12.29.2016

ヒモかタビか―2017に向けて

今、実家へと向かう夜行バスにゆられながらこれをタイプしている。

今年一年はろくなことがないまま終わってしまった。今年中に世界旅行に旅立つ予定だったが、結局実現しなかった。ほとんど出発を決意していたから、荷物は買い揃えるだけ揃えたのだった。バッグだけではなくて、防水ケースとか、積載用のゴムロープとか、海外用のコンセントとか、たぶん持っていかないだろうが、バーナーやコッヘルまで揃えた。それらは今は押し入れのなかに詰め込まれている。

労働者として二年目を過ごしているのだが、一日八時間、月火水木金、同じような日々を過ごしていると、一年があっという間だ、と感じる。とくに私は、何も出来事のない田舎に住んでいるし、読書と仕事の毎日だった。それだから金ばかり貯まった。

今日、地銀の口座からネット銀行に金を移すことにした。ネット銀行は振込手数料が安いし、一定金額以上の取引であれば、ATM手数料がいつでも無料だからだ。(いったいATM手数料など取るのは日本くらいのもので、ほんと日本人は食い物にされてばかりだな、と思う。) さて地銀の金は金額にして400万円だが、これをいったん現金で出金し、ATMで入金することにした。こうすると手数料なしで振りかえることができる。400万円という金を初めて手にしたのだが、手に取った瞬間心拍数が10くらいあがった。つまり私が一年八ヶ月間生命を費やした結果がこれなのだな、と思うと何か400万円の札束がとんでもないものに見えた。たかだか400万円、とは思うのだが……。

私はまだ金銭的な欲から抜け出せていない。十分な財産が必要だと思う。それで金稼ぎブログであるところのmanimaniというブログを作ってみた。私にとっては金稼ぎは将棋や麻雀と同じような知的ゲームであって、一種の享楽を感じるものである。

金の話ばかりになった。私は労働から離れるために金を得ようと思っている。悲しいかな私は資産家の息子ではないから、遊んで暮らすというにはいかず、金稼ぎもせめて楽しんでやろうと思っているのである。「労働を越える道は、労働を通じて以外にはありません。労働自体に価値があるのではなく、労働によって、労働をのりこえる……その自己否定のエネルギーこそ、真の労働の価値なのです」と安部公房の何かに書いてあった。

今の計画では、とりあえず4月までは仕事を続けることにして、それからは二つの道を考えている。一つはSがこちらへ帰ってくるというから、Sのヒモになる、というもの。「ヒモ」というか、生活費は自分で出すからヒモではないのだが、ようは生活コストを最低限に抑えるために、同棲あるいはルームシェアをするということである。家賃、食費、光熱費など、シェアした方が断然生活費は安くなる。それに、Sとの生活は絶対に楽しいだろう^^

Sが仕事に行っている間、私は図書館へ行き、ひたすら読書と執筆をする。あるいは事業を起こす。いわば「経済的な不安から離れて」、「潤沢な時間を自分に与えたとき」に、どういうことが起きるのか、それを確認してみたいと思っている。まったく漠然としており、明確な「これがしたい」という目標はないのだが、なにかが起こる、という予感がしている……。あるいは、単なる読書ニートになって終わるかもしれないが。

当然ながら、Sが「無理」といえばそれまでであり、こうなると私は第二の選択をしなければならなくなる。つまり「世界旅行」であり、これは前々から計画していたものをいよいよ実行というだけの話である。今年になって、「カメラ」が趣味になった。カメラとバイクと海外一人旅という組み合わせ、私にとってはヨダレが出てとまらないほどの好物である。さらに私の計画では、この旅は晴「走」雨読となる予定であり、雨の中バイクで走るのも苦痛なので、雨の日はホテルに篭って読書する、ということを考えている。ああ、まったくイヤになるほど素敵な計画だ!

いずれにせよ仕事は辞める。賃金労働はうんざりだ^^ 私は自分が事業家になるか、作家になるのかわからないが(もしかしたら音楽家かも?)、来年はいよいよ自己実現を果たしたいと思っている。

今年は、考えてみるとそこまで悪いものではなかったかもしれない。神経症がほとんどなくなったから。私を十四歳のときから、十四年間苦しめた神経症であった。しかし神経症とは結局、切除可能なあるものではなかった。それは自己そのものだった。人生は、ようやく色づいた。遅咲きの青春、というわけだ。

奴隷教育・去勢教育

資本主義社会では財界が教育に介入することは自然なことだ。たとえば「単純労働を厭わない労働者を作るための教育をしてくれ」、まあ別の言い方をすれば「忍耐力のある社会人」を教育によって作り上げてくれ、という要請は我々が思っている以上に当たり前になされている。

考えてみると子どもたちも「ブラック」な環境に置かれている。私の家の近所では高校生が夜の9時まで野球の練習をしている。また高校生たちは受験勉強のために一日12時間ほど勉強している。ブラック企業は根本を辿れば国家支配の矛盾に行きつく。

財界の要求はいらん教育をするなというものである。つまり少数のエリートと大多数の単純労働者があれば経済社会は成り立つのであり、だいたいこの比率を3%にしようということになった。それで単純労働者は大学などいかせずに、「黙って言うとおりに働く」効率の良い労働者に育てよう、という要求が80年代くらいにあった。(渡辺治)

人間性を育む、という意味での「教育」が虚像であるのは自然なことである。だれだって統制力のある「強い国」が良いのだ。だれもが主人になったらだれが泥臭い仕事をするのか。統治とは矛盾を孕むものだ。

私は最初この支配構造に吐き気を催したが国のあり方としては自然だな、と思い納得することにした。教育ってそういうものだよな。私の親戚は教師が多いが、まあろくでもない説教屋ばかりが教職につく。あるいは教師だからろくでもない説教屋になるのかもしれない。私は死んでも教職などなりたくなかったが、その理由は教員は統治システムの従事者であり、警察や自衛隊と変わらないからである。

また私個人の経験として、教育システムには嫌というほど辛酸をなめさせられた。私は何度殴られたか、精神的暴力を受けたかわからなかった。恫喝、恐喝は当たり前、顔をひっぱたかれたし、みぞおちを殴られたことがあるし、髪をつかんで引きずられたこともある。日本の教育現場は刑務所も真っ青の恐怖支配である。そしてそれは是正される気配がなく、学生は自己を作り直し、その縦構造をのみこんでしまうよう指導された。その環境の劣悪さはフォアグラ工場のようであった。

ちなみに私の通った中学と高校は低偏差値校である。ごみ溜のような学校だった。私は学校とは暴力の支配する場だと考えていたから、大学へ入ったときにすごいショックを覚えたものだった。まあ大学職員にもろくでもないのはいたが。

かといって教師が悪いわけではないし、財界や官僚が悪いわけでもないと思う。ドストエフスキーの言ったように、人間はどんな環境にも慣れてしまう。自分がしていることの意味を考えなくなってしまう。それが人間のサガなのだろう。盲人が盲人を手引きしているような国だな、と私は諦観したのである。


12.27.2016

働くことは立派なことではない

働くことが本当に嫌だ。

嫌だー!^^

働くことは立派ではない。そんなことはだれでもできる。いや、むしろこう言ってもいいだろう。労働者は働くことしかできないのである。だって、働かなくても生きていけるのであれば、ほとんどの人間が働くことを辞めてしまうでしょう。資産がない、才能がない、知恵がない、あとがない……そういう人間が生きていくために仕方なくするのが「労働」。これは大企業のエリートだろうと派遣社員だろうと同じ。

労働と統治。下層階級には、労働を課し、常に疲弊させよ。考える暇を与えるな。反抗する余力を残すな。わずかな賃金を報酬とし、財産を与えるな。
我々が憲法に書き込んだ人民の権利というのは幻夢的なもので決して実行のできるものではない。……というのはほとんど毎日働かなければならぬから憲法を使うことが出来ない。(シオン議定書)
想像してみてほしい。我々の労働時間が一日三時間になったら?我々の平均年収が2000万円になったら?下層階級が思考と健康を取り戻し、知恵と力をつけ、欺瞞を暴き、国家は崩壊するだろう。ゆえにこう言うことができる。国が豊かになることはあっても、国民が豊かになることはない。永遠にない。

すべての人間の緩慢なる自殺、それが「生きがい」と呼ばれるところ、それが国家である……ニーチェのこの発言は現代の労働者の価値観と見事に符合する^^

支配システムとしての労働がある。労働に駆り立てるために人間を道具にかえるのではない。人間を道具にかえるために労働がある。ここ、大事なところです。

フーコーが指摘したように、「監獄」へ入れられる人間は、精神異常者から「労働不適合者」へと変遷していった。働かない人間は、社会的な脅威となったのである。

私はそういう社会のカラクリが理解できるようになったので、もう働く気が霧散してしまった。

自分がバカな人間だと思う人は、労働を続ければよいでしょう。バカのままで微温的生活を続けられる。私は知識に生きることにした。

労働者一年八ヶ月のおじさんより

12.24.2016

五年目の雑記

気がつけばブログを初めて5年が経つ。

「世界を変えるため」はじめたブログであったがいまだ世界は変わらない^^ ただ内的な世界は大きく変わった。これは年齢による生理学的な変化なのか、思想の深化なのかわからないが。5年前のぼくと今のぼくでは世界が違って見える。

神経症的な性質はだいぶ転換した。ゲーテによれば長所にならぬ欠点はないとのことである。ぼくはかつて神経症だったしこれからも神経症であるだろう。しかしいまは神経症的な性質を愛している。神経症的潔癖、これは幾分か高貴の匂いがするからである。

思想的な深化はだいぶ遂げた。なにしろ読書ばかりしている生活なので……。今年も心理学や社会学、歴史学、精神医学、神学、哲学、脳神経学、呪術、密教、色とりどりの学問がぼくを楽しませてくれた。物事の道理というものがある程度わかってきた。ぼくの知性がどこまで到達したのかわからないが「庶民層」は脱していると思う^^かといって、社会的にはいまだ唖であり、米粒以下のぼくである。

これからどういう生活になるのかわからない。ぼくはサラリーマンを二年続けているけど、もう辞めになるかもしれない。赤の他人に経済的生命を依存させるというのは不気味なことである。

それでSのヒモになれればよいな、という考えが浮かんでいる……一年か、二年くらい……。ちょっとした計画を立てている。ぼくはとにかく、智慧を身につけたいのである。一日八時間も労働に費やすのは疲れた……それに、無意味だ。そういうのは、そういうことが好きな人がやればいい。
「技術的には、下層階級の労働時間を一日三、四時間にすることはしごく簡単なことだろう。しかし、それで彼らがちょっとでも幸福になれるだろうか。いや、そんなことにはならないよ。
――三時間半の余分な暇が幸福の源泉になるどころか、みんなはその暇から何とかして逃れようとせずにはいられない気持ちになったものだよ。」(「すばらしい新世界」ハクスレー)
とにかく、知識、知識、知識!この世の道理を知ること。色彩と感覚を楽しむこと。悪を見極め、遠ざけて生きること。それがぼくの目標である。
往々にして、高い知性をもった人は、自分の知性についてアンビバレントであり、時には、普通の人、あるいは「平均」人になろうとするあまり――いわば聖書のヨナがやったように、自分の運命から逃れようとして、知性をまったく拒みさえする。創造的な才能をもつ個人にとっては、自己の才能と折り合いをつけ、これを完全に受け入れ、発展させることのできるのは、つまり、自己の才能についてアンビバレントであることを超えるのは、往々にして、生涯の半ばを過ぎてからなのである。(「マズローの人間論」エドワード・ホフマン)
ブログは、まだまだ続けようと思っている。最近は煮物を作ったとか、金が欲しいとか、そういうだらしない記事ばかりで、アクセスは減ってきている。しかしそれくらいの方が居心地がよい^^ ほんとうのところ、最近はだれも読んでいないのだから、数少ない読者のみなさんは自分に希少価値を認めてよいと思う。

今年はSとの出会いが最良の出来事だった!それに、いろいろな出来事があった。ぼくは幸福だったし不幸でもあった。でも出来事はすべてぼくの血肉になった。

以下は昔のデザイン。昔は「御厨鉄」という名前だった。また戻そうかな?とも考えている^^





「剃刀の鋭き刃は渡り難し、と詩人は言いて、至上の智に至る行路の難きを嘆く」ウパニシャッド
「門は狭く、生命に至る道は細い。そしてそれを見出す者は少ない」マタイ福音書

12.22.2016

無職を目指すおじさん

衒学的なことを書くのは辞めようと思ったのだが、また小賢しい記事を書いてしまった^^

こういうことを書くのは、仕事のストレスが強いからである。いわば現実逃避の自慰行為に近い。「まあまあ高年収+楽な仕事」として今の職場を気に入っていたのだが、さいきん人手が足りなくって、あまりに疲れるし、私が高収入だとしても、経営者は絶対的に私より稼いでいるわけで、無教養で下品な糖尿病夫妻のために私の労働を捧げるのは「プライドが許せない」という気分になった。

具体的な金額を初めて打ち明けるのだが、私は今、年収650万円で働いている。家賃手当と通勤手当を合わせれば700万円は越える。「年収偏差値」というサイトで調べると、28歳で年収650万円は偏差値91.7と出る^^

ただ、ぜんぜん足りないのが実際である。私は年俸制なので、月に手取りで45万円くらい入る。これが多いかどうかは、人によるだろうが、私からすれば雀の涙。貯金数百万円で何ができるっていうんだろう。

労働者は奴隷である……。このことにしばらく気づかなかった。大学の研究は夜が明けるまで続けても楽しいのだけど、職場では18時になるとさっさと帰りたくなるのはなぜなのか、と考えることがあった。結局自主的に仕事をこなすか、他律的に動くかの違いだろう。人は自分のしたいこと、自分のためのことならいくらでもできる。あるいは困った人を助けることも夢中になれるだろう。しかし他人が儲けるために自己を犠牲にすることは、「魂を損なう」行為である。
労働が労働者にとって外的であること、すなわち、労働が労働者の本質に属していないこと、そのため彼は自分の労働において肯定されないでかえって否定され…(中略)…だから労働者は、労働の外部ではじめて自己のもとにあると感じ、そして労働の中では自己の外にあると感ずる。労働していないとき、彼は家庭にいるように安らぎ、労働しているとき、彼はそうした安らぎをもたない。だから彼の労働は、自発的なものではなくて強いられたものであり、強制労働である。…(中略)…外的な労働、人間がその中で自己を外化する労働は、自己犠牲の、自己を苦しめる労働である。(「経済学・哲学草稿」マルクス)
あまりにも当然の事実だと思うのだが、最近までこのことを認識できなかった。教育の洗脳が強かったのだろうし、飲酒や悪習慣の日々で頭が麻痺していたのだろう。
学校にいるときから、労働者は、行動を規制するいくつかの社会的規範――時間尊守、効率、服従、生産性、家族愛、あらゆる権威形式の承認――を実行するように「訓練されて」きているのです。
このような教育的訓練は支配的イデオロギーへ労働者を従属させることを目指しています。言い換えれば、労働者は支配的な――または支配的でない――イデオロギー、すなわち社会の――覇権を握るものであれ、副次的なものであれ――規範と価値に構造的に服従した主体なのです。(「哲学について」ルイ・アルチュセール)
昨日のことだが、いよいよストレスがピークに達し、机をなぐって指を怪我してしまった。自分でもおそろしい怒りで、ほとんど動物的な衝動だったのだが、止血しながらこの怒りの蓄積は何なのか、と考察した。仕事で疲れているのか、性的な欲求不満か、胃腸の具合が悪いのか……そうではなく、自分が隷属してあることに対する怒りであることがわかった。「労働者」はすべて、自己に対する裏切りをしているのである。このことに気づいた。目がさめる思いであった。

「自分がいちばんおいしくなったとき、ひとに食われつづけるのをやめよ」……ツァラトゥストラはかく語りき。まあ就職する前から「労働者=奴隷」ということに気づいていたんだけど、適応というのは恐ろしいもので、労働者のなかにあると、自然に「労働教」に染まってしまったようだ。

来年はぜったいに無職になるぞ、というのが私の目標である^^
私は高貴の生まれゆえ、他人の道具にはなれないし、
他人の命令に屈服するわけにもいきません。
世界のいかなる主権国家に対しても
重宝な召使になったり、手先になったりはできないのです(「ジョン王」シェイクスピア)

12.20.2016

構造における主人の透明化

現今の支配者層が「平等」を広めようとするのはなぜなのだろうと考えた。人種平等だとか男女平等、障害者の平等、ゲイやレズの平等。メディアや教育によってこれらは説かれるわけだ。

一見平等の概念は支配者層にとって不利に思われる。支配―非支配の関係は究極的な不平等関係だからである。

かつて権力は単純な三角形構造だった。上位に君主があり、最下層に領民がある。領民は、権威的象徴の存在を意識していた。領民と君主は共同体の構成単位としては同等のものだった。つまり領民がいなければ君主はなりたたないし、君主がいなければ領民は成り立たなかった。こういう共依存的な関係があった。

現代の権力構造はこういう封建モデルではなくなったようである。つまり君主が見えなくなった。我々の生活のどこを探しても、君主はいないように思われる。平等主義的市民社会においては、我々自身が君主である。我々は我々の「自由意志」によって、国家的改革をなし得ると考えている。国家権力を握るのは我々と同じ市民だし、我々が選出するのである。だれもがそういう風に学校で教えられる。

平等主義=民主主義的な世界構造では、支配者は存在しないかのように扱われる。ただ実際には、富を独占し我々を家畜のように扱う支配者層が存在するようである(ここの証明が、難しいのだけど)。

支配構造が視認できず、ひとびとの意識にのぼりもしないということと、非支配層と支配層の存在比が極度に偏ることが合わさると、そこに理想に極めて近い擬似的な「平等」が誕生する。つまり我々の99.99%は実のところ奴隷なのだが、そういう社会においては奴隷的な立場が「ふつうのライフスタイル」となる。

奴隷はひとつの階層にあるから平等である。このことの意味は、国会議員とニートが平等であり、大企業の役員とコジキが平等ということである。もちろん奴隷のなかで地位の上下はあるが、支配者層に従属するという奴隷の定義からすれば、彼らは「超えられない壁」によって非支配者層という区分にひとくくりにされる。

歴史とは、この支配構造の完成へ向かう道と考えることができるかもしれない。つまり奴隷制の完成である。奴隷が「私は奴隷ではなく主人だ」と考えるとしたら、これほど愉快なことはない。こういう奴隷は主人に反逆することなど間違っても考えないからである。そもそも奴隷からは、主人が見えていないのだが。

この世界において封建的な統治が撲滅されんとしているのは、旧来的な統治システムを、新規で洗練された統治システムが飲み込もうとしている過程と考えることができる。かつてナチスや日本がこれに反抗した。今はロシアや中国、中東諸国が抵抗しているのかもしれない?

いずれにせよ封建主義は「過去のもの」になり、全世界に「平等な社会」が誕生することは想像に難くない。支配者はますます少数になり、非支配者は莫大な富を彼らに献上するだろう。

かくして、奴隷は自由になり、平等となり、主人は不在となった。これが現代社会の支配構造と思われる。

12.17.2016

ズージャおじさんのジャズ・コレクション2016

今年一年でいちばん聞いた曲をあげてみたいと思った。

案外Youtubeにない曲が多かったので少し不本意だがだいたい以下の曲である。



シャイさんたまに日本来てる。
神経質すぎて寝てる人がいると演奏できないらしい。
「寝るのほんと辞めて」って怒られるみたい。



この曲、というか動画がすごく好きだ。



最近いいな、と思った。勢いって大事だな……。


今年いちばん好きだった曲。
"Ja ne sais quai"フランス語で「なんかいい」
フランスに行ったら使おう。


エンリコさんはこの曲も好きでイントロはダサいけど
憂愁感あるベースソロがすごくよい……
タイトルは「孤独の城」


Kurt Rosenwinkelの曲は基本的に好きだ。
この曲はヤケクソ気味な4ビートが交感神経を刺激する。


KurtさんはこのOrquestra Jazz de Matosinhosとやってる曲がすごくよい。
ワルツっていいな……ワルツとギターって柔らかくていい組み合わせ。
カメラワークと編集も一級品だね


テクノっぽいのも好きなんだよな。
無機的なのは苦手だけどこういうのはいい。
Frying lotus、たしかコルトレーンと血縁にあったはず。



Bilal、Robert Glasper繋がりで知った。
Tokyo Blue Noteにも来てた。
この曲は何度聞いてもいい。歌詞もいい。



はじめは大学生のライブ?と思ったが
クオリティ高すぎて椅子から落ちそうになった
リーダーのベーシスト、グラミー賞とか。反則的な気持ちよさ。


ピアノ、ベース、ドラムが好きだ。たぶん核戦争になってもこの三つの楽器は生き残ると思っている。少なくともジャズにおいては、音楽における核である。

自分の音楽の好みがだいたいわかってきた。

  • 三拍子
  • マイナー調
  • リズム変化
  • アップテンポ
  • ピアノトリオ


今年は実り多い一年だった。Googleの音楽サービスでなんでも聴き放題なのだ。ポルノ雑誌を手にした14歳少年の気分であった。



12.16.2016

マネーゲームとおじさん

ウォーレン・バフェットの本を読んでいる。たぶんこの人は、世界でもっとも有名な投資家だと思う。総資産は700億ドル。この金額はビル・ゲイツと変わらない。トランプの20倍。しかもウォーレン、一度資産の99%を寄付している。それでこの金額なのだからすごい。

経済の世界の良いところは、数字が事実であることである。哲学のようにソーカル事件で根っこの権威がぐらついたりはしないし、科学におけるSTAP細胞のように、実は再現不可能なデータを論文に載せたり、アポロ13号は月面着陸したのかしてないのかしていないのか、市井の人々がいまだに喧々諤々である……というようなことはない。

たしかなことは「ウォーレン・バフェットは投資で成功した」ということであり、マイクロソフトのドンくらいの資産を持っているということだ。だからこのおっさんの真似をすれば金を稼ぐことができるのかもしれない。

ウォーレンの言ってることはもっともなことばかりだ。結局「安く売ってるときに買え」ということだ。でも本を読んでいると、ゲーテや哲学者の引用をしたりして教養深い一面も見せる。金持ちってだいたい、教養深いものだと思う。

経済的成功と教養はあまり関わりないように思われるが、精神的に貧しい人間が一時的に大金を稼いでもすぐにくだらないことに濫費し、あっという間に破産するだろう。こういう人間は、新車を買ってみたり、しょぼい家を建ててみせたり、ブランド品の衣類を買ったり、ろくでもないことに金をつかってしまう。

経済の良いところは上に述べたように数字ではっきりわかるということであって、フロイトが正しいのかユングが正しいのかわからんとか、プラトンの影響は人類にとって功と罪どちらなのかとか、抽象的で煩雑なことを考える必要がないということである。100万円を200万円に増やしたやつの方が偉い。100万円を10万円にしたら失敗者。こういうわかりやすさが、人をマネーゲームに駆り立てるのではないかな。

私は現実には、金はほとんど必要ないという生活をしている。月に払う家賃は14000円だし、携帯代は月に1000円だし、自動車やバイクの整備は自分でするし、趣味の楽器は維持費がかからない。グルメもまったく興味がなく、旅行先でもコンビニのパンをかじる私である。もっとも大きな出費は、税金と書籍というような生活だ。

金をつかうことの楽しみがあまり思い浮かばないのだが、金があったらしたいことは、小ぶりな、しかしがっちりした造りの西洋風の家を建てること(防音室付き!)、輸入ものの中古家具を買い集めること、海外のあちこちを旅すること、あとは成功者気取りの小金持ち(特に意識高い系)を顔が真っ赤になるまでバカにすること。これがしてみたい。

金がなくても、本をたくさん読んで、仕事を習熟して、職場の人間と談笑して、という生活も楽しいのだけど、そういう生活って、何十年も続けられる気がしない。もっと自己を世界に拡充したい気分。

まあ、金を稼ごうと思っている。



これまで株に興味がなかったときは、株で失敗したひとのコピペが好きでよく読んでいた。会社を辞めて資産1000万円でデイトレーダーデビュー!とか言ってる人が、あっという間に破産し、3日で引退するようなのとか。そういう失敗者の情報ばかり調べていたわけだ。

この傾向はモーター・スポーツでもそうで、バイクがただ走っているだけの動画よりも、ウィリーをしようとしてズッコケた方がはるかに人気のある動画になるわけだ。

ただ、実際にウィリーの練習をしていて思うのは、そうそう失敗はしないし、失敗してもじきに上達するし、思ったよりも危険でなく、簡単だということだ。それに、楽しいものである。

この傾向は株にも当てはまるのではないかな。失敗者のマイナス情報ばかり集めても、しょうがない……。「失敗から学ぶ」と、うまくいえばそうなのだが、根っこは結局はルサンチマン的な逃避だったりする。株は怖い、辞めておこう。まあその選択が正しいことがある。でも、自分はよく自分に嘘をつくから……。



私のようなずぶの素人が相場に参入するということは、じきにバブル経済になるということである……。次の暴落で買いだから、いましばらく待とうと思う。



個人的な考えでは、「幻の桜」のMAHAOは相当の資産を持っているのではないかな。幻の桜って、当初は株ブログだったし、さんざん荒稼ぎしてそう。でも、想念を集められないからボロ屋の画像を見せているわけだ。まあ妄想だけど。

12.15.2016

賃金労働を忌む

会社をやめたいな、と思っている。賃金労働というのが気に食わない。年俸制だから、毎月決まった給料をもらうだけ。生活はできるし、貯金は貯まるけど、味気ない。

貯金を貯めるのも、最初のうちは楽しかった。はじめて100万円を超えたときは、嬉しかった。今、貯金が400万円くらいある。これくらい貯金が貯まってくると、毎月数十万円の給料が入ったところで、たいして総額は変わらないことになる。40万円が80万円になれば嬉しいけど、400万円が440万円になったところで、ぜんぜん嬉しくないものである。

だんだん白けてきて、「いつまで貯めなければならないのか?」というムードになる。多くの日本人が、「老後のために」必死に金を貯めているわけだが、馬鹿らしい話である。もっと楽しいことに金を使わないのだろうか?金がなくなれば生活保護でいいじゃないか。

フランスに移住したひとのブログを読んでいると、やはり西洋国はいいな、と思ってしまう。労働時間が週に35時間。年に8週間のバカンス休暇。最低賃金は1500円くらい?そりゃ移民も一生懸命国境を越えてくるだろう。

労働環境はおそらく世界最悪レベルの日本だが、これを是正しようという気概はあまりないらしい。なにせ日本人の大部分は昨今の官製メディア報道で「日本はすばらしい国だ~」と呆けているからだ……。

そういう阿呆労働者を安い賃金でこき使えば金持ちになれるのではないか?と思うのだが、日本の富裕層ってあまり金持ちに見えないんだよな。結局、日本の富って海外に流出しているんだろうな、と思う。そこは敗戦国だから仕方ないのだろう。敗戦国は骨の髄までしゃぶられるということ。

話がそれてしまったが、どうせなら金をがっつり稼ぎたいと思っている。賃金労働だとどうしても収入が限られる。一生をかけて働いて、得られる賃金が2億とか3億ぽっちじゃやるせない……。

生涯、完全に金銭にしばられている社会階級がある。それは賃金労働者である。……現代の主要なる社会的問題は、ある意味において、わが国の労働者も移民になったという事実に由来する。地理的にはおなじ場所にとどまっているとはいえ、彼らは精神的に根こぎにされ、追放され、その後あらためて、いわばお情けで、働く肉体という資格で容認されているのである。いうまでもなく、失業は根こぎの二乗である。(シモーヌ・ヴェイユ「根を持つこと」)
奴隷が略奪によってもたらされ、賃金労働者が商取引によってもたらされるという違いがあるにせよ、《賃金制度は奴隷制度のもうひとつの形態にほかなりません》。(シモーヌ・ヴェイユ「ヴェーユの哲学講義」)

12.13.2016

everyday★NIMONO


煮物。にんじん200円。大根100円。ごぼう150円。しいたけ150円。こんにゃく60円。揚げ豆腐100円。合計760円。

これを3日かけて食べる。一日あたり250円か。まあ、妥当かな。

ぶり大根。半額のぶりのあら200円。大根100円。しょうが1/4で50円。合計350円。

あらの処理が大変だ。骨、目玉、内臓、嫌気がさすアンモニア臭。生き物を食べるとはこういうことか。一晩おくと、大根もぶりも、信じられないくらいおいしくなる。

鯖の煮付け。半額の鯖150円。豆腐が50円。あわせて200円。

あんがいパサついておいしくない。調理の問題か?



バーチャル株。500万円投資して、いま利益が40万円くらい。昨今の相場であれば、だれでも得していることだろう。次の暴落で現実の投資をしようと考えている。

私はチャートは読めないから、上昇しそうな株をじっくり選ぶことにする。とりあえずは私の後輩の、ベース弾きの入社した会社に投資したい。彼は優秀であり、彼を採用した会社も将来有望だろうからだ。

私のいとこが勤める会社、平均年収が1400万円とある。どんな気分なのだろう?彼女は銀座で家賃20万円のところに住んでいる。

職場の女性はいとこと同じ年齢だが、田舎の工員と結婚し、妊娠して、日に日に腹が大きくなっている。女の幸せはやはりこちらにあるのではないかな。

年収が一億を超える人は、大部分が経営者・医者・弁護士であるらしい。



世界が不可解であると死んでいった藤村操。
悠々たる哉天壤、
遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て此大をはからむとす、
ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、
胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、
大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。
森田正馬はこれを喝破する。いわく、すべての真相が不可解であるならば、死ぬべきかどうかもわからぬではないか。また、悲観すべきかどうかも「不可解」なのではないのか。

神経症者にとって危険な三毒。すなわち精神主義、合理主義、主知主義。すべてを知りたいという願望は、神経症的である。世界が未知であることに、耐えられないのである。不安を不安のままに受け止めることができない。

眠ろうとすると、眠ることができない。忘れようとすると、忘れることができない。不安をなくそうとすれば、不安は増幅される。理性や意志のはたらきには限りがあることを、神経症者は悟らなければならない。

12.09.2016

任意保険に入らないおじさん

キュレーションサイトがやり玉に上がっている。

私はこの手のサイトを見ることはないのだが、たしかに検索で引っかかることが多くうっとおしい。なので基本的に検索は「ノイズレスサーチ」というサイトを使うようにしている。これを使うことで、まとめサイトやヤフー知恵袋のようなQ&Aサイトが消える。

もっとも良いのは、検索ワードに「PDF」を追加することだろう。論文や公的機関の資料を見つけることができる。まあ論文も玉石混交だけど……。

ちなみに私の記事もNAVERまとめに「キュレーション」されていることがあった。なんでもありなのだろう。

仕事柄学術的・科学的な情報をネットで探すことがあるけど、噴飯物の「まとめ」がたくさんある。でもたしかに、何ら前提知識がない人は「そういうものか」と思ってしまうのかもしれない。

狡猾な人間が、小銭をつかってバカな人間に記事を書かせ、バカな人間が読む。広告が読み込まれ、金が動く。ようやくバカな読者たちが、「俺はバカじゃないぞ」と吉本的なタイムラグで憤ったのがいまの状態。

結局バカを相手に商売するのがいちばん楽なのだろう。これは明白だ。極端な例は、麻薬や売春の商売。パチンコやソーシャルゲーム。でも、こういうビジネスって心が荒む。決して幸福にはなれない。組織化された大企業だと、こういう罪悪感はうまくマスクされるのだろう。タバコ会社の社員なんかは、けっこう罪悪感で苦しむものらしいが。

日本人は消費者としてまったく成熟していないように思われる。だから外資にとっては楽園なのではないかな。

先日年末調整の書類を書いているときに、生命保険に入っていないことを伝えると、別の社員が驚いていた。「自動車保険には入っているんだろう?自分自身にも保険をかけなきゃ」と言われた。私は納得した振りをしたけど、実は自動車保険にも入っていない。バイクの任意保険も入ったことがない。

私は自動車の任意保険を憎んでいる。たかだかビジネス用の商品にもかかわらず倫理的な価値があるように匂わせているからだ。おかげで「任意」保険に入っていないだけで犯罪者みたいな扱いを受ける。

私は人を轢き殺せば一生をかけて償う。だれかの車にぶつければ、法的な賠償金は支払う。償いは受ける。それと、任意保険に入るかどうかは別。

保険は基本的に払えば損になる。そうでなければ保険会社は利益をあげられない。ようは保険は宝くじのようなものだ。私はギャンブルをしないから、保険にも入らない。単に経済合理性に従っているだけだ。国から強制されるものは入るが……。

任意保険に入っていないことを伝えると、ひとびとがぎょっとする。私はキチガイか何かのように扱われる。ときどき、この強固な観念は呪術でつくられたのかと疑うことがある。ひとびとは自動車の任意保険を、実際のもの以上に感じている。

こういうビジネスって、すごいな、と思う。ほとんど洗脳と変わらない。勝ちが確定している。保険のビジネスと新興宗教って近いのではないかな。オウムの元信者の洗脳を解こうとした精神分析家がいたけど、「一度洗脳されたものは戻せない」と諦めたらしい。その点、「水素水」の罪のなさ……。

あと、日本人ってアホだなーと思うのは中古の自動車が異常に安いこと。新車信仰というか、中古車恐怖症というか、そういうものが伺える。600万円の車が10年落ちで60万円ってどうなんだ……。

貧乏人は「金がない」と言っておきながら、新車の軽自動車をぽんと買ったりする。不思議。私の今いる田舎は年収300万円が御の字の貧しい街だが、ピカピカの軽自動車が走っていたりする。

これも「消費者を洗脳する」結果なんだろうなーと感心する。「型落ちの高級車はかっこわるい」という意見もあるけど、全然みっともなくない。古いものを大事にするって良いことでしょう。それに今の車って、デザインが……。これは私の趣味かな。

まあいつの時代もマスは支配者によって都合よく作り変えられるわけだ。時代によって文句を言わない農民だったり、勇敢な兵隊サンだったり、アホな消費者であったりするわけだけれども。

共通して言えることは、マスってけっこう幸せなんだよな。いろんなことが支配者層によって用意されていて、その上を歩くだけだから楽だし、同じようなアホとわいわいガヤガヤすることができる。

疑わないことの楽しさと、知ることの孤独とがある。



金を稼ごうと思って、いろいろ勉強中。

12.08.2016

金か知識か

金が欲しいと思い。

金があれば仕事をこんなにしなくても済むし、旅に出てゆけるし、好きなだけ読書ができるし、地下スタジオを作って、そこで延々と生楽器を楽しむこともできる。

そういうわけで資産運用の本を読んでいる。NISAという制度があり、非課税で株式投資できるようである。これは「投資しなければ損」というものらしく、120万円の上限枠までさっさと買ってしまおうと思っている。

金を生みだそうと思うが株や外貨などの投機しか浮かんでこない。

電子書籍を出版して成功しよう、と思うこともあるのだけど、それよりも知識をたくさん身につけたいという思いがあり、読まなければいけない本がたくさんあるので、時間がそれにとられている。また最近、5000円超の本を買ってしまった。こういう高い本を買うと、かなり読書へとmotivateされる。

最近日常の生活行為に時間をおおくあてることにしている。とくに料理に凝っていて、昨日は鯖の煮付けを作った。おとといは煮物を一時間くらいかけて作った。一人暮らしはもう10年近くだが、いまさら料理に目覚めるとは……。まあそういうことをしているので、あまり時間がないということになる。

それに加えて、毎日仕事に8時間は時間を奪われているわけであり、いくら賃金が良いといえど、こういうことを続けている限り、何も成しえないのではないか、と少し不安になる。生活は楽しく、ストレスフリーではあるけど、これでいいのかという気もしてくる。

いっそ仕事を辞めて一年間図書館で本を読む生活をしてみようか、あるいは前々から言っているように海外バイク旅行を敢行しようか、と思うのだが、「安定した生活」の呪縛というのは極めて強いもののようで、だらだらと安楽な生活を続けている。

億単位の資産を獲得し、リタイア生活をしている人のブログを読んでいる。それによるとストレスはたしかになくなるのだがあまり楽しいこともないように見える。河原で日にあたりながら缶チューハイを飲むのが楽しいとか、そういうことを書いている。

あまり金を稼ぐことが主眼になっては良くないかもしれないな。

やはり一年間の読書生活というのが良いかもしれない。世界旅行よりも先に。最近知識を吸収できるピークを過ぎた、という実感があり、ちょっと焦っている。もうおじさんだからな。

#今日いちばんの驚き。パオロ・マッツァリーノって明治大の准教だったのか!

12.05.2016

三十五度の仰角

書かない間にいろいろなことがある。

例えば美容整形を受けてみた。

例えば西成のドヤに泊まった。

遊郭へ遊びに行った。

そんな様々な事柄がある。たぶんここを読んでいる人は、とても興味をそそられるのではないかな。でも、書いてみて辞めてしまった。

何かを犠牲にしなければならない……。大事を成すためには、それ以外のほとんどを犠牲にしなければならないのだろう。そういうわけなので、私は「よく書くために、書かない」をモットーにしてみた。ここ最近のことだけど、そうすることにしてみた。

読書はしっかりとしている。読書をすると、いろんな思いつきがあらわれる。頭の中で、ニーチェとフーコーとヴェイユが会話していたりする。

この三人が私は好きだけども、エイズで死んだホモと、梅毒で死んだ狂人と、(たぶん)処女で死んだカトリック信者というわけで、どうも人好きのしない連中である。

アドラーを読んでいたら、「仕事」「交友」「セックス」が十分満足であれば、人は精神病などにはならないというようなことが書いてある。ストレートなフーコー、ルー・ザロメと結婚したニーチェ、子持ちのヴェイユだったらどうなるのだろうか。

ゲイは精神的な歪みが原因であり治療可能であるという観念は1900年代前半には当然のように言われていた。それがいつしかゲイはひとつの人種のような扱いになった。私もゲイは歪み以外ではないと思う。ゲイを公認しようという昨今の流れには合意できないし多分シオニストの策略なのだと考えている。

大阪の書店に行ったらビジネス書が山ほどあった。資本社会に迎合しそのなかでがんばろうと思える盲目的人間は幸いだ。

ビジネス書のような本を書いている人間は死にたくならないのだろうか。超訳ニーチェだのアドラーの言葉だのを見ていると日本人の教養ってほんとうにだめだと思う。なんで直接ニーチェやアドラーを読まない……。ぜんぜん難しくないのに。

私の感覚では日本人はバカばかりだと思う。たとえば輸入して買えば8千円のコートが日本では3万円で売られていたりする。しかも輸入物より品質が落ちていたりする。それを平気で買って「俺は金持ち」「俺はオシャレ」とドヤ顔している連中の恥ずかしさ。

「オロビアンコ」とかいう、エセイタリア製革メーカーにつられるダメ日本人。

いつの時代も大衆は馬鹿だろうが日本人は輪をかけてバカだと思う。搾取されていることに気づかない。気づいても、まったく声をあげない。

たぶん教育のなかで、抑圧的条件を受容するように何万回もトレーニングされているのだろうと思う。これは日本の「伝統的文化」などではなく、国家統制のためのシステムだ。もっと言えば、日本という国自体をcontrollableにするための機構である。しょせん敗戦国とは、こういうもの。「過ちは繰り返しません」。

その結果が自殺だったり精神的、物質的貧困だったりするわけだけれども。しかしうまい統制だな、と私は感心してしまう。やっぱり日本は帝国主義的だと思う。国民の力を抑える方向に持っていくのが、帝国主義。抑圧が行きすぎると、去勢された国民ができあがる。日本人は世界一セックスをしない国民だ。

私自身のこと。女性恐怖を克服しなければならないと思う。女性との和合を果たさなければ……。このままではニーチェのようになってしまう。永遠を目指す人間は両極だ。片方は孤独に創造の世界を生きる。片方は子孫繁栄を追求する。

岡本太郎などは、子どもを作らないのかと言われて、「芸術とはそういう簡単な創造をしないことだ」と言っていた。真理なのだろうが、でもぜったい太郎ちゃんは後悔して煩悶することがあっただろうなと思う。子ども好きそうだし。

私はできることなら両方のいいところ取りがしたい。難しければやはり創造家の道なのだろう。
わたしの涙をたずさえて、あなたの孤独のなかに行きなさい。わが兄弟よ。わたしが愛するのは、自分自身を越えて創造しようとし、そのために破滅する者だ。――
 ツァラトゥストラはこう言った。
ちくま学芸から出ているニーチェの漫画(ではなくバンド・デシネというジャンルらしい)を立ち読みしたのだが大変良かった。買おうと思ったが立ち読みしている間に読み終えたのでやめた。やっぱり、ニーチェの生涯は良いものだと思う。

煮物が煮えたのでこれまで。



12.01.2016

禁酒後の体調変化

寿命、精力、活力と、健康、愉楽、愉悦を増し、味わいありて、口当たりよく、滋養あり、心爽快ならしむる食餌は、純性の人の愛づるところなり。(ギーター)
酒を飲まなくなった。飲まなくなって、もう三ヶ月経つ。この間、会社の忘年会があったので、ビールを三杯、梅酒を二杯、日本酒を一杯、家に帰ってから、ハイボールを一杯、水割りを一杯飲んだ。翌日は仕事だったが、へばってしまった。それでも、また禁酒を続けた。

私は自分にある条件をつけており、他人が施してくれるものは無条件でいただくことにしている。奢られれば酒は飲むし、肉も食らうが、自発的にはしない。

今日は初めて煮物を作った。にんじん、ごぼう、こんにゃく、揚げ豆腐で作った煮物である。これはたいへんおいしかったし、多少時間がかかるが、おもいのほか簡単だと思った(昆布だしは偉大である)。

酒をやめると、朝の目覚めがよくなる。なので会社に弁当を持っていくことになった。味噌汁の入る弁当箱で、ご飯、味噌汁、梅干しは毎回入れることにし、あとはおかずを適当に加える。梅干しは10円くらい、味噌汁は20円くらい、ご飯は実家から送られるのでタダ、惣菜はスーパーで半額のを買ってきて適当に詰める。たぶん100円もいかないのではないかと思う。これまで、会社まで配達してくれる弁当屋に頼んでいたが、毎日500円も取られるのだから結構な出費だった。

朝食は必ず、味噌汁と納豆とご飯にしている。これをひとつの椀に入れて食べるのである(納豆のタレ・からしは捨てる)。見た目はよくないが、簡単だし、健康的だし、安価だし、だいいちおいしい。私はこれをありがたがって「アムリタ」と呼んでいる。だいたい50円くらいで済む食事だ。ときどき海苔やネギ、梅干を加えてやる。

夜は煮物とか、魚の煮たやつを食べたりする。たまに酒が恋しくなると、ノンアルコールビールを飲むようにしている。これもあまりよくないだろうから、炭酸水にシフトするように心がけている。

こういう生活をしていると、ほとんど食費がかからなくなる。スーパーでは4~500円程度で抑えている。買い込んでも1000円いくかいかないかである。酒を飲み、ポテチやチョコレートを好んで食べていたときは、一回で2000円や3000円払うこともあった。

摂取カロリーが減るから当然だろうが、体重はどんどんと減っていった。BMIは18.5を切り、低体重ということになる。ただ、最近読んだ本では人間の脂肪量は遺伝でほとんど決まっているようである。
大半の文化圏では、食べ過ぎと肥満は意志の力が弱いせいだとされている(ダイエット業界もそう主張する)。しかし、遺伝学的には、その考え方に対する強力な反証がある。養子、双子や家系を対象とした研究データが示すところでは、体重の軽重は、八〇%遺伝的に決まっている。この比率は身長などの身体的特性の遺伝性と同じで、乳がんや統合失調症や心臓病といった、現在では遺伝的素因があることが明らかだと見なされる病気における遺伝性よりもはるかに高い。(「快感回路 なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか」/デイヴィッド・J・リンデン)
同窓会など行けばわかると思うが、太っちょだった子はあいかわらず太っちょである。私は子どもの頃から、どれだけ食べても太らない痩せ型の体質だった。酒やポテチでふくれていたのが、もとに戻ったと考えるべきだろう。肌ツヤや顔色はよく、この時期でも身体が冷えることはないので、健康なのだろう。

こうした食生活でたいへん好ましいと感じるのは、腸の具合がよいことである。酒を飲んでいたときは、ほとんど毎日下痢していた。今考えると、恐ろしいことだと思う。腸の具合が良いと、物事を肯定的にとらえることができ、勇気や活動力が湧いてくるもののようである。腸の具合が悪いと、抑うつや無気力感に襲われる。腸は第二の脳と言われる。それほど多くの神経叢が集まっているのである。われわれの感情や思考は思っているよりも腸の影響が強いように思われる。

腸内環境の改善の効果かわからないが、部屋をきれいに保つことができるようになった。部屋の快適さを向上させようと思い、模様替えをしたり、ソファを置くようになった(今もソファで書いている)。新しい楽器を買ったり、新しい人と知り合うようになった。台所のシンクもきれいになったし、冷蔵庫のなかに干からびた野菜が転がっていることもなくなった。適度にシャンプーをするようにし、香水をつけるようになり、口臭や虫歯に気をつけるようになった。生活全般が改善したようである。

生活が向上すると、社会的な成功を求めたくなる。女にモテたいし、金を稼ぎたいと思う。この感情はとても健全だ、と私は自分で評価する。性的な意味での成熟と、社会的な意味での成熟を示すからである。三十路前にしてようやく人生に向き合うようになったな、と思う。

とりあえず株でも始めようかと思っている。