3.29.2016

祖父の葬儀

知は本来、秘密であり、奥義である。ほんとうの知識へは、だれもが到達できるものではない。知識をもっとも求める者、また知識にもっとも求められる者にはその資格があると言える。

私にそんな資格があるかわからないが。「説明したがり屋」の科学は、時に毒になるということだ。科学はアリストテレス趣味だ。分類、定義づけ、分析。真理が女だとすれば……。



葬儀には行くべきだろうか?親戚通しのわいわい・がやがやはうっとうしいという気がする。しかし死に顔は見ておきたいものだ。私は肉親の死に触れたことはない。ただ、何度か見知った人間が死ぬことはあった。それは何らショックではないが、奇妙な感じがした。

死者を弔うにはどうすればよいのか?儀式に参加すべきなのか?私は葬儀に関する一定の合理性を認めている。少なくとも、結婚式よりは……。それはやはり、しなければならないものだと思う。

行きたいが、仕事から離れられるのか?地方の労働環境の過酷な現実は、社員に有給休暇を与えうるか?

3.28.2016

雑感

一つの事実を発見すると、それを何にでも当てはめて試みようという幼児性は、相変わらずのようで、もう少し冷静に、判断してみたいと思いつつ、それにしても精神病院や刑務所ではなく――我々の社会に感情を持たない人間が潜んでいる、という事実は、いささかSFであり、ホラーであり、寓意的である。

そもそも私が精神病であるのに、他者の精神的障害をあげつらい、それを批判しようというのは滑稽であるが、同じ精神障害という枠組みであっても、たとえばサイコパスは鬱病や不安障害のような症状……(最近ではこれらの症状は海馬の過活動が原因と言われる)とは、いわば真逆の関係であると言えるだろう。

真逆どころか、我々にとってサイコパスは「天敵」であり、サイコパスにとっては我々は好餌、捕食の対象である。つまり私はこれまで散々に「食われて」きたのである。

ただ、その事実を知ったあとからは、私は本能的な、動物的嗅覚でもって、情動の欠如した人間を発見し、また彼らが社会のなかに組み込んだサイコパス的なシステム、支配や隷従のシステムを見極め、それを認識し、批判し、拒絶していこうと考えている。



ちなみに私の職場のサイコパスは、今月一杯でいなくなるようである。どのように仕事環境が変わっていくかはわからない。基本的に良くなるだろうと考えているが、もしかすれば、サイコパスの「有用性」というものもわかるかもしれない。適材適所……神経症の私にも、役割のようなものはあるだろうから。



それにしてもまったりした日々である。春の陽気さがそうさせるのかもしれない。

私の祖父が、亡くなったらしい。今日連絡があった。もともと、肺がんを患っていた。膵臓にも転移していたという。特に悲しくはならない。――人が死ぬのは自然なことだ。

私の祖父は、たいへん厳格な人物であったらしい。もともと地方の豪農の生まれであり、公務員でそれなりの地位まで昇った。昭和風の、威厳を持った人物である。そのおかげで、私の叔母などは家庭から逃げ出そうと必死だったようだが。

ただ私のなかでは寡黙なおじいちゃんであった。とにかく口数が少なかった。また表情にも乏しかったように思う。思春期のあたりから、どう接してよいかわからなくなって、それからあまり話していない。

春の暖かい時期に亡くなったことは、幸いだっただろう。たくさんの孫や曾孫が、葬儀にかけつけるだろう。幸福な人生を送っただろうと思う。

3.26.2016

サイコパスに関する所感

人間を道具としてしか見ない――


サイコパスという情動障害の人間がいる、ということを知って世界認識がまったく変わってしまった。おっさんになってこのような鮮烈な認識をするとは思わなかった。また私がこれまでどれほどこの手の人間に辛酸を舐められたか、思い出すにおぞましい。

私の人間に対する信頼は、この手の人間によって悉く傷つけられ、破壊されたと言ってもいい。「心はだれにでも宿っているのではない」こんな大事な知識を、なぜ学校で教えないのだろう!「悪は存在する」。「悪性の人間は修正不可能である」。



世間の善良なる人々の困惑、憂鬱、不和、不幸、絶望……あるいは貧困、搾取、暴力、戦争、のようなものは、ほとんど彼らサイコパスによって生じているのではないか?

かつて、人類の歴史において……サイコパスは虐殺されたか、奴隷として支配されていたはずである。ひとびとは彼らをこころを持たない異常者として迫害していたに違いない。その点では、われわれの嗅覚は退化したと言ってもいいだろう。狡猾な彼らは、「人権」「平等」といった観念を生みだし、たくみに人間社会に潜入した……。

とここまでくると陰謀論だが。とにかくこの知的発見が私には衝撃的でなんだかくらくらする思いがする。

3.24.2016

余生

チャイコフスキーのベスト集を買ったが、これが信じられないくらい良かった。特に「ロメオとジュリエット」の幻想序曲(ミーハーか?)。私の好きな音楽家が増えるということは良いことである。今のところ、クラシックではストラヴィンスキー、モーツァルト、メンデルスゾーン、エリック・サティが好きである。ニーチェのようにワグナーやベートーヴェンに陶酔できないのは何だか残念だ。


自転車であちこち走っている。おそらくこれ以上安く買えないだろう安物のロードレーサーだが、よく走る。肉体になじんできたようである。空気がきもちいい。もちろん、鼻腔にステロイドを噴霧することを忘れてはならない……。


文学にかける情熱が、私に宿ってきたように感じる。創作の熱波で魂がふっとびそうだ。仕事を続けながら、なにか一冊書いてみようかと思う。ブログでせこせこと書いても……1円にもなりはしないのだ!春だ!すべてが芽生え、狂乱する!……私は躁鬱病ではない。

ともあれ、私は憂鬱の原因をついに突きとめ、それをほとんど克服したと言ってもいいだろう。まったく新しい視点を手に入れた。あとはその鍵を、文学に宿せば良いだけである。私の人生は、27歳になってやっと好転したと言えるだろう。あとは暖かみのある余生を過ごせばよい。嵐は去ったのだ。

3.22.2016

サイコパスに関する研究

今日も仕事が暇だったのでほとんど丸五時間くらい……「サイコパス」について調べていた。どうやら私に対して危害を加える人物は、この精神特性を持つようである。

サイコパスについて調べようと思うと、読む価値のない扇情的な記事や同名のアニメがあって調べにくいので、大学の論文を調べた。論文については、サイコパスを主題として扱うものは少なく、もっぱら動機内在主義などのような、現代哲学の道徳論における論争のツールとして使われているらしい。ただひととおり目を通した。論文を読むだけでなく、市販されてる中でもっとも学術的だろう書籍も買った。

その書籍の説明には「日本ではサイコパス研究はタブーだった」というようなことが書いてあった。なぜサイコパス研究がタブーなのか……本が届くまでは謎であるが、人格障害のなかでは例外的に社会中枢に適性があり、また実際に中枢に居座ることの多いタイプだから、できるだけ明るみに出したくなかったのかもしれない。

全世界的に「レプタリアン:爬虫類人」というオカルトあるいは陰謀論が流行っているが、このレプタリアンとはサイコパスのことだと思われる。サイコパスは欧米で「スーツを着た蛇」と表現されるように、非人間的で冷血動物的であることから、その暗示としてレプタリアンのような寓意的・神話的な形で流行るのだと思われる(ちなみに欧米でのサイコパスの人口比率はアジアにおけるよりずっと高い)。

あらゆる神話が子どもじみていて、非現実的、非合理的であり、それでいて一面では適切に現実を表現しているのは、古代から変わらない。このような神話体系は、いろいろな文化圏に見られる。例えば、今のいわゆる「ネトウヨ」による朝鮮人蔑視、近代のユダヤ人差別、中世の魔女狩りなどは、根底としては神話の要素を持ち、同根であると思われる。

これらの思想に共通するのは比較的類似した被害者意識、すなわち「善良で良識のある自己あるいは自己の属する集団が、狡猾な悪意ある人種によって迫害される、支配される」というような危機的な感情である。こういった感情は、一般的には妄想からくる「差別意識」として了解されやすい。もちろん「朝鮮人・ユダヤ人差別はよくない」ということはわかっている(私は朝鮮人にもユダヤ人にも特別の感情はない)……が、ここですべきことは、道徳的な断定ではなく心理学的な分析である。

私の実体験をもって考えるに、ある感情をもった人間に対するサイコパスの振る舞いは、紛れもなく「狡猾な悪意ある人種による迫害、支配」を意味している。そう考えると、比較的純粋あるいは単純な人びとの感覚は被害妄想的であるというよりは、むしろ現実のある婉曲した表現であることがわかってくる。

日常におけるサイコパスに対する怨恨が、歪んだ形でユダヤ人差別などの形で表れるのだと思われる。もっとも、ヒトラーもサイコパスだったという説もある(しかし私はヒトラーがサイコパスだったという説には、民主主義に懐疑的であると同様、懐疑的である)。

汝自身を知れということで、神経症ばかり調べていたが、かなり深刻な抑鬱にかかって、他者のことも少しは知らねばならぬ、と思った。神経症とサイコパスは、まるで逆である。私は自分のことを中立的に鑑みるに、人間的な情動が激しすぎるという気がする。

サイコパスは一般的に脳の器質的問題であるとされている。このことの意味は、サイコパスは現代の科学水準では治療不可能である。ゆえに、われわれがすべきことは、サイコパスを健常に引き戻すことはない(それは必ず失敗する)。われわれにできることは、サイコパスの厄災から可能な限り離れることでしかないと言えるだろう。

3.21.2016

回復の記録

憂鬱な気分は、しだいに回復していった。

暖かくなったせいか、やけにかかりの良いバイクで、海沿いをのんびりと走ったこと、いつもの公園に行き、海を眺めたこと、いつもの猫に餌をあげたこと、公園で、歌う老人を見たこと、商店街でバイクを流していると、前に走っていたスクーターのおばちゃんが、横に停め、もうひとりのおばちゃんと陽気に挨拶をし、世間話を始めたこと、日の光があたたかいこと、風が冷たくないこと、空気が澄んでいること、などから、私の精神的な闇の底、というか、時間が止まってしまうような、心がからっぽになるような恐ろしさから解放されることができた。

それにしても、公園で海をぼんやりと眺めていると、猫の鳴き声がして、私、というか私の缶詰を求めてやってきてくれるのは、感動的ですらあった、些細なことではあるけど、希望の光のように思えた。なんでもいいから、私の存在を認めてくれるもの、私の愛情を受け止めてくれる対象があるということが、これほど救いになるものとは思わなかった。このときの猫は、なんどか餌付けしているいつものブチの猫だったが、その日は妙に愛想がよく、顔をなでていると、初めて甘噛みをされた。

猫に餌を与えると、猫の率直な食欲と、動物本能により、私の憂鬱の原因となっている邪悪な毒素が、咀嚼され、消化されていくようなカタルシスを覚えた。

それから、スーパーで買ってきた地産の小さなブロッコリーを、塩ゆでして、マヨネーズをかけて食す、思いの外おいしくって、酒を飲んで、つぎに少し高い缶詰の貝を食べて、それもおいしく、酒がなくなったので、自転車でビールを買いにいった。そこで、田中角栄の名言集のようなものを、一冊読んだ。コンビニの同年代の女性店員は愛想がよく、私の同盟者であるかのように、手をしっかり握ってくれた。

安いチルドのピザに、揚げたチキンとチーズをのせて、焼いた。長めに焼いてカリカリになるようにした。それから黒胡椒とタバスコをたくさんかけて、また酒を飲んだ。食欲は十分に回復した。酒をだいぶ飲んでから、FPSのゲームをしたが、成績がよかった。それから、たっぷりと寝た。

朝起きて、久しぶりにヘッセを読んだ。

つまり私たちは、せめてただ一度だけでもすべての価値基準を退けて、あるがままの自分自身を、道徳とか高潔な心とか、すべての美しい外観を考慮せず、無意識が表明するままに、自分のむきだしの衝動と願望、自分の不安と苦痛にとらわれた私たち自身をよく見つめてみるべきである。そしてその地点、このゼロの地点から始めて、私たちは実際の生活にとって価値のあるものの目録をつくり、私たちの実際の生活にとって否定すべきものと肯定すべきもの、善いものと悪いものとを分け、私たち自身に対して命令すべきものと禁止すべきものの表をつくることをふたたび試みなければならない。

私は、昨日の最後に書いたように、ある決意をした。

私は、悪なる存在を悪と認めることにした。

私は、人間にはだれでも心があり、共感できる、という子供じみた考えを捨てた。

それは強いて残酷になることを意味するのではない。ひとつの処世術であり、ひとつの真実である。この世の中には、決して心を通わすことのできない人間がいる。それは、「性格の違い」などで表せるものではない。感情を永遠に持たない、魔性の人間、邪悪の人間が存在する。こうした人間は、もはや、「別の生き物」として対処する必要があるということである。

……以下、かなり過激な文章が2000字程度続いたのだが、あまりに過激であり、また衝撃的であり、自分でも恐ろしくなったため、公開を控えることにする。このブログで、何か表現を控えるということはほとんどないのだが、いつか別の形で公開したいと思う。

3.20.2016

They were wrong

夜中の二時に、起きてしまって、起きてしまった自分を確認しながら、「これは鬱病の症候ではない」と自分を納得させてみたが、そう思わなければいけないくらいなのだから、せめて抑鬱状態とまでは認めてもいいだろう。

最近は精神的に不安定で、まあ安定した試しなどほとんどないのだが、それにしてもひどい抑鬱の症状がなんどか現れている。憂鬱というレベルではなく、だれもいないところで涙をぼろぼろ流したり、大声をあげたくなるような、ひどい悲哀感で、自分でも驚くほどだし、人がいるところであっても、ほとんど会話をする気にならず、動きは緩慢鈍重であり、視界は色を失い、味覚も灰色であり、胃がからっぽのはずなのに食欲が湧かず。

まあ数日で収まるのだが、これがひどい大うつ状態にならないかと、いくぶんかの危惧はしている、なにしろ私は一人暮らしであり、頼れる人間もなく、傷病には不利である。自殺はまだしたくないが、この前、ひどい憂鬱のあいだ、麻縄が自分の首に回るのを想像して、その感触、痛み、暗さにぞっとした。そのようなイメージ像を持ったことが、この生涯においてなかったから、自分もいよいよここまできたものか、と妙に感心したくらいだ。

中学生のときから、ひどい抑圧と思春期特有の不安定から抑鬱に沈むことは茶飯事だったし、大学のときでも、理不尽な扱いを受けて、それを認めなければいけないときは、一人朝まで泣くことはあった。ただこのおっさんの年頃になって、こうまで過敏であるというのは、想像してなかったし、しょうがないのか、諦めるべきなのか。

それでも、私という主体が、間違っているという自覚は、あまりないのが、少しの救いかもしれない。私はいろんな本を読んだから、人間関係のスキルは育たなかったけど、いくぶんかの真理に近いことは学んでいる。それは私という主体は、つねに正しいということであり、間違っているのは他者、あるいは構造であるということである(異邦人のムルソーのように)。

だから、私は自分が苦境に陥っているときでも、自分がなにか失敗したとか、自分の人格欠陥や認識の誤りだとか、とにかく自分が悪いとは思わない。

おおむね、私の不幸や憂鬱は、ある種の人間とのかかわりによって生じる。このような人間は、私とは根っこの部分で合わない……どころか真向から対立するタイプであり、私はだれか知人がこの種の人間だと知ったら、少なくとも5m以内には近寄らないようにする、視界に入らないようにする、声が耳に入らないようにする。

考えてみると、かつての憂鬱はすべてこの種の人間から生じていた、私は苦々しい気持ちで、それらの人間の顔を思い浮かべることができる。

その種の人間は、端的に言えばサイコパスであり、共感能力の欠如、感受性の欠落、独断的、二重人格的、饒舌で八方美人、他者を自分の都合の良いようにコントロールしようとする、他者を隷属化しようとする、そのような性質の人間であり、単純に言えば「いじめっ子」と言ってもいいかもしれない。

私とはっきり違うのは、彼らが「つるむ」ことが好きであり、社交に楽しみを見出しており、冷酷であり、仕事において有能であり、おおむね社会的地位が高いことであり、表面的には円満な家庭を築いていることであり、文学や音楽や絵画など芸術一般にまったく興味がないことであり……この手の人間と関わると、私はろくなことがないようである。

だからこのような手合いとは、半径5mの決まりを厳守するように、本能的あるいは意識的に心がけていた。大学は楽だった、そういう人間と関わらないことが可能だし、遠くで見つけても、目をふせてイヤホンをつければ存在を消すことができたからだ。しかし大学でも、そういう人間がなにか担当の教員だったり、部活の先輩だったりすると、関わることを強制され、それで精神を痛めた。

この「離れられない」という状況に置かれると、いまのような抑鬱状態に陥るのであり、いまだって、新しい部署の上司がそういう人間だから(私はまんまと騙されていた!)、憂鬱に陥っているというわけだ。
人間らしさとは、距離を保つことができるということなのだ。ぼくから距離をとってくれ、そうでなければぼくは死ぬ、それとも殺す、それとも自分を殺す。距離なんだ、頼むよ!(三十歳/インゲボルク・バッハマン)
離れられるということ、ひとがひとを支配不可能であること、そのような社会になればよいのにと思う。

わたしの憂鬱は、サイコパスの人間が運んできてくれるらしく、そのおかげで、彼らは表面的には幸福な人生を歩んでいるけども(なにしろ表面的、目に見えるところの整備ということが彼らの生活本能なのだ)、彼らも根源的には不幸であると思うし、彼らは間違っているし、私はつねに正しいという点では揺るがない。



夜中の3時、完全に目が覚めてしまったので、朝までゲームをして、それから朝一番で温泉にでも行こうと思う。


3.19.2016

セックスはどこに消えたのか

セックスはどこに消えたのだろう。と、こうも自慰ばかりで済ませていると感じてしまう。

北海道へ行く夢を見た。北海道は一部が水没していて、最初は氷河かと思った突起は、ビルの頭だった。函館がつまらなかったので、札幌へいきたいと思って、夜行バスで乗り合わせたうさんくさい金のなさそうな連中と、知らない老人ひとりを加えて、タクシーを相乗りした。タクシーの料金は全員で1000円だったし、すぐについた。休みが、三日しかないから、いろいろなことをしたいと思ったが、結局何もできずにホテルで寝た。そして起きた。起きて、いつもの寝床であることを確認すると、嫌な気分になった。

セックスはどこへ消えたのだろうと考える。古代では、セックスは、食事と同等のものとされていた。それは健康のためある程度必要なものである。

過食が身体に毒であり、また不徳、愚昧とされるように、過度の性向も不徳とされた。しかし、正常なセックスは当然許されていたし、ときには同性愛も嗜好された。

韓国は経済を奪われているが、日本はセックスを奪われている。代償としての、ロリコン趣味が、外国で話題になっている。

夜這いとか、春画、あるいは神話にまつわる性を考えてみると、日本人は古代と同様性に寛容だったはずである。その日本人が、世界一セックスをしない国になったのはなぜなのだろう。

その反発としてか、海外旅行へいく女性は、行く先々で現地人とセックスをするので話題になっている。これは数十年前からうわさされていることだが、ほとんど事実のように思われる(また日本人男性のセックスの下手さもたぶん事実だろう)。

もっとも、海外へ行くだけの行動力がある女性であれば、性的に奔放ということがあるかもしれないが、外国の女性は貞節をある程度保つことを考えると、もっと問題は根深いように思う。たとえば国境で賄賂代わりに乳をもませるという話を聞くと少し度が過ぎているように思う。

大和なでしこという偶像は明治以降につくられた。これはたとえば「サザエさん」の「波平」のような「雷親父」と同様である。また、「寡黙で厳格な武士」というのも明治以降作り上げられた虚像である、と私は思っている。「葉隠」は「武士道とは死ぬことでござる」、といきまくけども、そう声をあげなければならないほど当時の武士はだらしない存在だった(泰平の世だし)。

どうも明治政府以降、日本人のアイデンティティが作り変えられているように思うのであり(その意味ではサザエさんは巧妙に印象操作をする国家的な統治のシステムともいえる)、その作り変えられたモデルによって、勤勉で正直といった日本人像に当てはまるようわれわれが志向させられてる、というふうにもできるかもしれない。

われわれはこういったスティグマから自由になるべきなのか、あるいは国家の統治に「共犯的」に、血縁的に関わりあっていくべきか、どちらが正しいのかはわからない。

ただ古代人の性の奔放さ、屈託なさを考えてみると、少しうらやましくなった。もう私はセックスをしなくなって1年になる。やり方も、女性へのアプローチも、女性の魅力も、しだいに忘れていっているようだ。

3.18.2016

世界認識

コーヒーをすすりながら、時に音楽を聴きながら(無線イヤホンで)、ネットの古代エジプトに関する記述を、数時間読みふけっていた。勤務中にである。

勤労意欲などもとよりなく、暇があれば読書やネットという日々だが、賃金は確実に発生しているのであり、時給換算でコンビニバイトの何倍の金が入ってくるのであり、このような環境が特権的であることを感じながら、しかし個人としての私は特別違和感なく日々を過ごしている。

仕事がないことは決して楽ではなく、自分の在り方や目的意識といったものにしがみつくことができず、多くの人間が就職とともに忘れてしまう索莫とした不安といつまでたっても相対することを強いられ、さながら留年生のごとくである。

仕事の達成による、いわゆる実存体験から疎外されるのであって、私の生活には協調的に他者と目標に打ち込む充足感もありえない。しかし前の部署のような多忙な空間におかれれば、今度はうんざりして死にそうになるだろうと思う。だからまあ、しばし閑職に落ち着いて、ゆっくり隠遁生活でもしたい。


ニーチェを相変わらず読んでいる、ニーチェのすばらしいところは、搾取を肯定しているところである。
生そのものは本質上、他者や弱者をわがものにすることであり、侵害することであり、圧服することであり、抑圧・峻酷であり、自らの形式を他に押しつけることであり、摂取することであり、少なくとも、最も穏かに見ても搾取である。(「善悪の彼岸」)
強国はつねに搾取の構造が見られるものだ。アメリカ、中国の支配構造は縦型である。ロシアもおそらくそうだろうし、日本もまた強国であるから、搾取型の社会である。残念ながらドイツは強国でなくなった、かもしれない。
いましも到るところで、科学的な仮面をすらつけて、「搾取的性格」がなくなるはずの社会の来るべき状態について熱狂的に云々されている。――これは私の耳には、有機的な諸機能を停止した生といったものの発明を約束することのように聞こえる。「搾取」とは頽廃した社会や不完全で原始的な社会に属するものではない。それは有機的な根本機能として、生あるものの本質に属する。それは生の意志そのものにほかならぬ本来の力への意志の一つの帰結である。(同上)
以上の文章からわかることは、ニーチェの有名な「力への意志」とは、「搾取的な性格」のことであるが、この点を誤読している人間は多いところが不思議である。

これが理論として革新的なものであるとしても、――現実としてはそれはすべての社会の根本事実なのだ。せめてこれを認めるほどに自己に対して正直であってもらいたいものだ!(同上)
というわけで、民主主義的な「奴隷道徳」によって世界を観望することを辞め、世界の生の姿、搾取・支配・圧服・侵害といった、複雑・流動的ダイナミックな世界観を取り戻すことが大事なのであり、そうしたニーチェの主張は現代においても極めて重要なものであると私は考える。

3.17.2016

奴隷制国家

田舎にも邪悪な人間と誠実な人間はいる。人間の弱さを知らない人は嫌いだ。

ひさしぶりに「ゼンヒガ(善悪の彼岸)」を読む。示唆に富んだ本である。ツァラトゥストラよりは意味がわかりやすい。最近ニーチェの思想と同化してきたのかわからないが、彼の言いたいことがわかるようになってきた。

しかし西洋ロマン主義的なものも愛する私は……ニーチェがそれとなく認めながら、たいていはこき下ろすメンデルスゾーンが好きである。かたくなに西洋キリスト主義を否定するのもどうかという気がする。

ともあれ、ニーチェが日本で人気なのは、日本という国では支配ー隷属の関係が有効だからだと思う。たとえば世界でもっとも有給休暇を取らない国民は日本人、またおそらくサービス残業にもっとも労働力をささげるのも日本人なのだが、この法的権利より義理感情を重んじる性質は、実のところ支配ー隷属である。

だから、ニーチェの言うように「奴隷制」は前時代的な野蛮な制度なのではなく、決して悪ではなく、実は進歩的である、文化を前進せしめるものであるという考え方は、日本人のこころをうつのである。なぜならばたいていのわれわれは、奴隷的であって、主人的ではないからである。

というのも民主主義とはかりそめのものだからである。やはりわれわれは父母より下であり、兄より下であり、上司より下であり、官僚より下であり、自民党より下であり、天皇より下である。

われわれ日本国民が主権を持って政治に参画したことがあっただろうか?選挙は何十回も行われたけど。また政治家はわれわれの代表だろうか?そうではない。しかし、そうでなくてはならないのか?

だれかが、日本はマフィア国家となることで世界を制する、というようなことを言っていて、私はその言葉がずっと頭に残っている。マフィア――法や権利などちんけなものは意に介さず、威圧と実力行使で他者を支配する存在。実際のところ、国内において日本的組織体系はそのような構図をとっている。日本人は、法律違反などどうでもいいと思っているし、また日本最大の営利企業はトヨタではなくて、実は山口組である。

実際、法律が効力を持ち、民主主義的な支配制度が確立したら、その国は混乱と衰弱を極めるのではないのだろうか。私にはどうもそう思われる。ゆえに、ニーチェの思想を継承したオルテガが考えたように、少数のエリート(受難の存在)が、大衆を牽引するという制度(いささか実力主義の寡頭制のような)の方が、ひとつの国家、億単位の人間を束ねる国家としては適正であると思うのであり、実際民主主義のふりをしながら、そういう体制を取っている国家は日本以外にもあるだろう。

ただし日本は敗戦国という事情があるのだから、ある程度は外国(アメリカ)の支配を甘んじて受け入れなければならないという事情があり……そのあたりの水面下の戦いは興味深いところである。

国家と国家の間は、個人と個人のようにはいかないらしい。そのあたり、通例のごとくマフィアの道理が通用するようである。


パソコンの壁紙を変えたら、とてもいい気分になった。どうもBoldiniが好きでしょうがない。あざといとは思いつつ。



3.16.2016

煙草を愛する

禁煙というわけではないが、ここ数日自然と煙草を吸わなかった。

それが原因かわからないが、焦燥感、易怒、神経過敏、またその反対に感覚鈍磨のような症状。

私は煙草が好きである。おそらく煙草に対して、肯定的な効果しか認めていない。だから、今日慌てて吸ったくらいである。「そういえば、最近吸ってないな」……一本の煙草をつまみあげ、火をつける。視界に煙がいきわたる。煙を吸って、吐く。煙が踊る。呼吸という運動を再認識する。粘膜や肺胞から吸収されたニコチンが血流に乗って、血液脳関門を潜りぬけ、神経中枢にいきわたると、アタラクシアに到達した気分になる。つまり、平穏。この数分の時間が、たまらなく好きなのだ。

たかが数分だが、この時間があるとないとでは人格にだいぶ影響を与えるのではないかと思う。私は平常一日に一本も吸わないから、喫煙者といえるかは微妙だが、バイクに乗って遠くへ出かけるときは何本も吸う。とにかく、煙草がないと、私の人生はしっくりこないという気がする。「腑に落ちる」という表現があるが、煙草を吸っている数分で、いろんなことが腑に落ちるというように思う。これは「腑に落ちる」ときよりも、もっとずっと無意識的であるが。

筒井康隆御大は愛煙家であるが、氏の「創作の極意」において、煙草を創作にはよいものだとしている。いわく愛煙家はおもしろい、創作において有能だ、というような。嫌煙家のヒステリックな主張に対し、愛煙家も直情的に応酬を浴びせることが多いものだが、「創作の極意」においては、筒井氏はいたって冷静であり、煙草は不思議なことに、創作に役立つみたいだぞ、と純粋にその傾向を指摘している。私も御大と似た感想を抱く、愛煙家はよい人間が多いと思う。

WHOや先進諸国の政府では煙草を撲滅せんとしているらしいがバカバカしい話である。西洋医学的に見れば煙草は脳神経系の「ニコチン中毒」ということで「説明」「定義づけ」されてしまうが、煙草の持つ実際的効果については、彼らは底辺労働者の愛煙家以上に物を知らないはずである。

また健康であろうとして煙草を断とうとするのも無知ゆえの判断だと思う。もっとも気道や肺を傷める過度の喫煙については、それを見直すべきだが……。健康とは、そんなに至上命題なのだろうか。もちろん政府にとって、国民の健康管理は重要である。では個人にとっては?

どうでもいいことを書いた、もっと書くべきことがあるけども。

3.14.2016

tour d'ivoire

 このように仕事が楽で金が入る生活をしながら、私の人生が不幸に満ちているのは、私が苦痛の探求者であり、豚が特有の嗅覚を持って高価なきのこを探しだすように、私が人生のあらゆる片隅から自分に痛みを与えるものを探し出してくるような性質の持ち主であることを示しているのだろう。ついに幸福を手に入れたと思えば、雨が降ることに悲観し、つぎには雨が止むことに涙するだろう。

 安寧な退屈な生活に溺れてしまいたいと思うときがあり、そうすれば私は直線的な時間概念、すなわち誕生から死滅までの直線、西洋的な「不安の概念」から解放されることができるのに、と思うが、運命がそれを許さないのか、私がそれを望まないのか。

 過去の統括――神経症的な自己とどう折り合いをつけようかと思ったが、この神経症というのは世界認識における歪みのようなものであるらしい。最近わかった。神経症はその社会障害から自己の人生を否定するから、治療しなければならない。しかし神経症の否定は自己の存在の否定でもある。このあたりのジレンマが、神経症をほとんど不治にしている原因かもしれない。つまり神経症である以上社会からは阻害されるけど、神経症を治療すれば今度は自己から阻害されるのである。

 世界認識が歪んでいるとすればそれをどう自覚できるのか、どう改善できるのか。また、神経症ではないひとびとは、歪んでいないのか?私の周囲を見渡す限り、病気でない人間はいない。多かれ少なかれ、神経症であるか、サイコパスである。現代はたまたまサイコパスが覇権を握っているだけだ。

 そもそも神経症は、治療すべきものなのだろうか?社会適合を治療のgoalとするのであれば、社会適合とは絶対的なものなのだろうか。ある個人が正しく、社会が間違っていることなどいくらでもあるだろうに。ひとは社会から逃れて生きていくことはできない。が、人が多様であるように、社会も多様である。日本に生まれたくせに、たまたま日本社会に馴染めないのであれば、欧米に移住でもすればいい。それか、インドネシアやシンガポールのような手もある。

 神経症とは本来こういった放浪、自分を阻害しなくてよい環境を見つけることで治療されるのかもしれない。しかし、それは大多数の人間には困難だろう。そんなことを臨床試験したり比較研究によって証明することは難しい。その点医薬品は患者にも研究者にも楽である。

 しかし神経症者に適切な環境はあるのか。たぶんないだろうと思う。根源的に神経症者はつねに「ここにいてはならない」と思っているはずであり、たぶんその感情は病的なものではなく、人類に普遍的なことなのではないかと私は思っている。

3.12.2016

zzzack

今日は土曜日出勤である。

仕事場にいつもノートPCとwifi付きのiPhoneを持っていき、暇なときはそれでネットサーフィンをしている。調べものをしたり、こうして何かを書いたり、アマゾンで商品を探したり中古バイクをチェックしている。

しかし今日はiPhoneの充電を忘れてしまったので大変困ってしまった。暇すぎるのである。もともと田舎へは余暇を過ごすため、隠遁生活を送るためにきたのだが、こうも暇になるとは思わなかった。
部署が変わってからというもの――仕事は楽で、だいたい8時間労働のうち、2,3時間くらいは暇である。この暇をなんとかせねば……と思い、分厚い本を持ち込んだり、PCを持ち込んでいる。ただ本を読むというのもなかなか難しい。それは明確にサボっているように見えるからである(事実サボっているのだが)。

まだ新聞を読んでいる方がましという気がする。新聞であれば、暇でしょうがないから、時間潰しを(否応なく)強いられている、という風に見える。読書というのは、片手間にすることではなく、腰を入れて行わなければならないことだから、さあ暇になった、読書するぞ、という能動的態度が見えてしまう。暇という状況だが、賃金の発生する労働時間であるから、倫理的な観点からもどうかという気がする。
女性社員は、ジャニーズがどうとか話している。彼女たちと話しても不毛だ、と思う。まあ気晴らしにはなるけども、なんだか彼女たちはメディアに騙されているように見える。彼女たちは夢遊病的である。しかし彼女たちから見れば私が夢遊病なのだろう。

この会社に入ってから、この片田舎に移り住んでから、まともに交友のある人はいない。元ホストの上司とは仲が良いが、彼は大阪の出身である。彼は私の1.5倍の給料を貰っている……らしい。田舎の人間とは、やはりそりが合わないのかもしれない。まあ私は孤独に慣れているからその点はいいのだが。

余暇をどう潰すかを考えて、久しぶりにメモ帳に絵を描いてみたら、下手だが、楽しかった。バイクとか、ゲームのマリオを描いてみる。私の書く絵は、基本的に筆圧が強く、しゃちこばっている。線の太さを調節できず、ゴシック体のような絵しかかけない。ようは、洗練されていないのである。

芸術とはつねに作者の人格や思想を表すものだと思うが、画だけでなく、私の音楽についても、私のこうした筆記についても、同様に私は力が入りすぎているようで、洗練されない。私の生み出すあらゆるものは、なんだか人を気疲れさせるようである。

私自身、創出のときに楽しんでいないからかもしれない。水ぶくれに針を刺すようなカタルシスはあるが、決して楽しいわけではない。ペソアが言っていたように、「嫌でたまらないがしてしまうこと」に近い。だから禁欲者にとっての自慰のような、決まりの悪さがつねに付きまとう。

朗らかな、軽快なものこそ一般大衆の求めるものである。音楽でも、テクニックが優れていればそれで優れた音楽とされる。いわゆる「ヘタウマ」のような音楽家はいるが、こういう人間は偶然の幸運か、根回しなどして権威づけられれば大衆に認められるだろうけど、それができなければただの不能者である。

実情は、「私のために用意されたもの」が求められるのであり、「だれかの自慰的創出」など、現実にはだれも求めていない。そういうことから、私は芸術家として生きていくことをなかば諦めている。私は自慰的な創出しかできないからである。

魯迅は、他国にいいようにされるがままだった中国(清)をなんとかしようと、筆をとった。そういう明確な理由があれば、意志や闘志のようなものがあれば、それにこしたことはないだろう。私は生きることにおいてまったくobscureな物の見方しかできない。いわばそこに向かうべきかどうかつねに迷っているのである。

だから、私は何も達成できないだろうと思う。私は何ら功績をあげることはないし、賞だのなんだのとは無縁だと思う。いわば少し風変わりなだけの凡人として、死んでいくのだろうと思うが、最近はそのことを半ば受容できるようになっている。

今日は天気がよいので、ゴミ出しをして、バイクで海沿いを走ろうと思う。大したことのない日常である。ただこれだけ書いたので、少し時間潰しになった。

パラダイムシフト

思考とはなんであるかと考えてみるとこれはどうやら言語的なものであるらしい。ある客体Aがあるとして「Aは(BやCではなく)Aである」と認識する原理的なプロセスがなければ成立しえない。例えば「Aは(Aではなく)Bである」という命題はあってはならない。「イルカはイルカである」、「イルカは魚ではない」と言うことはできても、「イルカはイルカではなく、魚である」と言うことはできない。

西洋思想はとことん「思考」というものを突き詰めたらしい。ゆえにデカルト流の詭弁めいた結論が生まれたわけだ。

西洋思想の根幹は「AはAである」という言語を成立させている第一原理をいったん疑うことで、相対化することができる。例えば私の前に時計があるがこれはほんとうに時計なのか?と疑うことはできる。「これは時計ではなく……」ではなく?ここから先は言語的思考の外になる。端的に言えば狂気の領域である。

西洋思想は言語的営み以前あるいは外の領域を「無」として片づけようという性質があるらしい。なるほどハイデガーによれば「死の不安」から目を逸らし気ままに生きようという人間たちを「ダス・マン」として、有象無象の小市民として、こき下ろしているけども、哲学的懐疑に捕らわれて、天空や足元ばかり見て前に進めない人間よりも、ある意味でそういった楽観的、刹那的な生き方をしている人々の方が、より「健康」であると言えるかもしれない。いや紛れもなく健康である……。

狂気がいかに近代以降の西洋社会において排除されていったかはフーコーの「監獄の歴史」に詳しい。もうあまり覚えていないが……。ともあれ狂気は必要から排除されたのであり、また現代では治療すべき病気であるとされている。例えば会社のプレゼン発表で緊張してどもってしまう、というようなことも障害、広義の「病気」であるとされ、治療対象となる。

統合失調症の「言葉のサラダ」はだいたいにおいて「AはAである」の原理が破壊されている。かつての日本においてもこの類の言語破綻者、妄想者、狂気の人間は、けっこう尊重されており、どこからともなく現れては退屈な日常に倦んだ村人を愉しませ、飯をもらって去っていくのだという。

話を戻せば我々は西洋的な合理主義に飲み込まれないように注意すべきだと思う。我々の生活は必ずしも「AはAである」という原理に規定されないはずである。我々が論理的に自分の生活を支配しようというとき、自然のままの精神が抑圧されるということがありうるのである(これは神経症の病理でもある)。

だからときには東洋思想に立ち返ることが必要なのだと思う。そこでは必ずしも「AはAである」が成り立つわけではない。とくに平気で矛盾を肯定する禅のような宗教ではそうである。

西洋医学では治療不能の患者が、東洋医学の針灸や漢方薬で改善する、ということは珍しいことではない。これと同様に、西洋思想にも限界がある。

とくに最近は、ひろく世界的に、西洋思想の限界が認識されていっているのではないかと思う。ゆえに、思想的なパラダイムシフトが起きるような予感が私はしている。西洋思想の新たな潮流の誕生と、東洋思想の勃興がちかぢか起きるのではないかと思う。

3.11.2016

史上最大の詐欺師

小浜逸郎という人物、長くて読みにくいブログ(直言のなんたら)を書くという人物だと思っていたら、何冊か本を書いていたようで、その本が意外とおもしろかった。

「13人の誤解された思想家」というタイトルで、カントやプラトンやニーチェ、ハイデガー、フロイトやマルクスなど現近代思想に多大な影響を与えた大御所たちの思想を、率直な意見や疑問で批判的に吟味するという本。小浜という人物、ブログは読みにくいが書籍は平易で読みやすい。

13人の思想家はすべて西洋人であるが、基本的には筆者の価値観はアンチプラトニズムのようで、デカルトやウィトゲンシュタインのようなプラトニズム的・キリスト教的な理想主義者を切り捨てている。というかプラトン自体を「哲学史上最大の詐欺師」とこき下ろしている。

アンチプラトンという点で小浜氏と私の考えはよく似ていると感じた。というか彼自身ニーチェにおおいにかぶれたというから、考えが似るのは自然とも言える(後に「人とうまく和していくことができない、気難しい性格」ではなくなり、ニーチェを客観的に評価できるようになったらしい)。

しかしまあよくもこれだけの人物を批判できたものだと思う。私はマルクスやカントなどまともに読めたことがない。私の好きなルソーも敏感な神経をもった変人といった具合に批判されていた。まあそのとおりだと思うし、私も敏感な神経をもった変人だから、ルソーが好きなのだけど。



西洋思想を権威づけていたプラトニズムが、あらためて問い直されつつある時代だと思う。「早すぎた」ニーチェから100年以上経つが、「逆立ちした価値観」をひっくり返すことができるのだろうか。プラトンの「詐術」は2000年以上西洋を支配しているしまた日本をはじめとする非キリスト教国家でさえ効力を持っている。

それに抵抗する人物もあっただろう、たとえばソクラテスを処刑したアテナイの人々とか、鎖国した徳川将軍とか。また現代であればISISもそうなるのかもしれない?まあいろいろなことを考えた。

それにしてもこういう新書(1700円!)を気兼ねなく買えるというのは、社会人の特権である。それに、いまのように――仕事中だというのに記事が書けるのは恵まれた環境と言えるかもしれない。小浜氏は、中島のおっさんとの往復書簡のような本も出版しているらしいので、それも読んでみたいと思う。

3.08.2016

弱者と強者

「もっとも弱い者も、もっとも強い者をいかに容易に殺せることか」ホッブズ
国家がどうのこうのということを考え始めてつぎには正義とはなにかを考え始めた。ゆえにそういった関連の本を読んでいる。カテゴリは法哲学。読むべき対象があるとはありがたいことだと思う。そこから何か得られると思うことは良いことだし、そうでなくとも、自分と同じような考えの人間がそこで表現をしているというだけでも、いくぶん気が楽になるものだ。

私の日常はずいぶんゆれ動いているように思う。この揺り動かしの前には長い沈黙があった。つまり書くべきことも見つからないし書く理由もなかったのである。また読書にも私は倦んでいた。つまり私は満足していた。日常や生活に不満がなかった。まあ健全な人間というのはああいった具合でのほほんと生きているのではないかと思う。それはそれで幸福である、幸福であれば法哲学など勉強しようとは思わないはずである。

私にとって哲学とは重要なテーマである。私はひとよりも生に肉薄しているのではないかと思う。ひとがまったく無意識に通り過ぎてしまう小石に私はつまづいて大けがをしてしまう。事実それは不便ではある。小石につまづく人間がいったい何を為せるというのだろうか。しかし同時に人が気づかずに通り過ぎてしまうような花や空にも感動することができる。とはいっても、ケガの痛みに比べればまったくわりに合わない「埋め合わせ」である。

だから私は人生にコケにされながらそういう自分をシニカルに認めながら生きることが強要されるわけだ。私は神経症だが、なんども自分を健常者と思い込んで、あげく失望する、ということを繰り返している。私はこの上昇と転落を一生続けるのだと思う。この動的であることがまあパスカル流にいえば人間らしさと言えるのかもしれない。

3.07.2016

肥えた豚ほどよく眠る

この国の社会システムは、儒教的な上下関係で成り立っている。だから上位者である経営者は、労働者をいくら虐めても良いことになる。残業代を払わずに、ただで働かせて良い。嫌がらせやときに暴力を振るっても、それは悪いことではない。親が子どもを殴ってしつけるとしても、それは許容される。「先生は偉い」「親は偉い」。クラスメイトであっても、厳格な上下関係は存在するのであって、おもしろい話ができたり、勉強やスポーツのできる子どもが偉くなる。人間のあらゆる関係は上下関係的であり、それがためにこの国においては、個人は存在しなくなる。

個人主義とは、自分を個人として認めるとともに、他者を同様の個人として認めることである。だから自分に権利があるとすれば、相手にもあるべきであると考える。この個人主義から派生して、近代的な法の精神は生まれた。いわゆる「平等」の精神である。

ところでこの西洋精神の結晶とも言える「平等」を、一笑に付したのが他でもないニーチェである。ニーチェに言わせれば、平等の価値観は、奴隷根性ということである。ニーチェはキリスト教を奴隷の宗教だとしたことで有名だが、事実上はプラトニズムを攻撃・批判している。というのも、ニーチェはキリスト教を、大衆向けのプラトニズムと見なしているからである。

法とはruleであり、支配を意味する。いまでは切り離されているこの二語だが、本来は同一のものだと言えるだろう。法律は結局のところ、支配的な価値体系である。だからプラトニズムが支配的な世界においては、個人主義的な、民主主義的な法がruleする。

現実としては、日本はプラトニズムの伝播からうまく逃れているということができるだろう。なにしろ、表面的には人権や個人の権利を固守しているかのように見えるこの国では、内情では、まったく人権侵害もいいところの国だからである。天皇あるいは官僚を支配層とする上意下達の社会システムがまだ生きている。この点、思想的に支配されてしまったハワイ王国とは対照的である。

ところで私はまったく個人主義的であろうという人間であり、その点において日本においてはつまはじきものである。かといってプラトニズムに惹かれているかというと、そういうわけでもない。日本人だから、日本的な思想風土に満足する人もあれば、日本を「未熟な国家」として否定して、西洋に恋い焦がれる人もあるだろうが、私はそのどちらの道もないということになる。私がつね日頃感じているいいようのない不安とは、この思想的な基盤のなさであり、大地の消失である。人間は海の上で生きるということはできないものである。

3.05.2016

恢復

少し精神的に危うい時期があったが今は回復した。

なんというべきか自分の激しやすい性格には自分でも驚く。平常私は冷静で感情を出さないと思われているらしい。が、何かつまづいたときには、とことん底までゆくか、極めて粗暴な行動に出る。

この攻撃性というか、たぶん溜め込んだ末の急激な発散なのだろうが、この前のトラックのミラーを殴って割ってみせたことにしても、私はそういった逸脱をしやすい性質らしい。

考えてみると、攻撃の対象が他者へ向かうか、自己へ向かうかの違いはあれど、フラストレーションの処理が苦手であると自分でも感じる。そもそもがストレス耐性が低いのである。それは神経質的なパーソナリティとほとんど同義なのだろう。

食欲は相変わらずでない。今日も菓子パンをひとつと、ポテトチップスを一袋しか食べていないが、それ以上何かを食べる気にならない。

酒はたくさん飲む。胃が弱っているのだろうか?しかし、顔つきは精悍になった。体重も2kgほど減っている。デトックス、断食、しばらく何も取り込まないで放出するだけで、毒気を払いたいのかもしれない。

ただそれ以外の生活はとくに問題がない。私は健康である。食べていた頃の方が、低血糖に悩まされていたと思う。今日もあたたかい日差しのなかをバイクで走った。

今日は中古のPCを買ったので環境を整えていた。いままでネットブック一台でなんとか所用を済ませていたが、初めてスペックのよいPCを買った。ディスプレイも解像度の高いものを。たしかに、快適に動くが私の用途ではほとんど無駄ではないかと思える。

ただ一台メインのパソコンがあるといろいろなことができそうではある。

新しい部署であるべき自分の立場というのも少し自覚してきた。ある程度余裕ができたら勤務中に読書することも可能だと思う。そうすれば少し理想的な生活だ。

読みたい本はたまっているが前より古典を読みたいとは思わなくなった。最近では古典中の古典であるソクラテスや孔子が、なんだか胡散臭く感じる。こうした権威的なものを否定すれば地盤を失うことになる。科学や倫理など現代信じられているものを否定することにもつながるからだ。あえてそういう危険をおかす人も少ないだろうと思う。それは健常と病気、理性と狂気の垣根を取り払うことである。

職場の環境は少しずつよくしていこうと思う。まあそれにしてもよく泣いた、数日前は。あれだけ泣いたのは生まれて初めてだったかもしれない。いや中学生のとき、神経症があまりにつらくて布団を噛んで泣いたことがあった。自分をボカボカと殴っていたときがあった。あのような時期が再来したのだろう。

自分の病的性質とうまく付き合っていかねばならない。病的な性質を忌々しく思うときもあれば感謝することもある。平凡な蓄群的なダスマン的な人間になることからともあれ引き離してくれるのは神経症だからである。私は不幸であることは間違いないがそういう運命を受け入れて歩まねばならないと思っている。




3.03.2016

いったい何なのか

昨日は唐突に鬱病めいた発作に襲われた。

きっかけはささいなことだったが、それは私の神経症が原因として起こったことだった。

そのことによって、私は幸福だった日常から、一気に転落した。

重苦しい憂鬱が、私の言葉から覇気をうばった。どんなにがんばっても、かすれた、消えそうな声しか喉からでない。また、動作は緩慢で、まるで全身のあらゆる関節がひどい炎症を起こしているような気分、少し歩くにも大儀といった具合だった。

仕事を辞めよう、休みたい、と思った。辞めよう、何もかもおしまいだ。
自由になりたいと思った。また、なにもせずにしばらく休みたいと思った。

同時に自分を笑う自分がかすかにいた。私はどうあっても不幸になる運命なのだ、と。幸福とは、永遠の不幸の幕間でしかない。私は神経症なのだ。一生苦しむことが運命づけられているのだ。そうでなければならない――

急滑降である。その日は朝食を食べなかったが、昼食を食べる気にもならず、夕食も結局食べなかった。食欲をどこかに置き忘れてしまった気分だった。ただ、酒はたくさん飲んだ。家に帰って、すぐにビールを一本あけた。その日は、ビールの大きい缶を3本と、チューハイを一本買っていた。それらは結局、すべて飲んでしまった。つまみも買ったが、結局開けなかった。

それでも、明日は仕事という意識があったから、ストーブで沸いていたお湯で、カップラーメンを食べた。味はまるでしなかったが、かといって胃が拒絶しているような感じもなかった。全身が、すべてに無関心のようである。こういうものかと思った。私は鬱病になったことはないから、新鮮な気分だった。

憂鬱になったときの対処法……私は少し慣れている。

TEDの動画を見る
ex1: シェーン・コイザン: 「今でもまだ」―いじめに悩む美しい君たちへ
You built a cast/ around your broken heart/ and signed it yourself.//
You signed it,/ "They were wrong."//

ex2: ケビン・ブリール: うつ病をわずらうコメディアンの告白
私が信じる世界とは 誰かの目を見て 「地獄を体験している」 と話したら 見つめ返して 「私もだ」と言ってくれる世界 これで良いんです 鬱でも大丈夫 私たちは人間ですから 悶えたり 苦しんだりします 血が出て 泣くこともあります もし 真の強さとは 決して弱さを見せないことと 思われていたら 間違っていると 伝えたい 間違っています 反対なんですから 私たちは人間です 問題を抱えています 完璧な人なんていない それで良いんです 無知を克服しましょう 不寛容を止めて 不名誉も払拭しましょう そして 沈黙を打ち破るんです タブーを取り払いましょう 真実を見て 話し合いを始めましょう なぜなら 1人で 戦っている問題の 唯一の解決方法とは 一緒になって戦うこと 皆で結束するんです 私は できると信じます そう信じています みんなありがとう 夢が叶いました ありがとう (拍手) ありがとう (拍手)
これをteenagerが講演したというのだから、アメリカはすごい国だ。

良い音楽を聴く
良い音楽は人によってさまざま。私はチャーリー・ヘイデンとハンク・ジョーンズのベース&ピアノのスローテンポなジャズを聴いた。例えば、"Nobody Knows the Trouble I've Seen" 誰も知らない私の悩み

涙は、

ボロボロ出た。一年分の涙が出たかもしれない。情けないことに、オイオイと声を出して泣いた。人間こんなに泣けるものなのだな。涙って、人体からはこんなに出るものなのか。

原因は、私を10年以上悩ませている神経症に違いない。私はしばらく、それから逃れられたと信じていた。しかしそれは迷妄だった。そのことを知って、私は絶望した。それだけのことだ、それにしても、最近流行りの学説のように、神経症が鬱病の予防線だとすれば、神経症の治りかけだからこそ、ひどい憂鬱に陥ったのかもしれない。

翌日は、普通に起きた。うつ病は朝が憂鬱だと知っているから、これは意外だった。食欲は絶無だったが、出勤途中のコンビニで菓子パンを買い、胃に入れた。糖分が補給されて、少しはましになった。目はたいへん腫れていた。これまでにない腫れだったが、ちょうど春だったので、「花粉のせいだ」と職場の人々に言い訳することができた。

仕事はふつうにした。今日は極めて多忙であった。作業療法のようなもので、行為に没我した方が、精神には良いようだ。20時まで仕事をして、解放されたいまは、少し落ち着いている。相変わらず食欲はない。何もかも不味いか、何も感じないかだ。

風呂に入る気力も起きないのが、少し困っている。家では酒を飲むだけしかできない。

これがどう転帰するのか、私にはわからない。

うつ病!私もこの仲間入りか、と思うと感慨深い。自己診断だが……。もっとも、すぐに鬱の状態から解放されそうではある。というか、そう期待したいと思っている。

私の寝床には、ヘッセの本が転がっている。その本には、こう書いてある。「地獄は克服できる」。

3.02.2016

中年の雑記

春が近づいてきたことだし、大学の友人たちと連絡をとってみた。SNSのアプリを長く起動していなかったので、数ヶ月分の連絡がたまっていた。携帯が壊れていたことにし、返事をする。後輩が留年したり、留年した同期が院に進学したりと様々のようだった。

一年・・・!よくもまあ、私も一年間働いたものだと思う。当初に比べれば、仕事にも慣れ、日本の中小企業特有のさまざまなドグマにも慣れ、田舎の生活にも慣れた。とにかく孤独には初めから慣れていたから、無事過ごせたというところだろう。

金はずいぶん貯まったから、これをどうしようか考えねばならない。旅には出たいが、部署が変わってから生活がそれなりに充実しているので、わざわざ捨てようという気にはならない。

この幸福な日々、少ない労働と時間的・金銭的余剰の多い日々は、たぶん部署替えで失われるだろうから、そのときに仕事を辞めるという方向でも良いと思う。おそらく簡単には辞めさせてもらえないだろうが、法律は法律、だ。そこはドライに立ち振る舞いたい。

以前の部署はあまりにもストレスフルな環境だったことが、いまの部署に移ってわかった。全力でのマラソンを8時間続けさせられるようなものだ。今は、普段は競歩でよく、ときおり100m全力で走ればよいと言った具合。

世の中のことがどうなっているのかわからないが、田舎でルーチンな仕事とテレビもない生活をしていると、まったく世界の進歩、動いている歴史からは取り残されている気分になる。一年間は、あっという間だった。このあっという間の一年間を繰り返して、気づけば白髪の中年になっているかもしれない。輪を描いて循環するような日々だ。

世間的成功に、あまり興味を持てない昨今である。田舎の中年として、埋没できるならそれで良いかもしれない。純金のメダルよりも、使い古された鍬の方が美しいということがある。相対主義も行き着くと、東洋的怠惰になるようだ。