペンハウエルだった。これは仏教でいう「一切皆苦」と同じである。

ニーチェはそういったぺシミスティックな考えに対して、苦しみこそ健康への道だとした。健康な精神はむしろ苦悩を求め、それを乗り越えることによってさらに高みに達するのだと。これが「強さのペシミズム」「ディオニュソス的ペシミズム」と言われるものである。

たとえばマッチョな男性がその肉体を維持するには、常に肉体に負荷をかけねばならない。それは苦悩を伴うが、しかしマッチョな男性はそれを「意志」する。使わない筋肉はしぼんでゆく、健康は損なわれる、というのが我々の常識である。

これと同じように、精神もまたこうした外圧や負荷に対する応力をつけることによって、より健全な精神を得ることができる。

ニーチェが批判したかった人物というのはよくわかる気がする。つまり聖教者である。その知力でもってして安寧に達した(と思い込んでいる)タイプで、何もかもわかったような顔をし、すべての人間よりも高みに至っていると考えているような人種、いわば「勝ち誇った」人種である。

こうした人間がその実もっとも腐敗している、というのは我々のよく知るところである。彼の知性はもはや外圧にさらされることがないから、しぼんで不健康になっているものだ。

人間の新しい生き方の提示をしたのがニーチェであると思う。仏教は生を否定している。キリスト教もまたそうだ。

アポロン的=理性主義的な世界では、人間は否定されるべきものである。ある理想に対しては、人間はつねに不完全だからだ。罪を犯さない人間はいないのだから、人間はつねに罰せられなければならない。これに対し、ディオニュソス=狂気主義的な世界では理想は存在しない。人間の存在それ自体が世界なのである。

ニーチェ曰く、「合理主義者は知識という豚を飲んで動けなくなった大蛇のようなものである」と。

ニーチェの優れたところは、永く人間を支配してきたぺシミスティックな考え方、すなわち西洋=キリスト教と、東洋=仏教の二つを喝破し、「それ以前」の生を近代において提示したことにあるのだろう。

だから私は、ニーチェはアンチクリストだけでなく、アンチブッダでもあると思う。

(なかにはニーチェの永劫回帰が仏教における輪廻転生のパクリだ、というおバカな人がいるけれども、そもそも輪廻転生自体が仏教のオリジナルではない。たいていの土着の宗教で見られるものである)

ニーチェはブッダやキリストを乗り越えた類稀な天才というべきだろう。



狂気、と言えば、先日放送大学で臨床心理学の講義を聞いていたら、興味深い話があった。

最近の臨床心理学では、「我々は語らない=沈黙する自由があるのではないか」という主張する研究者もいるらしい。

私もそのように思う。例えば自閉気味の人間を無理矢理明るみに出して、家族と会話できるようになった、仕事に就くようになった、それで成功だ、と喜ぶのが現代の臨床心理学ないし精神医学である。

これもひとつの理想主義である。つまり、明るくはきはき喋り、だれとでも仲良くなり、友人多く、スケジュール帳は予定でぎっしり、というような「リア充」にすべての人間はなるべきだ、という風潮があまりにも支配的であった。

このイデオロギーによって、われわれは穴蔵から引きずりだされ、無理矢理明るみに出され、言いたくもないお世辞を言い、聞きたくもない冗談に笑わなければならないのである。

こうした考え方は、今後変わっていくことだろうと思う。薄暗いあかりのもとで孤独に読書をすることも、人から離れ自然の中で隠遁生活することも、肯定されていくだろう。


9.19.2015

心の凡者

美しいもの、美しい世界――人生がすぐに終わってしまうのであれば、そのように人生を彩りたいと思ってみても、日常の仕事はじわじわとそのような精神をすり減らしていくかのようだ。

まったく卑俗なものとイデア的な世界が私のなかには混在している。

疲労と不自由さが目を曇らせる。私はもっと、すべきことがあったはずなのに。私に向いた仕事と、私に向いた世界があったはずだ。

しかし、最近はいくらか無欲になってきたと思う。もうなるようにしかならないのだろう。

私はある無感覚の上に浮遊している。年をとるとはそういうことなのかもしれない。地を這う苦しみも、天を舞う孤独も、私からは消え去った。

適当に、金を稼いで、好きなように生きていく、というだけの人生、それもまあ、悪くないのかもしれない。私は、人生とはかくあるべきだ、という思いに少し縛られていたように思う。

今生は、短い。この一生が大したものでなくても、私は構わない。食うや食わずの生活でも、私はそれなりに満足できる。だれからもいじめられ、石を投げられるような生活でも、私は満足できる。私は、精神世界で考え事をするのが好きなのだ。私は、満腹とか、名声と言ったものがかえってそれを阻害することを知っている。

そういうわけだから、私は幸福者と言えるかもしれない。もう何にもすがる必要はないのだから。愛の無所有、物の無所有。能力の無所有。有能であれば、仕事の要求に忙殺され、無能であれば、自由である。

本だけは持ち歩きたいと思うが、いずれは本に対する執着もなくなっていくのだろう。山々や海、都市の喧騒に学ぶべきことはあるし、あるいはひとりの人間からでも、学ぶべきことはたくさんある。

9.18.2015

protocole

私の書く文章を、とにかく世の中にすり合わせていかなければならない、ということを考える。私はそのことにある種の切迫感がある。これはほとんど新しい試みであるから、試行錯誤するしかない。

私が見知っていることはわずかでしかないが、しかし私の感じることを世の中に与えることに、一定の価値はあるのではないかと思う。結局、理性、思考ではなく、どう感じるかがすべてである。かえって理性は感覚を妨げることもある。私は表現しなければならないのではなく、表現のなかに没入しなければならない。

結局のところ、私が表現しなければならないことは、人間であるということの、喜びと、また悲しみということで、技巧的な問題ではないし、何か新しいことをしようというのではない。それどころか、古代から普遍な芸術の根本的テーマである。

「人間であること」というテーマは、作品がヒツジや豚ではなく人間のために作られている以上、あらゆる芸術の根本命題であるといえるだろう。

私自身は錯綜した現代社会にあるのであり、そしてこの太古からある根本命題に挑戦することは、意図せずとも、必然的に革新的な作品を生みだす結果になるはずである。そうした試みに、一定の期間、労力を捧げてみたいと思う。

9.17.2015

zack

季節の変化のせいかもしれないが、ここのところ体調が悪い。仕事に身が入らないというわけだ。この感覚は入社直後にも感じていたことで、頭のはたらきが鈍く、恒常的に休息を求めている。

それでも仕事を始めたときに比べれば生活はずいぶんと楽になった。私は労働を拒絶することはやめた。

児童に車のおもちゃを与えると、それを走らせる。人形のおもちゃを与えると、それを整列させる。児童は別に、金銭の目的があるわけではない。それで親に褒められたいというわけではない。彼は、いわば労作の本能によってそれを行っている。

私が仕事に向かうモチベーションもそれに類することだ。人間は性欲や食欲だけでなく、作業への欲求も持っている。このことを西洋人たちが見逃していたことは不思議なことだ。おそらく、西洋人は”欲”にネガティブなイメージを持っていたのだろう。

人間の到達せる究極的な状態は、西洋も東洋も無欲である。貪欲は固く禁じられている。

ところで東洋はといえば、
かく、われにより、そなたには、秘中の秘なる知識語られたり。隈なく、それを反芻熟慮して、欲するがままになせ。
とギーターにあるように、正しき智慧と、正しき行為が重要になる。正しい智慧を与えられ、それを吟味し、最終的には没我的に欲するまま行動することが求められるというわけだ。東洋では根本的に人間に信頼がおかれており、迷妄を払ってしまえば正しい行為に到達できる、という点が西洋との違いと言えるだろう。

この西洋・東洋の根本的な違いは、西洋においては人間が決して到達できない「絶対神」を信仰しているのに対し、東洋はあまねく神が遍満している、ゆえに自己それ自身が神である(梵我一如:我はそれ=梵なり)という対比から来ているのだろう。

もっともこうした対比は簡単にはできないのだろうけど。

書いたあとで、いろいろ調べてみると、上のような考察は、大変幼稚であると思う。子どもの思い付き程度のことだ。

もっと知識を身につけたいと思って、いろいろ本は買ってあるのだけど、読む時間がほとんどない。悲しいことだと思う。日常のルーチンが、時間を奪う。絶対の時間が損なわれてゆく。労働は、ある程度私を喜ばせるけれども、それでもその時間が長すぎる、と思う。

仕事を辞めて、しばらく語学と読書の生活をして、それから海外放浪に出てみたい、と思う。それだけの金は、とりあえず貯めておきたいものだ。

9.15.2015

ブログデザインの変更 2

デザインを変更した。

その「作品」用のデザインだったのだけれど、それに慣れてしまうと、ブログのデザインが気にいらなくなってきた。せっかくなので、こちらに使うことにした。


どうも10か月周期でデザイン変更をしないと気が済まないらしい。




最初期のデザインだが、こちらも悪くないと思っている。相変わらずだれかの絵画を使わなければ気が済まない。前の猫のイラストは、海外の画家の作品である。勝手に借用していたので、リンクを張っていた。たぶん、無名だと思う。

今回はBoldiniの絵である。少しあざとい画家という気がする。ヴラマンクの方が私のメンタリティには合っているのだが、社交界で成功したBoldiniを使うことにした。こればかりは、好きだからとしか言いようがない。当然著作権などないので、こちらはぺたぺた張ることができる。

とにかく、シンプルにすることにした。ゴテゴテ自己紹介をする必要も感じないので。目に優しいデザインにした。少し前のは、過剰すぎたという気がする。

もっと自由にデザイン変更ができればよいのだけれど。Bloggerに慣れてしまって、いまさらWordpressなどに切り替えるのは難しい。

作品を創る

という計画を立ててみても、いろいろな困難がある。ひとつに私の文章は癖がありすぎるようだ。語彙が貧弱というか、変なところで難しい言葉を使いたがるし、文章構成としても、論理的に筋が通っているわけではない。また、文章が単調で変化に乏しい。

意欲としても、難しい。何か作品を作ることは、大変な根気を強いられる。例えばこういう散文ならいいのである。30分か、1時間くらいでさっさと書いてしまえる。書いたあとは、何も反省しないでいい。書いて、ほったらかして、そのまま。

だけれども、何日もかけてたとえば長編小説を書こうとなると、途端に困難になる。昔、へんちくりんな短編をいくつか書いたけれども、それですら3,4時間程度で書き上げたものだった。

だいたい、今の時代に長編小説など、だれが読むのだろう?という気がする。文壇という特殊な世界があるけれども、私はまるで興味がない。現在の日本の小説なども、ほとんどまったく読む気がしない。アクタガワshowだのナオキshowにも興味が……。

そういうわけで、この日本で小説を書くことは困難な仕事であると思うけど、これだけ文化的な退廃で覆われている国だからこそ、そこで成功することは容易なのかもしれない。

それで、どういう風に創作すればいいのか考えているのだが、これはもう、とりあえず書き始めること、「気づいたら始まっていた」という体で、セッションに飛び込むように、もう渦中にあると考えて、自己や意志を極力排し、流れるままに書く、というような感じがいいと思った。構成だの、プロットは、私には高度すぎるというわけだ。

これは朝の仕事というよりも、夜の仕事になるだろう。私はブログをたいてい朝に書いている、それは考えることを整理するのにもっとも有利な時間だからだ。というか、寝ている間に”整理されている”のであって、あとはそれを記述するだけで十分なのだ。

しかし朝は、時間がないのが常である。いい感じにノってきて、仕事の時間だ、というのは不快だ。まあ、仕事が終わったあとの何時間かを、この計画に費やしてみようと思う。

「計画project」というと大仰だが、なんだかわくわくする感じはする。

あとは、私の技術の問題になる。このブログで、3年間、うだうだと物を書いてきた。私なりの文体も定まってきているのだろうが、これを健常的な世界にうまく擦り合わせなければならない。いわば、私は狂気の世界から還ってきたのだから、そこから広く大衆に訴えかけるようにならなければならない。このことこそ、私が注意しなければならない点である。

狂気の蓄えはもう十分あるのだから、これを翻訳して、提示することに努めなければならない。意味不明な言語の羅列、ポエジーに浸ってはならないわけだ。

まあ、技術的なことよりも、とにかく書き上げて、それから吟味するのでもよいのだろう。上手だが、魅力ない作品、殻だけで実がないような作品こそ、もっとも不快なものだ。きれいに磨かれた殻がなくても、しっかりとした実があれば、それはそれで良い作品といえるだろう。

9.14.2015

めくら

理想のようなものを追っていた過去の自分が、悪夢を見ていただけのような気が、今日はしている。私は結局、一個の人間であって、著名人のように偶像になることはないし、ある地点に満足してしまうことも、今後ありえないのだろう。

著名人になることを望む人がいるが、私はそれを望まない。いや、内心は望んでいるのかもしれない。私のこのブログは、ある程度コメントがつくようになって、少しの承認欲求を享受している。このことで、多少の満足を感じるけれども、果たして、名声の欲に限度があるのだろうか。

金については、中庸がわかる気がする。名声はちょうどいいという点があるのか。田舎の町医者として尊敬されればいいという人がいるし、アメリカやドイツの大学へ行って、教授になることを望んでいる医者がいる。

人間は、幸福を望むけれども、では幸福とは何なのか。名声という人がいるし、金という人がいれば、家族という人がいて、快楽だ、真理だ、という人がいる。各々が人生に各々の目標をもって生きている。

昨今の私は平和ボケしているので、生きているという実感がわかない。私と世界はうまくやっている。世界は私を拒絶しないし、私も世界を拒絶しない。森田センセーの本を読んだのがよかったかもしれない。神経症が和らいできている。

そういうわけで、精神が少しの余裕をもってきた。時間的余裕はもとよりある。それで、ある計画を立てているのだけど、それは作品を生むというプロジェクトで、ようやく開始というわけだけれども、しかし、すぐに頓挫してしまう可能性が高いと思う。

私のブログは、だれでも読めばわかるように、少し狂っている。さすがに最近は、もう年をとったこともあって落ち着いているのだが、数年前などは、今の私が見ても、「これはちょっと病気なのではないか」といぶかってしまうような文章がある。もっとも、かつて病気であったし、今も病気であるところの私である。しかし病気とは、ある種の逸脱なのだから、創造家とはぜんいん病人であるということになる。創造とは逸脱だからである。

偉大な作家は、偉大な病人である。……ということがわかったのは、近代以降のことで、天才は限りなくまともで健常な人間であるという誤謬が近代以前のヨーロッパにはあった。例えばゲーテは快活、健康そのものというイメージが定着していた。ところが実際のところ、ゲーテは躁鬱病だったのである。ソクラテスは癲癇で、ルソーは露出狂で、キェルケゴールはせむしで、フーコーはゲイだ。

実は天才って狂人なんじゃないか?ということがはっきりわかってきたのは近代以降なのである。しかし、多くの狂人は狂人のまま終わるというのが現実である。

さて、私は狂人だが、天才ではないのかもしれない。ただ私は天才の芽を持っていると思う。これをうまく伸ばせば、天賦の才となるかもしれないと考えている。なぜならば私は狂っているから。これは傲慢だろうか?現実の私は不幸である。うまく社会に適合できないという性質を持っている。しかし、光を失っためくらが、聴覚を誇ることが何かまずいことなのだろうか。

9.13.2015

東洋と西洋

うまいものを食べていると、精神的な欠乏がなくなってしまう。

昨日は、よい酒と、よいパンと、よいベーコンと、よい卵を買ってみた。もともと、昨日は外泊する予定だったのが、気分が変わったので日帰りにした。旅費が浮いたので、せっかくの土曜ということもあるし、おいしいものを食べようと思ったのだ。

山奥にあるパン屋の、都会から移住してきたというその主人の作ったフランスパンは、どっしりと重く、色も淡白であり、本物のパンといった風格である。これに、地産の卵と、お高いベーコンとを合わせて、酒は高くはないが好みの赤ワインと、ウィスキーを合わせた。フランスパンの半分は、ガーリックトーストにした。

これがうまかったので、今日は特に何も書く気がしないというわけだ。人間は、生活に満足してしまえば、そこから前進することができないということだろう。もっとも、どこに前進するか、その価値基準も明白ではないのであり、テレビや学校教育で繰り返される大衆的なイデオロギーもあれば、ニーチェは権力だとしたし、エピクロスは快楽、プラトン的にいえばイデアなのである。

情報統制が行き届いた、こうした世の中では、人びとの眼は曇らされてしまう――と危機感を持つことも必要だが、そもそも大衆はいつの時代でも欺かれていたのであるし、別段真実を求める必要も感じなかったはずである。彼らはある意味で十全しているのであるから、真実を必要としない。

古代ギリシャ的な価値観では、人間だれしも知や真実を追い求めなければならない、とある。というのも、彼らにとって知とは美であり、さらに善だからである。これに反して、インド哲学のギーターでは、人は生まれ持った適性があるのであり、戦士的人物は危険と名誉を求め、宗教家(詩人)的人物は真理と善を求め、市民的人物は幸福と実利を求めるようにできている、と説く。

この対比は、ギリシャ的な感覚の方が理想主義で、インド哲学は現実主義ということができるだろう。私もインド哲学の肩を持っていて、だれもかれもが真理到達を志向する必要はないと思うし、そんなことは不可能だと思う。

明らかに思想することが向いている人がいて、一方には勇敢に戦うことが向いている人がいる。この性質は生来のもので、変えることができない。この不平等が、現代インドのカースト的差別感情と結びついている。

一方で、西洋のキリスト教的価値観では、だれもが神の前では平等であるのだから、生まれ持った性質に拠らない価値観、つまり民主主義とか、自由経済的なイデオロギーが生まれた。

この違いは、大きく括れば、東洋的精神と西洋的精神ということができるのだと思う。それで、今は西洋的精神が優勢だけれども、私は今後も、東洋的精神は生き続けるだろうと感じる。それはつねに世の中には理想と現実があって、その両者がひとつになることは永遠にありえないからである。インドから差別がなくなろうと、日本が法治国家になろうと、完全に行き着いてしまうことはないだろう。

ニーチェはアポロン(秩序)とディオニュソス(陶酔)を対置させたけれども、これはそのまま西洋と東洋の対置と言えるのかもしれない。ディオニュソスは東洋(トラキア)から来た神というのは有名だが、なかにはシヴァ=ディオニュソス説を唱える人がいる。これはほとんどオカルトの領域だが。

われわれは栄えある王国に生まれた。しかし、われわれはこの王国の境界がわれわれの知識の限界であるとは、そして東洋の光がわれわれを照らす唯一の光であるとは、考えなかった。(「ペルシャ人への手紙」モンテスキュー)

9.11.2015

宗教と哲学

昨日は仕事中に何度も笑いだしてしまった……。醜悪なことを書いたものだ。人生とは、人間とは、生命とは、こういうものだと考えること。考えるならまだしも、それを一生懸命主張するということは、バカげたことだ。そんなことはわかりはしない。

いかに生きるべきか、を考えて、考えつづけて、しだいに時間がなくなり、死んでいくことは、喜劇であるけれども、しかし、世の中にはそういう人間も必要なのだろう。

だれもかれも、生の不思議には躓くけども、「大人」になるにつれて忘れていく。身内の死とか、啓蒙的なテレビ番組にでも出会って、あるいは健康診断の結果によって――たまに念頭に浮かぶくらいのものだろう。死という現実は、うまく包み隠されている。それは人間の環境適合の本能によって、あるいは社会的要請によって。

私は4歳児並の知性の持ち主だから、日常の仕事の悩みとかよりも、そういったことが重大ごとに見える。人間は死ぬ。なぜ死ぬのか?死ぬのであれば、生とは何か?いかに生きるべきか?

哲学とは考えてもわからない命題を、考えようとする試みである。だから、そこには個性が生じるのだ。錬金術は個性的だったが、原子の周期表が広まってからその個性は駆逐された。現代の哲学とは、錬金術レベルなのだろう(一見、ダーウィニズムが最有力のように思えるが、果たして?)。

人生とはなんぞや、という答えはまだ出ていない。だから「ニーチェはこう考えた」「プラトンはこう考えた」「フロイト/フーコー/マルクス/パスカル/ショーペンハウエル/...はこう考えた」ということが重要になる。歴史に残るあの大天才はこう考えた……ならば、そういうことかもしれない。そういうことだという蓋然性が高い。というレベルのものである。私の考えも実際ほとんどが、そういう大天才の受け売りである。
哲学の哲学たるゆえんは、論証的言説でも正当化の言説でもないということです。哲学を定義するモノは、哲学的戦場(カントのKampfplatz)におけるその立場(ギリシャ語ではテーシス)なのです――現に存在するなんらかの哲学に賛成するのか反対するのか、それとも新しい哲学的立場を主張するのか、が問われます。(「哲学について」アルチュセール)

そうだから宗教というものが今も生き続けるのだろう。人間の生と死の不思議は解決されない。しかし、それを解決する存在があるとするのが宗教である。というのも、ニーチェも、プラトンも、完全な答えを明示したわけではないからだ。人間を越えた、超越的存在者を作り出す。人間のもつ有限性・不可能性の対称としての存在。
かりに私たちが本性とか本質を持っているとしても、それを知り定義づけられるのは、明らかに神だけである。神がそれをよくなしうるのは、なによりもまず、神は"who"について、それがあたかも"what"であるかのように語ることができるからであろう。(「人間の条件」アレント)
しかし、神は存在するのか?人間が生みだしたのではないか?そーすると都合がいいから存在することにしたのではないか?と邪推してしまうのは四歳児の知性である。しかしまあ、神の存在は人間の認識を越えているのだから、神の第一発見者となって新聞記事に載ることは困難である。

哲学と宗教のありかたをこうして羅列してみたが、これらと芸術の関係を探りたいものである。私は、人間の生を構成するのに、宗教と哲学だけではやっていけないと思う。芸術が人間の精神とどうかかわるのか、宗教と哲学との関係はどうなのか、またどういった位置づけを担っているのか。



ひるがえって、日本社会というものを考えてみると、この国には躓きが欠けているのだと思う。その点が私は不満である。躓きが欠けているからこそ、「宗教」も「哲学」も「芸術」もこの国から損なわれているのだろう。事実、この国は民衆が躓かないよう周到に配慮がなされている。

がなり立てるスピーカー。「お足もとにお気を付けください。段差がございます」「ホームと車両の間が広くあいていることがございます……」。

こうした「配慮の行き届いた」国においては、ひとびとはAKBやEXILEを聴き、ポルノアニメを鑑賞し、ビジネス書の資本主義的な教義を受け入れるようである。これはこれで、ひとつの統治の完成形であると思う。

アルチュセールの論文では、イデオロギーは現実に大して個人個人が抱く「幻想的な関係」の表象とされています。しかしそれは、単に抽象的な規則として人びとにむりやり押しつけられると言うよりは、むしろ、教育や、宗教的儀式や、日常生活の行事などの生活全般に関する具体的な行為を通して、「なくてはならないもの」としてその心に植え付けられる。そして、繰り返される条件付けのなかで、人は常に「あなたはこの文化における<主体>の概念にふさわしい行動をしていますか?」と呼びかけられる。この呼びかけをアンテルペラシオンという。(Art in a New World /松井みどり)
「あなたはこの文化における<主体>の概念にふさわしい行動をしていますか?」

9.10.2015

補遺

精神としては正しいのに、表現がまずいために誤解を招く。

金を稼ぐということの意味は、二通りある。金から解放されるためか、金を目的とするかである。我々は日銭を稼ぐという拘束にどうしようもなく縛られている。その一方で、金自体の魅力に取りつかれることもあるわけだ。

余剰としての金銭と、欠乏としての金銭は違う。余剰としての金銭を求めることは、食うにたる以上の食糧を得て、必要以上の衣類を持ち、贅沢な住宅に住むことである。これが私の言う「経済的成功」である。

ただ、実際にはそういった「余剰」を求めることは、迷妄の結果に過ぎない。これらが迷妄に過ぎないというのは、人間は結局のところ死ぬ生き物からである。もし人間が永遠に生き続けるのだとすれば、富を目的とすることは正しいだろうが、死を前にしては、余剰的な富はほとんど無価値になる。どんな金持ちであっても死ぬし、また貧民であっても死ぬからである。

我々が必ず死ぬとすれば、経済力にそれほどの価値はない。死という大問題の前では霞んでしまうことなのである。

我々の知性は、死を直視することによって始まる。この死という問題を考えたときに、英雄になろうという人はいるだろう。軍隊を率いて栄誉を勝ち取ろうという人がいるだろう。あるいは、大会社の社長を目標とする人があるかもしれない。一方で、詩人になろうという人もまたある。彼は孤独に引きこもったり、あるいは身ひとつで放浪したり、酒や女に溺れることもある。しかし彼を引きつけるのはただ真理のみである。

私は詩人であろうと、英雄だろうと、どちらも人間の目標に足るものだと思う。その意味は、死を認識した瞬間に、つまり人間の有限性を自覚したときには、そのどちらかを選択することが自然だからである。もっとも、詩人として生まれたのに、英雄になろうとして不幸になる人がいる。そういうとき人は「歪められている」のである。

私が「経済的成功」に適性がある人間というのは、上の大企業の社長のような人間のことである。これは私の周りで、経済的成功をおさめている人々を見ればわかることである。しかし、彼らが求めていることは「栄誉」であって、余剰的な富ではないのである。そうして、詩人についても当然世間に受け入れられれば、経済的な成功をおさめるだろう。

しかしそれは目的としての富ではないのである。栄誉を得る手段としての富なのだ。ある人間が富を得て、その英雄的精神も、詩人的精神も退廃してしまうことはある。そうして彼が栄誉や真理から遠ざかることはままあることだ。そのとき、富の手段と目的が逆転しているのである。これがまあ乱暴に言えば資本主義的なイデオロギーである。

経済的富が彼らを人間の生=死から遠ざけることがある。これと同時に、経済的欠乏が人間を遠ざけることもある。今日食うために今日働く人間は、明日死を認識する時間を持たないだろう。

というわけだから、我々は経済的に独立することが重要なのである。我々は富を目標としてはならない。そうして、富の欠乏に縛られてもならないのである。私が今日も働かなければならないのはその事情による。

9.08.2015

努力と神性

何も語ることはないし、書くこともない。サルトルのあの本のクライマックスは、こうある。「記すことなし。私は実存した」と。

まあ現実にはただ昨日の疲れが残っていてぼんやりとして思考がままならないだけなのだ。

英語とフランス語を勉強したいと思う。私がこの人は知性的だ、と思うような人は、たいてい仏語や独語ができる。英語なんて当たり前で、英字新聞はおろか、文学作品まで原文で読むという。

日常の仕事は私を地べたに引きずり落とす。学生という身分が懐かしい。私は一労働者でしかなく、一労働者としての義務と困難があり、まずいことに一労働者としての喜びがある。

なんでもできると思っていた若い時代は通り過ぎて、私の脂のついた下腹部と、薄くなった前髪とが、私の凡庸さを示している。私は惨めな一個の人間であることを、この半年で学んだ。

現実の私は惨めだが宗教的不安はあまりない。人生の悲惨につまづくことは少ない。私はインド哲学のあの奥義をなんとなく信じている。つまり「汝はそれ(梵)なり」である。

我々はすでにして究極的真理=最高神なのである……と考えてしまえば、この大したことのない日常も、なんとか受容することができる。我々はときに神になろうと願うが、その努力こそが神聖を退けるのである。なぜなら我々はすでに神であるので……。

努力とは、たいていそのような結果を生みだす。しかし、社会的成功は努力なしでは不可能だ。自己を社会構造という外部環境に適合させることは、自己を歪めることである。そうだから、努力するときに本来持っていた神聖が引きはがされる。

もっとも、彼らは社会的経済的には成功する。それは経済的成功の必要条件だから。しかし、彼らは努力によって、すでに自分を失っている。成功はなおまずい。神にはもう戻れなくなってしまった。神は金も地位も何も必要としないからである。そういうわけだから、社会的成功者は強迫的に無職者や低所得者を迫害するのである。

人間は自然に置かれたときに、何を志向するかを自分で知っておかねばならない。一本の棒をまっすぐ立て、それがどの方向に倒れるかということである。適正とはそのようなものである。適正とは、運命に近しいものである。孤独に文章を書くことが向いている人がいれば、人々と語らい集団を導くことが向いている人がいる。それを努力によって歪めてはならない。

ともあれ、英語の勉強は続けておきたいと思う。英文学を原文で読むのが目標だ。

9.06.2015

人間が有限であること

美しいものは、独りでないと見えない。

成満に達せるひとの、いかにして、知識の極致なる梵に到達するや、クンティー妃の王子よ、そを、簡潔に、われより聞き知れ。浄心を具え、堅固に己を調御し、音声はじめ、(五官の)対境を抛捨し、貪欲と憎悪擲ち、寂寥の地に拠り、食細く、言語、身体、心を調御し、つねに静慮の実修(ヨーガ)に専念して、離欲に身を託し、我執、暴力、高慢と、欲愛、忿怒、所有を離れ、我欲なく、寂静に帰する人は、梵との冥合に与る。
(「バガヴァッド・ギーター」鎧淳訳)

今日の午前中は気楽に過ごしたが、そのあと一度に急降下して、憂鬱に襲われた。でもまあ、こういうことはよくあることだ。死にたい、とか、自分の何もかもが嫌になって、過去のすべてが間違っているような感覚に襲われることは、人間であればだれでもあるし、それは自然なことだ。

自然であるということは、健康であることではない。不健康と健康の間を行き来することである。

生とは、両極端の中間をつねに揺れ動く動性である――ということを、パスカルが言っていた(と三木清が言っていた)。
人間とはいったい如何なる奇獣であるか。如何なる新柄、如何なる怪物、如何なる渾沌、如何なる矛盾の者、如何なる非凡の者であるかよ。すべてのものの裁判官、愚かな蚯蚓。真理の受託者、曖昧と誤謬との塵捨場。宇宙の栄誉にして屑物。(パスカル)
憂鬱を肯定すること。苦悩を引き受けること。どうしようもなくくだらなく凡俗で画にならない人生であっても、決して否定しないこと。「これが人生であったか!さらばよし、もう一度」。

凡庸なる人と、非凡な人との違い。パスカルによれば、非凡な人は死を直視する人間である。
人間は死、悲惨、無知を癒やすことができなかったので、彼らは、自己を幸福にするためには、それについては何も考えぬことを工夫した。……慰戯は我々を興ぜしめ、そして我々をして知らぬ間に死に達せしめる(同)
いわば、人間が常に苦悩の中にあるという悲惨、真実には到達できないという無知、生が限りあるものだという事実、これらを凡庸な人はいろいろな手段でつつみ隠してしまう。彼らは自分の手で目を覆ってしまうのだ(ハイデガーのいうところのダス・マン)。
凡庸なる魂が何らの困難を見ないところに最も賢なる者が躊躇するのは何に因るのであるか。けだし後者は彼が前者と共に有する自然的なる眼のほかにさらに一双の「他の眼」を具えている。この他の眼は彼には「死の天使」によって与えられるのである。 
凡庸なる魂が安易と満足とにあるところに最も思慮ある者が困惑と戦慄とを感ずるのは何に因るのであるか。けだし優越なる魂は自己の存在を正直に視、素直に問うことを知っているからである。彼の求めるものは人間の究極的なる綜合を与える最後の答である。(「パスカルにおける人間の研究」三木清)
人は死を見つめることによって「他の眼」を得ることができる、と。生は死であり、死は生であるから、生のみによる視点は物事を正しく認識することができない。生をありのままに見ることは、同時に死を見つめることでもある。
「小なる事柄についての人間の敏感と大なる事柄に対する無感覚とはひとつの奇態な顛倒のしるしである」。この顛倒を直きにかえして価値を正しく定めしめるものは死の智慧である。宗教的不安は真理への道である。
ふうん、なるほどねえ。死の智慧か。(しかし、「つまづく」ことは哲学者の必要条件ではあるけれど、それが「優越」なのか?と思ってしまう。つまづいてばかりの人間は非凡であるとしても、「優越なる魂」を持っているのか、これはわからない)

そういえば、森田センセがこんなことを言っていた。

人は自然に帰れば、冬は寒く、病は恐ろしく、不潔は厭わしく、人に対しては羞恥を感じるべきである。人情の本に帰れば、そこに強迫観念があるはずはない。強迫観念は、冬を暖に、夏を冷に感じようという欲望を逞しくするものである。
……不可能を不可能として、それに服従することを正信といい、因果の法則を曲げて不可能を可能にしようとし、我と我が心を欺き、弥縫し、目前の虚偽の安心によって自ら慰めるものが、すなわち迷信である。(「神経質の本態と療法」森田正馬)
人間は、諦めなければならない。我々の生とは、どうしようもなく苦悩に満ちているものだ。幸福は一時的なもので、それはより深い苦悩の前触れでしかない。

森田センセは神経症治療の権威なのだけど、禅僧めいたことを言うのでおもしろい。結局、この病気は正しく人生を導かれないと治らないようだ。正しく生きるとはどういうことか。それは、わからない。「わかる」ようなものでもないのだろう。

こうして読書をしていると、それだけで生が豊かになるという気がするから、仕事も何もかもほおっておいて、読書と、軽い農作業と、ツーリングと、何か書いたり、楽器をいじったりという生活をしたいと思うときがある。しかし、そういう生活は長くは持たないだろう。

私の人生設計はまったく目途がついていないが、まあ、私はもういろいろと諦めているから、水が流れるように、私も運命に逆らうことは辞めようと思う。風が吹けば、倒れ、雨が降れば、濡れ、人が私を笑えば、私も笑う。人が泣いていれば、私も泣く。それだけのことだ。

9.05.2015

作品を生みだすこと

コーヒー三杯を飲めば前日のように高揚した錯乱を見せることができる。

散文でも小説でもいいから何かしら作品を作りたいと考えることがある。私は何の影響も世間に及ぼしていない。私は何も金を生み出していない。

それとは反対に、今なにかしらの作品を作るには未成熟すぎるから、知識の修養に努めたい、という気持ちもある。もっと、たくさんのことを学び、智慧を身に着けなければ、本の一冊を書いてもしょうがないだろう。

ところで、世の中にはその「しょうがない」本が溢れかえっている。この程度のモノで出版できるのか?と思うようなもの。でも、そういう類の粗悪品がけっこう売れたりする。世の中はマーケティングがすべてということだろうか。「客」に合わせてしまえば低品質でも売れるというわけだ。

客に合わせた作品といえば今の深夜アニメはほとんどそのような類だと思う。あとは車のデザインとか?ビジネス書……。しかし、こうした類のものは芸術とは言えないだろう。

自分はゲージュツ作品を作るのだ、と思っても、そういうことはまったく金にならない時代だ。そんなことに時間を消費する余裕も体力もない国民だ。この国で何かしようというのなら、Newsweekではなく朝日新聞風でなければならない。

こういう時代にあって、モノづくりに成功した人間はいる。宮崎駿などはその類だと思う。エンターテイメント性を重視し、それなりのイデオロギーも主張するという。彼は日本が嫌いだし東京も嫌悪しているがその日本の東京で仕事をしている。私などは外に逃げようというのだから軟弱だ。

それではどういう作品を作るのですかと問われてもこれはわからない。

こうして散文を書いていくのと一個の凝固物である作品を作り出すのはまったく別の仕事なのだろう。今の散文はまったく無意識的に書くことができる。このように作品を生み出せていけばいいのにと思う。

実際のところ作品(何かしらの影響を与え、何かしらの評価を受けるもの)を生み出すということは、甚大な努力が要求されるものだろう。ところが、何か力が入ってしまえばまったくダメになってしまうのもまた芸術というものである。

そういうわけだから、水が下へ流れていくように、私もある必然の道筋を辿っていくしかない。このことの意味は、私が将来作品を作ることになるのか、あるいは何も生み出すことなく死んでいくのかということは、今の段階で「意志」しようがないし、予測もまた不可能ということだ。



と考えても、そんなことでいいのか、と思ったりする。

9.03.2015

種族的精神

どちらかと言えば、私は異常者の類である。どちらかと言えば、私は狂気の側にいる。ところで、最近まで気づかなかったことだが、狂気の世界の中では私は凡庸なひとりの人間である。私の人格的特徴は、病的特徴のそのままであり、その典型でもある。

人間は、どうあがいても人間なのである。私は自分を特別な人間だと感じてきた。それというのも、私は先に述べたように異常者だからである。しかし、神経症者を100人集めたとしたら、私はその中に埋もれてしまうだろう。顔かたちは違うにしても、精神構造で言えば、大して他の神経症者と変わりがない。

一匹の猿がいて、自分を猿ではないと思い込んでいたとしたら、私たちはその猿を笑うだろう。人間が自分を神だと思うときもそれと似ている。

私がさして特別な人間でもないということが、灰色の海に沈むような失望でもあるけれど、かえって救いでもある。私の苦しみも、また固有のものではなかった。私だけが苦しんでいるのではなかった。私は、孤独に苦しむ隔絶された個人なのではない。一類型なのである。

私と同様の精神を持つ人間がこの世には五万といて、それぞれがその環境の中で、苦しみ、喜び、生きているのだろう。私を孤独につき落としたのは、まず苦痛であった。私は自分の苦痛を自分だけのものだと思った。他者は私に共感できないから、私を救うことは不可能だと感じた。しかし、「自分の苦痛は自分だけのものだ」と思っている一類型=苦痛の独占者が、人間の一種族として、存在しているのである。

――永遠の世界に憧れているものの心が、世間のものにわかるか

だから、現実世界において友人のひとりもなく、持続しない恋に振り回されてばかりだった私が、こうして心の平安を得ているというのは謎ではない。ひとつに読書などによって私の同族の精神を知ることができるからである。哲学者はまずもって私の同族という気がする。自己の内面に凝り固まって前を向くことのできない精神的特徴は、私と通じるものがある。また、音楽家も私の救いになる。私がこの時代に孤独でないのは、本があり、音楽があるからである。また、このブログも私の精神衛生に大きく寄与していることだろう。

本を知らないとき、私は生身の絶望と孤独と戦っていたように思う。あの時代を考えると今でもぞっとする。ある人間が、不自然に歪められていた。あのときの精神は、醜悪な畸形だった。いまこうして、理性をもって存在することに、少しばかりの感謝の念すらある。

私は永遠に、他者とは相いれないだろうが、私はもう孤独ではないだろう。世界を見渡せば、私のような人間はいくらでもいる。私のような人間は、私のような人間の公表したテクストによって慰められる。書くこととは、ひとつの狂気であり、また狂気の治療における絶対的要請である。精神的なネットワークが、私の同族を、ひとりひとり、救い上げていく。観念の世界では、そうして私の同族は守られているのである。

9.02.2015

a day

このままでは終われない――というふうにして、人は名誉に駆り立てられる。ある集団の中の、栄えある個人として、崇め奉られることを志向する。

生の余剰が彼をそうさせる。生の余剰とは、ただ生きて、ただ死ぬことを然りとせぬ、そのような精神だろう。

明日死ぬと思えば、今日のような生活はしないだろう。そのように死を見つめて生きることは可能だ。しかし、空ばかり見ていても人間は転んでしまう。確かなまなざしが必要だ。地でも空でもなく、前を見なければならない。

生が仕事によって切り離される。だれかに対する奉仕が日常に置き換わる。だれかに時間を与えることに慣れると、自分に時間を与えることを忘れてしまう。自分に奉仕することを忘れてしまう。

第一命題。この生は何のためにあるか。第二命題。神はどこにあるか。

私の下腹部事情

下腹部に肉がついてきて、これが私の精神に変化を及ぼしている。少し日常に対する防御壁が作られたようだ。

私の神経症も、肥満体になってしまえばそれで終わるように思う。それだけのことだ。ただ、私は自分が太っていることに耐えられないだろうし、また私の遺伝的性質として、脂肪がつきづらい。

精神は肉体と切り離せるものではない。ある臓器を移植したら、レシピエントの人格が変わってしまった……というようなことを、昔テレビでやっていた。これは当たり前ではないのか?ひとは知らず知らずのうちに、”頭脳”だけが人格だと勝手に思い込んでいる。

人体において神経叢が集まった器官は脳や脊髄、眼球以外にもある。それは腸である。私は、日本人が下腹部(丹田)に魂を認めたことは必ずしも誤りではないと思う。

たとえば精神的抑圧下で、容易に便秘・下痢などの消化器障害が現れるのは、精神作用と腸に深い関係があることの表れである。

そういうわけだから、私の下腹部の脂肪組織が、腸における”思考”に影響を与えているらしい、ということを考える。人は老いるにつれ、丸くなる。そうして人は老いるたびに体脂肪が増えてゆく。

私がここで訴えたいことは、人間の精神なんてその程度のものだということだ。おそらく、宮沢賢治の下腹部の脂肪組織があと2cm厚ければ、彼の作品は生まれなかっただろう。あるいは、同等の作品は生まれなかっただろうと思う。

くだらないことを書いたが今日も仕事だ。



……そして今帰宅した。

投稿しようか迷っていたら時間がなくなってしまった。

今日の仕事はつらいものだった。私はずっと、考えていた。

私が嫌いなことは、私が自然であることを阻害するものなのだと。私を不自然に歪めてしまうすべてのものを、私は憎悪するわけだ。

自然であることが生きることであるのに、永遠に生きないまま死んでしまう人も、ままいる。何が歪めてしまうのか。何が彼を変えるのか。何が彼を殺すのか。何が彼の精神を、灰色の牢に閉じ込めるのか。

私にさまざまな形で仕掛けられる攻撃を、よく見極めなければならない。何気なく人が発した言葉が、そうした攻撃であったりする。善意の形をとる町内放送が、私を支配しようとするノイズであることもある(なお、私の精神統合は失調していない)。
人間を管理あるいは支配するために、一番重要な手段は、当時は文字ではなかったのです。・・・普通の人々は文字が読めませんから・・・そこで音というのがひとつの大きな文明化の手段になります。・・・音楽は、言葉とか概念を用いずに人々に訴えることができる、非常に重要な統治の手段だったわけです。(「ヨーロッパを読む」安部謹也)
支配としての音。文字の歴史と、音の歴史。今に残るは文字の歴史、音の統治する文明は「記述されなかった歴史」。あるいは、今も未来も十分に記述されないのかもしれない。

歴史の表と裏。「あらゆる芸術は音楽を志向する」。

私は、自然でありたいと願う。私は神経質であるから、自分が歪められていることに耐えられない。私は、人間でありたいと思う。人間として生きたいと思う。

そのためには、どうすればよいのか?


……そして今目覚めた。

相変わらず、仕事が嫌でたまらないし、この地域の人々も、私は嫌いになってきた。この地域は好きだけど、人は嫌いだ。もっとも、私が好きであれた人など、ほとんどいない。はじめ好きな人でも、知っていくうちに嫌いになっていく。

休みが欲しい。水曜日だ。頭をまた、ゼロにしなければならない。思考も感動もない9時間を過ごさねばならない。