10.31.2015

雑記

やけくそなことばかりを書いているが――

私の生活は充実し、私はよく笑うようになった。精力に満ちた声も出すようになっている。私は健常の世界に帰ってきているのである。私は自分の二重性だとか、神経症的な精神の破綻からもここのところ無縁である。

いわば「折り合いがついた」ということで、私は特段、自分のことを語る必要もなく過ごしている。

私から一定量の苦痛が取り除かれたのであり、そのためいくらか朗らかに生活している。もちろん、私には友人のひとりもなく、ましては恋人なんていない。約束された将来もない――「夢も希望もない」状態ではあるけれども。それでも私は健常なのであり、これからも健常であるだろうという気分が、私を喜ばせる。

私は、いったい、暗いところだけ見つめていた人間だったろうか。私は、世界の明るさに背を向け、あの暗くじめじめとした一極点を、睨み続け、そして耽溺しながら周り続けていただけではないのか。

つまるところ、私の神経は過敏だったけども、少し年をとって、いろんな感覚が鈍り、そして連日の飲酒によって、脳みその機能が衰えてきたので、私はいくらか過剰な神経の昂りから解放されたということができるだろう。

明晰さとか、賢明さには代償がある。だれよりも苦しまなければならないという代償だ。人間が楽になりたいと思うことは自然ではないだろうか?

私が発する言葉が、何の意味も持たないと確信していた数年前が懐かしいけども、今は少しアクセス数が増えてきたので、こういう駄文でも需要があるのだと感じる。最近はまったく有意味なことを書けていないけど、読む人が減れば、それはそれでいいという風に思う。

最近の課題⇒Linguistic turn

この哲学的転回がおもしろくって、興味をそそる。ヴィトゲンシュタイン、フンボルト、クワイン。明日は日曜だし、読書をしよう。

10.29.2015

Il faut se déraciner

相変わらず何もなさず何にもなれずという生活だ。

私は職業人だが職業人ではない。私がもう半年以上続けている日常の仕事を、ふつうの人が感じるようにこなしたことはない。赤ん坊が、積み木を与えられたら、それを組み立てる。車のおもちゃを与えられたら、それを走らせる。人形遊びでもなんでもよいが――とにかく、私にとって今行っている仕事は、何か(唐突に)与えられたものであり、その行為自体はチックのようなもの、痙攣のようなものである。したがって意味など何もない。私はその仕事に感情をあまり与えないようにしている。

そういうわけだから、私には責任などない。仕事とは、本能の行うものだ。

私が白米の代わりにパンを食べたところで、何かが変わるわけではない。私がしているのは「仕事」であり、私が特定の職業人であることを示すのではない。私は仕事をする。しかし、私は仕事によって規定されない。

規定されれば、それは幸せでもある。パン屋のおじさんであったり、土方だったり、あるいは分子設計学の有能な研究者だったり、年収5000万円超の開業医でもいいのだが――とにかく、そういう人種として、自分の在り方に疑問を持たず、その職業的要求に専心できる、そういう人間であることができるのであれば、私も幸せだったろうと思う。

1.私には特定の何かがない。⇒対象としての問題
2.私が特定の何かであることがない。⇒主体としての問題

私には大抵の出来事や問題が、陳腐で、くだらなく思える。私が高みにあるわけではない。私にとっては、例えば青と紫の違いがわからないようなもので、たいていのことが、つまらなく思える。日常の空虚さを、埋めるための物事はたくさんある。私もそれにあやかろうと思うことがあるが、無理だった。

私の人生は、平穏と言えるのかもしれない。私は自分が何者かであると到底思えないし、私にとって大切な、ただ一つのものといったものも終になさそうだからである。私には、執着がない。こうして働いている今も、将来異国で旅をしている間も、たぶん心情的にはそう変わらないだろうという気がする。私には、身ひとつしかなく、財産も、アイデンティティも、拠り所も、何もない。

10.27.2015

離れられない。

牧歌的だった日曜日の風景が遠く懐かしく感じられるくらいに火曜日の今日は憂鬱である。仕事に、疲れ切ってしまった、とにかく、私は、ひととの協働ということには不向きだ。私には、孤独が必要なのである。私は、たまにふもとに降りてきて、数日ぶりに言葉を発するとか、そういう生活に憧れる。人を見るのに疲れてしまった。人の相手をするのが嫌だ。人に会うたび、私は何かを吸われていくような気がする。ひとと言葉を交わすたびに、視線を交わすたびに、私は疲労を蓄積させて、何かを失っていく。しまいには、へばってしまう。人々も、仕事場も、遠くなる。身体も精神も、ずっしりと重くなり、普通のひとびとと接するためには、必死で這い上がって、元気な振りをしなければならない。私は孤独を渇望する。私にはそれが必要だ。しかし、私は離れられない。離れられない――なぜか。仕事場から、消えてしまう人間なんて、到底許されないからだ。そのようなことをすれば、私は社会的に抹殺される。されなくても、刑罰を受ける。離れられないということ、私は自由に行動しているように見えて、上から容赦なく押しつぶされているということ。もっとも、私だけでなく、だれもかれも、その強力な力によって押しつぶされている。働いている人間だけでなく、ニートも押しつぶされている。しかし、どうすればよいのか。私も、あなた方も、みな押しつぶされているのです(自覚はないかもしれませんが)、と訴えたところで、私はいよいよ狂人扱いされるだけである。医学の権威化。標準的であること、多数派であること、逸脱なく、摩擦なく溶け込むこと、正規分布のs信頼区間内にいること。医学は我々を支配した。そういうわけなので、本当のことを言う人間は、みんな病人になってしまった。……と言ったのがフーコーだ。私にはオリジナルの思想などない。最近、ニーチェもアホらしく思えてきた。哲学学者はもっとアホらしい。原文で哲学書を読んだ、それが何だというんだろうか。ヘーゲルを読んだ、カントを読んだ――おめでとう。私はいまだにシニフィアンとシニフィエの違いもわからない。私はなんとなくニーチェが好きだしフーコーは頭がいいと思っている。それで好意と信頼をもって読書をしている。私の考えていることは高尚ではない。くだらないことだ。私は今日の仕事中、猫のことを考えていた。私には、猫は「生きたい」という本能を体現しているように思えた。私はその力強さに心打たれた。読書以外で何かに感動することは、それが久しぶりだった。猫の媚びた動き、おびえた動き、体温、毛並み、すべてが生きることを意志していた。それで、人間はなぜ死にたいと思うのだろうと、実際に死にたいような感情に襲われていた私は考えていた。私とあの猫の違いはなにか。人間も動物であるから、死にたいと思う必要はないのであるが、実際には死を意志するし、そして死んでいる。そういうわけで、「死にたい」という感情はどこからくるのか、ということをぼんやり考えていた。私にとって哲学とはそのレベルのものである。私は、なんら抽象的思考を得意としないし、記憶力はほとんど老人に近しい。論語や老子を読んでいたら「人の嫌がることを進んでやれ」とあって嫌になった。ひとの嫌がることは私はしたくない。私には東洋思想は合わない。西洋思想も合わないのだが。結局、私はしょせん子どもでしかない。成熟した大人にはなれない。一人前にはなれない。この社会には、居場所がないという気がする。なにもかも、失望させられる。

苦痛もある段階に達すると、世界がぽろりと落ちてしまう。だが、そのあとでは、安らぎがやってくる。それからまた、激痛がおこるとしても、次にはまた、安らぎがやってくる。もしこのことを知っていれば、この段階がかえって次にくる安らぎへの期待となる。その結果、世界との接触もたち切られずにすむ。(「重力と恩寵」ヴェイユ)

10.25.2015

猫缶

とくに記すこともない一日だった。

ホームセンターを何往復もして、バイクのメンテをした。

そのあと、猫缶を買って、猫に餌やりをしていた。


今月も、給料が振り込まれた。分不相応な大金だ。

「喜捨」というわけで、猫に餌を与える。人懐こい猫だが、左目が病気のようだった。だいぶ懐いたようで、なでていると何度か甘噛みされた。

海岸のすぐそばの公園で、人はいなく、夕陽が差し込んでくる。空には鷹だかトンビが飛んでいて、すすきがはためいている。風は冷たくなく、強すぎず。

そういうところで、私はイヤホンでサティを聴きながら、猫をなでて、リラックスしていた。ほんとうにリラックスしすぎて、"I didn't know what time it was"といった状態だったが、釣り人たちがのしのしと崖を上がってきたので、撤収することにした。

相変わらず何もしていない。つまり、だれとも会っていない。私の存在は、匿名性のなかに消えている。

したがって記すことのない休日だが、何もしていないように思えて、すべてをしたような気分になるから不思議だ。

10.24.2015

コミュ障は考える

たとえばコミュニケーションスキルやライフハックといった時代の寵児的な浮ついた言葉の数々は、ニーチェに言わせると、ソクラテス流儀の楽観主義ということができるだろう。

私もこれらの事象に何か新しいものを感じ(なぜなら私の人間関係も生活もボロボロだったから)、少し読んでみて、すぐさま失望した。その理由は、結局何も役に立たなかったということでもあるし、鼻持ちならない楽観主義にムカついたということもある。

コミュニケーションスキル 人と人の間でコミュニケーションをとる方法・手法・テクニックを理論付けし、検証を行い技術または知識としてまとめたもの。
ライフハック 効率良く仕事をこなし、高い生産性を上げ、人生のクオリティを高めるための工夫。 

結局のところ、両者の命題とは「他者との交わり方」と「よく生きる」という問題である。

私は、これらの問題が表面的な理論によって解決するようには思えない。まずもってコミュニケーションスキルなんてものが身につくには経験が必要だし、理論についても、そう簡単に結論が出るものではない(少なくともビジネス書書いてる連中には無理)。

「コミュニケーションスキル」と聞くと、人間関係は、まるでプラモデルの組み立てのように構築されるようである。「ここで笑顔に」「ここで冗談を」「ここで同情の言葉を」という指示通りに動いていけば、良好な関係を築けると思っている。

しかし、我々にとって他者とはブラックボックスである。謎でしかない。したがって他者との関係も、なぜだかわからないが維持され、なぜだかわからないが破綻する、我々の認識を越えた不気味なものでしかない。生活についても同様である。よき生活とは何か?はソクラテスに始まりいまだ解決していない。

こうした不気味なものに対しては、すぐさま(見せかけの)解決策が用意される。こうすればあなたは他者との関係がよくなりますよ――。少し前は宗教がこの役割を果たしたが、これはマシだった(隣人を愛せ)。いまではずっと軽薄な、エセ科学(エセ心理学)が人びとの舵をとっている(一冊1800円くらいで)。

そういうわけで、

人間関係は克服されたのだ!

という黄色い歓声が聞こえてくる、些末なダニのような人々が、ぴょんぴょん飛び跳ねているのが遠くに見える。

こういう人々は、すぐさま現実に打ちのめされる。なんだ、指示通りにやってもうまくいかないじゃないか!そうして、彼らはもっと研究に没頭する。よきコミュニケーションの技能を身につけようとする。

結局彼らには永遠に「よき認識」がないのだ。



実のところ、私はコミュ力を無理矢理高めようとしている滑稽な人間を見たことがある。滑稽というより哀れだったかもしれない。私も人に気にいられようと努力したことがあったが、10代のうちに辞めてよかったと思う。

やたら笑顔になったり、世話をやいたりして、虎視眈々と「関係構築」を狙ってくる人間はうっとおしいし、うさん臭い。とくに私は、饒舌な人間と笑顔がぴたりとはまったような人間は、警戒を緩めないことにしている。

私もいい大人だから、相応の「対人スキル」を持っている。自己流の処世術である。それは「人に好かれたいと思わない」ことである。これをバカな人間は、「人に嫌われるようなことをするのか」と思うかもしれないが、そうではない。

結局、相手に執着するとよいことにならない。他人と距離をとること、自分を受け渡さず、他者を取り込もうとしない――良い関係はそういうところにあるだろう。

もしも、他人と距離が取れずにギクシャクするのであれば、そのような環境をまず見直すべきである。たいていの人間関係のトラブルは、距離が近すぎるのが問題なのである。

10.23.2015

イデオロギーと生存欲求

私が前回述べたようなことは、一般的なイデオロギーの意味とは違うのかもしれない。私は「生存欲求による認識の歪曲される過程」というような形で、イデオロギーという言葉を使ったが、wikipediaの定義を見ると少しずれがある。

つまり、「イデオロギーは偏った考え方であり、何らかの先入観を含む」という定義には合致しているのだが、「闘争的な観念である」「イデオロギーは極めて政治的である」という点については考慮に入れてなかった。

私の考えるイデオロギーとは、政治とか社会という概念ではなく、もっと生理学的・心理学的な視点であった。

風呂に入りながらニーチェを読んでいたら、ちょうどそれらしい発言があった。

「はげしい欲望を持つ世界意志は、事物の上にまぼろしをひろげてその被造物を生につなぎとめ、そしてうむをいわせず生き続けさせるための手段をいつでも見つけてくる。これこそ永遠にかわらぬ現象である(「悲劇の誕生」より)」

さっすが心理学者ニーチェ様だ。しかしこれって「意志と表象としての...」と何が違うんだろう。そして、イデオロギーとの違いとは?

イデオロギーとは、結局われわれが生存への意志が生む誤謬であり、それは脳機能によるものかはわからないが、アルチュセールよりも前にニーチェやショーペンハウエルがすでに指摘していたのかもしれない。アルチュセールは教育とか政治のような社会的(国家的)装置にそのイデオロギーを見つけだしただけか?

もっともニーチェも教育においてソクラテス的な楽観主義が跋扈している!と指摘しているわけで、アルチュセールのした仕事って何だろうと思うときもある。

根源としては誤謬の生まれる原因が生存欲求であることは変わらない気がする。

ex 1.  ストックホルム症候群(誘拐されてしばらくすると、犯人に好意や賛同を持ってしまう)
ex 2. 強姦される女性は、生存の危機に晒されると、その暴行に快感を得てしまう(これがPTSDの原因となる例はある)

上記の例は、人間の認識がいかに生存欲求に歪められるかということを、とてもよく示している。

そうだから、我々の立場はつねに誘拐の被害者と変わるところはないのかもしれない。

我々が「好む」ものとは、ニーチェの言ったように「生き続けるための手段」でしかない。それはジャズよりもクラシックが好きだとか、会社で働くことが好きだとか、あの人は嫌いだというような好悪の感情にも働いているし、「私はかく思う」という言説、根源的にはあるものに対する「認識そのもの」にも働いているのだろう。

結局のところ、我々は動物なのであり、つねに生存に向かう仕事に追われているのだから、「真理を見つけだす自由」などもっていないのだ。もし真理に近づきたいと思うなら、仏僧のように厳しい修行を重ねるか、ヒッピーのように薬で脳を痺れさせるしかないだろう。

ちなみにニーチェの上の発言は、

「あるひとは、ソクラテス的快感のとりこになり、認識によれば生存の永遠の傷もなおせるという妄想によって縛り付けられている。」

と続いて、ソクラテス(あるいはもっと前――ピュタゴラスやヘラクレイトス)から続く「論理的思考」を批判している。それは結局迷妄、楽観主義でしかないと。

私が最近、西洋合理主義から離れていこうというのも、こうしたニーチェの批判と同様のものである。「結局、論理って絶対的なものじゃないよね」「論理もイデオロギーのひとつ」という相対主義的な帰結に至った。

相対主義は、実感として宙ぶらりんでつらいものである。こういう状態から、「楽になろうと」ある真理や、確信に落ち込むことは容易に想像できるものだ。

今日はもう会社に行くのでこれまで。

10.21.2015

脳機能障害者は何を夢見るか

また相変わらず生半可な知識で哲学を悟ったような気になるという取り組みをしている。この取り組みは大変おもしろく飽くことがない。

私は壮大な誤謬をおかす。根本的で破滅的な論理的な破綻、あるいは事実誤認を露呈する。私があまりにも当然のように誤りを犯すので、ひとは私を単なるバカだと思うに違いないし、おせっかいな人は一から私の誤りを正そうとするだろう。

私は絶対的に正しい、という確信が揺らぎつつある昨今である。しかし揺らいでいるのは私の認識だけではない。そもそもこの世に正しい認識などないのではないか?まあ、最近はそういった相対主義的な傾向に感化されているわけだ。

この世の到達可能な真理とはあるのか。ないのではないか。あるのはイデオロギーだけではないのか?イデオロギーを玉ねぎに例えたのはアルチュセールだったか。つまり、真理(前認識的なもの)を求めてイデオロギーを剥がしていくと、そこには「なにもない」。

最近町内会やPTAのような日本的な組織のもつ働きの原因が「イデオロギー」であることをしった。イデオロギーとはすなわち「私はそれを知らないが、それをやっている」というようなことである(とジジェクは言っている)。PTAや町内会はまさにそういった事象の端的な例である。

彼らは何も知らないが、ゴミ捨場の管理をする。その職務を怠る地域の住民を、苛め抜くことさえする。もちろん、ゴミ捨場は公共物だし、ゴミ捨て場の管理やゴミ回収は行政の義務である。

論理的には大半の町内会など不要だし、そもそも何の権限も持たない任意団体なのである。しかし、それが力を持っている。町内会のひとびとには、確信がある。何も知らないが――ときには、住民を引越させるほどの力を持つ。これが、私にはイデオロギーの端的な例に思えた。

また、イデオロギーのはたらき。騒音に対する無関心。

確かに、騒音は存在する。私はスマホのアプリの騒音計で測る。「人間が不快に感じる騒音レベル」と出る。しかし、周囲のひとびとは無関心だ。「車の騒音がうるさくないですか。窓を閉めましょう」。しかし、「言われてみればうるさいねえ」で、あとは無関心だ。

こういった例が続くと、私だけが真の人間であり、他は何か調子の狂った病人だと思うようになっても仕方ないだろう。しかし、彼らもまた知らないのである。つまり、日常を平然と受け取っているから、何の摩擦もなく日常を享受しているから、騒音に慣れ切ってしまっている。

イデオロギーとは、日常に対し摩擦がなくなり、「慣れ切った」状態なのかもしれない。つまり実際的、現実的な人々は、みなイデオロギーの虜ということか。

私は、なんとなくイデオロギーの玉ねぎの例がわかるという気がする。つまり、我々はイデオロギーなしでは現実を認識することが不可能なのである。我々は認識する前に信じなくてはならないのであり(つまり、世界は世界である、と)、そうして信じることは誤謬なのであり、その誤謬を正当化する緩衝材がイデオロギーなのである……。

だから、我々の認識はすべて誤っているのだが、しかし信じることが不可能となれば、我々にとって世界は霧散してしまう。我々が生きるということは、つねに誤謬であるということなのだ。

私の言いたいことは、認識の過程でイデオロギーがその情報をフィルタリングして補正するのではなくて、イデオロギーを土台として認識が行われるということである。

ここで生理学的な話になるが、やはり「脳が情報削減装置である」というある生理学者の話が、私には信じるに値するという気がする。あらゆる臓器が生存と生殖という目的のために存在するように、脳もまた生存を志向する。それがゆえに、我々は脳のはたらきによって、正しい認識ができないとも言えるだろう。

現代の脳科学は心理学のようにエセ科学的な要素が否めないのだけど、これから脳科学が正しく進展してゆけば、われわれは脳を何か神のように扱うことを辞めるだろうと思う。脳は我々が神の仲間ではなく、単なる動物であることを示す象徴に過ぎなくなるだろう。脳は忌々しい獣じみた産物(たとえば少女にとっての排せつ物のようなもの)に転落するだろう。

10.20.2015

ジジェクを読んでいる

私はオタク趣味がなぜ嫌いなのか?という点については一日仕事をしている間考えたがどうもわからなかった。

ジジェクを相変わらず読んでいる。マルクスとフロイトの共通項について述べているが私はマルクスをまともに読んだことがないので困っている。しかしマルクスは意外と先進的なことを述べているように思う。

私が近頃興味を持っているテーマは「支配と従属」なのだがそれに関する記述もあった。

我々の社会は「自由」と「平等」の社会である。我々個人は主従関係を持たないし、主体的な個として切り離されている。我々は功利的に振る舞う。メリットのない関係には従属しない。会社が嫌であれば退職し、パートナーが嫌であれば離婚する。そういう自由が我々にはある。

旧来私たちの社会とは永く封建社会であった。それは支配と従属の世界であった。人と人との間には明確な上下関係があった。そういう時代は、過去のものになったのだろうか?

そうではない、とマルクスは言ったわけだ。我々の社会は、人間関係においては主従の関係はなくなったが、その代わりに物と物の間に投影されている、と。これが物神化である。不思議なことに、我々が個人として平等になるにつれ、モノに対する執着、物神崇拝が強化されているのである。(生半可な知識だからたぶん間違っている。)



この感覚は、最近「論語」を読んでいて感じたことでもある。私が感じたのは、孔子は(老子などと違い)処世的な哲学が多いということである。論語は師や親に対する忠誠というか、忠孝の概念をいかにこなすか、という点に力点が置かれているのである。

私は、孔子がもし現代の西洋国や日本に生まれていたら、忠孝などに目もくれず、「いかに快楽を得るか」、「いかに富を得るか」ということを考えていたと思う。

現代における「富を得ること」も、封建社会における「忠誠を尽くす」ことも、どちらも「幸福の追及」ということは変わらない。ただ、物神崇拝の社会においては「富」や「快楽」が重要になるのだろう。



私は封建社会にノスタルジーを感じることがある。案外、日本の軍隊主義とか、集団主義、体育会系のあの関係は、悪いものではないという気がする。ブラック企業は例えば、封建主義的である。パワハラをかけてくる上司は、その暴力や人権侵害によって神格化される。

私は、日本に我慢ならないこともあるが、少しこの国を認めるようになってきた。日本という国は、西洋合理主義の強力な影響力に対抗しようと努力している国家なのではないか。

だから、私は日本の不合理な部分、わけのわからない部分も、受け止めて消化しようという気になった。私にとって理解できない「一般の日本人」の方々についても、なるべく理解しようと思うようになった。

日本での生活がストレスフルなのは相変わらずだ。しかし、私のなかで、西洋思想に対する信奉が消えつつある。そうだから、どこか理想的な思想を求めている。ひとまず、ジジェクはおもしろい思想家なのでもう少し読みたい。

#2chのジジェクスレを見たら、「現代思想界のオワコン」とあって笑った。「ジジェクはインチキ臭い」とも。たしかにけっこう胡散臭い人物だと思う。

10.19.2015

ジジェクがひとは夢のなかでイデオロギーから解放されると書いている。文字通り受け取れるとすれば興味深い話である。つまりラカンのテーゼ「夢と現実の対立において空想は現実の側にある」ということである。

そうならネットのスピリチュアル系の人々が夢の啓示を受ける(そして現実に適応する)ということも理解できる。私はスピリチュアル系をバカにしてはいない。ときには並々ならぬ知性を感じることがあるから。

哲学とスピリチュアルは深いところで繋がっている気がする。行き着くところは同じなのかもしれない。


私の職場に新しく入った21歳の女は、趣味がニコニコ生放送なのだという。彼女はニコ生で歌ったり踊ったりする。彼女は言う、「私は仲間たちと夢を追いかけている」と、もっともこれはニュアンスとしてだから、もっと控えめだが。

そういう、「夢」というものを聴いたときに、私はぞっとする思いであった。

私はオタク趣味は嫌いだ。空疎という気がするからだ。与えられるものを喜んでいるだけにしか見えないからだ。「与えられた趣味」という印象だからだ。

オタクは単なる消費者という批判があるが、これは半分誤っている。消費しているのは、フィギュアやDVDなどの商品ではなくって、「趣味」という商品である。つまり、何もない人間に、一個の趣味人の資格を与えるもの。

私にとって、声優オタクとか、アニメオタクはそういう生き物に見える。

私が彼女の発言にぞっとしたのは、彼女の「夢」もまた「与えられたもの」、商品であるというふうに見えたからだ。つまり彼女は自由に主体的にそういった夢を追及していると思っているが、私には彼女に主体性があるようには見えないのだ。

もっとも、私はオタク趣味ばかりを嫌悪しているわけではない。私が嫌いな「夢」はもっとたくさんある。例えば芸能界に入ることを夢見るとか、人脈を築き上げて金をたくさん稼ぐとか、そういうロールモデル的な夢を追いかけている人びとは、私は唾棄すべきものだと思っている。

ひとは自由に独創的に振る舞っているように見えて、実は市場経済の歯車の一個に落ち着いていたりする。

集団というのはおそろしいもので、みながそういう「夢」を追いかけているように振る舞うと、何かそれが教条のようなものになってしまう。それは信仰によって正当化される。実のところ、ある商品と信仰は変わるところはない。

だから人間は、まずもって世俗の関係を断ち切り、孤独に自己と向き合って、本当に自分がしたいことを見つめなければならない。

私にも趣味はある。例えば、オフロードバイクで山を登ったり、楽器で独奏してみたりする。また、読書もいちおう趣味と言っていいだろう。そういった趣味と、オタク趣味は根本的に違うのである。

と言い切ってみたが、根拠に乏しい。私は、オタク趣味が商品的であるということで批判するけども、それと楽器やバイクの何が違うのか……?これはうまく説明できないのだが。

ともあれ私は彼女が「夢」と語ったときにぞっとする思いがした。もっとも、21歳なんてそういう年なのだろう。私が21歳のときなんて、本当に目の開ききっていない子どもだったから、人のことなどとやかく言える立場にない。

10.18.2015

どん底

会社の集まりがあるので、私は日曜日の今日も家でのんびり読書というわけにはいかず、自転車を走らせなければならない。

私は私のために時間を使うよう、この田舎にきたのだけど、中小企業の現実というのは、そうもいかないらしい。仕事以外に頭を働かせない人々と一緒に暮らしていれば、しだいに私も同化してしまうのではないか?

環境に適合してしまえば、自己が阻害されるのだから、難しいものである。もともと、自己というのは、世界に調和することはできないようだ。だから、自己に閉じこもるか、世界の方へ行くか、その間で揺れ動くしかない。世界を疑うことを知らずに過ごし、自己を失うことも不幸だし、自己のなかで閉じこもることも、不幸だろう。

日常のささいなことが、私の精神に影響を与える。くだらない仕事ばかりしていれば、くだらないことしかできなくなってしまう。

孤独に、引きこもりたいものだ。読みたい本が溜まっている。自己がなおざりになっているように思う。私は、もっと自由に生きることができるはずだったのに。

10.16.2015

労働者の夢

成功とは失敗であり、生きることは死ぬことであるなら、もう執着する必要もないということだ。

なんだか慢性的に疲れてしまって、生活に倦む日が続いている、金はあるけど、それだけでは虚しい。

もっとも、私は数年の間金を稼ぎ、それから学問の道を歩もうと思っている。学問の道というのは、別に大学に再入学するわけではなくって、読書をしたり、音楽をしたり、放浪したりというだけなのだが、とにかくそういう密に生きる、真に生きるような期間を自分のために設けたいと思っている。

あるいは大学に入ってもいいという気がする、とにかく自由に活動できるのは無職であるよりは学生なので。しかしこの年齢で10代の連中のなかに飛び込むのは死ぬほど嫌だと思う。それなら孤独に読書すべきか。

とにかくこの賃金労働者としての生活は生を台無しにしているように思える。私は今日も労働時間の半分を終えた、3/4だ、あと10%だ、という風に、時間を計っている。このような生活は悲惨である。私はできるだけ労働時間を忘却しようとする。そうすれば、眠っているときと同じように、時間が早く進むからである。

毎日が同じようなことの繰り返しだが、労働者というのはそういうものだろうか?私は働きだしてちょうど半年だけれども(もう5年くらい働いたような気分だ)、もうこの退屈な日常はおしまいにしたいと思うのは、まことに、自然なことではないだろうか?人間にとって、自然な反応ではないだろうか?

世間のひとびとは、どのようにして自分の生涯にあきらめをつけて生きているのだろう。どのきっかけで、「私にはこの仕事が分相応だ」と思うのだろうか?だれでも初めは、仕事は、嫌なはずである。次第に順応してくるのだろうか。

もっとも、私も最近までは順応し始めていた。労働者としての喜びも、侮りがたいものだ。しかし、出勤するたびに、あと何か月、何年とこれを繰り返すのか、とつねに自問している。

私は、たまたま、仕事に向いていない人間だった、少なくとも、私はだれかに使われることには向いていないようだ。自意識が強すぎる。つまり私は自分が自分の主人でありたいと思うので、私の主人となろうとする人間がいると、本能的に反発してしまうのである。

一年か二年か前に、私は文筆家になろうと、文章家になろうとした。というか、なる、と宣言した。たしかあの宣言では、私が三十才になるまでに達成すべし、とされていた。そのようになれれば、本当に良いと思う。

私の労働者としての生活が夢に終わって、人間(じんかん)を離れた真な静謐のなかで、読書をし、文章を産み、ときに産まない、という本当の生活が送れるようであれば、それが望みである。

もっとも、文章家になったとしても、現実はそのようにはいかないだろうということはわかる。生きることは、結局のところ、苦痛に満ちている。この不味いパンでも、手放してしまえば、それが惜しくなるものだ。

10.15.2015

雑記

なにも為せず終わりそうな人生である。

この年齢にもなれば人生のいろいろなことにあきらめをつけて行かなければいけないのかもしれない。

私の友人は、それなりに楽しくやっているようである。やはり田舎での生活が不味かった?私は都会の生活において、自分は孤独だと感じていたが、それなりに人間との関わりはあったし、そこで影響を受けることもあった。

今この田舎に住んでいて、私が影響を受けることができる人間は、ネットの誰かだったり、書籍だったりするのだけど、そういう情報というのは、私を見ているわけではない。私は広範な「視聴者」「visitor」「読者」のなかのひとりである。

そして、私が個人的に影響を受けるような人間は、現実生活ではほとんどいない。私が心を閉ざしているだけなのかもしれないが、それにしても、田舎の人々はあまり興味を引かない。みな一様であるように思える。

私を引っ張り上げて、叩きなおしてくれる人間を望むことがある。人間、孤独にあって真理をつかむことは難しい。ほんとうの真理というのは、一般に認識されるものではないからだ。プレゼンだの、書籍だの、テレビだので開陳されることは稀だし、開陳されているとしても、人々にそれは認識できない。それは実際、「秘伝」なのである。見込みのある弟子にだけ伝えられるものだ。

私は、そういう意味での「師匠」なんてものはないし、これから得られる見込みもないから、ひどいハンディを抱えている。私が影響を受けた人物というのは、あるとすればニーチェとか、ヴェイユということになる。ふつうの人は、「父親」とか、「サークルの先輩」とか、「会社の上司」と答えることだろう。ただ私には故人との希薄な繋がりしかないのである。

田舎のすばらしいところがあるとすれば、それは人間ではなく、自然だろう。バイクでトコトコと走っていると、海、山、川、はっとするような美しい情景が眼前に広がることがある。これは少しの救いである。

私は、世間での成功とか、失敗とか、そういうものから離れて、私独自の価値観を身につけなければいけないのかもしれない。それは、人々の間で見つけられるものでなく、私と、自然との関係において見つけられる気がする。

10.14.2015

ego

我を信ずるところに音楽がある。最近の弛緩は音楽をしていないからだろうか。

自己と世界とはまことに対立するものらしい。というのも、私は長く健常の世界を望んできたけれども、いざ健常に近い世界に辿りついてみると、今度は自己が恐ろしくなってきたのである。いままで拠り所にしていたところの自我が、何か得体のしれないもの、恐怖を与えるものに変容した。

会社員としての私は、凡庸そのもの、当たり障りなく生きている。仕事をしながら、思索にふけることはなくなった。さて、今日は何の酒を飲むか?何を食べるか?私の貯蓄、そして私の消費。せいぜい未来のことといったらその程度しか関心がなくなっていたのだ。

世界に適応すれば我が置き去りになる。自我に執着すれば生きることが恐ろしくなる。

私は凡庸な平和な痴愚化したあまりにも多数の人々を、幸福だと考えていた。無思考は幸せだと。しかし彼らは実のところ、「捨ててきたもの」に常に追われているのである。それはすなわち自己である。

だから、世界を捨て去ってただ自我のみに生きている人々を見ると、彼らは恐れおののく。異端だ!彼らは執拗に攻撃する。彼らの目はいきいきと輝き始める。これが彼らの本能の表れである。

つまり、彼らにとって自己の阻害は日常毎だから、内面世界を見つめる他者への攻撃もまた、慣れ切った作業のように自然にできるということだ。似たような構造は、あらゆるところで見受けられる。

処世の術
平野の上にとどまるな!
あまりに高くも登るまい!
半分ぐらいの高さから
この世を見れば、いちばん美しい。
(「華やぐ知慧」ニーチェ)
私の見解では、精神の内向、外向というのは、たとえば飛行機を見ようとして空ばかり見て駆け出し、つまずいて倒れるようなのを外向的といい、自分の足元ばかりを気にして、飛行機を見失うようなのを内向的という。(「神経質の本態と療法」森田正馬)
野生人と文明人の違いを作りだしている根本的な原因は、まさにここにある。野生人はみずからのうちで生きている。社会で生きる人間は、つねにみずからの外で生きており、他人の評価によってしか生きることがない。(「人間不平等起源論」ルソー)
ああ俺の胸には二つの魂が住んでいる
その二つが折り合うことなく、互いに空いてから離れようとしている
一方の魂は荒々しい情念の支配に身を任せて
現世にしがみついて離れない
もう一つの魂は、無理にも埃っぽい下界から飛び立って
至高の先人達の住む精神の世界へ昇っていこうとする
(「ファウスト」一部)
 

10.13.2015

days

最近はどうもダメだ。どういう変化のせいでこうなったのかは知らないが、とくに書く気がしないし、書く必要もないと思っている。

この三連休は、本を一冊も読まなかった。ジジェクを少し読んだが、やめた。二次大戦の歴史書を読んでいる。歴史書は、簡単に読めるからいい。

かつての自分は異常だった、今の私は少し正常だ。私はある意味「大人になった」のであり、それは「分別をわきまえる」ようになったということでもある。

神経症者が哲学を学ぶとしてもそれは必要からであり、彼が治療されればもう哲学しようという気はなくなるという。

神経症は少し軽減された。

神経症の原因を考えてみると、それは世界に対する恐怖だった。世界は私を常に何らかの形で排斥しようとするもの、という皮膚感覚があった。私はこの世界において、不安と緊張をかかえながら生きねばならないと思っていた。

しかし環境は変わった。私は田舎の牧歌的な空気のなかで、孤独に過ごした。これが治療には良かったらしい。とにかく、人間が少ないということが、私には良かったように思う。世界との距離感が広まったということ。結局世界とは他者なのだから。私を知る人間はわずかだし、私が知る人間も、職場の数十人だけである。

また、ある程度の財を蓄えるようになったこと。学生時代のような、劣悪な環境、経済状況で日々を過ごす必要がなくなったということ(学生時代にもう少し金があったのなら!私は3年も同じコートを着なくてよかったのに。今新しいコートを買うだけの金があっても、大学のあの相互承認の中に私はもういないのだ)。

田舎には競争がない。知の追及がない。富や権力への欲求もまた、ないように思う。犯罪もたかが知れている。ある意味、ひとびとは痴愚だけれども、彼らの姿を見るに、そこそこ幸せなのだと思う。

私はこれまで、強迫的に知を追及してきた。本やネットの情報。哲学、宗教、思想、科学。何かが得られると思ったけども、何も得られなかったのかもしれない。ひとより多くの知を身につけ、ひとよりも真理に近づくことを目的としていたが、こういった知というものは、まったく価値がない。

一度東京に遊びに行きたいという気がする。あの雰囲気をもう一度確かめてみたい。

10.12.2015

外縁より

国家がどうのと考えることは子供じみている。私が述べていることは、正しいのかもしれないし、また、誤っているのかもしれないが、結局は無責任な子どもの戯言に過ぎず、どうでもいいという気がしている。

私には、山河があればそれでいい、という風に思う。世界は、解きがたく錯綜している、私の理解を越えている。一個の人間でさえ、私の手に負えない。そういうわけだから、私が自然のなかに隠遁を望むとしてもそれは無理のないことである。

金さえあれば、乾燥した、だれもいない広々とした平原に家を建てて、それでもう畑暮らしで生きていくのだが。我々はみな、金や必要に縛られて生きているわけだ。

我々のだれしもが卑俗な生活の必要に追われているのであり、それから解放されたはずの貴族階級でもまた、サロンの人間関係に思い煩い、富や名誉といったことに思考を支配されてしまう。

不要なことは述べるべきではない、わからないことを、わかったように口にすべきではない、とは思うが、私がもしも自己を滅却してある表出の媒介となること、これを辞めたら、つまり「理性的」になってしまったら、もはや何も価値のあるものは産めないという気がする。

私は一個の人間である、それは人間のうちでも、変質的なものかもしれない。あるいは、私こそが真の人間であるのかもしれない。この時代に、真の人間などわずかかもしれないからだ。

私が外縁に位置し、境界人であることは、世界から阻害されてることをただ意味するだけではなく、世界の外側に片足をつっ込んでいるということになる。もちろん、私はそれがこれまで苦痛だったけども。

片や狂気、片や理性というふうに、揺れ動くけども、なにも私だけが狂気を独り占めしているわけではない。凡者であっても、狂気にときおり戯れに触れることはある。

最近は、私も、そういった凡者に近づこうとしている気がする。私のこれまで記述してきたことは、一厘の価値もないように思えるから。もっとも私は長くそれを望んでいた。私は自分の狂気が死ぬほど嫌だった。

不幸と、陶酔と。幸福と、退屈と。この間で揺れ動くところの或る者である。

まあ最近同じことばかり管巻いている気がする。今日もバイクで出かける。最近、ほんとうにバイクが楽しい。

10.10.2015

精神戦争

我々は支配・統治されている。

それなのに、その認識がひとびとに浮かばず、言表すれば即「狂気」となるのは、不思議なことである。(これこそが権力のはたらきか?)

民主主義的な教義がある。即ち「我々(大衆)こそが支配者なのだ。我々が政府を管理し、国を治めるのだ」。こんな安っぽいプラスチックのような教条を、ひとびとは本気で信じているらしい。

少しでも聡き人であれば、「アホかーバカバカしー」となるだろう。まことに教科書は嘘ばかりである。

政府が我々にもたらす結果の多くが、大衆の意志など反映していないことは、まずもってこれは事実である。不思議なことは、それを大衆は受け入れていることである。大衆は、政府広報の意のままにこれを飲み込み、なおかつ先の誤謬、民主主義的な誤謬を受け入れているのである。

まずここに、国家と民主主義との矛盾は、社会構造の中というよりも、大衆の内部に深く組み込まれていることがわかるのである。

日本の大衆はなぜ矛盾を飲み込むことができるのか?

西洋的な大衆は矛盾を受け入れることができないだろう。彼らは少なくとも合理主義だから。こういった矛盾を矛盾のまま飲み込むのは、おそらく東洋人だけだと私は考える。

だから、法治の概念も、個人主義の概念も、その基礎的な部分ではまったく根付いていないといえるだろう(私などは、学生時代中にもろに個人主義の精神を身につけたので、日本社会で生きていくことに難儀した)。

おそらくここに、理想主義と現実主義の文化的違いがあるのだと思う。西洋理想主義と、東洋現実主義である。犬は西洋人にとって機械だが、東洋人にとっては一個の魂があるのである。

ところで文化というのは国際関係の場においてどのようなはたらきをするのか?我々は文化を何か平和の象徴のように考えるけども、その実、文化ほど排他的なものもないのではないか。

最近、西洋文化と東洋文化の戦いという風に、歴史を解釈しようという試みをしている。宗教、セム系の一神教と、それに対する土着精神、アニミズム。

先の大戦の宗教事情が気になる。ムッソリーニ曰く、「宗教を信じる人間が頼るべきは教会ではなく精神科であり、キリスト教は人を怠惰にしただけだ」。ヒトラーの反キリスト主義も有名。

第二次世界大戦は宗教戦争だった?あるいは文化、思想、精神の戦争。もっとも、私はほとんど歴史に疎いのでただの思い付きだが。

現在支配的なイデオロギーに対して、噛みついているのは現在ロシア・プーチンくらいのものだけど、日本も対米従属しているように見えて、その実、反旗を翻すときを待っているのかもしれない。

以上歴史を精神イデオロギーの観点で考えると容易に紐解けるのでは……。結局またシオニズムが絡んでくるので陰謀論くさくなる。

#調べてみると、ナチスとシオニズムは協力関係にあったとか?歴史はおもしろい。

10.09.2015

私と日本国家 2

私はどうやら、国家というものに対して理解を得たような気がする。

国家とは、あまりにも複雑で巨大な概念だけれども、いままで得てきたような誤謬に満ちた概念をひとつずつ取り除いていけば、すなわち「権力」や「統治」といった要素を使って考えると、一挙にシンプルになる。

それは国家という構造の一面的な解釈なのかもしれないが、私は生活のいろいろな出来事を、国家に結びつけることによって、不可解な現実を理解することができるようになった。

例えば、町内会やPTA、税金、警察、公共機関、労働環境、人間関係のささいなこと。それに、あの不可解な原発事故対応。

ex:私がゼミで放射能を避けるようプレゼンしたら、質疑応答において執拗な攻撃を受けた。

フーコーは権力とは上から押しつけられるものではなく、横や下からひそかにはたらくものだとしたように、こういった卑近な日常的な出来事の間に、権力はよりよく潜んでいるようである。



国家構造を知ると、私のような人間が国家集団の間からつまはじきものにされるということが、必然のように思えてくる。私は中学校や高校のクラスで排斥された。わずかな理解者と友人しか持たなかった。独学で入った大学でも、私は排除の憂き目にあっていた。

そうして、大企業の面接でも私は受け入れられることなく、田舎の小さな企業で細々と生活を営んでいる。このように、私はある権力構造からはじき出されたわけだ。

私がなぜ異端なのかといえば、それは精神的な同調性に欠くからである。つまり私は鋭敏な神経を持っていたし、また実際神経症だったからである。このような人間は、権力と親和性が低い。潔癖症なのである。それだから少なくとも日本の国家構造においては排除され苦しむことが必然となっている。

日本社会のつまはじきものは私だけではなくたくさんいる。こうした人はオーストラリアやイギリスに移住して、帰ってこないようだ。だいたい、ある程度の教養があるインテリで、語学力があり、留学経験が豊富なようだ。ただ彼らでさえ、日本に対する執着は捨てがたく持っているようである。まあ母国だから当然なのだが。

日本が私を排斥する。それは必然であり自然だ。それなら私はどうすればよいのか。海外にでも行けばいいのか?あるいは、日本国家の私に対する攻撃を、笑ってうけながせばよいのか。権力と個人の間のじゃれあいとして。

ある個人が私を攻撃するとしても、私はその個人に恨みを持つことはないだろう。それは、処刑場に赴く人間が、処刑人を恨むことがないのと同様である。

私は日本の国家構造を受容した。支配と統治の構造を理解した。

この理解は、ほとんどがフーコーの助けによるものだ。上のような文章はほとんど錯乱・狂気に近い、つまり統合失調症的である。例えば狂人の叫び。「国家権力が私を排除している!」。これと内容的には寸分変わらない。

フーコーが権力の正体をつきとめるだけでなく、狂気を問い直したのは、そういった事情によるのだろうと思う。すなわち、狂気とは、権力の認識といえるかもしれない?また少し勉強してみたい。

10.08.2015

私と日本国家

あれほど毛嫌いしていたファシズムを「受容」しつつある自分に驚いている。私の性格はどうも、変わったらしい。

私は日本という国を長い間嫌いだった。できそこないの半端国だと感じていた。そこに住んでいる人々は、呪術やまやかしを信じているような土人であり、私とまったく相容れない秩序に従って生きている人々だと感じた。

私は自分を文明的な人物だと思っていた。私は法律や、自由や、民主主義の概念を理解していたから。正しく機能した国家とは、聡き大衆によって、自由と平等が保障された国家であると認識していた。

しかし、民主主義は成功したことがあるのだろうか。私にはどうもそのようには思えない。民主主義はつねに機能不全だった。

私は、よき統治とは、君主制か寡頭制にあると今では感じている。だから、他国の民主化運動などを見ると鼻白む。彼らは子供じみた幻想を追い求めているようにしか見えないからだ(ところで、私は日本を民主主義だとは一切考えなくなった。私はすでにそのことを受容している。)

私が日本のことを嫌いだったのは、端的に、私のことを排斥するからである。「論理的」には正しい私をこの社会が排除するからである。

例えばサービス残業に異を唱える社員は「法的には正しい」のだが、結果として排除される。同じようなことが私の人生には数知れずあった。そのせいで、私はまったく理解できないおとぎ話の世界にいるかのようだった。なぜ正しいはずの私が疎んじられ阻害されるのか?

してはいけないことはたくさんあったが、それは見ることができなかった。しかし、周りのひとびとは当たり前のようにそれを回避し、まるで自由を謳歌しているように見える。私は明言化されない強制力によってしばしば鞭打たれた。そういう理不尽な目にあってきたから、私がこの国を疎んじるようになったとしても無理はないだろう。

では、最近になってどうしてそのような状況を肯定的に捉えることができるようになったか。理不尽さを肯定できるようになったか。それはその「明言化されない強制力」の構造を、理解することができたからである。

それは、日本という国家が成り立つための必要だった。無数にある柱のうちの一本だった。ある個人あるいは集団が私を排除しようとするとき、彼らは私が憎いのではなかった。彼は権力の手によって動かされている。彼は権力の末端として、その機能を果たしたのだ。

そういうわけなので、この国に働く支配、統治、権力などの諸要素を、私は理解した。私が社会的に排除されてきたのは、すなわち、正しいが故だった。私は個人としての論理に従い生きてきた。孤独に自己の要求にしたがって生きる人間だった。このような人間は、権力の影響を受けにくい。したがって、私は国家に楯突くようになる。いわば私は国家反逆者だった。

しかし私が正しいとすれば、国家は間違っているのか?西洋論理であればそうなる。しかし、ここ日本の統治では、国家もまた国体の維持の機能として、正しいことをしたことになる。

私はこのように理解した。個人としての私は常に正しい。そして、正しい個人を排除する国家もまた常に正しいのだと。私個人と、日本国家がある以上、私が排除されることは、水と油が分離するくらい、自然なことであった。

私がこの国の支配構造を肯定するようになったのは、それだけの理由である。国家は自然であり、私もまた自然であった。それに「気づいた」だけである。

ファシズムを問い直す


私は、日本的な統治が劣っているとは思わない。忠孝の概念とか、年功序列とか、過剰なまでの儀礼とか、町内会やPTAに表れる集団主義的な権力構造は、私は悪いシステムではないと思う(私はそういったことに関わるのはごめんだが)。

考えるに、一個の国家が強力な力を持つためには、優れたシステムであると思う。現にこの国では、だれしも勤勉に働くし、高額な税金を納め、悪行を働かず、国家に楯突くこともない。

西洋などは、逆に力を失っていると思う。すなわち個人主義、民主主義などといったもので、統治がうまく行くと考えることは、実際逆立ちした考えである。理屈の上ではうまくいくが、これもまたプラトニズムの弊害で、あくまで理想における話である。

人間が何千年もそうしてきたように、優れた君主が国を統治するというシステムこそ、強力な国家集合体を生むのだろう。それは長く中国が世界を支配してきた事実と通じる。(私は現在の首相は考慮していない)

日本やドイツがファシズムに傾倒したのも、民主主義や個人主義の波による国家弱体化を懸念し、それに対する反発だったという気がしなくもない。ファシズムとは、考えてみれば、人間の旧来からある自然な統治様式だったのである。我々は歴史の特異的な産物、一個の集団狂気だと思わされているけども、民主主義が最高のイデオロギーとされる現今が実のところ、狂気なのかもしれない。

ファシズムとは、「団結」という意味である。

ミクロな視点では、我々は個人として切り離されている。我々の財産は個人で切り離されているし、私の生と死は、私だけの生と死だと思っている。私たちの思想は、私個人に帰属される、という風に考えている。

しかし、このような状態で力が生まれるだろうか?充実した生が得られるだろうか?ここに民主主義の弊害がある。人はふつう、だれかのために働くときこそ、強大な力を発揮する生き物だからである。

我々はある集団のために機能するときに、より大きな力を生じる。だから、(切り離された)個人はつねに集団に劣るのである。ファシズム(=団結)とは、だから、現代における禁忌なのである。それは各々が個人というくびきをかなぐり捨て、集団に帰属したときに、アンコントローラブルな力が生じるからである。

そういうわけだから、我々がある権力によって、細かく裁断され(それは一個の家庭においてもみられることだ)、集団としての力を持つことが損なわれていることになる。このことは、統治に便利だからである。

民主主義や個人主義とは、民衆の弱体化である。ファシズムの肯定とは、反シオニズム的な思想、したがってオカルトや陰謀論に通じてしまうのだけど、私はそこまで間違ったものではないと思う。


以下日記

日常は特筆すべきこともなく過ぎていく。

平安と言えば平安だが、このような日々の生活は偽りであると考える。このような生活に満足できる男があるだろうか?

生活に対する不安の消失という、私が長く求めてきた(そのために青春を費やしてきたと言ってもいい)目標に、ついに行き着いてしまえば、そんなものはただ価値のないガラクタでしかないようである。

私は「足るを知る」べきなのだろうか。人は到底満足することはできない生き物であるのだし、賢人であれば、満足することを求めないものである。日常のささやかなことに笑い、自然に生きていけるのであればそれで十分なのでは?

私の知らない世界があるのかもしれず、そこでは人々は生を思うがまま充溢させているのかもしれない?私のような空漠な人生を知ることもなく、日々重要な職務につき、有能な仲間たちとともに、生きがいを得ているのかもしれない。

私のしている仕事は、ほとんど一分の価値もないという気がする。私は商売というものに、ほとんど価値を見いだせない。それでも富の重要性はわかっているから、どうにか商売から離れるために、それだけの富が欲しいと思う。

人間は、道徳や生といった抽象的な問題よりも、目先の数字に騙されてしまいがちだ。数字というのは、ほんとうによく人を騙すものだ。

偏差値とか、点数とか、順番とか、そういった「数字」による序列は、われわれは教育によって繰り返し刷り込まれているから、そのことに疑問さえ抱かないけども、大人になってもこの呪縛は続く。年収とか、貯蓄や、出世競争などにより。


10.07.2015

隷属と自由

とくに観察するに、他者の存在こそが隷従をもたらす唯一の本質的な因子である。人間のみが人間をよく隷従せしめる。(「自由と社会的抑圧」ヴェイユ)

人間に自由意志などなく、あるのは自然意志のみであるとすれば、「あれをしたい」という感情は、ふつう、ただ外部から与えられるだけであるのかもしれない。

ex:テレビCMに騙される人々。

しかし、「騙される人々」は「騙される」ことを意志しているとも言える。この共犯関係は、ある社会的な要求に対する儀礼である。

「社会的な人間である」と扱われるためには、ある能力を示す必要があるというよりも、ある能力の欠如を示さなければならない。

ex:人生の根本的な問題については、無思考であること。

すなわち、人は明日死ぬとなれば、今手をつけている仕事など馬鹿らしくてできなくなる。社会的な人間は、自分のしていることの意味を考えない。与えられた仕事を、黙々とこなすということ。


このように、我々は自由意志を持っていると思っている。西洋人であれば、より一層そう思っていることだろう。しかし実際のところ、我々は「騙されて」いるのであるし、また「騙されたがっている」。我々は確かに意志することができるが、我々に意志できることは、ひどく限られているということ。

「強い信念」「努力」といったものを、よくよく見直さなければならない。というのも、それは大概が内発的な要求というよりも、外部から押しつけられたものだからである。

ex:「努力すれば、富が手に入る」。

なるほど、これは事実かもしれないが、さて富を得ることが果たして重要なのか?

かえって芸術では、努力は慎重に排除しなければならない要素である。ある意志、例えば世間に認められたいとか、あの賞をとりたいとか、あるいは「良い作品を生みだしたい」という意志までが、逆に作品を損なうことは、よくあることである。

よき芸術は、生のありのままの姿を表出しているものである。それは、外的な要求に歪められなかったものであるから、美しい。というのも、外的な要求に歪められた醜い諸産物などは、世間にこれでもかというほど溢れかえっているからである。

我々の生は、社会の権力によって歪められることがありうる。そういうわけだから、人間には孤独になり、自己の声に耳を傾けることが重要なのだろう。だから一個の人間が成熟するには、自己と自己以外にだれもいない状況に沈潜することが、どうしても必要なのである。

そうでなければ、我々は自分の意志だと思っていても、ただ流されるだけの人間でしかないのである。これを欲せと言われたものを、欲することしかできない、一個の道具と化してしまう。

現実には、「ありのままの生」などというものは不可能である。孤独者とは、ある母体となる社会集団から、一個の理想を求めてその輪から飛び出ただけに過ぎないからである。我々の生はつねに歪められており、常に不自由である。我々が自由を渇望したところで、到達できるところはより自由な不自由でしかない。だからこそ、我々には芸術が必要だ、ともいえるだろう。

10.06.2015

孤独のおわり

十分な生活、潤沢な生活を送っていれば、ひとはもう考える必要などなくなる。中程度の収入と、中程度の支出さえあれば、人は鋭敏な神経を持つ必要はない。

「君主は民に腹いっぱい食べさせろ。そうすれば、厄介な賢者はいなくなる。」と老子が言っていた。そうして、孔子はこうも言う。「君子は良い家に住むことも贅沢なものを食べることもない」と。

最近自分の生活の誤りに気付いてきた。つまり、自分はいい環境に住み贅沢なものを食べている。私の生活の変化が、私の精神に影響を与えていると考えることは、自然のことだ。精神は切り離せるものではなく、生活のそこかしこにあるものだ。

弛緩した日々にあれば、人生は意義を失う。かえって深い苦しみと絶望のなかに光があるものだ。私が求めてきたものは、ただ最大効率で富を得るということに終始していたと思う。たしかに、人は金のために働くのだけど、それだけなのか。

金は必要だし、ある程度の資産があれば、人は金の執着から離れられる。だから、我々は貧困を避けねばならないし、また十分にある資産をもっと増やそうなどとは思わないことが必要だ。そうすれば、もっと重要なことを考える余裕ができる――と、古代ギリシャのひとびとは考えた。

人生の意義を問い直したく思う。それは数年先では遅すぎると考える。とにかく私に必要なのは、自由な時間、学問をしたり、旅をする時間なのだけど、精神世界の浮遊も、地理的な浮遊も、日常の必要にしばられている以上は不可能だ。

あるいは、不可能だと思い込んでいるだけなんかもしれない?少なくとも、18時に仕事が終わるのだし、そこから酒を飲みさえしなければ、一日は豊かに使えるのだ。

最近の私が極めて弛緩しておりもう「自己を省みようとしない」ような状況にあるのだがその居心地よさを感じるとともに、こんなことは間違っている、と思うことがある。しかし健常な人間とはつねに自己に対し漠然とした確信のようなものを持っているのだろう。

私の青春が終わったのかもしれないし、私の神経症的な性格がようやく治療に向かっていると言えるのかもしれない。私は治療されつつあるのか。田舎のゆっくりとした空気と孤独が、私を治療した。あるいはやはり年齢とともに自然寛解か。私と同じ病気の人は、年をとれば楽になる、と言っていたけど。

さて、治療された次はどうすればよいのか。私は治療されたが悪魔も天使もいない人間世界に落ち込んだといえるのかもしれない。ユング派の逸話?
ふたりの永遠の少年タイプが、フロイト派とユング派の分析治療をたがいに別々に受けてみた。
やがて、再会したふたりはおたがいの経過について会話する。フロイト派の治療を受けた青年は、すっかり社会に適応し始め、自分の幼児性も克服し順調にいきつつあるという。これからどうするのかと尋ねると、いずれお金をかせいで結婚するつもりだ。と言う。
ひきかえ、ユング派の治療を受けていた青年はさっぱり変化がみられない。未だに方向が見えない。
しかしフロイト派の治療を受けていた青年は、こう言う。
「なんてことだ ! 分析家たちは悪魔も追い払ってくれたけれど、一緒にぼくのなかの天使まで追い払ってしまった!

自分が健常人であるという感覚は、10年以上得ることができなかったから、今少しそれを感じるときは、不思議な気持ちになる。考えてみれば、この病気になる前、小学生の頃などはこういった感覚だった。

自分がもはや絶対の孤独ではなく、その苦しみや喜びも他者と「共有」しなければいけない。私が軽蔑してきた「大衆」と融和しなければならない。自分だけの喜びも、悲しみもないのだ。私の激烈な孤独の期間は終わったのか?さて、私はどうすればよいのか。そればかり問うているけども……。

10.04.2015

自然意志

自分が特段優れているという風に思えない。自分が何らかの技能を身に着けているように思えない。自分に適した資格や職業などあるように思えない。自分が何らかの「強い意志」を持っているように思えない。自分に正しい道などあるように思えない。

相変わらず一個の人間であり、それ以上のこともそれ未満であることもないことに少し驚きを覚える。相変わらず私は一個の人間だった。高みに昇り、冷たい空気のなか孤独を愉しんだこともあれば、低みに落下し、その安逸の重力にもがき苦しんだこともある。しかしそれはあくまで「気分」だ。現実ではない。

私が一個の人間であるという事実に少し肯定的な感性を持つことができる昨今である。つまり私は別にノーベル賞だの文学賞だの資産だの博士号だの美人な嫁だの、そういったものに対する要求がもはやほとんどないということ。

私は神やイデアに近づくことを辞めて、人間を信仰するようになった。人間への信仰とは、生を肯定的に捉えること、したがって死をも肯定的に捉えることである。私は理想を捨てた。私は眼前にある現実を見つめることにした。

やはり中庸であることが、人間を健康に導くものであるらしい。適度に食べ、適度に稼ぎ、適度に学問し、適度に運動する――。というのも、我々は金銭に対する欲はあるし、学問する欲もあるからである。また、労働する要求さえある。われわれはそれを「意志」するものではない。われわれは、それを意志しているように誤認しているというわけだ。

内発的な要求に素直になるということ、自分を歪めてしまわないということ。よく理性=ロゴスこそ人間を歪めるということ。自然であることと、主体的であることは相容れない。自然であるとき、人は宇宙を認識することができるが、主体的であるとき、ひとはありのままの事実を見ることができなくなる。簡単に欺かれる。

外部の敵もまた多いものだ。我々を惑わし、合目的的に導くような権力の存在。ヨハネ福音書にはこうある。「ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくないところへ連れて行くだろう。」

人間を歪める悪というものがどうしてもこの世にはあるらしいが、それに対して我々はどのように敵を見定め、受容するべきか。いわば、飲み込み、さらに消化することができるか。それについて私は今学問している。

私の自然意志のうち、どこまでが私で、どこまでが「外部の悪」なのか?あるいは、人間は悪から切り離せないものかもしれないが。このあたりは、もう少し勉強してみよう。

10.03.2015

青春のおわり

私個人のなかの出来事として、西洋思想の限界を感じてきたので、東洋思想の勉強をしてみようと思っている。そんなわけで、図書館にいき、岩波文庫の「論語」と「老子」を借りてきた。ついでに、ラーゲルクヴィストの「巫女」も衝動借り。

最近は、ロマン主義的な憂鬱がなくなって、ある種の軽やかさを感じている。私はひとつに留まり、緻密な作業を行うよりも、体を動かし、技能を身に着けるということに喜びを見出している。(例えば、バイクでの河原遊び)

自分でもわからなかったことだが、最近では私の神経症的な傾向は少しずつ軽快しているようだ。以前であれば、騒音に対して我慢ならず、家の中であればイヤホンでホワイトノイズを流しながら、射撃用のイヤーマフをつけるのが標準的な生活であったが、ここしばらくは、そういった狂気的な偏執は私から離れて、少なくともイヤーマフはあまり使う機会はなくなった。

同時に離れていったものがある、それは音楽である。私はこの田舎に越してきて、思うまま楽器の練習をするつもりだった。学生時代は、毎日1~2時間は費やしていたこの習慣は、こちらにきてから30分になり、しだいに毎日というわけにもいかなくなった。

いろいろな原因がある、例えば仕事で疲れているからでもあるし、音楽仲間と離れてしまい、バンド活動でのライブの見込みがない、という事情もある。生楽器ではなく電子楽器になったという理由も大きいだろう。

ただ、私の生活の中で音楽的な要求が消えていっていることと、いくらか「生きやすく」なっていることとは同じことなのだろう。芸術は生の絶望、というかニヒリズムの底の底で、初めて輝くものだからである。肉薄した生と、芸術は密接に結びついている。

科学も、ロゴスも、生の目的とはなりはしない。だからソクラテスは晩年音楽を習得する必要にかられたというわけだ。

人間が生そのものを問うほどの絶望に陥ったときに必要なものは、論理ではないことは明白である。憂鬱なときに「悩む必要はない、なぜなら――」などと言われたところで、症状が悪化するのと同じである。そういうときに救いになるのは芸術あるいは宗教である。

私は少し健康になったけども、健康であるということは生を希薄化していることに他ならない。そのことを感じる。あるいは、私は元からまともなのかもしれない。青春がもっとも苦しい季節であることは、考えてみれば当たり前である。そうであれば、青春のときに悩むこともなく笑っているあの連中こそが病気なのである。

ともあれ、私の青春は終わった(私が天才であれば、また青春が再来するかもしれないが)。最近、髪がよく抜けるのだ。私は苦しみの時代を終えた。次に待っているのは何だろうか。

10.02.2015

個人を問い直す

私は自分に執着することを辞めた。西洋的な、理想から離れることにした。そうして、自己と他者との境界を漏出させた。論理的、アポロン的な理想主義から離れることになった。

「私はいつか死ぬ」という論理的帰結は、たいへん西洋的であると思う、ハイデガーが認めたように、それは西洋思想の原動力であっただろう。ダス・マン=大衆は、自分がいつか死ぬということを知らない。死への自覚に欠けるから、のほほんと無思考に、流され、生きていけるというわけだ。

私はハイデガーの考えとは逆に、この「大衆」は、かえって評価すべきものであると最近は思っている。「私はいつか死ぬ」という考えは、あくまで論理的帰結である。これは、他者と自己と厳密に切り離し、死は自分だけのものであり、生もまたそうであるという前提に拠る。

ところでこの「個人」という概念がもしも迷妄であるとしたらどうだろう。人々は実のところ個人に切り離せるものでないとしたら?一匹のイワシが、群れの中のイワシ以上ではないように。そうなれば、「私だけの死」や「私だけの生」というものも、ありえなくなる。

構造主義によれば、我々は群れの中のイワシに過ぎないということになる。そもそも、「一個の切り離された個人」という概念はどこからやってきたのだろうか?

フーコーはこの近代以降のあらゆる思想のひな形となる支配的な思想、自由意志的な思想を人文主義として批判した。人間が自由であり、主体的に行動できるという迷妄。フーコーに言わせれば実のところ、人間はつねに権力の監視にさらされ(しかも我々は権力の姿を見ることができない=パノプティコン)、日常は事細かに管理されているというわけだ。

ニーチェは「個人とはまことに近代の産物である」としたが、我々の歴史において、我々が「個人」であった時代はほとんど僅かである。それは、フロイトがある民族を研究していて、彼らには「社会」があっても「個人」が存在しないことに驚愕した事実からもわかることだ。

結局のところ、我々が「個人」であった方が、何らかの目的に適うという、合目的的であるという、それだけのことなのだろう。まず第一に、「個人」が否定されるべきものであれば、民主主義というのは正立しないし、法の支配も機能せず、自由主義もまた迷妄ということになる。しかし明白な事実として、法治・民主・自由こそ現代世界の支配的なイデオロギーなのである。

陰謀論風に言えば、ある支配勢力が、大衆の力を奪うためにそうしていると考えることもできるし、そういう明白な意図はなくて、西洋キリスト=プラトン思想のヘゲモニックな浸潤と考えることもできる。

ともあれ我々は個人というものを問い直さなければならないと思う。我々は個人として思考し個人として行動していると考えている。主体というものを信じている。しかしそれが信ずるに値するものなのか?


10.01.2015

漏出

最近の自分には笑ってしまうことが多く……、結局、惨めな一個の人間であるのに、それから逃れて、何か人間以上のものになろうとして、必死になることは、不自然な営みである。

自分ということが、これまで最大のテーマだったけども、自分に対する執着は最近なくなってきた。ただ内面世界を充実させることが、人生において重要だと考えるけども、ある日悟ったように、私の極めて個人的な領域、私的な領域さえも、深く掘り下げてゆけば、その根底には社会的関係が否応なく存在しているのである。

つまり個人から社会が誕生したのではなく、社会から個人が誕生したのだ、社会は我々の子どもではなく、母親なのである。そうだから、ある個人は社会と無縁であることはできない。社会は個人と無縁であることもできるが。

自己は他者であり、他者は自己であるというこの循環、つまり私の中で「個人」は死んだのであり、同時に「自由」もまた死んだというわけである。これは西洋個人主義、とか、西洋合理主義との訣別でもある。というか、もっとも根本的な意味での西洋のイデア思想との決別というか。

結局あらゆる哲学がプラトンの注釈でしかないのだが、それは近代までの話で、十数世紀続いたこの伝統はニーチェやフーコーによって打ち砕かれている。そうして調和的なアポロンから陶酔的なデュオニソスの台頭する時代である。ニーチェあるいはその子どもたちによって哲学の「永い眠り」は打ち破られたのだけど、ではそうしたイデアがなくなった今我々にとって知とは?

知と権力の関係。フーコーは知と権力は結びついて切り離せないとする。西洋的世界、主知主義的な世界においては知はだれしもが求めるべきものだった。

現実には西洋価値観の行き届いたこの国においても高い知性を持つ人間はわずかであり、大部分は痴愚化している。メンデルの法則や地動説は当初だれにも認められなかった。真実が退けられるその事象も、知のはたらきによるものだということ。99%の大衆には質の悪い情報や知識しか入らないように「なっている」。知のもつ本来の性質、ある実行力を持った一個の要素としての「知」、これを解題してみたいものだと思う。

われわれはなぜ知るべきことしか知ることができないのか、という問題。

といいつつも、やっぱり時間がないので読書することができないのだが。

今日もコーヒーを飲んでこれを打ちこんでいる。どうやら午後から雨のようなので車で出勤することにした。ここ最近の気候は私好みである。

貯金が増える一方で、大して消費をしていない。しかし、なんだかんだで、月10万円以上は消費しているようだ。「支出額は収入額まで膨張する」は正しいかもしれない。

世界を知りたいと願う一方でそんなめんどうなことはしないでもいいという当然の判断をする自分がある。金と自由があればあれをしたい、と考えることは可能でも、いざ金と自由が手に入ればひとの判断は簡単に変わるものだ。願望と実現は違うということ。ともあれ、海外放浪や海外移住はまだ当面の目標ではある。

自分の見識を社会に広く訴えるという仕事もあるはずだが私の知ることなどまだ小さいアリのようなものでしかないと思う。アリが声高に叫んだところでだれにも響くはずがない。何らかの方法があるはずだと模索中。

こうして独り友人もなく過ごしていると精神的に委縮していくものかもしれない。孤独は大切だが他者との関係がなければそもそも孤独になりようがない。まあ疎外感を味わうためにも友人だの恋人を探してみようかとも思う。そんな暇と体力があれば……。