5.30.2016

ノンフィクション作家のおじさん

昔読んだ本を再度読んでみたが、なんだかくだらなくて読めなかった。

哲学書とか、思想書にしてもそうである。何か論理の持つ領域に失望のようなものがある。このような態度が行き着くところは神秘主義である。ひとことに神秘主義というと、ヒッピーのようなイメージがある。それは限局的な特殊な、ある例外的な文化である。

しかし実際のところ、神秘主義の担う領域はロゴス外のカオス全域である。ゆえにその範囲はまこと浩々たる世界と言わざるをえない。ショーペンハウエルなどはわれわれは不幸の海に浮かぶ一隻のボートのようなものだとしたが、理性的領域ロゴスとはまさしく一隻のボートであり、カオスは大海である。神秘主義とはこのひろい領域を扱うのである。

われわれの能力がはるか及ばない深く黒い大海を悲観的に思うことができるし、また一方でニーチェのようにあえてそれを肯定するということもできるかもしれない。ニーチェの思想は一個のマッチョイズムである。われわれは苦痛に耐えてこそ強くなれる、より優れた人間になれるというのがソクラテス以前のギリシャに憧れたニーチェの考えであった。

ソクラテス以降、真理は理性と結びついてしまった。つまりカオス的領域を排除した、アポロン的領域こそ真理であるという考えが広まったのである。ほんらいソフィストは、カオス的領域も重んじた。それは理性よりも心の領域であった。それを迷妄だとして、ソクラテスは喝破した。それは実際「正しかった」が、いくぶんか「間違っていた」。なので、ソクラテスが国王に処刑されたことにも、正当性はあったのである。真理が女だとすれば?とニーチェは言うが戦士的人物、マッチョこそ真理に近しいのかもしれない。なよなよした理屈屋に女はなびかないからである。



旅の準備を進めている。旅の道具をそろえている。とりあえず、カナダから南米へ下る。そこから汽船でオーストラリアという旅程を考えている。ビザとか、国際免許の関係がわからないし、南米からオーストラリアへ船が出ているかわからないのだが。まあとりあえず米大陸を今回は行ってみようと思う。気が変わったら、ヨーロッパ~アフリカだろうか。

旅に出ることを周囲にそれとなく伝えているのだが、海外に移住している人をいろいろ紹介してもらえることが多い。私のように、日本で生きづらいと感じるような人は、思ったよりたくさんいるらしい。

旅に出ると言っても、1年以内には戻ってきて、それから転職ということになりそうだ。結局、社会のしがらみを免れたわけではない。新しい会社は、日本各地を回れるとのことであり、私のように気ままにあちこちいける人間は重宝されるらしい。収入も、今の収入よりずっといいとのことである。今でさえ、ふつうの同年代の倍くらいは貰っているのだが。

金銭的成功を得ても、それが必ずしも幸福とは思わないが、しかし金があればあるほどよいということは言えるだろう。その点私は清貧を説きながら金を蓄えたセネカに味方する。バイクでの海外旅行にしたって、金がなくてもなんとかなるだろうが、金があればずっと楽になるのである。

ただ私のいままでの願望をどうするかということがある。ひとつに文筆家になりたいというような夢があった。私は詩人としての才能を自分に感じることはあるけれど(少なくとも平均人よりは)、でもたぶん世間的に成功するような文筆家にはなれないと思う。キャッチーでない。堅くるしくて人好きがしない。うまくもないし、うまく書こうという気がない。

私は楽器をやるが、これも同様である。私は自分の楽器を、自己流で勉強している。ある程度は上達するが、そこでとまるのである。もちろん、続けている限りはうまくなる。しかしそこからは、より上級者の指南とか、コンサートなどの公開の場がないと上達しない。ただ私はこのふたつとも嫌いなのである。

そういうわけなのでだらだらと趣味で続けるのがちょうどいいのかもしれない。私は自分が村上春樹のような売れっ子になる画が想像できない。かといって貧乏小説家になるのも嫌だ。生活を犠牲にする気はない。それに、小説自体が嫌いだ。文章家って、だいたい小説家でしょう。私は小説をほとんど読まない。古典なら読むけど、今どんな小説家がいるかは村上春樹くらいしか知らない。その春樹すら読んでいない。

バイク旅行の冒険譚を書いてこれを電子書籍として出版するのがなんだかちょうどいいという気がする。これはおもしろそうだ。今と同じように日常をつづるだけだから気負う必要もないし、後進があれば一定のニーズもあるだろうし。ふーん、ノンフィクション作家という道もあるのか。

5.28.2016

猛獣の爪

孤独の冷たいような感覚が消え失せている。持続的な愛情が私から創造を引き離している。「あなたの孤独のなかへいきなさい」とツァラトゥストラは叫んだけども、孤独であることによって、ひとはたしかにある部分を肥大させることができる。それは「近代的自我」と言うべきものである。

創造は、孤独とセットである。孤独は不幸と同義である。また、不幸は現実と同義である。ゆえに、現実に生きるということは、不幸を生きるということである。動物は、現実を見ない。現実に生きるヒトにとって、動物は夢を見ているように見える。愚鈍、痴愚、凡愚、それらが動物を表す言葉である。

日本人もまた、動物であった。それがゆえに、西洋の人間中心主義に触れた日本人は、「我々が木々や岩よりも偉いなどとは、不思議なことだ」と述べたのである。

言葉――現実とは、言葉である。「はじめに、ロゴスありき」。我々の現実は、言葉によって拓かれた。このことの意味は、不幸も言葉によって発明されたということである。

非言語的な領域――とは、非科学的な領域である。説明したがり屋の科学は、あらゆるものを言語によって分解・処分した。さらに「近代精神」は、それをあべこべに組み立てることさえした。

言葉は人間をも支配した。初めに言葉があったのなら、人間は副次的なものである――言語は、人間よりもずっと神に近い。これがプラトン一級の詐欺である。

あえて「創造者」になろうというのなら、現実と不幸が用意されている。その道も良いものかもしれない。幸福を目指すのであれば、凡愚になることである。凡愚も、決して悪いものではない。

もっとも、近代精神は叫ぶ。「凡愚になるな」と。安心して夢を見ている動物を、鞭でたたく真似をする。彼らはつねに我々の邪魔をする――多くの人間を、不幸に引きずり込みたいのだ。そうして、不幸のなかでa little betterな自分に満足したいのである。

あらゆる人間が、人間的な営みを持っていることは、驚くべきことである。私は、ヒトはずっと動物に近いのではないかと思っている。動物としてのヒトを、観察したいと思っている。これは科学的視点である。科学の究極的な目標とは、科学によって、科学の消滅を果たすことではないかと思っている。

5.25.2016

旅の計画2

旅の計画を立てているのだが、海外バイク旅の本など読んでいると、そこまで難しいものではないという風に思えてくる。インターネットのない時代であれば、それこそ「冒険」なのだろうが、ある国から隣国への移動などは、確実にネットに情報が転がっている現代においては、まず失敗することなどありえないように思える。

となれば、旅それ自体を目的にしようとか、世界一周を目標にする必要はないということである。私はそういったことに、あまり興味がない。私が感心を持つのは、私自身の思想とか、知識を深めることである。私が知りたいのは、世界のどこそこに何があるということではないし、どこの飯がうまいかとか、どこの景色がすばらしいかということでもない。

それよりもずっと――善と悪との戦いが、異国ではどのように行われているのか、とか。異国の権力構造が、どのように構築されているのか、とか。私のような人間が、どのようにして月日を過ごしているか、とか。国家が、国が、人と人が、月と太陽が、草木が、どのような体系で維持されているのか?そういったことを知りたいと思っている。ずっと抽象的で普遍的な領域を知りたいのである。中二病のようだが、これらの答えを見つけることが私にはたいへん重要のように思える。だから、旅に出てああ満足した、楽しかったと白痴のような笑みを浮かべることは避けたいと思っている。そんなことにはあまり意味ないからである。

私は自分の旅を、だれそれに見てもらいたいとは思わないし、私は他人を感動させる気がない。旅の目的もあまり多人数に理解されるものではないと思っている。だから、私の旅は依然として孤独だし、マージナルであると思う。

「とりあえずの旅」の期間は、半年程度を見ている。先人たちに比べれば、ほとんど短期間と言っていいくらいだ。帰国してから、また働いて金を稼ぐ予定である。どうしても旅をしなければならないという気はない。旅を続ける気も、あまりない。旅に倦めば働けばいいし、働くのに倦めば旅に出ればいいと思う。とにかく、欲するがままに何事も行いたいのである。

5.24.2016

旅と仕事と

旅の構想を立てていて、それは大変楽しみに思える。

一方で、大企業の重役から仕事の紹介があって、それもまた楽しみに感じる。田舎の小企業で仕事をしているだけの私が、重苦な仕事に耐えるだけだった私が、とある「つて」を通じて、それなりに評価され、好待遇の仕事を斡旋してもらえるとなった。一個の成功談と言えるだろう。その仕事は、全国を転々とするために、一戸建てでのんびりというふうにはいかないが、いまよりも刺激的で楽しいものになると思われる。給料もいまよりずっとよく、労務管理も徹底している。8時間以上働く必要もないということだ。

そのオファーを蹴って旅に出るのか、それとも転職を経験してから旅に出るのか?ということを考える。私はまだ27歳だから、とりあえず――転職して労働者の生活を続け、それから旅に出るというのも悪くない。旅の資金というか、全財産がいま300万円あるのだが、半年働いて500万円くらいに増やせば、まず金には困らない旅ができるだろう。地球2周くらいはできるかもしれない?

それとも、折衷案として退職から2,3ヶ月だけ猶予をもらい、その間旅をして、帰ってきたら就職という形が良いのかもしれない。数ヶ月間でも、十分旅はできるものだ。時間に急かされる旅にはなるだろうが……。東南アジア~オーストラリアルートか、米国~カナダ~南米というルートを堪能することはできるだろう。

金があるということ、しかもそれなりに潤沢にあるということ……これが信じられないでいる。いままでの私は、つねに金銭的に困窮していたからだ。長く使うものだから、2万円のブランド品のバックパックを買ってしまおうと思うし、Kindleを躊躇なく買うことができるし、3000円の十徳ナイフとか、同じくらいの値段のコッヘルやバーナーを、スナック菓子でも買うかのように買うことができる。今までは、金を貯める一方だった。これからは、使わなければいけない。300万円を、いかに使うかの勝負だ。

それにしても、あんがい旅行に金はかからないのかもしれない?飛行機代は、せいぜい数万円。なんと言っても、これにいちばん金がかかるものだ。それ以外では、滞在費なんて、ほとんどかからないのではないかと思われる。治安が良い先進国では野宿をし、それ以外では安宿に泊まる。一日の滞在費は、どれだけ多く見積もっても5000円以上にはなるまい。ということは、100万円あれば200日間はいけるし、感覚的には一年間は簡単に滞在できるのではないかと思う。

バイク旅行はイニシャルコストがかかるけど、タクシーや飛行機代などの移動費を抑えることができる。とにかく、何年か前のアジア旅行でのタクシー交渉には辟易とさせられた。運転手と揉めて、金を投げつけて渡すということもあった。それに、時間に追われるのが嫌なので、飛行機や電車の時間に神経質になったり、それに急かされたりするのが苦痛でしかたない。

そういう煩わしさから解放されるのはありがたいし、そもそも「歩く」という行為が、私はあまり好きではない。歩くのが嫌なために、駅に近い比較的割高なホテルに泊まるということがあった。バイクであれば、その点は解消されると思われる。以上のようなことを考えてみると、移動がバイクになってもそこまで旅行コストが割高になるということもなさそうである。

こういったことから、金にはあまり糸目をつけずに旅しようと考えている。転職先を決めてから旅に出るのか、それともいきなり世界一周などしてしまうのかわからないが、現実的には前者になるのかもしれない。結局、私はつまらない人間であるということだ。何もかも捨てようという気にはなれない。まあ、段階的に行こうと思う。数ヶ月は旅にでる。それから、就職する。その仕事を辞めたら、最後にはまた旅だ。

今は旅の準備が、楽しくてしかたない。アウトドア用品や、ガジェット類が進化している。荷物をいかに軽量コンパクトにまとめるか?ここで旅人としてのセンスが問われるものだ。

5.22.2016

男の子と女の子

私はね 本当にね 日本の男が元気がないと思うの もっともっと自分のやりたいことをやりなさいよって言いたいの それからね 今日女の方が割に多いから言うんだけど 女の方がね 男の子がなんかちょっとやりたいんだけどなあって言えないでいるときに あらそれはいいわねえって言ってあげればね みんな元気になるのよ 男の子が元気でないと女の子はつまんないの 何かやりたそうなときにね けしかけてあげるのよ ああそれはいいわね ああすごいって言ってあげればどれほど元気になりますか それで男の子が元気になったら 女の子もっとずっと嬉しくなるのよ やって けしかけてね もっともっと男の子を男の子にするんですよ そしたら楽しいよ 両方とも良くなるんだから(岡本敏子 テレビ番組にて

最近は、職場の女性に振り回されることが多くって、あまり自己沈潜の時間が取れないでいる。例えば何か書き物をしたり、旅の予定を立てたり、本を読んだりということができないでいる。たこ焼きパーティをしようとか、夜遊びをしようとか連れ回されて、それでいて、私は不満足に感じないのだからこれは大いなる変化である。

今日は某大会社の重役という女性と、その職場の女性と三人で飯を食べた。重役は、私が旅から帰ってきたならば、仕事を紹介してくれると言っていた。私の人格を信頼して、社長に頼み込んでみるという。重役は、明るく、品があり、また信じられないくらい金持ちだったが、しかし私は考えてから答えますとだけ言った。その仕事は、今の仕事と似たようなものだが、今より楽で、1.5倍くらいの給料がもらえるらしい。ただ、やはり私は、いろいろなことを学習したいし、雇われという立場が苦手である。

求めない時期に、かつて求めたものが現れる。旅に出ようという段取りになって、友情とか、良い職のあてとか……。

でも、私は、私を連れ回す職場の女性に、良いように振り回されているような気がしてならない。私は好き勝手に振り回されるけど、しかしそれが心地よいので困っている。重役との食事だって、その女性がいなければなりたたないだろう。なにしろ、私自身が会話が苦手だからである。

彼女が、私のどんなところを好んでいるのかわからないが、とりあえず彼女のおかげで生活が好転しそうだし、この友情は永続しそうだという気がする。だから、私は恋愛感情に発展しないよう注意深く接している。恋仲はつねに激しい離別の苦しみをはらんでいるからである。

私が心を許せるとすれば、自殺未遂をして職場から去ったホスト上司と、彼女くらいのように思う。人間に対する信頼を回復できたのは、この二人に依るところが多い。友情とか、信頼という言葉を知っただけで、世界がずっと明るくなり、肯定的に見られるようになった。これは、私の個人的な思想も、根底的にくつがえす働きを持っている。

彼女は「人を見る目が生まれつきある」のだという。彼女にいわゆる教養はないが、実際下手な心理学者や精神科医よりも的確に人格を見抜いている。女の直感力という奴か?私も彼女の目によって、見抜かれているのかもしれない。

旅のその先を考えてみても、よくわからない。仕事の当ては、いくらかあるけれど、結局日本で生きてゆくのか、あるいは海外で暮らしていくのか、これがわからない。まあどうとでも生きていけるという自信があるが、私はもう現世における成功とか、失敗に、あまり左右されないような心持ちになっている。もう、私はいろいろと学び尽くしたように思う。旅に出る前から、そうなのである。だから、いつ死んでもいいという実感が、なんとなくある。死は普遍的であり、避けるべきものではない。

今日は久しぶりに書いた。昨日も書いたのだが、パソコンの調子が悪くなって全部消えてしまった。書くことは、どういう形であれ私のライフワークであるように思う。

5.19.2016

皮膚の感情

昨日一昨日と、だいぶ錯乱したような日記を書いたけれども、実感としては変わらない。よき認識とは、「否」であり、根源的・無意識的な拒絶である。それは理性よりずっと皮膚感覚に近い。実際のところ、近代合理主義とは、この皮膚感覚をひとびとから奪うものである。「我こそ真なり」――それはプラトニズム一級の詐欺であった。理性を信奉し、人間を否定する。この逆立ちした思想はキリスト精神につながり、次には民主主義や資本主義に姿を変えた。

キリスト教の歴史が血塗られているのは、他民族を動物と見るからである。つまり他の動物には「理性がなく」、したがって「処分可能な動物」であり、それは豚や牛のように「神がわれわれのために用意してくれた」生き物なのである。だから彼らは容赦なく未開人を殺し、奴隷に鞭打つ。ほんとうのところ、キリスト教は人間中心主義ではない。キリスト教とは、理性主義であり、人間を否定している。また、「生」も批判している。人間中心主義とは、ニーチェがキリスト教の対極に見たものである。「大地を愛せ」、これがニーチェの第一の主張である。

そんなわけで、「神が死んだ」現近代では、民主主義や資本主義のような神の残渣も、しだいに消滅していくのではないかと思う。我々は天を拝むことをやめ、肉体への信頼を取り戻すことができるのではないかと思う。そのことにより、われわれの当惑と混乱の結果であるところの精神病が癒やされる。われわれは世に害悪をふりまく悪人を見分け、それを忌避することができる。大地に足をつけ、すべてを愛し、人間としての生活が営めるのではないかと思う。

あらゆる生き物が「幸福に」暮らしたいと願っている。これは事実だろう。仏教やキリスト教は、われわれの生涯は不幸でしかないと説く。これは、明らかに理性主義的な考えである。幸福は、理性では証明できないからである。理性で証明できるのは、不幸だけである。「私は病気だ」「私は貧乏だ」「私は孤独だ」だから、「私は不幸だ」と帰結することができる。貧乏でも幸福な人間もいるが、仏教やキリスト教は、「それは理性的ではない」と否定するのだ。

われわれが理性を信仰し、人間を捨て去るときに、われわれを待っているのは不幸だけということになる。近代精神のたまものである「小説」でも、同様である。小説とは、われわれに襲いかかる不幸を描くものである。われわれがいかに苦しんでいるか、を教えるのが小説である。主人公はそれに打ち負けてもいいし、克服してもよいのだが、ともあれ「不幸」がわれわれの世界に満ちている、これが小説のテーマのほとんどすべてである。

「われわれは不幸だ」これがプラトニズム――近代精神のドグマである。



それでは、われわれは幸福なのか?まず第一に、私は幸福なのか。私は、幸福であるという気がする。このような感覚は、20年以上もっていなかった。持ったとしても、それは錯覚であり、すぐに潰えた。ただ、今回は人間への信頼と再評価を下すことができたと思う。

それはやはり、善性と悪性の人間の区別がついたということでもある。サイコパスとか、自己愛性人格障害の人間と、ふつうの人間……「幸福である権利を持つ人間」の区別がついたのである。もっとも、ふつうの人間のほとんどは、権利を行使することがないのだが。

悪はただ、われわれが善であることを教えてくれる点でのみ有意義である。悪と接し、悪を理解すると、われわれのすべてが正しく、十全な人間であることを教えてくれる。

5.17.2016

As a baby

毎日の冷たい重苦しさ……「死にたい」という感情から、泥沼から、とりあえずは逃れている。人間には暖かみが必要であり、急激な暖かさでは燃え尽きてしまうし、持続的な、明るい暖かさが必要であることを知った。

これからの人生を、考えているが、私ももう、多くの青年と同様、何もかもできるという幼児的な万能感を持たなくなった。私の未来は、制限されていることを知った。「約束された未来」に奔走する必要がないということは、楽であり、また苦悩を生むことでもある(世界はそこに用意されている/されてしまっている)。すなわち、私は自分が大成するとか、何か著名人になるとか、世間一般に、優れた人物である、少なくとも、他人と比べて「上出来の人間」になることができる、あるいはそうなるべきだ、という感覚が、根底から損なわれている。

エライヒトハ、ワルイヒト……。まあ中二病と言われてもかまわないが、私は成功は失敗と同じくらいつまらないものに思える。虚無主義的か?私は「何かを目指す」べきか?たとえば、億万長者を?著名人を?偉大な芸術家を?

私が今興味あることは、宗教を解き明かすこと、人間の秘密、社会の秘密を知りたいと思うこと、世界の解明をしたいということ、世界をより鮮明に認識したいということである。「偉大な芸術家になる」と決意するような、夢遊病的な鼻くそ芸術家を私は笑う。でも、私はより多く笑われるのだろう。

何も為さず、何も生み出さず、こうして若さを失っていく。ただ、認識の光は鋭くなっているのか、何か「進歩」しているのか、それはわからない。いろいろなことを経験するが、より高く、より深くに進んでいるというよりも、どんどんと本来的なものに戻っているような気分がある。すなわち、私はすべすべお肌の赤子に戻ろうとしているのではないかと思う。赤子には、すべてが新鮮であり、すべてが滑稽である。そうして、ただ自然であることが可能である。周囲が私の世話をしてくれるからだ。私はすべての赤子がそうであるように、社会の外に置かれており、そうであることを周りが求めている。そんな気がする。

私は周囲の好意に、大いに甘えることができる。それを私は受容する。許容する、と言ってもよいかもしれない。愛だの、ミルクだの、あたたかい毛布は、すべて母性的な観察眼によって用意される。女の中の女たち。私はただ、「然り」「否」と述べるだけで良いのである。光を発するか、拒絶するか。ささやかな神殿に祀られた私の仕事は、唯一それだけであり、しかしそれはほとんどだれにもできない仕事のように思われる。

このようなことを、27歳になるおっさんが語っているのだから、不気味に思われるかもしれないのだが、私はたぶん、14歳の頃よりはるかに子どもじみているし、22歳のときと比べてもより子どもである。正しく「否」を発すること。結局、あらゆる知はこれを達成するための道具であり、現実のわれわれはそれすらできない――まったく、ほとんど無力である!ことから、繊細な皮膚感覚を持った子ども、これこそが「人間の解決」にもっとも近い存在なのだと思う。ようは、「分別ある大人」を気どった近代精神は、もうだれも見向きはしないということである。

世界システム

ウォーラーステインを読んでいろいろ感じることがあった。

ひとつに、文学だとか、芸術領域においても、システムを避けることは不可能であるということ。インターステイトというシステムに貢献する人間でないと、「成功者」にはなれない。国家間の不断の競争は、芸術や科学を手放しにはしないということ。つまり、芸術にも、国家の保全だとか、国際的競争力というものがたぶんに求められるということだ。

例えば夏目漱石が現代に続く国家的名誉を授かったのは、「近代化」を庶民に推し進めたことによる。小説というひとつの発明によって、われわれは、近代的自我を持つに至った。それは歴史的断絶による痛みと不幸を伴ったが、民主化とか、国力増大には必要なことだった。

またアメリカでは冷戦時代、抽象絵画のブームがあったが、それはCIAが工作によって、ブームを意図的に起こしたのである。これは公的な文書で明らかになっていることだが、ようはソ連に比べて米国は自由で先進的であるというアッピールのために、つまり宣伝広告、国威発揚を目的として、芸術が利用されたのである。

このように、芸術が国家的システムを逃れるということはほとんど例外的であるように思われる。

インターステイトシステムとは、単純に言えば、国家間のランク付けである。軍事力や経済力で、われわれはつねにこの均衡のなかで競争に追われている。この意味で、日本の企業がブラック化する実情も、とくべつ経営者が強欲だからというわけでもなく、国家的必要、国家的犠牲であるという説明ができるかもしれない。

ウォーラーステインの述べたように、「システム以前」の国家が特別貧しいようには思われない。例えばわれわれは科学などの先端技術で「裕福」に暮らしているようだが、その代わりに生活は過重な労働に蹂躙され、精神病に苦しむという現実がある。そもそも、科学はわれわれに眼力と恩恵をもたらしたことは事実であるが、その分失われた知識はあったのではないか?ウォーラーステインは、現代の最先端の科学が、3~4世紀の仮説を認めるに至った例をあげている。

ウォーラーステインが一貫して否定しているのは、「進歩」の幻想であり、また一貫して述べていることは、このシステムが近いうちに破綻するということである。その次の時代はどうなるのか。「史的システムとしての資本主義」には、あまり具体的には述べられていなかった。

日常のことをふり返ってみても、私の周りの「エリート」が情熱を捧げている仕事は、すべて近因遠因的に「国家の維持」を目指していることがわかる。単なる金儲け主義に見えても、結局はそうなのである。たびたび見られるように、国家は中小を見殺しにし、大企業を庇護しようとするのだが、それは私欲のためではない。国体の維持という目的の前では、超法規的な手段に頼らざるを得ないのである。

インターステイトシステムという視点から、国内外の出来事を観察すると、違った見方ができておもしろい。

5.16.2016

どろのそこ

旅の準備……。旅の準備。

まず、仕事を辞めてしまうこと。これが、難しい。単純に、名残惜しいという気持ちがある。小市民的な私は、仕事を通じた人間関係に、いくらかの救いを見出している。私の職場の後輩は、こう言っている。「退職だと?私たちは、友達ではないのか。裏切るのか」と。まあ、友達と言っていい間柄だ。私は他人とここまで密になったことはない。ある攻撃者、敵愾心、障壁、悪人――を前にすると、とりあえず人は親密になる。また、私はいくらかの独立心を持っているのに対し、女性はおおむね、孤独に耐えられない性質を持っているらしい。私は、彼女の存在がなければ、さっさと仕事にケリをつけていただろうと思う。愛情も、蹴り落として、旅には出なければいけないだろうか?そうでなければならないのか……。まあ、単なる友人であれば、私の旅立ちを応援してくれるのだろう。

それにしても……勤怠管理の記録簿が、なかなかコピーできない!これができれば、私は未払いの残業代、多くて100万円を超すだろう金額を、請求できるのだが……。私のやり残した仕事は、いかにしてサイコパスの搾取した金銭を勝ち取るかである。私は、これを一種の儀式として、遂行せねばならない。サイコパスへの訣別の儀式である。つまり、今後はサイコパスに搾取されることを許さない――もっと言えば、サイコパスを決して許さないということである。

許さないということは、もはや人間とはみなさないということである。我らが人類にとっての害悪と見なすということである。このような考え方は、妥当だろうか?狭量なレイシズムだろうか?レイシズムは、いささかの処世術を意味する。だれも不便な教条は信仰しないからである。ゆえに、当時のナチスのユダヤ人蔑視はいくらかの合理性を持つ。ただナチズムが誤謬と混乱に満ちているのに対し、サイコパスに対する敵意は適当と言うことができないだろうか?彼らが紛れもなく、「悪」であるならば。善悪二元論――始めは、われわれの中に悪があると考えられた。しかしこれは間違いである、とされた。ヒンドゥー教では、初めから否定されていた。次に、われわれの外に悪を求めた。それは人種差別であったり、封建主義であった。しかしこれは間違っていた。最後にわれわれはサイコパスに行き着いた。これこそが、悪の極点だったのである……。さて、これが「最後」なのか、単なる「次の」外的対象なのか?これを知るには、時代の進展を待たなければならない……。われわれは「厄介な隣人」を克服できるのか。

「私は、間違っている」のか、「私は、苦しめられている」のか。私は後者に移行しようとしている。人間、そうやすやすと間違うはずがない。すべての動物が、合理的で、幸福であるように、人間もまた不合理である権利を与えられているわけではない。人間は近代に不合理を愉しむ遊びを発明したけれども、不合理を愉しむ彼らは、まさに合理的理由によってそれをなしたのである。それでは私はなぜ、自分の精神を疑い、潰し、憎んできたのか。「お前は間違っている」と言う人間がいるからである。私はカミュの「異邦人」の言葉が忘れられないでいる。「私は常に正しかったのだ!」

すなわち、They were wrongというわけで、われわれが苦悶する以上、われわれは人間であるのであり、サイコパスではないということになる。しかしこれは困ったことに、ニーチェの言う奴隷根性そのものである。われわれは、苦痛に耐え忍ぶ無力な弱者である⇒ゆえに救済される価値のある人間であるというような。実際のところ、サイコパスは「強力」である。ほとんど精神破壊の兵器と言っていい。奴隷根性……まあ、サイコパスに対して「左の頬をさしだす」というのがまったく間違いであることはわかる。かといって、強固なサイコパスに真正面から立ち向かえるはずがない。そうであるから、我々には跳躍する足が必要なのである。つまり、逃げる、ということ。さすがにニーチェも、逃げのびるしなやかな足を持った跳躍人を、奴隷だとは思わないことだろう。自由人、かろやかな蝶、たしかな脚を持った逃亡者。

今日は酔っぱらったのでもう寝よう。

5.15.2016

人間への信頼

ウォーラーステインの「史的システムとしての資本主義」を読んでいると、新しい世界認識が広がっていく感覚がある。渾沌とした現近代を俯瞰し説明し理論づけたこの本は、時代に翻弄されがちな我々にとって礎となる知を与えてくれると思う。

善意を持たない生き物――サイコパスの問題は、宗教的な意味では善と悪なのだけれど、キリスト教的な「善悪二元論」を私も信じることによって(つまりサタンは存在すると信じることによって)、人間に対する慈愛のこころを持つことが可能になった。
それというのも、私は世間に受け入れられないことをたいへん悲しんだ時期があって、どうして人に構ってもらえず、またときに裏切られ、疎外されるのかわからず、翻弄され当惑されるだけという時期があった。

その原因は、いまでははっきりわかるのであり、善人と悪人を、区別しなかった――つまり、笑ってしまうくらいのお人よしだったのだ。どんなに智慧をつけた善人であっても、悪人は御しがたいものである。智慧ある善人は、悪人からはただ離れるものである。私は愚鈍だったから、悪魔に気に入られようと、無駄な(そして危険な)努力をしていたことになる。
それからは善人に対する慈愛の感情は捨てがたく、私も孤独に沈むというよりは、多少の調和と同族意識を持って、他者と接することができている。このことは、私が凡庸であることを意味するのかもしれない。

偉大な哲学者は、高齢まで独身であったり、性的な倒錯を示している。私はその気になれば、結婚して子どもを作ることも自分で想像できるようになった。一個の、平和な家庭。生の現実の前には、山ほどの思想や教条も消え飛んでしまう……のかもしれない。
ただまあ旅行だけは実現しておきたいと思うのでありそのため仕事を辞める手筈を整えなければならない。今日は祖父の法要のため、職場から500km離れた実家の方にいるのだが、「土曜日」の出勤を休むためだけに、さんざん経営者サイドと揉めたのであり、私は辟易とさせられた。ただ、私の周りの同僚たちはすべて、私に味方してくれて、いろんな説得案を立ててくれた。ここでも、善人と悪人という区別は、はっきりとしていた。もちろん、これは単純に経営者、労働者の対立と言えるのかもしれないが。

異常な会社……であることは事実であり、今週から私の会社に派遣で雇われた女性(派遣事業部の役員らしい)は、「あなたの労働量を聞いて、卒倒しそうになった」などと言っており、さかんに「あなたのようなまじめな労働者は、私なら粗末にしない。私のところにくれば、もっといい給料でもっと休める」と誘ってくれてるので、もしかすればよりよい労働環境に転職できるのかもしれない。

ただとりあえずは数百万円の貯蓄ができたのであり、これ以上金を貯めても意味がないという気がする。世の中のひとびとはなんのために金を貯めているのだろう?老後のためにだろうか。老後のためにと言っても、年金もあるし、年金がなければ、生活保護を受ければよいだけと思えるのだが。

少しでも偉くなれるように、自由になれるように、お金を貯めるのかもしれない。でも、金を貯めたから偉くなるとは思えないし、人間はすでにして自由であるという風にも感じる。あとは知恵と勇気の問題だ。見えない柵を頑迷に認めようとする人がある。本当にそう思い込んでいるのだし、ときには「柵があってほしい」と願っているときもある。見えない柵につまづいて死んでしまう人もあって、これは滑稽である。

旅の計画を立てており親戚連中にも伝えてあるのでもう手筈はだいたいOKだ。問題はやはり退職ということになるのだが、私は一日働くと手取りで二万円くらいの給料にはなり、二万円というと海外で少なくとも四日間は旅できる計算であり、そう考えるとずるずると働き、金を貯めこんでしまう。まあ資金が潤沢であるに越したことはないだろうが。

5.11.2016

旅の計画

旅について、いろいろ考えている。ふつうの旅にはしたくないが、日常からかけ離れたような旅にするのも好ましくない。考えているのは、旅と生活の融和をテーマにして、遊牧民のように、生活を営みつつ旅をする――つまり、旅を限局的な切り離された非日常にするのではなく、生活それ自体にしてしまうという実験を考えている。

もともと、仕事を辞めたら読書をするか、旅をするか迷っていた。実家の畑に小屋でも立てて、そこに引きこもり読書をする。それか、海外をバイクで半年~一年ほど巡る。どちらも魅力的で迷っていた。私の脳も老化が始まっていて、旅を経験しなければ腐るし、本を読まなくてもダメになるだろうという気がしているのである。もっと早くに自由になる金銭が得られればよかったのだが、中流階級の私には自分で稼ぐしかなかったのである。

この「旅か書か」というジレンマで長く悩んだが、旅をしながらも読書を続けるというスタイルにしようと考えた。これは私の一級の発明だと言えなくもない。なんせ、今は電子書籍というものがあるのである。これさえあれば、海外において日本語の本に不自由するということがない。世界中で、いくらでも日本語の本が読めるのである。私はこの事実に気づいたときに、喜び小躍りしそうになった。

そういうわけだから、旅のスタイルとしては、「晴走雨読」……とはつまらない洒落だが、晴れた日はバイクで「旅」をし、雨の日はホテルに籠って本を読むというようにしようと思う。旅というほど何かに縛られるわけではないし、生活というほど単なるルーチンというわけでもないような……急ぐわけではなし、ときには旅の事柄を書物と関連付けて……書物におけるロゴス的な世界と、旅におけるカオス的な世界を折衷し和解させていくような、そういう旅にできれば良いと考えている。

ロシア旅行へ行ったバイク乗りのブログを読んでいて、曇りや雨の日のバイク移動は、たいへん惨めで、辛く、陰鬱であることを知った。そも、日本にいるときだって、雨の日にバイクなど乗るものではないと私は思っている(ほとんどのライダー同様)。もちろん旅が陰鬱であってはいけないということではない。それから得られるものもあるだろう。ただ、そこに停留する「意義」と、加えて時間的余裕があるならば、特段雨の日に移動する意味はないと考える。私の場合は、ホテルから散歩したり、写真を撮ったり、屋台で飯を食ったり、電子書籍を読むというふうに、ぶらぶらと書生的な生活をしてみたいと思っている。実際のところ、「弾丸ツーリング」というように、走って走って走りぬくという旅よりも、ある気ままさ、いろんなしがらみからの自由さを愉しみたいと思っている。

そういうわけで、まだ行先も決まってはいないのだが、ある程度の旅の骨子はできあがったというわけである。この旅には、たぶん何百万円かの金がかかる予定だが、それ以上の収穫はありそうである。

5.09.2016

悪魔は心を持つか

「だれが何のために、私をこんなに苦しめるのか?」という人間の根源的な命題に対し、私は悪の極点としてのサイコパスを提示してみた。

人間は悪への傾向を持つけれども、完全な悪に染まることはない。これと比して、サイコパスは生まれながらの完全な悪である。「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立つ者ではない」と、聖書。

仕事帰りに車を運転しながら、ペックの記述が気になっていた。ペックのサイコパス観は、精神分析学的である。というのは、あくまで因果関係:ストーリーを作りたがるのである。またそこにひとつの「生への意志」を見つけようとする。

ペック曰く、サイコパスは病的なナルシストであり……自己の罪過を一切認めないために、他者への攻撃を繰り返すということである。ペックは、こうしたサイコパスを哀れみ、慈しむことが重要だと考えている。

これは、ひとつの嘘が百の嘘を生むという過程に似ている。ある意味で、サイコパスという存在は「私は悪くない:私は正しい」と、自己にも他者にも嘘を吐きつづける存在というふうに定義できなくもない。

嘘でできた城が瓦解するとき、それはサイコパスにとって死ぬより恐ろしいことではないか。自らの行為を「生まれて初めて」反省しようとしたとき、サイコパスはどうなってしまうのか。発狂するか、自死するしかないのではないか。……私はそれを考えると、サイコパスに若干の哀れみを感じずにはいられない。

例えば私の会社の経営者はサイコパスであり、私の周囲の人間すべてが彼を信用せず、嫌っており、私の上司――極めて善良で知性的な人間を自殺未遂にまで追い込んだのであるが、もしサイコパスに少しの善意が、なにかのまちがいで芽生えたとしたら(そのような事例は科学史に存在しないのだが)それはおそろしい葛藤を生み出すだろう。

社会的に成功してはいても、ただの嫌われ者、やっかい者、この世から早く消えて欲しいと思われている、殺人者、攻撃者――悪魔。そうである自己を認識することは、およそ不可能に思われる。

実際にサイコパスに対峙し、そのときの経験から思うのだが、たしかに防衛機制的な「投影」はよく見られるのである。例えば、私の会社のサイコパス経営者が、従業員の自殺未遂を聞いたときに、「あいつは最低だ」と言った。しかし客観的に「最低」なのは、どう中立的に立ってみてもサイコパスの方である。また、「あいつは守銭奴だ」と言うとき、実際はサイコパスが守銭奴なのであり、「あいつはバカだ」「無能だ」「仕事をしない」「嫌われ者だ」とサイコパスが咆吼あげるときには、それはすべて、サイコパス自身のことを指しているように思われる(もっともサイコパスは饒舌なので、そのときは気づかずに、振り返って気づいたのであるが)。

上記の事実は、実はサイコパスの定義の上で重要である。実際のところサイコパスが「罪」だとか「同情」を(無意識レベルにせよ)認識できるかどうかという問題である。サイコパスが自らに対する叱責をただ他者に向けているだけだとすれば、彼らは無意識のレベルではわれわれと共通した感覚を持っていることになる。同情だとか、共感能力を持ちながら、それらを否定する(自己を否定しないために)「がんじがらめ」になっていると考えることができる。

たしかにペックのように、サイコパスには慈愛を持って接するしかないのかもしれない。

ただ私には、「サイコパスにも心がある」というようなペックの主張は、精神分析特有の誤謬のようにも感じられる。精神分析はたいてい遺伝的・先天的な要素を度外視している。精神分析とは人間の「いま」をエピソードで規定しようとする学問である。そこには、エピソードとして「記述」される範疇しか重要視されないという問題がある。ようは、なにもかも対人関係の「あいだ」としての問題から答えを導き出そうとするものである。

たとえば体細胞の21番染色体がトリソミーであるところのダウン症患者を、その遺伝医学的な前提なしに精神分析医が診断したら、おもしろいことになるとは思わないだろうか?「あなたは、きっと父親に抑圧された、それがために、整然としゃべることすらままならないのです……どうか横になったまま、目を瞑って……過去のことを話して……」。まあこれはひとつのブラックユーモアとして。

結局のところ、ペックもサイコパスを精神分析的に診断したが、一切の治療の進展はままならなかった。

私はサイコパスが遺伝病であることにある程度の確信を持っている。だから、私はサイコパスに心があるとは思っていない。それはa nativitateにそうなのである。

ただ、上に述べたように、サイコパスが「投影」的な言動をすることはたしかである。この経験的事実と、科学的事実との間に、いまいち折り合いがつかないでいる。

以上、すごくめんどうな文章になったのだが、結局私が問いたいことは、サイコパスにも心があり、それを抑圧しているだけなのか?それとも初めから心がなく、われわれと同じような人間ではないのか?ということである。いわば悪魔は心を持つかということである。

この答えを出すには私はまだ未熟である。

5.08.2016

ZAAAC

今後のなりゆきを考えているがどうすればよいのかわからない。とりあえず退職届を出すのを控えている。来週に異動になるかもしれないことがわかり、そうすれば少しはましな環境になるからである。しかし私がサイコパスな経営者夫妻のために働くということが耐えられないので、もうしばらくで辞めることには変わりない。ただ、環境の変化が楽しみというだけである。

知人の女性と酒を飲みにいったが、途中からテーブルの下で足をあててくるので閉口した。これが性的な合図ということはわかるのだがそんな気持ちはなかった。とにかく疲れているし、性交よりも酒が飲みたかったからだ。性交自体が疲れるし、恥をさらすかもしれないし、そこにいたるまでの数々の取引も、めんどうだと思った。

しかし、この性交に対するあきらめや絶望のような気分はなんなのか、と自分で驚いた。性交するくらいなら家で寝ていたいという心理は、私が年をとったということか。

まあ枯れてしまったとしてもいいだろう。私にはもっとすべきことがあるという気がする。悪に対する研究は、没頭するに値する。真に哲学的な問題という気がする。それはあらゆる英知を集結して解決すべき問題である。この難問に、だれも立ち向かわなかったというのは、不思議なことである。

おそらく、大仕事で、手をつけたら切りがないからだろうと思う。科学とか、キリスト教とか、西洋思想のような、われわれの根本的なイデオロギーを否定することになる。そのような仕事は、ふつうの専門家であるところの学者には手に負えないだろう。

ニーチェはこの仕事にあたった第一人者と言える。彼がキリスト教は奴隷道徳だ、というとき、超人思想を説くとき、彼が「悪」を見て取っていたことがわかる。悪がいかにわれわれを支配しているか、隷従を強いているか、それを批判したのがニーチェであった。

……いやこれは私の考えすぎかもしれない。しかし、この悪の発見が世間に広まれば、ニーチェの言う「あらゆる価値の転倒」が達成されるだろうと私はにらんでいる。単なるキリスト教批判とか、集団心理批判とか、そういう枝葉の問題ではない。ソクラテス以降2000年以上人類を支配していた固定的価値観が、粉砕されるのである。つまるところ、ニーチェの思想がようやく世間に認められるときには、そういったことが起きるのである。

まあ上に述べたようなことが狂気的に見えることは自覚している。一種の誇大妄想と言えなくもない。そうだけどもひとつのテーマを研究したいという気持ちが私を鼓舞するのであり、これはなかなか楽しいことである。

5.07.2016

People of the lie

共感と興奮をもって五時間あまりで読んだ本がある。M・スコット・ペックの「平気で嘘をつく人たち」という本。……このPHP文庫のようなタイトルさえなければ、もっと早くに手をつけていただろう。

この本は科学が「悪」に正面から向き合った、画期的な本ということができると思う。サイコパスに関する論文を読むと、この1983年にアメリカで出版された本をサイコパス研究の端緒とする学者は多いようである(ただ、本文中に「サイコパス」という言葉は存在せず、)。

ペックは現在の私と同じように、宗教や科学をいたずらに分離せずに、総合的な知を武器にして悪の分析に取り組んでいたことがわかる。ただ彼は精神分析医であるから、遺伝学・生物学・行動科学的な分析をしたジェームズ・ブレアらの最近の著書である「サイコパス -冷淡な脳-」に比べると、いささか相反する部分も多い。

たとえばペックの著書においてはたびたび、善と悪を数量的に捉えている部分が見られる。つまり、われわれは善と悪とのふたつの極点の間にあるのであり、邪悪な人間は悪の方により近い、と考える見方が読んでとれる。つまり、われわれが怠惰や欺瞞などの悪への性向を持つと、われわれ自身も邪悪化しかねないような描写がある。

一方でブレアらの書では、サイコパスと健常者の連続性を否定している。これは、悪を量的指標ではなく、質的に区分することにより証明している。つまり、反応的攻撃と道具的攻撃の区分によって、一般的に悪とみなされる行動の区分を行っているのである。反応的攻撃は、哺乳類のすべての種に見られる行動である。一方で、道具的攻撃は人間のなかではサイコパスにしか見られない。

またブレアらは、サイコパスの病理の大部分を遺伝的、すなわち先天的な要因に求めている。このことの意味は、健常者がいくら劣悪な環境に生まれ育とうが、サイコパス(ペックの言葉では「邪悪な人間」)には成りえないということである。彼らがまったく極悪非道の犯罪に手を染めようとも、彼らはあいかわらず良心を持ち続けているということである(つまり「平気で~」の一章で描かれた人間は、サイコパスにはならない)。

またペックは「邪悪な人間」にときおり自閉的・神経症的・精神分裂的な傾向を見て取るが、神経学的にはサイコパスと正反対であることがブレアらの書で指摘されている。つまり海馬が過活動するのが神経症や自閉症であるが、サイコパスでは海馬が過沈静であるということが明らかになっている。

もっとも最新のサイコパス研究をまとめたブレアらの書と、ペックの本を比べるのは酷という感じはする。ただ、ペックの望んだとおりに科学は進歩しており、悪を適切に定義し描写するという作業は、現在も続いているのだと感じ入る。

ペックの精神分析の記述から見てとれるが、サイコパスの治療は現在の科学では治療不可能である。ペックは希望的に「邪悪な人間」を「病気」としている。いつかは治療可能になればよいと願ってのことである。

サイコパスが治療可能な病気になれば、それはすばらしいことである。そんな世の中では、戦争も起きず、抗うつ剤も不要となり、支配と隷従もなく、協調と信頼を持った世界になるのかもしれない。ようはそれは、善と悪との戦いの終結を意味するのだから。

5.05.2016

悪の極点

大変平静な気分で休日の気楽さを味わっている。ただ長く続くとやるべきことがなくなってくる。



昨日はバイクで散策していると、突然ガス欠してしまった。タンクはリザーブ状態であり……。あまり覚えてないのだが、前に給油したときに満タンにしなかったのだと思う。満タン給油だと300kmは走るのだが、トリップメーターは200kmを指していた。

途方に暮れた。少なくとも10kmは進まなければガソリンスタンドがない。平地であれば、10kmを距離を押して歩くこともできるのだが、かなり高低差がある。

近くにバス停があるのだが、次の便は30分くらい待たねばならない。30分待って、バスがきたので、手を振ったのだが華麗にバスは去ってしまった。なんということだ。次のバスは、二時間後とある……。

しょうがないので、バス停の横にある交番に行った。そこで警察官に相談すると、「なんとかしましょう」ということ。四月からこの田舎に赴任した警官は、とても親切にしてくれた。「それは非合法だろう」「職域を逸脱しているだろう」というようなことまで、してくれたおかげで、無事帰宅することができた。

こんなことがあるのか!この警官がいなければ、タクシーやレッカーで高い金を払うか、恥を忍んで民家を一軒一軒あたり、ガソリンを分けてもらうかしかなかっただろう。警官に対する見方が変わった。だいたい、警察官というのは硬直した、怠惰な、愚鈍な連中が多いという気がしている。そうではない人もなかにはあるらしい。



サイコパス=サタンという記述を先日して、それは検証に値する事実だと思った。聖書にサイコパスが記述されているということは、人間とサイコパスの関わりは存外長いということである。

サイコパス=サタンから、善良な人間に悪が行き渡るプロセス、つまり悪の伝播については、「ルシファー・エフェクト」という本がもっともよく記述されていると思う。少し、あれなタイトルだけど、米国心理学者ジンバルドーの「スタンフォード監獄実験」に関する記述である。

スタンフォード監獄実験は、映画でも有名になったが、大学生を「看守役」「囚人役」を区分し、その環境がどのように個々人の人格や行動に影響を与えるかの実験である。まあだいたいどのようになったかは想像通りである。

ここではサイコパスという悪の源泉たる極点は見当たらず、社会構造の与える人間の変化に着目しているのだけれども、悪の伝播という点では同等だと思う。あるサイコパスとそれが与える健常者の効果を、定量的に実験できたらすごいものだ。まあそれは科学の進歩を待たねばならない。

ジンバルドーは実験内容からわかるとおり、サイコパスのような点的な源泉を認めているわけではない。彼はある腐ったシステムが、善良な人間を悪に導くとしている。
「一部の腐ったリンゴ」が問題なのではなく、「腐った樽」が問題なのであり、「腐った樽の製造工場」が問題なのである。(Amazonのレビューより)
私はこれもまた、誤っていると感じる。「腐った樽」と、その製造工場は、いったいだれが作ったのか?それは勝手に作られるのか、ある悪意ある人間の意志なのかという問題を、ジンバルドーは記述していない。いや、しているのか?私は実は、その本を読んでないのでわからない(4100円とやたらに高いので)。

ともあれ私は聖書のとおり、「悪魔は存在する」と考えている。

私のテーゼは単純であって、整理してみると、「倫理的悪=サイコパス=サタン」というもので、単純すぎて笑ってしまうくらいなのだが、私の知能がそれだけ低いのか、知識が足りないのかわからないが、とにかくこう思っている。つまり、精神医学と、倫理学と、宗教における諸概念が、私のなかで溶け合っているというわけだ。

私はさらに、哲学と、歴史学も絡み合わせて良いと思っている。それで、私が大好きなニーチェから、サイコパスに関する記述を探してみようという試みをしている。

道徳を超越しようとしたニーチェであるが、その意味とは善悪未分化の状態の、「生」の絶対的肯定というふうに私は捉えている。絶対的肯定とは、いささか矛盾しているが、結局のところ善ということである。われわれは生を絶対的に肯定することができる。それは、われわれが上の実験のように、看守役となって囚人をいじめ抜いても、また囚人役となってただ隷従することしかできなくなっても、である。われわれ自身は、善そのものであり、その意味では「原罪」などから解放されているのであり、カント的な「根源悪」は存在しないのであり、われわれの心理には、ただ光る善があるのみとなる。

ゆえに悪とはつねに外的なものであるということになる。善悪の彼岸で描かれたことはつまりそういうことである。ニーチェはキリスト者の価値観を批判するがそれは自己の内奥に悪を見つけるからである。それを罪に感じるからである。それは奴隷の考え方なのである。
サイコパスは常に、「悪いのはお前だ」と思い込ませるものである。



ニーチェが恋い焦がれて病まなかったのはソクラテス以前のギリシャであるが、私も明治維新前の日本に焦がれるという意味では同様である。私は江戸時代の日本人はプラトニズムに毒されていなかったと思うから。

渡辺京二によれば近代以降のさまざまな不幸の原因はインターステイトシステムにあるということである。インターステイトシステムはウォーラーステインの提唱した概念であるが、これは国際的な競争にあらゆる国が置かれることになり、不断の競争を強いられるということである(たぶん)。つまりある第三国が「俺は資本主義なんて知らないよ」と言うことは不可能ということである。このコンペティションに参加しない限り、強国による搾取、隷属、支配に晒されるからである。

ゆえに「自国の統治だけを考えていればよかった」極東の島国が突如外国の脅威にさらされ、文明開化をし、天皇が牛肉を食い、怠惰な国民を勤勉に「作り替える」必要があったというのは、ある程度やむなしということである。結局のところ、インターステイトにおける無限の競争がひとびとを疲弊させている、というのが渡辺京二の言いである。

ただ私が明治以降の日本が嫌いなのは国民を過度に疲弊させているからである。つまり、近代精神の恩恵であるところの、人権・平等の概念が一般的な国民には付与されていないという点である。人びとが奴隷的な労働を強いられ、政治的な参画もままならず、さらに重税を強いられているという点である。これを国家が意図的に放置していることに私は絶望を感じるのである。

たしかに日本の近代化以前には衣食住がままならず、ときに理不尽な人権侵害があったことだろうと思うが、それにしてもベンサム的な幸福量から言えば、現代人は大変不幸であるように思うし、江戸時代の日本人は比較的幸福だったと思う。

そういう点から私は「かつての日本」に対する郷愁を感じるのだが、パオロ・マッツァリーノなどは「昔はよかった病」などと退けている。たしかに一面的に評価できるものではないが、それにしても私は今の日本人は不幸であるようにしか見えない。

それはいろんな統計から見て取れるが、日本人は世界でいちばんセックスをしないとか、自殺率が高いとか、労働時間が長いとか、通勤時間が長いとか、貧しい家に住んでいるとか、若者が結婚できないとか、給料が下がり続ける一方だとか、税金が高く物価も高いとか、そういういろんな事実を考慮すると、不幸な国だと考える。

もちろん治安がいいとか、気候がいいとか、そういうメリットもある国だし、なにより上にあげた警官のように、とても親切な人がいるのだが、それにしても、人びとが奴隷的労働を強いられ、セックスもままならないとなれば、これは不幸と言うしかない。そうして、ひとびとには政治的に参画し、これを改善するという意識もない。今の日本で、民主主義によって何かが変わると信じている人はいないだろう。



だらだら書いてしまった。今日は部屋掃除でもしよう。

5.03.2016

サタンとサイコパス

「ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくないところへ連れて行くだろう。」ヨハネ福音書
月曜日、仕事量への不満と経営者への軽蔑がピークに達したので、退職届を出す一歩手前まで行ったのだが、用事が立て込んだのでまた控えてしまった。連休明けには提出する予定である。

サイコパスに関する記述を調べている。近代精神に嫌気がさしたので、宗教の文献を探している。おもしろい記述がひとつあった。

藤井武「黙示録講義」第十七講 サタンの実在より。
サタンと称せらるるこの赤く黒きものが果たして実在するか。今もなお空中に権を執とり不従順の子らの中うちに能はたらくこの霊の宰(エペソ二の二)が果たしているか。歴めぐりて呑むべきものを覗うかがう悪魔(前ペテロ五の八)が果たして住んでいるか。近代人のほとんど全部がかかるものの実在を否定する、マルクス主義者特にしかりである。けれども我らにおいては、「子を産まんとする女の前に立ち、産むを待ちてその子を食らい尽くさんと構え」ている恐ろしき実在がある。かくのごときものが、我らの人生において歴史において、内的に外的に誘い脅おびやかし覗い狙っている。良心が本当に目ざめ、罪とはどんなものかを知りし者は、何ものか背後に働く力ある黒き実在を認識せざるを得ない。魂が真面目にこれと戦い始めたる者は、一度は苦しみと悩みのどん底に陥らねばならない。パンの問題のごときは魂を苦しめる問題ではないのである。根幹の朽ちたるを顧みずして、徒に枝葉を生かさんと焦慮する近代人の愚かさよ。神との関係正しからず、魂の問題の解決をよそにして、何の朽つべき腹の問題ぞ。たとえ腹は満たさるるともそは塵溜のみ。イエスは荒野にて何ものと戦いたもうたのであるか。彼の勝利は何を意味したのであるか。「すべての試煉を通して完く果たされし一人の人の確き従順」(ミルトン)によりて、曠野にエデンを見るに至りし恩恵を人は知らないのであるか。

パウロもアウガスチンもルーテルも、ただこの黒き実在サタンと戦ったのである、そして主のみもとに馳する外に、この者に勝つべきすべの一つだになきを知ったのである。ただ信仰である。ただ恩恵である。ただ十字架である。聖霊の祈りが我らのための盾となり矛となる。我らは信仰により天よりの力を与えられ、打ち勝ち難きサタンにすら打ち勝つ。世に勝つは、「彼もし我を殺すとも我は彼によりすがる」(ヨブ)との信あるのみ。力も勝利も栄光もキリストに在り、キリストの有である。小さき己れの力や智慧をかなぐり棄てるものが、「サタンよ斥しりぞけ!」と云い得るのである。
さすが「失楽園」を翻訳した藤井武、かっこいい文章。このなかの「魂が真面目にこれと戦い始めたる者は、一度は苦しみと悩みのどん底に陥らねばならない。」というのが、今の私の心境と一致する(パニック障害にもなったし)。

キリスト教における悪の象徴といえばサタン=ルシファーだけれども、藤井によれば、サタンと戦うにはただ信仰しかないということである。(なお藤井は内村鑑三の高弟であるらしい。内村鑑三に対する評価が少し変わった)。

それで、キリスト教関係を調べていると、どうやらサタンは単なる象徴ではなく、「実在するもの」と解釈するのが一般的らしい。
多くの人々が、サタンは存在しないのだとサタンによって信じ込まされていますが、サタンは紛れもなく実在するのであり、人格のある存在であり、すべての不信仰と世にあるあらゆる類の道徳的および霊的な悪の源なのです。(おなじみgotquestions.orgより
「エホバの証人」でも、同様のことを説いている。
はい,実在します。悪魔は「世の支配者」であり,邪悪になって神に反逆した霊者です。(ヨハネ 14:30。エフェソス 6:11,12)聖書は悪魔を以下のように呼んで,どんな者であるかを明らかにしています。
サタン(「抵抗者」を意味する)。―ヨブ 1:6。
悪魔(「中傷する者」を意味 する)。―啓示 12:9。
蛇(聖書の中で「欺く者」という意味で使われている)。―コリント 第二 11:3。
誘惑者。―マタイ 4:3。
偽り者。―ヨハネ 8:44。
悪魔 サタンとは人の内面の悪の象徴にすぎない,と考える人もいます。しかし,聖書 には神とサタンが交わした会話が記録されています。神は完全な方ですから,ご自分 の邪悪な部分と話していたとは 考えられません。(申命記 32:4。ヨブ 2:1‐6)さらに,サタンは罪のない方であるイエスを誘惑しようとしました。(マタイ 4:8‐10。ヨハネ 第一 3:5)ですから聖書は,悪魔が単なる擬人化された悪ではなく,実在者であることを示しています。
悪魔が実在することを信じていない人が多いというのは,意外なことではありません。聖書によれば,サタンは自分の目的を達成するために人を欺くからです。(テサロニケ 第 二 2:9,10)非常に巧みに多くの人の思いをくらまし,自分の存在を隠しています。―コリント 第二 4:4。(「悪魔は実在しますか」
悪魔は象徴ではなく、実在する――というのが、キリスト教の一般的な教えのようである。

悪の根源であるところの何者かが存在し、それが善なる人々を苦しめる、というような、サイコパスとの一連の出来事から学んだ事実は、すでに聖書に記述されているものであった。

カントに関する論文を読んでいると、人間にもともと「根源悪」があるとされているから、キリスト教も内的な悪を説く宗教だと思っていたが、そうではないらしい。

サイコパス=サタンとは、単純には言えないけども、聖書におけるサタンの扱いを見てみると、ほとんど同一視してよいのかなと考えている(中傷する者、欺く者、誘惑者、偽り者……)。

藤井の指摘したように、サイコパスへの抵抗はほとんど失敗に終わるのであり、「ただ祈るしかない」となる実情もわかる。さてそれでどうするのか。



仕事をやめたらまず旅に出ようと考えているのだが何かと入り用である。旅は金がかかると思うと惜しい気持ちもある。ただ20代のうちに旅に出ないと、「すべてが手遅れ」になるような気はしていて、それなのでとりあえず旅に出てからいろいろ考えてみようと思う。

私の親戚が某商事に勤めているのだが現在はモスクワの支社に勤務しているらしい。ロシアというからウラジオストクあたりだろうと思っていたのだがはるかに遠かった。それが6月に帰国するというので、それまでにロシアへ行きたいと考えている。まあ、時期的に厳しいし、あてのない旅でもよいのだが。

他、親戚のつてでカナダやオーストラリアに移住した人びとを紹介してもらえることになった。こういう人は、日本からの来客があると、さかんに世話をしてくれるものらしい。何かこういった血縁的な関係があると、旅がずっと頼もしくなる。

甘えてよいのかという気もするが、旅とは善意に甘えなければやっていけないものだ。何もかも自分で、一人前にできることはない。――とくに初めのうちは。それを知ることも、成熟のひとつである。