6.30.2016

そういうもの

旅の準備を進めている。もう大まかな荷物は揃えてしまった。

出国してからバイクを買う予定である。旅のスタートはアメリカになるのではないかと思っている。あんがい、東南アジアでバイクを買うと高くつくようだ。125ccのバイクであれば安いのだが、250cc以上のバイクは贅沢品であり、国内で買うよりも高い。そうであるなら、消費大国であるアメリカでバイクを買おうと思っている。アメリカでは日本よりもバイクが安く買えるようである。

それで、バイクを買うという手続きと、バイクでの国境越えのメソッドについて知ることができれば、旅に出ることはできる。

折良く円高になっておりドルが100円を切るようであれば好機である。もう日本経済に私は希望を抱いていない。悲観的な見方をしている。とは言っても、やはり日本は主要国のひとつだから、いくらかの低迷をしたあとに、復活するだろうと思っている。たぶん、旅を終えて帰ってくる頃には好転しているのではないかな。

まあそれまではバイクでだらだらと旅をする予定である。もはや特別の期待はない。ある程度、人間とはこういうものだという考え方が、私のなかで固定化されてきている。だから、旅先での出会いだとか、人間の作った遺跡などに強く感動を抱くこともないだろうと思う。

私はそれよりも、読書がしたいと思っている。思想的な格闘がしばらく失われている。読書するにしても、これまでのように没入するような感覚が最近はないのだが。書物にしても、結局人間のつくりだしたものだから、「まあそういうものだろう」となり、新鮮な感動が得られない。

なにをするにしても、「まあそういうものだろう」となる。私のなかで現在新鮮な感動を覚えるのは、Sという存在である。この人間を知ることが、広く人間というものを知ることになる気がする。そうだから、私が読書をろくすっぽせずに、だらだらと仕事を辞めずにstay until the job is doneだとしても、私はあいかわらず学び続けているのであり、怠惰ではない(と、思いたい)。

年内で仕事を辞める予定が、だらだらと続けている。ようは、楽なのである。4月くらいは悲惨な状態であった。それが図らずも改善してしまった。旅の予算も、どんどん増えてくる。もう、世界一周くらいなら余裕を持ってできる金額である。金があって困るということはないので、これはこれで良いのかもしれない。旅の装備も、けっこう豪華で、大仰なものになってしまった。

いかんせん、夏の暑さと湿気で、頭がはたらかない気分だ。はやく乾燥した大陸に旅立ちたいものである。

6.28.2016

私は何もしていない

今日の仕事も楽だった。昼休み、Sのつくった弁当を食べた。職場のみな、仲が良い。Sが中心となって空気感を作っている。みな活き活きとして働いている。この女、なかなか希有な存在である。

食事は昨日買っておいたブロッコリーを茹でた。あとはポテトチップスを食べた。ビールと、チューハイ。

幸福であれば日常は光のように過ぎてゆく。不幸であれば一日々々が重苦しくのろまである。しかしわれわれは幸福を目指す。……われわれはさっさと死にたいのだろうか?それとも、幸福の最終形は死の苦しみの超越なのだろうか。人生を深く味わいたいとなれば、それは不幸になるしかない。

仕事終わり、本を読んだ。最近はルネ・ゲノンの本をよく読む。シモーヌ・ヴェイユが愛読していたということと、Kindleで百円で買えるからである。

そのなか、共感できる文章があった。
われわれが先に述べたように、あらゆる時代に、そしてあらゆる国において、完全な形而上学的認識に到達し得た人々がいたことを原理的に否定する理由は全くないからである。そしてそれは現在の西洋世界においてさえもなお可能であろう。この点に関してありうるかぎり不都合な環境を決定している心性の一般的傾向のために、疑いもなくそれはずっと困難なことではあろうが。
(……)そのような例外がもし存在したとしても、文書的な証拠は何も存在しておらず、彼らは一般的に知られているような痕跡を残していない。それは否定的な意味での証拠となるわけではないし、驚くべきことでもない。この種の事例が実際に生じていたとするならば、それは非常に特殊な諸状況―それらの本性に関してはここで詳説することはできない―のおかげでしかありえないからである。(「形而上学序説」)
例えばニーチェやカントが真理に近しいとわれわれは考える。あるいはアインシュタインだのドストエフスキーが真理に近い、またはマイスター・エックハルトや空海が真理に近いとわれわれは考える。

のだが、そうした「著名」なひとびと、記述し、記述されたひとびとが真理に近いということに、どういう根拠があるのだろうか。それはただのロゴス主義ではないのか。

ほんとうの智慧を身につけた人が、何か記述しようと企むのだろうか。哲学書、科学論文……ほんとうの智慧を身につけた人は、なにか記述しようとするのだろうか。記述、それは不幸への抵抗であり、叫び声である。ロゴスとは常にある陰惨さを持つ。なにか高度の智慧を身につけた人が、苦しい、やるせない、と嘆くだろうか。ほんとうの真理を得たひとは、われわれの目にとまる前にすでにして死に、「解脱」なりなんなりしているのではないか。

そういう感情がある。

だから、著名人のことを私は二流だと考える。ニーチェもいい線をいったけど、届かなかった人なのかもしれない。キリストも、ムハンマドも二流なのではないかな。私はもっと、真理に近づきたい。

6.26.2016

意味のない日々

日常における抑鬱はどこかへ行ってしまった。とくに不満がなく過ごしている。不満がなければ、何かを書こうという気にもならないものだ。満足した人間が叫び声をあげることはないものである。そういうわけで、ニュートラルな気分なので、私はただこの平穏を守るべく、過ごしていこうと思う。

平穏を守るといっても、なにもせず消極的に過ごすというわけではなく、人間は不断に行為をせずにはいられないのであるから、この連続した行為における統一的立場を維持するべく、努力するということである。本は読み続けるし、バイクには乗るし、旅行への準備を進めるけども、これらすべてが、私の平穏の維持に役立つというわけだ。

人は無意識に始まり意識を乗り越えまた無意識に戻る。音楽など芸術は無意識的でないと醜悪な代物になる。意識や理性に毒された絵画は赤子のそれに劣る。私の人生も極度に意識的であった。そのとき、無意識に生きるひとびとを畜群とののしった。ただそのなかには意識的段階を乗りこえたひともあるのであって、私はそれを知らなかった。
我々が或一芸に熟した時、即ち実在の統一を得た時はかえって無意識である、即ちこの自家の統一を知らない。しかし更に深く進まんとする時、已に得た所の者と衝突を起し、ここにまた意識的となる、意識はいつも此の如き衝突より生ずるのである。また精神のある処には必ず衝突のあることは、精神には理想を伴うことを考えてみるがよい。理想は現実との矛盾衝突を意味している(かく我々の精神は衝突によりて現ずるが故に、精神には必ず苦悶がある、厭世論者が世界は苦の世界であるというのは一面の真理をふくんでいる)。(「善の研究」)
いまは「意識高い系」はバカにされるけども、そういう段階もひとには必要だと思う。反抗期とか中二病といったものが思春期の発育段階に必要なように、無意識を否定し理性を信奉する時期も必要だと思う。まあそれもいつか乗りこえられなければならない。

西田のいうように人生とは苦悶と平穏を単に揺れうごくものではない。それは統一を目指しているものである。このことはギーターの奥義と同様である、つまり「失敗と成功を同一のものと見よ」ということである。ひとはよく失敗を恐れ成功ばかり求めるがそれはこの統一を阻むものだろう。

私の人生もまた苦悶が訪れることは必定だと考える。例えばSがどこかへ行ってしまうか、私が仕事を辞めて旅立つか、いずれにせよ幸福は長続きしないのだと思う。不幸/幸福あるいは平穏/苦悶といった二項対立を、超越したいものである。そのためにはより理性的領域から、神秘的、超越的な領域にいかなければならないと思う。それは形而上学Metaphysica、つまり自然学の先へ行かなければならないということだと考えている。

6.23.2016

私は若くない

とくにどうということもなく過ごしている。図書館で「善の研究」と日本文化史論の本を読もうと思ったが数十ページでやめてしまった。

私は現在は満たされている。孤独で寡黙だった私は、職場で延々とSとおしゃべりをするようになった。女ひとりが私をここまで変えるものかはわからないのだが、偶然によるものか、Sの好意によるものか――私がともかく変わったことは事実であり、それは少しのとまどいを生むものである。

Sと花火の見学とか、バーベキューの予定を立てる一方で、自分が神経症者であることや、文学や哲学に憧れる鋭敏な青年(おっさん)であったことを、忘れつつある。いままでの孤独であった自分自身は何だったのか。女の手のあたたかさのなかで、私は堕落したのか――あるいは目覚めたのか。

世の中のおとこたちは、どのように自己と、女との関係に、折り合いをつけているのだろう。女、この不思議の生き物。男が理想を追い求める一方で、女は非局在化している。女はせわしなく男の面倒を見るものだ。男はまったく、女を軽視している。それでいながら、女から離れられない。

男はあくまで、女の手の内にある。そのことを感じる。私は、女にコントロールされていることに安楽を見いだす。女は私に指図をする。私はそのとおりにする。このとき一見、私が指示しているように見えるのだが、そうではない。それは一種の儀式的なふるまいだ。

女の手の内に転がされること。これがこんなに心地よいとは、思わなかった。私はただ、気ままに想像の世界を飛べばよい。ラピュータ人のように思案に耽り、夢うつつで良いのだ。私は酒に酔い、本に酔い、バイクで飛び、孤独を楽しむ。ときおり女が、杖で頭を叩いてくれる。女は、私の途方もない杞憂を着陸させ、なぐさめてくれる。お前の悩みなど、とるに足らぬものだと言ってくれる。

精神医学のある研究では、神経症者はほとんどすべて、性的関係において異常が見られるとされている。それは結局、女への軽視が原因なのだ。実際、Sのような、生娘のような、母親のような女こそ、理想的なアニマだ。

アニマとしての女に、私は初めて触れているという気がする。

6.21.2016

リクルート

冷たいような、暗いような気分である。また抑鬱のような症状、ひとを信じられないような気分。世界が私を笑っているかのようである。

最近は知的な営みをしていない。読書もそんなにしていない。孤独の時間が私のなかから消えた。一点に集中するような時間もなくなった。何が悪く、何が善いかと騒ぎ立てることもない。ただ私は、「炎症」にかかった気分だ。なるほど鬱病が炎症疾患であるという発想は正しいように思われる。炎症は生理学的には外的な攻撃から身を守るような反応であるが、より広義には身体が騒ぎ立つような気分だ。つまりある不愉快感、寄る辺のなさ、落ち着きのなさ、ぼんやりとした熱感と、凍える冷たさ、焦燥感と無力感――つまり端的には、「不統一感」を指す。

ここでまあ西田流の禅哲学には云々というくだりを書いて権威づけしても良いのだがそんな気力もなく、ただそんなものだろうという気分しかない。文章とか、書くことについて、そんなに熱意が沸かない。まあこんなものだろうという気分。

このあいだはある会社の幹部と話をしてきた。私をリクルートしようという人間であり、未婚の中年女性である。彼女とある程度うちとけたので、話をした。彼女は大学を卒業してしばらくは、親の事業を継ぎ、あるホテルの経営者だったのだという。そうして、そのホテルは10億程度で売却して、店じまいし、今の会社で勤めているのだという。当然、金持ちだ。家柄も名家ということである。こういう人間もいるのだなと感じる。芸能人とか、テレビ局の役員とか、会社経営者とか、だれでも知っているような人間と懇意だ。よく言う、「上級国民」という奴だ。

彼女は私の転職を、「全力でサポートする」のだという。彼女は私のなにが気に入ったのかわからない。私は、あまり彼女が好きではない。すこしの歪さを感じるからだ。人格を素直に受け入れられない。地方の一会社員である身分だから、少し下に見られている気がする。

器用な人間であれば、このようなひとに対して、うまく取りいることができるのだろう。ただ、私はもうずっと反権威主義であり、ただしマルキストのように反発するわけでもないのだが、なんとなく権威的なものをバカバカしいと思うようになっているので、そういう冷たさ、素っ気なさが、逆に彼女の気を引くのかもしれない。

あるいは彼女は少しオカルトに没頭している節があり、ある高僧とも懇意だというから、その住職になにか吹き込まれたのかもしれないと思っている。それか、彼女自身の霊感か?まあおそらく社長会長あたりに適当な人材を探してこい、と言われているだけなのだろうが。

だれかの世話になること、だれかと深い関係を築くこと、これが私は嫌いである。ひとの上に立つことも、ひとの下で働くことも嫌だ。これは私の潔癖である。立身出世というなら、これはチャンスと言えるだろう。金銭的な苦労からの解放も望めるのだろう。まあ、話をつけるにしても、蹴るにしても、どちらでも悪くないように思われる。失敗も成功も、同一ということだ。

6.19.2016

Sと寝る

昨日はSが家に泊まったので、夜の三時まで酒を飲んだ。それから一緒のベッドに寝た。私はひさしぶりの他人の肌の感触が嬉しくて、抱き寄せて、腕枕をした。ただそれ以上のことはしなかった。彼女もまた望んでいないことがわかった。彼女の身体に触れると、「ダメだ」と軽く諫められた。だから私は彼女の手の平を愛撫したり、髪をなでたりしていた。しかしそういった関係のあり方が、あんがい自然であるように思われた。キスをしたいというわけでなし、乳房に触れたいというわけでなし。そのやわらかな肌の感触で私は満足した。それは外人のハグに似たじゃれあいのようなものだった。

男女の仲だが、色恋ではない。こういうあり方も私は好ましいように思われる。色恋は関係の侵害を伴うからだ。性交は特に男の女に対する侵害である。これはどのような性交においてもそうである。性交は燃焼と崩壊である。友情は持続し、ほのかにあたたかい。どちらが良いというわけでもないが、どちらも必要なものだろう。

……あなたは、変わった。私があなたを変えた。以前のあなたはだれにも心を開かず、ロボットのようだった。いまはよく話すし、よく笑う。ひとりもいいけど、ひとりで居続けたら人生はあまりに退屈で惨めだ……というようなことを、冗談めいて言われる。たしかにそうなのかもしれない?孤独に生きようと心に決めている人間を、わざわざ呼び止めて、こころを開いてあげよう、と考える人間はそうはいない。そこはSに感謝している。

私はオルテガ・イ・ガセットのように、愚昧な群衆を率いるエリートが必要なのだと考えていた。苦難や不幸を「あえて」背負い込み、過酷な人生を耐え生き抜き、エリートよりもずっと多数で「幸福な」群衆を率いていく人物が必要なのだと考えていた。繊細な神経を持っていた私は、自分がこのエリートなのだと思っていた。私の神経はひどく敏感であるから、そのために人生でたいへんな苦痛を強いられた。その理由を、私はエリート/大衆の区別に求めていた。私の知性と勤勉によって、ひとびとを率いる必要があると考えていた。つまりヘーゲル的・ダーウィン的……つまりSocial Darwinismにおける神経鋭敏者(HSP)としての自己を、そのように認識していた。

ただ、いまは、無教養の人間に、たいへんな知性を感じるときがある。とくに女性において……。女性の知性については、あまりに記述されていなさすぎる。ゆえに本を読んでもしょうがない。Sのような人間が、私には謎であり、望ましいものであり、温かいものである。

一個の女性が、ここまでひとの価値観を変えるものか。いままでの孤独の軌跡はなんだったのだろう。私は、幸福になっているというふうに感じる。

6.18.2016

酒と涙と

昨日は抑鬱のような気分に襲われ沈みこみそうだったが、Sが家に来ることになっていたので一緒に料理を食べた。少しぎくしゃくした。私はだれとも会いたくない気分だったし、風邪をひいたように頭がはたらかなかった。ゆえに酒をのんで、だまり、不快そうな顔をしていた。

Sは会社の後輩なのだが、自殺未遂で職場から消えたホスト上司とも仲が良かった。Sはホスト上司と同様、いろいろ気がつく人間であり、職場の人間にたびたびカウンセラーじみたことをしている。そうしてそれが下手な心理学者よりもうまい。こういう人間を見ると精神医学者とは何のためにあるのかと思う。ひとの心をこねくり回してあれこれ説明して患者を説得する。しかしほんとうのところひとりの理解ある人間こそが必要なのである。寛容を失った社会でひとが病気になるのであればそのひとに必要なものはまず愛情だろう。個人の心の障害はほとんど社会構造の問題に還元できるように思われる。

ともあれひとしきり酒を飲んでホスト上司の話に及ぶと私は不意に涙が止まらなくなった。酒のせいかもしれないがそれにしても尋常ではない涙が出た。まあたびたびこういうことがあるのだが、それにしても四月にSと会ってからはあまり泣くこともなかった。ホスト上司が消えて二ヶ月経つのであり別に悲しいのではなかった。まあ私も疲れていたのかもしれない。

ひとの前で泣くのは、本当にひさしぶりだったが、Sは私をそっとしておいてくれた。そうして私はみっともないことに酔い潰れた。何度かトイレで戻した。Sは私に胃薬を飲ませ寝かしつけた。そうして料理の後を掃除して冷蔵庫を整えテーブルを拭き電気を消して、帰っていった。

Sは何度か私にセクシュアルなメッセージを送っていたように思う。それは言外のものもあるし暗喩としてのメッセージもあった。男と女がふたりで家にあれば、そういう行為に及ぶのが自然かもしれない。女にも当然性欲はある。Sに性的魅力がないわけではないし、たまに欲情する自分を認めることがある。ただ私はそういう行為にあまり自信がなかった。またSが本当に私を求めているのか自信がない。

Sは興味深い人間である。人間の心理をよく捉えている。私の心を丁寧にほぐして、整えてくれる。私を自由に遊ばせてくれるが、間違った方向に行こうとすれば、しっかりとつなぎとめる。私は彼女を、女のなかの女であるように思う。まあ別段、彼女は優れて美人だとか知的レベルが高いというわけではない。少なくとも言えることは、他人に対する共感能力がずば抜けている。一種の霊感のようなものかもしれない。彼女の女性的なまなざしを考えると、いままで学んできた哲学や科学が、いったいどのようなものだったかと考える。男の築き上げた世界は児戯のように感じる。しょせんは男は女に勝てない、といったところだろうか。

6.16.2016

悟ったおじさん

昨日は午前で仕事を終えたので、何をしようか考えていた。

前々からしたかったシュノーケリングをしようと思い、シュノーケリングセットをバイクに詰め込み、海岸をあたってみたが、風が強く、雲が出ており、寒そうなので辞めた。

それで、ある人物の記念館へ行こうと思ったが、定休日であった。

しょうがないので、近所の美術館へ行くと、あまり有名でない写真家の写真展があった。写真展は初めてだったが、一般的な風景写真の他に、芸術としての写真のあることを知った。構図のとりかたは絵画に似通っているけど、ぼかしなどカメラ特有の遠近表現については、これは絵画と違う楽しみ方があるようである(この遠近表現はすべての作品で見られた)。また、光のにじみもおもしろい効果である。

カメラは絵画に比べてずっと手頃な装置であるように思う。それこそワンタッチで風景を切り取れるのである。だから油絵をやっているという人より、カメラを趣味にしている人の方が多いのだろう。もちろん、プロの写真家になろうとなれば厳しい競争があるのだろうが。

それで写真展は五百円もとられた割には作品数が少なくものたりなかった。また、閲覧者も私ひとりでなんとなく気まずかった。

あまり暑くないようなので自転車に乗ることにした。タイヤに空気を入れ、チェーンに油を差し、日焼けどめを塗って、15kmほど走ったところで雨に降られた。小気味のよい小雨だったが、財布やカメラが濡れるとまずいので、引き返した。往復30kmだが、山を越え、下り、また越えるという、まあ気分のよい運動になった。

家で休んでいると天気が晴れたので、スーパーにバイクで出かけた。そこで、半額になっていたチルドのラーメンと、地産のニンニクを買った。家に帰って、チャーハンを炒めた。それと、ラーメンをゆでて、ニンニクはすりつぶしてスープに混ぜた。これで、おなかが苦しくなるまで食べた。ビールを、500mlを三本買っていたが、二本しか飲めなかった。

肉体の疲労と、胃袋の満足とで眠たくなったので、十七時にもかかわらず床に就くことにした。エアコンの冷気にあたりながら、あっさりと眠りに入った。そのまま翌日の五時まで目覚めなかった。

起きてみると、非常に気持ちのよい気分である。ひさしぶりに十全な気分。音楽がよく聞こえるし、肌はぴんと張り、何かをしてみようかという意欲のある一日である。


考えてみると、私は一個の悟りに近いものを得たように思う。

というと大仰だが、神経症者にとって必要なものは抗不安薬やカウンセリングではなく、この「悟り」なのである。これは森田療法の根本概念でもある。

「悟り」とは一般に仏教者などが長い修行の果てに得られるものである。神経症者も長い苦しみのうちにある。それはまた一般の病苦とは違う、だれの理解もない孤独の苦しみである。なぜというに、ふつうの人間がふつうに過ごせる環境において、神経症者は並々ならない苦しみを感じるからである。そういうわけで、神経症者はわけもわからぬまま、苦しみの輪のなかに閉じ込められなければならない。

仏教者は能動的に苦しみを味わう。神経症者はわけもわからぬうちに苦しむ。しかしこの両者は同じ苦しみであることに違いない。そして苦しみは知性を発達させる。神経症者にも、ある悟りの段階が生まれる。

悟りは完治とは別である。神経症が完全に治ることはないのだろうと私は思う。それでも、病気の苦しみがほとんど消えるようなある瞬間がある。

私はこのままで良くこのままですでに「仏」なのだ、と思うようなときである。神経症者の苦しみは傍目にはバカバカしいものである。癌の苦痛や恋の離別の苦しみとは違う。ゆえにこんなバカバカしい苦しみを持つ人間は人として異常であり、下等であり、下等な悩みに縛られる自分もまた下等なのだ、と思ってしまう。

しかし神経症者はそのままで「仏」なのである。アホなことに悩むが、それゆえに神に近いのである。このことはインド哲学や仏典においてすでに語られている。語られているのだが文章の理解と、霊魂における理解は違う。この全人格的な理解、人格の大改変こそ、神経症者における悟りである。

自分が仏だと悟るような絶対的自己肯定、自己充足感といったものが、神経症者に必要であると言えるのではないかと思う。


6.13.2016

気楽な旅に向けて

昨日は休日の常として、ワインを一本開けた。チーズと、コンソメスープを食した。あまりおもしろくない日々だ。とにかく不快な湿度である。

コンソメにはチキンエキス・ビーフエキスが入っているがもうそのまま食べた。私はいわゆるベジタリアンではない。食肉を可能な限り避けるというだけだ。自分が求めるなら食べるし、そうでないなら食べない。

牛肉や豚肉は食べてもうまくない。鶏肉は、たまに食べるという程度だ。それも少し口に入れれば満足する。魚介類、野菜、穀物を中心の食生活にしようというだけだ。それが今の科学では人間の健康にもっとも良い食生活であり、私の胃袋にも合うというわけだ。

何か楽しいことをしたいと思う。私のような人間は、金稼ぎに向いていないと考える。なにかしらアイデアは浮かんでくるのだが、それを「やってやろう」という気にならない。例えば、新規事業を立ち上げるとか、投資で儲けるとか、そういうことをして、「何になるのか?」という疑念が頭をもたげる。今の生活がましになるのだろうか?

金銭を得たところで変わらないのは、私が読む本の種類である。本については、高価だからって読む価値のあるものは少ない。世の中の人間は、本を消費することさえ覚えた。それがビジネス書や新書の類だ。新書もぴんきりだけど。

私にとって重要なことは、なんらかの本を読むことであり、読み続けることであり、そのために用意すべきなのは時間と、自由であって金ではない。

そう考えると、新規事業というのも楽しそうなのである。流行らない店でも立ち上げて、細々と食いつなぐという生活も楽しそうだ。「一日八時間」も、私には長すぎるから、そういうきままな自営業の生活に憧れる。

エーリッヒ・フロムの祖父は薬局を経営していたが、客がくるたびに本から顔をあげ、こうぼやいたという。「なんだまたきたのか。いったい他に行くところはないのか」。こういう店であれば私も経営してみたいと考える。ぜんたい金稼ぎに執心することほど貧しいことはない。

それじゃあ経営者として、今後の人生を過ごすのだろうかと考えると、それも面倒そうだ。ただ、会社員としてあり続けるよりもいくらか「上等」であるという気がする。自由だし、時間が取れるし、成功すれば金も入ってくるというわけだ。

旅から帰ったあとの、転職のオファーがあったけど、これは蹴ることにした。旅の期限が無制限になったということである。今が27歳だから、30歳まで放浪というのも楽しいかもしれない。それだと300万円では足りないだろうが……。そういえば、亡き祖父が何かのときのために私に用意してくれた金が100万円あって、そのうち20万円は就職時にもらったのだが、残りの80万円をこの際使ってしまおうとも考える。

何せ、長い旅であり、どうしてもこの若い時期に行ってしまわなければならない。金を稼ぐなら、いつでもできる。

旅の準備を徐々に進めている。アウトドア用品とか、電子機器を揃えている。電子書籍のKindleがおもったよりも優れている。これがあれば、どこの国でも退屈なく過ごせるだろう。旅程は決して急がないことを目標としている。バイクでの移動が中心だが、雨が降ったらホテルに引きこもる。そのときは、書き物をしたり、本を読んだり、ネットをしたり、写真の編集をしたり、近くの市場に行ったりしてみよう。気楽な旅である。

写真……一眼レフを持って行くかどうかを迷っている。もっとも重く、もっともかさばり、もっとも高価な荷物になるだろう。前にインドに持って行ったときは、けっこう邪魔になった思い出。ただバイク移動がメインなら、そこまで苦にならないかもしれない。

他、GPSロガーとか、GoProのようなものを持って行っても楽しそうだ。こういうものは、一度買ったら帰国後も楽しめるものだし。なんだか、荷物が高価なものばかりになりそうだ。しかし、前にインドに行ったときの貧相な旅に比べると、だいぶ充実・快適な旅になりそうである。


6.12.2016

まにまに

図書館へ行って読書をしようと思ったが子どもが多くてうるさいので帰宅した。日本の子どもはうるさい。田舎の子どもは特にそうだ。海外にたいして行ったわけではないけど、スーパーとかレストランとか、何でもない場所で子どもが「絶叫」しているのは日本くらいだと思う。なぜなのかはわからない。海外の子どもでも、走ったり、飛び跳ねたりということはある。しかし、「絶叫」はしない。

日本では、「元気な子どもは声が大きい」という文化風土でもあるのかもしれない。たしかに、「元気よくあいさつしましょう」という教育はある。「大きな声でお歌を唄いましょう」という声かけはある。だいたいの場合、「丁寧に挨拶しましょう」とか、「上手に唄いましょう」とはならない。そのようなことを子どもに「押しつける」ことは不憫なのはわかる。子どもにそんなことを求めてもしょうがない。しかし、「元気」であることはなぜか強制される。気むずかしい子どもや、繊細な子ども、たまたま不機嫌な子どもでさえも、「元気に絶叫」することが強制される。

何もないのにわざわざ「絶叫」したがる子どもはいない。日本の子どもたちのそれは、不自然な光景である、子どもたちも結局は教化されているのである。

これもまたサザエさん的なイデオロギーなのだろう。前にムーミンとサザエさんを比較したけど、サザエさんには孤独にこもりがちな内省的な人物は一切存在しない。だれもが笑顔で円卓を囲む。円卓の外の人間は、「ないもの」として扱われる。「ムーミン」では、スナフキンやおしゃまさんが、誕生日パーティであっても「独り飯」をしている。これも文化的な差か。

日本という国は、だいぶ均質化された世界で生きづらいように感じる。生きづらいムードは確かにある。いい加減に、無気力に、怠惰に生きられる社会の方がずっと望ましいように思われる。人間はそも怠惰な生き物だ。一日8時間も、勤勉に働くようにはできていない。しかしこの国はそれ以上を求めるのが常である。



私はさいきん会社という狭いコミュニティーにおいて周囲に打ち解け、認められたという感がある。これまでと比べると、冷たい個人の世界に落ち込むことがあまりなくなった。私は他者と調和しはじめたということであり、これはたいへんな変化である。私は不自然に歪められた人格から円熟した人格に変わりつつある気がする。これは、単純に加齢による変化なのかもしれない。特段、社会に対して拒否反応をしなくなっている。「そういうものだ」という感じで事象を受けいることができる。

長い苦しみの時代が四半世紀続いたわけで、それもいまの人格を獲得するためだったとすれば、まあ良いのかもしれない。私は鋭敏な神経を持っていた。それで、少しの刺激が苦痛でしかたなかった。いまでもその神経は、ひとよりも過敏だけど、「生きることに慣れた」というべきか、「そういう自分であることに慣れた」というべきか、ふつうより扱いの難しい楽器やバイクを、やっと使いこなせるようになったような感覚である。鬱病だとか、神経症だとか、そういう症状になるひとはたくさんいるけども、みなこういう「御しがたい自己」というものを持っているのだと思う。そして、それは決して悪いことではないように思われる。

まあこうした自己充足感も一時的なものなのかもしれない。この安定感は、ほとんどがSとの関わりで得られたものだと私は思う。しかしあたたかく、持続するようなものである。



旅用のバッグを買った。いつまで準備をしているのかという気もする。仕事中にパニック障害を起こしたのが5月、辞める決意を固めたのだが、ずるずると引き延ばしてしまった。

いまは仕事が楽だ。派遣社員が入ったので、仕事の負担が以前の半分くらいになった。だいたい8時間で帰れるし、給料は高いし、家賃手当が8割出るから、田舎暮らしさえ嫌でなければ恵まれた環境と言える。職場の雰囲気も悪くない。それで……。

まあ旅には出なければならない。中北米へ行くなら今がシーズンだ。ただ、冬であってもオーストラリアや南米に行けばよいという気もしている。Sが8月に仕事を辞めるというので、それまで待つのも良いかもしれない。

風のまにまに生きて行きたいと考えている。抱えきれない熱望を持つ年齢でもなくなった。畜生のように無意識的に生きて、気づいたら死んでいるという気がする。

6.11.2016

対人恐怖の克服

昨日はSと家でビーフシチューを作って食べた。Sは私が豚肉と牛肉を食べないのをそれとなく知っているから、鶏肉でよいと言ってくれた。鶏肉と、タマネギ、にんじん、じゃがいもを炒め、これを煮る。そうして、ルーを入れる。軽く焼いたフランスパンと一緒に食す。簡単な料理だが、とてもおいしかった。

Sは車で帰るから、いつも私ばかりが酒を飲む。私は、酒を飲んでも取り乱すことはない。毎日酒を飲んでいるからだ。それでも、なんだか嬉しいような気持ちがして、上機嫌であることを隠せなかった。昨日はとくにそうであり、饒舌になった。私は、ひとと一緒にいて嬉しいことなどなかったのである。つねに、他者に悩まされてきた。私は孤独のなかで本を読み、孤独に酒を飲んでいた。それに満足していたはずだ。これはどういう変化なのだろう。

ギーターに「人間(じんかん)にあって迷わず」という言葉がある。その前後を付記すると「私が不生であり無始である、世界の偉大な主であると知る人は、人間にあって迷わず、すべての罪悪から解放される」。私はとくだんヒンドゥー教に信仰を持っているわけではないが、さいきんの私は「人間にあって迷わず」なのである。とは、ひととの関わりのなかでなにか悩みを持つことがない……言ってしまえば、対人恐怖的性質が改善されたのである。

このことの意味は、私は自分がただ自然であるだけで、他者が自分を受け入れることを知ったのである。世俗のひとびとは、なにか「能力」を身につけることで、他者に受け入れられる「資格」を持つと考える。これは「コミュニケーションスキル」であったり、ファッションや化粧のような「美的性質」だったり、法令や善性のような「道徳」であったり、あるいは金銭や身分のような「権力」であったりする。しかしそのいずれの資格も不要であることを知ったのである。

それどころか、これらの要素はかえって邪魔になる……。上のような資格をもっていると、逆にひとびとに不信がられるのである。そこにあるのは、まずもって虚飾であり、不義である。

まっとうで純粋な人間は、自然であるだけでその言動がおもしろく、ただ佇むだけで美しく、ただ行為するだけで正しく、また在るだけで気高いのである。私がそのような性質を持っていると言うつもりはないが、そのような存在に近づいていると思う。これはSに指摘をされて、初めて気づいたことである。

このような段階に進めば、いよいよ「解脱」も近いのかもしれない。私はことさらなにかの宗派を信仰するということがないが、宗教的感情はやはり持っている。



最近Kindleを買ったので、西田幾多郎「善の研究」を読むことにしている。数年前は数ページ読んで挫折したのだが、いまは自然に読める。どころか、当たり前のことをくどくどしく記述しているように思える。あらゆる書物は、秘密教義である。時期がくると、扉が開かれるものである。


6.08.2016

27

それでは私は、どこへ向かえばよいのですか。

――と問いたい気分だ。27歳ともなれば、どんな人間でも、ある程度先が見えてくるものだろうか。私はこういう人間であり、私にはこういう道がある……。ある文学者が、27歳という年は、突然啓示が現れる年だ、というけれど。私の周りの人間は、大人に見える。私がただひとり子どものままで、取り残されたような気分になる。

人生をどのように過ごすべきか、ということはあまり関心がないものの、世界とどう和合するかという点が気になっている。これは言ってしまえば資産家の心理である。私は世界との関わりで煩わしい思いをしたくないのである。そういうことは、別個の人格に任せるとして……私はより高みに昇りたいのである。

私はもうあまり下世話な世界とは関わりを持たないようにしたいと思っている。低俗な人間から離れようというのだ。社会のなかに生きる私はどうしてもそういう人種と関わりにならなければならない。「最低の存在」であるところのサイコパスとも関わらなければならない。しかしそういう人間と表面上では密に関わるように見えても、心を遠く離す術を知った。またそういう態度をとっているとサイコパスの方でも、「こいつはエサにならない」と嗅覚でわかるようだ。

私は世俗的な物事を無軌道に任せることにした。つまり、社会存在としての私は、どのように転ぼうと安泰なのである。なぜというに、経済的困窮に襲われれば私はその不幸を味わうことができるし(そうして新たな確実な智慧を身につけることができる)、成功すればそれはもちろんそれで良いのである。その「失敗と成功」は、私の精神的自己に対し、なんら影響を及ぼさない。だから、私は成功を「意志」することはない。これが自由ということである。

だから社会存在としての私にリソースを振ることはあまりしたくない。どちらだろうと構わないのである。私の関心は、もっとずっと重要なこと……。世界との和合という点に、興味があるのである。どうやら私は、「解脱」という仏教用語が理解できるという気がする。私はとくべつどの宗教が好きというわけではない。仏教も好きではないし、セム系一神教はより馴染みがない。

ただ最近の感覚として、世界を拒絶せずに、受け入れようという心持ちがあるのである。世人は、あたりまえのようにこの感覚を享受しているのかもしれない。ロカンタンの記述するところの、「黄色い壁」という奴だ。神経症の私は、どうも世界と自己を切り離して考えてしまうのである。自己に固執してしまう。他者を、自己に接触不可能だと考える。これは誤りだと私は考える。「個人」だの、「プライバシー」だの、そういったものは迷妄である。偽りの個人主義から抜け出て、究極的に普遍的な世界、それは必然的に抽象的、呪術的世界になるのだが、そういう世界のことを知らなければならないと考える。

6.07.2016

チンパンジーのコンゴは、二匹のメスが与えられたら、絵を描かなくなってしまった。(「創造のダイナミクス」アンソニー・ストー)
なんだか自分のしてきたことが全部バカらしかったように思える。私は自分が特別優れている個人のように思えない。昔はそう思っていたけど、私がひとよりも有能であるとか、そういう風には考えなくなった。

そもそも「私個人」というものにあまり信頼を置かなくなった。「個人」という概念が、まずイデオロギーだ。個人という概念を認めるとき、自然とあるイデオロギーを承認していることと変わらなくなる。われわれは個人たりうるのか。集団から離れることが可能なのか。古代において、個人はなかった。自由という概念もなかっただろう。そうして、彼らは不幸だったのか?幸福だったのか?

ともあれ個人としての私を確認してみると、あまり優れているようには思えない。凡人である。私は歴史の表舞台に立つような人間ではない。なにかを受賞するような人間ではないし、偉い人になるような人間ではない。私の両手には相変わらず何もない。神経症という不遇な障害はあるが、それ以外何もないままおじさんと化している。

家庭への欲求。女性への欲求。女性のやわらかい腕のなかで眠りたいと思うことが多々。家庭を守るひとりの女性さえあれば生活がとても満足のゆくものになると思う。

会社の後輩(これを以降「S」と呼ぼう)がたびたび台所の水回りを掃除してくれるたびに私は思う。私はたしかにSのような女性を求めている。これは「個人」としての対象ではなく女性一般、アニマとして私は求めるのである。なにかを専心する男には生活を守るだれかが必要である。だらしのない凡夫でもやはり女は必要である。人間はひとりで生きていけるものではない。家庭を築くとは生物としてあたり前ではないのか?ひとり愛なく生きようというとき、私は一個の奇形になろうとしているのではないか。

私はずっと女性とうまくやっていけないものだと思っていた。しかしSとはとにかくウマが合うのである。何を言っても共感できる。高度な共感レベルでないと通じないような冗談も通じる。私は実際Sのおかげで、社交的になり、人間への信頼をとりもどした。

たぶんあちらは異性として私を見ていないだろう。私も彼女を肉感的に見ることはあまりない。恋人というよりずっと肉親に近いという気がする。恋愛はそもそもつねに病的であり、愛情からは遠い。愛情はドラマチックではないし、結婚もまたそうである。私はSと結婚できるならしたいと思っている。たぶん向こうに気はないだろうが。それにしても、彼女のもつ肉体のなかであたたかい眠りにつきたいと思うことはある。

ああ、こんなことばかり書いていて何になるのかわからない。だれが読むんだ。

文章で食っていこうという気持ちはない。もしほんとうにそう思うのであれば、もっと早く行動しているだろう。私は小説家だの文筆家になることは、あまり優れたことではないように思う。さまざまな本に失望してしまった。科学や哲学、文学……。私には宗教や呪術がずっと興味がある。宗教や呪術はもっとも語らずそしてもっとも語っている。科学と呪術どちらが真理なのか。そも科学こそ呪術のひとつではないか。

世界を単純化してみたい。世界とゼロ距離にありたい。それが梵我一如ということなのだろう。私は世界から突き放されているひとをみる。そういう人からすれば、私はずいぶんましな生活をしていると感じる。世界から突き放されている人――智慧のない人、思慮の浅い人、目の見えない人、自分を傷つける人。まあ私はその点では、ずいぶんよくなったと思える。私の生活はよくなっていると思う。それはSのおかげでもあるし、私の身につけた知識によるものでもあるのだろう。

これまでの私は、あまりにも暗い茨の道にあった。ただ最近は、ずいぶん明るく、広く、気持ちがよい気分である。

「しかし治療法はありますよ。われとなんじとのあいだには橋がないというのは、また各人みな孤独で理解されずに歩いているというのは、妄想ですよ。その反対に、人びとが共通に持っているものは、各個人が各個に持っており他人と自己を区別する標準とするところのものより、はるかに多くかつ重大なのです。」
……
「じゃ、やってごらんなさいよ!本を読んだり、理論をひねくったりしてはいけない。……自分自身のことより、ほかの人のことをよけい考えるように、しばらく修業してみなさい!それが、なおるための唯一の道です」
「自分の幸福に対しある程度無関心にならなくてはいけない。自分なんかなんだ、と考えることを学ばなければいけない。それに役立つ手段がただひとつある。きみは、自分の幸福より相手の人の幸福が重大だというほどに、だれかある人を愛する修業をしなければならない。といって、恋をせよというのじゃありませんよ!そりゃ正反対です」
......
「まず自分のほうからほかの人びとを理解し、喜ばし、正しく遇するように試みなければなりません」(「春の嵐」ヘルマン・ヘッセ)

6.05.2016

世界構造

さして意味のない日々である。最近は若くなくなったと思う。つまりなにか真理とか知的探求というものに興味がない。文学も私を感動させない。人類にとって哲学や芸術とはなんであったか。一時的なけいれんかあるいは混乱ではなかったのか。

私という存在がなにかの存在によってどうにかなるのかというふうに考える。何事も変わらないように思える。私が石斧をもっていようとiPhone 6を持っていようと本質的には変わらないだろう。聖書だろうと火水の神だろうと変わらない。

知的に行きつくところまで行ってしまったのか、まだ進まなければいけないのかわからないのだが居心地のよさと同時に退屈さも感じる。私はあるていどの智慧を身につけたように思う。安定しており持続的でありまったく静かである。著述とは作用―反作用であり、明日も太陽を昇ると信じている人がこれを特段主張することはないように、苦痛がなければ書くこともないというわけだ。青い底でじっとしている。

いまの私は人間に対する信頼をもっている。ぜんたいこの信頼というものが金銭や快楽よりもずっと必要なものだろう。だから宗教はひとにまず信じることを説くのである。信じる、このことによって真理とは生まれる。まず真理があるのではないのであって、この不幸な倒錯こそプラトニズムの詐欺が生みだしたものである。

人間にたいする信頼とは世界にたいする信頼である。私はもっとも富んでいるという気がする。私は目の前を流れていくひとびとに何も感じない。私は時間のなかを流れるけどもそれも気にしない。



旅の準備をしようとおもうがそのまえに当然退職しなければならずこれをいつ突きつけるかという問題がある。私は会社の後輩の女性のことが気がかりである。私が世界に対する信頼をとりもどしたのはひとり彼女の貢献によるものだからである。私は彼女をもってして書籍のそとの人間もそれほど悪いものではないと思った。

彼女は左利きであり、さして美人でもないが、私は、彼女の涙は私の涙であり、慟哭は私の慟哭であると考える。こういった感情は愛情や恋愛感情というよりも共感とか信頼と言った方がよいかもしれない。しかしやはり恋愛感情に近いとも思える。これもまた永続し安定した静かな関係である。それは母子の関係に似ているかもしれない。私と近く似ているのである。もちろん男と女だからだいぶ違っており、それもまたおもしろい。

それでもまあ旅には出なければならないと思っている。とくだん出たいという願望はないのだが私の性向の根っこでもう旅に出ることになっているらしくあらゆる思考がその目的のために奉仕している。私は彼女と離別することがさびしいと感じるがああいう人間がこの世にひとりでも在るなら私は世界を愛せるという気がする。

人間に対する信頼とはそのようなものである。サイコパスのような悪魔はたしかに存在する。これは別格でありとびきりの悪である。でも、人間は大部分は善性である。知とはやはり善のように思える。すなわち知性のレベルがだいたい善のレベルだと私の目には見える。それは感受性の強さと言い換えていいかもしれない。つまづき傷つく人間こそだいたい知性は優れているものである。救いをもとめなければ知性は発達しない。

悪魔に利用されながらもまあまあ満足しているひとは善性に欠ける。だがそれは無知がゆえである。無知は、上のような感受性の乏しさによるものだから、人間に利用される家畜が「悪」ではないように、責任を求められるものではない。ただ彼らの行為はだいたい悪行であって、害悪をふりまく助けをしていることには違いない。

このように極点としてのルシファーと、その道具となっている感受性の乏しい愚かな人間と、悪を見抜くようなまあまあ聡いといえる人間がいる。世の中の構造とはそうなっているようである。人類の歴史とは、表向きにはどれだけ変遷あるいは「進歩」しようと、本質的には変わらない。だから石斧だろうとiPhone6だろうと変わらないのである。私は学問とか思想書とかネットで上のような事実を知ったけれども、古代人だって同じ智慧を持っていたに違いない。それは口伝だったり慣習だったりするだろうけども「宗教以前」にも同じ知性はあっただろうと思っている。いまよりももっと「常識的」だったかもしれない。いまは「民主主義」や「自由・博愛・平等」だのが支配的イデオロギーとなっており、悪魔の存在なんてだれも信じていないからである。

まあ上のような事実を確認するためにも旅にでなくてはならない。日本はいくらか特殊な国であることに違いなく、私は世界に共通する普遍的な事実を見つけてみたいと思っているのである。この感覚は書籍でなく旅の体験としてではないと得られないように思う。

6.02.2016

chinomigo

最近なにも書かずに過ごしていた。正確には、書くことには書くのだが、公開できる内容ではないので書いては消してしまっていた。読書もやめていた。そうして、何も書かず、何も表現しないで過ごしていたら、またひどい神経症になってきた。

あなたの孤独のなかへいきなさい――という声が聞こえるのだが、今は居心地のよい母乳の海に沈みたいという気もする。この辺は「ナルチスとゴルトムント」的な葛藤というべきか。広く言えば、大地か天かということなのだ。ぜんたい天と地が分かれているということが、われわれの第一の不幸なのである。

最近の私は女性に救われている。女性の本当の味を知ったという気がする。尽くことのない愛情!私を見つめるのは、彼女たちの眼なのである。だから私は今、ゴルトムントの気持ちもわかる。――人間の半分は女性であるということは、尋常なことではない。

私は、女性の意のままに動かされている。さまざまな思想や宗教が、女性を無視・軽視していることは不思議なことだ。女性の知は軽視されている。女の知は最近、「フェミニズム」という逆立ちした思想によってさらにこっぴどく引き裂かれた。しかしロゴスがカオスの海に浮く小舟であるように、男もまた母乳の上に浮かぶ存在なのである。

私は愛情を当たり前のものとして引き受ける。水が低みを目指すように、自然に愛情が降りそそぐ。私は戦士のような強靭さを持っているかもしれないし、また哲人のような知恵を持っているかもしれないが、男は変わらず陰であり、女性はやはり太陽であるのだろう。

――というような、倒錯したような文章ばかり書いているので、これらを公開する前に首をかしげて、削除してしまうということが今までの大半だった。まあ私にも恥じらいの感情があるのである。オナニーがどうとか書くことはできても、孤独を否定すること、過去の自閉的な自己を反省すること、これはすこし気恥ずかしい。

最近の私はまともになったと言われる。「初めて会ったときは、なんだこいつは、無口だ、と思ったが、今はふつうの男の子に見える」と40代の女性社員が言っていた。就職して、社会経験を経て私は変わったのだろうか。