11.30.2015

じょうろ、鍬、犬

何かを語ることにそこまで意義を感じなくなってしまった。私も快癒に向かっているのかもしれない。

考えてみれば、書くこととは、世界と和合している人間には不可能なのであり、もし凡庸な群衆のなかで、疑問なく生きていくことができれば、書く必要などないのである。自分が世界からつまはじきものでなければ、世界を描くことはできない。

西洋と東洋、天と地、希望と絶望、集団と個人、一神教と多神教といったテーマに、最近はとても興味があるので、いろいろ勉強したいと思っている。

多神教はおそらく幸福の宗教であると思う。多神教は、幸福は可能だという前提を持っている。仏教も、キリスト教も、この世は不幸なものだとした。現世利益など迷妄だと。

ひとは、この世に絶望しかなければ超越的な神を求めるようになる。その象徴は、太陽だったり、天空であったりする。手の届くところに救いがなければ、そういったところに求めるしかないのである。反対に、食べ物がどこにでもあり、子孫を増やせる環境におかれた人は、なにか身近なものに信仰を求める。たとえばそれは女性であったり、恵みを与える山であったり、大樹であったりする。

一個のじょうろ、畑に置きっぱなしの馬鍬、日なたに寝そべる犬、みずぼらしい墓地、不具者、小さな農家……いかなる言葉もそれを言い表すには貧しすぎる(「チャンドス卿の手紙」ホーフマンスタール)

大地と天空の差異とは、こういうことである。神が手に届くか否かは、幸福に手が届くか否かということでもある。

そういうわけなので、西洋的な宗教はつねにこの世の辛さを説くのだが、原初的な東洋思想では、この世は幸福だから楽しもうということになる。

世界全体が科学技術によって徐々に豊かになってきている現実は、日本的な思想の優位性をもたらすはずである。というのも、我々はとりあえず食うに困らないからである。もし万人の人々が日本の大衆のように考えたら、世の中は平和に豊かになるだろうと思う。

それでは困るのが西洋思想であり、西洋思想の発展の前提はこの世の飢餓であり、不幸である。現世的な幸福と、西洋思想は矛盾する。だから、この世界の支配者であるセム系一神教の信者たちは、いろいろな言い訳を見つけては戦争を繰り返し、この世に不幸や絶望、悪を振りまくというわけである。

このような考え方は、浅薄なナショナリズムに思われるかもしれないが、私は割と当たっていると考えている。私は武器の出土しない縄文時代に、人間の可能性を見出している。



最近は、自分が知的労働者でないことに、葛藤を抱いている。実際の仕事は、一般的に知的労働と考えられている仕事だが、まるで創造的ではない仕事だ。

創造的――クリエイティブという言葉は、少し前に流行った。今は少し陳腐に感じる。時代が進めば、もっと恥ずかしい言葉になるだろうと思う。

先日、会社の忘年会があったのだが、そこで同席した別のグループの若い男は、ビジネス書で読んだようなことを説教していた。いわく、あなたの夢ってなんですか、私の夢はこうです、自分の夢を毎日声に出して言わなきゃいけない、私は成功すると念じるんです――とかなんとか。世の中にはこういう人間――ビジネス書に感化される人間がほんとうに実在するのか、と感心した。

もっとも私も少し前はジョブズが好きだったし、有能なビジネスマンになれると思っていたし、くだらないビジネス書やちきりん女史の本を読んでいた。とくにナポレオンヒルの本は大好きだった。それにしても、流行が遅すぎる。私は寒い思いをした。さすが田舎だ。

ともあれ、日常は退屈でやりきれない思いがする。こうした日常は、真に自分のためのものとは言えないと思う。この労働の一切は金のためだ。

知的労働のひとつは、大学教授である。大学教授(文系)のみなさんは、けっこう暇なのか、毎日ブログを更新するので楽しみにしている。書評に音楽評、映画評、オペラ評、旅行記、ずいぶん楽しげである。もっともこういうブログは国立大学のおじさん教授のものであり、若手はほとんどブログを更新していないようだ。

もうひとつは、文筆家であり、これは思想家と言ってもいいだろう。こういう人々は、あまり私の知らない人々ではあるけれども、豊かではない生活ながらも、自由にやっているらしい。

私にはもう大学教授なんて無理だから、在野の思想家として、適当にいろんなことを追いかけたいと思っている。

とにかく、静謐な環境で読書をするか、あちこちを旅するか、そのどちらかがしたい。来年中には実現させたいものである。

11.28.2015

天か地か

昨日はくだらないことを書いた。

プラトンとニーチェの対比を考える。プラトンは天を志向した。ニーチェは大地を志向した。天、我々には手が届かないもの、神聖なもの、超越的なもの。大地、我々の身近にあるもの、卑俗なもの、現実的なもの。

ニーチェによるプラトニズムへの批判は、「天ばかり見てつまづく人間」への批判と言えるだろう。超越的なものばかり追い求めて、生を無駄にすることは、逆立ちした人生観というのである。

ところで、日本はなぜキリスト教が根付かなかったのか。

山本七平によれば、日本人が無宗教であるというのはウソで、特異な宗教観を形成しているのだという。山本曰く、国家が家族的な繋がりを持っている。社員にとっては社長が神だし、子どもにとっては親が神である。こういう繋がりが積み重なって、最高権威――昔であれば将軍に、今であれば天皇へとつながってゆく。

キリスト教の個人主義的な価値観は、こうした繋がりを切断してしまう。というのも、神の前には万人が平等だからである。神の前には、父母だろうと父親だろうと、ただの哀れな羊でしかないのである。それはさながら天空から見下ろせば為政者もただの粒でしかないのと同様である。

だからかつての日本人は、キリスト教を強圧的に排除した。キリシタンとはすなわち、国家=家族イデオロギーに対する離反であり、思想的には国家反逆者なのである。

この国家=家族イデオロギーは今でも続いていると私は思う。よく考えれば、私も大学時代は、西洋合理主義的な考え方をしていたから苦労した。例えばミルの自由論にあるような、「法律に違反しなければ何をやってもいい」という考えは、日本では通用しない。

日本ではまず法律が権威を持っていない。法律が西洋並に重視されていれば、企業間の談合やブラック企業、各種のハラスメントは一掃されているはずである。日本人を支配しているのは、何よりも縦の繋がりである。縦、とは、一般的な下級国民と、天皇の間に描かれた線のことである。

だから我々日本人は、法律による束縛よりも、親とか、上司の発言に容易に左右されうるのである。

ただ、私は日本的価値観は非論理的・非合理的、また非人道的だからと言って、容易に否定すべきものでもないと考えている。キリスト教的価値観が浸透すれば、たしかにこの国は解体してしまうように思えるからだ。

我々が平等であることは、必ずしも良いことなのか。我々は本当に、縦の繋がりを廃してよいのか。ということを、考える。いわば、天か地か、というところだが。

天か地か――この命題は、人間にとって極めて重要なテーマであると思う。もう少し調べてみたい。

11.27.2015

矛盾への偏愛

生きてあることのくだらなさよ――。

貯金が200万円を越えた。

私の生命は固着し視野が狭くなっていく気がする。それに対する抵抗力は、もうない。私はしてやられた、という気がする。日本的イデオロギーにやられたのである。私は西洋合理主義に恋い焦がれた。しかし、それも必要な一過程であった。私は、日本的価値観を認めざるを得ない。手の内で転がっていたというわけだ。

母性的な温かみが、日本的なイデオロギーであるという気がする。何万遍も指摘されたことだろうが、西洋は父性的な宗教であり、東洋は母性的である。

東洋の女性は、信じられないほど寛容である。これは私が実社会で生活していて、その「寛容の底知れなさ」に驚くほどである。

日本人女性の旅行者は海外ではだれとでも寝る、性的にだらしない――ということが世界中で広まっている。これはおそらく経験的に事実なのだが、バカな日本人は「かつては大和撫子だった日本女子が今では」と嘆いている。私はそもそも女性的な寛容さと、性の寛容さは、近しいものであると思う。

東洋男性は女性の寛容さのために弱くなる。

東洋男性が西洋の女性に人気がないのは、そのせいだろう。私が女だったとしても、日本人男性よりは白人男性の方がいい。

西洋ではヒステリックな「フェミニズム」が叫ばれる一方で、東洋的な社会ではあまり受け入れられないのは、そういった事情によるのだろう。西洋ではフェミニストの台頭は、黒人解放と同性愛者解放の間くらいに意義のあることだが、東洋ではすでに女性が優位であるから、そんなことを指摘する必要もなく、なんちゃってフェミニストの空虚な主張が繰り返されるのみである。

話がだいぶ脱線したが、ヘーゲル流に言えば、アニミズムとは野蛮人の宗教であり、父権的な一神教の宗教こそ進歩的ということになるだろう。しかし人間の生育には、母親も父親も必要であり、父親に母親の代わりはできないのであり、母親は父親にはなれないのである。

そういうわけなので、東洋思想に憧れるヒッピーも、西洋思想に憧れる東洋のインテリも、どちらも子供じみた憧憬を見ているだけである。残念なことに、絶対的な真理などはない。彼らが立派に成長したときには、東洋思想も西洋思想も老いさらばえ、足腰は弱り、背中は曲がっている、ということになる。

人間はいつか親を克服しなければならない。思想もまたそうである。

パスカルの言ったように、我々は矛盾的存在であるならば、我々にとっての真理もまた、矛盾的であることが許されるだろう。矛盾――クレタ人。ウロボロス、メビウスの輪。

「真理は存在しない。これが真理である」

11.26.2015

矛盾存在

まったく生きている実感もなく、退廃的に生きている。

私が生きている世界は明確な答えもなく、それがゆえに苦しんでいる。ある真理がどこかに隠れていると思っていたけども、結局、そんなものは一時的なもの、であって、永遠不変なものなど、ないのである。

クワインによれば我々の精神は保守主義を持っている。それはひとびとはある「わかりやすい答え」を、特に厳密な根拠や理由もなく、信じるということである。この考え方によって、人々がいかに科学を信奉するかを、クワインは説明した。

例えば我々の第一層はテレビの言うことを信じる。第二層は、テレビではなく、ネットの情報を信じる。このどちらも、保守主義のはたらきということができるだろう。なぜなら、どちらも大抵は、嘘でたらめだからだ。それはなら古典哲学は?というと、これも曖昧で捉えがたいし、ときには嘘が混じっている。

人間は不安定な状態を避けようとする。パスカル風に言えば、自分が動的な存在であることを否定しようとする。凡庸な人間は、たいてい、静的にとどまろうとし、ある事件が彼を揺り動かしたとしても、またすぐに社交や慰戯によって、静的に戻る。

しかし人間とは、ある無限と、ある無限の間を行き来する存在、つねに動的であるというのがパスカルの謂いである。その意味では、ある人間の一個の理想的究極点があるとした、聖人思想や、プラトニズムをパスカルは否定し、ニーチェなどにつながる実存主義・自然主義を打ち出したと言えるだろう。

科学を相対化したのもパスカルの優れた業績だと思う。パスカルは言う、科学は科学として、科学の範疇では理論的に処理できるが、人間に当てはまるものではない。人間存在には、別の真理が必要だ、と。

パスカルは自然科学の業績もまったく非凡で偉大だが、そのパスカルが科学を「相対化」するというのは、並大抵のことではない。ここにパスカルの思想家としての、人間としての実直さを私は感じる。

パスカルの思想を簡単に言えば、人間存在は論理的に処理できるものではないということである。というのも、人間は「偉大であると同時に悲惨」という矛盾に満ちた存在であり、矛盾を誤として処理する科学的・論理的思想では、原理的に人間を説明することは不可能ということである。で、パスカルはそういう矛盾を包括する存在としての「神」に行き着くというわけだ。

私が苦しんでいるさなかにも、少しの救いを見出すことができるのは、こういったパスカルの思想のおかげであったりする。私が苦しんでいることは、正しいのだし、苦しんでいるがゆえに、偉大に近づくことができる。

だから宗教や哲学というのは、案外バカにできない。もっとも、こういう思想への傾倒も、決して真理へのそれではなく、クワインの言う「保守主義」なのかもしれないが……。

11.24.2015

旅がしたい

自己肯定とは言っても、昨日は沈鬱な気分だったことに変わりなく、また、風邪気味だったので、しびれたように頭は動かず、体も節々が痛み、最悪の気分ではあった。

家に一日中いても腐ってしまうので、車を走らせて、海の見える駐車場に止めて、読書をした。女性旅行家、イザベラ・バードに関する本を読んでいると、無償に旅に出たくなった。

また、三木清の「パスカルにおける~」も並行して読んだ。パスカルのメンタリティは、私と似ていると思う。あるいは三木清と似ているのかもしれない。とにかく、生は真剣に、素直に捉えようとすると、死の絶望という難問にぶちあたる。

パスカルによれば、「時間」とは、死を予見するがために生まれる概念なのだという。ほんとうだろうか?とすれば、たとえば神には時間もないし、また動物たちにも時間はない。死にゆく存在であり、かつそれを自覚しているわれわれ人間にしか、時間は存在しないということになる。

三時に猫に餌を与え続ければ、次第に三時に猫はエサをねだりにやってくる。これは単なる機械的な衝動であり、猫自体は時間を認識するものではない――のかもしれない。

とすれば、宗教的不安、死の不安がなくなれば、われわれには時間がなく、永遠が与えられることになるだろう。

もっとも、世の大部分の人間は、そういった不安を上手に包み隠して生きている。ある「揺り動かし」によって、我々は死の恐怖に目覚めるわけだ。つまり、死ぬときはひとりで死にゆくという悲惨である。それを踏まえた上で、不安を隠すのではなく、不安を解決してしまえば、人間は永遠に到達するということができるのかも。もっとも、そんなことができる人間がこの世にあるだろうか。


まあそんなことはどうでもよいのだが、ともあれ何か目標がなければ、私は自分の生がどうにもやりきれないもののように思えてくる。そうなので、やはり来年2016年に、世界旅行をしようと思う。中国から欧州へバイクで抜ける、というのを考えている。欧州でバイクを売って、アメリカに飛んで、またバイクを買って、南米を一周してみたい。

一年か二年くらい、だらだら旅を続けようと思う。金が何百万円いるのだろうか?金もない、時間もない、余裕のない惨めな旅にはしたくないものだ。いまのところ、旅への憧憬が、私の惨めな生活の唯一の希望である。

11.22.2015

無能の自己肯定

実存主義と言いつつも……。私の大地的生活はめちゃくちゃなことになっている。仕事でミスばかりして同僚の信頼がない。私はこの仕事は合わないという気がする。もともと、好きで入った仕事でもないし――。仕事、それ自体に自分が向いていないような気がする。こういう人間はどうすればよいのかわからない。

私の会社にいるある人は、仕事が大好きのようで、バリバリと働いたあとには、家に帰ると寝るだけなのだという。仕事をして、それで、すべてが充足してしまうような人間は、きっと幸福に違いない。また、上司や同僚の評価も高く、責任感があり、実際有能で優秀である。

私はといえば、仕事が終われば、なにか従属から解放された気分になって、ようやっと、自分の正しい在り方に戻れるのだという感じがするから、そこからいろいろな作業をして自分を慰めなければ、まったく日々を生きていける気がしない。

例えば読書だったり、楽器だったりする、こういうだらだら書きにしてもそうだが、こういうものが私の存在を繋ぎとめているのである。

自分はまったくの無能な人間であるのだが、その一方では無能な人間なりの自己肯定というものもあるから、嫌らしい。主体としての人間は、自己を完全否定してしまえば生きていけない、だからおそらく感情や理性といったものにも生存の狡知が働いているはずであり、私は合理的にモノを考えているわけではなく、漠然とした自己肯定というのは、べつに根拠があるのものではないのだ。

自分の思考工程を考えてみれば、たとえば、天才に精神疾患患者が多かった、というある一般的事実に対して、私はそれを拡大解釈し、精神疾患を持っている自分は、天才に違いない――というふうに自己肯定した。

つぎには、(似たようなことだが)自分は仕事において無能だが、それは自分が本質的にアウトサイダーだからなのだ、と考えた。つまりニーチェやゴッホのような、存命中は世に認められなかった天才のようなものに、自分を当てはめた。

また、仕事において失敗続きである私は、あの東洋の宗教の金言、「失敗と成功を同一のものとして見よ」という言葉で、自分を慰めたのである。

こういう自己肯定的な情報を私は探し求めた。だいたい、こういうことは書物にしか書かれていないので、私が青春の危険な時期に、一心不乱に読書したのも必然的というわけである。

生きづらく不安定であるということが、私の定めであるらしい。

11.21.2015

真理はあるのか


私は学者たちの家を去ったのだ。しかもドアを強く背後に閉じて。……わたしは自由を愛する、そして生き生きした大地を覆う空気を愛する。わたしは学者たちの地位と威厳の上に眠るよりは、むしろ牛の皮の敷物の上に眠りたい。……かれらをつかめば、かれらはしかたなしに粉袋のように埃を立てる。しかし、その埃が、もとは夏の畑の産みだした黄金色の歓喜……であることに、だれが思い及ぶだろう(ニーチェ)

プラトニズムとは何かと言えば、崇高なもの、完全なもの、深遠なもの、絶対的なもの、永遠なものに対する従属である。なぜなら、イデアに対してはわれわれすべては「洞窟の影」に過ぎず、不完全なものでしかないからである。

見えないもの、存在の確認できないものに従属するという構図は、セム系一神教によくみられる。われわれは古代ギリシャの哲学とキリスト教を何か別物のように考えがちだけども、実は思想的には地続きである。

われわれがなにか学ぼうというとき、それはだいたいプラトニズムの臭いがするものである。科学がこれだけ権威を持つようになったのも、それが真理に近いという理由であり、その前提には、真理は存在する、という思想がある。

われわれは無意識にある事実を「階層分け」して、ある極点に真理を置き、それに近い順に事物を羅列している。

だから、われわれはある事実を確認したとしても、それは目の錯覚だ、一時的な錯乱だ、脳内の神経伝達物質がどうだ、と言われると、その経験的事実の方を覆して、科学的教説の方を信用してしまうものである。

例えば「雷は神の怒りなのか、雷は放電現象なのか」、という命題を前にすると、我々はふつう自然現象としての後者を肯定し、神話的な前者を否定する。あるいは「放電現象で、かつ、神の怒りである」と両方肯定する人もあるかもしれないが、ともあれ後者はある事実として確認されるのである。

しかしクワインによればそういう真理の階層分けの作業は、われわれが「その方が楽だから」認めているに過ぎない。例えば落雷がまったく未知の現象であったらどうか。記述不可能なものであるとすれば、われわれはそのたびに科学の無力さを思い知ることになる。それは宙ぶらりんであり、不安定であり、恐怖である。だから、科学は落雷を記述しなければならないというわけだ。それはまったくひとびとのニーズに適っているのである。

さて、ここで問題は、雷の「神話的な説明」もまた、記述する要求から成立したものだということである。ここで、科学的な説明と神話的説明の違いはなにか?いったい何が科学と神話を分かつのか?

クワインの指摘したことは、「科学は科学によって基礎づけられる」ということである。このことの意味は、科学が「根」をもっている、つまりなにか科学が根拠を持っている、ある絶対的基盤のうえに立っている、という事実はないことである。これをクワインは証明してしまったのだ。

だから我々にとっておそらくは、科学的説明も、神話的記述も同一に無根拠であると言えるだろう。分析哲学者のうちのだれかが言ったように、「科学はその本質では呪術と変わらない」ということになる。

そういうわけなので、私はプラトニズムをいよいよ否定する段階にきているのではないかと思う。もうこの世には真理なんて存在しないし、見えない真理に服従する必要はないのである。われわれはイデア的な真理の追及に生を浪費する必要はなく、生そのものを生きることが必要なのである。

結局実存主義に行き着いてしまった。

11.20.2015

今更行動主義など

考えてみれば、私は詩人でもないし、哲学者でもないのだから、無責任に、適当に物を書くことができるということは、これは幸いなことということもできるだろう。

クワインのホーリズムを少し勉強しようと思って、丹治信春氏の著書を手にとった。分析哲学の外形のようなものはつかめたが、なにせアルコール漬けのだらしない脳みそのせいで、断片的にしか理解できていない。

クワイン思想の行き着くところは、ある事実を証明することは不可能であるという不可知論的あるいは懐疑主義的な立場だと思う。私は例によって厳密な哲学的なタームの定義づけを知らないから、上の不可知論的、懐疑主義的という使い方は間違っているのかもしれないが、ニュアンスとしては近いはずだ。

ようはクワインもまた、この世には絶対不変の真理があるとか、神のような超越的存在があるとか、そういう考えは辞めようぜと言っているわけである。クワインの思想的立場は自然主義人間観であり、けっきょく人間も動物の一種で、人間的な見方でしか世界を把握できるものではないという価値観である(まあ皮相的にしか読めてないので、こういう漠然とした理解しかできないのだが)。

クワインは行動主義的な心理学にかなり傾倒したようで、行動主義の一個の神話と言ってもいい「パブロフの犬」を、だいぶ極端に拡大適応している。つまり、われわれは何度も同じ刺激を受けると、次もその刺激を受けると考える。われわれは、そういう経験から理論を作り出す。たとえば、リンゴは落ちるから、引力があるのだという風に。

「パブロフの犬」は、「ベルが鳴ればエサがもらえる」という「法則」を生みだした。われわれの科学法則とは、これと同じようなものではないか――とクワインは考えた、のかもしれない?(誤読かもしれない)

当時は行動主義全盛の時代だったから(とくにアメリカでは)、クワインが影響を受けたのもしょうがないのかもしれないが、行動主義というか心理学自体がなんだかいまいちな学問になってしまった今では、クワインの心理学に対する信仰も少しアレなように思える。

ともあれクワインも無神論的、アンチ・プラトニズムな考えを有していることを知り、なんとなくそれは喜ばしいものだと思った。それは凡庸なニーチェ・ファンの感想でもある。
かれらはかれらのみじめさから脱出しようと願った。しかし星はかれらには遠すぎた。それでかれらは嘆息した。「ああ、今とは別の存在と幸福とにはいれる天上的な道があればよいのに」と。――それでかれらは、かれらの抜け道と血の飲み物とを発明したのだ。(ニーチェ「ツァラトゥストラ」より)

11.19.2015

物をなくしやすい人

今日は散々な一日であった、ひとつに、歯が欠けた、つぎに、車のカギがなくした、低血糖で倒れそうになった、それと、職場でなんだかまた浮き始めた。

車のカギは、帰宅後、洗濯槽のなかで見つかった。私は信じられないほど物をなくす。財布をよくゴミと一緒に捨ててしまう。忘れ物は多いし、物を探すのが大の苦手だ。

おそらく、ADHDか何かなのだと思う。低血糖で倒れそうになるのも、自分の空腹感に対して無関心であるから、つまり注意欠陥的であるからだろうと私は考えている。私はべつに糖尿の薬を飲んでいるわけではないが、しょっちゅう血糖値が下がって意識が混濁するのである。

しかし、ADHDだから何だというのだろう。そもそもADHDってなんだ。よくいるおっちょこちょいを、科学の力で治療してやろうというわけか。ADHD、それは一個の定義づけに過ぎない。

モノに関心がなければ、モノをなくすことが多いのは、必然である。人よりモノに関心がないということは、べつに悪いことではないし、むしろ倫理的には良いことだと言えるだろう。同様にして、金をなくすことも、仕事に集中できないことも、人の信用を無くすことも、必ずしも悪いことではない。

仕事に熱意を持たないということは、正しい認識をしているということだ。なにせ、仕事とは、たいていどうでもいい労作の連続だからである。人に執着しないということも、また良いことである。他者というのも、基本的には我々にとって恐怖の対象でしかないからである。だから、みんな仲良く、という言葉はイデア界でしか成立しない。

ADHD、仕事で使えない、社会になじめない、周りから浮く人間というのは、私は一定の価値があると踏んでいる。端的にいえばアウトサイダーだからだ。つまり独創的な仕事をするのは、このタイプなのである。

そういう人間は、社会にとって脅威の対象となる。

これはどういうことかというと、アウトサイダーは、社会と自己を対置している。ということは、社会を相対化してみることができるということである。そういう思想を持つ人間が増えると、社会がドグマとして機能しなくなるのである。

たとえば革命とか、テロリズムとか、デモ運動などというものは、社会にとってなんでもない。それは社会という場のルールに従っているものだからだ。つまり、その行為は社会のために、人間が奉仕するという構図があるからである。それらの行為が成功するとしても、結果はドグマの書き換えであって、喪失ではないのである。

社会が恐れるのは、それ自体の消失であるから、アウトサイダーは社会の本当の敵であると言えるだろう。彼らは、実に周到に駆逐されていくのである。ニーチェは梅毒、ルソーは露出狂という風に、真の天才的思想家のこういう汚点ばかりが強調される(そうして二流の思想家が神格化される)のは、社会の自己保存的機能によるものだと言えるだろう。

11.18.2015

外傷的なイデオロギー

以下はひどい誤読、あてずっぽうである

昨日述べたジジェクの指摘が私に与えた効果というのは、イデオロギーというからには、何かイデア的なもの、理想的な、完全なもの――という先入観を取り払って、それよりもずっと歪であり、受け入れがたいものとしたことにある。

例えばマルクス的な定義では、「彼らはそれを知らない。しかし彼らはそれをやっている」という風になるのだけど、ジジェクによればイデオロギーとはもっとシニカルなもの――すなわち、「彼らは自分たちのしていることをよく知っている。それでも、彼らはそれをやっている」というようなものなのだという。

シニカル、皮肉なもの、笑いを含んだもの。イデオロギーといえば、なにかまじめな、冷血な印象を受ける。たとえばアルチュセールのように、「イデオロギーとは国家装置である」と言ってしまえば、何か無機質な機械のようなものを思い浮かべるが、そうではなく、イデオロギーとはもっと皮肉なものなのである。

私はこの考えを知って、ひとびとがどうして不十分なイデオロギー、たとえば政治的な主義や、法律や、あるいは明文化されない文化風習になじんでゆくのかが、わかったような気がした。

それは例えば相互依存的な愛情関係――ダメな夫と献身的な妻という図に近いもののような気がする。妻は献身的である、それは夫がダメだからである。夫はダメであるのは、妻が献身的だからである。そうして、妻は自分が夫を堕落させていることを知っており、また夫によって自分が不幸になっていることを知っている。が、しかし夫からは離れられないのである。

この関係は、イデオロギーと主体の関係と似ているのかもしれない。我々は、イデオロギーが欠陥を持っている、それを知っている、そしてそれがために献身的にイデオロギーに奉仕する。そうして、イデオロギーは不完全さを維持する。

イデオロギーとは不完全であり、受け入れがたいものでなければならず、それがために、人々の献身を受ける。案外こうしたことによって、人々の不条理な衝動を説明できるのかもしれないと思ったり思わなかったり。……もう少し勉強しなければわからないな。

11.17.2015

イデ崇

ジジェクの「イデオロギーの崇高な対象」を読んで感心したのはイデオロギーとは整合的であってはならず不条理でなければならないということである。

つまりイデオロギーとは我々を欺くもの、知らぬ間に無意識に潜入し我々をコントロールするもの――ではなくして、我々を傷つけるもの、受容しがたいもの、すなわち外傷的でなければならないのだという。

ジジェクはその一例として「法」をあげている。ジジェクは法律というものは、正当性、整合性、合理性を要求されるものではないとしている。ひとが法律に従うのは、それが法律だからであり、それが合目的的であるわけでもなく、ましてや真理に近しいとかいう理由によるのではないのである。

ジジェクは、パスカルの一文を引いている。

「してみると、人が、法だからという理由で法や習慣に従うのはよいことだ。……だが、民衆はこのような考え方を受け入れようとしない。彼らは、法や習慣の中には真理があると信じており、それで法や習慣は正しいと信じ、それが古いことを、(真理抜きの、ただその権威だけの証拠としてではなく)それらの真理の証拠とみなしている。」

我々は法が正しいからではなく、法の実効的側面(刑罰)を恐れるがためではなく、法が法であるために従うのである。別段、真理であるかどうかは肝心ではない。

繰り返すが、ジジェクによれば、イデオロギーは「外傷的」でなければならない。われわれがあるイデオロギーに従うときに、それは、何か受け入れがたいもので「なければならない」ということである。

ある意味で、それはイニシエーション的なものなのかもしれない。たとえば、ある部族では、成人の儀式の際には、高台から飛び降りなければならない。だれだって、高台から飛び降りたくはない。また、飛び降りることに意味はない。だれが得するわけもない。しかし、それを受け入れ、能動的に飛び降りるということ――このプロセスを踏んで、ようやく成人とみなされるのだ。

ソクラテス的合理主義であればどうだろう。「そのようなことは、勇敢さを示しはしない。かえって、周りからバカにされはしないかという臆病さから、彼は飛び降りているのだ。そうだから、このような儀式は即時やめにするべきである」となるだろう。

もっともこれは正しい。至って論理的だ。しかし、正しいがゆえにイデオロギーとしては成り立たないのである。

私は、ニホンコクミンの言う「大人になれよ」という言葉を思い出す。社会は不合理なものだ、「理屈じゃないんだ」と。不合理なものを、正そうとせず、それを受け入れる。その過程は、屈辱的だろうか?私はそうではないと思う。かえって、栄誉と、恍惚とに満たされるのではないか。

私は、イデオロギーに埋没する恍惚がなんとなくわかるという気がする。集団のなかで、摩擦なく生き、そして死んでいくという工程が、実際人間の真の幸福であるという気すらしてくる。

人間は――とヘーゲルは語りき――「死の病に冒された動物」、すなわち貪欲な寄生虫(理性、ロゴス、言語)に侵略された動物である。この視点に立てば、「死の欲動」というこの根源的否定性の次元が、阻害された社会的条件の表現であるはずがない。それが人間の条件(La condition humaine)そのものを定義づけているのだ。解決はありえないし、それから逃げることもできない。すべきことはそれを「克服」「廃絶」することではなく、それと折り合いをつけ、それをその恐ろしい次元の中に認める術をおぼえ、そしてこの根本的認識の上に立って、それとの間に和解協定(modus vivendi)を結ぶことである。


われわれは理性―idealismと不条理―realismの間でゆれうごく生き物であり、そうしてその間にある揺れ動き、あるいはパスカル風にいえば、「どちらでもある」という矛盾した状態、こそが、私たちの人間の条件であるのかもしれない。

個人的な考えとしては、我々には理性以前の状態があったはずであり(ルソーのいう「自然状態」)、人間の条件とは、必ずしも理性と不条理の葛藤にあるのではないという風に思っている。私はなんとなく、日本人の非合理的な社会構造に、かえって非合理であるがゆえに、少しの期待を抱けるのではないかと思う。

結局、理性をどこまで信用すべきかということになるのだろうと思う。

11.16.2015

便利で快適な真理

私の気にいるような文章を書いていたブロガーや文章家は、どうも筆が進まないらしく、いまいち煮え切らない文章を書いては、「えいや」とそれでごまかしているという有様のようだ。

なかには、更新をすっかり辞めてしまったブログもあり、私としてはとても残念なのだが、人びとの間で、なにか文章に対する期待というか、希望のようなものが消えていっているのかもしれない。

私自身も何か書いてどうという気分でもない。書かねばいけないという熱情のようなものも消えうせた。最近は、私のなかから、いろいろな願望や情熱が消えていったように思う。「これでいい」という満足のような気分が、私から不安を取り除いてくれる。

不安定な一時期は消え去った――私は世界から一歩引いて、この現実を、よくもなく、悪くもなくといった具合に、静観する姿勢を覚えたというわけだ。私は世界の光に惑わされることもなければ、闇の中で幻覚に怯えることもなくなったというわけ。

老いたのか?

私は、自分の年齢がわからない。もう死んでもいいという年のような気がする。例えばスーパーに行くと、田舎だから、私よりも年下の夫婦が、ベビーカーを押していたりする。そういうときに、私は、少しの憔悴を覚える(私は、スーパーで、帽子をまぶかに被って、イヤホンで音楽を聴きながら、半額の惣菜を探している)。

しかしその憔悴は、何か私にそぐわないもののような気がして、たとえば還暦男性の勃起のようなもので、原理としてはわかるものの、なにか受け入れがたいもの、恥ずかしいもの、滑稽なものとして感じるのである。

私は、この田舎でもう何年も働いているという気分になる。労働はもはや、無意識的に行うものになった。日々のサイクルは、私の精神に何も影響を及ぼさない。実際、ルーティンな仕事なのだが――。

都会の友人たちは、何をしているのだろう。まだあのせせこましいぎゅうぎゅう詰めの喧騒の中で、なんやかんや、生を費やしているのだろうか、なにかの衝動によって、なにか小奇麗な理想のために。

生がすべて悲惨であるということは、まったくの救いである。
人間の状態は疑いもなく悲惨である。しかしながら彼の偉大さは悲惨がすなわち偉大でありうるほど明瞭である。けだし彼の悲惨を悲惨として感じるということはただ自覚を有する人間にとってのみ許されたことである。……「人間の偉大さは彼が事故を惨めなものとして自覚するところに偉大である。」(「パスカルにおける人間の研究」三木清)
どんな状況であろうと、人間が悲惨であるという現実は、どんなところにあろうと、スマホがあればとりあえずの暇つぶしはできるように、便利で、快適なことである。なぜなら、われわれはこのことによって、幸福の条件を満たしたそのときに、不幸である自分を受容することができるのだし、まったくのどん底にあるときに、金持ちや幸福な人間に対してうらやむことがなくなるからである。

我は悲惨、彼も悲惨――しかし、それゆえに偉大なのだ。とは、実に便利で快適な真理である。 

11.15.2015

偉大と悲惨

私の最近の精神的な安寧は、パスカルの言ったように、我々はみな不幸であるということからきている。

幸せとはどこかにあるもの、到達すべきもの、私たちの前から隠されてしまったもの、だれかが独占しているものである――という認識はなくなって、数多くの思想家や宗教家が言っているように、もっとシンプルな定理、人間はみな不幸であり、幸福とは迷妄である、という、ショーペンハウエルに通じる考えを、いよいよ確信を得るようになったからである。

だから、大富豪が良い想いをしているとか……権力者は幸福であるとか……、人間はそういった羨望や嫉妬にかられる必要はないのである。嫉妬や羨望という感情が劣悪なのは、私が不幸である代わりに、だれかが幸福であるに違いないという迷妄による。

人間はすべて不幸だ――しかし、これは厭世主義というわけではないし、悲観というわけでもない。私はだれしもが不幸であるという現実をそれなりに受け止めていたが、パスカルによって、その現実を肯定的に受け入れることができたというわけだ。

パスカルによれば、人間は悲惨であり、同時に偉大なのだから、我々は、別段不幸にあっても、悲観に暮れる必要はない。我々に必要なのは、悲惨のなかにあって希望を持ち、幸福のなかにあって警戒を緩めないことだろう。
苦痛もある段階に達すると、世界がぽろりと落ちてしまう。だが、そのあとでは、安らぎがやってくる。それからまた、激痛がおこるとしても、次にはまた、安らぎがやってくる。もしこのことを知っていれば、この段階がかえって次にくる安らぎへの期待となる。その結果、世界との接触もたち切られずにすむ。(「重力と恩寵」ヴェイユ)
そういう意味では、パスカルの矛盾する定理はギーターの奥義に通じる。すなわち、「成功と不成功を平等のものと見て、諸々の行為をせよ」。もっともパスカルはこの異教に通じているわけではなく、キリスト的なシンボル、たとえばキリストの死と復活、人間の原罪に真理を見出している。


日常のこと――デンマーク製の机が届いた、まあまあ気に入っている。60年代の物が欲しかったけど、80年代の、安価な机になった。まあこれでいいという気がする。どっしりとした、きちんとしたチーク材であって、まともに国内製品を買おうとすれば、何倍もの値段になってしまうだろう。

11.13.2015

Le moi est haissable

最近になってやっと、パスカルは偉大な思想家だったのだ、ということを知った。

彼は優れた幾何学の知識を持ちながら、それに耽溺しなかった。パスカルは、幾何学を幾何学として信じながら、それを人間には適応不可能とした。この点がパスカルとデカルトの違いである。

パスカルによれば、人間存在は矛盾しており、それは「矛盾なき真実」によって暴かれるものではない。人間はなぜ矛盾しているか。人間は悲惨であり、偉大であることができるからである。人間の生は悲惨である。しかし、人間がただ悲惨な存在でしかないことを自覚した人間は、同時に偉大でもある。

そういうわけで、人間存在はある確定した記述可能な存在ではなく、つねに悲惨と偉大の間を揺れ動きながら、そうして悲惨であり、偉大でもあるという矛盾した様態を示すものである。
「矛盾は真理のひとつの悪い兆である。多くの確実な事柄は矛盾する、多くの虚偽なる事柄は矛盾なくして成立する。矛盾は虚偽の兆でもなければ、矛盾しないことは真理の兆でもないのである。」
こうした人間の有様を正しく認識するためには、幾何学や論理学では不可能であることを、パスカルは気づいたのである。人間や生を正しく認識するためには、「それによって魂が事物と自己自らとを全く新しき仕方をもって観るところの、一つの全く異常なる知識と見方」が必要だと説いている。
「すべての者は彼らが各々一つの心理に従うことによって一層危うく誤謬に陥っている。彼らの間違いは一つの虚偽に従うということでなく、むしろ同時に他の真理に従わないということである。」
「すべての彼らの原理は真である、ピロニアンのそれも、ストイックのそれも、無神論者のそれも。しかし彼らの結論は偽である、なぜなら反対の原理もまた真だからである。」
最近流行の相対主義に影響されて哲学に対して失望していたのだけど、パスカルに救われた気がする。上の記述から考えればパスカルは相対主義者と言えるのだろうが、"肯定的な"相対主義者と私は感じる。そのような態度が可能なのだと、私はちょっと感動したのである。

11.12.2015

人間と生活

以前に比べれば、信じられないほど落ち着いた性格になった私は、相変わらず仕事においては無能だけれども、ある程度は豊かな、十分な、ストレスのない生活を送れるようになっている。

私は歯抜けになったのかもしれないが、しかし、毎日、少しずつ生活を充実させていく、基盤を固めていくような生活をするようになった。私は生活の片隅に巣くった悲惨を野放しにするのではなしに、その悲惨が小さいうちから修繕する術を知った。私はこの単純極まりない「方法」を知らなかった。信じられないことだが、26歳のいままでずっとだ。腹が減れば、何かを食べればよいことを知っていたけども、生活を守ること、精神の均衡を保つことといったことに関しては、私はまるで無頓着だったのである。そうだから、私の生活は悲惨に満ちていた。

生活の悲惨が先か、精神的な異常が先なのかはわからないが、私は生活と精神の両方を病んでいった。大学にいたときはもっとも危うい時期だったと思う。私はつねに耳をふさいで叫びたいような衝動にかられていた。生活は引き裂かれてズタボロであり、修繕不能であり、もはや目にしたくないもの、私を苦しめるものでしかなかったのである。

生活を確実のものにしてゆくこと、豊かなものにしてゆくこと。不確定なものを、確実なものにしてゆくこと。これらの人間にとって当たり前の営みを、当たり前のように果たしていくことによって、私の精神も次第に回復していったのである。

――たとえば、家具を充実させること。バイクをメンテすること。公共料金を払うこと。職場で同僚と話すこと。野良猫に餌をやること。

これまでの私には、およそ読書と音楽しか救いがなかった。それでいいと思っていたわけだ。しかし、空ばかり見上げていても転んでしまうものだから、私もようやく、人間らしさを取り戻したことになる。金を、使わねばならない。貯めた金を。自分と、自分の生活のために。



という文章を書いていた。

が、私にとってどのように生きることが幸福なのだろうか?

最近、仕事の関係で、明らかにヤクザだろうという人に会った。私は、恐れて、声を震わせてしまった。緊張で、視界がチカチカした。そのあとに、私はとても恥ずかしくなった。このような人間は、男として失格だろうと。

生活における幸福は、割合簡単に得ることができることを知った。それは、月収の5%ほどを、毎週消費することである。私は、デジカメを買った、バイクの部品を買った、ブーツを買った、デスクを買った。どれも大した値段ではないが、私の生活をゆたかにするものである。

幸福とは、単純なものである。生活が昨日よりよくなる、という感覚だ。そして、不幸とは、明日にはより一層悪くなるに違いない、という予見である。だから大抵の例において、投資はひとを幸福にし、ギャンブルはひとを不幸にする。もちろん投資がギャンブルになることもあれば、逆のこともある。それは結局、期待値の問題だ。

私は、もう、一日の食費が1000円を越えようと、気にならなくなった。無意識的に仕事をこなし、日常を過ごすだけで、金が手に入るからである。

それでも、当然、これでいいのかという気持ちはある。

しかしどうすればよいのか?私は、世間的な成功者になるという道筋に、あまり魅力を感じなくなってしまった。私が思うに、だいたいの成功者とか、権力者はサイコパスである。政治家や、経営者など見ていてもそうである。つまり、神経症的な私――敏感で、つねに怯えた小動物のような精神性を持っている私は、そのような道は到底実現不可能というわけである。

晴耕雨読な生活に憧れることがある。晴耕雨読とは、「ほんとうの勝ち組」の生活ではないだろうか。ルソーの「社会契約論」の記述を思い出す。
人びとは、都市地区が、直ちに、権力と名誉とを独占し、やがて田園地区を下落させたと思うかも知れない。が事実はまったくその反対であった。初期のローマ人が田園生活の趣味を持っていたことはよく知られている。この趣味は、賢明な建国者から、初期のローマ人に伝えられたものだが、それは自由と、耕作並びに軍役とを結びつけ、技術、手工業、陰謀、財産、奴隷制を、いわば都市へ追放したのである。

11.11.2015

かわいいニーチェ

天使ANGE――これは使者、幸福な使者、待たれた使者、歓迎される使者である。天使は老いた者ではない、天使は学者ではない。ただ、彼は新しい時を告げる。天使は裁かない、天使は赦しもしない。彼はよろこんで与える。彼がもたらすのはあかしではない、それは一つの音信(おとずれ)である。「こんなことではいけない」と、彼はあなたの髪を直すのと同じように単純に言う、「あなたは呪われてもいないし、悲しんでもいない。あなたは無用な者でもないし、勇気を欠いてもいない。私があなたにそれを言うのは、それを知っているからだ。ところが、あなたにはそれがわかっていない」。天使は議論しない。(「定義集」アラン)
アラン(エミール・シャルティエ)の「定義集」を読んでいたら上の文章にあたり、美しいと思った。また「毎日書く、例え天才であろうと、なかろうと」とあって、なんだか励まされた気分になった。アランの精神性は私に似ていると思う。
哲学PHILOSOPHIE ほとんどすべての善が、またほとんどすべての欲望がむなしいと考えることによって、失望や屈辱に対して自らに警戒をうながす魂の按排である。哲学者が目指しているのは、自然的で自分に嘘をつかないものだけを感じとることである。哲学者の欠点は、非難する傾向が強いこと、そして懐疑をとくに好むことだ。(同書)

欲望――「私とは、精神とは、頭脳である。したがって、もし私の頭脳が適切な環境に隔離されれば、四肢や内臓は、ただの肉の塊に過ぎないだろう」と主張する人間は、おそらく腕を切り落とされても気づかないだろう。

私はこういう人間の腕を切り落として、「あなたは同じ人間か、同じ精神か」と問うだろう。「然り」と答えるならば、次は脚を切り落とし、問いを繰り返す。大腸から、小腸、肝臓、胃を切り落とし、肺を切り落としたところで彼は答えなくなる。そうだから、私の結論が正しいことになる。沈黙は絶対的肯定である。

とつまらないことを書いた。

最近ニーチェのソクラテス批判が的外れであることを知り、それが少し残念だった。

彼は処女作「悲劇の誕生」において、ディオニュソスとソクラテスを対置させたのであり、(かなり真正面から)ソクラテス的主知主義、論理主義を批判したわけだけども、秋山英夫氏によれば、アリストテレスでは知識の定義には「事物の本質を認識する純粋思惟(sophia)」と「実戦的知識、すなわち欲望を調和・統御する道徳的知見(phronesis)」とが区別されたのだが、ニーチェは「故意にこのソクラテス的『知』の意味を黙殺して、ソクラテスを理論的人間の現像にデフォルム」したというわけだ。

この解説は的を射ているようだ。私は一面では安心した、危うくソクラテス流儀の主知主義を断罪してしまうところだった。そうすればデルポイの神託などをタイトルに掲げている以上は、看板を変えねばならないと少し悩んだからである。なぜならソクラテスを世界でもっとも賢い者だと預言したのがデルポイ神殿だからである。

もっともこのデルポイの伝説も怪しいものであり、「ソクラテスは世界で一番賢い」という預言を聞いたのはソクラテスの弟子のカイレポンなのだが、このカイレポンは、「カイレポンは世界で二番目に賢い」という神託も同時に得ているからである。

さて、ニーチェは上のように「あらゆるものを、本能的に翻訳・変形(「この人を見よ」)」するのだが、ニーチェ自身も適当に翻訳されることがある。「いたこニーチェ」という本では、彼はソクラテスと対立しているのではなく、「プラトン―カント」と対立していることが戯画的に描かれている。

カントはともかくニーチェがプラトニズムの批判をしていることは確かであり、そうしてソクラテスもプラトンによって記述されたのであり、ニーチェの本当の論敵はプラトンだったと言えるかもしれない。

私は、ただなんとなくニーチェは「ソクラテス的主知主義」という言葉の持つ魅力に屈したのだと思う。確かに読者をアジテートする幻惑的な言葉である。ソクラテス批判ってなんかかっこいいし。かっこいいから使っちゃえというわけである。そういうわけで、私はニーチェの「詩人」としての才能の片鱗を処女作から感じ取ったのである(歴史家としてはアレだが)。

ニーチェはこの「悲劇の誕生」を発表して以来、学会から猛攻撃を受け、ニーチェの講義には哲学科以外の学生ふたりしか来ないという憂き目にあったという。かわいい奴だと思う。

11.07.2015

ほんとうの勝ち組

こういうことを書き続けて、ひとびとが喜ぶならそれでいいけど、それだけでは何にもならないという気がする。

私は結局何物にもなれない――凡夫として終わる、という思いが、ここしばらくあるのだが、その感情は何物にもなれなくていいという肯定が、前提としてある。

私が何かの高みを目指して――つまり、ひとをかき分けて、ある到達点に達することを目指していたときは、こういう認識はなかった。私は、人民大衆から隔絶された一個の奇形であり、そのため、私は天才として成功するか、狂人として死ぬしかないのだ、と思っていた。

ところが、いまこうして田舎で、質素な生活を送っていると、私は凡夫であり、何者でもなく、だれもが通り過ぎてゆく風景として、生きることも可能なのではないか、と考え始めており、そうしてその生活が、「ひとびとをかき分けて到達した点」よりも、よいか、悪いのか、という疑問を、今抱いている。

バイクで山道を走っていると、山奥に、ひっそりとした村落を見つけることがある。洗濯物が干してあり、廃村ではない。建物は古いが、たいてい、少しの威圧感をもってこちらを見降ろしている。私はこういうところに行くと、恥ずかしい気持ちになる。それは、六本木のタワーマンションの前を歩いているときの気分と同様だ。自分が小さく、なんでもない人間のように思えるのだ。

六本木のタワーマンションに住んでいる富裕層と、バイクに乗った変わり者しかやってこない山村の住民は、いったいどちらが幸福なのだろうか?もしかすれば、本当の「勝ち組」はこうした山村にいるのではないか――?という疑念が、浮かんでしまう。

というのも、私はタワーマンションに憧れることはあるけども、隔絶された田舎の世界にはもっと憧れるからである。

おそらく、天皇とか、総理大臣がひとつの権力の極点であるというのは、素人向けの幻想である。本当の勝ち組は、ひっそりと暮らしているのではないかと思う。静かな環境で、農作業でもしながら、生を愉しみ、そして苦悩し――下界を見下ろしているのである。

もっとも、上記は、単純な自己正当化、つまり田舎で細々と暮らす自分の正当化なのかもしれないが。

11.06.2015

日常の仕事

今日も一日、仕事をこなした、明日も仕事なのだが、まあそつなくこなしていく予定である、日常は、私を拒絶しないようだ。どうもこの気候がいいらしい、私たちは、適度に乾燥した清涼な空気に触れると、健康になる。都会であれば、こうもいかなかったかもしれない。夏がどうしようもなく不快なことは、おそらく北国を除けば田舎も都会も変わらない。春も、どうも、雨が多くてやりきれない。

ここ最近の気候は良いという気がする。私は、仕事に対して距離感をとりつつも、ちょうどいい距離感を模索し、仕事に対して、押しつぶされることもなく、熱中もしない、よいバランスをとっている。私は仕事とは、積極的に行うものでなしに、かといってある強制力によって従わされるものでなしに、本能的に自然に行うものだと思っている。

それは、赤ん坊が積み木を前にしたときの衝動と同様である。積み木を彼は、組み立てる。それは母親に褒められるからでも教育によって条件づけられたわけでもない。とりたてて理由もないのだが――彼はそれを組み立てる。

私の仕事は、ろくでもないものであり、単純作業や事務的な作業が多く、とてもやりがいなどとは無縁なのだが、それだけに仕事というものの現実を、すばやく知ることができた。

学生時分の私にとって、毎日同じような仕事をしている人間というのは、おそらく愚鈍なのであり、私はそのような生活にはおよそ堪えられないと思っていた。私にはもっと、刺激的でクリエイティブな仕事が適しているだろうと思った。

そういうわけで、私は1年か2年かこの仕事を続けて金を少し貯めたら、退職して、世界を放浪して、その経験を活かして作家デビューでもしようかと思っていた。私はそれまでの経験から、あらゆる環境になじめなかった。だから、会社という組織のなかではもっとなじめないだろう、と予測していた。

ところで、現実にはどうだったろうか。私はいま考えるに、この仕事は、特別な事情がなければ、一生でも続けられる、と実感している。

仕事とは、本能的に行うべきものであり、その意味では食事と通じる。われわれの食事にまず必要なものは、米やパンのような炭水化物であり、肉ばかり食べていても病気になるし、刺激物についても同様である。そういうわけだから、くだらないルーチンや、必要性のわからない事務作業のような仕事こそ、健康には不可欠なものかもしれないと思う。

逆に言えば、刺激物だらけのような仕事や、甘ったるい仕事のようなものは、胃腸障害を起こしたり、糖尿を起こしたりするので、健康にはよくないということになる。

私が今の仕事に就いて良かったと思うことがあるとすれば、上のような事情である。私は田舎のゆるやかに流れる時間のなかで、目標も、悩みもなく仕事をしている。もちろん仕事をし始めたときには恐ろしい苦悩に襲われたけれども、とりあえず、ジャパニーズ・スタンダードの劣悪な労働環境に比べれば、私はまあまあ恵まれているといった具合である。

しょせん、この気分の良さは気候によるものであり、また憂鬱にかられれば、仕事を辞めるだの、何だの、書き始めるだろう。

最近、「悲劇の誕生」を読んだ。ニーチェの処女作である。私はニーチェにかぶれていたのだけど、だいぶこれによって熱が冷めたという気がする。いや、少し冷め始めていたのか――もちろん「熱感」という意味では、すごい書物なのだけど。

11.05.2015

Mosaic

哲学が真理であったためしがなく、おそらくこれからもないだろうということを知ったときに人はどうすればよいのか。

我々にとって世界はモザイクであり、認識不可能である。そのモザイクのマス目を、赤く塗るか、青く塗るかという問題に終始しているのが哲学であり、真なる認識(モザイクを暴くこと)に至ることは、おそらく永遠にないのである。

これまでの我々は、「進歩している」と考えていた。人間とは動物から神に至るまでの過程であると考える人もいた。たしかに科学は進歩したのであるけども、はたしてそれが科学的認識を抜きにして進歩したといえるのか?という点が、疑問なのである。

我々は科学を信奉する。例えば我々は進化論を信じている。アダムとイブから人類が生まれたのだ、などとは、ふつうは思わない。また日本の神話のように、兄妹神の近親相姦によって国や人間が生まれたとは、これも考えられないことである。そういうわけなので我々は、我々の先祖は猿であり、もっと辿ればげっ歯類だ、と考えるわけである。

しかしながら、もしも我々の生活にメディアや教育を通じてダーウィニズムが現れることがなければ、我々は、天井裏を走るネズミが自分の先祖だとは考えないだろう。ところがメディア・学校で進化論を教われば、われわれはそういうものだと信じるものである。とくに子どもだとそうである。

ある幼児を教育やメディアから隔絶してしまえば、独自の世界解釈を得るだろう。それは未開民族の宗教思想にも通じる。果たしてそれが間違っているのか?それが不幸なのか?これはだれにもわからないことである。

もしかすれば、慣習―歴史的ドグマの(安逸で勝手のいい)認識を得た我々よりも、ずっと正しい認識をする――そういう可能性があるとは、考えられないだろうか。科学とは、我々にとっては、我々以前にあったものである。それは我々にとっては、獲得するものというよりも、適応するものである。それは一個のドグマであると同時に、世界を形づくる環境であるから。

そういうわけで、我々は科学によるドグマと、科学による構造物に囲まれて生きているということなのである。おそらくそれ以外の世界が人類には用意されていたはずだが、そんなことは、生まれたときから適応の仕事に追われていた我々には、知る由もないのである。

11.04.2015

Apollo

生活が、今より少しずつよくなる――という希望が、人間が生きるということのすべてだという気がする。

結局、真理探究などに、意味はなかった。間違っていることはたくさんある。それらを切り捨てることは容易だ。しかし、厄介なことには、正しいらしいこともたくさんある。これらを切り捨てることは簡単ではない。

ひとつの神話、歴史に対して、埋没できれば、それは幸福なことだと思う。実のところ、ニーチェはこの神話・歴史を肯定している。人が生きるためには、ソクラテス流の理性主義ではなく、神話―歴史が必要なのだと。

アポロンとディオニュソスとは、音楽における和音と不協和音のようなもので、結局のところ、どちらも芸術になりうる。だからニーチェはディオニュソス的価値観を主張しながらも、アポロン主義を否定しなかった。

われわれは、信じたいことしか信じることができない。これが認識の限界である。我々の生活は悲惨に満ちている。我々のすべてが、夢や理想からかけ離れた生活を送っている。だから、我々はこう思うかもしれない。「我々は現実を認識している」と。我々はリアリストだ。神話も、歴史もない――しかしその現実はほんとうに現実だろうか。

精神分析が哲学の主要なテーマになったことがある。それは我々の精神のカリカチュアとしての精神疾患患者が、われわれの精神を説明すると思われたからである。

健常な人間であっても、いくらか神経症的な部分は持ち合わせているし、大鬱的な症候を示すことは珍しくない。だから、症例―サンプルを組み合わせれば、一個の人間的人格が、普遍的精神が生みだすことができると考えられたのだ。

ただし、健常な精神を記述することは不可能だ。なぜなら、多くの人間の属する健常の精神は、それを記述する主体がすでにそれであるから。われわれはカリカチュア的精神を記述することによって、その距離から人間の精神を探ろうとしたのだ。例えば、甲状腺の機能亢進や機能減退によって、(健常な人間からは知ることのできなかった)甲状腺の生理学的な機能を知ることができる。

そういうわけで、病人の検体が哲学の仕事になった。精神的な逸脱者、狂人の研究。しかし、その仕事はうまくいっただろうか。

私は思うのだけど、狂人とは、哲学の外にあるのではないか?我々の哲学の行き詰まり、混乱は、哲学の思い上がりにあるのかもしれない。言語ゲームと彼は言ったが、それも結局は言語ゲームじゃないか。

私は、言葉や理性によって真理に達することができるという考えを、辞めたいと思っている。我々にとって正しい道とは、言葉によって到達できないという気がするからだ。

音楽をやるときであっても、バイクに乗るときでもそうだが、結局、理性的なふるまいによってうまく行くことはないからである。うまく行っているときは、必ず非理性的であり、自然であり、記述不可能である。だから、私は理性を嫌い、本能を信仰する。

善き生とは、もはや考えることのない生であるという気がする。すべてから解放されており、したがって彼はもう考える必要はない。肉体や精神が傷つけられても、死に直面しても、自然で本能的である以上、彼はそれを気にもとめない。

ギーターの言うところの、「成功と失敗を同一のものとして、諸々の行為をせよ」とは、そういうことなのだろうし、仏教的な「解脱」もこれに当てはまるだろう。

そういうわけなので、言語的世界、科学とか、道徳を超えたところに善き生があると思う昨今である。以上の事柄は、ワインを半分あけてから書いたので、めちゃくちゃだろうが、気にせず公開することにする。

11.03.2015

歴史と認識

生きづらいということが物書きには必須なのだと思う。書くということで、世界と距離を置くことができるし(対象化)、また同時に接点も生まれるからである。

世界に対する愛着と、嫌悪の感情を、同時に満たすことができるから、人は書くことに打ち込むわけだ。だから、書くという行為の前提は、錯綜した感情が原動力になっている。

ex: 純文学のテーマは、だいたいこの矛盾―錯綜した感情。

良い評価を得る作品は、すべて上の感情を表現しているに過ぎない。上の感情は、つまり、筆者の心情であり、良い作品とは、技巧云々よりも、筆者の「率直さ」「正直さ」が評価されているに過ぎない。

人間はそれぞれ、非社会的・非公的・非論理的な感情を持ち合わせている。おそらく、ある程度までは人間は社会性をもって生まれる、つまり社会性はアプリオリなのだけども、現実の社会とはいくらかアポステリオリな要素を持っている。アポステリオリな要素――つまり、歴史、慣習。ある個体が生まれる前から存続し、ある個体がそれに順応しなければいけない要素。

ここに矛盾が生まれる。人間個体が引き裂かれるというわけだ。この順応に失敗(あるいは拒絶)したときに、人間は精神病=狂人になる。狂人の存在とは、歴史の否定である。だから、革新的な存在ではある。狂人の言葉は、必ずしも破綻しているのではなく、歴史・慣習から離れているだけである。

人間の社会性はアポステリオリであるという思い込みが西洋思想の中心にあったわけだけれども、私はいい加減この考えを捨てるべきであると思う。これは民主主義的なイデオロギーだ。つまり、「人びとが集まって社会ができる」というドグマ――個人の意思から社会を築き上げる(アメリカ的な)ドグマ。つまり、民主主義は(歴史・慣習的に)正しい―というテーゼが、人間と社会の在り方を規定している。

ただ、私が何度も繰り返すことには、人間個体は社会から生まれたのであり、まず社会という前提があるのである。それは、どんな未開の部族にも社会的集団がある(というか猿やゴリラにも)という事実から明らかである(ところでそういう社会集団には「個人」はない)。だから、ニーチェの言ったように「個人とは、まことに近代の産物である」。

民主主義的イデオロギーは逆立ちしているのであり、私はこのような虚偽に絡めとられないよう警戒することが必要だと思う。もちろん封建主義になればよいとか思っているわけではない(思うときもあるが)。よい社会には民主主義的イデオロギーは必要かもしれないと思う。ただ、個人が正しく生きようというとき、そういった思い込みからは解放されていなければならない。

歴史・慣習――科学とは、歴史・慣習の世界である、ということ。

我々は、科学を進歩したと思い込んでいる。ニュートンからアインシュタインへ、デモクリトスからドルトン・アボガドロへ。われわれはこう考えることができる。我々は真理に向かって進んでいる。モザイクのように漠然としか見えなかった世界が、今は鮮明に見えるのだ。我々は前進した!

しかし、実際は我々にとって世界はモザイクのままであり、ニュートンからアインシュタインへの変化は、モザイクの模様替えに過ぎない――という哲学的考察が、20世紀の論理学の分野で主張されていたらしい。つまりそれはクワインの言ったようなこと。

「物理的対象の神話が他の多くの神話よりも認識論的に優れているのは、経験の流れの中に扱いやすい構造を作り出すための道具として、他の神話よりも効率がよいことがわかっている、という点においてである。」

ここでいう神話とは、私の言う歴史・慣習と変わらない(と思う)。⇒ある個体が生まれる前から存続し、ある個体がそれに順応しなければいけない要素。

科学や我々にとっての認識がアポステリオリであり、非自然であるという事実は、嫌なものである。

我々のテーブルにはコップがある。しかし、本当にコップがあるのだろうか?哲学とはこういうめんどくさい思考の連続である。もっと突き進めば、哲学することに意味はあるのか?というところに行き着きそうだけども。




民主主義を批判してみたけども、ほんとうに正しいかはわからない。おそらく、社会から個人が生まれ、個人が集まり新社会を生み出すというモデルが正しく機能すれば、理想的な社会を作れると思う。

ただ、現実には個人とは少数であるから、うまくいかないのではないかと思う。というのも、世の中は基本的におバカが多数を占めることは、これはどうしようもない事実だからだ(認知症の老人にまで選挙権はあるし)。

オルテガの言うような、貴族的精神を持ったひとが、大衆を率いる方がいいと私は思う。というと、現代の「上級国民」「一般国民」という戯画的なモデルを支持するように思われるかもしれないが、オルテガの言う貴族とはもっとヒロイックなもので、不断の努力と自己犠牲を厭わない人間のことである。

11.01.2015

about money

やはり絶対の時間が足りない。明日仕事があるのであれば今日は酒を飲まなければならない。そうしないと、やりきれないからだ。酒を飲む時間は、早い方がいい。早く寝なければ、仕事に支障が出るからだ。

金が貯まってきたので、少し余裕が出てきて、カメラとか、冬用の布団を買ったりしている。これまで3000円の寝袋で我慢してきたが、夜中に寒くて何度も起きるので、嫌になった。カメラはコンデジだが、どうせ向こう何年も使うだろうから、今買っておこうと思った。

あとは、ブーツを新調した。バイクに乗るのに、スニーカーでは足首が冷たいし、ホームセンターのセールで買った1200円のブーツは、汚れやオイルがついていて、一秒でも履けば靴下からずっとその臭いが漂うほど、ひどいものだ。だから、楽天で、中古のブーツを、6000円くらいのものを買った。それは、チェコの国営メーカーのもので、物はしっかりしているのだから、ちゃんとメンテすれば、1年くらいは履けるはずだ。

私は消費が苦手だ。

ふつうの人が、自然に、本能的に、消費という行動を楽しんでいる姿が、私には理解できない。私はなぜこんなにも不自然であるのだろう。ひとびとは自然だ。私だけが、何かその行為に没頭できない。

だいいち、金は、恐ろしい代償を支払って、何とか手にするものだ。金を得るとは、人に使われることだ。もっとも、現代は、金が金を産むようにできているけど、ふつうの人にはまずそんな元本はないのだから、最初は生活のために、次は子どものために、次には老後のためといった具合に、金はあっという間になくなってしまうから、ふつうの人はふつうのまま、働いて、死ぬ、というだけのことだ。

私は、金を貯金して、当惑している。飢えた人にパンを与えて、当惑することがあるだろうか。私は金がなかった。長く貧乏な生活をしていた。だから、金を遣うことがわからない。

昔、若い私は、年収2000万円を志したことがある。つまり、年収2000万円とは、人口比で0.2%であり、私も0.2%以内に入るくらい有能だから、それは不可能ではないと睨んだのである。0.2%に入る根拠とは、就活をしていたときに受けた何とかとかいう適性試験の模試で、それで私は上位0.2%くらいだったのである。しかし現実には、0.2%の私は、就活に失敗し、地方で細々と暮らしている。

金がないという理由で、金をくれるという小企業に入ったが、私は正しかったかわからない。私は貧困に歪められたという気がする。私の学友たちは、みな私よりも金持ち家庭の出身であった。私の実家はといえば、田舎の中流といったところだ。田舎だから、中流というだけで偉いように感じるが、都市部の金持ち連中とは比較にならない。そうして、そういう金持ち家庭の皆様は、都市部で楽しく賑やかな暮らしをしており、私は田舎の環境のなかで、ひとり、酒を飲んでいる。

金を得れば幸福になれるだろうと思っていた。実際、いくらか幸福である。金が貯まるごとに、なんだか余裕はできる気がする。10万円くらいのものを買っても、ほとんど懐は痛まない。すごい感覚である――学生時代は、10万円は一か月の生活費以上だから。

こうして、日常のことを書いていくことが、何か意味を持つのかわからない。私は、数年前からだいぶ変わったように思う。文章で記録に残すと、そういうことが明瞭に浮き出る。私の精神は変化するが、変わってよかったか、悪かったか?書くことも、続ければ「成長」になるのだろうか。

それよりも、私の精神は蝋漬けになったようにも感じる。これが、田舎のつまらない仕事に適応してしまったせいなのか、あるいは酒と加齢が悪いのか、どちらだろう?私は遠く昔――手を伸ばしてやっと手が届くくらいの微妙な感覚だが――の、明晰さ、怒り、感情の激越を取り戻すことができるだろうか。