8.15.2017

しばらくお休みします。


本を執筆します。

おっさんお仕事タイムのため……


しばらくお休みします。

11月までブログ禁です。

がんばります。

8.14.2017

西洋人もくだらない人ばかり

図書館へ毎日通っているおっさんだけど、そんなに大仰な本は読んでいない。

西原理恵子の漫画やエッセイを一気に八冊借りて読んだり、パオロ・マッツァリーノの本を六冊借りて読んだり、そういうことをしている。このふたりは安定しておもしろい。


久しぶりにフロイトでも読むか~と思ったり、いい加減「純粋理性批判」読むか~とか考えて手にとってみるのだが、ダメだ。気持ちがドライブされない(図書館で検索したら「純粋理性批判殺人事件」なんてタイトルがあって笑った)。

古代ギリシャとか、近代ヨーロッパの哲学が食傷気味。「なんで私は日本のこともろくに知らずに、ヨーロッパのことを知ろうとしているのだろう」という疑念がわいてきて離れない。いつの間にか西洋思想やキリスト教のことの方が詳しい東洋人になってしまった。

それでも……フーコーとニーチェは別格におもしろいから不思議だ。あとルソーも好きだ。つまらないのはカントやヘーゲル、ハイデガー、あとデリダとか、あとヒュームやブーバーもつまらん。スピノザもつまらん。1ページ読んだら眠くなるよ。

「日本人はなぜ集団主義なのか」ということが問われているし、おっさんも調べてみたけど、結局その問いというのは、「日本人はなぜ西洋人になれないのか」という問いと同義であることに気がついた。その答えは、当然こうである。「日本人は西洋人ではないから」。

もう西洋コンプレックスにはうんざりだ。私は村上春樹を読んだことがないけど、村上春樹のもとの仕事は翻訳業。内田樹も翻訳の仕事をやっていた。そういう人間ばかり人気がある。翻訳調=価値があるという感覚。舶来品をありがたがるのと変わらない。
なんにも知らずに知った顔 むやみに西洋鼻にかけ 日本酒なんぞは飲まれない ビールにブランディ、ベルモット はらにも馴れない洋食を やたらに食うのも負けおしみ ないしょでこうか(後架)でへど吐いて まじめな顔してコーヒ飲む おかしいね、エラペケペッポ、ペッポーポー (石井研堂著『明治事物起原』大正十五年、より) 
やっぱり、遠いよ。ヨーロッパは。日本人とは違う。

日本もだいぶ欧米化が進んでいる。ガンジーの本を読んでいたら、「日本はイギリスに商業的に取り込まれた」というようなことが書かれていて、ああ外から見ると明治維新ってそうなんだな~と納得する(「インドは独立後その道をとらない」、と続く)。日本の労働者は、ものすごく優れた商品だ。それが間接的に労働力という形でイギリス(アメリカ)に売られている。

私はバリ旅行でさまざまな外国人と出会ったけれど、総括して言えば……ドイツ人はほんとうに良い人が多い。フランス人は鼻につく。プライドが高い。アメリカ人はナショナリストのバカばかり。まあステロタイプに聞こえるかもしれないが、これが率直な感想だ。とくにアメリカ人のヒッピーみたいな奴とかハーレーに乗ってそうな小汚いおっさんとか脳裏にwhite trashという言葉が頭に浮かんだぜ!

まあ白人と言っても、大したことのない連中ばかりだ、ということがバリで得られた事実だった(ほんとバリは白人だらけだった)。私も多くの日本人と同じように白人を崇拝するようなところがあったが、幻想は消えた。ろくでもない連中ばかりだ(日本人と同じで)。ちなみに統計によれば、アメリカ人は自分たちのことを「知的」だと思っているらしい。悪い冗談だ。

マア……またしばらく読書をしよう。日本思想が知りたいと思ったおっさんは、とりあえず吉本隆明の「共同幻想論」を借りてみた。私が大好きな山本哲士がなにかと吉本を褒め称えているからである。



今日もプールへ行ったのだが、生まれて初めてバタフライをやってみた。いやあ、難しいね^^;これってめちゃくちゃ疲れる泳ぎ方じゃないだろうか?

新しいことを初めてみることは良いことな~と実感。脳みそが刺激される。

そろそろバイクも買わなくてはいけないな。

私もそんな生活がしたい (ノ^o^)ノ'''∞

8.13.2017

日本人は個人主義なのか……

「日本人は集団主義ではないよ」説の山岸俊男の著書、「心でっかちな日本人」を読んでみた。

そこに書かれていることは、そこまで日本人が「個人主義的だ」ということを示唆するものではなかった。

アメリカ人は日本人よりも集団主義的であるが、これは「匿名の他者」に対して日本人よりも協調的ということを意味していた。この匿名の他者とは、行動心理学の実験でよくあるような、ランダムに集められた初対面の相手、実験による制限された情報伝達以外は名前も顔も知らないような相手のことである。アメリカ人はそういう相手に対して同調的、協力的な態度をとる。

この「匿名の他者」に対して、日本人はというとずっと個人主義的な反応を見せる。言うなれば冷たい、信用しない反応を見せる。一匹狼的にふるまう。

それでは日本人は個人主義的なのかというとそうでもなくて、ある非匿名的な集団内においては集団主義的な傾向を見せる。たとえばサークルや職場のような「狭い」集団内においては相互依存的な反応を見せる。

山岸の本を読んでがっかりしたのは、結局巷間で言われてる日本人像・アメリカ人像と変わらないことだ。「アメリカ人は集団主義的である」と言うとき、そこにはpublicに対して親和的であることがわかる。「日本人が集団主義的である」ときは、いわゆる狭い「ムラ」に対してそうだということがわかる。このようなことは、だれでもわかっていることではないか。

例えば私たちは、電車の中では死ぬほど無愛想でムカつくサラリーマンが、自分の会社のオフィスではいつもニコニコ、気さくなおっさんとして通っていることを知っている。このように日本人がウチとソトを切り分けているなんてことは、もう何十年も前から指摘されていることだ。

本書で興味深かったことは、私たちは既成の文化に対して従順になることを強いられていることだ。たとえば会社の「社風」というものがあれば、私たちはそれに従わなければならない。それが自分の利益/不利益となるからである。

ある教室でいじめがあったとして、クラス全員がいじめに容認であるなかで、ひとりいじめに反対することは自分が危険に晒されることになる。反対にクラスの半分程度がいじめに対して反対を表明していれば、自分もいじめに反対することができる。このように集団のなかの個人には、利益/不利益を計算し立ち回るという性質がある。

だからサービス残業が蔓延している日本だが、ほとんどの人間は好き好んで「サービス残業したい」と思っているわけではない。少数の人間が「サービス残業をせよ」というムードを醸成し、あとの人間は利益/不利益を計算して、功利的な判断をしているに過ぎない。同じ状況はPTAや町内会にも当てはまる。ほとんどの人間にとって不利益な組織に、ほとんどの人間が従う、という状況が起きる。

このような状況を外国人が見るとすれば、「日本人は集団主義的だ」「自分よりも他者を優先している」と判断するのだろうが、制度化された集団主義が既存している場では、「それに従わなければ自分の立場が危うくなる」という状態なわけで、各々の個人が特別に他者を尊重しているわけではない。

そのように考えてみると、アメリカ人が個人主義的なふるまいをするのは、それがpublic内で有益であるからであり、仮に日本のオフィスへ異動になったとすれば、集団主義的な行動をするのではないか(無論嫌々ながら)。「ぼくは個人主義だ!」とか言ってる奴がWorkaholicなeconomic animalになるというわけだ。

日本は立法国家ではなく、明文化されない法が支配しているのであり(山本七平の言うような「空気」)、それに従って(外から見ると奇妙な、呪術的な)ふるまいをしている日本人は、別にそうしたいからしているわけではない。ねずみが電気刺激から逃げるとしてもねずみが走り回るのが好きなのではない。現にアメリカ人にとってpublic的な(日本人にとってソトの)相手に対しては、冷たい反応を見せる。

まあ、そういう当たり前のことが繰り返されているだけだった。



じゃあ日本人は個人主義的ではないのか……?ということが問題となる。

ここ1,2週間、日本人は個人主義なのかということで頭を悩ませているのだが、常に思うことは「個人主義ってどういうことだよ!」ということである。ある集団がより「個人主義的」であるとはどういうことを示すのか。

全体主義に対する個人主義……たとえばナチスや大戦中の日本のようなファシズム状態を「全体主義」としており、その反対が個人主義となる。ある個人が何を発言しても良いし、それは尊重されるという態度のことだ。ヴォルテールの「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」みたいな。

功利主義に近い個人主義……ホリエモンのように個人の利益ばかり追求し、publicやムラの利益や倫理を無視するような態度を示すことになる。これは「利己主義」と近い。個人の利益を優先するか、集団の利益を優先するかということである。

行動学的な個人主義また行動学的な分野では、「他者に同調的であること」「自分の態度を他者に合わせること」が集団主義的であるとされ、個人主義はその反対ということになる。

山岸の本の場合の「個人主義」はどうも二番目の利益追求的な個人主義を指しているようである。で、東大のナントカせんせーの発表では最後の行動学的な個人主義を指して「日本人は個人主義的だ」ということを示しているらしい(よくわからないが)。

このように「個人主義」という定義が曖昧模糊で、おっさんはこの辺を追求することに飽きてきた。

というか、「日本人は集団主義だ」という主張が内外でたくさんあって、だからこそ「個人主義だよ」と指摘することが重要なのだろうが、そもそも最初の日本人集団主義説が、おバカな勉強不足の西洋人から輸入されたもので、西洋人のものならなんでもありがたがる日本の学者が祀り上げた、という印象が強く、そのような議論は「初めから不毛」で、あまり意義がない、という気がしてくる。

ただ、だいたいわかったことは「抑圧的な社会では、個人の性質にかかわらず集団主義的な傾向が強くなる」ということで、結局各々の個人は規制化・制度化された場においては無力な分子に過ぎない、ということである。いじめが支配する教室ではいじめ反対なんて叫べないのである。そういえばアメリカでもいじめは多いと最近明らかになったね。

8.11.2017

金は反重力物質だ

28歳となればまだ若いとも言えるが、29歳では死が見えてくる。

おっさんはニートだ。ニート生活も三ヶ月目になる。

今後どうするのか。

世間は働かないことを許さないのではない。金さえあればだれも文句は言わない。「3億円あるので働きません」と意思表示してみる。だれもが「いいなあ」と思うだけで、別にそのことを非難する人はいないだろう。そんなものである。

おっさんは3億円とは言わないから、2億円欲しい。とりあえず、ポルシェのケイマンと、BMWの6シリーズ(二代目)が欲しいと思っている。かわいいからだ。あとはBMWのF800GSも欲しい。全部で1000万円くらいかな。

(というか、本気でポルシェを買おうか悩んでいる。ポルシェのエンジンは頑丈だし、いまの2400ccのセダンと維持費はそんなに変わらないかと思っている。それだったらもうさっさと買ってしまってポルシェライフを満喫するのも悪くないかもしれない。)

話が逸れたが、やはり金は欲しいものである。私が「金を欲しい」というと意外がられる。物欲まみれじゃないか、と言われそうである。

「金が欲しい」というのは当たり前である。水が低きに就くがごときに自然である。金がなければ女とセックスもできないのだぞ。セックスはしたくないのか。去勢されているのか。君の子種がキンタマーニ高原で泣いておるぞ。

金がない人間は金を求めなければならない。清貧がどうのとか、金で買えない価値なんてのは、そのあとの次元の話だ。

貧乏人や宗教かぶれは、アシジのフランチェスコや仏陀の出家を例にあげて、喜捨や無所有を説こうとする。私は貧乏人が自己をフランチェスコに同一視しているのを見て噴飯する。マジメに遅刻もせず毎日毎日フライドポテトをあげている私は偉いのだと。

いや、結構!結構!つねに宗教とは病者や貧乏人のための薬物だったのさ。

(マア、私もかつてはそんな類の人間だったけどね)


じゃあどうやって稼ぐのか教えてくれよ、と言われるかもしれない。

労働を否定し、清貧を否定し、豪奢な生活を、権力を志向するというのか、金もコネもないニートが、どうやって達成するというのか。「世の中は甘くない」というnormieの怒号が飛んできそうである。

実のところ、おっさんにもどうやって2億の金を築き上げるかはわかっていない。それを知るために、とりあえずは毎日図書館に篭ろうと思っている。

水は低きに、金はたかきにやってくる。というわけで、精神修養すれば金が勝手にやってくるのではないか?と思っている。ああ、わかった、わかった、normieよ!ちょっと静かに見守ってくれないかな。


おっさん未来像。微妙に型落ちばかりなのが悲しい。

日本人は昔も個人主義だった?

日本人は個人主義だったのか。

渡辺京二の本を読んでいると、16世紀頃の戦乱の日本人は相当な荒くれ者で、目は三角、非常に気性が荒かったという。言うなれば個人主義的だったのではないか。まあ、荒くれ者=個人主義というのもなんだが。

外国人の抱く昔の日本人像というのは江戸時代のそれで、人々は柔和で大人しく、幸せで安定した社会を構築していた。あの頃はなぜか身長も低くなったようで、「妖精の住まう国」なんて言われたりしていた。

で、東大のナントカ教授が「(現代の)日本人は個人主義だ」と言うので私もそれに倣っているのだが、その著書で以下のようなことを書いているようである。
特に興味深かったのは、日本人の集団主義的行動の極北ともいうべき、戦時下の実態の紹介です。
・1942年の「翼賛選挙」において、非翼賛系の候補者が85名当選している(203頁)。
・軍需工場でも無断欠勤があり、ひどいところでは、出勤率が65%のところもあった(つまり欠勤率35%)(204頁)。
・戦時中、しかも末期の1944年でも全く争議の件数は減少していなかった(204頁)。(アマゾンレビューより
軍需工場で無断欠勤というのには笑った。「だるい。ねむい。やってられねー」というわけである笑 なんだか平和だな~。

むしろ戦後の今の方が戦時中のようになっているわけで、これは皮肉なことである。

1944年でそんな有様では、私のなかの日本人像を刷新しなければならない。私は明治維新で日本人が「国民」に作り変えられたと思っていたので……。

まあ、日本人が「農耕民族」なんてのは国体思想のための捏造(天皇が稲を伝えたという神話があったから)で、実際には多様な社会が多様な文化を包容していた日本社会。画一的な国民ができあがるまでは時間がかかったのだろう。

私は教育の拡充した1960年以降に現代日本人像ができあがったのかな?と思っている。いま60歳くらいの人と、30歳くらいの人はほとんど精神性が変わらないのではないか。1960年というのは、山元哲士の以下の記述に由来する。
実質として(日本の学制)が確立したのは、やっと1960年代になってからです。いろいろな面から、それ以前に、学校教育が確立していたというようには、とてもみえません。就学率をみますと日本はかなり早い時期から高いのですが、それは形式的な確立です。……机もふくめて鉛筆もノートも椅子も全部個々のひとりの子どものものという形は、ほぼ1960年代に全国的に、確立されてくるのです。校舎も設備も十分ととのい、さらには教科もきちんと決まってくるのは、どうも1960年代なのです。(「学校の幻想 教育の幻想」)
教育が人をつくるとはよく言ったものである。良くも悪くも、現代の日本人の性格というのは教育によって「日本国民化」されているように思われる。その結果、賃労働者化/消費者化が加速していった。

一時はそのお陰で世界一生産的な国民になったわけだが、いまではその副作用に悩まされているのは周知の通り。行き過ぎた賃労働者化が生産性を落とす。よくある「求めれば求めるほど喪失する」国家の神経症的などん詰まり。

ともあれ……日本人は一枚岩ではいかない興味深い存在である。もう少し理解を深めたい。

8.10.2017

「テレビ化」する日本の飲み会

私は神経症だし、コミュニケーションが苦手だ。それなので、飲み会も嫌いである。

今日は帰国後に時間に余裕があったので音楽セッションに出向いた。それが終わると食事をしようということになった。私は車を運転するので飲まないが、他はいくらか飲んでいた。

そこでやはり私は、ポツーンとしていた。いや、私もいい大人だから他人の話に体のいい相槌をしたり興味のあるふりをする。ゲラゲラ笑うこともお手の物だ。

しかしこういう場では私は「ほんとうの自分」を出す気がしない。それは金塊のようなもの(あるいは陰茎のようなもの)、しっかりと隠さなければいけないものだと知っている。だから、ほんとうの意味で楽しめることはない。



私が悟ったことには、飲み会という場はバラエティ番組の再現である。だれかがおもしろい話をする。だれかがぼける。それをつっこむ。周りが笑う。一定の時間でその役割を交換する。視聴者と、タレントが入れ替わる。そしてまた笑いが起こる。

テレビを観ておもしろいと思う奴がいる。テレビに出ておもしろい話をしたい奴がいる。この二者はほとんど共通だが、この二者が「飲み会」のムードを醸成している。飲み会をつまらない、くだらないと思う人はきっとバラエティ番組も嫌いなのではないか。(少なくとも私はそう)。

飲み会は「テレビ化」している。これは簡単な心理学だ。

ひとはだれでも、お笑い芸人に対する微妙な感情を抱いている。バラエティ番組で、お笑い芸人はトークで笑わせる。また、他人のトークに笑う。私たちは彼らがそれだけで、庶民の何倍もの金を稼いでいることを知っている。その事実を、テレビを見る人であれば、毎日1時間程度は教え込まれる。

私たちは潜在的に芸人に憧れを持っている。自分が芸人ではないことに潜在的な憤怒を抱いている。芸人は容姿が悪いことが多く、学歴や育ちも良くない。しかしトークひとつで、無味乾燥の仕事をしなければならない私たちよりずっと優雅な暮らしをしている。ただテレビに出て、うまいものを食ってコメントするだけで百万円を稼いでいる。そういう矛盾を突きつけられている。

テレビを観ている人々は、つねにこのような矛盾をテレビから感じている。言うまでもなく無意識の領域で、である。

飲み会とは、そういう抑圧された憤怒を解消させる「儀式」である。自分を芸人に同一化させたいという欲望の現れである。その各々の志向性が飲み会特有のムードを築き上げる。

そこでは「放送倫理」や「視聴率」といったファクトが重視される。たとえば自分は鬱病だというカミングアウトは受け入れられない。また、おもしろくない発言、日常的(ケ)の発言は歓迎されないようになっている。おもしろいがなんら本質的ではない、皮相的な話が続く。

酒の酩酊が、集団幻想を増長させる。大麻を吸って曼荼羅を見るのも、キノコを食べてサイケデリックな幻影を見るのも同じことである。バラエティ番組の舞台……それはテレビ化された人々にとって聖なる領域なのである。

彼らはそこにどうしても辿り着きたい。それが本音である。悲しいことだが、平凡な人とはそういうものである。

酒は古来より神事に飲むものである。現代日本における神話は、テレビ局が広めているものである。コミュニケーションがテレビを通して発信されているのではない。テレビがコミュニケーションを再生産しているということになる。

テレビは神話となる。飲み会は儀式となる。これが現代日本の構造である。



ああ、やっぱり宅飲みが一番ですわい^^ 生ビール漬けの日々から発泡酒に切り替えることの悲しさよ。

久しぶりの日本は……何もかも高い、死ぬほど暑い、バスと電車のアナウンスが耳障り&街のスローガンや警告が目障り、渋滞だらけ、という印象。

あと、コンビニで店員に挨拶されても無視しなければならない……ということを忘れていた^^; 目をそらしてそそくさと品物を物色しなければならない。変な国だ。

8.09.2017

日本で戦っていく決意おじさん

昨夜バリ、朝には成田。7時間の飛行はあっという間だった。出入国にも慣れてしまって、なんの苦労もなし。ほんとうに金銭的にも時間的にも、国と国の距離が近い。

成田行きの便は当然ながら日本人だらけ。やはり日本人は独特だ。横に大学生の集団がいたけど、とても子どもっぽく感じる。バリの5歳児集団と日本の大学生を並べたら、どちらが子どもっぽいだろうか……わからない。

帰国して、あまりの暑さにむせ返る。今日の新宿は35℃。バリは28℃程度で、常に風が吹いている(そのためこの時期は凧揚げが流行する)。正午の暑さを除けば、半袖では肌寒いくらいだ。



日本に帰って思ったこと。私は日本にいること、日本に滞在することが不幸なことだと思っていた。できることならカナダやオーストラリアのような国に移住したいと。

しかし、そのような悲観的な考え方はやめようと思った。

ここは絶好の餌場だ。おいしくてたまらない蜜が滴っている。

蜜とは何か。資本化された人間のことである。バリの人間に比べて、日本人はとても働きものだ。仕事中に寝そべったりしないし、朝から晩までスマホを見ているということもない。日本のコンビニ店員なんて、ほんと信じられないくらい仕事している。

こんなに働いていながら、おそろしく低賃金だ。日本人の平均賃金は500万円~600万円だったかな。これはとても先進国のレベルではない笑 もっとも安くて100~200万円で働かせることもできる。しかも、安いからといってデモやストライキを起こすことはない。

資本化された人間のバーゲンセールだ、とおじさんは思った。
だからおっさんは、かつての勝利した民族のように、壮健な男は奴隷にし、美しい女は囲う、そういう「食べちゃうおじさん」に変貌しようと思っている。

視点を変えれば、という奴である。視点を変えれば日本は良い国なのだ。



私の不幸をふりかえってみれば、愚鈍な相手を自分の対等の存在だとして認め、思い悩んだことにあった。そんなことは必要なかった。

ひとつの真理は、「人間の大部分はバカだ」ということである。大部分とは、9割かもしれない、99%かもしれない。このことを、私は3歳くらいのときに教えてもらえれば!と悔やんで仕方がない。

私が教わったのは、反対の奴隷原理、(無条件に)他者を尊重せよというものだった。だから私はバカに合わせようと努力し、痴愚の言うことに従ったのだった。

私は彼らと違うし、彼らとは相容れない……という距離のパトスが、私のなかにはずっとあったのだと思う。

これからは、他人を喰らいつくそうと思っている。なに……肉食獣に食べられるときの人間は、存外「気持ちがいい」らしい。生物的本能の恍惚を与えてあげよう。また食べる方も……気が進まないながらも、儀礼やマナーでということもあるのだ。

……というわけで、しばらくは「海外移住」の夢を捨て、日本で金を稼ごうと思う。

8.08.2017

「市民のための警察」という幻想

バリ島内を移動しているときに、幹線道路で検問があった。そこで私は警察に、車検証がコピーしかないと指摘され、賄賂を要求された。

周りを見てみると外国人ばかり取り締まっている。インドネシアはジュネーブ条約に入っていないから、国際免許証が通用しない。ほとんどの外国人は無免許なのである。

私も無免許で運転していたのだけど、国際免許証を見せたら「免許はOK、but」と言われた^^; 車検証がないのはまずいらしい。あとで聞くと、盗難車が多いから必ずチェックされるとか。

で、私は10万ルピア(800円)握らせて逃げた。はじめは20万を要求された……が値切ってやった^^;現地人の交通違反は5万ルピアまで落ちるというからもっと値切れるかもしれない。

よく見る光景。


ああ、POLICI(インドネシア語で警察)は腐ってるな~、と嘆くおっさんだった。たった5分で10万ルピア……どんな商売よりボロいな~と考えてしまう。たとえばこちらでは、たらふくナシ・ゴレンを食べて1~2万ルピアなのである。

また別の話。

私はバリ島からやや離れた「ギリ島」という島に1週間ほど滞在していた。この島の特徴は、半径数kmのとても小さな島であること、自動車やバイクが走っていないこと、そして警察がいないことであった。

自動車やバイクのない島での滞在は、すばらしい非日常だった。
日本にもそういう島や村をつくるべきだ。

警察がいないとどうなるのか、と人は思うかもしれない。治安は大丈夫なのか、と。これが不思議なことに、バリ島にいるよりも不安がないのである。夜道を一人で歩いても危険を感じない(葉っぱやきのこを売る人々はいたが)。

無論、現地人はほとんど顔見知りであり、外国人はわざわざリゾート地で犯罪を犯さないということもあるだろうが……。

所詮、警察は賄賂次第でどうとでもなる。クタでやたら多い詐欺両替屋も、警察の賄賂で維持されている。堂々と違法行為を行うために、警察が機能しているという逆転が起きている。かえって村長のような、首長的な権力者が司法権を握った方が治安はよくなるようである。



それでは警察は何のためにあるのだろうか?

国家が設立されるための条件はふたつある。警察と軍隊である。このふたつの合法的な暴力装置が存在しない国家はない。軍隊は国家のためにある。これは明白だろう。対外的な脅威と無縁でいられる国家は存在しない。

では、警察は何のために存在しているのか。その目的は、「市民のため」なのか。少なくとも表面上はそういう顔をしている。私たちが治安を守っている、安全な社会を維持している、と。

しかし警察とは、「国家のため」の組織ではないのか?そこに「市民のため」という要素は、建前、空疎なハリボテに過ぎないのではないか。

私は国家というものを考えるときに、教育や医療の点で考えることはした。しかし警察という組織についてはあまり考えたことがなかった。

ひいては日本の生きづらさに関しても、警察が原因であることも大いにあるのではないか、と考えている。

そもそも、「犯罪組織」を堂々と標榜しているヤクザと、日本の警察はなぜ蜜月なのだろうか?^^; いつになったら山口組を警察が壊滅するのか。所在地も組織構造も割れているというのに。ちんけな交通違反を取り締まる前に、やるべき仕事があるだろう?と思ってしまう。

他には、政界との癒着。パチンコ産業と警察の癒着。カルト宗教との癒着。性風俗産業との癒着。道路利権との癒着。マスコミとの癒着。免許制度での利権。警備会社との癒着。産業界への天下り。葬儀業者との癒着、なんて話もある。

結局のところ日本の警察というのは、インドネシアのポリシのように直接市民から賄賂を収奪するなんて露骨なことはせずに、間接的搾取、巧妙な搾取へと変化しているに過ぎない。

これは税金にも同じことが言えるのであって、私たちは「五公五民」と聞くと「ひどい重税」「えげつない搾取」のように感じるが、現代の国民負担率は、28年度で45%(財務省発表。財政赤字を加味すれば50%を越える)と大して変わらないことになっている。(無論、高福祉国家はもっと高い税率だが)

元来警察というのは、ヨーロッパでも日本でも行政に雇われた用心棒が担っていたようである。維新以前の日本で警察の役割をしていたのは「番太」で、非人の仕事だった。現代のポリシのようになにかと言いがかりをつけては賄賂を要求するので農民にたいそう嫌われていたようである。

現代では国家中枢にある警察組織が、かつては非人のような蔑まれる職業だったということは何か示唆的であるようにも思われる。

もっとも、現代の訓育されたBな日本国民の方々には、警察の実情は永遠につかめないのではないかと思う。「警察24時」でも見て楽しみたまへ。


ざっと調べたけど、警察権力を基軸とした国家論ってなかなかない。フーコーはこんなことを書いていた。
近代国家は、新しい政治形態のなかに、古いキリスト教の権力技法、すなわち司牧システム(パストラ)を導入したのである。この近代の司牧権力(pouvoir pastoral)は、国家の人口を構成する住民の健康、福祉、安全を守る(現世での救済の保証)システムであり、この結果として、官僚層が増大し、十八世紀にいたって、警察機構が成立した。
結局のところ、警察はひとつの「近代的病」 に過ぎないのではないかと私は考える。

8.03.2017

路傍の狂人のkrima

なんだか社会批判めいたことを書いてきた……。が、これってどうなのか^^;

たとえば「日本人は冷たい」と書いたときに、こう問うこともできるのではないか。

日本人は、実は優しいし……血縁主義的だ。「日本人は冷たい」という主張は、私がたまたまそういう境遇にあったからだ、と。冷たい家庭に育ったからだろ?と。

また、前に労働について「労働の本質は搾取だ」というようなことを書いたとき……「修羅の世界に生きてるな」と批判されたことがある。この発言の意味は、「俺はそこまでひどい世界には住んでいない」「労働が搾取されない場もある」ということだろう。

(そこでたしかに反省することはあった……。日本は、資本家不在社会。労働者と対立する資本家が(大企業規模では)ほとんど存在しておらず、高級労働者と下級労働者しかいない、と山本哲士が指摘していたが……。階級のどこかの段階で「搾取する労働者」へと変化する場合があると考えることもできる。

私は日本のしょうもない小企業(そこには明白な資本家が存在する)しか勤めたことがないので、いまいち具体像が掴めないのだが……。大企業の上級管理職クラスになれば、年収3000万円くらいになれば、搾取する側になるのでは……。どうかな、微妙かもしれない^^;難しい問題だと思う)

マアここでの話はそういうことではなく、私の限定的な体験、特殊な立場をもって、それを全体化して世を論ずることが適うのかどうか、ということである。

「私」という存在は私にとってかけがえのない生であって、私は他者の人生を生きることができないし、他者は私の人生を生きることができない。私は14の年から神経症……マア暗鬱な10代20代を過ごしてきたわけで、normieたちよりもずっと、社会に対しては批判的な目を向けている……。

たとえば私にとって今の日本社会は……「人類史上稀にみるえげつない搾取の場」なのだが……(日本だけでなく世界全体の搾取が最大化していると思うけど^^;)。そんなことを公言したら、「キチガイ」扱いでしょう。

いまは奴隷も解放されて「民主化」された社会だ!もっとも公平で自由な社会だ!とnormieは思うはず。普通の人にとって日本は、治安が良くて、食べ物がおいしくて、教育レベルが高くて、お金持ちで、ひとびとは礼儀正しい……と思っているわけで……もしかしたら世界一住みやすい国かも?と考えるかもしれない、そういうムードのなかで、「日本の搾取はえげつない」などと大きな声で言えるわけではない。

無論、少数のひとはそんなことを考える機会があるのかもしれない。もしかしたら北朝鮮をバカにできない程ひどい国なんじゃないかと……。しかしひとは明日の仕事、明後日のバカンスに心を奪われてしまい、そんなことを熟慮することはなくなる。そんなわけで仕事がnormalizeの装置として働いてしまう。

ああ、羨ましい限り……。黄色い壁に親しむことのできる世界だ。「あいつらは握ってしまう!スプーンを、握ってしまう!」というわけだ。道具化する精神と肉体。

私は労働から追放された……あるいは解放されたNEETであるので、いくらでも考えることができる。いや、実際恐ろしいことであって……息継ぎができないのだから。気晴らしにバリ島なんかにきているけど……。脳みそはどんどんoutsiderの方に向かっているわけで……。

狂人はpersonalな問題か、いやそうではないはずだ、狂人の問題は社会に全体化できる。という思いが……今朝ばああっと頭に浮かんできた。つまり……問題はすべて全体化できるのである。それどころか、問題はすべて外から与えられると考えることもできる。

もっとも、そんなことはかつて読んだことの繰り返しに過ぎない。
狂気は、未開の状態では、発見されることはありえません。狂気は、ある社会のなかにしか存在しないのです。つまり、狂気というのは、狂気[とされるもの]を孤立させるような感情のあり方、狂気[とされるもの]を排除し、つかまえさせるような反感(嫌悪)のかたちがなければ、存在しないのです。こうして、中世において、そしてルネッサンスにおいても、狂気は、一つの美学的ないし日常的な事実として社会の視野のなかに立ち現れていたのだと言えます。そして、十七世紀において――ここから監獄が始まります――狂気は、沈黙と排除の時代を経験することになります。
ってフーコーが言っていたにもかかわらず……まだこの智慧は一般化されていない。

結局、フーコーもゲイだし……アルチュセールは統合失調症だし……フロイトもパニック障害だったわけで……天才と狂気の境界は難しい。例えばアルチュセールのイデオロギー論は……もしアルチュセールが優れた知性を持った高等師範学校の教員ではなく、なんてことのない郵便配達員だったとしたら……「国家が私たちを支配している!」なんて発言は、世界で初めての抗精神病薬……クロルプロマジンでも与えられておしまいだっただろう。

哲学って結局……「狂人の歴史」だったんじゃないかなあ、と思うわけで……。かつてはカントは心身ともに壮健なギリシャの古代彫刻のように思われていたが……それは民衆の偶像化……願望に過ぎなかった^^;

高潔な古代ギリシャ人は……病気や物忘れをしたとき、何か過失や犯罪をおかしたときにもこう叫んだ。「ダイモーン(精霊)が悪さをしているに違いない」。実に健康的な思考回路ではないかな。
 
私たちは悪を内面化するよう教え込まれている……。だからなにか不快に感じたときに「今現在私が悪いに違いない」と考える。治療されなければならない。教育されなければならない。矯正されなければならない……。現実には、問題は外にあるのかもしれないのに……「狂気は、沈黙と排除の時代を経験することになります」というわけだ。

MAHAOは統合失調症だし……私は神経症。文は人を表す。MAHAOのブログはnormieからすれば「キチガイブログ」に見えるらしいし……私のブログも、イカれたブログなのだろう。

ギリ島の宿にいたにゃんこさん。

8.02.2017

日本人は冷たい個人主義者である2

前の続き……

日本人は個人主義だ……と言ったところで、それを反証するようなことはいくらでもある。

例えば「日本人は列に並ぶ」「上司が帰るまでは終業時間が過ぎても帰れない」といったことがある。

こういった規範を例にあげて、日本人は集団主義的である……和をもって尊しとなすの精神だ……と考えることは自然なように思われる。そこに他者に対するいたわりだとか、謙譲の精神を見つけられるかもしれない。

ただ私は、これは文化的なものではないと思っている。文化的というよりは、抑圧的な教育の結果なのだと考えている。これは文化ではなく、作られた伝統なのだと。

このことは、世の中でもっとも「列に並ばなければならない(規律を守らなければいけない)」・「目上の存在が絶対である」組織を考えてみればわかる。

それは軍隊である。

しばしば指摘されているように、日本の教育は軍隊的である。その教育の成果が「列に並ぶ日本人」なのだと考える。

画一的な制服、体罰、遅刻や欠席を許さない。体育の時間の「行進」「前にならえ」「回れ右」。今の中年層や高齢者であれば、竹刀を振り回す「鬼軍曹」教師の姿が脳裏に焼き付いているのではないか?

日本の体育祭

私たちの一見「集団的」と見える行動は、「軍隊的」であるということである(もっとも、日本ほどではないにせよ他国の教育も多かれ少なかれ軍隊的である)。(暇があれば愛知教育委員会の資料(pdf)を読んでみよう)

それでは、「軍隊的」と「集団的」とはどのような点で異なるのか。それらは同一のようにも見えるし、結局のところ日本人は集団主義と言えるのではないか?と人は思うかもしれない。

私は集団主義というものの原理は「家族的集団」と考えている。各々が分離されたバラバラの個人ではないということである。たとえばママンと融和的であるイタリア人男性だとか、家族を何よりも大切にするアメリカ人、女性を追っかけるフランス人といったように。

そこにあるのは他者に対する全面的な肯定と、それによる融和的な相互関係である。他者を尊重し、許し、自己が尊重され、許される。これが集団主義の原型と考えている。

一方で軍隊的な組織においては、これと逆の現象が起きる。他者を許さない、尊重しないということである。

日体大の競技「集団行動」

日本人の同胞に対する視線は、つねに懲罰的である。これが私の発見したことである。

列に並ばない奴がいる。残業せずに帰る奴がいる。遅刻する奴。不潔な奴。頭の悪い奴、良すぎる奴。それらの規範に違反した者に対する視線には、「排除」と「懲罰」への強い衝動が隠されている(さながら「非国民」を見つけ出そうとする戦時中のように)。

日本人は常に他者を監視する一方で、同時にこの視線に晒されている。そのため逸脱に対する強い恐怖を日常的に感じている。この恐怖が「列に並ぶ日本人」を実現している。

日本人的な集団組織は、相互監視の倫理が働いている。そこには「他者を利する」という観念がない。集団主義的であるなら、その成員として集団を利しようとする積極性があるはずだ。しかし現実にそこにあるのは「他者を罰する」という衝動だけである。

ゆえに、日本人は軍隊的である。軍隊に何よりも必要なのは規律である。その規範は教育を媒介として日本人に植えつけられ、メディアなどでは「文化」として紹介されている。

他者に対する懲罰的な視線は、他者に対する関心のなさを意味する。他者が何を感じ、何を思うかはどうでもいいのである。

彼らを突き動かすのは、自分が懲罰を受けることへの恐怖と、他者に懲罰に与えようとする衝動である。このふたつは内面化されてしまっているため、ほとんどの人は無自覚だが、私たちの共同体組織はこのような原理で動いているということである。

このような規範による関係には、集団主義的血縁的関係の入りこむ余地はない。それよりも遥かに強い規範だからである。ゆえに、妻は夫を罵る。夫は家庭を顧みない。子どもは学校でいじめられる……といったことが起きる。ツイッターやブログの「炎上」もその例である。

家族内であっても、他者を罰しようとする国家権力(フーコーの言うような権力)が介入する。そこは依然としてパブリックであり、家庭であっても血縁的と言えない場と化している。

このような状況はとても「集団主義」とは言えない……というのが私の考えである。事実はまったく逆で、日本人は「軍隊的」であり、同時に「個人主義的」である、と私は考える。


……というふうに、日本は特異に軍隊的な国なのだ……と考えて、さまざまな日本文化論を考察してみるとおもしろいのではないかな、と思う。思った以上に「日本人は冷たい個人主義者」ということが発見できるはず。



wikipediaを調べてみると、山岸俊男という北大の教授が同じようなことを言っていた。
山岸は『心でっかちな日本人』で、日本人が集団のなかで(己を犠牲にしてでも)遠慮し合って協調的に行動するのは、喜んで・好んで・進んで・自発的に・前向きに"集団の利益を望んでいるから"ではなく、「集団の利益に反するように行動するのを妨げる社会のしくみ、相互監視と相互規制のしくみが存在しているから」、「圧力やしがらみ、あるいは社会のしくみのせい」であるとする(集団主義
そうそう、これが私の言いたいことだ。

結局……外国人に日本人の心情なんてわからないから^^;

「日本人は集団主義」というスティグマもガイジンに与えられたもの。それを日本の学者がありがたがって広めた。

日本人はもっと功利的で、冷たい人種なのだ。それが真実だと思う。

8.01.2017

まぼさくウォッチングおっさん

MAHAOという巫女の血筋の書いている「幻の桜」というブログがある。

何年か前にテキトーな記事を書いたけれど、長いあいだアクセス数が多かった。なぜアクセスが多いかといえば、だれも彼女についての記事を書かないからである。読者はたくさんいるのにかかわらず、驚くほど「語られない」人物である。

私はMAHAOを尊敬している……というか、畏敬の念を抱いている。私は彼女のブログからどれだけ智慧をくみとったかわからない。

彼女の文章は平易でありながら、社会の実相を鋭く突いている。ときにニーチェやアルチュセールやフーコーのような哲学者の分析と、彼女の言うことが一致していることもある。彼女はたぶんそれらを読んでいないだろうが、肌感覚で世界の構造を捉えているのだと思う。天才的である。

しかし最近は統合失調症的がひどくなっているようで、ブログの更新が滞っている。徘徊や奇行が目立つようになっているようである。意味もなく木更津から新宿へ行ったり、駅で「たすけてください」と見知らぬ人に声をかける、パソコンを壊してしまうなど。(そういえばアルチュセールも重度の分裂病だった)。

またMAHAOの旦那さん(くまちゃん)が開業したバーの経営がうまくいかずに、生活費のやりくりに困る状態らしい。そのためバイトの面接を30件近く受けたが、すべて落ちてしまった。さらに飼っている猫の相次ぐ死など、精神的なストレスが重なっている。

そういう状況なので、MAHAOは「たすけて」と掲示板に助けを求めている。悲痛なほど書き連ねている。ここまでMAHAOが弱っていることは過去10年通してもほとんどなかったのではないか。

MAHAOがアフィリエイトで稼ごうと思えば、容易である。少なくとも一日に数万アクセスはあるだろうから、広告を何枚か貼るだけで稼げる。バイトなんてする必要はない。

また熱心なファンが多い(ほとんど心酔しきっている人も^^;)のだから、布施(というか寄付)を受け付ければ簡単に数百万円は入ってくるだろう。単なる布施ではなくて、ブログを書籍化すれば買う人はいくらでもいる。

しかしMAHAOは経済的に困窮して尚、それらのことをしない。なぜか。読者に遠慮している、というわけではないと思う。

これは私の感覚にすぎないが、MAHAOは他人の支援で生き延びることが嫌なのだろう。彼女は与えられることの害、もっと言えば「生かされることの害」を熟知している。

それまで彼女は常に与える側だった。猫に餌をあげ、ホームレスに一升瓶をふるまった。それは、その行為が「得」だったからだ。

功利的な判断である。MAHAOのブログに登場する「Mちゃん」が言っていたように、「人はメリットのないことはしない」。

弱者を救うことは簡単である。金持ちに一升瓶をあげてもたいしてありがたみはないが、ホームレスにふるまえば彼らは心の底から感謝するだろう。日常的に社会に見捨てられている彼らは、MAHAOを天使のように思うかもしれないし、長いあいだ崇拝するだろう。そして気が繋がる。生命力を吸いとることができる。

キリスト教は弱者や病者の宗教だったし、創価学会員の多くが低所得者だった。彼女もそういった宗教と構造的に似たようなことをしていたのだろう。弱者を取り込むことは「効率的」なのである。

MAHAOのよく言うように、「やったことはかえる」のであれば、気前よくお布施を受け取ればよいのだ。自分がしたようなことを、他人に求めればよい。しかしそれをしない。それは危険だからだ。そのときMAHAOは立場が逆転して、「弱者」になってしまう。

彼女が求めているのは金銭ではなくて、想念である。彼女が「助けて」と叫ぶとき、彼女は金が欲しいのでも、助けて欲しいのでもない。崇め奉られたいのだ。

もっとも私は弱者から想念を奪取しようとする彼女を批判するつもりはない。彼女は生まれついての王女なのだと思っている。他者を喰らい、他者の上に立つ生まれついての権力者。そんなわけで、私は彼女がいくぶんか羨ましいし、崇拝しているのである。