4.29.2016

道徳はサイコパスを克服しうるか

基本的にブログのコメントは読まないのだが、手違いで読んでしまった。そこで、サイコパスに人権を与えるべきか否かという点について、予期していた反応が返ってきていた。「サイコパスのような人間でも、肯定的側面がある」がゆえに、「彼らに人権を与えない」という主張は誤っているというような。

これらの意見は、ひとつにサイコパスに関する知識の欠如――科学的な知識と、実体験としての知識の両方の欠如から、誤って導かれたものだと私は考えている。私は、自分自身も抑鬱に追い込まれ、また信頼する人物を自殺未遂まで追い込まれたおかげで、新しい知識を身につけることができた。すなわち、必ずしも万人に人権は与えられるべきではないということである。

現近代に支配的なイデオロギーは、平等主義である。すべての人間は、それぞれ生まれながら自然権を有しており、だれもこれを害することができないという考えである。

このようなイデオロギーの広がりと定着は、ひとつの寓話の変化から見て取れる。「桃太郎」の結末は、現在では、「桃太郎は鬼を征伐し、宝物を持ち帰った」という風にはならない。「桃太郎は鬼を懲らしめ、彼らの謝罪を受け入れた。鬼たちは宝物を返却した」となる。ここで見てとれるのは、「どのような悪人であっても、過ちを認めることができる」というような、現近代の頭でっかちの左翼的な、すなわち幼児的なモデルである。

現実には、真の悪人は謝罪することはあっても、「反省」などという行為は不可能である。それはサイコパスが受刑後も犯罪を繰り返すことから伺いしれるし、また彼らが私の上司を自殺未遂に追い込んでも、自ら反省する素振りを一切見せないことから察することができる。
宮崎哲弥 鑑定が正常に行われたとしても、サイコパス、反社会的人格障害をどう扱うかという問題が浮かび上がってきます。おおまかに言えば、彼らの人権を尊重して危険承知で一般市民と同じ生活をさせるか、あるいは彼らの人権を蹂躙して隔離してでも安全な社会を守るか、という議論に二分されるでしょう。ただ、完全に彼らを放置するわけには行かないので、何らかのセーフティネットをかけておく必要が生じます。 
岩波明 イギリスではサイコパス患者にも精神病患者と同等の治療を施していますが、「多少は改善されそうだ」「いや、無意味だ」という論争が常にあり、いまだに結論は出ていないのですが、私見ではおそらくサイコパスが治癒する見込みは極めて薄いと思われます。現実的な選択肢を考えた場合、一定期間の隔離もやむを得ないのではないでしょうか。去勢、つまりホルモン抑制剤を注射するのも一時的な効果はあると思います。(「諸君!」2006年7月号より)
荀子・孟子の対立――すなわち性善説、性悪説という考えは、数々の議論を生んだが、私もサイコパスのことを調べてから、善悪二元論の立場を取るようになった。ただし一面的な性善/悪説とはならない。人間すべてを一緒くたにすることはしない。

私の考えでは、多くの人間は生まれついての善人である。彼らは広く人類という種のために働く。しかし生まれついての悪人も一定数存在する。善人が悪人の素振りを見せるとき、それは悪人による遠因・近因に依る。つまり、この世に悪人がなければ、人間は悪に陥ることはない。

ローレンツの「攻撃」によれば、動物のあらゆる攻撃は、種の存続に適っている。それは一見、人間の戦争のように「種を滅ぼす」行為に見えるとしてもである。ゆえに、こういうことができる。善人が攻撃心を持つことがある。ある残虐性を見せることもある。しかし、それは悪行ではない。種の繁栄のために必要な、自然な衝動だからである。つまり、ここでキリスト教的な、カント的な意味での罪の内在性は棄却される。

ところが、サイコパスの攻撃はそうではない。彼らは、他者への、もっと広く言えば「種」への共感能力が欠如している。ゆえに、他者を狡猾に利用し、ただ自らの利潤のためだけに行動する。根本的に、種におけるイレギュラーな存在なのである。

サイコパスをその姿形から、私たちと同じような種、同類と考えることが、数々の不幸を生んでいるような気がしてならない。実際のところ、ある人間が鬱病になってゆく仮定を考えると、そこにはサイコパスの存在がある。

「サイコパスもまた心を持った人間である」と思うとき、すでに罠にはまっている。「なぜ彼は、同じ人間なのに、私を道具か何かのように弄び、疲弊させ、労ろうとしないのだろう」と思うとき、多くの人間が自分を追いつめてしまう。「それは、私が未熟で、不完全で、悪人だからなのだ」。

これが多くの鬱病の発症メカニズムである。つまり、内省的人間が一次的に鬱病になるのではない(遺伝性の鬱を除く)。必ずそこには二次的要因があるのであり、多くの場合それはサイコパス的な非人道的な関係が見て取てとれるのである。

人類は長い歴史のなかで、なにか「苦悩の原因となるもの」を探し求めてきた。征伐すべき「鬼」を探してきた。それが、現代では「ユダヤ人」や「朝鮮人」や「ISIS」だったりするのだが、これらが稚拙な間違った考えであることは自明である。正しい敵、征伐すべき対象とは、「人間の顔をした悪魔」である、「サイコパス」ではないのだろうか?……というような、ひとつの仮説が私には棄却できないでいる。

4.28.2016

心身症患者の記録

休憩もなしに、十時間働いた頃に、突然息苦しくなり、手足がしびれ、座っていられなくなった。私は普段から血糖値が低いので、低血糖かと思って、常備しているブドウ糖を口に含んだが、改善されず。今度は低酸素症状かと思い、呼吸をゆっくり深くするよう努めると、徐々にしびれはおさまり、落ち着いた。

ただ以前より左胸に胸痛があったので、気胸かと思い(肺のパンク――痩せ型で、長身の若い男性に頻繁に見られる)、翌日総合病院を受診した。心電図とX線をとられ、長い時間待たされたが、結論は以下のものだった。

すなわち、心因性のものだろうということである。

心電図、X線(気胸はX線で一発でわかる)、血圧、脈拍、動脈血酸素飽和度、心音、呼吸音、すべて異常なし。医師のアセスメントは、軽度の鬱病と、神経症。神経症のなかでも、心臓神経症とパニック発作のことであった。心臓神経症は、心臓が何かしらの異常を起こしているのではないかと思い込み、実際に発作的症状を起こす(たとえば呼吸困難、喘鳴、胸痛、嘔吐など)神経症である。

内科と循環器科を受診して、結局メンタルイルネスだというのだから何だか悔しい。本来は安心すべきだろうが……自己診断では確実に気胸だと思い込んでいた(この心的傾向こそ病理的なのだろうが)。その証拠に、即日入院に備えて、ノートPCと、本を五冊、その他アメニティをバッグに詰めこんできたのだ。これは結局意味がなかった。

「たしかに、気胸の典型とも言える体型をしているが」――循環器の小汚い医師に言われた。「煙草はやめなよ」と。ただ私は気胸ではないので煙草を吸い続けるだろう。気胸は何度も繰り返す疾患であるから、たとえ手術で完治しても、喫煙は厳禁である。私は多少なりとも煙草のもつ精神的効果を認めている(集中力とか、精神安定というのではなく、もっと創造的な領域において)ので、たばこを辞めようという気がないのである。

内科の有能そうな医師に、確認してみた。「過労やストレスが原因ということもあるか」と、「私は専門ではないからわからないが、そういうことは多い」医師は電子カルテを書きながら言った。「しかし内因性のこともある。内因性であれば、特にストレスのない環境でもなりうる。ようは一次性か、二次性かということだ」。

まあ、私はもともと神経症であるから、自分がパニック障害だとか、心臓神経症と言われても返す言葉がない。そういえば、インドで大麻を吸ったときに、調子に乗って吸いすぎたせいか、心臓の発作に見舞われたことがあった。自分の脈拍がどんどんと速くなり、また心臓音が大きくなり、私は恐怖した。どうしようもないので、「大丈夫だ、大丈夫だ」と自分を落ち着かせるしかなかった。

結局、気づいたら寝てしまい、同じ安宿のベッドの上で目覚めたが、少しの酩酊感が残っているだけで、心拍は正常だった。いまおもえば、あれは完全にパニック発作であった。

私は心臓に対する原理的な恐怖を持っているらしい。この心臓の鼓動は、私が有限な動物である証明であり、この音が尽きるときには、私の生命が尽きるときである。そのような考えから、私は心音に対して脅えてしまうようだ。一種のタナトフォビアとも言える。

内科の医師からは少しばかりの抗不安薬を処方された。これで良くならなければ、心療内科、精神科を受診するようにと。たぶん飲まないだろう。睡眠薬代わりに飲むことにする。

今日は結局仕事を休んだのだが、「私は過労でパニック障害になったから、休む」とは言えず、「軽度の気胸だったが、自然治癒が見込めるとのことだから、安静にするようDrに言われた」というような嘘の報告をして、休むことにした。これで職場がどうなろうと私の知ったことではない。

結局、休まなければこの手の発作は治らないだろう。過労とストレスが原因であることは明白である。もちろん、内科医が言ったように一元的要因もあるだろう。それは私が神経症的なスキゾであるということである。

しかし、私がパニック障害になったのは、私が悪いのだろうか?極度に過敏であるということは言えるだろう。感じやすい、鋭敏な精神。それを生得的に持つということは、「悪」なのか。また、「病的」なのか。そもそも、私は何に対して鋭敏なのか。物理的刺激、精神的ストレスはもちろんそうである。しかし私の精神は、なにを感じとるために伸長したのか?私の精神は、なぜ小さな石ころに躓き、樹木の美しさに涙を流すようにできているのか?それはなんのためにか?

ということを考えると、長くなりそうなのでやめてしまおう。暇ができたので、本でも読もうと思う。そういえば、大野正和 の「まなざしに管理される職場」がとても残念な本だったので、批評の練習がてら、書評してみようと思う。私よりもはるかに哲学に精通するはずの学者が、私以下の認識を持っているということは、興味深い事実である。ちなみに、まだ退職届は出せていない。

4.25.2016

ベーコンサラダ

情緒が安定しないのだがこれはもちろん仕事が嫌だからである。それで、仕事を辞めるのも嫌なのである。それは経営者側の罵倒や叱責が容易に想像できるからである。

自殺に追い込められたホスト上司は、もともと退職する予定だった。その相談のときは、ボイスレコーダーを持参していたらしい。そのことを、経営者は「信じられない」と言っていたが、私からすれば経営者側が信じられないのである。

岩田宗之というSEのコラムを読んでいたら、「国民を不幸にするようなロクでもない国ならなくなった方がマシ。私たちが幸せなら、日本なんてどうなったっていい。それなのに、私たちの幸せより日本の存続の方を大事だと言うから、間違っているのです。」とあって、溜飲が下がる思いがする(「自由を否定する人たち」)。

岩田という人物は、ほんとうに間違っていることを言わないので、感心してしまう。中学生~高校生あたりからこのサイトを見ているから、たぶん10年以上岩田氏の発言を追っているわけだけれども、まったくぶれない。私がこころから信用できる人間のひとりである。

組織とは、構成員を幸福にするものでなければ、存在する必要はない。これはルソーも言っていたことだと思う。国民を幸福にできなければ国はない方が良い。社員を幸福にできなければ会社なんてなくていい。ましてや、自殺に追い込むなど、信じられない所業である。それで経営者側は、そのホスト上司をさんざん馬鹿にしている。「あいつは最低の奴だ」と笑っている。

こんな人間が、存在するのである。

ただ私は経営者はサイコパスだと知っていたから、もう「我々と同じような人間」とは見ていない。サイコパスの存在を知らない人は、こういう人物にまんまと嵌められてしまうのだろう。ホスト上司も頭の良い人間だったから、見切りをつけていたと思うが。過労と、それによる仕事のミス(かなり大きな)で、彼は限界だったのだろう。

疲労も極度になると、考えることができなくなる。そうなる前に、手を打たねばならない。自分を殺すか、世界を殺すか――というように、すべてをおしまいにしたくなる前に、逃げなければならない。距離を取らなければならない。

私はサイコパスに人権を認めない。法律さえなければ、私的感情によって殺害していると思う。そうして、それは豚や牛を殺すよりも気軽である。

四つ足を殺すことは私にはできない。情が移るからである。せいぜい、鳥を絞めることができるくらいだろう。しかし、サイコパスは食用としては不適にせよ、世の中に害悪を振りまき、善良な人間を破滅に追い込む存在であるから、私は慈悲など一切なく殺せると思う。そういう自信がある。ただ、この国はいちおう法治国家であり、殺人は重罪であるから、自分の身を守るためにそれはしない。

「人権」などという思想が輸入される前、「悪人は殺してよい」という自然で健全な時代であれば、サイコパスのような人間は淘汰されていただろうと思う。そう考えると、西洋の平等主義というのは、少し誤謬がある。殺されるべき人間はいるのだし、差別されるべき人間はいるのだし、殺さないまでも、奴隷化するなどして行動を制限すべき種類の人間はたしかに存在する。

世の中はきれいごとだけではない。literallyに善意の欠片もない人間が存在するのであり、こうした人間を過度に保護する現代社会は、悪をのさばらせ、善が駆逐されている。

ヒンドゥー教においては、悪がはびこる社会になると、ヴィシュヌ神が人間の姿をとり、悪を葬り去るのだという。何かで読んだと思うが、たしかそんな逸話があったと思う。しかし、梵我一如の発想を考えてみると、このヴィシュヌ神はそもわれわれ自身だということができるかもしれない。われわれがすでにして、神であり、われわれがすでにして、神聖であるならば、それはギーターの奥義にあるように、「欲するままになせ」という教えを守るだけで良いのかもしれない。そのように、悪は駆逐されていくのかもしれない。

私は、「人間の姿をした神」なのかもしれない。もちろんあなたもそうかもしれない。これは、おもしろい考え方だと思う。少なくとも、サイコパス経営者は神ではない、と言う気がする。でも、ギーターによれば神はあまねく満たされているということだから、あれも結局は神なのか。へえ。しかし永遠に自己の神聖に気づくことはないだろう。

ワタミの社長にせよ、今の首相にせよ、ああいう存在は、まったく卑しい低次の存在である。だから、時代が違えば、殺されていたり、自由のない奴隷として扱われていただろうと思う。もちろん、現代においても、適正な感覚が保たれている国家であれば、過労死させるような企業は「異常」として認識される。やはり、この国が異常というだけなのだろう。いつから異常になったのか?と考えると、しつこいようだが明治政府の悪政が見て取れる。日本人が「勤勉」になった原因は明治政府だからである。



今日はwikipediaで食肉の歴史について調べていた。

古来から食肉は、日本において忌み嫌われていた。もちろん生存の危機に見舞われれば食肉もしただろうが、基本的には菜食、魚食が中心であった。秀吉も、「牛馬を売り買い殺し、食う事、これまた曲事たるべきの事」とポルトガル人の宣教師に言っていたらしい。これに対し、ポルトガル人は「いや、牛は食べるけど馬は食わないよ」とくだらない弁明をしている。

上流階級が肉を食わないのは当然だったようだ。町民が四つ足を食うこともあっただろうが、それはたまの贅沢というか、無邪気な好奇心というか、そんな程度のことだと思う。中学生が煙草を吸いたがるようなものだ。禁制はだれでも犯したいものである。ただ、今の日本人と同じように、肉を常食するということはまず明治以前には考えられなかったことだろう。

このような日本人だったが、明治政府が「肉食えよ」とアピールしてきたがために、ころっと騙されてしまった。
明治新政府は発足当初から肉食奨励のキャンペーンを大々的に展開した。明治2年(1869)に築地に半官半民の食品会社「牛馬会社」を設立し畜肉の販売を開始した[29]。翌、明治3年(1870)には福沢諭吉が執筆したパンフレット『肉食之説』[30]を刊行、配布している[31]。 斎藤月岑日記には「近頃のはやりもの」として牛肉、豚肉などが挙げられている。食肉業者が増えたことにより、1871年(明治4年)には「屠場は人家懸隔の地に設くべし」との大蔵省達が出されている[1]。同年には天長節翌日の外国人を招いた晩餐会で、西洋料理を出している[9]。ただし明治天皇が初めて牛肉を食したのは1872年(明治5年)である[1]
……また福沢諭吉が出てきた。私はこの人、国賊だと思う。 調べたら怪しい論文でメーソンリーとの関係が指摘されている。この手の情報は信用してないけど、実際金と権力につられてうまく利用されている感の強い人物である。

明治天皇が食肉したことの衝撃は当時は大きかったと思われる。なにせ天皇は何世紀も肉食していなかった。天武天皇より食肉を禁じ、少なくとも牛食は完全否定。おもしろかったのは以下の記述。
(明治5年)2月18日、御岳行者10名が皇居に乱入し、そのうちの4名が射殺、1名が重傷、5名が逮捕される事件が発生し、後に「外国人が来て以来、日本人が肉食し穢れて神の居場所が無くなった為、外国人を追い払うためにやったのだ」との動機が供述されている。
すごい事件だ。 なんとなく 御嶽行者の言わんとしていることはわかる。



私も最近は食肉を控えている。魚介類はさかんに食すが、哺乳類の肉は食べなくなった。この前、知人と食事に行く機会があったが、サラダに乗ったベーコンを丁寧にとりのぞいたので、怪訝な目で見られた。しかし私も自分の行為がほとんど無意識的に行われたので自分でも驚いた。

もう私の目には食べ物ではなくなっているようだ。でも、スーパーへ行くと、つい焼き鳥などを買ってしまいたくなる。たまの焼き鳥くらいは自分に許すべきか。牛、豚はもはや無理だが。

食肉を控えて二週間は経つがとくに禁断症状はない。食べたいとは思わないし、体調は当然予想されることだが、食肉していたときより良くなっている。もともとほとんど自炊生活だから、食事選びに困るということもない。

そも、肉っておいしかっただろうか?と考えると微妙な気分になる。牛肉、豚肉は20年間以上食べてきて、そんなに好きではなかったと思う。身体の調子も悪くなるし。

しかし、やっぱり、鶏肉はおいしい。からあげ、焼き鳥、チキンクリスピーは私の好みである。やっぱり鶏肉は許すべきか。西洋のベジタリアンは卵を食うことが多いが、卵を食って鶏肉を食わない道理は謎である。私の現在の食習慣は、ペスコ・ベジタリアン(魚食するベジタリアン)と分類されるらしいが、鶏食もするとなるともはやベジタリアンではなさそうだ。

まあ、食べたくなれば食べるというスタンスで良いのだと思う。西洋のベジタリアンはやや強迫的に見える。それだけ西洋圏は肉食文化が根強いということだろう。鶏肉が食べたくなったらそれは自分に許して良いだろう。ようは明治政府の強要した以前の自然な食習慣に戻れれば、よい。動物に対する憐憫の心があればよい。鶏肉はともかく、もう豚や牛は食べられる気がしない。



さておもしろいことに、日本人が「勤勉」に作り上げられた時期と、「肉食する国民」に作り上げられた時期は、ほとんど重なるようである。富国強兵イデオロギーの一環ということである。明治時代で日本人は改変された。日本の歴史において明治維新から現代に続く150年は日本人にとって異常事態である。その異常を異常とも認識していないのがほとんどの日本人だ。

この事情がわかっていれば、善良な人間がなぜ死に追いやられるのか、なぜ悪がはびこるのか、ということも説明がつく。日本には病気が巣くっているのであり、日本人は不自然に作り替えられているのであり、不当に苦しめられているのである。

私の考えが正しいかはわからないが、私はサラダの上のベーコンを除くように、至極自然に、上のように考えている。

4.24.2016

外か内か

関心が大してわかないので、本を読む気にならなかった。今読みたいのは、「まなざしに管理される職場」というどこかの大学講師の書いた本なのだけど、まだ届かない。たぶんフーコーに絡めて日本社会を分析するような本だと思うので期待している。ローレンツの「攻撃」とか、アンソニー・ストーの「人間の攻撃心」は読みかけだが、どうも肉薄していないというか、私が今求めるものではないと思っている。

その代わりに映画を見ていた。「セッション」というジャズ・ドラマーの映画である。とてもおもしろかった。ただ、ドラムを死ぬほど練習したところであんなに出血はしないだろう……。



明日、明後日をめどに、私は会社を辞めようと思う。突然、さっといなくなる。これでいいのだと思う。会社が、どうなろうと、私は自分の胃の粘膜の方が大事である。会社が、ひとつ潰れたところでだれも悲しまないだろう。

ホスト上司は、ほんとうに自殺未遂をしでかしたらしい。彼は何に殺されかけたのか。もちろん、過酷な労働を強いた会社は悪いだろう。しかしもっともひどいのは、社会における不寛容である。私も、不寛容だったかもしれない。ただ、私自身、毎日苦悩しているのだから、他人のことまで構っていられない、というのが現実である。

さて不寛容はどこからくるのか。彼のような人間は「何に」殺されているのか?端的に言えば、「悪」と言うことができるだろう。我々の心に、悪は根ざしているのだろうか。それとも、勝手に投げつけられた悪に、人々は戸惑い、苦しむのか。悪は外にあるのか。内部にあるのか。悪は自然か、非自然か。必然なのか。

悪が古代から存在したのは事実である。それでは、古代以前には存在したのか。動物にも悪はあるのか。動物の罪を問うことはできるのか。われわれは、動物を嫌悪することはできない。軽蔑もできない。反対に、動物に十全に満ちている肯定感を、どうして得られないのか、と嘆いている。

われわれの種は、なぜこんなにも苦しむのか。われわれが苦しむのは、われわれの責任なのか。外なのか、内なのか。われわれは、だれに責任を問えばよいのか。悪の流出源を、突き詰めることができるのか。悪の放逐とは、たいへん困難である。大半のひとびとは、目が開いていないからである。悪と、悪に使役される人間と、そうではない人がある。それは、ただ悪に対するところの人間である。

悪を認めること。しかし、次には、悪を克服しなければならない。知は悪を見つけ出す助けはしてくれるが、そこから先には連れていってくれない。



私の左手に落ちた涙を、私の右手が愛撫した。

4.23.2016

救済

月曜日を私は恐れている。

非人間的な労働、人権もなにもない、非人道的な、奴隷的な、強圧的、ハラスメント、精神攻撃的な、冷酷、重圧、退廃、暗い、冷たい、仕事をまたしなければならないと思うと、ワインを一本あけてしまっても、あては塩だけでもいいから、酒を流し込まなければやっていけない。

この夜が、解体し、この空が、落ちてきて、みな、血と臓物を吐き出して死んでしまえばよい。眼球を飛び出させ、舌をだらしなく垂らし、皮膚の大きな切り口から、もう用のない血液と、みじめな脂肪の粒を垂らしながら、死ねばよい。死ねばよいのだ。

馬鹿げた社会である。私は、社会というものが、こんなに不当で、未熟であり、修正不可能なものであるとは思わなかった。個人は、それにあらがいようがない。個人の意志など、この社会では存続しようがない。我々が、どう生きようと勝手だ――と我々は、思っている。しかし、それは不可能だ。

民主主義イデオロギーは、日本のインテリが待ち望んでいる。彼らは、日本が発展途上国の独裁国家のようであることを、耐えがたい羞恥だと感じている。しかし、当の民主主義国であるフランスなどは、やはりインテリに限ってのことだが、民主主義に憎悪を向けている。

これはどういうことか?私は民主主義イデオロギーが、日本に適応されれば、少しはましになるだろうと思っている。このような、絶望的な気分で月曜日を呪う必要もなくなるだろうからだ。しかし、日本と対極にあるフランスの知識層は、民主主義イデオロギーを呪っている。

われわれは、支配的なイデオロギーに対しては、つねに反抗を向けるということだろうか。すなわち、場の支配。監視。権力。これらを、取り払いたいという原初的な感覚が、われわれの本能・無意識的なレベルで、持続的な効力を持っているのかもしれない。

そのような視点を持つと、強硬的な右翼だろうと、協調的な左翼だろうと、同じ方向を向いていることがわかる。われわれは、なによりも解放されたいという切迫感を持っているのだろう。「こうではない」「こうではない」と常に嘆く存在なのだろう。

われわれは、解放されたいと願い――少しでも早い救済を望んでいる。それが、宗教の形をとっていることがある。すなわち、キリスト教はこの形をとっている。また、仏教も同等である。

われわれは、救済されたいと願っている。自由になりたいと思っている。しかし、それはすでにこの社会で実現することは、不可能である。決まってしまった構造のなかで、我々は生きなければならないからだ。

われわれが望むのは、すべてリセットすること。原初の状態に戻すこと。「何かのまちがい」が初めて存在したそのときの、前に存在してみたい、ということ。

4.22.2016

会社を辞めることにした。

夜中二時、胃部の疝痛により目覚める。制酸剤を飲むが治らない。眠気もあまりないので、そのまま起きていることにした。

私は来週くらいに仕事を辞めてみようと思う。私は職場の人間が好きだし、仕事も慣れてきて嫌いではないのだが、やはりホスト上司の件が辛く、また業務も多忙を極め、なにより情動障害の経営者に富を与えるために生活を捧げることは、これは悪への荷担であると自覚した。

退職が初めてなのでいろいろ手続きがいるのかと思ったが、ようはこれだけである。「退職二週間前に退職届を出す」。あとは会社から借りてるものを返すくらいか。入社時の契約では「退職届は三ヶ月前に提出すること」とあるが、こんな約束に法的効力はないようだ。

二週間というのは届けた当日は含まないらしい。ただ折良く連休が近いので、退職届を提出し、あとは有給を申請して、ほとんど即日で退職しようと思う。慣習においてどのように評価されるかは知らないが、これは法的手続きとして非の打ち所のない行為であり、非難されるいわれはない。

ただ日本の法律は、さすがに「バックレ」は認めていないようだ。この「二週間」を破った場合は、賠償責任が生じるとある。私は労働契約違反の会社であれば即日退職が許されるだろうと考えていたのだが、これは契約して短期間の間でなければならないらしい。つまり私のように一年と少し働いた場合は、半ば「合意」していると見なされるようである。

しかし退職した労働者への経営者の損害賠償請求訴訟は、たいてい負けるものらしい。こういう労使が揉めるような会社は、使用者側に問題があることの方が多いようだ。ある企業が労働者へ損害賠償の訴訟を起こしたら、逆に企業側に未払いの残業代を支払うよう命じられたという判決があって、笑ってしまった。

実際のところ、胃が悲鳴をあげているのだし、私は自分の胃に比べたら、会社が潰れようがまったく気にならない。世の中の会社員は、ほとんど消耗し洗脳されているから、死ぬまで働いたり、抗うつ剤を飲んだり、重病で倒れてしまうらしい。

私は日本の会社員と奴隷の区別がどうもつかないでいる。皮肉ではなくわからない。しかし古代ギリシャにあっては奴隷の価格は現代でいうと高級車くらいの値段がするようなので、趣味人が高級車を適切に管理し、ぴかぴかに磨き上げるように、現代の奴隷たちがされるような粗末な扱いをすることはないだろう。

つまりブラック企業に勤める日本人は「奴隷以下」なのであり、古代から社会に広く容認されてきた奴隷制と同一視するのは誤りと言えるだろう。日本人は下層民のなかの下層民である。古代の奴隷がいまの日本人を見たら、その悲惨な生活に驚愕するのではないかと思われる。現近代の戦争捕虜や、かつてのアメリカの黒人奴隷と、日本人の「社畜」の生活のどちらが豊かかと考えると、首をかしげてしまう。そのようなレベルだ。少なく見積もっても、刑務所にいる受刑者よりは貧しい生活をしているだろう。

これが日本という自称先進国の実態である。おそらく山手線内の「勝ち組」には見えてこない世界だろう。ある国が衰退するというとき、地方の弱者たちから切り捨てられる。逆に言えば、対応が早いのは弱者や田舎者ということである。この国の勝ち組たちは、ゆでがえるのように気づかないまま死んでしまうのかもしれない。

仕事を辞めてしまおうと考えるとずいぶん気が楽になる。バイクに乗りたい。山々の空気を吸いたい。畳の上に寝転がりたい。本を読みたい。なにより、旅に出たいと思っている。こんなバカげた国とはさっさとおさらばしたいものだ。

報道の自由度が、72位になったようだ。日本のマスコミと官報の違いが、私にはわからない。

最近、いろんなことが同一して見えてきて困っている。つまり、悪=サイコパスととらえたり、マスメディア=官報ととらえたり、一般日本人=奴隷と解釈するような、構造の単純化、「垣根の撤去」といった行為が、私の頭の中で起こっている。

実際のところ、本当の智慧というものは、アリストテレス趣味のように細分化し事細かに定義することではなく、反対に垣根を外していくこと、概念を統合することのような気がしてならない。その結果、最終的にはひとつの真円に向かっていくのではないかと思う。

こういうと宗教じみているが、結局は「あまねく存在する神」というものがあるのであり、それは自己の外側にあるのではなく(自他の垣根もとりはらったなら当然だが)、自己が神であり、また世界が神であるということになるのではないかと思う。「汝はそれなり」というわけだ。

話が世界認識まで飛んだが、私が実際に退職届を出せるのかがわからない。ホスト上司が退職してから、信じられないくらい忙しいからだ。「今辞められては困る」と当然言ってくるだろう。ほとんど恫喝のようなことをされることも覚悟している。私は口べただから、自分の主張をうまく通せるかが不安である。情動障害のサイコパスは、口達者なのである。

もう、メールで一方的に退職を通知し、あとは逃亡してしまえばいいという気がしている。これも、別段違法ではない。

世の中、違法ではないことばかりだ。もろもろの害悪も取り込んだにせよ、この「法律」というのは良いものだと思う。少なくとも、「権利意識」のある人間は、法律が守ってくれるようだ。「空気」に縛られるひとびとは、一生を台無しにされ、だれかの道具として生きるしかないということだろう。


仕事で労働者が鬱病になることはこの国では茶飯事だが、つねに問われ、記述されるのは「労働者」側である。つまり、「鬱病になる労働者は、まじめで責任感が強い」というような記述である。私はこういった社会通念に疑念を抱く。「人間が自死を試みる」という異常な行動は、けっして普通の人々の行うことではないからである。つまり会社における労働者の自殺の原因は、少なくとも労働者間・労使間の「あいだ」の異常、そして多くの場合、「使用者」の異常と考えるのが妥当だと思われる。

そこで私はサイコパスについて調べてるというわけだ。ある精神科医曰く、サイコパスは「人を鬱に陥れる達人」ということだ。鬱病の人間が「鬱になる達人」ということはないだろう。遺伝的に鬱病になりやすいひとはいるにせよ。

鬱病になる遠因近因には、この「サイコパス」の陰があると私は考える。サイコパスによる「加害」の罪は、実際のところ問われることがないのが実情である。たとえば先のホスト上司は、サイコパスによる精神攻撃、具体的には強制的な過重労働によって「入院(たぶん希死念慮による強制入院)」という事態に陥ったのだが、サイコパス自身は自分が悪いと寸分も感じていないし(感じたらサイコパスではないが)、また周囲の人間も、サイコパスを糾弾しようとは思わない。

それほど、サイコパスによる攻撃は通常の人間にとっては「見えない」ものなのであり、また「見ようとしない」「目隠しされている」のかもしれない。われわれの世の中を支配する「常識」とか、「空気」と言ったものを、疑ってみなければならない。再度述べるのだが、自殺、あるいは鬱病は、ほとんどある特定の人間に原因が求められるのである。

このサイコパスの「加害」が黙認あるいは無視されていることは、まことに不思議なことである。そうだから私は、サイコパスと歴史や文化、芸術や宗教などとの関係を広く捉えていきたいと考えている。


4.21.2016

悪の病

昨日私は少々興奮した文章を書いたけど、実際興奮していたし、多いに泣いた。昨日も書いたが、私は、自己がかわいそうで泣くということは何度かあったけど、他者のために泣くということは初めての経験であった。おかげで、また目がぱんぱんに腫れた状態で出社せねばならなかった。

今回は、周りの人間は私のあからさまな目の異常に触れてこなかった。前に、サイコパス上司の下に配属されたときも、同じくらい泣いたのだが、そのときは、周りがそれを指摘するので、「花粉で目をかいて、炎症を起こしている」と説明するだけでよかった。今日は、状況が知れ渡っているため、私は不器用な弁解をする必要がなかった。いつもそうなのだが、男が目を腫らすほど泣くという状況は、少し恥ずかしい。

私は自分が悪に苦しめられるということも、他人が悪に潰されてしまうことを見るのも、大変につらいということを悟った。私は、悪に敏感なのだと思った。実際のところ、私の半生を振り返ると、とくべつ不幸な境遇にあるのではなかった。私は悪を感じ取りやすいから、人以上に苦労するのだ。みんな、「こんなものだ」と折り合いをつける。上司が過労で鬱病になった。それがなに?というわけだ。「それは私の問題ではない」。「よくあること」。

ところが私の目にはこの「悪」の構造が全人類、全歴史に渡って拡張、というか一般化できるような気がしている。悪が他者を支配する。他者を道具化する。他者を破壊する。

ふつうの人間には、葉っぱか、せいぜい枝しか見えない。私はといえば、いささかの知識欲があったから、幹を見、根を見、一本の木を、森を、見ようと、少なくとも「試みた」ことによって、ふつうの人間が感じないようなことを、感じとることができているような気がする。

それは未分化の領域の智慧と言ってもいいかもしれない。本を読んでも、内容はすぐ忘れてしまうが、あんがい無意識領域の棚のなかには収まっているらしい。私の読書選択は、食欲と同じく飢えによってもたらされた。ゆえに、その動機は苦痛であり渇望であったのだが、それが良い結果をもたらしたと言えるだろう。

私は、人間一般に対する同情の念を隠しきれない。私は、ほとんどの人間に悪は存在しないと考えている。悪は、少数の異常者にしか存在しない。少数が、悪の病をもたらしている。私はこのように考える。

ホスト上司は、しっかりと療養し、精神の健康を取り戻してくれるよう、それだけを願っている。私の前には、もう姿をあらわすことはないだろうが。

4.20.2016

フォーエバー・ホスト上司

ホスト上司は

私が著述家や思想家を除けばほとんど生まれて初めて尊敬する人物だったのだが、彼が今日は突然職場に顔を見せなくなっていた。もともと「辞めたい」とは言っていたが、辞めるとしても七月までと聞いていた。そのおかげで、今日はまったく忙殺された。

仕事が終わる頃になって、オーナーから話を聞いたところ、彼は突然出社を拒否し、部屋からも出ず、電話などしても彼の家族が出るだけだったという。そうして、彼の家族はこういうのだ。「彼は入院します。なので辞めます」。オーナーはそのことを憎々しげに言っていた。「(七月で辞めるという)約束を守らないとは最低の奴だ」。私は、頭がくらくらする思いだった。

私は、ひとりの人間が潰れたのだと思った。

私には、彼の気持ちがよくわかった。彼は働きすぎるくらいに働いていたから。その割には、待遇は惨めなものだった。彼は経営者側と仲が悪かった。サービス残業が常態化している職場を、改善しようと働きかけていたからである。「黒崎くんは、よく辞めずにはたらいているね」とよく酔ったホスト上司は言っていたものだった。

それに、彼の知性は、彼のおかれてる状況が痛いほどわかっていただろう。奴隷は、どれだけ苦しめられようと、そのことを誇りに感じたり、そのことを快感だと錯誤することによって――つまり感覚を狂わせたり、蒙昧になることによって、耐え忍ぶ。環境に対する適応のひとつである。もともと日本では情操教育の効果によって、奴隷化している群衆は多いのだが。

しかし、ホスト上司のように物事の道理を心得ているひとは、どのような境遇に置かれようとも、自己に対する誇りと憐憫、そして悪に対する憎悪とは、決して忘れないものなのである。ゆえに、私は上司の「殻にこもる」判断は自然であり、強力であると感じていた。彼は自己を守る、実に適切な手段として、殻を閉ざした。それは傍目には、彼が「潰された」ように見えるのかもしれない。しかし、彼の自閉は、彼の生きようとする意志の、純粋な自然の本能によるものであり、その意味では、強固な、能動的な、人間の美しい本能であると私は感じた。

彼は、強いのである。彼は強い。私の知る人間のなかで、もっとも強い人だった。よくがんばったと思う。

私はニーチェの言った言葉を思い出した。「強者を弱者から守らなければならない」。

私は、他人のために涙を流すことはほとんどないのだが。私が、愛情を発露するなど、きわめて稀なのだが。私は、彼の連絡先を知らない。労ってやりたいと思うが、職場のことなど忘れたいだろうから、そっとしておく。

私は、オーナーの言葉……「最低の奴だ」を聞いて、いろいろ吹っ切れてしまった。このキチガイは、何を言っているのだろうと、くらくらしたのである。この動物は、私と同じ生き物なのか?このネズミ以下の下等動物のもとで、私は汗水たらさねばならないのか?(というのも、ネズミにも共感能力はあるので)「サイコパスからは、離れなければならない」。これが、私の忘れてはならない処世術である。現実には、このような人間が、我々を支配して、我々から搾取しているのだろうと思った。

世界一周がそこそこ贅沢にできる資金、現金で300万円ほど貯め込んだので、そろそろ仕事を辞めてしまおうと思う。こんな会社に未練はない。経営者側が労働契約を違反しているので、即日辞めても賠償責任など問われないのだが、それなりに金をもらっているのだから、数週間はいて「あげよう」と思う。

もっとも、私は臆病な性格なので、しばらくは辞意を言い出せないだろうけど。


4.19.2016

日本のおしまい

今日は少し激していた。つまり怒っていたのである。

私の職場の上司が、あと数ヶ月で辞めてしまうらしい。上司は、元ホストだった。正確には、京都の大学に通っているあいだ、ホストで稼いでいた。だれからも信頼される、優れた人物であった。おそらく私が「他者を気にかける」とか、「同情する」という感情を初めて持った対象が彼であった。いわば、そういった感情が彼によって育まれたと言ってもいいのである。

よほどのことがない限り、他者を信用せず、疎む、敵対する、という私だけど、彼はその意味で例外であった。彼は経営者サイドと対立し、いじめのような境遇におかれ、必然的に辞める段取りとなった。

まあ私も長居しようと思う職場ではないし、彼が辞めてしばらくしたら私も辞めようと思う。この職場で勉強になったのは、サイコパスという存在を知ることができたこと、日本の支配構造を知ることができたこと。この世にまともな職場とは希有であること。日本国民はよく調教された奴隷であること。善良な人間は、つぶされるということ。

やはり海外に基盤をおかないと、と思った。この国は、もうだめだろう。抽象的な表現だが、だめなんである。私は、経済も政治も詳しく知らない。しかし、元ホストが辞めるという話を聞いて、もうこの国はおしまいだと悟った。これは、幼稚な飛躍ととらえられてもしょうがないと思うが……。

この国では、ひとびとは夢遊病のようにぼんやりしている。彼らが歩くたびに、少しずつ富を奪われているのだが、それを気にかけることもしない。彼らは、ときにつまづいて大泣きしている。「俺の人生は、なぜこうなんだ」。しかし、彼の目には、富を奪う手は見えない。ゆえに、彼らにできることと言えば、より思考を鈍磨させ、「ぼんやり」するか、首をくくるかしかないのである。

支配―隷従という構造は、諸外国でも同じなのだろうか?ほとんど日本人の半分しか働かないフランス人も、「俺は奴隷のようにこき使われている」と感じるのだろうか?それとも、この支配―隷従のイデオロギーは、日本特有のものなのだろうか?いや、日本固有と言っては語弊がある。伝統的な日本人は、明治時代に「勤勉な日本人」に作り替えられたからだ。だから、無味乾燥の、醜悪な、矮小な、不幸な、非情な、哀れな――「服従する」生き物としての日本人は、「現近代日本人」としてかっこにくくらなければならないだろう。

とにかく!私は激している。うすらバカな奴隷にも、狡猾な主人にも怒っている。

だが、私は少しだけ冷静で分別があるので、「階級闘争」に走ることはしない。すくなくとも次のような疑念を捨てることができないでいる。「これこそが」、人間の統治の自然な姿ではないのか?

私は神経症だから、日本の社会がいかに歪んでいるか、いかに「不自然に」歪められているか、ということがわかるのである。なぜというに、この「安定した」日本社会の代償として、私のような神経症者が誕生するからである。

「自然に還れ!」――とルソーは言っていないのだが、しかしこの主張はもっともらしく感じる。私は、文明社会に疲れた。文明とはそもそもが苦しみである。苦しみの発明、これは文明と道義ではないのか。


4.18.2016

攻撃

特に悪くない日々を送っている。18時に帰れて、仕事中に読書ができ、給料は悪くない。くだらない労働賛美のはびこる日本において、なかなか、このような生活ができるものではないだろう。

もちろん、私は代償を払ってこの生活をしている。ひとつには、都会の華々しい生活からは離れてしまっている。またもうひとつは、職場の人間から、ときに敵意を持った目で見られるということである。一時期は拒絶反応のピークとも見られるような苛烈な攻撃にあった。私はだいぶ苦しんだけど、しかし彼らの攻撃は長続きしなかった。

人間、どんなことにも慣れるものだ。私はどんなコミュニティにおいても、真っ先に攻撃される性質を持っているらしい。疑念と敵意なしに集団に受け入れられたことがない。しだいに、「この人はこうで、それは変えようがないのだ」とひとが知るとき、私は初めて落ち着いて生活を送ることができるようになる。ようは私は「レア」なのだと思う。別の表現だと、奇異なのである。

そんなわけで、一時的な攻撃反応を乗り越えて、いまは落ち着いて読書をしている。

ローレンツの「攻撃」がなかなか読みやすく、内容もおもしろい。さまざまな動物を観察研究し、また人間の心理も知ろうとする「行動科学」の本である。私はこの行動科学を嫌っており、芸術における抽象主義のような一時的なムーヴメントだと見なしていた。それはつまり白衣を着てラットを観察することで人間の心理を解読しようとする試みにいささかナンセンスを感じていたということである。

ただローレンツのこの書籍にはそういう冷たさはなくむしろ底知れない寛容さのようなものが見られる。私はこの本を通じて動物と人間は切り離せないものであることを知った。というのも、たとえば彼らの同種に対する攻撃様式などを見ていると、実に「人間くさい」のである。

私がよく猫のいる公園に行くと、つねに何かしらの猫と出会うのだが、見知った猫がいるときには他の猫はいないし、逆に知らない猫がいるときには、いつもの猫がいない、ということがあった。猫の多い公園なのだが、すべての猫に同時に出会うということはなかったのである。

この事実はローレンツによって指摘されていた。つまり、猫はシフト制を採用していたのである。猫がその"エサ場"に現れ、臭いをつける。すると、他の猫は少なくとも数時間は近寄らないようになる。――猫にとっては、臭いから時間の情報も解読できるらしい。この適度な分担制によって、私の眼前にはつねに一~二匹の猫しか現れないというわけである。また一匹の猫が場を支配して肥え太り、他の下位の猫が餓死するということもない。

ローレンツによれば「攻撃」とは種の繁栄をもたらす必要のためにあるらしい。それは「悪」「野蛮」なのではなく、人間でも同じことなのだが、「共栄」のために必要なシステムなのである。

このブログを読んでいる人は、うんざりするかもしれないが、私は現在サイコパスを調べようと思っている。その観点では、すこし残念な書籍だった。サイコパスの攻撃とは、「反応的攻撃」の他に「道具的攻撃」がある。反応的攻撃は、すべての哺乳類に見られる。また他の種の動物にも見られるだろう。例えば遠方に敵を見つけたら逃げるところが、近づきすぎて逃走困難だと動物が感じると、とたんに攻撃を始めるというような、動物においても人間においても頻繁に見られる行動である。しかし、他者を使役し、利潤をむさぼるような道具的攻撃についてはサイコパスにしか見られないとされている。この攻撃の区別がなかったのが、残念だった。

私が興味を持っているのは、動物にもサイコパスに類似した特質を持つ個体が存在するのかということ。サイコパスが「種の繁栄」に貢献しうるのかということ。サイコパスが、文化や宗教、哲学にどのような影響を与えてきたのか、ということである。これらについてあまり良い本がないのが、悩ましいところである。

4.17.2016

日曜日

いかにしてセックスを獲得するかということを考えている。人間として常識的な――適度な性体験を求めているというわけだ。実際のところ、成熟した性生活、これがスキゾ的な人種においてもっとも欠けているものだ。また創造者、思想家、賢者、といった類の人間にとって、それはぽっかりあいた穴ということができるだろう。この穴を埋めようとして、この穴から逃れようとして、人は奔走する!その苦しみの結果が、宗教であったり、文学だったりするわけだが、「成熟した性生活」、これは実は分裂症的な人間にあっては、手の届かない、肉的な人間との和合というわけである。



昨日は空気が澄んでいた。皮膚に緊張感が感じられるほどであった。バイクを軽くメンテして、山に出かけた。山々の、美しさ!一部の、杉植林が痛々しかったが、山奥にいけば手つかずの自然が日光に照らされていた。

また、バイクの楽しみを再認識した。時速80km/hでコーナリング。タイヤのグリップを感じながら、バイクを倒し込む。ほとんど本能的に人馬の重心をとらえ、そこに微妙に入力することによって、自然な姿勢で、最高のバランスで、カーブを駆ける。危険と、技能のコンフリクト。

ただ、何週間か乗っていなかったから下手になっていた。

バイクの調子がいい。キャブレーターのメンテナンスをしてから、低速のツキが良くなった。ステムベアリングを交換してから、ハンドリングが自然になった。リアサスペンションを中古の良品に換装してから、段差で車体が暴れることがなくなった。プラグをイリジウム製からノーマルタイプにしてから、不自然なレスポンスがなくなった。

何より、暖かくなってきたから、始動性が抜群によい。以前は、キックを何十回ということはざらだった。キャブレータをOHしても同様だったので、もう燃調がおかしくなっているか、エンジンが傷んでいるのだろうと考えていた。それが、最近はキック一発という具合である。まだまだ走れる!とこのバイクは主張しているようだ。製造から二十五年経つオンボロ、あちこち傷だらけで、サビの浮いたバイクだが……。そうだからこそ、愛着が沸くというものだ。



最近またギーターの解説書を読んでいる。ギーターの影響を受けた人物には、カミュも含まれるらしい。十八歳のときに大学でギーターを学んだという。私が「異邦人」を好きなのは、そのせいかもしれない。ギーター好きに悪い人はいないということだ。ただし、ガンジーはあまり好きになれない。「偉大な指導者」なんてものは、たいてい疑ってかからなければならない。

今日は日曜日だが、雨が降っている。

4.15.2016

悪2

バタイユの「文学と悪」が届いた。100ページほど読んだが(勤務中)、私の求めていたものではなかった。バタイユにとっての「悪」はキリスト主義の域を超えていなかった。

バタイユはまだ存命だと思ったがもう没後半世紀以上経っている。なんだかすごく文章が現代的な雰囲気。先駆的だったということだろう。しかしバタイユについては、「エロティシズム」とか、「眼球譚」とか読んだけど、あまりピンとこないという気がする。フランスの現代思想は、あまり響いてこない。

フランスという国は文化大国としてのスノビズムがある気がする。知性あるものが偉い。そういう点では日本と対照的だけれども、おかげで衒学的な作品が多くなっている(もちろん「ホンモノ」の書籍もある)。科学だろうと哲学だろうと需要があるから供給されるわけで、バタイユばかり責めるわけにはいかないが。

とにかく「文学と悪」が期待はずれだったので、少し欲求不満気味である。サイコパスという知見があって、それを踏まえて哲学をしている人はあるのだろうか?精神病理は哲学と極めて密接だけれども、みな統合失調症とか神経症にばかり目を向けている。サイコパスを基軸にした哲学はないのか。

ニーチェの言ったことは、人間の肯定であり、生の肯定である。これは数々の学者の指摘通り、ニーチェ固有の主張というよりは、反キリスト主義の域を出ていないが、それでも意義深い主張だと思う。われわれは人間である。地上に立つ人間である。天空を目指す必要はない。死後を想う必要はない。大地を愛せ。この生を愛せ。これがニーチェの主張である。

私たちが自己を憎み自己を罰しようと想うのはなぜか。それは西洋を支配している罪の意識ではないか。

私たちは、ときに不本意な悪行をすることがある。ある貧者が、おなじように貧しい者から、パンを奪った。私たちには彼を責めることができるのだろうか?彼は盗みをなぜ働いたのか。なぜ彼は貧しいのか。こういう風に考えることはできないのか。

私たちの、富や快楽や友情、おおまかに言って「幸福」は、どこにもっていかれているのか。こう考えるときに、キリスト主義は害悪である。ほんとうの認識を妨げ、思考を奪うから。同様にほとんどの宗教も害悪だろう。

悪が何によってもたらされるか。この点を明らかにしたいと思って数週間が経つが、参考になる書籍も何もない。次はローレンツの「攻撃」を読んでみようと思うが……。気になった本は何でも買えるということが、社会人になってからの強みである。

本来的に、悪を記述することは意識的/無意識的にタブーなのかもしれない。だからこそ、文学という形を取らなければならないのかもしれない。文学、それはたいていの人には恐ろしく退屈な代物である。一方で、それに夢中になり、人生の大半をそれに費やす人がいる。その意味では聖書や教典と同じである。

悪とはなにか。もっと肉的に言えば、「私を苦しめる者は何者か?」。もう少し調べてみたい。

4.13.2016

サイコパスと悪

私にはよくわからないのだが、人間に同情心があるとすれば、その人は悪にはならないと思う。同情心のある人間と、同情心のある人間との関係において、不幸になるとすれば、その不幸の原因となる悪は、どこにあるのか?それはその「あいだ」にある複合的要因なのか?それとも外部から、個々人の心に悪が植え付けられているのか……。

私は、善人、悪人という区分は、同情心の有無ということで片付けられると最近考えている。その意味は、ほとんど一般人とサイコパスの区分と道義である。これはいささか単純に過ぎると人は言うかもしれない。私もこの単純な構造に驚いている。善悪とは、こうも単純でよいのかと。

殺人犯が無罪ということはありえない。だから、人々は彼らの罪を認めている。でも、私には死刑に値する殺人者と、釈放すべき殺人者が区別できる。一方は、どのような環境によっても悪を振りまく人間であり、一方は環境や社会的状況が彼の良心を奪ったと考えることができるからである。私自身、ある環境に置かれたら人を殺すこともあるだろうと考える。そのような推察ができない人間は、未熟である。

サイコパスをまだ調べているのだけど、今日たまたま見たブログで、ギリシャ神話の「ゼウス」とはサイコパス的ではないのかという記述があった。
ゼウスも「全く反省しない。自分は生まれた時に被害を受けたという事を根に持っている。自分の事しか考えない。女性が心底嫌がっているのに追いかけて行ってしまうという節制の無さ。直ぐにキレて残虐な事をしても「それが良い事だ」と思い込む」という性格です。
もしかしたら、サイコパスは数千年も以前から「非常に迷惑だが、凄い。しかし、絶対に近寄らない方が良いので、神様にでもしておいた方が良いよ」という人が居たのかな?と思いました。(優しいだけじゃ生きていけない
この記述はニーチェのギリシャ人の記述といくらか通底する。
――「どうしてこんな狂おしいことが可能であったのか。どうしてそんなことがわれわれほどの頭のなかに生じてしまったのか。われわれ高貴な血筋の人間、幸福な人間、健康な肉体を持ち、高い水準に位置する、有徳な人間の頭のなかに」――数世紀にもわたってあの高貴なギリシア人は、自分たちの仲間の一人が犯してしまった悪行、どうしても合点の行かぬ悪行に直面するたびにこう自問したのであった。そして最後には、頭を振りつつ次のように答えたのである――「きっとある一柱の神が、あの男の気をふれさせたに違いない」……。こういう遁辞は、ギリシア人のあいだでは典型的なものである……。以上のような次第で、当時の神々は人間を正当化するために、つまりたとえ凶事においてさえもある程度まで人間を正当化するために役立ったのだ。神々は、悪の原因に解釈を与えるために役立ったのである。――すなわち当時の神々は罰を下すという任務を引き受けるのではなく、むしろより高貴なものを、つまり過ちを自分の身に引き受けたのである。(ドゥルーズ「ニーチェ」より孫引き)
すなわち古来、神とはそのような「縁遠い」「不可解な」生き物であった。人間と神は違う生き物である。現代では、サイコパスは「爬虫類人」などの暗喩として記述されることがあるが、爬虫類のような下等生物にせよ、神にせよ、人間からの距離性では同等である。すなわち「彼らは私と同じような生き物ではない」という認識が、古代においては一般的だったのであり、現代では陰謀論のようないささか滑稽な形でしか現出していないのである。

このサイコパスと一般的な人間との垣根を溶融させたのが「平等」の概念であると私は考える。つまり、どんな悪人であっても人権を有するということ――これは良いとしても、「人心」を有するということ、これを認めてはならないということに、人類はほとんど気づいていないのである。

私は会社において、サイコパスに苦しむ人々を見た。また私もサイコパスに苦しめられた。ところで、私が苦しむときには、つねにサイコパスの陰が見えた。いまは、部署からサイコパスが消えている。そのために、空気は朗らかになり、緊張がなくなり、あたたかみが戻った。私は、サイコパスを憎むことはできても、同情心を持った人を憎むことができない。彼らが苦しむとき、私も苦しく思う。でも、同情心を持った人が苦しむとき、その苦しみはつねに「不当」であり、強制されたものである。私はその苦しみの根源を探ろうと思っている。サイコパスが、その一端であるが、もう少し掘り下げてみたい。

4.10.2016

宗教による怨恨の転嫁。

司祭とは、怨恨の方向を転換する人間のことである。実際、苦悩する者はだれでも、その苦しみの原因を本能的に探し求める。さらに詳しく言えば、なにか生身を持って活動しているような原因を本能的に探し求めるのであり、いっそう正確を期して付け加えると、ある一人の責任者を、つまり彼もまた苦悩することがありうるような悪い人間を求めるのである。要するに苦しむ者は、どんな口実でもよいからとにかく自分の激情を、実際にそのひとに向かって、あるいはその「人形(ひとがた)」に向かって吐き出すことができるような生きた存在を探し求める。なぜならば、激情を吐き出してしまうということは、苦しんでいる者にもっとも効果的な鎮痛の試み、痛みを麻痺させる試みであり、あらゆる種類の苦悩に対してほとんど無意識的に熱望される麻酔剤であるからだ。私の考えでは、怨恨とか復讐とか、それに類するものなどの唯一の、真なる生理学的な要因は、このような点にのみ、つまり激情=情念という手段を通じて、苦痛を麻痺させようという願望にのみ見出されるのである。(略)苦しんでいる者はいずれも皆、恐るべき素早さで、また驚くほど独創的なやり方で、自分の苦痛の感情にきっかけを与えた原因を見つけ出す。彼らは、自分こそ誰か悪い人間の悪意や卑劣さの犠牲になっているのだと思い込み、そういう疑惑をあれこれこねまわしたり、穿鑿することでさえも、一種の享受の対象にする。彼らは自分の過去、および現在を、その臓腑の底の底まで掘り返して、なにやら暗黒のストーリー、秘密めいた物語を見つけ出し、そこで勝手に苦しい猜疑に耽る、という具合に自分自身の悪意の毒に酔ってしまうのである。――彼らはいちばん古い傷口も、荒々しく開き、もうとっくに癒えている傷痕からまで血を流させる。彼らは自分の友人や、妻子や、その他最も近しいひとびとを、悪者に仕立て上げる。「私は苦しんでいる。それは誰かのせいに違いない」――すべての病める羊は、こう考えるのだ。だが、そのとき彼らの牧人、禁欲主義的な司祭は、彼らに向かって言う、「私の羊よ、まったくその通りだ。それは誰かのせいに違いない。だが、その誰かとは、おまえ自身だ。おまえこそその苦しみすべての原因なのだ、――おまえ自身が、お前自身の苦しみのただ一人の責任者なのだ!」と……。この言い方は、ずいぶん大胆であり、ずいぶん間違っている。しかし、これによって少なくとも一つのことが達せられているのである。すなわち既に指摘しておいたように、怨恨の方向が――転換されているのである。(ドゥルーズ「ニーチェ」より孫引き)
でも私の敵は、「彼もまた苦悩することがありうるような悪い人間」ではないのだけど……。

悪について知ろうと思って、本を調べていた。そのまま「悪について」という邦題のE. フロムの本があるが、数年前読んだときには、あまり良い本ではなかった記憶がある。アマゾンを探していると、バタイユが私の期待に応えるような本を書いていた。「文学と悪」というタイトル。その冒頭には、「文学の表現するものとは、悪の極限の形態である」と書いてあるという。

確かに……文学の表現するものは悪である。これは、悪人、悪の組織が描かれるとか、そういうことではない。文学とは、ある人間の苦悩を描くのだが、その苦悩の原因は、悪なのである。文学には、多かれ少なかれ、悪が表現されているのであり、おそらく読書好きであれば、文学という秘密の教義を通じて、悪の概念を浮かび上がらせることができるのではないかと思う。そう、宗教は、悪を見えなくする。特に大衆向けの宗教は……。しかし文学は、悪を描くことができる。この点で宗教と文学は対照的である。

真正面からこの「悪」について、調べ、研究することができるということは、私にとって喜びである。おそらく、私の知識が十分でなかったときには、悪を見抜くことができずに、上の「宗教」にしたがって、苦悩の原因は「私自身」だとしていただろう。

私の知識も、ずいぶん熟成してきたような気がする。知ることは楽しい。私は、本と酒さえあれば、どんなところでも生きていけるだろう。また、少しの苦悩も、知性には必要だ。



それにしても、昨日の猫が私にとってどれだけ救いになったかわからない。彼らは、私の苦悩を理解しているのかもしれないと思った。私は、ふつうの人々よりも深く苦悩を抱いて生きている人間であるが、それゆえかは知らないけど、動物とか、ものがしゃべれないくらいの子どもには、何かと好かれるのである。例えば、親がどんなになだめても泣き止まない子どもを、私が見つめると、子どもは泣きやむ。子どもは私の目を興味深げにじっと見つめるのである。猫も、子どもも、目で見つめ合うと、おそろしい量の情報が入ってくるような気がして、私は少し怖くなって、目をそらしてしまうのだが。

おそらく、言語以前の子どもや動物であれば、私の目が何を語っているのか、わかるのではないかと思う。私は、世人から疎まれるたいへん孤独な存在だけれども、まやかしにとらわれた人々以外には、私の苦悩が理解できるはずであり、それは人類というか、全生物共通のものであるだろう。

ゾウたちは人間がゾウを見るよりもずっと長く 人間を見てきたのです 人間がゾウを知るよりも良く ゾウは人間を知っています 私たちには同じ使命があり 子供の面倒を見 食べ物を見つけ 生きようとします アフリカの丘を 歩くのに向いているか 海中を泳ぐのに向いているかといった違いはあれ 基本は同じです 一皮むけば 私たちは似通っており ゾウの骨格も シャチの骨格も 人間と同様のものです 助けが必要な者を助け 子供は好奇心が強く 家族の間には 絆があります 愛情を見て取れます 求愛行動も共通しています(TED:カール・サフィーナ「動物は何を感じ何を思うのか? 」)


今日はずっとゲームをしていた。スーパーに行って、ワインと、輸入チーズと、ピザを買ってきた。ベジタリアン――ではなく、鳥獣の肉食を禁じるという生活は続けているけど、そうなると食べるものがほとんどなくなってしまうことに気づいた。しかしそれだけ野菜を食べるようになった。小ぶりなブロッコリーとにんじんの輪切りを塩ゆでして、マヨネーズで食べると、ほんとうにおいしかった。ヴィーガンだと、マヨネーズも使えないのか、と思うと、彼らの食生活はどうなっているのだろうと思った。

私の周りで「ベジタリアン」なんて見たことがない。せいぜいネットでベジタリアンを見つけるくらいである。私は、別に「信条」というほど肉食を禁じているわけではない。ようは、健康に悪いし、金がかかるし、スーパーの肉はまずいし、それに「なんとなく不快」だから、可能な限り避ける、というだけだ。ここはバートルビーの「それをせずにすめばありがたいのですが」というレベル。

学生のときは、たらふく肉を食べたくてしかたなかったけど、肉は魚と比べて高かった(半額になりにくい)から、魚ばかり食べていた。また、肉野菜炒めや唐揚げは、学食でも高かったから、サバや塩鮭ばかりをおかずにしていた。就職して金銭的に余裕が出てきて、いざ肉が好きなだけ食べられるようになっても、あまり思い描いたほど、肉食は楽しくなかった。年齢のせいかもしれない?小学生くらいの頃は、インスタントラーメンが大好きでしょうがなかったけど、今はそうでもない。

なんだかくだらないことをたくさん書いた気がする。明日が仕事と思うとつらいが、私は運命に身を任せ、執着なく、超然としていたいと思う。

4.09.2016

猫と海と

職場で浮き始めた私だが、そこまで心労にはならない。いつものことだ。かつてそうだったし、これからもそうである。

人間であるということが成立しがたい社会である。狡猾な人間に、田舎の凡愚は道具のように利用されている。私には彼らを使役する手が見えるけど、それを指摘することはしない。私ができることは、ただ離れるだけだ。私はだれかになにかを諭すことはできない。生まれつき、しゃべることが苦手なのだ。それに、だいぶ込み入った話であるし。

またヴェイユの「重力と恩寵」を読んでいた。
悪が清められなければならない――そうでないと、生きていくことは不可能だ。ただ神のみに、このことができる。これが、『ギーター』の思想である。また、モーセやマホメットやヒトラー主義……の思想である。だが、エホバやアラーやヒトラーは、地上の神々である。かれらが行う清めは、想像上のものである。
そう、私もギーターを読んで、悪が清められる――魔性の胎に抛擲される描写に、興奮したものだった。おもえば、西洋思想って悪に対しての記述が少なすぎるのではないか?美、真、善ばかり追い求めてる間に、悪に蝕まれている。
罪のない人が苦しむとき、その感受力には、いわば、犯罪が感じとられているのだといってもいい。真の犯罪は、感じとられるものではない。罪なくして苦しむ人は、自分を苦しめる加害者の真の姿を知っているが、加害者の方は知らない。罪のない人が自分自身の内部で感じとっている悪は、加害者のなかにあるものだが、加害者の方は、自分の中にそれを感じとっていない。罪のない人は、ただ苦しみとしてだけ、悪を知りつくすのである。犯罪者において感じとられていないものが、犯罪なのである。罪ない人において感じとられていないのは、自分に罪がないという一事である。
罪なき人こそが、地獄を感じとることができる。
この世の中には、地獄を感じるひとと、感じることのないひとがあるだろう。私も、田舎の凡愚も、地獄を感じることができる。ただ、彼らは使役されることによって、私を攻撃することによって、たしょう「楽に」なっている。彼らは罠にはめられているのだが、そのことには永遠に気づかないかもしれない。
純粋さは、それが純粋さであるかぎり、すなわち、どんな暴力もその純粋さを少しでもくもらすことができないという意味において、絶対に傷つけられることのないものである。だが、悪におそわれて苦しみをなめさせられ、どんな罪に触れられてもそれがみずからのうちで苦しみに化するという意味では、何よりも傷つきやすいものである。
悪が侵すのは、善ではない。善は、侵すことができないものだからである。ただ、堕落した善が侵されるにすぎない。
私には、だいぶはっきりと善人と悪人を見てとれることができるようになった。私を攻撃する人間は、善人も、悪人もいるが、善人が私を攻撃するときには、私は彼らに自由が与えられておらず、罠にはまっており、使役されているのだ、と思うことにしている。私には善人を憎むことはできない。しかし、また善人を味方につけようとは思わない。私は、とにかく逃げることばかり考えているのだ。そしてそれが最善なのだ。

またいつもの公園に行って、猫を愛撫していた。猫は、だんだんと愛想がよくなってくる。今日は私の膝に乗って、前足をぐーぱーしていた。猫の重さと体温を感じながら、海を眺めていた。いまのところ、猫と海と世界が私に味方している。そう考えると悪とは些末なものである。

4.07.2016

スケープ・ゴート

部署にいたサイコパスがいなくなってから、私はどうなったかというと?

なぜだか、私は職場で悪者にされているらしかった。いわく私には、責任感が欠けており、協調性がなく、勤労意欲がないということだった。その訴えは、職場の同僚から上司に通告されたらしかった。たしかに、職場で同僚がばたばたしているときも、ニーチェを読んでいたりしていた。なぜなら仕事の指示がなかったから。あとは憂鬱が耐えられないときは、ぼんやり手の平を見つめたりしていた。

私はこのことを、やはり無責任にとらえている。私は賃金労働者であり、雇用契約書に結ばれた以上のことをしようとはしなかった。私は仕事が与えられなければ、待機時間として、暇をつぶしていた。

それでも私は、言っておくが、入社以来忌引き以外の休みを取ったことはないし、早退はゼロ、遅刻も数分程度が数回、といった具合である。仕事の指示はほぼ忠実に遂行したし、バートルビーのように「せずにすめばありがたいのですが」とやんわりと拒絶することはなかった。まずまじめな勤務態度といって問題ないはずである。

私は彼らが向ける私への憎悪はどこからきているのか、知ろうと思った。また、彼らが身を粉にして働き(働かされ)、魂と生活と人格を捧げ、そのことは勝手だが、その理不尽さを経営者や管理職ではなく、私に向けるのはなぜだろう、と思った。

彼らはなぜ「そうせずにはいられない」のか?という点を調べていくと、私は経営者でもなく、現在の国家でもなく、その原因が明治政府にあることをそれとなく突きとめた。日本人が勤勉な人間に「教化」されたのは明治政府の政策によるところが大きい。それまでの日本人は、多くの外国人やいまの私と同様、ぐーたらだったのである。

だから、残業代も出ないのにモーレツに働いている人間がいるとして――私はほとんど18時に帰っているのだが――私に憎悪を向けるのはまず間違っていると彼らに教えてあげたい。少なくとも君たちが苦しんでいるのは、私が仕事をしないからではなく、管理職の仕事の分配がおかしいこと、経営者が君たちの労働力を搾取していること、国家が君らの隷従を黙認あるいは推奨していること、さらにもっといえば、「勤勉」を教化した明治政府にあるのだ、と教え諭したいのだが、経営者がどうこうはともかく、「明治政府」なんて言葉を出したら狂人のように思われるだろうからやめた。私はぼんやり黙っているだけだった。

知識もある程度概念が統合されてくると、ほとんど詩的表現や狂気と変わらなくなってくる。だから知識人、というか、知への愛好がある人は、なにか意思表現をしようというときには、ひどくどもらなければならない。高度の知が秘密になっていく原因には、まず羞恥があるのである。

しかし教養がないとは残念なもので、目の前の「都合のいい」敵を作り上げ、それを血祭りにあげることで、みなが溜飲を下げるということがままある。ユダヤ人虐殺にもっとも情熱をささげたのは中産階級の下層である。こういう人々はほとんど目の開ききっていない子どもと同じである。

この会社組織は、つねに敵を探しているように思われる。だれもが不当な搾取に、心を削られている。代償を求めている。そこでより弱い人間、より「都合のいい」人間、というわけである。もっと、広く、自分を苦しめている原因がなにか、彼らは探ろうとしないのだろうか?

私は今後どうしたらいいのかわからない。嫌になれば辞めればよい、とは考えている。もし私が矢面に立つことがあれば、私は自分の正当性を主張しなければならないだろうが、裁判官を前にしたムルソーのような「不条理」な弁論になることは目に見えている。私にはムルソーの主張こそ真理そのものなのだが。

疲れ切ってしまう前に、辞めてしまいたいとは考えている。貯えは十分にあるから、首になるなら楽なのだが、経営者はどうもそうは考えていないらしい。


私はなんとなく、前のサイコパスの振りまいた毒素によって、彼女が退職したあとも、その感染者に攻撃されているような気がする。サイコパスという生き物は、一度かみついた対象は、骨まで砕いてやりたいのかもしれない。悪の発生源は、一度なくなったのだから、時間が解決してくれるだろう、となんとなく思っている。

4.05.2016

ソショカー

暗い、冷たい、苦しい、つらい、というような言葉が私のあたまを支配しているのであり、この陽気な春の日光の下で何事かと思うくらいであるが、参ってしまうような日々のなかで、自分の精神の瓦解を防ぐことができるよう、食いしばり堪え忍ぶような毎日である(これらの言葉は、一歩一歩あるくごとに、あるいは脈の音に合わせて、頭に浮かんでくる。憂鬱はリズムや音感と関係があるらしい)。

他者と比べれば私は金をもっており上等な家に住んでいるがこれがいったい何を意味するのかわからない。彼らは私よりもっと搾り取られている。私から見ればまったくよくそんな状態で生活できるな、と思うときがある。しかし私だって、吸い尽くされていることには変わりない。どのように私の生気が蝕まれていくのか?私の体のエネルギーはどこへ流出していくのか?私は両手で水をつかむような気持ちになる。私はどのようにしても蒸散してしまう悲しいモノを眼前にした気持ちになる。

環境整備ということ、身の回りの生活についての根本的な情動の欠落があるらしく、「うまく生きる」ことができないでいる。実際「うまく生きる」ことこそ、現代では至上命題と言えるだろう。私は対人関係を継続的に維持する能力がないし、また生活における単純な作業ができない。それは支払いや契約などの手続きであったり、買い物や掃除などのきわめて基本的な作業なのだが、私にはこれらができない。電話をとることすらできない。仕事をして、酒を飲んで、寝る以外に、もう何もしたくないというのが実際である。

それにしても料理というのは気分がよいもので、今朝も早く起きてしまったから、トーストにバターを乗っけて焼いて、卵を二個割り、目玉焼きをつくっていると、やわらかなあたたかい気分になった。

食事に一種の毒素がまぎれこんでいるかもしれないと思った。食事も「あいだ」のひとつである。われわれは毎日のルーチンで、特段何を食べるかとかは、あまり意識しないものである。実際、食べ物が身体をつくるのだから……精神も身体がつくるのだから、またちょっと気を遣ってみようと思った。

それで、やはり野菜をたくさん採ることが大事なのだと思った。それと、肉を絶ってみようかと思った。最近精肉工場の画像を見て、おぞましい、と思ってしまった。スーパーで陳列されている肉はなんと清潔なことだろう!それは一個の生命であったのに。おぞましい、痛々しい、と思って、やはり同じ哺乳類であるから、同族の肉を食べるのは控えようと思った。

ベジタリアンになろうというのではないけども、牛肉、豚肉、あとは鶏肉も控えようというのである。ただ魚は食べるし(野菜ではご飯がすすまない)、乳製品や卵も摂ろうと思っている。まあ、つきあいで肉を食べることはあると思うが。胃腸への負担の軽減なるし、悪性腫瘍や成人病の防止にもなるだろう。

それにしても、人間はなにかを試みなければならない生き物のようである。生活の、ささいな変化に、とりすがるような、哀れな男である。

4.04.2016

「あいだ」を見つめる

木村敏の「自分ということ(ちくま学芸)」を読んでいるが、それによると「自己あるいは自分とは、私の内部にあるものではなくて、私と世界との、総じて人と人との「あいだ」にあるのだ」ということである。

このことについて詳細に説明する能力は私にはないが、なんだかいろいろ腑に落ちるところがあった。すなわち、私はある対象によって苦しめられることがあるけれども、これは一般的な「加害」「被害」のモデルでは説明不可能な部分があるのだが、この「あいだ」の概念によって説明可能になるのである。

例えば「いじめられっこ」と「いじめっこ」の関係があるとする。二人を結びつけるのは暴力や攻撃、侮辱などの「いじめ」の関係である。さて、この「いじめ」の原因は「いじめっこ」にあるのか?「いじめられっこ」にあるのか……。これは、よく話題にあがるテーマであって、「いじめっこ」が悪いという主張が一般的ではあるが、ときに「いじめられっこが悪いんだ」という主張があり、わりとどうでもいい論争が起こされたりする。

ここで、いじめを生じさせているのは、双方ではなく、「あいだ」の問題なのだ、と考えることが可能であると私は考える。「あいだ」とは、必ずしも「いじめられっこ」と「いじめっこ」とを結ぶ一本の線ではない。それよりも、「いじめられっこ」の環境における関係と、「いじめっこ」のそれとの複雑な関係性の結果として、「いじめ」という現象が表出するのだと私は考える。

この「あいだ」とは、いささか構造主義に似た感じになるけれども、ようは切り離された意味での「個人の意志」「個人の自我」は存在しないということである。これは、西洋の伝統的な価値観である自由意志の(一時的な)否定である。たとえ「いじめっこ」が、「私は、彼をいじめたいと思った。だから原因は私にある」と言ったとしても、それは「便宜上」は都合が良いのだろうが、ほんとうに論理的正当性があるとは考えにくい。

実際、現在の司法制度などは、この「便宜上」の理由により存在していると考えてもいいだろう。例えば劣悪な環境で育てられ、親に虐待を受け、貧困や暴力など社会的な抑圧下で育った子どもが、成人して犯罪をおかしたとする。この場合、彼は「悪い」のだろうか?彼は罰せられるべきか?現在の司法制度ではYesである。犯罪者を野放しにすることは公的に不利益だからである。しかし理性的な人間であれば彼にすべての責任を負わせることには抵抗があるだろう。このあたりは社会学でよく言われる「正当性justness」と「正統性legitimacy」の違いと考えても良いかもしれない。

われわれはhumanであるよりも「人間」であり、ある対象に意識を向けるよりも、その辺縁、一見なにもない辺縁を見つめることによって、より高次の認識を得られるのではないかと思っている。

というわけで、私はたびたび会社に違法な無賃労働を強いられ、また健常な性欲がありながら性交にありつけないといったような(まあ昨今の男性にありがちな)疎外感やフラストレーションを味わっているわけだけれども、その原因を例えば「経営者が悪い」「女が悪い」などと考えることは正しいわけがなく、そういった「不幸」の原因はいったいどこから沸いてくるのか、ということがここ数日のテーマである。

4.03.2016

根っこ

冷たい、暗い、寒い、悲しい、などのネガティブワードが、私の頭のなかを踊っている。毎度のことだがまた憂鬱病がぶりかえしたらしい。というか、私は自分が真剣に鬱病なのではないかと思うときがある。ただ、酒を飲めばある程度気分が楽になる。今日はまだ明るいが、もう、ビールを飲んでいる。つまみは、うずらの卵の燻製だ。

鬱病が炎症性疾患なのではないか、という新説があるようである。脳内神経伝達物質、セロトニンやノルアドレナリンがどうとかは、実は仮説でしかない。ただ薬でセロトニンの再取り込みを阻害(ようはセロトニン濃度を増やす)してみると、鬱病が改善した、というだけである。それがなぜか?はいまだ解明されていない。

炎症性疾患という説明は、なんとなく理解できる。ようは抑鬱状態はひどい風邪のときに似ているのである。何もする気が起きない、頭がぼんやりする、思考が滞る。

炎症は免疫反応であり、外部の細菌などに対して人体が引き起こす防御反応である。そう考えると、鬱病とは個人の脳の神経学的な問題というよりは、外部の存在による侵害という要素を考慮する必要があるのではないかと思う。通常の炎症は、外部の刺激がなければ通常は起きない(「自己免疫疾患」はあるにせよ)。

まあ、私が言いたいことは子どもじみたことでしかない。鬱病とは、たぶんだれかが持ち込んだ毒素によって発病しているということだ。だから、鬱病の人間には、「あなたは悪くない」「あなたが正しいんだ」と伝えてあげることが大事なのだと思う。

だいたい、勝手に、何もないのに悲しい気持ちになるということは、ふつうないのである。私は思うのだが、人間は、本来は幸福な生き物である。ほかの哺乳類動物と同様。少なくとも、私のように「暗い、冷たい、苦しい」などと考えてしまうのは、異常な状態である。

この世の中が、暗く、冷たくなってしまったのはいつからなのだろうか、と考えている。私に憂鬱をもたらすものはなにか?と考えている。

鞭うつ者

なんだか少し気負ってしまい、書いては消して、書いては消してを繰り返してしまった。たいしたことのないブログだから、たいしたことのない内容で良いのだが。

休みを一日だけとって、祖父の葬儀は出席した。私の社会性のなさには自分で驚いてしまった。こういう儀式は、苦手だ。ただ以前より、親戚の連中と話すことは苦ではなくなった。会話の技術は身についたということだろう。

往復1000km、深夜の高速道路を、トラックの間をくぐり抜けるように帰ってきた。深夜の高速に、トラックがあれほど走っているとは気づかなかった。

日本の高速道路は、世界一だと思う。日本の道路ほど金のかかっている国を私は知らない。みすぼらしい家の前でも、ぴかぴかに舗装された道路があるし、一日何台も通らないだろう林道でも、きっちりメンテナンスされている。おそらく衰退していくだろう日本で唯一すばらしいものが道路であり、また衰退の原因も道路なのだろう。

日本がこの先どうなるかはわからないが、私の身近な生活を顧みて、これからも貧しくなるだろうことはわかっている。私も、私の周りのひとびとも、なぜこんなにも不幸なのかわからないが、おそらく貧困が原因なのだろう。

ひとびとが、17時には退社して、おのおのの時間を楽しむことができ、また、日々十分な金を使うことができれば、おそらくここまでの不幸は生じないだろうと思う。そのような環境であれば、強いて働かせるための洗脳、ドグマ、暴力のシステムも不要なはずである。ひとびとは自発的に、自然に働いてくれることだろうと思う。

日本人がはたらきすぎになったのは、明治以降だと言われている。ものの本によれば、1930年頃ということである。いまや世界に認識された「勤勉な日本人」というモデルは、歴史としては浅いのである。

私も、日本人以外の大多数の人間がそうであるように、怠け者で、努力をしたがらない人間である。少なくとも、賃金労働に熱意を抱かないタイプである。だから、この世はどうにも生きづらい。

私は怠け者だが、人間とは怠け者であるべきである。十分に食料があり、安全が確保されれば、動物たちはどうなるか。怠惰の極みを尽くすはずである。それが動物の自然な姿というものだ。

われわれは日々、つねに鞭を打たれているのである。ほとんどの人はそれに気づかないが……。

私に鞭を打つのはいったい何者なのか、それを私は考えている。それは直接的には私の同僚であり、上司なのだろうが、もっとその根っこを探りたいと考えている。