1.30.2017

機械弄りを好むおじさん

クルマをバックで駐車しようと思ったら、コンクリの壁に派手にぶつけてしまった。軽自動車から大型セダンに乗り換えたのだから、まあいつかやるだろうと思っていた。それがおとといのこと。

昨日はクルマについた傷を補修していた。つまり、傷の部分をヤスリがけし、凹みをパテ埋めし、スプレーで色をつけ、さらに光沢・塗装面保護のため、クリア塗装を施すのである。

こういう作業って、地味だけど楽しい。

私は機械を直すのが好きだ。

もちろん作業は大変である。失敗だらけである。

ボルトをなくす、工具が足りない、パーツで指を切る、想定外のパーツが破損していたり、作業場や衣服をオイルまみれにする、部品交換しても直っていない、どこかでヘマをやらかして一からやり直しになる、最悪修復不可能になる……。

今回の修復作業も、全体の流れはうまくいったのだが、よくみると塗り残しの部分が目立つので、また塗り直さなければならない。

それでも、自分でやりたいのである。カネがかかるから、という事情もあるけれど、自分の道具を直すのは、基本的に自分でやるべきではないか、と私は考えている。

機械をまったく触ろうとしないひとがいる。機械は家電かなにかで、スイッチを押せば動くものだと考える人。

私も、はじめは「機械が壊れる」ということが恐ろしい時期があった。

私が大学時代にはじめてのバイクを買ったときは、バイク屋にもっていって、エンジンの音がおかしくはないか、とか、ブレーキの効き方がおかしいのではないか、とたびたび相談していた。そのたびに何も悪くないとの答えだった。

ようは神経質なので、機械が完全な状態でないと許せないのである。それに、バイクは私にとって大枚はたいて買ったものだから、壊れることが恐ろしいのであった。

バイクのメンテナンスも、自分でやろうなどとは考えていなかった。「弄って修復不可能になる」ということが恐ろしかったのである。

それでもバイクは好きだったから、はじめに買ったバイク以外にも中古でいろいろなバイクを買った。そのほとんどが、今だったら買わないようなポンコツだった。でもたしかに安かった。

ブレーキが固着していたり、ハンドルがスムーズに動かなかったり、サスペンションからオイルが漏れていたりした。

その都度私は、大げさに言ってしまえば絶望した。こんな機械は手に負えない!と投げ出したい気分になった。でも、カネがないから結局自分で直さざるを得なかった。(そう、あのときは、ほんとうにカネがなかった……)

でも、ネットで情報を得ていくと、案外自分でもできそうだ、ということがわかった。そして部品と工具を揃えて、いろいろ弄っているうちに、だんだん機械のことがわかりはじめてきた。

もっとも大切なことは、機械は、人間に直されるために作られている、ということである。壊れたらそれでおしまいなのではない。機械は直されることを待っている。

そしてその修復作業は、けっしてプロでなければできないわけではない。無論プロの方が完全なメンテナンスを行うことができる。しかし素人でも、部品・マニュアル・工具を揃えればどんな作業でも行うことができる。その作業は、ほとんどがせいぜい1,2時間あれば終わるものだ。

もうひとつ学ぶことがある。

機械は一個のテクノロジーの集約である。言ってしまえば合理性の塊のようなものだ。どんな安物のバイクでも(むしろ安物だからこそ)徹底した合理化が図られている。自動車・バイクメーカーの何百人もの研究者、開発者によって極めて効率的に、無駄なく設計されている。

だからバイクや自動車は、一個の芸術品と言ってもよいのである。たとえダイハツの軽自動車だろうと、それを構成する部品のひとつひとつを見ていくと、極めて高度な技術の集約であることがわかる。



そういう機械と対峙するということ。技術の結晶と対峙すること。メンテナンスの途中で心が洗われる気分になるときがあるが、このクオリティを肌身で感じるからだろうと思う。(もちろん、設計のいい加減さにイライラすることもあるが^^;)

いずれにせよ、こういう気分を知らないということは、損だな、と思う。

私の会社のドアノブが、がたがたとゆるんでいた。社長が「業者を呼ばなければな」と言っていた。私が見てみると、ネジを一本増し締めして、簡単に治った、ということがある。

女子社員がハサミの動きが渋くて疲れるというので、会社に潤滑剤がないか探した。なかったので、女子社員が手荒れのために持っていたワセリンを塗ったら、スムーズに動くようになった。それだけでも私が魔法を使ったかのように感嘆されたことがある。

身近にある技術を知らずに過ごす人が、この世の大半であるらしい。もちろんバイクのメンテナンスなんてメカニックに任せればそれで済む話ではある。クルマに傷がついたら板金屋に持っていけばいいだろう。汚い、痛い、つらい、嫌になる作業をしなくて済む。

でもメンテナンスって、楽しいし、心が洗われるような気分になる。それに、一度身についた技術は一生モノである。

なんだかまとまりがなくなったが、機械いじりは楽しいよ、という話だった。それはあんがい、一冊の本を読むよりも、よい体験になるのではないかと思う。

1.29.2017

哲学と権威主義

私は高杉晋作」というブログが気になっている。私のひとつ下の年齢で、自称哲学者で、ハンナ・アレントが好き。

私と同様、ニーチェとか、オルテガ・イ・ガセットとか、シモーヌ・ヴェイユとか、そういう近代の実存主義的な哲学者をいろいろ読んでいるし、また好んでいる。

私と似ているのは、ハンナ・アレントを読んでいてもベンヤミンを読んでなさそうだし、ハイデガーやカントなど「正統的な」哲学を学んでいないところ(多分)。言ってしまえば、ディレッタント的な読み方だ。本腰を入れて難解な・体系的な哲学に取り組むタイプではない。

もちろん私もハイデガーやベンヤミンは読んでいない(眠たくなるからね)。それよりもニーチェの箴言をぱらぱら読んでいる方が楽しい。

でも、彼のブログを読んでいると、哲学ってなんだろう?と考えてしまう。

彼のやっていることは、自分の考えに有名人の言葉を借りて、権威付けするだけ。「私はこう考える。ハンナ・アレンもこう言っていた。ニーチェもこう言っていた」ほとんどの記事がこのパターンだ。

あやしい健康食品も「○○大の○○教授推薦!」とコピーをつければ売れるように、ある種のごまかしのようにも見受けられる。

もっと根本的には、アイデンティティのぐらつきを、権威主義によって補っているところがあるのだと思う。少し彼のブログには、精神な脆さ、危うさを感じる。

私のブログを読んでいる人ならわかるだろうけど、私も五十歩百歩だ。私も「○○先生がこう言っていた」と引用することが大好きだ。自分が教養深いように見えるし、説得力が増すから。そして何よりも、自分が正しいように思われるから。

私が彼のブログを読んで感じるのは、少しの寂しさだ。つまり、哲学者の引用をいくらしようとも、彼の根本的な姿勢が、ほんとうの意味では、哲学とは反対の方向を向いているように思われてならないのである。このことの意味は、彼が「考えない」ために哲学書を読んでいるのではないか、ということだ……。

私も彼のように、哲学者に「すがって」生きるようなときがあった。「私は正しいに違いない。なぜならニーチェもこう書いているからだ」……そういうふうに、哲学者に助けられながら生きた時期があった。そうでなければ、倒れてしまいそうだったからだ。あのときは、哲学者たちははるか遠い神話的な英雄だった。

いまは、そうではないと思っている。いまの私にとって、ニーチェは精神的に不安定なおっさんだし、シモーヌ・ヴェイユも……現実にはあまり関わりたくない、よっぽど頑固な変人だ笑 なんというか、たしかに彼らは天才だけど、「絶対的に正しい」という意味での、権威的な天才とは違うと思うんだよな。

神格化されている存在の、権威のヴェールが消える瞬間というのがあると思う。例えば、父親はもっとも偉大であり、神のような完全な存在だ、と幼少時はだれしも考えている。ところが成長してみると、父親はどこにでもいる大したことのないおっさんで、禿げてるし、弱ってきているし、変に馴れ馴れしい生き物だ、と感じるときがくる。(本当に父親が完璧人間だった場合、子供は無力感に打ちのめされて歪んだ大人に成長することが多い^^;)

そういう意味で、哲学者から独立して、権威付けなしで読み解くことができるときがくる。彼にもやってくるだろう。ただ、それは哲学書を読むことではやってこないだろうな。なんというか……。本当の意味で実存しないと。実存というか、ひとりだちだな。

哲学って、哲学書を読むことじゃなくって、世界に関心を向けることだからね……。と思ったディレッタントのおっさんである。

攻撃の意図はないので悪しからず。

1.24.2017

神経症と能力

年末に実家に帰ったとき、学生時代読んだ本を整理して、何冊か持ち帰った。そのなかにコリン・ウィルソンの書いた「至高体験」という本があったので、ぱらぱら読んでいた。

かなり深い、広い、良い本だと感じた。当時はこの良さに気づかなかったのかな。
心的に健康な個人とは、すぐれて深いレベルで活力貯蔵を習慣的に求める者を指す。精神を眠りにゆだねてしまう――そのためその表面だけが波騒いでいる――者は、<活力の循環の問題>に悩み始める。神経症とは、自分本来の能力から切り離されたという感情のことである。
生は動的であり、エネルギーを持っている。

神経症の状態は、おそらくエンジンを延々とアイドリングさせているような状態なのだろう。エンジンがオーバーヒートしたり、カーボンが溜まってピストンやクランクを痛めることになる。

人はピン留めされているのではないから、走っている・動いている状態が自然であり、自分の足元ばかり見ているわけではないのである。

それを神経症者は、「私は止まっているのになぜ不調なのだろう?」と不思議がっている。自分の身体をあちこち調べて、どこか悪いところはないか探している。

必要なことはギアを入れて、走りだすことであり、そうすればすべてがうまく機能するのだ。

走行風が熱を払う。エンジンオイルの循環が、こびりついたスラッジを除去する。

神経症者はおそらく、人並み以上の才能を持っている。だから止まっていると、容易に故障してしまうのだろう。先のエンジンの例で言えば、神経症者は大排気量車なのである。

同様のことをV.E.フランクルはこう記述する。
航空機はたしかに地上においても動くことが出来る。それにもかかわらず、それは空中に浮かび上がるやいなや初めて本来の意味で航空機でありはじめるのである。人間の場合にも事情は同じである。人間が心理生理的、有機的な事実性の平面から歩み出て、自ら自身に向かいうるとき(それだからといって自ら自身に対立しなければならないということはないのだが)に初めて、人間は、言葉の本来の意味において人間であり始めるのである。(「神経症 その理論と治療/V.E.フランクル」)
森田正馬はこういう。
向上欲のつよい点において、神経質者はたしかに優秀である。しかし、神経症に悩んでいる間は、その向上欲を、社会の現実に適応しつつどうやって満たしてゆくか、という具体的な方法を知ろうとしない。つまり、社会や人間というものに対する正しい認識が欠けているために、自分の置かれた境遇に適応しつつ自分の目的を一歩一歩実現していゆくということができない。(「生の欲望」)
マズローはこういう。
やかましやの能力は使われなければならない。それらがよく使われたときにのみ、そのやかましやはやむのである。つまり、能力はまた欲求でもあるのである。……使われない技能や能力や器官は、病気の中心となり、あるいは委縮したり、消滅したりする。そしてついにはその人格を縮小させることにもなるのである。(「完全なる人間」)

神経症者は、自分の能力を自覚し、それを育むということをしなければならないと思う。

#追記

「自称心理学者」のニーチェさんはこう言っていた^^
それぞれの力の中心から発するより強くなろうとする意志、これだけが唯一の実在である――自己保存ではなく、わがものにし、支配し、より大きくより強くなろうと意志すること(Mehr-werden-,Starker-werden-wollen)


ETFを買って投資家デビューした。

最近は投資のことばかり考えている。投資の良いところは、知識による戦いが挑めることだ。私は投資は将棋や麻雀に近いと考えている。結局、多くの知識と経験を積んだものが勝つということだ。

人と同じことをしても勝てないだろうと思い、よくある投資の本を読むことはしないで、マルクスやピケティを読むようにしている。まずはカネがどのように動いているのかを知るべきだと思ったからである。

私はこれまでカネを嫌っていた。実際、いまもあまり好きではないのだが、この世界に生きていながらカネから目を逸らすことはできないだろう。なんであっても、盲目的であることはよくない。

カネや女、暴力など、不浄なものも見つめなければならない。空ばかり見ていたらつまづいてしまう。

新しいことをはじめるのは、とても気分が良い。精神衛生上良いことだ。

私は哲学や文学に固執しているようなところがあったのだけど、カネや経済に関心を向けると、新しい世界が広がるような気分になった。

もっと自己を拡充させようと思う。

1.22.2017

仕事なんかしてないで、やりたいことをやれ

図書館に通っている。

やはり図書館はいい。世の中にはいろんな本があることを教えてくれる。あの静謐さ、文化の匂いっていうのはいい。まあ田舎なので、暇で暇でどうしようもない老人とか、金のない若い母親、あとは受験を控えた高校生がほとんどなのだが、箱モノを造りたくてしょうがない役人のおかげでクソ田舎なのにとても快適な読書空間となっている^^

陰謀論関係、経済学関係の本を読んでいる。陰謀論の本によれば、マルキシズムやニーチェイズム、ダーウィニズムはシオニストが流行させたらしい。とくに「共産党宣言」はイルミナティが書かせたそうで、共産主義イデオロギーと対抗させる目的でニーチェイズムができあがったとか。眉唾だな。

マルクスの来歴はよく知らないがニーチェがシオニストのために原稿書くとはあまり思えない。金と権力に堕落したワグナーを徹底的に糾弾したおっさんであり、梅毒で狂って死んだおっさん。シオニストの駒だったとすればそんな死に方はしないだろう。シオニストの指示通り動く人間は小泉や竹中のように快活に健康に生きるものである。

しかしエリーザベトがシオニストの駒だったっていうのならだいぶ納得できる笑 結局天才の成果をだれかが都合よく利用する世の中なんだろう。その意味で狂人ってのは信頼がおけるなあとしみじみ。狂人は嘘をつかない。

投資関係の勉強をすればもう働かなくてよくなるかもしれないな。私はもともと金をつかわない人なので……。月10万円あれば生きていける。そうするとあと4年はニートできる計算になる。

私はほんとうにニートになりたくって、朝から晩まで読書、という生活をしたいのである。コリン・ウィルソンが25歳くらいのときにそういう生活をしていて、彼は定住もせず、図書館が閉まるとテントだか車中泊で暮らしていたというから筋金入りである。

28歳という青年期の最後を労働なんかに費やしたら一生後悔しそうな気がしている。せめて35歳くらい、自分の人生にあきらめをつけて、家族の幸福のために生きるとか、まあそういう目的が重要になる年齢くらいまでは、自分のしたいことをしたい。労働者として生きていたら、それに最適化されてしまう。どれだけ自由や思想を愛していても、タイムカードを押した瞬間にスイッチが入ってしまうものだ。

私の年収が300万円くらいだったらさっさと見切りをつけているのだが、その倍以上あるのであり、時給にして3300円くらい、家賃や税金を行くと2700円ばかしになる。この給料はバカバカしいほど高い。といっても労働者の間で高いのであり、奴隷の首輪自慢にすぎないことはわかっている。私も搾取されるプロレタリアートであり、マルクスのいう「二重の意味で自由な労働者」にすぎない。

労働をはじめて二年で500万円を貯めたのだが、それがたとえ1000万円になったとしても、2000万円になったとしても、本質的な生活は変わらないだろう。つまり私はあいかわらず吝嗇な生活を続けるだろうし、300万円のクルマを買うよりは10万円台の中古車を買うだろうことは明らかである。

それでは何のために金を貯めるのだろうか。第一義は、「もう心配しなくてよくなるため」である。経済的困窮、つまり貧乏に対する恐怖である。しかしこの恐怖はほんとうに妥当なものなのだろうか?「恐れるべき唯一のものは恐怖である」とだれかが言ったのだが。

私の両親はたぶん中産階級になるとおもうが、両親のような生活はしたくねえな、と思う。カネがないのはいいけど精神まで落ちぶれちゃダメだよ。私の家庭はそんな家庭であった。金は重要じゃないんだよな、ほんと……。

実際のところ、十分な知識さえ身につけていれば貧困怖れるに足らず……托鉢僧とか無一文だけどなんとかなっているわけで。

私は最近、金の執着(恐怖)から離れるだけの資産が欲しく、そのため資産二億円を目標に掲げたのだが、これはやはり「片手間に」すべき仕事だろう。片手間に二億も稼げるのか、という気がするが、まあなんとかなるだろう。

せめて休日が週に3日とか、一日の労働時間が6時間とかであれば文化的探求を実行しながら生活ができるんだが……。今年中には仕事を辞めたい。と考えつつも、だらだら引き伸ばしになりそうな気もするが。

1.19.2017

孤独とおっさん

あまり自分のことばかり関心を持っていてもしょうがない……というふうに思うようになった。

「汝自身を知れ」というけれど、自分にばかり関心を向けるのはどうなのか……と。それは西洋的な誤謬であって……自己と他者は切り離せないのだから……いたずらに他者に関心を向かわせるのも誤謬だが……自己と他者の境界をなくすこと。自己があって他者がある、というのでなし、他者があって自己がある、でもなし、自己と他者の分離以前に戻ること……これが大事なのではないかな。つまりメビウスの輪であって……自己を辿れば他者があり、他者を辿れば自己がある、表裏一体というか、表裏分離以前なのである。

結局、人間は社会的動物であって……「理性」とか「内省」は自己を肥大化させ、他者を貶める傾向にあり……変な方向にベクトルが伸びていって、ポリスだの民主主義だの「もっともらしい」理念として伸長したものの……実際それが、文化的政治的ヘゲモニーではあるのだが……私としては、ソクラテスよりも、その処刑を支持した民衆の方に興味が沸く。つまり、ソクラテスは誤謬と迷妄によって死にいたったのか……より深い叡智によって抹殺されたのか……われわれが信奉しているのは、ひとつの大きなハリボテなのではないか…
…。

山本七平の本のなかで、日本と西洋の感覚の違いを端的にあらわす例が挙げられていた。
『西洋紀聞』において彼(新井白石)は、潜入宣教師シドチの要望を次の二点で斥けている。まず、シドチの「自分はわざわざ日本に来たのだから逃亡する気遣いはじめから無用である。また来た以上、日本の法にすべて従う決心でいるから、費用をかけて拘禁しておく必要もあるまい。自分はただ教を説くことさえ許してくれれば十分、望むことはそれだけであり、外面的規制では幕府の法に百パーセント従うから、違法の行為をするか、結果としてそれが発生したらそこで取り締まればよいであろう」といった意味の発言に対して、日本では「治=法=外面的秩序」と「教=教育=内心の秩序」とが一致しており、そのようには分け得ないとの返答である。(「日本人の人生観」)
この考えはいまでも受け継がれており……私は25歳くらいのときに、日本が法治国家ではないことを知って愕然としたのだが……そんなことは割りと当たり前のことだったのだと思う。J.S.ミル的な「法律を破らなければ何をしてもよい」という根本的な法概念は……ありえない!だってここは、アジアの極東であるし……。オモテは西洋の支配を受ける従順な経済国だが……。内心はヘゲモニックな文化に反発している……牙の抜け切らない旧来的な民族もいるということだ。

その民族的屈辱が、安倍晋三の大国志向としてあらわれているのではないか……。日本人は「正しいことは正しくない」と叫んでいる。この感性はきわめて人間的であり……また詩的であり、高度な表現として響く……。しかし西洋……アリストテレス的な考え以前では、世界的に主流だったに違いない。おそらくソクラテスを処刑したアテーナイの人々も、「ソクラテスは正しいが、正しくない」と考えており、表層的な言葉遊びではなく……精神の深くの衝動に対する信頼をまだ失っていなかったものと思われる。

つまり動物的、本能的な感性……理性によって捕らえ得ない対象……霊感のようなもの。人間は本来そういう霊的感性をもっており……そういう感性は、学校教育やマスメディア教育、集団主義、抗精神薬や、企業文化、消費文化などなどによって徹底的に潰されるようにできており……どんな国でも従順な国民が欲しいものだし、考えないコマがなければ国は維持できないのであるし……そういう人間を劣化させる、道具化させる装置として「理性」は与えられ……実際それに生を毀損されたまま生きる人もいる。理性とは、本来そういう道具ではなかったかな。ソクラテスやアリストテレスが現代でも信奉されるのは、理性装置の一個の神話だからなのだろう。

と考えてみても、理性に束縛されて生きる人はそれほど多くなく……多くの人間は人間的繋がりによって「非理性的理性」を有しており……結局孤独な神経症者である私が、こういう理性の強迫的な圧力に恐怖しているだけ、というのが実際なのではないか、と考えたりする。

1.15.2017

やっぱり海が好きで

風の強い、雪のふるなかをクルマで走ってきた。
海沿いの下道をえんえんと流す。

とちゅう、コンビニでアイスを食べた。
それからまた走ったあと、海辺を散歩した。





自分がしたいことを、今しているのだろうか。
私は欠けているものを求めて、迷子になっているだけではないか。

欠けているものは、カネや知識では埋められないのにな。

偉いひとは、悲しいひと。
そのままでは許されなかった子……。

自分がなにをしたいのかわからなくなって、
前に進めなくなっている。



Sに会いたいな。

明日はまた仕事で、思考も、人格もそれに順応する。
それは救いではあるけれど、なんだかうんざりだ。

私には恋人も友達もいない。家族を愛せない。
ひとをとおざけて生きてきた。
それでいいのか、悪いのか……。

内省の発明

TEDの動画を見ていたら、人間が内省をはじめたのは紀元前600年頃という記述があり、これはけっこう大きな発見なのではないかと思った。発見というか、科学的な実証というべきか。

事実 心理学者ジュリアン・ジェインズは 人類最古の書物のいくつかを対象に ある種の心理分析を行い 1970年代に 非常に奇抜で過激な仮説を立てました わずか3千年前の人類は 現在の私たちの呼び方でいえば 統合失調症だったというのです この主張の根拠はこうです これらの書物に登場する 太古の人間たちは 終始一貫して 文化的・地理的な違いにかかわらず 何かの声を聞き それに従うように行動しており それを神の声やミューズの囁きと考えていた それを神の声やミューズの囁きと考えていた 現代の私たちはこれを幻覚と呼ぶでしょう そしてその後 時代が進むにつれ 古代人たちは自分たちが 内なる声の創造主であり 所有者であることを 認識し始めた これによって人類は内省 つまり自らの思考について 考える能力を手にしたというわけです……
 ホメロスの伝承の時代には 内省に近づいた書物の増加傾向は小さく しかし紀元前4世紀ごろになると この傾向が急激に増え始めて 5倍近くになり 書物がどんどん どんどん 内省の概念に 近づいていったことが分かります ……
ユダヤ・キリスト教の伝承に対し 同じ分析を行ってみると 結果 ほぼ同じパターンが出てきました ここでもやはり 最古の旧約聖書では 緩やかだった上昇傾向が 後の新約聖書になると 急激に高まります(マリアーノ・シグマン「言葉から、あなたの将来のメンタルヘルスが予測できるとしたら?」

ひとはなぜ内省するようになったのだろう?内省を発明したのだろう?ミューズはなぜ囁くことをやめたのだろうか。

・孔子は紀元前551年〜紀元前479年
・ソクラテス 紀元前470年〜紀元前399年
・釈迦 紀元前560〜紀元前480年、紀元前463年〜紀元前383などの説あり

この紀元前500~400年頃のあいだに、まったく異なる地域で哲学や倫理のような「内省」が発明されたというのは不思議なことだ。人類がなぜその時点で改変されたのか。

我々は仏教に興味をもったり、教養としてソクラテスを読むことはあるけれど、それ以前のことにはたいした興味を抱かない。現代に続く世界は2500年前から始まっており、ソクラテスに共感することはあっても、タレスやヘラクレイトスに感銘を受けた、というひとはあまりいない。

それもそのはずで、ソクラテス以前のギリシャ哲学者の文献はほとんど残っていない。また残っていてもおよそ「読み物」と言えないような詩文ということである。考えてみると、それらは広く読まれることを想定していなかったのだろう。

孔子や仏典、ソクラテス=プラトンのような教義は、言ってしまえば「だれにでも理解できる」教義であって、「大衆向け」である。解釈は無限に広げることはできるけれども、「無知の知」だとか「イデア論」、「一切皆苦」とか、小学生でも理解できる内容である。

そういうわけで、こうしたわかりやすい散文形式により、「内省」が拡散された。また、新約聖書もツッコミどころ満載の旧約聖書に比べると「わかりやすい」内容となっており、そこでいっそう「内省」が普及したことがわかる。

昔読んだ本のなかに、「以前は小説はサロンのようなところで朗読するものだった。近代以降になると、それは個人的なものになった」とあって、人類の内省はどんどん深化しているのではないかと私は思う。内省は主体と主体の関係を強くし、他者と主体とをいっそう切り離すものであるから、個人主義的な社会とは「内省」発明の延長とも言える。

私が「内省」に強い関心を抱くのは、神経症との関係があるのではないかと思うからである。神経症とは、まさしく内省に手足をとられ、前に進めないような疾患だからである。

それだからヒポコンドリーな人間が哲学や芸術に興味を抱くのはある意味で必然なのだが、私は根本的に「内省」が幸福をもたらすとはあまり思えない。私はソクラテス=プラトン以前の哲学に興味があるが、同じようにソクラテス以前に興味を抱いていた哲学者にニーチェがいて、やっぱニーチェ先輩はすごいな、と思うのである。

ニーチェは「プラトンとキリスト教」を同じくくりにして弾劾する。現在この二者にあまり関連性はないという判断が一般的にせよ、しかし「内省」という点ではこの二者は決定的な働きを持っている。

またニーチェは仏教も嫌っており、とくに東洋哲学に傾倒したショーペンハウエルに(はじめは強く共鳴しつつも)やはり批判をぶつけるということをしている。そしてニーチェの主著である「ツァラトゥストラ」は「ゾロアスター教の教祖」ということになるのだが、なぜゾロアスター教?という疑問にあまり意味はなく、単に「内省以前」の世界、歴史的にも距離的にも遠い領域を求めていたのだろう。

内省以前の社会とはなにか?それは私にとっては、「神経症以前の社会はなにか?」ということになる。それだから縄文文化とか、そういうものに強く惹かれるおじさんである。有り体に言ってしまえば、私は哲学や科学による世界よりも、神話が生きている世界の方が幸福であると思う。

1.13.2017

仕事を辞めてヒモになりたいおじさん

考えてみれば考えてみるほど……私は賃金労働に合わない!

いや、こんなことは就職する前からわかっていた。なにせあらゆる「組織」が苦手だった私……とくに上下関係が大の苦手だった。「わいわい、ガヤガヤ」に耐えられない耳を持っているし、他人の視線は攻撃のようにしか思われなかった。私は山奥にひっそりと暮らすのが性にあっている。

それでも私にとっての「山」は禿山になっていた!私は餌を求めて里へ降りてくる熊のように戸惑いと恐怖を感じていた。そしてじっさいあっさりと捕らえられた。資本主義社会の檻にである。しかしそれはあらかじめ用意された場であった。みなはじめは山で生まれたのだ。しだいに檻のなかが世界のすべてになってしまう。

まあ^^

そんな感じにして私は労働の生活の循環に組み込まれた。私は歯車のひとつとして働いた。また私はそういう生活に満足さえしていた。なにせ私より稼いでる人間は他にあまりいないし、そのうえ私よりいい加減に仕事をしている人間もあまりいないだろうからだ。私の生活は上等だった。しかしそれは、労働者階級の間で、である。

私はしだいに労働者の生活に馴染んでいった。労働者に求められる性質とはなんだろうか?朝に遅刻をしない。無断欠勤をしない。言われたことを忠実にこなす。文句を言わない。「目が覚めていない」優等生。つまり、ロボット的な労働者こそ資本家にとって最良の存在である。SF映画などで「目が覚めた」ロボットにわれわれは恐怖を覚えるが、これは同時に資本家にとっての悪夢でもある。そして資本主義的な悪夢でもある。

しかしそういう生活は有意識的な人種にとってはまったく苦痛でしかなかった。もっとも世の中の人間の9割は賃金労働に向いていると思われる。私はまったく適正がなかった。仕事は次第に色を失っていった。それは噛みすぎたガムのようにうんざりするものに変わっていった。

労働は飽きた^^

それでも私は収入がなくては生きていけない。貯蓄を切り崩して生きていくにも先が見えている。投資で一山当てようと思っている……そのために経済や株の勉強をしているが、私がしたい勉強はこういうものではない……という気がしている。

最近の憂鬱な気分は、哲学や思想に興味をいだいていた私が、投資信託や外貨預金や安倍政権やトランプ政権のような「オゲレツ」な事柄に転換していることにもあるのではないかと思う……。

私は学生時代に、金を稼ごうと思ってポルノサイトの運営を試みたことがある。そのときわかったことは、下賤な仕事はカネを生むが、そのぶん精神や魂を著しく損なうということである。それこそ単純労働以下の最悪の毀損だということだ。まちがいなくカルマを溜め込む仕事だろう。ちなみにそのポルノサイトは「無修正コンテンツを含む」というガラパゴスな事由によりカネを生む前に閉鎖になった^^

それで投資のような金稼ぎは同様の印象を受ける。つまり魂の毀損をいくらか含んでいるということである。

まあそれでも労働よりも「効率が良い」という気がするから勉強は続けるのだが、もっと安定した収入を得る方法を考えている。

私は思うのだが、やはり最低限の生活を保証してくれるようなだれかに、嫌な表現をすれば、寄生してしまうのがよいのではないかと考えている。私は本気である。私はヒモになりたい。とりあえずそれが当面の目的である。

1.11.2017

参っていたおじさん

あまり読み返したくない日記を書いてしまった。精神的にだいぶ参っていたらしい。

「寂しい、こんなことではやりきれない」――とつぶやくとともに朝目覚めたおじさんである。「そんな情けない言葉を吐かないでも」と自分で呆れながら身支度を整えたのだった。もうすこし体裁のよい表現はあるだろう。でも、出勤の車内で、それがじっさいの真実の心持ちなのだろうと思った。

だれからも必要とされていない、だれにも認められないような感じ、自分の居場所がないような気持ち。ひとと和合できない自分が何者なのかわからない。病気なのか正常なのかわからない。ただ私だけがマージナルであっちの世界とこっちの世界のあいだに立っている。

まあそんな抽象的なことをいってもしょうがない。気分はだいぶよくなった。それで哲学書をひさしぶりに読んでいたら、マルクスにかなり興味がわいてきた。哲学書はざっと読んできたのにマルクスに手をつけなかったのは、「もう否定されつくした学問」という気がしていたからだ。それにやたら長いし。しかし今の労働者としての自分の状況を批判的に考えるには、マルクスがぴったりの思想と考える。

はやく労働環境から離れたいな。今月はマルクスの月……朝から晩まで、月から金までマルクスを研究しよう……図書館の机にかじりついて……疲れたら、思索の散歩をして……そういう生活がしたいな。次の月はカントを読もう……それが終わったらヒュームを読んでみよう。貯金はあるのだから、少しの勇気さえあれば実現できる。しかし、そんな生活が夢想に終わることはわかっている。強制的で無味無臭の労働があるから、哲学に憧れをもつことを私は知っている。

今日は煮物をつくることにした。たっぷりの酒を入れて、にんじんと、アク抜きしたごぼうと、下茹でした大根を煮込んでいるのが今の段階。鍋のなかでごろごろおどる野菜を見ていると、落ち着いてくる。

1.10.2017

His nightmare

このまま毎日書き続けることに意味があるのだろうか。

それでも、書かなければ気持ちが悪い。安住できる場所がなくなるという気がする。ナマミの世界で、私はうまく呼吸ができない。仕事をして活動しているときの私は、水のなかのように曖昧である。それは通りすぎるべきもの、省略すべきもの……。書くことによってやっと、一歩一歩進むことができる。現実の世界は、足跡と足跡の間の空白。

変な人間に生まれたものだな。

自分が特別に優れていると思うときがあるし、単なるイレギュラー、奇形の個体なのではないかと思うときがある。

私がこんな人間ということは、不思議なことだ。

どうして真っ当に生きられないのだろう。なにをするにも、立ち止まって考えてしまうのだろう。不自然で、滑稽で、奇異である。見えないものが見えるし、見えるべきものが見えない。

ああ、生きづらい。私は自分が正しく生きているのか、つねに確認してしまう。過去がどこまでも追いかけて、私を責めさいなむ……。「ここにいてはいけない」と鞭打ってくる。疲れてしまう。ここにいさせてくれ、少し休ませてくれ。空白のなかに沈ませてくれ……。

1.08.2017

また不幸がやってきたが

ここのところ、精神的に安定しない日が続いている。衝動的に酒を飲む。ジャンクフードを食べる。自慰にふける。読書をしなくなる。精神的に落ち込むと、こういう依存傾向と精神の幼児化が出てくる。これらの快楽が、一時的なものであり、余計に苦しみを強くすることを私は知っている。

ただ、いったん「酒を飲みたい」と思うと、これはもうよくない。抜け出せない。衝動があらわれたとき、歯車はもう動いてしまっている。そのとき、私は意志に従うしかない。どこからか?と自己に問いただす……その衝動が自覚的になるよりもずっと前であることがわかる。

もう運命を捻じ曲げようとするほど子どもではないので、「ああすればよかった」と後悔することはない。意志で禁酒は続けられない。禁酒そのものを志向するのは間違いだ。それよりも、環境を整えること。ストレスをなくし、人生を充実させること。私はストレス・コントロールで失敗した。責めるべきはそこにあるだろう。酒を飲んだことを責めてもしょうがない。

抑うつ的な状態は生きているとどうしても発生する。あまり、具体的なエピソード――女にそっけなくされたとか、仕事の失敗とか――は関係なかったりする。つまり、「こういう出来事があったから私は憂鬱だ」とは言えないときがある。身体的な負荷により憂鬱になることがあるし、ホルモンバランスや栄養不良によって憂鬱になることがある。波が引いて岩礁があらわれるとしても、私たちは岩礁のせいで波が引いたとは思わないだろう。

岩礁に執着すると、結果を見誤ることがある。自分を不幸にした人間を恨んだり、状況を改善しようとしてさらに悪化することがある。憂鬱な気分は、ただ、屈服するしかない。じっと耐え忍ぶこと、これが最善の策であることを私は最近悟った。

考えてみると、不幸、絶望、苦しみということが私の人生の大半を埋め尽くしていた。私は「苦しみぬいた」おじさんであり、そのための対処法はいろいろ詳しいのだった。


心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことから生じて、そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。そして僕たちは、その苦痛のおかげで、人間が本来どういうものであるべきかということを、しっかりと心に捕らえることができる。(君たちはどう生きるか/吉野源三郎)
真の運命を正しく耐え、率直に苦悩することは既にそれ自身、行動であり、また人間に許される最高の行動であり、業績(ライストゥン)であるということである。(神経症 その理論と治療/V.E.フランクル)
この世のすべての苦しみと悲嘆の原因は無知である。
無知こそが唯一の罪であり、あらゆる苦しみはその結果なのだ。(自由からの逃亡/E. フロム)
それはあなたの罪ではありません。あなたの不幸です。あなたを責めるのは無理です。他人の罪です。その他人の加えた傷害のために、あなたはそのように苦しんでいるのです。そのために自分の一生の幸福さえも諦めようとしているのです。何という事でしょう。私はこの事実を呪います。恐ろしい事です。不合理な事です。皆悪魔の仕業です。おお、私は悪魔に挑戦します。(出家とその弟子/倉田百三) 
死を恐れ、不快を厭い、災いを悲しみ、思う通りにならないことを嘆くなど、みな人の感情の自然であることは、ちょうど水が低きにつくと同様である。……すなわち、いずれも自分の都合のよいようにばかりはできない。自然に服従するより外に仕方ないのである。
……
不可能を不可能として、それに服従することを正信といい、因果の法則を曲げて不可能を可能にしようとし、我と我が心を欺き、弥縫し、目前の虚偽の安心によって自ら慰めるものが、すなわち迷信である。(神経質の本態と療法/森田正馬)
苦痛もある段階に達すると、世界がぽろりと落ちてしまう。だが、そのあとでは、安らぎがやってくる。それからまた、激痛がおこるとしても、次にはまた、安らぎがやってくる。もしこのことを知っていれば、この段階がかえって次にくる安らぎへの期待となる。その結果、世界との接触もたち切られずにすむ。(重力と恩寵/ヴェイユ)




とくにこのヴェイユの文章は、不幸マエストロのおじさんの琴線にびびびっとくる。「重力と恩寵」はよくわからない記述が多いがたまにはっとする内容がある。

人はだれでも孤独で淋しいものである。
不幸は認識の目を開かせるものである。

そういうことを考えておけば、あまり不幸に苦しまなくなるのだろう。

1.05.2017

ベジタリアンに関する所感

ベジタリアンに対する違和感がある。

私はベジタリアンではない……。昨日のメインディッシュはぶり大根であった。そして今日のお弁当も晩御飯もぶり大根……。

私は魚や卵も食べる。ただ、豚肉や牛肉のような四足獣は滅多なことでは食べない。しかし「頂いた」場合は食べることにしている。つまり上司や知人や親戚が食え、と言ったら食べることにしている。

自主的にスーパーで畜肉を買うことはない。たまに惣菜に鶏肉が入っていたので、しょうがなく食べる、というくらい。

こういう立場であるので、私は自分をベジタリアンだと思っていない。しかし、世間一般の肉食家とは異なると自分では思っている。私は焼肉やハンバーグを喜ぶ類の人間ではないからである。そういう料理には吐き気がする。

植物と動物の区別を持っている点では、私は自分をベジタリアン的だと認識している。

さて、世間一般のベジタリアンは嫌われている。それは声が大きいからだと思う。

世の中には「ベジタリアンであること」をブログや本にする人がいる。また世間一般に広く啓蒙しようとする人がいる。私はそのような姿勢に違和感を覚える。

私は肉食をしないことを優れたことだと思わない。それは自然なことだと思っている。野菜や穀物が十分にあるのであれば、あえて肉を食べる必要がない。

だから私はスーパーの鮮肉コーナーは素通りする。それは「消極的なノン」である。

私が声高ベジタリアンに違和感を覚えるのは、菜食主義がひとつのイデオロギーと化していて、生活に結びついていないのではないかと思うからだ。

だれかが肉を食べることにぎゃんぎゃん騒ぎ立てることは、不自然であり、非効率的だ。

食品の成分表を見て、ラードが入ってるから食べない、なんてことをしていたらストレスが溜まるだろう(ムスリムならわかるが)。第一滑稽だ。

肉食は当然のものとして退ける。だれかが強く勧めたら、しぶしぶ食べる。そういう「静かなノン」が私は自然だと思う。

賢い人間は、特に「啓蒙」せずとも菜食化する。人にとって菜食が自然だからである。

たとえば、キリスト教は肉食を肯定するような教義が盛り込まれている。なかば洗脳として正当化しなければならないほど肉食は不自然ということだ。(「肉食の思想」という本に詳しい)

私が声高のベジタリアンの存在を懸念するのは、その声の大きさによって賢い人間が菜食化することを逆に遠ざけるのではないかと思うからだ。

明日も太陽は昇るだろうと主張する人はいない。声の大きい主張ほど、人は不信がる。

静かに菜食を実行することがbest wayだと思うがいかがだろうか。

1.03.2017

n+1次元のおじさん

実家から戻ってみて、そわそわした、落ち着かない気分であった。

田舎の実家は、ひどいボロになっていた。祖父が死んだから、祖母と父が住んでいるのだが。こんな家に私は住んでいたのだな。ホコリだらけ、傷だらけ、ガラクタだらけ、隅には虫の死骸が転がっている。山の麓ということもあるが、隙間風が入ってきて、とんでもなく寒い。

今住んでいる家に帰ってみると、モデルルームのようで笑ってしまった。これはこれで滑稽だと思う。小奇麗な平屋の住宅。デンマーク製のデスクに、古びれたアラジン・ストーブ、システムキッチン。楽器にバイクのヘルメットが飾られている。壁にはボルディーニやヴラマンクの絵画(ポスターだけど)。床はルンバが掃除した上にワックスをかけているので、つやつやしている。他人の家に入るかのように緊張した。八畳間の和室を寝室にしているが、布団と間接照明がひとつずつ。それだけしかない。Sが家にあがったときに、「織田信長か?」とか言ってたが、確かに珍妙だ。こんな家だったっけ。

ある意味で、私は田舎のしょうもない家庭から成り上がろうとしているわけだ。限度はあるだろうと思うけど。

私は自分が二流大学を卒業して、二流の仕事をしていることを、悔やんだり悔やまなかったり。私は自分がきちんと教育を受けて、せめて予備校に通っていれば一流の大学に入っていたと思う。私の両親がもう少し「上等」であれば、それなりの人物として、今くらいの年齢には成功していたのではないかな。

上には上の世界があるということを、下にあるうちは想像もつかない。官僚とか、芸術家とか、大学教授、医者や弁護士、研究職や一流商社でもよいが、そういう上流社会は、貧困家庭には「雲の上」だ。エリートであることが正しいとか、幸福だとは思わないが、そういう道が幼い時分に選択肢として与えられている人は幸いである。

まあ、ないものねだりであることはわかっている。初めから裕福な家庭に生まれると、富は「中性的なもの」になってしまい、ありがたみがなくなるものだろう。下から這い上がるのが楽しいのであって、ヘリコプターで山頂に登る登山なんて楽しくないことはわかっている。

権勢への意志というものが、たしかに人間にとって根源的な欲求であるように思われる。私も、権力と結びつかない以上知識にあまり意味はないと考えている。

これは奇妙な感覚なのだけど、私は読書をはじめた23歳頃と同じように、孤独で、友達は少なく、恋人もいないのだが、あのときは自分を負け犬だと思っていたが、今は自分のことを勝者だと感じている。これが知識による力なのだと思っている。

つまり、私より金持ちの人は山ほどいるし、私を権力でねじ伏せる立場の人は山ほどいるだろうけど、同時に私はそういう人たちのことを、自分より「下」だと思うことができる。この感覚は、ルサンチマン的な優越感とは違う。

ルサンチマンは無能で病気で痴愚であることを「誇る」のだが、私はそういう考え方はしない。私はやはり権力や富に憧れを持っているし、そういう実利的な力を忌むわけではない。

知恵のもつ力というのは、そういう実際的な権力とは次元が違う。違うのだけど、実際にこの知恵というものは、力を持っている。権力はn次元、知恵はn+1次元である。知恵は、権力によって影響されない次元をもつ。神秘主義者のいう「高次の認識」とはそういうことである。

田舎のしょうもない家庭に生まれたおじさんは権勢を得るべく奔走する予定である。

1.01.2017

2017=DO ITの年

実家との距離600kmを下道(というかToll way回避)で帰ってきたおじさんである^^

前回の帰省は、バイクで帰った。バイクに比べると、車で帰るのは呆れるくらい楽ちんであった。時間にして12時間。平均時速は50km/h。途中仮眠や食事したことを考えると、いい数字である。疲労感はないのだが、なぜか体重が1kg減っていた。(いよいよ54kgを割ってしまった)。身長が173cmあって、私より痩せている人は稀だろう。

2017/1/1/09:07


2017年という年になったようである。この年は「DO IT」と読めなくもないと思うがいかがだろうか?

私は12時間車を運転しながら、いろいろ考え事をしていた。車の運転は退屈で、考えることぐらいしかすることがなかったからだ。私は去年、なにをしただろうか?何かを成し遂げただろうか?バイクで走り通した去年の始めから、何かが変わっただろうか?

何も変わっていないのである。

私は何も行動しなかった。ただ一箇所にとどまり、あれこれ説明して、指図することはした。「あれは間違っている」「あれは劣っている」というようなことを私は言った。そうして「それはする価値がない」と嘆いた。

私は川底に刺さった枝のようにとどまり続けた。その結果得たものは、はたして索漠とした一年間であった。私は勉強して、人よりも知恵をつけた。そして言葉によってあれこれ説明することに成功した。しかし正解であるところのそれが、私に何をもたらしただろうか?

何もないのである。

私はひとつ悟ったことがある。「わからなくてもやる」そして、「わかっていてもやる」ことが大事だ。これをしなければ、人は幸福になれない。また、生きる意味がない。

賃金労働はくだらない。利潤は経営者や国がもっていく。しかしそれをあえてやる。世界旅行はくだらない。どこへ行こうと、人間の本質は変わらない。しかしそれをあえてやる。

仕事を辞めたらどうなるか、私にはわからない。その先はまったく暗闇のように思われる。しかしそれを、あえて実行する。女に身も心もすべてを捧げると、どういうことが起きるのだろう。……予想もつかない。しかしそれをあえてやる。

神経症は「わからないからしない」「わかっているからしない」という病気である。苦しみや不幸は、川底に刺さった枝のように、流れに逆らい続けることにあるのだと思う。理性によって行為への欲動を制止する。この苦しみが、神経症的苦しみである。

何もしたがらない怠惰な人間がいる。彼の言うことは、理性的で、また正義である。「その行為に意味があるのか?」「それよりも良い方法がある。そんな方法ではダメだ」「それは法律に反している。また、倫理にもとる」これらはたいてい、正当な主張である。しかし、正当だが、「正しくない」。人間が精神のみで生きるのなら、彼は正しいのだろうけど。

しかし、人間は歩まなければならないのである。

血は黙っていても循環する。

私にとって、2017年が「DO IT」に見えたのは、そういう年になるという気がしているからである。


2017/1/1/17:31
心は万境に随って転じ、転処実に能く幽なり―(『伝灯録』二、摩拏羅章)