5.29.2017

ただの日記

引っ越し作業をしている。結局、業者を使わずに自分ですべて行うことに。

日本の不動産業界って、めちゃくちゃだな……と思う。社宅だから敷金礼金なし、家賃も2割負担だったのだけど、いざ自分で他の物件を借りようと思ってびっくりした。

敷金と礼金それぞれ2ヶ月分?いきなり5ヶ月分も払うのか?それに保険加入が強制?鍵の交換費用は借り主が負担?一年以内に退去したら罰金?まったく意味がわからない……違う星に来たみたいな感覚だ。3万円のアパートを借りるのに、20万円くらい金がかかる。どういうことだ。

でもほとんどの人は何も疑わずに黙って金を払っている。ほんとうに日本のこういうところが大嫌いで、まんまと嵌められるお人好し(というかただの痴愚)な日本人も嫌だ。

日本人はまじめだ、きちんと列に並ぶとか、静かでシャイとか、自分たちの「民族性」を誇るアホもいるけれど、いまの日本人像は為政者=搾取者に都合よく創られた偶像でしかない。誇り高き日本人様ならこんなクソシステムぶっ壊してるよ。

まあそんなわけで、賃貸はやめて実家に戻るのである。引越し作業は……とんでもなくめんどくさい。財が増え物が増えると身動きが取りづらい。最近断捨離だのミニマムライフだのが流行しているのも納得。



生活の目処はいまだに立たない。私は無収入のままで何をするのだろう。タイへ行くといっても、なにか生産的な目的があるわけではない。ただなんとなく、刺激が欲しい……というか。部屋と図書館の往復……試験管のように感覚をシャットダウンされた理想状態では、神経が根腐れするような気分になる。

一人旅であっても、旅をしているあいだは案外孤独ではない。ゲストハウスに行けば同じように一人旅をしてるバックパッカーがたくさんいるし、好奇心で話しかけてくる現地人も多い。図書館に篭って毎日読書するよりも、少しは人間らしい生活ができるかもしれない。ちょっと人に飢えてきたのだ。読書なら海外でもできるのだし。

旅に行くにかけて、不安はまったくなし。タイは一度行ったことがあるということもあるが、もう自分の人生にたいして少し投げやりな、「どうでもいい」という気分なのである。失敗したらそれはそれでいいし、滞りなく行けるのであればまたそれでよし。万一死んでもそれはそれでいい。もう30年も生きていると、生に対する執着はあまりなくなる。

旅行以外には、英語の勉強を再びするようにしている。英会話ではなくてウェブのテキストの翻訳作業をちまちまと。最終的には英語の哲学書が読めるようになりたい。ドイツ語と英語なら文法も同じだから、ニーチェの英訳を読んでも良さそうだ。

本当はドイツ語フランス語ができたら良いと思っているが、あまり西洋の言葉に偏るのもよくないと思っている。英語の勉強をするだけでも頭が西洋化していく気分になる。

それにしても、外国語の勉強はそれ自体が楽しい。海外旅行なんかよりずっと異文化を味わえているのかもしれない。

言語は次々と死んでいっている。一方で新しい言語が生まれている。私はなんJ語が結構好きだ。よろしくニキー(兄貴)とか、なんとかして、どうぞ、とかそんな言葉。なんJ民はもともと2chのプロ野球ファンの集団だが、その存在はネット上の部族のようでおもしろい。

なんJ民は掲示板を乗っ取った移民(外来種)である。(´・ω・`)は原住民とされる。

サッカー好きと野球好きとか、任天堂派とソニー派とか、そういう区分がネット上では部族的抗争として現れるのは興味深い。そういう「部族化」が、国民化、あるいは個人化に対する抵抗のようにも見える。
ヨロシクニキー、小並感wwwンゴンゴニキー、ぐう震え声www
ンゴンゴwwゴンゴンww(ぐう畜ぐうかわ)アンド(ぐう聖)
日ハム内川「(川ンゴ児ゥ)いかんの茶~!?」wwwwwww
臭い!うんこやんけ! (その顔は優しかった)
う~んこのホッモなカッス(お、察し)(あ、察し)あっ…(迫真)
なおわいはイライラの模様・・・(ニッコリニキ
ポロチーン(大合唱) ←チーンwwwwwwwwwwww
大松「お!(お客様ニキンゴ)?よろしくニキファル川GG児WWWW?????W」
お茶茶茶茶茶ッ茶wwwwwwwwwwww(オカン)
あのさぁぁ!あくホリデイ(憤怒)←(適当ニキ)
↑ああ~^^これは教育開始だろなあ^^(指圧)
ちょwwwWADAに草生える可能性がBIRESON!?www(迫真ニキ

なんJ語はイリイチの言うバナキュラーなのではないか、ということを考えている。ちょっと無理があるかもしれないけど。なんJ語にはローカルさと懐かしさが具わっている。標準語(山の手言葉)に対抗する生き生きとした言語感覚。

そういえば山本哲士ってベイスターズファンなんだよなー。少しは関係があるのかもしれない。野球好きの哲学者って珍しい気がする。

5.26.2017

酒と薔薇のニートライフ

労働から解放されて一ヶ月。YAAAAAAAAAAAWN、清々しい毎日だ!

5月の田舎……広葉樹の鮮やかな山間の峠道をクルマでドライブしてみてごらん。まったく、クソッタレに最高だよ。

毎日、ストレスがない。寝たいときに寝て食べたいときに食べる。身体がなまってきたら公園で発散。ストレスがないと、書く気もあまり起きないものだな。

前に創造は陰の行為と書いたが、今の私は陽の状態なのだろう。過剰なエネルギーをどうしようかと考えている。なにかをしたくてたまらない。頭のなかでぐつぐつとスープが煮えている気分だ。哲学も心理学も食傷気味だ。なにか実際的なことをしたい。

今考えていることは、海外旅行と、不動産売買だ。とりあえずタイへの航空券を買った。KIX→DMK直通で12000円である。うーん、安い。まあ別段タイへ行きたいということはないんだけど、安いので買ってしまった。海外旅行ブランクがあることだしちょうどいいだろう。これから国際免許を取りにいってくる。

(考えてみると、日本で家賃3万円の家に住むよりも、バンコクで一泊1000円のホテルに泊まった方が安上がりなのではないか?wi-fiも光熱費もタダ、食費も安いだろうし)

不動産は市役所で空き家バンクを調べた。まあ……ゴミ物件しかないようだった^^;しかし時間は山ほどあるのだから、ゴミ物件をコツコツ直してもよいのである。不労所得をコツコツと築き上げたいな~と思っている。

ニート一ヶ月、何も不安なく生きている。仕事なんてさっさと辞めてしまうべきだろう。週に40時間の労働は人権侵害だとさえ私は思う。


「きみはよくきみ自身のことを風変わりだと思ったり、大多数の人間とは別の道をゆくのを、きみ自身にむかって非難したりするね。そんなくせは、やめなければだめだぜ。火を見つめたまえ。雲を見つめたまえ。そしていろんな予感がわいてきたり、たましいのなかの声が語り始めたりしたらすぐに、そういうものに身をまかせてしまってね、はたしてそれが先生方やお父さんや、またはどこかの神様にも、お気に召すかとか、都合がいいかなぞと、わざわざ聞かないことさ。そんなことをすれば、身をほろぼすことになる。そんなことをすれば、歩道をあるくようになって、化石になってしまうよ。ねえ、ジンクレエル、ぼくたちの神は、アプラクサスという名で、神でもあり、同時にあくまでもある。明るい世界と暗い世界を、一身にやどしているのだ。アプラクサスは、きみの思想のどれひとつにも、きみの夢のどれひとつにも、文句なんかつけやしないぜ。それを決して忘れないようにね。しかしアプラクサスは、きみがいつか申し分のない、正常な人間になってしまったら、きみを見すてるね。そうなれば、きみを見捨てて、自分の思想を煮立たせるために、新しいなべをさがすね。」(デミアン / ヘルマン・ヘッセ)

私の旅は、我らの社会の修繕屋である精神科医であれば<神経症>と呼ぶべきものに動機づけられていた。しかし実を言えば、<体裁良く>生きるという、明らかに神経症的な慣習から、絶望的希望をもって逃れようとする、正気の企てであったのだ。(フィリップ・オコナー「放浪」)


5.25.2017

労働の法則

賃労働とは自分の人生をだれかに捧げることである。母親は幸福だ。自分の子どもに人生を捧げることができるから。子どもは幸福だ。砂遊びやかけっこは自分のための労働なのだから。

しかし労働者はどうだろう。ただ資本を持っているだけのブルジョアに労働を捧げなければならない。

「なぜ?」と無意識は問う。
「なぜ?」社会はそうなっているから。
「なぜ?」そうしないと生きていけないから。
「なぜ?」それが当たり前だからだよ!いちいちそんなことを聞かないでくれ!

労働者の心のなかにできた空白。私の人生はどこへ行ってしまったのか?だれが何のために私の人生を奪っていくのか?

労働における矛盾は、ただ労働によってのみ解決できる。一日8時間の労働は、一日12時間にならなければならない。そうでなければ自分のことを考えなければいけなくなる。無意識が顔を出してくる。「なぜ?」の声がガンガンと響いて、逃げられなくなる!

「お前の」人生は何なのだ
なんて惨めなのだ
ただ他人のための道具と成り下がり
ただ生きるためだけに生命を費やしている
なんて哀れ なんて愚か
どうして「お前は」そんなに不自由なのか
「私の」声を聞かないのか

労働によって生じた歪みを、さらなる労働によって塗りつぶす。嘘、欺瞞、詐欺をいったんはたらけば、さらに大きな虚偽で塗り固めなければいけなくなる。

「無意識の声なんて聞きたくない……そんなものは悪夢に等しい!」ひとびとはそう呟いている。小さな声だが、何億人もの声となると、集まり、渦巻き、怒号のような黒い竜巻となった。いつしか竜巻は固定化し、静的な力となり、美しい音色をかなでる社会となった。黒いエネルギーは「愛」となり、「慈善」となり、「進歩」となった。信じられないことに、「自由」さえそこにあった。労働者の摩擦はそれら美徳によって潤滑された。熱は冷まされ、回転は速まった。労働者は、ずっと幸福な労働者となった。

さあ、突っ走ろう、死ぬまで!

5.21.2017

芸術とは何か

芸術とは、陰の行為である。

芸術とは創造行為であり、創造行為は孤独のうちに行われるからである。

陰の状態――孤独で、静謐で、うらぶれた寂しさのなかで芸術作品は創られる。

絵画を見る。音楽を聴く。文学を読む。いずれの行為においても、我々は作品に「惹きつけられる」。

この引力は、陰の力である。

では、陰とは何か?

陰とは、「欠乏」である。「マイナス」である。

「私には何もない」
「私は食べていけない」
「私はだれにも評価されない」
「私は死んでしまいそうだ」

そういうメッセージを、私たちは作品から受け取る。

芸術作品とは何か。

それはもっとも原初の言葉である。

原初の言葉、第一の発声。

それは赤んぼうの泣き声だ。

「助けて!」という叫び。

これが芸術の根源である。

精巧な作品であっても、底抜けに明るい作品でも、

根源にはこの原初の叫びがある。

そうでなければ、芸術ではないから。

陽の作品には、だれも惹きつけられない。

陽の芸術は存在しない。



ちなみに、AKBは芸術である。

AKBが売れたのは、彼女たちが「助けて!」と叫んでいたからだ。

ゆえに、AKBは芸術である。

5.20.2017

サイコパスの恐ろしさは当事者でなければわからない

小浜逸郎氏がサイコパスについて書いていたが(「サイコパスは生まれつきか」)、マニアックにサイコパスについて調べたことのある私はがっかりしたというか、納得できない部分が多々。

いちばんの問題点は、「あいつはサイコパスだから~」とラベリングすることを倫理的に問題だとしているところ。

逆である。

「あいつはサイコパスだからしょうがない」とラベリングしなければ、サイコパスに取り込まれる恐れがある。「あいつはサイコパスだけど、少しは良心があるだろう。我々と同じ人間なのだから」と思うことこそが、健常者がサイコパスと対峙するときの最大の弱点になるのである。

なぜか。サイコパスには良心がないから、何をやっても後悔をしない。嘘をついても、金を奪っても、地位を簒奪しても、平気な顔をしている。そこで被害者は自問することになる。サイコパスはなぜ自分を苦しめるのか?彼は自分を苦しめてなおそれが当然かのように、涼しい顔をしているのか?

そこであえて、「彼はサイコパスだからしょうがない」と思わなければならない。つまり自分には非がなく、彼に非があると認めること。彼はそういう人間で、世に害意を撒き散らす存在なのだと決めつけてしまうこと。

このラベリングがなければ、サイコパスに苦しめられる自分は「苦しめられて当然の存在だ」と思うようになる。「自分に落ち度があるからサイコパスは私をいじめるのだ」。この自罰的な反省的な態度はサイコパスにとって好都合で、ますます便利な道具のできあがりというわけだ。

より上等に道具化した被害者は、サイコパスの要求に無条件に従ったり、サイコパスから良心を引きだそうと無駄な試みをするようになり、ドツボに嵌まることになる。そうして最終的に、鬱病や破産、自殺などに追い込められる。(無論ほとんどの場合、合法的に)

だからあえて言い切ってしまうが、ラベリングこそサイコパスに対する有効な防御策なのである。「彼は私と同じ人間ではない」と諦めること。小浜氏はサイコパスに対するラベリングを、黒人やユダヤ人の差別などと同一視しているが、実情はまるで異なる。良心を持つ健常者とサイコパスの隔たりは、人種的隔たりよりはるかに大きい。

ラベリングを指して「仲間はずれはよくない」とする小浜氏には、現にサイコパスに苦しめられている人々に対する視点がまるきり欠如している。被害者に向かって鬱になれと言っているようなものだ。(そもそも、良心を持たない・倫理観の欠如したサイコパスを倫理的枠組みから追放することのどこが不適当なのだろうか?)

もっともこのラベリングという対抗手段は、サイコパスと深く関わりなんたるかを理解した被害者に許される行為であって、外野の健常者がおもしろがって「あいつはサイコパスだ!」と叫ぶ魔女狩りのような流れになることは当然危惧すべきだと思う。

サイコパスのいま

法的に問題ない、あるいはハラスメントなどの軽微な犯罪であっても、サイコパスの「実質的な被害者」が存在することは事実だ。これらの被害者はほとんど泣き寝入りである。(通常のサイコパスは、証拠を残したり逮捕されるほど愚かではない)

現代医学では、サイコパスは犯罪を侵さない限り「健常者」として扱われる。社会適応に成功しているからである。鬱病患者のように憂鬱で出社できなかったり、神経症のようにガスの元栓が気になって勤務中に帰ってしまうということがない。それどころか、仕事に意欲的で、出世や金稼ぎに成功することも多い(無論、他者を蹴落としてだが)。

だからこれまでサイコパスの研究は進んでこなかった。資本主義社会に優れて適応しているとさえ言える彼ら「健常者」を病者として扱うことは、一種のタブーですらあった。

ある精神科医はサイコパスをさして「人を鬱に陥れる達人」と呼んでおり、治療した鬱病患者の影にはこのような人物の姿があらわれることが多々あるようである。この「合法的な悪魔」に対してどう接するべきか。社会はどのように介入すべきなのか。そういう深い視点が小浜氏の議論には何もなく、指摘は表層的で外縁的なところで留まっている。

じゃー深層的な議論とはどのようなものか?一例をあげると以下の雑誌の議論のようなものである。
宮崎哲弥 鑑定が正常に行われたとしても、サイコパス、反社会的人格障害をどう扱うかという問題が浮かび上がってきます。おおまかに言えば、彼らの人権を尊重して危険承知で一般市民と同じ生活をさせるか、あるいは彼らの人権を蹂躙して隔離してでも安全な社会を守るか、という議論に二分されるでしょう。ただ、完全に彼らを放置するわけには行かないので、何らかのセーフティネットをかけておく必要が生じます。  
岩波明 イギリスではサイコパス患者にも精神病患者と同等の治療を施していますが、「多少は改善されそうだ」「いや、無意味だ」という論争が常にあり、いまだに結論は出ていないのですが、私見ではおそらくサイコパスが治癒する見込みは極めて薄いと思われます。現実的な選択肢を考えた場合、一定期間の隔離もやむを得ないのではないでしょうか。去勢、つまりホルモン抑制剤を注射するのも一時的な効果はあると思います。(「諸君!」2006年7月号より)
10年前の意見の方がはるかに踏み込んでいて現実的である(議論の深さを例示しているのであって、サイコパスを隔離しろと言っているのではない)。

まあ体験しないとわからないよね

もっとも、サイコパスがどのような存在かは、サイコパスに直接関わった人間でなければわからないことで、臨床医ではなく(たぶん)被害者にもなったことのない小浜氏には実感できないのは当然とも思われる。

小浜氏の言う「サイコパス」とは、テレビや新聞を賑わす「サイコな殺人」をする例外的なサイコパスのことのようで、一般生活を営む通常のサイコパスについてはほとんど言及がない。「百聞は一見にしかず」とはまさにこのことで、小浜氏の描くサイコパス像は人魚や河童のように現実味がない。テレビや書籍からの情報だけで、肉的な体験が感じられない。ポリティカル・コレクトネスだ進歩心理学だと話を広げているが、肝心のサイコパス像があいまいなので空疎である。

サイコパスの存在を体験するとしないとでは人間観がまるきり変わるものである。差別はよくないとか、そう生っちょろいことは言ってられないのである。食われるのである。笑

結論を言えば、小浜氏の小論は、サイコパスを語っているようでサイコパスを語っていないと私には思われた。

あと一点、指摘したいことがある。幼少から症状が見られ、自然治癒・治療改善例が一例もないサイコパスを、「先天的障害の蓋然性が高い」とすることは、極めて自然な判断だ、としか言いようがない。

余談:あるカウンセラーは、サイコパスの女性から良心を引きだそうと数十年間努力を続けたが、何の変化も訪れずに徒労に終わったそうだ。カウンセリングに通おうとするサイコパスはほとんど稀だが、彼女の場合は「著名なカウンセラーを打ち負かす私」という形で自己愛を満たすためにカウンセリングを利用していたようである。

サイコパスについて詳細に知りたい方は書抜があるのでどうぞ

5.19.2017

ニートの山篭り

今日は天気が良いので、キャンプをすることにした。今は焚き火の前でこれを書いている。

住むところを考えている。今月いっぱいで、社宅を追い出されることになるからだ。

社宅(借り上げ)はコンビニまでバイクで3分、田舎にしては便利な一戸建てで、しかも家の周りは空き地、隣家まで30mほど離れているので、騒音を気にしなくてよかった。

でも、家の前が通学路だったり、抜け道になっていたりで、私の理想とする田舎暮らしではなかった。車の通る音がうるさいし、家の前をだれかが通ると落ち着かなかった。

しかも町内会費を払え!といってくるおばさんがいて閉口した。「社宅なんで会社に言ってもらえますか」といったらそれ以降尋ねてこなくなったけど。

都会の人が「田舎暮らしをしたい」と言うとき、ほとんどそれは隠遁生活への志向だと思う。つまり、ゴミゴミした都会生活の真逆……周囲にはだれもいなく、ただ自然と、自己だけがあるような環境。そういう「理想状態」に憧れる気持ちはわかる。だれだって田舎者とは付き合いたくないものだ。

しかし現実には、他者との関わりからは避けられない。何者かわからない奴が住みついている、となれば地方の人が不審がる、あるいは好奇心がわいてくる。そういうものだと思う。「私は静かに孤独に暮らすためにここにきた。頼むから厄介事を持ちかけないでくれ」そう言いたくなるだろう。

私もできることなら、周りにだれもいない環境に住みたいと思っている。自動車の騒音が聞こえなくて、目の周りは自然のみ、他者や住宅が視界に入らない……。しかしそういう物件は、日本ではなかなかないみたいだ。どこにいっても集落、住宅街、そういう息苦しい場が待っている。

私が今晩泊まるところは、山の上にある。太平洋が一望できる。オフロードバイクで登れるところだが、登山者以外は訪れない。この土地を100万円くらいで買えるのなら、私は小屋でも建てて暮らすのだけどな。

静かで、孤独に暮らしたい。そういうことが難しい社会ではある。

実家の土地を借りて、小屋ぐらしなんかしたら素敵だと思う。風呂は薪で、電気はソーラー発電で、小さな畑をもって、読書の日々……。やはり実家に戻ってleechとして暮らそうかな。山林を売り払っていないといいのだが。

私は「生活を生きたい」という密かな欲求がある。つまり、何かのための生活ではなく、生活のための生活……。生きることを生きる。ただ生きる。難しいな、表現が。

私は何者にもなりたくない。何者かになるということは、何者か以外になることを否定されるから。ただ人間として生きたい。

住む所……やはり小屋ぐらしになるかな?私はニートだから、半年もあれば作れるだろう。バカでかい本棚を作って、晴耕雨読の日々を過ごしてみたい。

5.17.2017

ニートはどうやって生きるか

今日はユングを読んで、それから猫を撫でて終わった。

ニートになると承認欲求をどうやって補っていくかを考えなければいけない。仕事しているときであれば、一社員として、承認欲求は勝手に与えられた。一日8時間、同僚や上司と顔を合わせるのだし、協働的な仕事をこなすなかで信頼関係は構築されていった。

 

ニートになってしまえば、そういう繋がりはなくなる。すると生きている意味や、自分の存在価値といったものがわからなくなってくる。私は生きていていいのですか。そういう疑問が浮かんでくる。

ニートになるということは、組織から外れて裸の個人となることを意味し、さらには潤沢な時間がかえって彼を拷問にかけることになる。私とは何者か?私は何のために生きているのか?という厄介なテーマが彼に襲いかかる。




本来であれば経験を積んだ修行僧や、高い水準の哲学を身に着けたような人でなければ、孤独に隠遁し、実存的問題と格闘することは難しい。生身の個人が、生身の現実とぶつかることになる。これはほとんどの現代人には対処不可能だ。



だから大部分のニートはゲームや2ch、アニメに没頭することで時間を空費することに勤しむ……あるいは、バツの悪い顔をしながら社会に復帰することになる。時間を空費したのだから、彼らはこう言うことになる。「まったく、何も成長しなかった!私は子どもの頭脳を持った大人だ。なんていう時間の浪費だっただろう」

私は何の意味を持って生まれたのか?……そんなことを考えるのは面倒な社会である。エリアーデが書いていたと思うが、ある部族は自分たちが儀式を行わないと、太陽は止まってしまい、永遠に日の出や日没が起きないだろうとかたく信じていた。羨ましい話ではないだろうか?


現代は「大きな物語」がなくなったとされるが、その現代であっても素朴な人々は、自分がフライドチキンを揚げることや自販機にコカ・コーラを詰めることが社会貢献だと信じている。「とりあえずそれで良い」というわけだ。一日8時間の労働が、加速化する社会が、厄介事から目をそらしてくれる。



ケインズは技術の進歩が進めば週に15時間の労働で済むだろうと予言した。週に2日の労働、あるいは一日3時間の労働へ短縮してもよいというわけだ。しかしこの予想はハクスレーにばっさりと切られている。
「技術的には、下層階級の労働時間を一日三、四時間にすることはしごく簡単なことだろう。しかし、それで彼らがちょっとでも幸福になれるだろうか。いや、そんなことにはならないよ。
――三時間半の余分な暇が幸福の源泉になるどことか、みんなはその暇から何とかして逃れようとせずにはいられない気持ちになったものだよ。」(「すばらしい新世界」)
そして結果的に、ハクスレーの言うとおりになった。



暇な時間は恐ろしいものだ、と人々は考えている。何が恐ろしいのか。「自分」だろう。ユング風に言えば、ichに対するところのSelbst。つまり無意識の自己が、意識の領域を侵犯することになる。お前はこれまで一面的に生きてきたが、それは間違っている……この声から、すべての精算が始まる。世界はひっくり返る。



それは自然と健康への回帰なのだが、現代人にとってそれほど恐ろしいものはないのだ。産業社会において、もはや自然に還ることはできないのだ。ルソーは嘆息した。足萎えめ!とニーチェは激した。

5.16.2017

神経症と隷属システム

神経症一般というよりも、自分自身をふりかえって思うことがある。私は根本的に、文明に対する敵意を抱いているのではないか、ということである。

表層的には私は神経症であり、聴覚過敏であり、人嫌いである。

神経症であることをつきつめて深く考えてゆくと、学校教育に対する拒絶がその発端であった。私は学校へ行きたくなかった。しかし親も教師もそのことを許さなかった。同級生はなお許さないだろう。彼らとて「行きたくない」のである。だからこそ、学校を勝手に休んでしまう学生は通常、いじめの被害にあうことになる。

生きている世界の環境すべてが「学校へ行くこと」を善とし、陰に陽に強制するような状況において、私の緊張と敵意はピークに達した。そのとき神経症が起きた。

就職してから神経症は軽くなった。神経症の症状は収まった。だがより根本的な、「神経質」が私を苦しめた。私は労働に耐えられなかった。労働そのものは楽しめたが、労働の構造が私には許せなかった。なぜ私が働くと、経営者がその成果を収奪してしまうのだろう。私がどんなにがんばっても、給料は毎月変わらず、経営者を利するだけなのだろう。

経済思想を学ぶにつれ、この考え方がいちがいに狂気じみても子供じみてもいないことを学んだのだが、とにかく私は社会一般に受け容れられている「労使関係」が我慢ならず、犯罪的にすら感じられ、二年働いたのち仕事を辞めた。

学校教育は子どもを隷属化させる過程であり、労働とは奴隷行為である。そういうことを知ってしまった。労働や教育が美徳とされる社会において、「隷属」そのものを本能的に忌むように生まれた人たちは、ある段階で自我の分裂を引き起こさざるを得ない。教育と雇用が優先的に保証されたある意味で「他国が羨む優等生的な近代国家」では、かえって労働者や学生が自殺し、精神を病むようになる。

文明の「進歩」の過程そのものを、あらためて問いただしたいと思っている。「進歩」の実相とは何か。文明の起源とは何か。

古代ギリシャも、古代ローマも、戦争と奴隷制によって発展した。停滞していたヨーロッパが東洋を超越したのは、奴隷売買のおかげである。アメリカが世界最強国家となったのも、黒人を思いのまま搾取することができたからであった。古代の日本についても同様である。

奴隷の量的・質的向上によって進歩は急速に発展した。奴隷→農奴→賃金奴隷という2000年の歴史、我々の文明の歩みとは、奴隷制の歩みなのかもしれない。

5.15.2017

時間泥棒と戦うニート

「ぜったいにだれかに時間を盗ませたりなんかしないわ!」とモモは言った。おっさんも同感である。

今日も8時頃起きる。日光に十分あたる。ミルクティーを一杯。お腹が空かないので、食事はとらない。働いていたときのように無理して朝食をつめこむことはしない。食べたいときに食べる。仕事をしたいときに仕事する……まあ、仕事と言っても読書・書き物なのだが。

そういえば紅茶というとシルクハットに傘をもったイギリス紳士の飲み物というイメージがあるかもしれないけど、もともと工場労働者の簡易な食事代わりだった。お茶に砂糖を入れてカロリーとカフェインをとる。短時間で栄養と覚醒が得られる。今でいうと栄養ドリンクみたいなものだね。

私は労働者じゃなくてニートだけど、紅茶が好きだ。同じカフェインでも、コーヒーはダメだ。キツすぎる。胸が悪くなるし、なんだか気分が落ち込む。紅茶はカフェイン含有量が少ないのもあるし、タンニンを含有しているのでカフェインを中和してくれる。

カフェインはキサンチン誘導体の酸性物質で、タンニンはアルカロイド(植物由来のアルカリ性物質)だから、酸塩基反応的に中和してくれる。中和反応が起きると、イオン結合が起きる。基本的にイオン化した物質は水溶性で消化管を通りにくく、吸収されにくくしてくれるというわけだ。化学もまた勉強し直したいな~。

イスラム圏の伝承を読んだヘルマン・ヘッセはこう言った。
私たちは読みながら、たえずあこがれと羨望の念を抱く。「この人たちには暇があるのだ!」。そう、たっぷり時間があるのだ!この人たちはひとりの美女の美しさを表現したり、あるいはひとりの悪漢の卑劣さを描写したりするための新しい比喩を考え出すのに、一昼夜をかけることができるのである。……かれらのは底なしの泉からくみ上げるように時間をくみ上げる。この場合、一時間とか一日とか一週間の損失はたいしたことではない。
あくせく働く人に、こういう時間が訪れることはないだろう。

そういえばタイムリーなことに、私の読んでいるブログに労働に関する記事が。


小浜氏はいたずらに労働時間を下げても消費には結びつかないとし、長時間労働に一定の経済的文化的意義を見いだしている。東京ちんこの方は「仕事に価値を見いだす奴なんていない」としている。上から俯瞰して政治的に見れば小浜氏は正しいし、一個の労働者として考えれば東京ちんこが正しいだろう。

私の考えでは、働きたい奴だけが働く社会になればいいと思っている。働く奴が働かない奴を虐げるようじゃだめだ。学制も同様で、学校が好きな奴だけ学校に行けばいいと思う。そうすれば年端もいかないガキンチョが飛び降り自殺するなんて悲劇はなくなるだろう。

もっともそうも行かないのが経済戦争的な世界システムに飲み込まれた社会だ。学生―労働者という流れは戦時中で言うところの徴兵のようなもので、徴兵逃れが非国民と罵られるように、引きこもりや無職は虐げられる。「みんな命を懸けて戦っているのに、お前はなぜ逃げようとする?」というわけ。めんどくせ~な~嫌ならお前もやめちまえ(^ω^;)とニートの私は思う。

結局毎日書いてしまっているなー。今日も読書。日本史の勉強をしたいのだ。

5.14.2017

ニート惑わず

くっだらないことばかり書いていてそれに対する羞恥はある。「羞恥、羞恥、羞恥ーこれが人間の歴史なのだ」とだれかが言った。

やはりこのブログに書くのがしっくりくるなあ。垂れ流しはよくないと思っていても書いてしまう。

昨日、図書館でミヒャエル・エンデの「モモ」を借りた。哲学書や講義で何度も引用されていたので。岩波文庫にあるかな?と思ったら児童書コーナーにあってびっくりした。うーん、私が小さいときに読んで理解できたかな?

ミヒャエル・エンデは「はてしない物語」で有名だと思う。映画を小さい頃に見た記憶。



「モモ」はというと、かいつまんで言えば産業社会批判の本で、灰色の「時間泥棒」と戦う少女の本。いや、読んだらボロボロ泣けてくるんだな~。なんでだろう。

そのときトランジスター・ラジオの男の子がきゅうにこっちをむいて言いました。
「でもぼくはな、ぼくはまえよりずっとたくさんおこづかいをもらってるぜ!」
「あたりまえさ!」とフランコはこたえました。「そりゃあな、おとながおれたちをやっかいばらいするためなんだ!おとなは、子どもたちがいやになったんだ。でも、おとなじしんのこともいやになってる。なにもかもいやになってる。これがおれの考えさ。」
「そんなことあるもんか!」と、はじめての男の子はいきり立ってさけびました。「ぼくの親はぼくをだいじに思ってるよ。でも、いそがしいんだ、どうしようもないじゃないか。ひまがないんだもの。そのかわりに、ぼくにトランジスター・ラジオまで買ってくれたんだよ。とっても高いんだぜ。だから、これがいい証明じゃないか――それとも、ちがうかい?」
みんな、だまりこみました。
するととつぜん、きょうの午後じゅうみんなの遊びのじゃまばかりしていたはじめての男の子が、しくしく泣きだしました。いっしょうけんめいに泣くのをこらえて、泥だらけのにぎりこぶしで目をこするのですが、涙はとめどなく流れて、よごれたほっぺたに二本のすじをつけました。
ほかの子どもたちも、何人かは身につまされたようにその子をながめ、何人かは地面に目を落としました。みんなにはその子の気持ちがよくわかったのです。ほんとうは、みんな同じように泣きたい気持ちでした。だれもが、じぶんが見はなされた子どもだと感じたのです。(大島かおり訳)
ゆとり世代の両親はバブル世代のことが多いから余計に共感できるんじゃないかな。

ほんと資本主義ってアホくさいシステムだと思うけど、みんながんじがらめになっている。いちばんの被害者は子どもたちだね。だれも幸福にならないよ。

搾取しまくってる金持ちも、幸福ではない。彼らは本来下にあるべき人間だから、いくら金や地位があっても幸福になれないんだな~。



読書感想はここまでにしておこう。日曜日は、ニートにもお休みの日なんだ。図書館が人でごった返しているから。平日昼間の静謐な図書館で本を読んでいると、一生ニートでいいや!と思えてくる。

久しぶりにTEDを見たら、感動的な動画を発見。


年に二ヶ月だけ働く。一ヶ月は、種をまく。もう一ヶ月は、収穫する。それで家族6人が食べきれない米が採れる。
日に15分働く。それで家族6人が食べきれない野菜が採れる。
一日二時間だけ働く。数ヶ月で、家が完成する。都会で働いてる奴は、30年ローンで家を買うのに!

おっさんは、この動画を見てまた涙を流した。

そう、life is easyなのだ。我々は地球の恵みを軽視しすぎる。人間の力を過小評価する。自然ではなく人為的なシステムに依存するようになった。依存とはすなわち隷属である。自然に隷属するのか、人に隷属するのか。私は前者がいいな~。東京や大阪よりも森とか海が好きだからね。

産業社会の奴隷は「無能化」という鎖をつけられているのだよ。食材を自分で調達できない。料理つくれない。家を自分で作れない。車を自分で直せない。病気や怪我を自分で治せない。自分で学べない。考えられない。何をするにも他人任せで、そうすると金が必要になる。

生きるのには金が必要だ!そして金を稼ぐためには、労働しなければいけない!こうすっとブラック企業ができあがるわけ。労働に依存して、それ以外はできない「人間モドキ」のできあがり。アホくせ~システムだな。

労働者本人は「これは私の選択だ!」「自由意志の結果だ!」「私は今の生活に満足している!」とか言うかもしれないけど、もう私の目にはフォアグラ工場のアヒルさんにしか見えないんだよな(^ω^;)ガーガー

伏せ字はBullshit。

「抑圧された者たちの伝統は、私たちが生きている〈非常事態〉が実は通常の状態なのだと、私たちに教えている。」と言ったのはベンヤミン。天ばかり見るな。大地に生きよ。とだれかは言った。



私はもう毎日6,7時間くらい読書ができて、あとはネットがあればもう何も贅沢は言わないな~。そのことを心底確信してしまった。将来に対する不安がない。強いていうなら、将来の不安がないことが不安だ。

5.13.2017

一円にもならんment

あとから振りかえるとどうしようもない論考だな、と思うことでも、そういう物事を自己から疎外してはいけないのだろう。

「奴隷制っていいよね……」と書いたあとは好きでもない女を抱いた後のようなバツの悪さを感じるのだけど本心なのでしょうがない。

初めてシュル・レアリスムを起こしたのはブルトンだったか、まあだれでもいいのだが、いくら奇異なものであってもそれが一端既成事実となり歴史化・集団化してしまえば後続の存在意義などないのだろう。

横目で安全圏に入るのを確認してから「あ、ぼくもそう思ってました!」「それ、いいですよね!」と雨後の筍のごとくニョキニョキ生えてくる連中であってはならない。創造的行為とはそういう営みであって、必ずはじめは迫害される。


アメリカのニート事情を調べているとおもしろい言葉があって「normie」ノーミー、普通人と私は訳している(パンピーIppan peopleだと多様性も含意するのでちょっと違うと思う)。



で、このnormieの定義は「精神病を患っていないこと」を示すらしい。ex:俺は普通人だったけど、この前から鬱病にかかっている――。

つまりnormalに対するところの「異常abnormal」が即ち精神病を示すことになっている。とても示唆的でフーコーにこういうスラングがあるよと言ったら喜びそうだ。

身長が210cmあっても100mを10秒で走れても病気ではないが過度に神経質だったら病気になる。抗不安薬やSSRIの適応になるということだ。この医療システムの異常さを何でだれもが受け入れているんだろう?

私はむしろ鬱病や神経症の人間の方がnormieよりはるかに健康的だと思う。このような社会でまっとうにやっていける人間は頭のどこかが麻痺しているに違いない。

私が奴隷制を肯定するのは、資本主義ってクソだよね!→じゃあ共産主義にしよう!という進歩史観がなんだか稚拙に思えてならないからだ。資本主義はたしかに不自然なシステムだが、共産主義はもっと不自然だよ。

左翼が理想とする平等社会は自然には一個も見られず、強いてあげるならアジの群れが究極の平等社会かな(資本主義が不自然?生物界は弱肉強食じゃないか!という人がいるかもしれないがめんどくさいので霊長類の生態を観察してほしい)人間は動物であって神の子じゃないんだよ。

それで(古典的な)奴隷制のメリットというのは、奴隷制が必然的に主人的・貴族的文化を生むからだ。つまり「金や土地を持ってる奴が偉い」という資本主義のアホくさい階級制度が破壊される。

厳密に言えば資本主義社会も一個の奴隷制wage slaveryなのであって、私の歴史観だと「文明とは奴隷制(≒戦争)である」とすら思っているので、奴隷制を完全に廃止するのであれば縄文時代にタイムリープしないと不可能だと考えている。それだから悪い奴隷制から「良質な奴隷制」に移行しようというのは理にかなった自然な考え方だと思っている。

長くなったのでここまで。公開するか迷ったが公開してしまおう。いい加減なことを書き続けるのは楽しいな~。いい加減は良い加減(^ω^ )

5.12.2017

enjoy NEETlife

仕事を辞めたら毎日が楽しい。

やっぱり資本主義の産業生活は無理がある。二年間我慢したけどもうアホらしくって辞めた。

アルチュセールはマルクスに傾倒した後「なぜ共産主義革命は起きないのか?大衆は搾取を受け入れるのか?資本主義強すぎワロタw」という疑問を起点に国家イデオロギー装置論を組み立てた。

つまり国家のイデオロギー装置であるところの学校や家族、書籍やテレビなどメディアが支配―隷属の関係、「資本主義的搾取諸関係の再生産」に貢献している、ということを暴いたのだ。

これはショッキングな指摘ではあったけど、私はそんなに難しく考えなくてもよいと思う。結局のところ、大衆はアホでつねに欺かれる、ということだ。だからもう、彼ら大衆は搾取されるのが好きなのだ。なにも破滅願望ではなくって、自然的積極的に隷属を志向する、ということがありうる。

アリストテレスは「奴隷は生まれつき奴隷なのだから、奴隷制は自然なことだよ」と説いたが、私も同じ考えだ。たぶん世の中の10%くらいが生まれつきの貴族で、残りは奴隷に向いている。倫理的にどうこうではなく、「そういうふうにできている」のだ。現実として。

奴隷制を肯定すると、なぜかracist!とか石を投げられるのだが、ちょっと待ってほしい。白人があまりにもバカな奴隷制(砂糖奴隷、煙草奴隷、綿花奴隷)で黒人たちを搾取しまくったから、現代人は奴隷制に過剰な拒否反応を起こしている。あれはたしかに人類史上最悪に非道な奴隷制であった。日本の社畜以上に搾取されていたのは彼らくらいのものだが、黒人奴隷は資本主義的搾取の原型であって、古典的奴隷制とはほとんど別個だ。

話を戻すと、アルチュセールはカトリック的平等観に毒されているように思われる。つまり人間は本来平等なはずが、資本主義によって縦構造が構築されていると彼は考えたのだが、そもそも人間はほんとうに平等なのか?また平等になるべきなのか?

カトリシズムの平等観というのは「人は皆生まれつき罪を背負っている」という辛気臭いネガティブな平等観で、ニーチェに言わせれば奴隷道徳的、出る杭を打つようなルサンチマン的な教義だ。

しかし背の高い奴がいれば低いやつがいる、美しい奴がいればブスがいる、賢い奴がいれば愚かな奴もいる。これは生まれつきの要素もあって、人が生まれながらに平等とは考えにくい。

私の考えはシンプルに言ってしまえば、人間は生まれつき平等なんかではなく、本能的無意識的に縦社会的であり、生まれつき高位にあるべき存在と低位にあるべき存在がある、というものだ(そして低位にあるべき人間は自然状態において高位の人間にルサンチマン的感情を抱かず、被支配的生活にある程度満足してしまう)。

無理に貴族的人間をずりさげて奴隷的人間を持ち上げる平等化のプロセスは必要はなくって、貴族的人間が上に立ち、奴隷的人間は彼らに付き従えばいいのだと思う。それがいちばん社会がうまく行く方法だろう。

現今の社会は最悪の状態で、奴隷的人間が上位に立って貴族的人間が下層に置かれている。ニーチェの言う奴隷革命後の状態だ。この「逆立ちした世界」よりは、共産主義的平等社会がはるかにましだとは思う。

なんだか話が飛びすぎて何が書きたいのかわからなくなった、またdiarrheaをしてしまった気分だ。支配―隷従の視点で世の中を見るのが楽しいのである。ドラクエ6の夢世界から現実世界に落ちたようなスリリングな転落だ。

5.11.2017

ブログ再開 ~そしてニートへ

ブログを再開することにした。

「計画」は頓挫した。本を書こうと思ったのだが、気力尽きた。まだ時機ではないみたい。

代わりに新しいサイトをいくつか作ってみた。これらはまだ公開するレベルにはないので、しっかりとした形になってから公開したい。

公開せずに書いてみてわかったことだが、だれにも見せず読ませずに書いた方がクオリティが高い。自分の文章を自分が読んで自分で校正する。本来の「執筆」という感じ。

ブログという形態は思考の垂れ流しであって、固まりきらないできそこないを書き続けることになるような気がする。diarrheaのように不健康だ。なのでこちらのブログは更新を不定期にしようと思っている。

いずれにせよ、読む、書くという創造的行為が私にとっては向いているみたい。

ついでに書いておくと、会社を辞めることになった。このブログでもいくらか書いていたが、資本主義というシステムに対しての否定的態度が決定的になった。

古代奴隷制、封建主義、資本主義という一連の世界史の流れは、すべて支配、搾取という政治構造を含むことを学んだ(「自由かつ平等で法的権利を有する奴隷」が存在しうる)。

ある程度の近現代の哲学を学んでなお被雇用者でいつづけるって難しくないだろうか?イリイチのdeschooling論を読んでいると、大学教授ですらなんだか憧れる職業ではなくなった……。世の哲学funboyたちはどうやって生活に折り合いをつけているんだろう。

話を戻すとこれから私はNEETになるわけだ。NEETとはNot in Employment, Education, or Trainingの略でしょう。現代の雇用関係・教育に失望したので、必然的にニートに行きつく。

貯金はいくらかあるので、しばらくは高等遊民生活を続けようと思う。金が尽きたら実家の農業でも継ぐかな。