11.27.2016

おじさんの沈黙

ここしばらく何も書いていなかった。ブログの更新はしなかったし、かといって書籍の執筆をしていたわけでもない。私の生活から「書く」という習慣がなくなることは、久しぶりのことだった。

別に怠惰でサボっていたわけではない。こう毎日書いていると、「書かない」ということがちょっとした挑戦になる。そわそわして落ち着かないし、知能が低下して馬鹿になるのではないか、という不安もわいてくる。それでも書かなかったのは、日常のちょっとした変化が必要だと思ったからだ。

行為のなかから離れて、遠くから吟味する。客観視と、反省が必要だったのだ。ちょっと勇気を出して、過去に自分の書いた文章を読んでみると、ひどい誤りと、逸脱だらけだというように感じた。それは着地したラグビーボールがあちこちに飛び跳ねるように無軌道だった。まあパトスのようなものはあるけど、勃起した陰茎のように落ち着きのない文章だな、というふうに感じる。エネルギーをどう使えばよいのかわからなかったのだろう。

しかし寛容に見れば、若さとは無軌道であるから、25,6の年齢でそういう文章ばかり書くことはある意味で正しいのかもしれない。私は人生の最盛期を終えて、もうおじさんとなっている。エネルギーは落ち着いてきた。秋がやってきたのである。

今読み返してみると、このような勃起した陰茎のような文章をさらけ出すことはほとんど犯罪に近いのではないかと思う。法が許さなくても倫理的にどうなのかという気がする。そういう逸脱が許される時代はたしかにあった。近代ぐらいに、人間の愚劣さ、卑俗さ、醜さをあけっぴろげにすることが楽しい時期があった。それは「小説」などの媒体によってちょっとしたブームになった。なぜだか陰茎を晒すことが実存的だと思われた時代があったのである。

しかしまあ現代ニッポンにおいても陰茎を見たいという人間がいるわけで、汚いもの、恐ろしいもの、そういうゲテモノ的な趣味を持つ人は、私のブログのような文章を好むのかもしれない。私のブログは、男性の股ぐらにある陰茎よりも優れて陰茎である。ようはグロテスクなのだと思う。それで、まどろっこしい。動揺させる、不快にさせる、未解決の存在である。愚かさと、生命力。

図らずもペニスの話ばかりになってしまった。

私のブログは、何も生み出していない。少なくとも、物質的・経済的な意味では生産的ではない。私はもっとお金が欲しいと思う。ブログをしばらく休んで、書籍を執筆しようと目論んだのはそういう事情による。



最近、また心理学の勉強をしている。アドラーの本を読んでいると、こういう記述があった。
人生の三つの課題は、なんとかしてすべての人間が解決しなければならないものである。個人の世界との関係は三重のものであり、だれも交友、仕事、セックスという課題に対して一定の答えをしないわけにはいかない。友人を作ることが出来、自信と勇気をもって有用な仕事をすることができ、さらに性生活をよき共同体感覚と一致したものにすることができるのであれば、神経症にならずに済む。しかし、これらの三つの課題のうち一つ、あるいは、それ以上の人生の要求に自分を適応させることができないときには、貶められたという感覚、および、それに伴う神経症に用心しなければならない。(「人はなぜ神経症になるのか」)
友情、仕事、性交、アドラーはこの3つを人生の求めるべき目標としている。

私は性交においては満足できていないが、友情や仕事については、最近ようやく満足いくものになってきた。とくに友情については、職場の人間と良好な関係を築けているから、不満がない(自分が持続的に他人と良好な関係を築くことは、少し前の私には信じられないことだった)。仕事は、少しルーチンで退屈だということを除けば、待遇は良いし、やりがいもそれなりにある。ありがたいことは労働時間が8時間ぽっきりということだ(これはほんとうに8時間ぽっきりで、私は出勤時間のたいてい2分前に出勤し、用事があれば退勤時間ぴったりに帰っている)。

仕事という面で、一定の収入があることは良いのだが、産業革命以降爆発的に広まった「雇用」という形態は、決して人間にとって自然なものではないと思う。トマトの種を植えて、育てて、収穫し、それを一個100円で売る。そういう金の稼ぎ方の方がずっと自然であるように思われる。これは農家になることを推奨しているのではない。結局、どうやっても利潤を得るのは経営者や役員であり、その意味では非雇用者は永遠に搾取される存在である(最近のスマホゲームの傾向が、冒険やロマンスではなく、農耕に近くなっているのはそういう事情のせいなのかもしれない)。

まあ非雇用者であることは気楽ではあるけれども、好ましくない、というふうに考えている。そうだから受動的な非雇用者でありつつも、金を主体的に獲得していきたいと私は思っているのである。

仕事の面を充実させることが、私の神経症をさらに治療していく上で重要だと思う。だからまあ、「著述家は不幸な天職」と言われるけれども、なんとか本を一冊仕上げてみたい、と思っているのである。

11.16.2016

ひとつにまとまる

すべてがひとつになった。

不思議な感覚だと思う。男と女がひとつになり、自己と他者がひとつになり、外と内がひとつになった。静けさと激しさがひとつとなり、孤独と調和がひとつとなり、哲学と神話がひとつになり、善と悪がひとつになった。

陰と陽が混淆し、なにも分断されることのない世界。

こ、これがアタラクシアか……(^ω^;)

と私はおののく。すべてが機能的であり、創造的であり、十全であり、何も過不足がない。静かに流れる「生そのもの」を私は感じる。

うーん気持ちがいい。この領域を維持したいと思う。

11.14.2016

街コン★boogie

先日、街コンへ行ってきた。なんどか行こうと思ったのだが、そのたびにドタキャンしていた。その日は少し乗り気になったので、行くことにしたのである。禁欲を何か月も続けているから、異性を求める衝動がそうとう強いのだろう。

会場では緊張して、まともに茶を注げないくらいだったが、思ったより、私はモテた。周りを見ると……田舎だからしかたないのだろうが、さえない男ばかりだった。私のような男はまるで相手にされないのではないかと心配だったが、杞憂だった。当然といえば当然だが、異性に困っている人が集まるのである。女性との会話も、職場は女性が多いから同じように話すことができた。

それで、会場でいちばん魅力的に感じた子と、見事カップル成立ということになった。便宜上街コン会場から「カップル成立」として送り出されただけで、まだ付き合っているわけではないが、「交際を前提とする」微妙な関係にある。

その子をAとしよう。

Aは、不思議な魅力をもっている女だ。極めて冷静というのが第一印象である。いたって静かだが、口を開けばウィットに富んだジョークで笑わせてくれる。頭の回転が速いことが伺える。芯が強く、簡単にはなびかないようだ。私に対する態度は、まだ淡白だ。距離感をうかがっているように思える。初対面なのだから当たり前だが。しかしその距離感が、深追いしたくなる衝動を呼ぶ。

身長はやや低め、髪は黒のセミロング、すとんと落ちたストレート。目は少し垂れ目だが、大きくて魅力的である(私は彼女の眼がとても気に入った)。丸顔に小ぶりな鼻と、小さな口から大きめの前歯がのぞく。幼げな、日本人的な美形だ。肌の色は白く、やや猫背のせいかあまり覇気がない印象を受ける。全体の雰囲気は、きわめて陰性。すこし人を拒絶するようなところがある。しかし高慢であるというよりはかなり常識人のようで、ふるまいに自然な気品と、知性を感じる。私と話していても、物怖じしない。

ここまで書いて、Sとはまるで逆なのではないかと思った。

S……ギリシャ人を思わせる彫の深い顔立ち、顔は少し大きめ、目はきわめて大きい、鼻は筋が通っており、鼻翼はすこし横に広がっている。口は大きく、濃いめのグロスが塗られている。やや身長は高く、骨格ががっしりとしている。髪はパーマをかけた茶髪。化粧は濃いが、色気のある顔立ちをしている。おそらく気弱な男であれば圧倒されてしまうと思われる(私も最初は圧倒された)。頭の回転はずば抜けて速い。記憶力も相当なもので、とくに社会性の面で彼女以上に優れる人を私は知らない。老若男女、だれとでも仲良くなる。極めて陰気な男であっても、意志疎通をこなす。たいへん饒舌で、とてもよく笑う。しかし相手の不正にはしっかりと憤る(よく怒られた)。よほど無分別でもないかぎり、彼女のことを嫌う人はいないだろう。天真爛漫な、力強い女性。

Sにはだいぶlovesickにさせられたのだが、今考えてみると、Aのような人間の方が私には合っているのではないかと思われた。もちろんSは成熟した人間で、「完成した人格」が存在するのだと初めて実感した女性だった。例えば……
世の中には生まれつきこの上なく美しい、神の恵みをふんだんに授かった天性というものがあって、そうした天性がいつか悪しき方向に変わるなどということはおよそ思いもよらない。そういう天性の持ち主は、いつも安心して見ていられる。私は今でもアリのことは心配していない。今彼はどこにいるのだろうか?(「死の家の記録」)
ドストエフスキーの上の記述を読んだときに、Sのことが描かれている、と思ったし、今でも思っている(アリは男だが)。彼女の生きることの巧みさ、力強さ、自然さは、天性のものだと言えるだろう。

しかし、そうだからこそ、私は彼女と人生を共に歩めない、というような気がした。私とSは、うまくやっていけない。たびたび実感したことだが、私は彼女のルックスがあまり好きではなかった。骨格、顔立ちがあまり好きではなかった。不美人ではなかったし、Sを抱きたいと思う男はいくらでもいるように思われた。

ただ私の好みは、Aのような小柄な、線の細い女性であった。好みというか、なんというのだろう。骨格の相性というか……。自然さというか。あるカップルや夫婦を見て、相性のいい、悪いを第一印象で判別できる。それは大部分は、骨格によるのだと思う。私と、Sは、ずいぶんアンバランスだった……。主観的な好みだけではなく、客観的に判断しても。

長らくSとの離別が私を苦しめたけど、いまはすっきりとした気分だ。彼女との恋は終わった。いまの実感としては、Sとは友人として(永遠の)、今後も付き合っていきたいと考えている。なんといっても、彼女が私を絶望から救い出したようなものだから。

私はAと仲良くなれればよいと思っている。ミステリアスな女性……深みのある女性……そっけない感じ、つきはなした感じ……Sが犬なら、Aは猫である。

深い青。静けさ。海、月、夜闇、深い霧、森林のような女。うーん、恋心が芽生えてきたかもしれない。身動きがとれなくなるから、この田舎で恋人はつくらないつもりだったが。

街コンが終わったあとに、Aとふたりで夜の公園を散歩した。天気のいい日で、オリオン座がきれいに見えた。私が「オリオン座が見えるよ」というと、「どれ?」とAは聞いた。私は三連星とそれをかこむ四つの星がオリオン座だ、と言った。砂時計の形をしている、と。彼女は関心した様子で、「私、星座は望遠鏡を使わなければ見えないと思ってた」と言ったので、私は大笑いしてしまった。Aはちょっと抜けているのかもしれない。



このブログ以外に、出版用の原稿を書いている。どんな本になるだろうか?楽しみだ。

調子よく書いていたのだが、ふとした拍子にファイルを喪失。何時間かの苦労が消えた。いまはワードプロセッサーを真剣に選んでいる。自動バックアップよりも、クラウド連携の方が便利そうだ。

ウィンドウズ、良いソフトはたくさんあるのだがとにかくフォントが汚い。Evernoteで書こうと思ったが、どう設定しても文字が汚くなってしまう。こういうときはマックユーザーがうらやましくなる。

まあ出足でつまづいたが、とにかくスタートだけはしたわけで、長丁場だろうから、気ままに書いていこうと思っている。

11.13.2016

酔っ払いおじさん

今日は職場のひとびとが私の誕生日を祝ってくれたので(実際の誕生日はかなりずれているが)、酒を飲むことになった。

酒を飲むと、音楽はより質量をもって感じられるし、ひととの会話も円滑になる。酒を飲むと、少しばかりの楽観と、自由が感じられる。そのあとには、苦悩とか、孤独とか、絶望の重苦しい感じが、じっと腹部を攻め立てるようだ。いわば人生の「ひだ」を感じられるような気がするのだが、そうではないだろうか。ざらざらとした質感。私は何度かこう言ってきた。「コーヒーは夢を与え、酒は現実を与える」。私にとって、酒が与えるものは蒙昧というよりは精細であって、重力による四肢の重みをよりいっそう引き立てる。人間にとって耐えがたいストレスは「苦痛」ではなく「無感覚」である。愛情の反対が無関心であるように、快楽の反対は無感覚なのである。バイロンは、「人は、合理的存在として、酔わずにはいられない。酩酊こそが人生の最良の部分である」と言った。酩酊が人間には必要なのかもしれない?それはある種の苦しみすら、人間は必要とするということである。

酒を飲むと、生命を消費している感じがある。生命を代償に何かを得る。われわれにとって、生命は目的か、手段か。「楽しみなくして、長生きして何になる」と人はいう。何かの作品を残すことは、永遠を意味する。芸術は、陶酔がなければなしえない。芸術は、生命の否定であるという気がする。

幸福を、果たして求めるべきなのだろうか。幸福者には、人生のひだは感じられない。重苦しい孤独の苦しみはないし、よく周囲を整備して、摩擦なく生きることを志向する。そこには感動がない。

酒を飲むと、自分が絶対の孤独であることを痛感する。孤独にある人間は、理想を追求する。理想とは、どこか遠く、ということだ。

陶酔は何かを見えなくするのだろうか?それとも見えない何かを見させるのだろうか?

自分にアルコールを禁じて三ヶ月、ひさびさに酒を飲んだ私の感想は、「酒は違う世界を見せてくれる」ということである。私はエタノールが血液脳関門を通過し大脳皮質に浸潤するに従って、昔のアル中のようだった私が、旧い友人のように挨拶するのを感じることができた。それはどこかへ置いてきた私の半身であった。ディオニュソス的な自己であった。

私は、この自己の半身を捨てるべきなのだろうか?彼は平常の私よりも、ずっと狂っているし、病んでいるし、強烈であるように思われた。彼は逸脱していた。なにかを組み立てるより、激情により破壊する方だった。

私のなかに、破滅的な自己があり、反対には、幸福を求める健康な自己がある。酒を飲むと、破滅的な自己があらわれる。幸福な自己は、破滅的な自己に拒絶感を抱くと同時に魅力を感じる。平凡な人間が、ゴッホの絵に並々ならぬ感心を抱くのと同様である。

酒をしばらく辞めれば、この半身は鳴りを潜める。私は健康な自己を楽しむ。他者と調和し、笑顔で、つやのある肌をしている。しかし、ディオニュソス的な半身は消えることがない。

酒との関わりをどうするべきだろうか?酒が私を破壊するとしても、それが不幸なのだろうか?私は健康人として陶酔なく生きていくとして、それが幸福なのだろうか。

まあ酔っ払った頭では飲酒に肯定的にならざるを得ないだろうとは思う。ひさしぶりの酒は、故郷へ導いてくれたような気分なのである。酒を飲まないことが、霊性を高めるのだろうか?仏陀は「肉食を禁じるからバラモンなのではない」と言った。

ともあれ、明日からまた禁酒しよう。

11.11.2016

PLAXIS

本を書いたらよいのでは、というコメントがあったので、電子書籍でも出そうかと思っている。神経症に関する本。私は専門家でもなんでもないので、小難しい本は書けない、と思っていたのだが、加藤諦三の本を読んでいると、たいへん雑な殴り書きであり、こんなテキトーな本でも出版できるのか、とハードルが下がった気分になった。文章が雑というだけでなく、彼の本はほとんどマズローやフロム、アドラー、フランクルのような第三勢力の心理学者の「要約」のようなものであり、その程度の本でいいんだ、そんなものが売れるのか、ということを学んだ。

それで昨日の夜、自動車を公園に停めて、毛布にくるまりながらノートパソコンで書いてみたのだけど、まあこういうブログの散文と違って、長い文章を書くことの難しいこと。1000字くらい書くと、疲れた、もういい、今日は寝よう、となってしまう。
ものを書くときの動機は人さまざまで、それは焦燥でも良いし、興奮でも希望でもいい。あるいは、心のうちにあるもののすべてを表白することはできないという絶望的な思いであってもいい(中略)動機は問わない。だが、いい加減な気持ちで書くことだけは許されない。繰り返す。いい加減な気持ちで原稿用紙に向かってはならない。(「書くということ」)
とスティーブン・キングは言ったけど、いい加減は「良い加減」なのだし、気張りすぎては前に進めないという気がする。

一冊の本はだいたい十万字くらい、仕事をしながらであれば一日千字程度と考えると、百日で一冊ということになる。そうしてできあがった本はおそらくまったく売れないので、時給換算すると100円もいかないはずである。ただ、こうしてブログを書くように執筆するのであれば、気楽な仕事ではある。

もともと私は文章家になることが夢だった。それを三十歳になるまでに達成しようと思っていた。なんとか間に合うのかな?しょぼい電子書籍なんてだれでも出せるだろうけど。

執筆活動(笑)に入るので、ここの更新はまばらになると思う。
人間の歴史を通じて、そのたびごとにより複雑に、そしてより豊かな形をとって周期的に繰り返される三つのそれぞれ異なった契機があることになる。1 人間は物の中で難破し、自己を失ったと感じる。これが自己疎外である。2ギリシア人たちのいう思索的生theoretikosbios、すなわち思索theoria である。3 人間は予定計画に従って世界に働きかけるため、ふたたび世界に没入する。これが行動であり、行動的生活であり、プラクシスplaxisである。 人間はエネルギッシュな努力を傾けて、自己の内面に引きこもり、こうして物について考え、それをできるだけ支配しようとする。これが自己沈潜であり、ローマ人たちのいう観想的生活vita contemplativaであり、したがって行動はそれに先立つところの観想によって律せられていないならば不可能であり、またその反対に、自己沈潜は未来の行動を立案する以外のなにものでもないのである。(個人と社会 / オルテガ・イ・ガセット)

11.09.2016

Happy Family

考えてみると、私の両親は未熟な人間だった。

彼らを尊敬することはできないし、愛することも難しい。いまはほとんど連絡を取っていない。あまり取ろうという気にもならない。もうこのまま、絶縁してしまった方が楽かもしれない。

ここで何度か書いたことだが、私の両親は私が十五歳のときに離婚した。理由はよくわからなかったが、よく耳にする「性格の不一致」という奴だろう。未熟な人間ほど、相手に完全性を求める。たがいに未熟な場合は、お互い虚空を見つめながら生活しているようなものだ。うまくいくわけがない。

ほんとうはもっと早く離婚したかったらしい。だが、末っ子である私が在る程度成長するまで我慢していたのだという。このまったく的外れの配慮によって、私の苦しみは無用に延長された。そうして、私が「成長」して人格が固定化される頃には、「この世には救いがない」ことをすっかり学習してしまった。

両親の離婚から10年後、フロムの以下の記述を読んだときはなんだかスカッとしたものである。
不幸な結婚に終止符を打つべきではないかという問題が生じたときも、子どもが投射の目的に使われる。そういう状況にある夫婦はよく、子どもから一家団欒の幸せを奪ってはならないから、離婚するわけにはいかない、と言う。しかし、「一家団欒」のなかにただよう緊張と不幸の雰囲気は、はっきり離婚するよりも、ずっと子どもに悪影響をおよぼす。すくなくとも、親が離婚することによって、子どもたちは、勇気をもって決断すれば、堪えがたい状況にも終止符が打てるということを、身をもって学ぶ。(E.フロム「愛するということ」)
私の両親は無能で、劣る人間であるように思う。悲しいことに、私は両親の影響を強く受けている。他人と持続的な関係が築けないということ。他人を愛することができないということ。依存的、幼児的な嗜癖を持つこと。そのおかげで、最愛の女性にも振られたのだろう。
「毒になる親」に育てられた子供は、愛情とは何なのか、人を愛したり愛されたりするというのはどういう気持ちになることなのか、ということについてよくわからず、混乱したまま成長する。(「毒になる親」スーザン・フォワード)
でも、私はなんとか無知の網から抜け出すことができた。愛情の概観をつかめたように思う。しかし私の兄ふたりは、両方とも、同じように不幸な人生を送っているように思われる。カエルノコハカエル。結婚式などで親戚が集まる機会には、私の家族だけ嫌に暗く、会話がなく、ぎこちなく、肉親に猜疑の眼を向けるような、「機能不全」ぶりをいかんなく発揮していた。少なくとも「結婚式」向きの家庭ではない。なんとなく、まがまがしい黒いオーラが出ているのである(私はこんな空間が嫌だから、ずっと叔母の家族にくっついている)。

そのような家庭でありながら、父はまったく悪びれることなく、私にぬけぬけと話しかけてくる。のんびりした口調で、まるで何もかも清算されたかのようだ。子ども三人を見事に育て上げた(とびきり不幸に!)この男は、酒の飲みすぎで脳シナプスをやられているに違いない。

暗い家庭で生まれることほど、悲しいことはない。そこで育つ子どもにとって、ほとんど暴力に近いことだ。家庭では苦しむばかりで、まるで救いがない。生きることは苦しみと不幸で塗りつぶされている。

愛情を知らないから、心のスキマを埋めるために奔走する。酒、ドラッグ、セックス……愛情を知らないから、病気に苦しむ。鬱病、神経症、対人恐怖、人格障害……。こういう空っぽの人間がいくら長生きしたところで、自殺した方がましなのかもしれない。じっさい、どうでもいいことで殺されたり、自殺するのはこういう人々である。生きる価値がない。救いがない限りは……。

このような家庭がどうして存在するのだろう?またどうしてこういう家庭は改善されないのだろうか?不幸はどこからやってくるのか。不幸の中にあった人が、そこから抜け出してしまうことはできるのか。そういうことを考える。

両親がバカだといっても、私にとってただ一人の父親、母親、であり、簡単に「絶縁」とか、「忘れる」とか、できるものではない。絶縁したところで、縁を切ることはできない。ダメな母親であっても、かつては私の世界のすべてだったのである。そのことに、どう折り合いをつければよいのか……。でも、つけなければ前に進めない。

世の中は、バカばっかりだ。年齢は関係ない。社会的地位も関係ない。バカばっかりで、うんざりする。尊敬できる人間はわずかしかいない。

無知は隷属だ。奴隷は死んだまま生きる。はじめから死んでいる。生きることのないまま死ぬ。それと同じように、生きることのない人間が、現代でも溢れかえっている。ほんとうに物事を考えることのできない人、なにかを感じることができない人。大切な何かをはじめから失っている人。

私はそういう人間にはなりたくないと思う。

11.06.2016

おじさんの余暇

どうも落ち着かない、妙な感じ。休日だし、自由ではあるのだが、何もする気が起きない。だらだら寝そべっている。本音を言えば、セックスがしたいし、酒を飲みたいし、金が欲しいという衝動はあるのだが、めんどくさいので、そのままで過ごしている。

金を稼ぐよりも、ずっと知識を身につけることが重要だという気がしているが、しかし知識を身につけたところで、行動しなければ意味がないというふうにも考える。それで、行動とは何なのか、というところでつまづいている。

思うままに行動すればよいのだろうけど、いかんせん田舎ではすることがない。退屈である。金はたくさんあるのだけど、使い道がない。これまでは、ちょっと高いワインを買ったり、良いチーズを買うという、楽しい消費活動があった。こういうものが一切ない。財布のなかの金が減らない。

高給取りになってよかったのは、本を買うときに一切躊躇しないということだ。二千円、三千円くらいでは、何も考えずに買ってしまう。私は古書や専門書は読まないので、高くても五、六千円くらいで済む。

大学生のときは、仕送りが月に家賃を入れて七万円しかなく、バイトも時給九百円程度だった。そういう自分にとって、世界は暗く冷たいものだった。服屋も、飯屋も、私をとことんしぼりとろうとする悪魔的なものにしか見えなかった。なぜこの不味い居酒屋が、私から四千円も収奪するのか?この何回か洗えばダメになってしまうTシャツが、三千円もするのか?ラーメンが一杯千円だと?

金がないということが、不幸であることには違いない。ただ、これも一面的な事実であって、金がなくても幸福な人間はたくさんいるだろう。私の通っていた大学は裕福な学生が多かったが、貧乏人もたくさんいた。私はそういう人間とばかりつるんでいた。月に三十万円の仕送りだとか、二十歳の誕生日に新車の外車をもらったとか、そういう話を聞く度に、学食で豚汁ライス(170円)の昼食をとっている自分は社会の縦構造を学んでいった。

金がないときは、金があることがうらやましくて仕方がなかった。金があればできることは山ほどあると思った。一回一万円のブルーノートのライブに頻繁にいったり、数十万円のヴィンテージ家具とか、かっこいい外車が買えるものと思っていた。

しかし、社会人になって、衣類はだんだん買わなくなったし、外食もほとんどしなくなった。あまりライブに行こうという気にはならないし、家具や車のようなものは、所有への忌避感から遠ざけてしまっている。

所有への忌避感……なんだか、高価なものを買うと、それが「もったいない」ような気持ちになってしまう。私はやはり、定住というより放浪が向いているように思う。部屋に数十万円のものがあったり、車庫に数百万円のものがあると、気になって眠りを害する。

ただ私は、いずれポルシェのケイマンを買おうと思っている。そしてそれを十年以上乗ろうと思っている。ベンツとかレクサスは、十年経てばデザインがすぐに陳腐化するが、ポルシェは飽きがこないという気がするからである。でも、日本は税金が高いから嫌だという気もしている。

金は貯まる一方であり、生活の不安はなくなった。この前、税金を滞納していたおかげで、通帳に「サシオサエ」という馴染みのない文字が入っていた。それで10万円以上持って行かれたのだが、そんなものか、という気分だった。「10万円程度」ではびくつかないのである。かつては二ヶ月分の生活費だったが……。

私は世間的に言えば、まずまずの成功者であり、二十代後半にしては、人に言えない給料をもらっていることになる。金はないよりあった方が良い、ということは確かだと思う。生活のゆとりが違うから。

神経症が治療されたのも、いくらかは生活のゆとりが生まれたことと関係しているのだと思う。もちろん、社会的に成功した人間のなかにも神経症者は多い……(普通のひとより多いかも知れない)。だから、一要因でしかないだろうとは思うのだが。

年収600万円以上であれば、幸福度はほとんど変わらないという調査があるらしい。世間一般で言えば、年収1000万円を超えるのは大企業の中間管理職であるから、高給取りはそれだけ責任と労務に追われることになる。逆に平社員が30~40歳になれば年収600万円くらいにはなるだろうから、そういう出世コースから外れた人間の幸福度と、エリートの幸福度はあまり変わらないということだろう。

あとは社会階層も関係しているのかもしれない。年収1000万円を越すと、上流の最下層になると思う。年収600万円は中流の上位に位置する。後者の方が気楽であることは想像できる。

仕事に充実を見いだすのは、悪いことではないと思う。単純に言って、ひとは何か作業をしたいと望む生き物であって、未完成の仕事を見つけると、それを完成させずにはいられない。私も、仕事をしている間はいい気晴らしになる、というように考えている。慣れてくると、子どものときに砂場で遊んでいたのと、仕事をこなすことは、あまり変わらなくなった。

なんといっても、仕事が八時間で終わるというのがありがたい。残業はたまに三十分程度あるが、めんどうであれば明日にまわして帰ってしまう、ということができる。残業があるような企業であれば、私は就職していなかっただろう。やはり余暇の時間が重要であって、生活のための金を稼ぐことよりも、知識を身につけることが私は好きなのである。

いまは仕事が終わって、二、三時間本を読むという生活だ。少し、読書の時間が少ないのかもしれない。昔のように、熱中して本を読むことがなくなった。難解な哲学書を読もうという気も、あまり起きない。

話がもどってきた。それだから、余暇の使い方という点で困っているのだった。あまり読書をしようという気がないから、何をしてよいかわからない。気ままに楽器の演奏をしたり、バイクを乗り回したり、というのも楽しいのだけど、もっと人と関わるようなことがしたい、と考えるようになってきている。酒を飲んだり、飯を食べたり……。友人とか、知人というような人間が欲しい。

私のような人間でも、いまさら「リア充」になるということがあるのかもしれない。「若干の者は、青春のはじめから老人だ。しかし、かれらが遅くなってから青春をつかめば、その青春は長持ちする」とツァラトゥストラが言っていたが。

いま思いついたのだが、あまり暇なので、近所の山にでも登ってみようと思う。

11.04.2016

鎖のない奴隷

神経症が解消されるとともに生きることが本当に楽になった。

私は自分自身を労り注意深く見守るということを知った。

いままで脈絡なく毒を摂取し続けていた。惰性でポテチや酒をむさぼっていた。マクロビオティックを知ったいまでは、自分の体の状態が「陽」なのか「陰」なのか考えるようになった。陽の場合……過剰な性的衝動、暴力への衝動、いらだち、怒り、不眠、熱感のような傾向がある場合には、陰性の食品を摂る。陰の場合……抑鬱、無力感、倦怠感、無感動、悪寒のような状態では、陽性の食品を摂る。

マクロビオティック、現代ではエセ科学のような扱いだろうけども(東洋医学全般がそうであるように)、下手な栄養学より効果があるように思われる。まあ病は気からというし、プラセボかもしれないけど。

知識は自由へ導くものであることを実感する。人間のほとんどが、自由ではないように思われる。私も二十七年間、不自由に生きていた。知識を積み重ねて、精神的な健康を取り戻した。病気になる原因は、この社会にいくらでもある。思うに、現代ほど病的な時代もないのではないかと思う。国家だとか、経済だとか、このようなものは人間に適切ではないのかもしれない。国家を維持するためには、人間が病気になる必要があり、人間が健康であれば、国家は破綻するのかもしれない。……ヒッピーのようなことを言った。

病的なシステムに依存する病人によって、システムは維持される。そのシステムは、新しい世代を積極的に取りこもうとする。マスメディア、学校教育を通じて、システムによる上意下達が行われる。そうして、奴隷と主人が生まれる。ただ、奴隷は不自由だから奴隷なのではない。自由を求めないから奴隷なのである。奴隷は主人を求める。

神経症者と奴隷の違いを考えると、あまり変わりはないように思われる。神経症者は束縛され、歪な世界観を構築されている。「お前は不適合だ」という烙印を押され、それが当たり前だと考えている。しかし、人間の内奥には、そのようなことを「間違っている」とする本能的衝動がある。「私は正しく、幸福になるべきである」というような、文化的に規制されない、まっとうな精神があるようである。この本能的な衝動と、うわっつらの被支配的な精神が、ぶつかりあって、奇妙な症状を発症する。これが神経症の構造であると思う。

奴隷もたまには一揆を起こしたり、脱走を企てる。しかしそのような試みは我々が思っているよりも少数であると思う。奴隷は、奴隷であることが当然だと考えているから。だから世の中の人々が、「奴隷はかわいそうだ」と言うけれど、奴隷自身にとってはそこまで不幸ではないかもしれない。彼の精神は、ほとんど殺されている。死人は痛みを感じないのである。

神経症者は病人というよりは、ある種の「犠牲者」だと私は考えている。そうでなければ、この病気は読み解けない。なんといっても、神経症者は健康である。健康な人間が、社会的、文化的抑圧によってゆがめられている状態だ。この意味で、神経症者は「鎖のない奴隷」なのである。

もちろん神経症になる素因はある。過敏な神経であれば、神経症になりやすいだろう。ただ、この素因を正しく成長させることが可能であれば、創造的な力は絶大であると思う。鋭敏な神経は、創造性と密接な関係がある。しかしそれがいったん抑圧されると、神経症になり、破滅的な結果となるようである。

本来的な人間に戻ること……生長を望む、一個の自然人に戻ること、これが神経症の治療には大切なのだと思う。

11.03.2016

奴隷の世界

「自己を失うことは、どうしてできるのだろうか。気づかれもせず、考えもおよばない変節は、小児期に、人知れず精神的死をもってはじまる――愛されもせず、われわれの自然の願望が妨げられたとしたら、そのときに。(考えても見よ。何が残されているのか。)だがまて――これは精神の単なる殺害ではない。それは帳消しになるかもしれない。ちっちゃな犠牲者はこれを『乗り越えて進み』さえする――だが、かれみずからもまた、次第次第にはからずして、加担するというまったく二重の罪を重ねることになる。かれは、ありのままの人となりとしては、人びとが受け容れてくれない。ええ、人は受け入れられない状態にあらざるを得ないのだ。かれは自分でそれを信ずるようになり、ついにはそれを当然のことと考えるようにさえなる。かれはまったく、自分を断念するようになってしまう。かれが人々にしたがうか、それとも、しがみつき、反抗し、逃避するかはもはや問題ではない。――かれの行動、かれの行為が問題のすべてである。かれの重心は『かれら』にあるのであって、かれ自身にはない――それにもかかわらず、かれが注目したかぎりでは、十分に自然なことだと思っている。すべての事態が、しごくもっともらしく、すべては目に見えず自動的で、責任所在不明である!
 これはまったくの矛盾である。あらゆる事柄が正常に見える。どんな罪も意図されていない。死骸もなければ罪もない。われわれの見るところまったく普通に太陽は昇り、沈んでゆく、だがどうしたのだろう。かれは人々によって拒否されただけではなく、みずから拒んできたのである(かれには事実、自己がない)。かれは、なにを失ったというのだろう。まさに自己のまともな本質的部分、すなわち、成長への能力そのものであり、根本体系であるかれ自身の肯定感情を失ったのである。しかし、ああ、かれは死ななかった。生命は続くし、またそうしなければならない。かれがみずからを断念した瞬間から、それに、そうした程度で疑似自己をつくり、もちつづけようとしはじめる。だが、これは一種の方便である――願望のない『自己』である。この人は軽蔑するところだが、愛さなければならない(おそれなければならない)。弱いところだが、強いとしなければならない。喜びや戯れからではなく、生きるためにはそういう様子をして見せなければならない(ああ、しかしそれは戯画だ!)単に動きたいからではなく、したがわねばならないからである。この必要性は、生活ではない――かれの生活といえない――それは死と闘う防衛の機制である。それはまた、死のからくりでもある。現在以後、かれは強迫的(無意識的)欲求により引き裂かれ、(無意識的葛藤)により麻痺に陥れられ、あらゆる運動、あらゆる瞬間は、かれの存在、かれの統合を打ち消してゆく。しかも終始、かれは正常人としてみせかけ、そのように行動することを期待される!
 一言にしていうと、われわれは一つの自己体系である疑似自己を求めたり、防衛したりする神経症になること、われわれが自己を失うかぎり神経症であることをわたくしは知ったのである。」(マズロー「完全なる人間」より 太字ママ)

マズローの記述は、神経症の病態をよく表現していると思う(読みづらいが)。神経症者は、「ありのまま」であることを否定される。自分は自分であってはならない。「利口な子」であったり、「明るい子」「強い男の子」「優しい女の子」でなければならない……。

自分は自分であってはならない、自然としての自己を否定されると、子どもは「生きるために」自分を作り替えるよう努力する。敏感な子どもが、明るい子どもの振りをする。人は自分を作り替える。そうしなければ、生きていけないからである。子どもにとって、大人に見放されることは、そのまま生命の危機を意味する。

「そのままであってはならない」と学習しつづけた子どもは、世界をそのように認識する。自分は「自分ではない何者か」でなければならない。エリートであったり、金持ちであったり、あたたかい家庭の父親であったり……。この呪縛は、ひどい場合には人生のすべてを支配することもある。

マズローの言うように、神経症者にとっても同じように太陽はのぼり、沈んでいく。世界はひずみなく構築されている。しかし、神経症者の世界認識は、病的である。健康者にとって世界は明るく、神経症者にとって世界は恐ろしく暗い。神経症者はつねに、「ここにあってはならない」と脅えている。どこにあっても、異端者であり、迫害を恐れている。

不思議なことに、神経症者の周りには、それを「合理化」するような人間が集まる。「私はやさしい人間でなければならない」と強迫的に思い込んでいるひとには、その「やさしさ」につけこむ人間が現れる。この関係が持続すると、神経症者は「やさしくなければならない」という強迫観念を強固にする。

神経症者は神経症的世界を安定化するような人間を求める。神経症者は、そのままの彼を認めてくれる人間が信じられない。愛される、認められる、関係を深めるためには、自分は何者かでなければならないと考える。だから、彼が血みどろになって達成した特性、「強さ」だとか、「知性」だとか、社会的地位や金銭を認めてくれる人間を求める。

そうすると、病気はいつまでも治らないことになる。

神経症の治療は、病的な世界を壊し、健康な世界を取り戻すことである。世界を壊すことは、並大抵のことではない。いままでのすべての事柄を見つめ直し、吟味批判し、正しい認識を身につけ、さらにこれからの未来にしっかりと目を据えるのである。このようなことは、普通の人間にはできることではない。でも、それをしなければならない。病気を治さないことは、自分をないがしろにすることである。

神経症者は、治りたいと願っていても、本心ではそうではなかったりする。治療から逃避して、病的な世界に安住したいと思っているのである。それはただ、世界を壊すことが怖いからである。そのような気持ちは、理解できないことではない。しかし、それを成し遂げなければ、一生だれかの奴隷となって生きていくことになる。それは不当なことだ。怒らなければならないし、悲しまなければならない。攻撃して、破壊して、自己を取り戻さなければならない。

すると、明るい世界が開ける。暗い世界を抜け出した人間には、その輝きは、ほんとうにすばらしいものである。

まあこのように私は実感している。


私は驚くほど健康になった。分別をわきまえて、温和な、力強い人間になった。いまでは「健常者」としてうらやんでいた他者が、さまざまな問題をかかえた病人に見えるほどである。病気だった頃は、なんだったのか、と思う。ただ、神経症に苦しんでいた時期も、必要な過程だったとは思うけど。

生きることがこんなに簡単だったとは……。という単純な驚きがある。今日はバイクで出かける。


11.01.2016

映画「セッション」は駄作なのか

阿月まりという人物が好きで、そのブログを読んでいたのだが、映画「セッション」がつまらなかった、という意見があり、さらに「こういう映画を良いと思う人は、佐村河内に騙されるタイプ」というような記述があり、個人的に思い入れのある映画なのでなんだかな、と思った(「映画『セッション』とゴーストライター事件」)。

ジャズドラマーを目指す主人公ニーマンに「音楽観」に関する描写がない、だからつまらない、ということだけど、正直いって、プロの音楽家になるためにはまず技術、精確さがすべてであって、「音楽観」なんてへっぽこアマの段階で持つべきではないと思う。

音楽家というのは、まず第一に技術屋であり、いくら崇高な音楽観を持っているとしても、人並みの演奏ができないようであれば「ゴミ」である。テンポがキープできない、ピッチが合わない、それだけで「二流」どころか使い物にならない「ゴミ」なのである。

私もしばらく音楽をやっていたけど、「私はこういう音楽をやりたい」なんて言ってるのは、技術も糞もないカラオケ気分のボーカルくらいなもんで、ろくなものではなかったように思う。黙々と技術を磨く人の方がはるかにまともだし、演奏も感動できる。だいたい、音楽観なんて、演奏に勝手に出てくるものだ。

そういう意味では、私はナマッチョロイ「思想」なんか持っていない、スポ根的な練習に没頭する主人公にたいへん好感が持てた。

映画的につまらない、と言う意見はわかる。ただ私は体裁よく大衆受けを狙ったような映画はそれこそ「つまらない」と思うので、現実的でよいと私は思う。まあ、ドラム叩きすぎて手から大量出血するくだりには笑ったけど。

あと、コンボジャズとビッグバンドの性格の違いが無視されているように思う。

トリオとか、クインテットのような少人数のコンボであれば、音楽性を表現したいという気はわかる。そこがコンボジャズの醍醐味ではある。コンボジャズは繊細な芸術家の領域だと思う。個人が思い思いの演奏をして、他の楽器と共鳴しあい、音楽性を高める。当然コンボでも、音楽として成立するためには一定レベルの技術は要求されるが。

ただ、大人数のオーケストラジャズ、ビッグバンドはほとんどむさくるしい体育会系の集団であり、まったく性格が異なる。もう、ほんとうに、ミスが許されない、軍隊的世界。マーチングに近いかも。作中でも演奏家が監督の言いなり、コマのようになってるけど、あんなもんだと思う。その意味でも、「音楽観」なんてない世界だ。だいたい、演奏家それぞれが「音楽観」なんて持ったらバラバラでしょう。「良い演奏をしたい」のであれば、自分の音楽観を捨てなければならない。それが嫌ならストリートミュージシャンにでもなればよい。ドラムはとくにバンドの心臓部だから、ここがミスればすべてが台無し。だから精確さはこの上なく要求される。

私がこの映画を気に入ったのは、ニーマンとフィッシャーの「狂気的」世界である。きわめて歪な関係だが、妙な均衡をもった関係のもつ、その緊張感にやられてしまった。

フィッシャーはほとんど狂人だし、ニーマンもそれに応じていかれてくるのだが、その二人のいかれっぷりが解消されないまま、イカレタママ終わった。私はそういう映画だから気に入ったのである。ああ、これは体裁を整えた「楽しい物語」ではなく、実体験に基づいた「リアル」なんだな、と。

そもそも、この映画の感想は、「フィッシャーとニーマンが和解してよかった」ではないと思うんだよな。和解してはならなかった。フィッシャーがコテンパンにやっつけられないといけなかった……人殺してるし。でも、ニーマンは狂っているから、音楽にとりつかれているから、悪魔のようなフィッシャーを受け入れた。そこが、憎い演出だったし、私の大好きな描写だった。

この映画はおもしろいです。たぶん、音楽に熱中したことのある人なら楽しくてしかたないと思う。「キキセン(演奏しないけど聞くのは好きな人)」は楽しくないかもしれない。

音楽って、ほとんど技術がすべての世界だ。良い演奏をするのに、思想だの音楽観は不要。まあ私が技術の領域で呻吟しているからそう思うだけかもしれない。よく中国人の英才教育を受けたピアニストに対して、「技術はあるけど、魂はない」という表現をすることがある。「ヘタウマ」という言葉もあるし、そういうのが楽しいこともある。

しかし、音楽はまず技術なのである。というか、芸術ってすべて技術でしょう。アートとテクネーは同一だったわけだし。芸術って、技術が99%だと思う。100%かもしれない。音楽でも、絵画や彫刻でもそうだと思うけど、おそろしく残酷に「技術」「精度」が要求される世界なのだと私は思っている。そういう泥臭い現実を知らずして、「主人公にもっと音楽性を持ってほしかった」というのは、少しお花畑のような気がする。

なにせ何か月も前に観た映画だから、的外れな指摘もあるかもしれない。ただ、映画をあまり見ない私としてはかなり気に入った映画だったので、つらつらと書いてしまった。

なお、作品中の音楽には、別に「すごい」とはあまり思わなかった。映画館で観たらまた感想が違うかもしれないけど、ラストのドラムソロもそこまで好きではない。演出はよかったけど、音楽はあまり。

悪の省察

今春の一時期、上司が自殺未遂を図ったり、たちの悪い人間に関わっていたときがあった。そのとき私は「悪」に直面し、これがどこからやってくるのか考えなければならなかった。悪は必然なのか。悪はなくせるのか。悪は増えるのか、減るのか。悪から身を守る方法はあるのか。私自身は、悪なのか?

上記のような問題を考えていた。私は反社会的な人間のことを調べた。私が興味をもったのは、反社会的な傾向を持つ人間には、二種類あることだった。それは劣悪な社会的状況、家庭環境などの要素によって悪行を成す人間、いわば「反応的な悪人」と、裕福で、恵まれた環境にあっても悪へ向かってしまうような「生来的な悪人」がいることだった。前者は人間の心を持っているが、後者は嗜虐性、残酷さ、良心の欠如という言葉で説明される。いわばサイコパスである。

反応的な悪人の反社会的行動は、単純である。金がないから強盗に入ったり、女に振られたから殺したりする。いささか自制心が欠如しているだけで、教育しだいで常人に戻る可能性がある。サイコパスはそうではない。彼らは他者を利用し、破滅に追い込む。だからサイコパスは、単純な犯罪よりも、もっと計画的な、綿密な、厄介なことに「合法的」な悪行を成すことが多い。このため、サイコパスは社会中枢に多く存在していると言われる。

反応的な悪人は、適切なカウンセリングによって善人になりうる。だがサイコパスは、少なくともカウンセリングでは絶対に治らない。扁桃体に器質的な異常があると考えられている(仮説の域だが)。
サイコパスの根本的原因は遺伝子異常であることが推測され、扁桃体機能全体が障害されるのではなく、おそらく扁桃体機能のある一部と関連するある特定の神経伝達物質の機能が阻害されることで、より選択的に障害されていることが示唆される。われわれは、サイコパスでは、ストレス/脅威刺激に対するノルアドレナリンの反応が障害されていると主張したい。(「サイコパス 冷淡な脳」James Blairら)
いわば悪の極点とは、このサイコパスにあるのではないか……ということを、また考えている。前にも書いたが。

悪はここからやってくる。おそらく脳の異常に生まれた個体によって悪はもたらされ、それが世の中にさまざまな悪をもたらしている。

反社会的行動をする人間以外にも、私の元上司のように自殺未遂をしたり、私のように依存症や神経症になる人間がいる。これらは悪なのか。少なくとも、性格上はサイコパスとは真逆だが(自己反省の過剰)、しかし善というわけではない。

結局、反応的悪人の悪の発露が殺人や強盗などのように「外へ向かう」か、神経症者や鬱病のように人生を台無しにしたり自分を傷つける、といったような「内に向かう」か、といった違いしかないのだろう。両方とも悪人であって、両方とも自分を救わなければならない。少なくとも、サイコパスと違って改善の余地があるからである。

反応的な犯罪者も、精神疾患も、悪性の人間であるという点では同一である。このことに私は気づいた。

それと、サイコパスは完全に別格である。私はサイコパスを、悪の極点であると考えている。もしもサイコパスの存在をこの世から消すことができたら、この世から悪が消えるのではないかとも考えている。

気になるのは、サイコパスは完全に陽性の悪だけれども、完全に陰性の悪というのもあるのではないかと考えている。これはいまいち、想像しづらいけども。