2.29.2016

what a

昨日は髪を切ってもらった。美容師とは株価や政治の話をするが、話がかみ合わなかった。花粉症の薬のせいか、頭がぼんやりする。眠くてしかたがなかった。

春を感じさせる暖かさのなか、バイクを走らせる。ウィンドウに映った自分の乗車姿がかっこいいので、我ながらほれぼれする。

バイクは、前傾であるべきだと感じる、しかしこの姿勢はまったく快適ではなく、楽しいは楽しいが30分も走らせると腰が痛くなる。低く落ち込んだセパレートハンドルと、バンク角を稼ぐため高く後ろに伸びたバックステップは、本来はレースで速く走るためのものだ。帰省はこのバイクで走ったが、よくこのバイクで二日1000kmを走ったものだと思う。

本屋に寄って、セールで売っていた人体の図鑑を買う。まだ親にもらった図書カードが余っているので、それで買った。

パン屋に寄って塩パンとクルミパンを買った。このふたつで120円。私は金がないからではなく、おいしいから買っているのだが、店員からすれば貧乏人に見えるだろう。ソーセージが乗っていたり、カレーを詰めて挙げていたり、チョコレートでコートされたパンは、実際あまりおいしそうに見えない。

近くの公園で海を眺めながら食べる。塩パンは、もちもちして、バターの風味がして、本当においしい。コンビニで売っているようなパンとは別次元だ。私の前には家族がいた。釣竿を垂らした男と、その息子と妻。ただ私は音楽を聴きながら海と空をぼんやり見ていた。

家に帰ると、すぐに酒を飲み始め、酔いつぶれてしまった。何だかそういう気分だった。フライドポテトをあげて、塩とケチャップで食べた。夜8時には、床についていいたと思う。強力な胃薬を飲んで寝たので、吐き気や胃痛はないが、いまは頭がガンガンする。

前の部署であれば、月曜日にこんな状態で出勤すれば、仕事に押しつぶされてしまっただろう。ただ今は暇な部署なので、こんな状態でも余裕がある。

日常は私を阻害しないようである。少なくとも今のうちは。私は恵まれている、幸福である。I see skies of blue and clouds of white/The bright blessed day, the dark sacred night/And I think to myself what a wonderful world.というわけだ。私は長く不幸だったからこういう幸福も当然用意されているべきだろう。

2.27.2016

田舎の女性の好意

どうも覇気のない生活を送っている。人間、十全に快適に生きることができれば、何も記述する必要はないだろう。

それと同じような記載を、「善悪と彼岸」のなかで見つけた。詳しくはここでは書かないが……。

「善悪と彼岸」は良い本である。私のなかで、良い本とは、重量を持っている本、随って密度のある本である。私がこの本を初めて読んだのは数年前だけど、そのときとはまったく違った本のように私には思える。違った関心を持っていながら、同じ本に行き着くときがある。そういった本が、密度の高い本と私は考える。

新しい部署は、あたたかく私を迎えてくれた。余暇は何をしているのか、と問われ、私は、「バイクで走っています」と答えた。「ほかには?」と問われたので、「バイクをメンテナンスしています」と答えた。これが少しウケたようだ。

新しい部署の女性社員が、20歳と、24歳で、私にはかわいらしく思える。このうちの24歳の方――身長の低い、機敏な、猫のような女性――が、私に少なからず好意を抱いているように思える。

私はただのおっさんだが、多少の女性の機微くらいはわかる。「彼女はいないんですか」というときの、彼女の声のニュアンスで、それとなくわかった。

田舎の女性は、やはり朴訥としていると思う。ある種の技巧的な洗練が感じられない。都会の女性は自己を複雑に入り組ませたがるものだ。奥深さは男の好奇心をそそる。単なる女、単純な生娘では相手にされない。田舎の女性は、その点では直截だ。

まあ相手にはしないと思うが……。

昨日は職場の連中の勧めで、温泉に入ってきた。湯につかる。何もすることがない。……何もしない時間はひさしぶりだった。何かを見つめない時間の貴重さを知る。パソコンにせよ、本にせよ、対象とする何かを追っていては、不自由なのかもしれない。露天風呂に浸かりながら、虚空を眺めていると、いろんな雑事の整理がついたという気分になる。



私はこれで良いのかもしれない、と感じた。私は神経症的だったが、いまはそうではない。しかし、神経症的だった過去の自分を私は肯定できる。かつて私は正しかったし、今は正しいということができる。

これが、神経症の治療だろうと思う。過去を捨てて、新しい自己にはなれない。また自己を捨てて、他者になることもできない。自分の運命を受け入れるということ。月並みだが神経症とは、それによって治療され、そこから人生が始まるということもできるだろう。

2.25.2016

つまらないおっさんの話②

私はただのおっさんとして空疎に生きていくのが良いのかもしれない。おっさんとはいい響きである。なんと言うこともない、引っかかりのない言葉だ。抵抗を感じない。何かに制限されない。良い言葉だ。

人生に充実を持って生きるということ。行為に没入するということ。であれば、絵を描くことの方が、漢字の書き取りよりは適切だろう。仕事のなかにも、絵を描くことと、漢字の書き取りとがある。最近の仕事は前者なので、私は仕事に楽しみをもって過ごすことができる。

シモーヌ・ヴェイユの労働日記を読む。彼らよりはずいぶんましな生活だ。彼らの仕事の退屈さは、漢字の書き取りの退屈さだ。それに比べれば、植物の世話をしている方がまだましだ。

また、私には他者を気づかう心が生まれた。というのも、この無能な(ある意味では有能な)経営者の元では、多くの社員が苦しんでいるからだ。そこに切り込みを入れたのが最近入社した元ホストであり、私はこのホストの影響で、同じように社員たちを気遣うようになった。ホストが入社して4か月ほどだが、彼なしではこの会社は成り立たないくらい有能な人間である(小企業だからこういうことがある)。

それにしても、私が他人を気遣うことになるとは思わなかった。私はあくまで、東洋集団主義に対する個人主義者だったつもりだけど、他人が不当に搾取されているのを見て、西洋的に「彼らは無知無能だから啓蒙してやろう」と思うのではなく、同族、血縁的関係として、感情として助力する気になった。こういったことは、大学時代にはありえないことだった。

大学時代は、私には個人としての自己がほとんどすべてであった。ひとりで生きていくつもりだったが、まあずいぶんと心境が変わったものである。西洋と東洋、揺れ動いていたように思う。学生だった頃は、西洋がすべてだった。しかし今は、西洋を相対化したということが言えるだろう。

都会でのことは、まるで知らないが、田舎で生きていく分には、現在それほどストレスもなく、快適である。しばらく日々の満足を楽しみたい。

2.24.2016

つまらないおっさんの話

どんな仕事でも時間と体力の余裕さえあれば創造的に取り組めるということをここ数日で感じた。

とにかく暇である。少し仕事をしてまた暇になる。そんな環境だから本をめくったりパソコンでニュースを見る。地元出身の社員と、おいしい料理店や余暇の楽しみ方を話してみる。二十歳そこそこの女性社員と、犬派か、猫派か、そんなことで花を咲かせる。私と合わない人間は、だいたい犬派なので、「やはり」となる。

それにしても、遊んでいる間にも給料は発生しているのだから、どうも落ち着かない。そういうわけで、ちょっとした整理や掃除をしたり、業務改善の草案を考えてみたりする。

職場の環境整備というのは、楽しいものである。これは絵の飾られた家に住むよりも、どんな絵を壁にかけるかを考える方が楽しいのと同じである。その行為が今後、ほとんど永続的に影響を与える。これは日常的な仕事の消化(こなしてはまたわいてくる仕事)とは違ったニュアンスがある。

ここ数日の私は、たいへん健康になったように思う。性欲も年齢相応に戻った。仕事が終わったら、楽しみに興じてみたいと思うようにもなった。孤独に閉じこもるのではなく、恋人のひとりでも作ってみようかと思うようになった。私はどこにも属すことのできない孤独な精神異常者ということをしばらく忘れることができている。

私の生活は、そう悪いものではない。定時であがり、人間関係も悪くなく、業務は楽で、給料は高い。ただ、企業規模は小さいが……。こんな仕事であれば、だれもがやりたがるだろう。私の下腹部にはだらしなく肉がつき、ブルジョアじみている。

私は下流の労働者の子どもが通う高校を出て、そこそこの大学に行ったから、社会的な成功者を知っているし、また負け組の人々も知っている。私が子どもの頃は、負け組の生活はそこまで悪いものではなかったと思う。だが、私が大人になるにつれ、彼らの生活は本当に厳しくなっているように思える。これは、単に私が社会を知らなかったせいかもしれないが。知恵のなく貧しい人間から犠牲になる。

日本人が不当に搾取されているのは、敗戦国だからだろうか。日本はゆたかな国だとは私には思えない。戦後とは、ずっと暗黒の時代だったのではないかと思える。右を向けばアメリカ、左を向けば中国、ロシア。地政学的には日本という島はほんとうに要所なのだろう。

アメリカに日本を与えようとする勢力はあるし、中国や朝鮮に与えようという勢力もある。そういう時代である。いずれにせよ日本が主権国家であるという認識はあまり沸かない。このあたりの悲哀はやはり敗戦国の宿命か。

西洋と東洋の違いを勉強しようと思っているが野田又夫氏の書籍はけっこうためになる。

しかしながら中国の社会がそのように理性的秩序をもつとしても、それは静的な統一のみを示し、動的進歩の趣きが認められない、という反省がつづいて現れる。これは上のヴォルテールの引用文の後半にすでに暗示されているが、いわゆる「秩序」と「進歩」という二条件のうち、中国では「秩序」のみあって「進歩」がないという批評が出るのである。典型的なものはアダム・スミスの規定であって、中国社会が「静的社会(ステイショナリ・ソサイエティ)」である、という。この考えは、その後いわゆる「東洋的停滞」という言葉で、西洋の東洋に対する批判的態度の共通な要素となるのである(例えば次のロマン主義の時代におけるヘーゲルの歴史哲学でのアジアの扱い方も同じ考え方に基づいている)。(「哲学の三つの伝統」)
今となっては、「静的」だった中国という国が台頭しようとしている。中国が世界をおもしろいようにかき乱してくれそうである。凡庸な生活を送る私には、楽しみを与えてくれる国である。「静かに進むものが、もっとも進む」とだれかが言った。


2.23.2016

スコレー

昨日は部署が変わって初日だったがすごい職場環境である。とにかく暇であり談笑ができコーヒーが飲める、よほど暇な時間では読書することも可能だろうという職場である。家に帰ってもまったく疲労感がない。

これまでは家に帰ると鉛を引きずるような重い疲労感があった。それがない。だから私はスーパーで弁当を買わずに、鶏肉を買い、ニンジンとエリンギを買い、バターで炒めた。それくらいの元気は優に残っていた。食事のあと何をするかと考え戸惑った。これまでは何をしてきたかと逡巡するもとくに思い当たらない。酔いつぶれていたのだ。余暇の時間をつぶす作業が必要だぞ、と新しい課題が生まれた。

以前では精神的にも疲れ酒を浴びるように飲んだがそれもない。朝は二日酔いと疲れの残りにより重力とめまいに対抗しながら起き上がったものだが、今日はすっきりと目覚める。

昼休みも、ご飯を食べて寝るための時間だった。そうしないと疲労で死んでしまいそうだったからである。新しい環境では、まったくその必要はない。ご飯を食べながら、Timesをパラパラめくって過ごす。

良い生活だ。これまでの、仕事に追われていた環境は何だったのだろう。こうも暇な職場になるとは思わなかった。大学の研究室時代よりははるかに楽である。

おそらくこんな部署にいつまでもいるわけにもいかないだろう。採算が取れてないように思うからだ。経営者から、数か月したら、また前の部署に戻ることが示唆されていた。しかしこんな生活なら、何年でもしてやっていいと思う。昇給もしたことだし。

うまく飼いならされているのかもしれないが、ある程度の金があり、ある程度の余暇があり、ある程度の仕事の楽しみもあるのであれば、別にそこから離れる意味はないだろう。もちろん、「実存」というテーマを考えるのであれば、あえて苦しい環境に飛び込む、アシジのフランシスコのような行動も必要だとは思う。あるいはニーチェの言ったように、進んで過酷な環境に挑まなければ、精神は使わなくなった筋肉のようにしぼんで劣化していくこともあるだろう。

ただまあ、ぬるま湯のような生活も悪いものではないと考える。偉人や天才になるだけが人生ではない。痛苦と絶望だけが人生でもないだろう。ひとまず余暇的な生活を楽しみたいと思う。


2.22.2016

神経症者の生活

今日付けで部署が変わるため精神的に楽である。考えてみるといままでがオーバーワーク過ぎた。ただ人間どんな環境にも慣れるということを知る良い経験だったとも言える。

年度末の昇給を教えてもらったが思ったより少なかった。もっともらえないかと経営陣に頼んでみたが一年でそれほど昇給した例はないというから貰えないらしい。それは残念だがともかく暇な部署に移ることができたのだから幸いとしよう。

「もう少しあげてもらえませんか」と言うことは勇気のいることである。そして経営陣のあっけにとられた顔もおもしろいものだった。「仕事をさせてもらえるだけでもありがたいと思え」と眼で訴えていたが私は経営者に奉仕する存在ではない。労働の対価として金銭を受けとる人間でしかない。

「愛社精神」のようなものもわずかに芽生えており多少は経営陣のことも好きである。まあがんばっているとは思う。ぐうたらのくせにベンツに豪邸のような経営陣ではなく率先して働くような気概のある人だから別段憎む必要はない。それはそれだがこれはこれ。

賢く生きれば金は手に入るだろうが惰性で生きることも存外悪いことではない。とにかく精神的には楽である。ライフデザインを思い描いてどうのこうのと昔は考えた。年収2000万円くらいを目標にしようと思っていたが1000万円くらいでもそこそこ幸福だろうと思う。

昨日バイクを納車した。そのバイクは20万円弱で、相場より少し高めなのだが、たいして気にもせず支払った。どうせ最低でも15万円で転売できるからということもある。状況が良ければ20万円でまた売れるだろう。バイクの中古相場は高値安定であり暴落ということがない点では優れた投資対象である。

20万円といえばかつては大金だった。それは2,3ヶ月分の生活費を意味したからだ。今は貯金額がそれなりにあるから、20万円の買い物をしても生活への影響は皆無だ。そう考えると、私は豊かになったと言うことができるだろう。

これまで、金銭的には豊かだったにせよ、生活はボロボロだった。労働の苦しみ、精神的重圧と肉体的疲労により私は醜く太ったし頭も禿げた。なにしろ仕事が終わればどっと疲れ本を読む気にもならず、毎日酒とポテトチップスを食べなければやっていけないという状況だったから。

これから仕事が楽になるのであれば私はもっとゆとりのある生活ができるだろう。これまでは8時間みっちりと仕事があり、息をつく暇も、コーヒーをすする時間も皆無だった。労働時間の8時間は労働でべったり塗りつぶされていた。これからは考える時間的なゆとりができるだろう。

こうして、公務員的な楽な環境になればもっといろいろできることがあるのではないかと思う。カフカは午前中だけ働いて午後を執筆にあてた。ペソアも似たような生活をしていた。彼らはその生活を好んだことだろうと思う。彼らは私と似たメンタリティだと思う。

ある程度、収入の約束があって、毎日同じような業務があって、それらはなんら精神に影響を及ぼさない。手先は勝手に動く。ある意味では囚人と似た生活だが、そういう生活こそ神経症者にとっては理想的である。

というのも、神経症者は外的刺激に過敏であるから。神経症者の多くが恋愛や性交において不能なのは、その刺激があまりに強すぎるからだと私は思う。働きすぎても神経症者はつぶれるし、働かなくてもその空疎さが今度は重圧になるだろう。

そういうわけで、ある程度豊かで、静かな暮らしが私を待っていると思うと、それは好ましいものだと感じる。もっとも、そこでの労働が何か月続くかはわからない。また転属になるかもしれないし、私が退職するかもしれない。まあしばらくはまじめに働いてやろうと思う。今年中に旅に出ることができるかはわからない。

2.20.2016

血圧と幸福

なにもしようのない日々だと思う。書かずとも幸福であればそれで良いのではないかとも感じる。

このブログを初めから読んでいくと、「アルジャーノンに花束を」の知恵遅れのように、バカが賢くなり、賢くなった人間がまたバカになる過程を感じ取れるだろう。

有能で知識が豊富だった時期は過ぎ去って、退屈の日常のなかに、ささいな興奮と感動と満足と平穏を得られるような、凡夫、俗人、おしまいの人間、「何もかも遅すぎた」人間、そういうものに私は成ったと言えるかもしれない。

年齢的なものか、腹の脂肪か、血圧か、わからないが、ともあれ体重は去年より4kg増えたし、血圧も30程度上がっている。まあ去年は、脂肪のほとんどない低血圧者だったから、つねに体がだるく、憂鬱で、ときおりコーヒーによって雷鳴のような陶酔感を得られる以外は、ほとんど水の奥に沈んでいるような重圧感をまとって生活しているようなものだった。

それが「まともに食事を摂れるようになった」ことにより、私の体重は激やせからやせ型になり、血圧も低血圧から標準にはなった。まあ血圧は仕事のストレスも関係するかもしれないが。

仕事は定時で帰られるにせよ、かなりハードな日々だったが、来週から配属が変わり、楽な環境になる予定である。噂では、午前中は多少忙しいにせよ、あとは暇でコーヒーをすすっているような環境だという。

それだから、ようやく仕事の激しい疲労から解放されるというわけだろう。このほぼ1年間、今考えてみると、あまりに働きすぎた。もともと仕事熱心でなかった私も、いくらか仕事のことが好きになったくらいだ。膨大な仕事を定時の間にこなせというのだから、仕事に集中せねばならず、集中して取り組めば何でも楽しくなるものだろう。私はたくみな経営者陣によってうまく飼いならされたと言えるかもしれない。私の職場での信頼は、中の上くらいにはなっている。

転属に加えて、明日には新しいバイクが納車になるのであり(私の月給の半分の金で買った)、私の人生は特に苦痛もなく進んでいる。「こうして、彼は幸福に暮らしたのでした」と締めくくってもよいくらいだろう。

このような充足した日々を送っている人間が、なぜわざわざ海外へ赴く必要があるだろう。また読書のような知的営みを行う必要があるだろう。セックス、スポーツ、スクリーン――というわけで、彼女でも作って、バイクに乗って、あとはYoutubeでも鑑賞すれば私は幸福な人間にはなれる。

なぜ人生はこうであってはならないと私の内奥の人格が主張するのかわからない。これをやっつけてしまえば私は凡愚になることができるだろう。田舎の人間は何ら進歩がないように見えるが人間に進歩が必要などとだれが決めたのだろう。田舎の人間は何ら主張なく自立した個人には見えないが人間がそれぞれ自由意志を持たなければならないとはだれが決めただろうか?田舎の人間はメディアに振りまわされ家畜のように支配されているが人間が何かに隷属してはいけないのか。

個人であることは緊張を伴い寿命を縮め集団に埋没してしまえば恍惚がある。

東洋イデオロギーの幸福とは足元に転がる幸福を見つけることであり、西洋イデオロギーの幸福は永遠に届かない天空に手をさしのべることである。

まあどちらでも良いが。

セックス、と言えば、元ホスト上司は三十代後半といったところで、すでに結婚しているのだが、私のような年代には恋愛をしなければいけないのだという。神経症者の恋愛は、もとより歪んだものであり、まともな恋愛ができる自信が私にはない。また、ひとと近づくことに、つねに恐怖感がある。私は病的に自己を守りたがる人間であり、自己がその心中で見つめる内奥の自己をだれかにさらけ出すなどということは考えられない。

しかし内奥の自己など、他者に隠せるわけではない。臆病な自己を隠す人間は、だれの目にも臆病である。ただ本人のみうまく隠し通せたと思っているだけである。私の精神の内奥も、隠し通せるわけではなく、漏出していくものなのだろう。そういうふうにして人と付き合えばいいのかもしれない。

ただまあ数年後に私は日本にいないはずでありそう考えると恋愛などというものはバカバカしく思える。恋い焦がれるような人間とは長く付き合うものではないと私は思う。去年の今頃は失恋に苦しんでいたが、いまは解放されている。彼女は有名企業に入社して、東京で過ごしているはずだ。相応の生活を送っているのだろう。

私とは言えば、田舎で隠遁生活ができればよいが、田舎でなんとなく幸福な生活を送ってしまっており、そうなると単なる凡人、俗人、固まってしまった粘土、ゆですぎたパスタのような人間と言えるかもしれない。

ひさしぶりに書いてみると、いろいろ書くことがあるので、自分でも驚く。今日は納豆ご飯とビールを飲んだらもう寝る予定である。

2.18.2016

大地的生活

今日は会社の部署で酒を飲んできたが、やはりホストあがりの上司は良い人物であるという風に思う。

社員が会社に対して献身的であることは、この会社では珍しいことではない。サービス残業はいくらでもやる、という社員が多数だ(私は例外である)。それは田舎の雇用の事情もあるのだろう。この会社をクビになったならば、再雇用の望みなどない……。

元ホストの良い点は、経営者の気に食わぬ点を、当たり障りなく、(というのは、柔和に、という意味ではない。あくまで主張すべき点は主張し、反論は反論として受け止める、という態度で)「説得する」というところにある。元ホストの主張は、すべて理に適っている。そのあたりの頭の回転、というか手腕は、私も傍で聞いていて唸ってしまうほどだ。

元ホストの彼には、浮ついたところはまるでない。それどころか、彼は仕事に対して、おそらく過剰なまでに熱心である。私よりもよほどだ。仕事にクオリティを求める彼にとっては、仕事に対して家族的なつながりを求める経営者とは、少し違うらしい。

クオリティという用語は、科学と芸術に分化される以前の根源的要素である……。すなわち、科学もクオリティを目指し、芸術もクオリティを目指す。その働きこそが、科学を合理的たらしめているのであるし、芸術も我々にとって感動的でありうるのである。

同じような働きを、仕事にもたらそうという人物はある。元ホストがそういう人間である。そのような人は、周囲を巻き込み、環境を改善する。労働時間が8時間30分だったのを、8時間に変えたのも彼だったが、仕事にクオリティを求めるとすれば、だらだらとサービス残業をさせる環境は好ましいものではないだろう。

そのような人間を目にして、私は労働に対して無味乾燥のイメージを抱かなくなった。それはやはり、くだらないビジネス書にあるように、自己実現の場では、やはりあると。

そうなれば、私があくまで世界旅行とか、隠遁生活に憧れるのも、ひとつの偶像でしかないということになるのかもしれない。

昨日魯迅の本を読んで感じたのは、彼もまた数年間は平凡な公務員生活を送ったということである。彼のような激しい人格にあって、そういう期間があったということは意外だったが……。彼にとって、その期間は無駄だったのか、必要だったのか。

人生、何がどうなるのかわからない。私のいまの日常は退廃的だが……。それも一個の人生として重要な要素なのかもしれないと思うことがある。

ともあれ、私は今の仕事に就いてコミュニケーション能力がついたと思うし、それは良いことだったと思う。他人の人生を、肯定的に吟味することができるようになった。私が大学生のときには、それは難しいことだった。私以外の人間は幸福であり、幸福であるゆえに軽蔑すべき人間だったから。

まあ、幸福な人間は、幸福であることができる以上、いろいろな人間よりはましだと思うようになった。

まあ、くだらない日常のことばかりここで書いている。遠い未来の理想の話は、私には似つかわしくなくなった。私には垢と体臭に満ちた数日後の未来しか、ない。当然、私の目標にしている海外旅行というのも垢と体臭に満ちているのだが。私には、天空を愛する気はなく、大地を愛することしかできない。また、大地だけを愛して、後悔する時間もない。そのように感じる昨今である。

今日は酔っぱらっているので、このような支離滅裂な文だが、もとよりこのようなブログであるから、そのままアップロードする。

2.17.2016

魯迅

昨日は不快なことがあり家に帰るなりポテトチップスと強めの酒を飲んだ。それきり酔いつぶれてしまった。

今朝は吐き気と風邪に似た症状により大いに苦しんだ。ほとんど仕事にならずかなりの業務が残ったがこういう日はさっさと寝た方が良いので定時の17時半で帰った。

だが家に帰ることを考えると暗い気分になるので(大抵無為な時間を過ごすだけだから)、いつもの図書館へ行って久しぶりに本を借りた。魯迅についての本と、京大のなんとかいう先生の書いた本。

魯迅は日本の医大におけるエピソードが好きなだけの特に関心のない人物だったが、なんとなく気になったので借りた。最近中国という国の存在感がいやに大きいせいもある。

表紙には「魯迅は中国の近代化に貢献した」と書いてある。そこで私は少し警戒した。近代化とはおおむね民主主義と合理主義と科学主義、まとめて西洋イデオロギーとでも呼ぶがこういったものの浸潤であり、侵攻であり、「進歩」ではないというのが私の考えである。

科学は我々に恩恵を与えるが知らず知らずのうちにそれはドグマと化して我々を支配する。

気になったのが魯迅はダーウィニズムに傾倒していたということであり彼もまた「進歩」に取りつかれたのかもしれない。もちろん当時は中国を近代化しなければ他国に支配されるという緊張があっただろう。阿片戦争と日本軍による侵攻という亡国の危機により近代化の必要は喫緊であった。

魯迅はある意味中国を救ったかもしれない。本によれば毛沢東が魯迅の大ファンだったということでありその影響は甚大である。

ただ私から見ればぱっとしない人物であり、私のなかでは新渡戸稲造や内村鑑三と同じカテゴリにいる。とかく世の中で偉人とされている人物でも、本当に人間性が優れているか、模範にすべきかというとそうではないことがあるものだ。

まあ読書感想はどうでもいい。

図書館で借りたもう一冊の本は「哲学の三つの伝統」というものでありこの「三つ」とはどうやらギリシャ思想・インド思想・中国思想の三つを指すらしい。

先の魯迅は中国思想、というか儒教思想を批判し西洋個人主義を取り入れようとした。魯迅は小説家だが、小説という媒体はまことに西洋イデオロギーの普及に合っているようだ。

「魯迅は近代化を小説で成し遂げようとした」と本には書いてあるが、実際我々の国でも近代化は小説家が実現したのではないのか。小説がもっとも輝き華やいだ時代とはまさしく日本が近代化しようというときであった。近代化が成し遂げられると途端に小説はほとんどだれも見向きしないものになった。

小説が近代において唐突に現れたのは西洋においてもそうであり、200年ほど前では小説は個人が読むものではなかった。それは声をあげて朗読するものだったのである。だから劇や歌のようなものであった。

近代化は果たして正しいのかが私にとってかなり興味深いテーマである。というのも、現実に私は西洋と東洋の狭間にいる。日本的な企業に勤めているとそのあたりのことを強く実感することができる。

私は経営者の言い分もわかるし、法律的に彼らが間違っていることもわかる。この狭間にあってどうすればよいのかわからない。この葛藤はなんともしがたい。

ただ、私のなかでなんとなく西洋イデオロギーは気に食わないものになってきている。かつては西洋イデオロギーこそが正義だった。私は個人主義者であり、法と科学の信仰者だった。ただそういった信仰の時期が終わった。

私のこういう信仰を打ち砕いたのはニーチェだった。ニーチェを初めて読んで数年になるがかつてはだいぶ誤読していたように思う。西洋イデオロギー、プラトニズム的価値観の相対化という点ではニーチェほど優れた論者もいないと思う。ただ彼も西洋を批判するので精いっぱいで新しい道を示しているわけではない。「超人」という一応の解はあるが、どうもぴんとこない。

まあニーチェも読んでいこうと思う。今日はもう寝る。

2.16.2016

田舎と金

毎日くたびれるほどに働いているがこれも海外旅行のためだと思えばなんとか生活できる。

ただ言えることは働いて飯を食うだけの生活も悪いものではない。思想的に深化すればそれだけ苦しみも増える。資本主義社会において労働者はすべて搾取されている。われわれは職業選択の自由はあっても職業に就かない自由は事実上ない。本質的にはだれかを儲けさせるために我々は労働力を提供している。それは経営者であったり国家であったり、あるいは別の国家であったり、一握りの富豪であったりする。

しかし我々には毎月金銭が与えられ、それで「自由に」食品や衣類を買うことができる。我々はチキンではなくビーフを買うことができ赤いシャツではなく青いシャツを着ることもできる。

日本人の生活様式は生産から消費に移った。これはアメリカに数十年遅れて達成した。しかしいまはまた逆行しているのかもしれない?私もそうだがとにかく消費というものをしないし、それでもなんだか生きづらい感覚がある。何もかも高すぎるのかもしれない。そもそも相応の賃金を得ていないからかもしれない。

どれだけ金銭を得れば満足できるかは難しいが一般的には年収600万円以上だと幸福度が高いと言われている。おもしろいことにそれ以上稼いでも幸福度は相関しないらしい。まともな家が買えてまともな車が買えてまともな物を食べまともな教育を施せる下限はおそらく600万円程度だと私は考える。日本の一般的な家庭では。

年収1000万円あれば会社員であれば上等だが医者であればまだまだというところだろう。開業医は何千万円も儲けているから。この場合エリートの会社員の方が勤務医よりましということが言えるだろう。

私の住んでいる地方では私と同年代であれば300万円あれば上等だ。地方は疲弊している。ワゴンタイプの軽自動車、色は白ばかり、ときおり下品なカスタム車が爆音を立てて走っていく。不自由が行き詰って腐り、精神がすべて死んだような町だ(まあ私も軽自動車に乗っているのだが)。

年収というファクターが私にはとても興味深く感じる。おそらく人間の生活レベルを規定するのにこれほど明確かつ重要な要素はないからだ。そして生活レベルは、ある程度は精神も規定してしまう。年収というファクターは多くの人が目を逸らしているがかなり重要な要素である。

労働者はだれでも自分の時間を切り売りして生活している。だが自分のその拘束時間でどれだけの対価を得られているか計算する人は少ない。

ただ生活とは金勘定だけで何とかなるものではない。生活の充足感は金だけで得られない。私がもしも文筆家になれるのであれば年収100万円程度でいいからやりたいと思うだろう。また私が計画している旅行の生活は、ざっと見積もって年収-300万円程度になるだろう。

金だけを目的に生きてもしょうがない。しかし人間は金がなければ生きていけない。人より金が欲しいと思うのも自然な感情である。ノーマルな鬱病患者に100万円を与えればそれで治ってしまうのかもしれない。金銭の誘惑は存在する。一度あげた生活レベルは簡単には下げられない。

金が潤滑油となって人間が歯車となって社会は動いている。金がなければだれもが歯車であることを辞めてしまうだろう。

アメリカ的なイデオロギーでは金をたくさん稼ぐことはスマートでかっこいい!とされている。知的戦略の頭脳プレイだ。フォード、ペンバートン、ジョブズなどなど神格化されている。が、実際のところ金は一握りの人間が貯めこんでいる。金を稼ぐとは、この連中に頭を下げることに他ならない。

金銭の追及とはつまるところ資本家や富豪たちへの隷属を示す。金銭でなりたつバベルの塔の柱の一本になることを要求されるわけだ。我々は金と関わる以上はこういった誘惑を認識しなければならないだろう。さもなくば骨が朽ちるまで一本の柱とされてしまうだろう。そういう人間は少し私は見たことがある。また、私もすでに柱の一本になりつつあるのかもしれない。

2.14.2016

ニーチェフリーク

疲れた。

金曜日の残業2時間が響いている。

また学生になりないな、と思う頃がある。大学に入る必要はないが、学徒というべきか、勉強一筋に知見を深めるような期間を設けたいと思っている。

人間が生きるための目標とはどういうものなのだろうか、と考える。だいたい、だれかに認められることが、人間の主要な目的であるという気がする。その意味で、真理探求とは真理であるというよりも、普遍的な事実である。たとえば人はだれでも死ぬという点では、それを否定する人はほぼいないだろう。ゆえに、だれでも死ぬという事実は、真理に近い。

真理がなにか超越的存在であるとするのがイデアリストたちだけれども、孤独な人間たちの行う真理探究も、結局は「だれかに認められたい」という衝動の湾曲的なものなのかもしれない。

自分の家を持てば共産主義者にはならない――人間社会で摩擦なく生きていくことができれば、とくに哲学や文学に傾倒する必要はないはずである。太宰治が高血圧であったり、宮沢賢治の摂取カロリーが1.5倍だったらかれらの作品は生まれなかっただろう。

このように私は最近、反知性的というか、知性や理性に対して反抗期的な態度を取っている。例えば今手元には「ヘーゲルからニーチェへ」というレーヴィットの分厚い本があるけども、こういう本を
、昔は好んで読もうとしたけど、今の私は「いったいこんな内容がどんな意味を持つのだろう」と思ってしまう。

例えば今読んでいるところは、ゲーテとヘーゲルが仲良しだった、ことをつらつらと書いているけど、特段私はゲーテが好きというわけでなし、ヘーゲルはもっとよくわからない。

ジャニーズファンが番組を追いかけるのと文学者がゲーテの生涯を探求するのと本質的な違いはあるのだろうか。「ジャニーズは低俗だがゲーテは崇高だ」という人があるかもしれない。たしかにこれは事実である。ジャニーズなんて日本の一部の少女にしか相手にされない。ゲーテは普遍的な価値がある。なにしろ我々を何百年も捉えてきたのだし、また世界中の人に愛されている。

おそらくジャニーズのドラマを好む少女がゲーテを読むことはないだろう。そのように考えると、知性的に優れた人間がゲーテを好むということはある。二層は知的な階級で分断されている。そこで、「知性的に優れた人間が好む」事象は、真理に近いと言えるのだろうか。

仏僧の読む経典は子どもの読む絵本に比べて深遠崇高である、ということは言えるかもしれない。その経典は奥深くとても探求できないほど多様な解釈が可能と言えるだろう。

まあ上記は単にニーチェ風に「真理とは誤謬である」という逆説の影響があるわけだ。

ニーチェの仕事を分析することは私にとってとても重要であるという気がする。彼がしたことは一体何なのか。さまざまな説明はあるにせよ、まだ彼の存在は納得がいかない。今日は善悪の彼岸を読むつもりだが、これは実際のところ、ジャニーズの追っかけと変わらない。


話を戻すと、われわれが何で生きるかというところだけれども、これを考えてみると、まったく難しい。例えば今のように日中は働いて、夜はそれなりの飯を食べて、それなりの酒を飲んで寝るというサイクルも、決して悪いものではないと思う。私の収入は、実際悪くないのだから、結婚して、子どもを産んで、私の父親や祖父がそうしたように再生産を行えば、いちおうは満足いく生活ができるのかもしれない。

かたや、薄暗い部屋のなかで、沸騰した頭脳で書物と格闘し、食うや食わずで研究に没頭する生活というのも、これも楽しそうである。

実存はいかに達成するかというと、どのように生きても実存はできるのではないかと思う。ダス・マン的な生活を、私は否定しなくなった。オルテガの言うように、知的エリートは必要だと思うが、エリートに牽引される凡愚たちにも、それなりの知性が宿っている。

だから私は大衆的な事象を否定しなくなった。実際かれらは幸福であり幸福を実現するという意味では成功者だからである(この事実は田舎に住んでいるとよくわかる)。ひるがえって知的エリートと呼ばれる人間たちは、その高い知性の割にはあまり幸福そうではないという事実がある。

知性とは我々を幸福にするための道具であるとすれば、知的エリートの持つ知性は紛いものなのかもしれない。書物を追いかけるよりも種を植えてヤギを飼う方が幸福なのかもしれない。

このように生活は個々人によって多様であるけれども、ギーター風に言えば「失敗と成功は同一」なのであり、知的エリートも凡愚も同一である、という風に最近は考えている。

だからあらゆる執着を捨てて、何かにしがみつかずに、諦めと、その中に希望を見出して生きていくのが最善なのだろうと最近は思っている。

2.12.2016

zack

まったくこのような日常は、耐えられたものではない、と思う。私はすでに終わってしまった人間なのではないかと考える。

職業の必要から、私は会話をする必要を強いられるから、学生時代とは反対に、私は饒舌であることを強いられている。

驚くべきことに、このような職場に私は適応してしまった――というか、職場が私に適応してしまったようで、私のおかげで業績があがったとか、そういう風に褒められることがたまにあるくらいだった。私が長く勤めてくれるだろう、と周囲の期待もあるようだ。私も、この職場で私が消えたら、しばらくはこの会社の業務は破綻するだろうと思っている。

今日はバレンタイン・デーのチョコレートを、女性社員からもらった。もちろん義理ではあるけれど。職場の人間と、軋轢なくやれているという現実が、信じられないものである。1年前の私は、それまで人間とうまくやっていくことができなかったから、きっと現在の職場でもうまくいかないだろうと思っていた。

どのような環境にも、人間は適応してしまう。それは生きるための必要からだ。他人と十分に意思疎通ができれば、読書や執筆にこだわる必要はない。それは、だれかが言ったことだが、「だれでも自分の家を持てば、共産主義にならない」のである。

まあそれにしても読書をしなくなった。それに、たいへんラフにモノを書いている。相変わらず、ここでは自由に気兼ねなく書いているが、かつては何か思想家や文筆家のようなものものしさを無意識的に志向していたようだが、今は別にそういうスタイルに、あこがれのようなものを持たなくなった。

質を高めること、クオリティに優れた文章を書くこと、これは重要だと私は思うが、それにしても、技術や見てくれに偏向するとろくなことにならないものである。

音楽についても、気の向くままに数曲やってみるというだけで、昔のように退屈な基礎練習に明け暮れるということはなくなった。だから、現在の私は以前よりだいぶ下手なのだろうが、気ままに脱力した演奏も、それはそれで味があるのではないかと思っている。

何かを人と競う、という気が一切なくなってしまった。だから私は、お前はバカだ、と言われれば、むっとするにせよ、正当性のある主張であればそれはすんなり受け入れてしまうと思う。実際、私は記憶力が弱く、また機知にとんだ会話をすることができない。長く話していると、だんだん疲れてきて口ごもってしまう。肉体的にも会話を拒絶して、声が枯れてくる。酸欠気味で意識がぼんやりしてくる。そういう有様だから、私と会話した人が、あいつはうすのろだ、と言ってきても、私はそれは正当性がある、と納得してしまうだろう。

学生時代は自分が有能でなければならないと思っていた。大学という科学の場はそういうものだった。より多く記憶した者が偉いという世界だった。

今では、もうそういった細々としたものはどうでもよくなった。世界が一個に丸く完結してしまったような感じだ。定義は世界を分割するから、本質的に悪であると思う。世界は定義不能だからである。

世界とは、他人との共有である。ゲーテを猫に読ませても理解できないだろう。それは猫に知性がないから、と我々は思っている。しかし、例えば犬の嗅覚を我々は持たないから、犬の感覚世界を我々は理解することができない。猫がゲーテを読めないのと、人間が嗅覚世界を持てないことと何が違うのだろうか。犬からすると人間は愚鈍なのかもしれない。

私の上の思想(と大げさに書くが)は、しょうもないものなのかもしれないが、難解な思想と、何が違うのだろうか。それらは高尚に感じるから、事実らしく見えるだけである。大抵のアリストテレス系の西洋哲学はそのようなものである。芸術が良い点は、そういう退屈さと空虚さから基本的に無縁であるところであり、その点ニーチェの思想書が芸術的であるのは、べつだん彼が遊び心に富んでいるからではなく、その芸術性が哲学的主張の一要素なのである。

今の私は表現力が落ちている。私の現状の言表不足、言語能力の衰退は、そのまま私の自己意識の消失、理性的判断力の低下を示しているのだろう。その点、私は動物に近づいているということができる。動物に近づいた方がよいのか、人間として崇高な使命に生きた方がよいのかわからない。西洋プラトニズム的には、イデアを追いかけろということになるし、東洋アニミズム的には、自然に逆らわず生きよということになる。このどちらの性向が良いのかわからない。

こういう二項対立は難しいがコペルニクスの転回的な解決方法があるのではないかと思っている。たとえばパソコンは0と1の信号のみで成り立つと言われているが、これは正しくない。実際には「無」がある。パソコンに電源が入っていないときである。

このように「それ以前」の状態、西洋にも東洋にも行き着かない究極に根源的な思想、そんなものがあればよいと私には思える。

西洋に行き着いても、東洋が私の尾を引くし、東洋の怠惰にあると西洋が輝いて見える。そんな直線状を行き来してるだけでは進歩がないだろうと考える。

とにかく、日常がつまらないので、何とか生活を向上させたいと思っている。

2.11.2016

パルメニデスとヘラクレイトス

上司にイタリア料理屋に連れられていろいろ食べた。

本当においしい料理とは、素材のえぐみや苦みを、隠さず示しているものであり、いわば甘さや旨みで媚びずに、料理人の好みを直截に表しているものであると感じた。

甘いだけのリンゴやサツマイモが高級食材であったり、また脂と旨みだけの大トロが好まれたりするが、私にはそういうものがおいしいとは感じない。それはもちろん、不味いわけではないし、日常食べるのには良いが、「おいしいもの」とは違う。

その意味で、芸術作品に通じるものがある。音楽や絵画も、これと似ている。緻密に、繊細に完成されたジャズがあるけど、このようなものを日頃聴くものではない。どのような音楽でも頻繁に聴いていればすぐに飽きてしまうし、日常に不似合だ。少しポップな雰囲気のものの方が良かったりする。また作者の魂を捧げたような絵画はあるが、これを部屋に飾る気にはならない。年に一度、半時間ほど眺めるくらいがちょうどいい。

(それにしても、日本の一般的に売られているチーズの不味さには本当にあきれかえる)

しかし日常の舞台に不釣り合いであっても、それが必ず良いことはわかる。例えば筒井康隆よりゲーテの方が「良い」ということはたいていの人間には理解できるけれども、我々は筒井康隆は何冊でも読むことはできるが、ゲーテをそう熱心に読めるものではない。

同じように、新書は一日一冊でも読むことはできるけど、古典となるとそうはいかない。古典の方がクオリティとしては優れていることはわかる。ただ、親しみやすいのは新書である。

上司が、学生時代はやり手のホストだということを知って、私は驚いた。仕事の知識は豊富だし、まあ、トークがうまいし、人をその気にさせるのがうまい人間だということは感じていた。ただ見るからに、まじめで、神経質そうだから意外だった。そういう人こそ、案外人気が出るのかもしれない。

人を先導することができるということは、人を観察することができるということだ。こういう人間にとって、私はどのようにうつるのだろうと推察してみたが、たぶん十分に理解できないのではないかと思う。

私には私という人間がどうもつかめないが、他者にとっては容易に理解できるのかもしれない…私は他人になったことがないのでわからないが。いちおう、考察を重ねた結果、私という人間の特性をできるだけ客観的につかめたような気になることがある。例えばdegenere=変質者。しかしそれは時と状況によって変化しているようにも思える。

パルメニデスとヘラクレイトス。ヘラクレイトスは、万物の流動を根源的真理としたが……。人間個人も、そう一定であるわけにもいかないだろう。

私のブログタイトルは、「汝自らを知れ」というデルポイの神託が元になっている。自己を知ることが世界を知ることである、と言ったのは、西田幾多郎だったと思う。

ともあれ、元ホストの上司は、興味深い人間なので、よく観察したいとは思っている。

ただ、私はこの仕事をどれだけ続けるべきか、という点で悩ましく思っている。仕事は、ある程度楽しくなってきている。一日の労働時間は、8.5時間から8時間に短縮された。そろそろ一年目を迎える。仕事に慣れてきたし、昇給の時期でもある。使われることに慣れてしまった方が、楽という気がしなくもない。

私の尊敬する文人であるカフカやペソアは、職務を続けながら小説を書いた。カフカは公務員だったし、ペソアはビジネスレターを書いていた。「禅とオートバイ修理技術」のロバート・パーシグも、専門家向けの技術書で生計を立てていた。

退屈な日常があった方が、創造的な仕事に向いているのかもしれないと思う。専業の小説家は、筒井康隆の作品のように楽しげで賑やかではあるけど、絶対的なクオリティは下がる。職業的な小説家が、ふつう生涯をかけた渾身の一冊など作れるものではない。

小説家の作品には、小説家の生活がかかっているのであり、生活が関わる以上、経済と無縁でありえない。それは功利主義、合理主義、効率主義の洗礼を受ける。職業的小説家とは、このようなものである。

だからといって、それらの前提を廃した作品が良いとも私には思えないのである。ヒッピー文化の陳腐さ。ヒッピーたちは、内心では合理主義的生活に惹かれている。そうだから執拗に反発するのである。だから彼らは見た目ほど自由ではなく、アンチ合理主義という点で束縛されている。

良い芸術がどのようなものか、私にはわからなくなってくる。プロの音楽家もさまざまだ。私の技量からすると、信じられないクオリティの持ち主はいる。しかしYoutubeのアマチュア音楽家の音楽が、よほど私の心を揺さぶることもある。

だから、難しい。一筋縄ではいかないと思う。今日はもう寝る。

2.09.2016

読書と陶酔

久しぶりに「禅とオートバイ修理技術」を読んだ。これは、いい作品だ。

以前読んだ本を再度読むと、自分がどれほどその作品に影響されているかというのがわかってくる。私は今、西洋対東洋――西洋合理主義の相対化、つまりアンチプラトニズム的な思想に傾倒しているけども、そういった今の傾倒はこの本の影響もあるようだ。

自分の思想がどれだけオリジナリティを持つかと思うと、ほとんどないということを知らされる。しかし、人間の記憶とは複雑なものだと思う。おそらく、表層意識まで昇らない記憶も、無意識層に蓄積されているのだと思う。一度忘れてしまった事柄を、十年経って思い出すこともある。無意識に蓄積された読書体験が、知らずのうちに人間を方向づけることもあるらしい。

この本はタイトルに似合わず本格的な哲学書であり、おそらく一般的なバイク乗りにはほとんどおすすめできない代物である。そして禅好きにも勧められないだろう。この本は、ニーチェと同じくアンチプラトニズム的な思想書である。つまり本質的に現在まで続く西洋思想に対するカウンターであるから、西洋合理主義にいったんはかぶれた人間でないとあまり共感できないと思う。だからアメリカでヒットしても、日本ではあまり共感を得られないのではないかと私は思う。


それにしても久しぶりに良い読書体験をした。

完全に読書に没我するという経験は、就職してから稀になってしまった。こういった読書体験は、なかなか微妙なバランスを要求されるのである。

適切な環境でなければならない。環境に、人間が数名いなければならない。無人では、なかなか難しい。質の高い音楽を聴いていること。防音性から、カナル型のイヤホンが好ましい。モーツァルトでもいいし、カート・ローゼンウィンケルでもいい。なるべくカフェインの摂取を多く。仕事が終わって、解放されたときがいい。少なくとも数時間、本を読み続けることのできる時間的余裕を。

大学の図書室が、そのような環境であった、今でも思い出す、あのときは読書に耽っていた。図書室でもっとも分厚い本を借りて(たしか人類文化学の本だった。数千ページ)このような本を丁寧に読むのは、この大学で私だけだろうと思った。しかしそれも数百ページで頓挫したのだが……。

大学の図書室。懐かしい。ジャック・ランシエールとか、デリダやフーコーとか、フーバー、E.フロム、いろいろあったものだと思う。とくに、E・フロムを読んで、私は初めて読書の楽しみを知ったのであった。

まあ、人生いろいろな転機があるものだと思う。懐かしく思ってもしょうがないものだ。私の日常は、死んだように怠惰に満ちている。大学時代の、読書に対する興奮と情熱は、いまはもう稀にしか体験できなくなった(こうした体験が、私を若返らせることは本当に不思議だと思う)。

しかし、人間はつねに一定にあることはできず、誕生から滅ぶまでを不可逆的に進行するものだから、私の頭がハゲたとしてもそれは戻らず、筋肉が脂肪となることもたいていは戻らず、私の頭脳が活発な思考を退け怠惰な日常に停滞するとしてもそれは戻らないのだと思う。こうした先に、私はどう折り合いをつけるのか。どうつけるのだろう。

私はまるきり子どものままでいるようだし、何ら人生の迷いのない老人になったようにも思える。田舎には、私を相対化してくれる対象がいないから、こういうことになるのだろう。かといって、都会に戻ろうという気もおきない。都会は、私の頭脳を若返らせ、活性化することはできるだろうけども、いくらそういう効果があったとして、私がいずれ老いて朽ちることには変わりない。

まあ少なくとも海外バイク旅行はしたいと思っている。


Zhivago - OJM + KURT ROSENWINKEL



2.08.2016

不安の概念

死にたいという感情が一度意識層にあがると、それが止まることなく連鎖し増長していく。死という概念が引力を持って、すべての行為の帰結が、死へと捻じ曲げられていく。仕事がつまらない。死ねばいいんだ。料理が失敗して不味い。死ねばいいんだ。ハゲてきた。死ねばいいんだ……。

上記のような体験をした。私はこのような感覚はあまり体験したことがなかったので、なんだか鬱病患者の心理を知ることができたように思って、少し貴重だと感じた。「死にたい」という言葉が、これほど有益に・実際的に感じられることもなかった。

神経症が防衛的な症状であるということは何かの本で読んだ。ストレスや、死に向かうような抑鬱的なメンタルの異常に対し、潜在意識の計らいによって、人は神経症になると。たとえば、神経症患者はガスの元栓が閉まっているか気になって、何度も職場と家を往復してしまう――というような症状があるが、ガスの栓などは「どうでもいい」ことであり、「どうでもいい」ことに執着するからこそ、人生の大問題については無頓着であることができる、という風に病理学的に考えることもできる。

私はどうにかこうにか神経症から健常者へと戻ろうとしており、一応はまっとうな人間として職務についているが、神経症的な傾向がなくなれば、それは全人類に共通の、不安uneasinessに生身のまま立ち向かわなければならないということになるのだろう。そうなると、今度は神経症と戦うよりも、より根源的な問題である、uneasinessの解決に取り組まなければならないということになる。

それにしても、この不安という概念は、人間につきもののようであり、これを解決できた人間は、おそらく仏陀ぐらいのものだろうと私は思っている。これに対し、解決不可能な問題として受容するのか、あくまで解決可能として奮闘するのかは個々人の思想に拠るだろうが、私としてはもう、不安とは付き合って行くしかないと思っている。

私の人生はこれでよいのか、という疑問。これが消えることはないだろう。ニーチェの良いところは、永劫回帰の概念を持ちだして、これを解決し(ようとし)たというところにあるだろう。私の人生は、しょうもない人生、恥と汚辱に満ちた人生だが、これは何万回も繰り返される。こうでなければならないes muss sein。

そういうわけで、不安は解決できるかはわからない。結局、ニーチェも道標を指し示すことはできたけれど、それを実現した「超人」が存在するのかは、私にはわからない。ただなんとなく、執着をなくせば、平穏に生きることができるという気がする。

しかし、執着がなくなれば人はどう生きていけばよいのだろうか。私にはそれがわからないので、戸惑っている。たとえば芸術家という人間がいるが、彼らから執着をなくしてしまえば、もう職業的な味気ない作品しか生みだせなくなると思う。たとえば高みに昇った人間には、世間的な金銭などは大した価値を持たないし、また名声もそうである。そういう次元に到達した人間に、芸術作品がどういう価値を持つのだろう。

人の動力源として、怨恨、苦痛があるけれども、我々はこの苦痛から解放されるべきなのか、あるいは苦痛から目を逸らして生きるべきなのか。これは、昨今なんども繰り返したように、西洋と東洋のイデオロギーの違いになるので、難しいことである。私にはこの難問は解けそうにないが、まあ考えてみたいとは思っている。


2.06.2016

感情対理性

我々はなぜソクラテスやプラトンを崇拝するのだろう。ソクラテスは処刑された。アテナイの判決によってだ。

ソクラテスは批判された。数々のソフィストたちに。なぜ批判されたのか?ソクラテスが正しいとするならだ。

たしかに、ソクラテスは論理的には正しかった。彼の明晰な頭脳によって展開された論理にはだれもが従ったわけだ。

単純な嫉妬ややっかみ、あるいは偏見によってソクラテスが批判されたわけではないと私は思う。当時のアテナイにおいて、ソクラテスは悪だという考えが、ひとびとにあったのではないかと思われる。それはたぶん、非理性的な面、感情においてだ。

しかし、非理性的な側面は、言表がたいへん難しい。たとえば我々がサッカーで遊ぶとして、それを「楽しい」と感じることはできる。またそれを「楽しい」と表現することはできる。しかし、「論理的になぜサッカーは楽しいのか?」と問われると、俄然難しくなる。

サッカーの楽しさを説明することも、ソクラテスが悪であることを説明することも、ひとびとには難解であったと思う。それと反対に、明快な論理を組み立てて、他人を説き伏せることは、簡単である。

「ソクラテスは論理的に正しいことを言っている。だから彼は正しい」と言うことはできるのかもしれない。しかしそれは、理性という神話体系の中でのみだ。ギリシャ神話は稚拙なおとぎ話となり、論理が次なる神に台頭した。

理性的であることが正しいとされ、それ以外の文化風習は「狂気」であるとみなされた。定義、証明、分析のような技術が、単なる技術ではおさまらなくなり、人々の願いによって、神器へと昇格した。

このような価値観は、まだギリシャに残っていた無意識的、非理性的な文化風土を荒廃させるものだった。だからソクラテスは殺された。と、私は稚拙ながらそう考えている。

合理主義、あるいは理性主義は日本にも蔓延している。論理的には正しいが、感情的には正しくない事柄に多くの日本人は戸惑っている。たとえば、労働者が自分の権利を主張すること、子どもと親が対等の人間であること、市民が国家と契約を交わすこと、などなど、西洋由来の価値観に、われわれは必ずしも馴染んでいるわけではない。

労働とは奉仕・丁稚であり、子どもは親に尽くすのであり、国家権力に市民は服従する、そういう前世紀的な価値観は、われわれの間にまだ残っている。

そうだからサービス残業とか、人権侵害、形だけの民主主義、法治主義、が横行し、諸外国に批判されるのである。

たしかに、我々はサービス残業を強いる経営者に対し不当な扱いを解消するよう要求することはできる。ストライキも法的に許されている。しかし、日本の労働者はストをしない。挙句の果てには過重労働の末に自死することもある。

論理的には「労働者の権利」としてストをする権利がある。これが西洋国であればストで電車が止まってもほとんどだれも文句を言わない。しかし日本ではそうはいかないだろう。日本人はストライキは論理的に正しくても、感情的には正しくないと考えていることがわかる。そうして、感情的に考える人間が日本人なのである。

私がかつて、日本の文化風土になじめず、たいへん苦しい思いをしたのも、日本人とは感情に生きる人間であり、論理的に正しいことをなかなか認めないということを知らなかったからである。私が論理的に説き伏せようとしても、彼らは「理屈じゃないんだ」と言った。私は混乱した。が、今は少し理解している。

だが今考えると、かつての私はソクラテスやアリストテレスと同じ立場にあり、「理屈じゃないんだ」と言った日本人(私も日本人だが)たちは、その反対者であるソフィストたちであると言えるだろう。ギリシャではソクラテスが(結果的に)勝利したけど、日本ではどうなるだろうか。水面下で感情対理性の思想戦争が行われているのかもしれない。








2.04.2016

ソクラテスの死刑

大地と天空のふたつの信仰がある。

天空の信仰。古代ギリシャ、キリスト教、近代文明。
大地の信仰。中国思想、インド哲学、古代文明。

我々は古代ギリシャ文明に恋い焦がれる。なぜか?それは我々の社会の神話の源流が、そこにあるからだ。我々が恋い焦がれる科学の源流は、古代ギリシャから生まれた。

理性が、われわれの実存を奪い取った。ただの道具である理性が、神格化され、我々を飲みこんだ。

無意識と意識の対比。理性は意識の側にある。実存は無意識領域にある。理性が無意識を飲み込む。これが神経症のメカニズムである。

理性とは武器であり、道具である。初めから満たされた人間には、理性は重要ではない。理性とは、人間存在を在る場所へと移動することを可能にする橋であり、目的地ではないはずである。

われわれは、普段の生活のほとんどを無意識的判断に従って生活している。われわれは、無意識の指示する命令を至上のものとし、行動することに慣れている。しかし、そこに理性があるとどうか。

「お前の行動は非合理的だ。なぜならば~~だからだ」と言われると、どうやらそのように思えてくるし、その言表に従った方が得のように思える。

理性のはたらきの醜悪さは、ある程度芸術作品をたしなむ人であればわかると思う。理性的に完成された作品であっても、それは良い作品とは限らない。かえって吐き気を催すこともある。英才教育で超人的な技能を身につけた少年少女のピアノが、何ら心に響かないということが往々にある。

しかし非理性的な作品が必ずしも良いというわけではない。数十年前の人びとはこの錯誤に陥った。すこし前に流行ったフリージャズなど、抽象芸術の真似事で、抽象芸術と同様、たいした価値はない。

良い作品とは、理性的にもよい作品であり、非理性的な感性的領域においても、良いものである。

大地において、万物は流転する。天空において、一極点(太陽)は永遠である。どちらも我々の実存に与している。理性をこねくり回すようりも、天と地の声に耳を傾けるべきだろう。

だから、ソクラテスが「青年をたぶらかす」として死刑となったのも、理解できるのである。もっとも、ソクラテスはプラトンによって復活し、二千年以上人類をたぶらかし続けたのだが……。

2.03.2016

富の蓄積

金銭感覚が徐々におかしくなっており、昨日1万円の売買取引を完了させ、今日は1万5000円の取引を完了させた。両方とも、個人売買である。また、いま15万円相当の取引を検討中である。

社会に出て、金を稼ぐと、数万円単位の買い物にさほど躊躇しなくなる。私の学生時代の貯蓄は、だいたい20万円を越えることはほぼなかった。それが今は10倍以上の資産があり、また収入も何倍かの金が毎月入ってくるから、当時は数十円の違いに拘泥し、学食でもおにぎりを持参し豚汁のみ注文するという生活だったのに、今では数万円のものでも、気軽に買ってしまう。

いまでも貧乏性というかケチな性分は残っており、スーパーではほとんど半額のものしか買わないし、外食は一切せず、衣類は海外のセール品しか買っていない。例えば私の今来ているコートはイギリス製のもので、セール品で1万円だったが、日本で同型のものを買おうと思うと6万円程度する。

日本の消費者は、基本的に批判能力がないために、つねにぼったくられている。例えばおいしいと評判の日本のフルーツを食べてみると、ひたすら甘いだけで、まったく食べられたものではない。これなら砂糖水を飲んだ方がましだとつねづね思う。日本人の舌は繊細ではない。甘ければうまいのである。

話が逸れたが、私が個人売買で数万円で買うのは、だいたいがそれだけの価値があるからである。いや、実際はそれ以上かもしれない。例えば、今日決めた1万5000円の取引は、うまく写真を撮って転売すれば、2万円には(最低でも)なるはずである。

だから、実際上私は金を失ったわけではない。金と商品が可逆的なのである。私は買い物をしたが、金を失ったという実感がない。これが、個人売買の強みだと思う。店舗は必ず利益を出さなければならないから、ほとんどの商品が「買い損」になる。個人売買は必ずしもそうではない。

物を買うことが、単なる消費ではなく投資になってくると、これは金持ちになってきたことの証拠なのだろう。投資の対象は必ずしも株や不動産である必要はない。金の概念が、紙からモノへ分散させるということである。

金持ちは、自由に金を動かすことができるということだ。そうして、そのことが利益を生む。一万円札はつねに一万円の価値しかないが、一万円で買ったモノの価値は5000円にも十万円にもなる。だから、適切な目利きができれば、利益が利益を生むという良好なサイクルが生じる。

利益を大きくしようと思えば、リスクをとるのが妥当だと思われるが、これはたいてい失敗するだろう。500万円を510万円にするのは簡単だが、10万円を20万円にすることは容易ではない。これが、お金の妙なところだ。

資産が100万円しかない人間が、金を儲けようとすれば大抵失敗するだろうと思う。だが1億円持っていれば失敗する可能性は減っていくだろう。ようは資産を多く持たない人間には、できることが限られているのであり、資産家はたいていの手段が容易に行使できるのである。

その証拠に、私の頭には不動産投資をしようという気が沸かない。私に考えられるのは、せいぜい数十万円のバイクの転売で儲けるという手筈である(この「バイク屋の真似」はたぶん、確実に利益が生みだせるが、ふつうに働いた方が儲かるのでしない)。

ところが私に1億円が与えられれば、バイク屋も可能性としてはありうるけども、もっとさまざまな投資、宝石や芸術品なども視野に入ってくるだろう。

私が金を貯めこんでいるのは、金が好きだからではない。海外旅行という目標があるからだ。ただ、この10か月ひたすら金を稼いで、感じるのは、貧乏人の世界と金持ちの世界は違うということである。これは単純な事実である。女にとっての世界と男の世界は違うことと同じだ。

どちらが良いとは言えないが、性別の違いとは異なり、金銭感覚の違いは体感することができる。貧乏人の視点と、金持ちの視点はできることなら知っておくべきだろう。初めから金持ちの人間は、貧乏を知ることがなければそれだけ視野狭窄であるということもできる。

まあ些細な買い物からずいぶんと長く書いた。今日はもう寝る。

2.02.2016

neg

昨日は朝から苦しい思いをしながら仕事をした。どうも体がだるい。悲観的な考えが頭を占めて投げやりな仕事をしてしまった。身体動かず、ため息ばかりついた。

メンタルの問題か、身体的な問題化はわからない。思い出すに、学生時代はほとんど毎日このような状態だった。今考えると、あのときはろくにものを食べないのに、酒ばかり飲んでいたから、身体的負担も大きかったのだろう。

今の不調の原因が何かはわからない。なんだか、仕事がすべて無為に思えて、やる気がなくなってくるのである。鬱病の心的状態と似ているとは思うが、そこまでひどくはない。まあだれにでもある倦怠感だとは思う。

こういうときに、しっかりと休むことができればよいのだが……。そのために有給というシステムがあるのに、使える「空気」ではない。血縁的な東洋の企業では、空気は法よりも重視される、というわけだ。もっとも、外国では体調不良でしっかり病欠し、さらに有給でバカンスに出かけるということが平気で行われるのだろう。

人間は、ロボットではないのだから、調子が悪ければ休むということが必要だけども、日本企業は、体質が軍隊的である。まあ、軍隊の中に入れられれば、ほとんどの人間がそれに適応してしまうように、たいていの人は、日本的なイデオロギーに無意識的に組み入れられてゆく。

この軍隊的な価値観は、どこからやってくるのかわからない。我々は、労働が根本的に、崇高なものだと考えている。何よりも優先すべきだと考えている。例えば、今の私のように仕事中に体調を崩せば、それは「社会人失格」と指をさされるのである。

日本人において労働が美徳とされていった経緯には、多かれ少なかれ国家的戦略の影響もあるのだろう。つまり先の敗戦のショックと、その反動。鮮烈な恐怖がトラウマとなった。労働とは単に経済的営みではなく、国防に関する重要事項なのである。

まあこのように考えてみなければ、日本人の労働に対する情熱は説明できないと思う。なにせ、手取り10数万円の仕事に、サービス残業を月に何十時間もするというのが、地方の労働環境の実態なのである。この国は、国家が国家たらんとするために、末端の国民に可能な限り不幸と痛みを強いるようにできている。

まあ、どうでもいい。今日も怠さは続いている。また、仕事だ。うんざりする。


2.01.2016

あるべき姿

とりたてて意味のない週末だった。

自転車でうろうろしていた。人気のない河原に座って菓子パンを食べていると、やはり一度東京に行ってみて、旧友と話をしたいと思った。研究室にも一度顔を出すべきか?しかし、往復2万円はどうしてもかかるから、なかなか勇気がいる。

自転車とバイクを同じ日に乗ったが、同じ二輪車でも温度差があると感じる。自転車は情熱がなければ走らず、バイクは冷静でなければ走らない。ハードロックと現代ジャズくらいの違いがある。

バイクはバカにしか乗れない、と言ったバイク漫画があったが、バカがバイクに乗るとすぐに事故を起こして死んでしまうだろう。別に自転車乗りをバカにするわけではないが、情熱バカには、自転車の方が合っていると感じる。バイクはもっと不感症的な繊細さを強いられる。まあ、どちらもスポーツだから、パッションというか、エンスージアズムは重要だが……。


バイクでの海外旅行は、調べると経験者はたくさんいるようで、とりたてて珍しいことではないようだった。なかには自転車や原付で旅している日本人もいるというから、そこまで難易度も高くなさそうだ。

ユーラシア大陸横断よりも、アメリカ大陸縦断の方がいくらか容易のようである。中国→ヨーロッパのルートを行こうと思ったが(中国で装備を揃えた方が安いから)、いきなり非英語圏で、難所である中東を越えるというのはハードルが高い。

もっとも簡単なのはオーストラリア大陸横断である。国境越えが不要であり、英語圏だから。

単に世界一周というよりも、何度かに分けるというのもありだと思った。東南アジア旅、オーストラリア旅、アメリカ大陸旅、ユーラシア大陸旅。どうせユーラシア大陸を横断するのであれば、アフリカ大陸にも足を伸ばしたいが、これも治安の関係上難しそうである。

仕事を辞めたら、まずオーストラリアに半年くらい行ってみようか。ある程度、経験を積むという意味で。決してつまらなくはないだろうが、少しインパクトに欠けるという気もする。だいたい、レンタルバイクでなければ、バイクはイニシャルコストが高い。40~50万円はかかるだろう。まあリセールすればよいのだが、それでも20万円くらいかかる?海外では個人売買が盛んだから(手続きが簡単なのだ)、日本のように買い叩かれはしないだろうが……。

それなら、1,2年かけてアメリカ大陸を旅した方がよいという気がする。アメリカ、とにかく物価が安いイメージがある。日本が工業国なら、あの国は消費大国である。アメリカの貧民の悲惨な生活がよくメディアで報道されるが、日本の貧困層の方が実はもっと貧しい生活をしているのではないかと思う。バイクの装備に関しても、南米で買うよりも、アメリカで買った方が安いようである。

では、まずアメリカに飛んで、まずは北米を走り、それから南下して南米というコースが良いだろうか?北米は季節を考えないと難しいだろうが……。

考えてみるに、金ばかりかかるというのが実情であり、今の貯蓄額では不安だと思える。宿・食費・ガス代などで一日5000円で生活すると考えてみても、1年間で200万円弱である。まあユースホテルや野宿を駆使すれば半額には抑えられるかもしれないが。

まだまだ金を貯めなければならないようだ。働いて、働いて、金を稼げということか。旅行記を書いて金を貯めればいいというようなことを考えたが、私にヒット作なんて書ける気がしないし、先に述べたようにバイクで海外旅行はそこまで珍しいことでもないので、難しいだろう。

考えてみると、私の昔の夢は「冒険家」になることだった。いつのまにか二輪車が好きになり、それで旅をする運びになったが、なんだか宿命というか、運命的なものを感じる。私が旅をせずに人生を終えれば、後悔しか残らないだろう。ひとには種々、あるべき姿があり、私にとってそれは旅をすることであるということか。