2.20.2017

おしらせ




詳しくは書けませんが、

計画実行中



のため、しばらく更新をお休みします。

2.16.2017

Mesotes

平和に生きている。

なにもすべきことがない。Nothing to be done, である。

仕事をして、株取引をして、本を読む。

休日は、車を磨いて、バイクで遊んで、本を読む。

ときどき酒を飲む。

そういう生活で良いのではないか。

平和だなあ。

私は本格的におじさん化してきた。若者らしい理想主義と、理性主義がなくなってきた。自分が切り離された個人であるとは思わなくなり、孤独な存在だともおもえない。まあまあ楽しい微温的生活のなかにある。

じぶんのなかの醜い部分、否定してきた部分と意図的に統合するよう努めている。私は昔、かなりおバカなヤンキーだった。ジャパニーズ・ヒップホップが好きだった。そういう時期があった。

そういう自分を統合し、陰陽まじりあうようにすると、精神的なバランスがすこぶる安定するようである。

私が不幸だったのは、「教養」に早いうちから触れていなかったことだと思う。私のじぶんの性質は、田舎のヤンキーではなく、普遍的な知をめざしていた。それでも、私の家族はみんな無教養者だったし、中学や高校の友達たちもそうだった。

ようやく「教養」に出会ったのは、23歳くらいのことだったと思う。カミナリに打たれたように唐突に高い意識()にめざめた若きおじさんは、ダメなビジネス書をブックオフで105円(当時の税制!)で買いあさっていた。そこで出会ったのが「ビジネスマンの父より息子への30通の手紙」という本だった。この本はいままで読んだ本と違っていた。「なんとかの欲望が叶う法則」とか「~の話し方教室」とか「~を動かす」といったダメ本とは一線を画していた。私はそのとき気づかなかったが、その本には「教養」があったのである。

それで教養に目覚めたおっさんは岩波文庫(青)マニアになりついでちくま学芸やウニベルシタスや中公クラシックスのファンになり、ブックオフや図書館で買いあさった。そこには私の知らない世界があったのである。

ウニベルシタスは装丁がかっこいい

23歳くらいから最近まで私は教養の世界にどっぷりつかっていた。私は大衆はアホだと思っていたし自分はルソーとか宮沢賢治とかその辺の天才に近いと思っていた。じっさい私は神経症で少しイカレテイルところがあったし開き直ってこれは天才の印なのだと自負していたようなときがあった。それで、私は世界を救済する力をもった偉人なのだと思って日々がんばっていた。

ただ30歳が近づくにつれて自分の能力や才能の限界に気づきはじめる。偉人ってのは、小学生中学生くらいから頭角があらわれているんだよ。成人してから野球始めた奴がプロ野球選手になれるわけがないだろう。

それでさいきん私は、中学時代のようにデクノボーではないし大学時代のように哲人でもないのだということを知って、自分のことをその辺にいるまあまあ賢いおっさんなのだということで折り合いをつけたのである。そうしたら気分的に安定してきて、憂鬱と絶望だらけだった毎日が過去のものになった。

ヤンキーかぶれだった中高生のときは毎日泣きたいような最悪の気分だったし、哲人賢人きどりだった大学生~最近までもおそろしく精神的に疲弊していたのだが、いまは快適だ。もしかしたら食習慣の変化とか、禁酒(最近は節酒だが)の効果もあるかもしれない。

話はまったく変わるのだが、Nosce Te Ipsum、汝自らを知れという箴言は、ソクラテスが言ったことになっているけど、ほんとうはケイローンが言ったらしい。コンラート・ローレンツがそう書いていたのだが、このケイローンという名前はどう考えてもギリシャ神話のケンタウロスなのである。それでこの半人半獣の神は、「射手座」のもとになった神であり、なにが言いたいかというと、私も射手座なのでなんだか運命的なものを感じたのである。

ただの日記だな。

さいきんはもう文量が多すぎて読んでいないブログ「ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか」に次の言葉があって、最近の私の気分にぴったり合う。
ほんものの知性や感性は世界を描写するが、理想なんか語らない。
私は彼のファンであり、著書である「なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか」も買っている。この人、かなり特異な思想家だと思う。つかめない。何が彼をそこまでネアンデルタール人にかりたてるのか……わからない……今日はもう寝よう。

(と思って彼のブログを読んだら、ネアンデルタール人論はやめると書いてあり、かなり驚いた。)

2.14.2017

奴隷制を考える

今日は仕事が終わると図書館へ行き、コンラート・ローレンツの「攻撃」を読んでいた。
種内攻撃ということをまったく知らず、一生の間ゆるぎない群れをなしてまとまっている動物たちがいる。そういう動物は、それぞれの個体が持続的友情を結び、兄弟のように親しいまとまりを形づくるように、あらかじめきまっているのだとお考えかもしれない。だがこのような個体同士のつながりは、そうした平和な群れをなす動物に限って絶対に見られず、かれらのまとまりはきまって全くだれでもいい無名のものの寄り集まりなのだ。個体と個体の結びつき、個体間の友情が見られるのは、種内攻撃の高度に発達した動物の場合だけであり、それどころか、このような結びつきは攻撃的な種類の動物ほど堅いのである。……ダンテも「平和なき動物」といっているように、あらゆる哺乳類の中でももっとも攻撃的だということになっているオオカミは、友に対してもっとも忠実な動物だ。
平和な群れ=2chなどの匿名掲示板といえるのかもしれない。相手はだれでもいい。付かず離れずの関係が良い。相手は絶対に自分を傷つけない。なぜって、相手も自分も無名の一人だからである。

反対にヤンキーなどの攻撃性の高い人々においては、個体間の友情が堅固である。地元愛とか、家族愛とか、いつまで経っても「中学の友達」を大事にする彼らは、たしかにオオカミ的ではある。

私はというと、学校を変わるたびに友人を切り離してきたな。まあ、いまでも会いたいと思う人はたくさんいるけど。
種内攻撃の歴史は、個体間の友情や愛よりも、数百万年も古い。地質学の長いいくつかの時期を通じて、かならずや、とてつもなくたちの悪い攻撃的な動物がいた。今日みられる爬虫類はほぼすべてそうであり、先史時代のかれらがもう少しましだったとは考えられない。ところが個体同士のつながりがあるとわかっているものは甲殻魚類、鳥類、哺乳類だけで、したがって個体同士のきずなは中生代後期に出現した群れだけにみられるのだということになる。したがって、種内攻撃は相手役である愛をともなわないことがあるらしいが、逆に攻撃性のない愛は存在しないのだ。
冷血動物の後進性。愛憎、Love & Hate。

この本はとても示唆に富んでておもしろい。科学者であっても哲学や文学に造詣が深いとおもしろい読み物になる。つまらない科学者はたいてい分業された工員のように単純なことしかできないのである。



さいきん奴隷制ってどうなのかなと考えている。奴隷制を見直すべきなのではないか、とアリストテレスを読んで思った。アリストテレスは奴隷制を自然なものと考えている。肉体労働に向いた人間と知的な生産に向いた人間がいるのであって、後者が前者を支配することは正しいことだとしている。

私もこれは正しいと思う。というか、現代資本主義はその態度でこれを肯定している。高学歴の本社勤務が子会社のFラン大卒の社員を支配している。そしてFラン社員は、高卒のドカチンを支配する。

アリストテレスと現代社会の違いは、奴隷が働いてくれる間に主人は知的な営みをせよ、というのがアリストテレスの教えなのだが、現代では一見主人的な立場に見える人間も、なんらかの形で奴隷であるということである。大企業の社長も会長やオーナーの奴隷であり、会長も大株主の奴隷である。上にのべた高学歴の本社勤務なんて、アリストテレスに言わせれば思考を欠いた奴隷に過ぎないだろう。

ただ現代においても、働かずして稼ぐことができている存在があり、それが「資本家」である。資本家はアリストテレスの言う主人に近い。マルクスの時代においては、工場長は少なくとも経営のための労務をこなしていたのだが、現代富裕層はなにもせずに富を得ている。このことをピケティが指摘した。

現実にこの「自由人」たちが、政治的に参画し、世界を動かしているのかもしれない。

私は思うのだが、アリストテレスの奴隷制を否定しておきながら、現代資本主義のエセ民主主義を礼賛する行為は、一種の狂気であると思う。現代は古代ギリシャよりずっとひどい奴隷制であり、あまりに奴隷が増えすぎたため、だれも自分を奴隷とは思わなくなった。99.9%は奴隷ですよ。私も奴隷だけど。

奴隷制が表向き廃止されるのは、主人が力を持ちすぎるからだろう。奴隷が労働をこなし、主人が知的な能力を高める。またより多くの奴隷を買うことで、資本力や政治力を高める。そうすると、支配者層の立場は危うくなる。

現代資本主義の労働漬けのライフスタイルは、人々から力を奪うのに適している。生かさず殺さず、「ビジネス・パーソン」とカタカナにするとかっこいいように見えるが、結局は首輪のついた奴隷にすぎない。

最近になって国内で労働環境を整備しようという試みが話題になっている。これは奴隷の解放になるのか、あるいは奴隷制をより強固にするのか。現代の支配構造は、死の支配から生の支配へ転換した、と指摘したのがフーコーである。フーコーによれば以前の権力者は反逆者や犯罪者の処刑や、暴力によってひとびとを支配していたのが、近代以降は生かす方向、たとえば福祉や医療によって救済することによってひとびとを支配する。わかりやすい例で言えば、鬱病になった人間を「治療」し職場復帰させることによって、支配する。

この転換を日本社会も遂げようとしているのであり、支配構造の強化に貢献するのだと思う。

ほんと、世の中ってぼーっとしてたら絡めとられて養分にされてしまうなあ、と思うおじさんであった。

2.11.2017

愛するということ

愛こそすべて……経済の基軸通貨はカネでも、人間世界の基軸通貨は愛ですよ……。

いつの間にこんなみっともないことを口走るようになったのか知らないが、最近はこう思う。最近というか、昨晩E.フロムを読んでいて頭にガン、ときた^^;

私には「愛する能力」が欠如している。たぶん、多くのひとが子どものうちに獲得する能力だと思うのだが、私はそれがないまま大人になってしまった。大人になってから愛する能力を獲得するひともいるだろうけど、英語学習と同じように、子どもの方がずっと易しいに違いない。

なにせ、大人になってしまったおっさんは、これまで「愛なんてないよ」というドグマを叩き込まれてきたので、ほら、そこに愛があるでしょ、なんて言われても、私には見えないのである。

この世に郵便ポストは山ほどあるのだが、4,5歳のころに「ママ、あれなに?」と問い、「おかしな子だね、そんなものはないよ」とそのたびに存在を否定されたら、いつの間にか「ないもの」になってしまうだろう。江戸時代の民衆には、「黒船が見えなかった」、つまり認知不可能だったという(調べたら、「船」として認知ができなかったらしい。「見えなかった」のはマゼランがきたときのフエゴ島の人々)。

愛を損なうと、人生の意義が見いだせなくなる。実存の危機という奴である。それでなんらかの依拠できるものを探そうとする。それはできるだけ、手の届かないものが良い……。手が届いたら、そこで終わってしまう。それに、だれでも簡単に手に入るものであれば、それがたいして価値のないものだということがわかってしまう……。

そこでひとびとが追い求めるものは、カネであったり、名誉だったり、あるいは神だったりするのだが……。

愛が欠乏するということは、エネルギーの暴走でもあるのだろう。愛を知るひとは、正常な車輪を持っていて、目的にまっすぐである。こういうひとは、自然で、無駄がなく生きる。愛の欠けるひとは、片方の車輪が小さいので、ぐるぐる傷つきながら回っていく。それがかえって芸術的な大成や、莫大な富をもたらしたりするのだが……。しかしそれが幸福であるかどうか?はだれもしらない。悲劇とは、だれもが自分が正しいと思うことをなして、結果的に破滅する物語のことだ。迂遠するだけで人生が終わってはね。

私の車輪も片側がゆがんでいるのであって、作家になりたいとか、世界旅行がしたいとか、二億円稼ぎたいとか、そういうことを考えている。それでもう30歳近いというのに、愛することをできずに生きている。

世の中には、しっかりと他人を愛することができるひとがいて、そういうひとは品性や富や学に欠けるとしても(不思議とそういうひとが多い)、多くの他のひとよりも、一緒にいて楽しいし、大切にしたいと思う。そういうひとは、私のような人間も愛してくれるのであった。Sがそうだったし、職場のあるおばちゃんも私を愛してくれていると思う。

愛することのできないおじさんだけれども、そもそも愛する能力が遺伝的に欠如しているわけがなく、それは学習された認知のゆがみであるはずである。ひとは歩く能力を持っているように、愛する能力をもって生まれているはずである。

「愛する」ことを意志すると、途端に神経症的な愛になる。しゃちこばった、不快な愛情表現になる。それは力が入っているからである。

結局のところ、ひとがすべきことは「自然にかえる」ということなのだと思う。外的なドグマをとりはらって、自分をしっかりと見つめてみる。すると、本当は自分が他者を愛したい、と思っていることがわかってくるはずである。それこそが愛する能力である。

いたずらに物を贈ったり、束縛したり、褒めたり、ということが愛なのではない。



人間は愛することができるのだ、ということをぶん殴って教えてくれたのが半年前のSであった。ただ、最近はまた忘れかけていた。愛の能力は、簡単に抑圧されてしまうものであるらしく……。
この種の男たちは、女性たちの気を引こうとするときにはとても優しく魅力的になり、うまく女性の気を引くことができた後でもその態度は変わらない。しかし彼らの女性に対する関係は(実は他のすべての人にたいする関係も同じだが)いつまでたっても表面的で無責任である。彼らの目的は愛されることであって、愛することではない。ふつうこのタイプの男性には、かなりの虚栄心と、多かれ少なかれ内に隠された、誇大妄想の傾向がある。(愛するということ/E.フロム)
これが私であります^^;
もっとも頻繁に見受けられる性的障害――女性の冷感症と、男性の心理的インポテンツ――の研究からあきらかになることは、そうした障害の原因は、正しい性的テクニックを知らないことにあるのではなく、愛することをできなくするような抑制にある、ということである。そうした障害のそこには、異性に対する恐怖あるいは憎悪があり、そのために、完全に没頭するとか、自発的に行動するとか、直接的な肉体的接触において性的パートナーを信頼するといったことができないのである。(同上)
恥ずかしながら、これも私だ。女性嫌悪、恐怖の傾向があると思われる^^; 神経症者のほとんどのひとには性的障害が見られるらしい。
誰かを愛するというのは、たんなる激しい感情などではないのです。それは決意であり、決断であり、そして約束なのです。(同上)
愛することは、高度に知的な本能である、と思う。「恋は盲目」というけど、開かれた目でなければ愛することはできない。すこしでもバランスを欠いたらおしまいなのだろう。愛のバランス感覚を養わなければならない。はじめは、傷つくだろうけど……。

2.10.2017

あっという間に損をする

投資で儲けよう――

と考えたおじさんは、いろいろな投資の本を読み、またファンダメンタルズ分析や、投資に必要なマインド、経済関連のニュースサイト、成功譚と失敗談を読み、はてはマルクス経済学や呪術などを学習し……

20日間、市場のグラフとにらめっこで対峙し……仕事中に株取引をこなすという禁忌を犯した結果。

現在一万円を損している。

それで思ったのだが、さして市場の動向に関心のない私が投資で儲けようというのは虫が良すぎる話なのかもしれない。私は安倍や日銀やトランプやウォール街が何を意志し、経済界がどうなろうと、たいした関心がない。

ただ私はカネが欲しかっただけ。カネが欲しいというのも、さっさと労働から解放されるためなのであった。しかし毎日株価の動きを見つめていると、だんだん魂がひきこまれて吸いとられていくような気分になった。

「もっとうまい話があるのではないか」と血眼になって探すハゲ散らかしたおっさんであった。


もともと私は依存体質であり、これまでもタバコ、酒、女などに依存してきた。つぎにはギャンブル依存が来てもおかしくないのであった。

市況にはそれだけの魅力、というよりも「中毒性」があるのであって、これが完全に合法であり、またパチンコや競馬よりも勝率がよく「経済合理的」であるという点も、依存を正当化しやすい危険をはらんでいる。経済学者や一流企業の情報を得ていると、単なる投機がなんだか真っ当なことに思えてくるのである。

私は最初、絶対に勝つと踏んで取引をしていた。この間、私はたしかに勝っていた。しかし、だんだん株価の動きに振り回されているうちに「わからなくなって」きてしまった。この二十日で得たものは、にごったような疲労感と一万円の含み損だった。

いったん手仕舞いかな、と思っているおじさんである。

もともと、私はカネを稼ぐことが好きだった。前にも書いたが、アダルトサイトを運営してみたり、海外から服を買ってそれを転売するということをしていた。学生時代の目標は、年収2000万円であった。私がいまの仕事に就いているのも、カネを稼げるからだった。

カネはほしいと思いつつも、学生時代や就職して最近までは直接的な投資をすることはなかった。まだ時機ではないと思っていたのである。すなわち、「読書」や「勉強」が最高の投資であり、金稼ぎのために動くのはその後でも良いと考えていたのである。

「そろそろ動いてもいいだろう」と考えていたおじさんだが、間違いだったのかもしれない。もう少し「本の虫」になるべきかな。


「ふつうに働くのが最大の投資」という意見がある。まあたしかにそうなのかもしれないけど、マルクスを読んでから労働にあまり魅力を感じなくなってしまった。労働者が搾取の対象であるなら、勤勉はほんとうに美徳なのか……といろいろ考えてしまう。

相場の世界に首をつっこんでみたけど、あんまり長居はしたくない空気感であった^^; とにかく疲れるし、悩まされる。なんだかずっとお腹が痛いような気分。投資家はみんなこの腹痛をかかえているのだろうか……。

2.09.2017

ヤンキーを愛するおじさん

「過去を棄て去っても、過去は必ず追いかけてくる」とは私の好きな映画のセリフ。

ゲッツ板谷がどうしようもなく好きなのだが、それは私自身も「不良」だったからなのだと思う。まあ、不良といってもしょうもない次元だ。たばこで停学処分を受けたり、自転車を盗んで捕まったり、ヤンキーのたまり場に無断外泊するような。

喧嘩をしたり、バイクで暴走することはなかった。なんといっても、私はほんとうに臆病だったから……。臆病で神経質であり、喧嘩が強いわけでもなく、喋りがうまいわけでもない。不良に憧れているかわいいチキンちゃんであった。

学校へはちゃんと通っていたし、教師の言うことは守った。それでもつるんでいるのはヤンキーばかりだった。というか、私の通っていた公立中学校はヤンキーが多かった。あまりに多すぎた。不良でいるのが当たり前であり、のちに医学部だの旧帝大だのに入る連中はクラスの片隅で目立たなくしていた。そんなわけで私もヤンキーがかっこいいと思っていた。

高校もヤンキーだらけであった。というか、余計にひどくなった。私が通っていたのは進学クラスなのだが、そのクラス以外は偏差値40程度の連中だった。その学校は日常的に「レイプ」だの「殺す」だの物騒な単語が聞こえてくるし、学園祭のような催しでは金のチェーンを首にぶらさげた不良がフリースタイルでラップ勝負をしていた。

そういう中でも私は不良でもないしマジメでもない中途半端な位置にあった。私は度胸がないし、とてもヤンキーという器でもないのだが、とにかくオタクと一緒にはなりたくないという妙な焦燥感があり、また同じように「オタクでも不良でもない」中間的な連中と付き合うことが多かった。

そんなわけで、大学へ入学してからが大変だった。私はまるきり適応できなかったから……。

実のところ、いまでもヤンキーはかっこいいと思っている。ヤンキーは喋りがうまいし、度胸があり、喧嘩が強いのだから、私は優れた人間が多いと思っている。

とはいっても、ヤンキーは高校を卒業してしまうと、大抵の場合は肉体労働をしたり、工員になったり、社会的には下方に置かれてしまうようである。

私は大学へ入ってからも、ヤンキーのような連中とつるむことがあった。大学のヤンキーたちは、たいてい勉学についていけず、ドロップアウトしてしまった。(授業に出ないから当然なのだが……)私も次第にヤンキーとつるむことを辞めた。ある程度、大学の制度に適応したひととつるむことにした。まあ、大学で私は浮いていたから、つるむ人間も限られていたが。

ヤンキーのような度胸のある人間が私は好きだ。見ていて気持ちがいいのだ。

それでも社会制度は、反社会的な人間を許さないようにできている。学校では幅を利かせていたヤンキーたちは、社会的に転落していく。そうして、制度に順応したマジメくんが支配者層になる。

それは合理的で民主的なのだろうけど、私はそういう社会に閉塞感を覚えるときがある。

2.07.2017

ゲッツ板谷に対する感情

ゲッツ板谷の本を読みふけっている昨今である。「ワルボロ」、「メタボロ」、「ズタボロ」と決して短くない三部作をさくさくっと読んでしまった。おもしろかった。

ゲッツ板谷をはじめて読んだのは大学生のときで、タイへ行く前に読んだ「タイ怪人紀行」にドハマリした。そしてインドへ行ったときに、日本人がよく出入りする安宿だったと思うが、書庫に「インド怪人紀行」がおいてあったので、そこでも半日かけて読んでしまった。現地で仲良くなった自称上智大生に渡したら、ゲラゲラ笑いながら読んでいて、彼も半日を潰していた。

それで、本の中に書いてあった「一回500円の娼婦館」にぜひ行こうと言い出したので、私も承諾した。別に性欲の問題ではなく、怖いもの見たさだった。しかしこれは実現しなかった。というのも、予定の日に質の悪い大麻を吸い、彼と一緒にグロッキーになってしまったからである。

まあそんなふうにして、「世の中にこんなにおもしろい本があるのか」と思えるのがゲッツ板谷の本だった。

ゲッツ熱がなぜぶりかえしたかというと、大阪のブックオフで西原理恵子の漫画を読んで没頭し、まずは西原に惚れたのであった。そして西原の夫が「怪人紀行」でのゲッツ板谷の相棒であるカモちゃんということを知り(そしてカモちゃんが亡くなったこともそのとき知ったのだが)、ゲッツ板谷って何してるんだろ?と思ったのがきっかけである。



ゲッツ板谷は強面の風貌でわかるとおり、ヤンキー上がり、というかヤクザ上がりなのだが、彼の文章がどうしようもなく好きなのは、彼が真摯であり、マジメだからである。おもしろい作品を作ろうと頭を死ぬほどひねっていることがわかるのである。だから私は、たとえ作品がつまらなくても、板ちゃんが好きだから楽しんで読めるのである。

ゲッツ板谷の小説は、刹那的である。ふつう作家であれば抱くような、「後世に残る作品をつくろう」というような姿勢が見えてこない。なんというか、ありのままの感じが好きだ。おそらく数十年後には、ゲッツ板谷の作品はだれも読まないのではないかな、と思っている。そして彼もそれをたいして望んでいないだろうなと思う。

文章家というのは、ふつう、世の中に対する怨恨とか、疎外感を抱いている。基本的には「いじめられっ子」が文章家になるのであり、社会不適合者とか、不細工とか、親の虐待を受けたとか、病弱、精神異常、そういうある種の「欠陥」が、ひとを書くことに駆りたてる。いや、そうではない例もたくさんあるのだが、現代に残る名作を書いた古典作家は(科学者、哲学者、音楽家、画家にしても)、だいたい上の条件があてはまる……。

ゲッツ板谷は、そういう世の中に対する怨恨やなんかが見えてこなくて、家族愛の強い、友人を大切にするまっとうな人間ということがわかる。彼は人間として強いのだと思う。だから作品からは、パトスの昂じたような狂気のようなものが見えてこない。ひたすら素直で、直截である。じゃあそれがよくないのかというと、そんなことはない。

なんというか、ゲッツ板谷は幸福な物書きだな、と思うのである。たぶん歴史に残る人間というのはたいていが不幸で、ゲッツ板谷は幸福のまま死んでいくのだろうな、と私は思う。

なんだかまとまりがなくなってきた。チャーハンを食べすぎて眠い……。

坊主(というかスキンヘッド)でサングラスの作家といえば丸山健二がいるのだが、ゲッツ板谷とは正反対の作家だと私は勝手に思っている。つまり孤独な、不幸な、そして偉大な作品を作るタイプの。


あと、フーコーもゲッツ板谷とは正反対の……まあどうでもいいのだが……。



作家っていろんな人がいるよね、という話でした。

2.03.2017

槍をかつごう

デカルト的な理性主義に立脚する限り幸福はほど遠いのだと思う。我考える、ゆえに我あり……これはまあいいにしても、「我考える、ゆえに我為す」となると、途端に神経症的になる。

「歩く」という行為にしても、理性的なものではない。膝をまげて、つま先を前進し、かかとから着地しよう……と考えるわけではない。試みにそのように考えながら歩こうとしても、うまくいかないことがわかるだろう。

高度に熟達した技術も同様であり、スポーツ、音楽にしても、理性はどこかに置いておかなければ邪魔で仕方がない。日常の仕事においてもそうである。なにかに没頭しているときがもっとも楽であり、もっとも充実し、もっとも大きな成果をあげることができる。理性の王国である科学においても、革新的ひらめきは理論の組み立てではなく、「どこからかやってくる」ものである。

神経症者は往々にして理性主義である。AゆえにBであるといった硬直した思考をしている。神経症者は硬直しており、緊張している。まるでクソ真面目な学級委員であって、ちょっとしたつまづきに耐えきれず自殺したり、しょうもない誘惑に耽溺し人生を台無しにしたり、あるいはクソマジメな学級委員のまま過ごし、「人生とは何なのか」と煩悶したりする。

それでは理性とは何なのだろうか?こんな邪魔くさいものがなぜわれわれに付与されたのだろうか。われわれはほとんどが全員、理性的であることを強制されてきた。学校において、理性的であれば頭をなでられ、非理性的であれば殴られた。そうしてわれわれは理性を体得した。この「贈り物」は何なのだろうか?

わかっている。国家はもう戦争に負けたくないのだ。われわれは理性の極北であるところの原爆に打ちのめされた。たとえアフリカの少数民族が先進国の労働者よりも数倍幸福だろうと、われわれは理性を信奉しなければならない。

理性は強いのである。軍事的に強いし、政治的に強い。ヘゲモニーである。この世界は、暴力によって成り立っている。理性は最強の暴力だから、みんな憧れるのだ。そうして世界はまるっと飲み込まれて、世界経済戦争を繰り広げている。だから田舎でのんびり暮らしている農夫とか、槍をかついでいる少数民族の方がしょうもない仕事をしているわれわれよりずっと幸せなのだと思う。

2.01.2017

ほったらかしおっさん

最近はあまり書く必要に迫られない。すこし前までは、毎日書かないと気分の変調に襲われるのだった。

いまは投資がおもしろい。私の増やしてきたカネが、増えたり、減ったり動いている。この動きはクルマのダッシュボードにおく踊るおもちゃのようである。つまりなんだかにぎやかで楽しい。私は我が子を見つめる母親のようにささいな値動きに喜ぶ。今日は何もしないで1万円儲けた。今日は1万円損した。

まあこんなことに時間と体力を奪われるのは無駄だという気がするが、ある程度資産があればそれを運用する必要にかられるわけで、私の場合はさっさと賃金労働の煉獄から抜けだしたいのだから、一億なり二億なりぽんぽんと稼ぎだしてあとは年間100万円くらいの配当金でだらだら過ごしたいと考えている。

投資ってそうとうくだらないし、みっともないことだと思う。ギャンブルと変わらない。私は投資に何か後ろめたさを感じる日本人の感覚は正しいと思う。株で10万円儲けたとしても私は散財してしまいそうだ。なにか悪いことをして稼いだという感覚がある。

仕事中なんども考えたのだがアシジのフランシスを肯定的に捉えるのはどうかと思う。われわれのほとんどは貧乏人だから、金持ちになることはよいことだと考えている。私も貧乏人だから、金持ちになってみたい、という強い憧れがある。

アシジのフランシスは生まれが超金持ちだから、貧乏人になりたかったのかもしれない。結局ないものねだりなのだ。だからお上品な令嬢たちに囲まれながら、おっさんに「お前はどの娘と結婚するんだい?」と問われたときに、「貧困!」と叫んで窓から飛びだすことができた。

歴史上の天才的な思想家の生い立ちを調べるとだいたいが金持ちや上流階級の家の出であって、ニーチェも立派な牧師の家庭で生まれているのである。たぶん生まれが金持ちだと、富の追求にそれほど関心がないのだと思う。富はあって当たりまえ。人生の充実ってそれと違うよね、と考えている。私の大学は金持ちが多かったがこの傾向はまちがいない。

貧乏でちゃんとした教育を受けていないと幸福=富と考えるひとがおおい。こういう人は大金を稼いでもどこか虚しい気もちになるものだと思う。

カネを稼いでも稼いでも満ち足りない。必要だったのは親の愛情でした、なんて悲劇みたいなパターンは意外と企業経営者のお偉いさんなんかに多いと思う。

幸福になるためにカネを稼いでいたのにいつしかそれ自体が目的になる。これが神経症的状態だ。カネを稼いだ。満ち足りない。どうしてだろう?とひとは考える。そこから愛情だとか社会性とか、あるいは宗教とか、もう少しマシな対象にうつるならいいけど、「まだ稼ぎ足りないからだ」と考えると、抜けだせなくなる。

「どこかにとどまりたい」というのが神経症の根本的な要求であり、ガスの元栓が気になるのも「家にとどまりたい」という気持ちのあらわれであったりする。受験の勉強をしていて書痙になるのは、じぶんが成長し成功することに対する抵抗のあらわれである。先の金満家の例でいえば、カネを稼ぐことにとどまりたいのである。

神経症とは親に愛されたいとか、「ゼロ点」「絶対点」としての「子宮」に戻りたいとか、そういう欲動のあらわれなのかもしれない。神経症はどこかに戻りたい、そこでとどまりたい、と考えているのだがもう戻るところがない。だからせめて反復行為によってとどまり続けるのかもしれない。

私も神経症がひどかったときは毎日のルーチンに拘泥していた。昼食は絶対に鯖と決めている時期があった(まあ今も朝は納豆と決めているのだが……)。あと他人の侵入が怖かったな。他人の視線に触れたり、他人の噂話が気になったりした。とにかく「他者」というのが「不確定」で恐ろしかったのだ。

いまは他者が自分をどう考えようがそれほど気にならないようになった。無論他人はいまでも不確定そのものだが、その不確定をどうにかしようとしても何にもならないことを学習した。他人とは地獄であるとサルトルが言ったが、私にとっては「カオス」である。地獄ならまだ「天国」の矛盾対立になるのでありがたいのだが、そういう矛盾対立すらないものだ。

さらに言ってしまえば自己すら「カオス」であり、私はもう自分のことをほったらかしにすることにした。私にとって、市場も「カオス」であり、もう株価のささいな値動きはどうでもよいので、とりあえずほったらかしにしておいて、高くなったら売ればいいや、と考えている。「高くなったら売る」という法則にしたがえば、まず負けはないはずである……。

どうにもならないものごとをどうにもならないと諦めることが、大人になるということだろう。そして神経症の治療にもつながるのである。

「自分をほったらかしに」ということで、さいきんはフロイトだのマルクスを読むことをがんばることをやめて(なぜって私は学者でもなんでもないのだから)、ゲッツ板谷のヤンキー小説なんかを読んでいる。いや、ゲッツ板谷おもしろいよ。ほんと。私も昔はヤンキーに憧れたものだった。
しかしいちばん大きい、しかも意外な影響を与えるのは、まさに「娯楽」のために「快楽だけを目的として」読むものだ、と皆をびっくりさせるようなことを私は言いたいのである。知らぬ間にやすやすと感化を及ぼすのは、骨折らずに読む本だ。(文芸批評論/T. S. エリオット)
なんでも咀嚼して栄養にしよう。