7.31.2016

冷たさの欠如

Sのことはやはり好きだと思う。結婚してしまってもうまく行くのではないかと思っている。もっとも結婚する気はあまりない。合わないところもある。彼女は犬が好きだが、私は猫が好きだ。彼女は肉が好きだが、私は野菜が好きだ。彼女は都会が好きだが、私は田舎が好きだ。彼女はテレビが好きだが、私は読書が好きだ。彼女は友達が多いが、私にはいない。彼女はロックが好きで、私はジャズやクラシックが好き。もちろん、これらの相違以上に似通っているところがあり、だから仲良くしているのだが。

今日もSは夕方から私の家で過ごした。私はSに料理をふるまった。つぎに私はSの首筋にキスをする。ここのところ、毎日Sは私の家にきている。それで実際にSは今後も、「毎日私の家にくる」と言っている。ありがたいのか、迷惑なのかわからない。私は孤独を恃みにして生きてきたから。

アンソニー・ストーは「孤独は天才の学校である」と言った。天才は孤独であっても、孤独者が天才とは限らないとは思う。でもまあ私は生涯孤独だろうと思って生きてきたのである。それはだいたい偉大な哲学者とか宗教家と同じ道であった。その道から私はHead over heelsに落下した。そのことの意味は結局私が凡夫であることを意味するのかもしれない。

いやそれにしても、Sという女は不思議な女だと思う。全体女というのは不思議なものだけど、Sはその不思議を全面に出してくるから、否が応でも向き合わなければならない。私には、「平均」とか「普通」、「正常」とかいう意味がいまいちわからない。それがどのように定式化されるのか。私がだいいちに苦悶したのも自分の苦悩が「普通」ではないことだった。それは神経症の苦しみだった。「病的」「異常」とされる苦しみだった。生きることは苦悩だった。

もっとも生きることは苦しみである。そうして男女関係というのも、生きる上で極めて重要な要素である。私は苦しむことにおいて異常者であったし、男女関係においても異常者なのかもしれない、と思う。異常者というとすこしキツイ言葉のようだけど、平均人とか凡人もまたけっこうな侮蔑語だ。「私はふつうではない」ということに、とても苦しい時期があったし、それが救いになることもある思う。

それで、私はふつうではないということに少し自信を持ちつつある。そうなったのは、Sという共鳴者があるからである。彼女ほど私の心に深く入ったものはいない。
私は著作を通して、ときおり若い読者たちが混乱状態に陥るところまで、つまり彼らがたった一人で、よりどころとなる慣習なしに人生の謎と対決するに至るまで力を貸しました。そのほとんどの人にとって、そのことはすでに危険なことです。そして、それゆえに、ほとんどの人々がその状態を回避して、新しい精神的支柱となる人間関係やよりどころとなる人々を捜し求めます。無秩序の中に踏み込んで私たちの時代の地獄を意識して体験する精神力をもつひじょうに少数の人々は、「指導者」なしに自力でそれをやりとげます。(ヘルマン・ヘッセ)
私も「ほとんどの人々」だったかな?そうして精神力に欠けているのかもしれない。

Sは私を抱擁し、私の鎖骨に口づけをする。Sがいなくなったら、どうなるだろうか。Sはドライな女だし、それでいて女としての魅力はしっかりとあるから、結婚に困るということはないだろう。私も孤独の生活には慣れているから、困ることもないのである。だからまあ、離れて生きていくとしても、悪いことはないのだと思う。執着だけはしたくないと私は考えている。


7.30.2016

血の導き

最近は毎日のようにSと遊んでいる。私は女が女を発現するときにもっとも美しいと思っている。だから女特有のやさしさとか、あたたかさとか、すこしの愚かしさ、するどい嗅覚に触れると、私はとても嬉しくなる。ももの感触とか、胸のふくらみとか、やわらかな髪、くちびるの感触。

Sは処女ではないし、むしろ経験はたくさんあるのだろうが、私はそのことがあまり気にならない。Sの昔の男の話を聞いても、嫉妬の感情などはあまりわかない。そのようなことを、女は本当は語りたいものだと思う。かつて寝た男たちは、現在の女を構成するひとつの要素でもある。だから、それはべつに隠すことでもないと思う。

世間には、女に処女性を求める人があるかもしれないが、私は処女を守る女など嫌いである。なんだか根拠薄弱で、バカバカしいからである。結局のところ、「やまとなでしこ」のような貞淑な女というイメージは、明治以降、家父長制の広まる近代以降の日本のエセ伝統であって、せいぜい100年近くのものでしかない。家父長制は貴族や武士家系には伝統的に存在したのだろうが、そういった上流階級を除けば、夫と妻は対等であった。

それだから、「おぼこ」を求める男というのは、支配欲や権力欲の強い男なのだと思う。性的関係において、自分が支配的立場を得たいのだと思う。一度性交したくらいでひるんだり泣き出したりする女が好きなのであればそれは少し異常だ。また夫が舵をとりそれに従う妻というモデルも嫌だ。私はむしろ女に引っぱっていってもらいたいのだ。男の領域は理性や権勢だが、女の領域は不条理や肉体的な領域になる。男は光と浮遊の世界、女は暗い血の世界。私は光よりも血に動かされたいと願う。

それでSとは交際の「契約」を交わしていない。たとえば男女の関係とはふつう「付き合ってください」と片方が「申請」し残りがそれを「受理」するという手続きをとるのが一般的である。私はこのような契約にあまり価値を見いだせない。これもまたばかばかしい根拠薄弱の習慣だと思う。……基本的に、世の中のひとびとはうすらバカではないかと思う。

双方が重要な存在だと相手を認めているなら、そういう関係を続ければよいだけのことだ。それでそういう関係が嫌になったりすれば、自然と離れればよいと思う。他の異性に興味が出れば、離れてしまえばよい。たしかに、「契約」を結べばたとえば相手がその契約を不履行した、たとえば浮気したとか、相手にしてくれないとかいったときに、相手の責任を問うことはできる。それだからどうなのか。相手の心が離れていることを責めてどうするのか。愛情はもう戻らない。ぜんたい男女間の「契約」とは何の意味があるのかわからない。結局「彼氏」「彼女」の関係に憧れており、その承認を求めているのであり、「自分には恋人がいる」というムードに憧れを抱いているにすぎない。ろくでもない男や女が「彼氏」「彼女」のキャラクターを演じる。これも近代以降の一個の流行というかイデオロギーに過ぎない。痙攣のような習慣である。

私も三十歳近くになって周りのひとはしだいに結婚していっているがこの男女の結婚は不幸だとか幸福だろうというそういう判断はある程度つくようになった。そのとき旦那の稼ぎが良いとか女が美人とかはあまり関係ないのである。ただ男女がうまく行くかは双方の智慧の程度によると思う。もちろんこれは学歴や知能指数の話ではない。道徳や哲学、信仰といった実存的あるいは霊的な智慧である(ただ女にとっての智慧とは哲学史の学習や聖典の暗記とは別個だ)。

片方が愚鈍で片方が賢明であるということはあまりないようで程度の低い人間は程度の低い人間と付き合う。それで自分の結婚生活がなんで不幸なのかわからないという顔をしている。あるいは偽の幸福を作りだし歪な笑顔を浮かべている。このようなことは知的に上位な者にははっきりとわかるのである。その関係の醜悪さはひとめで見てとれるのである。人間に必要なのはやはり知であると思う。私は愚鈍な女とはぜったいに結婚できないと感じる。


それで最近は貯金が増えてきたので投資でもしてみようかと思うことがあった。私は投資で成功する人間なのではないかと思っている。つまり私はdeserve to be richであるという気がしている。FXは9割の人間が失敗して退場するというが、1割も成功するのであれば十分だと感じる。私がdeserveであるというのはあまり金に価値を見出していないからである。必要に迫られて求めるとろくなことはないのであり童貞が女を求めるときに失敗するのはその理由によると思う。求めぬ人間がもっとも求まれるのであり富においても同様だと思う。執着が迷妄の原因であるとギーターにも書いてある。

とりあえずなくなっても旅には支障のない100万円くらいを使ってみようかと考えている。当面の目標はマイナス収支にならないことである。ただ私にとってもっとも重要な投資とは知恵を身につけることに変わりなく、金銭的成功は余事であり付随物である。だから投資関係にあまり時間を割きたくないとは思っている。読書とかSとの戯れの方がはるかに優先度は高い。

今日は少し高慢な感じで文章を書いているけど、昔はこんな感じだったと思う。鼻についた人があるかもしれないがそんなことは知らない。

7.27.2016

セックスのゴム

Sはとてもおもしろい女だ。

今日は仕事が終わったあとに、Sと一緒に家に帰った。それで私は酒を飲み、Sはひたすらにしゃべった。

Sが東京で夜の仕事をしていたときのことを聞いた。キャバクラと、ガールズバーの間くらいの水商売らしい。いろんな客がいたという。それはさながら、雑多な病気を抱えてくる患者のようである。鬱病気質の人間、放埒な遊び人、なかには本当に処置不可能なサイコパス系。

職業は経営者、開業医、研究者、学生、工員、ヤクザ、ヤク中などさまざま。Sは割と社会的に成功した、年を食った中年くらいの男性に好かれたらしい(なんとなくわかる気がする)。そのときはだいたい、インテリ女子大生のキャラを使う。工員やヤクザのときや、高慢なエリートのときは、バカの振りをするのだという。Sはそのときの経験はとても貴重だと思う、と言った。私も同意した。

それで、どういうわけか、女の性の話になった。私は女の生理現象のことを、一から学んだ。月経のこと、妊娠のこと、また女同士における通常は隠匿される関係のこと。

それで最後にSは、私にこういった。「セックスするときは、ゴムをしなきゃダメだよ」と。それで、「私に子どもができたら、面倒をみなきゃだめだよ」と言われた。文面よりもずっと、軽い感じだけど。

Sと私の関係が、なぜここまでスムーズなのかわからない。潤滑油のよく行き渡った歯車のような関係である。彼女は、私をすっかり理解してしまっているように思われる。また私も彼女をいくらか理解できている。私の世界において、ここまで人と親密になったことはない。奇妙なことだと思う。

私とSは、いつか別れるのだろうか。仲はいいけど、Sは私と一緒になりたいと思っているのだろうか。私は、なるようにしかならないと思っている。あるいは私は、水商売の女に引っかかる、バカな男なのかもしれない。

7.25.2016

書くこと

最近の私が書くことはまるでバカのようだし、だれもこんなものを求めていないと思う。私自身でさえ自分の書いたものに対して愛着わかず無頓着だ。それでこのようなことに意味があるのかと考えている。

科学は言説である。文学もまたそうである。哲学も同様である。言説自体を乗りこえようという考え方をしているのは、せいぜい宗教と形而上学くらいである。それ以外は、「書かれたもの」に信頼を置いている。ある基盤を保っている。それで宗教と形而上学はその基盤を問い直す能力、あるいは目的を持っている。もっとも、キリスト教はこの例外かもしれない。始めに「ロゴス」があったのだから。

書くことで何かに到達できるのだろうか。書くこと、それは初めから孤独への拒絶を意志している。書くこと、その満足に浸ってよいのか。書くことによって失われるものがある。日本人は観光地でもカメラを離さず、生きた眼で鑑賞しようとしない、とよく外国人に揶揄されていた(もっとも、いまは外国人の方が「自撮り棒」でカメラに熱中しているようにも感じるのだが)。書かれたもの、書くもの、それらに価値はあるのだろうか。書くこと、それは営利のひとつではある。金は稼げるだろうし、名も広まるだろうと思う。それで書くことは、いったい誠実なのだろうか。真実への道なのだろうか。また、それは偉大なのだろうか。正直なのだろうか。

と考えて、言説に対する態度を、neutralizeしてみた。書かれたものを読み続けることは、写真を見続けることと同じようなことかもしれない。生はもっと広く開かれているのかもしれない。「記述されず、記述しない世界」というのが、もっと広くあるのかもしれない。われわれが無意識とか、狂気とか、愚鈍とか思う世界のうちに。泥と汗と吐息の領域に。世界はもっと広いのかもしれない。と考えると、すこし興奮してきた。



旅の準備は、荷物ということに関してはほとんど準備が整った。たいていのことは金でなんとかなるものだ。ジャケットに1万円、バッグに2万円……金は飛ぶけど、これらの道具を身につけると、時代の進歩を感じる。あとはビザや国際免許をとれば出発できる。もう、どうとでもなるという安心感がある。世界は、そこまで変わらないはずだからである。そういうわけで、今度の旅は失望をはじめから抱いて出発することになると思う。私も成熟したということである。

7.24.2016

Zacking

所用で実家まで帰ったのだが新幹線に乗っていくことにした。

ほんとうはバイクで行こうと思っていた。というのも、現在手元に三台のバイクがあり、もし旅に向けて身辺整理をするとなると、これがもっともかさばる「荷物」になるはずだからである。一台でも実家のガレージに格納しておきたかった。だが体調優れず不眠気味だったので断念した。片道500km、10時間以上はかかる見込みなのでコンディションは大事だ。

それで新幹線でKindleを読みふけった。

フーコーを久しぶりに読んだらさっぱり理解できなかった。

それで病理学者である梶田昭の「医学の歴史」を読んだ。私は医学は一個の秘教であると考えているから、その系譜が古代ギリシャから網羅できたのはよい経験だった。また医学は政治的な影響力もバカにならない。アメリカは製薬企業のロビー活動が盛んだというが日本では医師会が堂々と圧力をかけている。そういった角度から本書を読んでも楽しめると思う。とくに明治政府がドイツ医学を採択するあたりがおもしろい。

また石川啄木も読んだがこれはあまりおもしろくなかった。結局はこれも「近代的産物」であり、この類の本は飽き飽きしている。日本に「個人主義」「民主主義」といったイデオロギーを広める装置のひとつであり夏目漱石だの太宰治のような連中と同列だ。私は悲しい、涙が出る、孤独だ、死にたい、そういう記述に終始している。そういう直截な感情をセンスなく乗っけたのが近代文学の特徴である。内容としてつまらないのだが「時代精神」に則っていたから高く評価されている。権威とはつねにそういうものである。たとえばカントを昨今の学生ですらありがたがって読むのはまだ権威的存在だからである。

それであとは何を読んだのだったかな。「世界システム論」に関する本をまた読んでいる。これがないと現今の社会事情がまったくつかめなくなる。それとあとはモースの有名な「譲与論」を読んでいる。これもさっぱりつまらなくて何がよいのかわからない。

実家に帰ってすぐ酒を飲んだので本を読む気になれず漫画を読んだ。私はうすた京介というギャグ漫画家が好きでその漫画ばかり読んでいる。「すごいよマサルさん」が代表作である。10年くらい前に買った漫画だがギャグのキレが良く笑いながら読んだ。

私のいとこはあいかわらず商事で働いており海外から帰国し銀座の家賃20万円のところで暮らしているらしい。もちろん会社負担だ。そうして年収はとりあえず1000万円は超えているという。たぶん1500万円くらいはいっていると思う。いとこは私のひとつ上の年齢だ。女がそれほど稼いでどうするのかという気はするが、私もあやかりたいものである。

私も金を稼ぎたいと思ってあれこれ呻吟する時期があった、大物になりたいというか出世したいというような感情を持つことがあった。それでおそらく私は自分に商才があると思った。経済について勉強すればそれなりに稼げるだろうという確信があった。それで一時期は年収2000万円を目標にしていた。

ただまあ金を稼ぐ前にもっとも効率的な投資はなにかと自分に問うた。そうしたら、知識をたくわえることだということで結論した。そういうわけなのでそろばんを弾く前に読書を続けていたらもう30手前になってしまった。

社会的人格は30歳までが一区切りなのだという。この意味は30歳までにある程度性向が決まってしまう。それからはひとの性向はめったに変わらず固定されてしまうのである。三十路でのらくらしている男は60までのらくらと。出世してゆくひとは上り調子といった具合だ。

この感覚は私にもわかるように思う、26歳くらいのときから自分が何にでもなれる卵のような存在ではないことを知った。私はもう半固形であり動かしようがなくなるような感覚に襲われたのである。ただまあこれは不安定な青年期を脱したということであり、あんがい心地よいものである。自分が何者であるべきかと悩む時間はほんとうに苦しいものだから。

それで私はもう金を稼ごうという気は起きないだろうと思った。それよりも知を蓄えることに尽きるだろうと思った。そういえば、電車のなかで「イワンのばか」も読んだのだった。これはトルストイがどういう意図をもって書いたのかさっぱりわからなかったが、権威や富に無頓着なイワンはまあまあ良い人格のように思えた。

私が教養を身につけてよかったと思うのは、上の商社勤めのいとこに対しあまり劣等感を感じないことである。教養とは、人類にひろく普遍的な性質を教えてくれるものらしい。金があっても不幸な人はあるし、その逆も然り。別にいとこが不幸ということはないだろうし、尊敬しているが、人として生きる以上私と同列であるという感覚がある。知識を得たことによって、私はほとんど、ひとを妬むということがなくなった。

私は結局知に生きるしかないということである。ある意味でありがたいことである。ラジャスよりはサットヴァの気質ということである。私は知において安寧を見出す。

それにしても、Sのことが頭から離れないので困っている。私はSと、ときどき結婚の話をする。しても良いと思うけど、とりあえずは拒絶のフリをしている。私が結婚などとは大それているようにも感じる。まあ結局は、なるようにしかならない。どれほどのことがあっても、Sは私を裏切らない友人である。その意味ではこのうえなく貴重な財産である。

7.23.2016

非局在者

しょうもない生禅だった。

日本人がしだいに貧しくなってゆく一方で私の富は蓄積している。それで私はポルシェが欲しいと思った。自分の会社が欲しいと思った。日本人の9割が買うような粗末な家ではなく、しっかりとした家が欲しいと思った。それとよく気がつく嫁も欲しいと思った。それと自由になる時間も欲しいと思った。

家を買えば家に固定される。ポルシェを買えばポルシェにしばられる。よく持つ人は物に持たれる。それだから何も買わず何も身につけず放浪するという生活にも私は憧れる。砂埃にまみれ肉体ひとつで悟りを得る道もある。

私には二通りの人生があるのであってこれは難しいテーマだ。しかしこの煩悶はとても普遍的なものである。「二つの魂が、ああ、わしの胸に宿っている。その一つが他の一つから離れようとする。一つははげしい愛欲をもってからみつく道具で、現世にしがみついている。も一つは、むりやりちりをのがれて高い霊どもの世界にのぼろうとしている。」というようなファウストの一節がある(高橋健二訳)。現世的な理想を追うのか霊的な理想を追うのか。

俗人は現世的な利益を追う。ほとんどの学者や聖職者も同様だ。それで霊的な理想を追うのは少数のエリートである。ただこのエリート主義も厄介なものだ。エリートであるから正しいわけではないと私は思っている。

世間的成功をおさめていても幸福でない人はいる。霊的に満ちていても現世には惹かれるものである。例えば何十年も禁欲に励んだ修行僧が、若い女の肌に触れた一瞬に、すべて瓦解するということがある。結局のところパスカルの言ったように、ひとはこのあいだを揺れ動くものでしかないのかもしれない。ひとにただひとつ理性や主体があるのではない。人間は不断にゆれうごく中間者、非局在者であるという考え方がいちばん正当であるように思われる。

それだから結局のところ、未分化の状態に戻ることが大事なのだと思う。現世的な利益と、霊的な利益があるのではない。この二項対立をいったん棄却する。われわれはただ在るのであって、それ以上ではない。だから禁欲的生活の末に女の肌に目覚めたところで、自分の不貞を責める必要はないのだと思う。性的快楽もまた真理に近づく術であるかもしれない。密教など秘密主義の宗教ではひたすら快楽をむさぼる修行もある。ただ心のうちの従うままに生きるのがもっとも優れていると私は思う。やはり私はルソーの言っていることが好きだと思う。

7.20.2016

沈み、破裂する

我々が実在を知るというのは、自己の外の物を知るのではない、自己自身を知るのである。(「善の研究」)
昨日で「善の研究」を読み終えたがとくに大きな発見はなかった。はいはいそうだよねといった具合だ。

知識はふつう分岐し広がっていくように思われている。たとえば炭素や水素などの元素をただ知っているだけの者が、電子陽子など原子の構造物を知り、さらに複雑な高分子化合物を知るとすれば、それは広がってゆくといえると思う。ただ知識を幾層もつみかさねていくと、ある段階で、いろんな知識が統合され、ついには「一」に到達することがある。これは転倒に近い感覚だ。なにかを事細かに調べていたのに、すべてが融合してしまうのだから。言ってしまえばそれは、経験から演繹への大逆転である。

ある定義以前、言語以前、したがって未分化の智慧の存在を、いつかは知ることになる。この存在が神だったり永遠だったりオーム、一円、光あるいは無であったりするのだが、ともあれわれわれの「知識」は、いちど限りなく膨張し、つぎにはしぼんでしまい、普遍化してしまうものらしい。いろんな言語を学ぶこと、ビジネスのコツを学体得すること、音楽のスケールを練習すること、なんでもよいのだが、だんだんに知をつきつめてゆくと一極点にたどり着く。

そういうわけだから、私は2012年の12月に「善の研究」を読もうと努力して、けっきょく失敗したのだが、いまとなっては容易に読むことができ、ことさらに自明なことを叙述する西田は少し変人なのだなと思うくらいになった。いろいろ興味本位に読書した結果、「善の研究」の訴えることはすでに当然の智慧になったのである。

もちろん西田もいろんな考えがあって書いたに違いない、私のような泡沫人間よりはるかに智慧も徳も高いはずであるし、幼児書を書く人間の知能が幼児並でないことくらい私も知っている。

それで私はもっと深い智慧を得たいと思った。今は愛について。

知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられている。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。然らば如何なる精神作用であるか、一言にていえば主客合一の作用である。(……)愛は知の結果、知は愛の結果というように、この両作用を分けて考えては未だ愛と知の真相を得た者ではない。知は愛、愛は知である。たとえば我々が自己の好む所に熱中する時は殆ど無意識である。自己を忘れ、ただ自己以上の不可思議力が独り堂々として働いている。この時が主もなく客もなく、真の主客合一である。この時が知即愛、愛即知である。(同書)
ナルチスとゴルトムント――。そういうわけで、読みにくくなったけど、酔っぱらっているのでしめくくることにする。知は苦しみであるならば、愛も苦しみなはずである。そうして世の中には、苦しむことが宿命づけられている人間が存在する。

いまは、医学の歴史を調べている。医学の歴史と言っても、西洋医学の歴史である。医学とは、ふしぎな学問である。医学なくして科学はあっただろうか?合成繊維の衣料と感染症のワクチン、どちらが大切だったか?科学の両輪は、哲学と医学であるような気がしている。私はもちろん、科学に根本的な反感を抱いているのだけど。

7.18.2016

Sについて

Sの過去を知ることはおもしろいことだと思った。

並の女ではないようで今の仕事に就くまでは東京の繁華街ではたらき中年男性を虜にしていたらしい。働いていたのは夜の店であるがガールズバーやキャバクラのような風俗店ではなくアルコールを提供するバーや居酒屋であったようだ。それで実業家だの商社マンなどに大いに好かれたようで直接金品を受けとることはなかったにせよ食事だの酒だけで数百万円を貢がせた。社会的に成功していても人生がうまくいっていない男性は予想以上に多いというのがSの談である。

それで今Sが住んでいるのはほんとうにさびれた田舎である。小学校の全校生徒は一桁しかいなかったらしい。山と海くらいしかなく、したがって農業や漁業くらいしか産業のない地域で都会の友人など招くとこんなところに人間が住めるのかと言われるそうだ。こうした環境においてSのような人間が育つということは不思議なことだ。

現在のSの人格の謎を解く鍵に兄の存在がある。小学生の頃、Sと兄がいっしょに通学しているとき、兄が車に轢かれた。「ありえない量の出血」を見てSは兄が死んだと思った。そうして怖くなって逃げ出した。車の運転主が救急車を呼んだ。田舎では常にそうだが救急車の到着が遅く兄は脳に障害を負ったらしい。それでS曰く兄は20代後半だが知能は小学生のときのままで停まっているということだ。またひどい癲癇発作の後遺症を負ったために意識喪失する全身発作もあればじっと黙って一点を見つめたままのときもあるようだ。

Sはほとんど他者との意思疎通の難しい兄を見て育った。それで兄を観察しある程度の感情を察する能力を知った。たとえば物言わぬ兄が何を欲し何を望まぬかということについて、「解読して」知る術を得た。この観察眼は一種のテレパシーに近いものだと思う。脳障害の兄で機微を知ることができるのだから、健常者などの感情は簡単に知ることができるらしい。たとえば私が押し黙ってなにか考え事をしているとそれを当ててしまう。また私がなにか不満に思っていることがあると、知らぬ間にそれを解決してしまう。Sの何者かを知らない人はほんとうにぎょっとするのではないかと思う。

そういった霊感に近い感覚をSは持っている。女の直感や嗅覚といったものをずっと鋭くしたような感じだ。私が知る限りここまで感情を察知する能力がある女性はいなかった。それだから私はつねづねSに驚嘆し感心してしまう。

また、私が固く心を閉ざしていたのを、強引にこじ開けたのも彼女であった。それで私の対人恐怖的な、神経症的な部分がだいぶ改善された。Sに頭があがらないのは、私をある意味で「治療」したからである。なぜ彼女が私に興味を持ったかはわからない。「なんとなくおもしろそうだった」と彼女は言うが、たしかに何年間も孤独にこころを閉ざして過ごしていた人間は、興味深いものだと思う。「治療」はだれにでもできる仕事ではないから、都心の実業家連中がSを寵愛したというのも理解できる話である。

Sとは、現在も不思議な関係が続いている。恋人ではないが、恋人に近いような関係だ。昨日も数時間ドライブしたあと、自宅で食事をし、そのあと抱擁した。恋人になってしまっても良いのかもしれないと思うことがある。あいまいな関係をSも望んではいないようだ。ただ私はまだ自分にそこまでの自信がない。また数年間旅に出るのだから、Sもそのあいだ待っているわけにはいかないだろう。こればかりは心苦しいけど、しようがないことのように思う。


7.17.2016

冷たさと暗さ

それで昨日は山へ籠もって野宿した。

バイクに荷を積んで、崩落で通行止めになった林道のその先でテントを張った。火をおこして、酒を飲んだ。それから川へ降りて少し泳いだ。腰くらいの深さで流れがおだやかなところ。水は青く底まで見えている。全裸で泳ぐがこれは気持ちがよかった。ただ顔を水につけるとすこし不気味だったのでやめた。ひとりだれもこない野山では警戒心がはたらく。水ははじめ痛いくらい冷たかったがしばらく泳ぐと慣れた。

バイクもハイカーもだれもこなかった。四輪はそもそも到達できないと思う。夜の闇が迫ると鹿の鳴き声と川のせせらぎくらいしか聞こえない。ただ人間がくる恐れはほとんどないからその点は安心だった。本を読むつもりだったが火を見ている方が楽しかったので結局読まなかった。視界が暗くなるとテントに引っ込んだ。それで音楽を聴きながらすぐ寝た。

野宿をするときは不安のせいか深酒のせいか知らないが夜中に何度も起きてしまう。だいたい一晩で5,6回は起きてしまう。たぶんレム睡眠になるたびに起きているのではないかと思う。それで時計を確認してまだ夜中であることに失望する。夜更けの山は人間の領域ではない。獣や神の支配する空間であり、そんなところにお邪魔しているわけだから、心細いものである。

それで朝六時頃に起きて三十分ほど散歩していた。途中で雨が降りはじめてずぶ濡れになった。すぐ引き返しテントの中に避難したがテントが雨漏りしていた。寝袋にも水がしみこんでいた。ほんとうにイライラしながら荷物をまとめた。もうこんなもの打っちゃってやろうかと思いながらテントを丸めた。それで朝のコーヒーもタバコもなしに撤退した。シャツ一枚で凍えるようだったが下界に降りていくにつれ暖かくなり雨も止んだ。それで風邪を引くこともなく帰宅できた。



海外旅行にそなえてテント泊の練習をしているのだけどけっこうしんどかった。でもまあ良い経験だった。日本の降水量はだいたい世界標準の倍と言われるくらい多いのであり、海外ではテント泊でずぶ濡れになることはあまりないのではないと思う。東南アジアに旅行したときもそんなに雨を経験しなかった。また雨が降ってもスコールのような通り雨であり、一時間も待てば止んでいるということが多かったと思う。その証拠に傘を持っている人はほとんどいなかった。

どうもテントは嵩張るのが嫌だと思う。大荷物はテントと、寝袋と、あとは断熱クッション。欲をいえば折りたたみの椅子も欲しい。宿泊費さえ無料になれば旅の経費がだいぶ減るのであり、ぜひともテント泊したいのだが、荷物が増えるし、ホテルと比べるととても快適とはいえないので、難しいところ。

バイクの維持費やガス代は海外ではそんなにかからないと思うが毎日過ごしていてもっとも負担が大きいのがホテル代なのである。一泊3000円に抑えても一ヶ月で10万円だ。もちろんユースホテルのような安宿はあるけど一泊1000円以下のところは雑魚寝のことが多くまためんどくさい旅人も多いものである。なんか物知り顔の大学生とかヒッピーかぶれの連中とはあまり話したくない。治安の良い先進国であれば野宿、それ以外ではホテルという形でも良いのだと思う。



旅の準備は大部分整ったのであり仕事をさっさと辞めてしまわなければな、と思う。しかし旅に出たあとどうなるのかわからない。旅はだいたい1~2年くらいを目標としている。とにかく時間を贅沢につかってのんびりと過ごしてみたいのである。しかしそのあと収入や仕事がどうなるのかと考えてみる。できれば旅しながらできるような仕事をしてみたいものだと思う。まとまった貯蓄とか不労所得さえあれば放浪しながら生きることも可能だ。あまり定住することに価値を見いだせない。たとえば夢のマイホームだのマイカーだのそういうのに憧れを抱けない。近代以前は今のように定住するひとはあんまりいなく商人とか坊主以外にも職人や医者など各国を遍歴する人は多かったと聞く。私もそのような生活に憧れる、べつに一箇所ではたらかなければいけない義務もないだろう。

今日はSがくるので料理をつくってあげるつもりだ。

7.16.2016

山の生活

現在の私は田舎のサラリーマンである。それで冴えない人生を送っている。かつて私は自分は有名な人間になるのだと思っていた。自分の才能が世間に認められると考えていた。しかしそれは誤りであるように感じた。私はいわゆる名誉にあまり魅力を感じなくなった。たとえば高名な寺よりも通りすがりの野花に神の存在を感じることがある。名が知れているから良いとは限らないし、偉い人間はだいたい悪い人である。

柳田の「山の人生」など読んでいると世間への怒りや嫌悪がつもり山へ隠遁する人間もあったらしい。近世には意外とこういう人生もあったのだと柳田は指摘している。彼らはたいてい虫や生肉を喰らい、全裸であることが多く、世人には天狗だ山姥だと恐れられたものだが、「彼らに知性があるとすれば仙人そのもの」の生活だと柳田は表現している。もっとも気狂いになって山から降りてこない例もたくさんあったらしい。

ロバート・パーシグの「禅とオートバイ修理技術」という昔流行った本でも、ある哲学教授が知性を極めたときにだれも踏み込まない野山でしばらく過ごしたとある。西洋人でも仙人化するのであり、いわゆる天才の類がみな山の高みの空気を求めるのは不思議なことである。ニーチェもまた「天才の成立は乾燥した空気や澄み切った空を条件としている」という。「山の人生」があれば「森の生活」もある。

人間の集まる都会では空気は濁りまた汗や糞尿で湿っぽくなるものである、知性はそういった空間を嫌うのかもしれない。田舎で私は暮らしているがもう都会へは戻ろうとは思わない。都会の華やかな生活――そういう人生はなにか他人事に思える。またいくらか作り物で脆弱に思われる。ほんとうの生活には思われないのである。
「肩をそびやかしてへつらい笑うのは、真夏の炎天下に田畑を耕すよりも疲れる」 
それで「宗教以前」という本を読んでいると田舎は遅れており都会が先進的であるというのは近代以降の話でありかつては田舎の方がかえって栄え田舎に京あり/山に里ありということもあったらしい。
われわれは山村というと、つねに社会文化の発展に遅れた後進地とみなし、そこに伝承されている習俗はすべて古風を残すものと考えやすい。けれども、これは現在の常識を無反省に過去に投影するものであって、はなはだ危険な態度である。近代以前にあっては、山間の村落でも平地に負けないほど人の往来があり、手工業原料を山野で採集したり生産して、貨幣の流通も平地に負けないくらいであった。平地の村と山の村との落差が顕著になったのは近世以降のことで、近代になってそれが決定的なものになった。
ただまあ近代以降になれば田舎はしょせん田舎ということになり、都会に若者が流れていき「限界集落」などと言われることもあったが、かつては京よりもかえって都会であることもあったのである。こうした近代の方が自然のように思われるがどうだろうか。いたずらに近代以前を理想化するのではないけど近代以前の人間がどうだったのかはだいぶ気になることである。それで「宗教以前」にはこういう記述もあった。
するどい洞察力で知られた東洋史学者、内藤湖南の名言の一つに、日本の歴史は応仁の乱以後を考えればよい、というのがある。古代・中世から近世へは、まさしくそれほどの大変動であった。社会構造そのものが、古代・中世の「点と線」の社会から近世の「面」の社会に変わったのである。
人間の精神など時代によって容易に変わってしまう。まあ時代精神と言ってもよいが、現今の民主主義だのグローバリズムだのも明日には滅びさっていくと思う。もうパラダイムシフトの兆候は出ている。アメリカとイスラム国のどちらが正しいのかわからない。しかしどちらのふるまいも愚かに思われる。叫び声のあがるところに良い認識はない。結局変わらないのは諸行無常という事実であると思う。


7.14.2016

インディーズ

私は何もしていない。

ろくに読書もせず書くという気もおきない。人間老いてくると新しいことに興味がなくなってくるのかもしれない。資本主義や自由主義においては若さに価値がおかれている。みな若々しく見えることに躍起になっている。かつては死にゆく老人が神であった。死に近づくということは神に近づくということであった。それで現今では子どもが神になっている。人は次第に神になるのではなくなった。人ははじめ神であり、しだいに人間になるのである。そういうことが「宗教以前」に書いてあった。

二十代も後半になると人格が固定化されてくる。ようやく私は私であるという実感を得たのであり、これは神経症に苦しめられた私にとっては治癒ともいえる。

ここ数ヶ月、読書から得られるエポックな事件がない。少し前は東洋思想と西洋思想の違いに感銘を受けて、宗教や歴史に興味を抱いた。つぎにはサイコパスという存在を認識し、それを熱意をもって調べた。ひさしぶりに論文など調べたものである。ただわかることは科学には限界があるということだった。

ひとの「精神」を知ろうというとき、科学はだいたい無力であり、心理学や精神医学の雑多で曖昧な蓄積はあるけれど、まるで真相に到達できそうなものはない。それよりも神話などの方にかえって私は可能性を感じるのであり、サイコパスがかつて存在したのであれば、それがどのように神話や伝記に示されているかを知ろうとした。

科学に失望したのはその一件がほとんどはじめてだったのだけど、それがあってから科学の「進歩」思想そのものを、否定したい気持ちになった。人間がいったん「進歩」を否定しはじめるとけっこう大変なのである。というのも古代ギリシャに始まる「知」そのものを否定しなければならないし、これまで学んできた学問のたいていを、一端疑わなければならないし、それに科学への信奉がなくなると、この世界はいったい何なのか、という問題に再度肉薄しなければならないのである。

それでたとえば世の中には聖書をありがたがる人があれば、ヘーゲルをありがたがる人がいて、ことに日本の哲学者はヘーゲル研究がたいへん盛んであり、そのわりにたいした実績もないように思うのだが、私もニーチェにはだいぶ没頭したけれども、そういう「歴史」における人物、歴史上に固有名詞としてあがる人物、歴史体系のなかに点として存在する人物に、私は疑念を抱くようになった。それらはつねに恣意的に選択され、歪曲されているような気がした。

それで私はもっと無名で無能とされた人物に興味を持つようになった。ある対象の外側、点以外に目を向けようと思ったのである。たとえば私の職場にいる無名のひとびとなどをつぶさに観察しているのが現在というわけで、私の最近の興味は読書を外れて、Sとの交遊などに向けられている。これが怠惰といえばそうなのだろうが、何事からも学ぶべきだろう。紙とインクが与える智慧、女の声と肌が与える智慧、いったいどちらが優れているのだろうか。

7.12.2016

無属性化する

今日一日はアマゾンのプライムデーに没頭するおじさんであった。このように金を遣っていいのかと思われた。またこのような世俗的なことに喜ぶ自分かと思うのであった。旅行に行こうというのに旅行へ行く前に金を遣っている。とりあえず旅に出てしまえばなんとかなるだろうというような自分ではなくなった。バイクが故障したときのためにタイラップや針金まで買っているのだがこんなことは必要がないのかもしれない。アウトドア・ブランドのジャケットだのタブレットPCなどは不要なのかもしれない。荷の少ないシンプルな方が美しいということはわかっている。しかしバイクで世界各国を横断しようとなると四の五の言ってられない事情もある。旅程はどうなるのだろうか。アメリカでバイクを買い(カナダや南米よりバイクが安いようだ)、あちこちを放浪する。アラスカを目指し"Into the wild"気取りもよいかもしれない。あるいは南進し南米の熱気に触れるのもよいだろう。アメリカでは宿代が高いので、野宿をメインとしたいと思っている。一泊3000円など払っていたら破産してしまうのではないか。野宿で恐ろしいのはひとつに水のなくなること次には人である。強盗にあってはひとたまりもないはずである。バイクのよいところは容易に人気のないところに進出できることだと思う。オフロード性能の高いバイクでは特にそうである。いちいちキャンプサイトを探す必要はない。畳二畳、平地があればそれでOKである。アメリカの治安はまずまず良いはずである。ロシアで日本人のツーリングライダーが強盗に殺されたという事件があった。これもキャンプ中に強盗にあったのだが、強盗が人間を殺すとはよほどのことである。強盗はふつう殺すことが目的ではないからである。だいたい海外旅行では、数百ドルの入った財布を忍ばせる。強盗にそれを渡せば風のように去っていくからである。ある意味で、儀礼のようなもので、強盗はそれ以上は追及しない。また旅行者もその偽財布をもってして安心できる。どんないさかいがあったかわからないが、ともあれアメリカでこういう強盗のような話は聞いたことがない。なんだかんだ言っても、世界一稼いでる国である。また、自由を標榜している国である。そうして世界一の消費大国である。こういうことを考えると、アマゾンプライムデーにあけくれるおじさんがそうであるように、アメリカ国民は強盗などしている暇はないのかもしれない。さて旅の予定だがこれは期間として一年以上はしてみたいと思っている。とりあえず資金の尽きるまでは続けたい。だいたい一般的に、世界一周では300万円がぎりぎりということである。私は金も、時間も贅沢に使いたいと思っている。とくに時間はなによりも優先したい。たとえば海外の珍しい昆虫を追いかけゆっくりとカメラに収めるような時間は欲しいのである。この旅のテーマは「晴走雨読」、雨が降ったりtroublesomeな気分であればホテルに隠遁し聖書なりギーターなり読む予定である。そのためにKindle Paperwriteを買ったがプライムデーではずっと安く売っていて失望した。まあ良いのだが。私はひとと関わることが苦手だが、旅先で知り合ったひとと話を交わしてみたいと思う。何もかも飛行機で通過したりバイクでハイウェイをかっとばすのはうんざりである。そのような旅に何の意味があるのか。またチケットをあらかじめ用意していついつに飛ぶという期限があるのもうんざりだ。私は飛行機が嫌いだ。飛ぶことは好きだがあの一度逃したら二度と乗れないような切迫感がとてもストレスだ。一度チケットを寝過ごして大枚はたいてタクシーで空港へ向かったが受付のムスリム女性に是非もなく断られたということがある。そのとき私は屈辱の思いで再度ネット予約をしたのだ。最近私は自分がADHDなのではないかと思う。時間を守ることが苦手だし、またなんで守らなければならないのかと思うときがある。それでバイク旅行などを志すのである。バイク旅行はとにかく気ままだからである。私のペースで旅ができるからである。考えてみると、生まれてこの方、私の「ペース」は乱され続けた。それは社会的要請のようなものだった。ついに私はこの要請から逃れることができるのだと思う。それは海外に放浪するという形で達成されるのである。もっとも、山暮らしなどすれば海外に出る必要がないのかもしれない。昔日本人の農民は、柳田国男によれば、厭世観きわまるときには憤怒のままに山に篭って隠遁生活をしたらしい。私にはその根性はない。明治時代ならともかく、現代は暑すぎるし、山の様相も様変わりしている。生命を与える自然林は駆逐され、あのいまいましい杉植林が山を歪なかたちに変えた。そういうわけなので私は現代の厭世家として海外を志さなければならない。べつだん海外が好きというわけではない。私は人間が好きだが外国人が好きでもなし、日本人が好きというわけでもない。どちらも同じように賢明でまた愚かだろうことは明らかである。それで日本の文化や歴史が嫌いなわけではない。「国」がどうこうという考えが私にはあまりないのである。ある国へ行けばそこに理想郷があるなど到底考えられない。人間が生きていくにはある程度の苦痛とある程度の快楽がある。それは日本だろうとバリ島だろうと変わらないだろうと思う。私の旅の目的の半分は本を読むことである。その残りの半分はバイクのツーリング、まあ言ってしませば観光である。それで私は読書にも観光にもある程度の失望を持っている。若いたぎるような情熱は私にはないということである。このことを意外に思うひとがあるかもしれない。お前はなんのために海外へ行くのか、もしお前が望まないとするならば。私もそれはどういうことかわからない。私が旅に出たところで、旅に出ずに今の仕事を続けた私と、大して変わらないという気がする。27年生きて、私はto some extent真理に到達したのではないかと思っている。それは一個の芯であって、私の意志や理性がどこを目指そうと、私がどうなろうと、それはあまり重要でないのである。私は自分が愚かであることを自然に思い、また賢明であることがあるとすれば、それも自然のように思う。私は人間というより動物に近づいた。あの義務教育の教化から離れつつあるということだ。私は自分の存在が人間一般に帰属できるように思う。天に昇る人間と地に埋没する人間がいる。私は地に沈む類の人間である。私は一個の有機物であっただけのことだ。私は神ではないが、すべてである。ゆえに神である。このような乱文を記述したのは久しぶりに酔っぱらったからである。明日はまた仕事であり暇な割に高給の仕事をせねばならない。



7.10.2016

私の前には何もない

たいして何も書かずに日々を過ごしてしまった。書くことにあまり価値が見いだせないせいもある。Sとの遊びが忙しいし、今週はとくに仕事が過酷だったこともある。来週からはまた閑散になるから、楽になるだろうと思う。

Sと遊ぶときに、必ず私が奢っている。給料にして、だいたいSの3倍以上を私は貰っているからだ。それでも、一回の食事で6000円以上することもあるから、けっこうな出費である。Sは、奢られるのがうまい。奢られるときは、それを当然のように思わなければならない。いちいち、「今回は私が」などと言われると興ざめする。財布を出すそぶりは、ビジネスマナーではあるけども、親密な関係であれば要らない。

私は世間で言うところの高所得者であるらしい。20代で私は、信じられないくらい貰っているということである。ことに「よくて年収300万円」のこの田舎では、私ほど金を貰う人間は、上位1%もいないとのことである。私は分不相応に貰っていると言えるし、海外旅行用の資金は貯まったから、もう金はいらないのである。

もともと、だれかに金を与えようと思っていた。それは大げさに言えば、喜捨の精神であった。私は金にそんなに執着がない。また、執着を持ちたくない。それに、私は自分が金を活用することはないと思うから、金の足りない若い人間にあげたら喜ばれるだろうと考えた。

はじめは、新宿に住んでいる、二十二、三の若い女にあげようと思っていた。彼女はつねに金に困っていたからだ。一日8時間働き、そこからバイトしていた。彼女はつねに過労気味だった。そうして、経営者にもだいぶ騙されているような気があった。彼女とは、おおまかに言ってしまえばセックスフレンドのような関係であった。というか、セックスもする女友達と言うべきか。

それで、一年くらい疎遠だったから、久しぶりに連絡した。私は、就職を期に金が余ると思う。お前の何倍かは貰うと思う。それだから、お前に金銭的な援助をしようと思う。そうして初めに、10万円くらいをポンと与えてやるつもりだった。突飛な話だが、本当にこう言うつもりだったのである。だが、連絡したところ、「私には彼氏がいるから、もう連絡するな」と言われた。これは存外、ショックであった。彼女以上の適任は、あまりいないからである(マア彼氏がいるということも少しショックだった)。私の知っている限り、女で生活に困窮しているひとはそういない。男に金をあげたところで感謝されるより恨まれるか利用されるだけのような気がするし。

いま考えてみると、私はその女との接点をもつことで、都会の中心との関係を保ちたかったのかもしれないと思う。新宿にある人間と、接点を持てば、離れゆく都会との接点を保つことができる。ただまあ、10万円あげたところでどうなのか、と言う気もしてくるが。

ともあれ……話が長くなったが、金を捨て去る、誰かに与える、という機会が私には必要だったのであり、その対象としてSは適していると思われる。

その新宿の若い女も、Sも、少し似ている。対人関係における、ウマさである。すぐに集団に溶け込み、集団を内側からコントロールする。こういう人間がひとりいると、集団は円滑に機能するようだ。ある意味、巫女のような存在と言えるかもしれない。こういう人間に、私は興味をひかれる。だいたいこういう人は共通点がある。性的に奔放である、暗い中高生時代を過ごした、高い感受性を持ち音楽などに興味・こだわりを持つ、少し他者依存的だが、独自の価値観を持っている。

私はあいかわらず、学生時代の習慣で、節約をしている。だいたい食費は一日千円以下に抑えるよう、努力している。ひとりで外食などはしない。そんな私であるが、Sに対しては放埓に金を遣う。

私は少し、金持ちの気持ちがわかるという気がする。世の中の金持ちは、おそらく自分が金を持っていることに、嫌な気分を持っているはずである。私が持たず、彼が持つというのは当然苦しいが、私が持ち、彼が持たないということもまた苦しいものである。前者は不平等として訴えることができるが、後者はなんとなく主張しにくいものである。財産をぽんとあげてしまうわけにはいかないのだ。イギリスなど貴族社会ではノブレスオブリージュといううまい倫理的な開放弁があった。仏教やイスラムでは喜捨。金は不思議なものであり貯めこむと富と一緒に毒も蓄積するようなのである。それだから適度に分け与え、循環させなければいけないようだ。

今日はまたバイクで出かけようと思う。

7.06.2016

萬有の眞相

「宗教以前」という本によれば家父長制が庶民に行きわたったのは近代以降、それより以前は武家・貴族など上流階級を除けば基本的に男女は宗教的・生活的に対等であった。これは民俗学などでよく言われることであり、例えば「サザエさん」における「波平」のようなモデルは近代以降の新しい流行でしかないということである。それだからサザエさんのような退屈なアニメが全国区で流され続けるのは近代イデオロギーの肯定・拡大という国体維持の目的、すなわち「教化」の意図があるのである。サザエさんとは単なる放送局の一番組ではなく、一つの国家プロジェクトなのである。

そういえば最近「サザエさん」の視聴率が落ち込んでいるというが、これは日本人の近代イデオロギー離れが進んでいるということを意味するのだと思う(スポーツ報知:「サザエさん」に異変!?視聴率1ケタ記録)。このニュースに官僚たちは庶民よりもずっと鋭敏に反応していたはずである。明治以降に確立された天皇を中心とするピラミッド型国家構造がメタレベルで否定されているということである。

私もまた現代日本にうんざりする立場であり、近代以降の自由主義、個人主義、科学主義に疑問を感じている。そのかわり江戸以前の日本には期待をもっているし、またプラトン以前のギリシャや古代エジプトのような社会に期待を持っている。まあ単純に江戸時代の美化というわけでもないのだが。

日本人が不幸な存在なのかどうか。これはあちこち旅をしてみなければわからないな。さっさと旅に出たいと思っている。ただ夏の嫌な暑さがあらゆる気力を奪っていく。Sとも毎日のように遊びじゃれあっている。私は何もしていないのだが、女とのかかわりのなかでいろんなことを学んでいるようにも思う。熱いたぎるような欲情を私はすでにしなくなっているから、Sとは少し中年夫婦じみた関係である。それは自然で持続するような類のものだと思う。燃え尽きてすぐさま炭になるようなものではない。

Sとは九月くらいで離れなければならないのだがそのあとはどうするのか。しかし五月に会社を辞めると決断してからだいぶ時期が経つ。長く働いたものだな。金は十二分に溜まっている。旅の資金としては多すぎるくらいだ。私は貯蓄にあまり価値を見出さない。金がなくても、どうとでもなると思っている。だいたい金が尽きても、生活保護というものがあるではないか。世間の人々は、なにを恐れているのだろうか……。生活保護でも車やパソコンは持てるし、本も読める。生活保護だから岩波文庫やちくま学芸は読んじゃダメ、ということはない。生ポはロックやジャズなどの洋楽は禁止でJ-POPのみ聴くことを許すとお達しがくるわけでもない。世間から脱落することをみな恐れている。その気持ちはわからないでもないが、私はもとからマージナルな人間だから、働きアリではなく働かない二割のアリであるから、まあ好き勝手できるというわけだ。それでまあSとの関係は無為ではなく有意義であるため、私もまだ会社にいようと思ったわけだ。なにせSは私が心を開いた初めての女性であるから、これを無下にする道理もないのである。それでも私には知りたいことが山ほどあるのであり、最近は哲学を越えた形而上学だの、神秘主義、あとは東洋思想を勉強したいと思っているのだけど、仕事と、Sとの遊びによって読書や勉学の時間が取れないでいる。女とのかかわりはひたすらに現生的であり大地的である。それはよいのだが、たまには重力を離れ浮遊したいと思うときがある。

五年前くらいの方が、私は自分がどのような人間になるか目途がついていたと思う。今はよくわからないでいる。


7.03.2016

女とともに

Sが私を毎日のように遊びに誘ってくるので、相手をしている。「好きな人とは、毎日でも一緒にいたい」と言うのだ。それなので、あまり本を読む時間がないし、何かを書く気にもなれない。

別に付き合っているわけではないのだが、キスくらいはしている。中学生のような表現だが、「B」程度の関係。私はしばらくしたら旅立つ予定なので、恋人になる気はない。Sもあと数ヶ月で仕事を辞めて都会へ行くというから、同じ気持ちなのだろう。

それにしても、「私にはあなたが必要だし、あなたには私が必要だ」とSが言うとき、それは妥当な表現だと思われる。Sはたぐいまれなほど社交的であり、だれとでも親密になれる性質を持っているが、その反面ひどく臆病であり、人見知りであり、そのような姿を私には見せている。

私もまた人見知りだが、社交の才能がないために、ほとんど人間と関わることがなかった。だから私はSの付随物として、社交の世界を知ることができた。

「幻の桜」を読んでいると、頭部のかたちによって人間を二種類に分類していた。
後頭部ぼっこりの人は おくおくおくおく 奥の奥を見る
おでこぼっこりの人は まえまえまえ 前の前を見る 
未来を見るのが得意な人は まえまえまえ 前の前を見る人の方
過去を見るのが得意な人は おくおくおく 奥の奥を見る人
形がそれを現してる(「ふりふりしゃわしゃわ」)
私は「後頭部ぼっこり」であり、Sは「おでこぼっこり」であるように思う。これは実際の頭の形状でもわかるのだが。だから未来を見る人間と、過去を見る人間とで、私とSとの関係は、うまく行っているのだと思う。反発せずに調和している。陰と陽が引きつけ合うのは当然とも言える。

私はSを信頼している。恋愛感情とはまた違うと思うが。


女とともに在ることに安心を覚えるようになったから、私は哲学者には向いていないのだと思う。他者とある程度の和合ができれば、哲学はほとんど必要ないからである。哲学とは記述と論理によってつみあげられた領域であるけども、それは論理と記述以外の領域を不当に削減していることを意味する。

ある定義づけは、定義外のものを排する。われわれがコップを手に取れと言われたときに、われわれの精神は、本来「一」である世界から、「コップ」と「それ以外」を切り離してしまう。そうしてコップを手に取ることができるのだし、またそうでなければコップを手に取ることはできないのである。われわれはコップを手に取ることができる。また、コップを定義することができる。ただ、このような意識のはたらきは、「一」としての世界を否定することになる。コップに意識がいくということは、「コップ以外」を忘却することだからである。

それではコップ以外の世界を認識するためにはどうすればよいのか。どのようにコップは世界に溶け込むのか。たとえば熟練した音楽家はピアノの鍵盤を意識しない。また頭のなかに譜面が浮かぶわけでもない。このような忘我のときに、彼は「一」の世界に在るのだと思う。

芸術家の哲学と言ったものがあるだろうか?論理や記述で積み上げられたものが必要だろうか?実際のところ、熟練した芸術家は、ただ在るだけなのである。そうしてこのような領域は、永遠に記述が不可能なのである。

そういったことから、記述されたもの、組み上げられた論理と言ったものを、私は最近は軽蔑している。たぶんこれはプラトニズムの否定になると思う。

……と上のように書いてきたがこれは単なる実存主義哲学なのかもしれない。